さよなら、倉田課長

九歳年上の倉田(くらた)課長が好きだと気づいた時はもう手遅れだった。

最初は私の出した企画に毎回ケチをつける倉田課長を敵のように思い、憎らしかった。でも、先輩から倉田課長に厳しくされるのは期待されていることだと聞いて、倉田課長に対する見方が変わった。期待に応えたくて、さらに頑張って企画を出し続けた。

倉田課長は相変わらず厳しかったけど、初めて企画が通った時、「よくやったな」と、缶コーヒーを買ってくれた。会社の自販機で買ったただの缶コーヒーがトロフィーのように思えて、もったいなくて飲めなかった。デスクに飾っていたら倉田課長に飲まないのかと聞かれて、もったいなくて飲めませんと答えた。目を細めて可笑しそうに笑った倉田課長が、普段の厳しい表情とは違って、胸がキュンとした。

あっという間に三年が過ぎて、今は倉田課長の下で働くのが楽しい。課長と話していると心が弾む。倉田課長が面白かったと言った映画は全部見て、休憩時間にその話をしたら、仕事中とは違う柔らかな表情で私の話を聞いてくれた。私だけに向けてくれる表情が嬉しかった。

倉田課長と関わる時間は私にとってささやかな幸せの時間だ。永遠に続いて欲しい。けれど、幸せは永遠に続かなかった。倉田課長が結婚している事を知り、雷に打たれたようにショックだった。

よく考えれば三十五歳の倉田課長が結婚しているのは不思議なことじゃない。指輪をしていないから独身とは限らないのだ。

そう考えながら胸が押しつぶされる痛みを感じた。学生の時に味わったことのある痛み。この痛みは失恋の痛みだ。倉田課長に向けていた憧れが恋だと気づいた。気づいてはいけない気持ちだった。

それからは毎日が切なくて、苦しい。

倉田課長を見る度に奥さんが浮かんで、映画の話をしているときでも、奥さんと一緒に見たのかと思い、勝手に嫉妬した。倉田課長を独占できる奥さんが心底羨ましかった。

倉田課長が愛妻家だと聞いたとき、私の恋は入る余地はないどころか、倉田課長に気づかれたら、軽蔑されると思った。それだけは避けたかった。

これ以上、倉田課長を好きにならないように、必要以上には関わらないようにした。
だけど、ある日、倉田課長から「俺を避ける理由はなんだ」と聞かれて、心臓が縮んだ。
誰もいない資料室で倉田課長と2人きりだった。
背の高い倉田課長が厳しい表情で私を見下ろした。

「何か俺に言いたい事があるのなら言って欲しい」

表情は厳しいけれど、私にかける声は優しい。

「何か悩んでいるのか?」

心配して声をかけてくれた事がわかって、胸が熱くなった。
厳しそうに見えて、実は倉田課長は優しい人だ。落ち込んでいるといつも声をかけてくれる。でも、私が特別だからじゃない。倉田課長は部下を大切にしているだけだ。私を心配するのも上司として。わかっているが、心配してくれた事が嬉しい。

「倉田課長、実は」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
倉田課長が好きだと、バカな事を言いそうになった。
絶対に言ってはいけないのに。

麻生(あそう)?」

黙った私をさらに心配するように倉田課長が見る。
絡まった視線が呼吸を苦しくさせる。言ってはいけない事を抱えているのはしんどい。

「すみません。倉田課長を避けていたのは、企画が浮かばないからです。実はプライベートな事で落ち込んでいて」
「プライベートな事?」
「失恋をしまして」

あははと陽気に笑ったつもりだったのに、ポロリと涙の雫が零れた。
告白する事も許されない、諦めるしかない恋の辛さに、痛い程胸が締め付けられる。
「……失恋か」

倉田課長が静かな声で言った。

「あ、倉田課長に失恋した訳ではないですから」

今の言い方だとそう捉えられてしまう気がして焦った。

「わかっているよ」

クスッと笑った倉田課長が正方形に折りたたまれたハンカチを私に差し出す。
奥さんがアイロンしたハンカチだと思ったら妬けた。

「使ってないから綺麗だぞ」

おどけたように言い、課長は私の手にハンカチを握らせる。
ハンカチで涙を拭くと甘い柔軟剤の匂いがする。いつも倉田課長から香る匂い。奥さん好みの柔軟剤かもしれない。倉田課長のどこを見ても奥さんが見える。既婚者なんて好きになるもんじゃない。早くこの恋は終わりにしなきゃ。

「麻生、今夜時間あるか?」
「はい」
「じゃあ、俺につきあえ」

ドキッとした。まさか倉田課長からそんな申し出があるとは思わなかった。
私の顔を見て、課長が「そんな怯えた顔をするな。取って食いはしないから」と言った。

怯えた顔をしたつもりはなかった。ただ、飛び上がりたい程、嬉しい感情を我慢したら、表情が強張ってしまった。
ドキドキしながらその日の仕事が終わり、倉田課長と会社を出た。連れて来られた場所はバッティングセンター。

飲みにでも連れて来てくれるのかと思っていたから、意外だった。

「落ち込んだ時は体を動かした方がスッキリするぞ」

そう言って倉田課長は私をバッターボックスに立たせ、初めてだという私にバッドの握り方から打ち方まで教えてくれた。

手取り足取りと教えてくれる課長との距離がいつも以上に近くてドキドキする。私がときめいている事を全く気づいていない課長が何だか憎らしくなった。課長が私を異性として見ていない事がわかる。九歳も年下で、課長より20㎝近く背の低い私は子どものように思われているのかもしれない。

「麻生、球をしっかり見ろ。ほら、来るぞ」

球が怖いという私のために倉田課長は後ろから私を抱きしめるような恰好で一緒にバッドを持っている。あきらめなきゃいけないと思っているのにこの仕打ちは酷い。ますます、倉田課長を好きになる。

「ほら、麻生、来るぞ」

ピッチングマシンから白い球が飛んでくるが、それ所じゃない。
背中に倉田課長の体温を感じて、落ち着かない。近いから倉田課長の匂いもするし、息遣いも感じる。好きな人の気配に必要以上に動揺する。

倉田課長との距離に戸惑っていると、握っていたバッドが勝手に動く。倉田課長がバッドを振ったんだ。

カキーンと金属音が響き、白い球が夜空に吸い込まれるように飛んで行く。

「どうだ。気持ちいいだろう」

すぐ耳元で倉田課長の弾んだ声がした。

「は、はい」

好きな気持ちを隠すので必死で、全くバッティングを楽しむ余裕はない。

「麻生、お前は魅力的な女性だよ。失恋した相手が悔しがる程幸せになってやれ」

次の球が飛んで来たとき、後ろからした声に胸がギュッと収縮した。
課長にそんなことを言われるとは夢にも思わなかった。
期待してはいけないと思うのに、期待してしまう。もしかして、倉田課長は私のことを部下以上に思ってくれているの?
「私、魅力的な女性なんですか?」

バッドを振りながら聞いた。

「ああ、魅力的だ。俺の奥さんの次に」

その言葉を聞いてガッカリ。
やっぱり倉田課長は奥さんが一番なんだ。

「奥さんは越えられないんですね」
「当たり前だ。じゃなきゃ結婚していない」
「……そうですか」
「麻生、来たぞ」

奥さんに負けた悔しさを込めて球を打ち返すと、確かな手ごたえがあった。課長が打ったときよりも高く、球が飛んで行く。

「麻生、いいぞ。その調子」

耳元で嬉しそうな低い声が響いた。
無邪気に喜んじゃって、私の恋心なんて、この人は全く気づいていないんだ。

あー悔しい。少しは女性として意識してよ。

「ほら、次も来るぞ」

また白い球が飛んでくる。
悔しさをかき消すようにバッドをまた全力で振る。

当たった白い球が琥珀色の満月に向かって飛んでいく。今までで一番大きな当たり。
あの球と一緒に私の気持ちも遠くに飛んで欲しい。
「麻生、ホームランだ」
「はい。ホームランですね」

声が少し涙ぐむ。我慢しなければいけないと思うのに、いろんな事が浮かんで来て、涙が出てくる。初めて企画が通ったとき、缶コーヒーを買ってもらったとき、優しい笑顔を見たとき、映画の話をしたとき、私に砕けた表情を浮かべたとき……。

いろんな倉田課長が浮かんで、目頭が熱くなる。
なんで、こんなに倉田課長の事が大好きなんだろう。
地球には80憶の人がいるのに、倉田課長だけが強く私の心を惹きつける。
こんなに人を好きになるとは思わなかった。

「麻生、来たぞ」

溢れる涙を拭う暇もなく、倉田課長と一緒にバッドを振り続けた。カキーン、カキーンと次々とバッドに球が当たる。

遠くに飛んでいく球を見ながら、心の中で倉田課長にさよならを告げる。

さよなら、私の恋。
さよなら、大好きな人。
叱ってくれて、心配してくれて、寄り添ってくれてありがとう。
倉田課長が大好きです。