羊垣内カノコは、伊織の継母である。
いつも目を細めており、穏やかそうに見えるがその実伊織にとても厳しく当たった。
伊織の本当の母は、伊織が五歳の時に亡くなっている。
その後カノコが後妻にはいったわけだが、――元々父とカノコは恋人同士だったのだ。しかし、――カノコは一般人だった。
伊織の母は羊の分家で、長老達の目に付いた。若い父は長老たちの言うことには背けず、伊織の母と結婚。すぐに伊織を授かった。
カノコは、伊織の母が憎くて憎くて、嫉妬して嫉妬して嫉妬して、呪って呪って呪って、そうして、あの日――伊織の母の葬儀会場に、梨々子を連れて現れたのだ。
あの日が、伊織の一番古い記憶だ。
まるで雷に打たれたような気分だった。
……伊織が五歳の時、梨々子はすでに三歳だったのだ。
本妻の他に妾がいることは、当主なのでままあることではあったが、幼い伊織には理解が追いつかなかった。
加えて――その当時三歳の梨々子は、すでに能力を顕現していた。
カノコの執念を天が聞き届けてしまったのか――伊織は一夜にして、母と次期当主の座を失ったのだった。
「きゃ……!」
どん、と突き飛ばされて、伊織は転がった。
ガチャン、と無慈悲な鍵の音が響く。
「ここから、出して、ください……」
「だめよ」
伊織は、――折檻部屋と言う名の座敷牢にいた。木造の小さな小屋に、檻格子をつけたものだ。屋敷からは少し離れた位置――中庭の隅に、この小さな小屋はある。腐った木のにおいだけがする、なにもない部屋だった。
蔵を伊織が掃除したため、継母が伊織をいじめるときはもっぱらこちらを使った。
「今日はずいぶんと呪符を書くのが遅かったみたいね。梨々子が会合に遅刻なんてしてしまったらどうしてくれるの?」
「ご、ごめんなさい……」
継母はにこりと笑うと、鞭で柵を叩いた。
バチンッ!
「……っ!」
伊織は、思わず目をつむる。
「今夜はそこで反省なさい。食事も許しません」
「わ……。わたし……っ! で、でも、ちゃんと間に合いました……!」
バチンッ!
「ひっ……!」
鞭が振るわれ、伊織は体を震わせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「もっと早く呪符が書けるように。能力が高められるように。星にでも祈ってなさいよ。あははっ」
継母は楽しそうに笑う。
父がいないとき、継母はたびたびこの部屋を使った。
継母はひとしきり伊織を鞭で脅かすと、愉快そうな笑みを浮かべて屋敷へと戻って行った。
やがて夜がきた。
しかし、部屋の中には布の一枚もない。
(寒い……。どうしてこんな風になっちゃったんだろう――……)
よくあることだ。
要領が、悪いのは認める。けれど。
(頑張ってる……つもり、なんだけど……)
今日だって、膨大な量を間に合わせたはずだ。
格子の外は、暗い木の扉があるだけだ。
檻から出られたところで、物置小屋から出られなければ意味がない……。
「……誰か……」
言いかけて、やめる。
(もう、誰もいない……)
伊織はしゃがみ込むと、懐から小さなお守り袋を取り出した。それは、死んだ母がくれたもので――唯一残っているものだった。
五歳より前の記憶はない。
だから、伊織は母のことを覚えていなかった。
母の残したもの――着物や宝石などの高価な物は継母にもって行かれ、安価な日用品は愉悦混じりに破壊された。
そんな中、母から手渡されたという認識だけがあるそれは、伊織にとって唯一の支えだった。
記憶のない、薄ぼんやりとした母の残映。それだけにすがるにはあまりにも儚い。
「……大丈夫。我慢すれば、大丈夫……」
そう、自分に言い聞かせる。
しかし、胸の空白は寒くて、とても寒くて。
「……誰か、そばに…………。…………」
伊織は、縮こまりながら夜を過ごした。
翌朝。
伊織は早朝から目を覚ました。――と言っても、そもそもあまり眠れなかった。隙間風が吹き込むこの場所で、快眠などできるわけもなかった。
「…………」
伊織は縮こまったまま、体をさする。少しでも熱がほしい……。
その時、ギィと折檻部屋の戸が開いた。
朝の白い光が差し込み、伊織は目を細めた。そしてすぐに――うつむいた。
「もうでてもいいって、奥様が。早くでてください」
やってきた人物は、――若い使用人だった。彼女は「はぁ」とため息をついて、めんどくさそうに立っている。
若い使用人は皆、伊織に冷たかった。継母や梨々子、父の仕草を見ているので、自然とそうするものだと思ってしまっている。――みんなが馬鹿にしている人物は自分も馬鹿にして良いのだと、そう染みついている。
「早くしてよ」
「……はい……」
しかし、伊織は反論をしなかった。
……したところで、どうせ継母に報告されるだけなのだ。そうすると、……牢からでられる日が延びてしまう。
若い使用人が牢の鍵をあけると、伊織は外に出た。
「じゃ」
「……あ……。……ありがとう」
お礼を言うのが正しいのか、伊織には分からない。継母の命で牢にいれられ、この使用人は継母の命でやってきただけだ。……けれども、伊織は言った。
「…………」
伊織は顔を上げる。
しかし、その場にはもう誰もいなかった。
屋敷にもどると、伊織はまずお風呂へと向かった。……折檻部屋から解放されると、いつも伊織は真っ先にお風呂へと向かった。
あんな扱いを受けていても、――もし来客が来たら。羊垣内家の人間として、最低限の身だしなみをしておかなければならない。
しかし、急がねばならない。このあとすぐに、朝食の準備や井戸水の汲み上げ、それからそれから――。
伊織は急いで体を洗い、湯船に浸かった。そしてお風呂から上がろうと立ち上がり、
「……あ、れ……?」
目の前がまっくらになった。
「伊織さま……!」
戸の外で、女性の叫び声が聞こえた気がした。
いつも目を細めており、穏やかそうに見えるがその実伊織にとても厳しく当たった。
伊織の本当の母は、伊織が五歳の時に亡くなっている。
その後カノコが後妻にはいったわけだが、――元々父とカノコは恋人同士だったのだ。しかし、――カノコは一般人だった。
伊織の母は羊の分家で、長老達の目に付いた。若い父は長老たちの言うことには背けず、伊織の母と結婚。すぐに伊織を授かった。
カノコは、伊織の母が憎くて憎くて、嫉妬して嫉妬して嫉妬して、呪って呪って呪って、そうして、あの日――伊織の母の葬儀会場に、梨々子を連れて現れたのだ。
あの日が、伊織の一番古い記憶だ。
まるで雷に打たれたような気分だった。
……伊織が五歳の時、梨々子はすでに三歳だったのだ。
本妻の他に妾がいることは、当主なのでままあることではあったが、幼い伊織には理解が追いつかなかった。
加えて――その当時三歳の梨々子は、すでに能力を顕現していた。
カノコの執念を天が聞き届けてしまったのか――伊織は一夜にして、母と次期当主の座を失ったのだった。
「きゃ……!」
どん、と突き飛ばされて、伊織は転がった。
ガチャン、と無慈悲な鍵の音が響く。
「ここから、出して、ください……」
「だめよ」
伊織は、――折檻部屋と言う名の座敷牢にいた。木造の小さな小屋に、檻格子をつけたものだ。屋敷からは少し離れた位置――中庭の隅に、この小さな小屋はある。腐った木のにおいだけがする、なにもない部屋だった。
蔵を伊織が掃除したため、継母が伊織をいじめるときはもっぱらこちらを使った。
「今日はずいぶんと呪符を書くのが遅かったみたいね。梨々子が会合に遅刻なんてしてしまったらどうしてくれるの?」
「ご、ごめんなさい……」
継母はにこりと笑うと、鞭で柵を叩いた。
バチンッ!
「……っ!」
伊織は、思わず目をつむる。
「今夜はそこで反省なさい。食事も許しません」
「わ……。わたし……っ! で、でも、ちゃんと間に合いました……!」
バチンッ!
「ひっ……!」
鞭が振るわれ、伊織は体を震わせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「もっと早く呪符が書けるように。能力が高められるように。星にでも祈ってなさいよ。あははっ」
継母は楽しそうに笑う。
父がいないとき、継母はたびたびこの部屋を使った。
継母はひとしきり伊織を鞭で脅かすと、愉快そうな笑みを浮かべて屋敷へと戻って行った。
やがて夜がきた。
しかし、部屋の中には布の一枚もない。
(寒い……。どうしてこんな風になっちゃったんだろう――……)
よくあることだ。
要領が、悪いのは認める。けれど。
(頑張ってる……つもり、なんだけど……)
今日だって、膨大な量を間に合わせたはずだ。
格子の外は、暗い木の扉があるだけだ。
檻から出られたところで、物置小屋から出られなければ意味がない……。
「……誰か……」
言いかけて、やめる。
(もう、誰もいない……)
伊織はしゃがみ込むと、懐から小さなお守り袋を取り出した。それは、死んだ母がくれたもので――唯一残っているものだった。
五歳より前の記憶はない。
だから、伊織は母のことを覚えていなかった。
母の残したもの――着物や宝石などの高価な物は継母にもって行かれ、安価な日用品は愉悦混じりに破壊された。
そんな中、母から手渡されたという認識だけがあるそれは、伊織にとって唯一の支えだった。
記憶のない、薄ぼんやりとした母の残映。それだけにすがるにはあまりにも儚い。
「……大丈夫。我慢すれば、大丈夫……」
そう、自分に言い聞かせる。
しかし、胸の空白は寒くて、とても寒くて。
「……誰か、そばに…………。…………」
伊織は、縮こまりながら夜を過ごした。
翌朝。
伊織は早朝から目を覚ました。――と言っても、そもそもあまり眠れなかった。隙間風が吹き込むこの場所で、快眠などできるわけもなかった。
「…………」
伊織は縮こまったまま、体をさする。少しでも熱がほしい……。
その時、ギィと折檻部屋の戸が開いた。
朝の白い光が差し込み、伊織は目を細めた。そしてすぐに――うつむいた。
「もうでてもいいって、奥様が。早くでてください」
やってきた人物は、――若い使用人だった。彼女は「はぁ」とため息をついて、めんどくさそうに立っている。
若い使用人は皆、伊織に冷たかった。継母や梨々子、父の仕草を見ているので、自然とそうするものだと思ってしまっている。――みんなが馬鹿にしている人物は自分も馬鹿にして良いのだと、そう染みついている。
「早くしてよ」
「……はい……」
しかし、伊織は反論をしなかった。
……したところで、どうせ継母に報告されるだけなのだ。そうすると、……牢からでられる日が延びてしまう。
若い使用人が牢の鍵をあけると、伊織は外に出た。
「じゃ」
「……あ……。……ありがとう」
お礼を言うのが正しいのか、伊織には分からない。継母の命で牢にいれられ、この使用人は継母の命でやってきただけだ。……けれども、伊織は言った。
「…………」
伊織は顔を上げる。
しかし、その場にはもう誰もいなかった。
屋敷にもどると、伊織はまずお風呂へと向かった。……折檻部屋から解放されると、いつも伊織は真っ先にお風呂へと向かった。
あんな扱いを受けていても、――もし来客が来たら。羊垣内家の人間として、最低限の身だしなみをしておかなければならない。
しかし、急がねばならない。このあとすぐに、朝食の準備や井戸水の汲み上げ、それからそれから――。
伊織は急いで体を洗い、湯船に浸かった。そしてお風呂から上がろうと立ち上がり、
「……あ、れ……?」
目の前がまっくらになった。
「伊織さま……!」
戸の外で、女性の叫び声が聞こえた気がした。