☕️
大晦日、稲荷神社は来年以上に混んでいる。
この神社には『王子の狐火』という大晦日になると関東全域の狐たちが一本の大きな榎の下に集まり、官位を求めて参殿するという民話がある。
付き合ってはじめての年末、彼女の家にはご両親が遊びに来ている関係で1月4日まで会えない。
毎年福岡の実家で家族と年を越すのが決まりらしいのだが、今年に限っては違った。
すでに家族のいない俺にとっては地元の友達や親友と会うくらいしか選択肢がない。
でもみんな家族との時間があるので忌憚して誘わないようにしている。
夜中に待ち合わせるのははじめてなので新鮮な気分だが、時間になっても彼女の姿が見えない。
連絡もなく遅刻するなんて珍しい。
場所を伝え間違えたのかと不安になり送った内容を確認するが、たしかに駅前の改札前で合っている。
既読はついているが、返事はてんでない。
眠ってしまったのか、それともなにか事故にでも巻き込まれたのではないかと不安になっていると、息を切らしながら猛ダッシュしてくる人の姿があった。
「本当ごめん」
両手を顔の前で合わせて申し訳なさそうか顔をしている。
「気にしないで。水とか飲む?」
「ううん、大丈夫」
少し遅れたくらいで怒らない。
それよりも気になるのは彼女のファッションだ。
キャスケットを目深に被り、ワンピース、チェスターコートにミニブーツというハイセンスなコーデだ。
それに比べて俺はその辺にあったものを取って着たかのような無地のパーカーにデニム姿というシンプルな恰好。
「じゃあ行こっか」
いつもどおり手をつないでゆっくり神社に向かう。
「寒いなか会ってくれてありがとね」
「私、けいくんの彼女やもん」
なんだこのどうしようもなく可愛い反応は。
キャスケット越しに笑う口元に魅了されつつ、なかなか目を合わせようとしないことに少しだけ違和感を覚えた。
「今日やけに目深に被ってるね」
たまに帽子を被ってくる彼女を見るたびにドキッとするが、今日は芸能人くらい目深に被っている。
誰かにバレたらまずいことでもあるのだろうか。
「うん……」
ものすごく反応が薄い。
「どうした?」
「……察して」
機嫌を損ねてしまったようだが原因がさっぱりわからない。
こういうときの女心はいつになっても謎だ。
「ごめん、理由がわからない」
「今日メイク薄いけん顔見られるの恥ずかしいだけ」
「なんだ、そんなことか」
大した理由じゃなかったと思って安心したのも束の間、
「そんなことって何?こっちは毎回服装が被らないようにどんなファッションで行こうかすっごく迷って、飽きられないようにって思いながら工夫しとるんよ?男の人って小さな変化には気づかない生きものやけん、そこは期待しないようにしとるのに、それでもけいくんはいつもファッションとか髪型とかネイルとか褒めてくれるけんもっと可愛くなろうって、もっと綺麗になろうって頑張っとるのにそんなことって何?
今日だって本当は朝から一緒におりたかったんよ?三ヶ日も一緒におりたかったけどさ、わざわざ親が来てくれとるけんそうもいかんし、それでもけいくんが少しでも一緒にいたいって言ってくれたことがばり嬉しくて。
でも起きたらもう待ち合わせの時間で、頑張って来たけどメイク全然間に合わんくて……」
涙目になりながら訴えるように怒っている姿にデリカシーのないことを言ってしまったと反省した。
夜とはいえ女性にとってメイクやファッションは自身を飾る上で重要なもの。
そんな初歩的なことをわかってあげられない自分に腹が立った。
現に、首元には誕プレであげたハーデンベルギアのネックレスをしてくれている。
「ごめん、気がつかなくて。でもありがとう。こんなに想ってくれてる人が彼女なんて俺は幸せだよ」
「ずるいよ」
「えっ?」
「そんなこと言いよったらさっきまで怒ってた私バカみたいやん」
「俺はどんな紫苑も好きだから」
彼女の泪を指で拭き取り、そのまま顔を近づける。
しかし、右手で口元を抑えられて拒まれた。
神社のすぐ近くまで来ていたのだ。
「もうすぐ神様の前やし、バチ当たるよ」
恋人同士のキスはバチが当たるのか?と疑問に思ったが、彼女の機嫌が戻った様子だったのでそのまま行列に並んだ。
思ったよりも人は多くなかなか前に進まない。
夜風が身に沁みる。
左側を見ると彼女も寒そうだ。
念のため持ってきていたホッカイロを右ポケットから取り出す。
「ありがとう。でもこうした方があったかいけん、大丈夫」
そう言って彼女は俺の左ポケットの中にある指に自分の指をからめてきた。
指先から全身に体温が伝わってくる。
他愛ない話で盛り上がっていると、拝殿の前に着いた。
二礼二拍手し、願いごとをして一礼する。
(紫苑がずっと健康で笑顔でいられますように)
願いごとを心の中で言い終えて、彼女に質問する。
「紫苑は何をお願いしたの?」
「言ったら神様にお願いした意味ないやん」
笑いながら言われたがたしかにそうだ。気にはなるけど心の奥に閉まっておこう。
御神籤を引いた。
「末吉か」
「私は吉だった」
お互い微妙な運勢だった。
「けいくん、いま何時?」
石段の近くで彼女が慌てながら聞いてきた。
つないだままの左手を顔の近くまで持ってきて腕時計で時間を確認すると、年を越していた。
つないでいた手を離して向かい合う。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
お互いお辞儀をしてツーショットを撮った。
そろそろタイムリミットだ。
これ以上時間が経ったら彼女のご家族に申し訳ないので駅に向かった。
駅に着くといつも見ている音無親水公園が少し儚げに見えた。
「今日はありがとな」
「うん」
「送ってくよ」
「ここで大丈夫」
「危ないから近くまで送る」
「でも、お家から遠くなっちゃうよ」
気遣ってくれているのは嬉しいけれど、こんな夜中に彼女を1人で放置させるわけにはいかない。
過保護と言われたとしても当分会えなくなるからギリギリまで一緒にいたいと思った。
「いや、送ってく」
年末年始とはいえ都電は特別運行をしていないので地下鉄で帰ることにした。
飯田橋で乗り換え、東池袋で降りる。
いつもながら駅の周りは静かだった。
彼女の家が見えたところで足が止まった。
「送ってくれてありがとう。気をつけて帰るんよ」
「おう」
「お家着いたらちゃんと連絡してね」
「おう」
別れ際はいつも寂しいが、こういうときは彼女の方が大人だなといつも思う」
「じゃあそろそろ行くよ」
「うん、また」
お互い小さく手を振り、踵を返そうとする。
「……なぁ紫苑」
「ん?なに?」
我慢できずに抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、けいくん」
彼女は急なことで驚いた様子だったが、その反応が愛おしくてさらにギュッと抱きしめると、それに呼応するように抱きしめて返してくれた。
冷たい夜風に靡く長い髪が俺の理性を煽るかのように全身を刺激していく。
どうしても間近で顔が見たくなって、目深に被っていたキャスケットのつばを上げると、恥ずかしそうに、
「ダメ」
と言いながら目を逸らす。
半ば強引に唇を運ぶと優しく受け入れてくれた。
元旦のキスは甘い味がした。
🍦
もうすぐ2月
彼の会社の誕生日休暇制度を利用して1泊2日で旅行に行くことになった。
地元福岡に連れて行ってあげたいと思ったけれど、さすがに直接誘うのは恥ずかしかったのでLINEを通じて軽い感じで言ってみた。
こういうときに限って返信が遅いから心臓に悪い。
しばらくして返事が帰ってきた。
OKだった。
福岡へは時短の飛行機で行くかのんびり新幹線で行くかちょっと揉めたけれど、今回は彼が主役だから新幹線で行くことにした。
「さむっ!」
博多駅に着くと、厚手のダウンを着ている彼が身体を一瞬ぶるっと震わせながら眉間に皺を寄せていた。
「ここ常夏やと思っとったん?」
「もっと暖かいと思ってた」
九州に来たことない彼の中でのイメージはだいぶずれていた。
夏は暑いし冬は寒い。
この時期が寒いことは事前に伝えていたからまだ良かったけれど、下手したらパーカー1枚とかで来ていたかもしれない。
今日はどこに連れて行こう。
数日前から色々とプランを練っていたけれど、いざとなると優柔不断になる。
天神はマストとして他はどうしようか。
薬院とか赤坂とか六本松とか?
車をレンタルして太宰府まで行くっていうのもあり。
美味しいお店が多すぎて迷っちゃう。
彼はごまさばが食べたい。屋台も行ってみたいし、海も行きたいと言っていた。
全部叶えてあげたい気持ちはやまやまだけれど、さすがに真冬の海はちょっと。
散策好きの彼の希望通り天神には歩いていくことになった。
キャナルシティを越え、中洲を横切り、大丸をすぎたあたりで頭上にポトンと何かが落ちてきた。
「雨?」
小雨だと思っていたら一瞬にして大雨になった。
ちょうど天神地下街への入り口が見えたので階段を降りていく。
『てんちか』を通ったのなんて何年ぶりだろう。
てんちかとはこの天神地下街の略語で全長約600mの九州最大級の地下街。
「この地下街すげー広いな」
はじめてディズニーに来た子供のようにテンションが高い。
私もはじめて来たときは同じ感じだったから気持ちはわかるけれど、キョロキョロしながら歩く彼の横はちょっぴり恥ずかしかった。
「ってかさっき地下街の入り口にあったロゴって牛だよね?なんで牛なんだろう?」
てんちかの入り口には“Life Quality”と書かれた文字の上に牛のツノのデザインがあるのは知っていた。でもなぜなのかなんて考えたこともなかった。
「昔大阪にあったプロ野球チームのロゴに似てる気もするけど、ここ福岡だしな。鷹ならわかるけどなんで牛なんだ?」
彼はぶつぶつ独り言を言いながらスマホを取り出し調べ始めた。
どうやらこの人は気になったら調べないと気が済まない気質みたい。
スマホを見ながらさぞ私に聞いてほしいかのようなボリュームでぶつぶつと言う。
「へぇ~、そうなんだ。知らなかった」
これら聞いてあげないと終わらなそうな雰囲気だったので、仕方ないから付き合ってあげよう。
「なに?気になるけん教えて」
彼は右手に持っていたスマホを見せながら身体を寄せてきた。
がっちりとした彼の左肩と私の右肩が触れる。
やばっ、顔近い。
横目で彼の方を見ると、瑞々しい唇がすぐそこにある。
真剣な眼差しでスマホと向き合う彼は私の視線には気づいていない。
人混みのなか理性が飛びそうになるのをぐっと堪えて耳を傾ける。
「天神の由来にもなっている菅原 道真(天神様)の御神牛らしいよ」
楽しそうに話す彼には申し訳ないけれど、口元ばかりに意識がいって説明が全く耳に入らなかった。
気がつくと見知らぬ場所に立っていた。
どうやら向かう方向を間違えていたみたい。
「ごめん、スマホに集中しすぎて迷った」
「ううん、大丈夫」
ちょっと良い思いできたし。
地上に出て大名に向かう。
外はすっかり晴れていた。
大名とは天神駅のすぐ近くにある九州随一の繁華街で、東京でいう原宿や渋谷のようなエリア。
安くて美味しいお店がたくさんある。
彼の要望に応えるべく海鮮系のお店に行くことにした。
まだお昼だというのに店内はほぼ満席。
早速お刺身とごまさばを注文する。
「昼から酒飲めるなんて最高なんだけど」
嬉しそうな顔でお酒片手に乾杯し、お通しのポテトサラダを食べながら料理を待つ。
出てきたお刺身を彼が食べた瞬間、
「醤油あまっ!」
大きな声でそう言うからちょっと恥ずかしかった。
九州醤油は甘い。
いや、関東醤油が辛いというべきかも。
私もお姉ちゃんもいまだに辛い醤油に慣れないので、わざわざ九州から取り寄せている。
「東京の醤油が辛いだけやし。はじめて口にしたとき噎せそうになったもん」
その後は明太子の入った餃子などを食べ、腹八分目ほどにしてお店を出た。
「めっちゃ美味しかった」
「ね、美味しかった」
大名や天神周辺を少し歩き、ホテルにチェックインした後、博多に戻る。
歩いても行ける距離なのだけれど、少し歩き疲れたので地下鉄に乗って行くことにした。
「いらっしゃいませ」
「予約していた神法です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
そのレストランはオシャレというワード以外当てはまらないのではないかというくらい素敵なアンビエンス。
「何このレストラン、真ん中にプールがあるんだけど」
高級ラウンジのようなエントランスに感動し、店内の広さに感嘆し、子供のようにはしゃぎながら珍しく写真を撮っている。
横にいて恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが同時にやってきた。
私はレモンサワー、彼はビールで乾杯。
コース料理が出てくるとあっという間に平らげた。
誕生日だからなのかいつもより飲むペースが早い。
ホットワインを注文したので便乗するように私も続いた。
「知ってる?ホットワインって和製英語なんだよ」
「そうなん?知らんかった」
「英語圏ではモルドワイン、ドイツではグリューワイン、オランダではビショップワイン、フランスではヴァン・ショーって言うらしいよ」
彼は本当に色々なことを知っている。
伶俐で碩学なのは本をたくさん読んでいるからなのかな?
それとも地頭が良いとか?
いずれにしても驕らないところはすごく良いなって思う。
「けいくん、ワインとか好きやったっけ?」
「普段はそんなに飲まないけど、こういうオシャレなところに来たり、特別な日には飲みたくなる。今日の紫苑は一段と綺麗だし」
この人は恥ずかしくなるようなことをさらっと言ってのける。
〆のデザートのところでお店の人にお願いしてバースデーケーキを出してもらった。
店内に突如流れてきたバースデーソングに彼が驚いている。
周りからの祝福もあり、いままで見たことのないくらいの笑顔でいる。
「ちょっと早いけど、お誕生日おめでとう」
そのタイミングで紙袋を渡す。
「開けていい?」
「うん」
中には牛革素材の黒いケースがあり、そのケースを開けるとステンレススチールのシルバーウォッチが入っていた。
「これ、俺が欲しかった限定もののスマートウォッチじゃん」
彼はSNSを全くしていないから情報を集めるのは大変だった。
サプライズがバレないようさり気なく聞き出した。
「この前の吉祥寺デートのときボソッと言ってたの覚えてて」
「嬉しすぎる。ありがとう」
時計をつけ替え、彼の行きたがっていた屋台へと向かう。
屋台は博多にも天神にもあるけれど、1番有名なのが中州の屋台。
川沿いということもあって景色が良いから観光地としても有名。
個人的にはちょっとだけ複雑な気持ちもあるけれど。
中洲の屋台に向かう途中、空から何かが降ってきた。
「雪?」
「霙っぽいね」
溝を見てなぜかテンションが高い彼。
というより今日は1日通してテンションが高い。
滅多に見られない一面に私は無意識のうちに相好を崩していた。
那珂川から見えるキャナルシティやグランドハイアットの光。
何度見てもこの景色は綺麗。
右に曲がると屋台が数軒並んでいる。
カップルや野球観戦後の人たち、観光客らしき人たちで溢れている。
その奥にはあまり見ないでほしい『オトナのお店』が連なっている。
これがあるから天神の屋台の方にしたかったんだけれど。
案の定、奥のお店を見ている彼。
やっぱり男の人って興味あるんだろうな。
色々と思料していると、つないでいた右手の指先に力が入っていた。
「いてっ!何?」
無意識のうちに彼の手の甲を爪で刺すかたちになってしまった。
「ああいうお店気になると?」
「いや、そういうわけじゃ」
何その曖昧な返事。ちゃんと言い切ってよ。
「べつに行ってもいいですよ。私は何も思いませんので」
「そんな低いトーンで急に敬語とかめっちゃ怖いんですけど」
半分嘘で半分本当。
そういうお店に行くのは最悪我慢できるけれど、私がいるのに他の女の子に意識が行くのがイヤなだけ。
「安心して。俺、紫苑以外興味ないから」
まただ。
この人はドキドキさせるようなことを外でも平気で言うからたまに反応に困る。
「信用してないっしょ?」
信用はしている。
でも態度で示してほしいと思ってしまった。
いつも示してくれているのに強欲な自分に嫌悪感を抱いた。
それを察したのか、彼が急に顔を近づけてきた。
左手で瞬時に彼の顔を押さえる。
「こんなんで証明にはなりません」
こんな人混みの中でできるわけないでしょ。
「もう、早くお店入ろう。このお店は?」
「いいね。おでん食べよう」
席を詰めてもらって中で乾杯する。お昼から飲んでいたこともあってすでに高揚している自分がいた。
「ーありがとうございました」
屋台を出てホテルに戻る。
「さむっ」
「ホント寒いね」
雪風が火照った身体を冷ましにかかる。
それでもいつもの何倍もアルコールを摂取しているせいでまだポカポカしている。
「ってか紫苑、顔真っ赤じゃん」
「ちょっと飲み過ぎちゃったかも」
フワフワした感覚が思考を緩くさせる。
すると、彼が手のひらを私の頬に当ててきた。
突然のことに早鐘を打つと、同時に触れられた頬の部分だけ冷たくなった。
「けいくん、手冷たい」
ニットのタートルネックの上にボアデニムジャケットを着て、保温素材のスキニーデニムにムートンブーツで対策してきたからちょっとは緩和されているけれど、それでも雪を乗せた風が刺さるように痛い。
重ねるように手を添えると、お互いの冷えた身体を温め合うように温度が上昇していく。
時計はすでに24:00前だった。
ホテルに戻り明かりを点ける。
夜のライトアップされた福岡の街よりも、この部屋の光は幻想的で蠱惑的だった。
その雰囲気に胸の高鳴りは最高潮まで達し、彼からの愛をたくさん受け取った。
「ーなぁ、……お……ん。……おん」
肩を強く揺すられながら急いたような声が耳元に木霊する。
「紫苑、起きて」
短く強い声が眠たい身体を強制的に起こさせる。
「ん~眠いよ~」
ベッドから出たくなくて布団で身体を包む姿は、母親に起こされる子供のように見えたのかもしれないけれど、昨日は夜更かししすぎて眠たい。
「急いで。時間がない」
時間がないってどういうこと?
まだ頭が回ってないから言葉の意味を理解できないでいた。
「チェックアウトが間に合わない」
2人とも目覚ましに気づかず、時刻はチェックアウトの10分前だった。
急いで服を着てフロントに走った。
髪もボサボサだしすっぴんだし喉カラカラで水飲みたいし。
帽子とかサングラスとか持ってくれば良かった。
時間にはギリギリ間に合った。
彼がチェックアウトを済ませている間にトイレを借りた。
(うわっ、ばりブス)
朝からこんな顔見られていたなんて。軽く髪を整えファンデだけ塗って出る。
すると彼が、すっぴんでも良かったのにという恐ろしいことを言ってきた。
ムリ。絶対ムリ。ただでさえ好きな人にすっぴん見られてしんどいのに、これで外に出るなんて公開処刑でしかない。
「……幻滅したでしょ?」
「えっ?何で?」
びっくりするくらい真っ直ぐな瞳でそう言ってきた。
彼が嘘をつくような人ではないのは知っているけれど、それにしても予想外の返しにちょっとびっくりした。
「何でって、すっぴんが可愛いのなんて芸能人くらいやし」
「いや、全くしてないよ。紫苑もともとナチュラルメイクだし、もし本当に幻滅してたら昨日の夜あんなにキスしなくない?」
昨日の夜を思い出してしまった。
自分でもわかるくらい急激に耳が熱くなってきたけれど、実はあのときはすっぴんではなかった。
先に彼が寝た後にこっそりメイクを落として寝た。
でもまさか寝起きを見られるなんて恥ずかしすぎる。
「朝から何言っとーと?そんな恥ずかしいこと堂々と言わんでよ」
ロビーで恥ずかしい言葉をさらっと言う彼。
胸がドキドキしてさらに喉が渇いてきた。
そういえば起きてから何も口にしていない。
「もう、喉乾いた。カフェ行こうや」
恥ずかしさを誤魔化すように強引に手をつないで駅前にあるカフェに入った。
「ちょっとトイレ行ってくる」
今度はがっつりメイクをして席に戻った。
ホットコーヒーを飲んだ後、この後どうしよっか?と私が聞くと、
ウユニ塩湖でも行くかと言い出した。
はい?
ウユニ塩湖って南米のボリビアってところじゃなかったっけ?
いつものようなとんだ冗談かと思った。
「福津市ってところにあるんでしょ?日本のウユニ塩湖」
そっちのことね。
福津市には『かがみの海』と言われる場所がある。
「福間海岸」「宮地浜」「津屋崎海岸」の3つからなり、天候や風の強さ、干潮のタイミングが合えば見ることができるものすごく映える絶景スポット。
香川県の父母ヶ浜にも劣らない美しい場所。
急遽車をレンタルして海に向かう。
40分ほど走ると目的地近くに着いた。
海岸付近の駐車場はどこも満車のため公園内の駐車場に止めた。
車から降りた瞬間、まるで雲海の上に立っているかのような不思議な感覚に陥った。
浜辺にはカップルや女子たちがスマホ片手にベスポジを探している。
海と空が反射して青と白のコントラストが綺麗すぎて、見れば見るほど水平線に吸い込まれそうになる。
「本当にウユニ塩湖みたいだな」
彼が目をキラキラさせながら感動している。
私もここまで綺麗な状態ははじめてかも。
彼の誕生日を祝うかのようにかがみの海が光り輝いている。
海をバックに2人で写真を撮った。
ここにはもう1つ絶景スポットがある。
夕方になると、宮地浜から宮地嶽神社をつなぐ道に陽が差し込み、『光の道』という2月と10月の一定の時期にしか見られない美しい光景が見られる。
これを見るために多くの人たちが集まるから、この時期でも駐車場が埋まってしまう。
彼と一緒に見たかった気持ちはあるけれど、新幹線に間に合わないので次回にすることにした。
駅でお土産を買い、新幹線に乗る。
席に座った途端、彼は疲れて寝てしまった。
この2日間タイトスケジュールだったもんね。
だらしなく口を開けたまま眠る表情も可愛く見えてしまうのは惚気なのかな。
起こさないよう彼の横顔を撮った。
☕️
インターホンを鳴らす。
「はい、神法です」
「ども、雪落です」
紫苑の家、正確には姉の桜咲の家に来ていた。
福岡旅行のとき、彼女にスマホの充電器を貸したままだった。
次のデートのときでも良かったのだが、いつもあるものがなくなると急に不安になるものだ。
「いつも妹がお世話になっております。すみません、妹が気利かなくて。わざわざお越しいただかなくても直接持って行かせたんですが」
「いやいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」
この日彼女は夜遅くまでバイト。終わったら友達と飲みに行く予定があった。
一方姉の桜咲は仕事が早く終わったので俺が来るのを待ってくれていた。
「せっかくなので上がってください」
「いや、充電器を取りに来ただけなので」
「紫苑の秘密、知りたくないですか?」
突拍子のない言葉にどう反応して良いか戸惑った。
この人は本当に実の姉か?
顔立ちはたしかに似ているが、話し方や雰囲気からブレない軸のようなものを感じた。
それにしてもこの誘い方、何という言葉で形容すれば良いのだろう?
桜咲が右手をリビングの方へと伸ばして俺の手足を前へと誘う。
上手く乗せられた感じがしたが嫌な感じは全くしなかった。
「どうぞ」
革靴を脱いで上がらせてもらう。
「お邪魔します」
1DKの部屋には小さめのソファーベッドがそれぞれ1つずつあり、奥の広めの部屋と手前のリビングの部屋がある。
思っていたよりも部屋はシンプルで、白を基調としていてシックな感じになっている。
イメージしていた女子の部屋という感じではなかったが、この前のクマのぬいぐるみを大事そうに置いてくれていた。
リビングのソファーに座らせてもらう。
「お茶が良いですか?コーヒーが良いですか?」
桜咲がキッチンから右手に茶葉、左手にコーヒー豆のパックを持ちながら聞いてきた。
「じょあコーヒーで」
豆を挽きながら桜咲が質問してくる。
「紫苑って見た目によらず意外と抜けてませんか?」
思い当たる節がいくつかある。
1年間しか一緒にいない俺よりも、小さいころから一緒にいる桜咲にはもっと多くの引き出しがあるのだろう。
彼女にそっくりなその麗しい瞳で色々と話したそうな表情をしている。
「アイスに目がないのに、話に夢中で食べてること忘れちゃってるところとか」
「それ小さいときからずっとです。よくこぼして服をビチョビチョにしてたから、一時期コーン禁止令が出てカップアイスしか食べちゃダメだてルールがあったくらいですから」
それでもアイスを食べることを許されている時点で優しい家族だと思う。
「紫苑って小さいときからほんっとにアイスが大好きで、新しい味を見つけるとそれを食べられるまで駄々を捏ね続けてたんです」
アイスに対する欲求えげつないな。
「そういえば、昔おもちゃ屋さんでソフトクリームの置物を見つけたとき、欲しくて欲しくてたまらなかったのか1日中泣きじゃくってたことがあって、クリスマスプレゼントでそれをあげたら大喜びしてたことがありました」
どんだけ欲しかったんだ。
彼女の前世は乳製品なのか?
「本人の希望で数時間家に置いてたら、ある日アイスクリーム屋さんと勘違いしてやってきた人がいたので、後日撤去したら玄界灘が揺れるくらい大泣きしちゃって。私も幼いながらに大変だったのを覚えてます」
俄に信じがたいような話だったが、もしそれが本当なら一瞬だけでもアイスに生まれ変わりたいと思った。
「いまその置物はどこに?」
「実家の倉庫に放置されてます。いまとなっては無用の長物です」
当時からそうだった気もするが。
我が家にも親が生前大切そうに持っていたMDコンポがあったが、嵩張るだけで正直邪魔だった。
「そんなに小さいころからアイス好きだったら、幼いころの夢はアイスクリーム屋さんとか?」
「いえ、紫苑の小さいころの夢は、天使です」
「て、天使?」
全く想像していなかった角度に刺激に瞳孔と口が大きく開いた。
アイス屋以外の選択肢としてお姫様やアイドルを予想していたから、頭の中を整理するのに少し時間がかかった。
「これにはちゃんとした理由があって、紫苑が小さいときに海で溺れそうになったことがあったんです。そのときはお父さんが助けてくれてたんですけど、幼いながらに悔しかったんでしょうね。翌日から泳げるようになりたいって言って水泳をはじめたんです」
ん?全然話がつながらないのだが。
整いかけた頭の中がまたぐちゃぐちゃになった。
空を飛ぶのと海を泳ぐのはインターステラーくらいかけ離れたものだと思う。
泳げるようになればそのまま空を飛べるようになるとでも思ったのだろうか。
本人に直接聞くわけにもいかないから真実にそっと蓋をしておこう。
「でも高校に入ると同時に水泳を辞めてテニス部に入ったんです」
そう言えば出会ってすぐのころ、テニス部に所属していたって言っていたけれど水泳経験もあったことははじめて知った。
「なんで急にテニス部に?」
「好きな人がいたらしいです」
好きな人というワードに強く鼓動が鳴る。
過去のことに嫉妬してもどうにもならないのはわかっていながらも心がそわそわしている自分がいた。
訂正するようにすぐさま桜咲が続ける。
「好きな人っていうのは憧れてる人って意味です。宝塚の人みたいなカッコイイ先輩がいて、その人とダブルスを組みたいって思ってたらしいです」
違う『好き』に心が凪いだ。
気にならないわけではない。
だが彼女の過去の恋愛事情について本人の許可なしに聞くのは違うと思った。
「あっ、これ絶対本人に言わないでくださいね。雪落さんに話したなんて言ったらガチでキレられちゃうんで」
過去の恥ずかしい思い出を恋人に知られるのは嫌だろうから墓場まで持って行くことを約束した。
「俺が紫苑のことを嫌いになることはないので」
「雪落さんが良い人で良かったです。妹のことを大切に想ってくれて嬉しいです」
「飾らないところはすごく魅力的だなって思うし、怒ったり笑ったり泣いたり、デートする度に新しい彼女に出会えるのが楽しいんだ。何より、多くの人に愛されてる人ってそういうところを自然と出せるからだと思う。俺にないものを彼女は持ってる。だから大切にしたいって思う」
いや、大切にする。
この想いに翳りは微塵もない。
口に出しながらも改めて心に誓う。
「紫苑が羨ましいな」
「えっ?」
「私、彼氏ができても長続きしないんですよね。面食いだから顔が良かったらある程度クズでも許しちゃうんです。でも、結局クズはクズだから浮気とか借金とか当たり前にするようなやつばっかで、雪落さんみたいに内面をちゃんと視た上で想い続けてくれてる人に出会えて、妹は、紫苑は本当に良い出会いをしたなって思って」
桜咲の言葉は半分合っていて半分合っていない。
正直最初は外見から入ったし、中身は二の次だった。
ただ彼女を知っていくうちにギャップにどんどんやられていった。
表情豊かで意外と嫉妬深くてちょっと天然で、話す度に新しい彼女に出会える。
それが新鮮で楽しい。
だから彼女との出会いは俺の人生にとって大きな転機であり、邂逅や僥倖といっても過言ではない。
あまり長居しても失礼なのでそろそろお暇しようと腰を上げると、
「雪落さん、紫苑と結婚する気ありますか?」
唐突すぎる質問に目が点になった。
好きで付き合っているから一緒にいたいと思うのは普通だし、人一倍家庭に対する思いは強い。
でもこれはどういう意図があるのだろう?
下手に考えるよりもいまの素直な気持ちを言うことにした。
「結婚は付き合ったときからしたいと思ってるよ。でも紫苑まだ学生だし、落ち着くまではプロポーズしないかな」
「ですよね。あの子好きになったら周り見えなくなるし、人の意見聞かなくなるし、王子様を求めるような乙女気質なので、同棲とかは慎重にお願いしますね」
いまはまだ時期尚早と言いたいのだろう。
そこに関しては同感だ。
俺も仕事はまだまだだし、もっと余裕を持った状態でないと彼女を支えてあげることはできない。
「今日は色々とありがとう」
「こちらこそ長話に付き合ってもらってありがとうございました。次来るときは席外しておきますので遠慮なく楽しんでくださいね」
この子は本当に血のつながった姉妹か?
お節介な近所のおばちゃんみたいな発言に苦笑いしながら彼女の家を後にした。
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東狐姐さんのお店でカラーリングしてもらった後、駅前に戻ると彼が待っていた。
代官山の駅前にあるジェラート専門店。
地元糸島のあまおうやオレンジ、桃を使ったジェラートを2人でベンチに座って食べる。
今日は久しぶりのデート。
旅行に行った以来、なかなか予定が合わなかった。
電車に乗って向かったのは中目黒。
お花見の名所、目黒川には多くの人が桜を見に訪れている。
駅前にあるドーナツ屋さんには何時間待ちだろうというくらいの行列ができていて、それを横目に目黒川沿いのカフェでまったりする。
写真を撮る彼の表情も最初のころにくらべてナチュラルになってきた。
一緒に変顔したりたまに目を瞑っていたりと、それは恋人というよりも仲の良い友達にも思えた。
ディナーは二択で迷った。
「焼肉と焼鳥どっちが良い?」
彼の質問にめちゃくちゃ迷った。
どっちも大好きだしすっごくお腹が空いている。
ネットで食事の写真や店内の雰囲気を見たらさらに迷った。
なかなか決められずにいると、
「じゃあゲームで決めよう」
まるで子供のような表情で爽やかにそう言う。
「ゲーム?」
「そう、110ゲーム」
「ヒャクジュウゲーム?」
彼が財布から100円と10円を1枚ずつ取り出し、
「紫苑が勝ったら焼肉で、俺が勝ったら焼鳥な。じゃあ目瞑って手ひらいて」
「何すると?」
「いいからいいから」
人の不安をよそに楽しそうな彼は何の説明もなく謎のゲームをはじめる。
言われるがまま目を瞑って両手を開き、彼の前に出す。
両手に冷たい感触がした。
そのひんやりしたものが何かわからず一瞬ピクッとなった。
彼が私の両手を包むようにパーからグーにした後、目開けていいよと言ったので、言われるがまま素直に目を開けた。
「問題です。右手と左手どちらに100円が入っているでしょう?」
えっ?何その問題?
「わからんし」
「直感でいいから」
「じゃあ右?」
「手開いてみて」
右手には10円が入っていた。
100円は左手だった。
「じゃあ俺の勝ちね、焼鳥食べよう」
「こんなんわからんし」
「100円と10円は直径0.9ミリしか違わないし、厚みも0.2ミリしか変わらない。重さに関しては0.3グラムしか変わらないからね。ちなみにお札は横の長さが違うだけで縦の長さはどれも同じなんだよ」
そんなことわかるわけがないし、何よりこのゲームめちゃくちゃつまらなかった。
「本当は焼肉が食べたかった?」
「そんなことないけど」
「じゃあ焼鳥な、行こう」
この人たまに強引で子供っぽい。
お店は満席だった。
店員さんによるとたまたまキャンセルが入ったタイミングだったらしいけれど、もし入らなかったらどうするつもりだったんだろう?
焼鳥屋さんはいっぱいあるし、ぶっちゃけお腹いっぱい美味しいものを食べられれば何でも良いのも事実。
珍しくお店の予約をしていなかったみたいだったからちょっと驚いた。
デートのときは必ずと言っていいほど予約をしておいてくれる。
こんなことはじめてかも。
カウンターに座り、焼鳥とワインを嗜んだ。
帰るにはちょっとだけ時間があったので目の前の本屋で時間を潰すことにした。
彼は見かけによらず小説が好きで、休みの日は色々なジャンルを読むみたい。
以前彼の家に泊まったときにちょっとだけ読ませてもらったことがあるけれど、文字ばかりですぐ眠くなっちゃうし、難しい言葉が多すぎて全然言葉が入ってこなかった。
やっぱり私はマンガや動画の方が好き。
会計を済ませた彼がやってきた。
「何買ったと?」
「宇山 佳佑さんの新作」
本の表紙を見せながら自慢気に言ってきた。
「その人知っとる。ネトフリで観たことあるけど面白かった」
「『桜のような僕の恋人』っしょ?あれマジで良かったよね!」
「そう、それ!切なくてばり泣いた」
「個人的に1番好きなのは『恋雨』だけどな」
「恋雨?」
「そう恋雨。『この恋は世界でいちばん美しい雨』って作品めちゃくちゃ面白かった。やっぱ雨は命に匹敵するくらい儚いよな」
その独特な感性は理解できなかった。
久しぶりのデートは楽しかった。
同じ時間を共有し、手をつなぎ、キスをする。
彼との時間はアイスのように甘くとろけるような瞬間。
それだけで幸せだった。
でも、幸せすぎて怖くなった。
☕️
「距離を、置いてほしいです」
当然の言葉に刻が止まった。
この前のデートから数日後のことだった。
電話越しでも伝わる重たい空気。
何度も何度も理由を訊いたが応えてはくれなかった。
それからの俺はというと、川に流されていく流木のように活力を失い、帷の落ちた世界のように色を失った。
くたくたになったシャツを見ても惰性のように仕事をし、まともに咀嚼もせずに飲み込むだけの食事。
小説を読んでも映画を観ても空虚なまま。
毎晩のように飲む自棄酒。
溜まっていく洗濯。
荒れていく私生活。
人はこんなにも変わるのかというくらいに魂が抜けていった。
同時に彼女のことをこんなにも好きだったということを痛感した。
付き合ってからというもの、誰かに何かで刺される謎の夢は見なくなったのに、距離を置いた途端見計らったかのように毎晩同じ夢を見ては冷や汗をかき、質の悪い睡眠に苛立ちが増す。
ここ数日間、下を向いて歩いてばかりいる気がする。
いや、前すらも向いていない。
大袈裟に言っても空蝉とは思えないくらい世の中そのものを恨みそうになりながら缶ビール片手に遊歩道を歩いていると白と紫に輝く花を見つけた。
いつも通らない道での帰り道で偶然見つけたこの花はいまの俺に何かを訴えかけているかのように天を見上げている。
「これは、春紫苑の花」
よく似たヒメジョオンの花かと思ったが、時期的に春紫苑の花だろう。
……紫苑、いまごろ何をしているだろう?
毎日のようにやり取りしていた連絡がピタッと止み、当たり前のように会っていた週末の予定は泡沫のように消えていった。
**
親友の心治と駅前の居酒屋で酒を交わしながら話す。
「恋愛って難しいな」
「どうした?」
「急に距離置こうって言われて意味わかんなくて」
物事には必ず原因がある。
だが思い当たる節がない。
これでも愛情表現はしてきた方だと思っているし、大切にしてきたつもりだった。
「俺も嫁さんの気持ちはいまだにわかんねぇし、これからもわかんねぇと思う。ただ、わかんねぇからこそ日々に感謝することが大事なんだよ。子育ても食事も当たり前に感じがちだけど、ちゃんと言葉にしなきゃ気持ちは伝わんねぇよ」
彼女に対する感謝の気持ちが足りなかったってことだろうか?
せめて理由が知りたかったのが本音だが、いつまでも既読のつかないいまとなってはそれを訊くことは叶わない。
「で、慶永はどうしたいんだよ?」
「どうしたいって?」
「相談してきてる時点でこのままでいいとは思ってないってことだろ?」
そう、自分の中できっかけのようなものがほしかった。
普段恋愛話をしないが、こういうときの親友の意見はものすごく背中を押してくれる。
相手にこうなってほしいって思いがあって、こうならないでほしいって思いがあるから感情的になる。
冷静になればわかることだが、いざその場に立つとなぜかそれが強く出てしまうきらいがある。
「俺の家なんて子供のことでしょっちゅう喧嘩するけど、まず相手の意見を聞くことから始めれば話し合いで解決するもんだぞ」
話すって言ったって電話もつながらないし既読もつかない。
仮に直接会えたとして、そのときは何を話せば良い?
喧嘩ならまだしも、一方的に距離を置こうと言われたときはどうするべきかなんててんでわからなかった。
「彼女のこと好きなんだろ?」
「あぁ」
「だったら素直に言えば良い。変化球なんて投げなくて良いんだよ」
「一球もか?」
「あぁ」
「慶永そんな器用な人間じゃないだろ?」
親友の言う通りだった。
「考えすぎなんだよ。思い通りに行く恋愛なんてないんだからありのままでいいんだって」
前回会ったときよりもさらに大人に、そしてポジティブになっている気がした。
それにくらべて俺は同じ場所から踏み出すことすらできていないでいた。
「慶永は何のために恋愛してる?」
電子タバコを吸いながら真剣な表情でそう話す親友の言葉にすぐ返せなかった。
「欲を満たすためか?」
「いや、違う」
極端な言い方だが欲を満たしたいだけならぶっちゃけ誰でもいい。
でもそうじゃない。
俺は彼女じゃなきゃ心を開けないところまできていた。
良いところもそうじゃないところも受け入れてくれて、幸せを一緒に感じ合えると思った唯一の相手だ。
だから否定をした。
欲という言葉だけでは表しきれないほどの感情があったからだ。
「嘘だな」
被せるように食い気味で否定された。
「そうじゃないって自分に言い聞かせてるだけで、本心では自分の欲を満たしたいんだよ」
「心治は違うのかよ」
「いや、一緒だ。自分が幸せになるために生きてて、子供の成長が、家族の笑顔が見たいっていうその自分の欲を満たしたくて生きてる。
だけど、もし違う人と結婚していたらきっとこじ幸せを感じることはできていない。人生なんて選択の連続だろ?常に正しい選択をしてるやつなんてそういないし、間違いを間違いって認められる人間が幸せをつかめると思うんだ」
同じ年月を過ごしてきたが、親友との決定的な差は向き合う姿勢と経験値だと感じた。
厳しい親のもとで育ってきたせいか、意志が強く柔軟性がある。
的を射ていたアドバイスに少し安堵し、何杯かおかわりをして店を後にした。
**
「はぁ?別れた!?」
部屋中に響き渡る声。
家のソファに座りながらスピーカーモードにして美咲に電話していた。
ファブリック素材のモスグリーンのソファベッドの左側ぽっかりと空いている。
彼女が泊まりに来るたび身を寄せ合いながら思い出が刻まれたいった。
「別れたって言うか距離を置いてほしいって言われた」
「連絡はしたの?」
「電話しても出ないし既読もつかない」
「それって別れたも同然じゃん」
「俺、何したんだよ」
「雪落って遊んでそうだけど浮気できるほど勇気ないし、ギャンブルしかしてなさそうな顔してるのに全然してないしね」
「フォローになってなくね?」
「それぐらいギャップあるってことよ」
「そりゃあどうも」
「ただ、それが距離置かれた原因かもね」
「どういうことだよ?」
「刺激なくなったんじゃない?」
「飽きられたってことか?」
「片方の愛情表現が強すぎるとそれに満足しちゃう人もいるから結果的に冷めちゃう人もいると思うけど。まぁ優しすぎも罪ってことよ」
「みんな優しい人が好きって言ってるのにか?」
「女の子ってそういうものよ」
女性の心理は理屈ではないということを言いたいのだろうが、まったくもって意味がわからなかった。
「好きならちゃんと話した方が良いよ」
「どう話せって言うんだよ?」
「ったく、雪落って本当変なとこで遠慮するよね。まだ別れたわけじゃないんだから自分の気持ち素直に伝えなって」
美咲の言う通り、本当に嫌なら別れるという選択を取るのが普通だが、彼女は距離を置くという選択を取った。
なぜ理由を言ってくれないのか。
部屋に残された歯ブラシやメイク落としを見るたびに心の奥がキリキリと痛む。
「ってかあんたら高校生かよ。将来のこと考えてるんならやること1つしかなくない?」
「1つ」
大きく溜め息をついた後に、
「ハッキリしなさいよね。まったく何であんたがモテるのか私にはさっぱりなんだけど」
電話越しの美咲は俺の煮え切らない態度に明らかにイライラついていて口調が荒くなっている。
「そんなのガキのころの話だ」
そう言いながら飲もうとしたコーヒーはすでに冷めていた。
「ってかこういうの気持ち悪いからやめてくんない?中途半端にいるくらいならきっぱり別れた方がラクだよ」
辛辣にも思えたがいまの俺にはダイレクトに刺さった。
オブラートに包まず忖度もしない。
こんなこと言ってくれるのは親友の心治かこの美咲くらいだ。
「ったく、この前病室で久しぶりに会ったと思った途端、頻繁に連絡してくるんだから」
俺が事故に遭ったとき、彼女と美咲が仲良くなったことで何かと相談に乗ってもらっていた。
「本当、美咲がナースで良かったよ」
「じゃあ今度マンション買って」
「キャバ嬢かよ」
「冗談。焼肉で許してあげる」
「へいへい」
美咲に相談したことで全身に乗っていた重石が少し取れた気がする。
「相談乗ってくれてありがとな」
「どういたしまして。でも夜勤明けは眠いから今日限りにしてね」
通話ボタンを切ってからずっと考えていた。
どうすることがベストなのか。
考えれば考えるほどメイズに入っていくので一旦考えることを止めた。
心治と美咲のお陰で目が覚めた。
俺は素直な気持ちをぶつけようと行動に出ることにした。
🍦
彼と距離を置いてからもう2週間。
あれから連絡は取っていない。
「紫苑、本当にいいの?」
「何が?」
「わかってるでしょ」
わかっている。
このままでいいわけがない。
でも私といることで彼が不幸になるのが怖かった。
だからこのまま自然に消滅していくのがいいと思った。
「本当はまだ好きなんでしょ?」
好きだよ。
好きで好きでたまらないよ。
だからこそ私じゃない。
彼の優しさに甘えて、その甘さにつけ込んじゃうことが怖い。
「彼は私とおったらダメになる」
彼は優しすぎる。
私のルーズなところを受け入れてくれることが最初は嬉しかったけれど、それに胡座をかいている自分がいた。
約束の時間を勘違いしてめっちゃ遅れちゃったときも怒らなかったし、結構無理なわがままを言っても快く受け入れてくれる。
きっとこのままだと私が彼を不幸にしてしまうのではないかと思った。
「でもさ、それ勝手じゃない?」
「えっ?」
「それは紫苑の気持ちでしょ?彼のこと本気で考えてるならちゃんと話すべきだよ。気持ちなんて言わなきゃ伝わんないし、別れずに中途半端な関係性ずっと続けていくわけ?」
優梨の言う通り。
「それにもし逆に同じことをされてたらどう思う?」
頭ではわかっていた。
このままだとぐだぐだになって彼が本当に離れていってしまう。
それでも私は踏み込めなかった。
2週間ずっと引きずってきて今更何て言ったらいいの?
彼からの連絡も何で返せばいいの?
時間が経てば経つほど私の心の中が濁っていく。淀んでいく。燻んでいく。
そうして悩み続けてから数日後、バイト先のメンバーで『たこパ』をすることになった。
メンツはKAWAHARAの4人と男の先輩2人。
スーパーでお買い物をし、みんなでキッチンに立ってお野菜を切ったりお皿を用意したりと普通に楽しんでいた。
お姉ちゃんと住むこの家は思っていたより広くて住みやすい。
私がもともと1人で住む予定だった場所はオートロックじゃないし、階段も軋むし、火事が起きたら一瞬で燃えちゃいそうな蔦の生えた古い六畳一間のぼろアパート。
郵便ポストもダイヤル式ではないような昭和の雰囲気漂うお家。
個人的にははじめての一人暮らしだからノスタルジックな雰囲気で良かったんだけれど、色々と心配してくれたお姉ちゃんが一緒に住みなさいって言ってくれていまに至る。
パーティーは私のお家で行われることになった。
お姉ちゃんは有給を使って新しい彼氏と旅行に行っているから数日間帰ってこない。
バイト先から1番近いのが私のお家という安易な理由。
彼と距離を置いてからというもの、ハッキリしない態度に優梨ともちょっとだけギクシャクしていた。
それもあって私はお酒は飲みすぎてしまった。
何杯くらい飲んだんだろう。
カクテル、ウィスキー、ワインに日本酒。
みんな心配してくれていたけれど、私のお家ってこともあって気が緩んでいたのかもしれない。
「そろそろ解散しよっか」
先輩のうちの1人の清田先輩は彼女以外の女性にも優しい紳士。
みんなで片づけをして解散した。
それからどれくらいしたのだろう。
5分くらいしてからかな。
扉をノックする音がした。
お酒が抜けなくて頭がクラクラするなか扉を開けるとそこにはさっきまで一緒にいた砂金先輩が立っていた。
「先輩、どうしたんですか?」
「ちょっと忘れ物をしたから中入れてくれる?」
そう言って中に入り、先輩は部屋の中を探し出した。
私はベッドに腰掛け、
「何を忘れたんですか?」
そう聞いたけれど、
「えっ?あ、うん、ちょっとね」
何か様子がおかしい。
本当に忘れ物をしたのだろうか?
「一緒に探しますよ」
「いいよいいよ、大したものじゃないから」
なんだろうこの違和感。
ニコニコしているのに目の奥が笑っていない感じ。
けれどいまはものすごく挙動不審。
「もう夜も遅いし、見つかったら連絡しますよ」
そう言ってベッドから立とうとした瞬間。
ガバッ!
私の両肩をグッと押し込むように両手で強く押し倒された。
その力はあまりに強く抵抗の余地はなかった。
状況がつかめず気が動転していると、馬乗り状態の先輩の左手は私の両腕を強く押さえつけ、右手で洟と口を塞がれた。
先輩の目は血走っていて、獲物を狩る獣と同じ眼をしていた。
耳元で「神法のことずっと前から好きだったんだ。だから1回だけ」
恐怖心が全身を駆け巡る。
声が出ない。息ができない。
(やめて)
心の中でそう叫ぶ。
先輩の荒い呼吸が私の耳元に当たるたびに気持ちが悪くて吐きそうになる。
(やめて)
さらに強さを増す心の声。
呼吸ができないままなんとか抵抗を試みるも、先輩の強い力には敵わない。
徐々に意識が朦朧としていき、全身の力が入らなくなるとそのまま気を失った。
……気がつくと、手足をテープで縛られ下着姿になっていた。
先輩の顔が私の身体を味わうかのように上から下へとゆっくりと舐め回す。
「やめてっ!」
怒りと哀しみと苦しみが混在した声で精一杯叫んだが、虚しく壁に反射し消えていく。
足の指先まで舐め回した後に顔が私の口元に近づいてくる。
(こいつの思い通りにはさせない)
ふと冷静になっていた自分がいた。
キスをさせるフリをして、ギリギリのところで先輩の喉元を思いっきり噛んでやった。
「痛って!」
喉仏のあたりを押さえている手からは私の歯形が見えた。
もっと強く噛んで引きちぎってやれば良かったと思ったけれど、一瞬怯んだ隙に飛び跳ねるように全身で払い除け、先輩はベッドから落ちた。
(一刻も早く逃げなきゃ!)
縛られていたテープを剥がそうと抵抗するも急に焦りが出てきてうまく剥がれないでいると、上気した先輩は首元を押さえながらまた馬乗りになってさっきよりも強い力で締めてきた。
その眼はより獣と化していて恐怖から身体が一気に硬直した。
(けいくん……たすけて……)
心の中で叫んだがその声が届くことはない。
あまりの強さに苦しくなってきて意識が飛んだ。
ーそれはほんの数分のできごとだった。
意識が戻ると私の身体は汚れていた。
髪もメイクも乱れ、先輩の汗と唾液が全身に染みついている。
惨めで哀れな姿。
こんな姿誰にも見せられない。
鏡を見ながら何事もなかったかのように服を着て髪を整えている先輩に殺意が芽生えた。
すると、扉が開く音がした。
終電はとっくにない。
こんな時間に来る人は限られる。
もし彼だったとしてもこんな姿見ないでほしい。
この最悪な状況知らないでほしかった。
私は好きでも男に身も心も汚された。
一生の汚点。
色々な感情が私を襲う。
それは嬉しいというより切なさと虚しさが合わさった言葉にし難い感情だった。
扉の方を見ると、そこには彼の姿があった。
「け、い、く……ん……」
彼の目を見た瞬間、大粒の泪が溢れてきた。
地球上の水分すべてが私なのではないかというくらい何度洟を啜っても止まらない。
私の哀れで醜い姿を見た彼は着ていたトレーナーを私にかけてそっと優しく抱きしめてくれた。
温かい。
久しぶりに感じる彼の温もりにまた泪が滝のように溢れ出た。
痛くならないよう優しく手足のテープを剥がすと、ヤツの方を睨めつける。
その顔は怒りと憎しみに満ちていて、いままでに見たことのないくらい恐ろしく怖い表情だった。
彼は何も言わず先輩のもとへと行き、勢いよく壁に押しつけながら胸ぐらをつかんで睥睨する。
「な、なにすんだよ!」
その言葉を無視し、宙に浮いた状態の先輩をさらにぐっと壁に押しつけた。
「お、お前が神法の彼氏か。な、なんでお前みたいなチャラそうなのが彼氏なんだよ。俺の方がよっぽど釣り合うじゃねぇか」
彼はヤツの言葉を歯牙にも掛けず、つかんでいた手を離し、その場からいなくなった。
乱れた服を両手で直しながら、
「ふん、わかればいいんだよ。ったく、こんな暴力的な男と付き合うなんて本当に神法は見る目がないな」
数秒後、部屋に戻ってきた彼が右手に何かを持っている。
お姉ちゃんの彼氏が防犯用に置いていった金属バットだ。
それをヤツの顔に向かって頭上から大きく振りかぶる。
「けいくん、やめて!それだけはダメ!」
彼にしがみつき、必死に止める。
「大丈夫。殺しはしねぇよ」
「もういいよ」
さっき拭い切ったはずなのにまた泪が出てくる。
もうメイクがぐちゃぐちゃで前がよく見えない。
その様子を見ていたヤツは呆れたように、
「もう帰っていいかな。今日は十分楽しませてもらったし、神法思ったほどでもなかったし」
その発言と態度に私の中で何かがプツっと切れた。
しがみついていた彼の身体から離れ、台所へ向かった。
引き出しを開けて包丁を取り出す。
踵を返し、アイツのいる場所を確認する。
彼からバットを取り上げて頭を思いっきり殴ることも考えたけれど、間違って彼に当たって怪我でもしたら大変だから確実に殺れる方法を選んだ。
血の流れが早い。
上気に満ちた体温は沸騰寸前状態。
包丁を持つ手は少し震えていた。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ怖かった。
物理的に誰かを傷つけることなんてないから。
でもこの男だけは赦すことはできない。
だから覚悟を決めた。
深呼吸をし、勢いをつけて一直線に走り出す。
グサッ!
鈍い音が壁に反射した。
皮膚を貫通する感覚がした。
倒れたのはヤツではなく、彼だった。
「な、なんで……」
たしかにヤツに向かって刺したはず。
それなのになんで彼が倒れているの?
腹部から赤い液体がポトポトと床に落ちていく。
勢いを増していく鮮血は彼の青ざめていく顔を逃避しかけた現実へと押し戻していく。
私が刺す直前、一瞬目を閉じてしまったときにヤツを庇ったのだ。
それに気づいたとき冷静になった。
手に持っていた包丁を落とし、彼に抱きつく。
「けい、くん」
「し、おん……」
「なんで?」
「し、おん、好き……だよ……」
答えになってないよ。
私、好きでもない男に犯されたんだよ?
それなのに何で庇うの?
「ご、めん……な……」
なんで謝るの?
謝るのはこっちの方だよ。
悪いのはアイツ。全部アイツのせいでこうなったんだよ。
泪が止まらない。どんなに洟を啜っても溢れ出てくる。
「けい、くん……ごめん、なさい……」
そう言いながら救急車を呼ぼうとする。
でも指が震えて上手くタッチできない。
もう、こんなときになんで。
私の手を握る彼の手は徐々に力を失っていく。
「し、おん」
「ん?なに?」
「幸せ、に、なって、な……」
イヤだよ。こんなのイヤ。
私はあなたといたいの。
あなたじゃなきゃダメなの。
話したいことたくさんあるんだよ?
一緒にやりたいことあるんだよ?
イヴだって一緒に過ごせていないし、海外旅行にもまだ行けていない。
約束したよね?一緒にいようって。
約束したよね?もうどこにも行かないって。
ダメ!
死んじゃダメ!
「あ……り……が……」
握っていた彼の手がゆっくり落ちていく。
それが彼との最期の会話だった。
🍦
福岡の田舎町で生まれ育った私は、寡黙な寛樹お父さん、ちょっと天然だけれどいつも笑顔の菖蒲お母さん、クールな姉の桜咲と犬のノアの5人家族。
ホークスファンのお父さんは試合中いつも缶ビール片手にソファに座って中継を観る。
普段は寡黙なお父さんもそのときだけは、「いまのはストライクやろ」とか、「いまの球なんで打たんとや」とか、ちょっと怖いくらいに熱が入る。
とくにWBC(ワールドベースボールクラシック)っていう世界大会のときなんか画面に釘づけでテレビから一歩も動こうとせずお酒の摂取量もいつもの倍多かった。
お母さんは台所で食器を片付けながらお姉ちゃんと好きな俳優とデートするならどこに行く?という妄想話や、最新の美容グッズの話で盛り上がっている。
私はファッション雑誌を読んだり、ネットサーフィンをして暇つぶしをするのが我が家の日常。
高校2年生のある日、リビングでお母さんに進路について聞かれたときのこと。
この日もお父さんは缶ビール片手に野球を観ていたが、白熱した展開だったみたいでビールを飲むペースが早く顔が真っ赤だった。
私の夢はファッションデザイナー。
東京の学校でファッションを学びたいとお母さんに話していたとき、聞き耳を立てていたお父さんがソファ越しに口を挟んできた。
その内容は東京行きを反対するものだった。
東京に行けばファッションの最先端に触れられることを話してもお父さんは頑なに否定した。
なんでダメなのか問いただしてもちゃんとした理由を教えてくれない。
この態度に腹が立ち、感情的になった。
「そんなんじゃいつまで経っても東京行けんやん!」
リビングに不穏な空気が流れる。
「本人が行きたいって言うなら行かせてみたら?」
お母さんが空気を戻そうと味方してくれる。
「そんな真っ赤な顔で言っても説得力ないけん、素面のときに話しなよ」
冷静なお姉ちゃんが芯をつく。
神法家で男はお父さんだけ。
こういうときの男性は不利って聞いたことあるけれど、このときの我が家の状況もまさにそれ。
ばつが悪くなったお父さんはそこから私とは一言も喋らず再び野球を観だした。
私は気持ちを落ち着かせるため、冷蔵庫から新作のはちみつ味のアイスを取り出し、2階の自分の部屋へと戻ってYou Tubeを観た。
アイスを食べたら落ち着いてきた。
お父さんと喧嘩したのなんて何年ぶりだろう。
お酒が入っていたとはいえ、なんであんな頑なに東京行きを反対する理由がわからなかった。
ファッションだけじゃなく、どの世界で生きていくのも大変なのはわかっている。
でもやりたいと思ったことはやりたい。
だって一度きりの人生だから。
後日お父さんに東京行きを反対する理由を聞いてみようと思っていると、ドアをコンコンとノックする音がした。
ドアを開けた先にいたのはお母さんだった。
きっと心配して来てくれていたんだろう。
横並びでソファに腰掛けると、いつになく真剣な表情で話してくれた。
「紫苑が生まれてすぐくらいのころかな。お父さん東京で会社の経営をしていたことがあってね、友達と食品関係の会社を立ち上げて最初の2、3年は調子良くて徐々に軌道に乗り始めていったんやけど、4年目のときに新しく雇った経理担当の人にお金を横領されてしまったんよ」
お父さんが東京で経営していたことをはじめて知った。でもそれ以上に横領されていたことに驚いた。
「横領ってどのくらいされとったん?
「3年間」
「3年間も!?そんなに長いこと横領されとって何で誰も気づけんかったと?」
お母さんによると、大口の支払い以外のもの、すなわち小口系の支払いの管理はすべてその経理担当に任せっきりだったみたい。
経営のこととかよくわからないけれど、管理体制が杜撰なことだけはわかった。
「お母さんが経理をやればよかったんやないと?」
「ママに経理ができると本当に思っとる?」
たしかに。
いまだに九九がちゃんと言えないお母さんに経理をやらせたら杜撰なんて言葉じゃ片づかない。
「まったく、なんでそんなに大事なこと1人に任せちゃうのよ」
「小さい会社やったし、それにその人すっごい美人さんやったみたい」
「なにその理由。ばり引くっちゃけど」
「ほとんど男の人ばかりやったし、みんな躍らされていたんやろうね」
「それで、会社はどうなったと?」
察しはついていたけれど、一応聞いてみた。
「多額の借金を抱えて倒産したわ」
やっぱり。
「じゃあ借金あると?」
お母さんがニコッと笑いながら、
「もう完済したけん、安心して」
でもそれって横領したその女が悪いんでしょ?
なんでお父さんが借金背負わなきゃいけないの?
なんだかイライラしてきた。
お母さんが言うには、密かに横領の証拠を集めていたお父さんたち役員の人たちがその女を問い詰めた結果、女は自供し後日逮捕された。
しかし、横領のほとんどは旅費やブランド品で消え、返済額は雀の涙ほどだった。
獅子身中の虫にハメられてしまった。
「まさか借金返済したのって」
心当たりが1人だけいた。
「そう、天彦お爺ちゃん。ママとパパで事情を説明して肩代わりしてもらったんよ」
天彦お爺ちゃんは九州で有名なスイーツ店を経営する中空グループの会長。
仕事中はすっごく怖いらしいけれど、私たち孫の前ではいつもニコニコしている仏のような存在の人。
幼いころ、お姉ちゃんと走り回って遊んでいたときメガネを踏んで割ってしまったことがある。
そのときもまったく怒らなかった。
お母さんはその中空 天彦の三女で、高校が一緒だったお父さんに猛アタックして付き合った。
いつも明るいお母さんは他校の生徒からも告白されるくらい美人だけれど見向きもしなかったらしい。
一方のお父さんは休み時間に教室の端っこで本を読んでいるような人で、決して目立つような存在ではなかったみたい。
お母さん曰く、勉強ができて器用なお父さんは普段大人しいのにみんなでボーリングやビリヤードをする度に新記録を更新し、校内のスポーツ大会でも活躍する姿が格好良かったらしい。
何より顔がタイプだから好きになったって言っていたけれど、いまのメタボ体型といつもだるそうにしている表情からは想像もつかない。
女性と付き合うのはお母さんがはじめてっていうお父さんはいまと変わらず優しい。
タバコもギャンブルもしないし、夜遊びもしない。
天彦お爺ちゃんはほの誠実さを認めて大学卒業と同時に2人の結婚を快諾した。
「お爺ちゃんもよう肩代わりしてくれたとね」
「事情が事情やったし、それに交換条件があったっちゃん」
「交換条件?」
①借金を肩代わりする代わりに地元に戻って中空グループに貢献すること。
②孫(私とお姉ちゃん)に何に一度必ず会わせること。
だから年末年始はいつも実家にお爺ちゃんがいたんだ。
「なんかすごく優しい条件」
やっぱりお爺ちゃんは仏のような人だった。
「でもお父さんが昔社長やったなんて想像もつかんのやけど」
「あのころのパパは生き生きとしててばり格好良かったんよ。どんなに大変でもママとの時間を大切にしてくれるけん」
昔を思い出して顔を赤らめるお母さんの姿を見て私もなんだか恥ずかしくなってくる。
「やっぱりパパとおりたかったし、支えてあげたいって思った。ほら、パパって家事苦手でしょ?」
いや、お母さんも苦手だと思いますが。
お洗濯もお料理も私とお姉ちゃんがやっていますが。
「パパからするとあまり東京に良い思い出がないし、紫苑ちゃんには同じ思いさせたくないって思っとるのかもね」
「でもそんなこと言っとったらいつまで経っても東京行けんやん」
「そやね。ママからも説得しておくけん、パパが素面のときにまた話そうや」
それにしても私とお父さんの誕生日を間違えたり、つい最近まで肘と膝を言い間違えていたり、塩と砂糖を入れ間違えたりするようなお母さんがこういうことを覚えているのはなんだか面白いというか可愛いと思えた。
後日、お父さんが素面のときに家族会議が行われた。
実はお姉ちゃんの内定先が東京の出版社だったことがわかり、それならとお父さんが泣く泣く折れた感じだ。
こういう大事なことをギリギリまで言わないお姉ちゃんの心理が理解できなかったけれど、結果的には良かった。
お父さんはなぜかお姉ちゃんには弱い。
気が強いからなのか口喧嘩が強いからなのかはわからないけれど、いつもお姉ちゃんの言うことには口出ししない。
ー東京行きの日、家族みんなで空港まで送ってくれることになった。
先に上京していたお姉ちゃんも有給を使って前日から実家に戻ってきていた。
車のトランクにキャリーケースを入れ、後部座席に座ろうとするとノアが小走りで寄ってきて尻尾を振りながら私を見つめている。
「ノアともしばらくこお別れやね」と涙声で言うと、私にシンクロしたかのようにクゥーンと寂しそうな声を出しながら私のそばを離れようとしない。
何度も離れようとしてもまた寄ってくる。
その度に私の涙腺が弱くなる。
運転中、お父さんはずっと無言だった。
その表情はどこか寂しげに見えた。
お姉ちゃんを送るときと同じ目をしていた。
お母さんとお姉ちゃんは相変わらずガールズトークで盛り上がっている。
博多空港に着くと、ずっと黙っていたお父さんが一言、何に一度は帰ってきなさいと言った。
その言葉には寂寥を孕んでいたようにも聞こえた。
お母さんはいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれたけれど、その目は少し充血しているようにも見えた。
お姉ちゃんと一緒に検査場を通りしばしの別れを告げた。
そんな愛に溢れた家族が大好きだった。
ーあのとき目を開けていたら彼を刺してしまうことなんてなかったのかもしれない。
あのときアイツを家に上げなければあんなことにならなかったのかもしれない。
ううん。
そもそも距離を置いたりしなければ彼が死ぬことなんてなかったのかもしれない。
そう思えば思うほど後悔の念と殺意が襲ってくる。
事件の日を境に私は福岡の実家に帰っていた。
バイトも辞めて学校も辞めた。
ご飯はまともに喉を通らず、不眠症にもなってしまい、毎日のように睡眠薬を飲まないと眠れない身体になってしまった。
家族に相談して不同意性交罪として訴えたけれど、私を強姦したあの男は政治家の息子で多額の示談金で揉み消そうとしてきた。
不起訴処分にして前科をつけたくないのだと思うと身勝手すぎる思考に腹が立った。
でもお金の問題じゃない。
いくら積まれても心の傷が癒えることはないし、彼が還ってくることはないのだから。
ただ、裁判が長く続けば続くほどあの日のことが夢に出てくる。
彼が脇腹を押さえながら崩れていく瞬間の夢を。
もうあの悪夢は見たくない。
ニュースでは事故死ということになっていて詳細は明らかにされていないし大きな報道にはなっていない。
きっとこれも政治家であるアイツの親が関わっているんだろうと思った。
しかし、ネットの世界はそうはいかなかった。
なぜか私とアイツが付き合っていて、彼が浮気相手の設定になっている。
浮気を知った彼が乗り込んできてアイツを殴ろうとしたところを私が庇って刺したことになっている。
『浮気相手が殺人鬼だったなんてヤバすぎ』
『逆上して殴ろうとするなんてサイコパス。死んで当然』
『この彼女、綺麗な顔して二股とかただのビッチじゃん』
彼も私も散々な言われよう。
なんでこんな風になったのかはわからないけれど、これじゃあまるでアイツだけ被害者みたいな展開。
百歩譲って私のことをどうこう言うのは我慢できる。でも、彼のことを論い、謗られたことが赦せなかった。
だからといって何かができるわけじゃない。
気が狂いそうだった。
もうあの家にはいられないし、お姉ちゃんにも火種が飛ぶことを恐れて仕事を辞めて一緒に福岡に帰ることになった。
あの事件がなければお姉ちゃんはいままで通り普通に東京で仕事ができたのに私を責めることは一切せず、むしろ擁護してくれた。
アイツは私からなにもかもを奪った。
大好きな彼はもうこの世にいない。
それなのにあの悪魔だけのうのうと生きている。
それがものすごく赦せなかった。
そう思ったとき、
「ちょっと紫苑、これ観て!」
実家でニュースを観ていたお姉ちゃんが声を張る。
台所でお皿を洗っていた私は手を止めてお姉ちゃんのスマホを覗く。
その内容に驚愕した。
『衆議院議員の砂金 和至議員に収賄疑惑。さらに議員の息子が過去に強制猥褻していた疑惑も浮上』
一生分の傷をアイツに与えてやりたいという胸の奥底に隠していた気持ちが蘇った。
久しぶりにスマホを取り出す。
ここには見たいもの、見たくないもの、知りたいこと、知りたくないことがたくさん埋められている。
ネットを開くと嫌な思いをたくさんするからずっと避けていた。
消せないままでいる彼との写真。
SNSに多くのコメントが寄せられている中、1つのコメントを契機に拡散されている。
『先の件で真実が発覚。先日の東池袋の事件で亡くなった男性。実は被害者の交際相手で、強姦したのは砂金議員の息子だった!亡くなった男性は被害者を庇って亡くなった』
この書き込みをした人物の名は“カワハラ”。
これは偶然?
『あれ事故じゃなかったの?』
『浮気相手が本当の彼氏だったってこと?』
『これが本当だったらやばくね?』
『議員の息子ってことは金で解決されたのか?』
『サイテーなんだけど』
件の書き込みでネット上がざわついている。
数日後、みんなから連絡がきた。
西新宿にあるオシャレなレストランで女子会をすることになった。
東京に行くのなんていつぶりだろう。
あの事件以来気まずくなってしまい、連絡するタイミングを逃していた。
スマホを開くと彼のことを思い出してしまうから……
新幹線で東京に向かう。
飛行機という選択肢もあったが、たまたまキャンペーン中で安くチケットが買えたので新幹線で向かうことにした。
彼と一緒に乗った車両を思い出す。
そんな遠くないはずなのに遥か遠くの記憶に感じてしまう。
何でもない景色がペンキに塗られていくように心臓と海馬を黒く染めていく。
斜め前に座る会社員がノートパソコンを開いて仕事をしている。
キーボードをカタカタ打つ音が大きくて五月蝿い。
もう少し静かにして。
反対側に座っている若いカップルがスマホで動画を観てケタケタ笑いながらイチャついている。
人前でイチャつくなんて目障り。
彼がいなくなってから些細なことにイライラしてしまう自分がいた。
自業自得なのに自己嫌悪に陥る。
このままじゃダメ。
そう思ってある決意をする。
東京駅に着いてからある場所へと向かった。
「本当にいいの?」
「はい。お願いします」
久しぶりに東狐姐さんの店にいた。
何も言わずに福岡に帰ってしまって少し気まずさもあったけれど、いろいろとお世話になったからちゃんと挨拶しようと思った。
あの日から気持ちが落ち着かず、すべてに対して投げやりになっていった。
でもいつまでも落ち込んでなんていられない。
東狐姐さんはてっきりトリートメントかカラーリングだと思っていたらしく、ショートカットにすることを伝えたらものすごく驚いていたけれど、それでも理由は訊かず、10年ぶりに長い髪をバッサリ切ってくれた。
もう一ヶ所、どうしても行っておきたい場所があった。
西東京にある霊園。
彼が亡くなったことを知った遠い親戚がこの霊園にお墓を立ててくれて、そのことを美咲さんが教えてくれた。
私がお墓参りする資格なんてないって思っていたけれど、
「ちゃんと雪落に逢ってあげて」
彼のために言ったのか、それとも私のために言ってくれたのかはわからないけれど、昔から彼のことを知っている美咲さんだからこそその言葉に重みがあった。
ちゃんと謝らないと。
背中を押されるように電車に乗る。
東京駅から新宿と調布を特急で経由しても片道50分以上かかるから人混みの少ない時間を狙って行ったけれど、相変わらず人が流れてくる。
京王線の改札まで押し合うように歩く。
前を歩く60代くらいのおじさんが人を刺すかのように傘の先端をこっちに向けながら手を振って歩いている。
こういう人って周りの人のこと考えないのかな?
右手で引いて歩いていたキャリーケースがすれ違う人の足にぶつかって舌打ちと同時に睨まれた。
小さい声ですみませんと言って謝ったけれどちょっと腹が立った。
まだまだ気持ちが落ち着かない。
自己憐憫なんて言葉を使ったらバチが当たりそうだけれど、胸の奥で焦燥感と抑制心が独楽のようにぐるぐると回っている。
彼の墓が近づくにつれて身体が震えていく。
やっぱり彼に会うべきじゃないと思ってきた。
怖くて引き返したくなったけれど、美咲さんの言葉を思い出し、深呼吸をして前に進む。
名前の刻まれたお墓を見たら切なくなった。
誰かが挿したお花は少し枯れかけていた。
彼との思い出が走馬灯のように蘇る。
それと入れ替わるように彼の最期の姿が、断末魔の叫びが目の前に映し出されてくる。
花を替え、線香を焚き、手を合わせる。
墓石の前でごめんねと言いながら水をかけると、ずっと我慢してきたものが溢れてきた。
ここでは泣かないって決めていたのに泪が止まらない。
私の想いを無視するようにどんどんと流れていく。
何度洟をすすっても慟哭してしまう。
ーこれ以上ないくらい墓石の前で咽び泣いた後、紅く染まった瞳を拭って新宿近くのホテルでチェックインを済ませる。
待ち合わせは夜6時に西新宿の“LOVE”のオブジェの前。
ロバート・インディアナというアメリカ人が手がけた赤い彫刻のポップアートで、待ち合わせ場所としてもSNS映えとしても有名な場所。
目的地に向かっている途中、スマホに通知が来た。
「ごめん、間違えて逆方向乗っちゃった。これから新宿方面に戻るからちょっと遅れる」
これは私たちの中で毎回恒例となっている『恋ちゃんあるある』だ。
道を覚えるのが極端に苦手な恋ちゃん。
そういう私も道を覚えるのは苦手なのだけれど。
上京したてのころ、新宿駅でひたすら迷った記憶がある。
改札が多すぎてどこを行ったら乗り継げるのか全然わからなかった。
道行く人たちはみんな急いでいる様子で道を開けるような雰囲気じゃないし、駅員さんに聞いても冷たい反応をされる。
東京出身の優梨は、都心部はそんなもんだから気にしたら負けだよ。と言って割り切ることを教えてくれた。
ーあの一件以来動いていなかったグループLINE。
止めてしまった原因は私だから申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、マイペースな恋ちゃんを除いては即レスしてくれる優梨と里帆っちに口元が緩む。
今日会ったらみんなに謝らなきゃ。
時間より少し早く着くとそこには里帆っちと優梨がいた。
久しぶりの再会すぎてどんな顔をして良いのかちょっと戸惑った。
すると、私に気がついた里帆っちがニコッと笑いながら「のりしお~」と言いながら抱きついてきた。
昔なら恥ずかしくて照れ隠ししていたけれど、久しぶりに呼ばれたあだ名と里帆っちの柔和な笑顔に懐かしさと嬉しさで泣きそうになった。
「のりしお、ショートカットにしたんだね!かわいい!」
「ありがとう。里帆っちはちょっとふっくらしたんやない?」
「久しぶりの再会の第一声がそれ?ひどくない?」
久しぶりでもこんな冗談の言い合える関係に幸せを感じる。
横にいた優梨が「もう大丈夫なの?」と聞いてきた。
彼のことを忘れたことは一度もない。
現実を受け入れようと頭ではわかっているつもりでも、何かがきっかけで崩れ落ちるかもしれない。
普段なら反射的に大丈夫と言ってしまうのに、優梨には本音が言える。
「だいじょばない、かな」
強がってもバレてしまうし、繕うことを嫌うから何でも話せる。
「優しそうな人だったもんね」
うん、これ以上ないくらいに優しい人だった。
「紫苑のために必死になってくれる人だったもんね」
うん、私が駄目になるくらい愛してくれた。
本当に優しかった。
本当に本当に優しかった。
「少しだけだけど、雰囲気がわかったよ」
私がスマホを落として修理をしに行こうとした日、彼と優梨は不思議な夢を見て偶然出会い話したときにそう思ってくれたらしい。
私は優梨と梨紗っちに「心配かけてごめん」と深くお辞儀をして謝った。
お店は夜6時半に予約している。
まだ着く予定のない恋ちゃんをギリギリまで待つことにした。
結局恋ちゃんが待ち合わせに来たのは15分後。
お店には事前に電話していたのでキャンセル扱いにはならなかったけれど、恋ちゃんが支払いを多めにすることでチャラにした。
場所は西新宿近くにある高級ホテル内のレストラン。
エレベーターを上り、店の入り口に近づくと黒いスーツ姿の店員さんがドアを開けて「ご予約の荒川様ですね?お待ちしておりました」
と出迎えてくれた。
整髪料で整えられた短く黒い髪、奥二重の綺麗な瞳と柔らかな笑顔、180cmくらいの身長がその爽やかな印象を引き立たせる。
名札には酒匂と書いてある。
里帆っちが好きそうな顔をしている。
案の定、横を見ると里帆っちは口元を緩ませながらニヤけていた。
白を基調とした店内には等間隔でシャンデリアが吊るしてあり、床はすべて大理石なんじゃないかと思わせるくらい煌びやかに輝いている。
こんなオシャレなところはじめて来た。
ざっと見た限りでも300席くらいはある。
窓際のテーブル席に案内され、高層ビル群が一望できる。
隣のテーブルにはスーツを着た経営者風のダンディな男性と女子アナ風の美人女性。
その奥にはきっとお金持ちの旦那さんをつかまえたんだろうなって思わせるくらいブランドものを着飾ったマダムたち。
そして何の仕事をしているか見当もつかないちょっとチャラめの男性たちがだらしなく座っていて、カウンターには常連らしき老人がボルドーグラスに入った赤ワインを片手に顔を火照らせながら店員さんと楽しそうに話している。
コース料理を運んでくる酒匂さんは凛々しく、紳士という言葉はこの人のためにあると言っても過言ではない。
それくらいスマートな立ち居振る舞い。
私たちは出てくる料理に感動しながら写真を撮っていた。
自分で言うのも何だが、4人が揃うと本当に五月蝿い。
1つの話題が10にも100にもなる。
すると、そのすらっとした長い足でゆっくりと私たちの前まで来た酒匂さん。
「お客様、失礼ですが……」
ラグジュアリーな雰囲気とジャズが流れるムーディーな店内を壊すかのような喧しさに注意されると思っていると、
「そちらはコトノちゃんでしょうか?」
里帆っちのポーチに付いているマスコットキーホルダーを見ながらそう言う。
きっとこの鳥のマスコットを言っているんだろう。
「コトノちゃん知ってるんですか?」
「えぇ。わたくし京都サンガサポーターなので」
「私もです」
里帆っちは大のサッカー好きで、小さいころから地元のサッカーチームを応援している。
昔サッカー部のマネージャーをしていたこともあるくらい。
サッカーのことはよくわからないけれど、2人の距離がぐーんと縮まった。
酒匂さんと話す里帆っちは乙女のような笑顔で飲んでいたキティのように赤く頬を染めている。
お酒なのか酒匂さんなのかはわからないけれど、すごく楽しそうなのは事実。
「もしかして、京都の方ですか?」
「はい。向日市出身です」
「すごく近いですね。わたくしは鶏冠井の方です」
「鶏冠井なんですか!?私もそっちの方です!」
ただでさえ目が大きいのに、さらに目を大きくさせて飛び跳ねるように喜んでいる里帆っち。
話についていけない私たちは静かに2人の会話を聞いていたけれど、当の本人は2人だけの世界に浸っているように無垢な表情で終始ニコニコしていた。
それからは私の話もちょっとしたけれど、せっかくの再会で重たい空気にしたくなかったからずっと気になっていたことを名付け親に聞いてみた。
私たちのグループLINEのKAWAHARAという名前についてだ。
「小学生のころね、クラスメイトに好きな人がいたの。その人の名前が香和原 翔平くんって言うの。でね、彼はサッカー部のエースだったんだけど、中学に上がるとき、プロになるために京都府内の名門校に進学したの」
「結局彼とは何もなかったの?」
食い気味の恋ちゃんの質問に対し、
「チューはした」
それを聞いた私たちは声を出してテンションが上がる。
「それってさ、彼も好きやったんやないと?」
「どうだろ、わかんない」
「その人里帆ちゃんのこと好きだったと思うな」
「彼は推しみたいな存在だからいいの」
私と恋ちゃんの問いに対し、里帆っちの回答はどこか本心とは違う歪曲された切ない言葉に感じた。
それから他愛もない話をして店を出た。
最後まで酒匂さんに彼女がいるか聞けなかったけれど、里帆っちはなぜか満足気だった。
店を出ると街はネオンで輝いていた。
生ぬるい夜風はほろ酔い気分を覚ますにはちょうど良い。
里帆っちのマシンガントークは絶えず続いたので、新宿駅までみんなで歩くことにした。
歩きながらみんなに質問をする。
「このコメントあげたのってみんなだよね?」
スマホの画面を見せると、
「あの後、先輩の本性暴いてやろうと思ってみんなで色々と調べてたんだけど、そしたらまぁ出てくる出てくる」
「先輩の過去すごくてさ、親の権力を武器に小学生のころからいじめを主導してて、中学時代はそれがエスカレートしてクラスメイトを使って万引きさせたり動物を虐待してたみたい」
「高校生のときなんか学校中の女子を食い漁ってたらしいよ」
優梨の言葉を皮切りに恋ちゃんと里帆っちが続く。
「しかもその寝た相手の写真や動画を勝手にネットにアップして愉しんでたんだって。マジでイカれてるよね」
話を聞くだけで吐き気がしてきた。
バイト中の優しい振る舞いや笑顔は、画面の奥の獣の姿を隠すためだったのかと思うと、何とも形容し難い感情が芽生えてきた。
「ある程度炎上させておいたからきっといまごろは削除されてると思うよ」
優梨たちの暴露に当時の被害者たちが乗っかってくれたことで一気に拡散されたらしい。
馬脚を露わすのも時間の問題だと思う。
「先輩のこと調べてるときの優梨ちゃん、まるで探偵みたいだったよね」
「よっ!名探偵ゆりりん!」
恋ちゃんの煽りに里帆っちも便乗する。
みんなのおかげで心の奥の膿が少し取れた気がする。
「天網恢々疎にして漏らさずだね」
「えっ?なんて?」
「れんれん、急にどした?」
恋ちゃんが聞いたことのない言葉を発し、私と里帆っちは一瞬硬直した。
「天網恢々、疎にして漏らさず。だよ」
当然知ってますよねのスタンスで言い直されてもさっぱりわからないんですが。
反芻しようにも文字がまったく浮かんでこない。
「悪さをしたものには天罰が下るって意味でしょ?」
優梨が意味を説明してくれたがそれでも理解できなかった。
初めて耳にする言葉に脳が追いついていない。
「いや、はじめて聞いたんですけど」
「そんな言葉どこで知ったと?」
「なんかね、私と優梨ちゃんの好きなゲームに出てくる推しキャラの言葉なの」
「敵をやっつけた後に剣を振りながら言うんだけど、クールで超かっこいいよね」
私も里帆っちもゲームをしないからわけがわからずポカーンとしている。
「里帆ちゃんも紫苑ちゃんもやってみて。無料でダウンロードできるから」
「う、うん。考えとく」
「私も」
いつの間にか話が脱線したけれど、どんなときも変わらず接してくれるみんなが大好き。
やっぱり持つべきものは友。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
みんなとお別れした後、ホテルに帰る途中、私は最も会いたくなかった人に会ってしまった。
そう、私を犯した男。
人の人生をぶち壊した悪魔は偶然を装い、SNSで私の居場所を突き止めていた。
もう会わない約束したはずなのに、この男にはそんな約束意味をなさなかった。
「久しぶり。ショートカットも似合ってんじゃん」
顔を見るだけで、声を聞くだけで虫唾が走る。
シカトしてエントランスへ向かおうとしたけれど、腕をぐっと強く掴まれた。
その瞬間あの日の出来事が走馬灯のように蘇ってきて、恐怖の再来と同時に何かのスイッチが入った。
「会いたかったです」
目は合わさず感情を無にして言った。
「あのときは無理矢理襲って悪かったよ。こうして最初から向き合っていれば良かった」
この男はどこまで身勝手で阿呆なのだろう。
ナルシストすぎて反吐が出そうだった。
人生の1ページを鹵掠したこの男はに復讐しないと気が済まない。
彼が報われない。
そう思った。
きっと黙っていても何れ捕まるだろうけれど私自身の手でやりたかった。
「今日ここに泊まってるんです」
「神法、やっぱりあの日のことが相当刺激的だったんだね」
何も応えずそのまま部屋に入った。
「先にシャワー浴びてきてください」
「そうさせてもらうよ」
髪をかきあげながらシャワーを浴びにいっている隙に部屋に常備されていたスティック状のコーヒーをカップに入れ、温めたお湯で溶かす。
バスローブ姿で出てきた先輩をソファを座らせ、コーヒーを差し出す。
「気が利くね」
ニコニコしながらそう言う先輩の言葉を無視して向かい側に座る。
「2人きりなんだから隣においでよ」
脚を組み、左手でソファをトントンと軽く叩きながら座って欲しそうにしている。
「ちょっと緊張してて」
斜め下を向きながら口角だけ上げた。
「そうだよね。まぁ時間はあるんだし、楽しもう」
そう言って一口、ゆっくりとコーヒーを飲む。
喉を通ったことを確認すると私は確信を持ちながら立ち上がった。
程なくして先輩はその場に倒れ込んだ。
そう、あの日以来バッグに常備していた睡眠薬をコーヒーの中に大量に投与していた。
復讐は成功した。
**
古くてボロい部屋。
小さな机の上には小さなテレビが置かれている。
畳の匂いがする雑居房。
私はここで何年過ごすのだろう。
コーヒーの中に大量の睡眠薬を投与した後、あの男が苦しむ姿を想像しながら自首をした。
後悔はしていない。
むしろ清々しい気持ちだった。
刑務所での生活は思っていたものとは少し違った。
「やばっ!めっちゃ美人!」
雑居房に入っていきなり声をかけられた。
同じ部屋にいたちょっと気の強そうなギャル風の人。
「あ、ありがとうございます」
動揺してぎこちない応え方をしてしまった。
こういう世界では友情や愛といった概念はなく、心を開くこともなく、一定の距離を保ったままの関係だと思っていたから驚いた。
ピアスの痕や首元のタトゥーなど、昔ヤンチャしていたのかなと思わせるその人は私と相部屋。
見た感じ同世代くらいかな?
「そのメモ帳って“Narrative Land”だよね?しかも限定ものの」
ナラランはたまに期間限定でノベルティーを出していた。
このメモ帳はそのときのもの。
同じノベルティーで化粧ポーチやリップクリームとかもあったけれど、ここに持ってくることは許されず、ポケットサイズの小さなメモ帳だけ許可された。
このメモ帳には彼との思い出が詰まっている。
彼と行ったお店や彼と行く予定だった場所。
デートのときに撮ったプリクラをいくつも貼っていたので、肌身離さず持っていた。
「えっ?ナララン知っとーと?」
「もちろん知ってるよ。美羽さんのカリスマ性や毒舌も好き。ってか博多弁?」
若い世代で名の知れたブランドだけれど、やはり自分の好きなものや憧れている人を褒めてもらえるのは嬉しい。
「こんな美人で博多弁話すとかウチが男だったらすぐ告っちゃうかも笑」
初対面とは思えないほどグイグイくる。
いままで出会った人の中にはいなかったタイプだ。
「ねぇねぇ、福岡出身ってことは『おっとっと』の早口言葉のやつ言える?」
おっとっとの早口言葉とは、
『おっとっと取っておいてって言ったのになんで取っておいてくれなかったの?』
というのを博多弁で言った場合、
「『おっとっと取っとってって言っとったのになんで取っとってくれんかったと?』」
私たちからするとなんてことのない会話なのだけれも、こっちの人からすると早口言葉に聞こえるらしい。
私は力むことなくすらすらと言ってみせた。
「本物だ~、かわいい!あっ、初対面なのにごめんね。私、綺麗な人や可愛い人見るとテンション上がって話しかけちゃうんだよね。イヤだった?」
「あ、いえ、そんなことないです。全然悪い癖やないと思うし」
「良かった。あなた名前は?」
「神法 紫苑って言います」
「何その神々しい苗字」
そう言いながら彼女は部屋にあった鉛筆と紙切れを取り、自分の名前を書いて見せてきた。
「うち、鬼灯 朱花って言うの」
いやいや、人のこと言えないと思いますが。
ってか明るい。テンション高い。本当に受刑者?
「赤い花って書いて朱花って読むんですね、良い名前」
「そうかな?母親が赤い花が好きだからって理由でつけたらしいよ。安易すぎない?」
「ちなみに誕生日っていつですか?」
唐突すぎる質問に目をパチパチをさせながら、
「8月2日だけど」
「ってことは多分ノコギリソウと関係してるかもしれないですね」
「ノコギリソウって、そのなに怖い名前」
ノコギリソウ、お花を知らない人からしたらたしかに恐ろしい名前。
「名前はインパクトありますけど、花弁は赤く綺麗ですごく可愛いんですよ。もしかしたらお母さんの好きな赤い花と何かシンパシーみたいなものを感じたのかもしれないですよ」
「紫苑ってロマンチストなんだね」
「そ、そうですか?」
「あと敬語使わなくていいよ。この部屋では年齢とかそういうの関係ないから」
「うん、わかった」
朱花はこの刑務所でできたはじめての友達。友達という表現は正しいかどうかわからないけれど、まいっか。
「ちなみに紫苑は何したの?」
「殺人未遂」
「そんな可愛い顔してすっごいことしたのね」
ちょっと引いている?
「朱花は何したの?」
「私はドラッグ」
お互いなかなかの罪だ。
「こんなこと聞いて良いのかわかんないけど、紫苑はなんで殺人を?」
私はあの日、バイト先の先輩に強姦されたこと。庇ってくれたあの人を刺してしまったことを話した。
「それって悪いのその先輩じゃん。冤罪だよ」
「でもその後に未遂を犯したのは事実だから」
そこからの私の人生は転落していった。
まだ人生の半分も過ごしてないのに、大切な人を失って人生がめちゃくちゃになった。
身も蓋もないことをネットで言われ、たくさん傷ついた。
他人の方が圧倒的に多いから無理もないかもしれないけれど、それでも言葉や文字というものは人の心を簡単に傷つけてしまう。
「そっか……紫苑、この部屋で良かったね」
「えっ?」
「他の部屋だと新人へのいじめとかもすごいらしいよ。布団や食事を取り上げられたり、強制的にマッサージさせられたり。すぐ隣の部屋にはお局みたいな人がいてさ、彼女に逆らうと服役期間が延びるって噂もあるの」
朱花の話し声に反応したのか、奥で寝ていた人が起きてきた。
「楓、起きたね。おっはー」
楓と呼ばれるその人は長い睫毛に細い目、口元に黒子があり楚々としている。
「おはよう。この子新入り?」
少し眠たそうな顔のまま静かに話す。
「神法 紫苑です。よろしくお願いします」
挨拶をすると、人見知りなのか目も合わさず軽く会釈をするのみだった。
「この子は楪 楓。詐欺で捕まったの」
こんな清楚な人が詐欺?
「朱花、昔キックボクシングやってたから気をつけた方がいいよ」
「ちょっと楓、脅かすようなこと言わないでよ。ダイエットしようと思って手遊び程度にやってただけだから」
クスッと笑うと楓はまたすぐ眠ってしまった。
ほんの少しの時間だったけれど、2人の仲の良さを窺える。
哀しくも刑務所での生活も慣れてきてしまった。
でもあの日の記憶は鮮明に覚えている。
私がアイツを殺めようとしたせいで彼と離れ離れになってしまった。
いっそのこと彼のもとへと行こうかなとも思ったけれど、そんなことしたら怒られそう。
『命は時間と同じくらい大切だから雑に扱っちゃいけない。自分と自分の大切な人との時間はとくに大事にしないと』
っていつも言っていたよね。
たまに小説家のようなことをさらっと言うんだから。
ここ最近、なんだか左胸の辺りがキリキリと痛む。
針とか串なんかじゃ比にならない。
薙刀くらい鋭利なもので心臓の奥まで突き刺してくるようなそんな痛み。
それが立て続けにやってくる。
「ちょっと紫苑、大丈夫?」
胸を押さえながら急に項垂れた私を見た朱花が心配してくれる。
切羽詰まったようなその声に起きた楓が私のもとにやってきて、
「ちょっと見せて」
私も朱花も驚いたが、その真剣な眼差しが何かを訴えかけているかのように感じ、言われるがまま服を脱いで胸を見せると左の胸に痼ができていた。
こんなのあったっけ?
楓がその痼を軽く押す。
「痛っ!」
「これいつから?」
真剣な表情で聞いてくる楓。
「覚えてないけど、ここに来るまでにはなかったと思う」
「もしかしたら乳癌の初期症状かもね」
嘘でしょ?
いままでずっと健康的だったのに。
「乳癌は日本人女性の中でもトップの罹患率。だいたい10人に1人の割合くらいで、乳癌になった人の約30%が亡くなってしまうって言われてるの。その数字は年々増加しているわ」
「ちょっと楓、物騒なこと言わないでよ」
朱花の口調が少し荒い気がした。
「まだ確証はないし私も専門家じゃないからわからないけど、もしこのまま痛むなら医療刑務所に行って診てもらった方がいいわ」
「ってか楓、何でそんなに詳しいの?」
「私ね、捕まるまで医療を学んでたの。医師になりたくてね。家庭の事情で学費は自分で稼がないといけなかったんだけど、どうしても払えなくて……」
経済面や家庭の事情で夢を諦めなきゃいけない人は大勢いる。
楓も本当は勉強だけに集中したかったのだと思う。
でも自分で稼がなきゃやっていられないくらい厳しい環境だったのだと思うと、私はすごく恵まれていたことに気づかされた。
私も夢に向かって早く刑務所を出なきゃ。
その気持ちとは裏腹に痛みが激しさを増した。
待って、どうしよう。
まさか私、癌で死ぬの?
しかもここで?
「紫苑を早く病院に……」
朱花の言葉を遮るように楓が言う。
「この刑務所、医療の管理が杜撰で有名なの。ちゃんとした医療を受けられる可能性は極めて低いからあまり期待しない方がいいわ」
「でも、病気かもしれないんだよ?」
朱花がまたも感情的になっている。すごい剣幕だ。
気持ちは嬉しいけれど、楓に言っても仕方ないよ。
後日、看守に言って医療刑務所で診てもらうことができた。
「ステージ4ね」
冷静に無感情に言う女性医師。
医師によると、ステージ4は末期の状態で生存率は低いそうだ。
「とりあえずこれを飲んでおいて。また何かあったら看守経由で教えてちょうだい」
作業のように淡々と話す。
痛み止めってそれだけ?日に日に痛みが増しているんですが。
発熱とか倦怠感とかもあるのにそんな簡易的な。
「あの、入院とかはできないんですか?治療は?」
こちらの態度に反するように、面倒くさそうな顔で冷たい視線を浴びせながら、
「残念だけど、いま病室がいっぱいなの」
何よそれ。
私まだ21歳だよ?
もし神様がいるのならひどすぎない?
そう思いながらも痛みはさらに増していく。
(痛い、痛い……)
それから数日間、痛み止めのおかげで少しは和らいだがそれでもただの気休め程度。
痛みが消えることはなかった。
ーある日、看守に呼び出された。
病室に空きが出たという理由で医療刑務所に移ることが決まった。
「お別れだね」
「短い間だったけど一緒に過ごせて良かった」
朱花と楓に見送られながら刑務所を後にする。
2人とは不思議なくらい仲良くなれた気がする。
上手く表現できないけれど、まるで昔から知っていたかのように心を開けた。
「ありがとう。またね」
そう言って別れた。
医療刑務所に移ってしばらくは痛みもなく完治できるかと期待していた矢先、私の身体は言うことを聞いてくれずにそのまま意識を失った。
🔥
「ソルトー様」
「なんじゃ?」
「この魂なんですが、身元がわかりません」
「身元がわからない?」
「はい。どうやら家族も親族もいないようで、誰の魂か判明できない状況です」
「時間がかかりそうじゃな」
「そうですね」
「ただ身元がわからないとどこに送るべきかわからないからのぅ」
「お調べいたします」
「いつもすまんな」
「お任せください」
「わかるまでは保冷室に保管しておくから、分かり次第身体を顕現させよう」
「承知致しました」
☕️
あの日俺は誰かに刺された……はずだが、記憶が曖昧でちゃんと思い出せない。
思い出そうとすると激しい頭痛がする。
ここはどこだろう?
洞窟の中だろうか?
それにしては天井が見えないくらい高いし、天気が澄んでいる。
となるとここは黄泉の国?
いや、そんなものはないはず。
宇宙のように広く暗いこの空間にポツンとある踊り場に立ちながら状況を理解しようとするが全然しっくりこない。
何かを叩く音や何かが燃える音が微かに聞こえてくる。
右上の方を見ると、そこには長い階段がある。何かに形容するなら万里の長城といったところだろうか。
永遠に続くのではないかというくらい先の見えない階段の果てには一体何があるのだろうか?
左側を見下ろすと段差の激しい階段があり、遥か下から深紅に燃える光のようなものが見えるが、少し顔を覗かせただけで熱さが肌を燃やしにかかってくる。
踏み外して落っこちたら一瞬にして燃え尽きてしまいそうな温度だ。
正面には離れ小島のようなものがいくつか見える。
しかしそこに行くことができるのは空を飛べるものか魔法使いだけだろう。
走り幅跳びの世界記録保持者でも全く届かないくらい遠くにある。
仮に渡れたとして、その先には一体何があるのだろうか?
光の当たらない、道の見えないその先はブラックホールに似た暗闇の世界なのか、それとも行き止まりなのか見当もつかなかった。
そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が聳え立っていた。
巨大なダイナマイトでも破壊することができないような高い壁。
行き先は2つ。
果てなく続く階段を登っていくのか、それとも燃えるような熱さに耐えながら降っていくのか。
壁に寄りかかり、腕を組みながら考えていると、どこからともなく嗄れた声が聞こえてきた。
「ここは、プルガトリウムじゃ」
声の方を向くと、白衣を着た老人が両腕を後ろに組みながら立っていた。
その老人は髪も髭も白く、その長さで目が隠れていてよく見えない。
ってかいつ現れた。
さっきまで人なんていなかったぞ。
「プルガトリウムってことは煉獄?」
「そうじゃ」
「煉獄ってことは爺さん元鬼殺隊?」
「鬼殺隊?何の話じゃ?」
「いえ、何でもないです」
変な空気に耐え切れず敬語になってしまった。
そういえばこの前煉獄について書かれている本を読んだことがある。
『人は何かしらの罪を背負って生きていく。例外を抜きにして。死後はその罪を償わなければならない。この煉獄の地で肉体を焼き、魂を浄化することで真の天国へと行ける』
胡散臭い内容だったから逆に覚えていたが、まさかな。
「死者の魂を浄化するために送られてくる場所だろ?」
「簡単に言うとそういうことじゃ」
待てよ。本当にここが煉獄なら、俺はすでに死んでいる?
「おい、爺さん」
「爺さんではない。儂はソルトーじゃ」
「ソルト?塩?」
「塩ではない。儂は煉獄選別人のソルトーじゃ」
「なるほどね、だから全身白いのか」
「これは地毛でこの白衣は制服じゃ」
「制服ってことは雇われてるってことだよな?ちなみに給料良いの?ってか何歳?」
「そんなことはどうでも良いじゃろう」
「だな。話が進まねぇから話を戻そうぜ」
「お主が脱線させたんじゃろうが」
「まぁまぁ」
「なぜお主が煽てる?」
「まぁまぁ」
「馬鹿にしとるじゃろ?」
「それより、煉獄選別人って何?」
「まったく、最近の若いもんは……もうよい。儂はこの煉獄から縁国と地獄へ振り分けるために送られた使者じゃよ。地上に戻ろうとするものを止めたり、魂の浄化のためにマグマの火口に飛び込むのを後押ししたりするのが仕事じゃ」
地獄はわかるが縁国ってなんだ?
どんな世界なのか想像もつかなかった。
「なるほど。じゃあ塩爺、俺は死んだからこの煉獄にいるんだよな?」
「勝手にあだ名をつけるでない」
「まぁいいじゃん。俺と塩爺の仲だし」
「お主、絡みづらいのう」
「で、俺はいつ死んだんだ?」
「覚えておらんのか?」
「思い出そうとすると頭痛がする」
「死んだショックによるものじゃろう。ここに送られてきた以上、お主の選択肢は2つ。炎に焼かれて地獄に落ちるか、炎に焼かれて縁国へ行くか」
どっちにしろ焼かれるのかよ。
「ってか縁国ってなんだ?」
そもそもこの空間自体どうも信じ難い。
本当に死んだのなら意識なんてないはずだが。
「縁国とはな……」
塩爺が縁国について語ろうとした瞬間、
「ぐわぁ~!?」
下の方から大きな爆発音のようなものと同時に断末魔の叫びが聞こえてきた。
「またか……」
塩爺の溜め息と同時に火口に向かうと、そこにはミイラの如く黒く焼け焦げた男の死体が浮き出てきた。
グロい……
「この死体はのう、一度縁国へ行ったんじゃがそこで罪を犯してこの煉獄に送られてきたんじゃ。縁国と煉獄では意思や欲望を持った状態でいられるからこういうパターンも少なくない。ただこうなったらもう地獄行き確定じゃが」
「罪って何をしたんだ?」
「縁国でのことは詳しくわからんが、おそらく己の欲望を満たそうと欲に塗れたんじゃろう」
言っている意味がよくわからず怪訝な表情を浮かべていたが塩爺はそのまま続けた。
「ほれ、あそこを見てみ」
塩爺が見上げ指差す先には、先の見えない長い階段がある。
「あの先には一体何が?」
すると、塩爺は前髪を分けて目からビームを発した。
俺は驚きのあまり口を開けたまま硬直した。
塩爺の放ったビームにより、階段の奥が見えるようになった。
そこには大きな扉があった。
「これでよく見えるじゃろう」
その前に聞きたいことががあるんだが。
目からビームって何?どういうこと?
「あんた何者だよ」
「驚くのも無理はない。儂は人間ではないからな。ガハハハ」
いや、どこで笑ってんだよ。
その扉の隙間からは微かに白い光が差し込んでいる。
でもおかげで光の詳細がわかった。
光を放っていたのは鉄の扉だった。
その扉は大人数人がかりでも開けられるくらい大きく固い。
まるで死者をあの世からこの世へと還せるのではないかと思わせるような残酷で冷徹な光。
死者からしたらあまりに罪深い扉だ。
その扉をこじ開けようとしている死者がいる。
それを止めにかかる数人の煉獄選別人たち。
「ああやって生き返りをしようとするものが多くてな。儂ら選別人も手を焼いているんじゃよ」
「そのビームでなんとかなんねぇの?」
「儂らはあくまで死者をこのマグマに飛び込ませるために送られた存在。自らの意思で飛び込まないと魂の浄化をすることはできんのじゃ」
なんか面倒くさい設定だな。
「あの扉は地上とこの煉獄をつなぐ唯一の扉。死者の魂のみが居られる場所。もちろんこちらから扉を開けることはできん」
「待ってくれ。こっちから開けることができないならあんたら選別人たちがわざわざ止めに入る必要なくないか?」
「これを見るんじゃ」
そう言うと塩爺は目から光を放ち、目の前に大きなスクリーンを映し出した。
この爺さん、マジで何者だよ。
スクリーンには俺が映っている。
誰かの部屋で誰かに刺されている。
背後には若い男がいて、俺の前で慟哭している女性がいる。
俺以外は薄くモザイクがかかっていてよく見えない。
その映像は俺の脳内を強く刺激した。
「これはお主の死ぬ直前の映像じゃ」
俺の今際の際?
「……てくれ」
「何じゃ?」
「消してくれ」
頭が痛い。
気分も優れない。
この映像は俺にとってどう受け止めて良いかわからないものだと直感で感じた。
「煉獄に来たものにはこうして自身の死の瞬間を見せて死んだことを実感してもらっておるんじゃが、それでも抗うものが多くてのう。仕方なしに止めていると言うわけじゃ」
「でも何であんたらが死ぬ瞬間なんて映せるんだ?」
「我々はそういう存在だからじゃよ」
いや、説明になってないんだが。
爺さんのめちゃくちゃな説明に違う意味で頭痛がしてきた。
「それにしてもお主、大変じゃったの」
「何がだ?」
「お主、ずっと孤独と闘ってきたんじゃな。複雑な家庭環境の中でも強く優しく育ったんじゃからのう」
あんたが何を知ってんだよ。って言おうとしたが否定できなかった。
梨紗のように震災で家族を亡くした人、事故や事件に巻き込まれて大切な人を失ってしまった人はたくさんいる。
その人たちと比べるのは少し違うのかもしれないが、それに近いものを背負ってきた。
でも自分の人生を嘆いても呪っても過去は変わらない。
だから後悔するよりも前進することを選んだ。
「この世界では地球上すべての瞬間が刻まれておる。だから誰がどこでいつ死んだのかがわかるのじゃ」
周囲に大スクリーンのようなものは見当たらない。
どのようにして記録されているのかは不明だったが、さっきの映像を見た限り納得せざるを得ない気もした。
「そんな凄いのが地上にもあったらもっと世界は平和になるのにな」
誰かがこのシステムを作ったのだとしたら、死後の世界ではなく現世に置いてほしいと切に願った。
少しの沈黙の後、ありえないとは思っていたが一応訊いてみた。
「死者が蘇るってことはあるのか?」
「そんなのゲームの世界だけじゃ。それでも実際ここに来ると、もしかしたら蘇れるかもと信じ込むものがおる」
気持ちはわからなくはない。
死んだ感覚がないままいきなりこの異様な空間に放り込まれても頭の整理がつかないし、下手したら夢の中や異世界にいるのではないかと錯覚すら起こしてしまう。
ましてやいきなり現れた爺さんが目からビームを放ったら尚更のこと。
「『ここは死後の世界で生き還るなんてことは決してない。魂を浄化させて天国へと向かうんじゃ』と何度も言ったんじゃがのう。生前と同じ姿で意識もあるから生きていると勘違いするものも少なくないんじゃ。人は団結すると怖いもんじゃな。束になって押し寄せてくる。とくにこういう状況のときは」
急にあなたは死にましたって言われても身も心もある時点で事実を受け止めない人は多いだろう。
扉の前ではいまだに多くの死者が生き還ろうと必死に抵抗している。
「なんか窮鼠猫を噛むというか、窮すれば通ずというか、朱に染まれば赤くなるというか」
「いや、どれも違うぞ」
もがき、足掻き、抗う。
自分の想いを表現する上では大切な行動のひとつ。
これが生きている証拠でもあり、自身の存在表明でもある。
脳が完全に死んでいない限り、自分の死を受け入れるのは容易ではない。
「素朴な疑問だけど、最初から仮死状態にしてここに送ればこんなややこしい問題起きなくないか?」
「大切なのは自らの意志で自らの運命を受け入れることにある。無意識では何の意味も成さない」
たしかに、誰かに強要されたものは本心とは異なることが多い。
結果納得などしていない。
「それに、誰もこんなところに居たくはないじゃろう?」
その通りだ。
誰もこんな暗闇の洞窟の中のようか異空間にいたいとは思わない。
「ここに居続けても何も残らない。残るのは満たされないまま残る魂の抜け殻だけ」
背に腹は変えられないって言うけれど、この煉獄に留まる理由はない。
少なからず俺には。
「賽は投げられたって感じか」
「これを言うなら、匙は投げられたじゃろう」
「そうとも言うな」
「いや、そうとしか言わん」
塩爺は踵を返し、下の方に向かってビームを放った。
すると、微かに見えていた赤い光は火力を増したのか灼熱の炎となって俺の足元にまで燃え上がった。
「おい、爺さん。何してんだよ」
その熱で眼鏡が一瞬で曇り、身体の熱が急上昇していくのがわかる。
熱い。めちゃくちゃ熱い。
これ以上近づくと焼け焦げてしまうレベル。
「あそこに飛び込んだ先に縁国と地獄の分かれ道がある。しかし、自分の意思では選べん。地獄はその名の通り、生前の罪の意識を持った状態で永遠に償い続ける漆黒の世界じゃ」
説明とかいいからまずこの炎をなんとかしてくれ。
このままだと熱くて思考が停止しそうだ。
「縁国というのはこの煉獄と天国の間の世界だと思ってもらえるとわかりやすいじゃろう。純粋無垢な魂のみが行ける無の地、天国。そこに行くまでに意識を数日間持った状態で魂を綺麗にしてもらう。いわば天国へ向かう前の魂の浄化の場所だと思ってもらえれば良い」
「なぜ煉獄を経由する必要がある?最初からその縁国ってところへ送れば早いんじゃ?」
「人は罪深い。嘘、僻み、妬みみ、嫉み、偽善に欺瞞。無意識のうちに軽犯罪を犯していることもある。誰しもそういった感情を持ち、一度はそういった行動をしているんじゃ」
思い当たる節はある。
コンビニやスーパーに家庭のゴミを捨てる。
買い物をせずにトイレだけ使う。
信号無視。
他人の携帯電話の画面を覗き見する。
これらはすべて犯罪になる可能性があるというのを耳にしたことがある。
「もしそれがゼロの可能性があるとするのならば、生まれて間もなく亡くなってしまった赤子のみだろう」
例外を除き、死んだものは一度この煉獄に集められ、そこから縁国に行くか地獄に落ちるか振り分けられているんだろう。
「煉獄の炎を浴びただけでは完全には消えん場合がある。とくに生前への思いが強いものはな」
「ここにいまから飛び込めと?」
「そうじゃ」
「拒否したらどうなる?」
「屍の魂となってこの世界に漂い続けることになる」
こんなわけのわからない世界にいたいわけがない。
飛び込む決意が出ないまま正面に見える離れ小島を指差す。
「あの先には一体何が?」
「知らなくて良い」
何か知られたくないものでもあるのか、爺さんが急に冷たくなった。
「何で?」
「資格がないからじゃ」
「資格?運転免許なら持ってるぞ?」
「そうではない。あそこは条件を満たした限られたものしか行けんのじゃ」
「なるほど。目からビーム出せるようにならないとダメってことか」
「そうではない。お主は行く必要のない場所じゃ」
「どういう意味だ?」
「そんなことより、お主には会わねばならん人がおるんじゃろう?」
そう、俺には会わなきゃいけない人がいた。
その人に直接会って確かめたいことがあった。
でもなぜか顔も声も名前も思い出せない。
強く思い出そうとすると激しい頭痛がする。
熱さも重なり、頭を抑えながらその場に蹲る。
「おい、若僧。大丈夫か?」
「……あ、あぁ」
駄目だ。その子を思い出すことがどうしてもできない。
「爺さん、頭痛薬持ってないか?」
「そんなものはない。死人には必要ないじゃろう」
そもそも死んでいるのに頭痛がするって何なんだよ。
「じゃあ水は?」
「ビームを出して楽しませることならできるぞ」
こんなときに軽口を叩く爺さんに一瞬殺意が芽生え睨めつけた。
「冗談じゃ、ほれ」
どこからともなく出てきた水を背中越しに渡された。
一口飲んだら少し楽になった。
しばらくして頭痛も治まってきたところで質問をする。
「塩爺はこの仕事長いのか?」
「儂らはここを管理するために作られた存在だから他の世界のことはよく知らん。もう何百年、何千年と同じ景色の中におる。最近は腰が痛くなることも増えてきてな。さすがにガタが来ているのを感じざるを得んよ。そろそろ潮時かもな、塩だけに」
再び一瞬だけ殺意が芽生えた。
塩爺が横目で反応を求めてきたが、つまらなすぎて無視した。
「まぁ儂がダメになってもすぐに新しいものが送られてくるじゃろうて」
淡々と話すその口調からは何の感情も感じなかった。
長い髪に覆われた瞳を確認することはできなかったが、きっと無表情なんだと思う。
使命感や達成感もなく、ただ業務としてこなすことだけを命じられた存在。それが彼ら煉獄選別人。
結局、縁国という世界もこの煉獄のこともよくわからないままだったが、ここに居続けても何も変わらないことだけはわかった。
熱気で曇っていた眼鏡を拭き、深呼吸をする。
程なくしてマグマに飛び込んだ。
🍦
ここはどこだろう?
広くて暗くて少し不気味な踊り場に立っていた。
右上には長い階段があり、左下には段差の急な階段がある。
そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が聳え立っていた。
どっちに行くか迷っていたとき、ソルトーさんに出会った。
自己紹介もせず出会って早々私に見せてきた不思議な映像。
ーこれ、私?
お通夜に並ぶ多くの人。
真ん中には破顔した私の遺影があり、その周りには喪服姿の家族や親族がいた。
あれは、東狐姐さん。
その前には2人のお子さんたちの姿が見える。
姐さんはハンカチで口元を抑えながら泣くのを堪えていたけれど、子供たちは空気など関係ないかのように戯れ合っている。
すぐ近くにはクラスメイトやKAWAHARAのメンバーも集まっている。
そこに1人見たことのある男性がいた。
あの人ってたしか……新宿のレストランにいた酒匂さん。
里帆っちの腕の中には小さな嬰児が静かに眠っていて、泣きじゃくる彼女の背中を優しく摩っている。
そっか、この子は2人の子なんだ。
里帆っち、赤ちゃん産んでいたんだね。
でも一番驚いたのはお姉ちゃん。
長年一緒にいたけれど、こんなに泣く姿は見たことがない。
過呼吸になるほどボロボロと泣いている。
みんな洪水のように滂沱しながら私の好きだった曲を挽歌として歌ってくれている。
私が一番好きだった曲、知ってくれていたんだ。
その気持ちが嬉しくて貰い泣きしそうになる。
私、死んじゃったんだ。
もう会うことはできない。
会いたいと思う人がいてもその想いが通じることはない。
「お主はこの先のバウンダリー・フォグを抜けなさい」
煉獄で立ちすくむ私にソルトーさんはそう言った。
はじめて会った人の意味不明な言葉をなぜ素直に信じたのかは自分でもわからない。
でも、きっと良いことが待っている。
少なくともマイナスにはならない。
根拠はないけれどそんな気がした。
「そこのマグマで心身を浄化するんじゃ」
その言葉に淀みを感じることはなく、何かに導かれるように素直に飛び込んだ。
熱いとか痛いとかの感覚よりも何かが浄化されていく感覚だった。
ー気がつくと濃霧の前に立っていた。
これがバウンダリー・フォグ?
霧の境界ということはこの先に何かがあるということ?
後ろを振り向くと、さっきまでいた踊り場が見える。
どうやって渡ってきたかなんて見当もつかないけれど、戻る道はなかった。
霧の境界を抜けた先には工場のようなものがあった。
その中はやけに広い。
空港のターミナルほどの広さを誇るそこには無数の棺桶が綺麗に並べられていて、無表情に動き回るスタッフらしき人たちが淡々と作業をしている。
いまとなってわかったことだけれど、彼らは涅槃師候補(生前に罪を犯したものが改悛し、そのまま亡くなったものにのみ与えられる贖罪の権利を得た存在)を涅槃師にすべく開発されたオートマトンたち。
適したものは正式な涅槃師となり、縁国に送られ、適さないものは棺桶から出ることなくそのまま地獄へ堕とされる。
マグマに焼かれた際に生前の罪を燃やし尽くし、改悛できるかどうかで決まるらしい。
そういえばこの前、先輩の涅槃師にこんなこと言われたっけ。
「きみも煉獄の炎に焼かれてきたんだろ?あれめっちゃあっちいよな。実際はほんの数秒らしいけど、体感は何十分にも感じるくらい熱かった。あのときに雑念や邪念があったり、改悛への強い意識がないとそのまま地獄へ堕ちることもあるらしいぞ」
そうだったんだ。
身体が焼かれているときは熱くて何も考えられなかったけれど、彼に対する贖罪の意識は煉獄でも抱き続けていたのは間違いない。
ーこうして涅槃師になってから多くの人を担当して浄化させてきた。
私たちは対象者の魂を浄化させるために存在する元人間。
生前の名前を名乗ることは禁じられ、公私混同することも禁じられた。
しかし、これが彼ともう一度会うための唯一の道。
大好きだった人を殺してしまった罪は二度と消えることはない。
それでも会いたいと願ってしまう。
もう一度だけ彼の声を聞きたい。
笑顔を見たい。
ううん、横顔を見られるだけでいい。
だって彼は私のことを恨んでいるから。
未来を奪った私に会う資格なんてないのに……