「蓮さん、これはどうすれば……」
夕食を食べ終わった食器を手に、私は困って聞く。
「あ、いーよそこ置いといて。俺が洗っとく」
へらりと笑って彼――水澄蓮――は言った。
「で、でも悪いです。私、居候の身なのに」
「そんなこと気にしなくていいの」
「でも」
流石に譲れない。だって彼は、命の恩人であり、記憶のない私を預かってくれる聖人のような人なのだから。

「――っ」
気がついたときには、私はもう水の中にいた。反射的に息を吸おうとして、水が余計に口と鼻から入ってきて苦しさが増す。バタバタと手足を動かせば動かすほど、泥沼にはまったように深く沈んでいく。気持ちばかりが急いで、反対に体はどんどん動きが鈍くなっていく。ふっと苦しさが遠のいた瞬間、あぁ、もう駄目だな、と、なんとなく思って。抵抗をやめ、頭上に伸ばされた手を掴んだ手があった。
耳元で水音が弾けて、空気に触れていることを知る。
「はぁっ」
激しく呼吸を繰り返すけれど、苦しさは全く和らがなくて。でもそれでも、背中を撫でるあたたかい手があったから、私はまだ意識を保っていられた。
「……――!」
ぼやけた視界に誰かが映る。叫んでいる言葉は、ベールをかぶったようにくぐもって聞こえない。
そこで、私はとうとう気を失った。

「渚?どうかしたの」
「えっ」
いつの間にか、ぼうっとしていたようだ。私は頭を振って大丈夫ですと返した。ここは蓮さんの家、らしい。あのあと病院で目覚めて、溺れた時より前の記憶が綺麗さっぱりないとわかって。気がついたときには蓮さんが何もかもやってくれて、私はこの家に暫くお世話になるらしい。
嫌じゃなければ、とやけに丁寧に尋ねられたことを思い出す。赤の他人の、しかも記憶喪失なんていう面倒くさい性質の私にどうしてここまでしてくれるんだろう。
と、ぐるぐる考えていると蓮さんが夕食の洗い物をやってくれていた。
「あっ、じゃあ私、手伝います!」
「気遣わなくていいのに。まー、そこまで言うならお願いしようかな」
「はい」
シンクの前に立つ蓮さんの横へ行って、食器を拭いていく。
蓮さんの袖を捲った、白くて細い、けれど男性らしい腕をなんとなく見ていた。高校2年生、と言っていた。私はどうなんだろう。名前も、年齢も覚えていないのは珍しいらしい。ちなみに「渚」という名前は、蓮さんのお母様が仮につけてくれたものだ。なぜだかしっくりくるから気になってはいないけど、でもこのままずっと、なにも思い出せないのだろうか……。
「早く終わったねー、ありがと渚。先にお風呂入っておいで。あ、ひとりで大丈夫?無理だったら姉貴呼ぶけど」
「いえ、大丈夫です、多分」
蓮さんのお姉さんは今大学生で、すぐ近くのアパートで一人暮らししているらしい。流石にこの時間に呼び出すわけにもいかない。
「そ。なんかあったら呼びなよ」
「ありがとうございます」

お風呂を頂いて、お姉さんに貸してもらった服を着る。肩より少し長く伸びた髪をタオルで拭く。
目の前の鏡に映った顔は、やはり見覚えがない。私は、一体どんな人なんだろう。
その時、ガチャンと玄関の扉が開閉する音が聞こえた。蓮さんのお母様が帰ってきたみたいだ。
私は急いで脱衣所を出た。
「お、早かったね。もっとゆっくりしててもよかったのに」
「あ、ありがとうございます」
リビングのソファでスマホを見ていた蓮さんが声をかけてくれる。
「あっ、渚ちゃん。こんばんは」
仕事の制服姿のお母様が、優しく笑う。
「こんばんは…です。お世話になります」
妙な敬語になってしまった……。
しかし彼女は特に気に留める様子もなかった。
「そんなに畏まらなくてもいいのよ。リラックスしてね」
「は、はい。ありがとうございます」
「うん」
お母様は部屋へ入っていった。
「渚も、もう寝る?」
「あ、はい」
「じゃあ、部屋案内するよ。こっちね」
リビングを出たところの階段を上がり、2階へ向かう。昔姉貴が使ってた部屋なんだけど、といい、蓮さんは扉を開けた。
そこは青を基調とした穏やかで落ち着く雰囲気の部屋だった。
「家具はほとんどそのままなんだ。あ、シーツとかは洗ってあるから安心して」
「あっ、はい」
とても寝心地が良さそうなベッドを見ると、急に眠気が襲ってきた。今日は退院して、この家に来て、蓮さんの家族と会って……。
色々あったな。
「俺隣の部屋にいるから、なんかあったら言って。じゃあおやすみ」
「おやすみなさ――あれ?」
「ん、どうかした?」
部屋に行こうとしていたのに、わざわざこっちを振り返ってくれる蓮さん。
「あっ、すみません。えっと、こっちの部屋は誰かの部屋なんですか?」
私は右隣の扉を指さした。私と蓮さんの部屋と同じデザインの扉。
すると一瞬、蓮さんは苦い顔をした。まるで何か、嫌なことを思い出したみたいな。
あ、聞いてはいけないことだったのかも。そうだよね。人の家のことをあれこれ聞くなんて失礼だ。
「すみません変なこと聞いて。大丈夫ですので――」
「あー、うん。気にしなくていいよ。ただの物置だから」
「へ?そうなんですか?」
「うん。中の散々な光景を思いだして嫌になっただけ」
年末にはあれを片付けないといけないと思うと、気が滅入るねー、と肩を竦める。
その仕草がおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「よし、今度こそおやすみね」
「はい、ありがとうございました。おやすみなさい」
パタン、と扉が閉じて、しんと辺りが静まり返る。
ふぅ、と無意識のうちにため息をついて、私はベッドに横になった。記憶喪失、なんてドラマみたいなことになって、最初はどうなることかと思ったけど。
水澄家の皆さんはみんなとても親切で、それだけで不安が少し軽くなった気がする。でも結局、思い出せないかもしれないという不安はいつまでたってもなくならないけれど……。
そんなことを悶々と考えあぐねているうちに、いつの間にか眠りについていた。

「どうしてあなたはいつも――」
誰かが半ば叫ぶようにそう言って、私ははっとその顔を見上げた。まるで黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたみたいに、その顔は見えなくて。でもその人に感じる恐怖だけはありありと胸にこみ上げてくる。
振り上げられた手。反射的に、体を腕で抱えるように蹲って――。

「――ぎさ?」
「ん……」
肩を揺すられて、ふっと目を覚ます。すぐ目の前に、蓮さんの焦ったような顔が見えた。
「れん、さん?」
まだぼやける視界が鬱陶しく、パチパチと瞬きを繰り返す。
「大丈夫?なんか、魘されてたけど……」
「え?」
そう言えば、嫌な夢をみたような気もする。あまり覚えていないけれど。
「大丈夫です。あんまり覚えてないので……」
「そう?ならいいけど」
ほら、着いたよ。と、蓮さんが車のドアを開けてくれた。
運転してくれたのは蓮さんのお姉さん――唯さんだ。
どうやら彼女はもう外に出ているらしい。私は慌てて蓮さんに続き外へ出た。
「わぁ……」
夏の透明な青が、私たちを取り囲んでいた。油絵のような白い雲が、青い空と対比して眩しい。
砂浜に打ち寄せる波は消えそうなほど儚く透明で、そこが橋のようで。向こうの青い海までどこまでも歩いて行けそうだった。
ざざ……と、穏やかな波音が耳をくすぐる。
こんなに優しい海に、私は溺れていたんだ。どうして……。
「どう?」
不意に声をかけられて、私は記憶の海から浮上した。
唯さんが私の顔を覗き込むようにかがむ。ゆるく巻かれた茶色い髪が、海の風に揺れた。
「なにか思い出した?」
「……いえ。思い出せそうな気が、しなくもないんですが」
追うとぱっと霧散してしまう、小魚みたいな記憶。
「そっかぁ」
「すみません。せっかく連れてきてもらったのに」
どうしても記憶がないのが気になる。それを口にしたとき、じゃあ行ってみる?と提案したのは唯さんだった。蓮さんは、まだ早いといって最後まで反対していたけれど、私が行ってみたいというと渋々ながら頷いてくれた。
私が溺れて、記憶を失って、そして蓮さんが助けてくれた場所。
ここに来てもだめなら、記憶を取り戻すというのは、なかなかに難しいことなのかもしれない。
「いやいや、謝んないでよ。ほら、こうして居るだけでも気持ちいいし、来て良かった」
そう言って、唯さんは海をみながらぐーっと伸びをした。
黒いシャツが海の青を相まって、余計に際立つ。
「姉貴さぁ、夏まで黒着てるのやめようぜ。見てるこっちが暑苦しいんだけど」
「無理ー。黒は私のカラーだから」
「じゃせめて半袖にしろよ」
「それも無理。女の子にとって日焼けは大敵なの!」
「はぁ……もういい、わかった好きにしろ」
姉弟のやり取りにくすりと思わず笑ってしまう。唯さんに対し、蓮さんはラフな白いTシャツ。
まさに夏なその風貌で海にいると、どこかの国のポストカードみたいに絵になる。

「海、好きなの?」
「……どうなんでしょう。ただ、見ていると落ち着きます。この青の向こうには、私の知らない世界があって。そこに……逃げられたらきっと私は、幸せだろうなと思うから」
「そっか。……行けたらいいね、青の向こうに」
いつも通り少ない言葉。でも口数以上に、その言葉には沢山の想いが込められていることを私は知っている。
彼の白いTシャツが、ひらりと海の風に揺られた。そうしていると、まるで絵画を見ているような気分になって――。

「渚はなにがいい?」
「えっ」
やってしまった……。また、ぼうっとしていたようだ。
「姉貴がアイス買ってきてくれるって。パシリになってくれるの珍しいから、今のうちに頼んでおいたほうがいいよ」
「パシリ言うな」
「でも俺に負けたんだから、異論はないよな?」
ぐっと言葉に詰まった唯さんは、誤魔化すように私に笑みを見せる。
「渚、アイス何味がいい?」
「えっと……」
何味があるんだろう。そもそも、自分の好みも覚えていないし。
「私はいいです」
「遠慮しなくていいよ?」
「いえ、あの……自分がどんな味が好きだったのかも、覚えていませんし」
記憶を失くしてから3週間。過ごせば過ごすほど、忘れている、という事実を痛いほどに突きつけられる。多くはこういう、些細な場面で。
「んー、わかった。じゃあ私がおすすめを選んできてあげるよ」
「えっ、そんな、悪いですよ」
「遠慮しない!もし嫌な味だったら私が食べるからさ」
にこっと微笑まれると、私に拒否権はなかった。
「じ、しゃあ、お願いします」
「おっけー」
唯さんはお店がある方へかけていった。
「渚、疲れた?」
「いえ、大丈夫ですよ」
突然問いかけられて、困惑しながら答える。
「ならいいけど、さっきからぼうっとしてるからさ」
そう言って微笑む彼の表情は、唯さんとよく似ている。やっぱり姉弟だな。

「海、好きなの?」

「あ」
さっき頭に浮かんだシーンが、ふと蘇る。私が見つめていた“彼”の顔が、今目の前にいる蓮さんに重なる。
「……蓮さん」
「うん?」
「私……あなたのこと、知っている気がします」
「……うん」
特に驚く風でもなく、彼は頷いた。やっぱり、もともと知り合いだったんだ、私たち。だから水澄家に引き取ってくれたんだとすれば、辻褄が合う。
「前に一緒に、ここに来たことがありますよね?」
うん、と頷いてくれると、ほぼ確信して聞く。これで私が誰なのか分かる。もう不安な夜を過ごさなくてもいい。
「……どうかな」
果たして、彼の返事はよくわからなかった。否定でも肯定でもない。もっと言えば、答えたくない、という類の。
「蓮さん?」
いつも必ず返事をしてくれる彼は、軽く目を伏せたまま、なにも言わない。
「……教えてくれませんか、私のこと」
「それは」
食い気味に、いつになく低い声で。
「……それは、できない」
「え」
優しい彼のことだから、きっと教えてくれるって。そう思っていた分、突き落とされたみたいに心が痛かった。
「どうして……」
「ごめん。他のことなら、なんでもするけど。でもそれだけは、できない」
なにも、言えなかった。
はっと気づく。そうだ。もし蓮さんに教える気があるなら、もっと前に教えてくれていてもおかしくない。ということは、本当に教えたくないんだ。
教えたくない。教えられない。
どちらだろう。きっと、どちらも。
「おーい、ふたりとも早くこっち来て!溶けるよ!」
遠くの日陰から唯さんが私たちを呼ぶ。
「あー、今行く」
行こ、と先に歩いていく彼の背を目で追った。

「渚ちゃん、そろそろ学校に行ってみない?」
久しぶりに蓮さんのお母様――亜美さんがいる夕食。
学校、という言葉を聞いて初めて、学校という存在を思い出す。ちょうど夏休みで、蓮さんもほとんどの時間家にいたから気づかなかった。
「来週で夏休みも終わることだし、このタイミングなら行きやすいと思うの」
「そう……ですね」
学校か。なにも覚えていなくても、勉強についていけるものなのだろうか。
「絶対って言うわけじゃないから。嫌ならいいのよ。でも、考えておいてほしいの」
「はい。わかりました。考えておきます」
うまく馴染めるか、記憶喪失の生徒を受けて入れてくれるのか。
色々不安なことはあるけど、でも学校自体に嫌な感じはしない。寧ろ少しわくわくしている自分もいて。
亜美さんが作ってくれた焼き魚の味もよくわからないまま、私はぼんやりと“学校に行く自分”を想像していた。

「行ってらっしゃい。気をつけるのよ」
「はい。行ってきます」
「蓮、お願いね」
「わかった」
夏休みが終わって初めての登校日。私は制服を来た蓮さんと、白い一軒家を出た。
これも姉貴が使ってたやつだけど、よかったら。と、用意してくれた制服を、一応私も着用している。
でも学校に行っていた記憶のない私には違和感でしかない。
「渚、何かあったら呼んでくれていいからね」
教室に入る手前で、蓮さんがぼそりと呟く。
「ありがとうございます」
がらがら、と扉が開いた。
「おっ、蓮じゃーん久しぶり」
「おー、久しぶり」
「お前なんで夏休みノリ悪かったんだよ。折角誘ったのに」
「ごめんって。俺偉いから課題やってたわ」
「えーっ。抜け駆けした罰で、課題写させろー」
「いいけど今日奢れよ」
「いや、それじゃ罰ゲームじゃねえじゃん!」
教室に入って早々みんなに囲まれた蓮さんは、とても楽しそうに話し込んでいる。傍からみても人気者なのがわかった。優しい蓮さんのことだから、きっと写させてあげるんだろう。
「あれ、君は?」
ふと我に返ると、扉の前に立ち尽くす私に、綺麗な栗色の髪の子が話しかけてきた。
「あっ、えっと、私は」
名前を言おうと口を開く。
「あっ待って知ってる知ってる!渚ちゃんでしょ?」
「えっ、どうして……」
「先生が言ってたの!かわいい転校生が来るって」
かわいい、は嘘だと思うけど……。記憶喪失の私から見ても普通だし。
「私は陽菜。よろしくね!」
「よろしく……!」
早速話せる人ができて良かった。避けられたらどうしよう、という不安が消える。視線を感じて見ると、蓮さんがこっちを見て右手で「グッド」サインをしてくれた。

放課後、陽菜ちゃんが図書室に本を返しに行くというので私もついて行くことにした。
少しでも色々なものをみておけば、その中でふと記憶が蘇ることもあるかもしれないから。
……結局、蓮さんって前の私にとって、どういう存在だったのだろうか。海で訪ねたとき、否定しなかったということは私と会ったことがあるというのは事実なんだろう。
だとしたら、前の私もこの街に住んでいて、この学校に通っていたのだろうか。こうやって制服に身を包み、少し古い校舎を歩いて、みんなのいる教室で授業を受けて。だとしたら今、前と違うのは、私の記憶だけ。
「ん……?」
思わず漏れた声。何気なく見ていた図書室に掲示されている本のポスター。図書委員が作ったというそれは、製作者の名前が記名されている。
その中に。
「水澄」
蓮さん、図書委員なのだろうか。紹介されている本は、どこか見覚えがあるような気がして。

「それ、いつも読んでますよね。好きなんですか?」
覗いた図書室で暇を持て余した彼は、カウンターに腰掛け薄い本を読んでいる。
私が見る限り、彼はそればかり読んでいる。
「うん、そうだね。これを読むとさ、世界はなんて広いんだろうって気持ちになって、いろんなこと、どうでも良くなるから」
どうでも良くなる、なんて悲観的なセリフを言いながらも、彼の表情は穏やかだ。
「そうですか……」
「あ、別にこれ以外読まないわけじゃないからね。一応、図書委員ですから」
「わかってますよ、先輩」
あはは、と隙間を埋めるように笑って、彼は私が差し出した本を貸し出すためにパソコンへ向かった。

「今の……」
突然頭に流れ込んできたシーン。でも、不気味とは思わなくて。寧ろもっと見たかったのに、また途中でブチリとテレビのプラグを抜いたように、目の前から消え去る。
あとに残ったのはポスターだけ。
他のポスターが垂れ下がってきていて、製作者の名前が苗字しか見えないそれを、私は指でそっとめくった。
水澄 朔
「朔……?蓮さんじゃない」

「朔」

「あ」
私の声。私の声で再生された「朔」を呼ぶ声。それはとても親しげで、懐かしくて、愛おしい。

「渚」

何度も聞いた、低くて優しくて、とても儚い、私を呼ぶ声。
ずっと聞いていたかった。それなのに。
「それなのに……?」
もう、いない……?
違う。そんなわけない。絶対に違う。
「確かめないと」
違うって、証明しないと。そのためには……。

「気にしなくていいよ。ただの物置だから」

あの部屋だ。あそこがきっと、「朔」の部屋。きっと彼はあの部屋にいるはずだ。確かめないと。
「あっ、ちょっと渚!?」
後ろから半ば叫ぶように呼ぶ陽菜の声もそのままに、私は駆け出した。


「食欲ないの?」
珍しく真面目な顔で姉貴に尋ねられて、答えるのも嫌でテーブルに肘をついた。
「あいつ」がいなくなったことでそんなに堪えているなんてことを、曲がりなりにも普通を装おうとしている姉貴や母さん、父さんには知られたくなかった。
今日は午前で学校が終わって、渚は佐原と図書室に行く、先に帰っていいと言われたから、待っているのも気を遣わせると思って言われた通り帰ってきた。そしたら予想外に姉貴が来ていて、今まで全くしてなかった昼食づくりなんてことをして待っていたのだ。どういう風の吹き回しなんだ。姉貴は家事という家事がてんで駄目で、そのせいで一人暮らしも反対されるほどだったのに。
ともかくそうしてリビングの椅子に収まった俺の前には、好物のカレーが置かれている。恐ろしくゆっくりと食べていたら、案の定食べる気が起きないことを勘付かれてしまった。
「……寝る」
「そ。いいけど、何かあったら呼びなさいよ」
「ん」
片付けもせず2階に上がるのを止めず、姉貴は俺の食べ残しにラップをかけた。
それを横目にみながら階段を上がって、自分の部屋に入る。
カーテンを開け忘れた薄暗い部屋の中、俺はベッドに横になった。
いつまでもこんなことをしていても仕方がないと、頭ではわかっているけれど。
「はぁ……」
目を瞑る。
あいつが――朔が死んでから、この家は同じようで全く違うものになってしまった。父さんはほとんど帰ってこなくなり、母さんは異様に仕事に執着し、姉貴は青が好きだったはずなのに黒ばかり好むようになった。みんな、今まで通りを装おうとしてどこか壊れてしまったんだ。そして、渚も。

「付き合ってるんだ、渚と」
そう言われたとき胸にこみ上げた感情は、自分でもよくわからないほど複雑だった。賑やかな教室で、一歩下がってそれを俯瞰しているような渚のことがずっと気になっていた。何度か話しかけたけど、それとなく避けられているような気がして、やっぱり駄目なのかなって予感はしてたんだ。
だから兄貴が渚と付き合ってると聞いて、あぁそうかと、落ち込むよりも妙に納得した。
羨ましい気持ちはもちろんあったけれど、俺はそれを勘づかれないように胸の奥底に仕舞った。
大好きな人が、大好きな人と幸せになるのなら、俺はそれでいい。
そう、思っていたのに。

いつの間にか、眠っていたようだ。スマホを見ると、眠っていたといってもほんの少ししか経っていない。喉の渇きを覚えて、重い足取りでリビングへ向かうため部屋の扉を開けた。
階段とは反対方向、なのに。
見てしまった。俺の部屋の、2つ隣にある扉。全く同じデザインの扉が3つあるのは、末っ子の俺が生まれた時にこの家を建てたから。この家が建つときにはもう、この3部屋は子供部屋になると決まっていたから。……物置になんてなる予定はなかった。
気がつけば、その扉のドアノブを握っていた。ひねれば入れるこの空間に、期待と恐怖が入り混じる。居てほしい。居ないのを確かめるのが怖い。
「……――」
潜めた息の音が、やけに耳に煩い。冷たいドアノブに、体温が奪われるように冷たくなる。
ゆっくり、ゆっくりと扉が開いていく。閉められたカーテンの隙間からわずかに日が差し込み、埃が舞うのが見えた。
あぁ、そうだよな。
ふらふらと部屋の中央まで歩いて、そこにしゃがみこんだ。
もう、誰もここを使う人はいないんだ。
持ち主を失った部屋はただ無機質で、朔が死ぬ前からそっくりそのままだなんて信じられないほど、冷たい。
「兄貴」
呼べば絶対振り向いてくれた、あの優しい兄はもういないのだ。

「あ……」
その時、すぐ背後で空気が揺れた。……扉、閉めたっけ?
ばっと振り返る。そこには。
渚が、乱れた制服と髪をそのままに、じっと立ち尽くしていた。

「驚いたでしょ、弟と全然違って」
図書室で会った彼に話しかけたのは、ただの気まぐれだったんだと思う。私は特筆することのない、ごく普通の高校生で。静かな図書室でたったひとり読書に耽っている彼のことがなんとなく気になっただけ。
話しかけてから、水澄君のお兄さんだということを知った。ふたりは年子で、姉弟は彼の上にもうひとり、大学生のお姉さんがいるらしい。
「そうですけど……でも私は、先輩の方が話しやすいです」
水澄君――水澄蓮君は、私のクラスメート。いつも輪の中心にいるような人だ。みんなが彼と話したいと望み、彼がいるだけで周りが明るくなるような。
だから近寄りがたかった。
私とは違う世界の人間だと、自分はなんてつまらない人間なんだろうと、自覚してしまうから。
決して嫌っているわけではないけど、やっぱりいつも、避けてしまっていた。
「そう?珍しいね、君」
それから少しずつ、少しずつ私たちは距離を縮めていった。私がお父さんの再婚相手と上手くいってないとか、そんな愚痴にも付き合ってもらって。代わりに彼は、夢の話を私にしてくれた。
海の向こうで暮らすのが夢だと、彼は言った。
私は、海を見るのが好きだった。ずっと見ていると、どこまでも遠くへ行けそうな気がしたから。だから、そんなところに彼との共通点があったようで嬉しかった。
永遠を望んだ幸せは、今となっては束の間の幸せだったと分かる。
ある日、深夜に電話があった。
その日は両親ともに外出していて、私が出た。
「もしもし……」
「あ、松永さん?」
「水澄君?」
それは朔の弟であり、私のクラスメートである水澄蓮の声だった。
でもいつも教室で聞くような明るい声ではなく、覇気のない、暗く沈んだ声。
「どうしたの、こんな時間に」
「ごめん。……あのさ、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
そう言う声の方が掠れていて心配になる。それよりも大きな不安が胸を占めた。
「兄貴……朔が――」


「渚」
ふいに呼ばれて、私は重い瞼を持ち上げる。目の前に、不安そうな表情の蓮さん――いや、水澄君がいた。
「大丈夫?」
「……うん、大丈夫。ありがとう、水澄君」
その言葉にハッとしたように、水澄君は目を見開いた。
「……松永さん。思い出したんだ、全部」
「うん」
あの日は酷い嵐だった。そんな中なかなか家に帰ってこない水澄君を心配して、朔は家を出たらしい。
それからもう、彼が帰って来ることはなかった。
「ごめんね。一番辛いのは、きっと水澄君なのに。私、馬鹿だった」
「いや、俺は……」
言って、口籠って。絞り出すように低い声で続ける。
「謝るのは俺の方だ。あのとき、もっといい伝え方があったと思うし、そもそもあの日俺がもっと早く帰っていれば、それで済んだ話なんだ。それになにより、俺は記憶のない松永さんを利用してた。松永さんが家族と上手くいってないことを口実にして家に呼んだり、渚なんて呼び捨てにしたり。……兄貴の代わりなんて、いないのに」
虚ろだった瞳に光の粒が浮かぶ。堪えきれなくなったように、それは彼の頰をはらりと流れ落ちた。
「全部、俺のせいだ。俺は、どうやったって、代わりになんて――」
「違うよ」
きっぱりと、私は告げる。
「水澄君のせいだなんて、思ってない。一度も水澄君を恨んでなんかいないよ。亜美さんも、唯さんも、朔だって、絶対そんな風には思ってない」
だってね。
私は次々と溢れ出す彼の涙をハンカチで拭う。
「水澄君はあの日、朔のために――ううん。私たちのために、あの夜遅くまで外にいたのでしょう?」
彼が亡くなった、その次の日が、私たちの記念日だった。
水澄君はそんなこと一言も言わなかったけれど、私は知っている。
記憶が無くなって、この家に来てすぐに、ゴミ箱の中に萎れたスターチスがあったことを。
「ごめんね。それから、ありがとう」
祝ってくれようとしたこと。
ひとりで我慢していたこと。
ずっと、支えてくれたこと。
こんな言葉じゃ癒えないくらい深い傷を、負わせてしまったこと。
「今度は私が、支えるから」
あの日から、ひっそりと、でも確実に変わってしまったもの。それをひとつひとつ、ゆっくりでも、完全に元には戻れなくても、“過去”にできるように。
「大丈夫。きっともう、大丈夫」
どこまでも広がる、透明な青を見ていた。
あれから6年。私は朔の夢を叶えるように、海外で働き始めた。場所は海の見えるところがいいと言って、無理に要望を通してもらった。どれだけ時が経っても、あの出来事が消えるわけじゃないけれど、それでもきっと前に進めているはずだ。私も、みんなも。だから大丈夫。心配しないでね。
そう、青の向こうにいる大切な人に、心の中で伝えた。
「せんせーい!」
元気な声に振り返る。
まだ私の人生は動き出したばかりで、辛いことも苦しいことも、きっと沢山あるけれど。
「はーい!」
でも私は、今を生きるよ。
ずっと未来で、君のいる、青の向こうに辿り着くまで。

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