【最終章】『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』永遠の薔薇の誓い編

 ローズがローゼンティッヒに出会ったときのことは、レオンとリヒトも知るところとなった。

 ――ローズ・クロサイトが、初対面の相手に一目惚れしてしまったかもしれないと。

「ローズがそんなことを?」
 リヒトはレオンからその話を聞いて、心の底から驚いた。

「ああ。随分彼も驚いているようだった」
「彼?」
 リヒトの問いに、レオンはふうと息を吐いた。

「リヒトはまだ会ったことはなかったかな? ローゼンティッヒ・フォンカートという男なんだけれど」
「……」

 『しゃしん』のこともあって、リヒトはその名前を聞いて体を強張らせた。
 まさか自分の代わりにローズと共に担がれようとしていた相手に、ローズが一目惚れだなんて――とても気分のいい話ではない。
 
 それに、ベアトリーチェ・ロッドはいい男だ。リヒトはそう思う。
 たとえレオン(あに)を王に望んでいるとはいえ、ベアトリーチェは婚約者であるローズを第一に考えて行動していることは見れば分かったし、リヒトの魔法の研究を最初に認めてくれた人物でもある。

「ローズは今、どうしているだろう……?」
 
 自室に戻ったリヒトは、ローズに手紙を書こうとしてやめた。
 ロイから不思議な『しゃしん』が届いたこと、ローゼンティッヒのことで悩んではいないか。
 ローズと話したいことは沢山あった。
 だがいくら幼馴染とはいえ、もう婚約者ではない(かんけいのない)自分から、ローズに連絡を取ることは、今のリヒトにはためらわれた。
 
 学院からクリスタロスに戻った日。
 当然のようにローズの手を取ったベアトリーチェの姿を思い出して、リヒトは無意識に、少しだけ拳に力を込めた。

◇◆◇

 ローゼンティッヒと出会ってから、ローズは不思議な夢を見るようになった。

 胸を裂かれるような悲しみと孤独感。
 目を覚ましたら殆ど忘れているのに、いつも目を覚ますと、目元が濡れている。
 そんな夜が続く内に、ローズは夢を見ることが怖くなり、眠れない日々が続いた。
 それがたたってか体調を崩したローズのために、ベアトリーチェが公爵邸を訪れた。

「大丈夫ですか? ローズ様」
「わざわざ来ていただいて……申し訳ございません」
「気になさる必要はありません。私は、貴方の婚約者なのですから。夢見が悪いとのことでしたので、ぐっすり眠れるように薬をお持ちしました」
「ありがとうございます」

 ベアトリーチェの優しい微笑みに、ローズはほっと息を吐いた。
 年上ということもあるのか、外見はどうあれベアトリーチェはローズにとって安心できる存在だった。
 彼が薬の開発を行っている、というせいかもしれない。知識においても信頼出来たし――彼の纏うハーブティーのような薫りも、ローズは嫌いではなかった。

「ローズ様の夢に、何か原因となるような心当たりは?」
「わかりません。ただ、あの方と出会って。ずっと変な声が」
「……ローゼンティッヒ、ですか?」
「すいません」

 ローズは思わず謝っていた。ベアトリーチェの表情が、少しだけ曇ったような気がしたからだ。

「貴方が謝られる必要はありません。それに花嫁は昔から、式を前にすると不安になるという方は多いそうです。きっと式が近いから、ローズ様も不安を感じられているのかもしれません」

 ――自分のせいで不安になっている。
 ローズは、ベアトリーチェにそう思われて気遣われているという事実が心苦しかった。

「少し眠られませんか? 安心してください。私が傍に居ます。心配しないでください。全部、私にゆだねて」

 ベアトリーチェの声は、まるで幼い子供を寝かしつけるかのように甘く優しかった。
 そして彼は、とある提案をローズに告げた。

「それとも一緒に寝て差し上げましょうか?」
「え?」

 ローズは、ベアトリーチェの口からその言葉を聞いたとき、聞き間違いかと思った。
 だって彼がそんなことを言う人だとは、とても思えなかったから。

「勿論添い寝ですが。貴方がそれを望まれるなら」
「……」

 ローズは、ベアトリーチェの提案にどう答えるか悩んだ。
 けれど、いつものように優しく笑うベアトリーチェを見て、ローズは決意を込めて言った。
 
「お願いします」
 ――自分は、この人の妻になると決めたのだ。

「ローズ様……?」
 だが、提案した側のベアトリーチェは、ローズの答えに少し動揺の色を見せた。

「本当によろしいのですか?」
 ローズはコクリと頷いた。ローズはベアトリーチェに、赤い石の嵌った指輪を手渡した。

「……では」
 ベアトリーチェは少しの間の後に指輪を嵌めた。
 すると長い髪の美しい男が、ローズの前に現れた。
 精霊のような美しさ。人ならざる美しさを備えた彼が、ローズの寝台に横になる。
 ベアトリーチェは、いつもより覇気のない瞳をしたローズの身体を、自分の方に抱き寄せた。

 どんな敵からも守ってくれると思わせる、そんなベアトリーチェの温もりに、ローズは静かに目を瞑った。
 こうやって誰かに添い寝されたのは、ローズはもう随分と昔の頃のことのように思えた。

 優しいぬくもり。心臓の、人の鼓動の音がする。
 その音を聞くだけで、ローズは何故か胸が痛かった。

「……っ」
 嗚咽を漏らしたローズの手に、ベアトリーチェは指を絡ませて尋ねた。

「どうして、泣いていらっしゃるのですか……?」

 返せる答えは、ローズの中には浮かばなかった。
 ローズには、自分の感情が分からなかった。
 だからこそ。

「――キス、してください」

 自分のことを思ってくれる優しい人に、自分の中にある隙間を、埋めてほしいとローズは思った。
 他の誰も入れないくらい、自分の心も体も彼で埋めてしまえば、きっと不安からは開放されるように思えた。

「……私が、貴方のものだと教えていただきたいんです」

 自分の提案は、ベアトリーチェにとっても良い提案のはずだ。
 ローズはそう思ったが、ベアトリーチェはローズの言葉に困ったように笑って――それから、幼い子どもに諭すように言った。

「……ローズ様……言ったでしょう? 貴方に、無理に心を決めてほしくないと。そんな顔をなさる今の貴方に……」

 ローズは、自分が今どんな顔をしているかわからなかった。

「私との結婚が嫌になりましたか?」
 嫌なら、こんな提案なんてしない。ローズには、ベアトリーチェがどうしてそんなことを思うのか理解出来なかった。

「一年間、お待ちします。そう約束したでしょう? 私は、貴方には幸せになってほしい。私の時間を動かしてくださった貴方だから。私は貴方には、笑っていてほしい。だからそんな顔をする今の貴方に、私は口付けることは出来ません」

 ベアトリーチェはそう言うと、ローズの目元に手を伸ばした。
 ローズはその時初めて、自分が涙をこぼしていたことに気が付いた。

「私が、貴方にして差し上げられることはありますか? 変えてほしいことがあればを教えてください。私は、貴方の望みを叶えたい。私の心を、救ってくださった貴方だからこそ」

「違うのです。ビーチェ様が、悪いのではないのです。私が……私が悪いのです」

 ローズは、自分の言葉や態度がベアトリーチェを傷つけた気がして、精一杯彼の言葉を訂正した。
 自分がどれだけ彼に大切に思われていたかを知って、ローズは自分の心労の理由を彼には教えることにした。

「最近ずっと、同じ夢を見るのです。――誰かが、泣いている夢を」
「『誰か』?」

 ベアトリーチェは、ローズの言葉に目を瞬かせた。

「わからないんです。でも、夢を見るたびに悲しくて仕方がなくなるのです。それで、眠るのが怖くなってしまって……」
「それは……夢の中で泣いている人物は、ローズ様ではないということですか?」
「わかりません。私ではないとは思うのですが……」

 自分ではない自分に似た女性。
 ローズはその人物は、自分が見たことのあるとある女性に似ているようにも感じていた。
 『誓約の指輪』の片割れ――ローズがリヒトから預かっている、クリスタロス王国の『鍵の指輪』から現れた、完璧な『古い写真』に映っていた女性に。
 だがそれと自分の夢との関係については、ローズにはまだわからなかった。


 ベアトリーチェに添い寝してもらったおかけが、ローズは久しぶりに、悪夢を見ずに眠れた。
 午後、ローズが目を覚ますまでそばにいた彼は、ローズが目を覚ますとすぐに騎士団へと戻っていった。
 そして彼が屋敷を出たあとに、精霊たちと協力してお菓子を作ったというアカリが、公爵邸へとやってきた。
 そして少女らしい趣味を持つアカリは、こんな噂話をローズに教えた。

「そういえば、面白い噂を聞きました。最近王都に、よく当たる占い師さんがいるそうです。その人なら、もしかしたらローズさんの悩みも、解決してくれるかもしれません」

◇◆◇

「アカリが言っていた『占いの館』はここでしょうか……?」
 
 翌朝、ローズは誰にも言わずに屋敷を抜け出すと、アカリから聞いた占い師の元へと向かった。
 本当のことを言うと、ローズはあまり占いなどを信じる性質ではなかった。
 ただ、自分のことを何よりも優先して考えてくれる婚約者を、これ以上ローズは傷つけたくはなかった。
 だからもし、それを解決してくれる存在がいるとするならと――ローズは、藁にもすがる思いだった。

 『占いの館』
 アカリから聞いていた場所には、蛇を思わせるような細長い黒い天幕があった。

「扉のあとにすぐ扉?」

 天幕の中にはいくつもの立て札があった。
 外套は脱ぐように、魔法式の書き込まれた指輪は外すように、だとか――ローズはそれらの指示がなんのためのものかはわからなかったが、魔法を使用する際には心理状況も影響してくることから、占い師が正しく魔法を使うためのし指示かもしれないと思った。
 あるいは、神秘性を高めるための仕掛けなのかもしれないと。
 だがその数の多さに、少しだけ疲れてしまったのも事実だった。

「ここまで来ると、流石に注文が多いですね……。これで最後でしょうか?」

 いくつもの立て札の注文をこなしたローズは、最後の立て札を見て驚いた。 
 なぜならその言葉は、こちらを気遣うふりをして嘲笑うような――そんなものにさえ思えたからだ。
 
 その時だった。

「――つかまえた」
「これは……っ!」

 幼い子どものような声がして、ローズは体の自由を奪われた。

「貴方には、この世界を滅ぼす糧となってもらう」

  闇魔法の拘束だ。
 動けない。体に力が入らない。

 すべての属性の精霊晶。
 色とりどりの、花のような首飾りをつけた子どもは、どこまでも冷たい目でローズのことを見下ろしていた。

「それでは作るといたしましょうか。貴方を糧に――この世界にもう一度、新しい『魔王』を」
「ローズが行方不明!?」

 午後、ベアトリーチェと約束していたにもかかわらず時間になってローズが帰宅せず、公爵邸は混乱に包まれた。

 本来であればミリアが同行していたところだったが、当のミリアがギルバートに足止めを食らっている間に、ローズは窓から部屋を抜け出したようだった。
 ローズの机の上には書き置きが残されており、ファーガスは手紙を見て頭を抱えた。

【すぐに戻りますので心配しないでください】

 またか、と思った。
 だが娘の性格上、約束を破ることはないだろうと高をくくっていたのだ。
 だが約束の時間になっても戻らず――ローズが『鍵の守護者』でもあることから、ファーガスは王城にも連絡を入れた。
 国王リカルドは、次期国王と目されるレオンを公爵邸へと派遣した。

「花嫁が逃げ出した……?」
「ローズさんがそんなことするはずありません!」

 ローズに会いに公爵邸へと来ており、偶然その場に居合わせたアカリは叫んだ。

「ローズさんは、約束を破るような方じゃない。……ベアトリーチェさんと結婚するんだって、そう言ってました」
「口説いてみたんだけど僕もそう言われたよ」
「何結婚直前の相手を口説いているんですか……?」

 ベアトリーチェが少し不機嫌そうに顔を顰める。

「最後の最後の逆転も有り得るだろう?」

 レオンはけろりとした表情で言った。
 ベアトリーチェは頭を抑えて溜め息を吐いた。
 そして少しだけ冷静になって――昨日、ローズが自分に告げた言葉を思い出した。

『――キス、してください。私が貴方のものだと証明してください』

 ローズが自分をどう思っているかは抜きにして、ローズが軽い気持ちで約束を破るような人間ではないことも、彼女が親が選んだ相手である自分のことを精一杯好きになろうとしてくれていたことも、ベアトリーチェは知っている。
 ……だからこそ。

 何を彼女が悩んでいるかはわからなくても、そんな彼女ごと受け入れたいと、ベアトリーチェは思ったのだ。
 その彼女が突然いなくなるなんてことは想像が出来ない。
 普通の令嬢であれば誘拐なども考えるべきなのかもしれないが、いくら弱っているとは言え、ローズが平凡な人間に捕まるなんて、その場にいた誰もが想像できなかった。

「ローズ様は、今どこに……」
 その時だった。公爵邸の扉が勢いよく開いた。

「ローズ様について目撃情報がありました。最後に目撃されたのは、『占いの館』です!!」
「え……? 占いの、館……?」

 アカリは思わず言葉を繰り返した。
 何故ならその場所は昨日、自分がローズに教えた場所だったからだ。

「急げ! その場所へと向かうぞ!」
「レイザール」

 レオンは自らの契約獣を呼び出すと、不安な表情をしていたアカリとベアトリーチェに乗るように言った。

「これは、一体……」

 『占いの館』に着いたとき、アカリは予想していなかった光景に目を瞬かせた。

 簡易的な天幕《テント》のようなものがあると聞いていたが、そこには建物どころか天幕もなく、代わりにポツポツと生えた木にローズの服がかけてあったり、木箱の上に剣が置かれたりなどしていた。 
 その光景を見たとき、アカリの中にとある物語の題名が頭に浮かんだ。
 教科書に出てくるような有名な話。でもこの世界には、存在しないはずの物語。
 猫に化かされて食べられそうになる――間抜けで傲慢な紳士の話。
 
「え……?」

 そしてローズを心配する彼らを嘲笑うかのように、アカリはとあるゲームのパッケージが落ちていたのを見つけて目を丸くした。

 乙女ゲーム『Happiness』。
 それはアカリがかつてこの世界にくる前に、プレイしていたゲームだった。
 この世界が『別の世界』でなければ、存在しないはずのもの。

「どうして、これがここに」

 震える声で、アカリが呟いたその時。
 広場から人々の悲鳴が聞こえてきて、三人は声の方へと走った。

「み、見ろよ。あれ……!」
「何なの!? あれは……!」
「嘘。どうして、また現れるの……!!!!?」

 空に突如として現れた『魔王』の姿に、人々が悲鳴を上げる。
 しかも今回の『魔王』は、前回のそれとは少し異なっていた。 
 空に浮かぶ巨大な黒い塊には、彼らが『英雄』としてたたえる一人の少女が捕らえられ、意識を失っている姿が映し出されていたのだ。
 映像の投影魔法。
 それはリヒトが先日発表した、復元された『古代魔法』の一つ。

 その光景はアカリが、このところ毎夜見ていた『悪夢』とよく似ていた。

 古びた建物の中に、薔薇の花が咲いている。
 血のような赤い色。
 薔薇の茨の中心には、彼女のよく知る少女が囚われていた。
 赤い瞳は固く閉じられ、顔はひどく青ざめて見える。
 彼女の胸元には大きな赤い石がくくりつけられ、石の周りには、黒い靄のようなものが浮かんでいる。
 アカリは空を見上げて、その少女の名前を呼んだ。

「ローズ、さん……?」

 突然出現した『魔王』への対処のため、国王リカルドは自ら城下に降りて指揮をとった。
 魔力が弱いとはいえ、第二王子であるリヒトも父の指示で事態の収拾に努めた。
 
「こちらへ避難してください。焦らないで。走らずに進んでください!」
 
 紙の鳥の魔法を使い、状況を把握して出来るだけ人々を安全な場所へと避難させる。
 拡声魔法で必死にリヒトが声をかけても、混乱した民衆の中には、リヒトの言葉を聞かない人間も存在した。

 泣き叫ぶ子どもの声。
 自分の命を守るために、人を押しのけてでも前に進もうとする人々。
 リヒトは彼らをなんとか御しながら、冷静に誘導した。
 それだけが、今の自分にできる唯一のことだと彼は思った。
 
 『救国の英雄』ローズ・クロサイトが捕らわれた。
 そのせいで人々に動揺が広がる中、リヒトはローズへの心配を口にすることは出来なかった。

 ――戦うことの出来ない俺に、『自分に出来ること』なんて限られている。

 リヒトは何度も、心の中でそう言い聞かせた。
 リヒトには一つ疑問があった。
 それは魔王が『映像の投影魔法』を使える、また使った理由だ。
 そもそも『魔王』がなんなのかさえ、これまで人々は理解出来てはいなかった。
 『人為的』によるものなのか、それとも時間を経て、自然に『発生』するものなのか。
 リヒトは、今回の出来事から後者を疑った。
 なぜなら、もし自然発生するものであるならば、ローズをわざわざ捕らえて人々の前に晒すなんて、悪趣味な真似をする必要はないからだ。
 しかも今回、『魔王』の出現にあわせ、多数の魔物が出現した。

 その対応のために、婚約者のことが気になるであろうベアトリーチェは、ユーリと共に戦闘を命じられている。

 そして『光の聖女』であるアカリは、『聖女』として神殿で祈りを捧げることを命じられた。
 アカリが一番信頼を寄せるローズが不在の今、『魔王』を倒すための『光の聖女』が、聖女の『加護』を未だに使いこなせないなんて、明らかになっては困るから。

◇◆◇

 リヒトは人々を安全な場所へと誘導し終えると、魔物や『魔王』たちと戦うために、急遽作られた基地へと向かった。
 そこには作戦を練るために、レオンやベアトリーチェ、ユーリが集まっていた。

「リヒト」
「リヒト様」
「リヒト様。こちらに来られたと言うことは、任務は完了されたのですか?」
「ああ。先ほど王都の住人について、出来るだけ安全な場所への避難を完了させた。これから父上に報告に向かう」

 リヒトは三人に告げると、父の姿を探した。

「父上! 住人の避難は完了しました!」
「しかし、こんなにも突然巨大化するとは。やはりこれは……」

 リヒトはその時、偶然リカルドと臣下の話を聞いてしまった。

「『魔王』を生み出す仕組みが、レオンたちと同じならやはり……『ローズ・クロサイト』――この『魔王』は、彼女の魔力が作り出したと考えるべきだろう」

 ローズが捕らえられている場所は分からない。
 だがその状況での父の言葉を聞いて、リヒトは驚きを隠せなかった。

「つまり彼女という魔力の供給源がなければ、あの『魔王』は」
「父上。それは……今のお言葉は、どういう意味ですか?」

「――リヒト」
 リカルドはリヒトの問いにはこたえず、淡々とリヒトに尋ねた。

「お前に任せていた仕事は片付いたのか?」
「父上!」

 リヒトの声に、何事かと天幕を出てきたベアトリーチェたちは、リカルドとリヒトの口論を目にすることになった。

「まさか……まさか『魔王』を倒すために、ローズを対処する方が最善だとでもお考えなのですか? そんな、そんなこと……! ローズはずっと、この国のために生きてきたのに。それなのに……! おこたえください。父上!」

 泣きそうな声で言葉を紡ぐ。
 リヒトのその声は、その場にいた全員が聞くことになった。
 リヒトは強く唇を噛んだ。
 リヒトには、父の言葉が信じられなかった。
 理屈としては理解出来る。だが心では、絶対に納得出来ない。

 これまで国のために人生を捧げ、幼い頃から見守ってきた少女の命と、国を天秤射かけたとき、簡単にローズを切り捨てようとする父の心なんて――リヒトは、わかりたくもなかった。

 リヒトは胸が苦しくてたまらなかった。
 彼の中には、これまでローズと過ごした日々が浮かんでいた。
 いつだって、優秀な兄や婚約者《かのじょ》と比べられて苦しくて――それでも決して、嫌いにはなれなった日々が。

 それなのにその彼女が、国のため、世界のために、彼女が命をかけて守ろうとした者たちの手で殺されようとしている。
 ローズならきっと、王《そ》の決断を受け入れるだろう。
 ローズ・クロサイトは、そういう人間だ。
 だがリヒトは、たとえローズ自身が許しても、そんな未来を受け入れることは出来なかった。
 
「お待ちください! 聖女様!」

 その時だった。
 神官たちの手を振り払い、『光の聖女』が自分を呼ぶ声がリヒトには聞こえた。

「リヒト様! リヒト様はここにいますか!?」
「アカリ…? どうして君がここに……??」
「リヒト様……!」

 アカリは、リヒトを見つけるなり彼に駆け寄った。

「お願いです。ローズさんを……ローズさんを、助けてください!!」

 アカリはリヒトの腕を強く掴んでいた。そのせいで、男が苦手なアカリの瞳に涙が滲む。

「ローズさんがいないんです。どこを探しても。……私が、私が言ったんです。『占いの館』に行ったら、ローズさんの憂いもなくなるかもしれないって。でもそうしたら、ローズさんが居なくなってしまって……!」
「……なんで、それを俺に言うんだ」
「当たり前です。だって」

 アカリはぎゅっと、手に力を込めた。

「ローズさんが好きなのは、ずっと貴方だったから」

「――ローズ、が……?」
 そんなことあるはずはない。リヒトは心の中で否定した。

「……でも。ローズは、ベアトリーチェと結婚するって」
「ローズさんが彼を好きだと、一言でも口にしましたか?」
「それは……」

 聞いていないけれど。
 でも、彼女は式を控えている身だ。
 そんなこと言わなくても、『そうある』のが当然だろう。

「本当に好きだったら。ロイさんとの戦いのときに、一年を待たずに結婚してよかったんです。……でも、そうしなかった」
「嫌なら断ればいいだろ」
「ふざけないでください」

 アカリはリヒトを睨んで唇を噛んだ。

「ずっと近くにいたのに、なんでそんなふうに思うんですか。周りから祝福される結婚。命がけで自分のために戦ってくれた人を、あの人が拒絶出来るとでも思っているんですか」
「……」

 リヒトはアカリの言葉を否定出来なかった。
 ベアトリーチェは、ロイ・グラナトゥムに決闘を挑まれ、婚約者であり『鍵の守護者』であるローズを守るために、命を賭して戦った。

 ローズは真面目だ。
 恩のあるベアトリーチェに、彼女が自分から婚約解消を言い出すわけがない。
 それに何より、彼女は家族を愛している。その家族が祝福する結婚を、彼女が拒むはずがない。

「ローズさんも、そう。なんで二人だけが気付かないんですか。なんで周りだけが、わからなくちゃいけないんですか。……リヒト様は狡いです。酷いです。最初から、あの人の心を得ているのに、貴方が私を好きだなんて馬鹿げたことを言うから、あの人は違う人と結婚しようとしているって、なんでそれがわからないんですか」

「……わかるわけない、だろ」
 リヒトはぽつり呟いた。

「ローズと俺では釣り合わないのに」
 彼の中には、過去の彼女との日々が浮かんでいた。

 アカリのことで勘違いして、ローズに勝負を挑んだとき。
『……大丈夫、ですか?』
『……なん、で……。なん、で、こんな……』
『……申し訳ございません。力の制御を誤ってしまったようです。貴方が――……貴方が、ご無事でよかった』

 ローズはかつて、リヒトでは防ぐのは無理だと判断してリヒトを庇った。
 あの時はそのことがたまらなく悔しくて、自分には彼女に守られるだけの力しかないのだということを思い知らされた。

 そんな中、兄たちが目覚め、自分のせいで国が危機に陥ったとき。
 自分なら救える相手に手を伸ばしたら、リヒトは久しぶりに彼女の笑顔を見ることが出来た。

『友人を、助けてくださってありがとうございました』

 アルフレッドを庇ったときに、彼女からその言葉を貰ったとき、リヒトは嬉しかった。
 でも結局、ローズにはすぐに新しい婚約者が出来てしまった。
 ベアトリーチェはローズを大切にしている。彼は周りから信頼されている。ベアトリーチェならば彼女に相応しいと、誰もが思うことだろう。
 ――自分とは、違って。
 二人を見るたびに、リヒトはそう思った。

 ベアトリーチェなら、誰もがローズとの結婚を祝福するに違いないと。
 それでも言葉を交わす中で、公爵令嬢としてだけではなく、聖剣の守護者として、騎士として――ローズから自分に向けられる言葉や笑顔に、リヒトの胸はときめいた。
 
『リヒト様。この歓声は、貴方に向けられたものですよ』
『さあ、行ってください』

 学院で、自分の研究が初めて周りに認められたあの日だって、リヒトはローズの笑顔が見れて嬉しかった。

 ――よかった。ローズは笑っているのか。

 沢山の人々からの祝福。
 確かにそれは、リヒトの自信になった。けれどそれ以上に、彼女が笑ってくれたことが、リヒトは心から嬉しかった。

 本当はずっとこれまでも、その笑顔を見ていたかった。 
 彼女を笑顔に出来る自分でいたかった。
 けれどそれが叶わないと知る度に、彼女に相応しくない自分を、リヒトは嫌いになった。
 幼い頃からずっと、大好きだったから。
 でもその心に、気付いたとしてももう遅いのだ。
 
 自分は彼女を傷付けた。
 自分が彼女を否定した。
 今の自分はもう、彼女を求めることなんて出来ない。

 それでもローズは、変わらずにリヒトに手を伸ばしてくれた。
 夢のような学院生活。
 その場所で昔のように、ローズは自分のことを導いてくれた。
 誰かに拍手される場所を与えてくれた。自分のことを誰よりも理解して、支えてくれた。
 そのことが嬉しいと思っても、今なら昔とは違って、彼女の行動に心から感謝できたとしても。

「――もう誰も、認めてなんかくれないのに」

 リヒトの声は震えていた。
 後悔してももう遅い。過去には戻れない。彼女はもうすぐ、違う誰かと結婚する。

「それでも」
 アカリは、リヒトの手を強く掴んだ。彼女の目から涙がこぼれ落ちる。

「ローズさんが待っているのは、貴方だけなんです」

 アカリの言葉に、リヒトは目を瞬かせた。
 自分には何も出来ない。何も守れはしない。
 力のないそんな自分を、なんでもできる彼女《ローズ》は待っているのだとアカリは言う。

 もともとは敵対していた二人。
 それでも、アカリとローズはこの一年弱で、誰よりも親しい関係となった。 
 リヒトはアカリの目を見つめた。
 他者の幸福を祈る。そんな者にこそ与えられる光属性。『光の聖女』としてこの世界に招かれた、その少女が泣いている。
 ――ローズを、今こそ貴方が助けにいけと。
 そう、リヒトに告げて。

「こんな時に何をしている!」

 リヒトは、真っ直ぐにアカリを見つめていた。
 そんな二人に気付いて、リヒトの父である国王リカルドは、苛立ちのこもった声を上げた。
 かつて魔王を倒した『聖剣の守護者』ローズ・クロサイトという圧倒的な力を持つものがこの場にいないという状況。
 更に魔王に国が脅かされるそんなとき――自分の息子である王子が、戦うこともままならない力ない第二王子が、色恋を優先している姿は、国王としても父としても認め難かった。

 ローズのことは、リカルド自身幼い頃から知っている。
 リカルドはかつて第一王子であるレオンを助けるために、幼い少女に、自分の息子と同じ年の少女に頼ることしか出来なかった。
 だからこそ、その重圧を受け入れもう一人の息子と婚約し、ずっとこの国を支えてきてくれた彼女に恥をかかせた我が子を、彼は次期王に望めないとも思った。

 娘というには違う。
 けれど、ローズ・クロサイトという少女は、リカルドにとって大切な少女であり、『臣下』とも呼べる存在だった。

 リカルドだって、ローズに危害を加えたいとは本心では思ってはいなかった。
 だがクリスタロスの王として、国や世界を思えば、被害を最小に抑えることが、自分が王として下すべき『最善の選択』だと思ったのだ。
 そんな決断さえ迫られるこんな大事に、自分の息子は一体何をしているのか?

「お前がその少女と婚約したいなら、それを叶えてもいい。だが、今は国の危機だ。私情はわきまえなさい」

 王として、父として。
 彼は鋭い言葉をリヒトに向けた。
 父の言葉は昔と変わらず、リヒトの心に重くのしかかる。
 リヒトだってわかっている。立場には責任が伴う。自分の父がそう言う理由《わけ》も、自分に厳しい理由《わけ》も。

『諦めなさい。リヒト』

 リヒトの父は、昔この言葉を何度もリヒトに言った。その言葉を聞く度に、リヒトは心を傷付けられた。
 自分は自分ではいけないのだと、そう自分を否定して生きてきた。
 でも今なら、リヒトはその言葉に込められた父の気持ちも、理解できるような気がした。

 ――父上は、『クリスタロスの国王』だから。

 大国であるグラナトゥムの王であるロイと、父が違う言葉を口にする理由も、今のリヒトにならわかる気がした。
 視点が変われば正しさは変わる。
 他の人間からすれば、リヒトはアカリに思いを寄せていて、危機的状況下で、リヒトはローズと仲の良かったアカリにつけ込んでいるに過ぎない。

 リヒトだって他の人間であれば、自分のことをそう見るだろう。今の彼にはそれがわかる。
 ローズがいない。魔王のせいで世界の危機だ。けれど彼の心は、いつもより穏やかだった。
 頭にかかっていた靄が晴れる。
 自分が今、何をすべきか。何がこの先、後悔しない選択なのか。
 もし本当に、彼女が自分を想ってくれていたというのなら。

『貴方と何も無かったことが、今はかえってよかったのかともしれないとも思っています。最初から、形だけの婚約だったから。きっと私は、貴方が誰と結ばれても祝福できる』

 あの時彼女はどんな思いで、自分にその言葉を向けたのか。
 考える。
 今、彼はどこまでも冷静だった。

「国王陛下! 空に、魔王が……。魔王が今にも、空を覆い尽くそうとしています!」

 騎士の叫ぶ声が響く。父が自分を非難する声が聞こえる。
 そんな中、リヒトはアカリに言った。

「アカリ。俺が必ずローズを見つけるから。助けて、戻ってくるから。だからここは――君たちに任せる」

 だが国王リカルドは、前に進もうとするリヒトの前に立ち、その道を阻んだ。
 
「どこへ行くつもりだ。リヒト」
「俺は、ローズを探しに行きます」
「お前に何が出来る? それに、国民を見捨てて彼女を助けに行くのか。彼女がどこにいるかもわからないのに」

 王族であるならば、王を目指すものならば、今彼女を探しに行くのは間違いだろう。
 それはリヒトが兄との、王位継承をめぐる争いから身を引くのと同義だ。
 今ローズを助けに行けば、魔力の無いリヒトが、周囲から認めてもらうために積み重ねた努力はきっと全部無駄になる。
 ――それでも。

「約束したんです」
 リヒトは、ずっと目を逸らし続けていた父親を、今は真っ直ぐに見つめていた。

「もう、一人にしないって」
 自分は弱くて、その言葉を一度は裏切ってしまったけれど。
 そのせいで彼女は、自分以外の相手と結婚しようとしているけれど。

「俺が、ローズを見つけてみせます」
 たとえこの先一生、自分の行いが人に非難されようと――リヒトは、ローズを救う為に行動することを選んだ。
 リヒトは左手を上げた。
 僅かに震える手はそのままに、祈るように目を瞑る。


 ――お願いだ。来てくれ。たとえこの魂が、魔法が使えなくたって。彼女を思う気持ちだけは、誰にも負けないと願うから。


「来い! フィンゴット!!!」
 リヒトは指を鳴らした。
 今ならその天龍は、自分に従ってくれる予感がなぜかあった。

「ピイイイイイイイイッ!」
 この世界で最も高貴とされるその生き物は、自らに相応しい相手を千年待ち続けた。
 リヒトはフィンゴットを目覚めさせた。
 命を繋いだのがローズだという事実はあっても、それが変わることはない。

『空を映す蒼き瞳、たゆたう雲の白き翼。長き眠りに付きし朋友。天を支配する至高の龍よ。盟約と、光の名のもと、今ここに目覚めよ。我が友。我が翼、汝が名は――光の天龍フィンゴット』

 龍は、あの日リヒトの声に応えた。
 そして、今この時も。
 リヒトの呼びかけにより地に降り立った白い天龍は、この世で最も高貴な生き物と、讃えられるに相応しい。
 闇属性の黒鳥と対を成す、リヒトと同じ、光属性の白い龍。

「――ありがとう。フィンゴット」
 笑みを浮かべて、リヒトはフィンゴットに手を伸ばした。
「……っ!」

 その姿を見て、ユーリは思わず目を擦った。
 リヒトと、『誰か』の姿が重なる。
 この光景を自分は知っている。いや違う。自分だけではない。
 ユーリと同じように、リヒトのその姿を見て、目を瞬かせたものがいることにユーリは気が付いた。
 理由はわからない。でも、確かに『知っている』。
 自分たちはこの光景を、『昔』見たことがある。

「あでで噛むなよ」

 フィンゴットはいつものようにリヒトの手を噛んだ。
 困るリヒトを見て、フィンゴットはリヒトの手を離した。
 光の天龍フィンゴット。
 その名は古い国の言葉で、金色の神を意味する。
 クリスタロス王族特有の金色の髪。
 その色を持つリヒトを背に乗せる天龍は、まさしく神の使いのように美しい。

「行くぞ。ローズのところへ!」

 リヒトは眼鏡をかけた。
 かつて、ガラクタだとリヒトが否定された発明品。
 指輪を盗まれた、あの日使えなかった道具。
 それは、彼のこれまでの努力の結晶だ。
 そして、リヒトが昔ローズに贈った薔薇のケース。その中には幸運の葉が入ったままになっていた。
 状態を維持させる魔法は、所持者が身に着けている限り常時発動される。

 『幸運』なことに、ローズは四枚の葉を身に着けていた。
 そのおかげで、リヒトはローズを追跡出来る。
 フィンゴットの背に乗って、ローズのために決断を下したリヒトを、ユーリは黙って見送った。
 『魔王』の出現により現れた魔物との戦闘のため、ユーリは騎士団長として、その場を離れることは出来なかった。

 ――いいや、違う。

 これからの人生や、人々の命と引き換えにしていいのなら、ユーリもリヒトを追うことなら出来た。
 リヒトの背を目で追うユーリに、ベアトリーチェは尋ねた。

「ユーリ。貴方は、彼の後を追うのですか? ……でも、もし追ったとしても、ローズ様はきっと、貴方は選ばない」
「……」

 ベアトリーチェの言葉に、ユーリは唇を噛んだ。
 ユーリは、本当はどこかでわかっていた。

 リヒトが幼い頃の彼と変わらないなら、『リヒト・クリスタロス』はローズのために、全てを捨ててでも行動するだろうということは。
 レオンが目覚めてから、彼が昔と同じように、誰かに手を差し伸べるそんな姿を見たときに、ユーリは少しだけ、リヒトに敗北感のようなものを感じる瞬間があった。

 ――敵わない。自分の弱さや幼さを隠すために、誰かの影に隠れる自分では。

 ユーリの『剣聖』の弟子という肩書きや、『騎士団長』という立場は、結局は誰かに与えられたものに過ぎない。

『魔法を使えない落ちこぼれの王子』
 誰からも後ろ指をさされる世界で前を向いて生き、苦境の中にありながら、自分の前で涙を流す誰かに手を差し出そうとするリヒトのようには、ユーリは自分にはなれない気がした。
 でも、同時にこうも思った。

 ――そんな『優しさ』は誤りだ。だからこそ、婚約破棄なんてしてあの方を傷つけたのに。

 リヒトを否定しようとしたとき、ユーリは自分の弱さにも気がついた。
 そして考えた。
 ローズが本当に助けを必要としていたときに、手を差し出すことも出来たのにしなかった自分とリヒトでは、一体どちらが彼女に相応しい人間だったと言えるのだろうかと。

『騎士団に入ります。今まで、お世話になりました』

 十年前、ユーリがベアトリーチェに勝利して騎士団に入ることが決まったとき、ユーリはローズの表情《かお》をちゃんと見ることはしなかった。
 本当はあの日、あの方は泣きそうにしていたのかもしれない――今のユーリは、そう思う。

『辛くはありませんか』
『何かあれば私を頼ってください』
『貴方は一人ではないのですから』

 この十年、優しい言葉をかけることはなく、『彼女は誰かのものだから』そう心のなかで繰り返して、ユーリは生きてきた。

 ――身分も、愛を告げた順番も関係ない。あの方の心が自分に向かわない理由は、本当は俺が、一番よく知っている。

 沈黙を貫くユーリに、ベアトリーチェは言葉を続けた。

「ユーリ。どんな世界を生きていても、『同じ幸福』は、永遠には続かない。それでももし、大切な誰かと、同じ目線で世界を見ることが出来るなら。私はそれも、『幸福』と呼ぶことが出来ると思います。貴方がもし、ここで戦い続けることを選ぶなら、きっと貴方はその時ローズ様と同じ目線で、世界を見ることが出来るようになることでしょう」

 リヒトに婚約破棄されたローズが騎士団にくるまで、ローズとユーリは殆ど言葉を交わすことはなかった。
 結局は、『手を伸ばしても届かない』そんなものは言い訳で、手を差し伸べることさえせずに、ユーリはローズから逃げていただけだった。

『もともとは公爵の地位をギルバート様に、レオン様の王妃にローズ様をというお話でした。……けれどその二人がいらっしゃらない今、ローズ様の悲しみがどれほど深いか……』

 『お嬢様』を敬愛する従姉妹の言葉に、ユーリは何も言えなかった――いいや、言わなかったのだ。

『あんまりです。魔法の使えない第二王子の補佐として、才能ある公爵令嬢であるローズ様を、なんて。……こんなこと、幼いローズ様には重荷でしかない』

 誰かが二人の関係を『契約』だという度に、そんな噂話を肯定も否定もしなかったのは、自分が見たあの日の光景から、目をそらしたいだけだった。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺はそばにいる。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしたい。だから――俺と、婚約してほしい』

 婚約を申し込んだ。その日リヒトは、ローズに指輪を贈った。

『はい。リヒト様』

 ――『真実』を、本当は自分だけが知っていたのに。

 魔法は心から生まれる。
 自分が強くなれない本当の理由に、ユーリは本当はずっと昔から気が付いていた。
 でもいつだって、目の前の現実から逃げていた。
 変えられない現実も、変れない自分自身からも。
 ユーリはこれまで自分の心に、ちゃんと向き合ってこなかった。

 ユーリは幼い頃、ミリアと交わした言葉を思い出した。
 強化魔法は、運命を打ち砕く・切り開く者に与えられる。
 そんな話を聞いたとき、ユーリはミリアに尋ねたことがある。

『ねえ、ミリア。運命って何?』
『運命とは、この世界の循環の中で、おそらくそうなるであろうという未来のことです。 でも、私はこうも思います。運命なんて言葉を使いたがる人間は、本当は弱い人間なのだと。 自分の中で、確約された未来があれば、人は明日を悩む必要はない。恋も愛も、 どんな未来も覆すそんな強い意志こそ、価値あるものだと私は思います。……勿論、こんな私が行動したことを含めて、運命だと言われてしまえば、それまでなのですが』
『 よくわからないけど、きっとミリアなら、新しい運命《みらい》を作れるよ!』

 ユーリはそう言った時の、ミリアの表情を今でも覚えている。
 悲しそうに、嬉しそうに笑う――そんな彼女の表情を。
 ユーリはミリアに、ずっと笑っていて欲しかった。いつだって自信たっぷりに、自分の前を歩いて欲しかった。
 だからそんなふうに悲しみの混じる表情なんか、浮かべて欲しくはなかった。

 ある時、ユーリは妙な夢を見た。 
 ユーリはローズのことは出会う前から、彼女のことは知っていたような気がした。
 ローズに初めて出会った時、ユーリは『やっと出会えた』と思った。
 でも、違う。
 『ユーリ・セルジェスカ(いまのかれ)』が本当に『ローズ・クロサイト(かのじょ)』に惹かれたのは。

 ――貴方が『ミリア・アルグノーベン(おれのヒーロー)』を、初めて認めてくれたからだった。

 ミリアは昔から優秀で、ユーリの知る誰よりも強かった。
 ミリアはユーリのヒーローだった。
 「運命」を変えることの出来る、そんな力を持つ憧れの人だった。

 だがユーリの知る世界で、ミリアは否定されてばかりだった。
 ミリアが男だったら、本当は騎士にだってなれた。何にだってなれた。ユーリはそう思った。
 そして彼女に相応しいはずのあらゆるものは、ミリアではなくユーリに与えられた。

 『馬鹿で泣き虫で考え無し』
 ユーリはよく、そうミリアには怒られた。でも、そんなユーリのために、いつだってミリアは手を差し伸べてくれた。
 ミリアがどんなに望んでも、今の世界では手の届かない場所にいるユーリのことを、ミリアはずっと支えてくれた。
 ――だからこそ。

『貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね』

 ローズの言葉にミリアが嬉しそうに笑ったのを見たときに、ユーリはローズに強く惹かれた。
 ローズが初めてこの世界で、自分のヒーローを認めてくれたような気がしたから。

「選択は、貴方の自由です。行きたければ、行って構いません。ただ結果は、私も彼と同意見ですが。貴方が決めなさい。ユーリ」

 公爵令息として戦場に赴くことに立つギルバートの補佐として、戦闘に参加していたミリアが言った。
 ミリアの言葉は少しだけ優しくて、いつも厳しい。ユーリは、自分の胸に手を当てて考えた。

 誰かの痛みを感じる度に、守りたいとそう思った。
 それが叶わない願いだと現実が告げても、ただただ祈った。
 力になりたい。大切な人が、心から笑えるように。
 ――そのための、力がほしい。
 子ども心に焦がれた『ヒーロー』を、たとえ今はまだ、世界が認めてくれなくても。
 彼女たちに教わった自分が、代わりに道を開く。そうして、愛する人の愛する国を守りたい。 

『『ユーリ』』
 今の彼の中には、自分をここまで導いてくれた二人の声が響いていた。

『貴方に私の気持ちの何がわかると!? 私はずっと、ローズ様を見守って来たんです。私は、私は……!』

 ユーリに力を与えてくれたその少女は、ずっと彼の『ヒーロー』だった。
 それでも世界は、ミリアの力を認めなかった。

『……貴方には、私の気持ちはわからない。私の時間は、ずっと止まったままだ!』

 自分を支えてくれた、年上の小さな少年は、その身に与えられた宿命故に、心に壁を作って自分のことを拒絶した。
 尊敬して、頼りにしていた。大好きで、大切にしたかった二人の存在を支えるには、ユーリはあまりにも無力《こども》だった。でもそれでも、彼はこれまで変わろうとは思えなかった。
 幼い頃からの初恋を、ずっと胸の奥底に抱きながらも、一方でその恋に背を向けて、彼は騎士として日々を重ねた。

『簡単に隠れる光なら、存在する意義はない』

 だからこそ、あっけなく敗れた。
 前騎士団長という『ローゼンティッヒ・フォンカート(そのおとこ)』は、ユーリの立場を揺るがす人間となってしまった。

『誰に認められない感情であったとしても、自分を貫く心こそが力になる。強い意志こそが、人に魔法という力を与える』

 守られて生きることが当たり前で、誰かに敵意を示されてやっと、ユーリは自分の弱さに気がついた。
 恋心だけじゃない。
 その時やっと始まりの――強さを渇望した日を思い出した。
 もっと、強くなりたいと思った。その理由を――今なら彼は、ちゃんと言葉に出来る。

『この世界で先に生まれた者の役目は、先に死にゆくことではなく、後に生まれたものを育てることなのですから』

 自分を認めてくれる、優しい誰かの言葉の裏にある心の傷(かこ)から、目を逸らして生きてきた。
 そんな自分から、変わらねばならないのだと、そう思った。
 それこそが――自分を導いてくれた誰かに、唯一返せる恩返し(こと)だというのなら。
 でも感謝の言葉も、謝罪の言葉も、二人はきっと望まないから。

 ユーリはやっと、『こたえ』を見つけたような気がした。

 ――ああそうだ。自分の手を引いてくれる誰かも、導いてくれる『ヒーロー』も、いつも強いばかりでは居られないなら。今はまだ彼や彼女の前は歩けなくても、自分も、誰かの未来を照らす光になりたい。そうしていつかそんな自分を見て、二人が前に進めるように。俺が今、前に進もう。だから今、覚悟を決めよう。

 銀の銀の髪と金色の瞳は、強い意志を宿し、宝石のように輝く。
 ユーリは、短剣と長剣を手にして戦う二人に向かって言った。

「俺は、行かない。俺はこの国を守る騎士団長、ユーリ・セルジェスカだ!」

 ユーリの言葉と同時、彼の耳に揺れていた耳飾りが光を放った。

「これは……」
 その光はユーリ自身を包み込み、波紋のように広がって、そして『魔王』からうまれたものたちは、光を浴びて足下から崩れていく。
 黒煙を纏う者たちの異変に、誰もが目を見張った。

 ――彼は。その魔法を、使えなかったはずなのに。彼はずっと、風魔法しかもちえないはずだったのに。

「――これは、光属性……?」

 それは、騎士団長に必要とされる資質。
 防壁と癒やし。かつてローゼンティッヒに敗北したユーリが、石に宿させた光魔法が展開される。
 ユーリの魔法が、臭気を纏うものたちをなぎ倒していく。
 風によって高く上がった光は、雨のように人々に降り注ぐ。 

 ミリアはその光景を、信じられない思いで見つめていた。
 ミリアの知る幼い頃のユーリは、何も出来ないただの子供だった。でもそんなユーリだけが、自分のことを蔑む目で見ることがなかった。
 自分には才能があると自分では思っていても、決して認められなかった自分の代わりに、ミリアはユーリに思いを託した。

 だからこそ剣を教えた。
 社会を生きていくために、知識や教養を与えた。
 自分を尊敬のまなざしで見てくれた子どもがいつか、夢《あらゆるねがい》を叶えられるように。

 弱い子供。脆く、儚い。
 でも本当は、そんな彼の優しさに甘えていたのは、きっとずっと自分の方で。
 ミリアはユーリが前に進むたびに、認められていくたびに嬉しくて、その一方で彼が抱える未熟さに、いつもどこかでいらだちを覚えていた。

 ひどい言葉を沢山彼には向けた。情けない姿を見せたこともある。
 それでもその子供はずっと――自分に向ける尊敬のまなざし(ひとみ)を、変えようとはしなかった。

「ミリア」
 聖なる光を纏う銀色の騎士。
 そして今、おとぎ話の勇者のような強い力を得た騎士は、幼い頃と変わらない、子どものような言葉をミリアに向ける。

「約束しただろ。ミリアに教わった俺が、この国の騎士団長《いちばん》になるんだって」

「……そうですか。そんなことはまだ覚えているなんて、貴方はやっぱり本当に馬鹿ですね」

 どこか無邪気に笑うユーリの声に、ミリアは声が震えてしまいそうだった。

「馬鹿っていうほうが馬鹿なんだ」
「……こんな時に、相変わらず子供ですか。貴方は」

 ミリアはユーリに背を向けた。
 ――これ以上、涙を抑えることは、私には出来ない。
 そんなミリアに、ギルバートが問いかける。

「泣いてるのか?」
「……ふざけないでください。私は、泣いてなんかいません」
「俺の前では強がらなくていいんだぞ?」

 相変わらずの軽口に、ミリアは少しイラッとした。

「……口を閉じてください。ギルバート様」
 そして本当はここまでのことは――ギルバートがミリアに告げていた、『運命《みらい》』そのものだった。

「約束します。私が、『運命《みらい》』を作る」

 ミリアは短剣を握り直した。
 自分を慕ってくれたユーリが立場を理解して戦うと決めたなら、彼に道を教えた自分が、泣いてばかりなど許されない。

 ミリアは空を見上げた。心のなかで繰り返す。誰かに否定され続けて来た能力《ちから》こそ、自分にとっての本当の誇りだと。
 自分はただのメイドじゃない。
 運命を切り開く特別な魔法を身に宿す――強化の魔法の使い手なのだ。

「その役目、私達も手助けいたしましょう」

「誰だ……?」
「ローゼンティッヒ?」

 その時響いた涼やかな声に、ユーリとベアトリーチェは振り返って、声の主を見て目を瞬かせた。
 短髪の、どこか青年のような凛々しさのある女性の後ろには、ローゼンティッヒが続く。
 そして二人の後ろには、ロイとシャルルもいた。

「示そう、ここに。強化属性の、もう一つの力を。だから、『ビーチェ』。協力してくれ。――彼の力の増幅を」
「言われなくても」

 ローゼンティッヒはユーリのように、『ベアトリーチェ・ロッド』を『ビーチェ』とは呼ばない。
 ローゼンティッヒに『ビーチェ』と呼ばれて頷いたのは、彼の前を歩いていた女性だった。

「え?」
「お手に触れることをお許しください。ユーリ・セルジェスカ殿」

 ローゼンティッヒに『ビーチェ』と呼ばれた女性は、そう言うとユーリの手に触れた。

「今こそ君に、『光の巫女』最後の予言を教えよう」

 驚くユーリにローゼンティッヒは微笑んで、高らかに宣言した。
 まるでユーリの成長を、誰よりも遠い昔から信じ、期待していたかのように。
 
「『ユーリ・セルジェスカという少年が聖騎士として目覚めるとき、世界は光に包まれる』」
 
「力よ、光よ。――増えよ。満ちよ。悪しきものを、排除せよ」

 『ビーチェ』がそう呟いて、魔法を発動させた瞬間。
 ユーリの光魔法が、より強い光を放った。

「何だ……!? これは……」
「力が、増幅されていく……?」

 二人を見ていた周りの兵士たちから、驚きの声が上がる。

「これは……」
「強化の魔法は、運命を打ち砕く・切り開く人間《もの》に与えられる」

 他の人間の力を『強化する』力。
 石に刻まれていたのは、リヒトの魔法道具に使われていたものとよく似ていた。
 ローゼンティッヒはミリアとシャルルに、魔法陣の刻まれた石を手渡した。

「これは、『彼』の研究をもとにつくられたものだ。君たちも『彼』の魔法は知っているんだろう? 君たちならば使えるはずだ」

 ミリア・アルグノーベンは本来なら、ローズと同等に優秀な人間だった。
 そしてシャルルは、魔法学院を有する国の王であり、『大陸の王』の記憶を継ぐロイに師事を受けた、未来必ず名を上げる魔法使いだ。
 二人はそれをひと目見て、使い方を理解した。

「王様」
「ギルバート様」
「シャルル……?」
「王様。私は、王様の生きるこの世界を守りたい。だから今は私を、私の魔法を信じてください」
「……ミリア」
「貴方は私を『運命』だと言った。私の力は、お嬢様や貴方を、この国を救えると。だったら今は、私の力を信じてください」

 強化魔法はこれまで、彼女たちにとって対象だった。
 運命を変える。その力を持つ二人の愛しい少女の言葉に、ロイとギルバートは当然のように笑った。

「「この世界の誰よりも、俺は君のことを信じている」」

 ロイとギルバートの声が重なる。

「やられっぱなしは性に合わない。さあ、シャルル。俺たちの力で、この国を守ろう。愛すべきこの世界を、友人《とも》たちが帰るべきこの場所を」
「はい。王様」
「ミリア。君の力を貸してくれ」
「かしこまりました」

 ベアトリーチェに対抗するために集めたはずの精霊晶。その石は、まるで意思を持つかのように光っていた。
 空中に魔法陣が浮かび上がる。
 ロイが所持する精霊晶の多くは、グラナトゥムに忠誠を誓っていた、騎士たちのものだった。
 ロイは微笑んで石に触れた。

「精霊晶。お前たちが愛したこの世界を、愛した人々を、共に守ろう」

 力は重なり合い、強固な壁を作る。
 それはローズが魔王を倒したあの日、アカリ一人で作り出した光の壁に匹敵する、魔王に対抗しうる力だった。
 もうこの世界の住人に、『魔王と戦うための光の聖女』は必要ない。

「……私たちも、負けてはいられませんね」

 ベアトリーチェはそう言うと、青い薔薇の剣に口付けた。

「力を貸してください。――ティア」

 
「こ、ここは……?」

 ローズが目を覚ましたのは、埃っぽい古い建物の中だった。
 天井の中心にはガラス細工の天窓があり、崩れかけた壁には蔦が這い、薄汚れた窓はところどころひび割れている。
 ローズの体は赤い薔薇の茨に覆われており、少しでも動けば棘が刺さって血が滲んだ。
 彼女の胸元には大きな赤い石がくくりつけられ、石の周りには、黒い靄のようなものが浮かんでいた。

「目がさめましたか」

 抑揚のない声が聞こえてローズが視線をうつすと、そこには目隠しをした、小さな一人の少年が立っていた。 
 子どもが纏う雰囲気は、ローズには何故か、ベアトリーチェによく似ているように思えた。

「貴方は……?」

 ローズは、尋ねてから顔を顰めた。
 『占いの館』で意識を失う少し前――自分はこの子どもと、会ったような気がしたからだ。
 体に力が入らない。気を抜いたら、ローズはすぐに意識が飛んでしまいそうだった。
 
 ――あの時、この子はなんと言ったんだった……?

 ローズは思い出そうとして――ふと、少年の首から提げられていたあるものに気が付いて大きく目を見開いた。

 彼の首から提げられていたのは、沢山の精霊晶。
 それは、精霊病の罹患者の心臓の石だ。
 ロイほどの王が苦労して集めたそれを、ただの子どもにしか見えない彼が所持していることは、明らかに異常だった。

「どうして貴方が、その石を……」
「これですか? ……そもそもこれは、私が作ったものですから」

 ――作った?

 子どもの言葉に、ローズは耳を疑った。
 青い薔薇。屍花で作られた特効薬。
 ベアトーチェの最愛の少女や、沢山の人間を死に追いやったその病を、この少年が作ったと?

「私は『天才』ではありません。ただ、私には時間があった。貴方もよく知っているでしょう? 『神の祝福を受けた子ども』という存在を」

 子どもの声は、まるで笑っているようですらあった。

「人とは異なる時間を生きる私は、あらゆる不可能を可能に出来る。私一人で、違う世界から一人の人間を召喚することも」
「召喚魔法は、聖女や勇者の召喚以外は――……」
「禁じられている? それを、私に守る義理があるとでも?」

 召喚魔法が現在禁じられているのは、魔法を使うことで『歪み』が大きくなるせいだ。
 それが大きくなればなるほど、世界と世界の境界が曖昧になり、二つの世界での『魂』や『肉体』の交換が起きやすくなってしまうため、今は法律で禁じられている。

「それでは貴方が……貴方が、アカリをこの世界に連れてきた方なのですか……?」

 実はアカリの話を聞いてから、ローズは彼女の召喚について疑問に思った点があった。
 アカリ・ナナセの召喚は、少し奇妙な点があったらしい。
 異世界の門を開くとき、記録によれば魔法陣は白く光ると記載があったのに、何故か彼女の召還時の光は黄金色だったというのだ。
 聖女召喚は珍しい魔法だからこそ、単なる記録の間違いだと思われていたらしいが――それがもし、何者かによる魔法の介入の証だったとしたら?

「その通り」
 『精霊病』を流行らせ、『精霊晶』をつくり、異世界から『光の聖女』を召喚した。
 ローズには、子どもがどうしてこんなことをするのか理解出来なかった。

「なぜ……なぜ貴方はこんなことを……」
 ローズは震える声で尋ねた。

「――この世界は、私の『王』を裏切った」

 子どもは、無感情な声で言った。

「裏、切った……?」
「あの方はこの世界で誰よりも、強い魔力を持っていた。誰よりも優しく、そして他国の王の心さえ得て不可能を可能にした私の王を――この世界は、この世界の人間たちは忘れてしまった……!」

 子どもの言葉を聞いて、ローズの中にとある王が頭に浮かんだ。
 かつて兄に読んでもらった絵本。
 学院でローズたちが演じた劇『心優しいお姫様』の元になった話。

 『優しい王様』
 強い魔力を持ち、民に慕われ――だが優しすぎたがゆえに身を滅ぼした、悲しい一人の男の話を。

 絵本によると、王は民に分身である人形を分け与えたという。
 人形のおかげで国は栄え、国民は王に感謝したが、結果としてその人形は王が魔力を肩代わりしていたにすぎず、王は魔力の使いすぎで死んでしまう。
 だがローズは、この話が実話だなんて聞いたことはなかった。

「あまつさえその弟は……あの方の功績を全て自分のものにして、この国の王となった。だから私は、贄にあの二人の人間を選んだ」
「『選んだ』?」

 ローズは目を瞬かせた。
 まさか自分の兄たちが十年も眠り続けたことが、誰かの意思によるものだったなんて、ローズは簡単には受け入れられなかった。

「そうだ。『ギルバート・クロサイト』と『レオン・クリスタロス』――無能な予言者と、偽りの王を魂を持つ者たちを」
「偽りの、王……?」

 『賢王』レオン。
 レオン・クリスタロスは、その転生者であるとされている。

「『三人の王』? 『賢王』? ……賢《さか》し立《だ》っただけのの無才の人間のくせに、あの男は、学院を作った功績も、何かも――我が君が積み上げたもの全てを奪った」

 学院を作った三人の王。
 それは、大陸の王、海の皇女、賢王だとされる。
 今のクリスタロス王国で、世界で広く名を知られる王は『賢王』レオン・クリスタロスただ一人だ。
 
「我が君に比べたら、この世界の全ての人間など無才に等しい。『古代魔法』そう呼ばれるものの全てを、たった一人で作りあげたあの方に、及ぶ者など存在しない。――ローズ・クロサイト。貴方は自分の兄が、『先見の神子』だいうことさえ知らないのでしょう?」

「『先見の神子』……?」 

 その『存在』を、ローズは知っている。
 遠い世界を見ることのできる、歴史上に時折現れる稀有な光属性の才能を持つ存在だ。
 そして記録では、彼らの全て若くして息を引き取っている。

 子どもの話を聞いて、ローズはあることを思い出した。
 ギルバートはかつてローズを守るために、ローズに結婚を申し込むためにやってきたロイに『何か』を渡した。
 それが何なのか、ローズは兄に教えてはもらえなかった。
 もしあれが、『先見の神子』である兄が、自分の命を削ってグラナトゥムの未来を視たものだったとしたら……?
 ロイが兄を国に招こうとした理由が、今のローズにはわかるような気がした。

 だが眠りにつくまでも目覚めてからも、ローズは兄からそんな事実を聞いたことはなかった。
 ローズは動揺が隠せなかった。
 ローズは兄を信じている。この世界で誰よりも――。でも兄はそれを利用して、自分に真実をひたがくししてきたということなのか?

「人は絶望した時に、与えられた光に縋る。私があの少女をこの世界に呼んだのは、あの少女であれば世界を滅ぼしてくれるだろうと思ったから。『聖女』は一人しか召喚出来ない。だったらその座に不適格な少女を招けば、世界は闇に包まれる。力ある者にはお優しい貴方方だ。貴方たちに、彼女を殺せない。光の聖女は、終焉をもたらす災厄の魔女となる。そのはずだった。あのまま力に目覚めなければ、全てが上手くいくはずだった。だが敵にも情をかけた一人の人間が、何の力も持たなかった『異世界人《かのじょ》』に力を与えた。『世界中のどこにも、自分の思いを理解してくれる人間など居らず、自分は世界で最も孤独な人間だと不幸に浸っていた人間』に、貴方が手を差し伸べた」

 子どもは冷めた声で言った。

「予想外でしたよ。まさかあの少女が、貴方に『加護』を与えようとは。計画が崩れたのは貴方のせいだ。……だから、思いついたのです。今度は貴方で『魔王』を作り、貴方が命をかけて守ろうとしたこの世界を滅ぼすことを」

 ローズはその言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
 自分を糧に『魔王』をつくる? いやそれよりも、もし彼の言葉が本当ならば。

 ――まさか。だとしたら、アカリは。『光の聖女』として招かれ、この世界で重圧に潰されようとしていたあの子は……。誰かの悪意のせいで、傷つかなくてはいけなかったというの?

「それでは……アカリが選ばれたのは、アカリに力が無かったからだと、そういうのですか……!」
「その通り。事実貴方さえいなければ、あの少女は加護の力は使えなかった」

 ローズの問いに、子どもは当然のように頷いた。

『私、自分の選択が、自分の勇気が、運命《みらい》を変えることが出来るって、そう信じたいと思うんです』

 かつてアカリが、ベアトリーチェを前に口にした言葉を思い出して、ローズは唇を噛んだ。
 ローズはアカリのことは嫌いではない。むしろ自分にはない魅力があると、尊敬さえしているところだってある。

 だからこそ、異世界にたった一人召喚された彼女の心を、理解出来なかった過去の自分を悔いたのだ。
 それなのに、こんなふうに――誰かの想いや願いを、踏みにじるようなことがあっていいわけがない。
 けれど子どもは身動きの取れないローズを前に、口端をあげて何処か艶のある笑みを浮かべると、ローズの顎に手を添えて、彼女を見下ろして言った。

「力なきものほど力に焦がれる。自分にないものを人は求める。絶望の、深い闇の淵の中に差し込む光に手を伸ばす。窓の向こうで空を飛ぶ鳥に自らを重ね、そうして『ここは自分の場所ではない。本当は、自分は選ばれた存在なのだ』――そんな幻想を抱いて、自分が特別な存在だと思いたがる。貴方だって本当は、彼女を愚かだと思っていたのでしょう? 貴方は特別だ。貴方に、彼女の心がわかるはずがない」

 努力も願いも、その全てを否定する。
 その声はまるで、氷のように冷ややかだった。
 
「違う」
 
 ローズは、子どもの言葉を否定した。

「……何?」 

 ローズの言葉に、子どもは僅かに眉をつりあげた。

「――違う。私は……私だって、何も変わらない」

 体に力が入らない。
 今のローズには、口を動かすことすら苦しかった。
 ローズには、彼の言う『王』が誰なのかは分らない。
 『賢王』レオンの功績が他の誰かの功績だとして――『三人の王』の最後の一人が、本当は誰なのか。
 そして自分の兄が『無能な予言者』と言われる理由《わけ》も、レオンが『偽りの王』と呼ばれる理由《わけ》も。
 でも、これだけはわかる――ローズは、そう思った。

「私だって、何も……」

  どんなに恵まれた力を得ても、人は一人では生きてはいけない。
 ローズは、兄を取り戻すまでの日々を思い出していた。そして、『魔王』と戦った日のことを。

 思い出す。
 すべての属性を持ち、測定不能の魔力を持っていたとしても、どんなに優れた才能を持っているともてはやされて、これまで生きてきていたとしても。
 心が泣いていた時に呼んでいたのは、自分のそばにいた、愛する人たちの名前だけだった。

 ――お兄様、ミリア。

『お前なら出来るよ』 
『私はここで、お嬢様をお待ちしています』

 誰からも称賛される、周りからはきらびやかな世界を生きていると思われても、いつだって心の中では、終わりの見えないような暗い道を歩いていた。
 幼い頃の幸せな時間を取り戻すために、兄たちを目覚めさせ、もう一度あの陽だまりのような場所でみんなで笑い会える日々を願って、ローズは剣や魔法の腕を磨いた。
 ローズは下を向いて瞳を閉じた。
 瞼の奥に広がるのは、幼い頃の自分の姿だ。

 ――ああそうだ。私は弱い。絶望の淵で差し出された光に、今もずっと焦がれている。

 ローズは唇を噛んだ。
 いつだって自分は、自分の心に気づくのが遅すぎる。
 今ならわかる。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺は傍に居る。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしない。だから』

 差し出された指輪を受け取ったのは、決して自分が何もわからなかった子供だからではなかった。

『俺と、婚約してほしい』
 遠い日に、自分がかけてもらった優しい言葉は、冷えた心を熱くする。

「……リヒト様」
 力を奪われ何も出来ない。無力さを知って漸く解る。
 自分の弱さ、本心を。
 時は戻せない。今更悔いてももう遅い。
 ローズは拳に力を籠めようとした。けれど括り付けられた石が、それを許さない。

『ローズ』
 彼女の頭の中にはただ、一人の少年の笑顔が浮かんでいた。

 ――どうして。どうしてこんな時に、貴方の顔が浮かぶの? 何も持たない貴方が私を助けに来るなんてこと、絶対に有り得ないのに。

 自分のために『兄』の代わりになろうとした彼を。
 力がないのに精一杯『王子』であろうとした彼を。
 自分自身が苦しいときに、辛いときにでも、人に手を差し伸べられる彼だから、自分は彼に惹かれたのだ。
 遠い日の約束が、いつか彼の弱さによって破れられる日が来ても、本当はずっと心の何処かで期待していた。
 彼の心が、まだ自分にあることを。

「ずっと……ずっと。お慕いしておりました」

 力の色。強い魔力を持つ証。
 ローズの赤い瞳から、涙が一筋零れ落ちた。

 ――その時。

「うわっ!! お、お前な!? と、と、とまれ! とまれってばフィンゴット!!!!」

 聞き慣れた声が聞こえて、ローズは思わず顔を上げた。
 そんなはずはない。だって彼は――……彼はきっと今、アカリの傍に居るはずなのに。

「え……?」

 白い大きな塊が、光の差し込む天井のガラス細工を突き破る。
 ガラスが割れる音。床に落ちた硝子は砕け、古びた建物の石の床には砂埃が舞う。
 ローズは思わず咳き込んだ。
 そして視界が晴れたとき、見慣れた金の色を見つけて、ローズは呆然として彼の名前を呼んだ。

「リヒト、様……?」

 ――どうして、貴方がここに?
「ローズ!」
 ローズの姿を見つけて、リヒトの表情がぱっと明るいものに変わる。

「よかった。無事だったんだな。フィンゴットにのってきたんだ。ここは危険だ。はやくここから――……」

 フィンゴットから降り、ローズの無事を確かめて、安堵したように優しい笑みを自分に向けるリヒトを見て、ローズは唇を噛んだ。

「何故」
「え?」
「何故こんなところに、お一人でいらっしゃったのですか!!」

 声が震えそうになるのを抑えて、ローズは叫んだ。

「貴方に何が出来ると仰るのです!? 私が……私が、貴方を待っているとでもお思いだったのですか!?」
 ――嘘よ。 

「こんなところに一人で来て。貴方は王子なのです。なのに、貴方ときたら! 一体何を考えていらっしゃるのですか!!」
 ――嘘。

「貴方なんて邪魔だけです。私のことは心配しなくていい。私は貴方とは違う。私なら大丈夫。私は、貴方の力なんて必要ない」 
 ――貴方が私を探しに来てくれて嬉しい。でも、だからお願い。

「だから……。だから、早く。早く、ここから……っ!」
 ――逃げて。貴方は生きて。貴方がここに来てくれた。それだけでもう、私は十分だから。

「リヒト様!!!」
 ――貴方を、失いたくないの。
 
 ローズは、本心を隠して精一杯リヒトを逃がそうとした。
 だが彼から返ってきたのは、ローズと同じくらいの声量の怒鳴り声だった。

「五月蝿い五月蝿い! お前の屁理屈には、もううんざりだ!!」

 かつて彼の誕生日の宴の席で、自分に婚約破棄を言い渡したときのような彼の言葉に、ローズはカチンと来た。

「……う、五月蝿いとはなんですか! 私はっ! 私は、ただ……!」

 これまでも、いつだって。いつだって私は―――貴方のことを思って。
 そう言葉を続けようとしたけれど、リヒトの顔が近付いて、ローズは何も言えなくなった。

「だから……もう、いいから。その口を閉じろ」
「…………っ!」

 動けない。
 『魔王』の糧として拘束されたローズに、リヒトは口付けた。
 知らない感触。初めてのその行為に、どう対応していいのかローズはわからず混乱した。
 リヒトの柔らかな髪が、頬にかかってくすぐったい。
 長い間一番そばにいたはずなのに、与えられなかった触れ合いは、人肌程度のものだというのに、凍土を溶かすほど熱くローズには感じられた。

 ――こんな場所で、こんなこと、している場合じゃない。

 そう頭では分かっているのに、思いが溢れて、ローズは何も言えなかった。
 頭の中には、これまでの彼との日々が浮かんだ。

『ローズ』
『リヒト様』

 そばにいることが当たり前で、その時間はこれからも、ずっと続くことを疑わずに生きてきた。 
 いつか兄や、彼の兄が目覚めるその日が来ても、リヒトと共に在る未来を、ローズはずっと信じていた。
 その感情が何と呼ぶのか、名を与えることもなく。
 その思いや選択が、誰かを傷つける可能性に気付かぬことは、やがて罪になることも知らずに。
 ベアトリーチェとの約束は、ローズ自身が彼に口付けることだ。
 一年待つと、ベアトリーチェは言った。しかしこの一年、ローズは結局彼に口付けることは出来なかった。

 ローズにとっての口付けは、彼女の想いの証だった。
 公爵令嬢として、望まれる結婚。
 そのために、やがて消すべき感情に与えられた時間の猶予。
 逆さにされた砂時計は、一年の時を迎える前に、乱入者により破壊される。
 硝子は地に落ち砂は舞い、そしてその先に現れるのは……。

 ――リヒト、様。

 ローズは彼の名を、心の中で呼んだ。
 強引に奪われる。その口づけは、公爵令嬢として生きてきたローズを、一人の少女に変える。
 与えられたものを受け入れる。
 ローズはゆっくりと瞳を閉じた。

 ――嫌じゃない。この方が自分を選んでくれたことが、たまらなく嬉しい。

 たとえその感情が、罪だと誰かに非難されても。
 自分を思ってくれる優しい人を、傷つけることになったとしても。
 そう思うことを、ローズは止められなかった。

 リヒトは、立ち上がることの出来ないローズの前に立った。
 紙の鳥の魔法を発動させて防壁を作る。
 ローズには理解出来ない複雑な魔法は、魔力の消費こそ少ないものの、かなりの硬度を持つようだった。

「たとえ俺が、魔法を使えなくても、俺のことを馬鹿にするやつでも、俺にとっては守るべき一人の人間だ。俺は俺の国を、俺の民を傷つけることは許さない!」

 この世界の殆どの人間が魔法を使えない。
 魔法を使える人間とそうでない人間には決定的な差があり、こ多くの人間は、魔法を使える者と比べたら弱者だ。
 
 リヒトは昔から変わらない。彼はずっと、弱者の味方だ。

 ローズはその時何故かリヒトのその姿を見て、人形を国民に与えて死んでしまったという王とリヒトが、似ているように思えた。
 リヒトならきっと『優しい王様』がしたように、自らを犠牲にしても人を守ろうとするだろう。
 圧倒的な力の前に、周りから愚かしいと思われても。
 誰よりも民を思い、そのためにならためらいなく自分を犠牲にする。
 不安定さは確かにある。けれどその心は、誰よりも民に近い王になりうる可能性を秘めている。

 『出来損ないの何もできない、無能な王子』

 そう周囲から呼ばれても、リヒトは自分が傷ついても、自分のために誰かに手を上げようとはしなかった。
 彼が力を使うとき。彼が誰かに立ち向かうとき。
 必ず、彼の後ろには『他者《ひと》』がいる。

「我が君……?」

 すると子どもは、リヒトの声に驚いたようなそぶりを見せて、震える声でリヒトの方を見て呟いた。
 子どもは覚束ない足取りでリヒトに近付くと、目隠しを外した。
 色素の落ちた瞳。
 目隠しの下の子どもの瞳は、ローズの知るある病の症状と似ていた。

 『透眼病』
 病の原因は分かっていないが、病におかされた患者は、視力の低下の代わりに魔力を目視出来るようになるとも言われていることを、ローズは思い出した。
 だとしたら今の子どもの瞳には、リヒトの魔力が見えているのかもしれない。ローズはそう思った。
 そしてそれはもしかしたら――この世界から忘れられたという、彼が愛した主君と同じものが。

「貴方を否定したこの世界を壊すために。私は……私はこの千年、ずっと貴方のために」

 ぽろぽろと涙を落とし、子どもは縋るような声でリヒトに言った。

「ふざけるな! そんなこと、誰が頼んだ!?」

 だが、リヒトは声を荒げ――その声に、子どもはびくりと体を震わせた。

「だいたい『貴方のため』だって!? そんなこと、言われた相手がどんな気持ちになるかわかってるのか!? 『貴方のためにやりました』『貴方のせいで時間を失った』そんなふうに相手に伝えたときに、それはもう、相手のためだけじゃなくなる。お前は自分のためにやったんだ。現実に耐えきれなくて、逃げて逃げて逃げて。相手のためだなんて理由をつけて、そうやって生きてきたんだ!」

 リヒトの言葉は、強く響き渡る。
 ローズは、そんなリヒトを見て目を瞬かせた。

 『リヒトのために』ローズはリヒトを逃がそうとした。
 『リヒトのために』彼の父である国王は、彼の才能を否定した。
 『リヒトのために』幼馴染《じぶん》たちは、彼が闘う必要はないと思っていた。

 でも、それは。本当に彼のためだったのだろうか。  
 前を見据える今の彼の瞳には、もう幼い頃のような、自分の弱さを恥じる様子はなかった。今の彼の瞳には、確固たる意思が宿っていた。

「俺の願いは、この国を生きる全ての人の幸福だ。……お前が、これまでやってきたことは許せない。でもお前が、この国の民だというなら、この国を、本当に愛してくれるというのなら。俺はお前にだって、幸せになってほしい。変わってくれると信じている」

 リヒトの言葉は、彼が強い魔力を持ってさえいれば、まるで寛容な王のようでもあった。
 その言葉を聞きながら、ローズは何故か自分にかつて向けられた言葉を思い出した。

『――変わったと思っていたが見当違いだったようだな』

 かつてその言葉を初めて聞いたとき、ローズはひどい言葉だと思ったが、今考えればそれは、リヒトらしい言葉のようにも思えた。
 許しを与える。人を育てる。手を差し出す。
 絶望に染まった人間を、光の方へと導く手を。
 そもそも彼の名前は、光そのものなのだから。

「『我が君』。……やはり貴方が、我が君なのですね」

 リヒトから叱責を受けたにもかかわらず、子どもの声は、喜んでいるようでもあった。
 まるで長い時をかけて――ずっと探し続けてきた愛しい人に、ようやく出逢えたとでもいうように。

「何百年、何千年と続くようなこの命を与えられた絶望していたときに、私は貴方に出会った。だからこそ私は、ずっと貴方のそばで、貴方の願いを叶えるために、この命を使いたかった」

 ローズには子どもが、『主君』に対して強い執着を抱いているように思えた。

 『神に祝福された子ども』
 長い時を生きる彼らは、人の死と隣り合わせだ。どんなに大切な人がいたとしても、彼らは別れを繰り返すこととなる。
 ローズは、ロイの言葉を思い出した。 

『関係性は分散されてこそ、正常に保たれる』

 幸福の中の歪み。
 心の支えを失えばその歪みは大きくなって、誰かの幸せを願っていたはずの人間をも狂わせる。 
 長い時を生きているはずなのに――病を患ってなお『主君』に焦がれる彼の姿は、まるでたった一人の遊び相手を失った、幼い子どものようだった。

「なのにあの日、貴方を失って。私は、生きることが苦しくなった。だから許せなかった。貴方を否定した者たちを、貴方を忘れた者たちを、この世界を。『貴方の愛するこの国を守る』――私は、あの日貴方と、そう約束したはずだったのに」

 『主君《リヒト》』と出会い、正気を取り戻した子どもは、心の底から後悔しているようにローズには見えた。

「……貴方だけが、永遠とも思えるこの命の、唯一の光だった」

 子どもの瞳から涙がこぼれる。
 その姿を見て、ローズは思った。
 人は絶望のうちに差し出された光を、掴まずにはいられない。
 それはどんな世界でも、どんな時代でも、きっと変わりはしない。

「申し訳ございません。貴方との『約束』を破ったこと……。今更、謝っても仕方のないことだとは理解しております。ただ、これだけは誓います。私が必ず、『魔王』を倒しむしょう。たとえこの命が失われても――『魔王』をこの世界に生み出した責任を、必ず果たしてみせましょう」

 子どもはそう言うと、ローズを拘束していた茨を切って、魔法を発動させた。
 その瞬間突風が起き、子どもはリヒトが建物に侵入した際壊した天井のガラス窓の向こう側へと姿を消した。

 フィンゴットは、子どもを追いかけて天井へと飛翔した。
 問題はその後だった。
 古い建物というせいもあるだろう。強い衝撃を受けた建物は、音を立てて崩れ始めた。

「なんだってこんなときに!」
「リヒト様……。貴方だけでも逃げてください」

 魔力を吸い取られて動けないローズは、朧げな意識のなか、そう言うので精一杯だった。

「嫌だ。置いていけるか。ここで見捨てるくらいなら、一緒に死んだほうがましだ」

 リヒトの言葉に、ローズは胸が締め付けられるのを感じた。
 ――この人を、失いたくない。
 それだけが、今のローズの心を占める全てだった。

「……貴方が、死ぬのは嫌なんです」

 泣きそうな声で言うローズに、リヒトは一瞬目を見開いて、それから優しい笑みを浮かべた。

「俺だって男だ。ローズ一人くらい、運べないわけないだろ」

 魔法が使え、普段から騎士として鍛えているユーリやベアトリーチェならローズを抱き上げて運べるだろうが、魔法が使えない上に研究ばかりで引きこもり気味のリヒトは、ローズをお姫様抱っこしようとして、子鹿のようにぷるぷる震えた。

「重くてすいません」
「……そ、そんなことは無い!」

 リヒトが慌てたように叫んだ。
 だがローズは、そんなリヒトを眺めるのが嫌いではなかった。
 自分のために、彼が必死になってくれている。それだけで、ローズはとても幸せだった。
 鼓動の音が聞こえる気がした。
 ローズは目を瞑って、その音に耳を澄ました。

 ――わからない。この方の心臓が動いていることが、この方に抱かれることが、どうして自分はこんなにも嬉しいのだろう? 泣いてしまいたくなるほどに。

「行くぞ!」

 結局お姫様抱っこを諦めたリヒトは、ローズを背負って運ぶことにした。
 漸くローズを持ち上げたリヒトが崩落直前の建物の外に出ると、フィンゴットが二人を待っており、出てきた二人を見て声を上げた。
 
「ピィ!」
「お前な……。普通戻って助けてくれてもいいだろ……」
「ピィ?」

 フィンゴットは、まるでリヒトの言葉を理解した上で、からかうかのように首を傾げた。
 空気読んだだけですけど何か? とでも言いたげだ。

「……はあ。わかったよ。ありがとう。フィンゴット」
「ピィ!!!!」
 リヒトが礼を言えば、フィンゴットは元気よく返事をした。

「……フィン?」
 ローズは、その光景を見て驚いた。
 何故なら『最も高貴』とされるそのドラゴンが今目に映しているのは、自分ではなくリヒトに見えたから。

 相応しい者にしか従わず、主の訪れを待ち眠り続けた純白のドラゴン。
 その卵が孵った時、ローズとリヒトは一緒に居た。
 フィンゴットは魔力の籠った血を好み、ローズが魔力を与えたことで、瀕死のフィンゴットは一命をとりとめた。
 だからこそフィンゴットは、リヒトに懐かずローズにだけ懐いているように見えた。
 フィンゴットはリヒトではなくローズを主と思っているのだと、誰もがそう疑わなかった。

 ――でも。
 それがもし、誤りであったとしたら……?
 
「フィンゴット。――彼を追ってくれ!」

 相応しい者。認めた者にしか従わない。
 この世で『最も高貴』とされるそのドラゴンは、リヒトの言葉に確かに従っているようにローズには見えた。
 天龍は翼を広げ、高く空を飛翔する。
 するとその時、天空からはらはらと、薄桃色の花びらが降ってきた。

「これは……夢見草……」

 木は夢を見る。木は過去を知る。
 それは、『夢見草』と呼ばれる植物の花弁だった。
 フィンゴットは、花びらの中を真っ直ぐに進む。
 リヒトは視界を塞ぐ花びらを手に掴んだ。
 するとその花びらは、彼の手のひらで雪のように溶けて消えた。

 リヒトは目を瞬かせた。
 その時リヒトの中で、カチリと胸の奥で何かが音を立てて動いたような気がした。
 時を刻んでいたの彼の針は、緩やかに巻き戻される。
 リヒトは眉根を寄せた。

 ――一体、この光景は何なんだ? この声は、この言葉は……。

 自分によく似た、違う『誰か』。
 金色の髪に、赤い瞳の青年は、蹲る小さな子どもに手を差し伸べる。
 ベアトリーチェにどこか似た、浮世離れした雰囲気を纏う少年。
 子どもは一人きりで、森の中で暮らしていた。リヒトによく似た青年は、子どもににこりと笑って尋ねた。

『はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?』

 少年は最初、青年を拒絶した。けれど森の奥の家を青年が何度も訪れる中で、少年は少しずつ変わっていった。
 そして心を閉ざしていた少年は、青年を見て呆れたような顔をして言った。

『貴方は、本当に頼りない。貴方に任せていては、この国が心配です。だから私は、貴方の力になりましょう。――我が君』
『ありがとう! ユーゴ!』
『暑苦しいです』

 抱きしめられた少年はそう言いながらも、青年には見えないように幸せそうに笑う。

『君の力を、俺に貸してくれ。約束する。俺は君が生きたいと思える、そんな国を作ろう』

『早く王妃様をお決めください。貴方の面影を継ぐ方に、私はずっとお仕えしたい』

 美しい薔薇の詩《ソネット》の言葉のように、少年は彼にその言葉を繰り返す。
 永遠をも生きる子どもは、青年の姿をうつした子らの、その面影に永久《とわ》の忠誠を誓う。

「『ユーゴ』……」
「え?」
「彼の名前は『ユーゴ』だ。間違いない!」

 ローズは、突然静かになったと思ったリヒトが、そう叫んだ理由がわからず首を傾げた。

「何故、そう思われるのですか?」
「それは……」

 リヒトはぐっと唇を噛んだ。
 拳に力をこめる。

「……わからない。でも、これは確かなことだと、俺は思う」

 ローズはリヒトの表情から、リヒトが本当にそう思っていることを理解した。
 理由はわからない。
 そして何故かローズ自身も、彼の名前が『ユーゴ』であると、不思議とそう思えた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『薔薇のソネット』はシェイクスピアのソネットのことです。

シェイクスピア『ソネット集』冒頭
『From fairest creatures we desire increase, That thereby beauty’s rose might never die, But as the riper should by time decease,His tender heir might bear his memory』
William Shakespeare (2021),Shakespeare's Sonnets,Independently published
 リヒトとの約束を果たすために、子どもは精霊晶に力を込めた。

 魔法の威力を増幅させる魔法陣が、花形のペンダント裏側には書かれた。
 それはかつて――彼が忠誠《こころ》を捧げた王が、作り出した魔法だった。

 いつからだったかは覚えていない。
 復讐のために研究を続けるうちに、子どもの体にあったはずの強い魔力は、徐々に失われていった。
 それはまるで、神の罰とでも言うように。

 幼い頃から子どもは、自分に与えられたものが『神の祝福』だなんて信じてはいなかった。
 彼の住む村で病が蔓延したとき、自分だけを残して周りの人間が死んだとき、一人残された彼は思った。
 自分に与えられたのは、『祝福』ではなく『呪い』だと。
 病が流行ったとき、王は村を見捨てた。
 けれどだからといって、復讐は考えなかった。
 何故なら彼らは死にゆくときに、神の権能で自分たちを救わない子どもに、呪いの言葉を吐いたから。

 成長しない外見も、強い魔力も。
 村人たちは表面上こそ彼に礼を尽くしてみせたが、その裏では彼のことを恐れ、あるいは忌み嫌っていた。
 結局自分に与えられた優しさは、偽りだったのだと。
 それこそが、それだけが、『真実』だったとわかったから。

 元々、人と関わることは面倒だった。
 村人たちが死んでから、彼は一人暮らすようになった。
 幸い地属性魔法のお陰で、森の奥で一人暮らすことに不都合はなかった。
 長い時が流れ――新しく即位した王が、彼の森の屋敷を訪れるまでは。

『はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?』

 出会ったばかりの頃の印象は、『いい人ヅラした馬鹿そうな男』。
 正直、二度とここに来るなと思った。『友だち』だなんて、自分を馬鹿にしているのかと思った。
 どんな言葉を並べても、結局は『神の祝福された子ども』である自分を臣下にして、箔をつけたいだけの男なのだろうと。

 けれど苛つきながらも男と交流を重ねるうちに、いつしか男の来訪を待っている自分に気が付いた。
 最悪だと思った。
 人と関わるのは面倒なのに、自分に生まれた感情を悔いた。
 『寂しい』という感情も、誰かを『恋しい』という感情も、男と会わなければ、知らなくてすんだのに。
 
 森の奥の屋敷はずっと、光が差し込んでいると思っていた。
 けれど馬鹿みたいに池に落ちて、跳ねた水で虹を作るような男の見せる世界には、その輝きは遠く及ばなかった。
 男が見せた『新しい世界』は、男のその名のように光り輝いて見えた。
 その世界を知ってしまったら、もう元には戻れなかった。
 男が魅せる世界に、心は奪われていた。
 その光の中で、ずっと生きていたいと思うほど。

 だから、男を主人に選んだ。
 自分がそばにいることで、男に王としての箔がつくことが誉れだった。
 生まれて初めて、『神の祝福』を受けたことに感謝した。
 才能はあってもどこか頼りない彼のことを、自分が支えて生きていくのだと決心した。

 自分がいなくては駄目なのだと、王はそう思わせるような存在《ひと》だった。
 でも王がいなくては駄目だったのは――本当は、自分の方だった。

 認めることが怖かった。
 結局は自分が、ただの与えられた光に縋る人間だったこと。
 自分の復讐を果たすことが、王の願いに反することだと気付くことが。
 そうしなければ自分の心を、守ることは出来なかったから。

『貴方のためだって!? そんなこと、言われた相手がどんな気持ちになるかわかってるのか!? 貴方のためにやりました。貴方のせいで時間を失った。そんなふうに相手に伝えたときに、それはもう、相手のためだけじゃなくなる。お前は自分のためにやったんだ。現実に耐えきれなくて、逃げて逃げて逃げて。相手のためだなんて理由をつけて、そうやって生きてきたんだ!』

 王に似た少年の言葉を思い出して、子どもは笑った。
 そして彼が守ろうとした少女を思いだして――子どもは、あることに気が付いた。
 
「……なるほど。そういうこと、ですか。だから彼女は、あんなにも……。流石、『我が君』が愛した人だけのことはある」

 だがその呟きは、誰にも届くことはない。
 子どもの髪は風の中で暴れ回る。
 『腐食』の魔力――空に浮かぶ巨大な『魔王』と、子どもは対峙していた。
 風魔法の出力を最大にして闇の魔力を払おうにも、なかなか思うようには行かない。
 彼は、剣の形をした耳飾りを耳から外した。

「――神よ。貴方が、あの方を再び私と巡りあわせてくれたというのなら。どうかあの方の願いを叶える力を、あの方の国を守る力を、私にお与えください」

 子どもは、祈るように両手で持つと、耳飾りに口付けた。
 唇越しに石に魔力を込めれば、耳飾りは剣へと形を変える。
 小さな彼の体には少し不似合いな長剣。
 剣を手にした子どもは跳躍すると、かつてローズがそうしたように、赤い石に剣を突き立てた。
 だがローズの時とは違い、彼を守る『加護』の力は存在しない。
 
「はああああああああああッ!」

 精霊病の罹患者の心臓の石。
 かつてユーゴが誰かを傷付けて得たその魔法《ちから》は、『魔王』と対峙するために命がけで戦う彼に、まるで力を貸すかのように、力強い輝きを放っていた。


 
「リヒト様、この光は……!!」

 空を覆い尽くさんばかりの輝きに、ローズは思わず声を上げた。

「……くそっ!」
 まるで消える直前に一番美しく夜空を彩る花火のように、その光からは強い命の波動のようなものをリヒトは感じた。

「急いでくれ。フィンゴット!!!」
「ピィ!」

 リヒトの声にフィンゴットは返事をすると、翼を大きく羽ばたかせた。
 速度が増す。

「きゃっ!」
 風のせいで体が傾いたローズの体を、リヒトは無言で抱き寄せた。

「……っ!」
 ローズは息をのんで、ぎゅっと目を閉じた。
 その瞬間だった。
 空中に浮かんでいた『魔王』は、無数の欠片となって飛散した。
 そして『魔王』が居た場所から、『何か』が落ちていることに気付いて、リヒトはフィンゴットに目配せした。

「まさか……! フィンゴット!!」
「ピィ!」
 フィンゴットは、こくりと頷くと急降下した。
 だがその速さは、ローズがフィンゴットに魔力を与えたときの速さには及ばない。

「……間に合うか……っ!」
 リヒトは紙の鳥の魔法を発動させた。
 白い鳥は宙を舞い、墜落する子どもの体を支えようと奮闘するも、紙が破けて上手くいかない。その光景を見て拳を作ったリヒトの手に、ローズは自身の手を重ねた。

「ロー……ズ……?」
「今は、この程度しか出来ませんが……」

 糧として魔力を吸い取られたせいで、まだ魔力が回復していない。ローズは頭の痛みをこらえて、精一杯の魔力をフィンゴットに与えた。
 魔力を帯びたフィンゴットの体は銀色に輝く。
 魔力を帯びた防壁を自身に纏わせたフィンゴットは、一気に速度をあげてなんとか子どもの体を受け止めた。
 だがその小さな体は、所々紫に変色していた。

 フィンゴットは地面に着地した。
 リヒトは子どもの体を抱えて降りると、苦痛に顔をゆがめる子どもに何度も呼びかけた。

「ユーゴ。ユーゴ! おい、大丈夫か!?」
「……おそらく、『魔王』の力に当てられています。私のときとは違い、│光の聖女《アカリ》の加護が無かったから、その力の余波を体に受けているのでしょう」
「くそ……っ!」

 ローズの言葉を聞いて、リヒトは叫んだ。
 それから脱いだ服の上に子どもを横たえさせると、指輪に触れてリヒトは少年の胸の上に手を置いた。

「死なせない。絶対、俺が助けてやる。だからお願いだ。目を、目を開けてくれ」

 リヒトが使えない、沢山の魔力を必要とする治癒魔法。
 彼がその魔法を、心から使おうとした瞬間、何故かローズの聖剣が光を帯びた。
 剣に嵌められた石は、リヒトの願いに呼応するかのように強く光って点滅する。
 リヒトは胸を抑えた。

「…………げほっ!」

「リヒト様!」
 リヒトが血を吐いたのを見て、ローズは思わず声を上げた。
 急いで、可能な限りの光魔法を施す。
 だが魔王の糧として魔力を吸われすぎた今のローズでは、リヒトの状態を緩和することが精一杯で、子どもの治癒などとても出来ない。
 咳き込むリヒトに気付いたのか、子どもはゆっくりと瞼を押し上げてリヒトに言った。

「我が君……無理を、なさってはなりません……。今の貴方は、器を失っていらっしゃる。魔法を使えない状態で、これ以上……」
「う、つわ……?」

 子どもの言葉に、リヒトは胸を押さえて顔を顰めた。
 リヒトはロイから手紙を受け取っていた。
 そこにはリヒトには器がなく、だからこそ魔法が使えないということ。そしてその器は、何者かによって取り出された可能性があるということが書かれていた。
 でもそのことは、父にさえリヒトは話してはいなかった。
 ――それを、何故この子どもが知っているのか?
 顔を強ばらせたリヒトに、子どもは続ける。
 
「その石こそ、貴方が本来持つべきだった器なのです」
「聖剣の石が……俺の、器……?」

 リヒトは聖剣に嵌められた石を見た。
 その大きさは、ローズが持っていると示された器と同じくらい大きく見えた。
 だがもしそれが事実だとしても――『今のリヒト』が、子どもを救うための治癒魔法を使えないということに変わりはなかった。

「なんで……。どうして、俺は……!」

 リヒトは無力さに涙をこぼした。
 自分に力さえあれば、救えるはずなのに。もしかしたら時間さえあれば――それは可能かもしれないのに。
 子どもの命の火は今、リヒトの目の前で消えようとしていた。

「沢山の方を傷つけた。そんな私のために、貴方は泣いてくださるのですか?」
「……っ」

 子どものその言葉に、リヒトは何も言えなかった。
 目の前の子どもが善人か悪人かと問えば、きっとこの世界の誰もが、悪だと言うだろう。
 
「これで、よいのです。私が生きていれば、きっと貴方の立場を悪くしてしまう。争いの火種にもなるでしょう。罪を犯したものは、この世界に生き続けることは許されない」
「違う! そんなことない! 俺は、俺は……!」

 ――夢見草が見せる記憶の、その世界で。お前はずっと、『俺』を思ってくれていたのに。

 リヒトの中に、『誰か』の感情《ことば》が浮かぶ。
 リヒトは、その記憶の全てをまだ受け止めきれずにもいた。
 ただ断片的な記憶の中で、『自分』と子どもとの間に強い絆があったことだけは、確かに感じていた。 
 失いたくない。失ってはいけない。目の前の相手は自分にとって、そんな人間だったことだけは。
 
「私の目は、貴方により再び開かれた。今ならわかる。彼女が運命を覆す力を、強い魔力を持ち得た理由《わけ》が」
「ユーゴ……?」
「……どうか、貴方は、笑っていてください。我が君。私の、たった一人の――『光の王』よ」

 子どもは、リヒトの顔に手を伸ばした。
 しかしその瞳が閉じるのと同時、その手は力を失い、下へ下へと降りていく。
 リヒトは、必死になってその手を掴んだ。

「ユーゴ! おい、ユーゴ!」
 だが、リヒトが何度呼びかけても、子どもが再び目を覚ますことはなかった。
 子どもが首から提げていた首飾りの精霊晶は、まるでその中にあった魂が、最後の戦いを共にした戦友と共に天に昇ってしまったかのように、ひび割れて壊れていた。

「あ……ああ……」

 『ユーゴ』のことを、リヒトは全て思い出せたわけではなかった。
 ただ目を閉じれば、まるでパズルのピースのように、様々な子どもの姿が浮かんだ。

 『神に祝福された子ども』
 千年を生きる子ども。
 心を閉ざし、森で一人暮らしていた彼を城に招くため何度も足を運んだ。
 一人で生きていくのだと言っていた。
 子どもはベアトリーチェとどこか似ていて、自信家で一人なんてへっちゃらだという顔をして、そのくせ寂しがり屋で臆病で――少し面倒な性格をしていた。
 でもそんな彼の全てを、愛したいと思った。

 だから王城に招いた。宰相の地位を与えた。誰もが彼を信頼し、自分自身も、誰よりも彼を信頼していた。 
 長い時を生きる。
 そんな宿命を背負った彼に、沢山の人と関わって、自分の人生は無駄ではなかったと、そう思ってほしかった。

『我が君、こんなところにいらしたのですか?』

 驚かせたくて、よく子どものように隠れんぼをした。
 自分に振られた仕事を置いて、自分の臣下たちのもとに足を運んでは、仕事をしろと執務室に連れ戻された。
 子どもはよく呆れるような溜め息を吐いた。よく引きずられた。
 立場なんてあったものではなくて、周りに示しなんてつかなくて――でもそのたびに、二人を見る周りの人間は、温かな笑い声を響かせた。

 この時間がずっと、続けばいい。
 幸せだと、そう『思う』。けれどその幸せは壊れてしまった。
 だからこそかつての友人は、闇に落ちるしかなかった。

「……ユー、ゴ……」

 明るい方に光は伸びる。人は、光がなくては生きてはいけない。
 子どもを、一人きりの場所から世界へと連れ出した人間かどうなったのか、リヒトは思い出そうとして頭をおさえた。

 割れるように頭が痛い。
 口の中に血の味が滲む。心臓がえぐられるような痛みが、体の内側を剥ぎ取られるようなそんな痛みが、リヒトの中に蘇る。
 羽が落ちる。空を飛ぶ鳥が、墜落する姿が頭に浮ぶ。
 リヒトは膝を降り、地面に右手を置いて体を支えた。空から墜落した鳥は、赤い血で染まっている。

 『太陽《かみ》に近すぎた人間は、蝋で固められた翼を失い墜落する』

 そんな言葉が頭に浮かぶ。
 体が動かない。鳥の姿はやがて、金髪の青年へと変わる。
 青年の周りには、赤い石が落ちていた。その石は、聖剣の石とよく似ている。
 霞む視界で、青年は石に手を伸ばす。

『どうか光魔法を!』
 悲鳴のようなユーゴの声が、頭の中にこだまする。
 身を焼かれるような苦しさから逃れようと、青年は魔法を使おうと力を込めた。
 けれどいつもなら使えるはずの癒やしの魔法は、どんなに魔力を込めても使えなかった。

 ――どうして、魔法が使えない?

『我が君! ああ、どうして。どうして、こんなことを……!』

 笑い声に溢れていたはずの場所には、代わりに誰かの泣く声が響く。

『お願いです。私を、私を一人にしないでください。貴方が私に教えたんです。この世界に、あたたかな場所があることを。それなのに……それなのに……っ! 貴方が、貴方がいない世界なんて。私は、私は……!』

 でもその声を笑い声に変えることは、もう青年には不可能だった。

『リヒト様。私のたった一人の、光の王よ』
 子どもは、そう言って幸せそうに笑う。
 でもその小さな手のぬくもりは、もうこの世界のどこにもない。

『笑ってくれ。そうしたら、俺も嬉しい』
『見てくれ! 薔薇の騎士』
『空を飛べない君にこの国を見せてやる』
『ありがとう。君の忠義に感謝する』
『――君の手は、温かいな』

 誰かの笑顔、誰かの言葉。
 自分によく似た知らない青年。金色の髪に赤い瞳の青年は、フィンゴッドの背に乗り空を翔る。
 彼の傍らには赤い本があり、その本には金の装飾が施されていた。
 よく知る誰かに似た男の結婚式で、紙の鳥が空を舞う。
 水晶で作られた魚たちは、悠々と宮殿を泳ぐ。
 まるで物語の龍宮の姫のように――『友人たち(さんにんのおう)』はその光景を見上げて優しく微笑む。

『君に指輪は渡さない。でも、どうかこの心だけは、君の傍に居させてくれ』

 それはリヒトが知らないはずの、優しくて悲しい何かの欠片。

「う……。あ、……あ、ああああ……」

 自分の中に流れ込む濁流のような記憶に、リヒトは悲鳴を上げた。頭痛がする。胸が苦しくてたまらない。

「ああ、ああ……あああああああああ!」
「リヒト様! リヒト様、大丈夫ですか!?」
「――ロー……ズ……」

 リヒトはそう言うと、ローズの手を取って呟いた。

「俺の、薔薇の騎士……」

「リヒト様? リヒト様、リヒト様!!!」

 そしてリヒトは、そのまま意識を失った。
「ここ、は……」
 リヒトが目を覚ましたのは、城の中の彼の部屋の寝台の上だった。

「リヒト様。よかった。目が覚められたのですね。また倒れられたから……本当に、どうしようかと思ったのですよ」
「心配をかけてすまない」

 泣きそうな顔をしたローズを見て、リヒトは少し困った後で、柔らかな笑みを作った。
 その瞬間、頭痛がしてリヒトは頭をおさえた。 
 眠る前の記憶の一部が欠落して、上手く思い出せない。

 ――大事な何かの欠片《きおく》を、自分は見たはずなのに。

「ただ、俺がローズの前で倒れたのは、これが初めてだと思うんだが……。違ったか?」
「…………」
「兄上たちと勘違いしていないか?」
「いえ、それはないと思うのですが……」

 確かに、リヒトこれまでずっと健康で、倒れるなんてそぶりをソーズの前で見せたことはなかった。
 ローズは首を傾げた。
 自分が記憶違いをするなんて、あり得るんだろうか?

「ローズ。あのあと、どうなった……?」
 リヒトは、抑揚のない声で尋ねた。

「リヒト様が、『ユーゴ』とよばれた少年が魔王を倒し、闇の力の腐食《えいきょう》により亡くなってから、リヒト様が倒れられて――その後、魔物も消失しました。今は、破壊された建物の修復とや負傷者の治療が行われています」
「そうか」
「……リヒト様?」

 リヒトの声が沈んでいるように思えて、ローズはリヒトの名前を呼んだ。

「救えなかった。……俺は、彼を守れなかった」
「リヒト様は……あの少年をご存知だったのですか?」
「わからない。少なくとも今の俺は、彼にあったのは初めてだった」
「え?」

 ローズは、リヒトの言葉の意味が分からず思わず声を漏らした。

「でも、俺は、『俺』は、彼を――……」
 リヒトは、目を細めた窓の方を見た。

『我が君。私の、たった一人の――光の王よ』
『その石こそ、あなたが本来持つべきだった器なのです』

 眠りにつく前のユーゴの言葉を思い出して、リヒトは胸を押さえた。 
 その時、部屋の扉を叩く音が響いた。
 
「お目覚めになられたばかりで申し訳ございません。レオン様とリヒト様、次代の王を決めるために、陛下がお待ちです」
「急いで支度をして参りましょう。もう、時間がありません」
「……ああ。わかった」

 リヒトは急いで身支度を行った。
 ただ時間を考えると――自分が目覚めなかったとしても父は人を集めていたということに気が付いて、リヒトは少しだけ唇を噛んだ。
 王城の廊下はとても静かだった。
 父の元へと向かう間、リヒトはこれまでのことを思い出した。

 思い返せばこの1年、いろんなことがあった気がした。

 幼馴染で婚約者だったローズに、人前で婚約破棄を宣言した。少しは落ち込むそぶりを見せるかと思ったけれど、当のローズは全くダメージはなかったようで、彼女はその後騎士団長のユーリを倒して騎士となった。

 騎士となった彼女は、魔王討伐に参加することになり、アカリを守った。
 それがきっかけで、アカリはローズに心を許すようになった。
 その一方で、ローズがアカリを守った際に指輪が壊れてから、リヒトはこれまで以上に魔法を使えなくなった。
 結果として、ローズとリヒトの指輪は魔力の一部を蓄積させ、共有する効果があることが発覚した。

 指輪に書き込まれていた魔法は、『三重の魔方陣』――この世界から失われたはずの、『古代魔法』の一つだった。
 その後、ローズが祖父から受け継いだ『聖剣』にも指輪と同じ力があると発覚し、ローズはその力を使い、アカリやユーリ、ベアトリーチェの力を借りて、魔王討伐に成功した。
 そしてローズの力は、世界中の人間から認められることになった。

 魔王が消えてから、ローズの兄であるギルバートと、リヒトの兄であるレオンが目覚めた。
 レオンは手始めに、リヒトの評価を下げるために『令嬢騎士物語』という本を発表した。そのせいで、リヒトは『落ちこぼれ』や『出来損ない』と言われることが前より増えた。

 リヒトは、兄が目覚めたのなら当初の予定通りローズは兄の婚約者となるのだろうと思っていたが、選ばれたのはベアトリーチェだった。
 『神に祝福された子ども』
 一悶着あったものの、ローズが止まっていた彼の時間を動かしたことで、ベアトリーチェはローズに好意を抱き、二人の婚約は正式に結ばれた。

 だがそんな二人の関係を裂こうとする者が現れた。
 『赤の大陸』グラナトゥムの若き国王――『大陸の王』ロイ・グラナトゥム。
 それはこの世界で、最も巨大な領地を持つ国の王だった。彼はベアトリーチェに『決闘』を挑んだ。
 魔力の高さを重んじるこの世界での、優秀な力を持つ者の奪いあい。
 本来これは自国のみで行われるものだが、ロイは『大国の王』という権力で強引にベアトリーチェに闘いを申し込んだ。
 ローズの意思は尊重されないまま。

 だが一方で、ロイはリヒトには好意的な態度を示した。
 その理由が、リヒトには分からなかった。ただ同時に、ロイが兄を嫌っていることにリヒトは気が付いた。
 ロイの手を取れば、リヒトは兄を傷付けることなんて容易だった。

 でもリヒトは――いくらレオンがどんなにひどいことを自分にしても、目覚めてから必死に訓練している兄を、貶めたいとは思えなかった。
 ただこの闘いの結果として分かったのは、ロイにはすでに思い人が居て、ローズを望んだのは、その相手との隠れ蓑にするためだったこと。
 そしてロイが何よりも欲していたのは、亡き彼の母が残した箱を開けるための『鍵』だった。

 リヒトは壊れていた『解呪の式』を修復し、無事箱は開かれた。
 ロイは箱を開いたリヒトに感謝を述べ、リヒトやレオンたちに、自国にある魔法学院への入学をうながした。

 グラナトゥムのある魔法学院――そこは、『大陸の王』ロイ・グラナトゥム、『海の皇女』ロゼリア・ディラン、『賢王』レオン・クリスタロスの、『三人の王』によって作られたとされている場所である。

 魔力の低いリヒトは、子どもばかりの『幼等部』クラスへと配属された。
 リヒトはそこで、魔法を上手く使えなくなってしまっていたロゼリアと出会った。兄と同じ『三人の王』の転生者の一人であるとされる彼女が、魔法を使えるようになったきっかけは、リヒトがかつてローズを驚かすために作り出した『紙の鳥』の魔法だった。

 自分と同じく『落ちこぼれ』扱いされていたロゼリアが周りに認められる一方で、リヒトは学院で兄のレイザールと同じく『最も高貴』とされる生き物であるフィンゴットと契約するために冒険をした。
 だが結局、フィンゴットの命を繋ぎ止めるにはリヒトの魔力では足らず、魔力を与えたローズにフィンゴットは懐いた。
 フィンゴットがローズを選んだことで、リヒトへの嘲りの声はまた大きくなった。

 そんな中、ローズが魔法学院に編入し、リヒトはアカリとローズの三人で、卒業試験の発表を行うことになった。
 『優しい王様』を元に書かれた『心優しいお姫様』という劇で、リヒトは裏方を担当した。
 劇の中で、リヒトは父に発表を控えるように言われていた『古代魔法』を発表し、学院に入学した後の『透眼病』の治療方法の研究の成果もあって、リヒトはレオンと同じく最優秀としての成績を認められた。
 
 自分の研究を発表したことで、初めてリヒトは大勢の人間から認められるという経験をした。
 与えられた賞賛に、リヒトは胸が熱くなるのを感じた。
 今なら少しだけ、強い魔法が使えるかもしれないと――そう思うくらいに。
 でも、何より嬉しかったのは、かつて自分の弱さに打ちのめされて、周りが見えなくなっていたとき――自分が手を離した愛しい少女が、笑っていてくれたことだった。
 その時リヒトは自分の、彼女への思いを自覚した。

 だが学院から国に戻れば、すぐにベアトリーチェとローズの結婚式の準備が進められ、リヒトはローズと話すことは難しくなってしまった。
 そんな中ローズが行方不明になり、リカルドが魔王の糧として利用されてしまったローズを見捨てようとしたとき、リヒトはこれまでの自分の努力を全て無為にすると分かっていても、ローズを助けに行くことを選んだ。
 フィンゴットはリヒトの願いに従い、リヒトはかつてガラクタ扱いされた自身の魔法道具を使うことで、ローズの居場所を突き止めた。

 かつてこの世界に蔓延し、多くの人間を死に追いやった『精霊病』。
 その病をつくり、『光の聖女』をこの世界に招き、魔王を作り出して世界を滅ぼそうとしたのは、ベアトリーチェと同じ『神に祝福された子ども』だった。

 自分のことを『我が君』と呼ぶその子どもを前にしたときに、リヒトはやっと自分の思いを口にすることが出来た気がした。
 そして人に過去の記憶を見せるという『夢見草』に触れたとき、リヒトは『過去の記憶』の中に、その子どもの姿を見た。
 世界を憎み、滅ぼすほどの悲しみを抱いた始まりの記憶を垣間見て、リヒトは子どもを――『ユーゴ』を救うことを望んだ。
 だがユーゴは自分の命をかけて魔王を倒し、そしてリヒトに、『聖剣の石こそがリヒトの魔力の器』であると告げて命を落とした。

 そして、今。
 クリスタロスの未来を決める『五人の選択』が、行われようとしていた。
 
「ローズ」 
 リヒトの前を歩いていたローズは、リヒトに名前を呼ばれて立ち止まった。

「行く前に、話しておきたいことがある。俺がローズを助けに行ったのは、俺の意思だ。もしこのことで、俺がこの先どう言われても、自分の意思で父上の静止を振り切って行ったのだから、責任は全部俺にある」

 リヒトはそう言うと、立ち止まるローズの前へ、一歩足を踏み出しだ。

「ローズ。じゃあ、行こう」

 光を遮る扉の前。
 ローズの方を一度だけ振り返り、リヒトは柔らかく微笑んだ。
 リヒトはローズに背を向ける。その背を見て、ローズは目を瞬かせた。

 ――いつの間にこの方は、こんなにも大きくなられていたんだろう……?

 この十年。
 ローズはずっと、リヒトの前を歩いてきた。だからだろうか。意識したこともなく、気付いていなかった。
 自分が彼の前を歩いているうちに、彼が自分よりも少しだけ、大きくなっていたことに。
 ローズは小さく微笑んで、そっと自分の胸に手を押し当てた。

「――はい。ありがとうございます。リヒト様」

 前を歩くリヒトに、ローズは深く静かに頭を下げた。

 重く閉じられた扉に、リヒトは自ら手を伸ばした。
 そして扉は開かれる。
 二人を待つ部屋には光が差し込んでいた。そのまばゆさに、リヒトは僅かに目を細めた。

「目が覚めたか」

 リカルドは自ら扉を開いたリヒトを見て、静かに目を伏せた。

「レオン・クリスタロス。そしてリヒト・クリスタロス。どちらが次期国王に相応しいのか、今日この場で決めようと思う」

 ロイ、ロゼリア、エミリー。そしてローゼンティッヒやベアトリーチェ、ギルバート。
 扉の向こうには、これまでリヒトが出会った者たちがいた。

「王として、国の危機に私情を優先させる人間を信頼出来ない。俺はレオン王子を王には相応しいと思う」
 これまで、レオンよりリヒトに関心を示してきたロイは、『王』としての意見を述べた。

「学院は、二人に同等の資格があることを認めています」
 幼等部の教師であるエミリーは、学院を代表して二人に平等な評価を下した。

「騎士は国を守る者。最後まで前線で戦われていたレオン様、そして仲間を守ってくださったリヒト様にも、私は等しく資格はあると思います」
 騎士団長であるユーリは言った。

「民は――私は、貴方を望みます。リヒト様」
 四人目となるベアトリーチェは、ローズを一瞥してから言った。

「最後に――ローズ・クロサイト公爵令嬢」
 ここまででは引き分けだ。
 リカルドの声に、ローズに視線が集まる。
 ローズがどちらを選ぶかで、次のクリスタロスの王が決まる。

「魔王を倒した『聖剣の守護者』、そしてこの国で最も強い魔力を持つ君に、私は判断を委ねたい」
「かしこまりました」

 ローズは静かに頷いた。

「正直なところを申し上げますと、私はリヒト様もレオン様も、陛下のあとを継がれるには不適格だと考えております。魔力も、国を担うべき立場としての在り方も、相応しいとはとても言えない 」

 自国の王と王子を前に、ローズははっきり言った。

「リヒト様は公衆の面前で私をに婚約破棄を言い渡されますし」
「うっ」
「レオン様はいつも飄々とされて何を考えていらっしゃるかわからないですし」
「……」
「正直、どちらの方が王になられても、問題はあるように感じています」

 ローズの言葉を、誰も否定はしなかった。

「ただ力も先見の明もお持ちでも、当時騎士団長という地位にありながら、レオン様が倒れられていた時、国家の危機だというのに恋人を優先して国を去ったローゼンティッヒ様が相応しいとも思えません」

 ローズの言葉に、ローゼンティッヒは薄く笑った。
 ユーリはベアトリーチェの了解を得てグラナトゥムに赴いた。 
 レオンはそんなユーリのことを否定したが、騎士団での地位を捨てた後とはいえ、『国家の危機に国を空ける』それをしでかしたのは、ローゼンティッヒが先である。

「立場あるものには責任が伴う。そしてこのことから、私を助けに来たリヒト様は、王位を継ぐに相応しくない」

 ローズは相変わらず、自分にもだが他人にも厳しかった。
 自分を助けた恩人でもあるリヒトを、あっさり不適格だと言ってのけたローズを見て、レオンを望んだはずのロイの表情が僅かに曇る。

「国を守るには力が必要です。そしてこの世界では、魔力が高い者こそ王位に相応しいとされる。婚姻の際の決闘も、優秀な血を残すためのもの。そんな世界で、魔法が使えない人間は、王に相応しくないとみなされてもおかしくはない」

 ローズの言葉を、リカルドは肯定も否定もしなかった。
 リカルドだって、リヒト(むすこ)の努力は知っている。そして自分が否定し続けた彼の才能が、外の世界では評価されたことも。
 魔力だけが全てじゃない。
 リヒトのその努力や賞賛を側で見ていながら、公の場でリヒトを否定したローズに、リカルドは顔を顰めた。
 
「ユーリ。貴方は昔から本当に、何かとリヒト様に甘すぎます。私を助けたから? アルフレッドを、騎士団の仲間を助けたから? そんな理由で、騎士団長である貴方が、冷静な判断を下せずしてどうします。国を守る騎士ならば、個人の為に動く人間を、ましてやその人間が未来の王と望むなら、諫めることはあっても許してはなりません。リヒト様はただ、王族には相応しくない振る舞いをされただけ。自分勝手に行動されただけです」

 ユーリは、リヒト本人には『嫌い』といったことがあるにもかかわらず、その原因であるローズからリヒトへの甘さを指摘されて口ごもった。

 騎士団長としていたらない。
 年下の少女であるローズに、ついでのように叱られて――でもそれ以上に、ユーリはローズがリヒトを否定したことを悔しく思った。
 ユーリは知っている。
 十年前、目の前でローズを奪われたからこそ――ローズが初めて婚約した時に、リヒトがローズを思って口にした言葉を。

 自分だって辛い時に、彼に支えられたからこそ婚約を受け入れたのではないのか。
 確かに自分は甘いと言われても仕方は無い。でもだからといって、ローズの言葉はひどすぎる。

「ビーチェ様。一つ、質問をしてもよろしいでしょうか?」

 ローズの言葉に、ベアトリーチェは頷いた。

「貴方が、リヒト様を選ばれたのはどうしてですか? 貴方は元平民で、貴族の養子となられた方。騎士団の副団長を務められ、将来は伯爵位を継がれることでしょう。誰よりも民に近いとされる方。その意味で、陛下が貴方をお選びになったことは理解出来ます。しかし貴方は元々、レオン様を戴くことを望まれていた筈。何故今になって、リヒト様の側につかれようなどと思われたのですか?」

「――そうですね。確かに、私はずっとレオン様を王にと望んでいました」
 ローズの問いに、ベアトリーチェはにこりと笑った。

「リヒト様には魔力がほとんど無いですし」
「うっ」
「自分の意思で後先考えずに行動しては失敗されますし」
「ううっ」
「正直、いろいろ頼りないなあと思う要素は、非常に満載な方なんですが」

 ローズ同様、ベアトリーチェに欠点を指摘され、リヒトは蹲った。
 リヒトは心が痛くて泣きそうだった。

「あと、これくらいの叱責、事実を並べられただけで感情を表に出されるところも、王族というより貴族に向かれていないなあとも思うんですが……」

 王族どころか貴族にすら向いていない。
 ベアトリーチェの言葉に、誰もが心の中で頷いた。

「でも」

 ベアトリーチェは、蹲るリヒトに、自らの手を差し出した。
 リヒトは目を瞬かせた。
 リヒトには、ベアトリーチェの行動の意味がわからなかった。
 差し出された手を掴めば、小さな体の割に強い力で引っ張って、ベアトリーチェはリヒトを立ち上がらせた。

「ベアトリーチェ……?」
「――『嬉しかった』、から」
「え……?」

「精霊病を作った彼に対して、思うところがあるのは事実です。ただ、それでも……。私の弟を救ってくださったことも、私と同じ境遇の人間に、寄り添うおうとしてくだったことも。貴方のその優しさが、私は嬉しかったから」

「優し、さ……?」
「ええ、そうです。貴方は、私の知る誰よりも、優しい方だ。優しさというものは本来、余裕から生まれるものなのです。人に分け与えるだけの心の余裕があるから、人は本来優しく在れる。貴方のように、自分もつらい立場だというのに、人の痛みに寄り添おうとし、無力さを嘆きながらも、長い時間努力を重ねることは、とても難しいことだと私は考えています。でも貴方は、ずっとそうあろうとされてきた。確かに難しいこともあったでしょう。けれど貴方のこれまでの努力は、確かに実を結んだ。結果論ではあります。貴方は未熟で、きっとこれからも、失敗なさることは多いだろうと思います。……でも、私は」

 ベアトリーチェは、リヒトに向かって微笑んだ。

「誰よりも人を思う貴方を、支えたいと思ったから」

「ベアトリーチェ……」
「だから私は、貴方を選ぶことにしたんです。貴方の、貴方の心に眠る――未来の『可能性』にかけて」
「可能性……?」
「ええ、そうです。――リヒト様。貴方には、可能性がある。貴方自身が気付かれていない、貴方だけの魅力が」

 リヒトは自分の胸に手を当てた。嬉しくて、心臓がどきどきする。

「まあ、頼りないのは事実なんですけどね」
「あ……上げて落とすなよ!」
「あははははは! そうやって怒られるところも、私は、貴方の長所だと思いますよ」
「い、意味が分からん……」

 笑うベアトリーチェを前に、リヒトは照れくさそうに少しだけ顔を赤くして、それを隠すように右手で顔を隠していた。

「ビーチェ様。リヒト様をからかうのはおやめください。お気持ちは分かりますが」
「そうですね。今はこれで我慢します」
 リヒトをからかうベアトリーチェとローズの息はぴったりだった。

「今はってなんだ。今はって……」
 リヒトは、二人を見て恨めしそうに呟いた。
 ローズは、そんな彼の表情を見て柔らかな笑みを浮かべた。
 
「人は誰かに信じられてこそ、前を向いて歩いていける。もし、どんなに努力を重ねてもそれを認められないとしたら――それでも俯かず、誰かを否定せずに努力することは、どれほど大変なことでしょう? 魔法が上手く使えないということで悩んだことのない私はきっと、リヒト様のお気持ちは分からない。この国の多くの民は、魔法を使うことができません。だからこそ王の座につくものは、魔力を持つ者が望ましいとされる。人の上に立つ者が一番大切なことは、強い魔力を持ち、それを扱えるようになることである――私は、ずっとそう教えられて生きてきました」

 ローズの話は、今のこの世界の価値観だ。

「けれど気付いたのです。魔王を倒せないと思った時、本当に苦しい時に、私の頭の中に浮かんだのは、お兄様、ミリア――私にとってかけがえのない、身近な人の顔でした。 その姿が頭に浮かんだ時に、私は帰りたい――いえ、帰らなければならないと思いました。そして『強い魔力を持つ自分には何でも出来る、全てを変えられる』そう思っていたはずの私は、強敵を前に、あまりに無力でした。その時私は、漸く己の弱さに気がつきました」

 ローズは胸に手を当てた。

「人は、誰もが心に弱さを抱える。どんなに強い魔力を持っていたとしても、それがかわることはない。 私はずっと、誰かの弱さを受け入れることが出来なかった。自分が出来ることは、当然他の人も出来るものだと、出来ないのは努力が足りないせいなのだと、どこかでそう思っていました。……だから、『光の聖女』として違う世界から来たアカリが出来ないこと、わからないことを認めることが、あの頃の私には出来なかった。それはきっと傲慢で、 人を守るべき、上に立つ人間としては不適格だったと、責められても文句は言えない。でも――でも、こうも思うのです。人は誰もが、いつも正しいばかりでいることは出来ない。今回のこともそうです。私の弱さが、沢山の人を危険にさらしてしまった。そんな私を助けに来られたせいで、リヒト様は王として認められるために、これまで積み重ねてこられた努力を否定されることになってしまった。この状況は自分のせいだと、私はリヒト様が目覚められるまでの間、ずっと自分を責めていました。リヒト様は私のせいで、信頼を失った。側で努力されてきた姿を知っているからこそ、私はリヒト様から多くのものを奪ってしまった自分を責めていました。――でも、リヒト様は」

 ローズは、リカルドではなくリヒトを見つめて言った。

「私の責任ではないと、そう仰った」

 リヒトは、ローズが何を言いたいのか分からず目を瞬かせた。
 まさかこの場で、彼女がその話をするなんて、欠片も思ってはいなかったから。

「アルフレッドの時も、そうです。誰かの罪を代わりに背負うことが、王の資質であるかと言えば、私にはまだ、その答えを出すだけの確かな考えはありません。人の心は難しい。でもただ私も、その言葉が『嬉しかった』。そしてその時、確かにこう思ったんです。この方の作る国を、見てみたいと」

 熱のこもったローズの声は、紛れもなく本心だと、周りに思わせるには十分だった。

「確証なんてない。でも、リヒト様なら。皆が笑える国を作ってくださると、そんなふうに思うんです。夢物語のようだと笑われるかもしれない。ええ、それは分かっています。でも、いつの世も――……世界は、人で作られる」

 ローズはリヒトに微笑んだ。

「だから私も信じています。リヒト様の可能性を」
「ローズ……」

 ずっと背ばかり追ってきた幼馴染の言葉に、リヒトは胸をおさえた。
 王に選ばれる、選ばれないなんて関係ない。
 ただ彼女の言葉が、リヒトにはただ嬉しくてたまらなかった。もしたとえ、今魔法を使えない自分が、最後は選ばれないとしても。

 リヒトの顔に赤みがさしたのを見て、リカルドとレオン、ロイとユーリに、一瞬安堵の色が宿る。
 だがそれは一瞬で、リカルドは自分を見上げるローズを見て、コホンと息を吐いていつものように目を細めた。

「それでは君は、それを理由にリヒトを選ぶというのかね?」

 ローズに向けるリカルドの声は厳しかった。
 しかしローズは、たとえ相手が一国の王が相手でも、揺らぐことはなかった。
 ローズ・クロサイトは自分の意思を貫く。

「いいえ。これは私の意志であり、私は個人の思いで、票を投じようとは思っておりません」
「……どういうことかね?」
「これまでの私の言葉は、全て私の思いです。ただ私は、この話をしたときの皆様のお顔を見て、改めて私は、リヒト様こそ王にいただくに相応しいと確信しました」

「何故かね? ローズ嬢」
「――皆様、私がリヒト様を否定した時に、一様に顔が曇られました。そしてリヒト様が表情を明るくされた時は、ほっとしたような顔をなされた」
「?」
「お分かりになりませんか?」

 ローズはいつもと変わらぬ表情《かお》で、リカルドに笑いかけた。

「大切に思う人間が傷つけられれば、誰もが怒りを抱くもの。私の言葉で、もしリヒト様を擁護しようと思われたなら、私はその心こそ本心で、だからこそ私は、リヒト様は王に相応しい資質を持ち合わせていらっしゃると考えます」

 『水晶の王国の金剛石』――ローズがそう呼ばれるようになったのは、彼女がいついかなる場合においても、相手においても、変わらぬ気品を保ち続けてきたからだ。
 立場が上の相手にも、決して彼女は遅れを取らない。 
 美しい赤い瞳を宝石のように輝せて、ローズはその場にいた人間の心を掌握する。


「『王の資質』を問うために、私が最後の一人に選ばれたというならば、私は申し上げましょう。人に愛される才能は、紛れもなく、『王の資質』であると」


 その声は、静かなその空間に、確かな熱を持って響く。
 リヒトが最も得意とするのは光魔法だ。
 千年前からあるとされる『光の祭典』。
 そしてその力もあって、彼はリヒトと名付けられた。

 それは、王とは最も遠い力。
 誰かの幸福を、力になりたいと祈る心だけでは、彼一人だけでは、世界は動かせない。
 だからこそリヒトは、その魔力の低さからずっと、王には不適格であるとされてきた。
 でも、本当に?
 彼の祈りは、願いは届かないのか?

 相手を思い、慈しむ。
 その心が、誰かを守る力になるなら、そのとき祈りは、自分だけのものではなく、誰かに影響を与える力になる。
 そしてその影響は、魔法という『世界への影響』だけでなく、きっと人の心にも。
 光属性の適性。
 それは人の心に温かな感情を呼び起こす、素質を持つ者の証だ。

 外交・学問・軍・民。
 それぞれの立場で語られた王の資質。
 ローズは予感していた。
 ベアトリーチェと自分はどこか似ているところがある。だからきっとベアトリーチェはリヒトを選び、自分と同じ理由を述べることも。

 けれどローズがリヒトを選ぶ言葉は、ベアトリーチェと同じであってはならない。
 それ故にローズは考えたのだ。
 自分の選択は、この場に居る全ての者に、改めて問う形にしようと。
 そしてこの作戦が成功した暁には――。 
 ローズの『一票』は、何よりも重いものとなる。

「……っ!」
 ローズの言葉の意味を理解して、その場にいた者は一様に息をのんだ。
 口に出さなかった本心を、不意に突かれたような気がして。
 そんな中、ローズとベアトリーチェの二人だけが、静かに笑みを浮かべていた。

 ローズはいつだって、人に厳しい。
 それは彼女の短所だ。けれど今、この時だけは、彼女の短所はリヒトを引き立てる力を持つ唯一のものだった。
 ベアトリーチェもローズも、厳しさを併せ持つ。
 しんと静まりかえり、誰もが声を発せぬ中、ベアトリーチェはレオンに尋ねた。

「レオン様。私たちは、リヒト様を王に望みます。でもそれは――本当は、貴方も同じではないのですか?」

 ベアトリーチェの問いに、レオンは沈黙の後、静かに瞳を閉じた。