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自動販売機の横にあるベンチの端。ここが俺の定位置。
ワイヤレスイヤホンで、音楽を聴きながら缶コーヒー片手に駄菓子を食べるのが仕事終わりの楽しみのひとつ。
昭和の景色と香りを残してくれる駄菓子屋。
店内にはいつも険しい表情をしている白髪混じりの猫背のお婆さん。
両腕を背中に回しながら、すげない態度でレジ横に立っている。
ここ滝沢商店の店主だ。
「買わないなら触らんで」
眼鏡の奥に見える黒く鋭い瞳は、ベテラン万引きGメンの如く険しくも冷静だ。
このキラーワードは地元では有名で、手に取ったら買わないといけない暗黙のルールがあるため、小学校のボス的存在の子ですら毎回店主の一挙手一投足にオーバーリアクトしていた。
二十代になってからこの店に行く人はそういない。
このご時世に好き好んで駄菓子屋に行く理由がないからだ。
この街は多くの人がイメージするような東京という感じはあまりなく、下町の中でもとくに平和で静かなエリア。
近くにはコンビニやスーパーくらいしかなく、大きな買い物をするには池袋の方まで行かないといけない。
それもあって、同世代で地元に残る人は少なく、みんな都心部へ移ってしまう。
でも俺はこの街が好きだ。
だから引っ越す気はない。
職場から近いわけでもないし、誰もが憧れるような魅力的な家に住んでいるわけでもない。
それでも見慣れた景色や街並みは落ち着く。
滝沢商店は住宅街から離れた大通りにポツンとあり、外観には蔦が生え、大きな地震がきたら一瞬で崩れてしまいそうなほどボロボロだ。
店の前には国道につながる道があり、その奥には大きな公園がある。
坂を登った先に図書館があり、その奥にはサイクリングコースやテニスコート、野球場が併設されている。
小学生のころ、兄さんが所属していた地元の野球チームに入った。
最初はあまり興味がなかったが、当時生きていた父親に薦められたこともあって、軽い気持ちではじめることにした。
兄さんは当時チームのエースピッチャーで、近所では結構な有名人だった。
きっと将来はプロに行って活躍するんだろうと思っていたけれど、いまはどこで何をしているのかわからない。
そんな兄さんと野球終わりによく滝沢商店に来ていた。
小遣いを握りしめ、チョコバットやうまい棒などをよく買っていた記憶がある。
昔はこの辺にも駄菓子屋がよくあったらしいが、少子化やドーナツ化現象の影響もあって、残っているのはこの店だけ。
店の入り口を出て右にあるカプセルトイとレトロゲームが数台。
左側には3人掛けのベンチと自動販売機が1台置いてある。
仕事終わりの落葉時、帰り道にひと息つこうとあの定位置を目指す。
ここに足繁く通うには理由がある。
1本10円のふ菓子と20円のねじり棒ゼリーだ。
コンビニにはなかなか売っていないハイスペックでハイクオリティな駄菓子界のツートップ。
ふ菓子のサクサク感と同時にやってくる黒く色付けされた砂糖と飴の甘味。
端っこを歯でねじって破り、穴の空いた箇所からチューチューと吸い、冷たくても常温でも楽しめるねじり棒ゼリーは童心に帰った気分にさせてくれる。
大人になったいまでも地元の子供たちに混ざり、狭い店内で決まったお菓子を手に取ってまとめ買いする。
いまでは何でもネットで買える時代だが、直接足を運んで、その場の雰囲気や風情を楽しむようにしている。
それに、ここに通う理由はもう一つある。
彼女との出会いは、去年の春だった。
駄菓子屋の閉店時間は早い。
地元の子どもたちしか買いに来ないから当然っちゃ当然だが、この店は比較的遅くまで開けてくれている。
とは言っても店主の気分次第なところはあるが。
この日は仕事が早めに終わったので、真っ直ぐ店に向かえばギリギリ間に合う。
口の中はコーヒーと駄菓子を求めていた。
店に近づいていくと、自動販売機に凭れかかりながらベンチに座っている1人の若い女性がいた。
ウェーブのかかった茶色く長い髪と綺麗な睫毛、フレアスリーブのブラウスから見える細く白い腕は、彼女の美しさをより引き立てている。
その透き通った瞳は、アスファルトに咲く一輪の花のように光り輝いていた。
アイスを食べる彼女の表情はどこか儚げに見えたが、あまりに魅力的なので思わず見入ってしまった。
撮影の合間のモデルか何かだろうか?
だとすると、周りにスタッフがいるはずだが周囲には誰もいない。
この辺では見ない顔だが最近引っ越してきたのだろうか?
そうだったとしてもこの街を選ぶのはだいぶ酔狂だと我ながら思う。
これと言って目立つものもないし、とりわけ家賃が安いわけでもない。
利便性から見てももっと良い街はたくさんある。
強いて言うなら自然が多く人が少ないところくらいだろう。
店に入る前、一瞬彼女と目が合った……気がしたが、俺は思わず目を逸らしてしまった。
🍦
地元福岡の高校を卒業し、デザイナーになるため上京してから早二年。
今日は久しぶりに予定がなかったので、昨日たまたま観た散歩番組の影響を受けて1人ぶらり散歩することにした。
場所は十条銀座商店街。
東京三大銀座の1つに入るほど大きな商店街で、私の通う専門学校の近くにある。
クローゼットを開けて服を選ぶ。
頭の中でイメージをして、フレアスリーブのオーガンシースルーブラウスにハイウェストスカートとミニブーツにした。
専門学校の合格祝いにお母さんからもらったショルダーバッグを肩にかけて駅に向かう。
今日は快晴という感じではなかったけれど、暑くもなく寒くもない春らしいすごしやすい日。
最寄駅の東池袋からメトロに乗って池袋に乗り換える。
この辺は相変わらずの人混みで酔いそうになる。
乗り換えの駅へ向かう途中、
「すみません、ちょっとだけいいですか?」
背後にいた恰幅の良いスーツ姿の男性から声をかけられた。
何か困っているのかなと思い、足を止めてその男性の方を向く。
目が合うと口調が変わった。
「お姉さん超美人だね。スタイルも良いし、お姉さんくらい美人だったらタレントとしてすぐ活躍できるよ。タレントに興味がなくても給料の良いバイトもたくさん紹介できるし」
胡散臭い。
このパターンのスカウトは芸能界と偽ってキャバクラや風俗の世界に連れて行かれる流れだ。こんなの事前に事情聴取済み。
私は芸能人になるために上京したわけじゃない。
「急いでるんで」
冷たく遇らってイヤホンをつけて乗り換え方面へと足早に進む。
背後から「チッ」という舌打ち音が聞こえた気がしたけれど、『芸能界』や『お金』というワードだけで女子が簡単に引っかかると思わないでほしい。
埼京線に乗って十条駅北口改札で降りる。
駅前の工事が進むなか、アーケードの入り口を入ると多くのシニアの人たちや地元の人たちが歩いている。
携帯ショップや薬局を抜けた先の十字路を曲がったところの店に行列ができていた。
あれは何だろう?
見に行くと、
『チキンボール1個10円』というポップが目に止まった。
10円という安さにも驚いたけれど、チキンボールという名前を聞いたことがなかったのでネットで調べてみた。
粗挽きの鳥の挽肉と雪花菜が混ざったもののようだ。
「いらっしゃい」
店員さんの明るい声が私の身体を包み込む。
「すみません、チキンボールください」
「いくつ欲しいんだい?」
初見だったため控えめな数にした。
「じゃあ10個ください」
「あいよ、毎度あり」
実際に食べてみるとふわふわとしていてあっという間になくなってしまった。
並んだ甲斐があった。
そういえば朝から何も食べていなかったので、お腹の中が中途半端になってしまった。
久しぶりにラーメンを食べたい気分。
そう思っていると、ちょうど中華そば屋のショーケースに並ぶラーメンのサンプルを見つけた。
そこは関東圏では有名なチェーン店らしいのだけれど、私は行ったことがなかった。
口の中は完全にラーメンを求めていたので一切の逡巡もなく店内に入った。
店内には、野球帽を被ったお爺ちゃんがビールを飲みながら餃子を食べ、向かいには土建の人たちがラーメンとチャーハンを食べていた。
その姿を見て、とんこつラーメンと半チャーハンのセットを頼んだ。
上京してからラーメンを食べる機会が極端に減った気がする。
プライドが邪魔しているとかそういうことではなくて、大都会の刺激に興味と好奇心が追いついていないだけ。
毎週のように新しいお店の情報がやってくるから、行きたいところリストが溜まり続けていく。
久しぶりに食べたとんこつラーメンに感激しながら店を出る。
外の空気が気持ち良かったので、少し散歩することにした。
目的地は設定せず、地図も見ない完全なぶらり旅。
カフェでコーヒーをテイクアウトしてのんびり歩く。
この辺は東京とは思えないくらい長閑で落ち着く。
坂を越えたあたりで日が落ちてきた。
もうこんな時間?
ずっと歩いていたのでそろそろ休憩場所を探そうと思っていた矢先、『滝沢商店』と買いてある駄菓子屋を見つけた。
自動販売機の横には使い古された様子でところどころ色落ちしているが、晴れた日の空のような鮮やかな水色のベンチが店の外に置いてある。
その横にはゲーム機のようなものも置いてあって、まさに昭和レトロって感じ。
ばりエモい。
外観を撮ってSNSにアップした。
店内を覗くと、アイスが敷き詰められたショーケースが見えたので早速入った。
私は昔からアイスが大好き。
アイスだったら毎日食べられるくらい好き。
何でそんなに好きなのか聞かれたら困っちゃうけれど、とくに理由なんてない。
私にとってアイスはなくてはならないもの。
「どれも美味しそう」
他の駄菓子には目もくれず、フロントガラス越しにアイスを選別する。
冷静になってみると、駄菓子屋に1人ガラスを見つめながらアイスを選ぶ姿は、店内の少女たちよりも少女かもしれない。
迷いに迷った結果、当たりつきのバニラ味の棒アイスを買うことにした。
レジ横に立っていた店主らしき白髪のお婆さんに商品を渡して会計を済ませる。
お婆さんは無言のままだったがやけに目つきが鋭く怖かった。
(私、何かしたかな?)
訝しんでいても仕方ないので外のベンチに深く腰掛ける。
ふと顔を上げると、目の前に大きな公園が見えた。
「ここは……」
地元の大濠公園を思い出した。
実際には全然似ていないけれど、なぜか既視感に近いものを感じた。
お祭りやイベントがある度によく遊びに行っていた場所。
公園をずっと眺めていると、急に不安が襲ってきた。
(私、このまま東京でやっていけるのかな……)
地元が恋しくなった。
愛犬のノアは元気かな?
アイスを食べながら軽いホームシックになっていると、お婆さんが店のシャッターを下ろす準備をしている。
もう閉店の時間?
スマホで時間を確認すると、夕方の6時を回っていた。
すると、革靴のコツコツという音がこちらに近づいてくる。
音の方を向くと、ツーブロックに黒縁のハーフリム眼鏡と顎髭を生やした男性がいた。
セットアップのグレースーツにYシャツから透けて見えるライトグリーンのインナーが強面の印象を柔和させている。
何よりもスタイルが良かった。
私もスタイルには気を使っている方だけれど、彼の痩躯さはモデルのよう。
左手には小さめのバッグを持ち、高そうなシルバーの時計をしている。
『ミナミの帝王』のような目つきで歩く姿に少し驚いたが、よく見ると精悍な顔立ちをしている。
その彼と一瞬目が合い、店内に入っていった。
なんだろう、この気持ち。
恐怖感とかじゃない胸がざわつく感じがした。
少し経つと、彼は大きなビニール袋を持って去っていった。
地元の人かな?
もしそうならおすすめのスポットとか聞けたかも。
なんて、いきなり話しかける勇気などない。
そんなことしたらチャラい女って思われるかもしれない。
でも、この胸の高鳴りはなんだろう。
頭の中で色々考えていたらなんか疲れた。
今日は色々巡れたしもう帰ろう。
夕日を浴びた店はとてもノスタルジックだったので、外観をもう一度撮って帰宅した。
☕️
大学を中退した。
理由は色々あったが一番は生きるためだ。
いま思うと大学にはどうしても行きたかったわけじゃない。
自分に言い聞かせているとかそういうことではなく、行く理由を見出せなくなった。
偏差値もそこそこの近場の高校に通い、なんとなく野球を続けた。
夢や目標があるわけでもなかったが、とりあえず大学の道を進んだ。
そんな成り行き任せの人生を送ってきたが、母さんも死んで俺の人生は大きく変わった。
それは、兄さんが突如失踪してから約1年後のことだった。
狭く感じていた家は無駄に広く感じ、カトラリーが食器に当たる音が心を抉った。
誕生日に親友たちがサプライズで家に来て祝ってくれたけれど、1人になった途端とんでもない孤独感に押し潰されそうになった。
もうこんな思いしたくない。
マッチングアプリに登録してみたり、バイトを掛け持ちして出会いを求めた。
運良く付き合えた人もいたがすぐ別れた。
きっと本気じゃなかったんだと思う。
自分の孤独感を紛らわすことにあったからだろう。
誰かと繋がっているという実感が欲しかったのかもしれない。
バイト生活で食い繋ぐのも限界があることに気づき、実家からいまの家に引っ越すため転職を決意した。
もしダーマ神殿のような場所が実在したらすぐに転職できるのだが、現実はそう簡単じゃない。
いくつか受けてなんとか採用してもらったのがいまの会社。
数ヶ月の研修を経て正社員になってすぐのこと。
同期の七海 梨沙と出会った。
小柄でリスのような可愛らしい顔をした子だ。
梨沙と俺は同じ部署に配属され、お互い両親がいないことや趣味が合うこともあっていつしか惹かれ合い、付き合うことになった。
最初は一緒に出社、一緒にランチ、たまに泊まりに行き、映画を観たりカフェ巡りしていたが、3ヶ月も経つとバラバラに出社、ランチは別々、連絡も週に1回するかしないか。
俺は同学年に比べて恋愛経験が少ない。
それもあって梨沙には色々と求めてしまっていたし、不満や本音を言えずに鬱積が溜まっていった。
一方の彼女はもともとそこまで欲のない性格からか、俺との関係が重いと思うようになり、彼女の表情から笑顔は消え、次第に心の距離は遠のいていった。
それを知ってか否か梨沙は新しい場所へと異動となり、その数ヶ月後、アプリで知り合ったという別の男と付き合っていた。
それからというもの、俺は仕事に没頭するようになり、大きなプロジェクトのリーダーを任され、その結果出世もできた。
そういった意味では感謝している。
いま思うと、お互いの寂しさを紛らわせたかっただけなのかもしれない。
**
空はまだ少し青く、落葉に変わるまでには時間がかかる。
今日は新人の研修のみだったので日中には終わった。
駅近くのカフェでアイスコーヒをテイクアウトしてそのまま滝沢商店へと向かう。
例年に比べ、今年の夏は湿気が少なく過ごしやすい。
背中には汗が滲むが、それでもネクタイを緩めるほどではない気温だ。
生ぬるい風はなく、少し強くも涼しい風を浴びながら飲むコーヒーが数倍美味しく感じるのは俺だけなのだろうか?
店までは歩いて15分近くかかる。
都電が横切るなか、飛鳥山公園の向かい側の急勾配を上って向かう。
母校を通り、信号を渡ると目的の場所が見えてきた。
氷が半分ほど溶けたカップを手に持ち、ベンチを見る。
しかし、この前の彼女はいなかった。
さすがにそんな奇跡起きないかと思いながら店に入る。
今日買うものは決めていた。
チョコバットとココアシガレット。
チョコとコーヒーの相性が最強なのは言わずもがなだが、無性にココアシガレットが食べたくなりレジまで行く。
駄菓子を持っていつもの定位置に座る。
なぜだがここに座ると落ち着く。
チョコバットを秒で頬張り、コーヒーを横に置き、ココアシガレットを口に挟みながらスマホのアプリを立ち上げる。
ログインボーナスをもらった後、1回無料のガチャを回す。
前回負けたボスにリベンジすべく地道にレベルを上げていった。
ガチャという名の課金地獄に溺れないよう自分に制限をかけながらダンジョンを攻略していく。
人生のように一歩ずつ。
あと少しでボスのいるエリア。
だいぶレベルも上がってきた。
いまのパーティーなら勝てる。
指で画面をタッチしてボス戦へと挑もうとしたそのとき、
「タバコ」
美しい声音の中に冷たさを感じた。
その声の方を見ると、アイスを持った彼女と目が合った。
そう、この前ベンチ座っていた綺麗な人だ。
しかも今日はハーフアップにしている。
頸《うなじ》と婀娜っぽいデコルテラインが俺の体内を高揚させていく。
女性の髪型の変化というものはどうしてこんなに犯罪的可愛さなのだろうか。
そんな気持ちを切り刻むかのように鋭い声が身体を打ちつけてくる。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
タバコ?
口に咥えているこれのことを言っているのだろうか?
初対面で冗談を言うようなクレイジーな子には見えない。
彼女の目は真剣そのものだ。
まるで腫れ物に触るようなそんな表情をしている。
「これ、お菓子ですけど」
そう言ってココアシガレットの箱を見せる。
まじまじと見ている彼女の表情がみるみるうちに赤くなっていく。
白い肌だけに余計目立つ。
「あ、あの、すみませんでした」
申し訳なさそうに深くお辞儀をする彼女。
謝罪する彼女には逆に申し訳ないが、これは好機かもしれないと思った。
「よかったらひとつどうですか?」
ココアシガレットを箱から1本取り出して渡そうとする。
「で、でも……」
先ほどのことを引きずっているのか、もじもじとしている。
ちょっと言い方を変えてみることにした。
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
恥ずかしさからなのか、目を逸らしながら小さく首肯した彼女が俺の横に座る。
「あ、あの、さっきは本当にごめんなさい。私、これがお菓子って知らなくて」
顔が真っ赤になって下を向いている彼女はすごく可愛かった。
「いえ、別に。ややこしい食べ方したのは俺なので」
これは僥倖だった。
どんな流れであれ、彼女と会話することができたのだから。
「怒って、ないんですか?」
怒ってなんかない。むしろラッキーだ。
気まずいわけじゃないが、できるだけ明るい話題に変えたいと思った。
「この店にはよく来るんですか?」
「いえ、この前はじめて来ました」
「どうしてまたここに?この辺何もないですよ」
「私、ここから見える景色が好きなんです」
「景色?」
「はい。数年前に上京してきたんですけど、まだ東京に慣れなくて。学校は楽しいし、友達とも仲良くできているんですけど、急に不安になることがあるんです。ホームシックってやつですかね。でも、この席から見える景色は地元を思い出させるのですごく落ち着くんです」
なるほど、そういうことだったのか。
「ちなみにどこから来たんですか?」
「福岡から来ました」
「だからか」
「??」
怪訝な顔をされても無理はない。
これだけの美人に博多弁を使われたらみんなイチコロだろう。
出会ったばかりでいきなり美人だなんて言ったら気持ち悪がられるから、言葉には出さずに心の中で留めておいた。
「たしかに東京は疲れますよね。どこ行っても人多いですし」
彼女の言う通り、東京は心が病みやすいと言われている。
いろいろなものに追われて自分のことで精一杯になりがち。
自分のやりたいことや誰かのためにしてあげたいこと。そういった感情は後回しにしてしまう。
ここでは多くの人が他人に干渉することを棄ててしまう。
「すみません、別に東京のことを悪く言うつもりはなくて」
彼女の意見を頭の中で整理していたら険しい表情になっていた。
寄っていた眉間の皺を直してすかさずフォローする。
「俺も人の多いところは苦手なので。それに比べて福岡は安くて美味しい店がたくさんあって羨ましいです。ラーメンも美味しいから飽きないですよね」
「はい!福岡はラーメンが有名ですけど、うどんも美味しいお店がたくさんあるんですよ!魚や果物も美味しいものがたくさんあるし、人の多さもちょうど良くて本当に最高の場所です」
地元への愛を語る彼女の目はとてもキラキラしていた。
「地元が大好きなんですね」
「はい、大好きです」
破顔した彼女はとても可愛らしく、第一印象のクールなイメージをガラリと変えた。
「俺も地元が好きです」
「この店にはよく来るんですか?」
「小さい頃は兄さんとよく来ていました。この店のベンチに座ると不思議と落ち着くんです」
「落ち着く場所があるって素敵ですね」
彼女はこっちを見ながら微笑んでくれた。その度に耳が熱くなるのを感じる。
好機を逃すまいと俺は勇気を出す。
「せっかく出会えたので連絡先交換しません?」
「はい、ぜひ」
連絡先を交換してお互いの名前を把握する。
そういえば自己紹介していなかった。
彼女の名は神法 紫苑さん。
モデルのように綺麗なのに彼氏はいないらしい。
地元の美味しい店、お互い末っ子だということや好きなアニメ、好きな映画の話などおそらく30分以上は話していただろうか。
話に夢中になりすぎて、彼女は大事なことを忘れてしまっていたようだ。
「紫苑さん、アイス!」
彼女の手にあったはずのアイスはほぼ溶けて無くなっていた。
「ぎぇあっ!」
彼女は驚きのあまり、その美しい見た目からは想像できないような声を出していた。
アイスがドロドロに溶け、スカートが濡れている。
こんなときに申し訳ないが、見かけによらずお茶目な一面がある彼女を知ることができて得をした気分だ。
赤い花弁のイラストが描かれたハンカチをスーツのポケットから取り出して彼女に渡す。
スカートを拭く彼女の手がふと止まった。
「この花、サネカズラですよね?」
「サ、サネ?」
初めて聞いた言葉にどう反応して良いか迷った。
このハンカチは小さいころよく物を零す癖があった俺に母さんがくれたもので、なんだかんだでずっと持っていた。
「花に詳しいんですね」
「はい。私、お花が大好きなんです。見ているだけで心が洗われます」
彼女の目がキラキラと輝きはじめる。
「お花にはそれぞれ顔や香りが微妙に違って、咲くだけで周囲の彩を変えるんです。寿命が短いのであっという間に散ってしまうのはすごく儚いですけど、それでも懸命に生きてる感じが健気で頑張れって応援したくなるんです。たとえばこのサネカズラの花は夏に咲くんですけど、花はクリーム色で可愛くて、赤い果実は美味しそうに見えて全然味がしないんですよ。面白いですよね」
まるで動物を愛でるかのようにニコニコしながら話す彼女。
この人、好きなことになると止まらないタイプみたいだ。
「このハンカチ、今度洗って返しますね」
「安いものなんで平気ですよ」
「そういうわけにはいきません。借りたものは返さないと」
意志の強さが混ざった彼女の綺麗な瞳に見つめられ、胸の鼓動が早くなった。
🍦
私にはお姉ちゃんがいる。
2歳上の桜咲はショートカットの似合う猫のような可愛い顔立ちに反してクールでしっかり者。
オシャレで頭が良くて流行りに敏感で、私とは真逆の女子力の高い人。
姉妹なのに顔も性格も全然似ていない。
天は二物どころか、三物も四物も与えちゃった。
同じ家族なのに私にはないものをたくさん持っている憧憬の存在。
だから喧嘩もしなかったしいまでもずっと仲が良い。
お姉ちゃんは彼氏が絶えたことがない。毎年違う彼氏を紹介された記憶がある。
地元でも度々タレント事務所からスカウトが来ていたことがあるらしい。でも芸能界に全く興味がなかったからあっさり断ったみたい。
身内が芸能人だったらなんてちょっとだけ考えたこともあったけれど、お姉ちゃんには小さい頃からの夢があった。
漫画が大好きなお姉ちゃんは地元の私立大学を卒業した後、念願だった大手出版社に就職した。
そんなお姉ちゃんから買い物を頼まれた。
急遽休日出勤することになってしまい、いつもの化粧水を買ってきてほしいとお願いされた。
部屋の掃除に夢中になってしまい、思ったより時間がかかってしまった。
カップスープを飲んだ後、昨日考えていたコーデを着る。
オフショルのシャツにワインレッドのロングプリーツスカート。
夕方以降ちょっと肌寒くなる予定だったので、デニムジャケットも羽織っていくことにした。
髪は掃除のときにしていたハーフアップのまま。
淡い期待と黒いハンドバッグを持って玄関で白いスニーカーを履いて出かける。
頼まれていた化粧水を買う前に昨日の店に寄り道をすることにした。
そこに行く理由は2つある。
1つはこの前買ったアイスの当たりが出たのだ。
そして理由はもう1つ。
十条駅から学校を抜け、お店の近くまで行くと、子供たちがカプセルトイやゲームをしながら遊んでいるのが見える。
大人の人影はない。
昨日のスーツの人に会えるかな?
少しだけ期待を抱いていた。
さすがにそんな偶然は起きるわけないか。
と思いながら店内に入ると、
(あっ!)
思わず心の中の声が飛び出しそうになった。
彼と目が合ったのだ。
ドキドキする気持ちを抑えつつ、店主のお婆さんに当たりの棒を渡して交換してもらう。
「あら、当たったのね。おめでとう」
あれ?昨日はあんなに無愛想だったのに今日はすっごい笑顔だ。
「ありがとうございます」
昨日の席に座ろうとすると彼が先に座っていた。
彼の方を見た途端、喜びの感情が怒りの感情はと姿を変えた。
なんと、タバコを吸っていたのだ。
ありえない。
駄菓子屋でタバコなんてありえない。
上気した私は思わず感情的になった。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
周囲にいた子供たちの動きが止まり、みんな驚きの表情を浮かべていた。
……もう、どうしよう。
彼が吸っていたのはタバコではなかった。
タバコに似た白く細長い棒状のお菓子を指で挟みながら舐めていた姿がそれを吸っているように見えたのだ。
耳が熱い。
穴があったら入りたい。
落ち着けって自分に言い聞かせようとする度に鼓動が叫んでくる。
私が欲しい鼓動はこっちじゃない。
変な女だと思われてるに違いない。
せっかく話だったのに、終わった……
「よかったらひとつどうですか?」
彼がココアシガレットを差し出してきた。
あんな失礼な発言をしたのに怒ってないの?
それとも何かのいたずら?
なんて答えたら良いのだろう?
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
今度は笑顔でそう言う。
恥ずかしさを和らげるために言い方を変えてくれたのかな?
本心はわからないけれど、ニコッと笑うその顔に引き寄せられるように彼の横に座った。
彼はタバコを吸わないらしい。
こういうことを言うと失礼かもしれないけれど、完全に吸っていそうな顔をしていたから良いギャップだった。
彼の横は居心地が良かった。
パーソナルスペースなんて存在しないかのように。
連絡先を交換して彼の名を知った。
雪落 慶永さん。
彼女とは最近別れていまはいないらしい。
キリッとした目に広い肩幅。
この日は青のカジュアルスーツにオフホワイトのインナーを着て、バッグ、ベルト、革靴をブラウンで統一している。
彼は会話が途切れそうになると、話を敷衍してくれて、1つずつ聞き入ってくれる頭が良くて優しい人なんだと思う。
出会ったばかりだけれどすごく居心地が良い。
こんなに痩躯なのはただの胃下垂だからで、食べたらすぐに消化されるみたい。
私にもすこしはその消化力を分けてほしい。
彼曰く、胃下垂は猫舌と一緒で、症状の一種だから意識しながら食事すれば治るらしいけれど、太りたくないから胃下垂のままでいいみたい。
私もぽっちゃりよりは細い人の方が好きだから良い。
彼は連休になるとよく旅行に行くみたい。
スマホを取り出し、彼が私のすぐそばまで来て写真を見せてきた。
ちょっと、顔、近いよ。
彼の左腕が私の右腕に触れ、緊張と胸の高鳴りで右側の感覚をなくさせる。
男の人の匂いが私の全身を誘惑してくる。
やばい、どうしよう。
出会って間もないのにもう意識している自分がいた。
耳が赤くなっているのを髪の毛で隠し、ドキドキを抑えながら画面を覗くと、数人の男友達と一緒に変顔をしている。
クールな印象があったけれど、こんなお茶目な一面もあるのかと思うとちょっと得した気分。
でも私服姿はちょっと厳ついというかラフ。
ストリート系のファッションは動きやすさを重視しているかららしい。
気がつくと彼の写真と会話に夢中になっていた。
徐々に冷たくなっていく手の温度にも気がつかずに……
「紫苑さん、アイス!」
その声で下を見ると、ロングスカートにドロドロに溶けたアイスが落ちていた。
せっかくの機会に超恥ずかしい。
穴があったら入りたいって短時間で2度も思うなんて。
でも彼は引くことなくサネカズラのハンカチを渡してくれた。
僥倖だ。
これを返す口実でまた会うことができるから。
店内から出てきたお婆さんが閉店に向けてシャッターを下ろす準備をしている。
気がつくと客は私たちだけになっていた。
ハンカチを返す約束を交わして別れた。
家の最寄り駅に着いてあることに気づく。
お姉ちゃんに頼まれていた化粧水買うの忘れた。
また今度でいっか。
☕️
ここはどこだ?
見覚えのない部屋。
目の前には髪の長い女性が両手に何かを持って全身を震わせている。
俺の後ろには誰かが立っているが誰かはわからない。
そして俺は右の脇腹を抑えていた。
そこからぽとぽとと赤いものが滴り落ちている。
これって、血?
まさか殺された?
とてつもない恐怖感に襲われ布団から飛び起きた。
大量の汗でTシャツはびしょびしょで吐き気もする。
誰かに何かで刺された感じの夢。
あの夢は一体何だったんだ?
この恐怖感は目が覚めてからも当分消えることはなかった……
**
心の靄が晴れないまや職場に向かう。
会社がかなり力を入れている大事なプロジェクト。
休日返上で土日も朝からリモートで仕事。
こういうときはストレスもカフェイン摂取量も倍になる。
-プロジェクトは無事成功した。
メンバーと一緒に居酒屋で打ち上げをする。
普段飲まない酒を飲んで気分が悪くなってくる。
二次会は課長の悪ノリでワインと熱燗祭りとなっていた。
店を出ると、太陽の光は俺に寝るなと嫌味を言っているかの如く見事に晴れていた。
思考が停止してしまいそうなほど頭が痛い。
そのまま家に倒れ込んだ。
活動できる状態になったのは夕方だった。
休みを無駄にしたくないので目的もなく出かける準備をする。
神法さんとは連絡先を交換してからしばらくはテンポ良く続いたが、最近はお互い忙しいのもあって返信はまちまち。
昨日送ったLINEにまだ既読はついていない。
それでもたまにあの店に行かないと気も漫ろになる。
これは一種の病気なのだろうか。
『良い歳していつも同じのしか買わない』と店主に思われるのがイヤだったので、今日はスーパービッグチョコ、ビッグカツ、甘イカ太郎の3品にしようと頭の中で決める。
でもその前に行かないといけないところがある。
駅前にあるスーパーで日用品のストックを買っておかないといけない。
帽子を被って駅までロードバイクを走らせる。
坂を下っていると、途中でラーメン屋を見つけた。
地名に因んだ店名の白だしベースの店。
カウンターはすでにいっぱいで結構待たないと食べられない感じだが、香りに魅了され並んで食べることにした。
調べてみると、ここは百名店にも選ばれているような店で優しいスープの味が二日酔いの身体を一気に癒してくれる。
身に沁みるとはこのためにあるのだろうと言わんばかりに体内の毒素が抜けていった感覚だった。
麺もスープもあっという間に平らげて再びサドルに跨る。
高架下を抜けると駅前に人だかりができていた。
並んでいる9割が女子大生。
まさかアイドルでも来ているのか?
ロードバイクに乗ったまま近づくとそこには新しいカフェができていた。
白を基調としたシックな造りで可愛らしいスイーツが並んでいる。
個人的には1人で立ち寄るにはなかなか勇気のいる場所なので、通り過ぎようと思っていたら、
「あれ?慶永?」
聞き覚えのある声がした。
この声は、
「梨紗?」
「やっぱり慶永だ。どうしてここに?」
梨紗の手には紙袋があった。
「俺の家この辺だから」
「そうだったね」
「何か買ったのか?」
「この店知らないの?」
そう言うと、スマホを見せてきた。
森の中を彷彿とさせるような内装と、たくさんのスイーツが並んでいる。
梨紗によると、オープンしてからすぐにインスタグラマーが拡散した影響で一気に火がつき、そこから連日行列らしい。
「せっかくだし一緒に食べない?」
手に持っていた紙袋を自分の顔まで持ち上げながら俺を誘ってきた。
ベンチに座り、袋の中からスイーツを取り出す。
パン生地に生クリームとマスカルポーネチーズを使ったものらしいが名前はわからない。
「どっち飲む?」
紙袋の中にはミルクティーとアイスコーヒーも入っていた。
「なんで2つ買ってんの?」
「どっちも飲む予定だったの。悪い?」
「いや、全然」
ちょっとだけむすっとしたようにも見えたが、これが七海 梨紗だ。
欲に対して忌憚することを極端に嫌う。
俺はアイスコーヒーをもらい、少し飲んだ後、「珍しいな。梨紗が1人で行動してるなんて」
梨紗はいつも誰かといる。
飾らない性格が故に女友達が多く、ルックスも良いので異性からの誘いも絶えない。
彼女は良くも悪くも異性との付き合い方がドライなので、勘違いする男も少なくない。
「今日みんなデートなんだって」
「梨紗も彼氏とくれば良かったんじゃね?」
「別れた」
他人の恋愛事情には動揺しないと思っていたが、元カノだからなのか少し動揺した。
「なんで?」
「浮気された。ほら、私ってあまり感情を表に出さないじゃない?連絡もマメじゃないし、好きじゃないと思われてたみたいで」
「まぁ梨紗はクールだからな」
「いま思うと、慶永優しかったな」
「過去形かよ」
「ごめんごめん、出会った頃から優しかった。でも、いま全然接点ないよね」
「まぁ部署が違うからな」
「うん、そだね」
「新しい部署に良い人とかいないのか?」
「微妙。言い寄ってくる人は大抵下心見え見えで、私のこと良い女だと勘違いしてるみたいで嫌になる」
「梨紗、良い女じゃないもんな」
「元カノを目の前にしてよくそんなこと言えるよね。そういうのは本人だから言っていいセリフなんですけど」
「梨紗って見た目に反して冷たいとこあるから」
「わざと言ってない?」
「悪りぃ悪りぃ」
お互い軽口を言いながらスイーツを食べる。
「この感じ、久しぶりで楽しいね」
「だな。お互いくだらないことで盛り上がって、くだらないことで喧嘩してたもんな」
「そだね。なんで別れちゃったんだろう……」
反応に困った。
付き合って2ヶ月も経つとお互いの気持ちが少しずつ薄れていき、喧嘩することすら億劫になり、別れる空気だった。
「俺、フラれた側なんですけど」
「じゃあもっかいやり直してみる?」
「酒でも飲んでんのか?」
「素面よ」
「わかってんだろ?梨紗と俺は恋人同士だとうまくいかないって」
梨紗はたしかに可愛い。
あまり愛情表現をしない梨紗と愛情表現をしてほしい俺では釣り合わない。
特別な感情がない状態だと気楽でいられるから俺たちはこの関係の方が良いと思う。
「慶永の恋愛観、錨くらい重いもんね」
「そんなに重くねぇから。むしろ梨紗が軽すぎるんだよ。風船くらい軽いじゃん」
「そんなにすぐ割れないし。例えるなら綿飴とかにしてよ」
軽いってことは否定しないんだな。
「慶永、好きな人でもいるの?」
「急になんだよ」
「気になって聞いてみただけ」
気になる?
元カレの俺のことがか?
梨紗に限ってそれはないだろう。
急に気まずくなった。
数秒間無言が続く。
「私、会社辞めることにしたから」
「セクハラでもされたか?」
「そしたら訴訟起こしてお金せしめてやるし」
やり方は間違っていないがもう少しオブラートに包んでくれ。
相変わらず表現がストレートだ。
「私ね、夢があるの」
梨紗の夢、そういえば付き合っているときにも聞いたことがなかった。
「聞いてもいいか?」
「秘密」
🍦
家の扉を開けると差し込む眩い光。
寝不足の身には太陽の存在感が増す。
毎週のように課題や提出物があり、バイトする暇なんてないくらい睡眠不足が続く。
通常の専門学校は二年制だが私の通うデザイン科は四年制。
すなわち4年間はこれを続ける必要がある。
でも、あの人だってこの道を通ってきたのだからなんとしてもやり切ってみせる。
あの人とは、同じ福岡の今泉 美羽さんというカリスマ的デザイナー兼モデル。
美羽さんはこの学校のOGで、卒業と同時に会社を立ち上げ、オリジナルブランドを手がけながらモデル活動もしている。
最近、三日月 太陽さんという映画監督との婚約を発表した。
彼は次世代のアニメ映画界を担うと言われていて、見た目も爽やかで異性からの人気も高い。
入学してすぐのオリエンテーション。
周りを見渡すとオシャレな人がたくさんいた。
デザイン科というだけあって色々なファッションの人がいる。
我が家では代々言われ続けていることがある。
『人は人とでしか成長できない。どんなに見た目が良くても中身は話さなきゃわからない。見た目を気にすることは大切だが、それ以上にもっと大切なのは人間性。小さなことを大切にする人間は強く、自分の弱さを知り、その弱さを出せる人間はもっと強い』
そう言い聞かされてきた。
だから人を見た目で判断しないように心がけている。
「横良いですか?」
優しく話しかけてくる1人の女性。
隣に座ったその人は本当に同じ人種かっていうくらい綺麗だ。
「その服、ナラランですよね?」
“Narrative Land”
ナラティブ・ランドとは、美羽さんが立ち上げたブランドでナラランの愛称で親しまれているアパレルブランド。
シンプルなデザインが多く、若い世代に愛されている。
今日はこのナラランの新作シャツとスカートを穿いてきた。
「ナララン知っとーと?」
「もちろん知ってるよ。ってか福岡の人?」
思わず博多弁が出てしまった。
これを契機に私たちはすぐ仲良くなった。
この人の声や醸し出ている雰囲気はどこか居心地が良く、同じ匂いみたいなものを感じた。
「私、荒川 優梨って言うの。よろしくね」
「私は神法 紫苑。よろしく」
優梨は東京出身で、私と同じようにファッション関係の仕事に就きたくて入学してきたそうだ。
モデルのように背が高くスタイルも良いので、シンプルなカットソーとデニムというコーディネートがそのスタイルの良さを際立たせている。
女優さんのようにすべすべの肌に艶のある長い髪。
同じ女性とは思えないほどの美しさに見惚れてしまう。
サバサバした彼女の性格も相まって、私たちはすぐに仲良くなった。
気がつけばオリエンテーションはあっという間に終わり、そこから毎日のように一緒にいるようになった。
1ヶ月も経つと優梨には何でも話せる関係になっていた。
☕️
カーテンの隙間から差し込む日差し。
昨日のどんよりとした曇り空とはうって変わり、待ち構えていたかのように朝日が挨拶してくる。
あまりの眩しさに思わず目を眇める。
昨日の徹夜も重なり、まだ頭が起きていない。
枕元にあったスマホで時刻を確認すると、すでに8時を回っていた。
やばい、遅刻する。
地面に引っ張られて重たかった瞼と身体が一瞬にして軽くなる。
ベッドから飛び起き、急いで顔を洗う。
歯を磨き、朝ご飯も食べずにスーツを着る。
玄関で革靴を履こうとする。
いつもならスムーズにいくのにこういうときに限って上手く履けない。
靴べらを使って強引に履いて最寄り駅まで走る。
ネクタイが緩んだままオフィスに駆け込みなんとか朝礼に間に合ったが、体温と息が上がる一方で、鼓動も一向に収まる様子がない。
久しぶりに全力疾走したせいで脳も身体もびっくりしている。
「雪落がギリギリに出社なんて珍しいな」
課長の言葉は嫌味ではなく心配してくれた感じだった。
キャリアを重ねるにつれ、仕事が増えていき、ときには休日返上のときもあったが、それだけ信頼されている証拠だと思った。
そんな俺の癒しは仕事終わりのコーヒーと彼女からくる返信。
他愛のない会話から恋愛話、無意味なスタンプの応酬まで内容は何でも良かった。
気がつくと、いつしかお互いを下の名前で呼び合うようになっていた。
🍦
今日は涼しく過ごしやすい。
カットソーをミニスカートにタックインし、ヒールを履いていった。
ヒールを履いたことでいつもより目線が高くなるけれど、それでも彼と目を合わせるには少し見上げないといけない。
原宿の駅前で待っていると、オーバーサイズの服とジーンズ、ハイカットスニーカーを履いた彼がやってきた。
いわゆるストリート系のファッション。
左の上腕二頭筋あたりにはワンポイントのタトゥーが垣間見える。
あの駄菓子屋で連絡先を交換してから私と彼は毎日のように連絡するようになっていた。
その会話の中で前から気になっていた店に行くことになった。
原宿と渋谷の間にある日本茶のカフェ。
そこでランチをしてからさらに下北沢のカフェに行くというカフェのはしご。
渋谷方面への歩道橋を渡り、細い路地から少し歩くと目的の店はあった。
芝生の広がるテラスにはサックスブルーの車が座っていて、そこはお店というよりも普通の民家のような雰囲気。
店内に入ると、彼は急にテンションが上がり出した。
どうやら好きなジャンルの音楽が流れていたらしく、口数が多くなっていた。
私はそれを見て少し緊張がほぐれた。
キャッシュレスのお店だったので、スマホで会計を済ませて外のテラス席で料理を待つ。
私は彼にマシンガントークを放っていた。
内容のない話にも彼は笑顔で聞いてくれていた。
その厳つい見た目とは逆によく笑う人だと思った。
いつもはもっと無愛想だとって言っていたけれど、つまりそれは私との時間を楽しんでくれているってこと?
特別扱いされいてるってこと?
考えすぎかな。
だけれど、私は彼といると居心地が良いのは事実。
優梨といるときのそれとはちょっと違う。
うまく言えないけれど、時間よ止まれって思う。
お互い同じタイミングで食事を終えてから少しだらだらする。
本音を言うとご飯をおわかりしたかった。
お茶つきの定食はご飯のおかわりができたが、さすがに初デートでがっつくのは引かれそうだったので我慢した。
下北沢に向かうため、渋谷まで歩いて井の頭線へ向かう。
人混みのなかマークシティ方面へ歩き、井の頭線につながる上りのエスカレーターに乗ろうとしたその瞬間、横並びで歩いていた彼が突如後ろに回り込んだ。
スカートだったから私のことを気遣って回り込んでくれたんだと思ったけれどそうじゃなかった。
さっきまで笑顔だった表情が険しい。
後方をチラチラと見ながら何かを警戒しているようだ。
彼のすぐ後ろには10代くらいの学生らしき男の子がいた。
右手に持っているスマホが明らかにおかしい。
ディスプレイが地面の方を向いているのだ。
(まさか、盗撮?)
その男の子は少し不満そうな表情をしているが、一方の彼は眼鏡の奥からその子を睨めつけている。
その表情に狼狽した男の子は逃げるようにエスカレーターを駆け上がっていった。
爽やかでモテそうな感じだっただけに少しショックだった。
そう、彼はその男の子の挙動に違和感を覚え、瞬時に守ってくれたのだ。
人を見た目で判断してはいけないという我が家の言い伝えは当たっているのかも。
出会ったばかりだからまだわからないけれど、この人はそれに当たる気がする。
というより信じたいと思った。下北沢から目的地に着くと、その店には行列ができていた。
映えるものがたくさんあるその店は紅茶専門店。
カウンターに座って注文をする。
私は紅茶を、彼はなぜかアイスコーヒーを注文した。
「このコーヒー甘すぎなくて美味い」
「慶永くんってビターコーヒーの方が好きなん?」
「理想はブラックコーヒー。甘すぎると食欲なくなるんだよね」
「それわかるかも。ご飯食べる前やと、思ってるより食べられんくなるっちゃん」
「紫苑ちゃんいつもアイス食べてるって言ってたよね?食欲なくならないの?」
「アイスは別腹やけん。無限に食べられる」
そう言いながら2人でガッツリ料理を食べた。
下北沢を軽く巡った後、まだ時間もあったのでそのまま渋谷に戻ることにした。
渋谷に着く頃には少し陽も落ちてきてほんのちょっとだけ肌寒さを感じる。
宮下パークを歩いていると、横丁にある九州食市を見つけた。
「美味そう!なんか腹減ってきた」
さっきカフェでガッツリ食べてませんでした?と思いつつも私もお腹がすいてきた。
「あっ、ごめん。いつも食べてるから違うところのほうが良いよね?」
横丁には九州食市以外にも、四国食市や北海道食市などもある。
せっかくなので、明太子や餃子などを食べることにした。
彼があっという間に平らげる。
私も食べるペースは早い方だけれど、それでも彼は早かった。
すべて食べ終わると、彼が徐に食器を重ねて店員さんが片づけやすいようにしている姿を見てギャップを感じた。
その姿はとてもナチュラルで、普段からやっているのだと感じた。
高架下からファイヤー通りへと渡り、代々木公園の方へと向かう。
右手にはアパレルショップやテナント募集中の店が並んでいて、左手には消防署が見える。
ガードレールを挟んだすぐ横で、スピード超過した車が数台走っている。
その中でもとりわけ大きな音を立てながら走り去っていく1台の外車。
その劈くような音が嫌で目を眇めると同時に少し歩道側に寄れた。
程なくして、ビシャッという水が飛ぶ音がした。
その短く強く音に反応し、目を見開くと、さっきまで右側にいたはずの彼がいない。
消えた?
水たまり+スピード超過の車から私が濡れないように瞬時に車道側に回ってくれたのだ。
この人って未来が見えるの?
そんな非現実的なことを考えながら彼の方を見ると、服が濡れていた。
オフホワイトのTシャツの左半分はすでに変色してしまっているのに、
「大丈夫だった?濡れてない?」
と私の方を心配してくれた。
「私は大丈夫。それより、Tシャツ乾かさんと風邪引くけん」
彼はそうだねと言って服を買いに近くのお店に入った。
店員さんや周りのお客さんに腫れ物に触るような目で見られる彼に申し訳なく思った。
「お待たせ」
黒いTシャツに着替えた彼はさっきよりも少し大人っぽく色気を感じた。
「ごめんね。お洋服いくらやった?」
「気にしなくて良いよ」
そう言うと、彼は何事もなかったかのようにニコッと笑った。
代々木公園に向かう途中、青いボトルのロゴが有名なカフェを見つけた。
彼は店員さんの説明を聞きながらどの豆にするか迷っている。
私はモカを注文し、彼はブラックを頼んで外のベンチに腰掛ける。
お店をバックに2人でコーヒーを顔の近くまで持っていき、数枚写真を撮る。
すると、
「へっくしょん」
彼が嚔をした。
「風邪引いたと?」
「いや、平気」
さっきの水しぶきで風邪を引いてしまったのだとしたら、そう思うと申し訳なさが増す。
そうは言ったが、数秒後にまた嚔をした。
顔を見ると明らかに顔色が悪い。
肩で呼吸しているのがわかる。
彼はかなり辛そうだ。
代々木公園に行く予定はキャンセルして、彼の最寄り駅まで送ることにした。
電車の中でも彼はずっと寒そうにしていた。
「ここで大丈夫。送ってくれてありがとう」
「うん、気をつけて帰って」
そのすぐ後、彼から、
「今日はありがとお」
とだけきた。
誤字にツッコミを入れるべきか迷ったけれど、それよりも体調が心配だった。
「こちらこそ色々とありがと。ちゃんと身体温めるんよ」
それから全然既読がつかなかった。
体調は大丈夫かな?
色々あって幻滅されたかな?
杞憂に終われば良いのだけれど……
☕️
昨日のことはほとんど覚えていない。
高熱で布団から起き上がることもできず、畳みかけるように孤独感にも襲われた。
心配して誰かが看病しに来てくれるなんていうドラマのような展開などもちろんなく、咳き込みながら布団に包まる。
時刻は朝の7時半。
流石に出勤できる状態ではなかったので上司に連絡して休ませてもらった。
LINEを確認すると彼女から連絡が来ていた。
「具合大丈夫?熱とか出とらん?」
すぐに返したかったが、指を動かす前に意識が飛んだ。
既読だけをつけて。
🍦
バイトの休憩中、私たち4人は休憩室のテーブルに座りながら喋っていた。
私の向かいに座っているのは童顔で垂れ目が特徴的な東北出身の渡良瀬 恋ちゃん。
服の上からでもわかるくらいのふくよかな胸が羨ましい私たちの癒し系。
その恋ちゃんの横にいるのは三白眼でボブヘアーの濱岡 里帆子。
私は里帆っちと呼んでいて、いつも元気なムードメーカー。
明るくて可愛いのに恋愛になると超奥手。
あと、酔うとちょっと悪ノリが面倒くさい。
で、私の横に座っているのはここのバイトを紹介してくれた優梨。
私たちの仲で一番しっかりしているリーダー的存在。
一見クールに見られがちだけれど、誰よりも友達想いで行動派。
仕事もできるし頭も良い。
みんな同学年ってこともあってすぐに意気投合した。
池袋にあるオシャレなカフェ。
テラス席も入れると100席近くあり、平日も満席になる。
みんなが仲良くなってすぐ、私たち4人だけのグループLINEを作ることになった。
グループの名前を決めるとき、里帆っちがみんなの頭文字(神法のKA、渡良瀬のWA、濱岡のHA、荒川だけRA)を取って『KAWAHARA』と勝手に名づけた。
最初はその名前に否定的だったけれど、他に候補がなかったこともあってなんだかんだでそのまま。
休憩中の話題は例の彼、慶永くんのことで盛り上がっていた。
「それ絶対好きじゃん」
この前のデートで彼から返事が全然返ってこなかったことを話したら優梨にそう言われた。
「まだ好きとかそんなんやないよ」
まだ好きという確信はない。と思う。
「でも気にはなってるんでしょ?」
それは事実。
彼から返事がくると胸がドキドキするし、なんて返そうかすごく迷う。
「で、どこまで進んだの?チューは?」
里帆っちは身を乗り出しながら色々すっ飛ばして聞いてくる。
「彼の唇柔らかかった?」
恋ちゃんがそれ前提でさらに聞いてくる。
「1回ご飯行っただけやし、まだ何もわからんよ」
そう言うと、里帆っちと恋ちゃんは残念そうな顔をしていたが、あなたたちは一体何を期待していたんでしょうか?
「せめてもう1回は遊ばないとね。焦っても何も見えないし」
優梨の言うとおり、まだ彼のことをよく知らない。
「で、その人はどんな人なの?」
「写真とかないの?」
彼はインスタやツイッターなどのSNSを一切していない。
LINEのアイコンも初期設定のままなので情報が極端に少ない。
里帆っちと恋ちゃんが立て続けに質問してきた。
この前の写真を見せる。
スマホに映るのは、つい先日2人で渋谷のカフェで撮ったもの。
片手に青いボトルのロゴが入ったカップを持ったツーショット写真。
アプリで加工しているとはいえ、彼の厳つさは残ったまま。
「えっ?この人?チャラくない?」
里帆っちが驚きの表情をしている。
「大丈夫?騙されてない?」
恋ちゃんが真剣な顔で心配してくれた。
「多分、大丈夫」
「多分って、絶対遊ばれてるよ」
里帆っちは少し男性不審なところがあるのかな?
「簡単に身体許したらダメだよ?男なんて1回ヤッたら簡単に捨てるんだから」
「そうそう、付き合った途端冷たくなるんだから慎重にね」
話が逸れた気がするけれど、一応参考にさせていただきます。
「でもこの笑顔可愛くない?」
彼の良さを知ってほしいという気持ちがあったからなのか、もう1枚の写真を見せる。
くしゃっとなる笑顔はギャップがある。
あのとき風邪を引いていたとは思えないくらいの笑顔だ。
「可愛いかも」
「なんかギャップあるね」
「そうったい!この人笑うとばり可愛いっちゃん!」
里帆っちも恋ちゃんも共感してくれたことが嬉しかった。
「紫苑、ベタ惚れじゃん」
「まだそんなんやないし」
「まだ?」
優梨には彼の話を何度かしていた。
だから弄ぶかのように私をいじってくる。
「ハッキリさせた方がラクじゃない?」
それはそうなんだけれど、まだ知り合ってからそんなに経っていないからわからない。
ただ、彼といると居心地が良いのは事実。
これが恋愛感情なのかはわからないけれど、もっと彼のことを知りたい。
「で、あっちはどうなの?」
恋ちゃんが聞いてきた。
「どうって何が?」
「だから、彼の気持ち確かめたの?」
そんなことできっこない。
まだ出会ったばかりだし。
「男の人って付き合うまでは優しいけど、付き合ってから急に冷たくなるものだから気を抜かないでね」
優梨の言うとおりかもしれないけれど、信じたいという気持ちもある。
「マッチングアプリとかやってみたら?」
里帆っちが唐突に言ってきた。
「ムリムリ。ああいうところって変な人しかいなさそうやし」
「じゃあ一緒にやってみる?」
「里帆っち可愛いんやし、登録せんでもすぐに彼氏できるよ」
「そ、そうかな?」
「里帆、単純だね」
優梨の言うとおり里帆っちは単純だった。
でもこの素直さが少し羨ましい。
下手に勘ぐったり悩んだりしなくて良いから。
程なくして、店長の声がした。
「お前たち、そろそろ休憩終わりだぞ」
**
話し足りなかったのでバイト終わりにKAWAHARAのみんなで飲みに行くことにした。
「カンパーイ!」
駅前にあるイタリアンのお店でお酒を飲む。
「今日忙しかったね」
「ピークタイムにレジが急にフリーズするけん、マジ焦ったっちゃけど」
「あれはガチでテンパるよね」
「ってかいきなりタメ口で話しかけてくる客って何なんだろうね」
「わかる。なんであんな偉そうなわけ?」
「レジで『コーヒー』しか言わんし」
「ホットかアイスかもわかんないし、イートインかテイクアウトかもわかんないから本当やめてほしい」
里帆っちと私がバイト中の愚痴をこぼしながらお酒を飲んでいると、
「優梨ちゃんは最近彼氏とどうなの?」
さっきまで黙っていた恋ちゃんが唐突な質問をする。
優梨には高校生の頃から付き合っている彼氏がいる。
よくインスタで写真を見るけれど、彼も優梨と同じくらいモデル体型のイケメン。
「別れそう」
優梨の言葉にみんなが一斉に反応する。
「えっ?なんで?」
3人の中で一番驚いていたのが、普段物静かな恋ちゃんだ。
予想していなかった返答に戸惑っている様子だ。
「まさか、浮気されたの?」
「ううん、そうじゃない。なんかお互いのことを知りすぎたっていうか、最近刺激がなくなってきてて」
「あんなに高スペックなのに?」
私からしたら、いや、誰が見ても優梨の彼氏は超優良物件。
アイドルグループにいてもおかしくないくらいのイケメン。
「カッコイイけど面白みがないっていうか、デートしてても話盛り上がらないし、昔みたいに好きって言ってくれなくなったし」
優梨のこんな切ない顔はじめて見た。
本当は別れたくない。付き合いたてのころのように好きって言ってほしい。そんな表情が見え隠れしていたような気がする。
「付き合ってから長いし、家族みたいになっちゃってるんじゃない?」
2人は中学時代の同級生。
付き合ってから今年で6年になる。
これだけ長く付き合っていると家族のような感覚になるらしい。
私はそこまで長くお付き合いした人がいないから、その気持ちはよくわからないけれど。
「恋愛って本当難しいっちゃんね。せっかく付き合えたと思ってもどっちかが冷めていくんやもん」
「わかる!付き合うまでの間が一番楽しいよね」
「そうそう、彼って私のこと好きなのかなって考えとる時間が一番ドキドキする」
「ときめいたり傷ついたり振り回されてる感じがたまんない」
「ときめきっぱなしやったら最高やのにね」
私と里帆っちで盛り上がっていると、
「傷つかない恋愛なんてないよ。だから、相手をどれだけ信じられるかが大事だと思う」
恋ちゃんがいつになく真剣な表情でそう言う。
そこに意志の強さを感じた。
「恋ちゃん、急にどしたと?」
「最近失恋でもした?」
「ううん、なんでもない……」
含みありまくりな言い方なんですが。
いつものほほんとしている恋ちゃんが優梨に連鎖されたみたいに落ち込んでいる。
「ってか恋も彼氏いなかったっけ?」
優梨がそう聞くと、
「私も別れそう」
恋ちゃんにも彼氏がいる。
掛け持ちのバイト先で知り合った人だ。
恋ちゃんによると、その人はカッコイイというより面白い人で、いつも冗談ばかりで笑わせてくれるそうだ。
一緒にいて飽きないタイプの人なのに、どうして別れそうなんだろう。
「全然抱いてくれないの」
その言葉を聞いた里帆っちが、飲んでいたハイボールを変なところに詰まらせてゲホゲホと咽せていた。
「この前付き合ったばっかりやなかったと?」
「来週で3ヶ月目になる」
「3ヶ月も経って何もしてないの?」
里帆っちが大きな目をさらに大きくして驚いている。
「手は繋いだけど、それ以上はまだ何も……」
3ヶ月も一緒にいて手を繋いだだけって逆に恋ちゃんすごいと素直に思った。
「いや、昭和の恋愛かよ」
漫才師のようにツッコミを入れる優梨。
「その彼って恋ちゃんが初カノ?」
「私で3人目」
「元カノたちは長く続いたと?」
「前の彼女は半年。その前の彼女は4ヶ月」
「じゃあこれからやない?」
「そうだといいけど、キスもハグもしてこないのって彼女として魅力ないってことかな?」
「逆にれんれんから攻めてみたら?」
里帆っちは恋ちゃんのことを『れんれん』と呼んでいて、2人は大の仲良し。
恋ちゃんの不安の籠った疑問に応える里帆っち。
「できないよ。それで引かれたら嫌だし」
「じゃあ私のどこが好きって聞いてみようよ」
「えっ?」
驚きと戸惑いが混在する恋ちゃんを娯しむかのように、アルコールですでに顔が真っ赤な悪ノリ里帆っちを止められる人はいなかった。
「スマホ貸して」
里帆っちが恋ちゃんのスマホを強引に取って、恋ちゃんの彼氏に電話した。
「ちょ、ちょっと里帆ちゃん」
スピーカーにしてコールする。
2コール、3コール鳴っても出ない。
恋ちゃんが困惑している。
「里穂子もうやめなよ。恋が困ってるよ」
優しくも強い口調で里帆っちを止める優梨の言葉は、子供のイタズラを注意する母親のようだった。
「れんれん、ごめん……」
「ううん、いいの。付き合ったら飽きられちゃったのかな……」
「それ、カエル化現象ってやつやない?」
「ちょっと、紫苑」
失言だった。
落ち込んでいる恋ちゃんの心を抉ってしまったようだ。
「ごめん」
「でも、どうして男の人って付き合った途端態度変わるのかな」
答えの出ない問題に悩む恋ちゃんの表情は行き場を失っていた。
カエル化現象か。
私もそうなるのかな……
どうしようもない不安に駆られてきた。
「はい、私の話はおしまい。もっと楽しい話しよ」
恋ちゃんが手をパンッと叩いて話題を変える。
すると、私のスマホが鳴った。
バイト先の砂金先輩からだ。
「はい、もしもし」
「神法いま何してる?」
「いまバイト先のメンバーで飲んでます」
「マジ⁉︎俺もバイト終わったから清田とそっち行っていい?」
砂金先輩と清田先輩は私たちと同じバイト先で2人とも同じ大学に通っている。
いつもニコニコしている明るい砂金先輩。
私が新人のときから気にかけてくれていて、たくさんフォローしてもらった。
清田先輩はバイト先のリーダー的存在で、ピークタイムも冷静に店を回してくれる頼れる人。
見た目も爽やかで優しいが、彼女の自慢ばかりするからたまに面倒くさいときがある。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
遅番終わりの2人が合流し、ハイボールを注文して乾杯し直す。
私の隣の座った砂金先輩が話しかけてきた。
「神法最近どう?」
「楽しいですよ。みんなとシフトも被ってますし」
「いや、バイトの話じゃなくて」
笑顔でツッコミを入れるも細くつりあがった目の奥は笑っていなかった。
私には先輩が何を知りたかったのかわからなかった。
「良い人とかいないの?」
そう聞かれて彼のことが浮かんだ。
でもまだハッキリと好きかどうかはわからない。
色で例えるなら燻んだ緋色。
熱を帯びた燃ゆる赤には届かない|靄がかった色。
「いるけどいないです」
だからなんとなくそう答えた。
「なんだよそれ」
またも笑顔でツッコミを入れられて苦笑いするしかなかった。
「紫苑ちゃんは~、いま楽しい時期なんだよね~」
横に座っていた恋ちゃんが私に寄りかかりながら、そう言った。
それは娘を自慢する母親の感じだった。
「ちょっと恋、飲みすぎ。大丈夫?」
「らいりょ~るぅ~」
優梨の心配をよそにワインをぐびぐびと飲んでいる。
こうなるともうダメだ。
恋人ちゃんと里帆っちの家は近くだからどっちかが酔ったときは家まで送るようになっている。
里帆っちは実はお酒が強い。
顔が赤くなるだけで酔っているわけでない。
だから安心して預けられる。
「里穂子、恋のことよろしくね」
「ラジャ」
酩酊状態の恋ちゃんはすでに爆睡していたので里帆っちが連れて帰った。
その流れで私たちも店を出ることにした。
時間は23時を回っていた。
「二次会行く?」
と先輩たちに誘われたが、優梨と一緒に私も帰ることにした。
☕️
梅雨のニュースと同時に気持ちが少し憂鬱になる。
毎年やってくるあのジメジメ感。
曇天の空から降る雨と湿気のダブルパンチのおかげで着ているシャツすらも邪魔に感じる。
身体を起こすことすら億劫になり、帰宅と同時にすべての行動を停止してしまいたくなるような嫌な時間だ。
寝る前の習慣、いや、癖になっていたスマホいじりをやめて強引に眠ろうとするがなかなか寝つけない。
睡眠アプリを開き、よく眠れるというソルフェジオ周波数の音を流す。
何度か寝返りを打っているうちに眠っていた。
(グサッ!)
その音で目が覚めた。
大量の汗と同時に吐き気がした。
またあの夢だ。
身に覚えのない部屋で誰かに何かで刺される夢。
さっきの音と言いこの夢は一体何なんだ……
**
扉を開けると湿度の高いモワッとした空気が俺の眼鏡を曇らせる。
改札に入り電車に乗ると、再び湿気に攻撃される。
曇った眼鏡を拭いてかけ直す。
今度曇らない眼鏡を買いに行こう。
彼女とやりとりしている中で最近話題の映画、『最も近い遠距離恋愛~美しきリノス~』を観に行くことになった。
数年前ネット小説で話題になり、そこから映画化されたものだ。
そういえば映画を観に行くのなんていつぶりだろう。
中学生のとき地元の友達と行った以来だ。
駅前でスマホをいじりながら待っていると、
「おはよ」
その明るく元気な声は彼女だ。
スマホを仕舞って目を合わせる。
挨拶を交わしたとき、あることに気がつく。
「アイライン変えた?」
メイクのこととかよくわからないけれど、前回よりも少し目元が明るくなっていた気がした。
彼女は下を向きながら、
「うん」
そう答えた。
この反応はどっちだ?
喜んでいるのか?それとも嫌がっているのか?
彼女の頬が少し赤くなっている。
エレベーターを待っているとき、彼女がバッグから見覚えのあるものを取り出して渡してきた。
「返すの遅くなってごめん」
サネカズラのハンカチだ。
そんなに重要なものでもなかったから貸したことをすっかり忘れていた。
「また必要になったら言ってね」
これは個人的見解だが、エレベーターの中って何もしゃべってはいけないような独特な威圧感というか雰囲気がある。
だから何を話そうかというよりもすぐ横にいる彼女が退屈にしていないか気になってしまう。
休日ということもあり、中には多くの人がいた。
コーラとポップコーンを買い着席する。
話題の映画ということもありシートはほぼ埋まっていた。
ポップコーンをシェアしようとカップを渡そうとしたとき、彼女の手が触れてしまった。
「ごめん」
「う、うん」
何だろう。
今日はやけに彼女の反応が薄い気がするが、その瞳は瞬いていた。
一瞬ではあったがその白く透き通った肌は俺の鼓動を瞬時に早めた。
緊張と動揺で身体が熱を帯びている。
その動揺を抑えるためにコーラをがぶ飲みした。
しかし、程なくすると、
ヒック、ヒック。
吃逆が止まらなくなってしまった。
タイミング悪くもうすぐ上映時間。
その前に止めないと。
吃逆は横隔膜の痙攣によるミオクローヌスが主因と言われているが、定かではない。
だから人によって止め方が違う。
両耳に指を入れたり、強い衝撃を与えたり、膝を胸につけて前屈みになるなどあるが、ここは過去の成功体験を踏まえて、息を数秒間止めてみよう。
……ヒック。
ダメだ、止まらない。
このままだと映画どころではなくなる。
「ねね、良い止め方があるけん、ちょっと屈んで」
彼女はどこか楽しそうな表情をしていた。
不敵な笑みというよりも新しいゲームを始めるときに似たワクワクしたそんな感じに思えた。
背に腹は変えられないので、言われるがまま前屈みになる。
すると、
ドンッ!
背中に大きな衝撃を受ける。
驚きと痛みが同時にやってきて声が出なかった。
彼女が背中を平手打ちしたのだ。
急な騒音に周囲から冷たい視線を浴びて、すいませんと小さな声でお詫びする。
しかし、驚いたおかげで横隔膜の痙攣が止まった。
「ありがとう」
「どういたしまして。お母さんが吃逆出たときにようやっとった」
吃逆が止まったと同時に照明が暗くなった。
スクリーンに集中していると、NO MORE映画泥棒のカメラ男とパトランプ男が出てきた後、本編が始まった。
上映が終わり館内が明るくなると、両手を天に向けて、うーんと言いながら背伸びする人やジュルジュルと洟を啜る人、あーだこーだ言いながら映画館を後にする人などがいた。
横に座る彼女を見ると、その目は充血していた。
彼女が泪を拭くのを待って映画館を出た。
「面白かったね」
「普通に面白かった」
「最後の展開は意外でびっくりした」
「ホント、伏線回収もすごくてばり泣けた」
「紫苑ちゃん、クライマックスのとき号泣して洟ジュルジュルいってたよ」
「最後切なすぎやし。ってか慶永くんもちょっと泣いとったよね?」
「いえ、泣いてませんけど」
本音を言うと泣くのを堪えていた。
会いたいのに会えない。
想いあっているのに気持ちを伝えられない。
そんな切なすぎる展開に涙腺が崩壊しそうだったが、眼鏡を拭くフリして誤魔化した。
「ホントかなぁ?」
本当に泣いていないのか確かめるようにこっちを覗き込む彼女の顔がすぐ目の前にある。
恥ずかしさのあまり思わず顔を背けると、それに気がついた彼女も顔を赤らめていた。
「またハンカチ借りることになっちゃったね」
クライマックスのとき、ヒロインが主人公の腕の中に亡くなったくらいから彼女の洟を啜る音が聞こえはじめた。
俺も落ちてきそうな泪を必死に戻しながら、返ってきたばかりのサネカズラのハンカチを渡した。
それを手に取った彼女はそこからずっと泣きっぱなしだった。
「いつでもいいから」
「すぐ返すけん」
その後感想を言いあいながらカフェに向かっている途中、信号待ちをしていると塀の上にいた1匹の猫に目がいった。
「ねぇ見て。この猫ちゃんばり可愛い」
塀の上に立っていた猫は大型でクルミ型の釣り上がり気味の目でこちらを見ていた。
仏頂面で気だるそうにしている。
「これ、ラガマフィンかな?」
「ラガマフィン?紫苑ちゃんもレゲエ好きなの?」
「いや、ラガマフィンはこの猫ちゃんの品種のことやけど」
猫のラガマフィンは『いたずらっこ』という意味があり、レゲエのラガマフィンは『レゲエ好きな不良の若者たち』を総称して呼ぶ。
同じ呼び方でも意味が全く違う。
普通に考えていきなりレゲエの話になるわけないよな。
「猫のこと詳しいんだね」
「昔、猫ちゃんを飼おうと思ったことがあって色々調べてたことがあったんやけど、お父さんが犬好きやけん飼うの諦めた」
猫の品種と音楽のワードを勘違いして1人暴走したことが急に恥ずかしくなり、強引に話題を変えた。
「紫苑ちゃん、いつか福岡に帰りたいって思う?」
「東京は良いとこやけど、いつかは帰りたいかな」
友達、家族、景色、思い出。
それがたくさん詰まっている地元。
それを易々と捨てられる人はそういない。
返ってくる答えはわかっていたはずなのに、少し悲しい気持ちになった。
🍦
太陽系の主が最も盛んになる季節がやってきた。
湿気という魔物が去ってから間もなく、入れ替わるようにやってくる紫外線という魔物。
熱を帯びた大地が頭上からでなく足元からも攻めてくる。
この時期になると、毎年毎年同じことをいっている気がする。
去年より暑くない?と。
都内の河川敷で行われる花火大会。
映画を観に行った翌日、彼に誘われて行くことになった。
新しいのを買おうか迷ったけれど、エステにネイル、美容院を優先させたらお金が足りなかった。
だからお姉ちゃんにお願いして浴衣を借りることにした。
待ち合わせは15時に駅前の噴水。
朝から髪のセットやメイクをいつも以上に気合い入れて行ったら遅刻しそうになった。
時間はもう14:45だった。
「ごめん、ちょっと遅れるかも……」
すると、すぐに返事がきた。
「今日暑いし、人多いからゆっくりでいいよ」
こういうときに優しい人って安心する。
着慣れていない浴衣と履き慣れていない下駄で電車に乗る。
駅に着くと、待ち合わせの時間はすぎていた。
だけど、汗が気になる。
髪型もメイクも気になる。
トイレに行ってメイクを直そうとするも、女子トイレにはたくさん並んでいる。
遅刻確定だ。
申し訳ないと思いながらも、見窄らしい姿で会うわけにはいかない。
メイクを直して彼のいる噴水前に向かう。
深い藍色のしじら織の浴衣は彼の小麦色の肌と綺麗に合わさり、大人の男性を感じさせた。
「ごめん、お待たせ」
怒っているかと思ったけれど、彼はそんな素振りすら見せず、
「紫苑ちゃん、めっちゃ似合ってる」
と言ってくれた。
「あ、ありがと」
予想していなかった角度からの言葉にドキッとした。
浴衣は家に3着あった。
白に水色の帯、紺に赤い帯、濃い紫と黄色の帯。
お姉ちゃんが当日白い浴衣を着ていくことになっていたので紺か紫の二択だったが、気分的に濃い紫を選んだ。
「慶永くんも似合っとるよ」
「あ、ありがとうございます」
なぜか敬語の彼。
少し照れた様子がちょっと可愛く見えた。
横並びで歩きながら河川敷まで向かう。
まだ花火が打ち上がるまで時間があるが、辺りには多くの人が場所を取るためブルーシートを敷いている。
都内の花火大会とだけあってすでに場所は限定されてきていた。
せっかくなら良いところで見たいという気持ちもあったけれど、正直彼と見られるならどこでも良かったので、打ち上がる場所から少し離れた場所に彼の持ってきた小さなシートを敷いた。
近くのコンビニで買い物をしようと駅の方まで戻ろうとすると、目の前から浴衣を着た女性がやってきた。
「あれ?慶永?」
猫のような可愛らしい顔をした女性。でも、彼のことを下の名前で呼ぶなんてどんな関係?
「やっぱ慶永だよね?」
「梨紗?」
梨紗って、あなたも下の名前で呼ぶ間柄なの?
「この前ぶりだね」
嬉しそうに彼の肩をポンポンと叩く彼女。
何この親密な関係。
ってかこの前ぶりって何?
「おう、そうだな」
「浴衣めっちゃ似合ってる!かっこいい!」
両手を後ろに回して彼の顔を覗き込む。
この人あざとくない?
「はいはい、ありがとう」
「つめたくない?」
何このカップルみたいな距離感。
胸の奥が激しく動揺している。
「本当に本気?」
端なくも声に出てしまった。
それを聞いた彼女に一瞥されたが、それは私を敵対視している表情にも思えた。
「それ、会うたびに言われてる気がするんだが」
「そうだっけ?」
「ってか最近ずっとそんな感じだぞ」
「え~そんなことないし~」
見えない2人の空気感は私の介入を受け入れなかった。
横にいるのにすごく遠くにいる。
そんな複雑な感情に心がざわついた。
「ってかこの人、カノジョ?」
私を再び一瞥した後、彼の顔を伺う。
「いや、まだ」
まだって何?
私のことどう思ってるの?
「ふぅ~ん」
そう言いながら私の目の前に立って、舐め回すように足元からじっくり見上げてきた。
身長は私の方が高いけれど、彼女の目つきは獲物を狩る肉食動物のように威圧感があった。
「あなた、名前は?」
何その上から目線な言い方。
先に名乗るのが礼儀でしょう。
「神法 紫苑です」
「神法さんって言うんだ。綺麗な人だね」
なんだろう、褒められた気が全くしない。なんだか癪に障る。
「私は七海 梨紗。よろしくね」
私は目も合わさず軽く会釈した。
「梨紗も花火大会見にきたのか?」
「友達がトイレに行くって言うから待ってたんだけど全然帰ってこなくて」
「すぐそこの簡易トイレに行ったんじゃないのか?」
「あそこは汚いから嫌だって言ってどっか行っちゃった」
「連絡はつかないのか?」
「何度連絡してもつながらないの」
「その子とはどの辺で逸れたんだ?」
ちょっと、この女の人探しの手伝いするつもり?私たち関係なくない?
「あのコンビニのトイレ行くって言ってからいなくなったの」
河川敷の上にはコンビニが見えるが、彼は腕を組みながら怪訝な表情を浮かべている。
「恐らくだけど、駅まで行ったんじゃないか?」
「駅まで?」
駅までは歩いて10分以上かかる。
この暑さの中では10分という時間は何倍にも感じる。
「あのコンビニはトイレの貸し出しをしていない。中でタバコを吸うやつや酒を飲むやつ、酷いやつは吐瀉物を片付けないやつもいたから使用禁止になったんだ。だからこの簡易トイレ以外で行く可能性があるとするなら駅前しか考えられない」
この時期は河川敷内にある簡易トイレに人が殺到するらしい。
ただ簡易トイレというだけあって残念ながら綺麗とは言えない。
もし使うには一瞬逡巡する。
「慶永めっちゃ詳しいね」
「伊達に腹下しやすい体質じゃないんでね」
「そういえば入社したてのころ、よくお腹痛いって言ってトイレに駆け込んでたっけ」
「新入社員専用のプレゼン研修なんて謎のものがあるからだ。会ったこともない人に毎週プレゼンしなきゃいけないんだからそりゃあ緊張もする」
「あれは大変だったよね。懐かしいな」
なんかこの2人すごく仲が良い。
この女は私の知らない彼を知っている。
なんだかすごく悔しくなってきた。
「ってか最近明るくなったな。なんか良いことでもあったか?」
「慶永この前会ったときにさ、『梨紗って見た目に反して冷たいとこあるから』って言ってたじゃん?あれ結構ショックでさ、だから冷たくないとこ見せてやろうと思って」
「俺そんなこと言ったっけ?」
「うわっ、ひどっ!」
2人を見ていると、胸の奥を棍棒で何度も叩かれているような気がする。
うまく言えないけれど、確実に言えることは良い気分ではないってことだけ。
モヤモヤする気持ちを抑えようとしていると、駅の方からこちらに向かってくる女性を見つけた。
「あっ、いた!」
どうやら探していた友達のようだ。
「ごめん、トイレ全然なくて駅前まで行ってた」
「もう、探したんだよ。電話しても全然つながらないし」
その友達がスマホを見ると、画面は暗いままだった」
「ごめん、電池切れてた」
「彼にも手伝ってもらったんだからね」
彼にもって私のことは無視?
たしかに私は何もしていないけれど、空気のように扱われた気がして腹が立ったが、この感情は穿っているのかな?
「そうなの?それはすみませんでした」
その友達が申し訳なさそうにこちらにお辞儀をすると、
「いえ、俺らは何も」
と応えた後、
「ってか何でここの花火大会に来てるんだ?横浜の方が近いだろ?」
梨紗に向かって素朴な疑問を投げかける彼。
「この子の家埼玉の方だから」
「そっか」
彼の言葉の後、トイレに行っていた友達が梨紗に確認する。
「この人たちは梨紗のお知り合い?」
「うん。元カレと今カノさん」
梨紗の発言に私も彼もその友達も喫驚している。
「おい、梨紗」
「違うの?」
「まだそんなんじゃねぇから」
「でもこの子、慶永のこと好きだと思うよ」
急に何を言っているの?
眼鏡の奥の瞳の瞬きが早いのがわかる。
この反応はどっち?
良い方?悪い方?
「ちょっと梨紗、2人とも困ってるよ。行こう」
少し残念そうな表情にしている梨紗たちは去っていった。
「なんか、ごめん」
ごめんって何に対して?
「なんで謝ると?」
「いや、梨紗にかき回されたから」
「慶永くんは悪くないよ」
ただ、優しすぎるだけ。
それから私の心はざわつきが収まらず、花火どころではなかった。
☕️
「お前結婚しねぇの?」
1杯300円もしない安い酒を飲みながら聞いてくる。
「相手がいない」
親友の風間 心治とは高校時代からの付き合いで、3年間クラスが一緒だった。
入学と同時に野球部に入り、2年のときには同時期にレギュラーになった。
ポジションは俺がショートで親友の心治がセカンドの二遊間。
大会前は真面目に練習していたが、たまに朝練サボってマック行ったり、キャッチボール中にわざと暴投して体育館内にいる女子バスケ部に絡んだりしていた。
社会人になってからも一緒にスケボーしたり、ロードバイクに乗って都内をサイクリングしたり、クラブやフェスに行ってタオル振りながら体力の限界まで踊っていた。
心治には言いたいことを言える。
「理想が高ぇんだよ。若くて可愛い子ばっか狙うなって」
「どうせ結婚するなら良い女捕まえたいじゃんか。お前の嫁さんだって可愛いし」
心治の嫁さんは高校の一歳歳下の後輩で、女子バスケ部に所属していた。
彼女が入学と同時に心治が一目惚れし、それから何かと理由をつけては絡んでいた。
秋の大会の後、3年生の送別会が行われた。
たまたま女子バスケ部も同じ店で送別会が行われていて、そこから2人はさらに急接近して付き合いそのまま子供を産んで結婚した。
「そういうの最初だけだぞ?一緒に住んだら家族みたいになって、子供ができたら旦那なんて後回しにされて、小遣い制で好きなものも買えないし」
電子タバコを吸いながら既婚者の現実を夢なく語る。
「でも子供は可愛いだろ?」
「あぁ、めちゃくちゃ可愛い。子供のために生きてるって言っても過言じゃない」
子供の話になり、彼女の顔が浮かんだ。
「いまの嫁さんと一緒になって良かったって思うか?」
「あぁ、きっと違う人だったら結婚してないと思う」
こういうのも巡り合わせだろう。
「でも焦んなよ。結婚はタイミングって言うし、急いでするもんじゃない」
たしかにそうだ。焦っても良いことなんてない。
「長続きする秘訣って何だ?」
「それはな、我慢だ」
親友は一切の逡巡もなくそう言い切った。
「マジ?」
「理想を追い求めて良かったことなんてあるか?生きた人間同士が一緒になるんだ。そんなことはあり得ない」
たしかにそうだ。理想通りに行くことなんてほぼない。
「自分の理想の恋愛をしたいならAIと結婚すべきだ。だからお前も相手のために行動した方が良い。それが結果的に自分の幸せにつながるからな」
チャットGPTや占い師に将来の婚約者を聞いたところで信憑性はないし、自分の将来は自分で決めるのが『道』というものだ。
極論も混ざっていたが言っていることは正しい。
いつもふざけてばかりいるのに、こういう真剣な話になるとちゃんと答えてくれる。
そもそもこんな会話してこなかったから、お互い少し大人になったなと思う。
「それよりこれからどうする?」
そう親友に聞かれたが、時間は大丈夫か?
「どうするってもう夜の10時だぞ?家庭は大丈夫なのか?」
心治は二児の父親。
女慣れしていることもあってか結婚してからもモテる。
「嫁は来週まで子供連れて地元に帰省してるから大丈夫。せっかくだしどっか行くか」
親友のどっか行くか。はそういう店のことを指す。
「責任取らねぇぞ」
東京のネオンの光がギラギラに輝く街中、居酒屋の前で二次会に行くかどうかを話し合う学生たち。すでに酩酊している会社員たち。
スーツを着た若い男性とその隣に数人の女の子が店の入り口の前に立っている。
その中の1人の子。
どこかで見たことがあるような気がするが、マスクをしていたので確信は持てなかった。
「いらっしゃいませ。ご指名は?」
黒服の男性が入り口で俺ら2人を出迎える。
「いや、ないっす」
「ご来店されたことはあります?」
「いや、ないっす」
「フリー2名さまでーす」
店内に入ると、煌びやかな装飾と高そうなシャンデリアが出迎えた。
BGMはR&Bが流れていて、まるでバーのような雰囲気。
ドレスを着た綺麗な女性がスマホをいじりながら待機している。
奥に座っている常連らしき人はシャンパンを入れてキャバ嬢と乾杯していたが、平日ということもあってかそこまで混んでいなかった。
黒服のボーイに席に案内され、しばらくするとドレスを着た女性がやってきた。
さっき外で呼び込みをしていたうちの1人だ。
その子と目が合うと瞳孔が開いた。
「慶永?」
いつもよりちょっと濃いめのメイクをしていたが、リスのようなその顔は間違いない。
「梨紗?」
なんで梨紗がここに?
驚きのあまり大きい声が出た。
(ここではユメって名前でやってるから)
小声でそう言われた。
横に座っている心治は胸元と背中がガッツリ開いたドレスを着ているキャバ嬢と楽しそうに話している。
まさかキャバクラで梨紗と話すことになるなんて。
ちょっと気まずいが、20分くらいすれば違う子がつくので、梨紗、いや、ユメちゃんと話すことにした。
美容師のように今日はお休みだったんですか?とかは通用しないし、他のキャバ嬢のように何て呼んだらいいですか?っていうのもこの場では意味をなさない。
すると、ユメちゃんが切り出した。
「私さ、以前夢があるって言ってたの覚えてる?」
「あぁ、覚えてる」
「私ね、ずっと看護師になりたかったの。あの震災のときに何ができなかったことが悔しくて」
梨紗の両親と祖父母は震災で亡くなっている。
幼いながらも梨紗はそのことを強く覚えていて、北海道から親戚のいる東京に引き取られてなんとか生活はできていたが、心の穴は塞がらなかった。
その親戚も最近亡くなり、1人っ子の梨紗は天涯孤独となった。
理由は違えど、俺と同じように孤独感を内に秘めながら日々闘っている。
「梨紗って案外良い女だな」
「あれ?いまごろ知ったの?」
気づくの遅いと言わんばりの表情は少しだけ艶めかしく見えた。
「残念ながらな」
「ひどいんですけど」
お互いそんな軽口を言いながら話を続ける。
「でもお金が必要なら仕事辞める必要なかったんじゃないか?」
ウチの会社は中小企業にしては結構ボーナスが高い。
在籍が長ければ長いほど多くもらえるようになる。
「あの会社副業禁止じゃん。それに看護師になるには資格がいるから、勉強する時間が必要なの」
そう、ウチの会社は副業を禁止している。
パンデミックの影響で副業を申請する社員もいたがそれは叶わなかった。
むしろ今回を機にアプリゲームの開発にも携わるようになったことで仕事量は増えていった。
残業も多くなり、ハードワークから辞めていく社員も増えた。
梨紗もその1人。
「梨紗って意外と真面目なんだな」
「意外は余計よ」
「悪りぃ悪りぃ」
梨紗は会社を辞めてからというもの、昼は看護の専門学校に通い、夜はこの店で働いて専門学校の費用を自分で支払っているらしい。
別れてから知っていく梨紗の一面が最近増えた。
そんな気がする。
🍦
優梨との待ち合わせ場所へ向かう途中で足が止まった。
駅から少し離れた通り沿いにあるカフェに見覚えのある人がいた。
窓側のテーブル席に座り、1人本を読んでいる。
ベースボールキャップを被っていたとはいえ、ハーフリムの眼鏡にキリッとした目の横顔は間違いない。
慶永くんだ。
休みの日はカフェで小説を読んでいるっていたけれど、集中していてこっちには全く気がついていない様子。
偶然にも同じ街で見つけるなんて、これってもしかして運命?
勇気を出して直接声をかけに行こうかと思ったそのとき、見覚えのある人がカフェに向かってきた。
この前会った七海 梨紗だ。
彼女の印象は正直言って最悪。
私のことを見下したようなあの嫌な目つきが蘇る。
カフェに入ろうとする彼女を見てなぜか反射的に身を隠してしまった。
何で隠れているの?
何も疚しいことなんてないのに。
梨紗は彼の見える位置まで向かい、店の外からガラスをコンコンと叩いた。
それに気がついた彼が軽く手を振ると、店内で合流して真正面の席に座る。
どうやら待ち合わせをしていたようだ。
2人はドリンクを飲みながら楽しそうに話している。
何の話をしているのだろう?
心臓の奥が激しく動揺した。
今日は優梨のバイト終わりに遊ぶことになっていた。
私は休みだったけれど、店に行くのがなんとなく億劫だったので待ち合わせの時間までだらだらしていた。
「そっち向かう途中にさ、彼が前に話しとった女と一緒におるんやけど」
スピーディーに親指を動かして一文字もミスることなくメッセージを送ると即レスがきた。
「とりあえずそっち行くから待ってて」
「わかった。位置情報送るね」
ちょうどバイトが終わった様子の優梨が合流した。
「ごめん、こっちまで来てもらっちゃって」
「いいよ。それより状況は?」
優梨はまるで警察官の現場検証のようにスマホをメモ帳代わりにして聞いてくる。
話の内容はわからないけれど、待ち合わせしていることを伝えた。
「なるほど、じゃ入るよ」
「入るって、あの店に?」
「そう、行くよ」
「そんなことしたらバレちゃうよ」
「大丈夫!あの2人話に夢中みたいだし、あそこに座ればバレないよ」
彼らの座っている場所は店の入り口から少し離れた窓側の席。
席と席の間には柱で隔たれているため、身を乗り出さないと見えない。
店に入る前、「潜入捜査みたいじゃない?」
と言ってきた優梨の表情は楽しそうだったけれど、私は気が気でない。
半信半疑で優梨の後をついて行く。
柱を隔てた先の席に座って耳をすます。
しかし、広い店内はほぼ満席状態で多くの人の声が壁に反射していて個々の会話を聞くことは容易ではなかった。
しかも彼のすぐ近くに座っていた若い子たちがスマホからアイドルのライブ動画を大きな音量で流している。
それに対してイライラしてきた。
盗み聞きをするのはよくないけれど、聞こえそうで聞こえない感じがモヤモヤする。
「五月蝿い」
思わず口に出てしまった。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だったが、横で聞いていた優梨が私の方を見ながらニヤニヤしだした。
「紫苑、彼のこと好きなんだね」
「え!?なんで?」
「バレバレだし。彼のことになると露骨に顔に出るんだから」
「ウソ!?」
「気がついていないとでも思った?連絡くるだけで嬉しそうな顔するし、いまだって会話が聞こえなくてイライラしてるんでしょ?」
「私、そんなわかりやすい?」
「うん。めちゃくちゃわかりやすい」
勘の鋭い優梨だからではない。きっと私はすぐに態度に出るタイプなのだろう。
でも、そうなると彼にも気づかれているのかも。そうなると一気に恥ずかしくなってきた。
「告っちゃえば?」
「こ、告白!?」
驚きのあまり思わず大きい声が出てしまった。
ムリムリムリ。
告白なんて一度もしたことないし、脈があるのかもわからないし。
パソコンで仕事をしている人たちや食事をしている人、作業中の店員さんからも見られてしまった。
私は座ったまま周囲の人にすみませんと小さく首を振って謝った。
「冗談だよ、本当かわいい!」
「もうやめてよ」
優梨のいたずらはたまに度がすぎることがあるから心臓に悪い。
程なくして彼らが立ち上がって店を出て行こうとする。
私たちもバレないように尾行する。
店を出た2人はとあるビルに入って行った。
エレベーターが止まった場所を確認し、私たちも同じ階に向かう。
都心の景色が見えるお洒落なレストラン。
ギリギリ会話の聞こえる席に座ろうとしたが、予約の関係で少し離れた席に案内された。
向かい合わせに座りながら話す2人は楽しそう。
彼の笑顔を遠目から見るたびに胸がチクチクと痛む。
優梨は注文したローストビーフとワインを他人事のように堪能していた。
結局注文したものはほとんど喉が通らず、2人の後を追うように店を出た。
「優梨、もうやめない?」
「まだ何もつかめてないからもう少し追いかけようよ」
私の気持ちとは裏腹に、優梨は探偵ごっこを楽しんでいる。
レストランを出た2人は人気のない少ない道へと歩き出した。
朝の予報は曇りときどき雨。
降水確率も30%と傘を持っていくか困るパターンだけれど、濡れるのは嫌だから一応持っていった。
私は雨が嫌い。
蒸れるし、濡れるし、気分も落ちるし。
でも今日ばかりは降ってほしいと願った。
尾行がバレてしまうし、見たくないものは見なくていいから。
今朝は晴れていて暖かかったけれど、この時間になると雲の群れが太陽にマスクをするように空の色を暗くする。
少し肌寒さを感じてコートを羽織る。
すると、願いが届いたのか急に雨がパラパラと降り出した。
私にはこの雨が恵みの雨に思えた。
2人とも距離が縮まりすぎないよう慎重に歩く。
しかし、恵みだったはずの雨は一瞬にして嫉妬の雨へと姿を変えた。
あの女が鞄から折り畳み傘を取り出し、開いたのだ。
まさか、相合傘?
ただその傘は大人2人が入るには絶妙に小さかったので一瞬ホッとした。
だけれど彼は濡れている。
帽子を被っていたおかげで頭は無事みたいだけれど、肩から下はどんどん雨を受けている。
小雨とはいえ、何も差さずに歩くなんて風邪ひいちゃうし、自分が濡れてでも行かないといけない場所ってどこ?
私だったら彼が濡れないようにしてあげるのに。
一定の距離を保ちながら後をついていく。
少し経つと叢雨が続いた。
この天気に目的もなく歩くなんて考えにくい。
多くの人が屋根のあるところに行き、いつ止むかわからない雨を見上げながら雨宿りをしている。
何人かの人は頭が濡れないよう持っていたバッグを傘代わりにしながら小走りに駅へと向かっていく。
一方彼らは大通りから路地裏へと入っていき、さらに奥へと進んでいく。
ウソでしょ?
よくないことを想像してしまう。
「これからどこに行くのかな?」
「不安そうだね」
こっちから先はホテル街。
周囲の景色がピンク色へと変わっていく。
不安にならない理由がない。
徐々に冷静さがなくなっていくのを感じた。
「ちょっと紫苑」
優梨に呼び止められてハッとした。
私は明らかに動揺し、足取りが重くなっていた。
そのせいで彼と距離ができてしまっていた。
「このままだと見逃しちゃうよ?ホテルに入ったわけじゃないんだしさ、まだわかんないでしょ」
たしかにそうなんだけれど……
「ってかこれ探偵みたいじゃない?」
優梨は相変わらず楽しそうだけれど、どっちかというとストーカーみたいな気もしますが。
でも私としては真相が知りたい。
そのまま直進していく2人についていく。
何組かのカップルらしき人たちがホテルに入っていく。
それを見るたびにドキドキしてしまう。
すると、2人が急に道を曲がった。
慌てて追いかけるとその先は住宅街だった。
足を止めていた2人に気がつき、物陰に隠れて耳をすますと会話が聞こえてくる。
「今日はありがとう。久しぶりに慶永と遊べて楽しかった」
「まぁほぼ恋愛相談だったけどな」
「それでもだよ」
「男同士じゃ答えが出にくいし、経験豊富な梨紗に聞くのが一番早いと思って」
「何それ、なんかひどくない?私そんなに経験値高くないんですけど」
「悪りぃ悪りぃ」
「雨も収まってきたし、この辺でいいよ」
「俺から誘ったのにさすがに1人で帰すわけにはいかないっしょ。駅まで送っていくよ」
「ううん。本当にこの辺で大丈夫」
「そっか。傘、ありがとな」
お礼を言っている彼の半分は濡れていた。
「優しいね。彼女が羨ましいな」
「まだ彼女じゃねぇよ」
「まだ、ねぇ。もしフラれたらそのときはかわいそうだから私が貰ってあげてもいいよ」
「はいはい、考えとく」
そう言って2人は別れていった。
何もなかったと思うと少しだけ心が凪いだ。
私たちは近くのカフェに入ってドリンクを注文する。
私はアイスコーヒー、優梨はホットティーを頼んだ。
「あの女の人、彼に完全に気あるよ」
優梨が足を組み、持っていたカップで紅茶を飲む。
前々から思っていたけれど、優梨は暑い日に熱いものを摂取する。
前に理由を聞いたとき、
内臓を温めることでむくみが取れたり、疲労回復の効果もあるって言っていた。
だから幼いころから年中ホットを飲んでいるらしい。
それもあってかそのモデルのような体型を維持できているのかな。
そんな優梨が続ける。
「紫苑も薄々気づいていたでしょ?」
気づいていた。
あの花火大会のときから違和感みたいなものを感じていて、元カノの割にやけに距離が近くて親しい印象だった。
私と会っているときも連絡がきている様子だったし。
カフェもレストランも割り勘にしているみたいだったし、奢ってもらうために会った感じには見えなかった。
彼女はたしかに可愛い。
背も小さいから上目遣いも効果的だしよりあざとく感じる。
でも私の方が若いしスタイルだって良い。
と思う。
それに2人は一度別れてるし、彼は彼女に興味ない素振りを見せていた。
「あの感じ、他に好きな人いるってことだよね?」
「どうだろ?あの濁し方はどっちともとれるし。恋愛相談からそのまま付き合うパターンはよくあるし、やり直して上手くいくこともあるからね」
優梨の言う通りなら彼の優しさを憎んでしまいそうになる。
それくらいの不安に駆られた。
「他の人に取られてもいいの?」
それは嫌に決まっている。
彼が他の女の子と手をつないだりキスしたり抱き合ったり……そんなことを想像するだけで胸がぎゅっと締めつけられる。
「じゃあ紫苑からもアプローチしなきゃだね」
「アプローチって?」
「デートに誘うの」
「私から?」
「そう、先手必勝よ」
私から誘うなんて、そんなこと一度もしたことないんですが。
もし断られたら傷つくし気まずくなるし、何より軽い女って思われたら嫌だよ。
「ときに恋愛はね、考えるより行動を優先することで見えてくることもあるの」
どこかの詩人から抜粋したかのような言い方をした優梨。
そんなこと言われても考えちゃうよ。
☕️
出会ってから一つの季節を過ぎたころ、初めて彼女に誘われた。
都内の公園で行われている季節限定のビールフェス。
本格的な夏が全身の水分をあっという間に奪っていく。
半袖一枚でも汗をかくレベルの暑さ。
リボンスカーフでポニーテールにし、カジュアルワンピースを着てきた彼女はこの暑さでも煌々と輝き、横に並ぶと細く艶やかな白い肌が際立つ。
公園内にあるフェスの特設場に向かう途中、噴水の周りでは小さな子供たちが水着を着た元気に遊んでいる。
その姿を見ていると子供の話になった。
「ばり可愛いね」
「紫苑ちゃん子供できたらめっちゃ甘やかしそう」
「息子ならそうしちゃうかも」
息子だけなの?
「慶永くんは厳しいお父さんになりそうやね」
「俺は甘々パパになると思うよ」
「そうなん?」
「たぶんね」
子供の話をしていると家族になった姿を想像してしまった。
まだ付き合ってもいないし、付き合えるかもわからないから変に考えるのはやめようと思ったが、そう思えば思うほどそれを拒むように脳が彼女との姿を映し出す。
「慶永くんのお父さんはどんな人なん?」
その質問に戸惑った。
俺の家庭事情を知っているのは一部の人だけ。
話すと重い空気になるし、ヘタに同情されるのは複雑な気持ちになる。
彼女には話してもいいかと思ったがいまはやめた。
「……今度話すよ」
「うん、わかった」
再び噴水を見ると、きゃっきゃ言いながら水鉄砲を撃ち合ったり小さなビーチボールを投げて遊んでいる。
1人の子供が投げたビーチボールが大きく逸れ、そのボールをジャンピングキャッチした男の子がいた。
「いまの見た?」
思わず大きな声が出た。
「うん、見た。すごいジャンプやったね」
彼女も大きな目を見開きながら一緒に驚いていた。
「あの子は将来優秀なワイドレシーバーになるよ」
「わ、わいど?」
この人は一体何を言っているの?という顔をされたが無理もなかった。
ワイドレシーバーとは、アメフトのポジションの一つでオフェンス時にボールを持ち、走りながら点を取る人のこと。
「どうせならタッチダウンまでしてくれたらベストだったんだけどな」
タッチダウンとは簡単に言うとゴールのことで、ラグビーのトライに近い。
もちろんアメフトを知らない彼女はポカンとしている。
「慶永くんってたまに意味不明なこと言いよるよね」
「ありがとう」
「いや、全然褒めてないんやけど」
「俺も一緒に遊んで来ようかな」
「たぶん怖くてみんな逃げ出すよ」
「今日は子供たちが寄ってくる薬塗ってきたから大丈夫」
「何その恐ろしい薬。違う薬もらってきた方が良いけん病院行く?」
そんな中身のない会話がとても楽しかった。
特設会場には世界中のビールが売られている。
お酒好きにはたまらない場所だろう。
それなのに俺はコーヒーを、彼女はアイスを頼んだ。
ビールが飲みたいというよりも彼女から誘われたことがシンプルに嬉しかった。
だから場所はどこでも良かった。
ベンチに座って乾杯した後、彼女がバッグから何かを取り出した。
「これ」
この前貸していたカネサズラのハンカチを渡される。
「この前はありがとう」
「いえいえ、お客様。また必要になったらお貸ししますので」
「そうさせていただきます」
「よろしければこちらのサブスクリプションプランというものがありまして、月々100円でご契約できますがいかがでしょうか?」
「まぁ、ずいぶんとお安いですね」
「神法様にはいつもお世話になっておりますので」
「検討させていただきます」
フフフと笑い合いながら軽口を言う。
出会ったころと比べたら心の壁がなくなってきた気がする。
正直ここまでノリが良い人だとは思わなかった。
最初はモデルや芸能人のようなすごく綺麗な子という外見での印象が強かったが、彼女を知っていくうちにお茶目な一面や律儀な一面を知ることができて、より魅力が増していった。
何気ない会話で盛り上がっていると、雲行きが怪しくなってきた。
今日は雨の予報などなかったはずだが。
青かった空がどんよりとしてきて少しずつ黄色く染まっていく。
まさか、
「紫苑ちゃん、行くよ」
「えっ?どこに?」
「黄砂がくる」
「黄砂!?」
黄砂は夏が最も少ないはずなのだがタイミングが悪かった。
ゲリラ豪雨ならぬゲリラ黄砂だ。
こんなものまともに受け続けたら敏感肌の俺はすぐに肌荒れしてしまう。
吹きつける砂塵に前を向くこともままならない状態で小走りで近くにあったビルに逃げ込む。
判断が早かったおかげでそこまでダメージは大きくなかった。
返してもらったばかりのサネカズラのハンカチを彼女に渡そうとしたが、ミニタオルを持参していたらしくお互いトイレに行って身体に付着した黄砂を拭いた。
外はまだ黄砂が吹き荒れているのでビル内で時間を潰すことにした。
すると、すごく怪しい店を見つけた。
『占い館 Carpe Diem』
占いでこの名前怪しすぎでしょ。
「ねぇ、占ってもらわん?」
こっちを見つめる彼女の目はキラキラと輝いていた。
そんな真っ直ぐな目をされたら断れるわけがない。
黄砂が収まるまでの間、占いを受けることにした。
中にいた占い師はその辺のおばちゃんって感じだが、どこか不思議なオーラを感じた。
「あら、あなた。すごい力を持ってるわね」
入るや否や水晶を見たままそう言う占い師。
「えっと、私?」
人差し指を自分に向けて確認する彼女に対し、今度は目を合わせて
「えぇ、あなたはオーラを感じるわ」
本当だろうか?なんだか胡散臭い。
「あなたたちの名前と生年月日を教えてちょうだい」
俺はあまり乗り気ではなかったが、彼女はワクワクしながら椅子に座った。
「ーなるほどね。まず雪落 慶永さん。あなたは気分屋で頑固。周りに左右されない強い意志の持ち主ね。好きになったらとことん追求するけど、興味のないものには全く興味を示さない。寂しがり屋なのに甘え下手。もともとお腹周りが弱いから急激な気温の変化には気をつけて。カフェインの摂取はほどほどにね。それと、あまり他人のことに首を突っ込まないほうが良いわよ」
最後の言葉、どういう意味だ?
なぜか強く印象に残った。
「どう?当たっとる?」
「めっちゃ当たってる。とくに興味ないものには全くってとこ」
「それってどうなん?」
自分でもわかっていた。
これはメリットでもありデメリットでもある。
きっと興味のないものに目を向けていたらもっと視野が広がっていたのかもしれない。
でも何度か試してみたが仕事を除いては無理だった。
「次に神法 紫苑さん。あなたはとにかくピュアで明るい人。嘘や曖昧なことが嫌い。冷たくて甘いものは好きだけど辛いものはあまり得意じゃないわね。幼いころ愛犬と遊んでいたときに左の内腿を怪我したことがあったでしょう?そこは適度に解してあげるようにしないとまた大きな怪我するわよ。恋愛に対してはちょっと奥手なところがあるけど、その素直な気持ちを忘れなければあなたの魅力は十分すぎるくらいに伝わるわ」
占いを聞き終えた彼女は驚きと感動の感情が入り混じったような表情に見えた。
「当たりすぎとって怖いんやけど」
「内腿の怪我も?」
「うん、昔愛犬と遊んでて怪我したことあった」
占いというものはどうも胡散臭い。
出会って間もない見ず知らずの人に心の中を土足のまま覗かれた感覚になる。
他人事だからなのか、テレビを観ていても信じられなかった。
しかし、実際占ってもらうとどこか信じてしまう不思議な力がある。
「それと」
占い師が低い声で発する。
「それと?」
「あなた」
瞳だけを動かして瞬きを1回した。
「え?私?」
人差し指で自分のことを差す彼女。
小さく頷く占い師。
「そう。あなた、来年の運勢があまり良くないから気をつけなさい。とくに夏は多くの災難が訪れるわよ」
そんなことを言われても何をどう気をつければ良いの?という顔をしている彼女。
「あなたたち2人の相性も見させてもらったけど、非常に良いわね。好きなものや感性がまるで違ったりするからこそ一緒にいると刺激的で痛みを分かち合い、補い合える関係だわ」
それはどっちの意味だろうか?
友達としてなのか、それとも恋人としてなのか。
それ以上知るのが怖かったので聞くのをやめた。
「他に占って欲しいことはあるかい?」
「ーあの、占ってほしいことが……」
そう言った彼女が俺の肩を控えめにトントンと叩いて、
「ごめん、ちょっとだけ席外してもらえたりせん?」
俺には知られたくない内容なのだろう。
理由を聞くのは野暮な気がしたので外で待つことにした。
数分後、彼女が出てきた。
「お待たせ」
ビルの外を出ると黄砂は去り、澄んだ青い空に戻っていた。
彼女を待っている間スマホで天気予報をチェックしていたら、この後また黄砂がくるおそれがあるらしい。
「あの占い師、めちゃくちゃ怪しかったな」
「やけん、当たりまくっとってドキドキした」
「名前と生年月日言っただけなのに色々と見透かされた感じがしたよ」
黄砂を落としきれていないのが気持ち悪く、家に帰ってシャワーを浴びたい気分だった。
この後再来予定の黄砂の懸念もあり、今日は早めに切り上げて帰ることにした。
「紫苑ちゃん、今日は誘ってくれてありがとう。すごく楽しかった」
最寄り駅まで送って別れたが、彼女はどこか寂しげな顔をしているように見えた。
そういえばあのとき何を占ってもらったんだろう?
🍦
赫灼とした太陽が肌だけでなく気力すらも荒らしていくなか、KAWAHARAのメンバーで静岡の海に日帰りで行くことになった。
運転手は私。
免許を持っていない里帆っちとペーパードライバーの優梨は後部座席でテンション上げながら騒いでいる。
いつもクールな優梨のこんなハイテンションな一面は貴重だったので、助手席にいる恋ちゃんにお願いして動画を撮影してもらった。
里帆っちがボケて優梨がツッコむという言葉の応酬はなかなか収まらない。
恋ちゃんもスマホを持ちながらケタケタと笑っていて車内はずっと盛り上がっていた。
上京してからまともに運転していなかった私は緊張から手汗が半端じゃなく、事故を起こさないようにできるだけ左側の車線を走って煽られないよう安全運転で行った。
東京はとにかく道が狭いしみんな荒々しいから少し運転するだけでひと苦労。
白浜の海に着いた途端、安堵からかどっと疲れが溜まった。
それぞれ新調した水着を着て場所取りに向かう。
茹だるような灼熱のビーチを歩いていると、多くの人から注目を浴びているメンバーがいる。
大きなサングラスと首元にはブランドもののネックレスをしている優梨。
黒髪のロングヘアーが風に靡いて良い香りがする。
黒いビキニに細く長い脚。
どこかのセレブのようなオーラを醸し出している。
お店の人にお願いしてパラソルを差してもらい、ブルーシートを敷く。
この日は『超』がつくほどの炎天下。
太陽の日差しが身体を焼こうと光を浴びせてくるので、みんなで日焼け止めを塗りまくり、パラソルの中に押し込むように身を寄せ合った。
里帆っちの水着は露出度高めなフロントレースアップビキニ。
背中にはリボンがあり、少し動いたら見えちゃうよっていうくらい攻めた格好で、臍ピアスが日光に反射して主張している。
私は最近体型が気になっていたのでワンピースタイプの水着にした。
優梨にはもったいないって言われたけれど、里帆っちと恋ちゃんには可愛いと褒められた。
メンバーの中で一番注目を浴びたのは恋ちゃん。
パーカーを着ていてもわかる胸の膨らみに嫉妬心はなく、出てきたのは羨望心だった。
「恋ちゃん、ばりずるいっちゃけど」
「え?何が?」
「おい、れんれん」
里帆っちが何かを思いついたように含みのある言い回しで顔をニヤニヤさせながらゆっくりと恋ちゃんに歩み寄る。
このパターンは大抵仕様もないことが多く、横にいた優梨も同じことを思っていたようだ。
少し怯えながら後退りする恋ちゃんだが、里帆っちの目はハンターそのものだった。
「そのパーカーが邪魔だな」
「ちょ、ちょっと里帆ちゃん」
「この狭い世界で逃げ道などないぞ」
「いや、めちゃめちゃあるじゃん」
お誂え向きのような里帆っちのボケに、優梨がツッコミを入れる。
里帆っちが「えいっ!」と恋ちゃんに飛びかかり、そのまま馬乗りになった。
「この大きな胸め、罪深い」
「ちょ、ちょっと里帆ちゃん。やめてよ」
恋ちゃんの抵抗も虚しく、里帆っちがその大きな胸を揉みしだいている。
「まったく、せっかくこんな良いものを授かったんだから見せつけなきゃもったいないじゃない」
馬乗りのままジップを下ろし、パーカーを脱がす。
水着が露出されると、その大きな谷間を見た私たちは一斉に響めいた。
「おおぉ~!」
なんとも見事な膨らみ。
「ううぅ……」
両手で胸を隠しながら恥ずかしがっている。
肉付きの良さと童顔が相まってちょっとだけ犯罪の匂いがしてしまうが、その姿を見ているとなんだかお腹が空いてきた。
「アイス食べたくなってきた」
「紫苑、どのタイミングで言ってんの?」
「れんれんの胸がソフトクリームに見えたんだよね?」
「いや、見えないでしょ。どんな想像したわけ?」
今日は優梨のツッコミにキレがある。
テンションが高いからかもしれない。
海の家に行って練乳のアイスを買った。
優梨も一緒に来て、イチゴ味のかき氷を買って食べていた。
里帆っちと恋ちゃんは横で売っていた映えそうなジュースを買い、海をバックやな並んで写真を撮っていたけれど、優梨の食べるかき氷があまりに美味しそうだったので、私たちもかき氷を買って食べた。
優梨には「あんたどんだけ食べんの」って言われたけれどアイスは別腹なのです。
海の家のベンチで寛いでいると、3人組の男に話しかけられた。
1人は日焼けした金髪のチャラそうな男。
もう1人は筋トレが恋人かっていうくらいムキムキな脳筋男。
その後ろにいたのが大人しそうな印象の薄い色白の細い男。
「お姉さんたちヒマしてる?これから一緒にビーチバレーしない?」
日焼けしたチャラそうな男がビーチボールを持ちながらナンパしてきたが、アイコンタクトをして無視をする。
今度はその男に加勢するように脳筋男も絡んできた。
そういえば海に行く前、優梨から言われたことがある。
『夏の海にいる男どもはみんなケモノ。ナンパしてくるような男はロクなやついないからガン無視で。それでもしつこいやつがいたら私に任せて』
案の定ナンパしてきた男たちはしつこく言い寄ってくる。
すると、優梨がいじっていたスマホを耳に当て、
「もしもし、ダーリン?どこにいるの?もう海の家にらいるから早く来て」
耳からスマホを離し、
「まーくんたちこれから合流するって」
そう言って不敵な笑みを浮かべた。
まーくん?優梨の彼氏ってそんなあだ名だったっけ?
それに合流するってどういうこと?
今日は女子会だったはずじゃ。
「チッ、彼氏いんのかよ。行こうぜ」
彼らはそそくさと去っていった。
「優梨、さっきのって」
「ブラフよ。しつこいから電話したフリして遇らっただけ」
「さっすがゆりりん!」
里帆っちが優梨の肩をぽんぽんと叩きながらそう言う。
打ち合わせしておいてよかった。
その後はみんなで海へ泳ぎに行き、仮眠をしてまた泳いだ。
時間はあっという間に過ぎ、気がつけば夕方になっていた。
ー帰りの運転は恋ちゃん。
優梨も里帆っちもはしゃぎすぎて後ろで爆睡している。
助手席にいた私は恋ちゃんのサポートとして寝ないように努めたけれど、瞼はすごく重かった。
「紫苑ちゃん、次のサービスエリアで休んでもいい?」
恋ちゃんの目は虚ろ気味。
あれだけ遊んだ帰りの運転だから眠くなるのも無理はない。
私はもちろんと応えてサービスエリアで休憩する。
中に入ると美味しそうな匂いが空腹を煽ってくる。
「あっ、家系ラーメンあるじゃん」
「私も食べたい」
寝起きの2人が家系ラーメンを注文しにレジまで向かう。
私と恋ちゃんも話しながら2人に続く。
「紫苑ちゃんって家系ラーメンとか食べたことあるの?」
「うん。実は福岡にもあるんよ」
「そうなんだ。やっぱ福岡のラーメンの方が美味しい?」
「味が違うけんね、比較するのはちょっと難しいな。私は豚骨ベースなら基本的に好き」
「福岡いいなぁ。美味しいものたくさんあって」
「山形にもあるやん。米沢牛とかさくらんぼとか」
「福岡ほどじゃないよ」
「恋ちゃん福岡には行ったことないと?」
「うん、一度もない」
「じゃあ今度みんなの地元巡りしよ」
「うん、約束だよ」
ただでさえ癒し系なのに、にっこり笑う恋ちゃんの笑顔はかわいすぎて疲れをあっという間に吹き飛ばしてくれる。
みんなで豚骨ラーメンを食べて車に戻ると、満腹感からかさっき以上の眠気に襲われてきた。
「紫苑、後ろで寝てていいよ」
「いいと?」
「ペーパーでもナビくらいならできるし、それにレンタカー返さないといけないでしょ?」
「それまでは運転するよ」
「2人ともありがとう」
レンタカーは私の家の近くで借りた。
だから最後に運転するのは必然的に私。
1番家の遠い里帆っち、恋ちゃん、優梨の順で降ろすため、それまでは恋ちゃんが運転してくれることになった。
誰よりもはしゃいでいた里帆っちは後部座席で真っ先に眠っていた。
口をあんぐりさせながら眠る里帆っちが可笑しくて写真を撮ろうと思ったら彼から連絡が来ていた。
デートの誘いが嬉しくてすぐに返そうと思ったが、重たい瞼には勝てなかった。
☕️
千駄ヶ谷に来ていた。
今日は白いカットソーにガーディガンを羽織り、スキニーデニムにパンプスのコーデ。
夏の残り香が混ざった秋の風に長い髪が靡くその姿は誰よりも輝いて見えた。
開放感のある改札を抜けると、目の前には大学と東京体育館が受け入れてくれた。
大通りを曲がった先に目的の場所はあった。
目的はアイスクリーム。
自他ともに認めるアイス好きは伊達じゃなく、毎日のようにSNSでチェックしているそうだ。
この中でもとくに気になっていたのがこの店らしい。
スカイブルーの壁に白い雪が滴り落ち、茶色い扉の横には大きなソフトクリームがどっしりと構えている。
休日ということもあって数組の若い人たちが並んでいる。
20分ほど並び店内へ。
案の定、店内はほぼ満席状態。
テイクアウトでもよかったが、せっかくなのでカウンターに並んで座った。
俺はショコラソフト、彼女はストロベリーがたくさん乗っているものを選んだ。
「ね、写真撮ろう!」
少し期待はしていたが、あまりにもナチュラルにそう言ってきたので一瞬ドキッとした。
彼女は自身のスマホのアプリを開き、何かをいじっている。
髪を整え直し終わると、カメラモードのスマホを右斜め上に掲げてシャッターボタンを押したが、どうやら気に入らなかったらしくもう一度撮り直すと、満足気にアイスを頬張った。
手前に座っている女子たちは、まるで撮影会のようにアイス片手に何度も何度も撮り直している。
早く食べないと溶けるぞと思っていると、案の定コーンからアイスが逃げ出すように溶けている。
今日はもともと違う場所に行く予定だった。
しかし、彼女が学校の課題を出し忘れていて夕方からしか会えないことになり、急遽ここに行くことになった。
アイスを食べ終えて店を出る。
「そういえばご飯食べた?」
「ううん、何も。お腹ペコペコ」
アイスを食べた直後の会話とは到底思えないが、胃下垂同士空腹感は一緒だったようだ。
徹夜をしてしまったせいで、起きたのは待ち合わせの1時間前だったから何も食べずに来たのだ。
駅に戻る途中、お洒落な雰囲気の店を見つける。
ファストフードチェーン店のプレミアムバージョンらしい。
ちょうど脂っこいのが食べたかったからハンバーガーのセットをそれぞれ頼み、あっという間に平らげた。
少し物足りない感じもしたが、寝不足のなかで食べすぎると睡魔に襲われてデートどころではなくなるので我慢した。
だらだらした後、次どこに行くか聞くと、彼女が驚きの言葉を発した。
「アイス食べたい」
えっ!いまさっき食べませんでしたっけ?
一瞬ふざけて言っているのかと思ったが、真っ直ぐ見つめながらそう言う彼女の顔は真剣だった。
「じゃあさっきの店もう一回並ぶ?」
「さすがにそれは恥ずかしいよ」
「でも食べたいんでしょ?」
「うん」
こういう欲に素直な人は好きだ。
下手に飾ろうとせず、有体でいてくれることでこっちも真っ直ぐ向き合える。
「じゃあどこか食べに行く?」
「久しぶりにあそこ行かん?」
「どこ?」
「あの駄菓子屋さん」
ー定位置にはすでに先客の子供たちがいた。
1人分だけスペースが空いていたので彼女に座ってもらった。
美味しいと言いながらアイスを食べている彼女の近くに立って俺はふ菓子片手にコーヒーを飲んでいた。
すると、横に座っていた子供が俺の方を見上げている。
その顔は何か言いたげだ。
「僕、どうしたの?」
俺がそう聞くと、その子は少し怯えた様子で目を逸らした。
「もしかして、慶永くんのこと怖いんやないと?」
「マジ?」
驚きながらもその子に確認すると、その子は首を縦に動かし「うん」と言った。
彼女の言う通りだったが予想以上に傷ついた。
「お兄さん、ここに座りたそうな顔してたから」
俺そんな顔していたのか?
「ありがとね、でも大丈夫だよ」
その子の前に屈んで笑顔でそう応えたが、その子はまだ怯えているように見えた。
「僕、このお兄ちゃんのこと怖い?」
アイスを食べ終えた彼女がそう聞くと、
「ちょっとだけ」
その真っ直ぐすぎる返事にさらに傷ついた。
「お兄ちゃんはすごく優しい人だから安心してね」
ニコニコしながら楽しそうに話す彼女。
それを見て少し心が躍動した。
「ねぇねぇ、お姉ちゃんたち付き合ってるの?」
その子の横に座っていた子が身を乗り出しながら話しかけてきた。
「付き合ってるの?」
便乗するようにその子も続く。
休日な質問にお互い狼狽する。
「ど、どうしてそう思うんだ?」
動揺していることを隠そうとしたが、少し声が上擦ってしまった。
「だって、カップルでもない人たちがこんなところに2人きりで来るなんてありえないもん」
「そうそう。この辺で遊ぶの僕たちくらいだし」
「それに、なんか2人お似合いだし」
「この辺はもう過疎化が進んでて、おじいちゃんおばあちゃんしかいないから、僕たち以外にここに来る人なんていないもん」
過疎化なんて言葉どこで覚えた?
そんなの学校で習ったか?
「まさか、夫婦なんじゃない?」
夫婦という言葉に急速に体温が上昇していく。
彼女を一瞥すると目を逸らされたが、頬はリンゴのように赤く火照っていた。
「え~、さすがにそれはないよ。だって指輪とかしてないし」
「うちの父ちゃんもしてないよ」
「おまえの父ちゃんシェフだろ?だったら指輪できないじゃん」
「なんで?」
「なんでって、衛生上禁止なところが多いから」
「エイセイってなに?」
「今度父ちゃんに聞いてみ。ねぇねぇ、それより2人は付き合ってるの?」
1人の子は俺たちの関係が相当気になっているようだ。
回答に困っていると、タイミング良く?夕焼け小焼けが流れてきた。
「あっ、やべっ!もうこんな時間だ。早く帰らないと母ちゃんに怒られる」
「ホントだ。お兄ちゃん、お姉ちゃんまたね」
散々言いたいことを言って子供たちは去っていった。
「なんか、いまどきの子供ってませてるね」
「う、うん……」
急に気まずくなった感じがしたのに、なぜか俺の気持ちは亢進していた。
コーヒーを一気に飲み干し彼女の横に座る。
沈黙の時間は唾を飲む音さえ響かせる。
「……紫苑ちゃんって好きな人いるの?」
唐突すぎる質問に目を瞬かせながら驚いた様子の彼女。
急に何を聞いているんだ俺は。
絶対にこのタイミングじゃないだろ。
「……」
そりゃあそうだよな。
急にこんなこと聞かれても困るよな。
何か話題を変えなければ。
いままで構築されてきた関係性が崩壊してしまう。
彼女は唇を一度軽く舐め、こちらを一瞥した後、耳に髪をかけながら、
「うん、おるよ」
そう答えた。
そりゃいるよな。
これだけの美人がフリーでいること自体おかしい。
きっとその人とも両想いですぐに結ばれるだろう。
「だよな……」
「慶永くんは好きな人おると?」
この返しの正解は何だ?
正直に答えて撃沈するか、曖昧にしてやり過ごすか。
「いるよ」
フラれて関係性が崩れるのは嫌だったが、それ以上に嘘をつくことはしたくなかったので素直に答えた。
少しの沈黙が訪れる。
反応が気になり一瞥する。
「その人って私のよく知っとる人?」
どっちに転ぶかは神のみぞ知る。
「よく知ってる人」
「そっか」
そこから先の言葉はなかった。
これは何を求めているんだ?
もしかして話を終わりたいってことか?
考えれば考えるほどわからなくなる。
雪落 慶永26歳。
俺は一か八かの勝負に出た。
「俺の好きな人は……いま隣にいる人」
言ってしまった。
時期尚早だったのだうか。
せめて年が明けるまで温めるべきだったのだろうか。
「……」
2度目の沈黙は果てしなく続く宇宙の如く長く感じた。
冗談だよって言えば逃れられるかもしれない。
でも言えなかった。
いや、言わなかった。
彼女の返事が欲しかったから。
「……私でいいと?」
待っていた言葉の中で最上級のものが返ってきた。
「他の人じゃ幸せにしたいって思えない」
「本当に?」
「本当に」
こうして、彼女とはじめて出会ったこの場所で俺たちは付き合うことになった。