倉庫に辿り着くと、男は崩れるように座り込んだ。
奏澄は医者から受け取った薬を飲ませ、できる限りの手当てを施す。熱が高くふらつく男の頭を膝に乗せ、無いよりはましと荷物を隠すのに使っていたボロ布を男の体にかけた。
解熱剤が効くまでには暫くかかるだろう。汗が伝う額を、水で濡らした布でそっと押さえる。
「あんた、なんでここまでする」
熱でぼんやりしたままの男に問われ、奏澄は口ごもった。一言では、説明できない。
「俺が海賊だって、気づいてるんだろ。動けるようになったら、襲われるとは考えないのか」
「……海賊かもしれない、とは、医者から聞きました。あまり、現実感はないですけど」
奏澄の返答に、男は怪訝な反応をした。それを見て、ここでは海賊は一般的な存在なのかもしれないと認識を改める。
少し考えて、奏澄はぽつりと呟いた。
「……あなたも、私と同じ、ひとりぼっちなのかなって……」
ひとりぼっち。言葉にすると、その事実が重くのしかかる。
そのまま、奏澄はぽつりぽつりと語りだした。
「私、迷子みたいなんです。凄く……凄く、遠い所から来てしまったみたいで。ここには、知っているものが何もなくて、知っている人も誰もいなくて。帰り方も……わからなくて。なんだか、リアルな夢でも見ているような、気分で」
誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。話すことで、頭の中を整理したかったのかもしれない。熱にうかされた相手なら、深く考えないと思ったのかもしれない。
男は奏澄の独白を、黙って聞いていた。
「私、何もないんです。ここには、私を証明するものが、何もなくて。だから、実感が欲しかったのかもしれません。私がした、何かが。結果の残る何かが欲しくて、あなたを利用しました」
或いは、見返りを期待したのかもしれない。誰も手を差し伸べない孤独な男に自分を重ねて。男が救われるのなら、自分も、誰かに救ってもらえるのではないかと。孤独のまま打ち捨てられ野垂れ死ぬ人生など、存在しないのだと。そんな優しい世界を、期待した。
助けたかったのは、男ではなく自分だ。
それはひどく浅ましいことのように思えて、口にはできなかった。
――ああ、だから私は。
――世界に、捨てられたのかもしれない。
違う、違うと嘆くばかりで。出来損ないの自分を、それでも必要としてくれる誰かを欲した。何もできない自分が、それでもできることを欲しがった。
本当に必要とされたいのなら、なりふり構わずに、手を差し伸べれば良かったのだ。何もできなくとも。何を失っても。例え自分が、傷ついても。
自分が可愛い臆病者が、何も手放さないまま何かを欲しがるから。きっと、全部取り上げられた。
「もう、失くすものなんて何もありませんから。きっと、怖いものもないんです。例えあなたに殺されたとして、それは、私の見る目がなかったってだけの話です」
本心だった。全部失って、やっと気づいた。『うまくやろう』なんて、傲慢だったということに。
きっとうまくはいかないだろう。見返りは無いだろう。相手は感謝なんかしないだろう。
それでも、と思えなければ。最初から、求めるべきではないのだ。
ふと奏澄が視線を落とすと、男は目を閉じていた。眠っているのだろう。奏澄の話を最後まで聞いていたかどうかもわからない。
ひとり言のようになってしまったが、口にしたことで、奏澄は幾分かすっきりとした気分になっていた。
熱は少し下がったように思うが、まだ汗ばむ男の額を、奏澄は再度濡らした布で押さえる。
一晩中、そうして過ごした。
その間、奏澄はこの地へ来てから、一番穏やかな心持ちだった。
*~*~*
「……ん……」
瞼に光が差して、慌てて身を起こす。それに合わせて、奏澄の肩から布がずり落ちた。見ると、それは男の体にかけていたボロ布だった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。既に日が昇っているようで、倉庫の窓から日が差していた。
男はどうしたのだろうと周囲を見回してみるが、人の気配は無かった。
いなくなってしまったのか、と奏澄は多少気落ちした。だが、相手が海賊だということを考えれば、無事でいることだけでも御の字だろう。水や薬が入った袋もそのままだった。
ろくに話もできず、また一人に戻ってしまったことへの寂しさはあったが、おそらく奏澄にボロ布をかけたのは男だろう。あの強面な男の不器用な優しさを目にしたようで、奏澄はくすりと微笑んだ。
その瞬間、倉庫の扉ががらりと音を立てて開いた。
文字通り飛び上がって驚いた奏澄は、座り込んだまま入口へと勢いよく顔を向けた。
「あ……」
そこには、眠るまで共にいた男が立っていた。身なりは昨日とは変わっていて、血染めだったターバンやシャツは新しいものになっていた。
だが、何より奏澄が注目したのは、男の腰元だった。赤いサッシュベルトに差し込まれた、フリントロック式のマスケット。平成の世では博物館などでしか実物を目にする機会のない骨董品だが、それが銃であるということくらいは奏澄にもわかった。飾りではないだろう。武器を携帯しているという事実に、奏澄は戦慄した。
「起きたのか」
「え……あ、はい。あの、体調の方は」
「問題無い」
短くそう答え歩いてくる男に、奏澄は驚いた。僅かに庇うような仕草はあるが、自力で歩いている。あの怪我では暫くまともに動けないとばかり思っていたが、回復力が高いのだろうか。
「お前に渡すものがある」
「え? ……っわ!」
何かの袋を投げ渡されて、反射的に受け取る。中身を見ると、貨幣のような物が詰め込まれていた。ぎょっとして袋と男の顔を交互に眺める。
「それを渡す代わりに頼みがある」
戸惑う奏澄の目の前に、男が膝をついた。
「俺はメイズ。俺を、お前の傍に置いてほしい」
メイズと名乗った男の、真っすぐに射抜いてくる瞳に、奏澄は目を奪われた。
――海が、ある。
メイズの瞳は、深い海の色だった。それは、奏澄が持っていたサファイアの色によく似ていた。
色だけではなく。海賊だから、なのだろうか。メイズの瞳は、本当に海を湛えているように、奏澄の目には映った。
「これでも、それなりに名のある海賊だった。用心棒くらいなら務まる。お前に救われた命だ。お前の好きに使ってほしい」
喉が、震えた。孤独感に苛まれている奏澄にとって、一も二もなく頷きたいほどの言葉だった。
でも、救われたと、言ってくれた。自分の行いで、救えたものがあるのだと。それだけで、奏澄には充分だった。
だから、尋ねなくてはならない。
「あなたには、帰る場所は、ないんですか」
「無い」
「行きたい場所は。会いたい人は」
「何も無い。俺にはもう、何も無いんだ。だからあの時、死んでもいいと思った」
もう、何も無い。それはつまり、元々は持っていたということ。奏澄と同じように、メイズも、全てを失うほどの何かがあったのだろうか。
「だが、お前が助けた。俺が生きていることが、お前の成した結果だ。目の届く所に置いておけ」
「私は、あなたを、利用しただけです」
「それでいい。好きなだけ利用しろ。……少なくとも、お互い、独りではなくなる」
お互い、とメイズは言ったが、それが奏澄のためであることはわかりきっていた。
メイズは引かない。きっと奏澄が何を言っても、覆すことはしないだろう。
答えの代わりに、零れ落ちたのは涙だった。後から後から溢れ出して、止まらない。
この地に来てから、奏澄は一度も泣かなかった。無意識に、泣いてしまったら、そのまま崩れ落ちてしまいそうな気がして、歯止めをかけていたのだろう。それが今、メイズの言葉で決壊した。
泣きじゃくる奏澄を前にメイズはうろたえて、迷うように手を伸ばした後、ひどく不器用に頭を撫でた。
「すみません、もう大丈夫です」
「落ちついたか」
「はい。ありがとうございます。ええと……メイズ、さん」
「メイズでいい」
生粋の日本人である奏澄には、出会ったばかりの年上男性を呼び捨てることに抵抗があった。しかし、海賊ということは堅苦しいことは嫌いかもしれない。わざわざ断るのもどうだろう、と悩んだ結果、メイズ、と遠慮がちに小さく呟いた。
改めてメイズの姿を眺めて、我ながらよく声をかけたものだ、と奏澄は驚いた。
肌は日に焼けて浅黒く、目つきは鋭い。目の下の隈は色濃いままで、どうやら怪我の不調によるものではなく元々らしいことが見て取れた。年の頃は顔つきから三十代に思えるが、無精髭のせいか四十近くにも見える。短い黒髪をターバンでぞんざいにまとめ、服装は黒のパンツにブーツ、白のシャツとシンプルだ。それ故、唯一明るい色をした赤のサッシュベルトが目を引く。そこにあるマスケットは、依然強い存在感を放っていた。身長は一八〇に届かないくらいだが、奏澄よりはずっと高い。威圧感があり、一言で言ってしまえばガラが悪く、普段の奏澄なら絶対に関わらない種類の人間だった。
「名乗るのが遅くなってすみません。私は奏澄といいます。」
「カスミ、だな。詳しい事情を聞く前に、腹は減ってるか?」
「え?」
「軽くだが、食べ物を買ってきた」
メイズが取り出したパンの匂いで、奏澄は急に空腹を思い出した。緊張で忘れていたが、そういえば昨日から何も食べていなかった。ありがたく受け取って、それを口にする。
――おいしい。
何てことはない食べ物だが、空腹に沁みた。食べ物が買えないなど、今まででは有り得なかった。有難みと共に噛みしめていると、メイズも隣に座り込み、同じように無言でパンを齧りだした。
水で喉を潤し、ようやく人心地がついた。脳に栄養が回った気がする。やはり人間、食を疎かにしてはいけない。
とっくに食べ終わっていたメイズは、黙って奏澄の様子を窺っていた。奏澄が切り出すのを待っているのだろう。何からどう話せばいいのか悩みながらも、奏澄は口を開いた。
「私、知らない世界に来てしまったのかもしれません」
それを聞いて、メイズは眉を寄せた。何と返したものか、迷っている風情だった。言葉選びを間違えてしまったかもしれない、と慌てて奏澄は取り繕う。
「あ、えと、変なこと言ってますよね! 自分でもおかしいとは思うんですけど」
「遠い所から来たとか言ってたな。どこから来たんだ?」
「え? あ……日本、という島国なんですけど」
「ニホン……聞いたことがないな。どこの海域にある」
「その、海域……というのは、太平洋とか、大西洋とか、そういう……?」
「どんな僻地の島でも、どこかしらの海域には属しているだろう。今いるのは赤の海域、ブエルシナ島だ」
「あかの……海域……」
「……わからないのか」
このやり取りで、メイズは奏澄が『海域』という概念そのものが理解できていないことに気づいたらしい。最初の女店主と同じだ。きっと、ここでは常識なのだろう。何となく恥ずかしい気持ちになって、奏澄は俯いた。それをメイズは笑うでもなく、木片を手にすると地面に簡単な図を描きながら、淡々と説明を始めた。
「把握されていない島も含めて、ほぼ全ての島が六つの海域のどこかに属している。赤の海域、緑の海域、青の海域、金の海域、白の海域、黒の海域。この海域を分けているのは白の海域にある『セントラル』という大国だ。実質世界を取り仕切っている。唯一大陸を持っているからな」
「唯一……じゃぁ、他に大陸はないんですか?」
「ああ。全部島だ。その数も位置も全ては判明していないが」
図によると、大雑把に地球で言うところの南極に白の海域、北極に黒の海域があり、残りを緯度で四分割して赤、緑、青、金に分けているらしかった。
改めて説明されて、いよいよ奏澄はここが別の世界なのだと確信した。何もわからないから、ぼんやりそうなのではないか、という思いはあったが、信じ難かった。しかし、世界に大陸が一つしかない、などと言われて、自分のいた世界だと思えるだろうか。過去にタイムスリップしたにしても、そんな歴史はなかったはずだ。『セントラル』なんて国も聞き覚えがない。世界を統治するほどの国名ならば、忘れるはずがない。
「私の……いた世界には、大陸は複数あって。一つの国だけが世界を治めているなんてことも、なくて。そもそも、私の国……日本だって、それなりに有名な国なんです。名前を出せば、政府が助けを手配してくれる程度には。だから、ここは……この世界は、多分、私のいた世界とは……」
「違う世界だ、って?」
言葉に詰まった奏澄の台詞を拾うメイズに、奏澄は頷きだけで返した。別の世界から来たなんて、頭がおかしいと取られても仕方ない。実際、気が狂ってしまったのかもしれない。あるいは、やはり夢でも見ているのか。
「それで、お前はどうしたい」
驚いて、奏澄は勢いよくメイズの顔を見た。
「なんだ」
「え……あ、その、信じるんですか……?」
「嘘なのか?」
「違います! 本当です……けど、でも」
「何が起きても不思議じゃない。そういう場所だ、海ってのは」
「そ、そうなんですか」
「それに、例え騙されていたとしても、それは俺の見る目が無かったってだけの話だ。――だろう?」
自分の言った言葉を冗談混じりに返されて、奏澄は驚きに目を丸くした後、込み上げてくるものを堪えながら微笑んだ。
「自分を信じてくれる人がいるのって、こんなに、嬉しいんですね」
寄せた信頼が、そのまま自分に返ってくる。メイズが、奏澄の鏡となってくれている。姿を映して、自分の存在が、自分にもわかる。それが、とても心強かった。
「私……私は、元いた世界に、帰りたいです」
突然放り出されてしまった世界。けれど、自分が生まれ育った世界だ。自分を作ったもの全てがそこにある。ならば、帰るのが道理だろう。
「わかった。なら、方法を考えないとな。何か心当たりはあるか?」
「心当たり……と言われても」
「何でもいい。そもそも、お前はどうやってここに来たんだ?」
「どうやって……。ええと、高台から、海を、眺めていました。そうしたら、突然、誰かに突き落とされて……気がついたら、この島の海辺にいたんです」
「突き落とされた? 相手は?」
「見ていません。押された、と感じただけで、本当に人がいたかどうかも定かではなくて」
「そうか……。他に何か気づいたことは?」
「すみません、特には……」
あまりの情報の少なさに思わず俯いてしまう。思い返しても、何の手掛かりも浮かばない。本当に突然のことだった。人為的なのか、事故なのかすら判別できない。
奏澄の知識で考えるなら、神隠しといったところだろうか。ファンタジーな発想だが、現状が充分ファンタジーだ。鳥居、トンネル、森。現世との境目と呼ばれる場所は数多くある。それが今回は海だったのかもしれない。
「メイズ、には、何か心当たりはありますか? 例えば、別の世界から人を呼べる魔法があるとか、そういう場所や道具が存在するとか」
名前をスムーズに呼ぶには、まだ幾分か慣れが必要そうだ。ほんの僅かつっかえてしまったことに恥ずかしさを感じながらも、奏澄は平静を装った。
聞かれたメイズは、少し考え込むようにしながら言葉を発した。
「魔法を使えるって話は聞いたことが無いな。セントラルの奴らなら、そういう研究をしている可能性も無くはないが、少なくとも表立っては無い」
「セントラルでは、そういう超常現象的なことは『有り』なんですか?」
「『有り』かどうか聞かれれば、基本的には『無し』だ。ただ、白の海域は大昔、神や天使が存在していたと言われている。まぁ、神話レベルの話だが、あそこは秘密主義でもあるから、絶対に無いとは言い切れない、というところだな」
「神話レベル……。伝承や、御伽噺のレベルなら、別世界から人が迷い込んだ話はありますか?」
記憶を辿るように目を伏せ、暫く沈黙した後、思い当たることがあったのか、メイズは口を開いた。
「御伽噺というか、噂話なら聞いたことがある。酒場で海賊に聞いた、眉唾ものの話だが」
「! どんな話ですか」
「この世界は、さっき言った六つの海域に分かれている。だが、それとは別に世界のどこかに『無の海域』が存在し、その海域には『はぐれものの島』と呼ばれる場所がある、という話だ」
「はぐれものの……島……」
「無の海域に入った船は突然姿を消してしまうとか、逆に奇妙なものや人が現れるとかで、異界に繋がっている場所なんじゃないかという噂らしい。そして、消えたり現れたりした、文字通り『はぐれた』ものたちが集まって暮らしている島が『はぐれものの島』だそうだ」
異界と繋がる場所。近づくと船が消える海域。バミューダトライアングルのような場所だろうか、と奏澄は解釈した。
「未知のものが大量にある島が手に入れば、一攫千金が狙えるとかいう夢物語だったからな。すっかり忘れていたが……。今のお前の状況を考えれば、全くの無関係でもないかもしれない」
「他に、手掛かりは何もないんです。なら、行きたいです。その場所へ」
力強く訴えた奏澄に、メイズは渋い顔をした。てっきり即答してくれると思っていた奏澄は、内心焦った。やはり、あるかどうかもわからない場所へ行きたい、というのは無謀が過ぎたのだろうか。
「無の海域を探す、ということは、海に出るということだ。海には危険も多い。お前には……似合わない」
ゆらり、とメイズの瞳の青が揺らめくのを見た。奏澄は、その瞳に、海を見た。
「そうだ、どこか腰を落ちつける場所を見つけて、そこで情報を集めてもいいんじゃないか。場所がはっきりしたら向かえばいい」
「いえ、行きましょう。海へ」
メイズの言葉を遮るようにして、奏澄は言い切った。驚いたメイズの視線を、真正面から受け止める。
「……お前が思っているほど、海は優しいところじゃない」
「わかっています。でも、海賊でなければ海に出られない、というわけでもないでしょう。危険はあるかもしれませんが……メイズが、守ってくれるんでしょう?」
全幅の信頼を寄せた笑顔に、メイズの目が釘付けになる。
「私、海が好きなんです。陸でも海でも足手まといなことには変わりないんですから、どうせなら好きな方が頑張れると思うんです」
「……わかった。用心棒をやるって約束だしな。命に代えても守ってやる」
「命には代えないでください。それは約束違反です」
「あぁ?」
「傍にいる、という約束でしょう。それが最優先です」
「――……。わかった」
その返答に、奏澄はほっとしたように笑みを浮かべた。この人はきっと、口にした言葉を違えない。そう思えたからだ。
メイズの表情を窺えば、心なしか嬉しそうに見えた。奏澄は、自分の選択が間違っていなかったことに安堵した。
メイズは海賊だ。長い間、海で暮らしてきたのだろう。ならば海に焦がれるのは当然だ。奏澄の傍にいるとは言ってくれたが、できることなら海に出たいはずだ。
だが、奏澄は見るからに平凡な一般人でしかない。海での長旅に耐えられないと判断したのだろう。奏澄のために、メイズは海を諦めようとした。
奏澄は、メイズから海を奪いたくはなかった。海の瞳を持つ人を、どうして海から引き離すことができよう。
だから、自分から海へ出たいと告げた。わがままだと思われても、それだけは通したかった。海が好きだというのも嘘ではない。
未体験の船旅に不安も緊張もあったが、恐怖は無かった。メイズが共にいてくれるのなら。
「となると、旅の準備をしないといけないな。資金は、それで足りるだろう」
「あ、そうだ……お金、あの、ありがとうございます。いつになるかわかりませんが、ちゃんと返しますので」
「気にするな。それはお前の金だ。それに、稼ぐあてもないだろう」
「それは……そうですけど……」
金銭面を全面的に頼るというのは人としてどうなのか、と思わなくもないが、現状奏澄に金を稼ぐ手段は無い。約束もできないので、そのまま黙ってしまう。
「まずは服をなんとかしないとな」
言われて、奏澄は自分の姿を見下ろした。メイズの手当てをするために破ってしまったので、確かにこのまま出歩くのは躊躇われる。それに海水を吸ったせいで塩が付いている。
ついでに髪を触って、ぱらぱらと落ちてくる塩に顔を歪めた。顔や目立つ部分は濡らした布で軽く拭ったが、できれば髪も洗いたい。
「あの……できれば、なんですけど。お風呂に入れるような場所は、ありますか……?」
おずおずと遠慮がちに声をかける。わがままになってしまわないか心配だったが、日本人として衛生面はやはり気になる。聞くだけ聞いておきたい。もしかしたら、銭湯のような場所があるかもしれない。
「この島には、風呂屋は無かった気がするな。宿屋でなら湯を貰えると思うが」
「そうですか……」
宿屋、ということは宿泊施設だ。泊まらないのに風呂だけ借りるのは無理だろう。
奏澄はしゅんとしたが、メイズは少し考えて口を開いた。
「泊まるか」
「えっ、いいんですか」
「船を手配する必要もある。昨晩は倉庫だったし、一晩ベッドで体を休めてから出発した方がいいだろう」
願ってもない提案に、奏澄は内心両手を上げて喜んだ。宿泊費用というのは結構かかるイメージがあったので、ちゃんとした宿屋に泊まるとなると資金が足りないのではないかと不安だった。もしかしたらこの先野宿かもしれないとすら覚悟していた。意外にあっさりと泊まる選択肢が出てきたことで、罪悪感も僅かに薄らいだ。
とにもかくにも、まずは着替えが必要ということで、二人は服屋に向かった。
奏澄は並べられた服を手に取り、シンプルなものを数枚ピックアップしていく。
「すみません、決まったので、これでお会計で」
奏澄はこちらの貨幣がわからないので、財布はメイズが持っている。ものの数分で服を選び終えた奏澄に、メイズは驚いたようだった。
「早いな」
「機能性だけなら大差ないですし、おかしくない程度であればいいので」
「女の買い物ってのは、もっと時間がかかるもんだと思ってたが」
メイズの台詞に、奏澄は苦笑を返した。勿論、自分も普段ならもっと時間をかけて、あれこれ試してみたくもなっただろうけれど。
船旅におしゃれも何もないだろう。そのあたりは最初から捨てた。それに、正直こちらのファッションセンスはよくわからないので、自分の価値観で決めても良いものが選べる気がしない。無難が一番、という結論になっただけのことだった。
金銭のやりとりを見て学んでおこう、とメイズの隣で顔を覗かせていると、店員の女性が朗らかに笑いながら声をかけた。
「親子で買い物ですか? 仲がよろしいんですね」
「親……? ち、違います、兄です!」
「あら、ご兄妹でしたか。失礼しました」
言われた言葉に驚いて、咄嗟に嘘をついてしまった。ちらりとメイズの顔を窺うが、平然としている。別に関係性を答える必要も無いのだから、適当に笑って流しておけば良かったのに。もしかしたらメイズがショックを受けるのでは、などと余計な気を回して変なフォローをしてしまった。自分が空回ったようで恥ずかしくなる。
品物を受け取って宿屋へ向かう道中、こっそりとメイズの顔を眺める。二人で歩いていたら、どんな関係に見えるのだろう。全然似ていないのだから、親子というのはやはり無理がありそうな気がする。それでいくと、兄妹も無理がある。いやでも、家族だからといって血縁関係があるとは限らない、などと思考していると、メイズが視線に気づいた。
「どうした」
「えっ。あ、いえその。私たち、傍から見ると、どういう関係に見えるのかと」
「ああ、さっきのか。聞かれたら、適当に親子でも兄妹でも言っとけばいいんじゃないか」
「親子というほど、離れてないでしょう」
「そうでもないぞ。お前くらいの娘ならいてもおかしくはない」
「……失礼でなければ、メイズはいくつなんですか?」
「正確に数えちゃいないが……多分、三十五かそこらだな」
三十五。年齢を差し引きして、こちらではいくつくらいから家庭を持つのだろうなぁと考えながら、やはり奏澄の常識では不可だ。
「うーん……やっぱりちょっと無理があるような」
「お前はいくつなんだ?」
「女性に年齢を尋ねるものではありませんよ。まぁ、一応成人はしてます」
「成人……?」
「ああ、成人年齢が違うかもですね。私のところはニ十歳で成人なんですけど」
そう答えると、メイズが目に見えて驚いた。その反応に、嫌な予感がする。
「あの……いくつだと思ってたんですか?」
「てっきり十五、六のガキかと」
アジア人は幼く見えると言うが、ショックではある。まさか子どもだと思われていたとは。恩人だから優しくしてくれているものと思っていたが、もしかしたら子ども扱いが含まれていたのかもしれない。
そんなに子どもっぽく見えるだろうか、とむくれる奏澄に、メイズは気まずそうに頬をかいた。
「女ってのは、若く見られたいもんだろ。いいじゃねぇか」
「若く見られるのと、幼く見られるのは違います」
「大差ないだろ……」
言いながらも、困ったように見えるのは、悪かったと思っているのかもしれない。奏澄も別に怒っているわけではないのだが、内心の不満が顔に出てしまったことは、大人げなかったと反省した。
そうこうしている内に宿屋に着き、メイズが主人に声をかける。
「二部屋、空いてるか」
「二部屋、ですか? 二人部屋ではなく?」
「いや、二部屋で」
それを聞いて、奏澄は部屋の相談をしていなかったことに気づいた。メイズは当然のように二部屋、と言ったが、普通に考えて二部屋取る方が費用がかかるに決まっている。最初からそのつもりだったのかもしれないが、もしかしたら、先ほど成人していると伝えたことで、気をつかわせたのかもしれない。
常であれば奏澄とて成人した異性と同室に泊まろうなどとは思わないが、状況が状況である。可能な限り節約した方が良い。
この世界に来て、金が無いために水も食料も手に入れられなかった奏澄は、金銭に敏感になっていた。
「メイズ、もし嫌でなければ、同室にしましょう」
奏澄の提案に、メイズは驚いたようだった。意図が間違って伝わったかもしれない、と慌てて続ける。
「これからたくさんお金がかかるんですから、できる限り節約しましょう。それに、護衛と言うなら、見えるところにいてくれた方が安心です」
「……お前がそれでいいなら」
メイズは主人に声をかけ、二人部屋を用意してもらうようだった。それを見届けて、奏澄はほっと胸を撫で下ろす。
実は内心どきどきしていた。今まで、奏澄はあまり自分の意見を通すということをしてこなかった。主義主張が無いわけではないが、特別必要な場面でなければ、周りに合わせるタイプだった。
でも、これからはそうはいかない。メイズはあくまで、奏澄に随伴している。旅の主導は奏澄だ。目的、指針、規律。そういったことは、奏澄が自ら考えて主張していかなければ何も進まない。
――変わらなければ。
口には出さずに、奏澄はそっと決意した。
部屋に荷物を下ろすと、メイズは再び買い物へ出かけた。ある程度必要な物は一人で揃えられるから、その間に奏澄はゆっくり湯浴みすれば良いという配慮だった。
仮にも怪我人であるため、荷物を持たせることを奏澄は渋ったが、本人が全く問題無いと言い張った。それ以上意固地になっても堂々巡りになりそうだったので、奏澄が折れた。
気づかいに甘えて、奏澄は温かな湯を被った。ほっとする温度に僅かに心が解れる。しかし、すぐに肩に涼しさを感じて苦笑した。
風呂屋が無い時点でそんな気はしていたが、やはりシャワーは無かった。そもそも浴室があるわけではなく、深めの木桶に沸かした湯を入れて、差し水で温度を調整する形だった。深めと言っても当然肩まで浸かれるはずもなく、またバスタブのような保温性も無いため、湯の温度はどんどんぬるくなっていく。
気温が高いから風邪をひくことはないだろうが、あまりのんびりするものでもなさそうだ、と溜息を吐き、奏澄は手早く体を清めた。
買ったばかりの服を身につけ、姿見の前で確認する。麻で出来た生成りのシャツに、ゆったりとした紺のパンツ。温暖なブエルシナ島らしい、涼し気な着心地だった。襟元は開いており、そこに見慣れたネックレスが無いことに寂しさを覚える。首を振って、その気持ちを払った。あれは必要だった。その選択を、後悔などしていない。
ベッドに倒れこんで思い切り息を吐く。メイズが戻ってくるまでもう少し時間があるだろう。久しぶりの柔らかい感触に、泥のように沈んでしまいそうだった。すぐに出かけなければならないのだから、あまり深く眠らないように、と自分に言い聞かせて、奏澄は目を閉じた。
*~*~*
何かを叩く音に、奏澄の意識が引き戻される。ああ、これはドアをノックする音だ。メイズが戻ってきたのだろう。重たい瞼をむりやり動かそうとして、眉間に皺が寄る。
少し間を開けて、再度ノックの音がした。慎重な男だ。鍵は持っているのだから、このノックは奏澄に気をつかってのことだろう。返事にならない呻き声を上げつつ、のっそりと身を起こす。それと同時に、メイズがドアを開けた。
「寝てたのか?」
「すこし」
微妙に呂律が回っていない。意識をはっきりさせようと、こめかみをぐりぐりと押した。
「眠いならもう少し寝てるか?」
「いえ、明日発つんですから、今日中に買い物を済ませないと。出ます」
メイズも中途半端に待たされても困るだろう。気合を入れるため、勢いをつけてベッドから立ち上がる。
「行きましょうか」
「ああ」
メイズには聞きにくい、女性に必要な諸々については、湯を用意する時に宿屋の女将に聞いておいた。それらを思い出しながら、スムーズに買い物が済むことを願って、奏澄はメイズと共に宿屋を出た。
*~*~*
「だいたい揃ったか?」
「そうですね、概ね」
身なりも整え、金銭を持っていれば、買い物は何事もなく済んだ。最初こそ身構えたが、何てことはない。元の世界と同じように、人の営みがあるだけ。地域性はあるだろうが、この世界の人間が特別冷たいわけでも優しいわけでもない。むしろ言葉が通じる分、元の世界の外国より難易度は低かったかもしれない。そう考えることで、奏澄は異様とも思えたこの世界を、少しだけ身近なものに感じることができた。
買い物のシステムも、特に困惑することはない。通貨の概念があるので、基本的な計算さえできれば問題なかった。貨幣は世界共通で、金貨・銀貨・銅貨の三種類。島によっては物々交換でないと応じない場所もあるそうだが、ほとんどの島では貨幣が使用できる。しいて言えば、レジスターが無いので、おつりを誤魔化されたりしないか、物の値段が正しいかを注意しなくてはならない。
「宿に戻りますか?」
「いや、最後に寄る所がある」
「寄る所?」
「武器屋だ」
「武器……」
日用品を買い揃えて、すっかり気が抜けていた奏澄の心が急激に張り詰める。
武器。そうだ。この世界は、武器の必要な世界なのだ。メイズが腰に下げているものは、飾りではない。海に出ようと言うのなら、奏澄にも覚悟が必要だ。
重い扉を開けると、中には銃器や刃物の類が平然と並んでいた。思わず生唾を呑む。
メイズは慣れたように店員に話しかけ、何かを探してもらうようだった。
「その銃以外にも、武器がいるんですか?」
「使えなくはないんだが、これは使いにくい。できれば慣れた銃が欲しくてな」
「あれ? この銃、メイズのじゃないんですか?」
「これは俺のじゃ――……」
言葉を途中で詰まらせ、メイズは目を逸らした。まずいことを聞いただろうか、と奏澄が不安に思い始めたところで、店員がメイズを呼んだ。
「悪い、何か使えそうなの見ててくれ」
「はい」
メイズが店員とやり取りしている間、奏澄は店内を見て回った。使えそうな物、と言っても、奏澄は武器を扱ったことなどない。触れることもためらわれて、文字通り眺めているだけだ。
銃なら引き金を引くだけだから、扱いやすいだろうか。でも、手入れができる気がしない。
剣なら持っているだけで見栄えするだろうか。でも、まともに使えるまでには相当訓練が必要だろう。
他にも種類はあるようだが、何に使うのかよくわからないような物まである。スタンガンでもあればわかりやすかったのに、と思ったが、無いものは仕方ない。
「良さそうな物はあったか」
「さっぱりです……」
目に見えて眉を下げる奏澄に、だろうなという表情のメイズ。腰元には、変わらないマスケットが差し込まれていた。
「メイズのお目当てはなかったんですか?」
「ああ、交易はあるようだからもしやと思ったんだが、もっと大きい島じゃないと駄目だな」
残念そうに溜息を吐くメイズに、奏澄も同調する。武器のことはわからないが、馴染みの物が無いというのは不安だろう。それが命に直結するものなら、尚更。
せめて奏澄は何かちゃんとした物を買わなければ、と気を取り直して武器と向かい合った。
「初心者が扱いやすい武器って何かあります?」
「そうだな……どんな武器でも扱うには心得が必要だが、護身用ならナイフで充分じゃないか」
そう言って店内を見回すと、メイズは小型なナイフを一つ手に取った。
「このくらいは持っておいた方がいい。武器として使わなくても、あれば役に立つ」
「なるほど」
確かに、島々を渡り歩くのなら、サバイバルという観点からもナイフはあった方がいい。刃物を身につけることに抵抗はあるが、丸腰というのも嘗められる要因になる。
とはいえ。とはいえ、だ。
「私に、使えますかね」
じっとナイフを見つめる。これは人を傷つける道具だ。今まで生きてきて、奏澄は人を殴ったことすらない。いざという時が来たとして。自分に、これを扱えるだろうか。その覚悟は、持てるだろうか。
思わず口にした後で、これではただの弱音だと気づき慌てて取り繕おうとする。だが奏澄がそうするより早く、メイズが口を開いた。
「お前がそれを使わなくていいようにするのが、俺の役目だ」
息を呑む奏澄に、メイズは言葉を続けた。
「だが、絶対は無い。万が一の事態は常に考えておけ。他の誰を害しても、お前は、自分を一番に考えろ」
その『他の誰か』には、メイズも含まれるのだろう。それに気がついて、奏澄は唇を引き結んだ。
メイズは、何を犠牲にしてでも、奏澄を守ってくれるだろう。奏澄が自分自身を守れなければ、失うのは奏澄の命だけではない。自分を守るということは、メイズを守るということだ。
「わかりました」
その返事に、メイズは僅かに目を眇めた。
宿に戻り夕食を済ませ、奏澄はメイズと明日の予定についての確認をする。
「この島からは定期船は出ていないらしい。代わりに、近くの島まで商船が出るから、それに同乗できるよう話をつけておいた」
「ありがとうございます。近くの島って、どんな所なんですか?」
「アルメイシャ島といって、そう離れていないし、同じ赤の海域だから、ここと大きくは変わらない。向こうの方が大きい島で、出入りする商船も多いから、目新しいものは多いかもな」
「アルメイシャ島……。そういえば、地図とかってあるんですか?」
「あるにはあるが、簡易的な物しか持っていない。もう少しちゃんとした物をアルメイシャで買う予定だが」
そう言ってメイズが広げた地図は、奏澄には見方がよくわからなかったが、確かに簡易的に思えた。
「これ、海図……ですか?」
「そうだ。読めるか?」
「いえ、残念ながら」
「別に覚える必要は無い。自分たちで船を持つならいずれ航海士も必要だろうが、当面は定期船や商船を乗り継ぐことになるだろう。俺もある程度ならわかる」
「それは心強いです……。簡易的と言っていましたが、地図は統一されていないんですか?」
「そのあたりは複雑でな」
考えるように口元に手をやって、メイズは説明を始めた。
「結論から言えば、今把握されている範囲内で、最も正しいと思われる地図はセントラルが持っている」
「セントラルって、たしか唯一大陸を持ってるっていう、大国ですよね。そこに行かないと買えないってことですか?」
「行かなくても買えるが、行っても普通は買えない」
「一般的には販売されていない?」
「そうだ。島々を行き来するような船は、ギルドに登録することでセントラルに許可を得ている。許可があれば、ギルドから必要な範囲の地図を買える。だが、許可が無ければ、例えセントラルに出向いても買うことはできない」
「世界を取り仕切っているって、そういう……政府の役割を担っているんですね。その許可を取るのって難しいんですか?」
疑問を口にした奏澄に、メイズは少し沈黙して口をへの字に曲げた。
「忘れているかもしれないから一応言っておくが、俺は元海賊だからな」
「あっいえ、すみません! 忘れていたわけじゃないですよ! ただ、純粋に気になったというか」
気を取り直すように一息吐いて、メイズは説明を再開する。
「ギルドへの加盟自体はそう難しいことじゃない。ただ、デメリットも大きいから、どの船も必ずしも加盟しているとは限らない、ってところだな」
「デメリット?」
「セントラルへの納税とか、行動にかかる制限とか、まぁ色々だ。だから、セントラルが発行しているものとは別に、任意で地図が発行されている。近場でしか商売しない船ならそれで充分事足りる」
「ということは……売られている地図が、正しいとは限らないってことですね」
「そうなるな。信頼できるところから買うか、数枚の地図を照らし合わせて信憑性を測るか、自分たちで測量するか」
「メイズは……」
航海中、どうしていたのか?
言いかけて、口を噤む。メイズが航海していたのは、元の海賊団にいた間だ。否が応でも思い出すだろう。傷をえぐることになるかもしれない。
「メイズは、測量はするんですか?」
言おうとしたこととは別の言葉でごまかす。メイズは一瞬訝しんだが、気にしなかったのか、ごまかされてくれたのか、そのまま答えた。
「俺はそこまではできないな。できたら、いい稼ぎになったんだが」
「測量できると儲かるんですか?」
「出来のいい地図は欲しがる奴も多いし、何よりセントラルが高値で買い取る」
「元海賊からでも?」
「セントラルは海賊から地図を買い取っているぞ」
「えっ!?」
奏澄は驚きのあまり声を上げた。仮にも行政機関と思われる国が、賊と取引をしても良いものなのだろうか。先ほど、ギルドには加盟できないようなことを言っていたのに。
「セントラルにも勿論測量士はいる。それでも、危険な区域に入るのは断然海賊が多いし、何より手間だからな。複数の船から地図を買い取って、必要なら調査をする。正確性を増すために、既に作成されている場所の地図でも場合によっては買い取ることもある」
「政府なのに海賊と取引するんですね……」
「堂々と仲良くしているわけじゃないが、全面的に敵対しているわけでもない。そもそも、セントラルの許可を得ずに勝手に海域を超えて商売しているような船はだいたい海賊だ。全てを取り締まっていたら成り立たないだろう」
「なるほど……?」
返事はしたものの、あまり理解はできていない。奏澄の認識では、海賊というのは映画やニュースで見聞きした程度のもので、略奪行為を行う犯罪者という印象しかなかったが、そう簡単なものではないらしい。
どの世界でも、悪と正義は裏表なのだろう。表立って手を結んだりはしないが、利害が一致すれば利用はする、といったところか。
かつて英国では、エリザベス一世が海賊を重用することで国を発展させていた。彼女が騎士の称号まで与えた海賊を何と呼んだか、奏澄が知るはずもない。
「でも、ちょっと安心しました。てっきり海賊は政府から目の敵にでもされているのかと思いましたが、そうでないのなら、メイズも特にセントラルの目を気にする必要はないんですね」
ほっとして笑顔でそう告げると、メイズは気まずそうに目を逸らした。
「メイズ?」
「…………いずれわかるから言っておくが、俺は、指名手配されている」
指名手配。
馴染みのない単語に、奏澄の脳がフリーズする。
わかっていたようで、わかっていなかったのかもしれない。メイズが、海賊だということを。
出どころのわからない大金。自分のものではない武器。違和感には気づいていたのに、気づかない振りをした。メイズが、隠したがっているように見えたから。
それは言い訳でしかないかもしれない。それでも、そうすることが、今は正しいと思った。
指名手配されている理由を聞けば、おそらくメイズは答えるだろう。だが、聞かれたくはないはずだ。少なくとも、今はまだ。
奏澄はメイズが善人だから助けたわけじゃない。奏澄が何者であってもメイズが傍にいてくれたように、奏澄もメイズが何者であっても傍にいたいと思っている。
「なら、あんまり目立たないようにしないといけませんね」
メイズを安心させるように、努めて笑顔で告げた。メイズは一瞬呆けた後、微かに笑って「ああ」と答えた。その顔が、何故か奏澄には泣いているかのように見えた。
盲目が罪ならば、喜んで共犯者となろう。この目を覆う掌の温かさだけ、信じていればいい。
どことなく気恥ずかしい空気の中、朝も早いのでもう就寝しようということになり、明かりを消してベッドに潜った。メイズと奏澄のベッドの間には衝立があり、お互いは見えなくなっている。それは言うまでもなく配慮なのだが、奏澄は言い知れぬ不安を感じていた。
そういえば、昨晩はメイズの看病をしていたから、この世界で一人で眠るのは初めてだ。昼間に少しうたたねはしたが、明るかった時とは気分が全く違う。
同じ部屋にメイズがいるのだから、一人とは言えないかもしれないが、真っ暗な慣れない部屋の中、冷えた体を包む布団は、いつまでも温まらなかった。
「眠れないのか?」
衝立の向こうからかかった声に、奏澄の心臓が跳ね上がった。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いや、別に」
足先が冷たくて、もぞもぞしていたのがうるさかったかもしれない。しんとした部屋では、僅かな衣擦れの音さえ耳につく。奏澄は反省して、動きを止めた。
「夜は冷えますね。昼間の暑さが嘘みたいです」
「ここは寒暖差があるからな。寒いのか?」
「少し」
「そうか。なら、追加で毛布を貰ってくるか」
「え、いや、いいですいいです! 宿の人も眠っているでしょうし」
「なら、俺の毛布を使うか?」
「それじゃメイズが風邪ひきますよ」
「そんな柔な作りはしていない」
「どうせ柔ですよー……」
軽口を叩けば、息を漏らすような笑い声が聞こえた。それで思わず気が緩んだのかもしれない。
「そっち行ってもいいですか?」
言った瞬間、しまった、と思った。テンポ良く返ってきていた衝立の向こうからの声は聞こえない。返答が無いことが、余計に奏澄を焦らせた。
「ご、ごめんなさい。深い意味はなくて、一緒に寝たら温かいかなって思ったので、昨日は一緒だったし、その」
「落ちつけ」
「すみません……」
聞かれてもいないのに言い訳を並べ立て、墓穴を掘った気しかしない。羞恥で頭を抱える奏澄の耳に大きな溜息が聞こえて、ますます顔が熱くなる。
「お前はもう少し考えてから発言しろ」
「返す言葉もありません……」
「その上で、来たいなら別に好きにしろ」
奏澄は思わず身を起こしてベッドの上に座り込んだ。聞き間違いでないのなら、メイズはどうやら一緒に寝ても構わない、と言った。僅かに逡巡したが、迷っていたら無かったことにされる気がした。ベッドから降りて、そっと衝立の向こうに顔を出す。
それに気づいたメイズが、仕方なさそうにベッドの端に身を寄せた。
「お邪魔しまーす……」
小声で言って、メイズのベッドに潜り込む奏澄。人の体温が感じられて、思わず照れ笑いする。
「早く寝ろ」
「わ」
長い腕でがばりと抱えられたかと思うと、とんとん、とぎこちないながら背中を一定のリズムで叩かれる。
――あやされている。
そういえば、メイズは奏澄のことを子どもだと思っていた。年齢の話をした後でも、見た目の印象が強いのか、メイズからしたら子守をしている感覚なのかもしれない。
それならそれで、奏澄としても気負わなくていいので楽だ。本当に子守だったら不器用にもほどがあるが、奏澄は子どもではないので上手くなくても汲み取れるから問題は無い。
心地良いリズムと、体温と、落ちつく匂いがして、奏澄の意識がまどろんでいく。先ほどまで眠れなかったのが嘘のように、あっという間に夢へと沈んだ。
「――……」
穏やかな寝息を立てる奏澄を、メイズはじっと見下ろした。
その細い首に指をかけ、ほんの僅かに力を入れる。彼女は呻くことも払うこともせずに、ただただメイズに身を預けていた。
あと少し力を入れれば折れてしまうこの首の、なんと脆いことか。容易く奪える命を晒すことの、なんと無防備なことか。
メイズは回していた腕を退け、彼女から距離を取ろうとした。だが、温もりが離れることを拒むように、奏澄の手がメイズの服を握りしめた。
縋るようなその行為にメイズは戸惑って、やがて彼女の体をおそるおそる抱き締めた。まるで壊れものを扱うかのように、そうっと。
太陽の眩しさを感じて、段々と意識が覚醒する。ぼうっとしたまま、奏澄は目をぱちぱちと瞬かせた。
「起きたか」
声をかけられて、反射的にがばっと身を起こす。
「そう慌てなくても、まだ時間はあるぞ」
「おはよう、ございます」
先に起きていたのだろうメイズは、すっかり身支度を整えていた。髪がぐちゃぐちゃになっていないか、変な顔をしていないか気になって、何となく隠しながら挨拶をする。しかし、今更な気もしていた。なんだかんだで随分な姿を見られている。
衝立を挟んで、奏澄も身支度を済ませる。ぐっすり眠れたので、幾分顔色もいい。最後にナイフを差し、よし、と軽く頬を叩いて気合を入れた。今日からはいよいよ、旅に出るのだ。
「お待たせしました」
衝立を片付けて、メイズに声をかける。今日の予定を確認し、朝食は船で取ることにして、宿を出た。船着き場に向かうと、商船の乗組員たちが騒がしく準備をしていた。
「わぁ……」
思わず口を開けて眺めてしまう奏澄。初めて目にする光景に興味を惹かれるが、あまりじろじろ見ても失礼だろう、と視線を外す。それでも、隠し切れない好奇心から、ちらちらと窺ってしまう。
「商船にも、武装した人たちがいるんですね」
「あれは護衛だな。乗組員が兼ねていることもあるが、この船は割と真っ当な商船だから、外部の者を雇ったんだろう」
「真っ当な……。ちなみに、真っ当でない商船というのは」
「海賊」
「ですよね」
船長に挨拶を済ませ、ハッチから船内に乗り込む。邪魔にならないスペースに腰を落ちつかせると、大きな声がして船が動き出した。どうやら出航したようだ。揺れで落とさないように注意しながら、簡単な朝食を取る。
「そういえば、船に乗った経験はあるのか」
「短時間なら。でも、帆船は初めてです」
「そうか。慣れない内は酔うかもな。吐く時は言え、上の甲板に連れてってやる」
「アリガトウゴザイマス」
つまり吐く時は海に吐け、ということだろう。あまり見られたい姿でもないから、吐きそうになったら自力でトイレに行こう、と奏澄は心に決めた。
とはいえ、酔わないに越したことはない。食後だし、船内にいるより外の空気を吸った方が幾分ましだろうと考え、奏澄は立ち上がった。
「上に出ても大丈夫ですかね」
「邪魔にならない範囲ならいいんじゃないか」
揺れる船内をおっかなびっくり歩いて上甲板に出ると、心地いい海風が肌を撫でた。海が太陽の光を受けてキラキラと光っている。新鮮なような、懐かしいような気持ちになって、奏澄は目を細めた。
――世界が違っても、やはり海は美しい。
海に突き落とされ、溺れかけ、見知らぬ世界に飛ばされた。我ながら海が嫌いになってもおかしくない境遇だと思うが、そうはならなかった。きっと、自分はずっと海と共にある運命なのだろう。
そんなことを考えて、思わず笑ってしまった奏澄を、メイズが訝しげに見た。何でもないというように首を振って、端の方を歩き出す。
視線を感じて甲板を見渡すと、こちらを見ている者や、視線を逸らす者が見てとれた。少し後ろをメイズがついて歩いているから、メイズに対するものかもしれないが、どうも見られているようだ。
「やっぱり部外者がうろちょろしてると気が散るんでしょうか」
「いや、定期船の無い島では商船に人が同乗するのは珍しくない。単にお前が珍しいんだろ」
「私が?」
「役人でも商人でもない女が島から出るのは珍しい」
「あ、そういう感じの」
「あとはまぁ……組み合わせだろ」
ブエルシナ島でも奇異の目で見られたことはあったが、確かにメイズと奏澄の関係性は不思議に思えるだろう。それを踏まえてもう一度乗組員の様子を見てみると、心配そうに窺っている者がいる。
少し考えて、奏澄はメイズの手を取った。
「おい」
「仲良しアピールしておきましょう。誘拐じゃありませんよって」
「あのな……それだけじゃ」
「わかってますよ」
そう答えると、メイズは口を噤んだ。わかっている。下世話な視線は無視すればいい。そういう目で見るものは、何を言ったところで面白可笑しく取るのだから。とりあえず、被害者ではないと伝わればそれでいい。
暫く手を繋いで上甲板を散歩していたが、急にメイズが何かに反応した。
「メイズ?」
「中に戻るぞ」
「え?」
強く手を引かれ、足早に船内へ戻る。すぐに後ろが騒がしくなった。何かあったのだ。
聞きたいが、説明しないということは、聞かない方がいいのかもしれない。ハッチから離れた部屋に入ると、メイズは奏澄を部屋の奥へ押しやった。
「隠れてろ。少し外の様子を見てくる」
「ま、待ってください。この船にも護衛はいるんですよね? 何かあれば、その人たちが」
「念のためだ。心配するな」
「でも、まだ怪我だって完治してないでしょう」
「カスミ」
聞き分けのない子どもにするように、メイズがくしゃりと頭を撫でた。これでは、もう何も言えない。
「……怪我、しないで」
「ああ」
短く返事をして、メイズは外へ出ていった。
奏澄はその場で蹲った。結局、何も説明してくれなかった。何があったのか。どうして行ったのか。どうするつもりなのか。
まだ自分は、話すに足る器ではないのだ。
*~*~*
外の喧騒に怯えながらも、奏澄は息を潜めて部屋の隅に隠れていた。
どれだけそうしていたかわからない。長い長い時間が経ったように感じたが、実際はそれほどでもなかったかもしれない。
部屋のドアがノックされ、びくりと肩を震わせた。心臓が大きな音を立てる。
「カスミ、俺だ」
「……メイズ?」
奏澄の返事を聞いて、メイズが遠慮がちにドアを開けた。その姿を視認して、奏澄は勢いよく飛びついた。
「待て、カスミ、汚れる」
ぐいと引き剥がされてよく見れば、服が血で濡れていた。
「怪我!」
「違う、俺のじゃない」
言われてみれば、確かにメイズは大きな怪我はしていないようだった。顔には、血を擦ったような跡がある。おそらく、奏澄に姿を見せる前に血を拭ったはいいが、服まではどうにもならなかったのだろう。ほっとして、涙が滲んだ。
「無事で良かった」
「……ああ」
縋りつく奏澄の頭を、メイズはおそるおそる撫でた。
「そうだ、いい知らせがある。船が手に入った」
「え? 船が?」
上甲板に移動しながら話を聞くと、この船は海賊に襲われていたらしい。商船が海賊に襲われるのはよくあることで、だから護衛を雇っているそうだ。
メイズが気づいたのは見張り台の様子が変わったことだった。その時点では海賊かどうかはわからなかったが、何かを見つけたことは間違いないだろうと、用心して奏澄を隠したらしい。
海賊が海賊旗を掲げているとは限らず、商船に成りすましている場合もある。何事もない可能性もあるため、不安にさせないように黙っていたようだった。何も説明が無かったことで、奏澄は余計に不安になったのだが。
「それで、どうして船が手に入ることに?」
上甲板に上がると、ざわめきが聞こえた。何事かと見渡せば、乗った時とは打って変わって、怯えた表情でこちらを見ている。視線の先は、メイズだ。奏澄はメイズの横顔を窺ったが、そこからは何も読み取れなかった。
「あれだ」
メイズが示した先には、二本マストのブリガンティン船があった。商船と繋げられ、乗組員が数名向こうの船に乗り込んでいる。
「あれは……」
「海賊が乗ってきた船だ」
乗ってきた船。ということは、あれは海賊船だ。だが、海賊の姿はどこにも見当たらない。
緊張で喉が渇く。それでも、聞かないわけにはいかない。あの船に乗るというのなら、尚更。奏澄は努めて平静を装って、メイズに尋ねた。
「あの船に乗っていた人たちは……どうしたんですか?」
「ああ……まとめて海に放り出した。心配するな、ああいう奴らは図太いんだ」
「そう、ですか。良かった」
ほっと息を吐く。その様子を見て、メイズも心なしか安堵したようだった。
「船って戦利品ですよね。商船の人たちと山分けとかにならないんですか?」
「働きに応じた分配だ。中に積まれていた荷は商船の奴らに渡す」
働きに応じた、ということは、メイズはそれなりの活躍を見せたということだ。
彼が所持しているマスケットは、本来の武器ではないという。奏澄は武器に明るくないが、銃でこれほど血を被るとも思えない。いったいどのようにして戦ったのか。
マスケットの柄についた血を見ないようにして、奏澄は船の話を続けた。
「でも、私たち二人で船、というのは……動かせるものなんですか?」
「無理だ」
「えぇ……なら何故船を……」
「暫くは要らないと思っていたんだがな……貰えるなら貰っておいて損はない。通常の船が出入りしない場所に行くなら、いずれ必要になる。買うと高くつくしな」
船の値段はわからないが、決して安くないことくらいは奏澄にも想像がつく。いざという時に買えないくらいなら、持っておいてもいいのかもしれない。
「アルメイシャまでは商船の奴らが運んでくれる。中の整理もな。島についたら、乗組員を探すなり雇うなり考えよう。どうにもならなければ売り払ってもいい」
「わかりました」
何となく、ずっと二人で旅をするような気がしていた。しかし海を渡っていくとなると、そうもいかないのだろう。それは少し寂しい気もするが、必要なことならば、奏澄が頑張らなければならない。これは奏澄の旅なのだから。
船を見つめて、奏澄は気合を入れ直した。
アルメイシャ島に到着すると、奏澄はその活気に圧倒された。大勢の人々が行き交い、呼び込みの声や、どこからか音楽まで聞こえる。
「賑やかな島ですね」
「ここは交易の島だからな。商船の出入りが多い分、人も多い」
確かに前の島と雰囲気自体は大きく変わらないが、別の国だと言われても納得するほどの賑わいだった。地続きの大陸と違い、島と島だと交流は船しかないので、意外に似ないのかもしれない。
乗せてくれた商船に礼を告げ、手に入れた船は港に繋ぎ、ひとまずの宿を確保する。船が手に入ったので寝泊りは船になるのでは、と思っていたが、奏澄が船に慣れていないこともあり、島にいられる間は宿を取った方が良いというメイズの助言に従った。
奏澄が物珍しそうにしていたからだろう、まずは島の中心地を見て回ることにして、二人は人混みの中を歩きながら会話していた。
「そういえば、乗組員を探すと言っていましたが、具体的にはどういう手段になるんですか?」
「最低限手を集めるだけなら、掲示板で募集するとか、酒場で働き口を探している奴の紹介を頼むとかだな。ただ、それで航海士を見つけるのはなかなか困難だが」
「航海士……やっぱり必要ですか?」
「自分たちで船を持つならな、いた方がいい。できれば海図を書ける奴」
「人材斡旋というか、仲介業者みたいな組合はないんですか?」
「この島にもギルドはあるが、俺が顔を出すわけにはいかないだろう」
「指名手配されてるんでしたっけ。こういう人の多い所は普通に出歩いて大丈夫なんですか?」
「まぁ、普通の奴らは手配書なんかそうそう見ないからな。セントラルの関係者か、賞金稼ぎか、あとは商人の奴らか」
「商人が手配書を見るんですか?」
「襲われる可能性があるからな。商人は情報収集にも長けている。頻繁に出没する場所や船の装備なんかを互いに共有しているはずだ。とはいえ、役人と違って取り締まったりするわけじゃないから、顔を知られていても向こうから何かしてくることはほとんど無い」
「なら、セントラル管轄の施設に出入りしない限りは、そんなに警戒することはないんですね。ちょっと安心しました」
顔を隠して行動しなければいけないようなら、今後かなり気をつかわなければと考えていた奏澄はほっと息を吐いた。それをメイズが複雑そうな表情で見る。
「俺はもう前の船を降りているが、それ絡みで今後問題が起きないとは限らない」
「……はい」
「俺は何があってもお前を守るつもりだが、もし、俺のせいで危険が及ぶようなら、俺とは無関係だってことにしてセントラルに保護を求めろ。何もできない民間人を無下にするようなところじゃない」
奏澄が、足を止める。
「カスミ?」
「……なんで、そんなこと言うんですか」
「もしもの話だ。俺が原因でお前が危ない目に遭うのは、本末転倒だろう」
「約束、したのに」
声が震える。これは子どもっぽいわがままだ。メイズの言うことは正しい。だから悲しい。
あの約束をよすがにしているのは、自分だけなのか。それだけが唯一絶対だと信じていた。他に何も縋るものを持たないから、たった一つ握りしめて。
その在り方は間違っているとわかっていても、肯定してほしかった。
――『傍にいる、という約束でしょう。それが最優先です』
――『――……。わかった』
もし本当に子どもだったら。泣き喚いて、嘘つきと責め立ててしまいたかった。でも中途半端に大人な自分は、気持ちをぶつけることも、物分かり良く引くこともできずに、込み上げた感情の収め方がわからない。
だから、とりあえず。
「すみません、ちょっと、頭冷やしてきます」
逃げた。
メイズの呼び止める声を無視して、人込みを縫ってその場を離れる。泣き出してしまいそうな顔を、見られたくなかった。
それでも、奏澄の頭はどこか冷静だった。人目につかない所に行きたいけれど、知らない島で人気の少ない所に行くのは危ない。だから、人の多い繁華街からは離れない。待ち合わせ場所は特に決めていない、でも宿は取ってあるから、戻れば落ちあえる。お金は多少なら持っている、必要なら一人で買い物できる。
広場に面したベンチに座って、蹲る。
気持ちが落ちついたら戻って、謝ろう。メイズの言う通りだと、素直に受け入れよう。あんまりわがまま言ったら駄目だ。ついてきてもらってるんだから。嫌われたら、離れていってしまう。嫌われないように、迷惑をかけないように、うまくやらなくちゃ。
「あれ……?」
この感覚には覚えがある。そうだ、元の世界にいた頃。あの海の見える高台でよくやっていた、一人反省会。
そんなことは、もうしないと思っていた。だってメイズがいてくれたから。不安になることがあっても、常に傍にいてくれると思っていた。
絶対の味方の存在が、奏澄の心を強くしていた。
しかし、先ほどのメイズの言葉でそれが崩れ去った。約束をしたのに。離れてしまうかもしれない。失ってしまうかもしれない。それがたまらなく怖くて、足場が崩れていくような気持ちで、そう。
海に突き落とされたかのようだった。
息ができない。苦しい。一人では泳げないのに、無理に縋れば、相手も引きずり落としてしまう。
「お嬢さん大丈夫ー?」
急に陽気な男性の声が降ってきて、奏澄は驚いて肩を震わせた。
「ずっと蹲ってるけど、どした? 具合悪い?」
「あ、だ、大丈夫です。お構いなく……」
顔を上げて、思わず息を呑んだ。太陽に透けてきらきらと光る、眩しいほどの金髪。
「お、良かった」
にっと笑うと、大きな猫目が、人懐っこく細められた。
「んじゃ何か落ち込んでる?」
「え、や、まぁ……」
ぐいぐい来るな、と奏澄は少し身を引いた。しかし、何故だか憎めないのは彼の無邪気な笑顔のせいだろうか。歳が近そうなのもあるかもしれない。
「もったいないなぁ! こんなに天気が良くて、いい風が吹いて、楽しい音が響いてるのに」
言われて周囲を見渡せば、広場はパフォーマンスの場所になっているようだった。大道芸を行っている者や、演奏をしている者、それを見る観客などで笑顔に溢れていて、落ち込んでいた自分はひどく場違いに思えた。
「良かったらオレと踊りませんか?」
「お、踊るのは、ちょっと」
さっと手を差し出されたが、さすがにそれは辞退した。ダンスは授業で踊った記憶くらいしかない。
「そう? 体を動かすとすっきりするけど。んじゃ、歌う?」
「歌……」
「そ。大声で歌うのも、色々吐き出せるよ」
それは、わかる。奏澄は歌が好きで、合唱部に入っていた。人が来ない時には、あの高台で練習したこともある。言葉にならない気持ちが、声に乗って流されていくようだった。
「歌います!!」
すっくと立ち上がって、宣言した。こんなに楽しげな雰囲気なのだ。この中で歌ったら、自分もこの景色の一部になれたら、もやもやした不安も吹き飛ぶかもしれない。
青年は囃し立てるように拍手をした。
すぅ、と息を吸って、歌い慣れた曲を歌う。そんなに上手くはないけれど、とにかく伸びろ、伸びろ、と声を出した。
メイズに届けばいいと、思った。
一曲歌い終えて一息つくと、いつの間にか奏澄の前にも少ないながらギャラリーがいて、拍手を送っていた。なんだか気恥ずかしくて、ぺこぺことお辞儀をしながら、急に思いついた。
人が集まっている場所なら、もしかしたら。
「あ、あの! 私は今船で旅をしていて、航海士を探しているんです。どなたか心当たりがあれば、是非声をかけてください! 島に滞在中は、港近くのヤドカリ亭に宿泊しています! よろしくお願いします!」
大声でそう言って、再度頭を下げた。まばらに返事が聞こえ、中には「頑張れ」と応援してくれる声もあった。内心どきどきしていたが、やり遂げた気分だった。
メイズが、航海士を探すのは大変だと言っていた。もし、奏澄が見つけることができたら。少しは役に立てるのではないだろうか。
ここまで、メイズに助けられてばかりだった。自分の力で何もできていないから、不安なのかもしれない。
できることを、しよう。変わらなければと、決めたのだから。
「はい、オレ立候補」
にこにこと笑顔で手を上げたのは、先ほど声をかけてきた金髪の青年だった。
「え!?」
まさかこんなに早く見つかるとは、という気持ちと、思いもよらない人物から声をかけられた驚きと、なんで立候補する気になったのかという衝撃と、色々なものがない交ぜになって、大声を上げてしまった。
「あ、の、えと、航海士……なんです、か?」
「そ。とりあえず、詳しいことはお茶でもしながら話さない?」
そう言って青年は奏澄をベンチに座らせ、広場の屋台で二人分の飲み物を買ってくると、自分も隣に腰かけた。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがとうございます。いくらでしたか?」
「いーっていーって、このくらい。お近づきの印に」
実に嫌味なくさらっと言われて、ありがたく受け取る。陽の気配を感じる。見習いたい、と思いながら、奏澄は飲み物に口をつけた。爽やかなフルーツティーが喉を潤して、ほっと一息つく。
「自己紹介がまだだったよな。オレはライアー。この島で航海士をやってる。つっても、特定の船に乗ってるわけじゃなくて、出入りする商船に臨時で乗ってるフリーなんだけどね。お嬢さんは?」
「私は奏澄といいます。事情があって、旅をしていて。この島には、今日着いたばかりです」
「そっかそっか。旅してるって、船だよな? 航海士を探してるってことは、今まではどうやって?」
「えっと……順を追って説明しますね」
そうして奏澄は、故郷に帰るために旅をしていること、旅は始めたばかりで船を持つ予定は無かったこと、偶然船が手に入ったが今のままでは動かせないこと、仲間は二人しかいないことを説明した。
「はー、なるほどね。まぁ一人旅じゃなかったのは納得だ。アンタ見てて危なっかしいもんな」
「そんなですか……」
「そんなですねぇ。この島は昼間は治安がいい方だけど、人の出入りが多い分、人さらいなんかもいるんだぜ。ふらふらしてたら、いつの間にか海の上、かもよ?」
ざぁ、と奏澄の血の気が引く。奏澄なりに考えて行動したつもりだったが、やはり認識が甘いのかもしれない。家族連れもいるような場所だからと、油断していた。今頃、メイズは心配しているだろうか。
このライアーと名乗る青年は、奏澄が落ち込んでいたから声をかけてくれたと思っていたが、保護する意図もあったのかもしれない。根が善良な人間なのだろう。
メイズが乗組員を増やすと言った時、正直不安もあった。奏澄はあまり社交的な性格ではない。表向き取り繕う程度はできるが、船で共に生活するとなれば話は別だ。ライアーのような明るい人柄なら、沈みがちな奏澄にとって助けになるかもしれない。
「声をかけていただいて、本当にありがとうございました」
「硬い硬い! これから仲間になろうって言うんだから、もうちょっと楽にいこうぜ。オレ敬語とか気にしないし」
真面目くさって頭を下げる奏澄を、ライアーはからからと笑い飛ばした。肩の力が抜けて、奏澄も緩く微笑んだ。
「ありがとう。でも、仲間になるって、いいの? まだ待遇とか、そういう詳細決めてないのに」
「その辺は追々詰めるとして。カスミには、びびっときたんだよな」
「びびっと?」
「そう。びびっと。さっきの歌声に惚れたね。そんで、航海士を探してるとくれば、これはもう運命だろ!」
「ライアーおもしろいね」
両手を広げて力説するライアーに、奏澄はくすくすと笑った。
「ちぇー、信じてないな? とにかく、カスミが船長なら、きっといい船になるさ」
「……船長? 私が?」
「違うのか?」
「考えてなかった」
「話を聞く限りじゃ、相棒さんはカスミの手伝いをしてるんだろ? だったらリーダーはカスミだろ」
「そっか……そうだよね……」
船長。船の長。考えてもみなかった。しかし、旅の主導が奏澄である以上、必然的にそうなるだろう。
人数が増えれば増えるほど、奏澄の責任も増していく。自分に、背負えるのだろうか。そして、ひどく個人的な事情に、それほど人を巻き込んで良いものだろうか。
また暗い方に思考がいきそうになって、ぎゅっと目を閉じた。今思い悩むことじゃない。まずは、航海士を獲得できたことを喜ぼう。
「で、他にも手が必要なんだよな。オレが懇意にしてる商会があるから、口きこうか?」
「ありがとう。それはすごく助かるんだけど、まずは仲間にライアーを紹介してもいいかな。どう話が転ぶかわからないし、私は海に関しては素人だから、相談したいの」
「それもそうか。んじゃ、相棒さんに会いに行こう。どこで落ち合うんだ?」
「多分、宿に戻れば、いると……思う。私を探してなければ」
「おっとぉ……もしや喧嘩中?」
「喧嘩にも、なってないかな。私が一方的に、癇癪を起こしただけ」
自嘲気味に笑う奏澄に、込み入った事情を察したのか、ライアーは後ろ頭をかいた。
「あー……根拠の無いことを言うようだけど、きっと大丈夫さ。その相棒さんとは、ここまで二人でやってきたんだろ?」
「うん。すごく、助けてくれた」
「だったら信じてやんなよ。カスミのために、一緒に海に出てくれた人なんだろ?」
「……うん」
奏澄のために。メイズは、いつも、奏澄のために行動してくれている。あの発言も、奏澄のためだ。それはわかっている。わかっているから、わかってほしい。何を望んでいるのかを。
そのための、話をしよう。
「ありがと、ライアー」
「いえいえ」
おどけて返事をするライアーに、少し心が軽くなった。きっと、大丈夫。
宿屋の部屋の前で、奏澄は軽く深呼吸をした。ライアーは少し後ろでそれを見ている。震えそうになる手を握りしめて、ドアを数回ノックした。
「奏澄です。メイズ、戻ってますか?」
言い切らない内に、内開きのドアが勢いよく開いた。
ひどく焦ったようなメイズの顔を見て、奏澄の胸がずきりと痛んだ。
「……無事だったか」
「ご心配を、おかけしました」
長く息を吐くメイズを見て、今更ながら自分勝手な行動に罪悪感が募った。
「その話は後だ。後ろの男は、誰だ」
「あ、そうです。紹介しますね。彼はライアー、航海士だそうです。ライアー、この人が仲間のメイズです」
互いを紹介すると、ライアーが呆けたような顔でメイズを見ていた。
「ライアー?」
不思議に思って奏澄が声をかけると、ライアーはぎぎぎ、と音がしそうな固い動きで奏澄を見た。
「男じゃん!?」
「え? あ、うん、そうだけど……言ってなかったっけ?」
「聞いてない! 二人きりで旅してるって言うから、てっきり女の子かと……」
そこまで言って、ライアーは急に何かに気づいたようにはっとした。
「待って、じゃぁ喧嘩って要するに痴話喧嘩!? オレ今から痴話喧嘩に巻き込まれるの!?」
「カスミ、そいつ黙らせろ」
「ライアー、とりあえず落ちついて?」
何をどう勘違いしたのかはわからないが、ドア前で騒いでいたら不審なので、ひとまずライアーを部屋に引き入れ、メイズに事情を説明した。
「随分若いが、海図は書けるのか?」
「もちろん! 今数枚持ってるんで、見せましょうか?」
メイズはライアーから海図を受け取り、ざっと目を通す。なんだか面接でも見ているかのような気分で、奏澄は自分のことのように緊張していた。
「顔に似合わず繊細な海図を書くんだな」
「ひっでぇ!」
大げさにショックを受けて見せるライアーだが、メイズは意に介した様子はない。しかし、この評価なら問題無いということだろう。奏澄はほっと胸を撫で下ろした。
「こちらとしては、航海士の加入は願ってもない。だが、見ての通りまだ船団としては――何だ?」
「いや……オレどっかでアンタの顔見たことがあるような」
じっとメイズの顔を見ていたライアーは、記憶を辿るようにこめかみに指を当て唸った。
「男の顔はあんまり覚えないんだけど、確かにどこかで――」
言いながらメイズの腰元に目をやって、あっと声を上げた。
「そっか銃が違うから気づかなかった! メイズって黒弦の……ッ」
びり、と空気が震えた気がした。ライアーも気圧され、言葉を飲み込む。初めて出会った頃のような威圧感に、奏澄は知らず固唾を呑んだ。
「そうだ。そのメイズだ。知っているなら話が早い」
「な……なんで、こんなとこで、こんな女の子と」
事情は飲み込めないが、メイズが糾弾される気配を察して、奏澄が口を挟んだ。
「メイズは、私の護衛をしてくれてるの。私が、海に出たいって頼んだんだよ」
「カスミは、コイツがどんな海賊だったか、知ってるのか?」
「昔のことは……知らない。でも、指名手配されてるって聞いたから、あんまり良くないことしたのかなとは、思ってる」
「だったら」
「それでもいいの」
ライアーの言葉を、強い口調で遮った。
「いいの。メイズが何者でも、どんなことをしていても。それでも傍にいてほしいって、私が願ったの」
真剣な表情で言い切る奏澄に、ライアーは呆気にとられたように息を漏らした。メイズまでもが驚いた表情で自分を見ていることに気づき、奏澄は急に恥ずかしくなって俯いた。
「……オレ、今のろけられた?」
「ち、ちがう、ちがうから」
「ほんと? なんかダシにされた気がするんだけど」
「ちがうちがうちがう」
焦って否定する奏澄に、ライアーはわざとらしく唸って見せた後、一つ手を叩いた。
「よっし! まぁ人生色々、海賊も色々。カスミがこんだけ信じてるんだから、悪いお人じゃないんだろ。噂を聞いただけで、オレも会うのは初めてだしね」
「その噂は、多分真実だぞ」
「だったら尚更、二人きりにはしておけないし? オレも同行させてもらいますよ」
「いいんだな」
「男に二言は無い! ってことで、よろしく頼みますよ、メイズさん」
にっと笑って手を差し出すライアーに、溜息一つ吐いて、メイズは握手に応じた。
「んじゃさっそく次の話にうつりましょう。人手を探してるってことで、オレが懇意にしてる商会があるんです。そこに声をかけてみようかと思うんですが、どうです?」
「商会か。協力を得られるなら、資金周りでも心強いな」
「へぇ……資金面とか、気にするんだ」
じろり、とメイズに睨まれ、ライアーは軽く肩をすくめた。見ていた奏澄は少しはらはらしたが、おそらくジョークの範囲内なのだろう。
「ねぇ、その商会って、ギルドには」
「入ってないよ。入ってたら紹介できるわけないしね。アルメイシャを拠点にしちゃいるけど、販売より仕入れがメインで、結構遠方まで買い付けに行ったりするから、長期の航海でも条件が合えば来るだろ」
「今は島にいるのか」
「タイミングよく戻ってきたところなんですよ。でもまたすぐどっか行っちゃうかもしれないんで、会いに行くなら早い方がいいですね」
「わかった。案内を頼めるか」
「了解っす」