「利き手同士で手を繋ぐとその2人の男女は永遠に結ばれるの」
静かに流れる川の音とほどよく冷えた風そして永久橋の下にできた灰色の影が僕の座っている川のほとりを真夏から秋へと魔法のように変えてくれた。
僕はこの場所が好きで、よくここで物語の世界に浸っている。
僕の大好きな作家さんである由紀夫さんの新作を買った僕はその幸せな空間でただひたすらにページを結末へと向かわせていた。
そして小説の半分ほど読み終わって僕は喉の渇きを感じた。涼しいとはいえ、僕の体は確かに水を求めていた。
僕はお財布が入っているはずの鞄を持って近くにある自動販売機へと向かった。魔法のかかっていない日なたに足を踏み入れると皮膚がひりっとするのを感じた。暑すぎる……。自動販売機までたった数十メートルしか離れていないというのに。そして不運なことに自動販売機には人が10人くらい並んでいた。こんなに喉が渇いている時に限ってそうなのだ。全くついてない。
待っている間も目立ちたがりやの太陽の光が頭上から容赦なく降り注いでいた。
いよいよ順番が回ってきたその時、僕は絶望した。お財布が見つからない。鞄の隅から隅まで探してもそれは見つからなかった。
後ろを振り返ると次に待っていた人が何やってるの、と言っているかのような目つきで僕のことを見つめていた。
すいません、と軽く会釈して僕は仕方なくその場を去った。待っていた時間が長すぎたのか、僕の頭はぼんやりとしていた。これがいわゆる熱中症の初期症状ってやつなのかもしれない。何とか橋の下に着いたものの、これから帰るにしても途中で倒れてしまう危険性を感じた。ひとまずここで涼んでから帰ることにしよう。
そう思い、僕は再び小説の続きを読み始めた。だけど、意識が混濁しているせいで小説をまともに読むことができない。
「何読んでるの?」
聞き覚えのある甘い声とバニラの香りが背後からした。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。少しメイクされた顔に、色素の薄いミディアムヘアの髪に青みがかった瞳、服装は白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっていて、タンポポ色のスラックスを履いていた。
その声の主は、同じクラスの水島夏芽だった。彼女はクラスのムードメーカー的な存在で、僕みたいな平凡な男子高校生にとっては無縁になるはずのところに位置していた。
だけど今、そんな彼女が僕に話しかけている。そんなあり得ない状況に戸惑っていると……。
彼女はゆっくりと近づき、僕の右隣に座った。そして右腕で頬杖をついて僕の顔をじっと見つめてきた。
「顔赤いけど大丈夫、じゃないよね」
そう言うと彼女はショルダーバッグの中を漁り始めた末、1本のペットボトルを取り出した。
「この水あげるよ」
「えっ、でも悪いよ」
「そんな遠慮しないで。それに」
すると彼女は鞄の中からもう1本のペットボトルを取り出した。
「私の分もあるから本当に遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。今度ちゃんと代金返すから」
僕は彼女からもらった天然水を喉に直接流した。よく冷えた水は僕の体の隅々まで行き渡った。混濁していた意識がはっきりしてきた。
「そんな100円やそこら気にしなくてもいいのに」
「ううん、絶対に返す。だって、もしこの水がなかったら今頃熱中症で倒れて死んじゃってたかもしれないし……」
「そんな大袈裟なぁ。少なくとも今だったら水を飲んでなくても倒れてなかったと思うよ」
「それでも、本当に危ない状態だったんだ。だからちゃんと返すよ」
すると彼女はくすり笑いをしていた。
「僕、何かおかしいこと言った?」
「いや~、川端くんって意外と頑固なところがあるんだなって」
「それ悪口?」
「ううん、学校で見かけない一面だなと思っただけ。私の中で川端くんは教室で本を読む大人しい男子高生っていうイメージだったから」
「じゃあ、今そのイメージが崩れたってことだよね。それって水島さんにとってダメなことなの?」
「むしろその逆だよ。だって知らないことを知れたんだもん。それに、頑固はいい言い方もあるでしょ。意思が強いとか、芯を持ってるとか」
僕は彼女からもらった水を左隣に置いた。
「よかった、顔の赤みも随分とれたね」
「おかげ様で。本当にありがとう」
そう言うと彼女は視線を自分のペットボトルに移し、それを両手で握りしめていた。彼女の人差し指同士が絡みついて、まるで緊張しているような仕草を見せた。人気者の彼女にも人とのコミュニケーションで緊張するんだなと思っていると……。
「このお盆休みの4日間限定で、私の恋人になってくれる?」
「えっ?」
彼女は今何と言ったのか。彼女が僕を別の誰かと間違えているのか、それとも僕の頭は暑さにやられ過ぎて正常な働きをしていないのか。いずれにしてもこれは異常な事態だ。
「友だちがね、お盆休み家族と一緒に実家に帰省しちゃうからお盆は一人になっちゃうんだよね。だからその4日間を川端くんと一緒に過ごしたいなぁと思って」
違った。これは完全に彼女の頭がやられてしまっている。いや、もしかしたら遊びで告白しているのかもしれない。僕は当然のように用意された一つの選択肢を彼女にぶつけることにした。たとえ、水の恩があったとしても。
「ごめん」
「えっ」
「そういうのよくないよ。そもそもこうやって話すの今日が初めてなんだよ、僕たち。だいたい友だちでもないのに、いきなり恋人なんて」
「じゃあ、友だちならいいの?」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
言いかけた言葉を喉の奥にしまい込んだ。彼女が真剣な眼差しで僕を見つめていたからだ。彼女は眉を八の字にさせながらも微笑んでいた。
「ごめん、そうだよね。おかしなこと言ってごめん」
川の流れる音だけがこの空間を支配していた。しばらく長い沈黙が流れたが、彼女のじゃあね、という声がそれを破った。
去り行く彼女の背中に「お金はちゃんと返すから」と僕は伝えた。
すると彼女は振り返って「じゃあ、明日10時にここ集合でいいかな?」と言った。
僕が首を縦に振ると、彼女は向き直って帰路へついた。彼女の足音は静かに流れる川の音では消しきれずほんの少しの間、僕の耳の奥でこだました。
自室中にタップ音が響く。僕は毎日のように由紀夫さんと小説投稿サイト上のメールでやり取りをしていた。本の感想とか最近だと、日常生活の些細なこととか困ったこととか。
今日はもちろん困ったこと。熱中症になりかけたこと、そして水島さんのこと。あれは本当に異常事態だったからなぁ。もちろん名前は伏せてあるけど。
知らない人とやり取りをするのは危険なことかもしれないけど、今まで由紀夫さんと文字で通じていく中で悪意を感じたことはなかった。まぁ、ただ単純に僕がそういうのに疎いだけなのかもしれないけど。
僕が由紀夫さんの小説に出会ったのは春分の日のことだった。そしてその日は僕の10歳の誕生日でもあった。
誕生日プレゼントでスマホをもらい、小説サイトで偶然にもその日に新着作品として届いた由紀夫さんの作品を読んだ。
もともと本の虫だった僕はスマホでも本が読めるんだと、その当時興奮していた気がする。
その小説のタイトルは『透明な恋』。その本を読んだ瞬間に僕はこの作者の大ファンとなった。
シンデレラを題材にした作品で、ストーリーも情景描写の表現法も僕好みだった。
それに、どこか親しみが持てる不思議な読後感だったのを覚えている。読み終わって早速感想を書いたのだが、僕はその作品の感想を書いた最初の読者だったらしく、感謝の意が強く込められた由紀夫さんからの返信が届いた。
それが由紀夫さんとメールで繋がる大きなきっかけだった。
それから僕は由紀夫さんの過去作をひたすらに読み漁った。更新日が20年以上前となっている作品を見つけた時は、年上なんだと悟り、メールの文面にも気をつけるようになった。
ふと窓に目をやると、沈みかけた太陽は全てを焼き尽くすようにオレンジ色の光を僕の部屋へと放っていた。まるで頭上からオレンジジュースをかけられているようだった。
彼女がくれた水のおかげで僕は無事に我が家へ帰ることができていた。彼女には感謝しかない。さっきの謎の告白を除いて。スマホの画面を閉じると、僕は深いため息をついた。
彼女と会うのは正直気まずい。もともと仲がよかったら告白されたのも嬉しいかもしれないが、平凡な高校生の僕には彼女が遊び半分で告白しているようにしか思えなかった。だけど彼女は水を買ってくれた。熱中症で倒れそうになっていた僕に。
だからちゃんと返さないと。お金は倍にして、改めてお礼を言おう。それで終わりだ。気まずく思うことなんて何一つない。
今の僕の決心を見届けたように太陽の光は夜の訪れとともに消えていった。
翌日、天気予報で猛暑日になるというアナウンスに自然と足が竦んだ。やっぱり行きたくない。もしかしたら暑すぎて彼女もあそこに来ていないかもしれない。だけど僕には水代を返すという責任があるから行かなければならない。
ピコン、と電子音が鳴った。バーには『由紀夫』と表示されていた。そういえば昨日返事が来てなかったな。
『昨日は返信できなくてごめん。熱中症大変だったね。だけどびっくりした。真面目な康成さんがお財布忘れるんだね。あと康成さんにいきなり告白してきた女の子、面白い人だね。告白受けてみればいいのに。やっぱり康成さんの恋バナはまだ聞けなさそうだね。残念〜』
今日の由紀夫さん元気だなぁ。かなりからかってる。だけどちゃんと僕の心配もしてくれている。もう五年以上、メール交換を続けているから僕が年下なのもきっとどこかの文面でバレているんだと思う。由紀夫さんの文面は優しい。メールも小説もその文を読んだだけでいつの間にか温かい気持ちになっている。だからきっと僕は由紀夫さんのファンになったんだ。
由紀夫さんのメールを読んでいたら、新作の小説も読みたくなってきた。やっぱりあの場所へ行って彼女との約束を守ろう、そして由紀夫さんの新作の続きを読もうと思い立った。
家を出ようと靴を履いていると、突然騒がしい声が僕のすぐ背後で聞こえてきた。
「お兄ちゃん、大変だよ大変! 今アイスクリーム作ってるんだけどバニラビーンズがないの。だからお願い、買ってきて」
そう声を荒げていたのは妹の香麦だった。
「でもお兄ちゃん、待たせている人いるから早く行かないといけないんだよね」
「そっかぁ……」
小麦は心底ショックそうなため息を一つした。妹の落ち込んだ姿に僕は弱い。それにもし僕が断れば、小麦は1人でバニラビーンズを買いに行くだろう。だけど今日は昨日より一段階気温が高い。そんな炎天下の中を歩かせるわけにはいかない。だから仕方ない……。
「やっぱり、お兄ちゃんが行くよ。欲しいのはバニラビーンズだけ?」
その瞬間小麦は夏に咲くひまわりのように笑顔を輝かせた。
急いで行けばきっと間に合う。それに彼女はかなり時間にルーズなほうだ。学校で週に数回は遅刻してくるのを僕は知っている。まぁ、多少遅れても大丈夫だろう。
「でもお兄ちゃん用事あるんでしょ?」
少し眉を下げて心配そうに尋ねる香麦の頭をポンポンと撫でて、「大丈夫、すぐ終わらせるから。その代わり美味しいアイス作ってね」
「もちろん! 楽しみにしててね」
いってきます、と玄関の扉を開けながら言うと、「いってらっしゃ~い」と香麦の可愛らしい高い声が後ろから聞こえてきた。
どうしよう。もう待ち合わせの時間を30分も過ぎている。今日は何かの安売りセールなのか、お店には多くの人がいて、レジの前も当然のようにたくさんのお客さんが並んでいた。今は香麦に無事バニラビーンズを届けて彼女との約束の場所へと向かっていた。
どうかいつものように遅れていてほしい。そう願いながら僕はひたすらにペダルを漕いだ。
ペダルを漕ぐたびに熱風が僕の顔を襲ってきた。でも行かないと。彼女に水代を返さないと。そんな願いと責任感だけが今の僕の原動力だった。そして僕はようやく見覚えのある赤いボックスを見つけた。
自動販売機だ。炎天下の中買われることを静かに待っている飲み物たちに近づき、昨日彼女からもらった水を購入すると、待ってましたとばかりに天然水はガタン、と下へ落ちてきた。自転車へと戻りながら僕はその冷たい水を口にした。よく冷えた水は昨日ほどではないが、熱風によって負ったダメージを回復させてくれた。
やがてあの場所が見えてきた。だが、様子がおかしかった。30~40代くらいの女性たちがあの場所でたむろしていたのだ。一瞬彼女の姿が見えなかった。やっぱり遅れてきたのかと思いかけたその時、橋の脇に誰かが立っているのが見えた。近づいた時僕は言葉を失った。
そこには水島さんがいた。しかもかなり前からここにいたのか、彼女は顔を真っ赤にさせ、大量の汗が額から頬を伝い涙のように零れ落ちていた。それに彼女の体が揺らいでいるような……。
「川端くん」
彼女は虚ろな目で僕を見つめていた。これはとんでもなくまずい状況なのでは、と僕は咄嗟に悟った。
「いつから待ってたの?」
どうか今来たばっかりだと言ってほしかった。でも彼女の様子を見ればそうではないことは容易に理解できてしまう。
「5分前」
一瞬ほっとしてしまった僕を後の僕はきっと呪うだろう。
「待ち合わせの5分前だから9時55分からここで待ってたよ……っはぁはぁ」
まずいどころの状況じゃない。今の彼女はきっと昨日の僕よりも重篤な熱中症に侵されている。僕が待たせてしまったから、僕のせいで……。
「ごめん……。僕が遅れたから」
だけど彼女は僕のことを咎めなかった。それどころか彼女は昨日のような笑みを僕に向けた。
「あり……がとう、来てくれて……。正直来ないと思ってた……から。昨日あんなこと言っちゃったから……」
最後の言葉を言い終えるのと同時に、彼女は遂にバランスを崩して倒れてしまいそうになった。
僕は咄嗟に彼女に駆け寄って肩と背中を支え、お姫様抱っこをしていた。
「水島さん……水島さん」
はぁはぁ、と彼女は荒い呼吸を繰り返していた。水代も小説を読むこともこの際どうでもいい。こうなったら手段は1つしかない。僕は彼女を家へ連れて行くことを決意した。
僕は彼女をお姫様抱っこしながら自転車へと向かった。
家に着くと、後ろに乗せた彼女をおんぶしながら玄関の扉を開けた。
「おかえり、随分と早かったね」
階段の方から香麦の声が聞こえた。
そしてこちらに来ると、香麦は驚いた顔をしていた。そのはずだろう。女の子の名前なんか1度も出したことがないお兄ちゃんが女子高生をおんぶしているのだから。
「香麦、この人多分熱中症になってるから、氷枕と冷えシート持ってきて。お父さんの部屋で寝かせるから」
そう言うと香麦はさらに驚いた顔をしながら僕の指示に従ってくれた。
僕はお父さんの部屋まで彼女を連れていき、クーラーを稼働させて彼女を布団の上に寝かせた。
お父さんは仕事の都合で海外にいる。もう何年も会ってない。だけどずっと帰って来ないお父さんに苛立ちを感じたことはなかった。むしろ自分の夢を追い求める姿に尊敬すら感じることもある。だけど同時に不安もある。僕たちのことを忘れてしまっているのではないかと。
昔お父さんが寝ていたベッドには頬を赤くしてぐったりと寝ている彼女がいた。
「川端くん?」
一通り処置を終えた今、彼女は意識を取り戻した。視線を彼女に移すと半開きの瞳が弱々しくも真っ直ぐに僕を捉えていた。
「私、あの橋の下で川端くんを待ってて……それで川端くんが来た気が……。どうしよう、その後のこと何も覚えてない」
「そんなの当たり前だよ。僕が来た途端に倒れたんだから」
僕の言葉に半開きだった彼女の瞳は月が満ちたかのように丸くなっていた。
そして今まで倒れていたのに彼女は笑顔で僕を見つめていた。
「ごめんね、迷惑かけて」
初めて聞いた彼女の弱々しい声に僕は動揺してしまった。その声はあまりにも彼女に似合わない響きだった。そしてその言葉は今の彼女が言うべきものではない。
「違う。水島さんは何も迷惑なんてかけてないよ。僕が時間通りに来なかったから……約束を守らなかったから……」
しばらく気まずい沈黙が続いた。だけどその沈黙は彼女の次の一声で破られた。思えば沈黙はいつだって彼女から破っている気がする。まぁ、いつだってと言っても昨日のことだけど。
「本当にごめんね……。助けてくれてありがとう。これでお互い様だね。私元気になったからもう帰るね」
だけどまだ彼女の顔は赤くて、医者じゃない僕でも回復しているようには見えなかった。このまま彼女を帰してしまってもいいのだろうか?
空ではまだ太陽が人々に猛暑日といういらないプレゼントを贈り続けていた。もしこんな中帰らせてしまったら彼女はきっとまた倒れてしまう。
僕はベッドから起き上がろうとしている彼女の肩を手で押さえた。
「今はまだ寝てて、お願いだから。きっとまだ万全な状態じゃないと思うから」
彼女は下を向いて、自分の指に視線を置いた。
「でも、それって川端くんが困るでしょ?」
確かに昨日あんなこと言われて動揺していたのは事実だ。だけど僕は彼女の命を危険に晒してしまった。それはきっととてつもなく大きな罪だ。だって僕が昨日あんな断り方をしなければ彼女が倒れることはなかったから。
僕はその罪を償わなければいけない。思い付くことは一つしかなかった。僕が彼女にできる償い。それは……。
「困らないよ。それに、むしろ償いをさせてほしいんだ」
「償い?」
「お盆の間だけ、本当にお盆の間だけ水島さんの彼氏になるよ」
下を向いてた彼女はすぐに顔を上げて再び満月のように目を丸くして僕を見つめていた。
彼女を傷つけてしまった代償はきっと大きい。だから昨日の彼女の提案を受けて少しでも彼女への償いができればと、そう思ったんだ。
「そんないいよ、償いなんて。本当に大丈夫だよ?」
「水島さんが大丈夫でも僕はそうじゃないんだよ。水島さんを熱中症にさせたのは紛れもなく僕だから」
それしか思いつかなかったから。僕が彼女にしてあげられること。
彼女はベッドの目の前にある本棚の方をしばらく見つめ、やがて首と視線をこちらへゆっくり向けた。
「わかった。でも本当に良いの?」
「うん、お盆だけでしょ。それに僕もお盆は暇だったから」
これは本当の話。我が家はお盆に帰省するということをあまりしてこなかった。まぁ、お父さんのことがあるからなぁ。
それを聞いた彼女は小さく頷き、やがて昨日のような明るい笑顔を見せた。今日初めて見た彼女の満面の笑顔。
あれ、今血の流れが早くなったような……。
不思議な感覚に溺れていると、彼女はその笑顔のまま言葉を紡いだ。
「じゃあ、今日から4日間よろしくね」
文字を打ち終えた時、ちょっと長すぎたかもしれないと思った。だけど僕は今日のことを由紀夫さんに聞いてほしかった。香麦やお母さんには照れ臭くて話せないこと。お父さんがいたらもしかしたら打ち明けていたかもしれないこと。
年上に聴いてもらえるという安心感と顔が見えない遠い存在だからこそ僕は由紀夫さんに何でも相談できている気がする。
ピコン。
『嬉しいなぁ〜♪ 遂に康成さんから恋バナが聴けて。じゃあ、明日は初めてその女の子とデートするんだ。図書館だっけ? 読書家の康成さんならその女の子にお薦めの本とか紹介しちゃってエスコートできること間違いなしだね。明日デートどうだったか教えてね』
そう、僕たちはあの後デートの約束をした。途中でまた彼女が倒れてしまうことを危惧して僕は太陽が沈むくらいまで家にとめていた。
それまでは香麦が作ってくれたバニラアイスクリームを食べたり、お互いの趣味の話をしたりした。意外にも彼女は読書が好きだということが判明した。
突然連れてきた女の子を香麦に誤魔化すのが大変だったけど人助けで連れてきたんだよ、と説得したら何とか納得してもらえた。そして帰る直前に彼女は明日のデートを取り付けてきたのだった。
明日と言われれば突然かもしれないけれど、僕たちの恋人期間はお盆の4日間。しかも今日でお盆の1日目は終わってしまったのだ。
残りの3日間を無駄にしたくない、と彼女はきっと思っているからこそ明日にデートを取り付けたのだと思う。僕もそのデートの中で彼女への償いをしなければ。
そんな経緯を由紀夫さんに伝えたのだ。もちろん名前とか個人情報は伏せてあるけど。
それにしても、由紀夫さんは恋バナ好きだなぁ。もしかしたら今まで名前で男性って判断してたけど、最近のやり取りから実は由紀夫さんは女性何じゃないかと思い始めている。
まぁ、でもお母さん的な感じで話を聴いてもらえるのは悪い気はしない。本当にお母さんだったら恥ずかしい内容ではあるけれど。
空はもう夜の帳が下りていて、運悪く星が見えない夜だった。まぁ、この地域ではあんまり星は見えないから珍しくはないんだけど。それは僕たちの期限付きの恋人という曖昧な関係性に似た空模様だった。
「見て見て、本がいっぱいあるよ!」
「そりゃ図書館だからね」
昨日の告知通り、僕たちは図書館に来ていた。だけど昨日から不思議に思っていたことがある。図書館は多くの本と出会える素敵な場所だ。だけどデートスポットかと言われたら首を傾げたくなる。しかも相手はクラスの人気者。僕は未だに彼女が読書家であることを信じらずにいた。
「どの本借りようかな? そういえば課題で読書感想文あったよね」
「読書家なら今まで読んできた本の感想書けばいいじゃん。僕も実際にそうしたよ」
ちっちっちと人差し指を左右に揺らしてそうじゃないんだよ、と言いたげな様子を見せた。
「確かにそれは読書家の特権だけど、私は読んだばかりのその時しか書けない感想が書きたいんだよね」
「それ本当に本が大好きな人が言うセリフだね」
「だって、本当に本が大好きなんだもん」
得意げにそう言い放った彼女は本棚のある一点に視線を集中させた。
「あっ、これ」
「どうしたの?」
「この本、川端くんの部屋にあったものだよね?由紀夫さんだっけ、作者」
その本棚に近づくと確かにそこには由紀夫さんの小説が多く陳列されていた。
「昨日聴くの忘れてたけどさ、どうして由紀夫さんの作品を好きになったの?」
彼女はいつになく真剣な表情でそう尋ねてきた。
「風景とか人の感情の描き方がいいなって。あと読んでてどうしてなのかわからないんだけど、なんだか懐かしい気持ちになるんだよね」
「懐かしい気持ち?」
「う〜ん、言葉で表現するのが難しいなぁ。変な例えになるかもしれないけど、昔から食べてるお母さんの味みたいな、親しみが持てて心が温かくなるような……」
そう言いかけた時、にこにこ笑いながら頷く彼女に遂、夢中になって話してしまっていたことに気がついた。
「いい表情してるね」
「えっ」
「本のこと話してる時の川端くんの顔、いいなって」
まただ、鼓動が速い。しかも昨日のように一瞬ではなく、今日は少し長く続いた。もしかしたら僕は何かの病に侵されているのかもしれない。
「川端くん、顔赤いよ。もしかしてまた熱中症?」
「そんなわけ……」
館内は冷房が効きすぎるくらいに冷えているから、そんなはずはないと思った。だけど自分の頬を触った瞬間、さっきまで日差しを受けていたかのようにそれは熱を持っていた。
「はぁ〜楽しかった! 図書館デート」
「それはよかった。にしてもどうして図書館?」
「だって川端くん本好きでしょ? それに私も本が好き。2人の趣味を昨日教え合ったばっかりじゃない。本が大好きな私たちには図書館が最強のデートスポットでしょ」
「そうだけどさ、デートスポットって言ったらショッピングモールとか水族館とかそういう所が王道なのかなって」
「確かにそうかもしれないけど、私は図書館が一番のデートスポットだと思ってるよ」
彼女はなんの躊躇いもなくそう言い放った。
「どうしてそう思うの?」
半歩先を歩いていた彼女は突然立ち止まって少しかがむような姿勢で僕を見つめた。
「だって、本はすごいんだもん。知らない場所にも遠い時代にも連れて行ってくれる。その気になれば物語の登場人物と友だちにだって、恋人にだって、家族にだってなれるんだよ」
その発言を聞いて僕は理解した。彼女は本当に心の底から本が大好きなんだ。ううん、今の発言だけじゃない。今日一日を通して、彼女が読書家であると信じざるを得なかった。
「川端くん、私の一番大好きな本何か知ってる?」
僕は悩んだ。読書家の彼女が大好きな本だから、もしかしたら純文学系のお話かもしれない。
「川端康成さんの小説とか?」
「ふふ、自分の名字とかけたね」
「あっ、バレた」
何が面白かったのか、彼女は声に出して笑っていた。そんなに笑われると恥ずかしいじゃないか。
「全然違うから、教えてあげない」
「え~、せっかく悩んだのに」
「自分の名字使って答えるなんてずるいもん」
「だって本って言ってもこの世界にいっぱいあるわけだからさ。せめてヒントぐらい欲しいなぁ」
「わかったよ、じゃあヒントね」
すると突然左手が温かくなった。視線を落とすと僕の左手は彼女の右手と繋がれていた。また鼓動が早くなるのを感じた。彼女の手は綿あめみたいに柔らかくて、少しでも強く握ってしまったらガラスのようにひび割れてしまうのではないかと思った。
「これどういうこと?」
「これ以上はヒントあげないよ」
「そんなこと言われても」
手を繋ぐことがヒントなら、恋愛小説なのだろうか。確かに彼女はそういう類のもの好きそうだしなぁ。考えようとするも、左手に感じる温もりが僕の思考を鈍らせた。
「実はまだないの、その本」
「えっ」
「もう一つのヒント。特別大サービスだからね」
「ますます意味がわからないんだけど。ねぇ、教えてよ」
「あっ、バス停見えた」
僕の質問を誤魔化すように彼女は大袈裟にバス停を指さしていた。
「川端くん、今日は楽しかった?」
随分と話が逸れたけど、楽しそうな今の彼女の雰囲気に水を差すようなことをしたいとも思わなかった。
「うん、楽しかったよ」
「そっかぁ、良かった! じゃあ明日の約束してもいい?」
「明日もデートするの?」
「もっちろん。だって私たちお盆限定の恋人関係なんだよ」
「まぁ、そうだけど」
「明日は定番のデートスポットに行こうと思って。由紀夫さんのファンの川端くんならわかるよね」
僕ならわかる?由紀夫さんの……あっ。そういえばこの夏は由紀夫さんの作品『透明な恋』の映画があるんだ。友だちと行こうと思ってたけどお盆は親戚と過ごすって言ってたから今度行く予定だった。本当はもっと早く観に行きたかったけど。もしかして……。
「映画館に行くの?」
そう言うと彼女は正解です、と言わんばかりに笑顔で頷いた。
『透明な恋』は僕が初めて読んだ由紀夫さんの作品で一番好きなお話。密かに楽しみにしてたその映画を観に行けるなんて。だけど観に行く相手が彼女でも友だちでも楽しさは変わらない気がした。だけど……。
バスが来て僕が窓際の座席に座った時、笑顔で手を振っている彼女にまた鼓動が速くなるのを感じた。今日何回目のことだろう。やっぱり近いうちに医療機関に受診したほうがいいのかもしれない。
バスに揺られている途中、約束通り今日のことを由紀夫さんに伝えた。デートが楽しかったこと、初めて彼女と手を繋いだこと、彼女といて鼓動が速まることすべてをメールで伝えた。
すべてが初めての経験で初めての感情だった。初めてだからこそわからない。この感情が何を示すのか。
ずっと空の上で夏を届けている太陽ならわかるかもしれない。雲に隠れず堂々と僕たちのデートを見ていたのだから。
感情の正体が知りたくてオレンジ色に染まる窓を見た。だけど当然にも太陽は何も話してくれない。そこら中に漂う巻層雲をクッションにしてただそこで僕を見つめているだけだった。
ピコン
『デート楽しかったんだね。康成くんはもう立派な青春してるよ。現実で恋愛をするのってドキドキするよね。自分もそうだったなぁ。康成くんが現実を楽しんでくれてるの嬉しいな。明日のデートも楽しめるといいね』
由紀夫さんも恋愛してたんだな。きっと由紀夫さんのことだから、恋愛経験も豊富なんだろうな。そんな経験を生かして由紀夫さんは小説を書いているのかもしれない。
それにしても、どうして鼓動が速くなったり、頬が赤くなったりするのだろうか。それも彼女といる時に。
正直、何もわからない。だけど一つだけわかることがあるとすれば、彼女と過ごしたどの時間も楽かったと思えていることだった。
「映画面白かったね、川端くん」
「うん、特に別れのシーンとか」
「もしかして泣きそうになった?」
「う〜ん、そこはノーコメントで」
映画を観た後、近くのファミレスで食事をしながらさっき観た映画の感想を話し合った。ここのファミレスは期間限定で一品でも選べば、無料でジュースを飲めるというサービスを提供していた。
今日の彼女は藍色のワンピースに、薄手のサイズの大きめなカーディガンを羽織っていた。ダボカジってやつかな?シンデレラは青いドレスを身に纏って王子様と踊るから彼女もそれに合わせてコーデを考えたのかもしれない。
ふと窓を見ると、昨日とは打って変わって銀色の雨が街を濁らせていた。正直今までの暑さは異常だった。その異常な気温が続いた日々を過ごしてきた僕にとって雨はご褒美だった。だけどきっと彼女は雨よりも晴れのほうが好きなんだろうなと思った。窓に映る彼女の顔が少しばかり悲しそうだったから。
彼女と言葉のキャッチボールをしていたら喉が渇いてきた。
「ここのファミレス、この夏期間限定でジュース無料なのいいよね」
僕は彼女が言った期間限定に反応した。僕と彼女は期間限定で恋人となっている。いまだに信じられていないところもあるけど、目の前で美味しそうにデザートのバニラアイスクリームを頬張っている彼女が、この不思議な状況を現実だと僕に教えてくれた。
「このバニラアイス美味しいね。でも香麦ちゃんが作ってくれたバニラアイスのほうが美味しかったかも」
「それ香麦に伝えたら絶対喜ぶよ」
「じゃあ、ちゃんと伝えておいてね」
「うん、そうするよ」
オレンジジュースが無くなってきたのか、ストローからはジュルジュルと奇妙な音を立て始めていた。
「あ~、もうなくなっちゃった……。またオレンジジュース入れに行かないと」
「水島さんってオレンジジュース好きだよね」
「うん、甘さと酸っぱさのバランスが絶妙なの!」
「ふ~ん、あっ」
自分のグラスに目をやると僕もジュースがないことに気が付いた。
「何のジュース飲みたいか言ってくれれば僕が入れに行くけど?」
席を立ってそう言うと、彼女は悩んだ素振りをして、じゃあ2人で行こう、と提案してきた。
「別に座っててもよかったのに」
この数日、彼女は自分の体に負担をかけすぎてしまっている気がする。ちゃんと寝ているとは言っているけど、彼女の目の下には薄っすらくまが見える。
「だって、2人で何かをするのって恋人っぽいでしょ。それに川端くん一人にやらせるなんてさすがに申し訳ないよ」
そう言って彼女はさっきまでオレンジジュースの入っていたグラスを持って立ち上がった。
ドリンクバーは思ったより人が並んでいて、僕たちの後ろにもそれなりの列ができていた。やがて僕たちの順番が回ってくると、彼女を先にドリンクバーへと誘導させた。彼女はさっきと同じようにオレンジジュースを入れていた。
ちょっと入れすぎなんじゃないかな、と僕が指摘しようとしたその瞬間、通りすがりのおばさんにぶつかってしまい、オレンジジュースが宙を舞った。そしてその液体は僕の真っ白なTシャツに不時着してしまった。
不幸中の幸いってやつなのか、ズボンや靴は無傷で済んだみたいだった。それでも、Tシャツはかなりの広い面積をオレンジ色が占めていた。だけど、それよりも心配になったのは彼女だった。
彼女は顔を真っ青にさせて半分以下の量のオレンジジュースが注がれたグラスを持ちながら今もなお、僕のTシャツに広がり続けるオレンジ色を見つめていた。
「ごめんなさい」
おばさんは僕たちに頭を下げていた。
「いえいえ、そんなにお気になさらいでください」
僕の様子を見てホッとしたのか、もう一度頭を下げておばさんはこの場を去った。
「ごめん、ごめんなさい。川端くんのTシャツが……」
「だから大丈夫だって。それよりとりあえず後ろ結構並んでるから席に戻ろ?」
席に戻る途中周りの視線が僕のTシャツに注目しているのを感じて恥ずかしさでいっぱいになった。
席に戻ると自分の鞄から急いでティッシュを取り出して白色に侵略しようとするオレンジを食い止めた。すると、彼女もティッシュを持って僕の席に近づき拭いてくれようとした。
「僕のティッシュで足りると思うから水島さんまで拭かなくてもいいよ」
「私のせいで服汚しちゃったから、拭かないわけにはいかないよ」
そう言って彼女は僕の服を拭き始めていた。彼女との距離の近さに昨日の現象がまた再発した。
一生懸命に彼女が僕のTシャツを拭いてくれている。だけど、どれだけ拭いてもオレンジ色は自分たちの陣地を撤退する気はなかったようだ。それどころか、さっきよりもオレンジ色の面積が広くなったような気さえした。そのことに気づいたのか彼女はTシャツを拭く手を止めて、全然取れない、と呟いた。
それから彼女は俯いてただ汚れた僕のTシャツを見つめていた。まだそこまで彼女と過ごしてきていない僕でも彼女が落ち込んでいることは明らかだとわかった。
「大丈夫だから。こういうTシャツいくらでもあるから」
「でも…………」
ファミレスの中は人々の会話やBGMで音が満ちているはずなのに僕たちの席だけが夜の海岸のように静まり返っていた。
どのくらい続いたのだろう。僕たちの空間を賑わいを取り戻す真昼の海岸にしたのは彼女のほうだった。また彼女から沈黙は破られたのだ。
「じゃあ、今から買いに行こうか! 川端くんのTシャツ」
「えっ」
「ちょうど午後はこの辺り回ろって話だったじゃん。そこに服を買うっていう予定も入れて。あっ、もちろん私が責任を持って支払うから」
「そんなことしなくても……」
「もう決まったの」
そんなこと勝手に決められても困るよ。彼女の強引さには毎度参ってしまう。
「それに、さっき周りの人に汚れたTシャツ見られて恥ずかしそうにしてたの知ってるよ。これからデパート中回るわけだから、このファミレスの比じゃないよ」
「でも服買うにしても外に出なきゃいけないからどっちみち見られちゃうよ」
そう言うと彼女は口角を上げて微笑み、纏っていた白いカーディガンを脱いで僕に渡してきた。
「これ着て。女性用だからちょっときついかもしれないけど、川端くん男の子にしては華奢だから多分大丈夫だと思うよ」
「いや……、でも……」
「いいから早く着て行こうよ」
僕は無理矢理に渡そうとする彼女のカーディガンを受け取った。彼女には少し大きいような気がしたから僕が着るとちょうどよかった。Tシャツの汚れた部分もちょうどカーディガンに見えなくなった。
彼女は僕の向かい側の席に戻ってさっき零して残ったオレンジジュースを一気に飲み干し、「早くしないと私が全部会計しちゃうよ」と言いながらレジの方へ向かってしまった。
全部払わせるのはまずい。彼女から受け取ったカーディガンはまだ彼女の温もりが残っていて頬が熱くなるのを感じた。きっとカーディガンを着ているから火照っているのだろう。彼女のカーディガンから溢れる温かさに包まれながら僕はレジへ向かう足を速めた。
「う~ん、違うなぁ~」
僕たちはデパート内のあらゆる服屋を回っていたのだが、彼女いわくなかなか僕に似合う服が見つからないらしい。僕は服装に無頓着だからそういうのわからないけど……。だけど彼女が僕のために妥協せず服を選んでくれるのは正直嬉しい。
「これどうかな?」
形やデザイン、サイズとしては僕が今着ている白いTシャツと変わらないが、それは白藍色をしていた。
「これ涼しそうだから今の暑い夏にいいかなって。それに一昨日アルバムでその服装の川端くんがいっぱい写ってたし、どれも似合ってたなって」
確かに子どもの頃は青っぽい服を着ていた気がする。まぁ、お母さんが青を好きだったっていうのもあるけど。青い服を着るといつもお母さんが似合うねって褒めてくれたんだっけ。でもいつからか、僕は白か黒かグレーといった誰でも似合う服を着るようになっていた。周りの目を気にしてしまう性格だからクラスメイトが大人っぽい服を着るようになってからだと思う。
お母さんのお世辞かもしれないし、お世辞じゃなかったとしても子どもの頃みたいに似合う保証なんてどこにもない。でも彼女が手に持っている服を僕は一目見て着てみたいと思ってしまった。
「じゃあ、着てみようかな」
駅に向かおうとする彼女とバス停に向かおうとする僕は別れ道まで雨の中を歩いた。偶然にも二人とも同じ緑色の傘を差していた。
腕に違和感がある。服の重さで腕が引っ張られている感覚。
「本当にこの服もらってもいいの?」
結局彼女の押しに負けて僕はさっき選んでもらった白藍色のTシャツを支払ってもらってしまった。また彼女に余計な負担をさせてしまった。僕は果たしてあの時誓った償いをできているのだろうか。もう明日で償いのために築いた関係も終わってしまうというのに。僕はもしかしたらこの雨の音に負けてしまうくらい小さな声でぽつりと言葉を紡いだ。
「僕はちゃんと償えているのかな。明日で最後なのに、このままでいいのかなって……」
「川端くんはこの数日間楽かった?」
「……うん、楽しかったよ。」
「なら、いいじゃん。私も楽しかったよ。償いなんてもう気にしないで、明日が最後なんだから」
彼女は眉を下げながらも笑みを浮かべていた。どうしてなのだろう、今度は胸に棘が刺さったような痛みを感じた。そんな顔をしないでほしい。
「川端くん、もうちょっと傘近づけて」
彼女の意図がわからなかったが、とりあえず近づけてみることにした。
「もっと近づけて。くっつけてほしいの」
またも注文を押し付けてくる彼女に仕方なく傘をくっつけてみると何かに似たものが出現した。
「芽みたいでしょ。まだ土から出てきたばっかりの」
「ほんとだ」
何かに似ていると思ったら、芽だった。こんなに雨に打たれていたらどこまでもその芽が伸びる気がした。そして同時に思ってしまった。この彼女と過ごした日々が植物の芽のようにいつまでも続いてほしいと。
僕たちは傘同士をくっつけながらしばらくその芽を眺めていた。
「明日は海に行きたいなぁ。あと現地集合じゃなくて川端くんの家に集合でいい?」
彼女はいつも通り、明日の約束を取り付けてきた。
「何で現地集合じゃないの? 交通機関で直接向かえば早く海に着くと思うんだけど」
「たまには2人でデートスポットに向かうのもいいかなって。それとも私と行くの嫌?」
たまにはってまだ数日しかデートに行ってないし、そういう風な言い方は正直ずるいと思った。
「水島さんがそうしたいなら別に反対したりしないよ」
そう言うと、彼女は雨をやますことができるのではないかと思うくらいに笑顔を輝かせた。雨雲に隠れた太陽はきっと彼女の笑顔のようにキラキラ輝いている気がした。
バスはものすごいスピードで僕を彼女から遠ざけていく。
明日で終わるんだ、この関係は。最初は償いのためだと思っていたのに。どうして僕の気持ちはこんなにも沈んでいるのだろう。気候で表すと間違いなく僕の心は今みたいな雨模様だと思う。
だけど、このシチュエーションどこかで観たことがある気がする。何だっけ?
思考を巡らせると、あることが頭に浮かんだ。そうだ、今日観た『透明な恋』だ。主人公は言っていた。大好きな人と別れる時に気持ちがとても沈むこと。そしてそれほどまでに悲しむことは別れた相手に好意を抱いているということ。
そうだったんだ。僕は知らない間に彼女のことを好きになってしまったんだ。いや、もしかしたら僕はどこかでそれを知っていたのかもしれない。
だけど……。彼女はクラスの人気者だ。彼女に好意を抱いている人はたくさんいる。僕の入る隙なんてきっとない。
それなのに、僕は気づいてしまったこの気持ちをどう消すか考えたくなかった。こんな時こそ。
僕はメールを送った。本当に今付き合っている女の子を好きになってしまったこと。だけどその関係は明日で終わってしまうこと。彼女は僕と違って好いている人が多いこと。
僕は一番の相談相手である由紀夫さんにメールを送信した。由紀夫さんを困らせることは承知の上だった。だけど聴いてほしかった。知ってほしかった。僕のこの気持ちを。
雨は激しくバスの窓を叩いていた。その勢いで僕が抱いてしまったこの気持ちも洗い流してくれればいいのに。
ピピピ……。アラームは僕だけじゃなく、ベッドから遠くに掛けてある制服までも起こす勢いで部屋中に鳴り響いた。
重たい瞼を擦りながらまだ騒がしく鳴っているアラームを消した。
ベッドから起き上がって部屋のカーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように皮膚を焦がすほどの熱い日差しが部屋の中に入り込んできた。
最後の日が始まってしまった。どうやら一晩寝て消せる気持ちではなかったようだ。
この気持ちはきっと届かない。だけど今日一日だけは、こんな僕と彼女は同じ時間を過ごせる。だから、一秒でも長く彼女と一緒にいられるように早く支度を済ませなくては。
クローゼットの引き出しを開けてビーチサンダルを掘り出そうと中身を漁るがなかなか見つからない。苦戦に強いられていると、部屋の扉からノックの音が2回聞こえてきた。2回ってことはお母さんか。この家では年齢順にノックの回数が決められている。今はいないけど1番上はお父さんだからノック1回ならお父さん、2回ならお母さん、妹の香麦なら4回。だから僕が誰かの部屋に入る時は3回ノックをする。
「入っていい?」
いいよ、と言い切る前に扉が開いた。お母さんはこの部屋の惨状を見て目を丸くした。それもそのはず、ビーチサンダルが見つからなくて服を出していってたらいつの間にか部屋は服の海と化していた。ある意味海水浴場だ。
「いや〜、なかなかビーチサンダルが見つからなくてさ」
「ビーチサンダルって、海にでも行くの?」
首を縦に振るとお母さんは仕方ないなぁ、と呟いて僕のビーチサンダルを一緒に探してくれた。いつもそうだ。僕が何かを失くすたびにお母さんはいつだって探し物を一緒に見つけようとしてくれる。そして僕の探し物を一番に見つけてくれるのもお母さんだった。
そして今回も見つけたよ、と声を弾ませていた。その喜び方は僕以上だった。いつも僕の探し物を見つけた時は僕よりも喜んでいた。
「ありがとう、お母さん」
「よかった。それよりその靴入る?」
お母さんはさっきまでの喜んでいた表情を心配そうな表情に変えていた。
その言葉に僕も一気に不安になった。これを履いていたのは確か、中学1年か2年の時だった気がする。
少なくとも去年は受験生だったから海には行っていない。男の子は中学生でも足が大きくなるから僕がこの靴を履けなくなるのもおかしな話ではない。
案の定、お母さんがせっかく見つけてくれたそのビーチサンダルは、小さくてとても履けそうにはなかった。
「ごめん、お母さん。一緒に探してくれたのに」
だけどお母さんは怒るどころか、それがわかっていたかのような反応で僕に笑いかけた。
「そうだろうとは思ってたよ。ちょっと待ってて」
そう言い残してお母さんは僕の部屋を去っていった。
5分くらい経つと再び階段を上る音がこの部屋まで聴こえてきた。そして僕の部屋の入口から白い箱を持ったお母さんが現れた。
「おまたせ。これあげるよ」
優しく微笑みながら、お母さんは僕に白い箱を手渡してきた。
その箱を開けてみると、クシャクシャになった白い紙が入っていて、まだ本当の中身がわからなかった。その紙を一つ一つ取り出していくと、青いものが一部露出した。そして遂にその全容が明らかになった。
それは新品の青色をしたビーチサンダルだった。しかも見ただけで僕にぴったりサイズの靴だと感じた。だけど、どうしてお母さんは僕の足にぴったりな靴を選べたんだろう。いや、それは今に始まったことじゃない。僕は自分で靴を選んだことがない。いつも靴だけはお母さんからプレゼントされる。それが当たり前だったから不思議に思ったことはなかったけど……。
「不思議そうな顔してるね」
そう言うとすると、白い箱から現れた青いビーチサンダルをお母さんは赤ちゃんの頬を撫でるように優しく触れていた。
「この靴はね、お父さんが作ったものなの。ううん、この靴だけじゃない。あなたが今まで履いてきた靴全てがお父さんの手から生まれてきたものなんだよ」
「えっ」
ずっと不安に思っていた。夢を追いかけているお父さんは僕たちのことを忘れているんじゃないかって。
でも違った。お父さんはちゃんと僕たちのことを想ってくれていた。お父さんはお父さんだった。
確かに昔はわからなかったけど、最近になって僕が履いている靴は高価なんじゃないかと思っていた。
目の奥が熱くなるのを感じる。
「本当は言うなって口止めされてたんだけどね。そういうの恥ずかしいからって。でもやっぱり伝えたくなったんだよね。もう彼女ができるくらいに成長したんだもん」
お母さんはさっきとは違うニヤついた笑顔を僕に見せた。
「えっ、お母さん知ってたの?」
「あっ、やっぱり本当だったんだ。香麦から聞いたんだよ」
香麦には上手く誤魔化せたと思ってたのに。いくら小学生とはいえ、女性の感は侮れない。
「それにしてもまさか、出張中にこんなに息子の恋が進展しているとは」
「いや、僕と彼女はそんな単純な恋じゃ……」
「そうだよね。恋って単純じゃないものね」
何か変な解釈をしているような。そんなくだらない会話を続けていると、インターフォンの音が耳に入った。
「噂をすれば、じゃあ頑張って! あと忘れ物と熱中症には気を付けて、いってらっしゃい」
香麦はそのことまでお母さんに報告していたのか。お母さんにすべてを知られてしまったという恥ずかしさが、僕の体の奥からこみ上げてくるのを感じた。お母さんがまたニヤついた笑顔で僕を見送るからその恥ずかしさは自然と倍増した。
僕は恥ずかしさで火照っている顔を隠すように足早に部屋を出た。ぼそっとお母さんに挨拶すると、もう後ろにいて見えないけど、僕にはなぜだかお母さんが笑っている顔しか思い浮かばなかった。
「お待たせ」
玄関の扉を開けるとそこにはあまり見慣れない格好をした彼女が佇んでいた。白藍色のノースリーブのワンピースを着ていて、髪はいつもと違って上の方でお団子にしていた。
「どうしたの、川端くん? 顔赤い気がするんだけど」
「いや、えっと……この暑さのせいだよ」
この暑さとさっきお母さんに僕と彼女の関係がバレてしまった恥ずかしさのせいだと思いたい。だけど僕にはわかる。いつもと違う彼女の格好にドキドキして、頬が赤く染まっていることを。
「ふ~ん」
彼女はなぜか面白くなさそうな顔をしていた。思えばこんな顔を見るのは初めてかもしれない。どうしてそんな顔をするのか疑問に思っていると……。
「海に行く前にね、私……その、行きたいところがあるの」
僕は少し違和感を感じた。その違和感を確かなものにするために僕は話を続けることにした。
「もしかしてその行きたい場所に行くために現地集合にしなかったの?」
「う、うん。そうなの。それで私ワッフルが食べたいなぁって。川端くんの家の近くでしょ?」
「うん。水島さんは甘いものが好きなんだね」
「う、うん!」
やっぱり、いつもと様子がおかしい。
「水島さん、具合悪くない?」
「ううん、す、すごく元気だよ。どうして?」
「いや別に……元気ならいいんだけど」
僕は不安を抱えながらも、彼女を困らせるようなことはしたくなかったからこれ以上言及はしなかった。
「どのワッフルにしようかな」
「ちょっと悩みすぎな気がするんだけど」
「だって、どれも美味しそうなんだもん」
「じゃあ、シェアする?」
「えっ、いいの?」
「うん、味にこだわりないから水島さんが食べたいワッフルでいいよ」
「やった~」
慣れてきたのか、この頃には彼女の様子も元通りになっていた。僕が見る限りは。
「川端くん、頼んできたよ。生クリーム味と抹茶味のワッフル」
「じゃあ、半分にしようか」
「うん!」
この会話、香麦と来た時にもした気がする。時々彼女と香麦が重なることがある。彼女にももしかしたらお兄ちゃんがいるのかもしれない。まぁ、お父さんが甘やかしている可能性も否めないけど。
「美味しい〜」
目を弧にして、頬を手で押さえながら食べている彼女を見ていたら、僕も自然と笑みがこぼれた。
「あっ、もしかして馬鹿にした笑い?」
「ううん、美味しそうに食べるなぁって。食レポとか向いてそう」
「そうかな〜。このワッフル美味しすぎる」
「う〜ん、語彙が足りない気がするから前言撤回かも」
「え〜」
今日は太陽も夏を届けながらしっかり僕たちを見つめている。太陽はただこの世界を暑くさせるだけだから好きじゃない。だけど……。
この太陽が沈む頃には僕たちの関係はシンデレラの魔法のように終わってしまう。1秒でも長く一緒にいられるように太陽にはまだ南の空の上で浮かんでいてもらいたい。
水しぶきが宙を舞って星のように煌めいている。小さな子どもたちが雪合戦をするかのように海水を掛け合っている。
海の家のかき氷屋さんは扇風機が稼働しているからか、外より幾分か涼しく感じられた。右手で掬ったスプーンの上の冷たい氷の結晶が僕の口の中でゆっくりと溶けていく。目の前の彼女はかき氷を早く口に運び過ぎたのか、スプーンを持ってる左手を額に当てていた。
「もっとゆっくり食べればいいのに」
「だって、美味しいんだもん。美味しいから自然に手が早く動いちゃうの」
ブルーハワイのシロップが掛けられたかき氷を食べながら話す彼女の舌は既に青く染まっていた。
もう陽は傾き始めていて、海をオレンジジュースに変えていた。昨日の僕のTシャツのように。夕方は嫌でもお別れを連想させる。
僕はある荷物が入ったリュックに視線を移した。これを返したら、本当にこの関係は終わってしまうんだな。
僕がよほど思い詰めた顔をしていたのか「川端くん具合悪いの?」と心配した声色で問いかけてきた。
やっぱり今返そうとリュックの中からある荷物を取り出そうとした。だけど、その行動を止めるように彼女は僕が食べていた溶けかけのかき氷を一気に口の中へと流し込んでいた。
「何やって……」
「だって川端くん、かき氷食べるの遅いんだもん」
「そうやって誤魔化さないでよ。今僕がリュックから取り出すことを止めようとしたよね?」
「そうだよ。だってそれ返したら本当にお別れでしょ」
そう言うと彼女は僕の腕を引っ張って店の外へと連れ出した。お金は食べる前に払っていたから問題はない。それでも、いきなり腕を掴んだりしてほしくない。もうお別れなのにこれ以上意識したらもっと彼女のことを好きになってしまうから。
僕のリュックの中には昨日借りたカーディガンが入っている。つまり、これを返せばもう会う口実はなくなってしまうのだ。お店の前に取り付けられた風鈴の音が彼女とのお別れを助長させていた。
比較的に海に近い砂浜に来ると彼女は引っ張ってた細い腕を僕の手首から離した。無表情で海を見つめる彼女の瞳は海の色と似ていた。
彼女は海から僕へと視線を移して、表情も口角を上げて微笑みを浮かべていた。だけどまた海に視線を戻して、彼女は少しずつ海へと近づき、やがて彼女の足首が海に浸かった。
彼女は再び僕に視線を移して、右手を僕に差し出してきた。
「手、繋いでほしいな。シンデレラの手を繋ぐ王子様みたいに」
恋人関係を結んでから僕たちはこうして手を繋いできた。手を繋いでいると、いろんなことが伝わる。温もり、感触、時には感情までそれは伝えてくれる。手を繋ぐことは僕にとって一番の愛情表現だと思っている。やがてその2つの手は1つに重なった。初めて触れた時と同じように彼女の手は綿あめみたいに柔らかくて、少しでも強く握ってしまったらガラスのようにひび割れてしまうのではないかと思った。そして同時にその手からもうこれで最後だよ、というメッセージも伝わった。
「じゃあ、あのテトラポットまで歩こう」
そこは遠いようで近いような不思議な距離に位置していた。
彼女の方を向いて軽く首を縦に振ると、僕たちは歩き始めた。歩くたびに砂が足の裏にびっしりとくっついてくる。その砂はまるで今まで彼女と過ごしてきた日々のようだった。
「ねぇ」
彼女の柔らかい声に僕は顔を上げた。すると、彼女は見てよと言うように足元を指さしていた。
見ると、足の甲くらいまで彼女の足は海水に沈んでいた。だけどこれがどうしたのだろうか。
「その顔、全然わかってくれてないでしょ」
「逆にわかる人の方が少ないと思うよ?」
「う〜ん、川端くんならわかってくれると思ったんだけどな〜」
くすくすと彼女は微笑んで、「今私はガラスの靴を履いたお姫様なの」と言った。
彼女のその言葉に僕はもう一度彼女の足元に視線を移した。夏の日差しを受けた海水は透き通っていて、彼女の足元を包んでいた。
確かにそれはガラスの靴のようだった。
僕は顔を上げて本当だね、と呟くと彼女の表情は笑顔こそあったが、眉は下がっていた。それはきっと心の底からの笑顔じゃないということが嫌でもわかってしまう。今まで彼女と過ごしてきた時間が僕をそう理解させた。その表情に僕は胸を締め付けられるのを感じた。今までに感じたことがないくらいに苦しかった。
「もう少しで魔法が解けるから。この関係は終わるから。だから、今だけはお姫様でいてもいいよね……」
最後の方はほとんど声が聞こえなかった。それくらい彼女の声は震えていてガラスのように脆かった。
本当にこのままでいいのだろうか。何も言えないままお別れするなんて。
僕に向けられていた彼女の視線はやがて目的地のテトラポットへと向き、止めていた足を再びそこへと動かしていた。僕も彼女に合わせるように歩みを進めた。
静かで深い沈黙が僕たちを包んでいた。僕たちの空間だけが喧騒で溢れている海岸ではないかのように。
その沈黙はテトラポットまで残りわずかの時にあっけなく崩された。最後の沈黙も彼女が破ったのだった。
「今、魔法が解けるおまじないをしてたの」
「えっ」
「手結びジンクスって知ってる?」
聞いたことがあるようなないような。もしかしたら僕が今まで読んできた本の中にあったのかもしれないけど、思い出せないなぁ。
彼女はそんな僕の心中を悟ったのかその手結びジンクスについて教えてくれた。
「手結びジンクスはその名の通り好きな相手と手を繋いだ者同士は永遠に結ばれるっていうジンクスなの」
「単純なジンクスだね。でもそれだと世の恋人たちは皆永遠に結ばれるんじゃないの?」
「ただ手を繋ぐんじゃなくて、お互いの利き手同士を繋ぐっていう意味なの。だから同じ利き手同士だとこのジンクスには当てはまらないの。あとお互いが利き手じゃない方で繋ぐのも」
僕は再び彼女と結ばれている手に視線を落とした。僕が繋がれているのは左手。でも利き手は右手なのだ。対して彼女はどうだったっけ? 確かさっきのかき氷、彼女は左手で掬って食べてたっけ? だとしたら……。
「わかったかな? だからこれでもうおしまい、だよ。私たちは結ばれない。迷惑かけちゃったね」
おしまい……。それは僕が彼女とあの橋の下で出会う前の関係に戻る合図だった。数日前に戻る、ただそれだけの話なのに……。
だけど、僕は簡単には消せない想いを抱いてしまった。関係が戻っても、僕の心はもう元には戻れない。
昨日自覚した彼女への想い。そしてそれは決して伝えてはいけない想い。人気者の彼女と自分とではきっと不釣り合いだから。それに彼女はお盆に友だちが帰省していなかったから、仕方なく僕を誘ったんだと言っていた。男の子と遊ぶわけだから恋人関係という設定の方がすんなりと事が進むと考えたのだろう。だから僕は彼女に言えない。本当は好きだなんて言えない。
手から彼女へと視線を移すと彼女は唇を青くしていた。肩は小刻みに震えていた。こんなに暑いのに彼女は寒そうだった。海に入って体をちゃんと拭かなかったのか、かき氷の食べ過ぎか。おそらく両者なのだろう。その時僕は思い出した。さっき返そうとしたカーディガンの存在に。
このカーディガンを返せば、この関係が本当に終わってしまうんだ。だけど目の前にいる彼女は寒そうにしている。僕は繋いでいた左手を彼女から離して鞄からそれを取り出した。
「これ返すね」
「うん」
彼女は頷いて僕からカーディガンを受け取った。だけど彼女はまた僕にそれを返して、腕を横に伸ばした。
「着せて?」
彼女は首を軽く傾げてそう言った。それは恋人としての最後のお願いを意味していた。
「わかった」
僕はカーディガンを彼女の腕に丁寧に通した。着終えるとそのカーディガンはやっぱり彼女にはぶかぶかだった。だけどそれも一つのファッションなのかなと思ってしまうくらいに彼女はそれを着こなしていた。
ありがとう、と呟いた彼女は海に背を向けて僕と視線を合わせないまま帰路へついた。立ち止まってできた彼女の足跡は海の波が遠くの沖へと連れて行った。
その日の夜、僕は由紀夫さんにメールを送信した。昨日の返信が来ていないことに疑問を抱きながらも文字を打ち終えると、扉からノックの音が聞こえた。それは2種類あった。2回叩く音と4回叩く音。
「入るよ?」
2人の声がハモった。正直、今は一人にしてほしいんだけどなぁ。だけど僕のそんな願いは虚しく、お母さんと香麦は遠慮の欠片もなく僕の部屋の扉を開けた。
「今日のデートどうだった?」
「別に」
「またまた照れちゃって」
2人して僕をからかってくるから、いい加減イラついてきた。そして思わず口走ってしまった。
「もう水島さんとは別れたから、ほっといてよ」
僕がその一言を放った瞬間、僕の部屋の空気が凍り付いたのを感じた。まるで僕の部屋だけに冬が訪れたかのように。
僕は2人の顔を見たくなくて、机を見るように下を向いていた。
「本当に?」
香麦が驚きを隠せていない声でそう呟いた。
その問いに僕は下を向いたまま小さく頷いた。すると香麦は悲しそうな顔をした。香麦には関係ないことなのに、どうしてそんな表情をするのだろう。そう不思議に思っていると……。
ピコンと電子音がこの部屋を支配した。見ると由紀夫さんからの返信メールが届いたのだ。
『昨日は返信できなくてごめんなさい。康成くん、いつもそのままの気持ちを顔も声も本性も知らない自分に打ち明けてくれて本当にありがとう。そんな康成くんにお願いがあります。断られることを承知でお願いがあります。明日会ってほしいの。ずっと想像してたんだ。いつもこうやってメッセージをやり取りする康成さんがどんな人なのか。でも実際に会ったことがないから、不審に思うのも仕方がないことだと思ってる。だから無理して会いに来なくてもいいの。待ち合わせ場所は前に康成さんがよく本を読みに来る場所だと書いてた永久橋の下の川のほとりでいいかな? 時間は午前11時。1時間、待ってます。』
すべての文を読み終えて、僕は息を飲んだ。今までずっとやり取りしてきた由紀夫さんに明日会える。棚に並べられている本に視線を移す。あの小説たちの生みの親に会えるんだ。
でも同時に恐怖心も僕の中には宿っていた。画面上の顔も声も本性も知らない人に会うのだ。インターネットが普及した現在、ネット上で知り合った人と実際に会って被害に遭うという事件が後を絶たない。由紀夫さんがそういう人だとは思ったことはないけど。だけど、どうして僕が本を読む場所のことを知っているのだろう。永久橋は全国にあるし、もしかしたら長いやり取りの中で知られたのかもしれない。
由紀夫さんに会いたいという好奇心と事件の被害者になるかもしれないという恐怖心が僕の脳内でバチバチに戦っている。どうしたらいいんだろう。由紀夫さんのことを信じたい。その気持ちはあるはずなのに……。自分の臆病さに呪いたくなった。脳内戦争に終止符を打てないでいると……。
「会いに行ったら?」
今まで一言も発していなかったお母さんが口を開いた。この発言をしたということは、お母さんはメールの文面を僕の後ろから読んでいたことになる。じゃあ、お母さんは僕の脳内の好奇心を応援するってこと?普通親はこういうの止めるものじゃないのだろうか。
正直今回のことは絶対に反対するものだと思ってた。
「お母さん、それ本気で言ってる? 会ったことないんだよ? 危ない目に遭うかもしれないんだよ?」
「だって、会いたいんでしょ。由紀夫さんに。だったら会いに行けばいいじゃない。私は反対しないよ」
私眠いからと言ってお母さんは眠そうな目を擦りながらドアへと向かい最後に頑張って、と言い残してそのドアの向こうへと姿を消した。
それに続いて香麦も部屋を出ようとしていた。そういえば……。
「香麦、そういえばこの間ファミレスでバニラアイスを食べたんだけど水島さんがそのアイスよりも香麦が作ったアイスの方が美味しかったって」
「えっ」
部屋の扉に手をかけていた香麦は振り返って、普段は見せない真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「ねぇお兄ちゃん、本当に水島さんとお別れでいいの? お兄ちゃんの気持ちがわからないから何とも言えないけど、この数日のお兄ちゃん、楽しそうだったよ」
「もしかして、水島さんが倒れたあの日僕たちの様子をこっそり見てたの?」
「うん、見てたよ。ちょっとね。話の内容から恋人なんだって知った時は驚いたけど」
期間限定の恋人だということはバレてなかったみたいだけど、それなら香麦を誤魔化せきれなかったのにも納得がいく。
「それにね、人が作ったお菓子を美味しいねって褒めてくれる人に悪い人はいないんだよ。少なくとも香麦は見たことないなぁ。だからきっと水島さんはとっても素敵な人だと思うんだ」
香麦は微笑みながらそう言った。その笑顔が彼女と重なった。やっぱりちゃんと気持ちを伝えたい。どんなに不釣り合いであったとしても彼女に好きっていう思いを伝えたい。
「ありがとう、香麦。もう一度話してみるよ。もうすぐで学校だからそこで話そうと思う」
「もうすぐで学校⁉」
「そこに反応するんだ」
「だって全然宿題終わってないんだもん。お兄ちゃんが女の子連れて来たから勉強に集中できなくなったんだよ」
「人のせいにする人に良い人はいないと思うよ」
お母さんに告げ口した恨みも込めてそう言うと、香麦はほっぺを膨らませて踵を返した。
心配して損した、と言い残して香麦は少し強めに僕の部屋の扉を閉めた。そこまで怒らなくてもいいのに。だけど。
香麦が閉めた扉を見つめた。恐怖心が完全に無くなったわけじゃない。それでも明日由紀夫さんに会おうと思った。お母さんの言う通り僕は由紀夫さんに会いたかった。今まで綴られたきた文章から由紀夫さんのことを信じたかった。
それに、恋愛小説で有名になった由紀夫さんから水島さんに気持ちを伝えるためのヒントが得られるとも思ったのだ。
ベッドに体を預けると、この数日の疲れが津波のように僕の全身を襲い、深い夢の中へと連れて行った。
僕と彼女の物語
時間は午前十時三十分。静かに流れる川の音と程よく冷えた風、そして永久橋の下にできた灰色の影が今日もこの川のほとりに魔法をかけていた。五日前のあの日と同じように。だけどあの日と違ってお財布はちゃんと持ってきたし、水も自動販売機で買ってきたし、服もショッピングデートで彼女が選んでくれた白藍色のTシャツを身に纏ってきた。
待ち合わせの時間までまだ三十分もあった。水の入ったペットボトルを左隣に置いて、僕は五日前も読んでいた由紀夫さんの小説の続きを読み始めた。この作者に会えるんだと意識しながら。そして3ページめくったその時。
「何読んでるの?」
どこかで覚えのある甘い香りが背後からした。そしてその香りを纏った主は僕を康成さんと呼んだ。由紀夫さんじゃないと言えないはずのその名前を。
どうして? どうして彼女が僕を康成って呼んでいるの?
「康成くん。ううん、違うね。川端くん、こっち向いて」
いや、もしかしたら声が偶然彼女に似てただけで彼女じゃないかもしれない。でもここのところ彼女の声はよく聞いているから、果たして間違えるのだろうか。僕が恋した彼女の声を。振り返ればすべてがわかる。彼女なのか別の誰かなのか。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。色素の薄いミディアムヘアに青みがかった瞳、服装はあの時と同じ白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっいてタンポポ色のスラックスを履いていた。それらの情報は間違いなく目の前にいる少女が水島夏芽であることを証明していた。そして同時に由紀夫さんが彼女であることも証明されたことになる。でもそれはあり得ないはずのことだった。
「水島さん、どういうこと……」
「どういうことって、そういうことだよ」
「そういうことがわからないんだよ。まるで水島さんがあの小説家の由紀夫さんみたいに聞こえるよよ」
「だからそういうことだよ」
「じゃあ、由紀夫さんが何十年も前から作品を書いていたことをどう証明するの?水島さんはまだ生まれてないよね」
すると彼女は僕から視線を外した。そこにいつもの彼女の笑顔はなかった。何か僕は悪いことを言ってしまったのだろうか。
しばらく沈黙が続いた。いつもその沈黙を破ってきたのは彼女だった。だから今度は僕からその沈黙を破ろうと思った。
「ごめん。尋問みたいに聞いちゃって。でも本当に何が何だかわからないんだ。だから、話せるところまで話してほし……」
「私は本当の由紀夫さんじゃないの」
「えっ」
思いもよらない発言に言葉を失った。どういうこと?
「本当はお母さんが由紀夫を名乗って小説を書いてたの。でも色々あって、私がその名前を継いだの」
そうだったんだ。確かにそれなら納得がいく。彼女のお母さんなら何十年も前から小説を書いててもおかしくない。色々あった、というのはきっと彼女のお母さんの身に何かあって、小説が書けない状態になってしまったのだろう。顔を悲しそうに歪めながら話す彼女の様子からそう察した。じゃあ、僕が由紀夫さんの小説で初めて読んだ『透明な恋』は彼女のお母さんが書いたものなのだろうか?
「水島さんはいつから由紀夫さんになったの」
「五年以上前のことかな。私が初めて書いた作品は『透明な恋』っていう題名の小説なの。川端くんが私を知るきっかけになった小説。といってもこの小説、お母さんが小学生の時に学芸会の台本として書いたものなんだけどね。それを私が小説風にアレンジしたものなんだ」
「そうだったの」
由紀夫さんいや、彼女と知り合うきっかけとなった小説。一番大好きな小説。お母さんが昔書いたものをもとにしていたとはいえ、目の前にいる彼女が丁寧に紡いできた物語だったんだ。
「私が由紀夫で失望した?」
彼女らしくない言葉に僕は首を横に振って否定した。
「嬉しいよ。水島さんが由紀夫さんで。だって、僕はどっちも好きだから。由紀夫さんの小説も、水島さんのことも」
言い終わったところではっとした。思わず彼女に抱いてた気持ちを伝えてしまっていた。
彼女はまた熱中症になってしまったのではないかと思うくらいに赤くさせた顔を上げた。ここまで言ってしまったんだ。ちゃんと最後まで伝えないと。でも彼女は知っている。僕の気持ちを。だって彼女は由紀夫さんだから。
だけどこの間送った文面は彼女ではなく由紀夫さんに送ったものなのだ。だから今はちゃんと彼女にこの気持ちを伝えなければならない。
僕はこれからの人生で使うはずだった勇気を今という瞬間にすべて乗せた。
「この数日本当に楽しかったんだ。一緒に話して、本を読んで、映画を観て、海に行って、美味しい物を食べて。全部忘れられないくらい大切な思い出になった。だから欲が出ちゃったんだと思う。もっと水島さんとそんな思い出を描いていきたいって。小説を書くように」
「私もだよ」
「えっ」
彼女も同じ気持ちだったの? そう思っていると彼女は僕の右隣に座った。座る位置も、見える景色も、彼女の服装もあまりにも五日前と同じだったから、まるであの日にタイムスリップしてきた錯覚に陥った。だけど僕のこの気持ちがそうではないと教えてくれた。
彼女はあの時と同じように右腕で頬杖をついて顔を僕に向けた。
「私ね、川端くんと出会う前から君に恋してたの」
「えっ、本当?」
「本当だよ。メールでやり取りしているうちにね」
彼女の言葉にもともと赤くなっているであろう顔がさらに赤くなった気がする。彼女と同じ気持ちだったことが本当に嬉しかった。
「ありがとう、ずっと直接言いたかったんだ。川端くんがあの日感想をくれたこと。それが確実に私の創作へのモチベーションになったんだよ。本当にありがとう」
「そんなに感謝しなくても、本当に素敵な小説だったから」
すると彼女はより一層顔を赤くさせた。周りからみたら二人して熱中症になっていると思われるだろう。だけど幸いにも今は僕たち以外に誰もいなかった。
「ちなみに、川端くんと康成くんが同一人物だってこと、かなり前から知ってたよ」
「えっ、5日前じゃないの?」
「うん、あの時には既に答えは出てたよ。だからあの日君に話しかけた。何の脈略もなく話したこともない男の子に近づけるほど強い女じゃないからね。だからこそ、あの時素直に好きですって言えなかったんだもん」
「本当に今だから言えるけど、あの時は様子のおかしいクラスメイトだと思ったよ」
「もう、せっかく今いい感じのシチュエーションなのにそんなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
怒ったようなセリフを言いつつも、彼女は煌めく川をバックに満面の笑みを浮かべていた。
「ねぇ、覚えてる? 私が一番大好きな物語」
「あ〜、あれはもう意味わからなすぎて忘れるのが大変だったよ」
「忘れないちゃダメだよ」
真面目な声色で彼女はそう言った。
「私が一番大好きな物語は、これから描いていくの。川端くんとの物語を」
「僕との物語を?」
彼女は大きく頷いた。そして打ち合わせをしていたかのように僕と彼女はお互いの手を同じスピードで近づけていた。
僕の利き手である右手と彼女の利き手である左手はやがて固く結ばれた。誰にも解けないくらいに。
この瞬間僕が歩んできた人生、そして彼女が歩んできた人生、2つの物語がぴたりと重なった。
もしこのジンクスが本当なら僕たちは今、永遠に結ばれたことになる。
「そのTシャツ似合ってるね」
「そんなの当たり前だよ。水島さんが一生懸命探してくれたものだから」
永遠を手に入れた僕たちならきっと何ページだって物語を紡いでいける。
僕と彼女の物語を
~終わり~