翌日、土曜日。
夜、七時から行われるパーティーまでに最低限のマナーを詰め込んみ、叶野の手によって綺麗に着飾った姿で会場へ来た。パーティーが行われるのは、都会のど真ん中にある高級ホテルだ。身内だけでの楽しい集まりにしては豪奢過ぎる。
ホテルを見上げながらぽかんと口を開けた。
「ここ、ですか?」
「ああ、うちのホテルなんだ」
ホテルの中に入るなり近寄って来た従業員と言葉を交わす雨音や洗練された内装に場違いさを痛感し身を縮めた。綺麗に着飾ったりマナーを勉強しても雨音の隣に胸を張って立つことなどできない。雨音は立ち姿からして美しく誰もが彼に止める。
「双葉、緊張しているの? 顔色が悪い」
話しが終わった雨音が双葉の顔を覗き込んだ。
「は、はい。凄く緊張してます」
取り繕うことも出来ない双葉は真っ青な顔で頷く。緊張で吐き気すらしてきた。
「私、変な所ないですか?」
「大丈夫だ。今日も最高に可愛い」
雨音は可愛いしか言わないので信用できない。叶野が準備してくれたので大丈夫だとは思うが、自分の容姿に自信が無いのでどうやっても後ろ向きな考え方になってしまう。
「手を繋いでおこう。しんどくなったら直ぐに帰ればいい。そんなに気を張る必要はないよ」
「が、頑張ります」
双葉と雨音はホテルのロビーからパーティー会場へ向かった。
会場には既に参加者が来ているようで、部屋の中から声が漏れている。両開きの扉は見上げる程大きい。その前で足を止め、何とか呼吸を整えようと必死になっている双葉を置いて雨音がさっさと扉を開けた。
「雨音様だ」
誰かが雨音を見て呟き、その声に大衆の視線が雨音に向けられた。そして、一様にうっとりと暫し惚けた。
雨音は慣れた様子で視線を躱し、双葉に声をかける。
「嫌なことはさっさと終わらせようか。挨拶をしてからご飯を食べよう。いい?」
「はい」
颯爽と歩く雨音に着いて行く双葉にも次第に視線が集まり始める。そして、ひそひそと話す声が広がって行く。
視線の中には好意的なものもあるのだろうが、女性から向けられるものは明らかに嫉妬の色が濃く、目を合わせないようにしながら会場を進む。
「これはこれは、雨音様。お連れ様も初めまして」
そしてたどり着いた先にいたのは白髪をオールバックに撫でつけた五十代くらいの男性と赤紫の着物がよく似合う女性だ。男性の方はにこにこと微笑んでいるが、女性はじっと観察するような視線を双葉に向けている。その視線に既視感を覚えた。
「私は狐崎達治と申します。いつも娘の梓がお世話になっております」
最初、何と言われたのか分からず首を捻る。
娘の梓。つまり、目の前に立っているふたりは。
「梓さんのご両親ですか?」
「そうですよ。梓から話は聞いていましたが、可愛らしい娘さんですね」
にこにこと微笑んでいるが、達治の目の奥は少しも笑っていないので言葉通り受け取っていいものか分からない。
しかし、ここで顔を引き攣らせるわけにはいかない。きゅっと口角を持ち上げて微笑みを作ると頭を下げた。
「梓さんにお世話になっているのはこちらの方です。いつも助けていただいて本当にありがとうございます」
梓本人にも何度も感謝を伝えているが、伝えきれていない思いがたくさんある。双葉の口から出た感謝は本心以外のなにものでもない。純粋な好意は素直に相手に伝わった。
「顔を上げて双葉さん」
女性の声に顔を上げる。すると、バツが悪そうな達治を女性が窘めた。
「子供をいじめて楽しいのかしら。もっと素直に祝福できないの? 貴方、梓にもきちんとしろって言われていたじゃない。どうして娘の話が聞けないのよ」
「うっ、で、でも」
「でもじゃない」
女性は吊り上げていた目を和らげて双葉を見た。
「ごめんなさいね。梓が嫁入りしなかったことを根に持っているのよ。貴方に悪い所があるわけじゃないわ。それに梓からも良い子だって聞いているからね」
そっと伸ばされた手を握る。
さっき女性の視線に感じた既視感は、初対面の梓から向けられたものに似ていた。観察するような、どういう人間が当主の花嫁に選ばれたのか知りたいという視線。
それを受け、しっかりしなければと自身を奮い立たせた。
「ありがとうございます。ふ、不束者ですが、よろしくお願いします」
唇が震え、顔を真っ青にしながら手をぎゅっと握る。
人から向けられる視線が苦手な双葉は既に限界を迎えている。出来る事ならもう帰ってしまいたい。自分が何を言っているのかも分からない。ここに来るまでに詰め込んだマナーはすっかり飛んでしまっている。
梓の母は、ぽかんと口を開けた後、破顔した。
「ふふ、可愛い子。梓が気に入るわけね」
そう言い、手を離すと改めて向き合った。
「双葉さん、私は梓の母、美琴です。夫も私も実は婚儀の時に顔を合わせているから正確にははじめましてじゃないのよ」
どうやら婚儀の会場にいたらしい。
「気づきませんでした」
「あの時は狐の姿だったからね。私達は婚儀が成功しないとまともに力の制御が出来なくなるから双葉さんには本当に感謝しているの。ありがとうね」
そう言いながら美琴は柔らかい笑みを浮かべた。
その微笑みは梓によく似ている。
梓が言っていた双葉に感謝している者というのは、美琴の事だったのだ。
「ほら、貴方も」
美琴に背を押され、達治も渋々ながら一歩踏み出し、口を開いた。
「……ありがとう。本当に感謝している」
狐崎の当主は先程の笑みを引っ込め、重鎮らしい真剣な雰囲気を纏いながら双葉に対峙する。その言葉や視線に重みに双葉は視線を正した。
「頭を下げて感謝しろ」
「そうよ。もっと心を籠めなさいよ、貴方」
周りで見ていた雨音と美琴が口々に文句を言う。
「ちょっと、ふたりは黙っていなさい。私にも譲れないものがあってな」
「婚儀は成功しなかったのは、俺と梓の問題で双葉は無関係だ。梓は婚儀が失敗して喜んでいるのに未だに引きずるな」
雨音の言葉に達治は打ちのめされたような表情で黙り込んだ。
達治は雨音に反論できない様だ。久我家の当主である雨音の方が立場が上なのだろう。何度も思っていたが、とんでもない人からプロポーズされたのだなと再確認した。
「雨音、来ていたのね」
突如、入り込んできた声に視線を向ける。青い着物に身を包んだ朱莉が立っていた。派手な装いではない分、朱莉の洗練された雰囲気を際立たせ居るだけで視線を集めている。
「こんばんは、狐崎の皆さま。今日はよろしくお願いします」
「あら、朱莉ちゃん。よろしくね」
朱莉の挨拶に美琴が答える。表面上は普通なのにどこかぴり付いている気がする。
「双葉、話も終わったし、ご飯でも食べていようか」
「え? 良いんですか?」
もう用済みだとばかりに食事が並んでいるテーブルに向かおうとする雨音の手を引きながら聞く。挨拶をしたのは一組だけだ。それに朱莉ともまともに挨拶をしていない。
去ろうとする雨音を掴んだのは、双葉だけではなかった。
「待って、雨音。どこへ行くの?」
朱莉が雨音のスーツの袖を掴んでいた。
「食事に行くだけだ。離せ」
そう雨音が袖を振り、朱莉の手を振り払った。その瞬間、朱莉の顔が傷ついたように歪んだ。すぐに困った顔に変わったが、双葉の目にはばっちりとその表情が写っていた。
まるで、好きな人に拒否をされたような表情だった。
いや、そんなまさか。
「離さない。まだ挨拶回りしていってよ。ここに来た意味ないでしょ。ほらほら」
双葉が呆けている間に朱莉が雨音の背を押して期待に満ちた表情を浮かべる男性の元へ連れて行かれた。そこからは、ずっと代わる代わる挨拶を繰り返し、食事をとる暇などなかった。
それから一時間後、解放された雨音と双葉は、漸く食事にありつけた。
「疲れた……」
「お疲れ様。付き合わせて悪い」
思わず飛び出した弱音に雨音が済まなそうな顔をした。
慌てて口を押え、首を振る。
「雨音様が悪いわけではありませんよ。私の方こそ全然お役に立てなくてごめんなさい」
「双葉が隣にいるだけで元気になるから役に立っているよ。そんな風に言わないで」
手が腰に回り、甘えるように身を寄せて来た。その瞬間「ひえ」と悲鳴のような声が聞えて来た。
なんだろう、と辺りを見渡すと会場中が驚愕の表情で雨音を見ていた。
「あの雨音様が、あんな風になるなんて」
「本当に愛していらっしゃるのね」
「恋は人を馬鹿にすると言うが、あやかしも変わらないな」
なんて声が聞こえてきた。耳の良い雨音にも当然その声は届いており、不快気に顔を歪めた。
「見世物じゃないぞ」
などと吐き捨てて、辺りを威嚇するように睨む。
どうやら双葉に甘い雨音の様子が物珍しく映るらしい。昨日梓も同じようなことを言っていたと車での出来事を思い返し、はたと気が付く。
「梓さんいらっしゃいませんね」
「ああ、仕事で遅れるらしい。梓もこの会の事を昨日知ったらしいから時間をずらせなかったみたいだな」
出来るだけ早く来てほしいが、仕事の後で疲れているのならもしかしたら来られないかもしれない。少しだけ気落ちしながら、食事をとった。
「すみません、ちょっとお手洗いに行って来ます」
「分かった」
そう言うなり、雨音は何処までも付いて来ようとしたので、慌てて止めた。
「大丈夫です。ひとりで行けます」
「何があるかわからないから、一緒に行く」
「お手洗い何てすぐですよ。何もないです」
流石について来てもらうわけには行かないと、頑なな態度を貫き、ひとりで会場を出た。
お手洗いを済ませ、ひとりきりで廊下を歩く。
階上のざわめきと隔絶された空間は人気が無く、豪奢な内装と相まって別世界の様だ。
「普通に暮らしていたら、一生縁がなかっただろうな」
綺麗に着飾り、化粧をしても双葉はどこか浮いている気がしてならない。会場にいる者達は皆ため息が出る程美しく、可憐だった。比べるまでもなく自分との差に落ち込みそうになる。
「……ね」
不意に聞こえて来た声に思わず足を止めた。
パーティー会場の扉の前で誰かが話しているのが見える。気分転換に会場を出たのだろうか。
「まさか雨音様が人間と結婚するとはね。何だかんだ梓様と一緒になると思っていたわ」
「確かに、雨音様と並べるなんて梓様くらいだものね」
雨音の話題に双葉は咄嗟に観葉植物の影に隠れてしまった。
聞き耳を立てているようで申し訳ないが、出て行くタイミングを完全に逃した。
「それにしても、可哀想なのは朱莉さんよ。婚儀の順番が回って来たタイミングで横取りされるなんて」
おろおろしていた双葉だったが、耳に届いた言葉に思わず動きを止めた。
「風邪をこじらせたせいで日程がずれたんでしょう? 本当についてない。それが無かったら朱莉さんが花嫁になれたかもしれないのに」
「朱莉さん、ずっと雨音様の事が好きだったのにね」
衝撃的な事実に口を手で抑えた。
そうしていないと変な声が出て行きそうだった。
「――あら、こんな所で下世話な話?」
こつ、と優雅な足音と共に落とされた聞き覚えのある声に顔を上げる。いつの間にか来ていたのか、扉の前で話すふたりの横に梓の姿があった。
「あ、梓さん」
「貴方達、意地が悪いわよ。性格の悪さは顔に出るからやめさない」
梓はそう言いながら女性にふたりから怯えと羨望の籠った視線をさらりと流し、双葉が隠れている観葉植物の方へ寄って来た。
「双葉、そんな所にいないで出て来なさい」
「ちょ、ちょっと待ってください、梓さん、気づいて……」
「気づいてたわよ。あやかりは耳が良いし、気配にも敏感なの。あのふたりもね」
梓に引っ張り出され踏鞴を踏む。扉の前にいるふたりは予期せぬ梓の登場に狼狽し、上擦った声で弁解した。
「あ、あの、別に意地悪で言っていたわけじゃないの。ただの世間話よ、ね」
「そうそう。噂話をしていただけで」
言いながらふたりは後退り、顔を見合わせるとふたり同時に頭を下げた。
「ごめんなさい!」と叫ぶなり、踵を返してあっという間に廊下をかけていった。
ふたりの背中を呆然と見送るしかできなかった双葉の肩を梓が叩く。
「ちょっと大丈夫? しっかりしなさい」
「う、はい。あの梓さん、さっきの話って本当なんですか?」
「さっきのが、朱莉の話なら本当よ」
双葉は息を呑んだ。
「朱莉はずっと雨音が好きで、婚儀の順番を待っていてやっと自分の番になったけど、タイミング悪く体調を崩して、回復したら既に雨音は双葉と婚儀を済ませていた。全部事実」
「そ、そんな」
言葉が続かない。
それではあのふたりが言っていたように双葉が横取りしたみたいだ。そんなのあまりにも酷い――。
「あのね」
俯きそうになった双葉の顎をすかさず梓が持ち上げた。
「雨音は順番待ちからじゃなくて、自ら双葉を選んだの。貴方がすべきなのは朱莉へ同情心を向けることじゃないわ。わかる? 雨音が好きならどんと構えて、覚悟を決めなさい」
梓の言葉はいつも双葉の姿勢を正してくれる。
「昨日も言ったけど、あやかりは狡猾よ。そして、婚儀に挑戦できなかった者は自分こそはと身の程知らずにも思っているものは多い。さっきのふたりも業と貴方に聞かせるように話していたし、このパーティー事態、急遽開催して双葉の品定めをしようとしていたんでしょうね。まぁ、双葉の事よりも雨音の豹変っぷりに気を取られていたみたいだけど」
梓はふっふっと悪戯が成功したように笑った。
「今の雨音様はそんなに前と違いますか?」
「違うわ」
双葉の質問にきっぱりと返答があった。
「あんな甘い視線で誰かをみることはなかった。受け入れることもなかったの」
自信を持ちなさい、と梓は続けた。
その時、会場の扉が開き、話の中心である雨音が顔を出した。
「双葉? こんな所でどうしたんだ。もしかして何かあったか?」
雨音が警戒心を露わにし、辺りを威嚇する。
「何も、何もないです。梓さんと話していただけです」
そう言って梓と共に会場に戻った。
朱莉が雨音に近寄り、親し気に話しかけてくると不安がぶわりと湧き上がって気が気じゃない。自信を持つことなど自分に出来るのだろうか。
朱莉の方が良かったんじゃないか、とそんな疑念が消えてくれなかった。
「どうした? 疲れた?」
顔を覗き込まれ、はっとした。
一通り挨拶を終え、まだ帰らないでと引き留めようとする朱莉を振り払ってパーティー会場を後にし、久我家に帰って来た双葉達は風呂を済ませて、ふたりで縁側でのんびりしていた。
疲労感から体は限界なのに頭は冴えていて眠れる気がしなかったので、雨音に少し話そうと誘われ、すぐに了承した。
雨音と言葉を交わしたいのに気を抜くと直ぐに朱莉の話が頭に過る。
「大丈夫です。少し眠たいだけで」
「会場からずっと暗い顔をしているが?」
雨音は全てお見通しだとばかりにそう言い、双葉の頭を撫でた。
本当は雨音に朱莉の事をどう思っているのか聞きたい。しかし、それで好きだったなんて言われたら立ち直れない。
どうしてここまで気になるのかは分かっている。昨日朱莉と話をしていた時の雨音が双葉に見せるような柔らかい笑みを浮かべていたからだ。
聞いてもいいだろうか。浮かんだ疑問は雨音を顔を見てふっとんだ。雨音は全てを許容するように優しく微笑んでいた。
「あの、昨日朱莉様と何を話していらっしゃったのですか?」
「昨日?」
雨音は不思議そうな顔をした
「えっと、私が帰って来た時。雨音様、すごく楽しそうだったので何の話だったのか気になって」
「楽しそう……ああ、それは双葉の事を話していたんだよ」
「私?」
雨音は記憶を探る様に斜め上に視線を向けた。
「そうそう。花嫁はどんな人か聞かれたから、双葉との出来事を語って聞かせていた。楽しそうに見えた? うれしいな」
「そっ」
そうですか、なあんだ。と軽く流したかったのに言葉が続かない。
昨日からずっともやもやしていたのに、まさか自分のことで微笑んでいたなんて思わなかった。どうやら自分に嫉妬していたらしいと気づき、顔に熱が集まる。
「やきもち?」
雨音には何でもお見通しだ。
「焼く必要なんてどこにもないよ。こんなに好きなのに他に目移りなんてしないよ」
顔を覆う手をそっと取られ、顔を上げさせられる。
「双葉が好きだよ。誰かを好きになったのは初めてで上手くできてないかな?」
雨音は不安そうに眉を下げた。
そんな顔をさせたいわけじゃない。双葉は雨音に向き合い、両手をそっと掴むと意を決して口を開いた。
「わ、私も好きです。雨音様の事を信用してないわけじゃないんです。好かれているなって思いますけど、自信が無くて……」
「ちょっと待って」
雨音が弾けるような大きな声を出した。ぎょっと目を見開き、雨音を見ると呆然とした様子で双葉を見ていた。
「双葉、俺のこと好きなの?」
「え、は、はい。そうです」
思い返すと双葉が雨音への好意を口にしたのは初めてだった。
叔母のことがあり、余裕がなかったとはいえ、好意を貰うばかりで返せていなかった事実に気付き、申し訳ない気持ちになりながら双葉はもう一度強く頷いた。
「貴方が、雨音様が好きです」
雨音の目が大きく見開かれ、じわじわと顔に赤みが差していく。
「ちょっと待って」
好きなんてきっと言われ慣れているのに、雨音は初めてのことみたく顔を赤らめた。そして、徐に双葉へ手が伸ばされる。ぎゅっと抱きすくめられたと思ったら、頬に温かい毛が触れた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、覚えたのあるふわふわの毛並みに見当がついた。
雨音が狐の姿になっているのだ。
何故、と疑問が沸き、つい離れようとしてしまった双葉の背に回る手に力が籠る。ぎゅっと離さないようにする力に身を委ね、力を抜いた。
「顔、今見られたくない。きっとかっこ悪い」
恥じらいを隠す様な掠れた声に双葉はきゅっと胸が疼くのを感じた。
「かっこ悪く何てないです。それに例えかっこ悪くても見たいです」
そう言葉を返し、逡巡の後に雨音の大きな体に腕を回す。すると、耳元できゅうきゅうと甘えるような鳴き声が聞こえて来た。動物的な音に一瞬驚いたが、すぐに愛おしさで溢れた。
「か」
かわいい。
なんて可愛らしいのでしょう。双葉は思わずぎゅっと手に力を込めた。
ふたりはそうしてしばらくの間抱き合っていた。雨音が落ち着いたタイミングで体を離す。その時には人間の姿に戻っていた。
少しだけ顔を赤らめた雨音は恭しく双葉の手を取った。
「俺と結婚してくれる?」
雨音の緑の瞳は少しだけ潤んでいて、声は震えている。
双葉の手も震えているし、目からはとめどなく涙が溢れていた。
「はい」
答えた声に雨音がとびきりの笑顔を見せた。
昨夜の告白劇から一夜明け、雨音のテンションは上がったまま降りてこない。
朝からにこにこと愛好を崩し、すれ違う者全員にプロポーズが成功したと嬉しそうに伝え回っていた。
「良かったですね雨音様」
「お赤飯を炊きましょう!」
叶野達に祝福され、雨音はスキップしそうな勢いだった。しかし、申し訳なさそうな顔をした真澄が顔を出した辺りで雨音の機嫌は急激に下がった。
「仕事でトラブルがあり、今から向かっていただかないと」
雨音は不機嫌そうにしながらも社長としての責任があるので、渋々立ち上がった。口にはしなかったが、嫌だ行きたくないと顔にでかでかと書いてある。
手早くスーツに着替え身支度を整えた雨音と共に玄関まで向かう。
「すぐに片付けて帰って来るからね……いっそ連れて行くか?」
「雨音様、はやく」
真澄に急かされながら雨音が双葉に手を伸ばす。一瞬抱きすくめられ、耳元で「いってきます」と声がした。
「いってらっしゃい雨音様。待っています」
すぐに離れた熱を名残惜しく思いながら見送る。
「行きたくない……」
そう言いながらも雨音は久我家を出た。
一緒に居られないのは寂しいが、仕事ならば仕方がない。それに雨音の普段着ている着物とは違い、かっちりとしたスーツ姿も素敵で好きだった。
「双葉様、少し良いですか?」
「はい?」
振り返ると嬉しそうな叶野を筆頭に久我家の使用人たちが立っていた。
「ご婚約おめでとうございます」
叶野の言葉に双葉は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それでですね。お祝いをしたいと思うのですが、双葉様も手伝っていただけませんか? 雨音様が不在の間に一緒にケーキを作りたいのです」
「ぜひ。お手伝いさせてください」
双葉は最近掃除などの手伝いをするようになり、使用人との仲は深まっている。なので、彼女達がただ人手が足りなくて双葉に手伝いを願い出たわけでないと分かった。
「双葉様が手伝ってくださったら雨音様が喜びますよ」
「サプライズですよ!」
女中たちが楽しそうに双葉の手を取る。
雨音のためなのは当然のこと、双葉が雨音に感謝の気持ちを返したいと常々考えているのを皆知っているのだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そうして、皆と共にケーキ作りに勤しんだ。ケーキを作るのは初めてだったが、叶野達に教えてもらいながら計量し、材料を混ぜて出来上がった生地をオーブンに投入した。
「雨音様からのプロポーズの言葉はなんでしたか?」
オーブンの中で熱せられる生地を見つめていると隣からひょっこり顔を出した女中のひとり、一番せの小さな深栖が聞いた。
その質問に周りにいた女中たちも興味津々といった風に目を輝かせている。
「えっと、結婚してくれる? って聞かれました」
素直に答えるときゃあきゃあと黄色い声が部屋中に響く。中には五十代男性料理長の姿もあった。
「素敵ですね。まさかあの雨音様が結婚されるとは思いませんでした。双葉様に出会うまでは俺は婚儀はするが、結婚なんてしない。独り身を貫くとおっしゃっていたのに」
「人生なにがあるかわかりませんね。余程双葉様に言われた言葉が嬉しかったのでしょうね」
楽しそうに話す深栖。それに叶野が肯定した。
「言葉、ですか?」
叶野の言葉に引っ掛かりを覚え問いかける。叶野は記憶をたどる様に視線を動かした。
「出会った時に双葉様に言われた言葉が嬉しかったと言っていました。貴方に人が寄って来るのは、顔だけでなく貴方自身が魅力的なのだと。要約するとこんな感じでしたか?」
ふふ、と叶野は笑いながら口を手で押さえた。
最初に会った時に双葉が雨音にそんなニュアンスの事を言った気がする。落ち込む雨音を励まそうとした言葉は双葉の予想よりもずっと雨音の心に響いていたらしい。
「双葉様、雨音様と出会ってくださりありがとうございます。婚儀が成功し、無事に生活を送れているのは貴方のおかげです。我々は貴方に本当に感謝しているのです」
叶野に頭を下げられたが、感謝したいの双葉の方だ。
地位や名誉、金も持っていない双葉を迎え入れてくれた久我家の皆にどれだけお礼を言っても言い足りない。
「こちらこそありがとうございます。皆さまに受け入れて貰えてうれしいです」
久我家の皆の温かさに双葉は目に少し涙を浮かべながら微笑んだ。
「さて、それじゃあケーキに乗せるフルーツを切りましょうか」
どこか気恥ずかしさの漂う空気を変えるために叶野が発した言葉に被せる様にインターホンの音が響いた。
「誰かいらしたようですね」
来客の予定はないのだろう。叶野が訝しんだ様子で玄関の方へ視線をやる。
「見てきますね。双葉様はここにいてください」
叶野だけでなく、深栖や他の使用人も緊張した面持ちで叶野を見送った。
「雨音様の留守を我々は任されているわけですからね、責任感で皆緊張してしまうのですよ」
困惑している双葉を察して深栖が緊迫している現状の説明をしてくれた。
そうなんだ、とまるで他人事のように思う。双葉は両親がいた頃はまだ小さかったし、叔母の家でひとりでいる時は誰か来ても応対しなくていいと言われていたので、留守を任されたという感覚ではなく、ただ息を殺していないように振る舞っていただけだ。
「双葉様」
しばらくして表情に混乱を滲ませた叶野が戻って来た。
「朱莉様がいらっしゃいました」
その名前にぎくりとする。雨音に会いに来たのかと警戒したが、叶野は双葉を見ていた。
「双葉様に会いたいと。会って話がしたいそうです」
「え?」
一体何の用があるのだろうか。
双葉は厨房を他の皆に任せ、叶野に連れられるままに朱莉が待っている客間へ移動した。
「朱莉様、失礼します」
叶野が声をかけると、中から「どうぞ」と声がしたので襖を開ける。
朱莉は座らずに立ったまま待っていた。その背後には先日も見た彼女の従者らしきがたいの良い男が佇んでいる。
「こんにちは」
明るい表情で挨拶され、反射的に頭を下げた。
いそいそと中に入り「どうぞ座ってください」とたどたどしく着席を促すが、朱莉は首を振った。
「迷惑かもしれないけど、ここじゃなくていつもの部屋で話がしたいな」
「……朱莉様、今は雨音様がいらっしゃらないので、勝手なことは控えていただきたいです」
叶野がびしゃりと要望を退けると朱莉はあからさまにショックを受けた様子を見せた。
「そうよね」
しゅんと朱莉が肩を落とす。すると朱莉の従者が口を開いた。
「勝手でしょうか? 朱莉様は久我家とも縁がある家の者で、これまで何度も久我家に訪れていますし、いつもあの部屋で過ごしていますよね? 何故今日に限ってこの部屋なのですか?」
従者は射貫くような目で叶野を見つめ、固い声で指摘した。
それに叶野が言いよどむと、すかさず追撃をする。
「叶野さんではなく、双葉さんはどう思いますか?」
突然話を振られ、びくりと肩が跳ねる。
雨音がいない間に勝手なことをすべきではないとは思う。しかし有無を言わさない口調に「どうぞ」と言ってしまいそうになりながら質問した。
「えっと、いつもの部屋というのは?」
「離れの部屋のことです。朱莉様は泊まる時はいつもその部屋を使っていますので、もう半分朱莉様専用の部屋みたいなものですね。そんな部屋を使って雨音様がお怒りになると思いますか?」
専用と言う言葉にふたりの仲の深さを知り、じくりと胸が痛む。
「いえ……」
雨音は梓が久我家の中を勝手に歩いていても怒る素振りはなかった。なので、幼少からの付き合いらしい朱莉が離れを使っても怒りはしないだろう。反射的に首を振ると朱莉が嬉しそうに手を叩いた。
「そうだよね、じゃあ使ってもいいかな?」
「双葉さんの了承は得ましたから」
そう言うとふたりは叶野の静止を振り切って部屋を出てしまった。
「どうしよう、ごめんなさい、私のせいで」
双葉が了承した形になってしまった。
いくらい婚約したと言っても久我家は雨音の家であり、当主がいない今は留守を任されている叶野達が仕切べきだ。いくら質問をされたからと言っても双葉が口をはさむべきではなかった。
「大丈夫ですよ。とりあえず後を追いましょう」
そうして叶野と向かったのは、双葉が足を踏み入れたことが無い部屋だ。
朱莉はここを離れと称したが、母屋からは渡り廊下で繋がっているので完全に離れているわけではない。移動中に叶野から聞いた話によると、物書きを兼任していた先々代の当主が執筆に籠るために作った部屋らしい。久我家の者が使うことはまれだが、人を招く時に寝室として使う時があると言っていた。
「決して朱莉様専用の部屋ではありません」と叶野が双葉を安心させるように付け加えた所で件の部屋に着いた。
「双葉さんとふたりで話をしたいな」
部屋に着くなり、朱莉がじっと双葉を見据えた。
「朱莉様、それは駄目です」
「……もしかして警戒されてる? 梓とは仲良くするのに私は駄目なの? 私も双葉さんと仲良くしたいだけなんだけど」
朱莉は悲し気に目を伏せる。
雨音に想いを寄せているのを知ったからと言って警戒しすぎるのは失礼かもしれない。それに隣に立っている叶野は幼少の頃から朱莉と関わって来たからか、悲しそうな顔を見て動揺している。
「お、お話ししましょう」
朱莉と叶野の間に軋轢が生まれるのは駄目だと思った双葉は咄嗟にそう言っていた。
「双葉様、いいのですか?」
「勿論です。私も朱莉さんとお話ししたいと思っていたので」
嘘だ。正直もう会いたくないと思ってすらいた。しかし、この場を何事もなく終えるには双葉が朱莉と話し、帰ってもらうしかない。
双葉は朱莉と向き合う決意を固めた。
「嬉しい、ありがとう」
朱莉の微笑みに双葉は顔を引き攣らせながら会釈をした。
朱莉とふたりで話すため叶野と朱莉の従者は出て行った。途端、部屋は喧騒から切り離されたみたいに静まり返り、嫌な緊張感に包まれる。
この緊張は双葉だけが抱えているのか、それとも朱莉も感じているのか分からない。後者ならば、朱莉が双葉とふたりきりになったのにはお祝い以上の含みがあるはずだ。
「――ここでよく雨音と遊んだんです」
沈黙を朱莉がぽつりと零した言葉が破った。
「この部屋で話をしたり、ままごとに付き合ってくれたり……懐かしいなぁ、私が奥さんで雨音が旦那さんの役をやってくれたりして……」
回想に浸る朱莉の表情がぐっと苦し気に歪み、瞳に涙の幕が張る。
ああ、何を言われるのか、分かってしまった。耳を塞ぎたいのに聞かなければいけない。
「私が、雨音と結婚したかった」
予想通りの言葉に双葉は息が詰まった。
彼女の心は幼いことから雨音だけに向いていた。それが痛いくらいに伝わって来て、苦しくなった。
「雨音の一番の婚約者は梓だったから、私は半ば諦めていたの。でも、梓が駄目だったって知って希望が見えた。もしかしたら私の番が回って来るのかもしれないって待っていた。婚儀が行われるって知らせが何度も届いて、その度に何度も苦しんで、失敗した話を聞いて喜んで……ついに私の番が来たと思ったのに……私は体調を崩して婚儀が出来なくて、回復した私の家に婚儀が成功した知らせが届いた。……いや、力が抑制されているから知らせが届く前に気付いた。ああ、成功しちゃったって」
朱莉の声が振るえている。その姿が痛々しく目を逸らしたいのに、見ていなければいけない気がした。
これはきっと、あの時人助けだからと軽い気持ちで手をとってしまった双葉の罪だ。双葉の幸せの下で成り立ってしまった不幸を受け止めなければいけない気がした。
「双葉さん、今日はお願いがあって来たの」
朱莉は涙で濡れた目で双葉を見て言った。
「雨音を返してほしい」
その言葉に双葉の思考は止まった。
返すなんて、まるで元は自分のもののような言い方だ。
「婚儀のことがあるからお互いに言わなかったけど、雨音は私を想っていた。ずっと近くにいたから分かるの。婚儀は譲ったから、結婚はしないで、私に返して。雨音を解放して」
「えっと」
双葉は混乱した。
出会う前の雨音を知らないので絶対とは言い切れないが、朱莉を好きだったのなら『俺に寄って来る女は全員顔か金目当て、結婚なんてしたくない』なんて言うだろうか。
「雨音は、本当は貴方と結婚なんてしたくないはず」
朱莉の言葉を聞いた瞬間、双葉の脳裏に昨夜の告白劇できゅうきゅうと甘えていた姿や、今朝『結婚の承諾もらった! 幸せになります』と浮かれてスキップしていた様子が過った。
あれが演技だとは考えられない。
「いや、それはないんじゃないでしょうか」
雨音からの好意に関してだけは絶対的な自信があり、断言出来た。
「何でそう思うの?」
朱莉の声のトーンが低くなる。不機嫌そうな声色にぎくりと体が強張る。
「雨音様が結婚したいと言ってくださいました。その言葉に嘘があるとが思えません」
「勘違いじゃないの?」
「勘違いなんかじゃありません」
それだけは譲れない。
じっと見つめ合っている唐突に朱莉が大きくため息を吐いた。
「雨音って昔からそうなの。思わせ振りな態度をとっちゃうみたい。だから貴方みたいな身の程知らずが現れるの」
そう言うなり、朱莉は立ち上がり双葉を見下ろした。
「雨音が貴方と結婚するメリットって何? 婚儀が成功したからって調子に乗っちゃったの? 人間と結婚したところで雨音が苦労するだけよ。釣り合ってないよ、あなた」
釣り合っていないという言葉を双葉は何度も聞いた。
顔が、立場が、種族が違うから。何度も言われ、双葉も自覚していた。それでも、雨音が一緒にいたいと望んでくれるのならそれに応えたい。
朱莉の鋭い視線に負けじとぎゅっと目に力を込めて見返した。
「立場も種族も違います。私には足りない所がたくさんあります。それでも、雨音様と一緒にいたい。貴方には渡しません」
取られたくないのなら自信をつけなさい、と梓が言っていた意味が分かる。自信がないと戦えない。
朱莉は双葉の強気な態度に呆気にとられた顔をしたが、すぐにふっと表情を緩めて笑った。
「あはは」子供みたいな笑い声が響き、戸惑い、反応が遅れた。
しゅっと空気が抜ける音がしたと思った直後、目の前に白い煙が噴射されていた。呼吸をした拍子に思い切りそれを吸い込んでしまい、頭を殴られたと錯覚する程の衝撃がの脳みそを襲う。眼球の奥がちかちかと点滅し、酷く痛み目を開けていられない。
ぎゅっと目を閉じて衝撃に耐える双葉の頭上から声が落ちた。
「それは、あやかしが作った激臭スプレーよ。強烈な匂いであやかしを撃退する時に使うらしい。私も使うのは初めてなの」
朱莉は面白がる様に言う。
「獣のあやかしは鼻が良い。特に雨音は匂いに敏感よ。こんな匂いをさせている女を傍に置いておくとは思えない。出て行かざるを得ない状況にしてあげる」
そう言うと朱莉が襖を開けた音が聞こえて来た。
うっすら目を開ける。目にも入ったせいで眼球がじんじんして痛い。それに視界が霞んでよく見えない。
「幼い頃から一緒にいる私とぽっと出の貴方じゃ、私の方を信じるに決まっている」
微かに輪郭だけを視認できる朱莉が動いた。
「助けて! 誰か来て!」
朱莉の叫び声が辺りに響く。
「どうされましたか、朱莉様」
示し合わせたかのように走ってやってきたのは朱莉の従者だ。
「双葉さんが私にあやかし用のスプレーを……」
涙のおかげか、目の霞が少しだけ晴れる。
しかし、その時には既に従者の怒りの視線が双葉を射抜いていた。それを感じ取った途端、双葉はその場から逃げ出した。従者が捕まえようと伸ばした手は、触れる前にぴたりと止まる。従者も狐のあやかしだ。鼻が敏感でスプレーの臭いに堪えられなかったらしい。ぐっと顔を歪まて鼻を抑えた。
その隙に廊下を駆ける。
風呂場で洗い流したいが、臭いがきつい以上母屋には行けない。外で洗い流せるところはないかと裸足で庭に降りた。
「双葉様⁉ どうされたんですか」
「叶野さん……」
朱莉の声が聞えた駆け付けたらしい叶野の顔を見た瞬間、気が緩んで泣きそうになった。
しかし、泣いている場合ではない。近寄って来ようとする叶野を手で制す。
「あやかし用のスプレーのせいで臭いが酷いので近寄らないでください」
叶野の足が止まる。彼女も臭いを感じ取った陽で鼻を抑えた。その反応は仕方ないと分かっているが、自分が臭いと思われている事実にショックを受けた。
「どこか、臭いを落とせる場所はありませんか? 外で水が使える場所とか」
叶野は状況がまだ整理できていない様子だったが、すぐに倉庫近くにある手洗い場を教えてくれた。
駆け足でそこまで向かう。
手洗い場は人気がなくほっと安堵した。
「双葉様、何があったのですか?」
一定の距離を保ったまま着いて来た叶野が背後から訪ねて来る。その距離にいてとお願いしたのは双葉だ。
蛇口から出た水を体にかけながら離れであった出来事を話した。
水は冷たく、頭がどんどん冷静になっていく。
「朱莉さんは、雨音さんが好きだと言っていました。雨音様を返してと言い、あやかし用のスプレーをかけてきました」
びしょ濡れになった服を見て、今日は雨音に貰った服を着ていなくて良かったと心の底から思った。愛華からのおさがりの服が肌に張り付き、体温を奪っていく。どれだけ濡らせばいいのだろうか。強烈な臭いを嗅いだせいかさっきから鼻が利かない。なので臭いが消えたのか分からない。
段々冷たさで皮膚の感覚もなくなり始めた頃、叶野が申し訳なさそうに言った。
「朱莉様が雨音様を好きなのか知っていました……すみません、ふたりにすべきではありませんでした。私のミスです。直ぐに雨音様に連絡を――」
その時、母屋の方がざわめいた。
「雨音、待って」
朱莉の声と近づいて来る気配に双葉ははっとして声の方へ視線を向けた。
「雨音様?」
雨音と繋がっている胸がざわついている。怒りの気配が近づいて来ていた。
◇◇◇
真澄は赤信号で停車したタイミングでちらりと後部座席を窺った。
会社で起きたトラブルは幸い軽いもので直ぐに片が付き、一時間もかからずに会社を出て帰路についた。車に乗った直後は「早く双葉に会いたい」とぼやいていた雨音は、現在窓の外をじっと見ながら沈黙している。
双葉のことを考えているのなら無駄に話しかけるわけにはいかない。盛大に惚気られても反応に困ってしまう。
真澄は低身長で童顔なせいで年齢不詳だが、現在の久我家の中では古株だ。雨音のことは幼い頃から知っている。その雨音の口から好きな人の話を聞くのはむずがゆいような寂しいような複雑な気持ちになる。もちろん結婚には賛成だ。これまで婚儀はするが結婚なんて死んでもしないと言い張っていた雨音が幸せになるのなら盛大に祝いたい。
双葉にも悪い感情はない。
内気で、人の視線を異常に気にするが、心優しく、気が使えて、素直。そして積極的に使用人の仕事を手伝おうとする姿勢に久我家の皆が双葉に好印象を抱いている。
だから、ふたりには幸せになってほしい。真澄は心の底から願っていた。
信号が青に変わる。
唐突に、空気がひりついた。
「真澄、急いで」
背後から聞こえて来た声が固く張り詰めている。
「双葉に何かあった」
聞いたこともないくらい切迫した声に真澄にも緊張が走りハンドルを握る手に力が入る。
真澄が反応する前に雨音はスマホを取りだし通話を始めた。
「……俺だ。何があった? 朱莉が?」
久我家の誰かに連絡をしているのだろう。
内容の詳細までは分からないが、朱莉の名前に真澄は思わず顔を顰めた。彼女は性格が悪いわけではないが、昔から雨音への好意があからさまだった。久我家の敷地内で問題を起こすほど馬鹿だとは思いたくはないが、雨音の切迫した様子からして甘い考えは捨てた方が良さそうだ。
恋は人を馬鹿にする。あやかしも変わらない。
「何があったか具体的には分からなかった」
通話を終えた雨音が焦れたように舌を打った。
出来ることなら今すぐに家に帰りたい、そんな心根が透けて見えて真澄はアクセルペダルを踏む力を少しだけ強めた。
久我家には五分足らずで到着した。停車した途端雨音はさっさと車から降りて玄関に向かった。真澄も慌てて後を追う。
「双葉は?」
駆け寄って来た使用人のひとりに苛立ちや焦りを抑え込んだ声で聞くと「朱莉様と離れに行きました」と返答があった。
「離れ?」
どうしてそこに、と真澄が疑問を浮かべている間に雨音は真っ直ぐに離れを目指す。
車内で双葉の異変を感じ取った時とは比べ物にならないぐらい怒りの気配が強くなっている。刺々しい気配に充てられ、すれ違う使用人が顔を真っ青にして去って行くのが見えた。
「雨音様、落ち着いてください」
先を行く背に声をかけるが、返答はない。
こんな雨音を見た経験がないので、どう対応していいのか分からない。
止めて落ち着かせるべきだろうか、と悩んでいると前方からぱたぱたと廊下を駆ける音が聞こえて来た。
「雨音!」
聞き覚えのある声。問題の人物、朱莉が外に面している廊下に立っていた。
その目が涙で潤んでいることに気付き、ぎょっとする。
「助けて、雨音」
そう言って縋りつこうとする。
一体何があったのか聞こうと口を開いた真澄の耳に雨音の冷たい声が入って来た。
「双葉は?」
「え?」
予想外の言葉だったらしく、目いっぱいに涙を浮かべたまま朱莉はぽかんと口を開けた。
「双葉はどこにいる?」
朱莉からすぐさま答えが返ってこなかったため雨音の声に苛立ちが増す。
「え、えっと、あの、私、双葉さんにスプレーをかけられそうになって……」
「スプレーを?」
双葉がそんなことをするだろうか。想像してみようとしたが、彼女が誰かを攻撃しようとする姿が思い浮かばない。
「それで、私……」
「双葉はどこにいるって聞いているんだが、聞こえていないのか? 居場所を知らないならどけ」
雨音はとうとう朱莉を押し退けて歩き出した。
その前に立ちはだかったのは、朱莉の従者だ。
「お待ちください、雨音様。朱莉様は、対あやかし用のスプレーを吹きかけられそうになったのですよ? あの人間は朱莉様を攻撃したのです。それにそんな危ない品を用意しているなんて酷い裏切りではないですか?」
神経質そうな口調の男に雨音は一瞥もくれることなく言った。
「吹きかけられそうだったってことは、かかってないんだろ? 良かったね」
「何ですか、その言い草――」
尚も追い縋ろうとする従者と雨音の間に真澄が割って入った。
「落ち着いてください、雨音様」
雨音の怒りが限界を越えようとしている。これ以上ここに留めておくのは危険だ。暴力沙汰は極力避けたい。
「まずは双葉さんを」
「分かってる」
雨音はすんっと鼻を鳴らした後、迷いなく歩みを進めた。
「雨音っ」
その後を朱莉達と真澄が追う。
離れを越えたあたりから、強烈な臭いが鼻につくようになった。これが対あやかし用のスプレーの臭いらしい。残り香だけで鼻が曲がりそうだ。顔を顰め、鼻を覆いながら進んでいると前を歩いていた雨音の足が唐突に止まった。
雨音の視線の先には、倉庫の傍にある手洗い場でびしょ濡れになった双葉が座っていた。
「雨音様」
まだ距離があるので声は聞こえてこないが、彼女の口が雨音の名前を呼んだ。
いくら夏だといっても濡れたままでは風邪をひいてしまう。早く乾かしてやるべきだ。そう思うのに足が進まない。それぐらいその場の臭いは強烈だ。
恐らく双葉にスプレーはかかってしまったのだろう。臭いを取ろうとして体を濡らしているが、あの臭いは専用のものではないと取れない。双葉はそれを知らないのだ。
「双葉」
雨音が柔らかい声で彼女の名前を呼び、一歩踏み出した。
「このままだと風邪をひいちゃうよ」
そう言いながら双葉の方へ歩いて行く。
臭いがきついはずだ。雨音は特に鼻が良いので、耐えられるはずもない。それなのに雨音は平然と双葉に近づき、彼女を抱き上げた。
「濡れちゃいますっ」
「大丈夫。どうせクリーニングに出すから」
抵抗する双葉をぎゅっと抱き込み、風呂がある方へと向かっていく。
「真澄、叶野、風呂入るから後任せる」
雨音の言葉にふたりは「はい」と反射的に答えた。
後を任せるというのは、恐らく朱莉たちのことだ。真澄はショックを受けた様子の朱莉に視線を向け、ため息を吐いた。
とんでもないことをしてくれた。
「私酷い臭いですから、離してください」
「んー? 大丈夫。双葉はいつも良い匂いだよ」
雨音がすんっと鼻を鳴らす。
スプレーの強烈な臭いがしているはずなのに、雨音は平然としていた。
良い男に育ちましたね。と雨音の背中を見ながら感動を覚えた。
◇◇◇
雨音に抱えられた瞬間、安心感から泣きそうになった。
臭いが取れていないのは、真澄達の反応見ればすぐにわかった。それでも雨音はいつもと同じように接する。
「体冷えちゃったから風呂で温まろうね」
臭いをまき散らすのは嫌だったので部屋の中には入りたくなかったが、問答無用で廊下を進む。
「一緒にお風呂入っちゃおっか」
「えっ!」
無理、と全力で拒否すると冗談だったようで、風呂の前で解放された。
「髪も体もこれで洗って。河童印の特別石鹸。髪はぎしぎしになっちゃうかもだから、トリートメント使ってね。ゆっくり入っておいで」
そう言って渡されたのは河童のマークが書かれている固形石鹸だった。どうやらこれもあやかしのものらしい。
石鹸は、とんでもなく泡立った。
体と髪を洗っている間にある程度お湯が溜まった浴槽に入る。芯まで冷え切った体から力が抜け、ゆっくり息を吐いた。
「はあ……」
今日の騒動を雨音はどう聞いているのだろうか。
朱莉はスプレーを用意したのは双葉で自分は被害者だと主張しているだろう。双葉に臭いが着いているのは朱莉が抵抗した結果で、正当防衛だと言っていそうだ。雨音はどう思っただろう。信じたのだろうか。対応はいつもと変わらず優しかったが、濡れていた双葉を気遣っただけかもしれない。
「ネガティブな考え良くない……」
そう思うが、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
頼みの綱の婚儀での繋がりはあまり機能していないのか沈黙している。胸に手を当てても何も感じなかった。
体から寒気が抜けたタイミングで風呂から出る。するとお風呂の前に着替えを済ませた雨音が立っていた。
「ごめんなさい、私遅かったですよね」
「もっと長く浸かっていても良かったくらいだよ」
鷹揚に笑った雨音に抱き寄せられ、すんっと匂いを嗅がれる。
「うん、良い匂い」
どいやら臭いは完全に落ちているらしい。
雨音も風呂に入ったようで髪が少しだけ湿っている。いつも完璧に乾かしている雨音には珍しい。恐らく双葉が風呂を済ませる前にと急いでくれだのだろう。
双葉は雨音の背に手を回してぎゅっと抱き着いた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「雨音様が信じてくれなかったらどうしようって疑っていました」
こんなに想ってくれているのに、信用できていなかった。
「不安になっていたんだから仕方ない。心細かったでしょ」
雨音は全部を許してくれた。
「あやかし用のスプレーを双葉に使うなんて許せないな。どうしてやろうか」
ぼそりと呟かれた言葉に顔をあげた。
「朱莉さんから聞いたんですか?」
「いや、あいつは双葉がスプレーを取りだして吹きかけられそうになったから、必死で抵抗してもみ合っている内にスプレーが双葉にかかった。自分は被害者だって主張しているよ。まぁ、嘘だね」
雨音はあっさりと言ってのけ、呆れた様子で続ける。
「対あやかし用のスプレーを双葉が買う術はない。通販で買えるけど、双葉はスマホもまともに使えないんだから通販のやり方なんて分からないからね」
その通りだ。
あやかし用のあれそれがどこで売っているかなんて知らない双葉が入手する方法はない。
朱莉の証言を一切信じていない態度に安堵の息を吐いた。
「さて、双葉は疲れただろうから、部屋で寝てようか」
「え、大丈夫です。疲れてないです」
精神的な疲労感はあるが、体力は有り余っていて眠れないだろう。
「うーん、じゃあ叶野と一緒にいて。俺はちょっと朱莉たちとお話してくるから」
雨音は笑顔を浮かべ、双葉の頭を撫でた。子供をあやす時の様な撫で方だ。
双葉は無力で、庇護下にある子供みたいだ。問題が起きても雨音に任せっぱなしでひとりでは何もできない。そのままでいいのだろうか。
「私も一緒に行っては駄目ですか?」
久我家で起きた問題は当主に雨音が解決するのは当然だ。しかし、今回ばかりは全部を任せてはいかないと思った。
「駄目じゃないけど……あんまり双葉をあいつらに会わせたくないな。不快な思いをしてほしくない」
「大丈夫です。お願いします」
じっと見つめると、雨音は困ったように眉を下げた後、大きく息を吐き、頷いた。
「分かったよ。おいで」
手を引かれ向かったのは、朱莉が最初に通されていた客室だ。
部屋の中からひそひそと囁くような声がする。声を殺した声には微かに恐怖の色が含まれていた。
「入るぞ」
感情を押し殺した声で雨音が良い、返事を聞く前に襖を開けた。
「雨音っ」
部屋の中で、朱莉がぼろぼろと涙を流していた。その哀れな様相を従者が労わるように見つめている。
「雨音、話を聞いて。私はその子に」
「聞く必要はない。俺が不在の間に双葉に接近してあやかし用のスプレーを吹きかけたんだろ?」
「違うよ、信じて雨音」
切実な声にも雨音は応えない。それどころから部屋に入る気すらない様だ。敷居を跨かず、部屋の前で朱莉を見下ろす。
「双葉にスプレーを買うことはできなかった。用意したのはお前以外にいない」
「あ、梓が渡したのかも」
その言葉には雨音だけでなく双葉も眉をひそめた。
何故全く関係ない梓を巻き込もうとするのか分からない。感情のまま否定しようとしたが、それよりも前に雨音が首を横に振った。
「例えそうだったとして何が問題がある? 勘違いしているようだから言っておくが双葉がお前にスプレーをかけていても俺は怒ったりしない。双葉がスプレーをかけたくなるほど不快な思いをさせたお前を断罪するだけだ」
朱莉の目からすっと希望の光が消え行く。
「どうして? どうして私よりも、その子を信じるの?」
「好きだから」
雨音の真摯な言葉に朱莉は衝撃を受けたような顔をした。
「まだ何か言いたいことがあるか? ないから今すぐに出ていけ」
冷たく突き放すような言葉だ。雨音の関心が朱莉にないことは誰が見ても一目瞭然だった。
「……私の方が、雨音を好きなのに」
振り絞った言葉は、子供の癇癪みたいだった。
「はあ? そんなわけ」
「そんなことないです!」
雨音の声は遮り、気が付いたら声を張り上げていた。
「確かに一緒にいた時間は短いです。けど、私だって、雨音様の事が好きです。負けないです」
どうしても聞き逃せず、ぐっと顔に力を入れて朱莉を見据える。
「朱莉さんは、これまで雨音様に好きだと伝えましたか? 私と初めて出会った時の雨音様は結婚に消極的で女の人なんて信じられないって言っていました。貴方が雨音様の全部が好きだったのならそう伝えるべきだったのではないですか? そうしたら雨音様だって寂しい思いをしていなかったはずです」
バス停で出会った時の雨音は失敗続きの婚儀に疲れていただけでなく、擦り寄って来る者が信じらずに精神的に参っていた。その姿は双葉には孤独に映った。
もし、朱莉が好意を伝えていれば、信用を勝ち取るまで向き合っていれば雨音は孤独じゃなかったはずだ。
「今更、雨音様が好きだなんて私に言っても遅いのです」
感情が高ぶったせいで、かあっと顔が熱くなる。発散の仕方が分からない感情がぐるぐると渦巻き、目からぶわりと涙が溢れた。
「双葉」
雨音に名前を呼ばれたが、涙を拭うので忙しく顔を上げられない。ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて俯いていると、抱きしめられた。温かい体温にまた涙が溢れる。
「ありがとう。そんな風に言ってくれて」
声だけで雨音が喜んでいるのが分かった。
いつものように柔らかい空気が流れるふたりの間にぽつりと朱莉の声が落ちる。
「……私が好きだって言ってたら何か変わった?」
小さな問いかけは、期待と後悔が混ざっていた。
「さあ、どうかな。変わったかもしれないけど、双葉意外と結婚しようとは思わなかったと思う」
雨音の言葉に、朱莉は「そう」とだけ返した。
ちらりと見えた朱莉の傷ついた表情から、恋の終わりを察した。彼女の恋心は雨音にもらわれることなく散ったのだ。
「ごめんなさい」
久我家を去る時、朱莉は双葉を見ずに謝罪を口にした。恋が死んでも嫉妬は消えない。彼女は家を出るまで双葉を視界に入れなかった。
「はあ」
騒動の発端だったふたりが去った途端、気が抜けた。その場に崩れ落ちそうになる。
「大丈夫? よく頑張ったね」
「はい……ありがとうございます」
よろけた所を支えてくれたので感謝を口にした。雨音はにこにこと幸せを煮詰めたような笑みを浮かべていた。
「……嬉しそうですね」
「双葉が俺のこと凄く好きだってわかって幸せなんだよ。抱きしめて良い?」
もう何度も無断で抱きしめているのに何故今更窺うを立てるのだろう。戸惑いながら両手を広げる。すると雨音が覆いかぶさるように抱きしめて来た。
甘えてくる様子は大きな動物みたいで可愛い。
「双葉に出会えて良かった。婚儀だけじゃなくて結婚も出来るなんて嬉しすぎる」
「それは私も同じ気持ちです」
「良かった。久我家の皆も双葉を快く迎え入れてくれているから、盛大にお祝いしようね」
「はい」と返事をしようとしたが、雨音の口にしたお祝いという言葉に雷で撃たれたような衝撃が走った。
「あー!」
朱莉の騒動ですっかり忘れていたが、厨房でケーキを焼いている最中だった。
「どうした?」
突然声を上げた双葉を雨音が驚いた表情で見つめる。
「あ、え、ちょ、ちょっと待ってください」
手を突きだし、素早く考えを巡らせる。
既にケーキは焼き上がっているだろう。飾りつけも終わらせているかもしれない。それならば良いが、万が一双葉が来るのを待っているのなら今すぐに行かなければいけない。
もう雨音に内緒で事を進めるのは無理だろう。それは分かっているが、少しだけ足掻きたい。
「あの、先に部屋に行っててもらえますか、その、私、ちょっと厨房の方へ用事がありまして」
「俺が行っちゃ駄目な用事?」
そんな捨てられた子犬みたいな顔をするのを止めて欲しい。
いつも凛々しい顔が、しゅんとして加護欲を掻き立てられる。駄目じゃない、一緒に行こうと言いたくなってしまうが、ここは断固として首を振らなければいけない。
「だ、駄目です」
「どうしても?」
「どうしても」
すると、雨音はしょげながら頷いた。
「分かった。部屋って食事の部屋で良い?」
「はい!」
雨音の返答を聞き、双葉は嬉々として厨房へと急いだ。
結果的にサプライズは失敗に終わった。
双葉が走って行った厨房では焼き終わったケーキをデコレーションせずに待っていてくれて、雨音に内緒でケーキは完成させた。昼食の後で食べようと冷蔵庫に入れたまでは良かったのだが、問題は昼食の際に発覚した。
料理長が用意した豚カツ定食を雨音と並んで食べ始めた時。口に入れた味噌汁の味を感じなかった。最初はいつもよりも薄味なのかと思ったが、次に食べたソースをたっぷりのカツも何の味もしなかったため、これはおかしいとそこで気が付き、さっと血の気が引いた。
「どうした?」
双葉の異変にすぐに気が付いた雨音の問いに隠しても無駄だと思い「味がしない」と素直に告げた。
「匂いは感じる?」
すん、と鼻を鳴らす。その時になって漸く何の匂いも感じ取れない事実に気が付いた。
「あのスプレーだな。味覚が駄目になったのか」
雨音がぐっと顔を顰め、箸を置くと双葉を抱え上げた。
「病院に行こう。あやかし専門の所なら対処法もすぐにわかるはずだ」
そう言うと部屋を出る。
「病院何て大げさです。寝ていれば治ります」
「もし何かあったらどうするの? あやかし用の製品が人間に及ぼす影響も分からないんだよ。それに双葉が美味しいご飯を味わえないなんて嫌だしね」
ちらりと雨音の背後に見えた使用人たちの顔も心配げだ。酷い風邪をひいた時も一時的に味覚がなくなったので、大したことはないと認識していたが、どうやら考えを改めた方がいいらしい。
「わかりました、でも、私歩けます」
「俺が抱えて歩きたいだけ。俺の我儘に付き合ってくれる? 嫌ならやめる」
嫌なんて言わないことは雨音だってわかっているはずだ。
無言で額を雨音の肩口に押し当てて、車に乗り込むまでじっとしていた。
連れて行かれた病院は、個人病院だった。雨音が普段人間として暮らしているように、病院の院長も人として人間を診ているらしい。院長はずんぐりむっくりしたヒョウタンのような体型だった。そしてその顔つきは明らかに狸のそれだ。
「貫田です。よろしくね」
そう言ってにこにこと笑う院長は、狸のあやかしらしい。
貫田は慣れた手つきで双葉を診察した。
「うーん、粘膜に異常はないね。強く臭いを嗅いじゃったから鼻が馬鹿になっているんだね。ちょっとしたら治るよ」
と、双葉と同じような見解を告げた。診察はあっさり終わり、帰ろうと椅子から立ち上がると、一緒に診察室に入っていた雨音が抱き上げようとして来た。流石に人前で抱きかかえられたくないと手を突っぱねて拒否する。
「駄目です」
「何で」
むっとした唇を突き出して不満を露にする。
「人前なので」
「貫田さんは人じゃないから大丈夫だ」
「そういうことじゃなくて。あの、ちょっと待って」
あやかしだから見られても良いかとはならない。
腰に手を回してくる雨音とそれを断固として拒否する双葉。ふたりのやりとりを見ていた貫田が大きく口を開けて笑い声を上げた。
「おほほ、久我家の坊が花嫁を溺愛していると噂に聞いておりましたが、本当だったのですねえ、まさかあの雨音様がねぇ」
貫田は大きな垂れ目を優しく細めて雨音を見ていた。その目はどことなく久我家の皆を思い起こさせた。
家族や近しい者に向ける愛情溢れる視線だ。
「幼い頃からやんちゃ坊主だったのに。愛はあやかしを変えますね。どうですか、結婚とは良いものでしょう」
懐かしむような声のあとの質問に雨音はふっと顔を綻ばせた。
「そうだね。幸せだよ」
そう答えた雨音に手を引かれ、病室を後にした。
車の中で、雨音がぽつりと零した。
「貫田は、かかりつけ医で昔から世話になっていたんだ」
狐と狸は仲が悪いと勝手に偏見を抱いていたが、どうやら違うらしい。ふたりの間には信頼関係が垣間見えた。
「狐以外のあやかしを見るのは初めてでした。他のあやかしにも私が人間だと知られているんですね」
貫田は双葉が人間でも驚かなかった。
人間があやかしと結ばれるメリットはないと朱莉が言っていたのが、少しだけ引っ掛かっていたので、貫田の友好的な態度にほっとした。
「ああ、人と交わるあやかしは珍しいけど、いないわけじゃない。それに久我家には婚儀があるからな。俺達の事情は他のあやかしにも知られているから、婚儀を成功させた花嫁を煙たがる者はいないよ」
皆に歓迎されている。
久我家に帰り、異常がなかったと告げると使用人の皆はほっと安堵の息を吐いた。
残念ながら双葉の味覚は夕食になっても戻らず、結局ケーキは雨音と使用人の皆で分けて食べた。
「美味しいよ」と雨音が嬉しそうに笑うが、双葉が食べられないことへの不満が少しだけ滲んでいる。それに苦笑を零し、次に作った時には一緒に食べようと約束をした。
ホームルームを淡々とこなす教師の声を聞きながら、窓の外へ視線を向ける。校門の前に止まっている見慣れた車にそっと微笑んだ。
朱莉の事件から一月たち、双葉は穏やかな日常を送っていた。
久我家では勿論のこと、教室でも見た目を変えたことや雨音の話題で盛り上がる回数は少なくなり、今では校門で待っている雨音を見て黄色い悲鳴を上げるくらいだ。
「では、起立」
教師の声に外へと気が逸れていた双葉は慌てて立ち上がった。
一日の授業が終わり、双葉は帰路に着く生徒達の波に乗って昇降口から外へ出る。
「あ、雨音様だ」
校門の前に立っている雨音を見て、誰かが言った。
双葉が雨音様と呼ぶせいで、殆どの生徒が雨音の事を様付で呼ぶ。
声に反応したのか、はたまた双葉の気配を察知したのか、スマホを見ていた雨音の顔が上がり、目が合った。
「双葉、おかえり!」
「ただいま。今日はお仕事早く終わったんですか」
「うん」
ちらりと運転席にいる真澄を窺うと首を振られた。どうやら途中で抜けて来たらしい。
「駄目ですよ。嘘吐いちゃ」
「嘘じゃないって、ちゃんと自分の仕事は終わらせてきたよ。まぁ、最終チェックのために一回会社行かないといけないけど」
雨音は疲れた様子で一度ため息を吐いた。
「予定ずらしてもいいですよ。今日である必要はないんですから」
「疲れてないよ。それに俺は今日のこと楽しみにしていたんだから、ずらすなんて言わないで」
先程の疲れた様子は見せず、にこりと笑った雨音は「じゃあ、行こうか」と言って車に乗り込もうとした。しかし、直ぐに動きを止め、振り返った。
「雨音様?」
雨音の視線はいつの無く鋭く、威嚇するように双葉の背後を見つめている。
「――あれ、誰」
固い声に双葉も振り返り、背後に立つ人物を目に入れた。
「あ、田辺君」
「田辺ってクラスメイトか」
何故か双葉のクラスメイトを全員把握しているらしい雨音がぼそっと呟く。
「何か用かな?」
雨音が田辺に問いかける。異様な空気が漂い始める校門前に生徒達が足を止めた。
「いや……」
しかし、田辺は何も言わなかった。すっと視線を逸らすと校門を出て行く。
その背中を見送り、戸惑う生徒達を置き去りにして双葉達は車に乗り込んだ。
「田辺と何かあった?」
むすりとした雨音の問いかけに首を傾げる。
何かあっただろうか。忠告をされて以降は授業以外で話をしていない、とそこまで考えた時に告白された一件を雨音に話していない事実に気が付いた。
「そう言えば、告白されました」
その瞬間、ぴしっと空気が凍った。
「こ、こくはく? あの男が? 双葉に? 俺がいるのに?」
「はい、ちゃんと断りしました」
「当たり前だよ! ていうか、双葉の記憶の中に俺以外の告白の記憶があるのも嫌だ……あいつって罰ゲームで告白して来た男でしょ? どの面下げて告白なんてしてんだよ」
苛立ちを隠せないらしい雨音はぶつくさと文句を言い始めた。いつもより崩れた口調に口元が緩む。
「告白されたならすぐに報告してよ」
「忘れてました……」
朱莉の一件ですっかり記憶の奥底に追いやられてしまっていた。
そう言うと雨音の機嫌が少しだけ上向いた。
「よし、そのまま忘れよう。綺麗さっぱり消し去ろうね」
なんて言いながら頭を撫でてくる。
「無理ですよ。あ、真澄さんすみません、花屋さんに行ってもらえますか?」
ぎゅうぎゅう抱きしめて来る雨音をそのままに真澄に話しかける。すると心得ているとばかりに頷き、一番近くの花屋に寄ってくれた。
そこで、菊を買った。
「両親の好きな花はわからなかったので、無難の菊にしました」
「そっか、綺麗な花だね」
花を持って車に乗り込み向かったのは、御寺だ。双葉の両親が眠っている墓がある。
今日は、両親に雨音を紹介するのだ。
両親の墓参りは毎年欠かさず行い、掃除もきちんとしていた。しかし誰かを連れて来るのは初めてだ。叔母夫婦はきっと一度も来ていないだろう。お盆に死者を迎える準備をしている所さえ見たことが無いのだ。
今回雨音を連れて来たのは、婚約者として挨拶したいと雨音が言い出したのが発端だが、叔母夫婦が着服していた金が返って来たのもひとつの理由だ。色々なことが起こり、全部が終わった。その報告をしにやって来た。
見慣れた墓にたどり着くと、軽く掃除を済ませる。ふたりでやるとすぐに終わった。
「お母さん、お父さん」
墓には誰もいないという話があるが、それでも話しかける。ここにしかふたりと繋がれる場所が無いから。
「私、好きな人が出来ました。久我雨音さんと言います。優しくて、頼りになる人です。あ、人じゃなくて狐のあやかしなんですよ。雨音さんは叔母さん達が使っていたふたりのお金を取り戻してくれたり、ピンチの時にかけつけてくれたり、傍にいて笑ってくれる素敵なあやかしなんです」
ちらりと隣に雨音を見る。彼はじっと墓を見ていた。
「双葉のお母さん、お父さん。初めまして、久我雨音と言います。双葉さんと結婚を前提にお付き合いしています。必ず幸せにしまう。もう苦しくて泣く様な思いは絶対にさせません。どうか天国で見守っていてください」
雨音の真摯な声が人気のない墓地に落ちる。
両親は聞いているだろうか。
辛いことがたくさんあって、不安でたまらなかった時に雨音と出会い、救われた。両親にも伝わって居ればいい。
「私、幸せになります」
直接言えたらどれだけ良かっただろうか、と考える。
両親は良かったねと抱きしめてくれて、双葉の隣では雨音が微笑んでいる。それはあまりにも素敵で、夢のようだ。
叶うことのない夢だ。
「産んでくれてありがとう」
心の底からそう思えたのは、雨音と出会えたからだ。
雨音に出会えていなかったらきっと孤独を憂うばかりで、墓の前で上手く笑えなかっただろう。
ふたりは墓に手を合わせ、両親に語り掛ける様にしばしそうしていた。
「帰ろうか」
ふっと空気が緩んだタイミングで雨音がそう声をかけた。
「はい」
一度だけ墓を振り返り、頭を下げる。
「また来るね」と声をかけて、雨音が差し出して来た手を握った。
「両親の前だから嫌がるかと思った」
「た、確かに」
墓の前で恋人と手を繋ぐのはマナー違反かもしれない。手を離そうとするが、ぎゅっと握られて阻止された。
「もう駄目です。離しません」
悪戯っ子みたいに言う雨音に双葉もつられて口角を上げた。
「これから仕事ですよね」
「仕事のことなんて忘れてたのに思い出させないで」
意趣返しで言った言葉に雨音が分かりやすくショックを受けた表情を浮かべた。
「離れたくないな……」
微笑む双葉を見ながら寂しそうに溢すので、双葉はぎゅっと手を握り返しながら答える。
「私も離れがたいですよ」
「仕事一緒に来る?」
「行きません」
雨音の職場に着いて行った所で邪魔になるだけだと言うが、雨音は「双葉がいるだけで頑張れるから」と言って聞かない。
「私は久我家で待ってます」
「うん、早く終わらせて帰るからね」
雨音がいない間にケーキを焼こう。味覚はすっかり治っているので、前々からリベンジがしたいと使用人達と話していたのだ。
今回は皆で食べられるといい。
「大好きですよ、雨音様」
二人並んで、これからも歩いていきたい。
双葉はそっと心の中で願った。