フィンゴットの背に乗って、ローズのために決断を下したリヒトを、ユーリは黙って見送った。
 『魔王』の出現により現れた魔物との戦闘のため、ユーリは騎士団長として、その場を離れることは出来なかった。

 ――いいや、違う。

 これからの人生や、人々の命と引き換えにしていいのなら、ユーリもリヒトを追うことなら出来た。
 リヒトの背を目で追うユーリに、ベアトリーチェは尋ねた。

「ユーリ。貴方は、彼の後を追うのですか? ……でも、もし追ったとしても、ローズ様はきっと、貴方は選ばない」
「……」

 ベアトリーチェの言葉に、ユーリは唇を噛んだ。
 ユーリは、本当はどこかでわかっていた。

 リヒトが幼い頃の彼と変わらないなら、『リヒト・クリスタロス』はローズのために、全てを捨ててでも行動するだろうということは。
 レオンが目覚めてから、彼が昔と同じように、誰かに手を差し伸べるそんな姿を見たときに、ユーリは少しだけ、リヒトに敗北感のようなものを感じる瞬間があった。

 ――敵わない。自分の弱さや幼さを隠すために、誰かの影に隠れる自分では。

 ユーリの『剣聖』の弟子という肩書きや、『騎士団長』という立場は、結局は誰かに与えられたものに過ぎない。

『魔法を使えない落ちこぼれの王子』
 誰からも後ろ指をさされる世界で前を向いて生き、苦境の中にありながら、自分の前で涙を流す誰かに手を差し出そうとするリヒトのようには、ユーリは自分にはなれない気がした。
 でも、同時にこうも思った。

 ――そんな『優しさ』は誤りだ。だからこそ、婚約破棄なんてしてあの方を傷つけたのに。

 リヒトを否定しようとしたとき、ユーリは自分の弱さにも気がついた。
 そして考えた。
 ローズが本当に助けを必要としていたときに、手を差し出すことも出来たのにしなかった自分とリヒトでは、一体どちらが彼女に相応しい人間だったと言えるのだろうかと。

『騎士団に入ります。今まで、お世話になりました』

 十年前、ユーリがベアトリーチェに勝利して騎士団に入ることが決まったとき、ユーリはローズの表情《かお》をちゃんと見ることはしなかった。
 本当はあの日、あの方は泣きそうにしていたのかもしれない――今のユーリは、そう思う。

『辛くはありませんか』
『何かあれば私を頼ってください』
『貴方は一人ではないのですから』

 この十年、優しい言葉をかけることはなく、『彼女は誰かのものだから』そう心のなかで繰り返して、ユーリは生きてきた。

 ――身分も、愛を告げた順番も関係ない。あの方の心が自分に向かわない理由は、本当は俺が、一番よく知っている。

 沈黙を貫くユーリに、ベアトリーチェは言葉を続けた。

「ユーリ。どんな世界を生きていても、『同じ幸福』は、永遠には続かない。それでももし、大切な誰かと、同じ目線で世界を見ることが出来るなら。私はそれも、『幸福』と呼ぶことが出来ると思います。貴方がもし、ここで戦い続けることを選ぶなら、きっと貴方はその時ローズ様と同じ目線で、世界を見ることが出来るようになることでしょう」

 リヒトに婚約破棄されたローズが騎士団にくるまで、ローズとユーリは殆ど言葉を交わすことはなかった。
 結局は、『手を伸ばしても届かない』そんなものは言い訳で、手を差し伸べることさえせずに、ユーリはローズから逃げていただけだった。

『もともとは公爵の地位をギルバート様に、レオン様の王妃にローズ様をというお話でした。……けれどその二人がいらっしゃらない今、ローズ様の悲しみがどれほど深いか……』

 『お嬢様』を敬愛する従姉妹の言葉に、ユーリは何も言えなかった――いいや、言わなかったのだ。

『あんまりです。魔法の使えない第二王子の補佐として、才能ある公爵令嬢であるローズ様を、なんて。……こんなこと、幼いローズ様には重荷でしかない』

 誰かが二人の関係を『契約』だという度に、そんな噂話を肯定も否定もしなかったのは、自分が見たあの日の光景から、目をそらしたいだけだった。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺はそばにいる。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしたい。だから――俺と、婚約してほしい』

 婚約を申し込んだ。その日リヒトは、ローズに指輪を贈った。

『はい。リヒト様』

 ――『真実』を、本当は自分だけが知っていたのに。

 魔法は心から生まれる。
 自分が強くなれない本当の理由に、ユーリは本当はずっと昔から気が付いていた。
 でもいつだって、目の前の現実から逃げていた。
 変えられない現実も、変れない自分自身からも。
 ユーリはこれまで自分の心に、ちゃんと向き合ってこなかった。

 ユーリは幼い頃、ミリアと交わした言葉を思い出した。
 強化魔法は、運命を打ち砕く・切り開く者に与えられる。
 そんな話を聞いたとき、ユーリはミリアに尋ねたことがある。

『ねえ、ミリア。運命って何?』
『運命とは、この世界の循環の中で、おそらくそうなるであろうという未来のことです。 でも、私はこうも思います。運命なんて言葉を使いたがる人間は、本当は弱い人間なのだと。 自分の中で、確約された未来があれば、人は明日を悩む必要はない。恋も愛も、 どんな未来も覆すそんな強い意志こそ、価値あるものだと私は思います。……勿論、こんな私が行動したことを含めて、運命だと言われてしまえば、それまでなのですが』
『 よくわからないけど、きっとミリアなら、新しい運命《みらい》を作れるよ!』

 ユーリはそう言った時の、ミリアの表情を今でも覚えている。
 悲しそうに、嬉しそうに笑う――そんな彼女の表情を。
 ユーリはミリアに、ずっと笑っていて欲しかった。いつだって自信たっぷりに、自分の前を歩いて欲しかった。
 だからそんなふうに悲しみの混じる表情なんか、浮かべて欲しくはなかった。

 ある時、ユーリは妙な夢を見た。 
 ユーリはローズのことは出会う前から、彼女のことは知っていたような気がした。
 ローズに初めて出会った時、ユーリは『やっと出会えた』と思った。
 でも、違う。
 『ユーリ・セルジェスカ(いまのかれ)』が本当に『ローズ・クロサイト(かのじょ)』に惹かれたのは。

 ――貴方が『ミリア・アルグノーベン(おれのヒーロー)』を、初めて認めてくれたからだった。

 ミリアは昔から優秀で、ユーリの知る誰よりも強かった。
 ミリアはユーリのヒーローだった。
 「運命」を変えることの出来る、そんな力を持つ憧れの人だった。

 だがユーリの知る世界で、ミリアは否定されてばかりだった。
 ミリアが男だったら、本当は騎士にだってなれた。何にだってなれた。ユーリはそう思った。
 そして彼女に相応しいはずのあらゆるものは、ミリアではなくユーリに与えられた。

 『馬鹿で泣き虫で考え無し』
 ユーリはよく、そうミリアには怒られた。でも、そんなユーリのために、いつだってミリアは手を差し伸べてくれた。
 ミリアがどんなに望んでも、今の世界では手の届かない場所にいるユーリのことを、ミリアはずっと支えてくれた。
 ――だからこそ。

『貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね』

 ローズの言葉にミリアが嬉しそうに笑ったのを見たときに、ユーリはローズに強く惹かれた。
 ローズが初めてこの世界で、自分のヒーローを認めてくれたような気がしたから。

「選択は、貴方の自由です。行きたければ、行って構いません。ただ結果は、私も彼と同意見ですが。貴方が決めなさい。ユーリ」

 公爵令息として戦場に赴くことに立つギルバートの補佐として、戦闘に参加していたミリアが言った。
 ミリアの言葉は少しだけ優しくて、いつも厳しい。ユーリは、自分の胸に手を当てて考えた。

 誰かの痛みを感じる度に、守りたいとそう思った。
 それが叶わない願いだと現実が告げても、ただただ祈った。
 力になりたい。大切な人が、心から笑えるように。
 ――そのための、力がほしい。
 子ども心に焦がれた『ヒーロー』を、たとえ今はまだ、世界が認めてくれなくても。
 彼女たちに教わった自分が、代わりに道を開く。そうして、愛する人の愛する国を守りたい。 

『『ユーリ』』
 今の彼の中には、自分をここまで導いてくれた二人の声が響いていた。

『貴方に私の気持ちの何がわかると!? 私はずっと、ローズ様を見守って来たんです。私は、私は……!』

 ユーリに力を与えてくれたその少女は、ずっと彼の『ヒーロー』だった。
 それでも世界は、ミリアの力を認めなかった。

『……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!』

 自分を支えてくれた、年上の小さな少年は、その身に与えられた宿命故に、心に壁を作って自分のことを拒絶した。
 尊敬して、頼りにしていた。大好きで、大切にしたかった二人の存在を支えるには、ユーリはあまりにも無力《こども》だった。でもそれでも、彼はこれまで変わろうとは思えなかった。
 幼い頃からの初恋を、ずっと胸の奥底に抱きながらも、一方でその恋に背を向けて、彼は騎士として日々を重ねた。

『簡単に隠れる光なら、存在する意義はない』

 だからこそ、あっけなく敗れた。
 前騎士団長という『ローゼンティッヒ・フォンカート(そのおとこ)』は、ユーリの立場を揺るがす人間となってしまった。

『誰に認められない感情であったとしても、自分を貫く心こそが力になる。強い意志こそが、人に魔法という力を与える』

 守られて生きることが当たり前で、誰かに敵意を示されてやっと、ユーリは自分の弱さに気がついた。
 恋心だけじゃない。
 その時やっと始まりの――強さを渇望した日を思い出した。
 もっと、強くなりたいと思った。その理由を――今なら彼は、ちゃんと言葉に出来る。

『この世界で先に生まれた者の役目は、先に死にゆくことではなく、後に生まれたものを育てることなのですから』

 自分を認めてくれる、優しい誰かの言葉の裏にある心の傷(かこ)から、目を逸らして生きてきた。
 そんな自分から、変わらねばならないのだと、そう思った。
 それこそが――自分を導いてくれた誰かに、唯一返せる恩返し(こと)だというのなら。
 でも感謝の言葉も、謝罪の言葉も、二人はきっと望まないから。

 ユーリはやっと、『こたえ』を見つけたような気がした。

 ――ああそうだ。自分の手を引いてくれる誰かも、導いてくれる『ヒーロー』も、いつも強いばかりでは居られないなら。今はまだ彼や彼女の前は歩けなくても、自分も、誰かの未来を照らす光になりたい。そうしていつかそんな自分を見て、二人が前に進めるように。俺が今、前に進もう。だから今、覚悟を決めよう。

 銀の銀の髪と金色の瞳は、強い意志を宿し、宝石のように輝く。
 ユーリは、短剣と長剣を手にして戦う二人に向かって言った。

「俺は、行かない。俺はこの国を守る騎士団長、ユーリ・セルジェスカだ!」

 ユーリの言葉と同時、彼の耳に揺れていた耳飾りが光を放った。

「これは……」
 その光はユーリ自身を包み込み、波紋のように広がって、そして『魔王』からうまれたものたちは、光を浴びて足下から崩れていく。
 黒煙を纏う者たちの異変に、誰もが目を見張った。

 ――彼は。その魔法を、使えなかったはずなのに。彼はずっと、風魔法しかもちえないはずだったのに。

「――これは、光属性……?」

 それは、騎士団長に必要とされる資質。
 防壁と癒やし。かつてローゼンティッヒに敗北したユーリが、石に宿させた光魔法が展開される。
 ユーリの魔法が、臭気を纏うものたちをなぎ倒していく。
 風によって高く上がった光は、雨のように人々に降り注ぐ。 

 ミリアはその光景を、信じられない思いで見つめていた。
 ミリアの知る幼い頃のユーリは、何も出来ないただの子供だった。でもそんなユーリだけが、自分のことを蔑む目で見ることがなかった。
 自分には才能があると自分では思っていても、決して認められなかった自分の代わりに、ミリアはユーリに思いを託した。

 だからこそ剣を教えた。
 社会を生きていくために、知識や教養を与えた。
 自分を尊敬のまなざしで見てくれた子どもがいつか、夢《あらゆるねがい》を叶えられるように。

 弱い子供。脆く、儚い。
 でも本当は、そんな彼の優しさに甘えていたのは、きっとずっと自分の方で。
 ミリアはユーリが前に進むたびに、認められていくたびに嬉しくて、その一方で彼が抱える未熟さに、いつもどこかでいらだちを覚えていた。

 ひどい言葉を沢山彼には向けた。情けない姿を見せたこともある。
 それでもその子供はずっと――自分に向ける尊敬のまなざし(ひとみ)を、変えようとはしなかった。

「ミリア」
 聖なる光を纏う銀色の騎士。
 そして今、おとぎ話の勇者のような強い力を得た騎士は、幼い頃と変わらない、子どものような言葉をミリアに向ける。

「約束しただろ。ミリアに教わった俺が、この国の騎士団長《いちばん》になるんだって」

「……そうですか。そんなことはまだ覚えているなんて、貴方はやっぱり本当に馬鹿ですね」

 どこか無邪気に笑うユーリの声に、ミリアは声が震えてしまいそうだった。

「馬鹿っていうほうが馬鹿なんだ」
「……こんな時に、相変わらず子供ですか。貴方は」

 ミリアはユーリに背を向けた。
 ――これ以上、涙を抑えることは、私には出来ない。
 そんなミリアに、ギルバートが問いかける。

「泣いてるのか?」
「……ふざけないでください。私は、泣いてなんかいません」
「俺の前では強がらなくていいんだぞ?」

 相変わらずの軽口に、ミリアは少しイラッとした。

「……口を閉じてください。ギルバート様」
 そして本当はここまでのことは――ギルバートがミリアに告げていた、『運命《みらい》』そのものだった。

「約束します。私が、『運命《みらい》』を作る」

 ミリアは短剣を握り直した。
 自分を慕ってくれたユーリが立場を理解して戦うと決めたなら、彼に道を教えた自分が、泣いてばかりなど許されない。

 ミリアは空を見上げた。心のなかで繰り返す。誰かに否定され続けて来た能力《ちから》こそ、自分にとっての本当の誇りだと。
 自分はただのメイドじゃない。
 運命を切り開く特別な魔法を身に宿す――強化の魔法の使い手なのだ。

「その役目、私達も手助けいたしましょう」

「誰だ……?」
「ローゼンティッヒ?」

 その時響いた涼やかな声に、ユーリとベアトリーチェは振り返って、声の主を見て目を瞬かせた。
 短髪の、どこか青年のような凛々しさのある女性の後ろには、ローゼンティッヒが続く。
 そして二人の後ろには、ロイとシャルルもいた。

「示そう、ここに。強化属性の、もう一つの力を。だから、『ビーチェ』。協力してくれ。――彼の力の増幅を」
「言われなくても」

 ローゼンティッヒはユーリのように、『ベアトリーチェ・ロッド』を『ビーチェ』とは呼ばない。
 ローゼンティッヒに『ビーチェ』と呼ばれて頷いたのは、彼の前を歩いていた女性だった。

「え?」
「お手に触れることをお許しください。ユーリ・セルジェスカ殿」

 ローゼンティッヒに『ビーチェ』と呼ばれた女性は、そう言うとユーリの手に触れた。

「今こそ君に、『光の巫女』最後の予言を教えよう」

 驚くユーリにローゼンティッヒは微笑んで、高らかに宣言した。
 まるでユーリの成長を、誰よりも遠い昔から信じ、期待していたかのように。
 
「『ユーリ・セルジェスカという少年が聖騎士として目覚めるとき、世界は光に包まれる』」
 
「力よ、光よ。――増えよ。満ちよ。悪しきものを、排除せよ」

 『ビーチェ』がそう呟いて、魔法を発動させた瞬間。
 ユーリの光魔法が、より強い光を放った。

「何だ……!? これは……」
「力が、増幅されていく……?」

 二人を見ていた周りの兵士たちから、驚きの声が上がる。

「これは……」
「強化の魔法は、運命を打ち砕く・切り開く人間《もの》に与えられる」

 他の人間の力を『強化する』力。
 石に刻まれていたのは、リヒトの魔法道具に使われていたものとよく似ていた。
 ローゼンティッヒはミリアとシャルルに、魔法陣の刻まれた石を手渡した。

「これは、『彼』の研究をもとにつくられたものだ。君たちも『彼』の魔法は知っているんだろう? 君たちならば使えるはずだ」

 ミリア・アルグノーベンは本来なら、ローズと同等に優秀な人間だった。
 そしてシャルルは、魔法学院を有する国の王であり、『大陸の王』の記憶を継ぐロイに師事を受けた、未来必ず名を上げる魔法使いだ。
 二人はそれをひと目見て、使い方を理解した。

「王様」
「ギルバート様」
「シャルル……?」
「王様。私は、王様の生きるこの世界を守りたい。だから今は私を、私の魔法を信じてください」
「……ミリア」
「貴方は私を『運命』だと言った。私の力は、お嬢様や貴方を、この国を救えると。だったら今は、私の力を信じてください」

 強化魔法はこれまで、彼女たちにとって対象だった。
 運命を変える。その力を持つ二人の愛しい少女の言葉に、ロイとギルバートは当然のように笑った。

「「この世界の誰よりも、俺は君のことを信じている」」

 ロイとギルバートの声が重なる。

「やられっぱなしは性に合わない。さあ、シャルル。俺たちの力で、この国を守ろう。愛すべきこの世界を、友人《とも》たちが帰るべきこの場所を」
「はい。王様」
「ミリア。君の力を貸してくれ」
「かしこまりました」

 ベアトリーチェに対抗するために集めたはずの精霊晶。その石は、まるで意思を持つかのように光っていた。
 空中に魔法陣が浮かび上がる。
 ロイが所持する精霊晶の多くは、グラナトゥムに忠誠を誓っていた、騎士たちのものだった。
 ロイは微笑んで石に触れた。

「精霊晶。お前たちが愛したこの世界を、愛した人々を、共に守ろう」

 力は重なり合い、強固な壁を作る。
 それはローズが魔王を倒したあの日、アカリ一人で作り出した光の壁に匹敵する、魔王に対抗しうる力だった。
 もうこの世界の住人に、『魔王と戦うための光の聖女』は必要ない。

「……私たちも、負けてはいられませんね」

 ベアトリーチェはそう言うと、青い薔薇の剣に口付けた。

「力を貸してください。――ティア」