儀式を終えても狐達は直ぐには人間の姿にならなかった。
「婚姻の儀を終えただけで、これから当主襲名だからね。襲名したら力が安定するよ」
 不思議に思っていた双葉に雨音が説明してくれた。
 それにうんうんと相槌を売っていた双葉の事情から声がした。
「双葉様」
 呼びかけに顔を上げると、いつの間にか隣に来ていた真澄が穏やかに言う。
「本当にありがとうございます。これで我々も普通の生活が送れます」
 力が制御できるようになれば人間に紛れて生活できるようになる。不自由な生活から解放されて良かったと双葉は自分のことのように嬉しくなった。
「お力になったのなら、良かったです」
 そうして、双葉はくるりと部屋を見渡した。
「あの、所で今は何時でしょうか?」
 この部屋には時計がない。雨音と出会ってから一体どれだけ時間が立っているのか分からない。早く家に帰って家事をしなければ、腹を空かせた叔母さん達に怒られてしまう。
 真澄は胸元からスマホを取りだすと毛むくじゃらの手で器用に操作した。
「今は八時過ぎです」
 その言葉にざっと血の気が引いた。
 いつもならもう食事を始めている時間だ。叔父さんの帰りが遅ければいいが、昨日のように早かったら空腹で苛ついているだろう。怒りに震える叔母夫婦を思い出し、双葉は慌てて腰を上げた。
「すみません、遅くまで拘束してしまって」
「大丈夫です、けど、あの、もう帰って大丈夫ですか?」
 双葉の質問に、部屋の空気が一瞬固まった。瞬きほどの間だったので気のせいかもしれない。
 真澄が雨音をちらりと見てからにっこりと笑って頷いた。
「はい、勿論です。家まで送ります」
 女中に手伝って貰い、重たい衣装を脱いで制服に着替え、化粧も落とした。いつもの自分に戻るとほっとした。
 お世話になった狐達に向き合って、頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「それはこちらの台詞ですよ、双葉様」
 叶野にふわりと手を握られる。
「また、いらしてください。今度はおもてなしをさせてください」
 その言葉が例えお世辞だったとしても嬉しかった。双葉は破顔し、手を握り返すと何度も頷いた。
「ありがとうございます」ともう一度お礼を言い、雨音と共に屋敷を出る。外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか雨が降っていたらしく雨水に濡れた藤が月明かりに照らされて幻想的に輝いている。まるで夢の様な光景の中を進み、一度だけ屋敷を振り返った。
「どうかした?」
 雨音の問いに双葉は屋敷を見つめながら言った。
「夢みたいに美しいので、目に焼き付けておきたくて」
 もう二度と来ることはないのだろうから、覚えておきたかった。しかし、他人にじろじろと家を見られるのは気分が良い物ではないかもしれないと思い直し、慌てて目線を逸らした。
「無遠慮に見てしまって、すみません」
 怒られるかもしれないと少しだけ目を伏せた。
「いや、満足するまで見て良いよ」
 雨音は双葉の我儘を許してくれた。
「ありがとうございます」
 双葉はもう一度だけ屋敷を見て美しい光景を瞼の裏に焼き付けた。
 帰りは行きと同じように不可思議な鳥居をくぐり、家から少しだけ離れた路地裏に場所についた。夜なので人気は少ないが、誰がどこで見ているかわからないので早く雨音を家に帰した方が良い。そう思い、すぐに別れようとしたが、雨音が双葉の手をぎゅっと握ったのでその場で止まった。
「お礼をしたい」
 真剣な表情に首を振る。
「何もいらないです。大丈夫です。送ってくださってありがとうございます」
「でも」
「誰かに見られる前に帰った方が良いですよ」
 雨音は何か言おうとしたが、双葉の頑なな態度に結局何も言わなかった。
「じゃあね。本当にありがとう双葉」
「はい。さようなら」
 そう言って雨音と別れ、緊張しながら家の玄関に立った。叔母夫婦は暴力を振るう人ではないが、言葉の棘で傷つけられるのは怖かった。緊張と恐怖で震えながら玄関をそっと開いた。
 ぴりぴりしているかもしれないという予想は裏切られ、リビングからはいつも通りの和気藹々とした声が漏れ聞こえている。安堵の息を吐き、リビングの扉を開けると濃厚なピザの匂いがした。
 扉が開いた音に反応した叔母が双葉の方を見て、顔を顰めた。
「あんた家事もせずにどこにいたのよ」
「すみません、あの……」
 咄嗟に謝罪を口にして、ここに来るまでに考えていた言い訳を口にしようとしたが、その前に叔母に遮られた。
「まぁ、どうでもいいわ。どうせ遊んでいたんでしょ? 人に養ってもらっておいていい御身分ですね。あんたのご飯はないから、さっさとどっか行って」
 しっしっと追い払うように手を振られ、双葉は唇を噛みながら踵を返した。
 その間、叔父も愛華も双葉に一瞥もくれなかった。まるでいないもののように扱われるのは慣れているはずなのに、酷く傷ついた。
 自室に入った途端、疲れがどっと押し寄せてその場に蹲る。詰めていた息を吐き出し、自分を守る様に体に腕を回す。そうしていないと心が折れてしまいそうだった。
 ぎゅっと眉間にしわを寄せ、自身を落ち着かせるべくゆっくりと呼吸を繰り返す。
「あれ……」
 ふと、胸の奥がふわりと温かくなった。
 そっと手で触れてみるが特におかしいところはない。
「なんだろう、これ」
 目を閉じて胸の温かさに集中する。するとその熱が双葉の傷ついた心を労わっているのだと気が付いた。誰かと繋がっているような気がした。不思議だが、恐怖はない。今日は狐のあやかしに会うなどとても現実だとは思えない様な体験をしたのだ。これくらいでは驚かなくなっている。
「慰めてくれるんですか?」
 そっと問いかける。答えは無いが、それでもいい。
 自分がひとりじゃないのだと思えて、漸く呼吸が出来た気がした。

 久我家雨音との婚儀を行ってから二週間がたった。双葉の生活がそれから一変することはなかった。
 嘘告白についての話題は数日もすれば流れ、双葉が話題にあがることはほぼなくなった。偶に隣のクラスの愛華と比べる時に名前があがる。
「作野双葉は愛華と違って愛想が無い」などという声が聞こえてくることもあった。しかし、それだけだった。
 変わったこともあった。胸が暖かくなったあの時から向こう側にいる誰かの感情が流れ込んでくるようになった。考えていることがわかるというより、嫌な思いをしている時や機嫌が良い時に双葉に感情が流れ込んでくるみたいだ。理由は定かではないが、恐らく婚儀の影響だろう。それしか思い当たらない。
 だとしたら向こう側にいるのは雨音だろうか。双葉と感覚共有しているなど不快ではないだろうか、と不安になるが連絡をとっているわけではないので聞くに聞けない。
 連絡していいからと言われたが、あれはきっとお世辞だろう。真に受けて連絡するわけにはいかない。
「起立」
 と担任教師の声に我に返る。今はホームルームの最中だったと思い出し、慌てて立ち上がると礼をした。
 一日の授業を終えた生徒達がぞろぞろと教室から出て行く。今日は週末なので、明日の予定を立てている声を聞きながら双葉も生徒達に続いた。
 のろのろと靴を履き替え、昇降口から出たところで異変に気が付いた。
 校門に人だかりができている。集まっているのは女子生徒が多く、きゃらきゃらと色めき立つ声が聞えて来る。
「あれ誰? かっこいい」
「やばい、誰かの彼氏とか? 羨ましい」
 そんな声が聞えて来たので、誰か知らない人が校門にいるらしい。
 双葉は人だかりから離れて校門から出ようと俯きがちになりながら足を進めた。
「双葉」
 聞えて来た声に顔を上げる。するとそこには目を見張るほどの美形が立っていた。白い髪に緑色の目をした長身の男が女子生徒に囲まれながら双葉をじっと見つめていた。
「え……」
 男性は双葉と目が合うとずかずかと歩いて来て、むくれたような顔で言った。
「何で連絡くれないの?」
「え、あの?」
 知り合いの様な気安い物言いに戸惑う。双葉は男性が一体なんのことを言っているのかまるで分からなかった。
 混乱する双葉に焦れた男は、双葉の手を取った。その途端、周りで見ていた生徒達から歓声とも悲鳴ともとれる声が上がる。その声の大きさと視線の多さに双葉は体を縮め、男は盛大に舌を打った。
「ここだと人目が鬱陶しいね。場所を変えよう」
「あ、あの、貴方は一体」
 人から注目されるのは嫌だったので早く逃げたかったが、それよりも知らない人間について行く方が怖かった双葉は男性に引っ張られながらもその場に留まろうと抵抗した。
 双葉の疑問に男性は目を瞬かせ、首を傾げた。
「分からない? までしたのに」
 その瞬間、爆発したような悲鳴が轟いた。
「結婚⁈ 今結婚って言ったよね?」
 生徒達がわいわいと騒ぐ中、双葉の思考は停止していた。
 確かに二週間前に婚儀をしたが、あれは法的な制限はなく結婚したことにはならないはず。それに双葉の結婚相手は狐であり、人ではなかった――いや、確か彼らは人に化けて暮らしているのではなかっただろうか。
「久我雨音って言えばわかる?」
 双葉以外には聞こえないように耳元で囁かれた言葉に目の前に男が久我家当主、双葉が婚儀を上げた男性だと分かった。
「と、当主様?」
 ぼそりと呟いた言葉に雨音は頷いた。
 本当に人の姿になるのか。と驚きと困惑で茫然とする双葉は急に手を引かれて、反応が遅れた。あっという間に校門前に止まっている車に乗せられ、車が発進すると帰路とは反対方向へ進んでいく。
「強引に連れ出してごめん」
 運転席に座る雨音の謝罪に双葉は目を瞬かせた。
「いえ、それは大丈夫ですが、あの、どうして、学校に来られたんですか?」
 至極当然の疑問だと思ったのだが、雨音はむっと顔を顰めた。
「来ちゃ駄目だった?」
「そういうわけじゃなくて……」
「俺はもう一回に会いたかったし、連絡も待ってた。どうして連絡して来なかったの?」
 会いたかったという言葉に驚く。連絡に関してもお世辞だとばかり思っていたが、雨音の表情から本音だったのだと気が付く。
「め、迷惑かと」
「そんなことない。というか、玉の輿に乗れるかもとか考えなかったの? 連絡とって仲良くなろうとか考えなかったみたいだけど、なんで」
「何でと聞かれても……」
 雨音の物言いでは、連絡を取らなかった双葉がおかしいみたいだ。
 玉の輿なんて考えは一瞬も浮かばなかった。
「……もしかして、あやかしなんて嫌だった?」
 信号が赤に変わり、車が止まる。
 雨音の声はどこか不安げで、双葉は力いっぱい頭を振って否定した。
「い、いえ。違います。そういうわけじゃなくて。そんな考えも浮かばなかったんです」
 雨音は真意を探る様に双葉を見つめた。
 嘘じゃない、と訴えかけるように見つめ返す。すると雨音はふうと息を吐いて座席に背をつけた。
「化け物屋敷には来たくないかと思った」
「そんなことないです。行けるのなら、行きたかったです」
 いるだけで息が詰まる家よりも久我家はずっと優しかった。もう一度来てほしいと手を握ってくれた叶野の言葉に甘えたくなったが、連絡はできなかった。
「そうか。じゃあ、これから行こう」
「え?」
 聞き返すと、雨音が言う。
「これから久我家へ行こうか」
 その言葉と共に車が動き出した。
「え、い、今からですか?」
「ああ。何か問題があるか?」
「私、家事をしないといけないので、帰らないと」
 何も言わずに帰らなければまたあの日のように棘のある言葉を吐かれるのは間違いない。
「家族は、双葉が一日いないだけで生活ができないの?」
 雨音の質問に言葉が詰まった。
 双葉が居ない方が叔母夫婦は快適に過ごせるはずだ。ご飯はあの日のように宅配サービスでもコンビニでも手ごろに買えるので、双葉が一日帰らなくても全く問題はない。
 しっしっと追い払われたことを思い出して顔が歪む。
「問題ないなら一緒に来て。家には連絡を入れればいい。それか俺から連絡をしよう」
「いえ、大丈夫です。連絡は私がします。でも、すみませんがスマートフォンを貸して貰っても良いですか?」
 双葉はスマホを持っていない。雨音はちらりと双葉の顔を窺ってから、頷いた。
「ああ、家に着いてからね」
 それから十分後、気が付いたらあの屋敷に着いていた。
 今回は不思議な鳥居を通ることがなく、車で山道を通った。
「あの鳥居を通らなくても来られるんですか?」
「ああ、婚儀の時は力が不安定になるから狐の姿から戻れないんだ。だから鳥居を使った別のルートで行き来をするんだけど、普通の道でも問題なく来られるよ」
 エンジンが止まり、雨音が車を降りたので、双葉も外へ出た。
 屋敷の前に咲き誇る藤の下に焦げ茶の髪色の男と、黒髪の女性が立って待っていた。
「雨音様! おひとりでどこへ行っていたんですか……」
 焦げ茶の男が雨音に向かって声を上げたが、すぐに双葉の存在に気が付く瞬きを繰り返した。
「双葉様?」
 その声には聞き覚えがある。
「もしかして、真澄さんですか?」
 焦げ茶の髪の毛は、狐の時の毛の色と同じだ。
「そうです。真澄です。雨音様は双葉様と迎えに行っていたんですね」
 真澄はとろけそうなくらい顔を綻ばせる。
「うん、話があったからね。それにお前らも会いたいって言っていただろ」
 雨音の視線は真澄の隣に立つ女性に向けられた。後頭部で髪をひとつに結っている紫色の着物の女性だ。その着物の色に既視感を覚えた。
「……叶野さん?」
 双葉がその名を呼ぶと、女性はふわりと優し気な笑みを浮かべた。
「そうです。この姿で会うのは初めてですね」
 人間の姿の叶野は凛とした佇まいの美しい女性だ。百合のような気品のある清らかな雰囲気に纏っている。
「はい。お元気そうで良かったです」
 狐の姿では表情の機微までは分からなかった。叶野は双葉を柔らかい笑みで迎えると、背後を振り返った。叶野の視線の先、久我家の玄関から双葉達を見る人影があった。
「皆も双葉様と会えるのを楽しみにしていたんですよ」
 玄関にいたのは、着替えや化粧を手伝ってくれた女中達らしかった。彼女達は双葉と目が合うと嬉しそうに破顔し、控えめに手を振って来るので、双葉は会釈を返した。そのやりとりを見ていた雨音がふっと吐息だけで笑う。
「叶野、双葉を客間に連れて行ってくれ」
「はい。双葉様。お約束通り私達のおもてなしを受けてください」
 そっと手を取られ、屋敷の中へ誘われた。
 案内されたのは、中央に木の模様がくっきりと入った大きなテーブルがどんと鎮座している和室だ。双葉は促されるままにテーブルの端に座るとその隣に雨音が腰を下ろした。
「あの、どうして私は連れて来られたのでしょうか」
 雨音とふたりになった部屋で緊張して震えそうになる手を握りしめながら質問した。
 すると雨音は目を瞬かせ、首を傾げた。
「会いたかったから。カフェとかでも良かったけど、人目があると落ち着かないからね」
 にこっと微笑まれ、戸惑いに目を泳がせる。
「何で私なんかに……」
「地位とかお金とか全く関係なく、ただの善意で助けてくれた女性に会ったのは初めてだった。すぐに連絡するかもって思っていたのに全然音沙汰内から更に気になって会いたくなった。それに」
 雨音はずいっと顔を近づけて来たので驚いて後退る。
「感覚を共有しているのは気づいているよね? 俺は、ずっと双葉が頭から離れなかったよ。双葉は?」
 眼前に迫る真剣な表情に目を白黒させていたが、感覚の共有という言葉にはっとした。
 やはりあの感覚は雨音のものだったらしい。
 双葉はずっと伝えたかった思いを口にした。
「私は、落ち込んでいる時の支えにしていました。勝手に頭の中を覗いているみたいで申し訳なかったのですが、貴方が愉しいときは何だか嬉しくなっていて、ひとりじゃないって思えて前よりも辛くなかったです」
 暗い自室でひとりでいる時も愛華と比べられても胸の温かさを思い出して乗り越えていた。ずっと感謝の気持ちを伝えたかったのだと目を見つめながら伝えた途端、雨音がふっと視線を逸らした。
「……びっくりした。そんな真っ直ぐに見つめられるなんて思わなかった」
「あ、すみません。不快でしたよね」
 叔母から散々目を合わせるなと言われていたのに、雨音にまで不快な思いをさせてしまった。申し訳なくなり誤ったのだが、雨音が首を振った。
「不快なわけない。双葉はどうしてそんなに卑下するの?」
「卑下しているわけではなくて、その、すみません……」
 言葉が続かない。人との関わってこなかったせいか、会話をするのが得意ではないのだ。
 情けなくなり、俯く双葉の鼻腔にふわりと甘い匂いが入り込んできた。咄嗟に顔を上げ、さっきよりも近づいた雨音との距離に息を呑む。
「すぐに謝るのは癖?」
「ち、違います。あ、あの」
 近いです、と言いたいのに舌がこんがらがって上手く言葉が出て来ない。顔を赤くしながら、そろりと視線を別に向け、壁に掛かっている時計が目に入った。
 その途端、大切なことを忘れていた事実に気が付いた。
「あ、連絡!」
 家に連絡を入れるのをすっかり忘れていた。いつもならもう帰宅している時間になっている。
 雨音も時計を確認し、ポケットからスマホを取り出した。
「そうだった。はい。スマホ。ここで電話していいから」
 雨音が画面を操作し渡してくれたスマホを受け取る。叔母さんの家の電話番号を思い出しながら打ち込む。勢いで通話ボタンを押すと呼び出し音に切り替わった。無機質な音を聞いている間、心臓が嫌な音を立て、緊張で手が震える。
 雨音に覚られないように必死で取り繕いながら叔母さんが電話に出るのを待った。
 ぶつ、と音が途切れた瞬間、緊張が最高潮に達した。
「はい、もしもし」
 機械越しのいつもよりも少しだけ高い叔母の声にぎゅっと拳を握りしめ、言葉を吐き出す。
「もしもし、叔母さん?」
「……そうだけど、なに? あんた何で帰って来ないの?」
 電話の相手が双葉だと気が付いた途端、叔母の声が低くなった。
 すぐ近くにいる雨音に叔母の声が聞こえてしまったようで、ぴくりと反応するのが見えた。あまり気分の良い内容ではないので、聞かれないようにそっと距離をとる。
「えっと、実は」
 事情を説明しようとした双葉の言葉は、叔母の大きなため息によってかき消され、二の句が継げなくなった。
「あーあ、また遊び歩いているのね。面倒見てやっているのに遊んでばかりでいいと思っているの?」
 叔母は双葉に説明を求めてはいなかった。
 ただ双葉が家事を投げ出して帰って来ないことだけを責めている。当然だ、拾ってもらった双葉は自分の仕事として割り振られた家事を熟されなけれいけない。家事もせずに遊び歩いているなど、責められても仕方がない。
 今からでも帰れないかと思案した。しかし、おもてなしをすると言ってくれた叶野を裏切って帰るわけにはいかない。
「すみません」
「あんたって、謝ることしかできないわよね。本当に役立たず……」
 急に手に持っていたスマホが奪われ、叔母の声が遠くなった。
 はっとして横に視線を向けると、雨音が無表情でスマホを耳に当てていた。
「お電話変わりました。久我と申します。双葉さんには日頃からお世話になっております」
 叔母に向かったつらつらと話し始め、双葉がぎょっとした。
「双葉さんには家の者を見てもらっていまして……ええ、はい。もちろん、お礼はいたします。説明も後日必ず。今日の所は、このまま双葉さんには泊まってもらいます。はい、わかりました。では、失礼します」
 調子の良い声で喋ったあと、雨音は電話を切った。
 そして、眉間にぎゅっと皺を寄せると「最悪だな」と吐き捨てた。
「今日は泊まって」
「え」
「あんな女のところに双葉を帰したくなくなった」
 腕を優しく取られ目を見つめられながら言われると帰らない方がいいんじゃないかと思ってしまう。しかし、明日は朝から溜まった洗濯物や食器を洗ったりしなくてはいけない。それにゴミ出しもある。泊まっていくわけにはいかない。
 そう言おうとした双葉の目の前で、突然雨音が狐の姿に変わった。
「双葉」
 目を見開いて固まる双葉に雨音は小首を傾げて甘えるような声で言った。
「お願い、帰らないで」
 狐の姿で懇願されると断れないと思われているのだ。そう分かっていながら双葉はつぶらな瞳で見つめられ、ふわふわで温かな肉球で包まれると断ることなどできない。
 これが俗に言うあざといというものだろう。
「叔母さんには俺から許可は取ったから、あとは双葉が頷いてくれるだけなんだけど」
 叔母さんがいいと言ったのなら双葉が拒否する理由はなかった。
 頷くと、雨音がぱっと狐から人間の姿へと戻った。肉球と毛の感触が失われ、少しだけがっかりした。
「雨音様、双葉様、夕食の準備が整いました」 
 襖の外から聞こえてきた声に雨音が応える。すると叶野達がお盆を持って入ってきた。小鉢に入った料理が次々に目の前に並んでいく。どれも美味しそうだ。
 双葉と雨音の前にご飯を並べ終えると、叶野は軽く料理の説明をして部屋を出て行った。
「どれから、食べたら」
「俺はこれが一番おすすめ」
 隣に座る雨音が差したのは、魚の煮つけだ。狐だから魚が好きなのだろうか、と思った双葉の心の内を覗いたように雨音が言う。
「狐でも味覚は人間と一緒だよ」
「あ、そうなんですね」
「あやかしといっても人の姿の時は人間とそう変わらない。ただ嗅覚は人よりも鋭いかな」
 そう言うなり雨音は双葉の方へと顔を向け、すんと鼻を鳴らした。双葉の匂いを嗅ぐような仕草に双葉は、小さく「わっ」と声をあげて飛びのいた。
「な、なんで、いま、においを?」
「ごめん、嫌だった?」
 雨音は困った様子で眉を下げた。
「嫌とかじゃないです。ただ急だったのでびっくりしました」
「急じゃなかったら良いってこと?」
「ちがっ、良くないです」
 ぶんぶんと首を振る。
 どうやら雨音はパーソナルスペースが狭く、スキンシップが激しいみたいだ。しかし、双葉は今まで男性と親密な関係になったことがないので、接触など緊張してしまって無理だ。
「緊張してしまうので、そんな簡単に近づいて来ないでほしいです」
 顔を真っ赤にしながら言う双葉に雨音はにっこりと笑って、
「それじゃあ、慣れていこうね」
 と距離を詰めて来た。
 一気に近くなった距離に食事処ではなくなってしまった。
 まず雨音が必要以上に近くにいるのがよくないと思ったので離れようと試みるが、腰を手を回されて叶わない。
 あまり動くのは作法的にまずい気がして抵抗も出来ずに箸を握りことしかできない双葉の耳にふっと笑い声が入ってきた。
「ごめん、そんなに固くなるとは思わなかった」
 視線を向けると雨音が悪戯が成功したような顔をしていた。
「か、揶揄ったのですね」
「反応が可愛くて、つい」
「か、かわいい……?」
 双葉は首を傾げた。
 可愛いというのは双葉ではなく、愛華のような子に相応しい言葉である。自分に向けられていい感情ではない。きっとまた揶揄っているのだろうと冷静に判断して首を横に振った。
「私を揶揄っても面白くないですよ」
 淡々と告げるつもりだったが、顔は真っ赤で声も上擦っている。
「揶揄ってなんかない。今度は本気で言っている」
「え」
 雨音と視線が合った。じっと見つめて来る目には確かに揶揄いの類は見あたらない。本気で双葉を可愛いと思っているようで、驚く。
「これからいやというほど知って行けばいい」
 そう言うと固まる双葉の頭を撫で、密着していた体を離して食事を始めた。
 双葉もどうにか平静を保ち、おすすめと言われた魚の煮つけを口に入れた。
「美味しい」
 魚は驚く程柔らかく、口に入れた瞬間解けた。そして口いっぱいに柔らかい醤油の味が広がる。
 こんな美味しい料理を食べるのは初めてだった。双葉は雨音が隣にいる緊張など忘れて食事に夢中になった。

 食事が終わると、叶野から着替えを貸して貰い風呂に向かった。案内された大きな檜の風呂は浴槽だけでも双葉の部屋よりも広く、温泉みたいだった。
 風呂から上がるとそのまま部屋まで案内され、通されたのは庭に面した十畳の和室だ。奥に深い色味の茶箪笥、同じ色の文机が置いてあり、中央には既に布団が敷いてある。ここでは双葉は完全に客人で、何をしなくても全てが用意された。そんなこと初めてだったので双葉は喜ぶよりも先に申し訳なさと若干の居心地の悪さを覚えていた。
 ここにいても良い理由がない。
 双葉の人生は、両親が死んでからは労働と共にあった。
 家事は双葉があの家にいてもいい理由だ。家事をしなければいていけない。いる意味がない。
 何もすることがない久我家にいる意味がないような気がしていた。帰りたくないのに、帰ったほうがいいような気になって来る。食べ物は美味しく、久我家の皆は優しく、楽しいはずなのに嫌な焦燥感が消えてくれなかった。
「はあ」
 双葉は眠る気になれず庭に面している襖を開け、縁側に出る。
 庭には必要以上に高い木が立っていない。先日まで咲いていた藤の花も既になくなっていて、空が綺麗に見えた。星が降って来そうなほど近い。
「綺麗……」
 ぼんやりと飽きるまで空を見つめていた。
 ぎし、と木の軋む音にはっとして視線を横にずらすと、向こうから歩いてくる人影が見えた。
「眠れないの?」
 月明かりに照らされた雨音は殆ど足音を立てずに歩く。
「目が冴えてしまって」
「それなら散歩でもする?」
 そう言って差し伸べて来た手を双葉は少しだけ悩んでからとった。
 雨音の手は双葉のそれよりもずっと大きく、寝間着姿でも筋肉がつているのが分かるのに手を引く強さは優しい。雨音に連れられるまま縁側から移動し、外履きのスリッパが置いてある場所から庭に降りた。
 そのまま向かった先にあったのは二メートルくらいの鳥居が立っていた。最初に久我家に来た時に通った鳥居よりもずっと小さく、人ひとりがやっと通れるくらいの幅しかない。
 鳥居の中には庭園が広がっていた。色とりどりの鯉が泳ぐ池に赤い橋が架かり、美しく見えるように剪定された松や躑躅の木が余白を埋めている。完成された情景に圧倒されて双葉はしばし茫然とした。
「わあ」
 入る前から目を輝かせる双葉に気を良くした雨音が手を引いて鳥居の中に入る。
「綺麗……」
 双葉がぽつりと呟く。
「気に入ったみたいで良かった」
 景観を眺めながら橋の方へ歩いて行く。橋から見下ろした池には鯉が悠々と泳ぐ姿が良く見えた。月明かりにしては明るい気がして見上げるとぽうっと火の玉が浮かんでいた。
「えっ」
 驚いて飛び退きそうになった双葉の手を雨音が引いて止める。
「大丈夫だよ。これは狐火って言うもので、俺達妖狐の得意技みたいなものだから。双葉を傷つけたりしない」
 雨音が手の平を上に向けると、火の玉はそろそろと寄ってきて手に触れる前にぴたりと止まった。
「熱くないんですか?」
「触らなければ大丈夫」
 雨音の手から離れた火の玉がふわふわと宙に舞う。視線で追いかける双葉に雨音が言った。
「久我家は怖くはない? あやかしの世界は人とは違うでしょう」
「私が生活している場所とは違いますけど、怖くないです」
 久我家よりもずっと双葉の生きている叔母の家の方が恐ろしい場所だった。
「そうか、双葉にとって生きやすい場所なら良かった」
 そう言う雨音の瞳は穏やかに細められてる。
 優しい目にどきりとする。
 それと同時に戸惑いを覚えてしまう。何故、そこまで双葉を気にかけてくれるのだろうか。
「私は、皆さんに良くて貰う理由がわかりません」
 気持ちを正直に伝えた。
「妖狐にとって婚儀が大切って説明はしたよね? 力の制御ができないから人に紛れて暮らせなくなってしまう。だから婚儀を成功させた双葉に家の者は恩義を感じているんだ」
 双葉が想像できないぐらい婚儀というのもは大変で、厄介なのかもしれない。
 何か大きな仕事をやり遂げた感覚はなかったがのでいまいち自覚がなかったが、久我家の皆の対応が易しい理由は分かった。
「まぁ、俺はそれだけじゃないけど」
 雨音はふっと息を吹きかけ、火の玉を消した。
 月明かりに照らされた雨音の目が双葉を見下ろす。
「最初は婚儀が終わったら離れすつもりだった。どうせ久我家の地位につられて連絡してくるかもなんて最低なこと考えていたのに双葉は連絡して来なくて驚いた。それに共有する感覚がずっと悲しげだったのが気になった。一緒にいたら助けてあげられるのにとか考えるようになってさ。本当は先週迎えに行こうと思っていたんだ。けど、仕事で行けなかった。ごめん。もっと早く行けばよかった」
 雨音は後悔している様子でぎゅっと顔を顰めた。
 叔母との電話を聞いていた彼は双葉が何に苦しんでいるのか既に知っているようだ。
 同情してくれているのだろう、と分かり申し訳なさに胸が苦しくなった。
「双葉、しんどい?」
 雨音に問われ、はっとする。
 感覚の共有されているので、感情が雨音に流れているのだろう。心配して顔を覗き込んでくるので、何とか取り繕おうとした双葉の手を雨音が引いた。
「わっ」
 急に引っ張られ、たたらを踏んだ双葉の体は温かい熱に包まれる。雨音の腕の中にいると気づいた。
「す、すみません」
 慌てて離れようと見上げた先で近い距離にある緑色の瞳と目が合った。
「しんどいなら無理しなくていい。大丈夫だから」
 そっと背中を撫でられ、じわりと涙が滲む。
 それは叔母や愛華に辛く当たられ、自室で蹲っている時に感じた温もりと一緒だった。
「辛い時にひとりにしてごめん」
 掠れた声に何度も首を振った。
 妖狐たちは双葉に助けられたと言うが、それは双葉だって一緒だった。雨音の温もりのおかげで笑えた日もあった。苦痛に耐えられた日もあったのだ。
「ありがとうございます」
 涙で濡れた声で言った後、そっと体を離そうをした。
「ん?」
 力強く抱きしめられ離れられない。
「あの……」
 困惑しながら顔を上げ、至近距離で雨音と目が合う。
 雨音の口がゆっくり開いた。
「双葉、俺と本物の夫婦にならない?」
 呼吸すらできなくなった。
 何を言われたのか分からず、瞬きを繰り返す。
 夫婦になろうと言われた。夫婦とは何だったろうか、夫婦って。
「え?」
「俺と結婚してほしい」
 もう一度後押しするように告げられた一言は、冷静になりつつあった双葉の思考にすぐに届き、状況を把握する手助けとなったが、同時に混乱の渦を巻き起こした。
「け、結婚ですか? どうして、なんでですか?」
「落ち着いて」
「落ち着けません」
 プロポーズされたのはわかる。しかし、その理由はまるで分からない。ぐるぐると思考だけが回った双葉はパニックになり、真っ赤な顔のまま何とか雨音の腕から逃れ、一歩だけ足を引く。
 頭の中はちっともまとまっていないのに、唯一頭に浮かんだのは罰ゲームでの告白劇とそれをクラスメイトや愛華に馬鹿にされたことだ。
「か、揶揄っていますか?」
 だから、つい聞いてしまった。すると、すっと雨音の表情が強張った。
 怒らせたかもしれない、とひゅっと喉が鳴る。
「俺は揶揄ってプロポーズ何てしない」
「そ、そうですよね。すみません」
 雨音のような大人がそんな幼稚なことをするはずがないのだ。
 真摯な態度の雨音に酷い言葉をかけてしまった。しゅん、と落ち込む双葉の頭を大きな手が撫でる。
「起こってないよ。会ったばかりなんだから疑うのも仕方ない。でも、結婚したいのは本当だから受け止めてほしい」
「どうして私なんかと」
 双葉の言葉に雨音がむっと顔を顰める。
「私なんかなんて言うな。俺はずっと一緒に生きて行くのなら双葉が良い」
 双葉がいい、などと言われたことは今までで一度もない。ずっと愛華と比べられ、見下されているだけの人生だった。雨音は愛華と会ったことがないからそんな風に言うのだろう。そう思うのに嬉しくてたまらなかった。
 つんと鼻の奥が痛くなり、また泣きそうになった。
 言葉が喉の奥で詰まって声が出ない双葉に雨音が言葉を続ける。
「双葉からしても悪い話ではないはずだよ。結婚すれば、あの家から出られる」
 はっとした。雨音の言う通り久我家に嫁入りすれば叔母の家で世話になる必要はなくなり、叔母達は双葉というお荷物がいなくなって清々するだろう。双葉も叔母達の家で苦しい生活から逃れたいとずっと思っていた。
 願いが叶う甘美な提案が目の前にぶら下げられている。
「もちろん、すぐに結婚しなくても婚約いう形でもいい。その期間ずっとここにいてほしい。双葉をあの家に帰したくない」
 お願い、が甘えるような声で言う。狐の姿でなくても雨音の小首を傾げた姿は心に刺さるものがある。何でも許容してしまいそうだ。
 結婚などすぐに答えが出せるものではない。相談をする友人などいないので、ひとりで考えなければいけないが、兎に角今は時間が欲しかった。
「返事はまたでいいから。双葉が納得するまで待つよ」
 ふわりと頬を撫でられ、温かい温度に身を寄せた。このまま頷いてしまいたいと甘えた自分が訴えかけるが、それでは流されたようで嫌だった。
「必ず、返事をします」
 双葉はなんとかそれだけ返すことができた。