トリコロールが尾翼に踊る白い飛行機が、東京中央国際空港に降り立ったのは、11時のことだった。
 最後列の窓側の席に座っていた少年の、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳には、12時間の長旅の疲れは見えない。年に1回だけながら、日本とフランスを往復するのは、既に10回を超えた。
 トリコロールのシャツにネイビーのUVカットパーカーを羽織り、手には紅い三日月のチャームのブレスレット。最後に降りた、シルバーの外ハネショートヘアの少年は、スマートフォンを開いてイミグレーションに並ぶ。
「着いたよ」
とメッセージを打った少年が取り出したパスポート、それに刻まれた名前はLUNA。

 こうして空港に迎えに行くことは初めてのこと。展望デッキに立つ少女は、最愛の少年を乗せた飛行機が、轟音を立てて着陸する光景に安堵する。
 シンボルと云える、ダークブラウンの肩丈ボブカットを揺らしながら、デニム調のミニスカートとセーラー服、その上からデニムジャケットを羽織った彼女は、オレンジ色のティアドロップのチャームを遇ったブレスレットに一度視線を落とすと、踵を返した。

 到着口の自動ドアが開くと、最愛の少女が見える。
「澪!」
「流雫!」
2つの声が重なり、そして距離が一気に近付いた。

 少年の名前は、宇奈月流雫。流雫と書いてルナと読む。日本人の父とフランス人の母の間に生まれ、ラテン語で月を意味する名前を付けられた。
 パリで生まれた後、フランス西部のレンヌに引っ越し、今は理由有って自分だけ、日本人として帰化した上で日本にいる。両親はレンヌで旅行代理店を営み、多忙な日々を送っている。
 その時に当てられた字は、ルナが生まれた日に因む。パリは雨が降っていて、窓ガラスを雨粒が流れていたことに着想した、と母アスタナ・クラージュは言っている。
 そして今は、故郷フランスからの帰り。2週間ぶりに踏んだ日本の地で、最愛の少女、室堂澪の出迎えを受けた。
 複雑で特殊な経緯で知り合った2人は、今や相思相愛の恋人同士。一言で言えば、互いに安心して背中を預けていられる。
「おかえり、流雫」
「ただいま、澪」
と、微笑みながら言葉を交わした2人は、空港でランチタイムにしようと決めた。レストランフロアへ踵を返そうとする流雫は、しかし立ち止まる。
「流雫?」
と澪が名を呼ぶが、流雫は
「あれ……」
とだけ声に出す。
 ……ブロンドヘアを左右で三つ編みにした少女。青のブラウスに白ケープを羽織っている。恐らくは、2人と同じぐらいの年齢か。
 流雫の席はエコノミークラスだったから、最後に乗る上に機内の最後列。それ故、それより前に乗った全ての人の顔を、一通り見ている。そして、ファーストクラスに座っていて、一瞬だけ目が合った。蒼い瞳が印象的で、それはフライトの半日前に別れた母を思い出させた。
 しかし、その周囲で些細な違和感が漂うことに気付く。
「……待ってて」
とだけ言い残して踵を返す流雫の目に、寸分前までの優しさは無い。それが、端的に今の日本を表している。
 待ってて。そう言われた澪は、しかしその後を追うべく、踵を上げた。

 ……2023年8月、その最後の週末に起きた東京同時多発テロ事件、通称トーキョーアタック。空港と渋谷を標的とした惨劇は、日本の安全神話が最早過去のものである現実を、1億人に突き付けた。
 それは流雫と澪にとっても例外ではないが、特に流雫には今でも忌まわしい記憶として焼き付いている。かつての恋人を殺されたからだ。ただ、それがきっかけで2人は出逢い、今この瞬間が有る。
 人を愛することに戸惑い、ようやく愛することを覚え始めた矢先に襲われた悲しみ。その絶望に沈む僕を救済するために、あの日この世界から切り取られた少女が掛けた、最初で最後の魔法……流雫にはそう思える。

 少女の背後にいる男女の観光客は、折り畳まれたタオルを持っている。ショートヘアの女の方が先に足を速め、距離を狭める。その挙動に流雫は気付いていた。
 人形のように整った少女の顔に、タオルが押し当てられる。声を上げ、その場に崩れる少女。
「誰か!」
その英語ではない言葉に条件反射を示すように、
「待て!!」
と、流雫は声を張り上げた。
 少女から離れた女はそのまま走り去ろうとする、しかし地面を蹴った澪の方が速く、目の前に現れる。
「ちぃっ!!」
大きく舌打ちする女は、咄嗟にショルダーバッグから黒い銃を取り出す。それの動きに反応した澪は、黒いショルダーバッグから、シルバーの銃を取り出した。

 ……トーキョーアタックを機に、日本国民に銃の所持と使用が認められるようになった。条件は、高校生以上。そして、正当防衛が成立する場合にのみ、護身目的であること。
 今では、国民の半数以上が銃を持っている計算になる。だが、テロや凶悪犯罪の抑止力としての手段は、時には犯罪を起こす武器になる。そして、今。
 6発のオートマチック銃と云う統一の仕様だが、銃そのものは3種類から選べる。違いは見た目とサイズと口径だ。そして、澪が持つのは最も小型で軽量のもの。火薬の量も少なく、威力は最も弱いが、反動も小さく扱いやすいのが最大の特徴だ。
「あの子に何をしたの!?」
と澪は問う。その返答は銃声だった。
 大口径特有の爆発音が反響する、しかし標的の少女は倒れない。2人分右を飛び、澪の背後の壁に銃弾が刺さる。そして女が反動で腕を後ろに持って行かれる、その瞬間を刑事の娘は逃さなかった。
「はっ!!」
一気に懐に飛び込んだ澪は、銃身をがら空きの脇腹に叩き付ける。
「ぐっうっ!!」
その呻き声と同時に女が落とした銃を蹴飛ばす澪は、腕を掴んで後ろに回し、後ろ首に銃を突き付ける。
「何をしたの!?答えなさい!!」
睨む目付きでの問いに、返事は無い。一瞬だけずらした澪の視界に、最愛の少年が映る。
 ……流雫の出国直前、澪は彼から銃を預かっていた。銃を持つ資格証さえ有れば、撃たなければ他人の銃に触っても問題無い。澪はガンメタリックの銃身を取り出し、
「流雫!!」
と叫びながら宙に投げた。

 ジャンパーを着た男は、予想外の邪魔者にタオルを投げ捨てる。湿った音を立てた白いフェイスタオルに、少女が近寄る。顔を拭きたい。
「触るな!!」
流雫はフランス語で叫び、同時に飛んできた銃身をビーチフラッグスの要領で掴むと、その流れに乗せてスライドを引き、タオルを銃身で弾く。
「流雫!?」
その様子に澪は驚きの声を上げる。
「澪!バイナリー!!」
流雫は声を張り上げる。その言葉に、澪は一瞬身震いする。それと同時に、女が無理に力を入れ、澪を押し退けて立ち上がった。
「何すんだ!!」
そう叫んだ女が、フェイスタオルに向かう。
 「触るな!!」
そう叫んだ流雫は、咄嗟に女の足下を撃つ。火薬の量は少なく、威力には劣るが静音性に優れる。しかし威嚇は通じず、ついに女がタオルを掴んだ。
「邪魔するな、ガキ!!」
男は言い、大口径の銃を手にする。しかし、流雫は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。それは、銃を向けられたからではない。
 「っ!!」
澪は女の手に銃を向け、撃った。小さな銃声の直後に
「ぎぃぃっ!!」
一際低い声を上げながら、タオルを手放した女はその場に崩れる。銃弾が刺さった手の甲からは地が滴り、手放したタオルが汚れていく。
「てめぇ!!」
男が叫ぶが、流雫は
「洗面所へ!!このままじゃ死ぬ!!」
とだけ叫び返した。その瞬間、女は
「がふっ!!」
と血を吐き、その場に倒れる。
 「……助からない」
そう言った流雫に、澪は足を震わせる。
「澪!!」
そう叫んだ流雫は、仕方なくケープで顔を拭くブロンドヘアの少女に
「離れて!!」
と叫びながら、澪の手を掴んで引っ張る。しかし、ボブカットの少女は力が入らず、その場に崩れる。
「澪……!」
と名を呼びながら抱き寄せ、胸板で最愛の少女の視界をシャットアウトさせる流雫。
 何が起きたか判らない男は
「おい!!」
と叫び、女に近寄る。
 触るな、と流雫が怒鳴る前に、男は女の手を掴んだ。不快な湿り気がその皮膚に触れる。
「やめっ……!!」
叫んだ流雫の声が途切れ、虚しく反響する。……男の発症は、その数秒後だった。
 ……帰国早々、最悪。しかし、自分と澪が無事だったことに、流雫は辛うじて安堵する。そして、謎の少女も。
 半目を開ける少女が視界の端に映るが、その光景にその場で気を失う。騒然とする空港で、流雫は澪の頭を撫でながら、新たな脅威と謎に纏わり付かれる予感を抱いていた。

 空港署に連行されたカップルに
「帰国早々、災難だな」
と声を掛ける中年の刑事は、室堂常願。澪の父親で、テロ専従の刑事として普段は臨海副都心の臨海署にいる。事件の一報を受けて空港へ駆け付けると、愛娘がいたのだ。
「どうして……」
とだけ声を上げる。
 数時間前、リビングでは微笑を絶やさかった一人娘は、今恋人の隣で数時間後に訪れる世界の終わりを知らされたように沈んでいる。
 机の下で手を握る2人の手首を、改めてブレスレットが飾る。3日だけ離れた互いの誕生日プレゼントは、2人にとっての御守りのようなものだ。
 ……それだけで、何が有っても屈しないと誓える。だが、人が悶える様子を目の当たりにするのは、流石にダメージが大きい。
「……バイナリー兵器……」
と流雫は言った。
 バイナリー兵器。猛毒の化学物質の前駆体をそれぞれ持ち運び、犯行直前に混合する。危険物質を安全に持ち運べるメリットが有る。一国の重要人物が暗殺された際にも使用された。
 あの不審なタオルの持ち方から、流雫はそうだと直感した。そして、男女の反応を見る限り当たっていた。
 恐らくは、タオルに塗られたものが何かも知らないまま、ただ何者かの命令のままに犯行に及んだ。そして手に付着した物質が化学反応を起こし、何が何だか判らないまま絶命した。
 澪が銃を撃って手放させたが、それでも手遅れだったほどの即効性を持っていた。あの時、フランス語で叫んでいた少女がタオルで顔を拭いていれば、既に彼女はこの世にいない。
 ……誰でもいいなら、自分も澪も狙われていたって、当然他の人が標的だって不思議ではない。だが、ピンポイントであの少女が狙われた。逆に言えば、狙われるだけの地位が有る。
「彼女、何者なんだ……?」
と流雫は呟く。
 あの場所に居合わせたから、彼女は死ななくて済んだ。だが、自分たちは無関係ではいられなくなった。
「病院で手当を受けているが、命に別状は無い。だが、通常じゃ有り得ない手口で狙われた。……彼女はもうすぐ署に送られてくる。悪いが、同席してやってほしい」
そう言った恋人の父親に、流雫は頷いた。正しくは、頷くしかなかった。

 自分たちの取調が終わり、隣の部屋に入った流雫は、少女と目が合う。1秒、互いの瞳を見つめ合う……何処かで会ったような気がした。しかし、少女は
「近寄るな……!」
と声を上げる。
 怪訝な表情を浮かべた流雫の目に、首のネックレスが映る。チャームは、金と赤の八芒星。……その瞬間、彼女の拒絶の理由が判った。
「……同席は無理だ、澪だけならできるけど」
と言って踵を返した流雫に、澪が頷く。その理由を察したベテラン刑事は、休憩所の場所を教えられた。
 紙コップに注がれたアイスココアを口にする2人。
「……近寄るな、か」
と話を切り出した流雫に、澪が続く。
「あのフランス語?」
ボブカットの少女は、あの三つ編みの少女の態度が引っ掛かっていた。助けた相手を威嚇する態度……誰から見ても異様だと判る。
 「あのネックレスを見れば、仕方ないとは思うよ」
と頷きながら言った少年の言葉に、澪は声を上げる。
「え?」
「……あのネックレス、太陽騎士団のだから」
と流雫は言った。
 太陽騎士団。フランス革命直後、フランスで生まれた宗教団体。創世の女神ソレイエドールを崇める。かつて、この教団が絡む事件に遭遇したことで、一通りどんな組織か、流雫と澪は知っている。
 その教典に出てくる女神のうち、唯一異端なのが破壊の女神テネイベール。悪魔に陵辱された炎の戦女神が産み落とし、最後はソレイエドールのために凄惨な死を遂げる。
 教典に描かれた絵によると、その瞳も紅と蒼のオッドアイ。流雫のそれと同じだった。無論、彼が現代に転生した女神だから……ではなく、単なる偶然に過ぎないのだが。
 そのテネイベールに関する解釈を巡っては、信者同士でも大きな論争にもなっている。
 そして彼女は、破壊の女神を忌むべき存在とする見方の持ち主。そうでなければ、恩人と云うべき流雫へ見せた態度の説明がつかない。
「……もし、彼女が狙われた理由が、信者だとするなら……」
「信者どころか、教団の重要人物……」
と流雫は言う。
 見た目は自分たちとほぼ同世代。それが、国際線のファーストクラスに1人で乗っていた。その時点で普通ではない。そして、普通じゃないから狙われた……。
「流雫に懐けば、色々聞き出すのは簡単だろうけど……」
「拒絶されてるからね……」
そう言った2人は、同時に深く溜め息を吐くと、取調室へ戻ることにした。

 空港島を後にした2人は、渋谷へ向かった。渋谷駅前のハチ公広場、その片隅に慰霊碑が建っている。流雫と澪はその前に立つ。
「美桜」
「美桜さん」
2人は同時に、或る少女の名を口にした。
 欅平美桜。流雫のかつての恋人。同級生と2人で東京に出掛け、渋谷でトーキョーアタックに遭った。その同級生は無事だったが、美桜はほぼ即死だった。
 流雫がその一報を耳にしたのは、空港襲撃の目撃者として連行された、空港島の警察署を出た直後だった。あの狂ったように泣き叫んだ日を、流雫は今でも思い出す。
 澪は夢で、美桜に逢ったことが有る。トーキョーアタックから1年が経とうとしていた日の夜のことだ。
 人の死の上に成り立つ恋愛を喜ぶべきなのか……。流雫を愛していると断言しながらも、その悩みを抱えていた澪を肯定した美桜は、彼女に流雫を託した。
「流雫のこと、頼むよ。澪」
と。その言葉を、澪は鮮明に覚えている。忘れられない、忘れられるワケがない。いや、忘れてはいけない。
 彼女にそう言ってほしい、その願望から生まれた言葉に過ぎないとしても、その言葉が何時も澪を後押しした。だから、今までテロの脅威に屈すること無く戦ってきた。
 ……事有る毎に、2人はこの場所に立つ。そして、美桜に誓う。互いにとっての生きてきた証と生きる希望を、明日からも護ると。
 同時に頷いて、踵を返す2人。不意に、その並んだ背中に微笑む彼女の気配を感じた気がした。

 恋人を地元に残したブロンドヘアの少年は、モンパルナス駅からの直行バスの人混みに、早くも疲労困憊の様相を露わにした。
 ブルターニュ地方の中心都市からTGVに揺られ、バスに乗り換え、漸くロワシーに建てられた巨大空港、シャルル・ド・ゴールまでやって来た。そして数時間後には飛行機に乗る、それも12時間。
 彼がよく知る元フランス人の少年は、その長旅を毎年続けているのだから、それが地味に凄いことだと思い知らされる。
 ブルーの瞳で見上げた、シエルフランスのロゴが並ぶ出発便案内。その中程、東京のスペルに目が止まる。
 ……朝のニュースで、その東京の空港で殺人未遂事件が起きたと報じられていた。彼は無意識に、ルナと名乗る少年にメッセージを入れる。飛行機が定刻通りなら、遭遇している頃だからだ。すぐに返事が返ってきた。
「無事だよ、僕もミオも」
そのフランス語の文字列に安堵したが、しかし空港で白昼堂々と犯行に及ぶ連中には呆れるばかりだ。尤も、自分には無関係な話だが。そう思いながらも、一言毒突かなければ気が済まない。
「相変わらず、厄介な国だな……日本と云うのは」
と。
 キャリーを預ける必要が有る少年は、シエルフランスのカウンターでアプリのデジタル搭乗パスを開く。パリ発東京行き、その下に表示される名は、日本風にはこう読めた。
 アルス・プリュヴィオーズ。

 レンヌの街で生まれ育ったアルスは、太陽騎士団から派生した宗教、血の旅団の信者。そしてルナ……流雫とはレンヌで知り合った。彼が里帰りしている最中の話だ。
 今は、流雫を誰より信頼している。その日本人にとって、アルスは澪の次に、そして男同士としては誰より仲がよい。尤も、流雫の交遊関係そのものが、手で数えきれるほどだが。
 日本に帰る流雫と同じ飛行機でもよかったが、生憎の満席。だから翌日のフライトにせざるを得なかった。
 搭乗ゲート前のベンチに座るアルスは、腕時計に目を向ける。出発まで、あと1時間。この待ち時間が妙に長いことに軽く疲労を感じていると、スマートフォンが鳴った。

 流雫は今日は、澪の家に泊まる。両親も恋人を歓迎している。
 2人きりで過ごす夜。しかし、昼間のことを忘れることはできない。
「あの少女……誰だったんだろ……?」
と言った澪に、スマートフォンを握った流雫は、時計を見て言った。
「専門家に話してみようか」

 「アリス・メスィドール」
空港のベンチでコーラを飲んでいた、流雫曰く専門家は、通話相手にそう答えた。しかし、先に一言言わなければ気が済まない。
「どうして日本はこうも危険なんだよ?」
と。
 「僕と同世代の少女で、太陽騎士団の上の立場で、フランス人。それらしい人、いる?」
と流雫から投げ掛けられた問いに、アルスは数秒もしないうちに誰を指しているか判った。
 アリス・メスィドール。太陽騎士団の西部教会を統べる名家の長女として、レンヌで生まれ育った。流雫や澪、アルスと同い年。学校には通わなかったが、自宅で英才教育を受けていた。だから、同い年ながらアルスやアリシアは会ったことが無い。
 そのメスィドール家は今では総司祭となり、アリスは聖女として崇められている。
 「……何か気になるのか?」
そう問われた流雫は、簡単に経緯を説明する。その滑らかなフランス語は、彼のルーツがフランスであることを象徴していた。
「お前への態度は、仕方あるまい。感心しないがな」
とアルスは言った。だが、それより引っ掛かることが有る。そもそも……。
「金色と赤のネックレス……?まさか、聖女メスィドールが日本にいるのか!?」
 教団の上級職だけが身に着けられるネックレス、その色で階級が判る。そして赤は、最上級……総司祭一家の証しだった。
 ニュースでは、犯人はその場で毒に接触してほぼ即死だったと報じられている。しかし、その被害者については報道されていない。だから、聖女が狙われたことは今流雫からの連絡で初めて知った。このフランス人にとっては、不可解でしかない。
 「……じゃあ、先刻見たのは誰だ……!?」
と言ったアルスに、流雫は
「……え?」
と声を上げた。
 アルスは先刻、上級会員専用ラウンジに向かうアリスとすれ違った。スーツを着た男を2人、秘書兼ボディーガードとして連れていた。それも、確かに聖女の証のネックレスを着けていた。
 ……メスィドール家の娘はアリス1人だけ。1歳下に弟がいる。弟が変装して来日することは、まず有り得ない。そうする理由が無いからだ。
「……誰なんだよ……」
とアルスは呟く。彼の困惑は、流雫にとっても珍しいことだった。
 不意にフランス人の耳に、東京行きの搭乗案内開始のアナウンスが聞こえた。
「……今から飛行機だ。明日、東京でな」
と言ったアルスに、流雫は
「うん、明日ね」
と滑らかなフランス語で返し、スマートフォンを耳から離し、思わず口に出す。
「……聖女が2人……?」
 澪はその声に、先刻のフランス語の会話の中身が、僅かながら判った気がした。
「……同じ人が、2人いるってこと……?」
「昼間の少女、アリスと云うらしいんだ。数時間前、アルスも彼女をパリの空港で見てる」
「……聖女って、宗教の最重要人物だよね?影武者だったりして……」
と澪は言った。影武者だとしても疑問は有る。ただ、恋人の部屋で頭を抱えても何かが判明するワケでもない。
「……明日、アルスも来るから、全てはその時かな……?」
と流雫は言った。そう、明日も空港に行くことになっている。それも、出迎えるのは2人だけではない。

 「澪!流雫!」
と2人の名を呼ぶ、ダークブラウンのショートヘアの少女に、澪は
「詩応さん!」
と呼び返して手を挙げた。品川駅で合流した3人は、これから空港へ向かう。
 伏見詩応。名古屋に住む太陽騎士団の信者。同い年の2人とは、彼女の姉の死をきっかけに知り合った。そして、その真相を追って共闘してきた。澪が同性で誰より慕う相手でもある。
 元陸上部で、ボーイッシュな風貌にその名残が有る。デニムパンツにシャツの服装が、そのことを引き立たせていた。
「流雫も相変わらずだね」
「伏見さんも」
と言葉を交わした2人に、澪は微笑む。
 消える命を看取ることしかできなかったと嘆く流雫は、詩応を苛立たせた。吹っ切れたと思っていたかった悲しみを、吹っ切れていない……その現実を突き付けたからだ。
 流雫に何時かの自分を見ているようで、だから流雫のことは苦手だった。ただそれも、次第に相容れるようになる。そして今は、普通に話せるだけの間柄だ。それが、シルバーヘアの少年の恋人にとって喜ばしい。
「それじゃあ、行く?」
と流雫は言った。

 パリからの飛行機は、30分遅れで着いた。それでも、1万キロ近い長距離国際線なら遅れなかった方だと、流雫は思っている。
 見覚えが有るブロンドヘアの少年を
「アルス!」
と最初に呼んだのは流雫だった。
「ルナ!」
と名を呼び返して近付くアルスに、流雫は
「3日ぶりだね」
と声を弾ませる。普段滅多に会えない間柄だから、3日ぶりでも嬉しい。
 その様子を、澪と詩応は微笑みながら見つめる。何だかんだで、流雫も年頃の少年なのだと。
「プリンセスと騎士様か」
アルスが英語で言うと、口角を上げる詩応の隣で澪は
「プリ……」
とだけ呟きながら、一気に顔を真っ赤にする。
 ……そうだ、アルスは人を撃沈させるのが得意だった。澪はそのことを忘れていた。
 自分から恋人だの何だのと言うのは平気だが、他人から言われることに耐性が全く無い。そして、集まった3人全員がスナイパーだ。そう、最愛の流雫でさえも。
 「ところで、シノは何故トーキョーへ?」
とアルスは問う。撃沈したままの澪の隣で、詩応は答えた。
「聖女様が来日すると云うから」
 今日と明日、聖女アリス・メスィドールが東京で演説するのだ。自分と同い年で教団の最高峰の地位に立つ者を一目見たい、と云う興味本位から、詩応は1人早朝の高速バスで東京へ出向いた。

 血の旅団は、太陽騎士団の過激派をルーツとする。
 流雫の人生を大きく変えたパリクリスマス同時多発テロ、通称ノエル・ド・アンフェルを太陽騎士団の仕業に見せ掛けて引き起こした。
 今はパンデミックによる国家の危機を機に、祖国フランスのためにと互いに手を取り合っているが、その歩み寄りを批判する者は互いに少なくない。
 詩応はアルスに最初こそ敵意を向けたが、彼に力を貸してほしいと頼まれ、その手を取った。真の敵が同じで、その思惑を潰すことが日本のため、そう言われると、詩応に選択肢は無かった。
 そして今は真の敵と戦った者同士、蟠りは無い。それどころか、互いに味方だ。
「昨日僕が此処で見たのは聖女」
「俺がド・ゴールで見たのも聖女」
その2人の男子が続くフランス語に、怪訝な表情を浮かべながら詩応が英語で
「は?……どっちかが見間違いなんじゃ?」
と被せる。
 ……見間違い。ネックレスの件は別として、それが最も簡単な理由だ。ただ、どうしてもそうは思えない。流雫は
「そう思いたいけどね……」
と答えるのが精一杯だった。

 4人は空港のフードコートで手頃なランチを堪能した後、渋谷へ向かった。詩応だけが出席できる大教会でのイベントの前に、4人で行きたい場所が有ったからだ。
 流雫がアルスに、東京のトゥール・モンパルナスと紹介した地上230メートルの屋外展望台、シブヤソラ。流雫と澪が東京の夜景と云う名のイルミネーションに祝福されながら、恋人同士として結ばれた場所。それだけに、このカップルにとっては一種の聖地のようなものだった。
 大都会の景色を見下ろす4人、その右端にいるアルスは
「シノ」
と隣のショートヘアの少女を誘い、2人から離れる。
 ……例えるなら、静かに灯り続ける、しかし何が有っても消えないキャンドルの火。流雫と澪の恋愛を火に例えるとそうなる。詩応もアルスも、その点は同じだった。2人を見ているだけで、何か微笑ましく羨ましくなる。
 だがそれより、アルスは彼女に話さなければならないことが有る。
「……何だい?」
と、英語で詩応が話を切り出した。
 「先刻の話だ。……俺とルナが見たのは確かに聖女だ。どっちも、あの一家だけのネックレスを着けてたからな」
「護衛がいなかったなら、ルナが見たのが偽者じゃ?ネックレスも精巧な贋作……」
「そうだとして、何故そうする必要が有る?しかも日本に1人でいるんだ」
と問うたアルスに、詩応は何も言えなかった。
 普通じゃ有り得ないから疑いたい、しかし見間違いなんかではないことは、2人の表情から判る。
「もし影武者なら、同じ国にいる必要が無い。日本にいるべき理由が有り、片方がスピーチしている裏で、もう片方が本来の目的を果たそうとしている……、それなら説明が付くがな」
「だが、本来の目的が何にせよ、あの装束じゃ目立つ。まるで自分を狙えと言っているかのようだ」
と続けたアルスに、詩応は
「……何が、どうなって……」
と困惑の表情を露わにする。数秒だけ言うのを躊躇ったが、アルスは口にした。
「日本ではどう伝わっているか知らないが、太陽騎士団は、今フランスではちょっとした問題になっている。その影響だとしても不思議じゃない」
 流雫が祖国の地を踏んだ次の日、レンヌで事件が起きた。発端は、その3ヶ月前から燻っていた、太陽騎士団の内部問題だ。
 メスィドール家の当主が総司祭に就任したのは、新年を迎えたと同時だった。しかし、就任をよく思わない連中も当然ながらいる。大きな理由は、一家の名誉とプライドだ。それが、宗派同士の確執として表面化したのだ。
 西部教会の中心となるレンヌでは特に、それが激しかった。メスィドール家のルーツだからだ。血の旅団の穏健派の信者であるアルスとその恋人の一家も、同じ街に住む身としてその一件は気になっていた。

 「ハイ、ルナ」
アルスの隣で、セミロングの赤毛の少女はそう言った。一度だけビデオ通話で顔を見た、アルスの恋人だ。
 アリシア・ヴァンデミエール。アルスとは幼馴染みから発展した。 オリーブカラーのシャツを着ている。流雫は彼女とは初対面だが、最初に
「サンキュ、アリシア」
と言った。彼女の助けが有ったから、宗教を隠れ蓑にした日本乗っ取りを阻止することができた。その恩は、今でも忘れていない。だから、ハイよりサンキュが先に出てくる。
 3人はカフェに入り、デッキでラテを口にする。前々からそうだとは思っていたが、やはりアルスはアリシアに敵わない。それは2人の遣り取りを見ていて判る。

 2歳の頃にパリからレンヌに引っ越した流雫には、幼少期から何度か遊んだ少女が1人だけいた。ブロンドヘアのボブカットが印象的だった。名前も覚えている。雨を意味する、プリィだった。
 ただ、4年後日本に移住して以降、流雫は美桜と知り合うまで同世代と話すことは皆無だった。だから、昔から仲睦まじい目の前のフランス人カップルが少しだけ羨ましく感じる。だが、それ以上に今は澪がいる。

 流雫の視界の端で、何かが動く。
「どうした?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
とアルスが問うと同時に、ラテを飲み干して席を立つ少年。その目線の先を追ったアルスは、道路の反対側に建つ太陽騎士団の教会に目が止まる。
「最近、少し不穏な動きが有る。ブルターニュ一帯、注目している」
とアルスが言った、と同時に目の前に止まった黒いタクシーがオレンジ色に光った。
「伏せ……っ!!」
とフランス語を叫ぶより早く、爆発音が周囲の空気を切り裂く。
 悲鳴と怒号が飛ぶ中、流雫は店の消火器を手にすると踵を返した。
「ルナ!!」
と叫びつつも、アルスとアリシアはそれに続いた。

 微風でも風向きは判る。その風上に立つ流雫は消火器のハンドルを一気に引く。
「ルナ!!」
2人の声が聞こえる。同じように消火器を持って近寄る。
「自爆テロ……?」
「そこまでやるか……!?」
とフランス人2人が声を上げながら、消火剤をひたすら掛けていく。
 教会から、ネイビーのスーツを着た数人の男が飛び出してくる。その瞬間、数発の銃声が聞こえた。
「フランスでも……!」
流雫は日本語で呟き、音が聞こえた方向に目を向ける。道路を逆走する黒いワンボックスからだ。流雫は道路に飛び出すと、クラクションを鳴らすワンボックスに対峙する。
「ルナ!!」
アルスが叫ぶ。オッドアイの瞳に怒りが宿る少年にとって、それがシグナルだった。
 「たぁぁっ!!」
消火剤が尽きた消火器を、ハンマー投げの要領で投げながらカフェへ向かって走る流雫。ワンボックスのフロントウィンドゥに弾かれたが、避けようとしてタクシーの手前の街灯柱に突き刺さって止まった。
 車のドアが開き、1人の男が飛び出してくる。黒いジャケットを羽織っている。
 此処はフランス、銃を持てない。だから丸腰で戦うしかない。武器は簡単なパルクールと、咄嗟の判断力だけ。
「タクシーもお前のグルか?」
そう問う流雫への答えは、服装に似つかわしくない機関銃の銃口だった。
「ルナ!!」
と叫んだアリシアに、男は銃口を向ける。流雫は地面を蹴り、ショルダーバッグを振り回した。ダメージは軽いが、そもそも自分で仕留める気は無い。
 「このガキ……!」
男が声を張り上げるのと、流雫がステップを刻むのは同時だった。
 小柄な流雫の武器は、その身軽さ。車に例えれば、コンパクトな軽量スポーツカー。そして、俊足の詩応でさえも撹乱される上下の動き。だが、銃を持った男相手に1人だけは不利だ。
「ルナ!!」
アルスはアリシアから消火器を奪い、飛び出す。
「アルス!?」
その声は、ブロンドヘアの少年には届いていない。

 「アルス!?」
視界の端に現れる少年に一瞬驚く流雫は、手首に唇を当てる。ブレスレットへのキス、それは無事への祈り。
「ルナ!!ほら!」
アルスは言いながら、消火器を流雫に渡す。
「もうすぐ警察が来る」
とアルスは言った。それまでの時間稼ぎだ。
「誰だ!?」
その声にアルスは、
「ルージェエールに護られし戦士」
とだけ答えた。
 血の旅団が崇めるのは、炎の戦女神ルージェエール。太陽騎士団の教典では、悪魔に陵辱されテネイベールを産み落とし、最後は処刑される。その名は、一部の信者にとって忌むべきものだ。
「ルージェ……!?この邪教が!!」
そう声を張り上げた男の銃口が、アルスに向けられる……より寸分早く、銃身の先端を金属の筒が殴った。鈍い音が響き、機関銃の向きが変わる。
 「俺にとっちゃ、お前こそ邪教だ」
と言い放つアルス。相手の怒りを焚き付けるには手段を選ばない。
「まずはお前からだ!!」
そう叫んだ男は、アルスに銃口を向ける。
「アルス!!」
「気にするな!!」
アルスが流雫に叫び返した瞬間、男が引き金を引く。リズミカルに鳴るハズの銃声は、閃光と爆発音に掻き消された。
「うぉあああ!!」
男が銃を手放し、右手を強く押さえる。
 アルスの一撃で、機関銃の先端が僅かに凹んでいた。それが弾詰まりを招いたのだ。
 しかし、男の目から殺意は消えない。流雫が動いた。ワンボックスのフロントを使って跳ぶ。
「後ろだ!!」
と、アルスが叫ぶ。その声に振り向く男の顔面を、消火器が捉えた。
「はぁっ!!」
「ごっ……!!」
鼻を砕かれ、首の骨が折れそうなほどに頭を後ろに飛ばされた男は、そのまま倒れた。馬乗りになったアルスは、両手を喉仏に押し付ける。
 「がっふっ……!」
「この国に泥を塗る奴は、同胞だろうと容赦しない」
悶える男にぶつけられるアルスのフランス語には、軽く殺意さえ感じられる。
 警察車両のサイレンが聞こえたのは、その直後だった。警察官が駆け付けると、アルスは意識が朦朧とする犯人を引き渡す。
「……くそ……っ」
と声を上げたアルスは、唇を噛む。
 その隣に立つ流雫は険しい目付きで、連行される犯人を見つめている。
 ……着ていたのは太陽騎士団の信者の制服、ネイビーのスーツではなかった。信者であることを隠そうとしたのか、或いは誰かが雇ったヒットマンなのか。だが後者だとすると、高校生2人に簡単に叩きのめされるほど弱い理由の説明が付かない。
「……アルス」
と名を呼んだ流雫は、思わずその身体を抱き寄せた。
 ……アルス・プリュヴィオーズは、少し生意気が似合う。ただ、今は祖国と故郷の安全を脅かすテロへの怒りに囚われている。2人が無事だった完全勝利をハイタッチで喜ぶ気になどならない。
 何時かの自分を見ているような気がした流雫の身体は、無意識に動いていた。今の彼を受け止めてやれるのは、アリシアを除けば自分しかいないからだ。
 そのアリシアは、元フランス人の少年を見つめながら安堵の溜め息をつく。ブロンドヘアの恋人が、この少年の味方だと断言する理由が判る。
「アルス!ルナ!」
と呼んだ赤毛の少女は2人に近寄り、2人の肩を軽く叩いた。

 「……ニュースで少しだけは知っていたけど……」
と詩応は言った。まさか流雫も遭遇していたとは知らなかった。
「もし本来の目的が日本に有ったとして、それが何か。フランス国内での問題を解決する鍵が、日本に有るのか……?」
とアルスは言う。
 ……聖女を生で見ることができるのは光栄なこと。だがその裏で、大きな問題が蠢いている。
「……シノの楽しみに水を差すことになったが……」
「いいさ。ルナやアルスが遭遇しているのなら、アタシも黙っていられないから」
と詩応は言った。
「……頼む」
と言ったアルスは、詩応から展望台の端にいる2人に目を向ける。詩応もそれに続いた。

 澪は流雫から、フランス滞在中に何が有ったか、一通り聞いていた。詩応とアルスが話していることは、当然知っている。ただ、2人の答えは決まっていた。何が起きても屈しない、4人の誰も殺されない。
 ブレスレットが手首を飾る2人の手、その先端で指が絡む。東京の景色を映す4つの瞳の深淵には、押し寄せる悲壮感すら打ち消す凜々しさが宿っていた。

 スーツの男を連れた聖女アリスは、他の乗客とは別の到着口から出ると、止まっていた黒い高級車に乗って、空港島を後にする。目的地は渋谷、太陽騎士団日本支部の大教会。
 男からこの後と明日の予定を聞かされる聖女は、終始無表情のままタブレットに並ぶ文字に集中する。今夜の原稿だ。
 簡単な修正を終えたアリスは、シャルル・ド・ゴールで見たブロンドヘアの少年を思い出した。
 ……同じ飛行機に乗り合わせ、そして東京の空港でシルバーヘアの少年と会った。隣にいる少女2人が誰かは知らないが、恐らくはグルだろうか。
「……血の旅団が日本にいる……厄介だわ……」
アリスはそう呟き、タブレットの画面をオフにした。不意に、押し殺した感情が押し寄せる。聖女としての立場では制御できない感情が。
 ……プリィ、お前は何処にいる……?
 大教会に足を運ぶ詩応。講堂の最後列の席の後ろに立っている。
 フォーマルウェアとして、青っぽいブレザーの制服を用意してきた。セーラー調の襟と、スカートの裾を正す。
 予定の時間通りに、聖女アリスが教壇に立つ。それだけで、感嘆の溜め息が会場を包む。年頃とは思えない、麗しく荘厳な雰囲気を纏っている。
 ブルーのブラウスに白ケープの装束の聖女は、用意していたタブレットを開く。
「……私は、アリス・メスィドール。ご存じの方も多いと存じます」
と非常に滑らかな日本語で話すアリス。7カ国語を操るマルチリンガルだが、アジア圏のそれは日本語だけだ。
 美麗な声で、オーディエンスに語り掛けるアリス。会場内の誰もが、その話に虜になる……1人を除いて。
「女神ソレイエドールが導かれる未来を、私は皆さんとこの目に焼き付けたい。信者として、より一層の邁進をお願いしたい。それが、私の思いの全てです」
との言葉で締めたアリスを、拍手が讃える。それに合わせて手を叩く詩応は、しかし釈然としない表情を浮かべていた。そもそも彼女が本物のアリス・メスィドールなのか、その疑問が拭えないからだ。
 60分のスピーチの後、閉会の言葉が司祭から告げられ、出席者は一様に満足の表情で講堂を後にする。詩応もそれに混ざろうとしたが、後ろから呼び止められた。
「私のスピーチ、不満だったかしら?」
詩応が振り向くと、そこには先刻まで壇上にいた聖女が立っている。目ざとい……詩応はそう思った。
「私は彼女と話をしたい。2人きりに」
とアリスが言うと、後片付けも放置して誰もいなくなる。
 ドアが閉じられると同時に、アリスは言った。
「……シノ、だったかしら」
「どうして名前を……」
「シブヤで命を落とした殉教者、シア・フシミの妹。あの事件は、本当に忌々しいものだったと聞いているわ」
と、アリスは言う。詩愛姉の死が、フランスでも知られていたとは。
 そう牽制した聖女は
「シノ。私は空港で、貴女が血の旅団信者と会うのを見た」
と本題を切り出した。詩応は
「彼は、アタシのフレンドです」
と答える。アルスと再会した一部始終を見られていたのか。
「じゃあ、隣にいたあの男女は?グルなのかしら?」
その言葉に、詩応は苛立ちを滲ませる。流雫と澪をグル呼ばわりされるとは。
 思わず険しくなった目付きに、アリスは図星だと悟った。
「太陽騎士団と血の旅団は、歩み寄ってはならない。あの邪教はノエル・ド・アンフェルを引き起こし、我々を貶めようとした。日本でも、それぐらい知られているでしょう?」
諭すような口調に、ボーイッシュな少女は
「はい」
と即答する。知っている、どころの話ではない。
「では何故……」
「大事なフレンドだからです」
と詩応は断言する。
 「……確かに教団として、交遊関係まで制限はしていない。しかし、相手は邪教」
「その信者から聞きました。貴女と同じネックレスを持つ聖女が、テネイベールと同じオッドアイをした少年を、近寄るなと拒絶したと。襲撃された自分を助けた、にも関わらず」
そう言葉を返した詩応は、本来崇めるべき聖女に疑問をぶつけた。
 「アタシが知りたいのは一つだけ。聖女は今日来日した貴女1人だけのハズ。……では、昨日空港で彼が見たのは一体?」
その言葉に、アリスの眉間が動く。
 「……私に答える必要が有るとでも」
「有るとは思っていません」
「それなら余計な……」
と言葉を被せるアリスに、更に詩応は被せていく。
「ですが、もう1人の貴女はテネイベールに似た少年に助けられた。それだけは事実です」
「……アタシは、ソレイエドールの導きを信じる者。しかし、ルージェエールを崇める者やテネイベールに似た目をした者にも、対等に、公平に接したい。それが、アタシの信念です」
と続けた詩応は、頭を下げるとドアを開けて講堂を後にした。
 静まり返った講堂に立ち尽くすアリスは、その背中を見つめる。
 ……末端の信者が、あそこまで自分に突っ掛かってくるとは思っていなかった。不愉快でしかない。だが、詩応が突き付けた言葉が、深く突き刺さった刃のように感じる。
 ……もう1人の自分。彼女は何処にいるのか。そして、その存在を部外者が知った。恐らく、厄介なことになる。
「……シノ。貴女は疫病神なのかしら……?」
アリスはそう呟き、ドアを開けた。

 「……これが聖女の態度なの……?」
と、最初に口を開いたのは澪だった。
 渋谷駅前、トーキョーアタックの慰霊碑のすぐ近くのベンチに座る少女。その脇を固めるのは、日本人には見えない2人。
 アリスが他の者に退出を命じている間、詩応はスマートフォンの通話ボタンを押していた。相手は唯一連絡先を知る少女、澪。
 そして3人は、教会から少し離れた場所……渋谷駅前の広場でイヤフォンを使って会話を盗み聞きしていた。正しくは、流雫と澪が聞き、アルスは流雫がフランス語に同時通訳したものを聞いている。
 「聖女と云う立場がそうさせる。個人の見解が制限される、宗教で上に立つとはそう云うものだ。同情する気は無いがな」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      と言ったアルス。その隣で流雫は、或る言葉が引っ掛かっていた。
 「……余計な……」
と口にする流雫に、澪が続く。
「……知られてはマズいことを、聖女は隠してる?だから余計な口を挟むな、と?」
「……聖女が2人いること。メスィドール家どころか教団にとっても大問題……」
「……影武者どころの話じゃないな……」
とアルスは口を挟む。……影武者でないなら、隠したい理由は一つ。それは、少し前にレンヌで流雫とアルスが話したことだった。
「……クローンに手を出した……」
2つの国の言葉が重なった。

 2週間前。
「じゃあ、メールにエアチケット情報を送ったから、アプリにダウンロードしてね」
目線をPCの画面からアルスに移しながら、アスタナは言った。
 急に決まった日本への渡航で、アルスは流雫の両親が営む旅行代理店を訪ねた。以前短期留学した時にも、この淑女にはコーディネートで世話になった。今回も頼んだが、何より流雫が接点になっている。
 パリから引っ越して15年。今の宇奈月クラージュ家の実家は、小さなオフィスが1階に有り、上階が居住区域。そのリビングにアルスを招いた流雫は、紅茶を淹れる。
 テレビを点けると、ドキュメンタリーが流れていた。特集はクローン。
「胎内で生まれない命か……」
「欧米は倫理面で規制するだろうから、やはり中国が先行するだろうな」
と、高校生2人は口にする。年頃らしくない話題だが、互いに知的好奇心は旺盛な方で、話が合う。
「胎内と云う聖域で生まれなかったから、命とは認めないのか」
「でも生きている。命を認めるべきじゃないのか」
と返したアルスに、流雫は問う。
「……血の旅団としては?」
 「基本的には賛成だ。人工的であれ、命を宿すもの全てを尊重する。その理念は太陽騎士団と共通だが、あっちはクローンには反対している。ただ、どっちが正しいか、なんてナンセンスでしかない」
とアルスは答え、紅茶に口を付ける。
 ……時代が変われば、それぞれが新たな解釈をするだろう。無論、それが新たな火種になることは、容易に想像がつくが、それはまた別の話だ。

 太陽騎士団のトップが、教団としてはタブーだったハズのクローンに手を出した。もしそれが事実なら、大スキャンダルになる。だから隠したい……と云うのも頷ける。
「……だとすると、何のためにクローンを生成したんだ……」
とアルスは言う。それが最大の疑問だった。
 「待たせた……!」
と言いながら、詩応が駆け寄る。澪が立ち上がりながら
「聖女との話、全部入ってましたよ」
と言うと、アルスは続く。
「聖女に向かってよく言った」
「アンタたちをバカにされて、黙ってられないからね」
そう言った詩応は、1人ベンチに座ったまま腕を組み、下を向く流雫に目を向ける。
 「……流雫?」
「……アルス、聖女アリスの弟の名、知ってる?」
と問われたアルスは
「セバスチャン。セブと呼ばれてる」
と言った。
「セブ?」
リピートした流雫は、しかしその名に聞き覚えが有った。
 ……プリィに弟がいた。会ったことは無いが、彼女は確かにセブと言っていた。そして。
 流雫はスマートフォンでアリスの写真を検索し、首から下を手で隠す。……10年以上前の面影を、6インチの画面に見た。
「アリスが、プリィ……!?」
目付きを険しくした流雫の声に、誰より早く反応したのは澪だった。
 「プリィ……?」
「レンヌに住んでた頃に、何度かだけ遊んだことが有って」
と流雫は答える。
 彼女の両親は、流雫の両親にとって大口顧客だった。父が仕事の話をしている間に、母が見守る中で子供同士遊ばせていただけに過ぎない。とは云え、人の顔を覚えるのは得意な流雫の記憶には、鮮明に残っている。
 「プリィが、弟をセブと呼んでた。メジャーな名前だから、単に人違いかも……とは思うけど」
と流雫は言う。だが、澪は
「……もし、アリスがプリィだとして……何故アリスを名乗ってるの?」
と問う。アルスは翻訳アプリを見ながら
「聖女は代々アリスを名乗る決まり、なんてものは無い。名乗るだけの特別な理由が有るんだろう」
と答えた。流雫は呟く。
「……理由か……」
 プリィと云う名を捨てなければいけない理由。彼女の過去に何か有ったのか……?
 しかし、此処でこうしていても何も始まらない。4人はNR線の改札へ向かった。

 山梨県東部の都市、河月。河月湖を中心とする観光で知られる。都心から快速列車とバスに乗って2時間近く。4人が辿り着いたのは湖畔のペンション、ユノディエール。流雫の日本での住処だ。
 流雫の父、宇奈月正徳。その親戚、鐘釣夫妻が営む。名前は、開業を手伝ったアスタナが生まれ育ったコミューンに因む。普段は流雫も手伝いをこなす。
 親戚夫妻は3人を歓迎した。部屋は男女で別れ、澪と詩応には端の客室が割り当てられた。アルスは流雫の部屋だ。
 夜、ディナータイムの片付けを終えた流雫はアルスがバスルームにいる間に、スマートフォンを耳に当てた。その後で少し外に出たかったが、生憎の雨だ。出る意味が無くなった。
「ルナ?どうしたの?」
とスピーカーから声が聞こえる。アスタナだ。気になることが有るから、話すことにした。
「昔、何度か一緒に遊んでた子のこと……覚えてる?」
「プリィ?覚えてるわ。彼女が気になるの?」
と母は答えた。日本に留学経験が有り、その間に今の夫と交際を始めたが、それだけでは説明が付かない程に日本語が上手だ。
「……一つだけね。名字……」
「フリュクティドール」
と母は答える。
「プリィ・フリュクティドール?」
と流雫は声に出す。
「……何か有ったの?」
「……少しね。どんな子だったか……」
と言った流雫に、アスタナは
「……顧客のことだから、本来はタブーだけど」
と言った。

 流雫の一家がパリに住んでいた頃のこと。当時パリの太陽騎士団中央教会を統べていたフリュクティドール家が、国内外の移動や宿泊の手配を宇奈月クラージュ夫妻に頼んでいた。一家がレンヌに引っ越した後もその関係は続き、司祭は時々レンヌを訪ねていた。
 その時にプリィを連れていて、話の間リビングでルナと遊ばせていた。
 フリュクティドール家との関係は今でも続いているが、プリィはパリの名門校で神に関する学問を究めようとしているらしい。弟セバスチャンと同様に。だからこの数年会っていない。

 「サンキュ、母さん」
と流雫は言う。それだけ聞き出せれば十分だろうか。
「……ルナ、何が有ったか知らないけど、女神の手を放してはダメよ?」
「ミオのこと?判ってるよ」
と答え、また連絡すると告げた流雫が通話を終えると同時に
「どうした?」
と言いながら、アルスが部屋に戻ってくる。
「プリィ、パリのフリュクティドール家だった。今はセブと一緒に寄宿舎にいるらしい」
と言った流雫に、アルスは
「プリィ・フリュクティドールがアリス・メスィドール……?」
と呟く。もし流雫が間違っていないなら、関係性は何だ……?
 「……待てよ?」
とアルスが更に呟く。
「どうしたの?」
「フリュクティドール家とメスィドール家は親戚関係だったな……。例えばアリスがクローンだったとして、プリィをベースにアリスを生成した理由は何だ……?」
と言ったアルスに、流雫は続く。
「……人工的にアリスを生み出す必要が有った……?」
フランス語のラリーが止まる。数分にも感じられる数十秒の静寂を破ったのは流雫だった。肝心なことを知らなかった。
「そもそも、総司祭や聖女の条件は何なんだ?」
「総司祭一家の条件は、聖女を有すること。聖女は、その地位に相応しいだけの信仰心と多方面の知識を備える必要が有る。聖女がいてこその総司祭の地位だ。アナクロな気がするのは、俺だけじゃないハズだが、宗教とはそう云う……」
と、突然言葉を切ったアルスは
「……そうか……それなら有り得る……」
と呟く。怪訝な表情を浮かべる流雫のオッドアイを見つめ、アルスは言った。
「クローンをメスィドール家の聖女にする必要が有った」
 「クローンを?」
流雫は怪訝な表情でアルスを見つめる。
「メスィドール家には男しかいなかった。だからプリィをベースにしたクローンを生成し、アリスと名付けて育てる必要が有った。それなら……」
「クローンが聖女……」
「教団としては禁断の存在が、最上級の地位に立つ。シノが聖女から釘を刺されたのも、そう云う理由なら納得がいく」
とアルスは言う。
 「……そこまでして、総司祭の地位が……」
「地位を欲している奴らは少なくない。ノエル・ド・アンフェル以降、フランスではこのテの争いが増えたとは聞いている。シノは呆れるだろうな」
と言ったアルスは流雫のベッドに身体を預け、続けた。
 「……シノは或る意味では、聖女に近いのかもな」
その言葉に、流雫は
「だと思うよ」
と続けた。リップサービスなどではなく、一緒にテロと戦う中でそう思うようになっていった。
 ……詩応がいなければ、日本の乗っ取り計画を阻止できなかった。当然、ノエル・ド・アンフェルやトーキョーアタック、そしてこの銃社会化の真相も暴けなかった。だから流雫は、詩応を尊敬していた。

 幼少期から姉の背中を追い続けた詩応は、その死の真相を追う中で、新幹線で首を切られた。その後遺症が残った。手を挙げると、痙攣したかのように震える。
 それでも、銃を手に戦えた。全員で生き延びるために。だから今こうして、流雫のペンションにいて、澪と同じ部屋で過ごしていられる。平和で最高の時間に感じられる。
 詩応はアルスと相部屋でもよかった。流雫と澪が同じ部屋であるべきだと思っていたからだ。アルスにも恋人がいるし、自分にも地元に同性の恋人がいる。互いに手を出すことは無いだろうから、そうでもよかった。
 だが、流雫はそうしなかった。澪が自分の次に詩応を慕っていることを知っている。だから、折角だし長い夜を2人きりで、と気遣ったのだ。
「流雫には敵わないな」
「そうでしょ?」
と満面の笑みを浮かべる澪。最愛の少年を認められたことが嬉しい。
 澪は、詩応に後ろから抱きつく。
「詩応さん……」
そう名を呼んだ澪は、彼女が生きていることを感じていたかった。
 あの日、詩応を殺されたと思って泣き叫んだ澪は、無意識に彼女の生に執着を見せるようになった。何時かの流雫に彼女を重ねていたのも、余計にそうさせる。
 時々重苦しくも感じる澪の献身が、詩応は寧ろ好きだった。だから詩応も、澪の力になりたいと思っている。
「アタシは死ねないからさ、アンタたちのために」
と詩応は言った。恋人のため、澪や流雫のため、テロなんかで死ねない。
 澪の、抱き締める力が少しだけ強くなる。今この瞬間に伝わる身体の熱を感じて、彼女が生きていることに安堵していたかった。
 こんな澪に誰より愛される流雫は、世界一の幸せ者だ……詩応はそう思った。

 来客にベッドを与えた部屋の主が部屋を出る。窓の外は少しだけ明るい。このペンションの名物、モーニングの準備だ。
 静かに閉めたドアの音で、アルスは目覚めた。フランスは、未だ日付が変わっていない。ブロンドヘアの少年は勝手にカーテンを開けると、スマートフォンを耳に当てた。
 「……着いたばかりの日本はどう?」
と問うた恋人に、アルスは
「最悪だ。新たな問題が起きた」
と答え、続けた。
 「聖女アリスが2人、日本にいる」
「……はい?」
アリシアの反応は、或る意味当然だった。アルスが一通り説明すると、赤毛の少女は恋人に言う。
「……アンタの読み、少し外れてるわ。メスィドール家には女子がいなかったワケじゃない。いたの」
 「その言い方……、お前……?」
そう言ったアルスの表情が容易に想像できる。アリシアは通話相手に軽く頷き、告げた。
「そう、アリスは死んでるの。正しくは誕生から2時間後だけど、そのことを届け出なかった。だから、戸籍上は産まれてもいないわ」
「……じゃあ」
「死んだアリスの代わりが、プリィをベースにしたクローン。元の細胞や遺伝子を、フリュクティドール家が何故提供したのかは判らないけど」
「どうしてそのことをお前が?」
「パパよ。太陽騎士団の問題を調べるうちに、辿り着いたらしいの」
とアリシアは言った。
 リシャール・ヴァンデミエール。世界的規模の通信社、アジェンス・フランセーズの記者。専門は国内問題だが、かつて娘を経由して流雫に協力する形で、日本の銃社会化の真相を全世界にリークした。
「西部教会は女子に恵まれず、不妊の病を克服したメスィドール家にとっては待望の第一子。それも女子。そうして注目された女子誕生は、最悪の結末を迎えた。それは双方にとって大ダメージ。予定通り産まれた、とする他に手段は無い。だから出生届も死亡届も出さず、クローンに手を出した」
「一家のプライドのためにタブーを犯したのか」
とアルスは言う。
 「一家と教会のために、が正しいわね。教会にとって望ましい形、その答えがクローンだった」
「何が教会にとって望ましい、だよ」
「西部のレンヌだけじゃない。中央パリ、南部マルセイユ、東部ストラスブール、そして総本部のお膝元、北部ダンケルク。総司祭一家がどの地方出身かは、地方にとってのプライドと権益に関わるわ」
「フェミニストの標的よりも厄介なことが多過ぎるのかよ」
と言ったアルスは、怒りよりも呆れが勝っていた。創世の女神も今頃嘆いているだろうか。
「これが血の旅団の話なら、アンタなら司祭に詰め寄って喧嘩してるわね」
とアリシアは言う。図星だ。アルスは苦笑を浮かべるしか無かった。
 「……聖女アリスも、プリィのことを追っているハズよ。ただフランスに連れ帰すだけならいいけど……」
と言ったアリシアに、アルスは問う。
「ただ、ルナはファーストクラスに座るプリィを目撃している。高校生でファーストだぞ?しかも1人旅。家族もよく認めたものだが、認めるだけの事情が有ったのか」
とアルスは言った。
「認めるだけの事情ね……確かに引っ掛かるわ」
そう言ったアリシアはPCを開く。
「血の旅団に影響が及ばなければいいけどね」
「レンヌの街には既に及んでるがな」
そう言ったアルスの耳に、ドアを叩く音がした。もうモーニングの時間か。
「ルナが呼んでる、また連絡するよ」
「気を付けて」
とアリシアが言うと、アルスは通話を切った。……話を切り出すのは4人揃った後だ。先ずは、ルナ特製ガレットを堪能するだけだ。

 ユノディエールの隠れ名物は、流雫特製ガレット。蕎麦粉を使ったクレープのことで、ブルターニュ地方の郷土料理。オーダーが入れば焼くだけだが、毎朝ほぼ全員がオーダーする。
 シャンボンハムと目玉焼きが乗った、スイーツではないクレープ。それも、皿の上に盛り付けられ、ナイフとフォークで食す。惑いながらも、詩応は口にする。……澪やアルスが絶賛する理由が判る。
「流雫って料理が特技だったんだ?」
「日本でも故郷の味を楽しめるようにと、母さんから教わったんだ」
と言って微笑む流雫。両親と離れて生活する元フランス人の少年は、その過去を逆手にモーニングでペンションを隠れた有名宿泊施設にした。
 中性的な顔立ちの裏に宿す芯の強さは、一緒に戦った者にしか判らない。……そう、流雫は弱くない。弱いワケが無い。それが、ダイニングの端にいる3人の認識だった。
 食後に淹れた紅茶を啜ると、4人は再度東京に出ることにした。
 高速バスで新宿に着くまでの間、窓側の席に座る澪は、流雫に寄り掛かって微かな寝息を立てている。詩応曰く、昨日は2人ガールズトークで盛り上がり、夜更かししていたらしい。
 通路側に座る流雫も、軽く目を閉じる。先刻アルスから軽く聞いた話を思い出していた。
 ……名門がタブーを犯してでも手に入れたい総司祭の座。無宗教の流雫には、その価値は全く判らない。
 高校生の分際で生意気だとは言われるだろうが、地位や権威が人を狂わせることを流雫は知っている。そして、それに足下を掬われることすら。
「……セブ……」
と流雫は、小さな声で呟く。
 ……プリィの弟が、本当は姉と同じ寄宿舎ではなくメスィドール家にいるとすれば。そもそも寄宿舎の話自体が真実じゃないとすれば。フリュクティドール家は何を隠しているのか。
 セバスチャンが、或る意味プリィよりも重要な鍵を握っている気がする。

 新宿に着いたバスを降りると、4人は下のフロアに向かった。シンジュクスクエアと呼ばれる小さな広場は、かつて流雫と澪、そして詩応が戦った場所でもある。犯人と戦っていた2人に帰国したばかりの流雫が合流し、雨が降る犯人を仕留めた。
 だが、詩応は姉の死の理由を聞かされ、雨に濡れながら泣いていた。澪は詩応を抱いて慰めようとし、流雫は何もできない無力感を抱えていた。
「美桜……。僕はどうすれば……2人の嘆きに触れられる……?」
と。
 「あれ……?」
澪が声を上げる。広場の端、碧と白の衣装の少女が立っている。
「プリィ……」
と名を呟く流雫。何故、彼女が此処にいるのか。とにかく話をしたい、何が起きているのか知りたい。
 しかし、この前の拒絶が頭を過る。アルスは血の旅団信者だとバレなければいいが、流雫はそのオッドアイの時点で拒絶される。
「あたしたちに任せて」
と澪は言い、隣で詩応も頷く。今は2人に任せるしかない。流雫は頷く。
 流雫に背を向けた澪は、小さな声で呟く。
「……流雫は無力じゃない」
それは小さいながらも、しかし流雫には確かに聞こえていた。

 八芒星のネックレスを揺らす少女に近寄る2人。その片割れに見覚えが有る聖女は、
「あ……」
と声を上げる。澪は英語で問う。
「……プリィ・フリュクティドール?」
「……その名前……」
何故その名前を知っている?それが少し不思議だった。澪は言う。
「あたしの恋人が、昔貴女と遊んだことが有る……そう言ってて」
「昔……?」
「ルナ。名前、覚えてませんか?」
その問いに、プリィは思い出す。ルナ・クラージュ・ウナヅキ……。
「……貴女は?」
「あたしはミオです」
「アタシはシノ」
と2人は名乗り、本題を切り出す。
 「……一昨日、警察署でルナに近寄るなと言った。その理由も、太陽騎士団の地位故のものでしょ?」
「でも、アンタは聖女じゃない。アンタのクローンが聖女。それなのに、聖女のネックレスを持ってる。……どう云うことなんだい?」
2人からの問いに、プリィは問い返す。
「……私から聞き出して、何を……」
「アタシたちは、アンタを護りたい。1人で日本に来た理由も重そうだし」
「……あたしもシノも、敵じゃない。それだけは、信じてください……」
と言った詩応と澪に、プリィは答えた。
 「……私は、聖女アリスの身代わり」
 「……私は、聖女アリスの身代わり」
そう言ったプリィに、澪は
「……え?」
と声を上げる。
「身代わりって……」
 「アリスは私を元に生成された。ただ、クローンは不測の事態が起きやすいもの。その時は、私がアリスになる。本来はそうだった」
「本来は?」
澪は問う。今は違う?
「でもアリスは安定期に入った。だから私の、身代わりの役目は終わった」
と答えたプリィに、詩応が問う。
「じゃあ、そのネックレスはもう……」
「……」
プリィは何も言わない。
「アタシは、太陽騎士団信者であることを誇りに思います。だからこそ気になる。本国フランスで何が起きているのか……」
と詩応は続くが、聖女の装束を纏った少女は沈黙を守る。
 ……誰にも言えないだけの理由が有るのか……。そう思った澪に、プリィは言った。
 「ルナは何処……?」
その言葉に、先に反応したのは詩応だった。プリィは自分より断然上位で、信者である詩応にとっては敬愛すべき存在。だが、今はただ我が侭な少女にしか見えない。
 「この前は拒絶したのに今になって……!」
「詩応さん!」
澪は咄嗟に詩応を宥める。言いたいことは判る、しかし今は冷静でなければ。本質を掴むためには冷静さを欠かないこと、それは流雫から学んだ。
 「……ルナに会って、一体何をする気ですか……?」
と、澪は問う。冷静だが、声色は穏やかではない。
「……ルナの目を見て、咄嗟に破壊の女神を連想した。それほどまでに敬虔な信者なのは認めます。だからこそ、理由が判らない以上は……」
 「セバスチャン」
と詩応が口を挟む。見開かれるプリィの目を、詩応の目線は外さなかった。
「面識が有ったルナになら、弟のことを話せる。だから会いたいんじゃ?」
詩応の言葉がもたらした数秒の沈黙の後、プリィは頷く。
「その通りよ」
その英語に、今度は澪が数秒黙り、そして言った。
 「……ルナを二度と威嚇しないと、約束できるなら」
その言葉に、プリィは再度頷く。
「澪?」
と詩応が問う。何故会うことを認めたのか気になる。
「……今の彼女にとって、流雫に会うのは絶対に果たすべきこと。それなら、威嚇しないことぐらい簡単でしょ?」
と言った。
 ……仮に、プリィがライトノベルで有りがちなパーティークラッシャーだったとしても、澪は心配していない。その意志を悉く粉砕するのが流雫だからだ。

 「流雫!」
と少年を呼んだ澪の隣、詩応に挟まれる形でプリィが歩いてくる。かつての面影を残しながら、更に美しくなっているのが判る。
 3人がほぼ同時に止まると、澪は流雫に
「……あたしと詩応さんは少し離れるわ」
と言い残し、詩応と2人で去って行く。
「俺も」
と言って、アルスも続いた。……血の旅団とバレないためにではなく、折角の再会だから邪魔者は消えるのみ。
 そうして、流雫とプリィだけがその場に残された。
 ……レンヌで最後に会って12年、まさか再会したのが東京だとは。
「プリィ……12年ぶりかな」
「ルナ……この前は」
と言い掛けた少女を流雫は
「無事でよかった」
と遮る。自分を威嚇した理由も知っている、だからどうでもよかった。
 そして流雫は、本題を切り出す。
「……プリィ、どうして日本に……」
「……現実逃避」
とプリィは答える。
「……セブは……もう私の弟じゃない。だけど私の弟」
「それって……」
と言った流雫の頭に、疑問が浮かぶ。プリィは言った。
「……セブはメスィドール家に売られた。教会の政治的道具として」

 1年前、セブはメスィドール家に買われた。プリィからすれば、人身売買でしかない。大事な弟を100万ユーロで売られたことに対する憤りは、今でも大きい。
 フリュクティドール家が弟を売ったのは、財政的に困窮していたからではない。
 アリスに何か有った時、瓜二つのプリィがアリス・メスィドールを名乗る取り決めを、家族が秘密裏に交わしていた。そしてその時のために、セブをメスィドール家の長男だとして置くことにした。それは、メスィドール家の基盤が西部だからだ。
 ブルターニュとペイ・ド・ラ・ロワール、2つの地域圏を基盤とする西部教会。特に中心となるレンヌは昔から血の旅団が強い。今でこそ2つの教団で歩み寄りは見られるものの、メスィドール家をはじめとする西部教会の上位には、血の旅団を拒絶する人だって少なくない。
 日本で太陽騎士団が狙われ続けた事件の解決に尽力したのが、レンヌに住む血の旅団信者だった。それが知れ渡ると、血の旅団への評価が高くなった。それに対する焦燥感から、メスィドール家から聖女を輩出し総司祭一家となることを、西部教会全体の至上命題に定め、実現させた。

 そのレンヌに住む血の旅団信者こそ、アルスとアリシアなのだ。
 太陽騎士団の仕業に見せ掛けたテロを、日本で次々と起こした宗教テロ集団がいた。正しくは、日本で生まれたカルト教団の総司祭が、自身と関係が有った政治家が所有していた不法難民を駒として、太陽騎士団の仕業にみせたテロを起こしていた。
 目的は、社会的評価が高い太陽騎士団を排除し、支持する政治家を日本の政治の舞台から引き摺り下ろし、自分たちの教団が政治を牛耳るため。しかし、その目論見は流雫たちによって打ち砕かれた。
 アリシアの父リシャールの署名入り記事が、そのターニングポイントになったことで、2組の一家の功績とされるようになった。それが逆に、西部教会の顰蹙を買った。
 だから、レンヌで自動車爆弾テロに遭遇した時も、太陽騎士団の連中はアルスを険しい目で見ていた。そして、一緒に戦っていた……つまりはグルだとして流雫も。

 「教団にとっては、これが最も安全な形。でもアリスは安定期に入り、もう万が一の事態は起きないと言われてる。それでも、セブは戻ってこない。だから、セブを取り戻したい」
と言ったプリィは、コンクリートとガラスに囲まれた地上から、狭い東京の空を見上げる。
 「……セブは、フリュクティドール家に戻る。そして、セブが望んだ人と結ばれる。それが私の願いよ。私には、それができないから。聖女候補とされた者には、愛する人を選ぶ権利そのものが無いもの。だから、セブには自由であってほしい」
そう言ったプリィの顔には、諦めと寂しさが漂っている。
 それなりの立場の一家に生まれ、或る程度未来を決められた身。そして、ただでさえ少ない選択肢は様々な外的な都合が重なり合って、やがて消える。だから愛する弟には、自分が望む未来を手に入れてほしい。
 流雫は何も言えなかった。プリィに比べれば、その意味では断然恵まれているからだ。
「……でも、取り戻す、なんてできるワケない。そのために犯罪を犯すなんて、それこそやってはいけないことだから。だから、現実逃避したいの」
「だから日本に?」
「そう。まさかルナに、あんな形で会うとは思わなかったけど」
とプリィは言う。そして、自分が狙われるとは。もし、あの場に偶然流雫がいなければ、咄嗟に足下のタオルを顔に当てていた。そして、今頃は棺に寝かされて飛行機でパリへ帰国していただろう。
 見知らぬ地、東京で命を救われたのは、やはり女神ソレイエドールの導きなのか。プリィはそう思った。
「……現実逃避しようにも、上手くいかないものね」
と言ったプリィは、寂しげに笑いながら流雫を見つめた。

 「……でも」
と澪が言った。シンジュクスクエアは2フロア構造で、そのアッパーデッキに3人がいる。女子高生2人は、階下の2人を見下ろしていた。その端でアルスは1人、フランス語が並ぶスマートフォンの画面と睨めっこだ。
 「何故プリィが狙われたのか……」
「猛毒を塗られそうになったんだっけ?」
「ええ」
と、澪は詩応に答える。
「教団にとっての重要人物を殺そうとする……」
「聖女アリスと間違えたのか」
「最初からアリスではなく、プリィを狙う気だったのか……」
そう言葉を重ねる2人の隣で、
「……待てよ……おい……」
と呟くアルスの目つきが険しくなる。それに気付いた詩応が名を呼ぶ。
 「アルス?」
「……どうなってんだよ……!?」
とだけ言ったアルスは、スマートフォンを握り締めると
「プリィに話が有る!」
とだけ言って、地面を蹴った。

 「ルナ!」
と名を呼ぶ声が聞こえた。
「アルス!?」
「……プリィに話が有る」
そう言って、階段を駆け下りたブロンドヘアの少年は、流雫の隣に立つ。突然の邪魔者に、プリィは怒りを湛えた瞳で問う。
「誰ですか!?」
「俺はアルス。ルナのフレンドだ」
と答えたアルスは、プリィの言葉を待たず質問を投げ付けた。一つだけの、しかし大きな質問を。
「……何故セバスチャンも2人いるんだ……!?」

 プリィの目を、驚きと焦りが支配する。そして
「セブが2人……!?」
とだけ声に出した流雫に、アルスは
「配信されない記事だ」
と言ってスマートフォンを突き付ける。
 ……アルスが見ていたのは、赤毛の恋人から朝方に送られてきていた長文の記事だった。配信されないながら、その冒頭にはリシャール・ヴァンデミエールの署名が入っている。
 パリ近郊サン・ドニの生物化学研究施設から、機密データの流出が確認された。物理デバイスにコピーされたものが持ち出されたことが、データのアクセスログから判明したのだ。
 暗号化されたデータは、しかし簡単に解読された。それには、フリュクティドール家のプリィとセバスチャンの遺伝子情報が含まれていた。
 移植手術における理想、適合率100パーセントの臓器を確保することが、クローン開発の本来の目的だったが、生成したのは全身全て。しかも生後すぐの話。何故そうする必要が有ったのかは、入手した情報からは何も判らない。
 生成された男女1体ずつ、計2体のクローンは、特に不具合を起こすこと無く、安定期にも入り順調に生きている。そして、女子のそれは人工的生命体初の聖女に選出されたが、男子は今も全てがベールに包まれたままだ。

 「セブのクローンが……いた……!?」
そう言ったのはプリィだった。アルスはその反応に違和感を覚える。
「……お前、何か知ってるんじゃないのか?」
「プリィ……何が起きてるんだ?」
と、アルスと流雫は問う。
「し、知らないわよ……!」
と答えたプリィは、しかし動揺を禁じ得ない。
「どうして、セブまで……」
「……何も知らないんだな……」
と流雫は言った。全てを知っていた上で隠している……とは思えない。隠していても、今問い詰めるのは逆効果だ。
 「アリスとは事情が違う。セバスチャンを生成する理由が何も無い」
「アリスのセブが生きてるなら、私のセブを引き取る理由も無い……」
と言い、俯くプリィにアルスは言った。
「……お前の教団の中枢で、何が起きてる?」
 「お前の?」
プリィは思わず口にする。同じ教団であれば、こう云う言い方はしない。まさか……。人形のように整った顔が、再度怒りに満ちていく。
「まさか、血の旅団……!!」
「御名答。レンヌ、プリュヴィオーズ家の末裔だ」
とアルスは言った。
 西部教会にとっての、或る意味最大の敵。それが目の前にいて、しかも流雫のフレンドとは。プリィは無意識に叫んだ。
「ルナ!!よりによって邪教なんかに……!!」
「ルナは無宗教だ。お前の敵じゃない」
とプリィの言葉に被せるアルスに、彼女を怒らせる意図は無かった。遅かれ早かれ正体を明かすことになるのなら、早い方がよかった。それだけの話だ。
 だが、上級職に就くプリィにとっては、ルナが邪教の人間と連んでいることに、戸惑いと怒りを覚えることは当然だった。裏切られた……その感覚さえ抱く。
「じゃあ何故……!」
「……ノエル・ド・アンフェル、トーキョーアタック。僕を祖国から追い出し、かつての恋人を殺した2つの事件。その真相を掴むために、僕はアルスの力を借りた。それしか無かった」
流雫の声に足音が混ざる。流雫の視界の端に、階段を駆け下りた澪と詩応が映った。
「でもノエル・ド・アンフェルは血の旅団が……!!」
「判ってる。それでもアルスに頼りたかった」
滑らかなフランス語の応酬は、2人の女子高生には何と言っているか判らない。しかし、僅かなフレーズだけは聞き取れる。
 ……アルスに頼りたかった。アルスしか頼れなかった。
「邪教に頼ってまで、恋人の仇討ち?」
その声の主を睨んだのは、流雫ではなかった。
「ルナを敵に回す気か?」
とアルスは言う。あくまでも冷静に、そしてプリィのために。
 「ルナを敵に回せば、お前の味方は日本ではいなくなる。誰一人な」
「ミオやシノは!?」
とプリィは返す。特にシノは信者、彼女は味方のハズ……。
 しかし、アルスは一蹴した。
「2人はルナの味方だ。国籍や宗教すら超えた結束に、教団内の地位如きが敵うと思ってるのか?」
「……私を脅してどうする気?」
「脅す気は無い。現実を言っただけだ」
とアルスは言いながら、2人の女子高生に目を向ける。詩応は無意識にその名を呼ぶ。
「アルス……!?」
「何でもない」
と英語で答えるブロンドヘアの少年は、あくまで2人には落ち着いた声で言う。……関わってほしくない。だが。
 「ミオ、シノ!私の味方だよね!?」
と、2人に向いて問い掛けるプリィ。その目には焦燥感が滲んでいる。
「……味方?」
「邪教と手を組んでないよね!?」
「邪教……!?」
とだけ日本語で繰り返した詩応の隣で、澪の表情が険しくなる。
 ……フランス語で捲し立て、英語で同意を求めてきたプリィは、邪教と云う言葉を使った。……血の旅団を邪教扱いした。そして、焦り気味に味方かと問うてきた。
 「……ルナに何を言ったんですか……!?」
と英語で問う澪の声は、怒りを辛うじて抑えているように聞こえる。
「ルナが、邪教と手を組んでた!仇討ちなんかのために!」
プリィの言葉に、アルスは諦めの表情を滲ませ、流雫は唇を噛む。
 「プリィ……?」
とだけ、落ち着いた声で名前を呼ぶ澪は、息を止める。青い瞳が、険しい目付きのダークブラウンの瞳を捉えた刹那……。
 「っ!!」
肉を打つ音が、新宿の空気を切り裂いた。ブロンドヘアが大きく揺れ、少女の視界が歪む。
「っ……!!」
「澪!!」
突然のことに、詩応が慌てて澪の肩を掴む。ボブカットの少女は泣き出す寸前の、詩応が苦手な表情を滲ませていた。
 「澪……!」
「流雫を……美桜さんを……バカにした……っ……!」
そう声を張り上げる最愛の少女を、流雫は無意識に抱き寄せた。その熱に感情が決壊した澪は、最愛の少年にしがみつく。
「流雫……っ……流雫ぁ……っ……!」
流雫は、泣き叫ぶ澪の頭を優しく撫でる。
 ……流雫をバカにされて、美桜さんの死すらもバカにされた気がした。我慢できなかった。
 どれだけ流雫が、寂しさを抱えて生きてきたか。彼の隣に立てるあたしは、少しは判っていると思いたい。
 それだけに、プリィの言葉を看過することはできなかった。笑って遣り過ごすことが大人の対応ならば、大人じゃなくていい……そう思えるほどに。
 痛む頬を押さえながらも、何が起きているのか判らないプリィに、アルスは近寄って言った。
「だから言っただろ、ミオはルナの味方だと」
その言葉に、プリィは何も反応しない。完全に予想外だった澪のリアクションに、未だ混乱していた。そして詩応も、プリィに険しい目を向ける。
「……アンタが聖女だとしても、アタシはアンタを認めない」
叛逆とすら受け取れそうな詩応の言葉に、アルスは続いた。
「これが現実だ」
 詩応は敬虔な信者だが、何より澪の味方だ。その澪は流雫の絶対的な味方……。流雫を敵に回したことで起きた連鎖反応は、規模こそ小さいがダメージは大きい。
 教会で寵愛されてきた少女にとって、先刻のアルスの言葉は信じられないものだった。しかし、誰もプリィに味方していない現実が、目の前に有る。
 「教会の力は、信者にとって絶大で絶対だ。だが、教会は所詮荘厳な檻に過ぎない」
「教会を檻呼ばわり……!」
「教会と立場に囚われる運命を、生まれた瞬間に押し付けられた。敵対する宗教とは云え、お前が可哀想だ」
プリィは言い返さない。
 アルスの言葉が間違っていないことは判っている。しかしよりによって、血の旅団信者に同情されるとは……。
「お前にとって俺は敵だろうが、俺はお前を敵とは思っていない。俺の敵は、祖国フランスを貶める奴だ」
とアルスは言い、数秒間を置いて切り出した。
 「……お前が望むなら、俺は力を貸す」
「それ、私に血の旅団を頼れと……!?」
「クローンに比べれば、血の旅団と組むことぐらい可愛いものだ。そうだろ?」
とアルスは言った。そこに不敵な笑みは微塵も感じられない。
 それ以外の選択肢が無いのか、プリィは頭を巡らせる。
「俺の望みはただ一つ。祖国の平穏だ。一宗教の内部問題ごときでテロを起こされて、人を殺されてたまるか」
そのアルスの言葉が、プリィに刺さる。
 「ノエル・ド・アンフェルを引き起こした教団に、祖国の平和を語られるとはね……」
とだけ呟いたプリィに、流雫は言った。誰もが耳を疑う一言を。
「……僕はプリィを助ける」

 「……え……?」
その言葉に誰より驚いたのは、ブロンドヘアの少女だった。そして澪は、しがみついたまま最愛の少年の名を呼ぶ。
「流雫……?」
 「僕はプリィを助ける」
と、日本語でリピートした流雫は、澪を抱いたままプリィに顔を向ける。
「流雫?一体……」
と問うた詩応に、流雫は答えた。
「今のプリィは、太陽騎士団すら頼れない。聖女アリスがいるから。……今、日本で力になってやれるのは……僕だけだと思ってる」
「でもアンタは……」
「プリィは空港で殺されかけた。……昔遊んだだけにせよ、襲撃や暗殺なんかで死んでほしくない……それだけのことだから」
と言った言葉に、澪は顔を上げながら
「……それでこそ、流雫だわ……」
と、小さな声で続いた。
 ……流雫が、美桜に弔う意味でもテロと戦わざるを得なかったことをバカにされた。彼自身、それについて思うことは有るだろう。
 だが、今目の前に立ちはだかる脅威や謎に立ち向かうためには、その感情をどうするべきか……。流雫は流雫なりの答えを持っていて、明確に言える。
 ……流雫に対して盲目的な部分が有る、と言われれば否定しない。しかし、自分は後回しでも相手にとっての最適を意識する、その本質を肯定したい。だから、澪が選ぶべき選択肢も決まっていた。
 顔を上げ、流雫から離れた澪は言った。
「……流雫がそうするのなら、あたしも力になる」
その言葉に、目の前のカップルを見つめる詩応は、やはりだと思った。
 だからこの2人の味方で在り続けると、何度目かの決意をした。2人に救われてきたから、その分2人の力になりたい。……そう、あくまでこれは流雫と澪のため。そう言い聞かせた後に
「今のプリィを認めるワケにはいかない、でも流雫と澪の力にはなるよ」
と言った詩応に
「サンキュ、澪も伏見さんも」
とだけ続いた流雫は、その特徴的なオッドアイの瞳で、プリィの瞳を捉えた。そして数秒だけ置いて言った。 
「……プリィは独りじゃない。僕たちがいる」
 その言葉に、アルスは口角を上げる。……遅かれ早かれ、流雫ならそう言うと思ったからだ。そして、プリィに向かって言った。
「……お前とセブのために、3人は立ち上がった。後はお前次第だ」
その言葉に、プリィは背中を押される。
 ……アルスも含めたこの4人が、今の彼女に味方する全て。自分と自分が愛する弟のために、自ら手を差し伸べたのだ。一度は敵に回したハズなのに、味方しようとしている。
 ……その手を掴むしか、他に無い。
 彼女は覚悟を決め、正対する3人の目を見つめた。国境や宗教を超えた結束……アルスが今し方言った言葉に、教会に囚われてきた少女が触れた瞬間だった。
 
 「……血の旅団とプリィが一緒……!?」
スマートフォンの画面に流れるフランス語を声でリピートした、ブロンドヘアの少女の表情が険しくなる。
「一体何をする気……?」
と呟くアリスは、その行動が不可解でしかない。
 旅費を出す家族も家族だが、プリィは1人で日本に行った。そして血の旅団信者と会っている。昨日講堂で盾突いてきたシノ、そして2人のグルらしきカップルも一緒だろうか。
「アルス・プリュヴィオーズ……」
と、タブレットを見ながら呟くアリス。
 同じレンヌを基盤とするプリュヴィオーズ家は、ヴァンデミエール家と共に、日本での宗教テロを解決したとして注目されている。メスィドール家にとっては警戒すべき存在だ。
 その末裔が日本にいる。プリィと密会するためにわざわざ日本を選んだのか、別の理由が有るのか。そして、グルと思しきカップルもだが、何よりシノが気になる。
 ……昨日の言葉は、所詮は末端信者のイキった戯れ言。そう一蹴できればいいのだが、それで済むとは思えない。
 プリィを捕まえなければ。それが果たせるまで、日本を離れることはできない。
「聖女アリス、登壇の時間です」
とスーツの男が言う。
「判ったわ、セブ」
とアリスは言い、原稿のアプリを立ち上げながら応接室を後にした。

 新宿を後にした5人は、臨海副都心へ向かった。流雫が東京で最も好きなエリアの一つだ。その一角の商業施設アフロディーテキャッスルは、流雫と澪が初めて顔を合わせた場所でもある。
 澪から誘ったデートは、直前に起きたテロで台無しにされた。しかし、それが有ったから澪は流雫の力になると決めた。言い換えれば、今の2人が始まった場所だ。その和食レストランに入り、手頃なメニューを頼んだ5人は、端の座席に陣取る。
 ……レンヌの太陽騎士団教会前で起きた襲撃事件の犯人は、未だその動機を話していない。プリィは言った。
「……あのレンヌの襲撃は、西部教会に対する反発だと思ってるわ……」
「イコール、メスィドール家か」
「そう。そしてただでさえ、メスィドール家は血の旅団を敵対視している。その信者に救われたことは、面白くないハズよ」
とプリィは言った。
 ……あの襲撃事件でもそうだった。犯人を仕留めた流雫とアルスに向けられた目は、しかし険しいものだった。
 別に承認欲求のために動いてはいないが、誰一人褒めも労いも無かった。それどころか、血の旅団に助けられたことに忸怩たる思いすら抱えているように、アルスには思えた。
 命より教団のプライドが優先される。太陽騎士団の欠点は、教会にもよるがその危うさを孕んでいることだ。特に西部教会は、その傾向が強い。
 流雫とアルスに近寄ったアリシアは溜め息をつき、周囲に顔を向けると
「だから、アンタたちの求心力は下がる一方なんだ」
と毒突いた。

 「恩を仇で返すとは……」
と詩応は言う。同じ教団の信者として、ただ呆れるばかりだ。
「ノエル・ド・アンフェルの因縁は根深いからな。まあ、俺が言う資格は無いが」
と言ったアルスに、流雫は問う。
「まさか、犯人はクローンの秘密を知ってる……?」
「ただそれなら、口止め料で脅すだけで十分だろ。100万ユーロは堅いだろうし」
とアルスは言う。そうしなかったと云うのは、つまり……。
 「正義の鉄槌を下す気でいた……?」
と流雫は言った。
「聖女と総司祭の座から、メスィドール家を排除するためにか?」
と問うアルスに先に反応したのは、元フランス人の少年ではなかった。
「……有り得る……わね」
と言ったプリィの言葉を遮るように、料理が運ばれてきた。まずは熱いうちに堪能するだけだ。

 初めて使う箸に苦戦しながらも、初めての和食を愉しめたプリィを、大観覧車トーキョーホイールに誘ったのは流雫だった。正しくは、
「折角だし、流雫とプリィで乗ってきなよ」
と澪が仕組んだものだ。
 先刻の言葉が未だに引っ掛かってはいるが、それはそれ。折角日本に来ているのだから、彼女には少しぐらい楽しいことをさせてやりたい、と思った。それが、かつて一緒に遊んだ少年と2人きり、密室で過ごす15分間だった。
 シースルーゴンドラのドアにロックが掛けられると、プリィは
 「……ルナにとって、ミオはどんな人?」
と問う。頬を引っ叩かれ、その直後に自分の手を取り、そして今は自分の恋人と2人きりになることを認めた。喜怒哀楽と態度の変化の大きさ……その感受性が気になる。
「ソレイエドールよりも尊い、かな」
と流雫は答える。
「何時だって僕を受け入れて、僕の力になって。何度ミオに救われてきたんだろう……」
「でも私は先刻……」
「プリィが思ったことは、間違ってない。テロで殺された恋人の仇討ちで、その真相を暴くなんて。普通に生きてる限り、まず有り得ないことだからね」
と流雫は言った。彼女のためのフォローではなく、本当にそう思っただけだ。……だからこそ、自分を全肯定して受け入れる澪を、流雫は自分の命よりも大事にしたかった。
 「ミオがいなきゃ立ち上がれないほど、僕は強くないから」
「ルナは十分強いわ」
とプリィは言った。
「強くないと、立ち向かえないわよ」
「……ミオやシノ、それにアルスがいるから、僕は戦えた。自分が死ぬことより、3人が殺されることが怖いよ」
そう言って、眼下に広がる東京の景色に目を向ける流雫。無邪気な年頃の少年が、何故命懸けでテロと戦わなければならないのか。プリィは流雫が不憫でならなかった。
 此処でソレイエドールの教えを説いて布教するのが、プリィの本来の立場であり役目。信仰で安心や安全を手に入れられる、と。だが、それが今は愚行でしかないことを、頭では判っていると思いたい。
「ルナ……」
「だから、強いのはみんながいるから。だから、みんなを護れるようになりたい」
そう言って微笑を浮かべた流雫の目に、プリィは吸い寄せられそうになる。
 破壊の女神テネイベールに似た、アンバーとライトブルーのオッドアイの持ち主、流雫。10年以上前、未だルナだった頃の面影を残しながらも、頼もしく見える。彼と再会できたことは、やはりソレイエドールの導き……プリィにはそう思えて、思わず優しい微笑を零し、流雫の目線の先を捉えた。
 流雫がレンヌを離れたあの日に止まった時間が、再び動き始めた気がした。

 「2人きりにしちゃって、よかったのかい?」
と詩応が問う。3人は近くのベンチに座っていた。
「流雫にとって、プリィにとって何がベストなのか……。あたしの頭じゃ、これが精一杯ですから」
と言った澪は、ペットボトル入りの紅茶を飲みながら一息つく。
「その言い方、澪らしいな」
そう言った詩応の瞳が捉える澪の微笑に、思わず微笑み返す詩応。澪は本来、こう云う気遣いを自然にできて、自分の手柄にしない性格だ。
 「幼馴染みに、ルナを奪われるとは思っていないのか?」
と、詩応の隣にいたアルスは冗談交じりに問うたが、澪は表情を微塵も変えず、
「ルナは、必ずあたしに戻ってくる。ルナの恋人は、世界であたしだけですから」
と答えた。こう云うことを平気で言えるのが、澪の強さでもある。但し、同じ事を他人から言われると容易く撃沈するのだが。
 ……アルスが少し意地悪な質問をぶつけたのは、不意に感じ取った不穏を確かめたかったからだ。己が過剰反応を示すようになっているだけなのか……否。
「ミオ、シノ……」
と2人の名を呼ぶアルスは、しかし何よりも流雫とプリィが気懸かりだった。2人はゴンドラの上……地上に降りてきても、動線は限られる。
「どうしたんだい?」
と詩応が問うと、アルスは言った。
「プリィを逃がす……」
 「逃がす?」
と詩応は問い返す。
「追っ手がいるようだ」
と答えたアルスに、詩応は周囲を見回す。少し離れたところにいる、大学生ぐらいのカップル風の男女2人。黒いショートヘアの男と、ブラウンのセミロングの女。
 先刻レストランに入る時に見掛けたが、今流雫とプリィがトーキョーホイールに乗っている間、列に並ぶワケでもなく3人を見ている。時々スマートフォンに目を向けるのは、何者かと連絡しているからだろう。
 「恐らくあれだ」
「後を付けていたのか……」
「思い過ごしだといいが、こう云う時の直感は当たるものだ」
「……同じく」
とぼやく少女の隣で澪は、流雫が乗ったゴンドラを見上げた。
 ……シースルーゴンドラは、2人の乗客に東京の景色を一望させる仕事をあと1分で終える。それから降りたばかりのプリィを逃がす、その役目は流雫に任せるしかない。
 折角のムードに水を差すのは忍びない、しかし躊躇していられない。同時に立った3人の端で、澪はスマートフォンを握った。

 「プリィ……」
降りる準備を始めた流雫は、そう名を呼んだ。澪の言葉が招いた、寸分前とは正反対の表情に、フランス人の少女は微笑を殺した。
 通話状態のままのスマートフォンを、ブルートゥースイヤフォンにリンクさせた流雫の右耳に、イヤフォン越しに澪の声が聞こえる。片耳だけ挿すのは、反対の耳で周囲の音を聞き取るためだ。
 テレパスではない2人のカップルにとって、これが互いを知る上でのベストな選択。
「……プリィは僕が護る」
そう言った流雫に、プリィは複雑な表情を浮かべた。
 僕はプリィを助ける、そう言ったルナは頼もしく見える。しかし、こうなったのは自分が日本にいるからだ。動きを察知され、狙われている。自分のために、ルナが危険な目に遭う……。そのことが、一種の罪悪感となって押し寄せる。
「……ルナ……」
と不意に出た声に
「もう誰も殺されない」
とだけ返した流雫の目に、戦士としての凜々しさが宿る。
 ……バスティーユ広場でノエル・ド・アンフェルに遭遇したあの日から15年、流雫はテロに囚われ続けている。そして、自分の身を護るために銃を使ったと云う事実が、感覚として甦る限りは、解放されることは無いと思っている。
 その贖いと救いを澪に求めている……と言われれば否定しない。痛々しく思われようと、それが現実だからだ。
 流雫が窓の外に目を向けた瞬間、地上がオレンジ色に光り、轟音が空気を切り裂く。
「プリィ!!」
流雫は咄嗟にプリィを押し倒す。ゴンドラが大きく揺れるが、アクリルのボディパネルはヒビが走る程度で済んだ。
「ルナ!?」
突然のことに困惑するプリィ。流雫は大きな溜め息をつくと身体を起こす。そして
「澪!?」
と口元のマイクに向かって叫んだ。

 幾つか並んだ端のベンチにいた男が、黒いスーツケースを置いたまま自販機へ向かっていく。そしてスマートウォッチを自販機にかざした瞬間、爆音と同時に樹脂製のボディが裂け、中から炎が噴き出した。
「シノ!!ミオ!!」
アルスが叫ぶのと、2人の女子高生が走り出すのは同時だった。爆風に僅かに背中を押されながら離れる3人、しかしフランス人は観覧車の降り口を駆け上がり、制止しようとする係員を振り切って、流雫とプリィが乗ったゴンドラのロックを外した。
「行け!!」
とドアを開けながら叫んだアルスに頷いた流雫は、プリィの手を引く。
 「テロだ!避難させろ!」
とアルスは係員に英語で叫んだ。

 「何故彼女を狙う!?」
詩応は声を張り上げながら、銃を取り出す。流雫や澪のそれより一回り大きい中口径の銃は、少し反動が大きい分威力は有る。尤も、動きを止めることに特化した使い方では射程距離が長くなることが唯一の利点だが。
 「彼女が何をしたの!?」
と澪は続いた。しかし、その声に反応は無い。
「答える必要は無い、か……」
と詩応は呟く。しかし、それは半分間違っているとボブカットの少女は思った。
 聖女アリスは、全てを知っている上で答える必要は無いと詩応に言った。しかし、目の前の男女は、空港で遭遇した2人と同じでは……。

 ……早朝のニュースで少しだけ流れていたが、空港でプリィを襲撃して死亡した男女は、動画投稿サイトで配信される新番組の企画に関わっていたことが判明した。
 スタッフが指示した人物を狙って、悪戯を仕掛けると云うもので、担っていたのは仕掛け役。前払いの報酬だったらしい、札束1冊分の現金が入った封筒がそれぞれの遺留品から見つかっている。尤も、その番組自体がダミーだったが。
 関係者を名乗っていた人間の全てと連絡が取れなくなっていて、警察が実態の解明に全力を挙げている。澪の父も、母の室堂美雪曰くその捜査で昨日は家に帰ってこなかったらしい。

 答えようとしても、狙う理由すら知らされていない……。それが実態だろう。
「誰からの指示なの!?」
と澪は問う。指示……その言葉に、詩応は
「澪!?」
と名を呼ぶ。
「多分、目的なんか知らされていない……。この爆発も、恐らくは……何も……」
そう言った澪の隣で、詩応の顔が引き攣る。
 「澪!」
流雫の声が聞こえた。
「流雫!プリィを逃がして!」
「澪は……!」
「詩応さんもいる……死ぬワケないわ」
と言った澪は、左手首のブレスレットにキスをする。最愛の少年への祈り……この手に流雫を感じる、だからあたしは屈しない。
 「……判った」
とだけ言った流雫は、プリィの手を引く。
 ……地元ではないが、何度もデートで訪れている。それ故、この周辺の地理には詳しい。後は彼女の体力がどれほどなのか。
 プリィを独りにさせられないが、男女と対峙する澪と詩応に不安は無い。あの2人のコンビネーションは目を見張るものが有るからだ。
 澪が小口径の銃を取り出すのと、男女が中口径の銃を取り出すのは同時だった。
「詩応さん……」
と澪が声に出すと、
「偽物は何処だ!!」
と男が叫んだ。……聖女の偽物、つまりはプリィか。
 「アンタたちに答える理由は無いね!」
と詩応は言葉を返す。それは、対峙する男女を苛立たせるには効果的だった。
「生意気な!」
と言った男は銃口を向けながら近寄る。
「吐け!!」
と続けるが、2人は沈黙を貫く。苛立つ男は、遂に引き金を引いた。大きめの銃声と同時に、女子高生の背後の柵が音を立てる。
「次は当てるぞ!」
と男は言った。その返事は、小さな銃声だった。金属音を立てて男の手を離れた銃は、隣の女の足下に転がる。
「くっ!!」
男が睨むボブカットの少女は、銃弾が狙い通りに当たったことに安堵していた。
 ……先手必勝は報復を生む。それが澪のセオリーだった。
 相手が銃口を向けた瞬間に、正当防衛は成立する。そして、当たらなくても撃たれれば、逆に射殺しても罪には問われない。刑事の娘として、澪が常に意識していることだ。そのことを、この男女は忘れていた。
 男は銃を拾い、
「死ねぇ!!」
と叫ぶ。利き手ではない方で、片手で握る……それは撃つ方にも、撃たれる方にもリスキーだ。
「詩応さん!」
澪が叫ぶと同時に、2人は反対方向へ分かれた。それと同時に銃声が数発響く。あと2秒遅ければ、1発は当たっていただろう。
 「澪!」
とイヤフォン越しに声が響く。
「あたしは無事!」
と返ってきた声に安堵する澪は、しかし流雫の方が気懸かりだった。こっちを仕留めて、詩応やアルスだけでも合流させたい。
 ……そのアルスは何処?そして、女子高生2人はこの混乱で見失っていた。スーツケースを置いて自販機に向かった男を。

 「澪!」
と叫んだ流雫の声に、プリィは思わず身構える。
「ルナ……!?」
「ミオは無事だ……」
と言った流雫が背後を一瞥した瞬間、銃声が響いた。上空への威嚇発砲……!?
 大口径の銃を持った、Tシャツの男が1人。澪や詩応が対峙している2人とは別物。
「3人目……!?」
そう呟いた流雫は、踵を返してプリィと男の間に出る。
 「何が目的だ!?」
と流雫は声を張り上げるが、やはり答えは無い。流雫は黒いショルダーバッグから銃を取り出す。
 「ルナ……!?」
目を見開くプリィに、流雫は言った。
「これしか無いんだ」
 人を護るために、人を殺せる武器を手にする。これ以上の皮肉が果たして有るのか。
「その女を渡せ……」
と言った男に、流雫は
「僕が護ってみせる……」
と言い返した。
 銃口が流雫に向く。実力行使に出る気か……そう思った流雫のすぐ隣を銃弾が飛んだ。
「ひっ!!」
人形のようなプリィの顔が凍り付く。
 ……正当防衛、成立。流雫は冷静さを保ったまま、男を睨みながら銃を構える。
「女を渡せば……」
と言った男への返答は、2発の銃声だった。小さな銃弾は男の太腿に刺さる。
 「ぐっ!?」
と声を上げた男は前によろける。右足に激痛が走り、力が入らない。
「てめぇ……!!」
と声を上げ、銃を構える男は、しかし身体が大きく揺れて照準を合わせられない。
「くそ……!」
苛立ちだけが募る男の背後に、アルスが駆け寄ってくる。
 「ルナ!!」
と声を張り上げたフランス人に、男の顔が向く。しかし丸腰。飛んで火に入る何とやら……。その言事が浮かんだ男は、銃口を向けようとする。だが、それが甘かった。
 飛んで火に入るが焼け死なない……それがプリュヴィオーズ家の末裔だ。アルスは小さなメッセンジャーバッグからボトルを取り出し、男の目に吹き付けた。
「ぐぁっ……!目っ……!」
「単なるアルコールだ」
と、膝から崩れ落ちて目の上を押さえる男にアルスは言い放ち、掌大のアルコールスプレーを握り締める。
 「血の旅団と云う汚物を見たんだ。目の消毒には最適だろ」
生意気な口調で、アルスは言った。
 フランスで起きたノエル・ド・アンフェルを理由に、日本では活動を禁じられている血の旅団。しかし、宗教活動さえしなければ、何の問題も無い。
「ふざけやがって……」
男は僅かに開いた目でアルスを捉える。しかし、次の瞬間アルスの膝が額を捉える。
「がぁぁぁっ!!」
激しい脳震盪を起こした男が、銃を手放してその場に倒れる。アルスが流雫の元に駆け寄ると同時に、流雫は立てられた膝を掴むと、ズボンに血が滲む大腿に銃口を押し付ける。
 「何が狙いだ!?」
怒りに満ちた問いは、しかし男には聞こえていない。朦朧とする意識で何か言い掛けるが、声も出ない。
「ルナ……」
恐怖すら感じさせるルナの口調に、プリィは身震いする。
「あれがルナだ」
とアルスは言った。
「お前を護るために、手段は問わない。ルナはそれだけ、お前のために必死だ」
 空港の時も、プリィだとは気付いていなかったが、流雫は必死に助けようとした。……愛しい人を失ったことが、人を救いたい原動力。
「ルナが私のために……」
そう呟くプリィは、流雫にテネイベールの面影を見た気がした。尤も、それは偶然オッドアイが同じと云うだけで芽生えた妄想でしかないのだが。
 丸腰のアルスとプリィを置き去りにするのは不安だが、澪と詩応が気になる。しかし、アルスは流雫の心理を読んでいたのか、男の喉仏を掴むと言った。
「ルナ、行け」
 流雫は男が手放した銃を拾うと、
「アルス、プリィを頼む」
と言い残し、踵を返した。

 2対2。しかし銃の口径で不利。アイコンタクトを交わす澪と詩応は、同時に靴音を鳴らした。
「澪!」
と声を上げる詩応に、男の目が向く。
「詩応さん!」
澪の声を掻き消すように響いた銃声、しかしそのボーイッシュな少女の身体に弾痕を残すことはできない。
 詩応は銃を構え、引き金を引く。規則的に撃ち出された銃弾は3発、うち1発が男の腕に刺さった。
 1発だけだが、動く標的に当てるのは難しい。しかも、首の怪我の後遺症を抱えている。手が震える中では、至難の業でしかない。奇跡に近い、と詩応は思った。
「ぐっ!」
銃ごと患部を押さえる男は、顔を歪めながら詩応を睨む。……幸いもう1人の男がいる、今頃あの女を捕まえているだろう。後は自分が逃げ切れればいい。そう思った男は、しかし大きな誤算をしていた。
 イヤフォン越しに聞こえた
「プリィはアルスといる!」
の声に、澪は僅かに安堵を感じる。しかし、油断はできない。
 「プリィはアルスといる!」
流雫の声が届いた澪は、しかし男女を仕留めるには至らず、どう凌ぐべきか頭を悩ませている。
「流雫は?」
「戻ってる」
その答えに、澪は
「ダメ!」
と返す。
「でも澪が……!」
その声と同時に、大きな銃声が鳴る。
「澪!」
声を上げた流雫は、目の前の階段を駆け上がった。男女2人は、突然現れたシルバーヘアの少年に気を取られる。警察でないことだけは判るが……。
 「誰だ!?」
その問いに答えない流雫は、小口径の銃を下ろしたまま、破壊の女神に似た目で2人を睨む。
「邪魔するなぁ!」
そう叫んだ女は、銃を構える。
「流雫!」
澪と詩応の声が重なる、その瞬間流雫の身体が動く。男女の銃弾は流雫を捉えることができず、銃声だけが虚しく響いた。
 「くっ!」
女が声を張り上げると同時に、流雫は踵を返して懐に飛び込んだ。異性に手を出すのは忍びないが、今はそう言っていられない。
 力任せに振った銃身は、女の喉仏を捉えた。
「ごぼぉっ!!」
セミロングヘアを揺らしながら後ろに飛ばされた女は、喉を押さえて悶えながら、前屈みになる。銃は持ったままだが、噎せる度に集中力がリセットされ、構えるどころの話ではない。
「こ……の……!!」
女は殺意に満ちた目で睨む。しかし身体はその指示に従えない。苛立ちが女を支配する。
「銃さえ……奪えれば……」
と流雫は呟く。その声がイヤフォンを通じて、澪の鼓膜を揺らす。
「流雫……!」
と澪は声を上げた。

 「聖女をどうする気だ!?」
と、馬乗りになったままのアルスは問う。その英語は通じていないが、今更答えが返ってくるとは思わないから、求めてもいない。プリィはその隣で、ただアルスを見守っている。
 「何やってる!」
と声が響いた。何と言っているか判らないが、その声色に聞き覚えが有るアルスは少しだけ安堵の表情を浮かべ、顔を上げる。
 ブロンドヘアの少年に見覚えが有った声の主は、黒いスーツを着た若めの男。咄嗟に英語で
「ルナは!?」
と問う。アルスは
「あっちだ」
と言い、首をその方向へ向ける。
「此奴を狙ってた奴だ」
と言ったアルスの隣で、男は手錠を取り出す。犯人を手際よく逮捕する光景に
「流石はディテクティブ・ミダガハラ」
とアルスは言い、男は表情一つ変えず
「よくやった」
と返した。
 弥陀ヶ原陽介。澪の父、室堂常願の後輩刑事。流雫たちとは面識が有る。何より、流雫が慕っている。刑事が来たからには安全だ、と思ったアルスはプリィに
「怪我は無いな」
と問う。その隣で、フランス人2人に弥陀ヶ原は問うた。
「何が起きた?」

 視界の端に流雫を捉えた詩応は、手負いの状態だが殺意だけは衰えない男に目を向ける。何故流雫が戻ってきているかは知らないが、つまり澪の援軍が現れたと云うこと。
 痛みに抗い、血塗れの手で銃を握る男。詩応の残りは3発。咄嗟に地面を蹴った詩応は、元陸上部。足には後遺症が残らず、インターハイでも表彰台すら狙えそうだった俊足ぶりは健在だ。
 銃を向けようとするも、男は少女の動きについていけない。どうにか腕を上げたが、その先にボーイッシュな少女はいない。詩応はその右隣から腕を掴み、背中の方向に力の限り振り回した。
「がっ!!あああああっ!!」
腕から聞こえる音を掻き消す悶絶の声を耳に残しながら、詩応は自分より大きな身体を地面に倒す。その手には銃が握られていない。それは詩応の踵のすぐ脇に落ちて軽く跳ねた。踵で銃身を蹴った詩応は、馬乗りになって自分の銃を男の顎に突き立てた。
 「殺……す気か……?」
その問いに、詩応は
「彼女に危害を与えるなら」
と答える。……正しくは、先刻結託した4人に。そして詩応は問うた。
「聖女を狙う理由は?」
「……理由……?」
その反応に、詩応は手を緩めないまま
「理由も無いのに狙うハズが……」
と言い返す。
 「何も……知らん……」
その言葉に、詩応は問い詰めるのを諦めた。恐らくそれで通す気だ。ならば、警察に引き渡すまで男を逃がさない……それだけだ。

 シルバーヘアの少年は、後ろ向きにステップを刻み始めた。
「逃げるな!!」
その声を合図に、今度は澪が踵を浮かせた。
「こいつら……!」
そう声を上げる女を睨む少女は、小さな銃を構えて足下を狙う。先手必勝は報復を生む、しかしその報復が導く勝ちも有る。
 女の1歩前で床に跳ねた銃弾、しかしそれは女の動きを一瞬鈍らせるには有効だった。そして、澪を撃ち殺しても問題無い、と思わせる。
 その標的は一度だけ、不敵な笑みを浮かべる。それが不可解に思えた女は、その瞬間に致命的な誤算を起こした。
 流雫は靴のグリップに任せ、鋭角にターンすると同時に跳び上がる。土踏まずが手摺を捉え、そして小柄な身体が宙に舞った。
 三角跳びの要領で、女の視界に割り込む流雫。目障り、始末するならこいつから……女はそう思ったが、遅過ぎる。
 流雫は咄嗟に銃を構え、引き金を引いた。至近距離の標的は、自分に向けられそうになった銃身。金属同士鈍い音を周囲に響かせると、女の手から銃を引き剥がす。
「あぁっ!!」
その声に続いた澪は、後ろから女の手を掴み、背中に回させる。
「離せ!」
「いいわ。警察が来ればね」
と言葉を返した澪の耳に
「澪!」
と聞き覚えが有る声が響く。少しだけ安堵した澪は、しかしこれからが本当の戦いだと思った。そう、警察による長い戦いなのだ。

 3人の犯人は警察に逮捕された。5人は全員無事だったが、喜ぶ気にならない。
 臨海署に通された5人は、部屋の都合でフランスにルーツを持つ3人と日本人2人に分かれ、取り調べを受けることになった。2時間掛かったが、プリィとアルスが長かった。
 日本語が話せず流雫の通訳が必要だった以上に、狙われた理由に関しても一通り話す必要が有ったからだ。無論、教団の複雑な事情を隠しながらだから、どう言えばいいかは難しいところだったが。
 5人が警察から解放されたのは、夕方前のことだった。気を取り直して臨海副都心で遊ぶことにした。特にプリィは、今夜の宿もネックになる。昨日はホテルに泊まったが、毎日そう云うワケにもいかない。
 ……今日だけは、最愛の少年の隣をプリィに譲る。そう決めた澪は、レインボーブリッジを望むデッキの端に佇む2人を、少し離れたカフェのデッキから眺めていた。
 先刻はプリィの頬を引っ叩いたが、今は2人きりになることを望んでいる。だから先刻も、トーキョーホイールに送り出したのだ。
 その心変わりは、アルスにとっては不可解だった。女と云うものは複雑だ、とアルスは思ったが、そうアリシアに言えば、それは男が安直な生き物だから、と言い返されるのは目に見えている。
 澪は先刻のことには触れず、ただ流雫とプリィを眺める。その表情はどこか微笑ましく、しかし寂しそうで。詩応は、それが気懸かりだった。
「澪……?」
そう名を呼んだ詩応が見たダークブラウンの瞳は、濡れていた。

 2人が抱える孤独は、その意味では今まで恵まれてきたあたしには判らない。
「あたしがついてるよ」
その言葉は、今の2人にとって何の力にもならない。
 ……もっと、2人の力になりたい。どうすれば、そうできるのか。
「……澪は近過ぎるんだよ」
と詩応は言った。
「既に十分過ぎるほど、流雫の力になってる。無力なんかじゃない」
「詩応さん……?」
「それぐらい、見てて判るからね。でも澪は近過ぎて逆に気付かない。ただそれだけ、何時だって流雫と一緒だってことだから、それはそれで微笑ましいけどね」
その言葉に、澪は頬を紅くする。
 「プリィの救世主は、澪なのかもね」
と詩応は言った。
 ……流雫をバカにしたことへの怒りは残っている。しかし、プリィを助けることが流雫を支えることに結び付くのなら、そうするだけの話。
 流雫を軸に据えて物事を捉えれば、何も迷うことは無い。あたしは、2人の力になる。
「……ありがと、詩応さん」
澪はそう言って、少しだけ微笑んでみせる。その表情に潜む凜々しい決意を見た詩応は、澪が愛しく思えた。
 これだけ、人のために喜怒哀楽を露わにできる、そして立ち上がれる人は、詩応は流雫と澪以外知らない。

 「私のために……」
と言ったプリィは、流雫を中心とした4人が自分を護ろうとしていることが、少し不思議だった。そして、それがアルスが言っていた結束の意味だと思い知らされる。
「僕だけじゃ、プリィを護れないから。みんながいて、だから護れた」
と言った流雫の安堵の表情に、プリィは聖女らしい微笑を浮かべ、しかし数秒後には表情を険しくする。
 「セブが2人いるなら……何が何でも私のセブを連れ戻したい……」
とプリィは言う。流雫は一つだけ、疑問をぶつけた。
「日本に来た、本当の理由は何なんだ?」
「え?」
 「1人でファーストクラスに乗ってるプリィを、僕は見た。ファーストだったのは豪華を選んだワケじゃなく、そこしか空席が無かったから。最後の1席だったりして」
と言ったシルバーヘアの少年に、プリィは
「……確かに最後だったと、父は言っていたわ」
答える。
「日本行きが決まったのはここ数日。だからそうするしかなかった。でも、そうしてでも日本に来る必要が有った。……ただの現実逃避で、そこまでするとは思えないんだ」
「……将来はインターポールに入れるんじゃない?本部、パリだし」
と言ったブロンドヘアの少女は、数秒だけ間を置いて答えた。
「……その通りよ。現実逃避じゃないわ。ただ、セブのクローンまでは知らなかった、それは本当よ」
 「……まさか、セブが日本にいる?」
そう問うた流雫に、プリィは頷く。
 「セブはアリスの弟として同行しているハズよ。それがどっちのセブかは判らないけど」
「じゃあ、セブを追って?」
その問いに、プリィは首を縦に振らなかった。
「セブを追ったところで、連れ去ることはできないわ。ルナたちが加担するなら、話は別だけど」
「……私が追っているのは……クローンのデータよ」
そう言ったプリィに、流雫は
「え……?」
と、眉間に皺を寄せた。

 日本とフランスの科学者が集結して、アリスのクローンは生成された。ヒトクローンにまつわる、世界初の超長期プロジェクト。
 聖女候補を死産したメスィドール家の窮状に目を付けた専属の医師が、親戚関係としてレンヌに顔を出したフリュクティドール家の長女からDNAを無断採取し、クローンの生成に踏み切った。
 そのアリスが今日まで生きているから、プロジェクトそのものは大成功していると言える。
 しかし、人工的に生み出された命への倫理的批判は非常に根強く、クローンの保護のために全てが極秘とされた。公には、クローンなど生成されていない。
 日の目を見てはいけない快挙は、一部の科学者にとっては一種の屈辱でしかない。
 そして聖女アリスは、生命体としては全面否定されて当然の立場。正しい、自然な形で産まれたことにするしかない。

 「その医師は日本人で、クローン計画でもトップだったの。それが、クローンのデータを持ち出したことが発覚したの」
「でも、どうしてプリィが追うんだ?」
と流雫は問う。確かに、当局に関与させては計画がバレるから、そうできなかったことは容易に想像がつくが。
 「私……とセブのDNAを悪用され、もしクローンを量産されれば、それは世界に混乱を招く。人工的生命体の社会的な地位や、その命そのものに関わる大きな問題をも引き起こす……その危険性を孕んでる」
「何より、無断採取されただけとは云え、フリュクティドール家にとってはその地位に関わる大問題に発展しかねないわ」
「だから、ファーストクラスを使ってでも、すぐにでも日本に行かなければ……」
「そうよ。全ては教団と一家のため。まさか、ルナと再会するとは思っていなかったけど」
と、プリィは言葉を被せた。
 ……何故プリィは二度も狙われたのか。日本に行くと云う動きを察知した連中が、口封じにと動いたのか。しかし、あまりにも大掛かり過ぎる。そして何より、彼女は今の流雫の問いに答えていない。
 プリィ自身が、わざわざ日本に出向かなければならない理由が、流雫には見えてこない。一家は何故司祭ではなく、聖女候補とは云え未成年の少女を、それもたった1人で日本に行かせたのか。現にプリィは来日早々殺されかけているのだ。
 「待て……」
と流雫は呟く。日本語が判らないプリィだが、流雫の表情から、何を言ったのかは何となく察しが付く。
「ルナ?」
プリィが名を呼ぶ。しかし、耳に届いていない。
 ……疑えばキリが無い。だが、今は全てを疑わざるを得ない。そう、彼女の家族さえも。
 ……十数秒の沈黙が、何倍にも感じられる。小さな溜め息を吐いて、流雫は言った。
「フリュクティドール家に、怪しい動きが有るとすれば……」