「その本、私が書いたって言ったら、信じますか?」

 夏本番というにはまだ早い。気の早いせっかちなセミが鳴き始めた頃。
 朝霧幸成は、川をまたがるように架かっている橋の下の日陰で涼みながら、空きコマの暇つぶしのために、家から適当に持ってきた本を読んでいた。

「サインください」

 最後の話を読み終えたところで、不意に見知らぬ女性に声をかけられた咄嗟の返答にしては、まぁ及第点といったところではないだろうか。

「悪いけど、サインは書けないんですよ」

 彼女はふふっと笑って、腕でバツを作って見せたあと、そのまま僕の隣に腰掛けた。
 控えめに言って、綺麗な女性だと思った。顔立ちははっきりしていて、髪は肩より少し長め。捲った袖から見える腕は白く、どこか儚げであるように感じた。

「しかし、自分の書いた小説が読まれているのを見るのは、何だか感慨深いものがありますね」
「……え、冗談とかじゃなくて、本当なんですか? てっきり、新手のサークル勧誘か何かかと……」
「本当ですよ。その本、男女の恋愛が描かれた短編集になっているでしょう」
「じゃあ、最後の話は? どんな話だか分かりますか?」
「確か、余命ものでしたね」

 彼女は、そんなのもちろんわかるよー、とでも言いたげな、したり顔で即答する。
 
「……いや。まだ、この本を読んだことがあるだけの読者という可能性も……」
「あはは。まぁ、信じても信じなくてもいいですけど」
 
 そう言って、困ったように笑った後、彼女は立ち上がった。

「何だか嬉しくて声をかけてしまいました。邪魔して悪かったですね」

「え、あ、ちょっと待ってください」

 歩いて去ろうとする彼女を、僕は慌てて呼び止めた。

 彼女は、「なんですか?」と足を止めて振り返る。

 さて、どうしよう。

 勢い任せで彼女を呼び止めてしまったが、正直、それを言おうかどうか迷った。もしかしたら、失礼に当たるかもしれないから。
 だが、この機会を逃せば、もう二度とそれを明らかにする術はないだろう。


「作者なら、この本について、どうしてこの言葉を選んだのかとか、どうしてこんな展開にしたのかとか、分かりますよね?」

 僕は意を決して、彼女に問いかけた。

「もちろん、分かりますよ」

 彼女は力強く頷く。

「一つだけ、納得できない箇所があるんです」

 僕はそう言って、彼女に最後のページを見せた。

「さっき言っていた、最後の余命ものの話です。この話、結末が書かれていないっていうか、無理やり終わらせた感じですよね」
 
 サーッ、と強い風が吹き、彼女の髪が揺れる。
 空気が変わったことを、僕は直感した。

「僕には、この話が未完成であると感じました。余命宣告をされた女性。その子と過ごすうちに、自分の世界に閉じこもっていた男性が、心を開いていく。よくある話です。でも、この話では、その女の子が最終的にどうなったのか、それが書かれていない。そして、最後、白紙のページが何枚か差し込まれている」

 彼女は微笑を浮かべながらも、真剣な眼差しでこちらを見つめている。

「君は、どうしてだと思いますか?」
「え?」
「当てられたら、どうしてそうなったのか、作者自ら教えてあげますよ。どうします?」

 僕は、一つの可能性を提示することにした。

「一つ思い当たったのは……個人的にはあまり好きではないのですが、展開を読者の想像に委ねるという手法でしょうか。そうなれば、彼女が救われて、二人が幸せになる可能性もゼロではなくなる」

 彼女は、首を横に振って言った。

「残念。ちなみに、それは、私も好きじゃないです。他の解釈はありますか?」
「……すみません。今は思いつきません」

 僕が正直にそういうと、彼女は特に残念がる素振りもみせず、続けて言った。

「じゃあ、何か思いついたら、またここに来てください。昼間は、大体いつもここで休んでいるから、いつでもどうぞ」

 僕は、彼女と接点ができたことを内心嬉しく思ったが、それを悟られないように、頭を下げて表情を隠した。

「分かりました。ありがとうございます。ちなみに、お名前、何て言うのですか。本には作者名が書いてなくて」

 彼女は微笑んで言った。

「ナツでいいですよ」




「本の作者ねぇ。ホント、出会いって、どこに転がってるかわからないよなぁ」

 その日の講義が終わった後、僕は友人の辰の家で酒を飲みながら、彼女の話をした。

「それで、美人?」
「……まぁ、綺麗な方だとは思ったけど」
「いいねぇ、美人作家。ようやくお前にも春が来たって感じだな」
「うるさいな。そんなんじゃないって。大体、僕に彼女がいるの、知ってるだろ」
「別れりゃいいんだ、そんなもん。新たな出会いを前に、過去の人間関係に縛られている時間が勿体ない。まして、あんなじゃじゃ馬……」
「おい」 
「冗談冗談。しかし、また会いに行くには、最後の話の新しい解釈を考えなきゃいけないわけだ」
「……正直、これといって新しい切り口って思いつかなくてさ」

 僕はそう言って、彼に本を差し出す。彼は受け取った本をパラパラ捲りながら、続けて言った。

「初めて見る本だな。作者名は無し。出版社も聞いたことねぇ。家にあった本なんだろ? だったら、まずは買った親とかに聞いてみたらいいんじゃねーか?」
「そうだね」
「今度、俺にも紹介してくれよ」
「……えー」
「なんでだよ。お前は彼女と別れる気無いんだろ? じゃあ、フリーな俺がいってもいいじゃんか」
「フリーって言ったって……」

 この男は、特定の彼女を作らず、とっかえひっかえしているだけなのだ。まぁ、チャラチャラしてるように見えて、頭も切れるし、顔も悪くない。ちなみにこんなナリで文学研究サークルに所属している。それだけ、人間的な魅力があるということなのだろうけれど。

「なんか、あの人は嫌だわ」
「何だそれ」

 不思議と、彼女をこの男に紹介するのには、抵抗があった。初めて会った相手なのに。

「まぁいいや。とりあえず、進展あったら教えてくれや」



 家に帰ると、いつも仕事で帰りが遅い父が、珍しくリビングで酒を飲んでいた。

「あれ、今日は早いんだね」
「持ち帰って仕事だよ。お前、あんまり遅くまで遊び歩いてるんじゃないぞ」
「仕事あるのに酒飲んでる人に言われても、説得力無いよ」

 呆れた声で言う僕に、父は「ちょっとだよ、ちょっと」と言いながら、グラスに酒を注いでいる。

「あ、そういえば、父さん」
「ん?」
「この本、書斎から借りちゃってたんだけど。内容、覚えてる?」

 父は怪訝な顔をして本を受け取り、パラパラとめくり始めた。

「どうだったかな。お前、読んだのか?」
「うん。それで、最後の話なんだけどさ、違和感を覚えなかった?」
「最後の話? ちょっと待ってくれ」

 そう言うと、父はソファに腰掛けて、本を読み始めた。

 今まで、学校の友人たちに話を聞くと、父親とはほとんど話をしないという子も少なくなかった。母親とは喧嘩ばかりしているという話を聞くこともある。
 それでいくと、仕事が忙しいだろうに、こういった大したことない話でも、母さんや僕のことを優先してくれるうちの父には、素直に好感が持てる。


 部屋に戻って寛いでいると、約一時間後、ドアをノックする音が聴こえた。「どうぞ」と僕が言うと、父が入ってきて言った。

「読んだよ。最初に読んだときにどう思ったかは定かじゃないが、言われてみれば確かに、違和感を覚える部分はあった。というか、端的に言ってしまえば、え、ここで終わりなのかと思ったよ」
「やっぱり、そうだよね!」

 共感が得られたのが嬉しくて、つい大きな声を出してしまったのを後悔する。
 父はそれを見て、多少面食らったようだったが、少し笑って続けた。

「幸成もそう思ったんだな」
「うん。それでさ、どうしてだと思う?」
「理由を聞いてるのか? それこそ、作者にしか分からないとは思うが……」
「父さんなりの解釈っていうか、予想でいいんだよ」
「論文でも書くのか? お前、文学部じゃないだろ?」
「……まぁ、そんな感じだよ。選択の授業でそんなのがあって、ちょっと、行き詰っててさ」

 鋭い指摘に動揺し、曖昧な返答をしてしまったが、父はさして疑問には思わなかったようだった。

「そうか。ちなみに、お前はどう思ったんだ?」
「結末は読者に委ねますってやつかなーって。ほら、よくあるじゃない?」

 父は、右手の親指と人差し指を顎に当て、考える素振りを見せる。

「この作者に限って、それは無いような気がするぞ」
「どうして?」
「それ以外の作品は、きちんと結末まで書かれているからさ。むしろ他の話の方が、余韻を残した方が、味が出ると感じたよ。やるならこの話ではなく、他の話でやる方が綺麗だと思うね」
「なるほど。ていうか、父さん、こういう本読むんだね」

 僕がそう言うと、父は苦笑してから言った。

「まぁ、確かに最近は学術書ばかりになってしまっているきらいはあるが。でも、お前くらいの歳の頃は、よくこういう大衆小説を読んでいたよ」
「推理小説とかは読んでいそうなイメージだけど」
「そんなことないぞ。むしろ、青春恋愛小説の方が好きだった」

 少し恥ずかしくなったのか、誤魔化すようにゴホンと咳ばらいをしてから、改まって、父は続けた。

「先ほども言ったが、余韻を持たせたことによって良くなるタイプの作品ではないように思える。となると、現実的な線が妥当なんじゃないかと考える」
「現実的な線?」
「ああ。書きたかったけど、書けなかったという視点だ。例えば、作者はハッピーエンドを書きたかったが、編集に止められたとか。さすがにここから奇跡的に回復したという展開は、読者の納得を得るのは難しいだろう。先ほどお前に最後の話と言われ、意識しながら読んだが、先入観無しで読めば、あれで形になっていると言えなくもない。編集的にオーケーが出たのだとすれば、作者的には不本意だろうが、作品として公表したという可能性もある」
「なるほどね」
「あんまり使えそうにない意見だがな。作品の内容には触れていないし、解釈の役には立たないだろう」
 
 僕は父から本を受け取り、首を横に振って言った。

「いや、十分だよ。ありがとう。ちなみに、この本いつ買ったの?」
「いや……どうだったかな。それが、よく覚えていないんだよなぁ」 
 
 父はポリポリと頭をかきながら、解せないという面持ちで言い残し、部屋から出て行った。



 翌日、再び河川敷を訪れると、石段に腰掛けてぼーっと川を眺めているナツの姿があった。

「次回作の構想でも、練ってるんですか?」

 僕が声をかけると、彼女は振り返った。そして、こちらを見て笑顔で手を振った。

「そんなところです。ここは静かで、物思いに耽るには良い場所ですよね」
「そうですね。僕も、用事が無い時は、よくここに来て本を読んでいます。大学内にカフェとかあるんですけど、こっちの方が静かで過ごしやすいです。まぁ、もう少ししたら、暑くてゆったり本なんて読めないと思いますけどね」

 そう言って、僕は彼女の隣に腰掛けた。

「それで、どうしてあの結末なのか、分かりました?」
「とりあえず、仮説をまた一つ持ってきましたけど……」

 僕は、父の考察を、彼女に話した。

「うーん。面白い視点だとは思いますが、残念ながら違います」
「そうですか……」

 僕はがっくりと肩を落とす。

「そ、そう落胆することは無いですよ。えーと、ほら、この講義は楽単じゃないんですから……」
「……」
「あ、あれ、面白くなかったですか?」

 慌てる彼女の様子が可笑しくて、僕は笑った。

「いや、そんな冗談言うんだなって、ちょっと意外だっただけです」
「からかわないでください。ちなみに、これもあなたが思いついたのですか?」
「いえ、父に聞いてみたんです」
「へぇ、そうですか。お父さん、ね」
「? 父がどうかしましたか?」

 少し声のトーンが下がったのを不思議に思い、僕は問いかける。

「……いえ、何でもないです」

 その時、携帯電話が鳴った。

「げっ」

 思わず上げたカエルの断末魔のような声に、彼女は心配そうに声をかけた。

「どうしました?」
「何でもないです。また何か思いついたら、ここに来ます。それじゃあ、今日はこれで……」

 そう言って、僕はそそくさと移動しながら、メールの返信を打つ。
 メールの相手は、彼女の玲奈だった。



「遅い!」

 指定された場所に行くと、玲奈が仏頂面で座っていた。

「急に呼び出されたって困るよ。僕にだって用事があるんだからさ」
「じゃあ、辰からの情報は、正しいってわけ?」
「情報って?」

 そう問うと、彼女は携帯の画面を僕に見せた。そこには、『幸成が文学少女にお熱♡』とメッセージが書かれてあった。
 あの野郎……。

「そんなんじゃないって。ていうか、本気で疑ってるなら、もう少しやり方があるんじゃない? いきなり本人に突きつけるって……」
「本気で疑ってるわけじゃないから、スタバ奢らせるくらいで許してやろうと思ってるんじゃない。でも、その様子じゃ、少なくともその文学少女とやらが実在するのは確かなようね。どうしてくれようかしら……」
「文学少女っていうか……ほら」

 僕はそう言って、カバンから例の本を出して彼女に差し出した。

「何これ」
「その女の人さ。この本の作者なんだよ」

 そう言うと、彼女は呆れたような表情をして言った。

「……あんた、騙されてんじゃないの? お金渡したりしてないでしょうね?」
「してないよ!」
「ならいいけど。ちょっと見せてよ」

 僕は、彼女に本を差し出した。

「まぁ、その人ともう二回会ってるのは事実だよ。別にやましいことなんて何もないけど。一つ、その人に教えてもらいたいことがあって」
「教えてもらいたいこと?」
「うん。その本の最後の話なんだけどね。無理やり終わらせた感があるっていうか、結末がきちんと書かれていないんだ。それで、どうしてこの終わりにしたのか聞いたら、当てられたら教えてあげるって言われてさ。現在二連敗中です」
「ふーん。まだ仮説はあるの?」
「いや、考えてはいるけど、正直思いつかない。別の視点が欲しいから、何なら協力してくれると嬉しいけど」
「いいよ。じゃあ、今読んでいい?」 
「あ、うん。どうぞ」

 彼女は、僕がそれを言う前に、既に本を開いて読み始めた。その様子に苦笑するも、予想していた僕は鞄から別の本を出して読み始める。

 三十分くらい、そうしていただろうか。彼女が不意に本を閉じて、こちらに向き直った。

「読んだ?」
「ええ。感想を述べても良いかしら?」
「どうぞ」
「作者は、続きを書きたくなかったんだと思う。最後の話、モデルがいたのかってくらい、解像度が高いと感じた。綺麗に終わらせるなら、病気が治って男の子と結ばれて大団円って感じでしょうけど、もしこれがノンフィクションなら、そんなことにはならない。仮に本当にモデルがいたなら、たぶんその人は亡くなっている。バッドエンドを書きたくなかったんじゃないかしら。かといって、無理やりハッピーエンドにするのも嫌だったのよ。リアルで作ってきたものが、急に作り物になってしまえば、台無しでしょう?」
「なるほど……」

 そう言うと、彼女は満足したように立ち上がり、会計を素通りして店の外へと出て行った。

 僕はほっと一息ついて、まぁ、お願い聞いてもらったしな、と自分を納得させながら、会計に向かった。


 病室の窓から夕日が差し込んで、電気のついていない薄暗い部屋を、オレンジ色に染めていた。窓にかかる白いレースは、外から入ってくる緩やかな風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていた。

「じいちゃん、来たよ」
「……おお、幸成か」
「具合はどう?」
「なに、大したことは無い」

 そう言ったきり、祖父はぼんやりと、窓の外を眺めるだけだった。

「退屈じゃない? 何か、本とか持ってこようか?」
「……いや、大丈夫だ」
「……そう」

 その日は、母方の祖父のお見舞いのため、僕は病院へ訪れていた。 
 少し前の検査で、腫瘍が見つかったのだ。幸い、転移前だったので、そこだけ取り除けば終わりだそうだ。
 
 祖父は、よく散歩をする人だった。決まったコースがいくつかあって、その日の気分でコースを選ぶ。

 僕も幼い頃、何度も祖父と一緒に歩いた。好奇心旺盛だった僕は、虫とか花とか、何かにつけて足を止め、じっと観察することが多かったらしい。そんな時、祖父は急かすことはせず、僕が気の済むまで待ってくれていたと、母から聞かされた。

 昔から、口数の多い人ではなかったが、誰より優しく、僕はそんな祖父が大好きだった。

 だが、中学生になったころから、部活動や勉強で忙しくなり、祖父と会う回数は減っていた。

 そして、数年前に、脳の病気を患った。手術は成功したが、前にも増して口数は減り、外に出ることも少なくなってしまった。

 最近では、ソファに座ってテレビをぼーっと見ていることが多い。
 母は心配しているが、何をしてあげるのが本人のためなのか、分からない。

「幸成」
「何、じいちゃん」

 突然名前を呼ばれ、僕はハッと我に返った。

「結婚とか、そういうことを考えてる相手はいるのか」

 祖父がそういったことを聞いてきたことは、これまでに一度もなかった。
 ひょっとして、自分の死を予感しているのではないだろうか。

「どうしたんだよ、いきなり……まぁ、一応、交際相手くらいはいるけど」
「そうか」
 
 僕がそう言うと、祖父は少し安心したように笑って見せた。

 考えてみれば、祖父とまともに話をしたのは、久しぶりのことだった。



 病院からの帰り道、携帯電話が鳴った。画面を見ると、辰の文字が表示されている。

「いきなり電話かけてくるなんて珍しいね」
『ちょっと急ぎでな。例の本、ネットで調べたか?』
「うん。でも、何も出てこなかったよ」
『あれから、こっちも色々調べてさ。さすがに作者名も出版社もどっちもヒットしないなんてことは、通常ありえない。どこかに足跡が残るはずだと思ったんだけど、まさかのオチだったよ』
 辰は興奮した声で、捲し立てる。
『まさに灯台下暗しだ。あの出版社名は会社じゃない。うちの文学研究サークルの初代の名前だ』
「どういうこと?」
『うちのサークルは、大学の創立当初からあるサークルなんだ。創立当初から代が変わる毎に好き勝手に名前を変えてるんだよ。ちなみに、大学の創立は五十年以上前のことになる』

 その言葉に、僕は驚きを隠せなかった。

「そんな……そんな馬鹿なことがあるか。だって……」

 彼女は、僕と同い年くらいに見えた。見かけによらないって言ったって、二十も三十も離れているとは思えない。

『十中八九、彼女は嘘をついている。そうでないのなら……』

 辰は、そこで言葉を切った。
 彼が何を言いあぐねているのか。それほど長い付き合いでなくとも、僕にはそれが理解できた。
 しばらく沈黙が続いた後、仕切り直したように彼は言った。

『ともかく、そうなると、一つ疑問が出てくるよな』
「……市場流通していないはずの本が、どうして僕の家にあるのか」
『その通り。父親には話を聞いて、よく覚えてないってことだったんだろ? なら、母親に聞いてみたらどうだ。たぶん、そのナツって人と何かしらで繋がっている可能性が高い。そうなると、彼女がお前に話しかけたのも、偶然ではないということになる』


 その日、空は一面、雲に覆われていた。景観はよくないが、暑さは比較的軽減されていて、過ごしやすい気候だった。
 彼女は、いつもと同じ場所に腰掛けていた。

「ナツさん」
「ああ、君ですか。また何か、思いつきましたか?」

 僕は彼女の問いに対し、頷く。

「ええ。ただその前に、一つ確認したいことがあります。確証はありませんが」


 昨日、母は言った。

「ああ、懐かしいわね。昔、お父さんの家にあって、引っ越しの時に持ってきちゃったのよ。幸成の部屋にあったの?」
「いや、父さんの書斎の本棚にあった。それより、母さんのお父さんって……じいちゃん?」
「そうよ。何当たり前のこと言ってんの」
 

 父や玲奈の意見。辰や母からの情報。そして、彼女の様子。
 すべての線が重なる場所。

 僕は、彼女の前に右手を差し出した。

「握手をしてもらえませんか?」 

 僕の言葉に、彼女は、一瞬、驚いた表情を見せた。だが、そのあとすぐ、諦めたように目を閉じて、言った。

「バレちゃったか」



 彼女の右手は、僕の差し出した右手を貫通した。



「半信半疑だったんですけどね……」
「驚かないのですか」
「もちろん、驚いてますよ。ただ、非現実的すぎて、どう反応すればいいか分からないだけです」
「そうですよね……」

 彼女は哀しそうな顔で、そう呟く。

「あの話に出てくる女性は、あなた自身。そして、あそこで終わってしまっているのは、続きを書かなかったのではなく、亡くなってしまって書けなかった。そうですね」

 僕の言葉に、彼女は頷く。 

「……そうです。あの話を書いてる途中で、私は息を引き取った。でも、未練として残ってしまったのでしょうね。成仏することもできず、この場所に縛られ続けている。あなたに声をかけたのも、偶然なんかじゃない。一つ、お願いがあったからなんです」
「やはり、あの話の男の人は……僕の祖父なんですね」

 彼女は目を閉じて頷いた。

「でも、どうして、会ってすぐにそのことを言わなかったんですか。もし僕がそのことに気付かなかったら、どうするつもりだったんです?」

 彼女は、すぐに返答せず、しばらく沈黙が続いた。
 そして、空を見上げて言った。 

「たぶん、自分から言うことはなかったと思います。幽霊の分際でやっていいことの範疇を超えている気もしますし。だから、もしあなたが気付いたら、その時に言おうと決めていました。それはもう運命じゃないですか」
「運命……ですか」
「……そうですね。やること為すこと、中途半端なんですよ、私」
「それで、お願いというのは?」
「はい。本の続きを、あの人に書いてほしいのです。あなたから、お願いしてくれませんか?」

 僕は、力強く頷いて言った。

「分かりました。祖父にお願いしてみます。ただ、祖父は今体調がよくなくて病院にいます。お願いを聞いてくれるかはわかりませんが」
「構いません。もし断られたら、引きさがってくれて構いませんから」
「一応、名前をお伺いしても?」
「はい、蓬莱夏美と申します」
「ありがとうございます。でも、どうして幽霊であるあなたを、僕は視認できるんでしょうか」
「……理屈は分かりません。でも、その本のおかげであることは確かです。実際、以前他の本を読んでいるあなたに声をおかけしても、反応してくれませんでしたから」




 病室に行くと、祖父は、相変わらずぼんやりした様子で空を見つめていた。僕が来たことに気づくと、「……おお」と少し驚いた表情を見せた。
 
「……幸成か。そう何度も来てくれなくても、大丈夫だぞ」

「じいちゃん。蓬莱夏美って人、知ってる?」

 僕は、カバンから本を出して、祖父に差し出した。
 祖父は、頭の中を整理するかのように、黙ったまま、僕が差し出した本を見つめていた。

「……ずいぶんと、懐かしい名前が出たな」

 その口調は、どこか昔の祖父に戻ったような、優しい口調だった。
 
「この本の最終話に出てくる男の人は、じいちゃんなんだろ」

 祖父は、肯定も否定もせず、本を受け取って言った。

「幸成は、この本を読んで、どう感じた?」
「未完成だと思った」
「その通りだ。それは、彼女が書いていて、結末を書く前に亡くなってしまった」
「話してくれる?」

 祖父は、何か言いたげな表情を見せたが、やがて諦めたように一度口を閉じてから、語り始めた。
  
 私が蓬莱夏美という女性に出会った日。
 
 その日も、私はいつものように動悸とともに目を覚ました。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。時計を見る前から、日がとっくに昇ってしまっていることが分かった。

 浪人した末に、受験に失敗。親の期待に、応えることができなかった私は、未来に何の希望も見出すことができず、安直に死を考えていた。
 
 私はよく家の近くにある河川敷に寄っていた。
 勉強を止めてから、空いた時間をよくこの場所で過ごしていた。主に本を読んでいることが多かったが、昼寝をしたり、ただぼーっと川を眺めていたりと、過ごし方はその日によって様々だった。

 そんなことをしていたら、目につきそうなものだが、この場所は幸い人が来ない。
 何をしていても、人の目を気にする必要が無い、自由な場所。それでいて、閉塞感に襲われる自分の部屋とは違い、開放的な空間。
 ここはまさに、私にとっての聖域だった。

 そして、この川の底は深く、流れは速い。
 
 もう、終わりにしてしまおうか。簡単だ。そこから一歩を踏み出すだけで、私は全てを終わらせることができる。今まで、何度か足を踏み出しかけたが、しかし、結局覚悟を決めることができず、飛び込むことができなかった。今日は、不思議と飛べる気がしていた。

 だが、そこには先客がいた。髪の長い女の子が立っているのが見えた。

「……あんた、そんなところで、何をしているんだ」

 私が思わず声をかけると、その子がこちらを振り返った。

 月明かりに照らされた、その顔を見た瞬間、私は心臓が止まりそうになった。

 はっきりとした顔立ち。それでいて、どこか儚く、驚くほど美しい女性だった。
 
「川を見ているだけですよ。いけませんか?」

 彼女は、特に動揺した様子もなく、私にそう問いかける。

「いや……」
 
 私も日頃やっていることだし、そう言われてしまうと何も言い返せない。本当に聞きたいのは、飛び込もうとしているのではないかということだが。

「でも、確かにそろそろ帰ろうかと思っていたところです」

 そう言って、彼女は石段を登ってきた。そして、すれ違いざまに、彼女は、そこから見える小さな建物を指差して言った。

「良かったら、明日もここに来てくれませんか? お願いしたいことがあるんです」
 
 彼女は踵を返し、去っていった。
 
 それが、彼女との出会いだった。

 その日、どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。気づいたら自宅のベッドで横になっていた。
 身投げする気力は、失われてしまっていた。



 次の日、昨日の場所に行ってみると、彼女は本当に座っていた。

「約束通り、来たぞ」

 彼女はこちらを見て、「来てくれたんですね」と嬉しそうな顔で言った。

「改めまして。私の名前は、蓬莱夏美と言います」
「私は、朝霧修二郎という。……それで、お願いしたいことっていうのは?」
「バイト、しませんか?」

 突然そんな言いだした彼女に、私は困惑していた。

「気が向いたときで構いません。本を読み聞かせてほしいんです」

 彼女は、そう言って一冊の本を差し出した。

「これ以外にもあります。全て、私が書いた本です。私が死ぬまでの間で構いませんので、読んでくれませんか」
 
 その言葉に、私は、驚いて彼女の顔を見る。

「死ぬ?」
「ええ。病気で、余命半年なんです」

 彼女は頷いて、あっさりとそう言った。
 やめておけ。これ以上、彼女に関わらない方がいい。そんな声が、脳裏をかける。

「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「自分があと少しで死ぬのに、どうして自分が書いた本を読み返そうと思うんだ?」

 私の質問に、彼女は得意げな笑みを浮かべて答えた。

「過去を振り返りたいのです。私みたいな人間は、自分の過去をひっくり返して、あーでもない、こーでもないって考えるのが、まあ趣味みたいなもんなんですよ」
「君の過去は、楽しい思い出ばかりだったのか」

 彼女は、首を横に振った。

「いえ。全体的には、これっぽっちもいい人生ではなかったです。惨めでちっぽけな、取るに足らない人生でした」
「では、なぜ?」
「嫌な思い出でも、結局それが私の人生なんですよ。あなたは気持ち悪いと思うかもしれないけれど、あの時こうしていれば、なんてありもしなかった人生について考えたりしたいのです」
「よくわからないな。嫌なことは、思い出したくないものだと思うけど」
「そういう奇特な人間もいるってことですよ」

 面倒でしかない。そう思った。
 でも、どうしてか、私は彼女の要求を断ることができなかった。

「分かった。引き受けるよ」
「本当ですか!」
「毎日来られるわけじゃないけれど、できるだけ空いている日は顔を出すようにする」
「ありがとうございます。じゃあ、さっそく……」

 それから、彼女に読み聞かせをする日々が始まった。



 日が経つにつれて、私は彼女のことを知っていった。
 小説は、中学生の時から書き始めたこと。今は、大学生で、文学研究会に所属していること。いつかプロの小説家になって、本を出したいと思っていること。

 彼女は、私が本を読み終えると、いつも満足そうに微笑んだ。それを見て、私も内心嬉しくなった。
 誰かのために何かをして、相手が喜んでくれるということ自体が、本当に久しぶりのことだった。小さなことだが、私の胸にじんわりと温かいものが広がっていくのが分かった。
 

 また、読み聞かせをしていると、彼女の本の内容が自然と頭に入ってきた。
 正直に言って、なんだか、都合のいい話ばかりだと感じた。たまたまとか偶然とか、そういうものが前提の話が多かった。

 一度、彼女にそれを指摘してみたことがある。
 すると、彼女は言った。

「それは運命って言うんですよ。初めからそうなるって決まってたんです」
「でも、現実はそう上手くいくことの方が少ないだろ」
「だからいいんじゃないですか。せめてフィクションの世界くらい、夢見る権利はあるでしょう?」
 

 いつの間にか、サボりがちだった勉強に、手を付けるようになっていた。
 いつか彼女が復学すると信じて、彼女と同じ大学に通うことが、私の目標になった。
 先のある人間からそんな話を聞かされて、気を悪くすると思ったのだが、むしろ彼女は、私の話を聞きたがった。
 私がちゃんとこの世で生きていく道を歩くこと。投げやりにならないこと。
 先の残されていない彼女は、私がきちんと生きていくことを望んだ。
 彼女に悲しい顔をさせたくなかった。嘘をつきたくも無かった私は、真面目に勉学に取り組んだ。


 本当に、それだけの日々だった。劇的な何かが起こることは無く、私は読み聞かせを続けた。彼女は医者の宣告どおり、だんだんと衰弱していった。

 やがて彼女は外に出ることはできなくなり、いつしか読み聞かせをする場所は、河川敷から病室へと変わっていた。



 その本は、ほとんどのページが白紙だった。
「……死にたくない」

 見開きの二つのページを丸々使って、殴り書きされたその文字を読み上げた瞬間、彼女の顔が凍り付いた。
 次の瞬間、彼女は私の腕からその本を奪い取り、両腕で胸に抱え、顔を伏せた。

「……すみません。それは、別の本でした」

 窓の外が白く光り、次の瞬間、空気が震えるほどの轟音が、部屋の中に鳴り響く。
 暫く沈黙が流れた後、彼女は重い口を開いて言った。

「今日は、帰ってもらえませんか?」
「……この豪雨の中をか?」

 雨は強い風に吹かれ、まるでそれ以外の音をかき消すかのように、激しい音を立てて降りしきる。

「朝霧さん?」
 
 彼女の声で、私は現実に引き戻された。
 私は、無意識に彼女の右手を、左手で握っていた。

「……ごめん」

「どうして、泣いているんですか」

 そう言われて、自分の頬を触ると、涙が流れているのが分かった。
 私は、その涙の理由を知っていた。

「……怖かったんだ。余命宣告されている君が、常に前向きでいることが。たぶん私だったら、気分が落ち込んで耐えられないと思うから。逆に私の前で気丈に振舞っているのなら、そんな演技をさせていることを、申し訳なく思っていた。すごく遠い距離を感じていた。でも、ようやく君の真意に触れられたことに……私はほっとしたのだと思う」
 
 正直に。赤裸々に。私は彼女に言葉をぶつけた。

「ねえ、朝霧さん。どこか知らない町に行って、二人で暮らしましょうか」

 私は彼女の方を見る。彼女は微笑を浮かべながら、こちらを見つめていた。

「……あと数か月したら、君は死ぬんだろう? そんな君と一緒に行ったところで、私はその町に一人取り残されるだけじゃないか」
「私と出会う前のあなたは、そうやって一人で生きていたのではないですか。それとも、一人でいる事が、寂しいと思うようになってしまったのですか?」
「……二人分の家賃を払うのが、馬鹿らしいって話だよ」

「まあ、言ってみただけですよ。ごめんなさい、冗談です」

 彼女と一緒に、どこかの町で生きていくことを、想像する。
 
「手、冷たいですね」

 手がじんわりと温かく、気づくと、私の手を、彼女の手が包み込んでいた。

「冷え性だから。その代わり、心が、あったかいんだよ」

 自分の声が、思ったより掠れていたことが恥ずかしくて、私は咳払いをする。

「そうですね」

 彼女は微笑んで肯定する。
 脈の音は、きっと彼女まで伝わっている。でも、認めたくなかった私は、何も言わなかった。

「朝霧さん。私があの時河川敷にいたこと、偶然だと思いますか」

 天井を見つめる彼女の顔は、とても哀しそうだった。

「あなたのことを最初に見つけたのは、私だったんですよ。縋る相手を探していただけだった。普通の人は、日常に撲殺されて、河川敷をずっと眺めている余裕なんてないと思う。この人なら、私の相手をしてくれるかもしれないと思った。そして、あわよくば、私を物語の世界に連れて行ってくれるかもしれない。運命とか奇跡が通用する世界に」

「期待に沿えなくて、ごめん」

「いいんですよ。そんなの無理だから。だから、物語にしてみたんです。結局、完成させることはできなかったけれど」

 彼女は、私の方に向き直り、続けて言った。

「私が死んだら……この本の続き、書いてくれませんか」

 私は、慌てて拒否する。
 
「申し訳ないけど、それは無理だ。私に文才は無い。下手に手を出せば、作品自体を台無しにしてしまうだろう。それに……奇跡が起きなかった話なんて、君は好きじゃないだろ?」
「実は、そうでもないですよ。じゃあ、最後のお願いって言っても、駄目ですか?」
「……そういうこと、冗談でも言うなよ」
「台無しにするとか、そういうことじゃ、無いんですけどね。まぁ、無理にとは言わないけど。強要はできないですし。でも、一応、預けときますね」

 そう言って、彼女は私に本を押し付けた。
 本に、お金が挟まっている。

「製本は、サークルの誰かにお願いすれば、やってくれると思います 。お金は、そこに挟んであるものを使ってください。余った分がバイト代です。もし、あなたが続きを書かなかったなら……作者名は空欄のままにしてほしいです」
「……」
「しかし、やっぱり現実は、作り話みたいに上手くいかないなぁ」

 大丈夫だと、言ってあげたかった。
 でも、その言葉は何の気休めにもならないことを、私も彼女も嫌になるくらい、知り尽くしていた。
 


「以上が、私が知る彼女についての全てだ。その後、まもなくして彼女は息を引き取った。親族でも何でもない、赤の他である私は、彼女の葬儀がいつ行われたのかも、彼女がどこの墓に入っているのかも知らない。結局、私は彼女に何も伝えることはできなかった。奇跡は……起こらなかったよ」

 しばらくの間、僕は言葉を発することができなかった。
 既に終わってしまったこと。変えられない過去に対し、何を言えばいいのか。
 だが、彼女の悲しそうな顔がフラッシュバックし、僕は勇気を振り絞って問いかけた。

「完成、させないの?」
 
 その言葉に、祖父は苦笑して言った。

「私自身が、塞ぎこんでしまったのだ。物語を台無しにする愚行だ。そして、傷も癒えないまま、お見合いで会ったばあさんと結婚した。勘違いしないでほしいのは、ばあさんは本当に私によくしてくれた。塞ぎこんでいる私を支えてくれたのだ。そんなばあさんを、私も大切に想っていた。……実は、一度、書こうとはしたんだ。だが、書くのが怖かった。彼女の死に、目を背けてきた現実に、もう一度正面から向き合う勇気は、私には無かった。だから、諦めて、そのまま本にしたんだ」
「でも、未練があるから、最後に白紙のページを残した。違う?」

 僕の言葉に、祖父は沈黙する。

「じいちゃんが書かないのなら、僕が代わりに書くよ」
「幸成が?」

 祖父は驚いた表情を見せた。

 この話は、何としても完成させなくてはいけない。

「その代わりその時の心境を、正確に教えてほしい」
「なんで……どうして、今になってそんな……」

 僕は、戸惑う祖父に向かって、はっきりと告げた。

「待っている人が、いるんだよ」



 それから、僕は祖父の元に通い続けた。体調が良い日に、短時間でも祖父の話を聞いた。

「どうだ、幸成。酷い話になってしまっただろう」
 
 最後の一文を書き終えた直後。
 弱弱しい声で言う祖父に、僕は毅然とした態度で言った。

「それを決めるのは、じいちゃんじゃないよ」

 その言葉に、祖父は顔をあげた。

「……なぁ、今から言うことは、ボケた老人の戯言だと思って聞いてもらいたいんだが……。もし、もしも、その待っている人とやらに、幸成がもう一度会うことができたなら……一言、伝えてくれないか」
「分かった。何を伝える?」
 
 縋るような、今にも泣き出しそうな、そんな表情で、祖父は口を開いた。



 その日、河川敷に行くと、彼女は立ったまま、川を見つめていた。

「ナツさん」

 僕が声をかけると、彼女は振り向いて笑顔で言った。

「暫く来てくれなかったから、もう私のことなんて忘れちゃったのかと思いましたよ」
「忘れたりなんてしませんよ。それより、見せたいものがあります」

 僕はそう言って彼女の本を差し出した。

「手書きで恐縮ですけど、祖父の言葉を元に、僕が書きました」

 彼女が死ぬ結末。それは変えられない。そしてそのあとは、彼女の視点では書くことはできない。だから、僕がしたのは、視点を変えることだった。

「祖父の視点で、物語の最後を書きました」


 本に触れられない彼女の代わりに、僕は本を開いて彼女に見せ、書いた文章を読み上げ始めた。
 
 本は、祖父の言葉を脚色せず、そのまま用いた。



 最後まで読み上げたところで。

 彼女の目から、涙がすーっと流れ落ちた。

 ああ、そうか。
 何のことは無い。彼女は、話を完成させられなかったことを未練に想っていたわけではなかったのだ。

 彼女にとっての奇跡は、病気が治ることだけではなかった。

 彼女はただ、祖父の想いを知りたかった。祖父が自分のことをどう思っているのか。知りたいのは、たったそれだけのことだったのだ。
 
 その時、彼女の身体が光り始めた。僕は、残された時間がわずかであることを直感する。

「祖父から、言伝を預かってます」
「……え?」
「『遅くなって、ごめん』」

 その言葉を告げると、彼女は涙でぐちゃぐちゃな顔で、にこっと笑った。
 そして、彼女の身体が光に包まれて消える最中、微かに聞こえた。

「……ありがとう」

 そう、これは。

 作者に送る。

 五十年越しの、ラヴレター。

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