「あなたがリースマン・リングラムさんですか?」
私が聞いてもリースマン氏は座って地面を眺めている。
私は右人差し指を立てて、リースマン氏の目の前でゆっくり大きく左右に振った。
しかし彼の反応はない。
「あ、あの……何をしてらっしゃるんですか?」
ポレッタが目を丸くして、そう聞いてきたので私は答えた。
「人間は目で物を見ます。こうやって指を振ると、自然と指のほうに目が向くのです。でもリースマンさんはそうならない。──リースマンさん、どうですか?」
私はリースマン氏の名前を呼びつつ、彼の右耳のそばで手を強く叩いた。
しかし彼はまたもぼんやりしているだけだ。
「お前……何をしとるんだ」
ゴランボス氏はイライラしつつ言った。
今度はパメラがゴランボス氏に説明した。
「リースマンさんの耳が聞こえているかどうか、反応を確かめてんだよ。っていうか分かるでしょ、それくらい」
ゴランボス氏は眉をピクピクさせていたが、私はポレッタに耳打ちした。
(ポレッタ、リースマンさんに気づかれないように後ろにまわって。そしていきなり彼の背中を軽く触ってください)
(え? は、はい)
ポレッタはそっとリースマン氏の後ろに回り、彼の背中を触った。
それでも彼はまったく反応を示さない。
「おい、何の悪ふざけなんだ?」
ゴランボス氏は眉をひそめてそう言ったが、パメラが説明してくれた。
「リーズマンさんに『触覚』があるかどうかを試してんだよ。人間っていきなり触られると、『何だ?』という風に反応するでしょ。それがないみたい」
「だから、それが何だというんだ!」
ゴランボス氏が怒鳴ったので私は静かに答えた。
「リースマンさんの『脳』の『後ろ部分』『両横部分』『上部分』に、何らかの理由で『神経伝達物質』が行き来していないと思われます。問題は脳の部分です」
「何? の……『のう』とは何だ?」
「聖女医学では、頭の中に『脳』というものがあるとされています。人間はその脳で、考えたり物を見たり音を聞いたりするのです」
「そ、そんなバカな。──いや、頭の中に奇妙な塊があるのは知ってるぞ」
ゴランボス氏はふん、と笑った。
「人間の頭の中に存在する、シワのある奇妙な塊だろう? 俺たちの医学ではまだ解明できていない、謎の肉の塊だ。一応、人間は物を考えるときに、そこを使うと考えられているが」
「ええ、おっしゃる通り、人は思考するとき脳を使います」
「だが、物を見るのは目。音を聞くのは耳だ。その頭の中の肉の塊なんぞと関係があるわけない!」
「いいえ」
私は言った。
「『物を見る』『音を聞く』『運動する』『刺激を感じる』……この世の中の事象をとらえる機能が、頭の中の脳という部分に備わっているのです」
「はああ? 何だそれは。か、勝手にそんなデタラメを作るな」
「いえ、聖女医学の知識に間違いはありません」
私がそう言うと、ゴランボス氏は首を横に振って言った。
「じゃ、じゃあ百歩譲ってお前の言い分を聞いてやろう。どうしてリースマンは反応を示さない?」
「それをこれから解明します。私の透視能力で脳の中の『神経細胞』と『神経伝達物質』を見るのです。ただし、これらは目で確認ができませんから、私の頭の中だけで診ることになりますが」
「バ、バカバカしい! 透視能力? そんなものがあってたまるか」
ゴランボス氏は地面を踏みつけた。
「俺は帰る!」
ゴランボス氏はさっさと公園を出ていってしまったが、代わりにラーバスが入れ替わるように公園に入ってきた。
「お、おや? ゴランボス先生だ。君らが心配になって来てみたが」
「怒って帰ってしまわれました」
「な、何だと? そうなのか?」
私はラーバスに脳の説明をした。
彼は驚いていたが、やがて深くうなずいた。
「実は私も『頭の中の謎の塊』の機能について、君の話と似た古い医学の伝承を聞いたことがある。頭の中の謎の塊……つまり君の言う脳──が人間のほとんどを司っていると。……で、これからどうするんだ?」
「リースマン氏の頭の中を診ます」
「な、何?」
私は驚くラーバスを尻目に、リースマン氏の頭の中を透視した。
私の頭の中に彼の脳の映像が入り込んできた。
外面的には問題ない脳だ。
だが、神経細胞に伝わる神経伝達物質の伝わり方がおかしい。
神経伝達物質は実際に見えるわけではなく、「光」として流れが見える。
光はネズミが排水管を動き回っている様子に似ている。
だが、その光が脳まで行き届いていないようだ。
「神経伝達物質の流れが悪いね」
パメラも透視能力を使いながら言った。
「そのくせ彼の内臓には毒の『気』が見えないし」
「ええ」
「──毒性がなく脳に作用するもの……。酒飲みのおっさんが『お花畑が見えるぞ』とか言ってるけど、あれと似たようなものかな?」
「お酒……」
私は頭にひらめくものがあって言った。
「もしかしてお酒に近い、それ以上に気持ちの興奮や鎮静、幻覚作用のある物質を体内に取り込んでいるのでは」
私が言うと、パメラとラーバスは顔を見合わせた。
閉ざされていた扉が開いた──と思った。
「もしかしてお酒に近い、それ以上に気持ちの興奮や鎮静、幻覚作用のある物質を体内に取り込んでいるのでは」
私が言うと、パメラとラーバスは顔を見合わせた。
しかし私はこの問題──死霊病に対して、かなり人の悪意が及んでいることを感じていた。
何者かが意図的に、巧妙に人を苦しめている……?
◇ ◇ ◇
リースマン氏はよろよろと芝生広場を立って、公園を出ていってしまった。
「知らない人に会って疲れてしまったのでしょう。彼は家に帰ると思います」
ラーバスは言ったが、パメラは「あたしを襲っておいて疲れたはないもんだ」と怒っていた。
グール化──いや、死霊病になった人間は記憶があるのだろうか?
それも疑問だが……。
「彼らの食事を知りたいのです。それがこの事件の鍵になります」
私がラーバスに言うと、彼は深くうなずいた。
「口で話すよりも実際に患者の家に行ってみましょうか。近くにデアーチェ・ロゼタンという六十歳の婦人がいます。彼女はグール化したことはあるが、回数は少ないはず。昼間は危険性が比較的少ないと思われるが……。彼女の家に行ってみましょう」
「ラーバス先生、私はゴランボス先生の様子を見てきます」
ポレッタが言うと、ラーバスはため息をついて「頼みます。ゴランボス先生を怒らせるとお金が入ってこないですからね」と言った。
やはりゴランボスという人は、この街にとって重要な人物なのだ……。
◇ ◇ ◇
私たちはジャッカルと合流し、デアーチェ・ロゼタンさんの家に向かった。
ジャッカルがブツブツ言った。
「おいおい、俺、グールになりそうな女の家に行くなんて嫌だぜ」
「いいからさっさと来な。危険な目にあったら盾になるヤツが必要なんだから」
パメラはジャッカルに言った。
──比較的きれいな白いモルタルと石作りの家が川の前にあった。
これがデアーチェ・ロゼタンさんの家か。
中に彼女はいるのだろうか?
「デアーチェさん」
私たちはそう呼びかけつつ、玄関のベルを鳴らした。
しかし反応がなかったので、「お邪魔します」と言ってそっと彼女の家に入った。
扉に鍵はかかっていなかった。
──年配の女性が椅子に座って猫をなでている。
目の焦点が合っていないが、ほのぼのとした光景だ。
しかし!
彼女は突然立ち上がり──いきなりパメラ目がけて飛びかかってきた。
「う、うわああああ! まただ!」
パメラが背中から抱きつかれた!
デアーチェさんは衣服を着ていたが、肌が紫色で爪が長く伸びていた。
口には牙が生えている。
グール化だ!
「くそ、昼間のグール化現象か!」
ジャッカルがデアーチェさんを後ろから抱え、床に投げ飛ばした。
しかしデアーチェさんは立ち上がろうとしている。
「近づかないで! デアーチェの爪で引っかかれたら『病原体』が入るぞ!」
ラーバスはそう叫んで呪文を唱えた。
するとデアーチェさんは途端に床に倒れ込んで寝てしまった。
──強制睡眠魔法だ。
「もう、最低!」
パメラはわめいている。
ふう……だけど誰にも怪我がなくて良かった。
「彼女の食事はこの水分ですか?」
水が入った瓶、牛乳の瓶が床に転がっている。
机に置いてあったようだが、さっきの騒ぎで倒れてしまったようだ。
デアーチェさんは床にごろんと寝てしまっているままだ。
「グール化《か》した人たちは固形物を一切食べないですね。食事は水分だけです。栄養が不十分なので心配ですが、固形物の食事を受け付けないので仕方ないですね。あ、それと……」
ラーバスは注意するように言った。
「瓶には一切触らないように」
「おっ! 赤ワインだ!」
ジャッカルが嬉しそうに声を上げた。
見ると机の横に赤ワインの瓶が置かれている。
瓶に貼られているラベルを見ると「赤ワイン」と書いてあるが、瓶は銀色で非常に珍しい。
口は開いているが中身はたっぷり入っているようだ。
コルクは無いようだが……。
ということはかなり酸化して酸っぱくなっているはず。
「よさそうな葡萄酒じゃないか」
「き、君! 瓶に触るなと言っているでしょう!」
ラーバスはジャッカルに注意したが、彼は少し赤ワインを手に出してなめてしまった。
「ちょっと味をみるだけだって。……おや? ものすごく甘いぞ。『エード』みたいだ」
「えっ? ものすごく甘い?」
私は首を傾げた。
それはおかしい。
赤ワインは酸化すると酸っぱくなるはずだ。
私もこの赤ワインを少しなめてみた。
ちなみにエードとは柑橘類などの果汁に、砂糖や香料で味をつけた飲料だ。
「アンナ! 君まで……」
ラーバスは声を上げたが味をみてみないと始まらない。
少量だ、問題はない……と思う。
「この味は……!」
甘い……赤ワインにしては驚くほど甘いといえる。
何か嫌な予感がする。
「甘すぎる葡萄酒に注意せよ」
聖女医学の教えにそうあったことを思い出した。
……そ、そうか!
「私はさっき『お酒に近い、気持ちの興奮や鎮静、幻覚作用のある物質を体内に取り込んでいるのでは』と言いました」
私は皆に言った。
「しかしそれは完璧な推理ではありませんでした。──分かりました。死霊病の正体が」
「ほ、本当ですか?」
ラーバスは目を丸くした。
私はそれにうなずいた。
「それをお話するために、いったんこの家を出ましょう。新品のこの赤ワインと同じものを手に入れてからご説明します」
私は死霊病の発生は、ある者が意図的に行った非人道的行為だと確信した。
僕──ウォルター・モートンが、アンナたちのいるゾートマルクの街から馬車で旅立ったのは四時間前だった。
御者は僕だ。
当然客車には誰も乗っていない。
馬車は荒野を進んでいく。
これから白魔法医師たちの隠れ里があるルバイヤ村に行き、今まで知り合った病人たちを救うため、協力者を連れて戻るのだ──。
◇ ◇ ◇
やがて岩場の平坦な高台を確認し、その高台の上に家々があるのを見た。
恐らくルバイヤ村だ。
僕はすぐ馬車を降り村に近寄った。
ゆるやかな階段の前には屈強そうな男が一人、立っていた。
「何だ? お前は」
「僕はウォルター・モートン。騎士だ」
「騎士だと? ダメだ、帰れ。お前のような者が来る場所ではない。ここは神聖なルバイヤ村だぞ」
「僕が仮住まいしている街や村に病人がたくさんいる。ここは白魔法医師の隠れ里だと聞いた。病気を治してくれる協力者を募っているんだ」
僕はラーバスに書いてもらった紹介状を彼に手渡した。
入り口の番人と思われる彼は、紹介状を見て首を横に振った。
「白魔法医師、ラーバス・アンテルムの紹介状か。ラーバスという男は知っている。しかし紹介状は偽物かも知れん。悪いがお引き取り願おう」
「頼む、話だけでも聞いてくれ。この村で最も偉い人に会いたい。あなたは誰だ?」
「俺はジェイラス・トルセ。このルバイヤ村の入り口の番人だ。それを聞けば満足だろう。さあ、帰ってくれ」
僕らが押し問答しているとき、上から「何をしている?」と声がした。
あご髭を生やした老人が岩場の上からこちらを見下ろしている。
「グラモネ様!」
番人のジェイラスは背筋を正して上を見上げ、岩場の老人に言った。
「この者が村に入らせろと言って聞かないのです」
「ふむ……誰だ? 君は」
老人が僕を見て聞いてきたので僕は答えた。
「僕は騎士のウォルター・モートンです」
「ウォルター……モートン……騎士……だと?」
老人は驚いた顔をしているように見えたが、そのとき……!
「ゴブリングールだぞ!」
村の右側から大声がした。
「敵襲! 敵襲!」
一人の若者が見張り台に立って叫んでいる。
ゴブリン……グール? 敵襲か?
迫ってくるのは普通のゴブリンではないらしい。
僕が東のほうを見ると、そちらには墓地があり何かがゾロゾロと歩いてくる。
……魔物だ!
その数、約二十数匹!
「どけい!」
ジェイラスは僕を押しのけて腰の剣を引き抜いた。
魔物はどんどん近づいてくる。
僕も剣を取り出した。
久しぶりに真剣を使用する!
「グウウウアアアア」
そんな魔物のうめき声が聞こえてくる。
僕は魔物の大群に近づくと奴らの姿を確認した。
魔物の肌は紫色で爪は伸び、牙が生えた──見たことのないゴブリンだ!
「こ、この魔物は……!」
どこかでこんな魔物を見た覚えはあるが、そんなことを考えている場合ではない。
戦闘が始まった。
ゴブリングールは棍棒を持ち、上からそれを振り下ろしてきた。
物凄い音を立て、荒野の岩を砕いた。
「と、とんでもない力だ! ゴブリンにこんな力はないはずだが」
僕はうめいた。
左耳元で風が鳴る。
別のゴブリングールが、左から爪を振り下ろしてきたのだ。
僕はその瞬間を見逃さなかった。
ゴブリングールの胴体を剣で斬り裂いた。
すると瞬間、仕留めたゴブリングールは宝石に変化した。
──魔物は魔力によって宝石から生み出されるのだ!
「うわあ! た、助けてくれ!」
向こうでは剣を持った村人が、ゴブリングールに殴り倒されていた。
魔物たちはもう約十匹程度に少なくなっていたが、それでも村人たちに応戦していた。
僕は殴られ倒れた村人のそばに駆けつけ、殴ったゴブリングールの体を剣で斬り裂いた。
宝石化を確認し、今度は後ろから襲い掛かってきたゴブリングールの胴を貫いた。
「や、やるな、お前!」
ジェイラスは僕を見て声を上げた。
おや? 彼の剣は不思議な透明の炎のようなものをまとっている。
その剣でゴブリングールを斬り裂くと、ゴブリングールの断面は蒸発して溶けてしまった。
な、なんだ? あの剣の術は? 見たことがないぞ。
それから三十分の戦闘が続き、村人は倒れ魔物も宝石化していった。
やがてゴブリングールは三匹となり、墓地へ逃げていった。
「大丈夫か!」
僕は倒れて失神している村人を背負った。
「……こっちだ。村に運んでくれ」
ジェイラスも怪我をした村人を背負っている。
僕は村人を背負い、階段を上がってルバイヤ村に入ることになった。
◇ ◇ ◇
ルバイヤ村は岩場を削って作った上がり階段の上にあった。
高台の上は木造の家々が建ち並んでいる。
先程の老人──グラモネ老人の家はその村の最も大きな家にあった。
かなり大きい建物だ。
家というよりは木造の診療所に見える。
「君のおかげで助かった」
グラモネ老人が診療所の診察室の中で僕を出迎えた。
「君の名前は……ウォルター・モートンか。椅子に座りなさい」
「はい」
「私は元白魔法医師長のグライモス・グラモネだ。ここは白魔法医師の隠れ里ルバイヤ村の診療所だ。私が村長で、弟子の白魔法医師たちはこの村に七十名ほどいる。皆、この村で白魔法の研究と研鑽をしているのだ」
グラモネ老人は自分も木の椅子に座り、そう言った。
僕に対する警戒心は解かれたのだろうか。
窓から下を見下ろすと、ジェイラスはまた村の入り口の番をしている。
隣の部屋を見ると、さっきの戦闘で怪我をした人々がたくさんのベッドに寝かされていた。
「先程の魔物は、ゴブリングールという魔物だそうですね」
僕はグラモネ老人に聞いた。
「僕は初めてその魔物に遭遇しましたが、似た魔物を見たことがあります」
「グール化した人間だろう?」
「ええっ? そ、そうです」
僕は驚いた。
グラモネ氏に言い当てられたからだ。
「まず、死霊病とグール化を分けて考えなければならない。二つは別の症状だ」
僕は再び驚いた。
死霊病とグール化は同じ意味を表す言葉だと思っていたからだ。
「全然違うものだ。死霊病は脳の病気。グール化は呪術的な薬剤を使った症状である」
「し、知っているのですか?」
僕は真剣な表情でグラモネ老人を見た。
「まず、死霊病とグール化を分けて考えなければならない。二つは別の症状だ」
僕──ウォルター・モートンはグラモネ老人の言葉に驚いた。
死霊病とグール化は同じ意味を表す言葉だと思っていたからだ。
「死霊病は脳の病気。グール化は呪術的な薬剤を使った症状である」
「グール化はさっきのゴブリングールを見れば分かるように、肌は紫色になり爪は伸び牙が生えるようです」
「その通り。ゴブリングールの正体はゴブリンにとある薬剤を注射して、一時的に狂暴化させた魔物だ。ゾートマルクの人間のグール化も同じ仕組みのはずだ」
グラモネ老人がそう断言したので、僕はあわてて聞いた。
「だ、誰かが注射していると?」
「そうだ。詳しく説明しよう。肌の色というのは肌の成分の『色素』の量で決まるのだ。その色素の一部を増加させると紫色になる」
「色素……」
「一方、爪や歯は、牛肉や鳥肉などに含まれる『蛋白質』という成分からできている」
僕は今まで人間の爪や歯が何でできているか、ということすら考えたことがなかった。
蛋白質という言葉も初めて聞いた。
「では、ゴブリンや人間をグール化してしまう原因は何ですか?」
「魔族が作り上げた魔族の薬剤だ。魔族の薬剤は、塩、毒キノコ数種、ドラゴンの皮、コウモリの爪、数種の薬草、魔力の結晶の粉末をエキスにしたもの。この魔族の薬剤を体に注射するとグール化現象が起こる」
「何とも複雑な薬剤ですね……」
「魔族に古代から伝わる技術があるらしい。白魔法医師は古代文献を研究し、それを解明した。魔族の薬剤を注射すれば、一時的に肌の色素は増加し、蛋白質に作用し爪は伸び、歯は牙に成長する。しかしそれは副作用で狂暴化が目的だがな」
さっきのゴブリングールも岩を砕いたし、グール化した人間も狂暴化した。
「では、死霊病のことを教えてください」
「うーむ。死霊病は難しい」
グラモネ老人は腕組みをして考え始めた。
「昼間におとなしくなり、正気がない状態を死霊病という。白魔法医師の結論としては、死霊病は脳に問題があることは分かっているのだ」
「脳……とは? その言葉を聞いたことはありますが、よく知りません」
「頭の中に入っている肉の塊だよ。脳は人間の思考、行動をすべて司るといわれている。死霊病は脳に問題がある症状だということは分かっているのだが、あまり解明できていない」
「なぜ?」
「脳には神経伝達物質というものが行き来しているらしい。これが行き届かないと死霊病になる。しかし神経伝達物質は目に見えないものなのだ。白魔法医師は魔法で人体を透視はできるのだが、神経伝達物質を視ることがでる者はいない」
グラモネ老人は残念そうに首を横に振った。
「一方で聖女には、脳を透視し、神経伝達物質の行き来を視ることができる者がいるらしいのだが……」
僕はアンナのことを咄嗟に思い出した。
彼女はこのことを解明できたのだろうか。
「さっき仰ったグール化の薬剤は手に入れることはできますか?」
「魔族の薬剤なら、すでにこの隠れ里で研究し、我々が複製を作成している。──君はさっき協力者が欲しいと言っていたようだな」
僕がうなずくとグラモネ老人はしばらく考えてから、決意するように言った。
「ゾートマルクの状況は我々も気になっていた。良い機会だ。魔族の薬剤の複製を持って、我々も行こう。君には先程の戦闘で、世話になったしな」
「あ、ありがとうございます!」
「だが、その前に君には、強力な魔物と戦っていく力が足らぬ」
「ど、どういうことですか?」
僕は自分の未熟を指摘されたようで驚いたが、グラモネ老人は続けて言った。
「ジェイラスの剣術を見たか? あれが聖騎士の剣術だ」
「あ、あれが聖騎士の剣術!」
「そう、剣に白魔法をかけ、悪霊系、グール系の魔物を撃退、打倒する」
ジェイラスのゴブリングールを蒸発させて溶かす剣術は、聖騎士の剣術だったのか!
「君の力を引き出してやろう。ただし、訓練し力を伸ばすのは君の努力次第だ。──今から君は聖騎士となるが良い!」
彼は立ち上がり、座っている僕の頭の上で何かを唱え始めた。
「では『霊よ、私を上昇させてください』と言いなさい。そうしないとお前を守っている霊から許可が下りない」
「れ、霊よ、私を上昇させてください」
僕はその通りの言葉を言った。
グラモネ老人は僕の肩に右手を当てて、左手で宙に何かを描きながら唱えた。
「この者の霊に語り掛ける。上昇、上昇、上昇……」
そして続けて言った。
「霊よ、この者は次の段階まで進んでいけるようだ。福音、福音、福音……」
すると僕の頭の中で何かが引っ張られる気がした。
体が引き伸ばされ、そして元に戻り体が熱くなった。
体の奥から力が湧き出てくるような感覚を感じたが、気のせいだろうか?
「これで聖騎士になるきっかけはお前に与えた。人間には七つの見えない『門』がある。お前はすでに四つ門を開いていたが、今回は喉の辺りにある五つ目を開き、頭周辺にある六つ目の門を半分開いた」
「そうなるとどうなるのですか?」
「聖騎士に目覚めることになる。真の聖騎士なるにはまだまだ修行が必要だがな……。さあ、一緒にゾートマルクの街に行こう。私と、私の弟子の白魔法医師を五名連れていこう」
僕は聖騎士となり、白魔法医師たちと一緒にゾートマルクの街に戻ることになった。
驚いた……。
必要なことがすべて与えられ、アンナたちの元へ戻ることになったのだ!
私──アンナ・リバールーンはゾートマルクの街の死霊病患者を治癒するため、調査を行った。
そして昼、内周地域の住人の正気がない状態──死霊病に関して私は普段、彼らが飲んでいる赤ワインに問題があるとにらんだ。
ただし、それは半分しか解決していないことに気付いてしまった。
ウォルターがルバイヤ村に旅立った翌日の朝、私とパメラは宿屋の一室で考えていた。
「死霊病……つまり人の無気力状態に関してはある程度は分かったけど、グール化についてはほぼ何も分かっていないわ」
私はため息をついてパメラにつぶやくように言った。
「どういうこと? 死霊病は解明できたと言っていたじゃないか」
パメラは驚いた顔で私に聞いてきたので、私は答えた。
「よく考えたら、それは半分だけ解決できたということ。死霊病とグール化は、分けて考えなければならない別の病気だと気付いたわ」
「え? そ、そういう考え方もあるか。っていうか、何で赤ワインが死霊病の原因なんだよ。あたしはまだそれを知らないぞ。早く教えろよ」
「それはまだ言えない」
私はきっぱり言った。
死霊病とグール化《か》は分けて考えなければならないが、実際に起きている問題は同時に出ている。
だからどちらも答えが出ないと、真の正解に辿り着かない気がしたのだ。
「グール化の真相が分かってから、あなたにも皆にも話すわ」
「ったく……。あんたは何でも一人で抱え込むクセがあるからなあ」
パメラがそう不満を口にしたとき……。
「おいアンナ、パメラ! 起きてるか。す、凄いぞ!」
ジャッカルの声が部屋の外から響いた。
「ウォルターが戻ってきた! 白魔法医師をたくさん連れてきているぞ。早く外に来い!」
私とパメラは顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
私たちは街の入り口に急いだ。
凄い!
ウォルターと六名の白魔法医師たちが街の入り口付近に立っている!
「ほほう、ウォルターはやりましたね」
私たちと一緒に来ていたラーバスはうなった。
「おお、何と。グラモネ様がいらっしゃる! あの方は元白魔法医師長ですよ」
「ラーバス、久しぶりだな。元気かね?」
グラモネという老人はラーバスに挨拶した。
ラーバスはグラモネ老人に向かって、深く頭を垂れている。
二人は知り合いか……。
「ちっ、何だ。本当に白魔法医師を連れてきちまいやがったのか。ゾートマルクの医師は俺だけで十分だっていうのに!」
医師のゴランボス氏は舌打ちして不満をぶちまけた。
「あなたがアンナさんか。聖女だと聞いている」
グラモネ老人は私に近づいてきて言った。
「私はグライモス・グラモネだ。ウォルターから君が様々な人の病気を治癒してきたと聞いている。会えて嬉しいよ」
「ど、どうもありがとうございます。光栄です」
私はそう答えつつ、ちらりとウォルターを見た。
ん……? ええっ?
「ウォルター! 何だか体が輝いて見えるけど……」
「え? そ、そうか?」
ウォルターは恥ずかしそうにした。
私はハッと気づいた。
「あっ、そうか。聖騎士になれたのね?」
「ま、まあそうらしい。実感はそれほどないのだが。これから修業次第で真の聖騎士になれそうだ。──そういえばアンナ、このようなものを手に入れた。大変危険な薬剤だが……」
ウォルターは袋から瓶を取り出した。
中には緑色のドロドロの液体が入っている。
「こ、これは!」
「これがグール化の原因、『魔族の薬剤』という薬剤だそうだ。グール化はこれを注射することによって発現する。白魔法医師たちの研究で分かったことだそうだ」
「ウォルター! すごいわ!」
私は思わず声を上げた。
これで死霊病とグール化……二つの病気の原因が分かったことになる。
しかしこの魔族の薬剤の重大な謎について、私はまだその時点では気づいてなかったのだが……。
「では、誰かに頼みたいことがあるのだけど」
私は周囲を見回し、看護師のポレッタを見やった。
「ポレッタ、申し訳ないけど頼みがあるの」
「何でしょう? 私が力になれることだったら、何でも言ってください」
「──それは良かったわ。私は死霊病とグール化など、このゾートマルクの街全体にはびこる問題について、人々に説明したいのです」
私は川の外周地域の一番大きな建物を指差した。
あれはどうやらこの街の公民館らしい。
「あそこの公民館の会議室を借りて、人を呼べないかしら。それから新品の赤ワインを、外周地域と内周地域のものを二種類手に入れたいのだけど」
「はい、どちらもお任せください」
ポレッタは静かにうなずいた。
ポレッタならこの街に長く住んでいて顔が広いし、看護師として信頼されているから適任だと思ったのだ。
「え? 何だ? ワインが二種類? 初耳だぞ!」
パメラは目を丸くして私を見た。
──私はこれから皆に、死霊病とグール化について、私の独自の調査結果を話すつもりだ。
◇ ◇ ◇
三時間後、私は自警団の若者たちに、外周地域の公民館の会議室へと案内された。
ポレッタがうまく手配してくれたのだ。
私が会議室の檀上に立つと、すでに会議室の椅子にはウォルター、ジャッカル、パメラ、ラーバス、ポレッタ、ゴランボス氏が座っていた。
そして外周地域の住人数名、グラモネ様、ルバイヤ村の白魔法医師たち五名もぞろぞろと会議室に入ってきた。
「くだらん、まったくもってくだらん! 聖女などというまじない師が、死霊病とグール化を解明しただと?」
ゴランボス氏は腕組みして、ギシリと椅子にもたれかかった。
「しかも俺に講義をたれるだって? まったく偉そうに!」
私はゴランボス氏に、「講義ではなく調査報告です」と言った。
「これより死霊病と人のグール化の解き明かしをいたします!」
私は会議室にいる人々に宣言をした。
「これより死霊病と人のグール化の解き明かしをいたします!」
私は公民館の会議室にいる人々に宣言をした。
「デアーチェ・ロゼタンさんなど内周地域に住む人々は、水、牛乳、ワインが主に栄養源でした。それを好きなときに飲んでいたようです」
私はそう言い、ポレッタが持ってきてくれた赤ワインの瓶、二本を机に置いた。
「そういえば疑問に思っていたことがあるんだけど」
パメラが手を挙げて言った。
「死霊病の人は、瓶の封をどうやって開けるの? 水や牛乳、ワインはコルクで封をしているんだよ。彼らは日頃、無気力状態。できることは入浴と着替えくらいだろ。彼らにコルク開けでコルクが開けられるの?」
「レストランの主人に聞いたのですが、配達人が三日に一度、水、牛乳、赤ワインを配達してくれるのだそうです。配達してくるのはジャームデル王国から。そして配達人がその場でコルクを抜いてくれる」
「な、なるほど。配達人がコルクを抜いてくれるから、自分でやらなくていいわけか」
「そして三日経ったら、配達人はその瓶を回収しにきます」
「び、瓶の飲み口が開いたまま、三日間も放置するのか?」
ジャッカルが顔をしかめて言った。
「牛乳もワインも悪くなるぞ。少なくとも俺は飲まないね。貴族の家みたいに涼しいワイン専用の保管室があればいいが。そんな立派なものはこの街にないだろ」
ジャッカルが声を上げたとき、ラーバスもため息をついて言った。
「それに、『病原体』の感染の心配があるから、瓶の回収は勧めないですけどね。ジャームデル王国の方針があるのでしょう」
「三日間の放置についてですが、味と品質に関してはギリギリでしょう。そう考えると水と牛乳についてはまあ一応……問題はありません。しかし、問題は赤ワインです」
私は言った。
「私は少量、デアーチェさんの赤ワインをなめてみましたが驚くほど甘かったのです。こんなワインは味わったことがありません。皆さんはゾートマルクに配達される赤ワインを飲んだことはありますか?」
「俺はたまに飲む。だが、俺の飲んでいるのは甘くない美味い辛口ワインだぞ」
ゴランボス氏がそう言ったので、私はうなずいた。
「それは外周地域の赤ワインですね」
「ふむ……。今思い出した。確か外周地域のワインと、内周地域に配達されるワインの瓶は違うはずだ」
ゴランボス氏がそう言ったとき、パメラは首を傾げて言った。
「ワインは二種類あるのか。でもそれはなぜ? 分ける理由が分からない」
「それには理由があります。外周地域に配達されるワインは飲んでも健康被害はありません。しかし、内周地域に配達されるワインは飲んだら健康被害が出る」
会議室が騒めいた。
「配達された赤ワインで健康被害ですって?」
ラーバスが声を上げた。
「そんなことが……私は二年間もここに住んでいるが、そんなことは気付きませんでしたよ」
ラーバスが言うと、私は「これを見てください」と言って机の上の赤ワイン、二本を指差した。
「左が外周地域の赤ワイン。右が内周地域の赤ワインです」
外周地域の赤ワインの瓶は緑色のガラス瓶だ。
一方、内周地域の赤ワインの瓶は銀色だ。
全く見た目が違う。
「見た目が全然違いますね。これでは絶対に間違えようがない。いえ、絶対に間違えて配達してはいけないのです」
私は言った。
「なぜなら内周地域──つまり死霊病およびグール化する人々が飲んでいる赤ワインは、鉛の鍋で煮てあるからです」
「な、鉛の鍋だって? 何のために?」
グラモネ老人が声を上げたので、私は答えた。
「ワインに酢酸鉛という成分を作り出すためです」
「わ、分かったぞ!」
グラモネ老人は声を上げた。
「ワインを鉛の鍋で煮ると酢酸鉛がワイン内に生成され、驚くほど甘くなる! それこそ柑橘類の飲料水、エードのようにだ!」
「そうです。だから死霊病の人でも飲みやすかったのです。──しかし、ワインを鉛の鍋で煮るのは、飲みやすくすることが目的ではありません。この酢酸鉛が体に蓄積されると……」
「貧血……腹痛……いや、それどころか脳障害、神経障害を引き起こす! 二年間以上も定期的に飲んでいれば、人間は無気力状態に陥ったようになる!」
グラモネ老人はそう自分で言って、驚いたように声を上げた。
「そうか……そうか! 死霊病の正体は、ワインの中の鉛だったのか!」
「しかも内周地域のほうは、鉛を主としたもので作り上げた瓶です。すさまじい鉛の量がワインに溶け込み、それはそれはとろけるように甘くなっていたでしょう。──悪魔の媚薬のように」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何のためにジャームデル王国はそんなものを配達する?」
パメラが声を上げて質問すると、ラーバスが答えた。
「それはまさに人体実験です。内周地域の人間を使い、グール化《か》の準備段階を作り出す。昼は死霊病を引き起こしておいて、夕方はグール化を引き起こす」
ラーバスが言うと、パメラが「し、しかしそのグール化は」と言った。
「だ、誰かが魔族の薬剤を注射しないとグール化しないはずでは?」
そうだ……誰かが魔族の薬剤を注射しないとグール化しない。
逆に言えば、この街の誰かが人々をグール化《か》させているのだ。
そういえば、ターニャはなぜ離れたローバッツ工業地帯の村で、死霊病になったのか?
そんな疑問が頭に浮かんだそのとき──公民館の外で大きな音がした。
あわてて公民館の窓の外を見ると──。
「み、皆、来てくれ! グールだ! 朝からグールが出たぞおお!」
外で自警団の若者たちが声を上げている。
たくさんの住人がグール化している!
その数──約四十数名!
「み、皆、来てくれ! グールだ! 朝からグールが出たぞおお!」
外で自警団の若者たちが声を上げている。
たくさんの住人がグール化している!
その数──約四十数名!
「ひ、ひいい! こ、この公民館の中にいれば安全なのか? た、助けてくれぇ!」
ゴランボス氏はいかつい顔をゆがめて、私たちに訴えた。
「いや、ここにいるのは危険だ」
ウォルターが首を横に振って言った。
「グール化した人間が入り口を壊して入ってくる。建物内に逃げ場は少なく、僕らは追い詰められるだろう」
ウォルターが言うと、ジャッカルもうなずいた。
「街の入り口付近なら逃げ場があっていいぜ。公民館内の人々を集めて、村の入り口付近に走ろう!」
「そうね──。皆さん、思い切って外に出てください! ここにいると危険です。街の入り口付近に移動してください!」
私はパメラと一緒に、公民館内にいる人々に声をかけてまわった。
公民館内の人々──四十三名が集まったところで、外に出ることにした。
朝の青空の光が私たちを包む。
「う、うわあああ」
パメラが声を上げた。
街中にグールがたくさんいる!
とんでもない騒ぎになっていた。
外周地域も内周地域も関係なかった。
グールたちは民家の壁、商店街の看板を壊して回っている。
「あいつら!」
ジャッカルは自分の武器の八角棒を手に取った。
「ダメ!」
私は叫んだ。
「彼らは人間です! 一時的にグール化しただけです」
「……そうだ。彼らを傷つけることはできない。元は人間だからな」
ウォルターは真剣をしまい、そのまま白魔法医師たちとともにグールに立ち向かおうとしていた。
「ウォルター!」
「アンナ、大丈夫だ。見ていてくれ」
ウォルターは私にそう言ってグールに向かっていった。
グラモネ老人は叫んだ。
「よし、強制睡眠魔法を使おう!」
グラモネ老人とルバイヤ村の若い白魔法医師たちは強制睡眠魔法を唱え、次々とグールを眠らせていった。
そしてウォルターも強制睡眠魔法を使っている!
ウォルターは白魔法が使えるようになっていた。
驚いた──彼は本当に聖騎士になっていたのだ。
睡眠魔法によってグールは眠り、倒れていく。
「な、何とかなったみたい。これでグールは全員眠らせたか?」
パメラが言った。
「しかし……誰が住人に注射を打ったんだろう」
「おや? 橋のところに誰かがいるぞ!」
ジャッカルが橋の方を指差して声を上げた。
外周地域と内周地域を繋ぐ開閉式の橋の中央に、女性が一人、立っているのが見えた。
まだグールがいるかもしれない!
彼女を助けなくては。
おや? 女性は後ろを向いているが見覚えがある……。
だけど遠くにいるので誰だか確信がもてない。
「さあ、一緒に街の入り口まで避難しましょう!」
私は後ろを向いている女性に向かって叫んだ。
あれ?
この女性──。
「近づかないで!」
聞き覚えのあるかわいらしい女性の声が聞こえた。
「アンナさんたちはこっちに来てはいけません!」
女性は私たちのほうを向いた。
ポレッタだった。
まさか、ポレッタが魔族の薬剤を人々に打っていた張本人?
いや──。
今度は外周地域の建物の陰から、ポレットが立っている橋に誰かが歩いていくのが見えた。
男性だ──。
その男はすぐに誰だか分かった。
「ラーバス……!」
私は思わず声を上げた。
あの白魔法医師のラーバス・アンテルムが……ポレッタと橋の上で対峙している。
ラーバスは注射器を持っていた。
私は声を上げた。
「ラーバス! 早くこっちに来て。グール化した患者の診察を始めてください!」
「そうですよ、ラーバス先生! アンナさんの言う通りです。そんなところに突っ立ってないで……」
ポレッタの言葉を聞いたラーバスはニヤリと笑い、自分の左手の平に注射した。
「手の平に注射すると、まんべんなくいきわたるんです。悪魔のささやきが。魔族の薬剤が!」
ラーバスは注射し終え、注射器を捨ててそう叫んだ。
すると……!
彼の体が膨れあがった。
顔色は幽鬼のように真っ白になり、身長──約二メートル三十センチほどの着物を着た巨人に変身した。
巨大グールだ!
「ラーバス……! てめぇ、裏切者だったんだな!」
ジャッカルが叫んだ。
「やるしかねえ。こいつは本物の魔族だ!」
ジャッカルが橋に近づき八角棒を構えて声を上げた。
橋の周囲には白魔法医師たちも集まり、強制睡眠魔法を唱えだした。
「そんなものは効かぬ!」
ラーバスが右手を横に振った。
するとポレッタやジャッカル、白魔法医師が風圧で吹っ飛んだ!
「何という力だ」
ウォルターが真剣を引き抜きつつ、橋に近づいて声を上げた。
「しかし、今度は僕が相手だ。ラーバス、残念だよ。君を信頼していたのに」
「ほほう、白色の王子か。よかろう、相手になろう」
白色の王子? どういう意味だろう?
するとラーバスは思い切り右腕を振り上げて、ウォルターを手で横に叩き払おうとした。
あ、あんな力技を体に受けたら、ウォルターだって骨折じゃ済まない!
しかしウォルターはそれを後ろに跳んで避けた。
よ、よかった。
「ここだっ!」
ウォルターは真剣を振り下ろした。
何かが蒸発する音がした。
ウォルターの剣がラーバスの右腕の一部を斬り裂いていたのだ。
「う、ぐぐっ……。こ、この男……」
ラーバスがうめいた。
彼の大きな腕の一部が蒸発して溶けだしている。
「あれは聖騎士の白の剣術!」
グラモネ老人が声を上げた。
「ウォルターよ、見事! 才能だけで聖騎士の技を習得してしまったか!」
「う、うぐぐぐ……」
グール化したラーバスは蒸発しかかっている腕を押さえながら声を上げた。
「ゆ、許さん!」
ゾートマルクでの最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
グール化したラーバスは蒸発しかかっている腕を押さえながら声を上げた。
「ゆ、許さん!」
しかしウォルターは少しずつ歩みを進め、今度は剣でラーバスの胸を突こうとした。
だが──。
「爆発魔法!」
ラーバスが呪文を唱えると周囲が爆発した。
ウォルターが爆風で吹っ飛ぶ。
「ウォルター!」
私はあわてて駆け寄ろうとしたが、パメラに止められた。
「あんたは聖女だよ! 戦いでは足出まといになるだけ。愛する男の戦いを見てな!」
するとウォルターは宙で体をひねり──着地した。
爆風には巻き込まれたが、体は傷ついていない!
私はホッとした。
「うぬっ……。爆発魔法を避けただと?」
ラーバスが声を上げたとき、ウォルターは再度、右斜め上から剣を振り下ろし──。
また蒸発する音が聞こえた。
ラーバスはウォルターの剣で左肩から鎖骨まで、斬り裂かれていた。
そして切断面が溶け蒸発している……!
「うっ、うぐぐ……」
ラーバスはうろたえたように見えたが、彼はそのとき笑ったようにも見えた。
「──目覚めよ!」
ラーバスは聞いたことのない魔法の呪文を唱えた。
魔族の古代語か?
その瞬間、ウォルターの周囲に眠っていた五名のグールたちが起き上がったのだ。
睡眠から目覚めさせる魔法だ!
「むっ! や、やめろ!」
ウォルターがグールたちに取り囲まれ掴まれた。
「よせ! どいてくれ!」
しかしウォルターは反撃できない。
グールは人間なので手を出せないのだ。
ラーバスはウォルターの優しさを計算していたのだろう。
「ハハハ! 雷撃魔法!」
ラーバスは形勢逆転を確信したのか、笑いつつ攻撃魔法を唱えてきた。
宙から雷が発生し──ウォルターは背中に雷撃を受け倒れ込んだ。
「ウォルター!」
私は叫んだがもう遅い──。
ウォルターの体から煙が出ている……。
一方、ウォルターを取り囲んでいたグールたちは皆、雷撃で気絶している。
ラーバスはもう一度、雷撃魔法を唱えようとしていた。
「もう一撃──雷撃魔法!」
「おーっと! そうはいくかって」
……そんな声がして、何かが切り刻まれる音がした。
え?
何者かがラーバスの左にいて、ナイフでラーバスの左腕を斬り裂いていたのだ。
見覚えのある銀髪の少年……。
ネストールだ!
「あいつ! いつの間にゾートマルクの街に来たんだ?」
パメラが声を上げた。
「お、お前……何者だ?」
ラーバスは苦痛に顔を歪めてネストールを見やった。
「ローバッツ工業地帯から女王たちが帰ったから、こっちに来たよ。この街に美味いパン屋ある? ラーバスさん」
「き、貴様……! わ、私の雷撃魔法の詠唱の途中で……邪魔しおって!」
「ウォルター! 今だ!」
ネストールが叫ぶと、ウォルターはヨロヨロと立ち上がった。
「よ、よせ! くそ、もう一度、雷撃魔法を……!」
ラーバスは左手を前に突き出そうとしたが、左腕をネストールに斬られているので腕が上がらない。
「ここだ!」
ウォルターは今度こそ──剣でラーバスの胸を突き刺した。
「う、うう……な、なぜだ」
ラーバスの胸──恐らく心臓は蒸発し溶けだしている。
するとラーバスの姿は縮こまり、普段の青年の姿に戻ってしまった。
「ラーバスは死霊病を患っていない。だからグール化の効果時間が短いのだ」
グラモネ老人が言った。
ラーバスはウォルターの前で膝をついたが、「こ、これで終わりじゃない」と言い──。
ウォルターの首を両手で締めだした。
切り刻まれたもう力の入らない両腕で……。
その両腕は震えている。
「ま、魔族の闇を、お前に流し込んでやる!」
ボロボロの両腕が闇の気に包まれる。
あ、あの闇の気にとり憑かれたら……ウォルターが闇に取り込まれてしまう!
しかしウォルターの顔は冷静だった。
ウォルターはラーバスの腕を掴み、そのまま彼の体を背負って投げた。
「ぐは」
そんな声とともに、ラーバスは背中から地面に投げ落とされた。
地面に寝転んだラーバスの額に、ネストールがナイフを当てがった。
「勝負あったね? ラーバスさん」
「う、うう……」
ラーバスはそのまま気絶してしまった。
「ウォルター!」
私はすぐにウォルターの元に駆け寄り、彼を抱き締めた。
ゾートマルクの街は昼の太陽の光に照らされて輝いていた。
ウォルターはラーバスとの戦いに勝利した。
グラモネ老人の強制睡眠魔法で眠らされたラーバスは、自分の──ラーバスの診療所に運び込まれた。
一方、グールたちも担架で公民館に運び込まれた。
白魔法医師たちが様子を見るらしい。
私、ウォルター、パメラ、ジャッカルは外周地域の公園で、元白魔法医師長のグラモネ老人に色々質問した。
「なぜラーバスは人をグール化させ、一時的とはいえ自らもグール化させたのでしょう?」
私がそう質問すると、グラモネ老人は意外なことを言いだした。
「ラーバスのことはよく知っているよ。彼は危険な戦闘国家のジャームデル王国の第二王子だ」
「ええ? 王子?」
「ところが第一王子ではないから王にはなれない。彼は兄の第一王子に嫉妬し絶望していた。そのとき、私の弟子になり白魔法医師の道を選んだのだ」
「ラーバスにそんな過去が……」
そういえばグラモネ老人がこの街に来たとき、ラーバスは深く頭を下げていた……。
「だが彼は私の弟子になっているときも、ずっとジャームデル王国の監視下に置かれていた。父親のジャームデル国王の言いなりだ」
「そうだったのですか。ラーバスこそが、ジャームデル王国と最も繋がっている人物だとは思いませんでした」
「ふむ──その後、私が白魔法医師を引退しルバイヤ村に行ったときも、ラーバスは私についてきた。しかし私は彼を追い出した。彼は闇の道に進む研究をひそかに進めていたからだ。その後、ゾートマルクの街で改心し真面目に白魔法医師の仕事をしているのだろうと考えていたが、甘かったな……」
彼はグラモネ老人がこの街に来たときに喜んだそぶりをしていたが、本当はかなり動揺していたはずだ……。
「これは憶測だが、ゾートマルクの街のグール化計画を率先し実行していたのも彼だと思う。ゾートマルクの監視員をも統率していたはずだ。父であるジャームデル国王に自分の仕事を見せたかったのだろう」
「ジャームデル王国はなぜ人々をグール化させたがったのでしょう?」
「人を操る最適な方法を探していたんだろう。ジャームデル王国は世界一の戦闘国家だ。国民全員を戦闘に参加させれば、恐ろしい戦力になりえるからな」
「でも、ラーバスはそんなことを本当に望んでいたのでしょうか?」
「きっと父王のジャームデル国王に褒めてもらいたかっただけだ。目が覚めたら問いただそう。その前に牢屋にぶち込まねばならんが……」
私はため息をついた。
彼はパメラのことを診察してくれた。
ウォルターに聖騎士になれと勧めてくれた。
そこまでは優秀な白魔法医師であり、助言者だった。
「私たちにとっては親切な人に見えました。しかし、すべてはラーバスがジャームデル王国の野望を完遂するための仮の姿だった……というわけですね」
「その通りだ。一応、白魔法医師としての誇りは失ってはいないのだろうが」
グラモネ老人はうなずいた。
ポレッタはラーバスの様子を見に行っているらしい。
彼女はラーバスを愛しているはずだ。
私はそのように思えた。
──私は話題を変えた。
「ローバッツ工業地帯に、ターニャという子どもの死霊病患者がいます。ターニャはなぜ、離れた場所で死霊病になってしまったのでしょう?」
「ふむ……君の質問の答えは簡単だ。ジャームデル王国が、様々な国にあの『グール化赤ワイン』を流通させているからだ。ローバッツ工業地帯にも、商人によって住人の手に渡っている可能性は少なからずある」
グラモネ老人はしばらく考えながら言った。
「酢酸鉛によって甘く飲みやすくなった赤ワインは子どもでも飲めてしまうからな。親が栄養補助飲料として騙されて、商人に売りつけられてしまったということは考えられる」
これはローバッツ工業地帯の村に戻り、確かめてみる必要があるだろう。
「問題はグール化《か》が沈静し、死霊病の状態に戻った人々だ。私はグール化について研究を重ねた。しかし死霊病については何も分からん。──アンナ、君ならどうやって死霊病を治癒するかね?」
「するべきことは分かっています。死霊病は鉛中毒患者です」
今度は私が答える番だった。
「リモネという酸っぱい柑橘類があります。レモンとも言いますが……」
「ほほう?」
「体内の鉛とリモネの酸を結合させてしまうのです」
「な、何と? 死霊病患者に、リモネの果汁を飲ませるということだな?」
「はい。しかし、それだけは単に民間療法の域を出ません。やはり積極的に魔法によって、鉛とリモネの酸を結合させて尿として外に出してしまうのが一番でしょう」
「う、うーむ! 何という奇想天外な発想なのだ!」
「鉛中毒の治癒方法は聖女医学の医学書に掲載されているはずです」
「し、しかし、リモネの酸を摂取するのは胃に負担をかけそうだな……。一度牛乳などを飲んでから、果汁を摂取させるか……ふむ」
「……アンナ、いったん、グラモネ様たちを連れてローバッツ工業地帯に戻ろう」
今まで黙って聞いていたウォルターが提案した。
するとグラモネ老人はうなずきながら言った。
「ふむ……君たちはなかなか素晴らしい。行動力もある。……我々と協力して大病院を建造しないかね?」
「ええっ?」
「昔、そういう計画があったが頓挫した。しかし、今の君たちならばできそうだな」
そしてグラモネ老人が気づいたように言った。
「そういえば、ラーバスがウォルター、君のことを『白色の王子』と言っていたな」
「は、はい」
ウォルターがうなずき、グラモネ老人は続けた。
「実は君の『ウォルター・モートン』という名前で気づいた。私の勘が正しければ、君は大国グランディスタという王国の王子だと思う」
「ええっ?」
ウォルターも私も目を丸くした。
ウォルターはあわてて言った。
「わ、私はグレンデル城近くに捨てられていた捨て子ですよ」
「グランディスタのモートン一族といえば有名な王族だ。赤ん坊を旅立たせるのが常でな……。グランディスタでは赤ん坊に白い衣に身を包むのが習わし。それを『白色《はくしょく》の王子と呼ぶ。そして旅立った王子はウォルター・モートンと言うはずだ」
なぜラーバスはウォルターが「白色の王子」であることを知っていたのだろう?
恐らくジャームデル王国の情報網で、様々なことを知っていたのではないかと思う。
◇ ◇ ◇
翌日、私たちはグラモネ老人と白魔法医師たち五名を連れて、ローバッツ工業地帯の村に戻った。
ルバイヤ村からはゾートマルクの街に明日、十名の白魔法医師が来るらしい。
私の次の目標は……!
死霊病とグール化の患者、体にパンの毒素を持った患者の完全治癒。
私たちの大病院を建造すること。
そしてウォルターと一緒に、幸せに暮らすことだ。
【第一部完】