「その本、私が書いたって言ったら、信じますか?」
夏本番というにはまだ早い。気の早いせっかちなセミが鳴き始めた頃。
朝霧幸成は、川をまたがるように架かっている橋の下の日陰で涼みながら、空きコマの暇つぶしのために、家から適当に持ってきた本を読んでいた。
「サインください」
最後の話を読み終えたところで、不意に見知らぬ女性に声をかけられた咄嗟の返答にしては、まぁ及第点といったところではないだろうか。
「悪いけど、サインは書けないんですよ」
彼女はふふっと笑って、腕でバツを作って見せたあと、そのまま僕の隣に腰掛けた。
控えめに言って、綺麗な女性だと思った。顔立ちははっきりしていて、髪は肩より少し長め。捲った袖から見える腕は白く、どこか儚げであるように感じた。
「しかし、自分の書いた小説が読まれているのを見るのは、何だか感慨深いものがありますね」
「……え、冗談とかじゃなくて、本当なんですか? てっきり、新手のサークル勧誘か何かかと……」
「本当ですよ。その本、男女の恋愛が描かれた短編集になっているでしょう」
「じゃあ、最後の話は? どんな話だか分かりますか?」
「確か、余命ものでしたね」
彼女は、そんなのもちろんわかるよー、とでも言いたげな、したり顔で即答する。
「……いや。まだ、この本を読んだことがあるだけの読者という可能性も……」
「あはは。まぁ、信じても信じなくてもいいですけど」
そう言って、困ったように笑った後、彼女は立ち上がった。
「何だか嬉しくて声をかけてしまいました。邪魔して悪かったですね」
「え、あ、ちょっと待ってください」
歩いて去ろうとする彼女を、僕は慌てて呼び止めた。
彼女は、「なんですか?」と足を止めて振り返る。
さて、どうしよう。
勢い任せで彼女を呼び止めてしまったが、正直、それを言おうかどうか迷った。もしかしたら、失礼に当たるかもしれないから。
だが、この機会を逃せば、もう二度とそれを明らかにする術はないだろう。
「作者なら、この本について、どうしてこの言葉を選んだのかとか、どうしてこんな展開にしたのかとか、分かりますよね?」
僕は意を決して、彼女に問いかけた。
「もちろん、分かりますよ」
彼女は力強く頷く。
「一つだけ、納得できない箇所があるんです」
僕はそう言って、彼女に最後のページを見せた。
「さっき言っていた、最後の余命ものの話です。この話、結末が書かれていないっていうか、無理やり終わらせた感じですよね」
サーッ、と強い風が吹き、彼女の髪が揺れる。
空気が変わったことを、僕は直感した。
「僕には、この話が未完成であると感じました。余命宣告をされた女性。その子と過ごすうちに、自分の世界に閉じこもっていた男性が、心を開いていく。よくある話です。でも、この話では、その女の子が最終的にどうなったのか、それが書かれていない。そして、最後、白紙のページが何枚か差し込まれている」
彼女は微笑を浮かべながらも、真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「君は、どうしてだと思いますか?」
「え?」
「当てられたら、どうしてそうなったのか、作者自ら教えてあげますよ。どうします?」
僕は、一つの可能性を提示することにした。
「一つ思い当たったのは……個人的にはあまり好きではないのですが、展開を読者の想像に委ねるという手法でしょうか。そうなれば、彼女が救われて、二人が幸せになる可能性もゼロではなくなる」
彼女は、首を横に振って言った。
「残念。ちなみに、それは、私も好きじゃないです。他の解釈はありますか?」
「……すみません。今は思いつきません」
僕が正直にそういうと、彼女は特に残念がる素振りもみせず、続けて言った。
「じゃあ、何か思いついたら、またここに来てください。昼間は、大体いつもここで休んでいるから、いつでもどうぞ」
僕は、彼女と接点ができたことを内心嬉しく思ったが、それを悟られないように、頭を下げて表情を隠した。
「分かりました。ありがとうございます。ちなみに、お名前、何て言うのですか。本には作者名が書いてなくて」
彼女は微笑んで言った。
「ナツでいいですよ」
「本の作者ねぇ。ホント、出会いって、どこに転がってるかわからないよなぁ」
その日の講義が終わった後、僕は友人の辰の家で酒を飲みながら、彼女の話をした。
「それで、美人?」
「……まぁ、綺麗な方だとは思ったけど」
「いいねぇ、美人作家。ようやくお前にも春が来たって感じだな」
「うるさいな。そんなんじゃないって。大体、僕に彼女がいるの、知ってるだろ」
「別れりゃいいんだ、そんなもん。新たな出会いを前に、過去の人間関係に縛られている時間が勿体ない。まして、あんなじゃじゃ馬……」
「おい」
「冗談冗談。しかし、また会いに行くには、最後の話の新しい解釈を考えなきゃいけないわけだ」
「……正直、これといって新しい切り口って思いつかなくてさ」
僕はそう言って、彼に本を差し出す。彼は受け取った本をパラパラ捲りながら、続けて言った。
「初めて見る本だな。作者名は無し。出版社も聞いたことねぇ。家にあった本なんだろ? だったら、まずは買った親とかに聞いてみたらいいんじゃねーか?」
「そうだね」
「今度、俺にも紹介してくれよ」
「……えー」
「なんでだよ。お前は彼女と別れる気無いんだろ? じゃあ、フリーな俺がいってもいいじゃんか」
「フリーって言ったって……」
この男は、特定の彼女を作らず、とっかえひっかえしているだけなのだ。まぁ、チャラチャラしてるように見えて、頭も切れるし、顔も悪くない。ちなみにこんなナリで文学研究サークルに所属している。それだけ、人間的な魅力があるということなのだろうけれど。
「なんか、あの人は嫌だわ」
「何だそれ」
不思議と、彼女をこの男に紹介するのには、抵抗があった。初めて会った相手なのに。
「まぁいいや。とりあえず、進展あったら教えてくれや」
家に帰ると、いつも仕事で帰りが遅い父が、珍しくリビングで酒を飲んでいた。
「あれ、今日は早いんだね」
「持ち帰って仕事だよ。お前、あんまり遅くまで遊び歩いてるんじゃないぞ」
「仕事あるのに酒飲んでる人に言われても、説得力無いよ」
呆れた声で言う僕に、父は「ちょっとだよ、ちょっと」と言いながら、グラスに酒を注いでいる。
「あ、そういえば、父さん」
「ん?」
「この本、書斎から借りちゃってたんだけど。内容、覚えてる?」
父は怪訝な顔をして本を受け取り、パラパラとめくり始めた。
「どうだったかな。お前、読んだのか?」
「うん。それで、最後の話なんだけどさ、違和感を覚えなかった?」
「最後の話? ちょっと待ってくれ」
そう言うと、父はソファに腰掛けて、本を読み始めた。
今まで、学校の友人たちに話を聞くと、父親とはほとんど話をしないという子も少なくなかった。母親とは喧嘩ばかりしているという話を聞くこともある。
それでいくと、仕事が忙しいだろうに、こういった大したことない話でも、母さんや僕のことを優先してくれるうちの父には、素直に好感が持てる。
部屋に戻って寛いでいると、約一時間後、ドアをノックする音が聴こえた。「どうぞ」と僕が言うと、父が入ってきて言った。
「読んだよ。最初に読んだときにどう思ったかは定かじゃないが、言われてみれば確かに、違和感を覚える部分はあった。というか、端的に言ってしまえば、え、ここで終わりなのかと思ったよ」
「やっぱり、そうだよね!」
共感が得られたのが嬉しくて、つい大きな声を出してしまったのを後悔する。
父はそれを見て、多少面食らったようだったが、少し笑って続けた。
「幸成もそう思ったんだな」
「うん。それでさ、どうしてだと思う?」
「理由を聞いてるのか? それこそ、作者にしか分からないとは思うが……」
「父さんなりの解釈っていうか、予想でいいんだよ」
「論文でも書くのか? お前、文学部じゃないだろ?」
「……まぁ、そんな感じだよ。選択の授業でそんなのがあって、ちょっと、行き詰っててさ」
鋭い指摘に動揺し、曖昧な返答をしてしまったが、父はさして疑問には思わなかったようだった。
「そうか。ちなみに、お前はどう思ったんだ?」
「結末は読者に委ねますってやつかなーって。ほら、よくあるじゃない?」
父は、右手の親指と人差し指を顎に当て、考える素振りを見せる。
「この作者に限って、それは無いような気がするぞ」
「どうして?」
「それ以外の作品は、きちんと結末まで書かれているからさ。むしろ他の話の方が、余韻を残した方が、味が出ると感じたよ。やるならこの話ではなく、他の話でやる方が綺麗だと思うね」
「なるほど。ていうか、父さん、こういう本読むんだね」
僕がそう言うと、父は苦笑してから言った。
「まぁ、確かに最近は学術書ばかりになってしまっているきらいはあるが。でも、お前くらいの歳の頃は、よくこういう大衆小説を読んでいたよ」
「推理小説とかは読んでいそうなイメージだけど」
「そんなことないぞ。むしろ、青春恋愛小説の方が好きだった」
少し恥ずかしくなったのか、誤魔化すようにゴホンと咳ばらいをしてから、改まって、父は続けた。
「先ほども言ったが、余韻を持たせたことによって良くなるタイプの作品ではないように思える。となると、現実的な線が妥当なんじゃないかと考える」
「現実的な線?」
「ああ。書きたかったけど、書けなかったという視点だ。例えば、作者はハッピーエンドを書きたかったが、編集に止められたとか。さすがにここから奇跡的に回復したという展開は、読者の納得を得るのは難しいだろう。先ほどお前に最後の話と言われ、意識しながら読んだが、先入観無しで読めば、あれで形になっていると言えなくもない。編集的にオーケーが出たのだとすれば、作者的には不本意だろうが、作品として公表したという可能性もある」
「なるほどね」
「あんまり使えそうにない意見だがな。作品の内容には触れていないし、解釈の役には立たないだろう」
僕は父から本を受け取り、首を横に振って言った。
「いや、十分だよ。ありがとう。ちなみに、この本いつ買ったの?」
「いや……どうだったかな。それが、よく覚えていないんだよなぁ」
父はポリポリと頭をかきながら、解せないという面持ちで言い残し、部屋から出て行った。
翌日、再び河川敷を訪れると、石段に腰掛けてぼーっと川を眺めているナツの姿があった。
「次回作の構想でも、練ってるんですか?」
僕が声をかけると、彼女は振り返った。そして、こちらを見て笑顔で手を振った。
「そんなところです。ここは静かで、物思いに耽るには良い場所ですよね」
「そうですね。僕も、用事が無い時は、よくここに来て本を読んでいます。大学内にカフェとかあるんですけど、こっちの方が静かで過ごしやすいです。まぁ、もう少ししたら、暑くてゆったり本なんて読めないと思いますけどね」
そう言って、僕は彼女の隣に腰掛けた。
「それで、どうしてあの結末なのか、分かりました?」
「とりあえず、仮説をまた一つ持ってきましたけど……」
僕は、父の考察を、彼女に話した。
「うーん。面白い視点だとは思いますが、残念ながら違います」
「そうですか……」
僕はがっくりと肩を落とす。
「そ、そう落胆することは無いですよ。えーと、ほら、この講義は楽単じゃないんですから……」
「……」
「あ、あれ、面白くなかったですか?」
慌てる彼女の様子が可笑しくて、僕は笑った。
「いや、そんな冗談言うんだなって、ちょっと意外だっただけです」
「からかわないでください。ちなみに、これもあなたが思いついたのですか?」
「いえ、父に聞いてみたんです」
「へぇ、そうですか。お父さん、ね」
「? 父がどうかしましたか?」
少し声のトーンが下がったのを不思議に思い、僕は問いかける。
「……いえ、何でもないです」
その時、携帯電話が鳴った。
「げっ」
思わず上げたカエルの断末魔のような声に、彼女は心配そうに声をかけた。
「どうしました?」
「何でもないです。また何か思いついたら、ここに来ます。それじゃあ、今日はこれで……」
そう言って、僕はそそくさと移動しながら、メールの返信を打つ。
メールの相手は、彼女の玲奈だった。
「遅い!」
指定された場所に行くと、玲奈が仏頂面で座っていた。
「急に呼び出されたって困るよ。僕にだって用事があるんだからさ」
「じゃあ、辰からの情報は、正しいってわけ?」
「情報って?」
そう問うと、彼女は携帯の画面を僕に見せた。そこには、『幸成が文学少女にお熱♡』とメッセージが書かれてあった。
あの野郎……。
「そんなんじゃないって。ていうか、本気で疑ってるなら、もう少しやり方があるんじゃない? いきなり本人に突きつけるって……」
「本気で疑ってるわけじゃないから、スタバ奢らせるくらいで許してやろうと思ってるんじゃない。でも、その様子じゃ、少なくともその文学少女とやらが実在するのは確かなようね。どうしてくれようかしら……」
「文学少女っていうか……ほら」
僕はそう言って、カバンから例の本を出して彼女に差し出した。
「何これ」
「その女の人さ。この本の作者なんだよ」
そう言うと、彼女は呆れたような表情をして言った。
「……あんた、騙されてんじゃないの? お金渡したりしてないでしょうね?」
「してないよ!」
「ならいいけど。ちょっと見せてよ」
僕は、彼女に本を差し出した。
「まぁ、その人ともう二回会ってるのは事実だよ。別にやましいことなんて何もないけど。一つ、その人に教えてもらいたいことがあって」
「教えてもらいたいこと?」
「うん。その本の最後の話なんだけどね。無理やり終わらせた感があるっていうか、結末がきちんと書かれていないんだ。それで、どうしてこの終わりにしたのか聞いたら、当てられたら教えてあげるって言われてさ。現在二連敗中です」
「ふーん。まだ仮説はあるの?」
「いや、考えてはいるけど、正直思いつかない。別の視点が欲しいから、何なら協力してくれると嬉しいけど」
「いいよ。じゃあ、今読んでいい?」
「あ、うん。どうぞ」
彼女は、僕がそれを言う前に、既に本を開いて読み始めた。その様子に苦笑するも、予想していた僕は鞄から別の本を出して読み始める。
三十分くらい、そうしていただろうか。彼女が不意に本を閉じて、こちらに向き直った。
「読んだ?」
「ええ。感想を述べても良いかしら?」
「どうぞ」
「作者は、続きを書きたくなかったんだと思う。最後の話、モデルがいたのかってくらい、解像度が高いと感じた。綺麗に終わらせるなら、病気が治って男の子と結ばれて大団円って感じでしょうけど、もしこれがノンフィクションなら、そんなことにはならない。仮に本当にモデルがいたなら、たぶんその人は亡くなっている。バッドエンドを書きたくなかったんじゃないかしら。かといって、無理やりハッピーエンドにするのも嫌だったのよ。リアルで作ってきたものが、急に作り物になってしまえば、台無しでしょう?」
「なるほど……」
そう言うと、彼女は満足したように立ち上がり、会計を素通りして店の外へと出て行った。
僕はほっと一息ついて、まぁ、お願い聞いてもらったしな、と自分を納得させながら、会計に向かった。
病室の窓から夕日が差し込んで、電気のついていない薄暗い部屋を、オレンジ色に染めていた。窓にかかる白いレースは、外から入ってくる緩やかな風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていた。
「じいちゃん、来たよ」
「……おお、幸成か」
「具合はどう?」
「なに、大したことは無い」
そう言ったきり、祖父はぼんやりと、窓の外を眺めるだけだった。
「退屈じゃない? 何か、本とか持ってこようか?」
「……いや、大丈夫だ」
「……そう」
その日は、母方の祖父のお見舞いのため、僕は病院へ訪れていた。
少し前の検査で、腫瘍が見つかったのだ。幸い、転移前だったので、そこだけ取り除けば終わりだそうだ。
祖父は、よく散歩をする人だった。決まったコースがいくつかあって、その日の気分でコースを選ぶ。
僕も幼い頃、何度も祖父と一緒に歩いた。好奇心旺盛だった僕は、虫とか花とか、何かにつけて足を止め、じっと観察することが多かったらしい。そんな時、祖父は急かすことはせず、僕が気の済むまで待ってくれていたと、母から聞かされた。
昔から、口数の多い人ではなかったが、誰より優しく、僕はそんな祖父が大好きだった。
だが、中学生になったころから、部活動や勉強で忙しくなり、祖父と会う回数は減っていた。
そして、数年前に、脳の病気を患った。手術は成功したが、前にも増して口数は減り、外に出ることも少なくなってしまった。
最近では、ソファに座ってテレビをぼーっと見ていることが多い。
母は心配しているが、何をしてあげるのが本人のためなのか、分からない。
「幸成」
「何、じいちゃん」
突然名前を呼ばれ、僕はハッと我に返った。
「結婚とか、そういうことを考えてる相手はいるのか」
祖父がそういったことを聞いてきたことは、これまでに一度もなかった。
ひょっとして、自分の死を予感しているのではないだろうか。
「どうしたんだよ、いきなり……まぁ、一応、交際相手くらいはいるけど」
「そうか」
僕がそう言うと、祖父は少し安心したように笑って見せた。
考えてみれば、祖父とまともに話をしたのは、久しぶりのことだった。
病院からの帰り道、携帯電話が鳴った。画面を見ると、辰の文字が表示されている。
「いきなり電話かけてくるなんて珍しいね」
『ちょっと急ぎでな。例の本、ネットで調べたか?』
「うん。でも、何も出てこなかったよ」
『あれから、こっちも色々調べてさ。さすがに作者名も出版社もどっちもヒットしないなんてことは、通常ありえない。どこかに足跡が残るはずだと思ったんだけど、まさかのオチだったよ』
辰は興奮した声で、捲し立てる。
『まさに灯台下暗しだ。あの出版社名は会社じゃない。うちの文学研究サークルの初代の名前だ』
「どういうこと?」
『うちのサークルは、大学の創立当初からあるサークルなんだ。創立当初から代が変わる毎に好き勝手に名前を変えてるんだよ。ちなみに、大学の創立は五十年以上前のことになる』
その言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか。だって……」
彼女は、僕と同い年くらいに見えた。見かけによらないって言ったって、二十も三十も離れているとは思えない。
『十中八九、彼女は嘘をついている。そうでないのなら……』
辰は、そこで言葉を切った。
彼が何を言いあぐねているのか。それほど長い付き合いでなくとも、僕にはそれが理解できた。
しばらく沈黙が続いた後、仕切り直したように彼は言った。
『ともかく、そうなると、一つ疑問が出てくるよな』
「……市場流通していないはずの本が、どうして僕の家にあるのか」
『その通り。父親には話を聞いて、よく覚えてないってことだったんだろ? なら、母親に聞いてみたらどうだ。たぶん、そのナツって人と何かしらで繋がっている可能性が高い。そうなると、彼女がお前に話しかけたのも、偶然ではないということになる』
その日、空は一面、雲に覆われていた。景観はよくないが、暑さは比較的軽減されていて、過ごしやすい気候だった。
彼女は、いつもと同じ場所に腰掛けていた。
「ナツさん」
「ああ、君ですか。また何か、思いつきましたか?」
僕は彼女の問いに対し、頷く。
「ええ。ただその前に、一つ確認したいことがあります。確証はありませんが」
昨日、母は言った。
「ああ、懐かしいわね。昔、お父さんの家にあって、引っ越しの時に持ってきちゃったのよ。幸成の部屋にあったの?」
「いや、父さんの書斎の本棚にあった。それより、母さんのお父さんって……じいちゃん?」
「そうよ。何当たり前のこと言ってんの」
父や玲奈の意見。辰や母からの情報。そして、彼女の様子。
すべての線が重なる場所。
僕は、彼女の前に右手を差し出した。
「握手をしてもらえませんか?」
僕の言葉に、彼女は、一瞬、驚いた表情を見せた。だが、そのあとすぐ、諦めたように目を閉じて、言った。
「バレちゃったか」
彼女の右手は、僕の差し出した右手を貫通した。
「半信半疑だったんですけどね……」
「驚かないのですか」
「もちろん、驚いてますよ。ただ、非現実的すぎて、どう反応すればいいか分からないだけです」
「そうですよね……」
彼女は哀しそうな顔で、そう呟く。
「あの話に出てくる女性は、あなた自身。そして、あそこで終わってしまっているのは、続きを書かなかったのではなく、亡くなってしまって書けなかった。そうですね」
僕の言葉に、彼女は頷く。
「……そうです。あの話を書いてる途中で、私は息を引き取った。でも、未練として残ってしまったのでしょうね。成仏することもできず、この場所に縛られ続けている。あなたに声をかけたのも、偶然なんかじゃない。一つ、お願いがあったからなんです」
「やはり、あの話の男の人は……僕の祖父なんですね」
彼女は目を閉じて頷いた。
「でも、どうして、会ってすぐにそのことを言わなかったんですか。もし僕がそのことに気付かなかったら、どうするつもりだったんです?」
彼女は、すぐに返答せず、しばらく沈黙が続いた。
そして、空を見上げて言った。
「たぶん、自分から言うことはなかったと思います。幽霊の分際でやっていいことの範疇を超えている気もしますし。だから、もしあなたが気付いたら、その時に言おうと決めていました。それはもう運命じゃないですか」
「運命……ですか」
「……そうですね。やること為すこと、中途半端なんですよ、私」
「それで、お願いというのは?」
「はい。本の続きを、あの人に書いてほしいのです。あなたから、お願いしてくれませんか?」
僕は、力強く頷いて言った。
「分かりました。祖父にお願いしてみます。ただ、祖父は今体調がよくなくて病院にいます。お願いを聞いてくれるかはわかりませんが」
「構いません。もし断られたら、引きさがってくれて構いませんから」
「一応、名前をお伺いしても?」
「はい、蓬莱夏美と申します」
「ありがとうございます。でも、どうして幽霊であるあなたを、僕は視認できるんでしょうか」
「……理屈は分かりません。でも、その本のおかげであることは確かです。実際、以前他の本を読んでいるあなたに声をおかけしても、反応してくれませんでしたから」
病室に行くと、祖父は、相変わらずぼんやりした様子で空を見つめていた。僕が来たことに気づくと、「……おお」と少し驚いた表情を見せた。
「……幸成か。そう何度も来てくれなくても、大丈夫だぞ」
「じいちゃん。蓬莱夏美って人、知ってる?」
僕は、カバンから本を出して、祖父に差し出した。
祖父は、頭の中を整理するかのように、黙ったまま、僕が差し出した本を見つめていた。
「……ずいぶんと、懐かしい名前が出たな」
その口調は、どこか昔の祖父に戻ったような、優しい口調だった。
「この本の最終話に出てくる男の人は、じいちゃんなんだろ」
祖父は、肯定も否定もせず、本を受け取って言った。
「幸成は、この本を読んで、どう感じた?」
「未完成だと思った」
「その通りだ。それは、彼女が書いていて、結末を書く前に亡くなってしまった」
「話してくれる?」
祖父は、何か言いたげな表情を見せたが、やがて諦めたように一度口を閉じてから、語り始めた。
夏本番というにはまだ早い。気の早いせっかちなセミが鳴き始めた頃。
朝霧幸成は、川をまたがるように架かっている橋の下の日陰で涼みながら、空きコマの暇つぶしのために、家から適当に持ってきた本を読んでいた。
「サインください」
最後の話を読み終えたところで、不意に見知らぬ女性に声をかけられた咄嗟の返答にしては、まぁ及第点といったところではないだろうか。
「悪いけど、サインは書けないんですよ」
彼女はふふっと笑って、腕でバツを作って見せたあと、そのまま僕の隣に腰掛けた。
控えめに言って、綺麗な女性だと思った。顔立ちははっきりしていて、髪は肩より少し長め。捲った袖から見える腕は白く、どこか儚げであるように感じた。
「しかし、自分の書いた小説が読まれているのを見るのは、何だか感慨深いものがありますね」
「……え、冗談とかじゃなくて、本当なんですか? てっきり、新手のサークル勧誘か何かかと……」
「本当ですよ。その本、男女の恋愛が描かれた短編集になっているでしょう」
「じゃあ、最後の話は? どんな話だか分かりますか?」
「確か、余命ものでしたね」
彼女は、そんなのもちろんわかるよー、とでも言いたげな、したり顔で即答する。
「……いや。まだ、この本を読んだことがあるだけの読者という可能性も……」
「あはは。まぁ、信じても信じなくてもいいですけど」
そう言って、困ったように笑った後、彼女は立ち上がった。
「何だか嬉しくて声をかけてしまいました。邪魔して悪かったですね」
「え、あ、ちょっと待ってください」
歩いて去ろうとする彼女を、僕は慌てて呼び止めた。
彼女は、「なんですか?」と足を止めて振り返る。
さて、どうしよう。
勢い任せで彼女を呼び止めてしまったが、正直、それを言おうかどうか迷った。もしかしたら、失礼に当たるかもしれないから。
だが、この機会を逃せば、もう二度とそれを明らかにする術はないだろう。
「作者なら、この本について、どうしてこの言葉を選んだのかとか、どうしてこんな展開にしたのかとか、分かりますよね?」
僕は意を決して、彼女に問いかけた。
「もちろん、分かりますよ」
彼女は力強く頷く。
「一つだけ、納得できない箇所があるんです」
僕はそう言って、彼女に最後のページを見せた。
「さっき言っていた、最後の余命ものの話です。この話、結末が書かれていないっていうか、無理やり終わらせた感じですよね」
サーッ、と強い風が吹き、彼女の髪が揺れる。
空気が変わったことを、僕は直感した。
「僕には、この話が未完成であると感じました。余命宣告をされた女性。その子と過ごすうちに、自分の世界に閉じこもっていた男性が、心を開いていく。よくある話です。でも、この話では、その女の子が最終的にどうなったのか、それが書かれていない。そして、最後、白紙のページが何枚か差し込まれている」
彼女は微笑を浮かべながらも、真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「君は、どうしてだと思いますか?」
「え?」
「当てられたら、どうしてそうなったのか、作者自ら教えてあげますよ。どうします?」
僕は、一つの可能性を提示することにした。
「一つ思い当たったのは……個人的にはあまり好きではないのですが、展開を読者の想像に委ねるという手法でしょうか。そうなれば、彼女が救われて、二人が幸せになる可能性もゼロではなくなる」
彼女は、首を横に振って言った。
「残念。ちなみに、それは、私も好きじゃないです。他の解釈はありますか?」
「……すみません。今は思いつきません」
僕が正直にそういうと、彼女は特に残念がる素振りもみせず、続けて言った。
「じゃあ、何か思いついたら、またここに来てください。昼間は、大体いつもここで休んでいるから、いつでもどうぞ」
僕は、彼女と接点ができたことを内心嬉しく思ったが、それを悟られないように、頭を下げて表情を隠した。
「分かりました。ありがとうございます。ちなみに、お名前、何て言うのですか。本には作者名が書いてなくて」
彼女は微笑んで言った。
「ナツでいいですよ」
「本の作者ねぇ。ホント、出会いって、どこに転がってるかわからないよなぁ」
その日の講義が終わった後、僕は友人の辰の家で酒を飲みながら、彼女の話をした。
「それで、美人?」
「……まぁ、綺麗な方だとは思ったけど」
「いいねぇ、美人作家。ようやくお前にも春が来たって感じだな」
「うるさいな。そんなんじゃないって。大体、僕に彼女がいるの、知ってるだろ」
「別れりゃいいんだ、そんなもん。新たな出会いを前に、過去の人間関係に縛られている時間が勿体ない。まして、あんなじゃじゃ馬……」
「おい」
「冗談冗談。しかし、また会いに行くには、最後の話の新しい解釈を考えなきゃいけないわけだ」
「……正直、これといって新しい切り口って思いつかなくてさ」
僕はそう言って、彼に本を差し出す。彼は受け取った本をパラパラ捲りながら、続けて言った。
「初めて見る本だな。作者名は無し。出版社も聞いたことねぇ。家にあった本なんだろ? だったら、まずは買った親とかに聞いてみたらいいんじゃねーか?」
「そうだね」
「今度、俺にも紹介してくれよ」
「……えー」
「なんでだよ。お前は彼女と別れる気無いんだろ? じゃあ、フリーな俺がいってもいいじゃんか」
「フリーって言ったって……」
この男は、特定の彼女を作らず、とっかえひっかえしているだけなのだ。まぁ、チャラチャラしてるように見えて、頭も切れるし、顔も悪くない。ちなみにこんなナリで文学研究サークルに所属している。それだけ、人間的な魅力があるということなのだろうけれど。
「なんか、あの人は嫌だわ」
「何だそれ」
不思議と、彼女をこの男に紹介するのには、抵抗があった。初めて会った相手なのに。
「まぁいいや。とりあえず、進展あったら教えてくれや」
家に帰ると、いつも仕事で帰りが遅い父が、珍しくリビングで酒を飲んでいた。
「あれ、今日は早いんだね」
「持ち帰って仕事だよ。お前、あんまり遅くまで遊び歩いてるんじゃないぞ」
「仕事あるのに酒飲んでる人に言われても、説得力無いよ」
呆れた声で言う僕に、父は「ちょっとだよ、ちょっと」と言いながら、グラスに酒を注いでいる。
「あ、そういえば、父さん」
「ん?」
「この本、書斎から借りちゃってたんだけど。内容、覚えてる?」
父は怪訝な顔をして本を受け取り、パラパラとめくり始めた。
「どうだったかな。お前、読んだのか?」
「うん。それで、最後の話なんだけどさ、違和感を覚えなかった?」
「最後の話? ちょっと待ってくれ」
そう言うと、父はソファに腰掛けて、本を読み始めた。
今まで、学校の友人たちに話を聞くと、父親とはほとんど話をしないという子も少なくなかった。母親とは喧嘩ばかりしているという話を聞くこともある。
それでいくと、仕事が忙しいだろうに、こういった大したことない話でも、母さんや僕のことを優先してくれるうちの父には、素直に好感が持てる。
部屋に戻って寛いでいると、約一時間後、ドアをノックする音が聴こえた。「どうぞ」と僕が言うと、父が入ってきて言った。
「読んだよ。最初に読んだときにどう思ったかは定かじゃないが、言われてみれば確かに、違和感を覚える部分はあった。というか、端的に言ってしまえば、え、ここで終わりなのかと思ったよ」
「やっぱり、そうだよね!」
共感が得られたのが嬉しくて、つい大きな声を出してしまったのを後悔する。
父はそれを見て、多少面食らったようだったが、少し笑って続けた。
「幸成もそう思ったんだな」
「うん。それでさ、どうしてだと思う?」
「理由を聞いてるのか? それこそ、作者にしか分からないとは思うが……」
「父さんなりの解釈っていうか、予想でいいんだよ」
「論文でも書くのか? お前、文学部じゃないだろ?」
「……まぁ、そんな感じだよ。選択の授業でそんなのがあって、ちょっと、行き詰っててさ」
鋭い指摘に動揺し、曖昧な返答をしてしまったが、父はさして疑問には思わなかったようだった。
「そうか。ちなみに、お前はどう思ったんだ?」
「結末は読者に委ねますってやつかなーって。ほら、よくあるじゃない?」
父は、右手の親指と人差し指を顎に当て、考える素振りを見せる。
「この作者に限って、それは無いような気がするぞ」
「どうして?」
「それ以外の作品は、きちんと結末まで書かれているからさ。むしろ他の話の方が、余韻を残した方が、味が出ると感じたよ。やるならこの話ではなく、他の話でやる方が綺麗だと思うね」
「なるほど。ていうか、父さん、こういう本読むんだね」
僕がそう言うと、父は苦笑してから言った。
「まぁ、確かに最近は学術書ばかりになってしまっているきらいはあるが。でも、お前くらいの歳の頃は、よくこういう大衆小説を読んでいたよ」
「推理小説とかは読んでいそうなイメージだけど」
「そんなことないぞ。むしろ、青春恋愛小説の方が好きだった」
少し恥ずかしくなったのか、誤魔化すようにゴホンと咳ばらいをしてから、改まって、父は続けた。
「先ほども言ったが、余韻を持たせたことによって良くなるタイプの作品ではないように思える。となると、現実的な線が妥当なんじゃないかと考える」
「現実的な線?」
「ああ。書きたかったけど、書けなかったという視点だ。例えば、作者はハッピーエンドを書きたかったが、編集に止められたとか。さすがにここから奇跡的に回復したという展開は、読者の納得を得るのは難しいだろう。先ほどお前に最後の話と言われ、意識しながら読んだが、先入観無しで読めば、あれで形になっていると言えなくもない。編集的にオーケーが出たのだとすれば、作者的には不本意だろうが、作品として公表したという可能性もある」
「なるほどね」
「あんまり使えそうにない意見だがな。作品の内容には触れていないし、解釈の役には立たないだろう」
僕は父から本を受け取り、首を横に振って言った。
「いや、十分だよ。ありがとう。ちなみに、この本いつ買ったの?」
「いや……どうだったかな。それが、よく覚えていないんだよなぁ」
父はポリポリと頭をかきながら、解せないという面持ちで言い残し、部屋から出て行った。
翌日、再び河川敷を訪れると、石段に腰掛けてぼーっと川を眺めているナツの姿があった。
「次回作の構想でも、練ってるんですか?」
僕が声をかけると、彼女は振り返った。そして、こちらを見て笑顔で手を振った。
「そんなところです。ここは静かで、物思いに耽るには良い場所ですよね」
「そうですね。僕も、用事が無い時は、よくここに来て本を読んでいます。大学内にカフェとかあるんですけど、こっちの方が静かで過ごしやすいです。まぁ、もう少ししたら、暑くてゆったり本なんて読めないと思いますけどね」
そう言って、僕は彼女の隣に腰掛けた。
「それで、どうしてあの結末なのか、分かりました?」
「とりあえず、仮説をまた一つ持ってきましたけど……」
僕は、父の考察を、彼女に話した。
「うーん。面白い視点だとは思いますが、残念ながら違います」
「そうですか……」
僕はがっくりと肩を落とす。
「そ、そう落胆することは無いですよ。えーと、ほら、この講義は楽単じゃないんですから……」
「……」
「あ、あれ、面白くなかったですか?」
慌てる彼女の様子が可笑しくて、僕は笑った。
「いや、そんな冗談言うんだなって、ちょっと意外だっただけです」
「からかわないでください。ちなみに、これもあなたが思いついたのですか?」
「いえ、父に聞いてみたんです」
「へぇ、そうですか。お父さん、ね」
「? 父がどうかしましたか?」
少し声のトーンが下がったのを不思議に思い、僕は問いかける。
「……いえ、何でもないです」
その時、携帯電話が鳴った。
「げっ」
思わず上げたカエルの断末魔のような声に、彼女は心配そうに声をかけた。
「どうしました?」
「何でもないです。また何か思いついたら、ここに来ます。それじゃあ、今日はこれで……」
そう言って、僕はそそくさと移動しながら、メールの返信を打つ。
メールの相手は、彼女の玲奈だった。
「遅い!」
指定された場所に行くと、玲奈が仏頂面で座っていた。
「急に呼び出されたって困るよ。僕にだって用事があるんだからさ」
「じゃあ、辰からの情報は、正しいってわけ?」
「情報って?」
そう問うと、彼女は携帯の画面を僕に見せた。そこには、『幸成が文学少女にお熱♡』とメッセージが書かれてあった。
あの野郎……。
「そんなんじゃないって。ていうか、本気で疑ってるなら、もう少しやり方があるんじゃない? いきなり本人に突きつけるって……」
「本気で疑ってるわけじゃないから、スタバ奢らせるくらいで許してやろうと思ってるんじゃない。でも、その様子じゃ、少なくともその文学少女とやらが実在するのは確かなようね。どうしてくれようかしら……」
「文学少女っていうか……ほら」
僕はそう言って、カバンから例の本を出して彼女に差し出した。
「何これ」
「その女の人さ。この本の作者なんだよ」
そう言うと、彼女は呆れたような表情をして言った。
「……あんた、騙されてんじゃないの? お金渡したりしてないでしょうね?」
「してないよ!」
「ならいいけど。ちょっと見せてよ」
僕は、彼女に本を差し出した。
「まぁ、その人ともう二回会ってるのは事実だよ。別にやましいことなんて何もないけど。一つ、その人に教えてもらいたいことがあって」
「教えてもらいたいこと?」
「うん。その本の最後の話なんだけどね。無理やり終わらせた感があるっていうか、結末がきちんと書かれていないんだ。それで、どうしてこの終わりにしたのか聞いたら、当てられたら教えてあげるって言われてさ。現在二連敗中です」
「ふーん。まだ仮説はあるの?」
「いや、考えてはいるけど、正直思いつかない。別の視点が欲しいから、何なら協力してくれると嬉しいけど」
「いいよ。じゃあ、今読んでいい?」
「あ、うん。どうぞ」
彼女は、僕がそれを言う前に、既に本を開いて読み始めた。その様子に苦笑するも、予想していた僕は鞄から別の本を出して読み始める。
三十分くらい、そうしていただろうか。彼女が不意に本を閉じて、こちらに向き直った。
「読んだ?」
「ええ。感想を述べても良いかしら?」
「どうぞ」
「作者は、続きを書きたくなかったんだと思う。最後の話、モデルがいたのかってくらい、解像度が高いと感じた。綺麗に終わらせるなら、病気が治って男の子と結ばれて大団円って感じでしょうけど、もしこれがノンフィクションなら、そんなことにはならない。仮に本当にモデルがいたなら、たぶんその人は亡くなっている。バッドエンドを書きたくなかったんじゃないかしら。かといって、無理やりハッピーエンドにするのも嫌だったのよ。リアルで作ってきたものが、急に作り物になってしまえば、台無しでしょう?」
「なるほど……」
そう言うと、彼女は満足したように立ち上がり、会計を素通りして店の外へと出て行った。
僕はほっと一息ついて、まぁ、お願い聞いてもらったしな、と自分を納得させながら、会計に向かった。
病室の窓から夕日が差し込んで、電気のついていない薄暗い部屋を、オレンジ色に染めていた。窓にかかる白いレースは、外から入ってくる緩やかな風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていた。
「じいちゃん、来たよ」
「……おお、幸成か」
「具合はどう?」
「なに、大したことは無い」
そう言ったきり、祖父はぼんやりと、窓の外を眺めるだけだった。
「退屈じゃない? 何か、本とか持ってこようか?」
「……いや、大丈夫だ」
「……そう」
その日は、母方の祖父のお見舞いのため、僕は病院へ訪れていた。
少し前の検査で、腫瘍が見つかったのだ。幸い、転移前だったので、そこだけ取り除けば終わりだそうだ。
祖父は、よく散歩をする人だった。決まったコースがいくつかあって、その日の気分でコースを選ぶ。
僕も幼い頃、何度も祖父と一緒に歩いた。好奇心旺盛だった僕は、虫とか花とか、何かにつけて足を止め、じっと観察することが多かったらしい。そんな時、祖父は急かすことはせず、僕が気の済むまで待ってくれていたと、母から聞かされた。
昔から、口数の多い人ではなかったが、誰より優しく、僕はそんな祖父が大好きだった。
だが、中学生になったころから、部活動や勉強で忙しくなり、祖父と会う回数は減っていた。
そして、数年前に、脳の病気を患った。手術は成功したが、前にも増して口数は減り、外に出ることも少なくなってしまった。
最近では、ソファに座ってテレビをぼーっと見ていることが多い。
母は心配しているが、何をしてあげるのが本人のためなのか、分からない。
「幸成」
「何、じいちゃん」
突然名前を呼ばれ、僕はハッと我に返った。
「結婚とか、そういうことを考えてる相手はいるのか」
祖父がそういったことを聞いてきたことは、これまでに一度もなかった。
ひょっとして、自分の死を予感しているのではないだろうか。
「どうしたんだよ、いきなり……まぁ、一応、交際相手くらいはいるけど」
「そうか」
僕がそう言うと、祖父は少し安心したように笑って見せた。
考えてみれば、祖父とまともに話をしたのは、久しぶりのことだった。
病院からの帰り道、携帯電話が鳴った。画面を見ると、辰の文字が表示されている。
「いきなり電話かけてくるなんて珍しいね」
『ちょっと急ぎでな。例の本、ネットで調べたか?』
「うん。でも、何も出てこなかったよ」
『あれから、こっちも色々調べてさ。さすがに作者名も出版社もどっちもヒットしないなんてことは、通常ありえない。どこかに足跡が残るはずだと思ったんだけど、まさかのオチだったよ』
辰は興奮した声で、捲し立てる。
『まさに灯台下暗しだ。あの出版社名は会社じゃない。うちの文学研究サークルの初代の名前だ』
「どういうこと?」
『うちのサークルは、大学の創立当初からあるサークルなんだ。創立当初から代が変わる毎に好き勝手に名前を変えてるんだよ。ちなみに、大学の創立は五十年以上前のことになる』
その言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「そんな……そんな馬鹿なことがあるか。だって……」
彼女は、僕と同い年くらいに見えた。見かけによらないって言ったって、二十も三十も離れているとは思えない。
『十中八九、彼女は嘘をついている。そうでないのなら……』
辰は、そこで言葉を切った。
彼が何を言いあぐねているのか。それほど長い付き合いでなくとも、僕にはそれが理解できた。
しばらく沈黙が続いた後、仕切り直したように彼は言った。
『ともかく、そうなると、一つ疑問が出てくるよな』
「……市場流通していないはずの本が、どうして僕の家にあるのか」
『その通り。父親には話を聞いて、よく覚えてないってことだったんだろ? なら、母親に聞いてみたらどうだ。たぶん、そのナツって人と何かしらで繋がっている可能性が高い。そうなると、彼女がお前に話しかけたのも、偶然ではないということになる』
その日、空は一面、雲に覆われていた。景観はよくないが、暑さは比較的軽減されていて、過ごしやすい気候だった。
彼女は、いつもと同じ場所に腰掛けていた。
「ナツさん」
「ああ、君ですか。また何か、思いつきましたか?」
僕は彼女の問いに対し、頷く。
「ええ。ただその前に、一つ確認したいことがあります。確証はありませんが」
昨日、母は言った。
「ああ、懐かしいわね。昔、お父さんの家にあって、引っ越しの時に持ってきちゃったのよ。幸成の部屋にあったの?」
「いや、父さんの書斎の本棚にあった。それより、母さんのお父さんって……じいちゃん?」
「そうよ。何当たり前のこと言ってんの」
父や玲奈の意見。辰や母からの情報。そして、彼女の様子。
すべての線が重なる場所。
僕は、彼女の前に右手を差し出した。
「握手をしてもらえませんか?」
僕の言葉に、彼女は、一瞬、驚いた表情を見せた。だが、そのあとすぐ、諦めたように目を閉じて、言った。
「バレちゃったか」
彼女の右手は、僕の差し出した右手を貫通した。
「半信半疑だったんですけどね……」
「驚かないのですか」
「もちろん、驚いてますよ。ただ、非現実的すぎて、どう反応すればいいか分からないだけです」
「そうですよね……」
彼女は哀しそうな顔で、そう呟く。
「あの話に出てくる女性は、あなた自身。そして、あそこで終わってしまっているのは、続きを書かなかったのではなく、亡くなってしまって書けなかった。そうですね」
僕の言葉に、彼女は頷く。
「……そうです。あの話を書いてる途中で、私は息を引き取った。でも、未練として残ってしまったのでしょうね。成仏することもできず、この場所に縛られ続けている。あなたに声をかけたのも、偶然なんかじゃない。一つ、お願いがあったからなんです」
「やはり、あの話の男の人は……僕の祖父なんですね」
彼女は目を閉じて頷いた。
「でも、どうして、会ってすぐにそのことを言わなかったんですか。もし僕がそのことに気付かなかったら、どうするつもりだったんです?」
彼女は、すぐに返答せず、しばらく沈黙が続いた。
そして、空を見上げて言った。
「たぶん、自分から言うことはなかったと思います。幽霊の分際でやっていいことの範疇を超えている気もしますし。だから、もしあなたが気付いたら、その時に言おうと決めていました。それはもう運命じゃないですか」
「運命……ですか」
「……そうですね。やること為すこと、中途半端なんですよ、私」
「それで、お願いというのは?」
「はい。本の続きを、あの人に書いてほしいのです。あなたから、お願いしてくれませんか?」
僕は、力強く頷いて言った。
「分かりました。祖父にお願いしてみます。ただ、祖父は今体調がよくなくて病院にいます。お願いを聞いてくれるかはわかりませんが」
「構いません。もし断られたら、引きさがってくれて構いませんから」
「一応、名前をお伺いしても?」
「はい、蓬莱夏美と申します」
「ありがとうございます。でも、どうして幽霊であるあなたを、僕は視認できるんでしょうか」
「……理屈は分かりません。でも、その本のおかげであることは確かです。実際、以前他の本を読んでいるあなたに声をおかけしても、反応してくれませんでしたから」
病室に行くと、祖父は、相変わらずぼんやりした様子で空を見つめていた。僕が来たことに気づくと、「……おお」と少し驚いた表情を見せた。
「……幸成か。そう何度も来てくれなくても、大丈夫だぞ」
「じいちゃん。蓬莱夏美って人、知ってる?」
僕は、カバンから本を出して、祖父に差し出した。
祖父は、頭の中を整理するかのように、黙ったまま、僕が差し出した本を見つめていた。
「……ずいぶんと、懐かしい名前が出たな」
その口調は、どこか昔の祖父に戻ったような、優しい口調だった。
「この本の最終話に出てくる男の人は、じいちゃんなんだろ」
祖父は、肯定も否定もせず、本を受け取って言った。
「幸成は、この本を読んで、どう感じた?」
「未完成だと思った」
「その通りだ。それは、彼女が書いていて、結末を書く前に亡くなってしまった」
「話してくれる?」
祖父は、何か言いたげな表情を見せたが、やがて諦めたように一度口を閉じてから、語り始めた。