貴史の部屋をノックしたのは、蒸し暑さが少しは和らいだ夕暮れどきだった。

 わたしはドアの前で、ノックすることを一瞬ためらった。

 一線を越えてしまう気がしたからだ。鼓動の速さが、何かを伝えようとしている。

 わたしは、唇をきつく結んでドアをノックした。


「どうぞ」


 いつもの貴史の声色で返事があった。

 ドアを開けると、貴史はシャープペンをノートに走らせていた。


「ちょっと、いいかな」


「いいよ。どうしたの?」


「うん……あのね、話があるの」


「なに?」


「わたし、同じ中学の先輩と、付き合うことにしたの」


「そう。それで?」


「あの……だから、貴史とは、もう、そういうことはできないの」


「そう。わかった」


「じゃあね。そういうことだから」


 わたしは貴史の目を見ることができなかった。


 貴史はいまどんな表情で、わたしを見ているのだろうか。怒っているのか。悲しんでいるのか。わたしには、わからない。

 わたしは部屋を出ようとした。

 ドアの前まで行くと、背中越しでも、貴史の視線が張り付いているのがわかった。寒気がした。

 ドアノブに手をかけようとしたとき、貴史が椅子から勢いよく立ち上がり、一直線に向かってきた。顔を俯けたまま。息が触れるほどの距離まで。


「貴史!」


 わたしは思わず名前を叫んだ。

 貴史は突然顔を上げた。

 貴史の目は、いままでに見たことのないような目をしていた。感情が全く読めない。

 次に貴史は右手で、わたしの左手を乱雑に掴み、ベッドまで引きずった。

 ベッドに、わたしを投げやって貴史が馬乗りになった。

 貴史の目に変わりはなかった。

 わたしは、怖くなり懸命に抗った。

 体中の力を振り絞り、貴史を押しのけようとした。どれだけ足掻いても、態勢は変わらない。やはり、貴史は異性だ。

 貴史はわたしの両手を広げて押さえつけた。すごい力だった。貴史にこんな力があったなんて考えたこともなかった。


「やめて」


 わたしは声の限り叫んだ。

 貴史は何も答えない。ただ、どこまでも暗くて黒い目で、わたしを見つめている。その目が怖かった。ただ。

 同じ態勢が、数十秒続いただろうか。わたしは足掻くことを止め、懇願するような目で貴史を見つめる。

 貴史の目に変化はない。

 貴史は、徐々に顔を近づけてくる。

 全身が粟立つ。怖い。貴史が怖い。

 こんなこと、初めてだ。

 貴史が怖いなんて。いつも一緒にいて、指を舐め合い、唇を重ねてきた。それだけで満たされていたのに。他には何もいらなかった。

 いまの貴史は、貴史ではない。何か邪悪な化身が乗り移ったように感じる。獲物を見つけた捕食者のように、貴史の目は一点に集中している。わたしの唇に。

 貴史の顔が目の前まで来ると、わたしは目を閉じた。こんなときでも、身体は流れに身を委ねる。

 貴史はぶつけるように、唇を合わせてきた。

 こんなことは嫌だ。こんなキスは嫌だ。

 わたしは、顔を左右に振る。

 貴史は頬を片手で押さえ、執拗にキスをしてくる。

 わたしは観念した。貴史の深部に触れた気がした。

 あまり感情を表に出さない貴史に、こんな激しい欲動が宿っていた。

 わたしは目を開け、虚ろな表情で貴史を見つめた。貴史は狂った玩具のように、私の唇を貪っている。すべてが嫌になった。

 次の瞬間、口のなかに血の味が広がった。わたしの血ではない。

 先に唇を離したのは、貴史だった。貴史の下唇から血が滴っている。


「どうして?」


 貴史は泣きそうな顔をして言った。

 わたしは、何も答えずに部屋を出ていった。