高二になり、夏休みが始まって数日経った。
 昼食を()ったあと、妹の(さわ)ぎ声がうるさい家から逃げるように自転車で風を切って、家から離れた河川敷(かせんしき)にやって来た。
 最近見つけた静かで安心しながら読書をできる場所だ。
 夏風に背中を押されるように、橋下へ歩く。
 誰もいないと思っていたけど、橋下のコンクリートの段差(だんさ)部分にひとりの女性が座っていた。俺は思わず車輪(しゃりん)を止める。
 彼女はワイドデニムに半袖の白ニットを着ていて、茶髪の多分セミロング。体育座りで気抜(きぬ)けしたように(うつむ)いている。見た感じ、多分女子高校生。
 橋下の影で(すず)みながら、ひとりきりで小説の世界に(ひた)るのが好きだった。だけど、先客がいるとひとりになれない。それに彼女も急に男が来たら居心地(いごこち)が悪くなるだろう。
 俺はやむなくこの場を立ち去ろうして、ハンドルを曲げて彼女に背を向けた。
「行っちゃうの?」
 背中に向けて声を掛けられる。俺はすかさず振り返る。
 視界に映る女性は二重で、ぱっちりとした透き通るような瞳が綺麗で、容姿端麗(ようしたんれい)という言葉が似合う、とても美しい人だ。
「せっかくの空間を居心地の悪いものにしたくなかったから。じゃあ、ごゆっくり」
 ほぼ同い年だと思い、タメ口で話した。
「読書しにきたんでしょ、別に私は気にしないからいいよ。ここ涼しいもんね」
 周囲に人がいると過剰(かじょう)に気を(つか)ってしまい、集中を切らしてしまいそうだから、正直ひとりきりで本を読みたかった。しかし、騒がしい声が響く家に戻るのと比べれば、ここで読書するほうがだいぶマシだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 少し迷ったのち、またハンドルを曲げて橋の下に自転車を移動した。
 自転車は影と日光の境目(さかいめ)に止め、その隣に俺は腰を下ろした。最低限の関わりで済むように、彼女とはできる限りの距離を取った。
 これといった匂いはない透き通るような川、遠くから(かす)かに聞こえる子どもの遊び声。とてもリラックスできる。
 きっと俺は、女性の甲高(かんだか)い叫び声が嫌いなんだろう。
「きみ名前は? ちなみに私は真白彩華(ましろあやか)
 関わる気なんて一切なかったけど、()かれたら答えるのが礼儀。
 俺は声のするほうに顔を向けた。
濱村颯太(はまむらそうた)、高二。そっちはなん年?」
 今すぐに会話を止めると、不自然すぎて雰囲気を悪くしかねない。
 小説を読みたい気持ちをグッと抑えて、自然に会話をやめられるまで続けることにした。
「私か……あっ、なん年だと思う?」
 唐突(とうとつ)に彩華のトーンが明るくなって、笑みを含んだ声で言った。
 まつ毛は長く、鼻筋(はなすじ)が綺麗な彼女。でも今思うと、その要素が年齢を確実に絞る情報にはなり得ないことに気づいた。最近は大人びた中学生が多く、幼稚園生でメイクをしてる女の子も見たことがある。
「んー、一個下の高一? ……あ、中学生とかだったらごめん」
 俺は一応、言葉を添えた。
 言い終えると、彩華は間髪(かんはつ)を入れずに「えっ!」と声を上げた。
 彼女はふわっと腕を解いて、曲げていた(あし)(ゆる)やかな角度まで伸ばした。
「ほんとにそう見えるの?」
「えっと、まあ見えるけど」
 思いもしない返事がきて、ゆったりとした空間に緊張が走る。
 次の瞬間、ふふっ、と彼女は笑った。
「中学生なわけないでしょ。高校二年生だよ」
 俺はほっとして、文庫本(ぶんこぼん)を持った両手を太ももの間にだらんと落とす。
 なんで俺はここに来てまで緊張しないといけないんだろう。
 安堵したのも束の間(つかのま)(わず)かに苛立(いらだ)ちを覚えた。でも、その思いを悟られないよう、顔に笑みを貼り付けた。
「あー、同い年だったか」
 今なら会話を自然に止められる。
 俺はやっとの思いで、読書を始めることに成功した。
 一行目に視線を置いて、それを川の流れのようにスラスラと動かす。
 俺は最近、黒崎綾太(くろさきあやた)先生の恋愛小説にハマっている。
 今読んでる作品は、女性蔑視(じょせいべっし)男尊女卑(だんそんじょひ)のある環境下で生まれ育った女性が主人公で、人に気を遣ってばかりの俺に刺さる内容の話に惹かれた。
 “俺には、黒崎先生の作品がないと駄目だ”
 ここ最近、人に気を遣ってばかりの自分にひどい嫌悪感を抱いている。
 困ってる人がいれば声を掛けずにはいられない。でも、それは優しさからの行動じゃない。周囲にいるだけで心が落ち着かないから、手を差し伸べているだけ。
 こんなしがない人生の中で、この小説が──彩った世界が、あったから少しはマシに思えるようになった。
 目で追って、本を読み進めた。しかし、三行に一回くらいの頻度(ひんど)で右をチラッと見てしまう。離れた位置から彩華がずっと見つめてくるだ。
 なんでそんなに見つめてくるんだろうか。(ほお)に蚊でもついてるのか?
 本の世界に入れないまま、モヤついた気持ちで読み続ける。
 挙げ句の果てに彩華は立ち上がって、右隣に腰を下ろした。
「それ面白い?」
 彼女は本を指して訊いてくる。
「まあ、面白いっていうか、好きかな」
 本に置いていた視線を右隣に向けた。
「なんていう名前の本?」
 書店で買ったときについていた深緑(しんりょく)のブックカバーをつけたままにしている。だから、周りの人からはどんな本か分からない。
「『君との恋を赤に染める』って本」
 俺がタイトルを言うや否や、彩華は物凄く驚いたように目を見開いた。
「それって……黒崎先生の?」
 まさか彼女も黒崎先生を知っているとは。
 話が弾むのではないか、と心が(おど)る。でも、心の奥底で小馬鹿にしてる自分もいた。
 黒崎先生の作品の良さはは俺が一番分かってる、という優越感(ゆうえつかん)に浸っていたのだ。
「そうだけど。彩……」
 今までの会話で一度も名前を呼んでいなかったから、なんと呼べばいいのか分からず言い(よど)んでしまった。
「今更なんだけど、なんて呼べばいい?」
「普通に呼び捨てでいいよ。逆に私はどう呼べばいい?」
 初対面で呼び捨ては少し抵抗があるけど、彩華から了承を得たからそう呼ぶことにした。
「好きな呼び方でいいよ」
 俺も呼び方はどうでもいいので、軽く返した。
「じゃあ、濱村くん? いや、颯太くんでいいかな?」
 彼女は人懐っこい笑顔で言う。
 俺はなぜか恥じらいを抱き、視線を逸らして頷いた。
「それでさ。黒崎先生のこと知ってるの?」
 つい自分から話題を広げてしまう。
「まあ、結構人気みたいだし」
 上から目線で彼女は言った。その発言で少しむかっとする。
 その時、突如吹いた夏風が痺れを切らしたかのようにページをめくる。
 無意識のうちに、左のページを押さえてた親指が軽く浮いていた。
 俺は話が長引くと思ったから、そっと本を閉じた。
 話していく中で彼女も中々に黒崎先生の作品の良さを分かる人ということを知り、十分もしないうちに俺らは意気投合した。
 大いに話が弾んで、以降、本を開くことはなかった。

 これが彼女と初めて出逢った日で、俺の夏が始まった日。