あやかし狐と縁結び

「好きです、付き合ってください」
 放課後、人のいなくなった教室で作野双葉は告白を受けていた。十八年生きてきて告白をされるのは初めての経験だ。
「え、えっと」
 どうしよう。双葉はかあっと顔を赤くしながら俯き、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
 相手はクラスメイトの田辺篤という人で、三年生で初めて同じクラスになった。これまでに話をしたのは数える程度だ。ちらりと長い前髪の隙間から相手を盗み見るとにこりと微笑みかけられ、慌てて目を逸らした。
「ごめんなさい、わたし、あなたのことよく知らないので」
 震える声で何とか断る。すると大きなため息が聞こえてきた。
 え、と驚いて顔を上げる。先程の笑顔はすっかり消え失せ、不貞腐れたような顔が目の前にあった。
 続いて勢いよく教室の扉が開き、聞こえてきた声に双葉はぎくりと体を震わせる。
「振られてやんの!」
「ばっちり撮ってたからな~、明日皆に見せよ~」
 ぎゃははと笑いながら出てきたのは、田辺と仲の良いクラスメイト達だった。ひとりが田辺の肩を組みにやついた笑みを双葉に向けた。
「どんな気持ちよ、篤くん」
 からかうような口調に田辺は顔をしかめて言った。
「作野さんノリ悪すぎだわ。罰ゲームだって分かるでしょ、普通」
「あはは、だよなぁ。双葉ちゃんさぁ、もしかしてまじで告られたと思った? ないだろ、自分の顔、鏡で見なよ」
 何を言われているか、よく分からなくて言葉がでなかった。
「あれ? 固まっちゃった」
「もういいじゃん、行こうぜ」
 俯く双葉を置いて、田辺とクラスメイト達が去っていく。その時、耳に届いた言葉は双葉の心を抉った。
「あーあ、愛華ちゃんとお近づきになれると思ったのにな」
 愛華は、双葉の別クラスに席を置く従姉妹の名前だ。
 彼らは愛華に近付くために双葉に嘘の告白をしたのだと気がついた。
 悔しくて涙が滲む。でも、泣きたくなくてぎゅっと唇を噛み締めた。
 分かっていたのに初めての告白に少しだけ浮かれてしまった。そっと顔を上げて、目に溜まった水滴を拭うととぼとぼと教室を出た。

 双葉の両親は、双葉が八歳の時に事故でこの世を去った。奇跡的に後部座席に寝ていた双葉だけが助かり、親戚の元を転々とした後に母の妹家族に引き取られた。
 最初から双葉への叔母さん達の態度は冷たかった。引き取られて初めて会った時に叔母さんは双葉を忌々しげに見た後、大きくため息を吐いて言った。
「姉さん、余計なもの遺したわね」
 叔母さんへの母への苦言は度々続いた。その言葉の裏には母への並々ならぬ嫉妬と憎悪が隠れ、それは全て双葉へと向けられた。
 学校から帰宅し、家に入るとリビングから家族団欒の賑やかな笑い声が漏れている。ここで言う家族は叔母夫婦とその娘の愛華だ。
「ただいま帰りました」
 リビングに顔を出して声をかける。三人はテレビに視線を向けたまま双葉の声には応えない。いつもの事なので気にせず台所へ行き、夕食づくりに取り掛かった。
 同居人でしかない双葉は家事ができない三人の代わりに全ての家事を担っている。
 ご飯、味噌汁、焼き魚、サラダ、和え物を作り、ダイニングテーブルに並べ「できました」と声をかける。
 返答は期待できないので、そのまま自室へ戻ろうとした時。
「ぷっ」
 愛華の吹き出す声が聞こえてきた。
「あはは、ちょっと双葉、罰ゲームで告白されて本気にしたの?」
 はっとして視線を愛華に向けると、彼女は口許を押えて笑っていた。その手にはスマホが握られていて、すぐに放課後の嘘告白のことがクラスメイトから伝わっているのだと気がついた。
「どういうこと?」
 叔母がスマホを覗き込み、表示されているやりとりを見た。そして、その顔に笑みが浮かぶ。
「ええ、これ本当のこと? 恥ずかしい」
「お前なんかが告白されるわけがないだろう、鏡を見ろ」
 叔母さんの嘲るような声と叔父さんの呆れた声にかっと顔に熱が集まる。
 恥ずかしくてたまらない。
 双葉は悪いことなどしていないのにまるで責められているような気分になり、俯いた。
「またそうやって黙りするじゃん。そういうとこがウザいんだよ」
 だって、何か言ったら怒るから、と反論したいのに声が詰まって出ていかない。
「ていうか、告白してきたのって篤くんなの? 篤くんは私のことが好きだからあんたに告白なんてするわけないじゃんね」
 そんなこと知らなかったのだ。まるで常識のように言われても困る。
 ずっと黙っている双葉に腹を立てたのか、愛華がテーブルの上に置いてあったリモコンを投げて来た。
 ごん、と額に固いものがぶつかる。
「いっ……」
 骨に響く痛みに顔を歪め、ぶつかった所を手で押えると苛立たしげな愛華の声が届く。
「持ってきなさいよ、それ」
 額に当たって床に転がるリモコンを指差して言う愛華の言葉に従い、リモコンを拾い上げてテーブルに置いた。
「さっさと消えてよ、本当に目障り」
 愛華の言葉に溢れてきそうな涙を堪えてリビングを出て自室へ向かった。
 二階の角部屋。元々物置にしていた一室が双葉の部屋だ。未だに一部は物置になっているので、双葉の私物は学校で使うものか、愛華のおさがりの服くらいだ。。
 物置に置いてあった椅子に座り、膝を抱える。
 なにが、悪いのかな。双葉はこの椅子に座りよく考えることがある。
 双葉がすることは大抵誰かの怒りに触れる。苛立たしげな表情や憤った言葉を浴びせられる。
 双葉は何が悪いのかわからなかった。しかし、お前が悪いと言われ慣れているせいで、全て自分が悪いように思ってしまう。
 とろくて、うざいから。愛華が言う言葉だ。
 顔が嫌いだと叔母さんは言う。
 鏡を見ろ、と叔父さんの言葉を思い出して、物置の中に埋もれている曇った手鏡を取りだして見た。
 鏡に映っている自分の顔はのっぺりしている。よく眠れないせいでずっと目の下にはくっきりと隈が出来ているし、黒髪には艶がない。
「暗い……」
 自分でも思うのだからきっと人から見たら不快に感じるレベルなのだろう。そして、目が隠れるぐらい長い前髪が陰気さを加速させているのだということは、わかっている。
 しかし、どうしても前髪を切る勇気はなかった。自分の顔に自信がない。叔母さんに「姉に似ている目で見るな、不愉快だから」と言われたことがあり、誰かが自分の顔を見て不快に思うのが怖くなって、ますます髪を切れなくなった。
 はぁとため息をついた時、顔を歪めたせいか額が傷んだ。
 前髪をそっと上げてみるとリモコンが当たった額が赤くなっていた。
 押すとじんわりと痛みが広がる。痛みで愛華がどれだけ苛立っているかわかった気がしてまたじわりと涙が滲んだ。
 たんこぶ程度で終わればいいな、と双葉は椅子の上で丸くなった。
「お母さん、お父さん……」
 ぽつりと死んだ両親を読んでみる。当たり前だが、応えはない。代わりにリビングから誰かの笑い声が聞こえて来た。
 両親が死ぬまでは幸せだった。
 聡明で穏やかな父と、良く笑う母に挟まれ、双葉も良く笑っていたように思う。
 母は『お父さんとお母さんは、学生の時に出会ったの。お父さんが家庭教師のバイトで家に来ていてね』と良くふたりの馴れ初めを教えてくれた。双葉も将来はふたりのような仲良しな家族になりたいと夢に見ていた。
 それなのに、幸せは急に壊された。双葉が学校に行っている間にふたりは事故に合い、死んだ。悲しみを受け入れることが出来ず、苦しみならが双葉はまるで死んだように生きている。何故生きているのかも分からない。
 いつか、誰かと結ばれたのならふたりみたいな仲の良い夫婦になりたい、とその願いだけを胸に今日もひっそりと息をしている。
 次の日の学校は、人の視線が気になって仕方がなかった。
 クラスメイトが双葉を見てこそこそと噂話をしているのが視線の端に映る。告白なんてされるわけないのに自惚れるなんて身の程知らずという声が聞こえてきて、どんどん気分が沈んでいった。
 きっとクラス中に話が広まっているのだろう。早く帰りたくて仕方がなかった。
 黙々と授業を熟し、帰りのホームルームが終わってチャイムがなった瞬間に足早に教室を飛び出した。そこから家に帰る気にはなれず、しかし寄り道などしたことが無い双葉はどこへ行けばいいのか分からなかった。ぼんやりと歩き、目に着いたバスの停留所に腰を下ろした。人気のないバス停はしんと静まり返っている。時刻表を見るとバスは五分前に行ってしまっていた。
 行くあてなどない。ただ、人のいない所へ行きたかった。家にも帰りたくなかった。
 摩耗した心を労わる様に息を吐く。
「はあ」と零したため息が誰かの者と重なった。
 隣から聞こえて来た声に視線だけを向け、
「え」
 固まった。
 双葉の視線の先、バスの時刻表が書かれている看板を挟んだ先にあるベンチに大きな生き物が座っていた。
「ん?」
 双葉の声に反応したようで、それが双葉の方を見た。
 それは、大きく白い狐だった。目が綺麗な緑色でまるで宝石をはめ込んだみたいに綺麗な色をしている。
「やば、人がいるの気が付かなかった」
 狐は口を開き、参ったと言いながら乱雑に頭を掻いた。見た目は狐そのものなのに、その動きは人間のそれだ。
 着ぐるみかと思い、目を凝らす。着ぐるみにしては成功過ぎるし、何より何度も瞬きを繰り返している。つまり、本物だ。
「き、狐?」
「うん、そう。狐だよ」
 狐は呑気に欠伸をしながら答えた。どうでも良さそうな様子にパニックに陥りそうだった思考が少しづつ冷静になって行く。
「えっと、突然変異とかですか?」
「ぶはっ、あはは、違う違う」
 双葉の言葉がおかしかったのようで、狐はけらけらと笑った。
「毒気が抜けるな。久しぶりに笑った気がする」
 狐はぐうっと手を上げると伸びをした。先程のため息といい、どうやら相当お疲れらしい。
「えっと、お疲れ様です」
 目の前の光景は信じられないが、夢か何かだろうと勝手に納得させた。
「あのさ、ここで会ったのも何かの縁だと思って愚痴を聞いてくれない?」
 狐の表情の変化は人間よりも分かりづらいが、何となく嫌なことがあったのだろうなと分かった。
「私でよければ」
 話をして楽になるのなら。双葉は狐に向き直って話を聞く体制になった。
「ありがとう。俺ね、ちょっと特殊な生まれで、家を継ぐためには結婚しないといけないんだけど、結婚するのに試練みたいなものがあって、それが中々上手く行かないんだよね」
「試練……」
 結婚するために試練を受けないといけないとは、中々壮絶な家系のようだ。 
「そう。婚約者はわんさかいるんだけど、どれも失敗。ちなみに連続十人失敗中」
「じゅ、じゅうにん?」
 十人の婚約者を侍らず狐の想像が脳裏に浮かぶ。狐の世界の話は詳しくないが、一夫多妻制なのだろうか。いや、婚約しているだけなのだから一夫多妻とは違いのかもしれない。
「それで流石に疲れて逃げて来ちゃった。本当は結婚なんてしたくないし」
 ぽつりと零された言葉に両親の様な仲のいい夫婦になりたいと願っている双葉はぴくりと反応した。
「どうしてですか?」
「女なんて皆、俺の顔か金目当てだから」
 端的な口調だが、その声は苦し気でうんざりしていた。きっと苦労しているのだろう。
 狐の中ではとんでもなく美形なのかもしれないと横顔を見ながら思う。
「そうですかね」
「ん?」
「結婚って家族になるってことですよね? 顔とかお金がとかだけで選びますか? もしかしたらそういった理由もあるかもしれないけど、貴方が魅力的だから結婚したいと思うんじゃないですか?」
 狐はぽかんと口を開けた後、ゆっくりと首を捻った。
「顔と金以外に? 魅力が?」
「はい」
「例えば?」
 今会ったばかりの狐の魅力的な所、と聞かれても咄嗟に出て来ない。しかい答えないと『やっぱり魅力何てないんだ』となってしまいかねない。
「お、面白いとか、明るいとか」
「俺って面白い? ていうか、そんなことが魅力になるの?」
「なります!」
 双葉は自信を持って言った。
「私の父は母の明るくてよく笑う所が好きだと言っていました。逆に母は父の穏やかな口調が好きだと言っていました。私もふたりのそんあ所が大好きでした。なので、人の魅力って人それぞれというか、どこを魅力的に感じるかって人によると思うんです。人にとってはくだらない所でも、その人にとっては素晴らしく感じるんじゃないでしょうか」
 そこまで口にして、はっとした。
 ぺらぺらと無遠慮に喋ってしまった。
「す、すみません。貴方の事情を少しもわからないのに」
「いや。俺に擦り寄って来た奴らは金や地位が目的だったって意見は変わらないけど、貴方が違うことはわかったよ」
 狐はにやりと大きな口元に笑みを浮かべた。
 そして、何だか観察するように双葉に視線を向けて来る。
「あの」
「君、名前は?」
 唐突な質問に反射的に答えた。
「作野、双葉です」
「双葉、双葉ね。俺は久我雨音。あのさ、ちょっと相談があるんだけど、良い?」
 狐――改め久我雨音は噛みしめるように何度か双葉の名前を口にしたあと、窺うように首を傾げた。
「何ですか?」
 雨音の表情が真剣なものに変わり、双葉は身を固くしながら雨音の言葉に耳を傾けた。
「俺と結婚してくれない?」
「……え?」
 一瞬、幻聴かと思った。それぐらい双葉とは無縁の言葉が聞えた気がした。
「え、っと、すみません、何と言いました?
「俺と結婚してほしい」
 重ねて告げられた言葉は、聞き間違いかと思ったものと同じだった。
 理解が追いつかず固まる双葉を置いて雨音は話を進める。
「俺の家が特殊で当主になるには結婚しないといけないって話をしたよね? 失敗続きでこのままだといつまでたっても当主になれない。それどころか、もうひとつ大きな問題があるんだ」
 雨音は視線を空へ向けた。
「当主が決まらないと俺達は力の制御ができない」
「ど、どういうことですか? 力って」
 雨音が喋るたびに双葉に混乱は加速していく。
「全部、説明する。信じられないかもしれないけど聞いて欲しい。俺は普通の狐じゃない。妖狐というあやかしだ」
「あやかし?」
「妖怪って言えばわかる? 鬼とか天狗とかは知っている?」
 双葉が頷く。
「俺達あやかしは人間にとって幽霊みたいな存在かもしれないけど、実際は人間に紛れて暮らしているんだ」
「人に紛れて? そ、その姿でですか?」
 信じられない話だが、不思議と嘘だとは思わなかった。
 この姿で人の中で生きていくのは苦労が絶えないだろうな、と同情心が沸く。しかし雨音はあっさり首を振った。
「違う。いつもは人間の姿に化けている。今、狐の姿なのは力の制御が出来ていないからなんだ。妖狐などの強いあやかしは当主とその花嫁の結びつきによって力の制御を行う。だから一刻も早く婚儀を済ませて当主にならないといけないんだが……俺はその婚儀を失敗し続けている。
 雨音は大きなため息を吐いた。
「婚儀なんて正直誰でもいいのに、どうしてか成功しない」
 膝の腕を拳を握り吐き出される言葉には口惜しさや焦りが滲んでいる。
 その姿にどう声をかけていいか分からず、おろおろしていると、雨音が顔を上げた。
「そこで、貴方に結婚してほしい」
「どうしてそんな話に? 私はあやかしではありませんし、力の制御なんてできないです」
 話を聞いて雨音が抱えている焦燥感は理解できたが、だからといって協力何てできないと首を振る。
「婚儀の間があやかしである必要はない。それに力の制御に花嫁の力量などは関係ないから安心してほしい。あ、あと婚儀といっても普通の結婚とは別物だから安心して。法的に縛るものじゃないし、結婚は別の人としてもらってもいい。他に質問はある? なんでも聞いて」
「えっと」
「お願いだ。力を貸してほしい」
 じっと縋るような視線を向けられ、双葉はさっと目を逸らした。
「わ、私には務まらないです」
「そんなことない」
 突然、雨音が立ち上がり、双葉の前で膝をついた。そして双葉の膝に置かれていた手を大きな手で握った。
「貴方に断られたら、もうどうしていいか分からない。お願い。俺を助けると思って」
 切実な声にうっと言葉が詰まる。
 駄目押しとばかりにきゅるんと涙で潤んだ瞳で見つめられた挙句、くうんと哀れっぽい声で鳴かれて断れる人間なんていないだろう。双葉は無意識に頷いてい。
「いいの?」
「は、はい」
 もう一度こくちろ頷くと眼前にある雨音の目がきゅっと嬉しそうに細められた。
「ありがとう。助かるよ」
 結婚相手なんて大役、自分に務まるはずがないと後悔したがほっとしている雨音を前にして何も言えなくなってしまった。
 すっと雨音が立ち上がり言う。
「早速だけど、婚儀をしに行こう」
「え、今からですか?」
 展開の速さに驚く。心の準備など少しも出来ていないのに雨音はそんなこと関係ないとばかりに頷いた。
「すぐにでも解決したいんだ」
 人として暮らしているのならそう何日も人前に出ないわけにはいかない。雨音の切羽詰った表情を目にし、双葉も立ち上がった。
「そうですよね。わ、わかりました」
 鞄を持ち、雨音の隣に立つ。並ぶとその大きさに改めて戦いた。恐らく二メートル近くある。
 しかし不思議と恐怖は沸いてこなかった。
 雨音はにこりと双葉に笑いかけると、手をとって言った。
「特殊な方法で移動するから目を閉じていて。開けていると気分が悪くなるかもしれないから」
 え、と聞き返すよりも前にぐるりと視界が回った。三半規管が可笑しくなるのを感じ反射的に目を閉じる。胃の中がぐるぐると回る。吐き気を覚えて口を押えると、耳の近くで落ち着いた声がした。
「着いた」
 恐る恐る目を開けると、そこは今までいたバス停ではなかった。
 双葉の目の前には赤い鳥居が立っている。鳥居の周りだけ草ひとつ生えておらず、ぽっかりと空間はできている。辺りを見渡すと木々が生い茂り、山か森の中だとわかる。しかし、それ以外の情報はまるでない。
「な、にここ」
 異様な光景に怖くなって震えながら呟く。
「ここから本家に行けるんだよ」
 はっとして隣を見ると狐の顔があったので、少しだけ冷静になった。先程から夢の様なおかしな状況が続ている。一瞬で奇妙な場所にたどり着いたのもおかしいが、それよりも大きな狐が二足歩行で喋っていることの方が驚きだ。
 あやかし、に関しては何でもありなのかもしれないとどうにか自分を納得させる。
「では行こう。鳥居を越えたらすぐだから」
 雨音が鳥居を越える。双葉も後を追って足を踏み入れた。
 ふっと一気に空気が軽くなった。と、同時に踏みしめたのは山や森の土の癇癪ではなく砂利だった。ざり、と音がして驚きで目を見張ると目の前がぱっと開けた。
「え……」
 そこにあったのは大きな屋敷だった。屋敷の前には紫色の藤が大量に咲き、この世のものではないみたいだ。
 こんな豪奢な平屋は時代劇でしか見たことがない。気圧されて一歩引いた双葉の背をとんと背後に立っていた雨音が押した。
「ようこそ久我家へ」
 にこやかな雨音に対し、双葉が口の端を引きつらせた。
 とんでもないところへ来てしまった。了承したことを後悔し始めた双葉の耳にばたんと大きな音が入り込んできた。音の方へ視線を向けると屋敷の扉から雨音と同じように二足歩行の狐が数匹、顔を出していた。全員色が違う無地の着物を着ている。
「雨音様、おかえりなさいませ」
 一番前にいる薄紫色の着物を身に纏った狐が代表して声をかけると後ろに控えている他の狐達も一斉に頭を下げた。
「ただいま。真澄はいるか?」
「ああ、雨音様! おかえりなさいませ!」
 雨音の声に呼応するように玄関から小柄な狐が出て来た。その表情は明らかに焦っている。
「どこへいってらっしゃったのですか……あの、そちらの方は?」
 小柄な狐が雨音の隣で戸惑いの表情を浮かべる双葉に気が付く。首を傾げた。
 雨音は待ってましたと言わんばかりに口を開く。
「ああ、婚儀の相手を見つけたんだ。今回は成功する」
 雨音の自信ありげな言葉にその場にいた狐達は固まった。
「え、えっと、婚儀のお相手? 雨音様が見つけて来られたのですか?」
「ああ」
 小柄な狐は戸惑いを隠しきれない様子だ。
 それも当然のことだ。突然当主がどこの馬の骨とも分からない小娘を連れて来たのだから反対されるのが普通だ。力の制御のために直ぐにでも婚儀をしなければいけないといっても、素性の分からないものを家の中に入れることはできないだろう。
 そう思い、双葉が一歩を足を引いた。
 しかし、双葉の予想に反してその場にいた狐達は表情を明るくさせ、わいわいと盛り上がり始めた。
「雨音様が婚儀の相手を見つめて来られた!」
「まさかこんなことが起こるなんて!」
「早く婚儀の準備をしなくては」
 ざわめく狐達を小柄な狐が咳ばらいで黙らせ、一歩踏み出すと双葉を正面から見据えた。
「初めまして、私は久我家に使える真澄と申します」
 丁寧な態度に慌てて頭を下げる。
「さ、作野双葉です。よろしくお願いいたします」
 震える声で挨拶をした双葉を真澄は満足そうに見てから、背後に控えている狐達を向かって指示を出し始めた。
「婚儀の準備を行います。皆さんは双葉様の着替えをよろしくお願いします」
「はい、わかりました」
 狐達が一斉に頷く。
 次いで真澄は視線を双葉へ向けて言った。
「双葉様。婚礼の儀を行うための準備に取り掛かってください。大丈夫、心配はいりません。皆さまが全部完璧にしてくださいます。身を任せてください」
「ぎ、儀式って何をすれば」
「大丈夫。難しくないから」
 答えたのは真澄ではなく、雨音だ。
「詳しくは後で説明するから。安心して」
 全く安心などできないのだが、雨音は「また後でね」と言い残し、真澄と共にさっさと屋敷の中に入って行ってしまったのでそれ以上は聞けなかった。
 残された双葉は戸惑う間もなく、ぞろぞろと集まって来た狐に囲まれ手を取られた。温かくてふわふわの毛に包まれると緊張がふっと緩む。肉球が真澄以上にふにふにしていて気持ちが良いと場違いに思った。
「双葉様、初めまして、わたしくは久我家女中頭、叶野と申します。どうぞよろしくお願いします」
 そう頭を下げたのは、先程喋っていた紫色の着物を着ている狐だ。
 叶野と名乗った狐は睫毛が長く、近くで見ると美しい顔をしている。身長は百五十四センチの双葉よりもかなり高い。恐らく百七十はある。もしかしたら真澄よりも高いかもしれない。
 周りの狐も殆どが双葉よりも背が高い。大きな生き物に囲まれ、圧迫感で押しつぶされてしまいそうだ。
「あ、あの、わた、私は何を」
 どうにかそれだけを口にすると叶野は心得ている様子で頷き、双葉の手を引いた。
「説明は向こうで致します。行きましょう」
 屋敷の中へ入る。そこは、まさに時代劇の光景だった。
 まず、玄関が異様に広い。そして、真っ直ぐ伸びた廊下の突き当りは遠すぎて見えない。玄関からでも部屋数が多いのが窺える。
 壺などの装飾品は全て高級感があり、落として壊す想像をして勝手に震えた。
「さあ、こちらです」
 叶野に連れられ廊下を進み、何度か曲がった先の和室へ入った。
「わ、わあ」
 真っ先に目に入ったのは、床に置かれた白い着物だ。よく見ると藤の刺繍があしらわれている。
「これが儀式で着用していただく花嫁衣裳です」
「花嫁衣装……」
 その言葉に着物に見とれていた双葉ははっとした。
 美しい着物をこれから双葉が着るのだと言うが、似合わないのは明らかだ。こういうのは愛華にような華やかな人こそ似あうものだ。自分が着るべきではない。卑下しているわけではなく、ただの事実としてそう認識した。それと同時に自身の場違いさを意識して居心地が悪くなった。
 いくら頼まれたからと言っても断るべきだった。
「双葉様、大丈夫です。そんなに緊張しないで」
 不意に叶野に手を取られた。
「儀式は簡単なものです。大丈夫です」
「いえ、この花嫁衣裳は、私にはとても着こなせません」
 つい弱音を吐くと叶野はうんうんと全てを受けめえるように頷いた後、じっと双葉の目を見つめた。
「そう気負うことはありません。試着程度の気持ちで着ればいいのです。それにわたくしは双葉さんにとてもお似合いだとおもいますよ」
 ねえ、と叶野が周りにいた狐に同意を求めると皆が一斉に頷いた。
「もちろんです、とってもお似合いですよ」
 まだ着ていないのに褒められて双葉は顔を真っ赤にした。
 似合っていないからやめたい、などと言える空気ではない。双葉が困って居るのを分かっているのか、分かっていないのか狐達は双葉の周りを動きまわり、時間が無いからとあれよあれよという間に身ぐるみを剥がされ、あっという間に花嫁衣装に身を包んでいた。
「美しいです、双葉様」
 褒められながら化粧を施される。化粧などしたことない双葉は顔にファンデーションを塗られるのも睫毛を上にぐいぐいと持ち上げられるのも慣れる事無く、がちがちに硬直していた。目の前の鏡に映る自身の顔がどんどん変わって行くのを面白いと思う一歩で、少し怖かった。
 化粧を施した顔は、記憶に残っているおめかしして出かけていた母の顔と似ている。最後に見た母の綺麗に化粧をされた顔を思い出し、少しだけ気分が落ち込む。
「どうされましたか? お気に召しませんでしたか?」
 隣に座っている比較的背の小さい狐に話しかけられ、大丈夫だと首を横に振る。
「あら、ここが腫れていますね」
 昨日愛華にリモコンをぶつけられた場所は赤く腫れている。触らないと痛くないのですっかり忘れていた。
「コンシーラーで赤みは消えるので大丈夫です。少し触れますね、痛かったらおっしゃってください」
「はい、ありがとうございます」
 コンシーラーってなんだろ、と思いながら狐の手を目で追う。
「……魔法みたい」
 綺麗に赤みが消えた額を目にして、ぽつりと零した言葉に狐がふっと口元を綻ばせた。
「お化粧は魔法ですよ。どんな自分にもなれます」
 未完成な顔でもいつもと違うのだから、完成したらいつもの自分とはかけ離れた存在になりそうだ。
 顔が完成していくと、段々と儀式を意識して緊張で汗ばんできた。顔を強張らせる双葉に気が付いた狐が顔を覗き込む。
「緊張していますか? 儀式は難しいものではないですよ」
「そうなんですか?」
 婚姻の儀というのはそんな簡単なものなのだろうか。格式ばったものとばかり思っていたが、周りにいつ女中達は皆一様に首を横に振った。双葉を安心させるために方便の可能性もあるが、難しくないと聞き少しだけ緊張がほぐれた。
「やることは当主様と同じなので隣を盗み見ればいいのですよ」
 叶野に捕捉され、双葉はこくりと頷いた。
「はい、完成しました」
 化粧と着替えを済ませ、鏡に映った自分を見る。花嫁衣装は化粧を施して貰ったおかげか、予想よりも似合っている気がした。これからばみすぼらしいとは思われないだろうと安堵する。
 長い前髪が横に流れているので目が露わになっているので落ち着かない気分になったが、前髪を戻すのは失礼かと思いそのままにしておいた。
「終わりましたか?」
 廊下の方から声がかかり、はっと顔を上げる。
 真澄の声だ。
 叶野が立ち上がり、扉を開ける。扉の前に立っていた真澄は花嫁衣装に身を包んだ双葉に微笑みかけた。
「双葉様、よくお似合いですよ。早速ですが、儀式の間で説明をいたします。こちらへ」
 真澄について行くと大広間に到着した。そこには既に数匹の狐がそわそわと落ち着かない様子で座っている。真澄と双葉が部屋に入ると彼らは顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。
「その人が雨音様が選ばれた方か」
「当主が選んだのなら今度こそ成功するはずだ」
「もう有給が使えないんだ。絶対に成功させてくれ」
 ざわざわと騒ぐ声が狐の方から上がる。
 双葉を吟味するような視線はひとつもなく、ただ只管婚儀の成功を期待しているのが分かる。聞こえて来る声の中には切羽詰っているものもある。
 部屋の中にいる全員の視線を浴び、双葉は何度も頭を下げた。
「は、はじめまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 座っていた狐達も双葉に応じた。
「では、儀式の説明をしましょう」
 慌てる双葉を無視して、真澄は徐に歩き出すと大きな屏風の前に腰を下ろした。
「これを見てください」
 真澄の前には大きな皿がふたつ置いてある。外側が黒、内側が赤の盃盛器だ。中は空だ。
「儀式が始まりましたら、ここへ真水を注ぎます。そして当主様と共に水を飲んでください」
「その後は」
「終わりです」
「え?」
 双葉は目をぱちぱちとさせた。
「儀式自体はそこで終わりです。その後、契約の署名をして印を押すだけです」
 簡単だ。水を飲むだけ。それなら雨音を盗み見なくても出来る。
 何だか拍子抜けしたような気分になった。
「ただし、真水と言っても儀式の水は特別です。味が変わります。飲めないと判断したら吐き出してもかまいません」
 真澄は淡々と説明を続ける。
「当主様との相性が悪い場合、水は飲み干せないほど酷い味になり、相性が良い場合のみ甘くなるのです」
「相性、ですか」
「はい。相性が悪いと毒物になったり悪臭を放ったりするらしいので、そうなったら止めてください。縁がなかったと思うしかありません」
 これまで婚儀が全て失敗しているのは全員水がまずくなってしまったかららしい。
 双葉と雨音は今日初めて会ったのだから相性などいいはずがない。つまり、美味しくない可能性の方が高い。集まっている狐達の期待に満ちた目を前に「飲めません」なんてとてもじゃないが言えないので、覚悟して飲まなければいけない。
「説明はここまでです。何かわからないことはありますか?」
 何を質問していいのかすら分からなかったので、首を横に振った。
「大丈夫です」
「では、よろしくお願いします。そろそろ雨音様がいらっしゃいますので、ここに座って待っていてください。リラックスして」
 双葉は言われるまま腰を下ろした。
 それから一分もたたず襖が開き、次々と狐が部屋に入って来る。どの狐も大きい。色は茶色や黒が多く、双葉の前にずらりと座る様子は圧巻だ。
 皆分かりにくいが表情に焦りのような物が見える。中にはあからさまにそわそわと落ち着きがない者もいて全体的に呼気が荒い。不安そうな様子を見ていると不思議と緊張は落ち着き使命感のような物が沸き上がった。
 覚悟を決めるように、ぎゅっと拳を握りしめた時。
 襖が開き、雨音が顔を出した。
 どうやら白い毛色は雨音だけらしく、間違えようがない。それに何故か雨音の顔だけは他との区別がついた。
 雨音は双葉と目が合うとふっと顔を綻ばせたが、すぐに鼻の頭に皺を寄せて怒った顔をした。
「これ、どうした? 赤くなってる」
 隣に座った雨音の手が双葉の額に触れる。そこにはリモコンがぶつかった傷がある場所だ。コンシーラーで綺麗に隠したはずだが、雨音には誤魔化せなかったらしい。
「ぶつけたんです」
「ふうん。痛い?」
「もう痛くないです。言われるまで気づかなかったくらいなので」
 雨音は労わるような優しい手つきで患部を撫でた。
「あとで湿布を貼ろう。放置しているよりかは早く治るはずだ」
「そんな、大丈夫ですよ。もう治ったようなものです」
「いいからいいから」
 遠慮したいのにこれ以上食い下がって不快な気分にさせるのも気が引けて言葉を飲み込んだ。
 すると、一瞬の沈黙を待っていたかのように真澄が口を開く。
「皆様、揃いましたね」
 凛とした格式ばった声に自然と双葉の背筋が正される。
「これよりも婚姻の儀を執り行います」
 真澄の宣言で、近くに控えていた女中が双葉と雨音の盃に水を灌ぐ。すん、と匂いを嗅いでみるが何の匂いもしない。悪臭を放ってはいないらしく安堵する。
「どうぞ」
 真澄の声は少しだけ強張っている。
 雨音が盃を手に取ったのが見えたので、慌てて双葉も持ち上げる。
 不味いかもしれない、と思うと怖気づきかけたが、覚悟を決めて一口飲みこんだ。
 口に入れた途端、甘さを感じた。はちみつのような味が口いっぱいに広がる。驚いて盃を口から離し、目を見開く。
 美味しい。甘すぎない柔らかい味わいは凄く飲みやすい。もっと飲みたいと思うほどの味に双葉は隣に座る雨音の顔を窺った。すると雨音も双葉を見ていて目が合った。
「どうかされましたか?」
 ふたりの様子に真澄が心配そうに聞いて来る。
 真澄だけではなくじっと双葉達を張り詰めた表情で窺っていた狐達も固唾を呑んだ。
「やっぱり、俺の見立ては間違っていなかった」
 雨音がにやりと笑い、盃をあおって中身を全て飲み干した。
 双葉も残りの水を飲み干し、空になった盃を見せた途端、部屋中が歓喜で揺れた。わあわあと騒いだり抱き合って喜びを分かち合うがいるの中、緊張が解けてがっくりと項垂れる者もいる。
「良かった、婚姻の儀は成功したようです」
 真澄が柔らかい笑みを浮かべて言うと拍手が起きた。
 呆気なく双葉と久我家当主との婚姻は成立した。実感がないまま湧き上がる狐達をぼうっと見つめていることしかできなかった。
 儀式を終えても狐達は直ぐには人間の姿にならなかった。
「婚姻の儀を終えただけで、これから当主襲名だからね。襲名したら力が安定するよ」
 不思議に思っていた双葉に雨音が説明してくれた。
 それにうんうんと相槌を売っていた双葉の事情から声がした。
「双葉様」
 呼びかけに顔を上げると、いつの間にか隣に来ていた真澄が穏やかに言う。
「本当にありがとうございます。これで我々も普通の生活が送れます」
 力が制御できるようになれば人間に紛れて生活できるようになる。不自由な生活から解放されて良かったと双葉は自分のことのように嬉しくなった。
「お力になったのなら、良かったです」
 そうして、双葉はくるりと部屋を見渡した。
「あの、所で今は何時でしょうか?」
 この部屋には時計がない。雨音と出会ってから一体どれだけ時間が立っているのか分からない。早く家に帰って家事をしなければ、腹を空かせた叔母さん達に怒られてしまう。
 真澄は胸元からスマホを取りだすと毛むくじゃらの手で器用に操作した。
「今は八時過ぎです」
 その言葉にざっと血の気が引いた。
 いつもならもう食事を始めている時間だ。叔父さんの帰りが遅ければいいが、昨日のように早かったら空腹で苛ついているだろう。怒りに震える叔母夫婦を思い出し、双葉は慌てて腰を上げた。
「すみません、遅くまで拘束してしまって」
「大丈夫です、けど、あの、もう帰って大丈夫ですか?」
 双葉の質問に、部屋の空気が一瞬固まった。瞬きほどの間だったので気のせいかもしれない。
 真澄が雨音をちらりと見てからにっこりと笑って頷いた。
「はい、勿論です。家まで送ります」
 女中に手伝って貰い、重たい衣装を脱いで制服に着替え、化粧も落とした。いつもの自分に戻るとほっとした。
 お世話になった狐達に向き合って、頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「それはこちらの台詞ですよ、双葉様」
 叶野にふわりと手を握られる。
「また、いらしてください。今度はおもてなしをさせてください」
 その言葉が例えお世辞だったとしても嬉しかった。双葉は破顔し、手を握り返すと何度も頷いた。
「ありがとうございます」ともう一度お礼を言い、雨音と共に屋敷を出る。外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか雨が降っていたらしく雨水に濡れた藤が月明かりに照らされて幻想的に輝いている。まるで夢の様な光景の中を進み、一度だけ屋敷を振り返った。
「どうかした?」
 雨音の問いに双葉は屋敷を見つめながら言った。
「夢みたいに美しいので、目に焼き付けておきたくて」
 もう二度と来ることはないのだろうから、覚えておきたかった。しかし、他人にじろじろと家を見られるのは気分が良い物ではないかもしれないと思い直し、慌てて目線を逸らした。
「無遠慮に見てしまって、すみません」
 怒られるかもしれないと少しだけ目を伏せた。
「いや、満足するまで見て良いよ」
 雨音は双葉の我儘を許してくれた。
「ありがとうございます」
 双葉はもう一度だけ屋敷を見て美しい光景を瞼の裏に焼き付けた。
 帰りは行きと同じように不可思議な鳥居をくぐり、家から少しだけ離れた路地裏に場所についた。夜なので人気は少ないが、誰がどこで見ているかわからないので早く雨音を家に帰した方が良い。そう思い、すぐに別れようとしたが、雨音が双葉の手をぎゅっと握ったのでその場で止まった。
「お礼をしたい」
 真剣な表情に首を振る。
「何もいらないです。大丈夫です。送ってくださってありがとうございます」
「でも」
「誰かに見られる前に帰った方が良いですよ」
 雨音は何か言おうとしたが、双葉の頑なな態度に結局何も言わなかった。
「じゃあね。本当にありがとう双葉」
「はい。さようなら」
 そう言って雨音と別れ、緊張しながら家の玄関に立った。叔母夫婦は暴力を振るう人ではないが、言葉の棘で傷つけられるのは怖かった。緊張と恐怖で震えながら玄関をそっと開いた。
 ぴりぴりしているかもしれないという予想は裏切られ、リビングからはいつも通りの和気藹々とした声が漏れ聞こえている。安堵の息を吐き、リビングの扉を開けると濃厚なピザの匂いがした。
 扉が開いた音に反応した叔母が双葉の方を見て、顔を顰めた。
「あんた家事もせずにどこにいたのよ」
「すみません、あの……」
 咄嗟に謝罪を口にして、ここに来るまでに考えていた言い訳を口にしようとしたが、その前に叔母に遮られた。
「まぁ、どうでもいいわ。どうせ遊んでいたんでしょ? 人に養ってもらっておいていい御身分ですね。あんたのご飯はないから、さっさとどっか行って」
 しっしっと追い払うように手を振られ、双葉は唇を噛みながら踵を返した。
 その間、叔父も愛華も双葉に一瞥もくれなかった。まるでいないもののように扱われるのは慣れているはずなのに、酷く傷ついた。
 自室に入った途端、疲れがどっと押し寄せてその場に蹲る。詰めていた息を吐き出し、自分を守る様に体に腕を回す。そうしていないと心が折れてしまいそうだった。
 ぎゅっと眉間にしわを寄せ、自身を落ち着かせるべくゆっくりと呼吸を繰り返す。
「あれ……」
 ふと、胸の奥がふわりと温かくなった。
 そっと手で触れてみるが特におかしいところはない。
「なんだろう、これ」
 目を閉じて胸の温かさに集中する。するとその熱が双葉の傷ついた心を労わっているのだと気が付いた。誰かと繋がっているような気がした。不思議だが、恐怖はない。今日は狐のあやかしに会うなどとても現実だとは思えない様な体験をしたのだ。これくらいでは驚かなくなっている。
「慰めてくれるんですか?」
 そっと問いかける。答えは無いが、それでもいい。
 自分がひとりじゃないのだと思えて、漸く呼吸が出来た気がした。

 久我家雨音との婚儀を行ってから二週間がたった。双葉の生活がそれから一変することはなかった。
 嘘告白についての話題は数日もすれば流れ、双葉が話題にあがることはほぼなくなった。偶に隣のクラスの愛華と比べる時に名前があがる。
「作野双葉は愛華と違って愛想が無い」などという声が聞こえてくることもあった。しかし、それだけだった。
 変わったこともあった。胸が暖かくなったあの時から向こう側にいる誰かの感情が流れ込んでくるようになった。考えていることがわかるというより、嫌な思いをしている時や機嫌が良い時に双葉に感情が流れ込んでくるみたいだ。理由は定かではないが、恐らく婚儀の影響だろう。それしか思い当たらない。
 だとしたら向こう側にいるのは雨音だろうか。双葉と感覚共有しているなど不快ではないだろうか、と不安になるが連絡をとっているわけではないので聞くに聞けない。
 連絡していいからと言われたが、あれはきっとお世辞だろう。真に受けて連絡するわけにはいかない。
「起立」
 と担任教師の声に我に返る。今はホームルームの最中だったと思い出し、慌てて立ち上がると礼をした。
 一日の授業を終えた生徒達がぞろぞろと教室から出て行く。今日は週末なので、明日の予定を立てている声を聞きながら双葉も生徒達に続いた。
 のろのろと靴を履き替え、昇降口から出たところで異変に気が付いた。
 校門に人だかりができている。集まっているのは女子生徒が多く、きゃらきゃらと色めき立つ声が聞えて来る。
「あれ誰? かっこいい」
「やばい、誰かの彼氏とか? 羨ましい」
 そんな声が聞えて来たので、誰か知らない人が校門にいるらしい。
 双葉は人だかりから離れて校門から出ようと俯きがちになりながら足を進めた。
「双葉」
 聞えて来た声に顔を上げる。するとそこには目を見張るほどの美形が立っていた。白い髪に緑色の目をした長身の男が女子生徒に囲まれながら双葉をじっと見つめていた。
「え……」
 男性は双葉と目が合うとずかずかと歩いて来て、むくれたような顔で言った。
「何で連絡くれないの?」
「え、あの?」
 知り合いの様な気安い物言いに戸惑う。双葉は男性が一体なんのことを言っているのかまるで分からなかった。
 混乱する双葉に焦れた男は、双葉の手を取った。その途端、周りで見ていた生徒達から歓声とも悲鳴ともとれる声が上がる。その声の大きさと視線の多さに双葉は体を縮め、男は盛大に舌を打った。
「ここだと人目が鬱陶しいね。場所を変えよう」
「あ、あの、貴方は一体」
 人から注目されるのは嫌だったので早く逃げたかったが、それよりも知らない人間について行く方が怖かった双葉は男性に引っ張られながらもその場に留まろうと抵抗した。
 双葉の疑問に男性は目を瞬かせ、首を傾げた。
「分からない? までしたのに」
 その瞬間、爆発したような悲鳴が轟いた。
「結婚⁈ 今結婚って言ったよね?」
 生徒達がわいわいと騒ぐ中、双葉の思考は停止していた。
 確かに二週間前に婚儀をしたが、あれは法的な制限はなく結婚したことにはならないはず。それに双葉の結婚相手は狐であり、人ではなかった――いや、確か彼らは人に化けて暮らしているのではなかっただろうか。
「久我雨音って言えばわかる?」
 双葉以外には聞こえないように耳元で囁かれた言葉に目の前に男が久我家当主、双葉が婚儀を上げた男性だと分かった。
「と、当主様?」
 ぼそりと呟いた言葉に雨音は頷いた。
 本当に人の姿になるのか。と驚きと困惑で茫然とする双葉は急に手を引かれて、反応が遅れた。あっという間に校門前に止まっている車に乗せられ、車が発進すると帰路とは反対方向へ進んでいく。
「強引に連れ出してごめん」
 運転席に座る雨音の謝罪に双葉は目を瞬かせた。
「いえ、それは大丈夫ですが、あの、どうして、学校に来られたんですか?」
 至極当然の疑問だと思ったのだが、雨音はむっと顔を顰めた。
「来ちゃ駄目だった?」
「そういうわけじゃなくて……」
「俺はもう一回に会いたかったし、連絡も待ってた。どうして連絡して来なかったの?」
 会いたかったという言葉に驚く。連絡に関してもお世辞だとばかり思っていたが、雨音の表情から本音だったのだと気が付く。
「め、迷惑かと」
「そんなことない。というか、玉の輿に乗れるかもとか考えなかったの? 連絡とって仲良くなろうとか考えなかったみたいだけど、なんで」
「何でと聞かれても……」
 雨音の物言いでは、連絡を取らなかった双葉がおかしいみたいだ。
 玉の輿なんて考えは一瞬も浮かばなかった。
「……もしかして、あやかしなんて嫌だった?」
 信号が赤に変わり、車が止まる。
 雨音の声はどこか不安げで、双葉は力いっぱい頭を振って否定した。
「い、いえ。違います。そういうわけじゃなくて。そんな考えも浮かばなかったんです」
 雨音は真意を探る様に双葉を見つめた。
 嘘じゃない、と訴えかけるように見つめ返す。すると雨音はふうと息を吐いて座席に背をつけた。
「化け物屋敷には来たくないかと思った」
「そんなことないです。行けるのなら、行きたかったです」
 いるだけで息が詰まる家よりも久我家はずっと優しかった。もう一度来てほしいと手を握ってくれた叶野の言葉に甘えたくなったが、連絡はできなかった。
「そうか。じゃあ、これから行こう」
「え?」
 聞き返すと、雨音が言う。
「これから久我家へ行こうか」
 その言葉と共に車が動き出した。
「え、い、今からですか?」
「ああ。何か問題があるか?」
「私、家事をしないといけないので、帰らないと」
 何も言わずに帰らなければまたあの日のように棘のある言葉を吐かれるのは間違いない。
「家族は、双葉が一日いないだけで生活ができないの?」
 雨音の質問に言葉が詰まった。
 双葉が居ない方が叔母夫婦は快適に過ごせるはずだ。ご飯はあの日のように宅配サービスでもコンビニでも手ごろに買えるので、双葉が一日帰らなくても全く問題はない。
 しっしっと追い払われたことを思い出して顔が歪む。
「問題ないなら一緒に来て。家には連絡を入れればいい。それか俺から連絡をしよう」
「いえ、大丈夫です。連絡は私がします。でも、すみませんがスマートフォンを貸して貰っても良いですか?」
 双葉はスマホを持っていない。雨音はちらりと双葉の顔を窺ってから、頷いた。
「ああ、家に着いてからね」
 それから十分後、気が付いたらあの屋敷に着いていた。
 今回は不思議な鳥居を通ることがなく、車で山道を通った。
「あの鳥居を通らなくても来られるんですか?」
「ああ、婚儀の時は力が不安定になるから狐の姿から戻れないんだ。だから鳥居を使った別のルートで行き来をするんだけど、普通の道でも問題なく来られるよ」
 エンジンが止まり、雨音が車を降りたので、双葉も外へ出た。
 屋敷の前に咲き誇る藤の下に焦げ茶の髪色の男と、黒髪の女性が立って待っていた。
「雨音様! おひとりでどこへ行っていたんですか……」
 焦げ茶の男が雨音に向かって声を上げたが、すぐに双葉の存在に気が付く瞬きを繰り返した。
「双葉様?」
 その声には聞き覚えがある。
「もしかして、真澄さんですか?」
 焦げ茶の髪の毛は、狐の時の毛の色と同じだ。
「そうです。真澄です。雨音様は双葉様と迎えに行っていたんですね」
 真澄はとろけそうなくらい顔を綻ばせる。
「うん、話があったからね。それにお前らも会いたいって言っていただろ」
 雨音の視線は真澄の隣に立つ女性に向けられた。後頭部で髪をひとつに結っている紫色の着物の女性だ。その着物の色に既視感を覚えた。
「……叶野さん?」
 双葉がその名を呼ぶと、女性はふわりと優し気な笑みを浮かべた。
「そうです。この姿で会うのは初めてですね」
 人間の姿の叶野は凛とした佇まいの美しい女性だ。百合のような気品のある清らかな雰囲気に纏っている。
「はい。お元気そうで良かったです」
 狐の姿では表情の機微までは分からなかった。叶野は双葉を柔らかい笑みで迎えると、背後を振り返った。叶野の視線の先、久我家の玄関から双葉達を見る人影があった。
「皆も双葉様と会えるのを楽しみにしていたんですよ」
 玄関にいたのは、着替えや化粧を手伝ってくれた女中達らしかった。彼女達は双葉と目が合うと嬉しそうに破顔し、控えめに手を振って来るので、双葉は会釈を返した。そのやりとりを見ていた雨音がふっと吐息だけで笑う。
「叶野、双葉を客間に連れて行ってくれ」
「はい。双葉様。お約束通り私達のおもてなしを受けてください」
 そっと手を取られ、屋敷の中へ誘われた。
 案内されたのは、中央に木の模様がくっきりと入った大きなテーブルがどんと鎮座している和室だ。双葉は促されるままにテーブルの端に座るとその隣に雨音が腰を下ろした。
「あの、どうして私は連れて来られたのでしょうか」
 雨音とふたりになった部屋で緊張して震えそうになる手を握りしめながら質問した。
 すると雨音は目を瞬かせ、首を傾げた。
「会いたかったから。カフェとかでも良かったけど、人目があると落ち着かないからね」
 にこっと微笑まれ、戸惑いに目を泳がせる。
「何で私なんかに……」
「地位とかお金とか全く関係なく、ただの善意で助けてくれた女性に会ったのは初めてだった。すぐに連絡するかもって思っていたのに全然音沙汰内から更に気になって会いたくなった。それに」
 雨音はずいっと顔を近づけて来たので驚いて後退る。
「感覚を共有しているのは気づいているよね? 俺は、ずっと双葉が頭から離れなかったよ。双葉は?」
 眼前に迫る真剣な表情に目を白黒させていたが、感覚の共有という言葉にはっとした。
 やはりあの感覚は雨音のものだったらしい。
 双葉はずっと伝えたかった思いを口にした。
「私は、落ち込んでいる時の支えにしていました。勝手に頭の中を覗いているみたいで申し訳なかったのですが、貴方が愉しいときは何だか嬉しくなっていて、ひとりじゃないって思えて前よりも辛くなかったです」
 暗い自室でひとりでいる時も愛華と比べられても胸の温かさを思い出して乗り越えていた。ずっと感謝の気持ちを伝えたかったのだと目を見つめながら伝えた途端、雨音がふっと視線を逸らした。
「……びっくりした。そんな真っ直ぐに見つめられるなんて思わなかった」
「あ、すみません。不快でしたよね」
 叔母から散々目を合わせるなと言われていたのに、雨音にまで不快な思いをさせてしまった。申し訳なくなり誤ったのだが、雨音が首を振った。
「不快なわけない。双葉はどうしてそんなに卑下するの?」
「卑下しているわけではなくて、その、すみません……」
 言葉が続かない。人との関わってこなかったせいか、会話をするのが得意ではないのだ。
 情けなくなり、俯く双葉の鼻腔にふわりと甘い匂いが入り込んできた。咄嗟に顔を上げ、さっきよりも近づいた雨音との距離に息を呑む。
「すぐに謝るのは癖?」
「ち、違います。あ、あの」
 近いです、と言いたいのに舌がこんがらがって上手く言葉が出て来ない。顔を赤くしながら、そろりと視線を別に向け、壁に掛かっている時計が目に入った。
 その途端、大切なことを忘れていた事実に気が付いた。
「あ、連絡!」
 家に連絡を入れるのをすっかり忘れていた。いつもならもう帰宅している時間になっている。
 雨音も時計を確認し、ポケットからスマホを取り出した。
「そうだった。はい。スマホ。ここで電話していいから」
 雨音が画面を操作し渡してくれたスマホを受け取る。叔母さんの家の電話番号を思い出しながら打ち込む。勢いで通話ボタンを押すと呼び出し音に切り替わった。無機質な音を聞いている間、心臓が嫌な音を立て、緊張で手が震える。
 雨音に覚られないように必死で取り繕いながら叔母さんが電話に出るのを待った。
 ぶつ、と音が途切れた瞬間、緊張が最高潮に達した。
「はい、もしもし」
 機械越しのいつもよりも少しだけ高い叔母の声にぎゅっと拳を握りしめ、言葉を吐き出す。
「もしもし、叔母さん?」
「……そうだけど、なに? あんた何で帰って来ないの?」
 電話の相手が双葉だと気が付いた途端、叔母の声が低くなった。
 すぐ近くにいる雨音に叔母の声が聞こえてしまったようで、ぴくりと反応するのが見えた。あまり気分の良い内容ではないので、聞かれないようにそっと距離をとる。
「えっと、実は」
 事情を説明しようとした双葉の言葉は、叔母の大きなため息によってかき消され、二の句が継げなくなった。
「あーあ、また遊び歩いているのね。面倒見てやっているのに遊んでばかりでいいと思っているの?」
 叔母は双葉に説明を求めてはいなかった。
 ただ双葉が家事を投げ出して帰って来ないことだけを責めている。当然だ、拾ってもらった双葉は自分の仕事として割り振られた家事を熟されなけれいけない。家事もせずに遊び歩いているなど、責められても仕方がない。
 今からでも帰れないかと思案した。しかし、おもてなしをすると言ってくれた叶野を裏切って帰るわけにはいかない。
「すみません」
「あんたって、謝ることしかできないわよね。本当に役立たず……」
 急に手に持っていたスマホが奪われ、叔母の声が遠くなった。
 はっとして横に視線を向けると、雨音が無表情でスマホを耳に当てていた。
「お電話変わりました。久我と申します。双葉さんには日頃からお世話になっております」
 叔母に向かったつらつらと話し始め、双葉がぎょっとした。
「双葉さんには家の者を見てもらっていまして……ええ、はい。もちろん、お礼はいたします。説明も後日必ず。今日の所は、このまま双葉さんには泊まってもらいます。はい、わかりました。では、失礼します」
 調子の良い声で喋ったあと、雨音は電話を切った。
 そして、眉間にぎゅっと皺を寄せると「最悪だな」と吐き捨てた。
「今日は泊まって」
「え」
「あんな女のところに双葉を帰したくなくなった」
 腕を優しく取られ目を見つめられながら言われると帰らない方がいいんじゃないかと思ってしまう。しかし、明日は朝から溜まった洗濯物や食器を洗ったりしなくてはいけない。それにゴミ出しもある。泊まっていくわけにはいかない。
 そう言おうとした双葉の目の前で、突然雨音が狐の姿に変わった。
「双葉」
 目を見開いて固まる双葉に雨音は小首を傾げて甘えるような声で言った。
「お願い、帰らないで」
 狐の姿で懇願されると断れないと思われているのだ。そう分かっていながら双葉はつぶらな瞳で見つめられ、ふわふわで温かな肉球で包まれると断ることなどできない。
 これが俗に言うあざといというものだろう。
「叔母さんには俺から許可は取ったから、あとは双葉が頷いてくれるだけなんだけど」
 叔母さんがいいと言ったのなら双葉が拒否する理由はなかった。
 頷くと、雨音がぱっと狐から人間の姿へと戻った。肉球と毛の感触が失われ、少しだけがっかりした。
「雨音様、双葉様、夕食の準備が整いました」 
 襖の外から聞こえてきた声に雨音が応える。すると叶野達がお盆を持って入ってきた。小鉢に入った料理が次々に目の前に並んでいく。どれも美味しそうだ。
 双葉と雨音の前にご飯を並べ終えると、叶野は軽く料理の説明をして部屋を出て行った。
「どれから、食べたら」
「俺はこれが一番おすすめ」
 隣に座る雨音が差したのは、魚の煮つけだ。狐だから魚が好きなのだろうか、と思った双葉の心の内を覗いたように雨音が言う。
「狐でも味覚は人間と一緒だよ」
「あ、そうなんですね」
「あやかしといっても人の姿の時は人間とそう変わらない。ただ嗅覚は人よりも鋭いかな」
 そう言うなり雨音は双葉の方へと顔を向け、すんと鼻を鳴らした。双葉の匂いを嗅ぐような仕草に双葉は、小さく「わっ」と声をあげて飛びのいた。
「な、なんで、いま、においを?」
「ごめん、嫌だった?」
 雨音は困った様子で眉を下げた。
「嫌とかじゃないです。ただ急だったのでびっくりしました」
「急じゃなかったら良いってこと?」
「ちがっ、良くないです」
 ぶんぶんと首を振る。
 どうやら雨音はパーソナルスペースが狭く、スキンシップが激しいみたいだ。しかし、双葉は今まで男性と親密な関係になったことがないので、接触など緊張してしまって無理だ。
「緊張してしまうので、そんな簡単に近づいて来ないでほしいです」
 顔を真っ赤にしながら言う双葉に雨音はにっこりと笑って、
「それじゃあ、慣れていこうね」
 と距離を詰めて来た。
 一気に近くなった距離に食事処ではなくなってしまった。
 まず雨音が必要以上に近くにいるのがよくないと思ったので離れようと試みるが、腰を手を回されて叶わない。
 あまり動くのは作法的にまずい気がして抵抗も出来ずに箸を握りことしかできない双葉の耳にふっと笑い声が入ってきた。
「ごめん、そんなに固くなるとは思わなかった」
 視線を向けると雨音が悪戯が成功したような顔をしていた。
「か、揶揄ったのですね」
「反応が可愛くて、つい」
「か、かわいい……?」
 双葉は首を傾げた。
 可愛いというのは双葉ではなく、愛華のような子に相応しい言葉である。自分に向けられていい感情ではない。きっとまた揶揄っているのだろうと冷静に判断して首を横に振った。
「私を揶揄っても面白くないですよ」
 淡々と告げるつもりだったが、顔は真っ赤で声も上擦っている。
「揶揄ってなんかない。今度は本気で言っている」
「え」
 雨音と視線が合った。じっと見つめて来る目には確かに揶揄いの類は見あたらない。本気で双葉を可愛いと思っているようで、驚く。
「これからいやというほど知って行けばいい」
 そう言うと固まる双葉の頭を撫で、密着していた体を離して食事を始めた。
 双葉もどうにか平静を保ち、おすすめと言われた魚の煮つけを口に入れた。
「美味しい」
 魚は驚く程柔らかく、口に入れた瞬間解けた。そして口いっぱいに柔らかい醤油の味が広がる。
 こんな美味しい料理を食べるのは初めてだった。双葉は雨音が隣にいる緊張など忘れて食事に夢中になった。

 食事が終わると、叶野から着替えを貸して貰い風呂に向かった。案内された大きな檜の風呂は浴槽だけでも双葉の部屋よりも広く、温泉みたいだった。
 風呂から上がるとそのまま部屋まで案内され、通されたのは庭に面した十畳の和室だ。奥に深い色味の茶箪笥、同じ色の文机が置いてあり、中央には既に布団が敷いてある。ここでは双葉は完全に客人で、何をしなくても全てが用意された。そんなこと初めてだったので双葉は喜ぶよりも先に申し訳なさと若干の居心地の悪さを覚えていた。
 ここにいても良い理由がない。
 双葉の人生は、両親が死んでからは労働と共にあった。
 家事は双葉があの家にいてもいい理由だ。家事をしなければいていけない。いる意味がない。
 何もすることがない久我家にいる意味がないような気がしていた。帰りたくないのに、帰ったほうがいいような気になって来る。食べ物は美味しく、久我家の皆は優しく、楽しいはずなのに嫌な焦燥感が消えてくれなかった。
「はあ」
 双葉は眠る気になれず庭に面している襖を開け、縁側に出る。
 庭には必要以上に高い木が立っていない。先日まで咲いていた藤の花も既になくなっていて、空が綺麗に見えた。星が降って来そうなほど近い。
「綺麗……」
 ぼんやりと飽きるまで空を見つめていた。
 ぎし、と木の軋む音にはっとして視線を横にずらすと、向こうから歩いてくる人影が見えた。
「眠れないの?」
 月明かりに照らされた雨音は殆ど足音を立てずに歩く。
「目が冴えてしまって」
「それなら散歩でもする?」
 そう言って差し伸べて来た手を双葉は少しだけ悩んでからとった。
 雨音の手は双葉のそれよりもずっと大きく、寝間着姿でも筋肉がつているのが分かるのに手を引く強さは優しい。雨音に連れられるまま縁側から移動し、外履きのスリッパが置いてある場所から庭に降りた。
 そのまま向かった先にあったのは二メートルくらいの鳥居が立っていた。最初に久我家に来た時に通った鳥居よりもずっと小さく、人ひとりがやっと通れるくらいの幅しかない。
 鳥居の中には庭園が広がっていた。色とりどりの鯉が泳ぐ池に赤い橋が架かり、美しく見えるように剪定された松や躑躅の木が余白を埋めている。完成された情景に圧倒されて双葉はしばし茫然とした。
「わあ」
 入る前から目を輝かせる双葉に気を良くした雨音が手を引いて鳥居の中に入る。
「綺麗……」
 双葉がぽつりと呟く。
「気に入ったみたいで良かった」
 景観を眺めながら橋の方へ歩いて行く。橋から見下ろした池には鯉が悠々と泳ぐ姿が良く見えた。月明かりにしては明るい気がして見上げるとぽうっと火の玉が浮かんでいた。
「えっ」
 驚いて飛び退きそうになった双葉の手を雨音が引いて止める。
「大丈夫だよ。これは狐火って言うもので、俺達妖狐の得意技みたいなものだから。双葉を傷つけたりしない」
 雨音が手の平を上に向けると、火の玉はそろそろと寄ってきて手に触れる前にぴたりと止まった。
「熱くないんですか?」
「触らなければ大丈夫」
 雨音の手から離れた火の玉がふわふわと宙に舞う。視線で追いかける双葉に雨音が言った。
「久我家は怖くはない? あやかしの世界は人とは違うでしょう」
「私が生活している場所とは違いますけど、怖くないです」
 久我家よりもずっと双葉の生きている叔母の家の方が恐ろしい場所だった。
「そうか、双葉にとって生きやすい場所なら良かった」
 そう言う雨音の瞳は穏やかに細められてる。
 優しい目にどきりとする。
 それと同時に戸惑いを覚えてしまう。何故、そこまで双葉を気にかけてくれるのだろうか。
「私は、皆さんに良くて貰う理由がわかりません」
 気持ちを正直に伝えた。
「妖狐にとって婚儀が大切って説明はしたよね? 力の制御ができないから人に紛れて暮らせなくなってしまう。だから婚儀を成功させた双葉に家の者は恩義を感じているんだ」
 双葉が想像できないぐらい婚儀というのもは大変で、厄介なのかもしれない。
 何か大きな仕事をやり遂げた感覚はなかったがのでいまいち自覚がなかったが、久我家の皆の対応が易しい理由は分かった。
「まぁ、俺はそれだけじゃないけど」
 雨音はふっと息を吹きかけ、火の玉を消した。
 月明かりに照らされた雨音の目が双葉を見下ろす。
「最初は婚儀が終わったら離れすつもりだった。どうせ久我家の地位につられて連絡してくるかもなんて最低なこと考えていたのに双葉は連絡して来なくて驚いた。それに共有する感覚がずっと悲しげだったのが気になった。一緒にいたら助けてあげられるのにとか考えるようになってさ。本当は先週迎えに行こうと思っていたんだ。けど、仕事で行けなかった。ごめん。もっと早く行けばよかった」
 雨音は後悔している様子でぎゅっと顔を顰めた。
 叔母との電話を聞いていた彼は双葉が何に苦しんでいるのか既に知っているようだ。
 同情してくれているのだろう、と分かり申し訳なさに胸が苦しくなった。
「双葉、しんどい?」
 雨音に問われ、はっとする。
 感覚の共有されているので、感情が雨音に流れているのだろう。心配して顔を覗き込んでくるので、何とか取り繕おうとした双葉の手を雨音が引いた。
「わっ」
 急に引っ張られ、たたらを踏んだ双葉の体は温かい熱に包まれる。雨音の腕の中にいると気づいた。
「す、すみません」
 慌てて離れようと見上げた先で近い距離にある緑色の瞳と目が合った。
「しんどいなら無理しなくていい。大丈夫だから」
 そっと背中を撫でられ、じわりと涙が滲む。
 それは叔母や愛華に辛く当たられ、自室で蹲っている時に感じた温もりと一緒だった。
「辛い時にひとりにしてごめん」
 掠れた声に何度も首を振った。
 妖狐たちは双葉に助けられたと言うが、それは双葉だって一緒だった。雨音の温もりのおかげで笑えた日もあった。苦痛に耐えられた日もあったのだ。
「ありがとうございます」
 涙で濡れた声で言った後、そっと体を離そうをした。
「ん?」
 力強く抱きしめられ離れられない。
「あの……」
 困惑しながら顔を上げ、至近距離で雨音と目が合う。
 雨音の口がゆっくり開いた。
「双葉、俺と本物の夫婦にならない?」
 呼吸すらできなくなった。
 何を言われたのか分からず、瞬きを繰り返す。
 夫婦になろうと言われた。夫婦とは何だったろうか、夫婦って。
「え?」
「俺と結婚してほしい」
 もう一度後押しするように告げられた一言は、冷静になりつつあった双葉の思考にすぐに届き、状況を把握する手助けとなったが、同時に混乱の渦を巻き起こした。
「け、結婚ですか? どうして、なんでですか?」
「落ち着いて」
「落ち着けません」
 プロポーズされたのはわかる。しかし、その理由はまるで分からない。ぐるぐると思考だけが回った双葉はパニックになり、真っ赤な顔のまま何とか雨音の腕から逃れ、一歩だけ足を引く。
 頭の中はちっともまとまっていないのに、唯一頭に浮かんだのは罰ゲームでの告白劇とそれをクラスメイトや愛華に馬鹿にされたことだ。
「か、揶揄っていますか?」
 だから、つい聞いてしまった。すると、すっと雨音の表情が強張った。
 怒らせたかもしれない、とひゅっと喉が鳴る。
「俺は揶揄ってプロポーズ何てしない」
「そ、そうですよね。すみません」
 雨音のような大人がそんな幼稚なことをするはずがないのだ。
 真摯な態度の雨音に酷い言葉をかけてしまった。しゅん、と落ち込む双葉の頭を大きな手が撫でる。
「起こってないよ。会ったばかりなんだから疑うのも仕方ない。でも、結婚したいのは本当だから受け止めてほしい」
「どうして私なんかと」
 双葉の言葉に雨音がむっと顔を顰める。
「私なんかなんて言うな。俺はずっと一緒に生きて行くのなら双葉が良い」
 双葉がいい、などと言われたことは今までで一度もない。ずっと愛華と比べられ、見下されているだけの人生だった。雨音は愛華と会ったことがないからそんな風に言うのだろう。そう思うのに嬉しくてたまらなかった。
 つんと鼻の奥が痛くなり、また泣きそうになった。
 言葉が喉の奥で詰まって声が出ない双葉に雨音が言葉を続ける。
「双葉からしても悪い話ではないはずだよ。結婚すれば、あの家から出られる」
 はっとした。雨音の言う通り久我家に嫁入りすれば叔母の家で世話になる必要はなくなり、叔母達は双葉というお荷物がいなくなって清々するだろう。双葉も叔母達の家で苦しい生活から逃れたいとずっと思っていた。
 願いが叶う甘美な提案が目の前にぶら下げられている。
「もちろん、すぐに結婚しなくても婚約いう形でもいい。その期間ずっとここにいてほしい。双葉をあの家に帰したくない」
 お願い、が甘えるような声で言う。狐の姿でなくても雨音の小首を傾げた姿は心に刺さるものがある。何でも許容してしまいそうだ。
 結婚などすぐに答えが出せるものではない。相談をする友人などいないので、ひとりで考えなければいけないが、兎に角今は時間が欲しかった。
「返事はまたでいいから。双葉が納得するまで待つよ」
 ふわりと頬を撫でられ、温かい温度に身を寄せた。このまま頷いてしまいたいと甘えた自分が訴えかけるが、それでは流されたようで嫌だった。
「必ず、返事をします」
 双葉はなんとかそれだけ返すことができた。
 翌日。布団の上で目を覚ました双葉は寝起きでぼうっとしながら辺りを見渡し、首を傾げた。
 ここどこだっけ、と不思議に思ったのは一瞬で、すぐにじわじわと昨夜の記憶が蘇って来る。
 庭園で雨音に結婚を申し込まれた。幻想的な光景も相まって現実とは思えなかったが、抱きしめられた感触も手を繋いだ時の体温も覚えている。まさか自分なんかがプロポーズされるなんて想定していなかった。
 予定外のことばかりで、昨日はすっかり疲れてしまったらしく、眠りは深かった。
 はっとして時計を確認する。時刻は既に八時を回っていた。いつも六時には目を覚ましている双葉からしたら二時間の寝坊である。飛び起きたタイミングで襖の外から声がかかった。
「双葉様、おはようございます」
 叶野の声だ。
「おはようございます、あの、すみません、起きるのが遅くなってしまって」
「遅くないですよ。もっとゆっくりしていてください。着替えをお持ちしましたので、部屋の前に置いておきますね」
「はい、ありがとうございます」
 ぼさぼさの髪を手で梳かしながら応答する。こんな姿で人前に出るわけにはいかないので叶野の気遣いは有り難かった。襖を開けるともう既に叶野の姿はなく、部屋の前にぽつんと薄ピンクのワンピースが置いてあるだけだ。
 ワンピースは滑らかな肌触りで一目で質が良いとわかるものだ。双葉の私服は全部愛華のおさがりなので、自分のために用意された服を着るのは制服以来だ。緊張しながら袖に腕を通す。無駄な装飾の無いさらりとしたワンピースで、腰のところでふんわり広がっている可愛らしいシルエットをしている。長さも脛まであり綺麗目な印象だ。
「可愛い」
 思わずぽつりと零した、その時。
「双葉、おはよう。起きているか?」
 襖越しに聞こえて来た雨音の声にびくりと肩は跳ねた。
「は、はい。おはようございます。起きています」
「入ってもいいか?」
「えっ」
 双葉は自身の姿を顧みた。
 服は着替えているが、顔は洗っていないし、髪もまとまっていない。それに布団が敷きっぱなしで恥ずかしい。こんな姿では会えない。
「ちょっと待ってください、まだ、起きたばかりで身だしなみが全然整っていなくて、それに布団も」
「布団は叶野達は片付けるからそのままでいい。一緒に朝食へ行こうと思って声をかけたんだけど、無理そう?」
 残念がる声色に双葉は慌てた。
 恥ずかしいからと突っぱねるのは失礼にあたるのではないか。しかし、いつもよりもずっとぐちゃぐちゃの見た目で現れたら幻滅されそうで怖い。その葛藤の末、双葉は言葉を搾り出した。
「朝食の前に、顔を洗って来ても良いですか?」
「勿論。場所の案内をしよう。おいで」
 叶野か、別の女中に案内してほしかったが、そんな我儘は言えず、意を決して襖を開けた。恐る恐る視線をあげると穏やかに微笑む雨音と目が合った。
「よく眠れた?」
 不意に伸びて来た手が双葉の髪を掬い、耳に掛ける。明らかに寝起きな双葉の顔には何も言わずに雨音の視線は着ているワンピースに向けられた。
「その服、良く似合っている。可愛い」
 頬をくすぐるように撫でられ、居た堪れなさでかっと顔が赤くなった。
 赤面した顔を見られたくなかったので、俯いて顔を隠す。雨音は最後に頭を一撫でして手を離した。接触がなくなり安堵の息を吐く双葉の手に熱が降れ、指が絡まる。
「行こう」
 指先をきゅっと握られ、鼓動が早すぎて倒れてしまいそうだった。
 久我家に来てから叔母の家にいた時とは違う意味で心が休まる時間が無い。
 雨音に手を引かれて行った洗面所で顔を洗うとすっきりした。てきぱきと身だしなみを整え、洗面所の前で待っていた雨音と昨日食事をとった部屋に向かった。机の上には既に料理が並べられ、にこにこと笑顔の叶野がお盆を持って立っていた。
「叶野さん、おはようございます。朝食を用意していただきありがとうございます」
「頭を上げてください。私達は当然のことをしているだけですよ」
 叶野は尚もにこにこしている。その視線が繋がれている双葉と雨音の手に向けられていることに気が付く、慌てて離そうとした。しかし、雨音にぎゅっと手を握られて阻止される。
「仲が良いようで安心いたしました」
「あ、いえ、これは」
 否定、するのも変な気がして言葉が紡げないでいる双葉に対し、雨音は繋いている手を上げて得意げに笑った。
「ああ、昨日プロポーズもしたからね」
 その途端、叶野が大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
 婚儀はあくまで当主が襲名するために必要だっただけで、結婚相手となると双葉は久我家には相応しくないと考えているのかもしれない。双葉の思考はどんどん沈んでいく。親切にしてくれた叶野に暴言を吐かれたら泣いてしまうかもしれない。双葉は傷が少しでも浅いように身構えた。
「結婚式はいつにしますか?」
 双葉の予想に反して叶野は目を煌めかせて感動していた。
「双葉様の衣装はぜひ私に選ばせてください」
 逸る気持ちを抑えられないといった風に叶野が早口で言う。雨音が窘めるように首を振った。
「気が早い。まだ答えはもらってないんだ」
「そうだったんですね。雨音様、答えをもらっていないのにプロポーズしたなどと吹聴してはいけませんよ。勘違いする方もいらっしゃいます」
「そうだね」
 叶野が窘めたが、雨音が気にした様子もなく双葉の髪に顔を寄せた。
 雨音は後からやって来た真澄や他の女中にも同じことを言い、食事を完食する頃には久我家の中で双葉がプロポーズされたのを知らない者はいなくなっていた。
「外堀を埋められていますね」
 隣に来た女中がこっそりと言った。その女性は女中の中で一番小柄で、婚儀の際に化粧を施してくれた狐だ。
「外堀?」
「断られないように周りから囲っているんですよ。双葉様、嫌なら断っても良いんですよ。決定権は双葉様にありますからね」
 どういう意味かは分からなかったが、選択権を与えられていることは分かった。
 断ってもいいと言われたが、どうしていいかわからない。結婚したいかと問われると首を傾げてしまうし、かといって断りたいわけではない。ただどうしても雨音と釣り合わないと思ってしまうのだ。自身の思考に没入していた双葉は雨音の声にはっとした。
「買い物に付き合ってくれない?」
「私とですか?」
「勿論。デートに行こう」
 にこやかに頷かれながら言われた一言に緊張感がぶり返した。
「で、デート」
 デートをするなど人生で初めての体験だ。
「嫌?」と首を傾げられ、慌てて否定する。
「嫌なんかじゃありません。でも、私はあまり買い物とかお出かけをしないので、一緒にいてもつまらないかもしれません」
「そんなことはない。双葉は俺と一緒にいて退屈だと感じるか?」
「感じるわけないです」
 双葉の答えがお気に召した様子で雨音がにこやかに笑う。
「俺も一緒だ。つまらないなんて思わないよ。さて、それじゃあ行こうか」
 雨音と双葉は食事を終えると、雨音の車で出かけた。

 出かけた先は駅前のデパートだった。
 双葉はデパートに来るのが初めてだったので、店内できょろきょろと落ち着きなく辺りを見回しながら歩く。
「何か、欲しい物があるのですか?」
 隣を歩く雨音に声をかけると、雨音は「向こうに」と言いながら双葉の手を引く。
 そこはアクセサリーの店だった。
 ピアスやネックレスの他に、どこにつけるのか分からない不思議な形状のものまで売っている。
 可愛くてキラキラしているアクセサリーなどつけたこともない双葉は興味津々にアクセサリーを見つめるが、手に取ろうとはしなかった。そんな双葉をじっと見つめていた雨音がその中からひとつ手に取って双葉に見せた。
「これなんか双葉に似合うと思う」
 雨音の手には透けるような桃色の花飾りが付いたヘアゴムだった。
 そんな綺麗なヘアゴム似合うわけがないと思うが、否定すると雨音のセンスを疑っていることになる気がして何も言えなくなってしまう。
「買ってくる」
 雨音がレジに向かおうとするので慌ててその腕を取って止めた。
「ま、待ってください。そんな、申し訳ないです」
「俺が送りたいんだけど、駄目? いらない?」
 雨音は甘えるように小首を傾げる。その姿に双葉はうっと言葉を詰まらせる。
 その顔をされるとつい駄目じゃないと言ってしまいそうになるが、無駄遣いをさせるわけにはいかないと自身を奮い立たせる。
「着ける時がないですし」
「俺の前で着けてくれればいい」
 間髪入れずに答えられる。
「わ、私には似合いません」
「双葉が似合わないなら誰も似合わないよ」
 そんなわけない。そう思ったが、雨音の真剣な顔を見て本気なのだと察した。
 そして、恐らく双葉が何を言っても購入する流れるなることも分かった。
「駄目か?」ともう一度聞かれ、今度は否定できず「駄目じゃないです」と答えた。
「じゃあ、買ってくる。ここで待っていてくれ」
「はい。ありがとうございます」
 雨音がレジへ向かう。
 まさか買ってもらうことになるとは思わなかった。申し訳ない気持ちと少しだけ、嬉しくなった。似合う気はしないが、あんな綺麗なら眺めているだけでも満足しそうだ。
 そう思いながら、出来心でそろりと値段を確認した。
「え」
 ぎょっと目を剥く。
 予想よりも丸が一個多い。デパートの商品は高いと聞いたことがあるが、ここまで高いなんて考えもしなかった。
 どうしよう。やはり買うのを止めた方がいいだろうか。
 そうレジに立つ雨音に視線を向けた時、不意にひそひそと声が聞えて来た。
「あの人かっこいい」
「ね、でもさっき、女の人といたよ。ほら、あの人」
 そんなことを囁いている女性ふたりがかっこいいと噂しているのは、レジに並ぶ雨音のことだ。次に女性達の視線は双葉の方を向いた。急に視線を向けられ、そっと俯く双葉の耳に信じられにといった様子の声が入ってきた。
「ええ、あれが彼女? ださ」
「妹とか? 顔違いすぎるか。え、本当に彼女なら釣り合ってなさすぎでしょ」
 嘲笑うような言葉の数々にかっと顔が赤くなる。
 釣り合っていない。その通りだ。
 雨音は誰が見ても美しい見た目をしているのに関わらず、双葉はどこまでも凡庸、いやそれ以下だ。
 周りをよく見ると店にいる人は皆着飾っていて、自信に満ち溢れている。そして、その中には雨音に熱い視線を向ける人もいた。
 彼女のような人達ならば雨音に釣り合っているのだろう。彼女達と真逆を生きる自分はこの場にいるのすら場違いな気がした。
「あれ、双葉ちゃんじゃん?」
 自身の名前を呼ばれ、はっとして視線を向けた。
 そこには数人の男女が立っていた。私服だったので一瞬誰か分からなかったが、すぐにクラスメイトだと気が付く。中には罰ゲームで告白をしてきた田辺やその友人達もいた。
「えー、こんな所で何してんの? 双葉ちゃん」
 双葉ちゃん、なんていつもは呼ばれない呼び方に口元が引きつる。
 こんな所で会うなんて思っていなかった。
「え、無視?」
 女子生徒の馬鹿にしたような言い方に慌てて口を開く。
「人と買い物に」
「え、愛華ちゃんと?」
「いえ、違います」
 否定すると分かりやすく落胆の空気が広がる。
「なんだよ、愛華ちゃんいると思ったのに」
 ああ、そうか。と双葉は納得した。
 親しくもないク双葉に話しかけた理由は愛華目当てだったからだ。愛華と双葉が一緒に買い物になんて行くわけがないのに。
「ていうか、アクセサリー何てつけるの? 篤、買ってあげたら?」
 クラスメイト達の視線が田辺へ向けられた。すると田辺は嫌そうに顔を顰める。
「は? なんで買わないといけないんだよ」
「お前ん家、金持ちなんだからいいじゃん」
「いいわけないだろ」
 友人の言葉に田辺がため息を吐く。
「あはは、あんまり揶揄うと可哀想だよ。罰ゲームの告白も真に受けちゃうような子だよ?」
 乾いた笑いが辺りを包んだ。
 何故笑われているのか、何が面白いのかまったくわからなかった。それは罰ゲームの告白すら真面目に答えてしまう双葉が悪いのだろうか。
「ていうか良かったんじゃない? 告白なんて今後されることないでしょ? 記念にしなよ」
 見下した視線や口調に視線が下がる。反論も出来ない双葉を嘲笑する声がする。
 悔しい、恥ずかしい。ここからいなくなりたい。そう双葉が唇を噛みしめた時だった。
「双葉、待たせてごめんね」
 ふわりと腰を抱かれた。
 驚いて視線を向けると会計を終えた雨音が双葉に向かって微笑んでいた。
「暗い顔してどうしたの? 寂しかった?」
「えっと」
 言葉が出て来ない双葉を残して雨音の視線はクラスメイト達に向けられた。
「誰?」
 底冷えするような冷たい声に驚く。怒りを含んだそれが双葉に向けられたものではないことは分かったのに、ぞくりとした。
 視線を向けられたクラスメイト達が強張った顔をしていたが、双葉を揶揄って遊んでいた筆頭の生徒は取り繕う様に口元に笑みを浮かべた。
「ええ、なんすか、もしかして双葉ちゃんの彼氏?」
「そんなわけないじゃん」
 女子生徒が顔をぽっと赤くさせて否定する。
 何故双葉ではなく事情も知らない生徒が答えるのか分からず首を捻る双葉。
「彼氏って言うか、婚約者」
 雨音が何でもないように答えた。
「え」
 驚いたのは生徒だけではなく、双葉もだった。
 プロポーズはされたが、婚約した覚えは全くない。これが外堀を埋められるということだろうか。
「え、釣り合ってない」
 思わずといった風に誰かが言った。その途端、雨音の顔に分かりやすく怒りが見えた。
「は? 誰に向かって言ってんの、お前」
 空気が冷たく、張り詰める。
 雨音が再び口を開こうとした途端、生徒達は顔を青ざめて蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。
「ちっ、逃げ足だけは早いな」
 雨音は舌打ちをしてすぐに腕の中にいる双葉を心配そうに見下ろす。
「遅くなってごめん、なんともない?」
「大丈夫です。慣れているので」
 口に出してから言うべきではなかったと思った。雨音の顔には剣呑な表情が浮かんでいた。
「慣れているって、どういうこと?」
「えっと」
「ああいったことが日常的にあるの?」
 詰め寄られ、誤魔化すことが出来なかった双葉は仕方なく話すことにした。しかしデパート内で話し込むわけにはいかないので、そのまま帰宅した。
「さあ、話してもらおうか」
 そうやって正座をする雨音に双葉は罰ゲームで告白をされ、それ以降執拗に揶揄われるようになったと打ち明けた。
 話している最中雨音の顔はずっと凶悪で、怒りが自分に向けられているわけでもないのに双葉は縮こまった。
「そうか」
 聞き終わった雨音は低くそう言った後、にこりと微笑んで腰を上げた。
「双葉、ちょっと出て来るから待っていてくれるか?」
「え? ど、どこへ?」
 笑顔なのに纏う雰囲気には怒りを隠せていない。冷や汗を掻きながら問うと雨音は何でもないように言った。
「大丈夫、ちょっとあのガキども消してくるだけだから」
 全然大丈夫ではない。
「ちょっと待ってください。だめ、だめです!」
「ちゃんと証拠は残らないようにするから安心して任せてくれ」
「何も安心できないです!」
 部屋から出て行こうとする雨音の腕に縋りついて止める。
「嘘の告白だって分からなかった私が悪いんです。自分が告白を受けるわけないのに自意識過剰だったから」
 そう双葉が言った途端、雨音がぎゅっと顔を顰めた。そして双葉の傍に腰を下ろすと目線を合わせる。
「双葉が悪いわけない。罰ゲームなんかで告白した挙句、馬鹿にするなんて言語道断だ。双葉は何も悪くないから、自分が悪いなんて言わないで」
 さらりと頬を撫でられる。
 雨音はそう言うけれど、クラスメイトも愛華も、そして叔母さん達も双葉がおかしいと言うのだ。簡単に頷けない。
「告白は好きな人にするものだよ。双葉は真摯に対応しただけで馬鹿にされていいわけない」
 優しく諭され、双葉はきゅっと口を引き結んだ。
 雨音の優しい言葉がただただ嬉しかった。自分を否定しないでいてくれるのは有り難かった。
「今度何か言われたり、されたらすぐに言うんだよ。俺がすぐに相手を消してやるからね」
 なんて怖いことを言うのは止めて欲しい。双葉は首を振った。
「もう大丈夫です」
 何を言われても雨音の言葉を思い出せば、何を言われても平気な気がした。
 デパートから返って来た後は外出は止めて屋敷内の案内をしてもらった。
 広い屋敷内は全てを把握することはできない。
 見たこともない女中や着物姿の男性とすれ違うので、廊下の隅に寄って避けようとすると雨音に手を引かれた。曰く、当主と婚儀を結んだ相手が避けるのはおかしいらしい。実際、双葉が避けずとも相手がさっと廊下に寄り、頭を下げて来た。
 当主である雨音が家の中で一番偉いので当たり前なのだが、双葉よりもずっと年上の人に頭を下げられるのは落ち着かない気分になった。
「当主様は何歳なのですか?」
「二十四だよ」
 屋敷の中を歩きながら雨音に質問を投げかける。
「お仕事は何をされていますか?」
「久我グループの社長。因みに今日と明日は休み」
「え?」
 双葉は足を止めた。
 久我グループと言えば双葉でさえも知っている大企業だ。
 あやかしは人に紛れて生活していると説明は受けたが、まさか社長をしているとは思わなかった。
「俺からも質問していい?」
 雨音も足を止めて双葉を見つめながら言った。
「双葉はいつまで俺を当主様って呼ぶの?」
「いつまでと言われましても」
「……名前は憶えているよね?」
 恐る恐ると言った風に問われ頷くと雨音は安心した様子で息を吐いた。
「じゃあ、名前で呼んで。当主様なんて役職名よりも名前で呼んでほしい」
 改めて呼ぶとなると緊張する。じっと見つめられると唇が震えた。
「あ、雨音様」
 ぽつりと呟く。声に乗せると急に恥ずかしくなった。
「うん、これからはそう呼んで」
 赤くなった顔を隠す様に俯く双葉の手を取った雨音は上機嫌に廊下を歩いて行く。双葉もそっと微笑み、話をしながら屋敷を散策した。
 ふわふわと浮き足立つような時間はあっという間に過ぎていき、空が赤く染まり出した頃。双葉は震えそうになる声で申し出た。
「では、そろそろお暇します」
 帰りたくない、と顔に出てしまいそうだったので、深く頭を下げた。
「何言ってるの。今日も泊まっていけばいい」
 返ってきた言葉に驚いて顔を上げた。
「俺は明日も休みだから相手をしてほしいんだ。駄目?」
 駄目、なんて言えなかった。
 結局叔母の家に雨音が連絡を入れ、もう一日泊まった。夕食を済ませ、風呂に入って後は寝るだけと布団が敷かれた部屋に向かっている途中で雨音に呼ばれ、昨日と同じように庭を歩きながらたくさん話をした。
 ふわふわと幸福感を抱えながらその日は眠り、この穏やかな日常がもう一日続くのだと顔を綻ばせながら目を閉じた。

 翌日、昨日よりもずっと早く目を覚ました双葉は叶野が用意した服を着て、雨音と共に食事をとった。
 働かなくても何でも出てくるという状況に中々慣れず居心地の悪さを感じる。食事は美味しいのだが、働かざる者食うべからずだと雨音に言ったところ。
「それだと俺も食べられないよ」
 と笑われた。
「雨音様は働いていらっしゃいますけど、私は惰眠を貪るばかりで」
「よく食べて、よく寝ているなんて偉いな」
 苦悶の表情を浮かべる双葉の言葉を雨音はうんうんと頷いた。そんな子供に言い聞かせるような褒め方をしないでほしい。
 これ以上は何も言っても取り合ってくれなさそうだ。それに素人の双葉が家事をしても邪魔になってしまうだろうから言及は止めて運ばれて来た食事を前に手を合わせた。
 食事を済ませ、今日は何をしようかと話していた時だった。
「雨音様、失礼します」
 そう言いながら部屋に入って来たのは真澄だ。その顔には焦りの色が浮かんでいる。
「どうした」
 雨音が短く問う。
「梓様がいらっしゃっています」
「は?」
 雨音は見たことが無いくらい顔を歪め、舌を打った。
「何の用だ? いや、何の用でもいい。追い返せ」
「そう言われましても……」
 真澄が困ったように眉を下げた。
 不意にどたばたと銅像しい声と廊下を歩く音が聞こえ、真澄はぎょっと目を見開き、雨音は更に顔を顰めた。
 双葉は迫りくる音と警戒するような室内の雰囲気に呑まれ、体を縮みこませた。双葉の不安を感じ取ったらしい雨音に抱き寄せられ、大きな体にすっぽりと収まったタイミングで襖が音を立てて開いた。
 部屋の前にいたのは、ふわふわの髪をした妖艶の女性と背の高い男のふたり組だ。どこをとっても美しい女性は垂れ目がちの目で室内を見回し、双葉で視線を止めると口を開いた。
「貴方が雨音の結婚相手?」
 落ち着いた声で問われ、反射的にこくりと頷くと女性は片方の眉を器用に上げ言った。
「なによ、芋女じゃない!」
「いもおんな?」
 言葉の意味が分からず首を傾げる双葉の隣で雨音が勢いよく立ち上がる。
「何を馬鹿なことを言っている。撤回しろ」
「嫌よ。私は事実を言っただけだもの」
 女性はつんと尖った態度でそっぽを向き、その態度に更に雨音の怒りが増大した。
「双葉は飾り気がないままで魅力的なんだよ。お前みたいな化粧くさい女と違ってな」
「はあ? 化粧くさいって何よ、あんたの鼻がおかしいだけでしょ。ああ、目も可笑しいわね」
 ふたりの言い合いは次第にヒートアップしていく。自分が話題の中心だと分かっているのだが、間に入っていける雰囲気ではなく呆然と見ていることしかできなかった。
 それにしても声を荒らげている雨音は双葉と共にいる時よりも子供っぽい。もしかしたらこっちが素かもしれないと思っていると女性と目が合った。
 雨音はまるで双葉の方が女性よりも魅力があるように言っていたが、とんでもない。女性は爪の先まで綺麗に整えられていて、双葉とは比べようもない。
 双葉はずっと愛華がこの世で一番綺麗な子だと思っていたが、それが一気に覆った。
「どうした、双葉。不愉快で気分悪いか? 直ぐに追い出すからな」
 ぼうっと女性を見つめる双葉に気付いた雨音が心配そうに背を撫でる。
 その言葉に首を振り、
「こんな綺麗な人見たの初めてです」
 ぽつりと呟いた。
 空気が固まった。雨音は困惑しながら何度も瞬きを繰り返し、女性は大きく目を見開いたあと、ふっと口元を緩めた。
「あら、貴方は見る目があるわね。でもね、私は人ではないわ、美しいあやかしね」
「あやかしなのですか?」
 問うと女性は誇らしげに頷いた。
「そうよ。私もそこの男と同じ妖狐。狐崎梓よ。こっちは執事の環」
 梓は自身と隣に立つ男を指さした。環と呼ばれた茶髪の長身の男は無表情のまま会釈をする。
「それで、貴方は?」
「作野双葉です。よろしくお願いします」
 梓は双葉に顔を寄せた。ふわりと柔らかい女性特有の良い匂いが鼻腔を擽る。とてもいい匂いがした。
「ふーん、貴方素材はいいわね。どう? 化粧とか興味ない?」
「止めろ、双葉に絡むな」
 ぐいっと抱き寄せられ、梓から距離が出来る。背後に視線を向けると雨音が不機嫌そうに梓を睨んでいた。
「あんたに止められる筋合いはないわ。ねぇ、双葉。私が貴方をとびっきり美しくしてあげるわ。どう?」
 梓の提案はあまりに魅力的だった。
「お願いします」
 魅力などない自分でも、梓の手にかかれば恥ずかしくないぐらいには綺麗になれるのではないか、と希望が沸く。
「双葉はそのままで魅力的なのに」
 雨音がぐり、と額を擦り付けてくる。甘えるような仕草と繋がっている心から本気だと分かる。
 しかし、だからと言って今のままでいいとは思えない。
「ありがとうございます。でも、誰から見てもおかしくないようになりたいのです」
「どうして? やっぱりクラスメイトに言われたことを気にしているの?」
「いえ、それもありますけど」
 ぎらりと、雨音の目が獰猛な色を帯びたので、慌てて言葉を続ける。
「それだけじゃなくて、雨音さんと隣に立っても恥ずかしいって思われたくないし、思いたくないんです」
 デパートで、双葉は明確に雨音との不釣り合い具合を自覚した。婚儀を行えたから久我家では優遇されているが、果たしてそれでけでいいのだろうか。皆に認められている雨音の隣にいるのなら双葉も皆に認められなくてはないならのではないか。
「恥ずかしいなんて思ったことない」
 雨音の切実な声を聞いていると考えが揺らぐ。
 雨音はこのままでいい、と念を押すように言った。それをため息ひとつで黙らせたのは梓だ。
「あのね雨音、この子がやりたいって言っているんだから黙ってなさいよ。あんたに止める権利はないわ」
「なっ」
 雨音がきつく梓を睨む。
「いくら当主でも人の自由は奪えないわよ」
 そう言うと梓は双葉の手を引いた。まるで自分の家のように悠々と歩く梓に連れて行かれたのは、婚儀の時に準備をした部屋だった。
「じゃあ、まずその鬱陶しい前髪を切るわ」
「えっ」
 双葉は咄嗟に前髪を押えた。
「ま、前髪は……」
 双葉が拒否を言葉にする前に梓がぴしゃりと言った。
「駄目よ。前髪で人の印象は変わるのよ。つまり、どれだけ綺麗に化粧をしても前髪ひとつで崩れてしまうの。わかった?」
 双葉はおずおずと頷いた。
「じゃあはじめるから。雨音はずっとここにいるつもり?」
 双葉の背後で雨音が苛立たしげに立っていた。
「……お前が変なことをしないか監視しておく」
「変なことなんかしないわよ、あんたじゃあるまいし」
 ぴりぴりした空気にヒビを入れるみたいに雨音が舌を打った。苛立ちを向けられた梓は気にした様子もなく双葉を座らせ、早速ハサミを持った。
「私、器用だから安心して見てなさい」
 その宣言通り、梓は手慣れた様子で前髪を切り、あっという間に整えて見せた。
「ほら、どう?」
 久方ぶりに前髪の短い自分と鏡越しに対面した。開けた視線が落ち着かず、そろりと視線を逸らしたところ、顎を持ち上げられて無理やり前を向かされた。すると鏡越しに背後に座っている雨音と目が合う。
 途端、雨音の瞳がとろりと蕩けた。
「前髪が短くても可愛い」
 きゅ、と胸が高鳴る。
 感覚が繋がっているからこそ、雨音の甘い言葉が真っ直ぐに伝わってくる。
 そして、それは雨音も同じだ。
 双葉のときめきを感じ取って顔を綻ばせている。居たたまれなくなった双葉が顔を俯かせるとすぐに梓によって戻された。
「前見てなさい。ほら、かわいいじゃない。さて、次は化粧よ」
 梓はてきぱきと動き、双葉の顔に化粧品を塗っていく。
「そういえば、さっき話していたクラスメイトに言われたことってなんなの?」
 梓は顔の真横で双葉に化粧を施しながら世間話と言った風に聞いてきたので、昨日雨音にしたのと同じ話をした。
「何よそのしょうもない男。罰ゲームで告白してくる男の言うことなんか一々気にしなくてもいいのよ」
 梓は苛立たし気に顔を歪め、男の所業がいかに愚かだったのか解き始めた。
「その男が目を見張るほど綺麗にしてあげるわ。惚れさせましょう」
「駄目に決まってるだろ」
 すかさず雨音が反論すると梓が舌を打つ。
「双葉は、こんな男のどこがいいの? 恋人が輝くのを邪魔してくるなんて最低よ」
「双葉が輝くのはいいが、惚れさせるなんて駄目だ。双葉は俺のだぞ」
「うざすぎる……」
 梓がぼそりと呟く。雨音には届かなかったようでじっと双葉を見ていた。まだ完成していない双葉の顔を見て雨音は困ったように眉を下げた。
「可愛すぎて不安になってきた。学校に行く時だけ前髪を長くしてほしい……」
「む、無理ですよ」
 それが出来るのなら双葉だってしたい。
「だよね……」
 雨音が不安げに溜め息を吐き、梓がそれに呆れたような視線を向けた。しかし、突っ込むことはせずに化粧を進めた。
「完成よ! さすが私、可愛すぎるわ」
 梓が感嘆の声をあげる。その言葉通り鏡に映っている双葉は完成されていた。
「目が、二倍くらいになってませんか?」
「貴方元々目が大きいわよ、前髪で隠れてただけ。まぁ、私の腕が良いのもあるでしょうけど」
 自信満々な梓に双葉は思わず拍手をした。
「すごいです。こんなに変わるとは思っていなかったです」
 婚儀の時にも化粧はしたが、あれは催しの化粧らしく濃いものだった。しかし、梓が施したのは薄化粧に見えるのに双葉の良さを最大限に引き立たせているようだ。
 きらきらと尊敬の眼差しで梓を見る。すると梓はじっと双葉の顔を凝視したかと思うと、これでもかと双葉の頭を撫で出した。
「かわいい~~~~なにこの子、素直でいいこね うちの子にならない?」
 ぐりぐりと頭をかき混ぜられ、ぐわんと頭が揺れる。
 痛くはないが、反応に困っていると背後から体を引き寄せられた。
「双葉に触るな」
 気が付いたら雨音の膝の上に乗せられていた。
 ぎょっとして慌てて降りようとするが、腹に手を回されて身動きが取れなくなる。
「は、離して……」
「だめ」
 思ったよりも近い距離から声が聞こえ、かあっと顔が赤くなる。
「顔を上げて、よく見せて」
 俯こうとしたら顎を持ち上げられた。
 無理矢理目を合わせられ、戸惑いに目を揺らす双葉。雨音は双葉の赤い顔を愛おしそうに見つめる。
「いつもの姿が一番だけど、それもよく似合ってる。可愛いよ」
 そう言いながら雨音の顔が近付いてくる。
 何をされるのか、双葉でもわかった。キスをされる。
 キス何て人生で一度もしたことが無い双葉は大いに慌て、首を竦めて硬直した。
 動けない双葉をくすりと笑った雨音の唇が双葉の頬に触れる――その寸前。
「こら!」
 雨音の額を梓が押えて、双葉を救出した。
「邪魔するな」
 雨音が恨めしげに梓を睨む。
「あんたねぇ、顔に触れたら化粧が崩れるでしょうが」
「頬にキスしたらくらいじゃ崩れないだろ。余計な口出すな。というか、用事が終わったのならもう帰れ」
「嫌よ。私今日はこの家に泊まるわ」
 梓の言葉に雨音が信じられない様子で首を傾げた。
「はあ? 何でだ」
「私の用事は双葉のことを馬鹿にした男をぎゃふんと言わせることよ。どうせ双葉もこの家の奴もここまでの化粧の技術はないでしょ。だから明日の朝学校に行く前に私がやってあげるわ」
 雨音は梓の言い分を退けようとしたが、梓の押しは強く、最終的に何を言っても無駄だと思ったらしい雨音が折れた。
「お前は、どうしてそう昔から頑固なんだ……」
「それはこっちの台詞よ」
 ふたりのやりとりは気安く、長い付き合いを感じさせた。双葉はそんなふたりの会話に入ることが出来なかった。
 何だか、遠慮してしまった。
 じっと黙ってふたりの会話を聞いている双葉に雨音が気づき、そっと首を傾げた。どうした、と目だけで問いかけられ、何でもないと首を振る。
 仲の良さそうなふたりに少しだけ寂しさを覚えてしまった。それが、なんだかとんでもなく恥ずかしくて居た堪れなかった。だから雨音に心の内が伝わらないように必死で抑えた。その結果、雨音は不思議そうな顔をしたが、強くは聞かれなかった。
 その後、梓に髪の毛を編んでもらったり、雨音に可愛いと写真を大量に撮られたりしながら午前は過ごし、午後は雨音と近場を散歩した。前髪が目にかかっていない開けた視界に慣れず、すれ違う人の視線からそっと顔を逸らしていた。折角綺麗にしてもらったのにおろおろしていてみっともないとは思ったが、長年の習慣はそう簡単に治らない。
 段々と気落ちしていく双葉に雨音は自身の帽子を被せた。
「直ぐに開けた視界に慣れるのは難しいだろう」
 雨音は弱気な双葉を受け入れてくれた。
「ありがとうございます」
「うん、お礼に手を繋いでもいい?」
 そっと手を取られ、ふたりは寄り添いながら緑の多い街並みを歩いた。

 すっかり日が落ち、夕食と風呂を済ませた双葉はいつものように部屋の前で雨音を待っていた。
 約束をしたわけではないが、ここ二日とも夜空の下を散歩していたので、泊まり最終日である今日も同じように散歩をすると思ってのことだった。そう、最終日。今日で休みは終わり、明日からは学校が始まる。すると双葉は恐らく叔母の家に帰ることになるだろう。
 流石にずっとこの家でお世話になるわけにはいかない。
 結婚しようと言われたが、まだどう返事をしたらいいか悩んでいる身の人間がいていいわけがない。早く答えを返さなければとは思うのだが、中々難しい。
 雨音のことは好きだ。あんなに愛おしいという目で見つめられれば誰だって好きになってしまう。心が繋がっているので、彼に嘘がないことはわかっているのも大きい。だからこそ、悩む。彼は誰から見ても魅力的だ。見た目も勿論のこと、中身も素敵だと知っている。そんな彼が双葉なんかと結婚していいのだろうか。
 困っているようだったから婚儀をするのに躊躇いはなかった。しかし、結婚となると話は別だ。
 もっと彼には釣り合う人がいる。例えば、梓のような。
 ぺたり、と足音が聞え、物思いに耽っていた双葉は視線を上げた。
 そこにいたのは、雨音ではなく、背の高い茶髪の男だ。見覚えがある。梓と共に久我家へ来ていた彼女の執事だ。確か、名前は――。
「環さん」
 名前を呼ぶと男は冷たい目で双葉を見下ろし、口を開いた。
「どういうつもりで雨音様の隣にいらっしゃるのですか?」
 それは、温度のない声だった。
「本来ならその立場にいるのは我が主、梓様だったはず。ただの人間如きが久我家に嫁入りするなど、あり得ない」
 環の言葉に双葉は目を見開く。
 本来なら、その立場にいるのは。我が主、梓様だったはず。その言葉をゆっくりと咀嚼し、飲み込んで意味を理解した。
「梓さんは、雨音様の」
「婚約者です。おふたりは結婚する予定でした」
 ひゅっと喉が鳴った。
 双葉が衝撃を受け止められないでいるのに環は気にした様子もなく、続ける。
「婚儀が成功していれば、おふたりは今頃幸せになっていたのです。それなのに……婚儀がふたりは引き裂いた。そこに貴方の様な人間が入り込んだのです」
 ぎっと睨まれ、双葉はその目から逃れるように俯いた。
 視界に入る自身の手が震えている。
 梓と雨音が仲睦まじく過ごしている姿が脳裏に浮かぶ。美しいふたりは並ぶだけで絵になり、誰にも文句が言えないくらいお似合いだ。
「あ、雨音様は、梓さんのことが好きなのでしょうか」
 やめておけばいいのにそんな不毛な質問が口をついて出た。返って来る言葉など分かり切っている。
「当たり前でしょう」
 そして、続いて言われた言葉に愕然とした。
「貴方のことを好いているというのは、婚儀のせいですよ。あの儀式の時に飲んだ水のせいで貴方を好きだと錯覚しているのです」
 それ以降は何を言われたのか覚えていない。ただ気が付いたら環は目の前にいなかった。
 ひとりになった縁側で茫然と庭を見つめる。
 雨音は、梓のことを今でも愛していて、双葉が好きな風に見えるのは、婚儀のせい。環の言い分はきっと事実だ。おかしいとは思っていたのだ。何の魅力もない双葉を雨音が好きになるはずがない。婚儀のせいならば納得できる。
 最初に会った時に雨音が疲れていたのは、失敗続ぎの婚儀に辟易していたのもあるだろうが、それよりも最愛の婚約者との婚儀が失敗したからかもしれない。
 婚儀が失敗したのは双葉のせいではないが、まるで何もかも自分が悪いような気がしてくる。
「やっぱり、わたしなんて」
 いない方が良い。
 そう呟いた時だった。
 ばたばたと廊下を駆ける音がした思ったら、雨音が廊下の角から姿を現した。
「双葉、どうした」
 その表情には焦りが見える。
「あ、雨音様」
 そっと名前を呼ぶ。そんな資格などないのに縋りつきたくなってしまった手をぎゅっと握りしめて首を振る。
「何でもないのです。少し夜風に当たっていただけで、もう寝ますね」
 そう言って部屋へ戻ろうとした双葉の手を雨音がとった。
「待て」
 手を引かれ、抵抗する間もなく雨音との距離が近づく。
「誰に何をされた? それとも言われた?」
 顔を覗き込まれ、真剣な瞳と目が合った。
「ど、どうして」
「心で繋がっているんだ。双葉の不安はすぐに伝わって来た」
 その繋がりは、婚儀で強制的に結ばれたものだ。そのせいで雨音は双葉が好きなどと勘違いをしてしまっている。
 そう思うとぎゅっと胸が締め付けられた。
「よいしょ」
 不意に脇の下に手を入れられ、持ち上げられる。驚いて硬直する体は簡単に雨音の膝の上に乗せられ、腕の中に囲まれた。
「あ、あの、離して」
「双葉が素直に話したらな」
 ぎゅっと抱き寄せられ、とんとんと慰める様に背を叩かれる。子供に対するそれに戸惑う。
「双葉が悩んでいることはひとりで考えて答えが出るものか?」
 雨音の言葉に離れようと突っ張っていた手が止まる。
 ひとりで悩んだ所で雨音と梓が幸せになるとは思えない。
「そうじゃないなら話した方が良い。ほら、言って」
 とん、と優しく撫でる手と穏やかな話方に双葉は押されるように口を開いた。
「あ、雨音様は、梓さんと婚約していたのですか?」
「ああ、していた」
 あっさり肯定が返って来た。
「梓さんのこと今でも好きですか?」
 その質問に、一瞬時が止まり、続いてがばっと体を離された。
「好きなわけないだろ。そもそも今でもってなんだ、あの女のことを好きだったことなんか一度もない」
「……え?」
「何でそんな勘違いを? ありえない。双葉じゃなかったら名誉棄損で訴えているところだ」
 双葉の肩を掴み憎々し気に言う雨音は嘘をついているようには見えない。
「え、で、でも、梓さんとは婚約していたんですよね?」
「まぁ、あいつの家は稲荷の中では久我家に次ぐ名家だからね。婚儀のために婚約していた。梓だけじゃない。婚儀が成功しなかった時の保険に婚約者は数人いる、って言わなかったっけ? 双葉の婚儀のあとすぐに解消したけどね。本当になんでそんな話になっているの?」
 雨音はどういうことかわかっていないようだったが、双葉はその上をいく混乱の中にいた。
 環の言ったことは嘘だったのだろうか。いや、あの冷たい声は確かに真実を言っているように聞こえた。
「では、梓さんの片想い?」
 ぽつりの呟いた言葉に雨音が盛大に笑った。
「そんなわけない。あいつは俺との婚約を黒歴史とまで言っているんだぞ」
 あははと子供みたいに笑う様子に双葉は何だか安心してしまった。ふっと体の力を抜くとすかさず抱き寄せられ、雨音の胸に頬を預ける形になった。
「あ、雨音様、喋ったら離してくれるって」
「そんなこと言った?」
 ふっと笑い気配がして、どきりとした。
「不安はすぐに話して。ひとりでぐるぐる悩むより、ふたりで解決したほうがいい」
 そっと頭を撫でられ、双葉は抵抗するのを止めて雨音に身を任せた。
 婚儀の呪縛のせいで双葉のことを好きになったのですか、とは聞けなかった。
 翌日の起床は勢いよく襖を開けられた音によるものだった。
「起きなさい、双葉」
 その溌剌とした声と共に姿を現したのは、既に完璧に支度を済ませている梓だった。彼女は爛々とした目で未だにぼんやりとしている双葉を見下ろしたかと思うと、直ぐに抱き起しにかかった。
「女の朝は早いのよ」と言い、双葉を凄い力で抱き上げた梓はそのまま双葉を洗面台へ連れて行き顔を洗わせた。その時点で漸く覚醒した双葉は、戸惑いながらも梓の後を着いて回り、軽く朝食を済ませると早速化粧に取り掛かった。
 現時点で、雨音は起きて来ておらず、化粧をする部屋には梓と双葉のふたりきりだ。
 昨日、雨音は否定したが、梓の本心はどうだかわからない。あれだけ素敵な雨音と長らく一緒にいたのなら好きになっていてもおかしくないと双葉は信じて疑っていない。
 化粧を施してくれている梓の楽し気な表情を横目に双葉はぎゅっと膝の上に置いてある拳を握りしめた。
「あの、梓さんは雨音様と幼い頃からの婚約者だと聞きました」
 双葉の言葉に梓の動きがぴたりと止まった。そして、ぎぎっと油のさしていない玩具のようにゆっくりと梓の顔が双葉の向いた。
 その目は見開かれ、射貫くように鋭い。
「あ、梓さん」
「その話、誰から聞いたの? 雨音?」
 感情を押し殺した声だ。双葉は少し悩んで首を横に振った。
「雨音様にも聞きましたが、それよりも前に環さんに」
 その途端、梓が顔を手で覆った。
「環、あいつ許せない。私の消し去りたい過去を」
「消し去りたい過去?」
 確か、雨音もそんなことを言っていた。
 梓は嘆くように顔を覆っていた手を退け、双葉の頬を両手でがしりと掴んで固定した。
「そうよ、あのね勘違いしないで欲しいんだけど、私が雨音と婚約してたのは家のためよ。私の家柄が良いから婚約していただけ、愛なんて一切ないわ。それなのに環は私があいつのことが好きなんて勘違いしているのよ。いい加減にしてほしいわよ」
 鬱憤を吐き出す梓の形相は鬼気迫るものがあり、双葉は圧倒された。
「ど、どうしてそんな勘違いを?」
「私に釣り合うのは雨音だけだと思っているのよ。ねえ」
 梓は視線を襖へと向けた。その言葉に襖の外から「はい」と短く声が返って来て驚いた。
「入って来なさい、環」
 襖が開き、無表情の環が顔を出す。
「あんた双葉に変なことを言うのは止めなさい」
「しかし、梓様」
 環の言葉を梓はばっさりと切って捨て、じろりと鋭い目で見つめた。
「私とつり合っているかどうかは、私が決めるわ。私の幸せを思うのなら余計なことはしないで」
 梓の言葉に環はぐっと言葉を詰め、神妙に頷いた。
「すみません。私としたことが、梓様を思うあまり出過ぎたことをいたしました」
「分かればいいの」
 梓と環の会話に落ちがついたことに安堵をする一方、つり合いをとる、という言葉が引っ掛かっていた。
 雨音と双葉はつり合っていない。それはクラスメイトが指摘し、双葉の悩みの種だった。梓は、それを一蹴した。
 凄いな、と素直に思う。そして自分には到底できないとも感じた。自分の価値を胸を張って主張できない双葉は、きっとずっと雨音と釣り合わないと思ってしまう。こんな状態で、彼の隣に立っていいのか疑問だ。
 やはり、婚約をするべきではないのでは。
「双葉はどうしてそう直ぐに俯くの」
 ぐいっと顎を持ち上げられ、美しい梓の瞳を至近距離で見つめた。
「自分に自信がないの? そんなに可愛いのに」
「か、可愛くなんかないです。私なんか。雨音様と全然つり合っていなくて、恥ずかしいです」
 ぎゅっと唇を噛む。そんな双葉に梓は落ち着き払った声で言った。
「卑下は自分の心は守れるけど、価値を落とすからやめなさい。つり合いってどこを見て決めているの? 雨音の何を見て決めたの。貴方は、誰につり合っていると認めてもらいたいの?」
「それは……」
 言葉が続かなかった。
 雨音は双葉が好きだと言い、久我家の皆も双葉を認めてくれている。それなのに双葉が一体誰につり合っていると思われたいのだろうか。自分でも分からなかったその答えを梓はあっさり口にした。
「きっと双葉は自分に認められたいのよ。自分に自信が欲しいんじゃない? それなら磨きなさい。認められるまで自分を磨き上げるの」
 梓の言う通り何もしないよりは、自分を少しでも綺麗に見せることが出来れば認められるかもしれない。
「よし、じゃあとりあえず化粧よ。そして、性格の悪いクラスメイトをあっと言わせるの」
 双葉が恐る恐る頷いた。
 そして、梓に化粧を施してもらい、着替えを終えた頃にスーツ姿の雨音が部屋に顔を出した。
「雨音様、おはようございます」
 気恥ずかしさから微笑みを浮かべて挨拶した双葉に雨音は目を見開いて固まった。
「か」
 雨音は双葉を凝視しながらぽつりと呟いた。
「可愛過ぎる……」
 ぶわりと胸に雨音の感嘆が伝わって来る。直接的な感想に反射的にぱっと顔が華やぐ。
「ありがとうございます。お化粧、梓さんにやってもらいました。あと髪の毛も」
 結った双葉の髪には雨音に貰った髪留めが揺れている。
「化粧も良いけど、笑顔が可愛い。こんな可愛く挨拶されたら誰でも好きになるだろ」
 雨音のぼんやりとした呟くに双葉は混乱しながら首を傾げた。
「あの、雨音様?」
「よし。今日は学校を休もう」
「えっ」
 力強く言われ、拒否する間もなく抱き上げられる。そのまま廊下を歩き始めた雨音の肩を慌てて叩く。
「だ、駄目です。折角梓さんに準備を手伝って貰ったんです」
「うん、俺にだけ見せて」
「ちょ、ちょっと待って」
 止まって、と抗議の声を上げる双葉の声に耳を傾けてはくれるが、雨音は止まってくれない。このままでは本当に学校へ行けなくなってしまう。それは困るとじたばた暴れた。
 不意に雨音の足が止まった。
「何しているのよ、あんた達」
 呆れた声が廊下に落ちたので、雨音の足が止まった理由に気が付く。
 梓が仁王立ちで雨音の行く手を阻んでいた。
「邪魔だ、どけ」
「双葉が嫌がってるじゃない。離しなさいよ」
 目をつり上げて怒っていた雨音は梓の言葉に困ったような顔で双葉を覗き込んだ。
「双葉、嫌か?」
 しゅんと眉を下げる様子は哀れっぽく、双葉の良心をぐさぐさと刺激する。そんな顔をされて嫌だと言えるわけがない。
「い、いやでは」
「こら、流されない」
 梓の呆れを含んだ声に言葉を止める。
 危ない。流されるところだったと冷や汗が出た。
「これから双葉は学校で、雨音は仕事でしょ? 早くしないと遅刻するわよ」
 早く起きたのにいつの間にか時間が差し迫っていた。慌てて鞄を抱えると雨音に引きずられるようにして共に車へ急ぐ。
「梓さんありがとうございました」
 さっさと車に乗せようとしてくる雨音を止め、見送りに出てくれた梓に頭を下げた。
「気にしなくていいわ。ただ、私が準備したのに泣いて帰って来るなんて許さないわよ。自信を持って戦ってきなさい」
 誰とも戦う予定はないだが、梓に綺麗にしてもらったのだから自信なく俯いてなどいられない。
 双葉が梓の目をしっかり見て頷いた。
「頑張ってきます」
 そうして梓と別れ、後部座席の扉を開けた。
 今日は真澄が運転する様だ。運転席から振り返った真澄は驚いた様子だったが、すぐにいつものように微笑みを浮かべた。
「おはようございます双葉様。とても綺麗ですよ」
「おはようございます。ありがとうございます」
 挨拶を交わし、ふたりの視線は先に後部座席に座り不貞腐れている雨音に向けられた。
「あ、雨音様」
 隣に座っても良いのか悩み声をかけると、雨音が手を差し伸べて来たのでその手を取って車に乗り込む。
 車が発進するなり、雨音の手が双葉の腰に回る。すり、と猫の様に頭を寄せられ、双葉は硬直した。
「双葉に怒っているわけじゃないよ。俺の目の届かない所に双葉をやりたくないだけ」
 拗ねているんだ、と子供みたいに言う雨音は何だか可愛らしい。しかし、近すぎる距離感と腰に回る大きな手のせいで可愛さを堪能する余裕はない。すん、と匂いを嗅ぐ様に鼻を鳴らされて羞恥心は限界を迎えた。
「雨音様、は、離して下さい」
「んー、もう少しだけ」
 雨音の肩を押して離れようと試みた。いつもならば仕方ないなと笑って離れてくれるのだが、今日に限っては足りないとばかりに更に抱き寄せられ、双葉は真っ赤になった顔を押えた。
「限界です……」
 震える声で訴え、漸く離してもらえた。
 緊張から解放され安堵する一方、熱が離れていったことを寂しく感じた。
 それを首を振って消し去り、雨音に話を振る。
「雨音様、この二日間お世話になりました。皆さん優しくしてくださって凄く楽しかったです。ありがとうございました」
 お礼を述べる双葉を雨音は不思議そうな顔で見つめていた。
「もう終わりみたいな言い方だね」
「え?」
「言っただろ、俺は帰す気ないって」
 休みが終わったのだから叔母夫婦の家に帰らなければいけないと思っていたが、雨音の認識は違ったようだ。
 確かに帰す気はないと言われたが、このままずっと久我家にいるわけにはいかない。
「双葉はあの家に帰りたいのか?」
 戸惑いで揺れる双葉の目を雨音が優しく見つめる。
 そんなことを聞かれ、反射的に首を横に振った。
「いいえ……でも、あの家には荷物もありますし」
「それなら取りに行けばいい。ついでに結婚の報告もしよう」
 にこりと微笑まれ、双葉の脳裏に『外堀を埋められている』という言葉が浮かんだ。きっともう逃げられないぐらいに囲われてしまっている。しかしそれを双葉は嫌だとは思っていない。ただ、このまま流されるだけでいいのか、という疑問は胸にあった。
 そうこうしている内に学校に着いていた。校門の前に止まる黒い車に不審げな視線を向ける生徒達の姿が見え、双葉は委縮した。視界を隠す前髪がないのも気になり始め、手でそっと前髪を掴んで引っ張っる。
 怖気づく双葉の手を雨音が握った。
「このまま帰ろうか」
 雨音は双葉を甘やかすのに躊躇いがない。
「制服デートに切り替えよう。よし、このまま車を出せ」
「いえ、大丈夫です、行けます」
 本当に帰ろうとするのを止めて、心配ないと笑顔を作った。
「行って来ます」
「……迎えに来るから、嫌になったらすぐに連絡しておいで」
 雨音の手が伸びて来た。頬に触れようとした手が一瞬止まり、髪を耳にかけられる。そして、そのまま後頭部に回った手に引き寄せられた。
「わっ」
 前髪の生え際に唇が触れる。キスをされたと分かった途端かあっと顔を赤くなった。
「いってらっしゃい」
 満足げに微笑んだ雨音に送り出され、赤い顔のまま車を降りた。

 教室の扉を開けた途端向けられた視線に双葉はぎゅっと拳を握り、ひそひそと囁かれる声を無視して自席に着いた。
「え~、双葉ちゃんどうしちゃったの? イメチェン?」
 聞こえて来た軽薄な声にびくりと体が跳ねる。そろりと視線を向けると田辺とその友人達が立っていた。
 また馬鹿にされるかもしれない。浴び去られる嘲笑を想像し、逃げ出したくなる。しかし、梓の言葉を思い出してどうにか俯くのも耐えてクラスメイト達を見据えた。
「待って、可愛くね?」
 誰かがそう呟いた。
「いや、まじで可愛いじゃん。そっちの方がいいって」
「うわ、俺結構タイプかも」
 なんて聞こえてきて、双葉は顔を引き攣らせた。下世話に笑う男子もそれに同意する女子の視線も何だか違和感があった。不思議なもので、あれだけ馬鹿にされたくないと思っていたのにいざ褒められても良い気分にはならない。
「それよりさ、一昨日一緒にいたのってマジで作野さんの彼氏なの?」
「え」
 田辺の横に立っていた女子生徒が身を乗り出して聞いて来た。
 一昨日というのはデパートでのことだろう。彼氏、とは雨音のことで間違いないだろうが、何と答えていいのか分からない。雨音との関係は曖昧でよくわからなかった。付き合ってはいない。しかし結婚の儀式は済ませている。そのうえでプロポーズされた。その関係を形容する語彙はない。
「えっと、うーんと」
 答えられずにいる双葉に焦れた女子生徒が声を張った。
「付き合ってないなら紹介してよ。私、めちゃくちゃタイプなんだよね」
 女子生徒は綺麗に化粧がしてあり、誰から見ても魅力的に映った。この人が雨音に好意を寄せたら、彼はどう思うだろうか。疑問が浮かび、直ぐに打ち消す。あれだけ美しい梓が近くにいて好きにならないのだから見た目で判断するとは思えない。
 女子生徒がそれだけ美しくても雨音を紹介するのは嫌だった。
「ごめんなさい、紹介は出来ないです」
「えー、何でよ」
 不満げに睨まれ、困った双葉は素直に言葉を返した。
「好きな人なので」
 釣り合っていないと言われても、双葉は彼のことが好きだった。
 双葉の返答に教室内の空気がざわりと揺れた。
 クラスメイト達が双葉の恋愛事情を聞きたがったが、ホームルームのチャイムが鳴り教師が入って来たのでお開きになり、ほっと安堵の息を吐く。
 教師も双葉の顔を見てぎょっとしたが、特に何も言わずに朝礼が始まった。
 馬鹿にされなかった、良かった。そっと胸元を握る。前髪が短くなっても思ったよりもずっと落ち着いて過ごせている。離れてからずっと双葉を心配している雨音に早く伝えなかった。伝わっていると良いなと思いながらそっと胸を撫でた。
 学校終了のチャイムが鳴ると同時に双葉は思わず大きくため息を吐いた。
 何とか平穏に過ごせそうかも、という双葉の予想は半分外れた。馬鹿にされはしなかったが、向けられる視線はいつも以上に多く、ひそひそと囁く声もあった。好意的なものも含まれていたが、殆どが金曜日に迎えに来た雨音との関係を探るものだった。
 雨音が結婚していると口にしたり、婚約者と言ったり、双葉が好きな人と紹介したせいで色々な憶測が飛び交っている。中には双葉が遊び人のイケメンに騙され、金をとられているというものもあった。それは全力で否定したかったが、見ず知らずの人に声をかけられなかったので断念した。
 漸く一日が終わる。長かったと息を吐く。
「双葉ちゃん、一緒に帰らない?」
 そう声をかけられ、驚いて見上げた先に朝声をかけた面子が立っていた。
「いっぱい話聞かせてよ」
 女子生徒が好意的に擦り寄って来る。今まで散々馬鹿にして来たのに見た目が変わるだけでこうも反応は違うのか、と双葉は他人事のように思った。
「すみません、迎えが来るので」
 一緒に帰ろうと誘われたのは人生で初めてだった。想像していたよりも嬉しくなく、無感情で受け止め断った。
 いつ雨音が迎えに来るか分からないので、外に出ていようと鞄を持って立ち上がる。
「折角誘ってあげたのに」
 女子生徒の苛立った声に思わず「すみません」と謝罪を口にして教師を出た。
 直ぐに謝るなと雨音に散々言われていたが、そう簡単に長年培ったものが治るわけもなく、今日の双葉はいつも通り謝り通しだった。意識していた俯かないという点だけ多少は改善された気がする。つい下がってしまう頭を何とか上げて人の目を見るのは精神的にかなり疲弊した。
 早く落ち着ける場所へ行きたいと逸る気持ちを抑えて昇降口から出る。
 校門の前には既に白髪の男が立っていた。
 雨音様、と声をかけ、近寄ろうとしたが、すぐに足が止まる。
 雨音の周りには金曜の時と同じく人だかりができている。それには別段驚きはないのだが、雨音の前に見覚えのある人物が立っていた。
「あ、愛華……」
 愛華は雨音を見上げて何やら言っている。それに雨音が何を答えているのかは分からないが、ふたりの雰囲気が悪いようには見えない。
 手が震える。
 雨音が双葉を好きだと言ったのは、愛華と出会う前だ。愛華と出会ってしまえば双葉の事などすぐにどうでもよくなってしまう。いつも、みんなそうだった。双葉は愛華に近づくための道具に過ぎないのだ。
 ふたりに近づきたくはなかったが、行かないわけにはいかない。
 ふらふらと覚束ない足取りで進む。双葉の耳に段々と他人の声が入り込んできた。
「あれって作野さんの彼氏なんじゃないの? この間迎えに来てたでしょ」
「いや、あの感じいつものでしょ。愛華目当てで近づいて来たって」
 金曜日の一幕を見ていたらしい外野の視線が双葉に向いた。好奇の中に嘲笑が混じっているのが見てとれる。
「あーあ、あんなに張り切ってんのに、かわいそ」
 ちっとも憐れんでいない声色で吐き出された一言がぐさりと刺さった。
 逃げてしまいたくなり、足が止まる。そのタイミングで雨音の視線が持ち上がり、双葉を見た。
 冷たい色をしていた雨音の瞳が双葉を映した途端ぱっと輝き、嬉しそうに細くなる。婚儀の繋がりが雨音の本音を伝えて来る。双葉に会えて嬉しいと。
 その心根が婚儀の影響なのかはわからない。それでも、真っ直ぐに愛情を向けられ気分が浮上し、止まりそうだった足が駆け足になる。
「双葉、おかえり」
 会いたかった、と近寄って来た雨音に手を引かれ抱き留められる。
 周りのざわめきが耳に届く。
「あ、雨音様」
 慌てて名前を呼ぶとあっさと体が離れた。
「ずっと不安そうだったから心配した。変な奴に絡まれなかった?」
「はい、大丈夫です」
「本当に?」
 顔を覗き込んでくる雨音。じっと見透かすような目に双葉は頷いた。
「そう。じゃあ、帰ろうか」
 手を引かれ、そのまま車に乗り込もうとしたふたりに背後から声がかかった。
「あの、待ってください」
 愛華が雨音を呼ぶ止めたのだ。
「私も一緒に送ってもらっていいですか?」
 愛華は甘えるように雨音を見つめながらスーツの素手をきゅっと引いた。その姿は文句の付け所がないほど愛らしいが、双葉は腹の中から湧き上がるような不快感を覚えた。
「運転手さんいるんですね。雨音さんの隣に座っていいですか?」
 彼氏を呼ぶ様に雨音の名前を口にした。
 双葉との一幕を見ていたはずなのに、雨音が迎えに来たのは自分だとばかりに振る舞っている。何故そんな態度を取るのだろう、という疑問はすぐに解決した。愛華は双葉など見ていないのだ。眼中にないから雨音が双葉を好きなんて考えは彼女の中にはない。
 自分が愛されて当然と思っているのだろう。
「ねえ、雨音さん?」
 そんな恋しているみたいに雨音の名前を呼ばないでほしい。
 双葉は生まれて初めて抱いた嫌悪感で押しつぶされそうになった。
「ねぇ、君」
 雨音が愛華に微笑む。
 人知を超えた美しさを携えた狐の笑みに愛華どころか周りで成り行きをみていた生徒達も赤面し、口を押える。
 しかし、双葉だけはその笑みに温度が全くないのに気が付いて、ぞくりと震える。
「はい、雨音さん」
 うっとりしながら愛華が一歩踏み出し、甘える様に雨音の手を握ろうとした。
「双葉の額の傷ってお前のせい?」
 雨音が手を避け、冷たい目で愛華を睨みつけながら淡々と言う。
「ああ、別に返事はいらない。分かっているから」
「あ、あまねさ」
「名前で呼んで良いなんて言った?」
 冷たい声に愛華の口がひくりと震えた。空気が張り詰めているので誰も動けない。
 雨音から発せられた言葉が刺すような鋭さを持って愛華に向かう。
「俺と双葉がラブラブなの見ていて分からなかった? それなのに擦り寄って来るとか何考えてんの? 車で送ってほしい? 嫌に決まってる」
 不快気に顔を歪めた雨音だったが、すぐにぱっと明るく微笑んだ。
「そうそう。今から結婚の報告に行くから、邪魔にならないようにゆっくり帰って来てくれる? お願いね」
 じゃあ、と爽やかに手を振りながら雨音は双葉を連れて車に乗り込む。ドアが閉まると同時に車が発進した。
 車窓から見えた愛華は、魂が抜けたみたいだった。何を言われたか分かっておらず、首を捻る様は幼子の様で、見て居られなかった。
 あんなことを言って大丈夫なのだろうか、ちらりと顔を出した不安に眉を下げる双葉の耳に雨音の笑い声が届いた。
「はは、高いプライドへし折られて呆然としてたよ。いい気味」
「雨音様……」
 にやりと笑う雨音に思わず窘めるように声をかける。
 すると途端に雨音の表情が叱られた子供の様にしゅんとした。
「あんな目立つ真似してごめん」
「いえ、それはいいんですけど、どうしてあんなこと」
「やられたのは双葉だから外野の俺がいうことじゃないとは思ったけど、大切な人を散々傷つけられて平気な顔出来なかった。ごめん、許して」
 雨音は可愛らしく首を傾げて許しを請うた。
 可愛らしくてずるい。どうすれば許して貰えるかわかっている立ち回りをしている。
「怒ってないですよ」
「じゃあ、叔母さん家族地獄に落として良い?」
 甘えて良い?みたいな声色でとんでもないことを言い始め、慌てて首を振る。
「だ、駄目に決まってます。お世話になった人なんです」
「いじめられたの間違いでしょ」
「自分の子供じゃないんですから、多少は仕方ないです」
 確かに叔母夫婦は厳しいところもあった。しかし家族を失って行く当てのない双葉に家を置いてくれたのは事実だ。それに双葉は救われた。
 あの家にいるのは苦しいが、恩がある。
「仕方ない?」
 しかし、雨音は納得しなかった。
「助けたら何をしても良いって? 虫けらみたいになじられても我慢しますって?」
 雨音の怒りが初めて双葉に向いた。
 ぎゅっと顰められた顔からは、憤りと同じくらい悲しみが見て取れる。
「そんなわけない。双葉は文句を言っても良いし、反抗してもいい。それに――あの夫婦は双葉が思っているよりもずっと酷い人間だよ」
「え?」
 どういう意味だろう。
 雨音の言葉の意味は分からなかった。
 ただ、何となく嫌な予感が胸にじわりと広がった。

 叔母夫婦の家に着き、双葉と雨音だけが車から降りた。
 三日ぶりの叔母夫婦に家に緊張し、顔が強張る。一方、雨音は何の躊躇ないもなくインターホンを押した。
「はい、どちら様ですか?」
 間髪入れずにインターホンから叔母の声が聞えて来る。いつもよりも固い声に雨音が答えた。
「先程ご連絡いたしました。久我雨音と申します。扉を開けて貰っても良いですか?」
 直ぐに扉が開き、叔父が顔を出した。
「お待ちしておりました、久我様」
 驚いたことに叔父は家だというのにスーツ姿で、仕事に行く時よりもかっちりと髪を固めていた。
 それに雨音に対する態度はまるで目上の人を相手しているようだ。
「どうぞ、入ってください」
 家の中へ促され、双葉は雨音に着いて家の中に踏み入れた。
 案内されたのはリビングだ。叔母夫婦の家には客間などはないので、客が来るとここに通される。雨音も例外ではない。しかし、踏み入れたリビングはいつもと様相が違った。
 乱雑というほどではないが、生活感にあった部屋には殆どものが無くなっている。テーブルなどの家具はそのままだが、愛華の雑誌や叔父が買って来た置物などはどこにもない。余計なものは排除したような部屋に変わっていた。
「久我様、どうぞ、こちらへ」
 叔父に勧められ、テーブルに腰かける。雨音と双葉が隣同士で座り、雨音の前に叔父、お茶を用意し終えた叔母がその隣に座った。
「いやぁ、まさか久我様がうちの娘と婚約しているとは思いませんでした」
 叔父は媚びるような声で言った。
 その一言に目を剥く。
 今、叔父は娘と言わなかっただろうか。愛華の顔が浮かんだが、この状況からして違うのは分かる。叔父は双葉を娘と言ったのだ。そんな素振り一度もなかったのに。
「この度は結婚の約束をしましたので、そのご報告に来ました」
「ああ、はい」
 叔父は緊張しっぱなしな様子で何度も頷く。
「双葉は愛想は無いですが、とても優しく器量も良いので、久我様のお役に立てると思います」
 叔父の言葉には愛情もなにもない。ただ雨音に気に入られようとしているのだけはわかった。雨音はどこかの会社の社長だと言っていたので、もしかしなくても叔父の目的は久我の家との繋がりを作ることだ。
 叔父の言葉を聞いていると頭がすっと冷えていくのを感じる。
「家としましては、久我家と懇意になるなど誇りになります。これからは、どうか家族として仲良くしていただければ」
「あなた……」
 爛々と目を輝かせながら取り入ろうとする叔父を叔母が窘める。
 すると叔父が不満げに口を歪めたが、雨音の手前大っぴらに機嫌を悪くはしなかった。
 そんな叔父を置いて叔母は冷静な様子で雨音を向き合う。
「すみません、もうひとりの娘が、愛華が帰って来てからお話してもいいでしょうか? 愛華に挨拶させたいですし、それに家族だけで話し合いもしたいです」
 叔母の言葉に叔父が明らかに狼狽えた。
 時間を空けて雨音の気が変わるのが怖いのだろう。しかし、叔母がそっと耳打ちをしたらすぐに機嫌が良くなった。
「そうですね。ぜひ愛華と会ってください。素晴らしい娘なんで――」
「もう会いました」
 雨音がぴしゃりと言った。
「挨拶なら先程済ませていますので、ご安心ください。何を企んでいるのかは分かります。どうせ、一目見れば俺が気に入ると思っているのでしょうが、アレに心を奪われるようなことはあり得ませんよ。それと何でしたっけ、家族だけで話したい? 一体何の話をするんですか? 双葉がいなくなった後の家事の分担とかでしょうか。ああ、それとも、双葉の両親の遺産の話とか?」
 目の前にいるふたりの顔がさっと強張り、血の気が引いて行く。
「遺産?」
 自分と両親の話題に双葉は顔を雨音に向けた。その視線を受けた雨音が眉を下げながら言った。
「双葉の両親の遺産は、全額双葉に相続権がある。その金は今どこにあると思う?」
 今までずっと思考の端にすらなかった遺産問題が目の前に転がっている。両親の遺産は、一体どこへ行ったのか。
「私の生活費とか学費とかじゃ」
 雨音が頷く。
「それもあるけど、双葉の両親の遺産はもっとずっと多いよ。それなのに双葉はどうしてスマホも持たせてもらっていないの?」
「それは、必要ないからで……」
「双葉が必要ないって言ったの?」
 思わず閉口した。
 双葉がスマホを持っていないのは、叔母に必要ないと言われたからだ。お金がないからだと思っていたが、雨音の言う通り遺産で賄えるのなら、何故その選択肢が双葉にないのだろう。
「双葉が貰った遺産、まさか双葉以外には使っていませんよね?」
 叔父夫婦は沈黙した。否定も肯定もしない。
 そのふたりに雨音は追い打ちをかける。
「――この家、建てたのはいつですか?」
「そ、それは」
 その狼狽ぶりを見れば答えは一目瞭然だ。
 信じたくない事実に体が震える。
 そんな、まさか。
「この家建てるのに使ったの? わ、私を引き取ったのはお金のため?」
 叔母夫婦は答えない。双葉の視線から逃れるように顔を下げるばかりだ。
 その反応がなによりも肯定を示しており、双葉は頭を殴られるような衝撃を受けた。あまりのショックからくらっと眩暈を感じた。
「双葉」
 目の前が暗くなりそうだった双葉の手を雨音が優しく握り、視線を向けると愛しむように見つめられる。
「双葉の両親の金は、双葉のものだ。無断で使っていいわけない」
「その子だってこの家で生活したんだから、別に使っても問題ないでしょ!」
 叔母が鋭い目つきで双葉を睨みながら言葉を吐き出す。
「問題しかない。それにあんたが双葉にやって来たことは更に問題だ。双葉の母親に向けていた悪意をそのまま双葉にぶつけていただろう。調べたから全部知っているぞ。元々、双葉の父親はあんたの家庭教師で、あんたは一方的に想いを寄せていたんだろ。それなのに双葉の母である姉にとられたとずっと根に持っている」
「え?」
 そんな話は聞いたこともなかった。叔母から悪意を向けられていると気が付いていたが、母との間に明確な確執があるのは知らなかった。
 叔母の憎々しい表情を見る限り、雨音の言葉は事実らしい。そして、叔父はそれを知らなかった様だ。
「そうだったのか?」
 叔父の愕然とした声に叔母は気まずげに顔を歪めた。
「……昔の話よ」
「昔の話なら双葉に当たるのは止めるべきでしたね」
 雨音の嘲るような態度が叔母の癪に障った陽で、噛み付く勢いで声が張り上げた。
「ここまで育ててあげたんだから文句言わないでよ。恩を仇で返すような真似して、本当に厚かましい所が姉さんそっくり」
 いつもならぐさりぐさりと胸を抉る言葉の羅列を聞いても、上手く咀嚼できない。何を言われても痛みを感じない。遺産の事や母と叔母の確執が衝撃的だったからだろう。もう何も考えたくないと目を背けてしまいたかった。
 ふう、と息を吐き出した双葉に叔母が何か言おうとしたが、それよりも早く雨音が間に入った。
「家事を押し付けた挙句に罵って来るような相手に恩を感じる必要はない」
「あんたは黙ってなさいよ。私はその子と話しているのよ!」
 叔母が雨音に吠えた。しかし、直ぐにその勢いは萎えた。
 ふっと空気が重くなった。
「……誰に物を言っているか理解しているか?」
 雨音の纏う雰囲気がぞっとするほど冷え冷えとしている。その攻撃的な威圧感に叔母夫婦は閉口するしかない。
「お前らはこの久我家当主の花嫁に暴言を吐いた挙句に俺に歯向かっているんだぞ」
 久我家というのは、その名前だけで怯えさせるくらい凄い名前らしい。
 ヒートアップしていた叔母も冷静さを取り戻し、顔を真っ青にさせながら口に手を当て、叔父はテーブルに額を擦りつけて謝り続けている。
 ふたりはきっと雨音を不快にしたことを誤っているだけで、双葉に対して罪悪感があるとは思えない。薄っぺらい謝罪だ。
「双葉、もう一度聞くけど、こいつら地獄に落として良い?」
 雨音の目が双葉を見た。薄っすら笑っている口の端からきらりと尖った歯が見え、瞳は瞳孔が開き、獲物を前にした獣のようだ。人とは違う一面を目にし、雨音ならば本当にやりかねないと思った。
「駄目です」
 きっぱりと断る。すると雨音の顔が不満げになる。
「何で」
「私にはそこまでする理由が無いです」
 お金をとられても、尊厳を踏みにじられても、双葉がこの家で育った事実は変わらない。恩を感じる必要はないと言われてもそう簡単に全て切り捨てるなんてできない。
 じっと雨音を見つめる。言葉で上手く感情を伝えられないから目と繋がりで分かってほしいと願った。
 すると、雨音はふっと息を吐いた。
「分かった。何もしないよ」
 話は終わりだとばかりに雨音が立ち上がる。
「双葉の心が海よりも深くて良かったな。ただ遺産の件はきっちり片付ける。俺の優秀な部下が後始末をしに来るから協力してくださいね」
 叔母と叔父が神妙に頷くのを確認し、双葉達は立ち上がった。
「じゃあ、荷物だけ取って帰ろう」
 雨音に手を引かれ、自室へ向かった。
 物置のような自室を見た雨音が再び怒りに震えたが、何とか落ち着かせて少ない荷物を抱えて家を出た。
「さようなら、今までお世話になりました」
 最後にそれだけ声をかけて、数年暮らした家に別れを告げた。

 荷物を抱えて後部座席に乗り込んだ後、ぼんやりしていたらしく、気が付いたら久我家に着いていた。
 雨音は仕事を抜けて来たようで、そのまま会社に戻るらしい。どこか焦ったような顔をして双葉の頭を撫でた。
「双葉をひとりにしたくない……連れて行っても良い?」
「雨音様、流石にそれは駄目ですよ」
 真澄が呆れたように首を振る。
「私は大丈夫です。お仕事頑張ってください」
 無理やり口角を引き上げて笑顔を作って雨音を送り出す。双葉の胸の内など雨音には筒抜けだろうが、彼は言及しなかった。ただ一言。
「ひとりにならないで、誰かといて」
 と言って、会社に戻って行った。
 雨音の言葉を聞いていたのか、久我家の前には叶野達が待ち構えていて、労わられ、ずっと傍を離れなかった。いつもは邪魔になるだろうからと入らなかった台所にまで足を踏み入れ、料理の手伝いまでして、兎に角ひとりでいる時間を減らした。
 何も考えられないようにずっと誰かと喋り、手を動かしていた。
 しかし、夕食をとり、風呂に入って自室に戻ると、ひとりになった。部屋に行ってもいいかと聞いて来た者も中にはいたが、眠たいからと断った。
 眠気などない。ただずっと頭の奥が重い。
 暗い部屋では思考もどんどん沈んでいってしまう。ちらりと見えた光に誘われて襖を開けた。
 外の空気を吸い、落ち着いた頭が今日の出来事を反芻する。学校で愛華と雨音が話していたのが遠い過去みたいにうすぼんやりしている。それぐらい叔母夫婦の家で聞いた事実は衝撃だった。
 双葉を引き取ったのは金のためだった。
 愛情などないと分かっていたはずなのに、いざ目の前に突きつけられると息ができないほど苦しい。それと同じくらい納得もしていた。何の価値もない双葉を引き取るなど、それくらいの恩恵がなければやりたくないだろう。だから、仕方がないのだ。
「私の価値は、両親の遺産分かぁ」
 ほうっと外に向けて息を吐き出す。
 衝撃的な事実だったが、涙は出なかった。
 ショックを受けているが、悲しいわけではない。
 ただ、苦しかった。
「遺産なんかなくても双葉は価値があるよ」
 不意に聞こえてきた声に視線を向けた。いつの間に帰って来たのかスーツから普段着に着替えた雨音が立っていた。
「……雨音様に甘やかされると自己肯定感があがりそうになります」
「そうか。どんどん上げて行こう」
 雨音は双葉の隣に膝立ちし、目を覗き込んできた。そして、ほっと安堵の息を吐く。
「さっきよりも顔色が良くて安心した」
「酷い顔色でしたか?」
「倒れるんじゃないかと思った。秘密を暴かなければ良かったかと後悔しかけた」
 双葉は力なく笑った。
「真実を知れて良かったです。連れて行ってくれてありがとうございました」
 まだ、上手く笑えなくて口の端が引きつる。全部受け入れ、納得しているのに体に力が入らず、上手く取り繕えない。
 頑張って笑おうとして、諦めた。
「……ごめんなさい、今日は少し疲れているみたいで、明日になればいつも通りになっています」
 いつも元気いっぱいというわけではないが、今よりはずっとましになっているはずだ。
 日課になりつつある散歩も今日は行けそうにないと頭を上げる。
「うん、そうだな」
 雨音はそう言って腰を上げた。
 あっさり離れていく体温を寂しく感じながら「おやすみなさい」と声をかけようと雨音を見上げ――思ったよりもずっと近い距離にあった顔にびくりと肩が跳ねた。
 雨音の腕が膝の裏と腰に回り、そのまま持ち上げられる。雨音は立ち上がろうとしたのではなく、双葉を抱き上げようとしていたらしい。
 急な浮遊感に双葉は驚き、暴れた。
「あ、あま、雨音様、下してください」
「うん、ちょっと待ってね」
 持ち上げられたまま廊下を進んでいく。自室からどんどん遠ざかり、散歩に行くのかと思ったが、いつも庭へ降りる場所も無視した。そしてたどり着いたのは、広く質素な部屋だった。中央に布団が敷いてある。
「ここは?」
「俺の部屋」
「……え?」
 混乱する双葉を布団に寝かせたあと、雨音が隣にごろりと転がる。
「一緒に寝よう」
 近くで微笑まれ、瞬時に無理だと思った。
 どきどきしすぎて眠れるわけがない。双葉は何度も首を横に振り、起き上がろうとした。
 しかし、それは体に回った大きな毛むくじゃらの手によって阻まれた。
 いつの間にか雨音は狐の姿になっており、ふわふわとした毛並みに体が埋もれた。人よりもずっと高い体温と大きな体に抱きしめらえ、急激に眠気が襲ってきた。
「これだったら眠れる?」
 聞こえて来る雨音の声に体の力が抜けていく。
「無理に元気になろうとしなくていい。ゆっくり受け止めて、笑えるようになろう。俺や、皆が傍にいるから」
 人間と違う大きな手に背を撫でられながら優しく諭され、つんと鼻の奥が痛んだ。
 どれだけ優しいのだろうか。なんで尽くしてくれるのだろうか。分からないけど、もう今は何も考えたくなかった。
「今はおやすみ」
 双葉は気が付いたら眠りに落ちていた。
 叔母の家と決別し、久我家で過ごし始めて気が付けば二週間がたっていた。
 何も家事をしないのは落ち着かないからと拭き掃除や朝食の手伝いをするようになり、昼は学校へ行き、夜は雨音と穏やかに過ごす日常に慣れ始めたこの頃、双葉にはとある悩みがあった。
 それは学校でのこと。
「双葉、一緒にご飯食べない?」
 双葉に嘘の告白をしてきた田辺が昼食の時や帰宅時に誘って来るようになったのだ。
 好きな人がいると公言しているが、どうせ遊びだと思われている節があるので、断っても強引に話を進められそうになる。周りは囃し立てるばかりで誰も助けてくれない。
 また揶揄っているのだろう。双葉が調子に乗ったらノリが分からないと嘲笑されるのが目に見えているので、双葉はどんどん学校が憂鬱になっていった。
 雨音には双葉の内情は殆ど筒抜けなので学校で何やら不快な出来事があるらしいと伝わっている。相談してほしいと言われたが、雨音からは学校へ行かなくても良いと軽い調子で言われそうなので、結局相談はしなかった。
 大きな問題ではないはずだ。揶揄い方が変わっただけ。そのはずだ。
「双葉はさ、俺のこと嫌い?」
 昼休憩の最中、双葉の了承も得ずに隣に腰を下ろした田辺が顔を覗き込んでそう聞いて来た。
 彼の友人達は少し離れた所で食事をとりながらことの成り行きを見守っている。まるで檻の中の動物だ。監視とは違う。娯楽の一種を見るような視線に辟易した。
「嫌いとはでは」
「じゃあ、好き?」
 好きではない。しかしそう答えて良い物か分からず黙るしかない。
「ふうん、そっか。あのさ、今日の放課後空けて欲しいんだけど」
「迎えが来るので……」
「ちょっとの間でいいから」
 有無を言わさない口調に了承しないわけにはいかなかった。
 正直、田辺と話すのは苦手だ。嘘の告白をされ、ノリが悪いと全てを否定されたことを思い出してしまう。いつまでも根に持っているみたいで嫌なのに、頭の中に浮んで消えてくれない。
 憂鬱だと気分が沈むほど時間は早く過ぎ、あっという間に授業が全て終了した。そして、放課後になった。
 部活がある生徒達はさっさと教室を出て行き、帰宅する生徒も早々と帰って行く。その中に数人教室に残る双葉をちらりと見たものがいた。恐らく、昼休憩中に田辺が双葉を誘っているのを聞いた人達だろう。
 変な噂が広がったら嫌だな。
 ただでさえ変な男に片想いをして弄ばれているなんて言われているのだ。これ以上は噂の中心に立ちたくない。
 双葉はそっとため息を吐き、ポケットを探ってスマホを取りだした。これは、先日雨音からプレゼントされたものだ。双葉は持っていなくても問題ないと言ったが、何かあった時に連絡できないと困るからと渡された。
 待ち受け画面は雨音と共に撮ったものだ。ぎこちない笑顔の双葉と爽やかな笑みを浮かべている雨音の写真。画像フォルダには久我家の真澄や叶野、他の者達や雨音と共に散歩をするあの庭の写真なども保存してある。
 必要ないと思っていたのにたくさん写真を撮ったおかげで手放せない存在になりつつあるスマホを慣れないてちきで操作し、雨音に少しだけ遅れる旨を送り、画面を暗くした。
「双葉、時間取ってくれてありがとう」
 その声に顔をあげると、隣に田辺が立っていた。いつの間にか教室には双葉と田辺だけになっており、ふたりきりの空間に緊張する。
「あ、いえ」
 向こうが立っているのに座っているのは失礼かと思い立ちあがる。
 田辺の身長は双葉よりもずっと高いが、雨音よりは低い。慣れた目線の高さじゃないことに違和感を覚えつつ、少しだけ距離をあけた。
「話があるんだ」
 田辺は緊張した様子で口を言った。
「好きなんだ、双葉のこと」
 吐き出された言葉にすうっと頭の芯が冷えていく。
「罰ゲームで告白して酷いこと言ったのに今更何言ってんのって感じかもしれないけど、本気。今度こそ嘘じゃない」
 田辺の顔は真摯で、嘘を吐いているようには見えない。しかし、前の告白の時だって双葉は嘘を吐かれているなんて思いもしなかった、これは嘘じゃないと言われても信じられる要素はない。
 真剣に向き合ってくれているのだから、きちんと思いを返すべきだろうか。前のことなんて流して?
「わたし……好きな人がいるので」
 声が震えた。
「ごめんなさい」
 頭を下げたらまた田辺の友人が笑いながら教室に入って来るのではないか、そんな想像が過り、顔を上げた双葉の視線は教室の扉へ向かった。
 扉は沈黙している。
「……今日は誰もいないよ」
 双葉の視線の意図はしっかりと田辺に伝わった。
 彼は痛みをこらえる様に笑い、頭を下げた。
「ごめん、本当に。罰ゲームなんかで告白するべきじゃなかった。揶揄ってごめん。酷いこと言って、傷つけてごめんなさい」
 田辺の声からは懺悔するような響きがある。きっと自身の行動を心底後悔したのだろう。
 その態度に双葉は首を横に振って答えた。
「気にしていないです。でも、もうああいうことはしない方がいいと思う」
 双葉の言葉に田辺は掠れた声で「うん」と言い、もう一度謝罪を口にした。
「ごめん」
 それに双葉は笑って、何でもないことのように受け止めた。
 謝っているのだから許すべきなのだ。まだじくじく痛む気がするが、双葉が気に止めなければいいいだけ。
 双葉は田辺に笑いかけ、罰ゲームの告白は過去のものへと昇華し、本物の告白はきっぱりと断った。
「それじゃあ、私はこれで……」
「ちょっと待って」
 迎えが来るからと帰ろうとした手を取られる。触れた熱に体が強張ったが、悟られないように引き攣る頬を必死で緩めた。
「好きな人ってあいつだよね? あの白髪の」
「そうですけど」
「あいつは止めた方がいい」
 きっぱりとした物言いは、双葉が弄ばれているという噂を聞いたからだろう。
 心配ないと否定しようとしたが、その前に田辺が続ける。
「信じられないかもしれないけど、あいつは人間じゃない。あやかしなんだ」
 驚きで声も出なかった。
 どうして田辺があやかしの存在を知っているのだろうか。
「な、なんで」
「もしかして知ってた? じゃあやっぱり妖狐の婚儀に利用されたのか……」
 困惑する双葉を置いて田辺はひとり納得したようにぽそりと呟く。
 田辺が双葉の両肩をがしりと掴んだ。
「ひっ」
 驚いて短く悲鳴を上げる双葉に気付かず、今にも噛み付きそうな表情で迫ってきた。
「あやかしの感性は人間と違うんだ。俺たちの常識なんて通用しない。それにあの久我雨音は女を切っては捨て切っては捨てる悪い男だと聞く。双葉も遊ばれて……」
「そんなことないです!」
 聞き捨てならない言葉に反射的に否定した。
「雨音様はそんなことしないです」
「……久我雨音に近寄る女はみんなそう言うんだ。そして捨てられて泣くんだよ」
 田辺は憐れむ様に言う。
「みんなって誰ですか……それに、どうして田辺君はあやかしの事を知っているんですか?」
「うちの親が仕事で関わるから、そこから聞いた。でも上流階級の中では常識、っていうか、暗黙の了解らしい。言ってはいけないわけじゃないけど、混乱を避けるために公言はなるべく避けるようにってね」
 田辺は落ち着いてきたのか気まずげに双葉の肩から手を離した。
「みんなっていうのは、上流階級の女の人。久我家に取り入ろうとすり寄ってる所を見たことある。すごい冷たい目をして振り払ってた。あんな男が双葉を相手するわけないよ」
 その言葉で田辺が何を言いたいのか漸く分かった。
 双葉と雨音はつり合っていないからきっと遊ばれているだけで、傷つく前に離れろと言外に伝えているのだ。
 あやかしは人の常識が通用しないと言ったが、双葉の常識だってクラスメイトには馬鹿にされた。
「……私は、雨音様を信じます」
 双葉らしからぬ強い眼差しに田辺は虚をつかれた顔をした。
「そう……じゃあ俺から言うことはない。ただあやかしなんかとは幸せになれないと思うよ」
 まるで呪いのような言葉を最後まで聞かず、双葉は鞄を持って教室を出た。
 あやかしと人間は違う。幸せになんかなれない。そんな言葉がぐるぐると回り嫌な考えに押し潰されそうになりながら昇降口へ向かう。
 靴箱の前に田辺の友人達がいてぎくりと体が強張ったが、揶揄ってくる様子はない。きっと田辺を待っているだけだと気づき、顔を伏せてその場を足早に去った。
 早く、雨音の顔が見たい。その一心で校門を目指した双葉の視界に車が映る。しかし、それはいつも真澄が乗っているものでも雨音の車でもない。見たこともない赤いスタイリッシュな車に足が止まる。
 雨音はまだ来ていないのだろうか、とスマホを確認しようとした時。
「双葉!」
 前方から聞き覚えのある声が聞え、はっとした。そして、赤い車の後部座席の窓から顔を出した人物に驚いた。
「梓さん!?」
 片手を上げて答えた梓に駆け足で近寄る。
「乗りさない」
 梓に言われるままに後部座席に乗りこみドアを閉めた途端、車が発進した。
「どうして、梓さんが?」
「雨音はちょっと用事があるって連絡が来ているはずよ」
 慌ててスマホを確認すると双葉が送ったメッセージに『今日は迎えに行けそうにない。代わりに梓が行くから何かあったらすぐに連絡して』と返信が来ていた。その後、反応のない双葉を心配する連絡が連なっている。
『連絡が遅くなってごめんなさい。今梓さんと合流しました』とゆっくり返事を打った。
「五分返事がないだけで連投してくるなんてキモイわね……」
 梓が双葉のスマホの画面を見ながら顔を引き攣らせた。
「雨音様、心配性みたいです」
「あの久我雨音が女に執着するなんて、人生何が起こるか分からないわね」
 梓は驚いたような呆れた様な顔で言った。
 それに運転席にいる環も同意したが、双葉はその言葉の意味がよく分からなかった。
「私の知っている久我雨音は女嫌いで、どんなに美しい子が擦り寄って来ても無視するか舌打ちするかで全く靡かない男だったのよ。婚儀だってただの通過儀礼としか捉えていなくて、婚儀はするけど結婚はしないなんて公言していたわ」
「そうなんですか?」
 雨音を幼少期から知っている梓が言うのなら本当なのだろう。田辺も女性を切っては捨てていたと言っていたが、擦り寄って来る人を相手にしなかったという意味だと分かった。
「ええ。雨音にとって双葉は特別なのよ」
「特別……」
 その言葉に浮かれそうになったが、すぐに環が言っていた婚儀で心を操っている話が浮かびすっと気持ちが凪いだ。
「……それは婚儀のせいではないですか? 婚儀が雨音の心を縛っていて、私に執着しているだけなんじゃ」
「は? 婚儀にそんな機能はないわよ」
 暗くなった双葉の言葉を梓があっさり否定した。
「でも、環さんがこの間言ってました」
「ああ、あれですか」
 環は、今思い出しましたという風に言う。
「あれは嘘です」
 そうしてあっさり、軽い口調で告げられた言葉に双葉は絶句した。
「いやあ、まさかあんな嘘を信じているとは思いませんでした。あれは作り話で、私の負け惜しみです」
「負け惜しみって言うと私が負けたことにならない?」
 悪びれる様子もない環に梓がため息を吐き、代わりに謝罪を口にした。
「ごめんなさいね。環ってば私の事になると周りが見えなくなるの」
「いえ、それよりも婚儀にそんな機能ないって本当ですか?」
 必死の形相で梓に詰め寄ると梓はあっさりと頷いた。
「心を縛るなんてできないわよ。そんな力があるのなら私と婚儀を済ませているはずでしょ? 婚儀の水は相手との相性を見る物でしかないわ。私と雨音は相性が死ぬほど悪くて水を飲めなかったってだけ」
「飲めなかった?」
 思い返せば双葉は雨音と梓の婚儀が失敗になった理由を知らない。
「言っていなかったかしら? 婚儀の時に水を飲もうとしたけど無理だったの。匂いがね、もう無理だと言っていたわ。飲んだら死ぬとさえ思ったから口も付けなかった。その後の候補者も全員同じ理由で駄目になったの。無理やり飲もうとした者もいたらしいけど、泡を吹いて倒れたらしいわ。そもそも相手が飲んでも雨音が飲まないと意味ないしね」
 梓の引きつった表情から婚儀がどれだけ壮絶だったのか察せられた。
 双葉が飲んだ水は蜂蜜のように甘く、死ぬような思いなど程遠かった。
 あれは双葉と雨音の相性が良かったからなのだろうか。
「だからね」
 梓は真剣な表情で双葉を見ていた。
「婚儀が失敗に終わった者はもう諦めが着いているからいいのよ。厄介なのは婚儀を行わなかった者よ。彼女達は今でも私だったら婚儀が成功したはずだと信じているから、双葉を目の敵にしている者も多い。気を付けなさい。貴方が本気で雨音を好きなら絶対離しちゃ駄目よ。そして、あやかしを簡単に信じてはいけない」
 するりと伸びた手が双葉の頬へ伸び、長く綺麗な爪が皮膚を撫でる。
 頬に意識が集中していたが、眼前に迫った梓の目にぎくりとした。大きな目の中央に鎮座する瞳孔が猫のように縦長の楕円になっている。その目に見つめられると落ち着かない気持ちになった。
「あやかしは貴方が思っているよりもずっと狡猾なんだから」
 体を離した梓の雰囲気は穏やかなになっていた。いつの間にか詰めていた息を吐き出す。
「びっくりしました」
 素直に言葉を吐きだし、胸を撫で下ろす双葉に梓は軽やかに笑った。
「私に対しても緊張感を持つのは大事よ」
 そう言われても今更梓に対して警戒するのは難しい。
 そうこうしている内に車が久我家に敷地内は入った。開けた庭先からは玄関の様子が良く分かった。
「え」
 視界の飛び込んできたものに双葉は思わず呆然とした。
 玄関の前に数人集まっている。その中には雨音の姿もあるのだが、彼の前には黒髪の美しい女性がいた。驚いたのはふたりの様子が親し気だったからだ。
 雨音はこれまで女性に対して、どこか冷たい態度を崩さなかった。女性に微笑んでいる所を見るのは初めてで動揺した。
「あれ久我家の分家、稲葉家の長女よ。名前は朱莉。雨音とは幼い頃からの知り合いで、私と同じ元婚約者よ。……何であんなに笑っているのかしら」
 梓が説明してくれているうちに車が止まった。庭先に入って来た車に玄関に立っていた者達の視線が集まる。
 車窓から雨音と目が合った。
 途端、彼の顔がとろりと甘く蕩け、嬉しそうに駆け寄って来た。
「双葉、おかえり」
「雨音様、ただいま……うぐ」
 車を降りた瞬間抱きしめられ、息が止まるかと思った。
「大丈夫? 何か嫌なことがあっただろ。全部わかるからちゃんと話してね。もしかして梓に何かされた?」
「違います、何もないですよ」
 田辺に呼び出されていた辺りでの双葉の心境を感じ取って、心配していたのだろう。連絡を返すのが遅くなったせいで随分気を揉んだらしい。申し訳なくなり、そっと雨音の背に触れると嬉しそうに耳元でふふっと笑う声が聞えて来た。
「ちょっといちゃつくのは後にしなさいよ」
 車を降りて来た梓にはっとして雨音から距離を取る。雨音のスキンシップの多さに段々と慣れはじめていたが、人前でやることではなかった。
「す、すみません」
 かあっと顔を赤くしながら謝罪をする。
「そうだった。まだ話は終わって居ないんだった」
 いつもは離れたくないとごねる雨音だったが、今日はすんなり離れて振り返った。
「待たせて悪いね」
 雨音がちっとも悪いと思っていない声色で言い、双葉の手を握って玄関前で待っている者達の元へ向かう。
 玄関の前には真澄の他にふたり見覚えのない男女がいた。ひとりはスーツ姿の体格の良い男性。吊り上がった目が印象的で、目が合うとつい委縮しそうになる。その隣に立っているのが、先程雨音と親し気に笑っていた女性――稲葉朱莉だ。腰まである長い黒髪を靡かせて立つ姿は一枚絵のようで見惚れてしまう。梓とは系統の違う美人だ。
「……いいよ。それで、そちらが?」
「ああ、俺の花嫁の双葉だ。双葉、こっちは、稲葉朱莉。うちの分家の人間だ」
 先日まで婚約者だったはずが、いつからか花嫁に昇格していたらしい。突っ込める空気ではないので、そのまま頭を上げる。
 雨音の説明は端的でわかりやすいが、無駄を排除しすぎて情報が無さすぎる。
「どうも初めまして双葉さん。私は雨音の幼なじみみたいなものよ。よろしくね」
 そっと差し出された手を反射的に握る。ひんやりとした細い手だ。
「それにしても雨音が結婚したとは聞いていたけど、こんなに溺愛しているとは思わなかったなぁ。私のこと放って走って迎えに行っちゃうんだもん」
「当たり前だろ」
 ばっさり切って捨てるような物言いに双葉は違和感を覚えた。
 車で見た時の様な親し気な空気どころか、笑顔すらない。雨音の表情は無表情に近い。
 どうしたのかと雨音を見上げ、視線が合うと「なに、どうしたの?」と目を細められた。
「い、いえ、話が終わっていないと言っていたので、何の話をしていたのかと思って」
「ああ、そうだった。実はパーティーの招待が来ているんだ」
 雨音はため息を吐いた。
「双葉が高校を卒業するまでは花嫁のお披露目はしないと言っていたのに分家連中が一回顔を見せろと騒いでいるらしい。それを断っていたところだよ」
「断っても大丈夫なんですか」
「全く問題ないよ」
 しっかりと頷く雨音に朱莉が首を振った。
「問題大ありよ。当主を継いだのに顔を見せないなんてありえない。双葉さんが出たくないと駄々を捏ねているなんて噂をしている者だっているの。人間だからって批判している者だって少なくないんだから顔見せは早くすべきよ」
「誰だそんな馬鹿なことを言っている奴は。俺が双葉を見せたくないからだと訂正しておけ」
「あのねえ」
 ふたりが言い合いを始めたのを眺めながら、双葉は朱莉の言葉を考えていた。
 人間である田辺があやかしとは生きていけないと言っていたが、あやかし側だって懸念や批判が浮かぶのは当然のこと。双葉の顔を見た所で批判が落ち着くとは思えないが、少なくとも駄々を捏ねているとは思われないはずだ。
「顔見せは必要よ」
 そう言ったのは、傍観に徹していた梓だ。
「批判の声を抑える意味もあるけど、婚儀を成功させて力を安定させた双葉に感謝している者もいるの。交流の場は設けるべき。それに雨音の独断で決めて良い事じゃないわ。双葉に話を聞きなさいよ」
 梓の言葉に雨音は苦虫を噛み潰したような表情をした後に困ったように双葉を見た。
「……双葉はパーティーなんて出たくないよね」
「聞き方どうにかしなさいよ」
「お前は黙ってろ」
 雨音と梓の聞き慣れた言い合いをしり目に双葉は覚悟を決め、拳を握った。
「あの、私も出た方がいいと思います。でも、パーティーなんて経験がないのでマナーも何もなっていないですし、雨音様の恥になってしまうかもしれないので、どうか少しだけでも良いので時間をください」
 お願いしますと続けようとしたが、不意に体を持ち上げれて叶わなかった。
「恥なんて思うわけない。双葉は立って微笑んでいるだけで良い。ご飯も好きに食べて良いし。マナーが気にならない立食会にしよう。分からないことがあったら俺に何でも聞けばいい」
「で、でも、本当に私常識何てなくて」
「大丈夫。こんばんはいい天気ですねって言っておけばいいから」
 良いわけないのは、いくら知識が無くても分かる。
「……もしかして、パーティーまで時間が無いんでしょうか?」
 大丈夫だと言って勉強の時間を設けようとしない雨音に思い浮かんだ懸念の口にする。雨音は眉を寄せて、
「明日だって」
 と呟くように言った。
「あ、した?」
「こいつらが勝手に決めたことだから無理に行く必要はないよ。後日でもいいし、行かなくても良い」
 明日何て寝たらすぐに来てしまう。普通のテストとは違い、見た目も大事なパーティーで徹夜明けの酷い顔で行くわけにはいかないので一夜漬けなど言語道断だ。つまりもう時間が無い。雨音は鷹揚に笑っているが、朱莉はちっとも笑っていない。
「準備期間がなくてもごめんなさい。実は当初はただの親戚の集まりになる予定だったの。それに誰かが雨音や双葉さんを呼ぼうと言い出して……大規模なパーティーの肩慣らしにもなるし良いかもってなって」
「まぁ、いいんじゃない? 最初から大企業の重鎮が集まる所に入れられるよりは。服も準備のこっちでしてあげるし、私もいるしね」
 朱莉をフォローするように梓が言う。
 どれだけの規模かは分からないが、確かに人数が少ない方が有り難い。
「双葉、無理しなくていい」
「大丈夫です。何とかやってみます」
 心配げな雨音に微笑んで返す。すると、抱き上げていた体をそっと降ろされ、優しく抱きしめられた。
「可愛い。大好き」
 ふわふわとした心持が伝わって来て、人目があるというのについ頬が緩んだ。
 ふと雨音越しに無表情の朱莉の姿が見え、一瞬呼吸が止まった。双葉と目が合った彼女はすぐに微笑んだので、気のせいかと思ったが、気持ちがざわついた。
「それじゃあ、明日。よろしくお願いしますね」
 美しく微笑み去って行った朱莉に少しだけ不安が残った。