「蓮さん、これはどうすれば……」
夕食を食べ終わった食器を手に、私は困って聞く。
「あ、いーよそこ置いといて。俺が洗っとく」
へらりと笑って彼――水澄蓮――は言った。
「で、でも悪いです。私、居候の身なのに」
「そんなこと気にしなくていいの」
「でも」
流石に譲れない。だって彼は、命の恩人であり、記憶のない私を預かってくれる聖人のような人なのだから。

「――っ」
気がついたときには、私はもう水の中にいた。反射的に息を吸おうとして、水が余計に口と鼻から入ってきて苦しさが増す。バタバタと手足を動かせば動かすほど、泥沼にはまったように深く沈んでいく。気持ちばかりが急いで、反対に体はどんどん動きが鈍くなっていく。ふっと苦しさが遠のいた瞬間、あぁ、もう駄目だな、と、なんとなく思って。抵抗をやめ、頭上に伸ばされた手を掴んだ手があった。
耳元で水音が弾けて、空気に触れていることを知る。
「はぁっ」
激しく呼吸を繰り返すけれど、苦しさは全く和らがなくて。でもそれでも、背中を撫でるあたたかい手があったから、私はまだ意識を保っていられた。
「……――!」
ぼやけた視界に誰かが映る。叫んでいる言葉は、ベールをかぶったようにくぐもって聞こえない。
そこで、私はとうとう気を失った。

「渚?どうかしたの」
「えっ」
いつの間にか、ぼうっとしていたようだ。私は頭を振って大丈夫ですと返した。ここは蓮さんの家、らしい。あのあと病院で目覚めて、溺れた時より前の記憶が綺麗さっぱりないとわかって。気がついたときには蓮さんが何もかもやってくれて、私はこの家に暫くお世話になるらしい。
嫌じゃなければ、とやけに丁寧に尋ねられたことを思い出す。赤の他人の、しかも記憶喪失なんていう面倒くさい性質の私にどうしてここまでしてくれるんだろう。
と、ぐるぐる考えていると蓮さんが夕食の洗い物をやってくれていた。
「あっ、じゃあ私、手伝います!」
「気遣わなくていいのに。まー、そこまで言うならお願いしようかな」
「はい」
シンクの前に立つ蓮さんの横へ行って、食器を拭いていく。
蓮さんの袖を捲った、白くて細い、けれど男性らしい腕をなんとなく見ていた。高校2年生、と言っていた。私はどうなんだろう。名前も、年齢も覚えていないのは珍しいらしい。ちなみに「渚」という名前は、蓮さんのお母様が仮につけてくれたものだ。なぜだかしっくりくるから気になってはいないけど、でもこのままずっと、なにも思い出せないのだろうか……。
「早く終わったねー、ありがと渚。先にお風呂入っておいで。あ、ひとりで大丈夫?無理だったら姉貴呼ぶけど」
「いえ、大丈夫です、多分」
蓮さんのお姉さんは今大学生で、すぐ近くのアパートで一人暮らししているらしい。流石にこの時間に呼び出すわけにもいかない。
「そ。なんかあったら呼びなよ」
「ありがとうございます」

お風呂を頂いて、お姉さんに貸してもらった服を着る。肩より少し長く伸びた髪をタオルで拭く。
目の前の鏡に映った顔は、やはり見覚えがない。私は、一体どんな人なんだろう。
その時、ガチャンと玄関の扉が開閉する音が聞こえた。蓮さんのお母様が帰ってきたみたいだ。
私は急いで脱衣所を出た。
「お、早かったね。もっとゆっくりしててもよかったのに」
「あ、ありがとうございます」
リビングのソファでスマホを見ていた蓮さんが声をかけてくれる。
「あっ、渚ちゃん。こんばんは」
仕事の制服姿のお母様が、優しく笑う。
「こんばんは…です。お世話になります」
妙な敬語になってしまった……。
しかし彼女は特に気に留める様子もなかった。
「そんなに畏まらなくてもいいのよ。リラックスしてね」
「は、はい。ありがとうございます」
「うん」
お母様は部屋へ入っていった。
「渚も、もう寝る?」
「あ、はい」
「じゃあ、部屋案内するよ。こっちね」
リビングを出たところの階段を上がり、2階へ向かう。昔姉貴が使ってた部屋なんだけど、といい、蓮さんは扉を開けた。
そこは青を基調とした穏やかで落ち着く雰囲気の部屋だった。
「家具はほとんどそのままなんだ。あ、シーツとかは洗ってあるから安心して」
「あっ、はい」
とても寝心地が良さそうなベッドを見ると、急に眠気が襲ってきた。今日は退院して、この家に来て、蓮さんの家族と会って……。
色々あったな。
「俺隣の部屋にいるから、なんかあったら言って。じゃあおやすみ」
「おやすみなさ――あれ?」
「ん、どうかした?」
部屋に行こうとしていたのに、わざわざこっちを振り返ってくれる蓮さん。
「あっ、すみません。えっと、こっちの部屋は誰かの部屋なんですか?」
私は右隣の扉を指さした。私と蓮さんの部屋と同じデザインの扉。
すると一瞬、蓮さんは苦い顔をした。まるで何か、嫌なことを思い出したみたいな。
あ、聞いてはいけないことだったのかも。そうだよね。人の家のことをあれこれ聞くなんて失礼だ。
「すみません変なこと聞いて。大丈夫ですので――」
「あー、うん。気にしなくていいよ。ただの物置だから」
「へ?そうなんですか?」
「うん。中の散々な光景を思いだして嫌になっただけ」
年末にはあれを片付けないといけないと思うと、気が滅入るねー、と肩を竦める。
その仕草がおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「よし、今度こそおやすみね」
「はい、ありがとうございました。おやすみなさい」
パタン、と扉が閉じて、しんと辺りが静まり返る。
ふぅ、と無意識のうちにため息をついて、私はベッドに横になった。記憶喪失、なんてドラマみたいなことになって、最初はどうなることかと思ったけど。
水澄家の皆さんはみんなとても親切で、それだけで不安が少し軽くなった気がする。でも結局、思い出せないかもしれないという不安はいつまでたってもなくならないけれど……。
そんなことを悶々と考えあぐねているうちに、いつの間にか眠りについていた。

「どうしてあなたはいつも――」
誰かが半ば叫ぶようにそう言って、私ははっとその顔を見上げた。まるで黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたみたいに、その顔は見えなくて。でもその人に感じる恐怖だけはありありと胸にこみ上げてくる。
振り上げられた手。反射的に、体を腕で抱えるように蹲って――。

「――ぎさ?」
「ん……」
肩を揺すられて、ふっと目を覚ます。すぐ目の前に、蓮さんの焦ったような顔が見えた。
「れん、さん?」
まだぼやける視界が鬱陶しく、パチパチと瞬きを繰り返す。
「大丈夫?なんか、魘されてたけど……」
「え?」
そう言えば、嫌な夢をみたような気もする。あまり覚えていないけれど。
「大丈夫です。あんまり覚えてないので……」
「そう?ならいいけど」
ほら、着いたよ。と、蓮さんが車のドアを開けてくれた。
運転してくれたのは蓮さんのお姉さん――唯さんだ。
どうやら彼女はもう外に出ているらしい。私は慌てて蓮さんに続き外へ出た。
「わぁ……」
夏の透明な青が、私たちを取り囲んでいた。油絵のような白い雲が、青い空と対比して眩しい。
砂浜に打ち寄せる波は消えそうなほど儚く透明で、そこが橋のようで。向こうの青い海までどこまでも歩いて行けそうだった。
ざざ……と、穏やかな波音が耳をくすぐる。
こんなに優しい海に、私は溺れていたんだ。どうして……。
「どう?」
不意に声をかけられて、私は記憶の海から浮上した。
唯さんが私の顔を覗き込むようにかがむ。ゆるく巻かれた茶色い髪が、海の風に揺れた。
「なにか思い出した?」
「……いえ。思い出せそうな気が、しなくもないんですが」
追うとぱっと霧散してしまう、小魚みたいな記憶。
「そっかぁ」
「すみません。せっかく連れてきてもらったのに」
どうしても記憶がないのが気になる。それを口にしたとき、じゃあ行ってみる?と提案したのは唯さんだった。蓮さんは、まだ早いといって最後まで反対していたけれど、私が行ってみたいというと渋々ながら頷いてくれた。
私が溺れて、記憶を失って、そして蓮さんが助けてくれた場所。
ここに来てもだめなら、記憶を取り戻すというのは、なかなかに難しいことなのかもしれない。
「いやいや、謝んないでよ。ほら、こうして居るだけでも気持ちいいし、来て良かった」
そう言って、唯さんは海をみながらぐーっと伸びをした。
黒いシャツが海の青を相まって、余計に際立つ。
「姉貴さぁ、夏まで黒着てるのやめようぜ。見てるこっちが暑苦しいんだけど」
「無理ー。黒は私のカラーだから」
「じゃせめて半袖にしろよ」
「それも無理。女の子にとって日焼けは大敵なの!」
「はぁ……もういい、わかった好きにしろ」
姉弟のやり取りにくすりと思わず笑ってしまう。唯さんに対し、蓮さんはラフな白いTシャツ。
まさに夏なその風貌で海にいると、どこかの国のポストカードみたいに絵になる。

「海、好きなの?」
「……どうなんでしょう。ただ、見ていると落ち着きます。この青の向こうには、私の知らない世界があって。そこに……逃げられたらきっと私は、幸せだろうなと思うから」
「そっか。……行けたらいいね、青の向こうに」
いつも通り少ない言葉。でも口数以上に、その言葉には沢山の想いが込められていることを私は知っている。
彼の白いTシャツが、ひらりと海の風に揺られた。そうしていると、まるで絵画を見ているような気分になって――。

「渚はなにがいい?」
「えっ」
やってしまった……。また、ぼうっとしていたようだ。
「姉貴がアイス買ってきてくれるって。パシリになってくれるの珍しいから、今のうちに頼んでおいたほうがいいよ」
「パシリ言うな」
「でも俺に負けたんだから、異論はないよな?」
ぐっと言葉に詰まった唯さんは、誤魔化すように私に笑みを見せる。
「渚、アイス何味がいい?」
「えっと……」
何味があるんだろう。そもそも、自分の好みも覚えていないし。
「私はいいです」
「遠慮しなくていいよ?」
「いえ、あの……自分がどんな味が好きだったのかも、覚えていませんし」
記憶を失くしてから3週間。過ごせば過ごすほど、忘れている、という事実を痛いほどに突きつけられる。多くはこういう、些細な場面で。
「んー、わかった。じゃあ私がおすすめを選んできてあげるよ」
「えっ、そんな、悪いですよ」
「遠慮しない!もし嫌な味だったら私が食べるからさ」
にこっと微笑まれると、私に拒否権はなかった。
「じ、しゃあ、お願いします」
「おっけー」
唯さんはお店がある方へかけていった。
「渚、疲れた?」
「いえ、大丈夫ですよ」
突然問いかけられて、困惑しながら答える。
「ならいいけど、さっきからぼうっとしてるからさ」
そう言って微笑む彼の表情は、唯さんとよく似ている。やっぱり姉弟だな。

「海、好きなの?」

「あ」
さっき頭に浮かんだシーンが、ふと蘇る。私が見つめていた“彼”の顔が、今目の前にいる蓮さんに重なる。
「……蓮さん」
「うん?」
「私……あなたのこと、知っている気がします」
「……うん」
特に驚く風でもなく、彼は頷いた。やっぱり、もともと知り合いだったんだ、私たち。だから水澄家に引き取ってくれたんだとすれば、辻褄が合う。
「前に一緒に、ここに来たことがありますよね?」
うん、と頷いてくれると、ほぼ確信して聞く。これで私が誰なのか分かる。もう不安な夜を過ごさなくてもいい。
「……どうかな」
果たして、彼の返事はよくわからなかった。否定でも肯定でもない。もっと言えば、答えたくない、という類の。
「蓮さん?」
いつも必ず返事をしてくれる彼は、軽く目を伏せたまま、なにも言わない。
「……教えてくれませんか、私のこと」
「それは」
食い気味に、いつになく低い声で。
「……それは、できない」
「え」
優しい彼のことだから、きっと教えてくれるって。そう思っていた分、突き落とされたみたいに心が痛かった。
「どうして……」
「ごめん。他のことなら、なんでもするけど。でもそれだけは、できない」
なにも、言えなかった。
はっと気づく。そうだ。もし蓮さんに教える気があるなら、もっと前に教えてくれていてもおかしくない。ということは、本当に教えたくないんだ。
教えたくない。教えられない。
どちらだろう。きっと、どちらも。
「おーい、ふたりとも早くこっち来て!溶けるよ!」
遠くの日陰から唯さんが私たちを呼ぶ。
「あー、今行く」
行こ、と先に歩いていく彼の背を目で追った。