ホームルームを淡々とこなす教師の声を聞きながら、窓の外へ視線を向ける。校門の前に止まっている見慣れた車にそっと微笑んだ。
 朱莉の事件から一月たち、双葉は穏やかな日常を送っていた。
 久我家では勿論のこと、教室でも見た目を変えたことや雨音の話題で盛り上がる回数は少なくなり、今では校門で待っている雨音を見て黄色い悲鳴を上げるくらいだ。
「では、起立」
 教師の声に外へと気が逸れていた双葉は慌てて立ち上がった。
 一日の授業が終わり、双葉は帰路に着く生徒達の波に乗って昇降口から外へ出る。
「あ、雨音様だ」
 校門の前に立っている雨音を見て、誰かが言った。
 双葉が雨音様と呼ぶせいで、殆どの生徒が雨音の事を様付で呼ぶ。
 声に反応したのか、はたまた双葉の気配を察知したのか、スマホを見ていた雨音の顔が上がり、目が合った。
「双葉、おかえり!」
「ただいま。今日はお仕事早く終わったんですか」
「うん」
 ちらりと運転席にいる真澄を窺うと首を振られた。どうやら途中で抜けて来たらしい。
「駄目ですよ。嘘吐いちゃ」
「嘘じゃないって、ちゃんと自分の仕事は終わらせてきたよ。まぁ、最終チェックのために一回会社行かないといけないけど」
 雨音は疲れた様子で一度ため息を吐いた。
「予定ずらしてもいいですよ。今日である必要はないんですから」
「疲れてないよ。それに俺は今日のこと楽しみにしていたんだから、ずらすなんて言わないで」
 先程の疲れた様子は見せず、にこりと笑った雨音は「じゃあ、行こうか」と言って車に乗り込もうとした。しかし、直ぐに動きを止め、振り返った。
「雨音様?」
 雨音の視線はいつの無く鋭く、威嚇するように双葉の背後を見つめている。
「――あれ、誰」
 固い声に双葉も振り返り、背後に立つ人物を目に入れた。
「あ、田辺君」
「田辺ってクラスメイトか」
 何故か双葉のクラスメイトを全員把握しているらしい雨音がぼそっと呟く。
「何か用かな?」
 雨音が田辺に問いかける。異様な空気が漂い始める校門前に生徒達が足を止めた。
「いや……」
 しかし、田辺は何も言わなかった。すっと視線を逸らすと校門を出て行く。
 その背中を見送り、戸惑う生徒達を置き去りにして双葉達は車に乗り込んだ。
「田辺と何かあった?」
 むすりとした雨音の問いかけに首を傾げる。
 何かあっただろうか。忠告をされて以降は授業以外で話をしていない、とそこまで考えた時に告白された一件を雨音に話していない事実に気が付いた。
「そう言えば、告白されました」
 その瞬間、ぴしっと空気が凍った。
「こ、こくはく? あの男が? 双葉に? 俺がいるのに?」
「はい、ちゃんと断りしました」
「当たり前だよ! ていうか、双葉の記憶の中に俺以外の告白の記憶があるのも嫌だ……あいつって罰ゲームで告白して来た男でしょ? どの面下げて告白なんてしてんだよ」
 苛立ちを隠せないらしい雨音はぶつくさと文句を言い始めた。いつもより崩れた口調に口元が緩む。
「告白されたならすぐに報告してよ」
「忘れてました……」
 朱莉の一件ですっかり記憶の奥底に追いやられてしまっていた。
 そう言うと雨音の機嫌が少しだけ上向いた。
「よし、そのまま忘れよう。綺麗さっぱり消し去ろうね」
 なんて言いながら頭を撫でてくる。
「無理ですよ。あ、真澄さんすみません、花屋さんに行ってもらえますか?」
 ぎゅうぎゅう抱きしめて来る雨音をそのままに真澄に話しかける。すると心得ているとばかりに頷き、一番近くの花屋に寄ってくれた。
 そこで、菊を買った。
「両親の好きな花はわからなかったので、無難の菊にしました」
「そっか、綺麗な花だね」
 花を持って車に乗り込み向かったのは、御寺だ。双葉の両親が眠っている墓がある。
 今日は、両親に雨音を紹介するのだ。
 両親の墓参りは毎年欠かさず行い、掃除もきちんとしていた。しかし誰かを連れて来るのは初めてだ。叔母夫婦はきっと一度も来ていないだろう。お盆に死者を迎える準備をしている所さえ見たことが無いのだ。
 今回雨音を連れて来たのは、婚約者として挨拶したいと雨音が言い出したのが発端だが、叔母夫婦が着服していた金が返って来たのもひとつの理由だ。色々なことが起こり、全部が終わった。その報告をしにやって来た。
 見慣れた墓にたどり着くと、軽く掃除を済ませる。ふたりでやるとすぐに終わった。
「お母さん、お父さん」
 墓には誰もいないという話があるが、それでも話しかける。ここにしかふたりと繋がれる場所が無いから。
「私、好きな人が出来ました。久我雨音さんと言います。優しくて、頼りになる人です。あ、人じゃなくて狐のあやかしなんですよ。雨音さんは叔母さん達が使っていたふたりのお金を取り戻してくれたり、ピンチの時にかけつけてくれたり、傍にいて笑ってくれる素敵なあやかしなんです」
 ちらりと隣に雨音を見る。彼はじっと墓を見ていた。
「双葉のお母さん、お父さん。初めまして、久我雨音と言います。双葉さんと結婚を前提にお付き合いしています。必ず幸せにしまう。もう苦しくて泣く様な思いは絶対にさせません。どうか天国で見守っていてください」
 雨音の真摯な声が人気のない墓地に落ちる。
 両親は聞いているだろうか。
 辛いことがたくさんあって、不安でたまらなかった時に雨音と出会い、救われた。両親にも伝わって居ればいい。
「私、幸せになります」
 直接言えたらどれだけ良かっただろうか、と考える。
 両親は良かったねと抱きしめてくれて、双葉の隣では雨音が微笑んでいる。それはあまりにも素敵で、夢のようだ。
 叶うことのない夢だ。
「産んでくれてありがとう」
 心の底からそう思えたのは、雨音と出会えたからだ。
 雨音に出会えていなかったらきっと孤独を憂うばかりで、墓の前で上手く笑えなかっただろう。
 ふたりは墓に手を合わせ、両親に語り掛ける様にしばしそうしていた。

「帰ろうか」
 ふっと空気が緩んだタイミングで雨音がそう声をかけた。
「はい」
 一度だけ墓を振り返り、頭を下げる。
「また来るね」と声をかけて、雨音が差し出して来た手を握った。
「両親の前だから嫌がるかと思った」
「た、確かに」
 墓の前で恋人と手を繋ぐのはマナー違反かもしれない。手を離そうとするが、ぎゅっと握られて阻止された。
「もう駄目です。離しません」
 悪戯っ子みたいに言う雨音に双葉もつられて口角を上げた。
「これから仕事ですよね」
「仕事のことなんて忘れてたのに思い出させないで」
 意趣返しで言った言葉に雨音が分かりやすくショックを受けた表情を浮かべた。
「離れたくないな……」
 微笑む双葉を見ながら寂しそうに溢すので、双葉はぎゅっと手を握り返しながら答える。
「私も離れがたいですよ」
「仕事一緒に来る?」
「行きません」
 雨音の職場に着いて行った所で邪魔になるだけだと言うが、雨音は「双葉がいるだけで頑張れるから」と言って聞かない。
「私は久我家で待ってます」
「うん、早く終わらせて帰るからね」
 雨音がいない間にケーキを焼こう。味覚はすっかり治っているので、前々からリベンジがしたいと使用人達と話していたのだ。
 今回は皆で食べられるといい。
「大好きですよ、雨音様」
 二人並んで、これからも歩いていきたい。
 双葉はそっと心の中で願った。