ジメジメした空気が肌に張り付く、三十度越えの熱帯夜。
何気なく見上げれば、黒い空に不気味なくらいか細い月が笑っていた。
「……三日月より細いのって、二日月、って言うんだっけ」
最近空なんて気にしていなかったからわからないけれど、なんとなく、明日は満ちずに新月になって消える予感がした。
まるで、私の気持ちみたいに。
無性に心細くなって、ひとりでいるのがいたたまれなくなった。
気づいたら、私は彼のアドレスをタップしていた。
心のどこかで分かっていたはずなのに。
一番頼ってはいけない相手だと。
モノトーンでまとめられた部屋は、急に来たにもかかわらずきれいに整頓されている。
元々物が少ないというのもあるのかもしれない。
放っておくとすぐに漫画や洋服で散らかってしまう壱星の部屋とは大違いだ。
なんだか落ち着かなくて、ローテーブルの脇にちょこんと正座をした。
キッチンからつまみのスナック菓子を持ってきてくれた咲弥くんは、私を見て苦笑いを浮かべる。
「ソファに座ればいいのに」
「ううん、こっちのほうがいいの」
「壱星がいないから遠慮してるの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
遠慮というより緊張しているんだ、今さら。
壱星と一緒にこの部屋に来たことはあるけれど、ひとりで来るのは初めてだから。
それに、顔を合わせること自体がもう数ヶ月ぶり。
大学は違うし、私や壱星とは住んでいる沿線も離れているから、そう会う機会はない。
思えば、知り合ってから今までふたりきりで会ったこともない。
後ろめたい気持ちがないと言ったら嘘になる。
それでも咲弥くんに縋りたかった。
どうして咲弥くんだったのか。それはあまり考えたくない。
咲弥くんはテーブルの角を挟んで座り、あぐらをかく。
大学でサッカーサークルに入っているという彼は、炎天下での練習で肌がこんがり焼けている。
壱星は部活もサークルもしていない上にインドア派だから、ふたりが並んだらオセロみたいだと思う。
缶ビールのタブをそれぞれ開けると、ぷしゅ、と気持ちのいい音がした。
「美南ちゃん、気使って買ってこなくてもよかったのに。うちにもビールくらいあるし」
「お邪魔させてもらうんだから、手土産くらいないと。おつまみ忘れちゃったけど」
「大丈夫。ウチはつまみの品ぞろえ豊富だから」
笑いながら、「乾杯」と軽く缶をぶつけ合う。
缶を傾ければ、からからに渇いていた喉に爽快な苦味が落ちた。
真夏のビールほどおいしいものはない。
初めてビールを飲んだときは、どうしてこんな不味いものをみんな飲みたがるんだろうと思っていたのに、不思議だ。
多すぎるくらいの一口飲んで息を吐いたところで、咲弥くんが口火を切った。
「で、壱星と喧嘩でもしたの?」
「……うん」
目を合わせられなくて、ビールの缶に目を落としたまま小さく答えた。
咲弥くんのアドレスは壱星を通じて知っていたけれど、直接連絡を取ったことは今まで一度もない。
だから、『これから行ってもいい?』なんてメッセージがいきなり来たら、壱星に関することだと察するのは当然だろう。
「原因はなに?」
「……カレー」
「は?カレー?」
咲弥くんは突飛な声を上げ、訝し気に首を傾げる。
「甘口派か辛口派か、みたいな?」
「ううん、もっとどうでもいいこと」
「カレーの味よりどうでもいいことって、この世の中にあるんだ」
思わず噴き出した。
カレーは甘口か辛口か。目玉焼きには醤油かソースか。
そんな微笑ましい揉め事ならどんなによかっただろう。
私たちも、遠い昔にそんなやりとりをした記憶があるけれど。
私と壱星は高校二年の夏に付き合い始め、丸四年になる。
大学進学のために上京し、それぞれ一人暮らしを始めたけれど、すぐに通学の便がいい壱星の部屋で半同棲状態になった。
何をするのも自由なモラトリアムに浮かれ、ダラダラ一緒にいる生活を続けていたのがよくなかったんだ。
いつしか外へデートに出かけることも、感謝の気持ちを伝えることも、愛の言葉を口にすることも少なくなっていった。
そういう些細なことが積もり積もって、気持ちがすり減っていたのだと思う。
今夜、いつものようにバイト帰りに壱星のアパートへ行くと、夕食に食べたであろうカレーの皿がキッチンのシンクに置きっぱなしになっていた。
それを見て心底げんなりした。
今日はシフトに入っていた子が急に休んだため忙しく、最後は溜まった食器を嫌というほど洗ってきたからだ。
「お疲れさま」とリビングに入ると、壱星は机でパソコンを打ちながら「お疲れ」と目も合わせずに言う。
いつものことなのに、今日はそれが私の気持ちを荒ませた。
「お皿くらいすぐ洗いなよ。蒸し暑いんだから、虫がわいちゃうよ」
「レポート終わらないんだもん。あとでやるよ」
「皿洗いなんて一瞬で終わるでしょ?そういうズボラなところ、全然直らないね」
壱星がポンとエンターキーを乱暴に叩き、険しい顔でこちらを見た。
「別にいつやったっていいだろ?美南に洗えって言ってるわけじゃないし」
「私が来るタイミングでこれみよがしに置いてあったら、洗えってことだと思うじゃない」
口調が強くなった私に、壱星は苛立ちを隠さず深いため息を吐き、パソコンに向き直ってまたキーを打ち始めた。
「虫が湧くのが嫌なら来なくていいよ。レポートに集中したいから邪魔しないで」
すり減っていた気持ちが、ぷつりと切れた音がした。
来なくていい?邪魔って何?
こういう時、なんだかんだでいつも私が洗い物をすることくらい四年も付き合ってるんだからわかるでしょう?
壱星だってそれを期待してたんでしょう?
湧き上がってくる不満を言葉にするのももう馬鹿らしくなってくる。
全てがどうでもよくなって、何も言わずに踵を返して部屋をあとにした。
それが、ほんの一時間前の話。
「終わらせ方が、わからないや」
呟いた声は、笑ってしまうくらい疲弊していた。
「終わらせたいと思ってるの?」
「……うん、多分」
「そっか」
咲弥くんは腕を組んでうーんと唸る。
はっきりとわかっているのは、今の状態を続けてもしんどいだけだということ。
けれど、『別れよう』のたった一言が言えない。
面倒くさがりな壱星と、世話焼きな私。
相性ぴったりなカップルだね、と周囲の友人たちからは言われていたし、私自身もそう思っていた。
私がいなくなったら、壱星の部屋は散らかりっぱなしのゴミ屋敷になるかもしれない。
壱星は駄目になってしまうかもしれない。
驕りかもしれないけれど、そんなことを考えて二の足を踏んでしまう。
これはまだ恋と呼べるものなのか。
それとも、長年付き合った情でしかないのか。
今抱えている思いに、どんな名前をつけるのが適切なのかわからない。
「付き合い始めるときより、別れるときのほうが労力使うかもね。付き合いが長いと余計にさ」
一点を見つめながらため息を吐くものだから、妙にリアルに感じた。
そうやって別れた経験があるのかな。
「咲弥くん、今は彼女いないんだったよね」
「今はって、もう二年もいないよ」
「そうなの?モテそうなのに」
「全然だよ。サッカーは男ばっかりだし、ゼミとかバイトでもあんまり女の子とは話さないし」
なんだか意外だ。
他高に通っていた咲弥くんを壱星が初めて紹介してくれたとき、明るくて親しみやすいひとだと思った。
人見知りするタイプにも見えないし、決して硬派という感じではないのに。
腑に落ちずにいると、ビールを煽った咲弥くんがテーブルに空の缶を置き「まあ、好きな子はいるんだけどね」と言いながら立ち上がった。
……いるんだ、好きな子。
胸の奥がチクンと痛んだ。
「中身まだ入ってる?飲めそうなら美南ちゃんの分も持ってくるよ」
「うん、ありがとう」
咲弥くんは微笑んでキッチンのほうへと去っていく。
感じた胸の痛みを振り切るように、残りを一気に飲み干した。
二本目のビールを飲みながら他愛のない話をした。
大学で履修している科目の話。サークルやバイトの話。
アルコールも手伝って、さっきまでささくれ立っていた気持ちが嘘みたいに、声をあげて笑える自分がいる。
最近、壱星と一緒にいてこんなに笑った記憶はない。
やっぱりすり減っていたんだと、もしかしたら苦痛にすら思っていたのかもしれないと思う。
スナック菓子がちょうどなくなる頃には、三本目のビールの中身はずいぶん軽くなっていた。
缶を揺らすと、心許なくちゃぷちゃぷと高い音が鳴る。
壁掛け時計に目をやれば、23時半を指している。
終電まではまだ余裕の時間だ。
冷蔵庫にもうビールの在庫はないみたいだから、もっとゆっくり飲めばよかったかな。
そうしたら、もう少しここにいる理由ができたのに。
こんなことを考えるなんて、私はそうとう酔っているんだろうか。
いや、そもそもここに来ようと思った時点ですでに可笑しかったんだ。
どうして私はこのひとに連絡してしまったんだろう。
どうして私は……好きな子がいると知って、胸が痛くなったんだろう。
考え疲れたのか酔いが回ってきたのか、大きなあくびが出て思わず口元を覆う。
「眠いならベッドで寝てていいよ。俺、ソファで寝るから」
予想外の言葉に、すぐに反応できなかった。
もっとここにいたいと思ったくせに、寝てもいいと言われるとどうしていいのかわからない。
けれど咲弥くんに下心がないのは、さっきまでと変わらないトーンと平然とした表情から感じ取れる。
壱星に悪いとは思う。けれど……
帰りたくない。ひとりでいたくない。
……もうちょっと、咲弥くんと一緒にいたい。
「……ありがと。じゃあ借りるね」
「うん、どうぞ」
シングルベッドに横になり夏掛けを胸までかけると、清潔な柔軟剤の匂いがふわりと香った。
几帳面な咲弥くんは、きっと洗濯もマメにしているんだろう。
私がやってあげなければ二週間もシーツを洗わない壱星とは正反対だ。
三本目を飲み干したらしい咲弥くんが立ち上がる気配と、ナイロン袋の音がした。
テーブルのほうを見れば、咲弥くんがビールやスナック菓子の袋を片付けてくれている。
慌てて上体を起こした。
「ごめん、私やるよ」
「いいよ、寝てな。すぐ終わるし」
自己嫌悪でため息が漏れた。
壱星に片付けろなんて言ったくせに、私もひとの家に来ておいて片付けもしないで寝ようとしていたなんて。
それなのに、咲弥くんは嫌な顔ひとつしない。
さっきだって、多分気を使って壱星の話題は避けてくれていたし、たくさん私を笑わせようとしてくれていた。
……やさしいひとなんだ、とても。
「ねえ」
咲弥くんはゴミ箱を縛りながら「ん?」と短く語尾を上げる。
その響きがあまりにもやわらかくて、気が緩んだ。
「隣で寝て」
咲弥くんの手が止まった。
空気が変わったほんの数秒、沈黙に耐えられなくなったのは私のほう。
「冗談だよ、ごめん」
再び横になり、テーブルから背を向けた。
何を考えているんだろう、私。
こんなの、私と浮気してくださいって言っているようなものじゃない。
恥ずかしくて夏掛けを口元まで引き上げると、「電気消すよ」とパッと視界が暗くなった。
足音が近づいてきてベッドが軋んだと思ったら、背中に温い気配を感じた。
微かに触れた固い感触から、咲弥くんが私に背を向けて横になっているのがわかる。
「シングルにふたりは狭いなあ」
後ろから苦笑いが聞こえた。
狭いと感じるのは当然だ。
多分咲弥くんは、私に触れないように少し距離を空けてくれている。
「ごめん。寝づらいよね」
「いや、大丈夫」
「身体はみ出てるんじゃない?」
「ちょっとね。でも、元々寝相悪いから平気」
寝相がどうとかいう問題じゃないんだけど、と言いかけてやめた。
隣で寝てほしいと言ったのは私なのに、そんなことを言ったら追い出そうとしているみたいだ。
会話が途切れ、部屋の中がしんと静まり返る。
タイマーになっていたエアコンが切れ、早く眠れと告げるけれど、さっきまであくびをしていたくせに眠れる気がしない。
狭いスペースで寝返りを打つと、咲弥くんの広い背中が目に映った。
「……まだ起きてる?」
「起きてるよ」
小声で訊ねると、なぜか咲弥くんも小声で返してきて笑ってしまった。
「ねえ、冗談だけど」
「なに?」
「手、握っててほしい」
冗談だけど、と前置きして保険をかけたつもりが、心臓は面白いくらいに早鐘を打ち始める。
咲弥くんはゆっくりと寝返りを打ってこちらを見た。
だいぶ酔ってるね、なんて笑ってくれればいいと思ったけれど、彼は何も言わずに右手で私の左手を握った。
控えめに、そっと指を絡めて。
充足感と胸の奥が甘く疼く感覚が、ぐちゃぐちゃだった頭の中をクリアにしていく。
――気づいてしまった。
壱星にはもう感じないものを、咲弥くんがくれることに。
「……変なお願いばっかりしてごめんね」
「謝らないでよ。弱ってるんでしょ。今日だけこうしててあげるよ」
「……今日だけ、なんだ」
「ん?なんか言った?」
「ううん、なんでもない」
私は馬鹿だ。
聞こえないように呟いたのに、聞こえていなかったことを残念に思っている自分がいる。
聞こえていても、咲弥くんを困惑させてしまうだけなのに。
少しして、咲弥くんがぽつりと口を開く。
「……だけ、だよ」
意味を取り損ねて咲弥くんを見ると、彼は眉尻を下げて表情を緩める。
「壊したくないからさ」
言葉の意味を瞬時に理解して、羞恥で顔が熱くなった。
もしも今夜私との間に何かあれば、咲弥くんと壱星の仲に亀裂が入る。
雰囲気に酔って自分のことばかり考えていた私が、とても浅はかで愚かに思えた。
「わかってるよ。冗談だってば」
笑い混じりに明るく答えた。
そう、冗談にしてしまえばいいんだ。
今咲弥くんに対して感じている気持ちも、全部。