静かに流れる川の音とほどよく冷えた風そして永久橋の下にできた灰色の影が僕の座っている川のほとりを真夏から秋へと魔法のように変えてくれた。
僕はこの場所が好きで、よくここで物語の世界に浸っている。
僕の大好きな作家さんである由紀夫さんの新作を買った僕はその幸せな空間でただひたすらにページを結末へと向かわせていた。
そして小説の半分ほど読み終わって僕は喉の渇きを感じた。涼しいとはいえ、僕の体は確かに水を求めていた。
僕はお財布が入っているはずの鞄を持って近くにある自動販売機へと向かった。魔法のかかっていない日なたに足を踏み入れると皮膚がひりっとするのを感じた。暑すぎる……。自動販売機までたった数十メートルしか離れていないというのに。そして不運なことに自動販売機には人が10人くらい並んでいた。こんなに喉が渇いている時に限ってそうなのだ。全くついてない。
待っている間も目立ちたがりやの太陽の光が頭上から容赦なく降り注いでいた。
いよいよ順番が回ってきたその時、僕は絶望した。お財布が見つからない。鞄の隅から隅まで探してもそれは見つからなかった。
後ろを振り返ると次に待っていた人が何やってるの、と言っているかのような目つきで僕のことを見つめていた。
すいません、と軽く会釈して僕は仕方なくその場を去った。待っていた時間が長すぎたのか、僕の頭はぼんやりとしていた。これがいわゆる熱中症の初期症状ってやつなのかもしれない。何とか橋の下に着いたものの、これから帰るにしても途中で倒れてしまう危険性を感じた。ひとまずここで涼んでから帰ることにしよう。
そう思い、僕は再び小説の続きを読み始めた。だけど、意識が混濁しているせいで小説をまともに読むことができない。
「何読んでるの?」
聞き覚えのある甘い声とバニラの香りが背後からした。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。少しメイクされた顔に、色素の薄いミディアムヘアの髪に青みがかった瞳、服装は白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっていて、タンポポ色のスラックスを履いていた。
その声の主は、同じクラスの水島夏芽だった。彼女はクラスのムードメーカー的な存在で、僕みたいな平凡な男子高校生にとっては無縁になるはずのところに位置していた。
だけど今、そんな彼女が僕に話しかけている。そんなあり得ない状況に戸惑っていると……。
彼女はゆっくりと近づき、僕の右隣に座った。そして右腕で頬杖をついて僕の顔をじっと見つめてきた。
「顔赤いけど大丈夫、じゃないよね」
そう言うと彼女はショルダーバッグの中を漁り始めた末、1本のペットボトルを取り出した。
「この水あげるよ」
「えっ、でも悪いよ」
「そんな遠慮しないで。それに」
すると彼女は鞄の中からもう1本のペットボトルを取り出した。
「私の分もあるから本当に遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。今度ちゃんと代金返すから」
僕は彼女からもらった天然水を喉に直接流した。よく冷えた水は僕の体の隅々まで行き渡った。混濁していた意識がはっきりしてきた。
「そんな100円やそこら気にしなくてもいいのに」
「ううん、絶対に返す。だって、もしこの水がなかったら今頃熱中症で倒れて死んじゃってたかもしれないし……」
「そんな大袈裟なぁ。少なくとも今だったら水を飲んでなくても倒れてなかったと思うよ」
「それでも、本当に危ない状態だったんだ。だからちゃんと返すよ」
すると彼女はくすり笑いをしていた。
「僕、何かおかしいこと言った?」
「いや~、川端くんって意外と頑固なところがあるんだなって」
「それ悪口?」
「ううん、学校で見かけない一面だなと思っただけ。私の中で川端くんは教室で本を読む大人しい男子高生っていうイメージだったから」
「じゃあ、今そのイメージが崩れたってことだよね。それって水島さんにとってダメなことなの?」
「むしろその逆だよ。だって知らないことを知れたんだもん。それに、頑固はいい言い方もあるでしょ。意思が強いとか、芯を持ってるとか」
僕は彼女からもらった水を左隣に置いた。
「よかった、顔の赤みも随分とれたね」
「おかげ様で。本当にありがとう」
そう言うと彼女は視線を自分のペットボトルに移し、それを両手で握りしめていた。彼女の人差し指同士が絡みついて、まるで緊張しているような仕草を見せた。人気者の彼女にも人とのコミュニケーションで緊張するんだなと思っていると……。
「このお盆休みの4日間限定で、私の恋人になってくれる?」
「えっ?」
彼女は今何と言ったのか。彼女が僕を別の誰かと間違えているのか、それとも僕の頭は暑さにやられ過ぎて正常な働きをしていないのか。いずれにしてもこれは異常な事態だ。
「友だちがね、お盆休み家族と一緒に実家に帰省しちゃうからお盆は一人になっちゃうんだよね。だからその4日間を川端くんと一緒に過ごしたいなぁと思って」
違った。これは完全に彼女の頭がやられてしまっている。いや、もしかしたら遊びで告白しているのかもしれない。僕は当然のように用意された一つの選択肢を彼女にぶつけることにした。たとえ、水の恩があったとしても。
「ごめん」
「えっ」
「そういうのよくないよ。そもそもこうやって話すの今日が初めてなんだよ、僕たち。だいたい友だちでもないのに、いきなり恋人なんて」
「じゃあ、友だちならいいの?」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
言いかけた言葉を喉の奥にしまい込んだ。彼女が真剣な眼差しで僕を見つめていたからだ。彼女は眉を八の字にさせながらも微笑んでいた。
「ごめん、そうだよね。おかしなこと言ってごめん」
川の流れる音だけがこの空間を支配していた。しばらく長い沈黙が流れたが、彼女のじゃあね、という声がそれを破った。
去り行く彼女の背中に「お金はちゃんと返すから」と僕は伝えた。
すると彼女は振り返って「じゃあ、明日10時にここ集合でいいかな?」と言った。
僕が首を縦に振ると、彼女は向き直って帰路へついた。彼女の足音は静かに流れる川の音では消しきれずほんの少しの間、僕の耳の奥でこだました。
自室中にタップ音が響く。僕は毎日のように由紀夫さんと小説投稿サイト上のメールでやり取りをしていた。本の感想とか最近だと、日常生活の些細なこととか困ったこととか。
今日はもちろん困ったこと。熱中症になりかけたこと、そして水島さんのこと。あれは本当に異常事態だったからなぁ。もちろん名前は伏せてあるけど。
知らない人とやり取りをするのは危険なことかもしれないけど、今まで由紀夫さんと文字で通じていく中で悪意を感じたことはなかった。まぁ、ただ単純に僕がそういうのに疎いだけなのかもしれないけど。
僕が由紀夫さんの小説に出会ったのは春分の日のことだった。そしてその日は僕の10歳の誕生日でもあった。
誕生日プレゼントでスマホをもらい、小説サイトで偶然にもその日に新着作品として届いた由紀夫さんの作品を読んだ。
もともと本の虫だった僕はスマホでも本が読めるんだと、その当時興奮していた気がする。
その小説のタイトルは『透明な恋』。その本を読んだ瞬間に僕はこの作者の大ファンとなった。
シンデレラを題材にした作品で、ストーリーも情景描写の表現法も僕好みだった。
それに、どこか親しみが持てる不思議な読後感だったのを覚えている。読み終わって早速感想を書いたのだが、僕はその作品の感想を書いた最初の読者だったらしく、感謝の意が強く込められた由紀夫さんからの返信が届いた。
それが由紀夫さんとメールで繋がる大きなきっかけだった。
それから僕は由紀夫さんの過去作をひたすらに読み漁った。更新日が20年以上前となっている作品を見つけた時は、年上なんだと悟り、メールの文面にも気をつけるようになった。
ふと窓に目をやると、沈みかけた太陽は全てを焼き尽くすようにオレンジ色の光を僕の部屋へと放っていた。まるで頭上からオレンジジュースをかけられているようだった。
彼女がくれた水のおかげで僕は無事に我が家へ帰ることができていた。彼女には感謝しかない。さっきの謎の告白を除いて。スマホの画面を閉じると、僕は深いため息をついた。
彼女と会うのは正直気まずい。もともと仲がよかったら告白されたのも嬉しいかもしれないが、平凡な高校生の僕には彼女が遊び半分で告白しているようにしか思えなかった。だけど彼女は水を買ってくれた。熱中症で倒れそうになっていた僕に。
だからちゃんと返さないと。お金は倍にして、改めてお礼を言おう。それで終わりだ。気まずく思うことなんて何一つない。
今の僕の決心を見届けたように太陽の光は夜の訪れとともに消えていった。
僕はこの場所が好きで、よくここで物語の世界に浸っている。
僕の大好きな作家さんである由紀夫さんの新作を買った僕はその幸せな空間でただひたすらにページを結末へと向かわせていた。
そして小説の半分ほど読み終わって僕は喉の渇きを感じた。涼しいとはいえ、僕の体は確かに水を求めていた。
僕はお財布が入っているはずの鞄を持って近くにある自動販売機へと向かった。魔法のかかっていない日なたに足を踏み入れると皮膚がひりっとするのを感じた。暑すぎる……。自動販売機までたった数十メートルしか離れていないというのに。そして不運なことに自動販売機には人が10人くらい並んでいた。こんなに喉が渇いている時に限ってそうなのだ。全くついてない。
待っている間も目立ちたがりやの太陽の光が頭上から容赦なく降り注いでいた。
いよいよ順番が回ってきたその時、僕は絶望した。お財布が見つからない。鞄の隅から隅まで探してもそれは見つからなかった。
後ろを振り返ると次に待っていた人が何やってるの、と言っているかのような目つきで僕のことを見つめていた。
すいません、と軽く会釈して僕は仕方なくその場を去った。待っていた時間が長すぎたのか、僕の頭はぼんやりとしていた。これがいわゆる熱中症の初期症状ってやつなのかもしれない。何とか橋の下に着いたものの、これから帰るにしても途中で倒れてしまう危険性を感じた。ひとまずここで涼んでから帰ることにしよう。
そう思い、僕は再び小説の続きを読み始めた。だけど、意識が混濁しているせいで小説をまともに読むことができない。
「何読んでるの?」
聞き覚えのある甘い声とバニラの香りが背後からした。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。少しメイクされた顔に、色素の薄いミディアムヘアの髪に青みがかった瞳、服装は白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっていて、タンポポ色のスラックスを履いていた。
その声の主は、同じクラスの水島夏芽だった。彼女はクラスのムードメーカー的な存在で、僕みたいな平凡な男子高校生にとっては無縁になるはずのところに位置していた。
だけど今、そんな彼女が僕に話しかけている。そんなあり得ない状況に戸惑っていると……。
彼女はゆっくりと近づき、僕の右隣に座った。そして右腕で頬杖をついて僕の顔をじっと見つめてきた。
「顔赤いけど大丈夫、じゃないよね」
そう言うと彼女はショルダーバッグの中を漁り始めた末、1本のペットボトルを取り出した。
「この水あげるよ」
「えっ、でも悪いよ」
「そんな遠慮しないで。それに」
すると彼女は鞄の中からもう1本のペットボトルを取り出した。
「私の分もあるから本当に遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。今度ちゃんと代金返すから」
僕は彼女からもらった天然水を喉に直接流した。よく冷えた水は僕の体の隅々まで行き渡った。混濁していた意識がはっきりしてきた。
「そんな100円やそこら気にしなくてもいいのに」
「ううん、絶対に返す。だって、もしこの水がなかったら今頃熱中症で倒れて死んじゃってたかもしれないし……」
「そんな大袈裟なぁ。少なくとも今だったら水を飲んでなくても倒れてなかったと思うよ」
「それでも、本当に危ない状態だったんだ。だからちゃんと返すよ」
すると彼女はくすり笑いをしていた。
「僕、何かおかしいこと言った?」
「いや~、川端くんって意外と頑固なところがあるんだなって」
「それ悪口?」
「ううん、学校で見かけない一面だなと思っただけ。私の中で川端くんは教室で本を読む大人しい男子高生っていうイメージだったから」
「じゃあ、今そのイメージが崩れたってことだよね。それって水島さんにとってダメなことなの?」
「むしろその逆だよ。だって知らないことを知れたんだもん。それに、頑固はいい言い方もあるでしょ。意思が強いとか、芯を持ってるとか」
僕は彼女からもらった水を左隣に置いた。
「よかった、顔の赤みも随分とれたね」
「おかげ様で。本当にありがとう」
そう言うと彼女は視線を自分のペットボトルに移し、それを両手で握りしめていた。彼女の人差し指同士が絡みついて、まるで緊張しているような仕草を見せた。人気者の彼女にも人とのコミュニケーションで緊張するんだなと思っていると……。
「このお盆休みの4日間限定で、私の恋人になってくれる?」
「えっ?」
彼女は今何と言ったのか。彼女が僕を別の誰かと間違えているのか、それとも僕の頭は暑さにやられ過ぎて正常な働きをしていないのか。いずれにしてもこれは異常な事態だ。
「友だちがね、お盆休み家族と一緒に実家に帰省しちゃうからお盆は一人になっちゃうんだよね。だからその4日間を川端くんと一緒に過ごしたいなぁと思って」
違った。これは完全に彼女の頭がやられてしまっている。いや、もしかしたら遊びで告白しているのかもしれない。僕は当然のように用意された一つの選択肢を彼女にぶつけることにした。たとえ、水の恩があったとしても。
「ごめん」
「えっ」
「そういうのよくないよ。そもそもこうやって話すの今日が初めてなんだよ、僕たち。だいたい友だちでもないのに、いきなり恋人なんて」
「じゃあ、友だちならいいの?」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
言いかけた言葉を喉の奥にしまい込んだ。彼女が真剣な眼差しで僕を見つめていたからだ。彼女は眉を八の字にさせながらも微笑んでいた。
「ごめん、そうだよね。おかしなこと言ってごめん」
川の流れる音だけがこの空間を支配していた。しばらく長い沈黙が流れたが、彼女のじゃあね、という声がそれを破った。
去り行く彼女の背中に「お金はちゃんと返すから」と僕は伝えた。
すると彼女は振り返って「じゃあ、明日10時にここ集合でいいかな?」と言った。
僕が首を縦に振ると、彼女は向き直って帰路へついた。彼女の足音は静かに流れる川の音では消しきれずほんの少しの間、僕の耳の奥でこだました。
自室中にタップ音が響く。僕は毎日のように由紀夫さんと小説投稿サイト上のメールでやり取りをしていた。本の感想とか最近だと、日常生活の些細なこととか困ったこととか。
今日はもちろん困ったこと。熱中症になりかけたこと、そして水島さんのこと。あれは本当に異常事態だったからなぁ。もちろん名前は伏せてあるけど。
知らない人とやり取りをするのは危険なことかもしれないけど、今まで由紀夫さんと文字で通じていく中で悪意を感じたことはなかった。まぁ、ただ単純に僕がそういうのに疎いだけなのかもしれないけど。
僕が由紀夫さんの小説に出会ったのは春分の日のことだった。そしてその日は僕の10歳の誕生日でもあった。
誕生日プレゼントでスマホをもらい、小説サイトで偶然にもその日に新着作品として届いた由紀夫さんの作品を読んだ。
もともと本の虫だった僕はスマホでも本が読めるんだと、その当時興奮していた気がする。
その小説のタイトルは『透明な恋』。その本を読んだ瞬間に僕はこの作者の大ファンとなった。
シンデレラを題材にした作品で、ストーリーも情景描写の表現法も僕好みだった。
それに、どこか親しみが持てる不思議な読後感だったのを覚えている。読み終わって早速感想を書いたのだが、僕はその作品の感想を書いた最初の読者だったらしく、感謝の意が強く込められた由紀夫さんからの返信が届いた。
それが由紀夫さんとメールで繋がる大きなきっかけだった。
それから僕は由紀夫さんの過去作をひたすらに読み漁った。更新日が20年以上前となっている作品を見つけた時は、年上なんだと悟り、メールの文面にも気をつけるようになった。
ふと窓に目をやると、沈みかけた太陽は全てを焼き尽くすようにオレンジ色の光を僕の部屋へと放っていた。まるで頭上からオレンジジュースをかけられているようだった。
彼女がくれた水のおかげで僕は無事に我が家へ帰ることができていた。彼女には感謝しかない。さっきの謎の告白を除いて。スマホの画面を閉じると、僕は深いため息をついた。
彼女と会うのは正直気まずい。もともと仲がよかったら告白されたのも嬉しいかもしれないが、平凡な高校生の僕には彼女が遊び半分で告白しているようにしか思えなかった。だけど彼女は水を買ってくれた。熱中症で倒れそうになっていた僕に。
だからちゃんと返さないと。お金は倍にして、改めてお礼を言おう。それで終わりだ。気まずく思うことなんて何一つない。
今の僕の決心を見届けたように太陽の光は夜の訪れとともに消えていった。