一度足を止めたリカルドは、それから何も聞こえなかった振りをしてその場を去ろうとした。
そんな父を、声は再び呼びとめた。
「父上。逃げないでください」
リカルドはその言葉に再びピタリと足を止めたものの、振り返ろうとはしなかった。
「……リヒト」
「最近、ここにいらっしゃることが多いと聞いたので」
リカルドはその言葉を聞いて、ポツリつぶやくように言った。
「……彼女も、あの子も。この場所を愛していたから」
「あの子とは……俺の、伯母上のことですか?」
リヒトの問いに、リカルドは静かに頷いた。
『光の巫女』と母の仲が良かったという話は、リヒトは後から兄に聞いた。
昔から体の弱かった母の治療は、そもそも『光の巫女』が行っていたらしいということも。
だからその『光の巫女』が亡くなったからこそ、後を追うように母は亡くなったのかもしれないと、リヒトはレオンに聞いた。
「伯母上は、どんな方だったのですか?」
『光の巫女』のことを父に尋ねるのは、リヒトがそれが初めてだった。
と、いうより――父と話というものを、リヒトはこれまでほとんどしたことがなかった。
「妹は、優秀な人間だった。私と違い誰からも、妹はその能力を認められていた」
兄弟での才能の差。
それはどこか、リヒトとレオンと似ていた。
「『炎属性』に適性がある。私が妹より『王の資質』があるとするなら、その一点だけだった。だから私はいつだって、私を慕う妹が、愛しいのに憎らしかった」
リヒトだって、レオンが嫌いではなかった。
でも、周囲の人間に比べられて心ない言葉を吐かれる度に、いつからかリヒトも、兄のそばに立つことが苦しくなったのは事実だった。
「陽だまりのような妹だった。まるで彼女がその場にいるだけで周囲が明るくなるような、妹はそんな人間だった。そしてその子どもは金色の髪に赤い瞳を宿して生まれ――力を隠してこそいたが、私の二人の息子よりも優れた力を持っていることは、疑いようはなかった」
今のリヒトなら、ローゼンティッヒを上回る。
けれど『賢王』の転生者とされるレオンでさえ、一〇年の月日を魔法の研鑽にあてたとしても、ローゼンティッヒと肩を並べるのが精一杯だったはずだ。
ましてや彼には『強化属性』持ちの妻がいて、なおかつリヒトたちより、ずっと早くに生まれているのだから。
「魔力の低い王など受け入れられるはずがない。――お前に向けた言葉は全部、かつて私自身が、自分に向けた言葉だった」
リカルドは、美しい花に触れて言った。その手は、かすかに震えていた。
「お前や、眠りについたレオンより、妹の子のほうが相応しいという者さえいた」
父が母を愛していたことを、リヒトは知っている。
それは、王としてでは一人の人間として。
だとしたら、それは――。二度と目覚めないかもしれない我が子を切り捨てるような言葉を吐く者たちの声は、父の目にはどう写ったのだろう? リヒトは、考えると胸が苦しくなった。
「弱い私では……お前が『失敗』した時に、力の弱い私では、お前を守ってやることができない。だから私は、お前が新しいことをなすことを禁じた。結局私は、大国の王のように振る舞うことなど出来なかった。お前を認め評価できるほどの力が、私にはなかった」
ずっと、自分の道を阻んでいたはずの大きな壁。
それが今は、今のリヒトには、何故かとても小さく見えた。
「私がそばにある限り、お前は私を思い出すだろう。……だから」
リカルドは振り返り、リヒトを真っ直ぐに見つめて言った。
「お前を、私から解放する」
どこか、寂しそうに笑って。
リカルドはリヒトに言った。
「私のことは王とも、親とも思わなくていい。存在しなかったようにも扱えば良い。事実私が王になって成したことなど微々たるものだ。これからお前が成すことを思えば、居ても居なくても変わらぬほどの。だから――」
しかしそのリカルドの言葉を遮るように、リヒトは言った。
「許しません」
「……今、なんと?」
リカルドは、思わず聞き返していた。
自分の息子なら、喜んで聞き入れるだろうと思っていたのに。
「貴方が俺から逃げることは、許さないと言いました」
リヒトはもう一度、はっきりリカルドに言った。
リカルドは、思わず目をまたたかせた。予想外の事態に、どう反応していいかがわからない。
『光の巫女』、アメリア・クリスタロス。
彼女はかつて、ベアトリーチェの命を救った。
それから数年後、彼女は『死んだ』とされている。けれどその体は――実は、今この世界にはない。
リヒト自身、この事実を知ったのは最近だった。
そして、アカリが生きてきた異世界に存在していた『Happiness』というゲームには、クリスタロスの言葉でこう書かれていた。
【これは私が、未来を変えるために紡ぐ幸福の物語。私がこの国を守ると誓う。たとえそのために、この命が潰えても。 アメリア・クリスタロス】
『光の巫女』が強化魔法の使い手であることは、公式の記録では完全に伏せられていた。
神託を賜るような高貴な女性が、強化魔法の使い手であることを、神殿は隠したのだ。
強化魔法は己と他者を強化する。
そしてその力は、『運命を打ち破る者に与えられる』とされる。
『光の巫女』がベアトリーチェを救ったからこそ、ローズちは魔王を倒すことが出来た。
『光の巫女』が不在だったからこそ、ローズは兄やレオンのために己を磨いた。
アカリにとってこの世界が偽物で、ローズだけが本物だったからこそ、アカリはローズのために『守護』の力を使うことが出来た。
リヒトを中心とした『今』の全ては、『光の巫女』の行動なしでは有り得ない。
この事実に気づいた時に、リヒトは考えた。
『光の巫女』が命をとしてまで救いたかったのは、救いたかった世界の中心には――一体誰がいたのだろうと。
愛すべき人。
夫や子どものことだけを思うなら、もしかしたらいつか滅ぶ世界であっても、最期の時を共にするという決断だって出来たはずだ。
――なら。
彼女がずっと、幼い頃からずっと、救いたかったのは。
変えたかった、『世界』は。
ローズとは違って、結局たった一人、自分の命を賭けることを選んだのは。
「俺と貴方は、ある意味似ているかもしれないと思うんです。俺も昔アカリのことを、部屋にとじこめてしまった。それが、自分にできる最善だと思っていたから。でもそれは、今思えば、父上が俺にしたことと同じでした」
親を見て子は育つという。
だからだろうか。リヒトはリカルドが自分にされたことを、かつてアカリにしてしまった。
かつて自分が、そうされたことで苦しんだことすら忘れて。
「貴方がこれまで、どんなふうに育てられたのか。どんな風に生きてきたのか。その中で、感じたこと。『分かって欲しい』――もしかしたら貴方は今、俺にそう思っているかも知れない。でもそれは、これまでの俺にとって、何の意味も無かったことなんです。俺が知ることが出来る貴方は、他者が語る貴方であり、そして何より、俺が知る貴方で。兄上とは違う俺を、どうしようもなく無力な俺を、その努力も思いも、無駄だと言った貴方でしかなかった。貴方は『クリスタロスの国王』で、ロイのような大国の王ではなかった」
「……」
「でも、どう嘆いても、過去を変えることなんて出来ない。あの時ああして欲しかった。ああ言って欲しかった。勿論、俺自身の責任もあります。だから全て、貴方が悪かったとは俺は言いません。……ただ、これだけは、言わせてください」
リヒトは深く息を吸い込んで、父にずっと伝えたかった言葉を口にした。
「俺は、貴方に信じて欲しかった」
その言葉を口にした瞬間に、ずっと胸にしまっていた感情が溢れ出すのをリヒトは感じた。
「兄上じゃなくて、俺のことも、ずっと信じて欲しかった。――……だって」
泣きそうになるのを必死に堪えて、リヒトは言った。
「愛することは、信じることだ」
リカルドはその言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
そうして子どもの瞳が僅かに揺れているように見えて、リカルドはぐっと拳に力を込めた。
「今更言ったとしても、過去は変えられない。ただ俺はこの不幸の連鎖を、俺はここで断ち切りたい。俺はもう、貴方の庇護がなくても生きていける。だからこそ今俺は、一人の人間として、貴方に向き合いたいと思うんです。俺はもう、逃げません。これまでのことからも、これからも。だから貴方も、俺から逃げないでください。貴方が俺に対して負い目があるなら、今、そう感じているのなら。一生を賭けてでも、証明してください。人は変われるいうことを、今度は貴方が、俺に教えてください。それが俺が貴方に望む、唯一の贖罪です。――……父上」
「……リヒト」
リカルドは、リヒトに手を伸ばそうとしてやめた。
「過去の私の行動を、許してくれとは言わない。……それでも、これだけは、言わせて欲しい」
「?」
「こんな私を、もう一度信じようと思ってくれてありがとう。私の子どもとして、生まれてくれてありがとう。きっと彼女も、そう思っていることだろう」
その時。
父の心からの笑顔を、リヒトは久々に見たような気がした。
リヒトは何も言えなかった。
もしかしたらそれは、自分が生まれたときに、父が自分に向けてくれたかもしれないもの。
覚えていなくても。きっと、思い出せなくても――リヒトは心は、確かに覚えているような気がした。
『リヒト様さえいらっしゃらなければ』
『陛下に嫌われているのは、リヒト様のせいで王妃様が――……』
心ない誰かの言葉を、知らなかったわけじゃない。だからこそリカルドのその言葉が、リヒトは心から嬉しかった。
――やっと。……やっと。
リヒトはその時ようやく本当の意味で、自分を許せたような気がした。
リヒトは父に背を向けると、前に足を踏み出した。
◇
「リヒト」
「……兄上」
リカルドと話を終えたリヒトを、レオンは待っていた。
「父上のこと、許すのか」
レオンの問いに、リヒトは足を止め、曖昧に微笑んだ。
「……許すとか許さないとか、そういうことじゃないと俺は思うんです。そんな簡単な言葉で片付けられるなら、きっと誰も苦労なんてしない。俺は大事なことは、気持ちに『区切り』をつけることだと思うんです」
「区切り?」
「父上とのことがなかったら、もし俺が魔法が使えなくても、ロイみたいに父上が俺の魔法道具を認めてくれていたら――俺がローズや兄上に対して抱いていた感情も、きっと今とは変わっていたはずです。こんなふうにローズを傷つけて、アカリのことを振り回すこともなかった。でも俺は、それは『俺の罪』だと思うんです。……前世の自分のせいたからだとか、そういうことではなくて」
リヒトは胸に手を当てた。
「たとえ自分が傷ついたからとしても、誰かを傷つけていい理由にはならない。傷付けた時に、きっと自分も『同じ』になってしまう。そのためにこの不幸の連鎖を、俺はここで断ち切りたい。だから俺は、父上にも変わることを願っています。俺を選んでくれたローズや、俺を信じてくれるたくさんの人の俺が出来る贖罪は、きっとこれからの俺で、証明することでしか出来ないと思うから」
『変わること』――父に願ったそれは、リヒト自身の誓いでもあるのだ。
「自分に向けられた言葉は、一生消えることはありません。悲しかったこと、悲しかった時間。もしそれがなかったら、俺はもっと早く、前へ踏み出せたこともあったかもしれない。その思いは、これからも俺の中にあり続けます。その全部を許せるかと言われたら、俺だって……もしかしたらこれからも、思い出しては、胸が苦しくなることはあるかもしれない」
自分を変えることは自分で出来ても、他人を変えることは難しい。
血が繫がる家族だから、全てが許せるわけじゃない。
いいやむしろ、家族だからこそ――期待が裏切られる度に、また胸は痛むだろう。
「詰まるところどんな過去があったとしても、一人の人間としてみたときに、一緒に居て欲しいかどうかだっても思うんです」
父は――『リカルド・クリスタロス』という人間は、決して『悪人』ではない。
今のリヒトにはそう思えた。
「もし側に居て欲しいと思うなら、共にありたいと思うなら、どんな過去があったとしても、それを受け入れるしかない。……ただもしかしたら、心では一緒に居たいと思っても、体が付いていかないということもあるかも知れない。そしてこの選択が正しいとかそうじゃないとか、そう議論することは無意味だとも俺は思います」
「……どうして?」
「自分にとってのその時の『最善』は、他の誰かの『最善』だとは限らない。誰かの気持ちを完全に理解できる人間なんて、結局はどこにもいないんだから」
もし自分の心の『理解者』だと、『代弁者』だと思う相手と出会ったとしても、そこにはきっと問題を抱える当人の、『期待』や『理想』が入りまじる。
決断をできるのは当人だけだ。
同じ人生を歩む人間なんてこの世界にはどこにも居ないのだから、他人《だれか》の決断に、他の誰も、口出しする権利はない。
「誰かに与えられた道《せんたく》を進むのは簡単で、でもその道が自分にとって『過ち』だと思ったときに、手を差し伸べた誰かのことを、憎んでしまう瞬間もあるかも知れない。だから俺は、いつか後悔したとしても、その責任は俺の中にとどめていたい。大切な誰かを嫌わなくて良いように、どんな未来であっても、向き合うべきは、過去の自分であるために。俺は、『神様』ではありません。これからのことは、俺にはまだ分かりません。でもこれが――『今の俺』の選択です」
リヒトは空を見上げた。
空は快晴。美しい青の色を見つめていると、リヒトは自分の心も晴れるような気がした。
「……それにきっと、『明るい方に光は伸びる』」
差し出された手を掴んだからこそ、今のリヒトがいる。
だから今度は、自分が掛けて貰った思いの分、違う誰かに手を差し出したいとリヒトは思った。
相変わらず王侯貴族らしくないリヒトの言葉に、レオンは目を瞬かせた。
「……ああ、そうだね」
美しい希望の光。
それは白百合のような、純粋で無垢なものではない。
――それでも。
泥の中に咲く花もまた、きっと美しいに違いない。
迷いながら弟が辿り着いた結論を祝福するかのように、レオンは笑って頷いた。
そうして彼は、母の遺品である懐中時計を優しく撫でた。
「それって母上の……?」
「ああ。そうだ」
レオンは頷いて――じっと時計を見つめる弟に少し不機嫌そうに尋ねた。
「……何ずっと見ているのかな」
「あっ。いえ、ただ綺麗だなあって思って」
「これは僕のだ。君が欲しがっても、これだけはあげないよ」
「べ……別に俺は、『欲しい』だなんて言ってません!」
リヒトの返答に、レオンは思わず笑ってしまった。
自分の全ては弟に奪われたと思っていたレオンに、母が遺してくれたもの。
大切な人がこの世界からいなくなっても、変わらずに時は動く。
この世界で時間だけは、平等に与えられる。
止まっていた時が動く音を聞いて、レオンは笑った。
「兄上、そんなに笑わないでください。……父上とは話も出来ましたし、そろそろ俺はローズのところに行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい」
レオンは笑ってできた涙を指で拭って、弟を送り出した。
「ローズ!」
「リヒト様?」
リヒトがローズを見つけたとき、ローズはアカリとは話をしていた。
籠を下げたローズの手には、小さなお菓子が握られている。
テーブルがあるわけでもないのにどうしてだろうとリヒトが思っていると、リヒトは自分の顔や頭に軽い衝撃を感じて目を瞬かせた。
「いてっ!」
「こらこらみんな、リヒト様をいじめたらダメ」
見えない『何か』に向かい、慌ててアカリが言った。
「……もしかして、そこに『いる』のか?」
「はい。風の妖精と木の妖精がいます」
アカリは苦笑いしながら答えた。
アカリは『精霊の愛し子』だ。
自分には見えずとも彼女には見えているらしい存在の行動に、リヒトは少し落ち込んだ。
「……俺は、妖精たちに嫌われているのか?」
「嫌われている……というよりは、そもそも妖精は妖精の愛し子にしか懐かない、みたいなところがあるようで。ただ妖精は甘いものが好きですから、美味しいお菓子をくれる人間であれば好きになることはあるらしくて」
リヒトは、ローズがお菓子を持っていた理由を察した。
「なるほど。……じゃあこれはどうだ? 彼らに俺も気に入ってもらえるだろうか?」
リヒトは、苺のお菓子を取り出して手のひらの上に置いた。
すると、その瞬間リヒトの手のひらの上に小さな風が起こり、お菓子が消えて代わりに古びた木が現れた。
「……菓子が木になった?」
リヒトは目を瞬かせた。
「リヒト様、この木、すごくいい香りがします。もしかして『香木』ではないでしょうか?」
「流石です。ローズさん。この世界でどのように使われているかは分かりませんが、この木、私の世界だと金と同じくらい価値があるものですよ」
「ええ!?」
「妖精と人間の価値観は違うので、彼らからしたらいい香りがする木をあげた、位の感覚だとは思うんですが……」
アカリは困ったように笑った。
「リヒト様。ローズさんに用があって来たんですよね? この子たちにお菓子をあげる約束もしていましたし、私は少し席を外しますね」
アカリはお菓子の入った籠を持って二人から離れた。
二人きりになったリヒトは、ローズに口付けようとして――ローズに背負い投げされた。
「リヒト様、ダメです」
「だから、なんでダメなんだよ!」
ふわっと体が宙に浮いたと思ったら、地面に下ろされていたリヒトは思わず叫んだ。
「いいだろ。もうすぐ結婚するし、別にへるもんじゃないし!大体すでに一度――」
「あれは貴方が勝手になさったことで、私が許可したことではありません」
ローズはきっぱり言った。
「とにかく式の時まではだめです」
「~~~~!!!」
ローズにすげなくあしらわれ、リヒトは肩を落として帰路につくことになった。
その姿を遠目に見ていたアカリは、リヒトが小さくなるのを見てからローズに尋ねた。
「ローズさん、それってこの世界の風習か何かですか?」
「え?」
「結婚前に、キスしたらダメって」
「いえ、別に決まっているわけではありませんね。というより、アカリの世界とはそもそも結婚についての意識が違う可能性もあります。式まで相手が分からないこともありますし、恋愛結婚というのは、この世界ではかなりまれなことですから」
「じゃあなんでダメって言ったんですか?」
「それは――……」
ローズは、立ち止まってアカリに向かって笑った。
「あとでアカリにも教えてあげます」
◇
ローズとリヒトの結婚式の準備は国を挙げて行われ、その参列のため、ロイとロゼリアも再びクロスタロスへとやってきた。
大国の王と皇女。
そして何より友人である彼らを迎えるために、リヒトは飛行場にわざわざ出向いて二人を歓迎した。
「随分と疲れた顔をしているな」
「だって、昨日まで毎日決闘を挑まれていたんだぞ……?」
リヒトは、ロイの言葉にげんなりとした表情で答えた。ロイはその言葉を聞いて笑った。
「いいじゃないか。良い訓練になって。それに戦うことは、彼女への思いの証明になる。君は彼女を、他の男にくれてやるつもりはないんだろう?」
「当たり前だろ。ローズのこと何も知らないやつに、簡単に奪われてたまるかよ」
「ふうん?」
「な……なんだよ」
『記憶』を取り戻してからというもの、リヒトは前世《いぜん》と同じように親しく文を交わすことも増えていた。
「君は、よほど彼女のことが大事らしいな?」
「だ……大事で悪いか」
「いいや。実に喜ばしいことだろう。思い合う相手と結ばれる。これほど幸せなことはない」
ロイが、そう話した時だった。
花の冠をつけたシャルルがロイの元へと走って駆け寄って、勢いよく彼に抱きついた。
「王様、王様! 花の飾りをいただきました!」
「……よかったな。よく似合っている」
精一杯背伸びをして、ロイを見上げて目を輝かせて嬉しそうに話す。
シャルルの頭を、ロイは優しく撫でた。
「ロイ。お前……」
――もう、好意を隠すつもりは無いのか。
リヒトが、幸せそうに少女を見つめるロイの顔を見てそう尋ねようとしたところ――アカリがシャルルを見つけて、リヒトたちの元へと走ってきた。
「わ~~!! シャルルちゃんだ! 久しぶり! 元気? その服すごく可愛い! またちょっと大きくなったね!」
アカリはシャルルを抱き上げると、くるくるその場で回った。
レースを施したドレスは、花のようにふわりと広がる。
「はい。私は、日々大人になっているのです」
アカリがシャルルを地面に下ろすと、シャルルは誇らしげに言った。
「先日、王様の隣の部屋に自室をいただきました。部屋と部屋が実は繋がっているので、会いたくなったら廊下に出なくてもすぐにあいにいけるのです!」
「へ~~?」
その部屋の位置は、どう考えても過保護が過ぎる。
シャルルが自慢げに語った内容に、アカリはにこりと笑ってロイを見て言った。
「……『思い合う相手と結ばれる。これほど幸せなことはない』」
「やめろ七瀬明。……というより、何故知っているんだ」
「『精霊の愛し子』をなめないでください。ああ、結婚式には呼んでくださいね! 私、『光の聖女』として精一杯お仕事頑張るので!」
清廉潔白な聖職者のように、アカリは綺麗に微笑んだ。アカリはローズの衣装同様、シャルルのドレスも祝福を施す気満々だった。
「どなたかの結婚式で、我が国にいらっしゃるのですか?」
だが当の花嫁《シャルル》は意味が分からず首を傾げた。
「はあ、全く……。まだ道は遠いですね」
自分のこととなど夢にも思っていないシャルルを見て、やれやれとアカリは首を振った。
「おい。まさか、ロイ。まだ言っていないのか?」
リヒトはロイに小声で尋ねた。
幸い本人にはバレていないとしても――シャルルへの彼の瞳には、彼女への愛情が溢れすぎている。
「やめろ。哀れみの目を俺に向けるな。――リヒト・クリスタロス。そんな顔をしていられるのも今のうちだけだからな」
「?」
「明日の余興は楽しみにしている」
「余興……?」
リヒトはロイの言葉の意味が分からず首を傾げた。
ローズとリヒトの結婚式は、盛大に行われた。
古代魔法だけではなく、リヒトが作った新しい魔法も式では使われることとなった。
学院の宴の席を盛り上げる天才双子のマリーとリリーも、式を行うにあたり協力を申し出た。
双子はリヒトを気に入っていたらしく、『存分にやるとよいのです!』『遊び心は大事なのです! 協力してやるのです!』とリヒトの師匠を気取っていた。
アカリは『愛し子』として、妖精たちに願って二人が歩く度に、花が咲く道を用意した。
会場を彩るベアトリーチェが育てた花は、結婚式当日に大輪の花を咲かせ、招待客の目を楽しませた。
完璧な結婚式。
その式は、そう言うに相応しいものだった。
――だが。
リヒトがローズに誓いの口付けをしようとしたとき、それを制止する声が響いた。
「その結婚、待った!!!!!」
「え?」
リヒトは目を瞬かせた。
振り返れば何故か、招待客の内数名が手を上げて、好戦的な目をこちらへと向けているではないか。
リヒトは無言で父の方を見た。
リカルドは予想外の事態に一瞬顔を曇らせて、こほんと咳き込んでから静かに言った。
「……どうするかは、お前が決めなさい」
それは丸投げと同義だった。
その中には何故かロイも居た。リヒトは顔を引きつらせた。
――くそ。まさか、『余興』ってこれかよ!!!
「どうした? さっさとはじめよう。今の君なら余裕だろう? 七回の決闘くらい」
ロイはにこりと笑って言った。
ミリア、アルフレッド、ジュテファー、ユーリ、ロイ、アカリ。
手を上げた六人は、リヒトの前に立っていた。
「貴方が本当にお嬢様を守れる方かどうか、試させていただきます!」
リヒトは、ミリアからの攻撃を避けるために外に出た。
強化魔法の使い手であるミリアが建物の中で本気を出したら、倒壊してもおかしくはない。
逃げたリヒトを、他の人間も追いかける。
「お嬢様を悲しませたら、絶対に許しません! 地の果てまで追いかけて、必ず後悔させます!」
リヒトは、少しだけ傷ついた赤い指輪の石に口付けると、ミリアと同じく強化魔法を発動させて彼女の手を払った。
『光の王』は武術もおさめていたということもあるけれど――最近のリヒトは、ローズを抱き上げられなかったことを後悔して体も鍛えていた。
続いて、ジュテファーとアルフレッドがリヒトに向かって魔法を放った。
「ローズ様にはお姉様になっていただくはずだったのに!!」
「そこかよ!?」
「叔父になる覚悟を決めてたのに!」
「気が早い!!」
リヒトは思わずつっこんだ。
雷属性と地属性。
異なる魔法を放たれたリヒトは、空中に光の階段を作り出すと、それを素早く駆け上がってた。
二つの魔法がぶつかり合い、大きな衝撃で砂埃が舞う中、リヒトはとん、と軽く光る階段の踏み板を蹴って、くるりと一回転して地面に着地した。
景色がはっきりとしない。
リヒトがきょろきょろとあたりを見渡していると、砂埃の中を隠れ、鋭い剣先がリヒトのふいをついた。
「ローズ様を泣かせたら、次は本当に『嫌い』になります!」
ユーリはそう言ったが、昔からリヒトに甘いユーリでは、リヒトに傷を負わせることは出来なかった。
「久しぶりに、腕試しといこうじゃないか。……シャルルの前で、簡単に負けるわけにはいかないしな」
全ての属性の精霊晶を持つロイは、楽しそうに笑って魔法を発動させた。
小声でロイが呟いた後半の言葉に、リヒトはキレ気味に叫んだ。
「お前は別にローズのこと好きじゃないなら俺に挑むなよ! というかお前の場合さっさと本人に言えよ! 八つ当たりは大人げないぞ!」
リヒトの言い分はもっともだった。
六人目はアカリだった。
「ローズさんのこと泣かせたら、私はローズさんのこと攫って国を出ます!」
「さら……? あ、アカリ……?」
『光の聖女』が本来の力を行使できるようになり、『愛し子』でもある今のアカリは、人間には不可侵の『妖精の森』に人間を隠すことも可能らしかった。
暗にそれをほのめかされ、リヒトは少し慌てた。
だがローズの幸せを願うアカリがリヒトに向けたのは、攻撃ではなく回復の魔法だった。
これまで五人との闘いで消費した分の魔力が回復するのをリヒトは感じた。
リヒトはアカリの真意が読めずにいた。
まるでこれでは、大きな闘いを前に聖女が勇者に行う祝福のようではないか――。
「ん?」
――そういえば、七回とか言っていたな。
リヒトはロイの言葉を思い出して首を傾げた。
七というのは、『祝福の数字』であることはリヒトも認識しているが、果たしてわざわざ結婚式の誓いの口づけの前に決闘を申し込むのが祝福であるかは謎だ。
「七人目……最後の一人は、一体誰だ?」
そしてリヒトはようやく、自分が戦っていた理由であるはずの愛しい少女が、見当たらないことに気が付いた。
ローズが居ない。
どうして? と辺りを見渡したところで――リヒトは結婚式のドレスではなく、純白の軍服に身を包んでいるローズを見つけた。
「……ローズ?」
なぜ彼女が今、騎士の服を――?
リヒトが理解できず彼女の名を呼んだとき、ローズは『光の王』の赤い石を欠いた聖剣を手に静かに言った。
「お待たせしました。私が、最後の一人です。リヒト様。さあ、最後の勝負を始めましょう」
その瞬間、ローズはリヒトに向かって水の魔法を放った。
強者の証である赤い瞳。
全属性を扱えるという素質。
拮抗した二人の力はぶつかり合い、爆風での被害を防ぐために、ロイやアカリ、ユーリが光の障壁を作り出す。
攻撃は常に、ローズから繰り出される。
リヒトはローズに怪我を負わせないように、ローズの魔法を可能な限り安全に無力化させていた。
強い魔法を扱える人間がいることを示すこと――王族の結婚式では、自身の魔法を披露することがままあるが、リヒトとローズのそれは、明らかに『世の普通』を凌駕していた。
『剣神』と三人の王の一人『光の王』との闘いに誰もが注目する中――防戦につとめていたリヒトは闘いを終わらせるため、少しだけ強い魔法を放った。
ローズはその魔法を防ごうと魔法を発動させたものの、二つの魔法は重なり合って大きな爆発が起きてしまった。
「ローズ!」
しまった。自分今はの方が、力が強いのかもしれない。そのせいでローズに怪我を負わせてしまったのかと思って、リヒトは慌ててローズへと駆け寄った。
砂埃が落ち着き視界が開けると、そこには少し傷を負った彼女が倒れ込んでいた。
リヒトはローズの体を抱き上げた。
目立った外傷は見当たらないが、もしかしたら爆風で脳震盪でも起こしたのかもしれない。
目を開かない彼女を見て、リヒトは胸が締め付けられるのを感じた。
――嫌だ。せっかく思いが通じ合ったのに、彼女には笑っていてほしいのに。自分が彼女を傷つけてしまったなんて。
「……ローズ……!」
動かない彼女の体を、リヒトは強く抱きしめる。
しかしその瞬間、首元にひやりとしたものを感じて、リヒトは大きく目を見開いた。
「――貴方の負けです」
その光景は、彼女が騎士団に入団した時と似ていた。冷静に敗北を告げるその声は、身動き一つとることを許さない。
「これが刃物であれば、貴方は死んでいますよ。リヒト様」
形勢逆転だ。
リヒトがローズから手を離すと、ローズはそのまま彼を地面に押し倒した。
それは初めて二人が出逢った時のように。
仰向けになった彼の耳のそばに、ローズは氷で作られた短剣を突き刺した。
リヒトは瞠目した。
何が起きているのかが理解出来ない。
「……ろ、ろーず……?」
「貴方なら、私が気絶したふりをすればこうなさると確信していました」
目を瞬かせるリヒトに、ローズはいつものように落ち着いた声で言った。
「貴方がどんなに強くても、貴方は私には勝てない。貴方を倒せるのは私だけ。貴方は私のものです。誰にも貴方を奪わせない。たとえそれが、貴方自身であったとしても。貴方の命は、貴方一人のものじゃない」
リヒトは動けなかった。
自分を見下ろすローズの瞳が、涙で濡れているように見えたから。
「もう二度と、勝手に死ぬのは許しません。次に貴方がそうすれば、私はこの命を持って貴方を生かす。私の命は貴方のもの。私を殺したくなかったら、死なないでください。もう二度と、私を置いていくことは許しません。貴方は私のもの。そして私は、貴方のものです」
その言葉はかつて、ロイがシャルルにおくった言葉。
ローズの言葉をロイの側で聞いていたシャルルは、そのことを思い出して頬を少し赤く染めた後、ロイの服の袖を小さな手で少しだけ引っ張った。
「愛しています。――『私の王様』」
ローズはそう言うと、自らリヒトに口付けた。
「おめでとうございます!」
口付けに合わせ、二人を祝福する声が上がる。
「……ろ、ローズ。あのな、普通こういうのは俺がかっこよくだな……」
ローズの口づけは確かにずっと望んでいたことだったが、自分の思い描いていた未来と違いすぎてリヒトが不満を述べようとすると、ローズに低い声で名前を呼ばれ、手を握られて、リヒトは顔を真っ赤に染めた。
「リヒト様」
「な、なんだよ」
「人には、向き不向きがあるのです」
「つまり、俺が不向きだと!?」
ローズの言葉に、リヒトは反射的に突っ込んでいた。
確かに、『かっこいい』も『王子様』も、ローズの方がぴったりかもしれないけれど……。
まさか劇の中だけでなく、まさか現実でも姫扱いされる日が来るなんて、リヒトは思ってもみなかった。
せめて今日くらいは、自分が彼女をリードしたいと思っていたのに――リヒトがそう思っていると、二人のやりとりを見ていたロイが声を上げて笑った。
「あはははは! この国の人間は、本当に昔から愉快だな」
「……全く、あいかわらず前代未聞だわ」
笑うロイを見て、ロゼリアが腕を組んで溜め息を吐いた。
「確かに、王族の結婚式で、女性に押し倒されて誓いの口付けをされたのは、俺が知る限りこれが初めてだな」
くくくと笑うロイを見て、リヒトは諦めたかのように息を吐いた。
リヒトは正直、自分が笑われるのは少しだけ不満だったが、それをきっかけに周囲の人間が楽しそうに笑う姿は、嫌だとは思えなかった。
「二人とも五月蠅い。……いいんだよ、もう。俺たちは、俺たちなんだから」
「リヒト様」
「ああ。わかってる」
ローズに促され、リヒトは頷いた。
「今日は俺たちのために集まってくれてありがとう。今日ここに集まってくれた人に、全ての人に――たくさんの幸福がありますように」
ローズとリヒトは視線を合わせて、それから紙の鳥の魔法を発動させた。
四枚の葉を咥えた鳥たちが、一斉に飛び立っていく。
全ての鳥が飛び立っても、花籠の中に四枚の葉はまだ残っていた。
すると二人の結婚式を側で見守っていた白い天龍は、リヒトから花籠を奪うと、高く空へと羽ばたいた。
フィンゴットが咥えた花籠からは、四枚の葉が降り注ぐ。幸福の葉を咥えた紙の鳥は、世界中へと飛び散っていく。
雲ひとつない青い空を、白い鳥は翔けていく。
どこまでも、どくまでも遠く、遠くへと――……。
【騎士の結婚編 了】
息の荒い子どもを前に手をかざし、私はいつものようにその精霊の名前を読んだ。
「ディーネ」
『精霊の愛し子』。
私の呼びかけにこたえた水の精霊は姿を現すと、子どもの体を包み込んだ。
私以外には見えないウンディーネは、子どもをあやすかのように、子守唄を歌う。
すると高熱にうなされていたはずの子どもの顔色はすっかり良くなり、すやすやと寝息を立てはじめた。
「ありがとうございます。……ありがとうございます。聖女様!」
子どもを抱いていた母親は、落ち着いた様子の子どもを見て安堵した表情をみせると、何度も私に頭を下げた。
私はそんな母親の頬に触れると、今度は『精霊』の力は借りず、『光魔法』を発動させた。
目の下にくまを作っていた女性の顔色が、少しだけ良くなる。
「これで、もう大丈夫です。お母さんも、無理はしないでくださいね」
私がそう言って微笑めば、彼女は目に涙を浮かべ、堰を切ったように泣き出した。
二度目の魔王を倒した後、私の日常は大きく変わった。
何が変わったと言ったら、一番は私の気持ちかも知れないけれど――私は『光の聖女』として『精霊の愛し子』として、以前より力を使いこなせるようになった。
二度目の魔王の出現。
壊れた建物を直すために、私は精霊たちの力を借りた。
私自身が使える属性魔法は光だけだけれど、火の精霊サラマンダーを筆頭に、『精霊の愛し子』である私には、地の精霊ノームや、水の精霊ウンディーネもたちも、多くの力を貸してくれた。
力の使えない『光の聖女』として、ずっと神殿で光魔法の練習を重ねてきた私だったけれど、最近は『精霊の愛し子』と『光の聖女』、両方の力をつかうことで、この世界に貢献できているように思う。
『光魔法』を使った治癒魔法は、命を縮める可能性もあるけれど、『精霊』の力を借りればこの副作用が起きないことも大きかった。
だから最近の私はこの力を使って、数は制限しているけれど、時折病に苦しむ子どもたちの診察も行っている。
そんな私に感謝を述べてくれる、必要としてくれる人たちに出会う度に、私は彼らの幸せを願えるようになりつつあった。
ただこの世界に生きる人々の全てが、私の存在に対して肯定的ではないことも事実だ。
これまでの経緯を綴った本を出版したことで、批判の目はリヒト様から私にも向けられるようになったからだ。
けれどそのことで、私が落ち込むことはなかった。
最初から分かっていたことだ。
それでも――たとえ自分が悪者《わるもの》と蔑まれても、私は、私を導いてくれたローズさんの幸せを願いたかった。
この気持ちは今も変わらない。だから私は自分の決断を後悔なんてしない。
最近の私の悩みと言えば、ただ一つだけ。
それは、今出版している小説の最後のページ。
最後に書くあとがきの言葉を、私は決めきれずにいた。
「本当に、どうしようかなあ……」
悩んだ末、私はクリスタロス王国の図書館を訪れることにした。
◇◆◇
「ようこそ。アカリ・ナナセ様」
図書館の司書だという人は、朝早く訪れた私を出迎えてくれた。
人目もあって、なかなか神殿以外の図書館に行ったことはなかったから、足を運ぶのはこれが初めてだった。
「開館までまだ時間がありますから、どうぞそれまでご自由に。探したい本が、きっと見つかりますよ」
「ありがとうございます」
神殿の蔵書では、『聖職者』に相応しくない内容の本は排除される傾向にあったから、私は『普通』の図書館を訪れることを心待ちにしていた。
司書さんの話によると、開館時間前に図書館を開くことは、『光の巫女』が存命の頃もよくあったことらしい。
「わっ!」
私が図書館を少し歩いていると、『光のたま』が突然私の前に現れた。
その光は、まるで意識でも持っているかのように、私の周りを楽しげにくるくる回る。
「これが、リヒト様の古代魔法……」
前世から本が苦手だったユーリさんのために、『光の王』が創り出した魔法は、触れると少し温かかった。
仕組みはよくわからない。
ただその光から、私は精霊に近いものを感じた。
光は私の前を進み、導くかのように進んでは、扉をすり抜ける。
その光を追いかけるうちに、私はなんだかまるでかくれんぼでもしているような気持ちになった。
――元の世界では病院暮らしで、結局ろくに出来なかったけれど。結構楽しい。
「ここは……」
光が私を導いた先は、あまり人の立ち入らなさそうな場所だった。
古い新聞や、地図が収められた棚に、その『本《てがみ》』はあった。
「これは……?」
私はその手紙を見て、声を震わせることしか出来なかった。何故ならその筆跡は、私がよく知るある人物のものと同じだったからだ。
『七瀬明様へ』
「嘘。なんで、――さんの……」
忘れられるはずがない。
それは間違いなく、私が病院で暮していたときに、いつも私に笑いかけてくれた看護師《かのじょ》の筆跡《もの》だった。
*************
拝啓 七瀬明様
この本を貴方が手に取っていると言うことは、光の聖女の予言は正しかったと言うことでしょう。
明ちゃん。
元の世界で、貴方に何も告げずにいなくなってごめんなさい。
病院を突然やめたことには、理由がありました。
あの時私は、実は私自身が、実は病に冒されていたのです。
でも貴方に、あの時の貴方に、私は「私も病気だった」なんて伝えることは出来なかった。だって私は貴方に、笑っていてほしかったから。
病室での貴方はいつも、窓の外を眺めていた。
いつだってここは、自分が望む場所ではないのだという顔をして生きていた。自分の幸せなんて、一生手に入らないと諦めているように。自分の人生に意味はないと、そう思っているような顔をしていた。
でも私は、貴方にこう思ってほしかった。
人は誰もが、何かしらの才能を持って生まれてくる。
例えば物作りが上手かったり、お話をするのが上手かったり、運動が出来たり。
そしてその才能に気付けた人が、私はこの世界に名前を残すことが出来るんだと思う。
何か一つでもいい。
私は貴方に、それを見つけて欲しかった。
流石にまさか全部上手いだなんて、想像していなかったけれど。
明ちゃん。
賢い貴方なら、もう気付いているかもしれません。
そう。この世界は、『ゲーム』の中の世界じゃない。
そして本当のことを言うと、あのゲームそのものが、実はこの世界を元に作られたものなのです。
私達が知っている『Happiness』というゲームは、『光の巫女』の転生者によって作られたゲームなのです。
国王の妹であった『光の巫女』は、光属性と強化属性、二つの属性に適性のある女性でした。
もし、この世界の未来が見えて、その未来を覆したいと思っても、そのためにはこの世界では、『強化魔法』が必要となる。
運命を打ち破る力を持つ者に、強化の魔法は与えられる。
かつて『光の巫女』は、『神に祝福された子ども』を生かすために、自分の命の殆どを彼に与えた。
そして彼女は自分の命が終わるときに、時空の歪に自ら飛び込み、異世界《わたしたちのせかい》に自分の魂を運んだ。
『光の聖女』は気付いていた。
自分の命を代償に救ったベアトリーチェ――その少年と同じ『神に祝福された子ども』は、この世界に破滅を齎そうとしている。
そしてその『子ども』はこの世界を壊すために、『力の使えない救世主』を作り出そうとしている。
だから『光の巫女』は未来をかえるために、この世界を去ったのだということを、私は『光の巫女』に手紙を託された女性から聞きました。
いつかこの世界に招かれる『光の聖女』。
『光の巫女』は、自分の命を代償に、魔王をも倒す『剣神』をこの世界に誕生させることが、自分の役目だとも話していたということでした。
そしてその時に、『聖女』に倒される『魔王』の正体も、彼女は私に教えてくれました。
世界を滅ぼすための『魔王』の核は、私の心臓の石だと。
そして彼女はこうも言った。
私の心臓の石である魔王の核を壊すため、異世界に招かれるのは、『七瀬明』という少女だと『光の聖女』は予言したと。
同じ名前を持つ別の誰かかもしれない。
でも、私は確信している。魔王を倒すために尽力し、この手紙を読んでいるのは、きっと私の知る貴方だと。
明ちゃん。
昔貴方に私が語ったことを、今でも貴方は覚えてくれていますか。
幼い頃から私は、『魔法使い』になりたかった。
貴方はそんな私のことを、『子どもっぽくて馬鹿みたいだ』と言ったけれど、本当は貴方が誰よりも、魔法というものに焦がれていたことを、私は知っています。
だから私は、貴方がこの世界で過ごすことは、貴方にとって幸せな未来に繋がると信じています。
明ちゃん。
何も言わずに、貴方の前から去ってごめんなさい。
でも私たちは違う世界で、きっともう一度出会う。
いつか貴方は、この世界にやってくる。
世界を救う『光の聖女』として。
私は貴方を信じている。
貴方はきっと、この世界を救うことの出来る、光の聖女なのだと。
だから私は怖くない。
いつか『神に祝福された子ども』によって、私の魔法の核が奪われ、この身が朽ちてしまっても、私はこの世界を滅ぼす魔王にはならないことを、私は信じているから。
貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる。
もし私が生まれ変わって、魔法を使う器を失って、次の人生では魔法を使えなくなっていたとしても、私の魔法はきっと、貴方の心に生き続ける。
明ちゃん。
貴方はいつだって、窓の外を眺めていた。
空を飛ぶ鳥を羨ましいと、昔貴方は私に言った。
あの日私は、貴方の言葉を否定はしなかった。でも、今の貴方になら言える。
今を生きる貴方なら、きっとこの言葉に、頷いてくれると信じている。
幸福の青い鳥は、いつも貴方の心の中にある。
貴方が幸福を感じる心さえ持っていれば、黒い鳥だって、青くその色を変えるだろう。
貴方が変われば、世界は変わる。
私の大好きな明ちゃん。
貴方が幸せな人生を、これから歩んでいけるように願って、この葉を私から貴方に贈ります。
**********
クローバー。
ハートの形の一枚の押し花の栞が、本には挟まっていた。
四枚の葉。
私はその葉はきっと、四枚のうちの一枚の葉であるように思えた。
「そうか。……そうだったんだ」
これまでもずっと、精霊病を用いて『魔王の核』が作られていたとするなら、過去の『魔王』にも、『被害者』はいたはずだ。
そして記録の日付からして、おそらく彼女が『魔王の核』となった後、核に力を集めるために、ギルバートさんとレオンさんが休眠状態に入った、と考えることが適切だろう。
薄々予測はしていた。
だがそれが、魔王の核か、自分が知る人間のものだとは思っていなかった。
『彼女』は優しい人だった。
だからそんな彼女が魔王となって、世界を滅ぼすことを望むとは、私には思えなかった。
『貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる』
手紙に書かれた文字を指でなぞる。
たとえそれが残酷な真実だとしても、彼女が私を思っていてくれたことが、私は心から嬉しかった。
「ありがとうございます。……リヒト様」
ハートの葉っぱの欠片を抱いて、私は呟いた。
この図書館にかけられた魔法は、『光の王』がユーリさんのような人間のために作ったものだ。
この魔法がなければ、私はこの手紙には出会えなかった。
覚えている。
白い病室で、生きることを諦めていた私に、いつも笑みを浮かべてくれた人。
その人は、ある日私の前から姿を消した。
夏の、暑い日だった。
笑っていたその人は、川で溺れかけた子どもを助けて命を落とした。
子どもの命を救ったヒーローは、夏の水難事故での、救出の失敗例としてニュースに取り上げられていた。
まるで愚かな道化のように。
彼女の死は無駄だったと、利口な行いではなかったと、そう語る画面の向こう側の人々の言葉は、私には遠く霞んでよく聞こえなかった。
自宅での療養の際、散歩をしていて火事の現場に遭遇した。
中から子どもの声が聞こえた。
私は、すぐさま家の中へと急いだ。
どうせもうすぐ失われる命だから。
自分がもし死ぬとしても、私は子どもを助けたかった。
子どもを助けてからすぐに、私は身動きがとれなくなった。
――貴方は、生きて。
自分のことばかりで精一杯で、希望を抱くことも忘れていた私に、彼女は光を与えてくれた。
そんな人を失った先で、私は漸く自分の意志で行動出来たような気がした。
自分の人生を、自分で選べたような気がした。
『貴方こそ、光の聖女に相応しい』
燃えさかる炎の中で、ユーゴさんが私に手を差し伸べる。
私はきっと、物語のヒロインには向いていない。誰かに希望を与えるような、そんな人に私はなれない。
でも、『誰かを守りたい』というその思いが、私がこの世界の救世主《ヒロイン》に選ばれた理由なら、私は私の精一杯で、『光の聖女』でありたいと願った。
でもこの世界は偽物だとしか思えなかった私には、魔法を使うことは難しかった。そんな私に、ローズさんは言ってくれたのだ。
『私は、貴方を信じます』
ローズさんの言葉が、『彼女』の言葉と重なる。
『大丈夫。大丈夫……だから』
優しい嘘を知っている。震える手を知っている。
その時だった。私がローズさんのことを、『本当の人間』だと思えたのは。
だから私は、ローズさんのためにこの世界で生きたいと思った。
そうしてローズさんが愛するこの世界を、私も愛したいと思った。
『貴方を悪役になんてさせません。貴方も私にとって、大切な人です。私は貴方一人に、全てを背負わせたりなんてしない』
ローズさんのために小説を書いた。
レオンさんが先に広めた『正史』を書き換えるために小説を書きなおす中で、沢山の人に協力してもらって、私は漸く、自分の居場所を見つけたような気がした。
今のこの世界には、私のことをちゃんと見てくれる人がいる。
私はもうこの世界で、独りなんかじゃない。
『ごめんね。こんな体に産んでしまってごめんね』
元の世界で、お母さんはいつもそんなことを言っては泣いていた。
私はその言葉を聞く度に、自分なんて生まれなきゃ良かったのにと思っていた。
両親を悲しませる、苦しませる自分なら、最初から生まれなければ良かったのだと、そう思っていた。
そしてその思いは、両親も同じなのだと思っていた。
今ならわかる。
両親が本当に願っていたのは、私が幸せであることだった。私の幸せを願っていたから、愛していてくれたから。でもどうしようも出来なかったから、二人はいつも泣いていたのだ。
だったらこの世界で私らしく生きることこそが、きっと二度と会えない両親への、恩返しになるように今の私には思えた。
「私を、産んでくれてありがとう」
手紙を抱いて、私は一人呟く。
そして私は、二人に手紙を書くことを決めた。
『向こう』と『こちら』を繋ぐ世界の歪み。それを使って人生で一度だけなら、私は元の世界に、手紙を出すことを許されていた。
それはあの日、リヒト様の力を取り戻すために魔法を使わなければ、本来元の世界にもどれた私が、最後に許されたことだった。
あの日の決断を、私は後悔なんてしていない。
感謝や愛。たとえもう二度と直接伝えることは出来なくても、私はこの世界で、前を向いて生きていくことを決めたのだ。
「お父さん。お母さん。――私は今、幸せです」
だから、もう。
――青い鳥は探さない。
☆★☆
図書館から帰る際、私はローズさんにお迎えを頼んでいた。
今日は、ローズさんと一緒にお茶をする日なのだ。
本《てがみ》は司書さんに伝えた上で、持ち帰らせてもらえることになった。
「アカリ。何かいいことでもあったのですか?」
「わかります? 実は……ずっと悩んでいた、最後の本の後書きについて、やっと今日決まったんです」
『ローズさんの光の聖女になりたい』
そう思っていた頃の自分とは違う。
本を書く中で、私はこの世界を生きている人たちそれぞれに、人生があることを知ることを知った。
だからだろうか。
突拍子もない行動をしたローズさんだけが『本物』だった私の世界に、今は確かに、たくさんの『友人』たちがいるようにも私は思えた。
今の私なら、ローズさんのためだけじゃない。この世界を愛して、この世界のために、『加護』の魔法を使えるような気がした。
ローズさんは、私が差し出したあとがき予定の言葉のメモを見ると、いつもの調子で言った。
「アカリのこの言葉、私はとても好きです」
「ローズさんにそう言ってもらえると嬉しいです!」
ローズさんの言葉が嬉しくて、思わず元気よくそう言うと、ローズさんは私の顔を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
最近のローズさんは気のせいかもしれないけれど――自分にも他人にも厳しいなと思うところは相変わらずあるけれど、どこか大人の余裕というか、そんなものを時折感じさせる。
それはもしかしたら、本当に大切な人と結ばれて幸せだからこそ、うまれる余裕なのかもしれない。
そのおかげというか、そのせいというか――ローズさんは昔よりもっと、周りの人から好かれているらしい。
おかげでリヒト様は「心労が絶えない」と愚痴を吐いていた。正直、ちょっとだけ、「せいぜい苦しめばいいんだ」と思ったのは秘密だ。
リヒト様には感謝しているし悪い人じゃないのはわかっているけれど、やっぱり悔しいなと思うことはある。
ただこれは、ローズさんを好きな人誰もがそうなのかもしれないとも思う。
そういえば以前、私がローズさんとリヒト様を見て少し落ち込んでいたら、精霊たちから『ローズさんと一緒に精霊の森で暮せばいい』と提案されたことがある。
『精霊の森』は人間は不可侵で、普通の人間には見つけることも入ることもできないから、そこに行けば、ローズさんは私に頼るしかなくなるらしい。
私は、その申し出を断った。
ローズさんと二人だけの世界。その響きに、魅力を感じなかったかといえば嘘になる。
でも私はやっぱり、大好きな人が幸せでいることが、笑っている姿を見ることが、幸せだと思うから。
ローズさんの笑顔を奪うようなことを、私はしたくなかった。
うまくはいえないけれど、ローズさんに対する私の気持ちは、憧れなんだと思う。
そして同時に、二度と会えない、私に魔法を与えてくれた『彼女』と、私はローズさんを重ねていたのかもしれなかった。
自分勝手なその人と、ローズさんの性格は全然似ていないけれど――私を信じ、私の気持ちを考えて行動してくれたところは、二人はよく似ているように思えた。
だから私は、そんなローズさんから、自由を奪いたくはなかった。
たとえ私とは違う誰かの側で、幸せそうに笑う姿を見るたびに微かに胸は痛んでも、彼女らしさを奪って自分のものにすることが、私は愛だとは思えない。
それはきっと彼女を想う沢山の人が、心に抱いている感情だとも、今の私は思った。
リヒト様の魔法の研究成果は、彼が魔力を取り戻したこともあり、徐々にだが認められつつある。
それはかつてローズさんが私に言ったように、「魔力の高さが重視される世界」だからということもあるだろう。
けれどリヒト様の魔法の研究の根本は、私が現代で当たり前に使っていた「便利な道具」で生活を楽にして、社会そのものの仕組みを変えることにある。
余分な時間が出来ることは、人々に新しい選択の自由を与える。
この世界の価値は、これから大きく変わるだろう。
その時、この世界の王侯貴族がになうべき責任の重さは、これまでとは変わるかもしれない。
そしてその影響で、本来の『魔法』を使える人は減る可能性があるとも、ローズさんたちは話していた。
王侯貴族のみが扱える『魔法』から、全ての人が『魔法道具』を扱える世界へ。
そう変わったときの世界がどうなるのかは、今の私たちにはまだ分からない。
けれどそれは、私が生きていた元の世界――誰もが機械を扱える今の世界と、少し似ているのかもしれなかった。
何かを成し得たいと思う。
例えば、海の向こうに大きな世界があると信じて行動する。
教科書で習う歴史上の偉人の偉業、沢山の人が命を落としてしまった海。
渡海を諦めて一生を終えた人がいたという話が残る中、私が生きていた時代では、飛行機を使えば簡単に海を渡ることが出来た。
技術が進化することで、私達が何かを成し得るための労力は、もしかしたら昔よりずっと少なくて済むのかもしれない。
でもだからこそ、誰もが『出来ることが当たり前』だと言われることは、時代が下るうちに増えてしまうのかもしれないと私は思った。
ただ結局、生まれる時代を選ぶことはできないただの人間である私達に出来ることは、その時代に合わせて、精一杯生きることだけなのだ。
そういえばリヒト様に、私はこんな話を聞いた。
この世界の仕組みは、長い目で見ればこれまでも、『書き換えられた』ことがあるらしい。
魔法という力がこの世界に生まれる前、人々は、神様や伝説の生き物と共存していた時代があったらしい。
そしてその時代、クリスタロス王国は国の規模こそ小さいが、武力だけなら世界一を誇っていたともいう。
そしてクリスタロスで精霊晶が多く出土するのは、かつてこの国が、戦火の中心になったせいかもしれないとのことだった。
でもそれは、『光の王』やユーゴさんたちが生きていたよりももっともっと昔の話で、その当時のクリスタロス王国の隆盛は、今は語られることはない。
でもせっかくだし、いつか遠い時代のこの国の話は、一度調べてみようと思う。
それがどんな歴史であったとしても、私が愛するこの世界のことを、もっと知りたいと思うから。
そしていつかその話を、また本にまとめてみるのも面白いかもしれない。
私はそう考えて、晴れやかな気持ちで空を見上げた。
見上げればどこまでも青い空が、私たちの頭上には広がっていた。
これは、『Happiness《こうふく》』から始まる物語。
この世界は、『ゲーム』じゃない。
それでも選択肢はいつだって、人の心の中にある。
だから私は祈りを捧げる。
この思いが、いつか誰かの幸福に繋がることを願って。
この言葉は私が捧げる、光の魔法《いのり》。
私がこの世界で生きていくときめた、そんな私の想いの証。
私は生きる。
この世界で、この世界にただ一人の『光の聖女』として。
だから私は、今はこの言葉を、書き残したいと思うのだ。
【貴方の心に魔法をかけたい。
この物語を最後まで読んでくれた貴方に、私は『加護』を与えたい。
この世界に生きる誰もが、自分の物語の主人公だから。
どうか後悔のない物語を、貴方が歩めるように。
この国を、この世界を生きる全ての人に
どうか、光の祝福を。】
『優しい人間』が嫌いだ。
善人のふりをして、その実何を考えているかわからない。
心の奥底の裏切りを知ったとき、彼らが私に与えたあらゆるものが、偽物へとかわる瞬間。
陽だまりのようだった世界は、欺瞞だらけの世界に変わる。
だからこそ――信じることは、愚かしい。
◇◆◇
男が私の森の屋敷にやってきたのは、ある晴れた日の午後のことだった。
森で採れた果実を洗い、いつものようにそれを齧りながら過ごしていたら、その男はやってきた。
「はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?」
「……は?」
金髪赤目の男。
男は、この国の王に最も相応しい外見をしていた。
クリスタロスの王族特有の金の髪に、強い魔力を持つ証である赤の瞳。
呆然とする私を前に、男はニコリと笑うと、籠を私に差し出して言った。
「君と食べようと思って持ってきたんだ。よかったら、これから一緒に食べないか?」
「突然やってきて、名のりもせずに一緒に食べようなんて不躾な人と、一緒に食事をするつもりはありません」
男が何者かなんて、一目瞭然だった。
だが私が失礼な態度をとっても、男は嫌な顔一つせずに頭を下げた。
「すまない。自己紹介が遅れた。俺は、クリスタロス王国国王、リヒト・クリスタロス。今日は君と友達になりたくて、ここまでやってきたんだ」
「お帰りください」
私は、男が自己紹介をしている間に屋敷に戻ると、扉を閉じて鍵を締めた。
「ちょっ!? き、君!? なんで扉を占めるんだ! 扉を開けてくれ!」
「嫌です」
どんどんと、男が扉を叩く。五月蠅いといったらありゃしない。私は耳に栓をすると、布団を被って眠ることにした。
「ふあ……」
どれくらい時が経っていたのだろう。
暫く眠って目を覚ますと、男はもういなくなっていた。
私は確認のために、少しだけ玄関の扉を開けて、外の様子を確認した。
「帰ったか」
――全く、嵐のような男だった。
私が溜め息をついて下を見ると、玄関のすぐ側に、男が持っていた籠が置かれていることに私は気が付いた。
【君と食べようと思ったんだが、これから仕事で戻らなくてはならない。よかったらこの料理は君が食べてくれ】
私は籠の書き置きをくしゃりと握りつぶすと、そのままゴミ箱へと捨てた。
◇
だがそれからも、毎日その男――リヒト・クリスタロスはやってきた。
扉を閉め拒絶の意思を示しているというのに、男はめげないようだった。
しぶとい。
面倒な人間に絡まれてしまった、と私は思った。
「今日も来たぞ。さあ、一緒に話をしよう」
「嫌です」
扉越しにぴしゃりと断れば、彼は黙った。
王族にしては顔に出やすいらしい。素直と言えば聞こえはいいが、王族にも貴族にも、向いていないのではないとも私は思った。
「……その、少しくらい、考えてくれたって」
「時間の無駄です」
いつものように私がいえば、男は無言で膝をおると、また玄関の側に籠を置こうとしているのが気配で分かった。
「食事を置いていくのはやめてくたさい。せっかくの美味しい料理を無駄にしたくはありませんので」
「え?」
私がそういえば、扉越しに男が驚いたような声を上げた。
「美味しいって……つまり、食べてくれたのか?」
「……それは」
実は一度だけ、男が持ってきた食事を食べたことがあった。
酸味のある、白っぽいクリームが、ハムやパンに挟まれた食べ物。初めて見たそれに興味を持って一口食べてみると、確かに私は『美味しい』と思った。
だがその事実を、私は男に教えてやるつもりはなかった。
「あれ、俺が作ったんだ!」
沈黙を貫く私に、男は声を弾ませて言った。
「は?」
私は耳を疑った。
王族が料理なんて、『有り得ない』にも程がある。
「王が料理なんてするなとは言われたんだが、『胃袋を掴め』と本に書いてあったからな!」
「……」
――この男は自分を懐柔するために、一体何の本を読んだのか。
私は意味が分からず頭を抱えた。奇天烈にも程がある。
天然かと思ったが、やはり彼は『真正』らしい。
その日私の中での、男の立ち位置が確定した。
『赤い瞳の美しい、王になるべくして生まれた男』?
否。
『いい人ヅラした馬鹿そうな男』!!!
私が男に蔑みの目を向けているなど知りもせず、男はそれからも毎日のように私の森の屋敷にやってきては、扉越しにくだらない話をして私に聞かせた。
「今日は、俺の好物を持ってきたんだ」
ある日男は、そう言って『いちごちょこれえとけえき』なるものを持って、森の屋敷にやってきた。
「『異世界人《まれびと》』の中に『ぱてぃしえ』? という職業の者がいてな。彼につくりかたを教えてもらったんだ」
「へえ……」
どうやら男は異世界の知識に興味があるようだった。
異世界では、魔法を使えない者も空を飛ぶことが出来たり、簡単に選択をすることが出来るのだと、彼は私に話して聞かせた。
「科学」が発達した世界。
その世界では誰もが、身分の貴賤などなく、自分の人生を選ぶことが出来るのだと男は語った。
それはまるで夢のように美しい――遠い世界の話だった。
そして男は異世界の技術を参考に、新しい魔法を作っているのだとも言った。
『紙の鳥』
それは、輝石鳥を使わずとも手紙のやりとりが出来るという魔法だった。
男は人々の生活を豊かにするために、新しい魔法を作るのだと言った。
ただ私は、男の『理想』を聞きながら、やはり馬鹿なんじゃないかと思った。
人間は、自分たちに出来ないことが出来るからこそ他者を相手を敬うのだ。
魔法を安売りするような彼のやり方は、やがて今の社会の、王侯貴族に対する尊敬さえも、ゆがめてしまうのではないかと私は思った。
いつだって『理想』を、『綺麗事』を語ることは簡単だ。ただそれを、実現させることは難しい。
私には男が、自らの望むものを作り上げらるとも、広められるとも思えなかった。
クリスタロス王国は、グラナトゥムやディランには国力で劣っている。
そんな国の王一人の理想で、世界を変えられるとは、私はとても思えなかった。
扉越しに話を聞く日々が一週間ほど続いた頃、男はポツリこんなことを呟いた。
「君は今日も、その扉を開けてはくれないんだな」
「……」
私は男の言葉に答えなかった。
「なら……よし、決めた!」
「?」
「一〇〇日。一〇〇日毎日僕が君に会いに来たら、その時はこの扉を開けて欲しい」
私は、一体何を言い出すのかと思った。
だいたい、仮にも一国の王が、わざわざこんな森の屋敷を毎日訪れる理由などどこにあるというのだろう?
『馬鹿も休み休みに言え』――私が断る前に、男はさっさと帰ってしまった。
「……まだ、承諾していないのに」
男は毎日私の屋敷を訪れた。
「まずは一日目だ!」
その翌日には。
「二日目もきたぞ!」
「……よくもまあ、飽きませんね」
理解出来ない男の行動に、私は呆れることしか出来なかった。
そんな日々が暫く続いて、私はある話を思い出した。
私の暮らす森の屋敷には、沢山の本がある。本の持ち主は別の人間だったが、主人がなくなった本たちを、今は私が管理している。
異世界に伝わる、『百夜通い』という話。
それは、美しい女性にこがれた男が、想いの証明のために百夜女のもとに通うという話だ。けれど百夜目の夜、男は約束を遂げる前に死んでしまう。
全くもって馬鹿な男だ。結局品では何もならない。思いも遂げられず、ただ百夜も通うことに、何の意味があるというのだろう?
いつか終わるだろう。
いつか諦めるだろう。
そもそも、一方的な約束だ。たとえ男が果たそうと、私が彼の願いを聞き入れる理由がどこにあるというのだろう?
そう思っている間に、男は九九日間、私の元にやってきた。
「明日来たら、この扉を開けてくれ」
「……」
明るくて、真っすぐで、どこか真面目さを感じる声。
扉越しの男の声はもう、私の耳に馴染んでしまっていた。
男が去ったあと、私は空を見上げた。雨雲が近付いてきていた。
「……嵐が、来る」
青い空にかかる雨雲を眺めて、私は何故か胸を押さえた。
「流石に今日は来ないでしょう」
案の定、翌日は大雨だった。
暖炉に火を入れる。パチパチと鳴る音を聞きながら、私は湯を沸かして風でガタガタと揺れる窓を見た。
雨が止む気配はない。この雨の中、森の屋敷を訪れる者がいたとしたら愚か者としかいいようがない。
それに、馬鹿がつくほどのお人好しそうなあの男のことだ。
この雨の中、フィンゴットに送ってもらうような真似はしないだろう。
――今日でもう、あの男を待つ日々は終わるのか。
そう思うと、何故か胸がざわついた。
その時だった。
「うわっ!」
外で何かがぶつかる音がして、次に誰かの声が聞こえた。
まさか、こんな嵐の中を訪ねてくる人間なんているはずが――私が驚いて扉を開くと、びしょ濡れの濡れ鼠のような彼が、私を見てにこっと笑った。
「やあ!」
やあ、ではない。
男の体は濡れているだけでなく、体には小さな傷が沢山あるようだった。
この嵐の中、男が私との約束のために一人森にやってきたのは、一目見れば明らかだった。
「……外は危ないですから、早く中に入ってください」
私が男の手を引けば、彼は一瞬目を大きく見開いて、それから嬉しそうに笑った。
◇
「ありがとう。君にごちそうしてもらえる日が来るなんて思わなかった」
美しい金の髪には濡れ草が刺さり、顔には泥がついていた。彼の体は冷え切っており、ぐっしょりと濡れた服は随分と重そうだった。
「……とりあえず、服を脱いでください。髪と顔はこれで拭いてください。服の代わりにはこれを羽織ってください」
「ああ。ありがとう」
私が彼の世話をしてやると、彼はこれまでとは違って、落ち着いた声音で私に礼を述べた。
見目はいいのだ。いつもそうやって冷静なら、まだ君主として威厳もあるだろうにと私は心のなかでぼやいた。
馬鹿そうな男になんて仕える気にはなれない。
「う……っ。こ、これは薬湯か何かか?」
冷えた体が温まるよう、私が差し出した薬湯を一口飲んだ彼は、うっと顔を顰めた。
やはり、どうも雰囲気が幼い。せっかく器はいいのに、中身はまるでどこにでもいるただの青年のようですらある。
「体を温めてくれる飲効果があります。こんな嵐の日に外に出る人間には、ぴったりな飲み物です」
私が棘のある言葉を口にすれば、彼はじっと私を見つめてきた。
その視線が慣れなくて、私は彼に背を向けて尋ねた。
「こんな日に、どうしてここに来たのですか」
「だって、約束しただろう。必ず君に会いに来ると」
彼は当然のように言った。
「でも、今日来て良かった。だってちゃんと君の顔を見ることが出来た」
私が用意した、一口飲んで顔を顰めていた薬湯を全て飲み干して、彼は私に微笑んだ。
「改めて自己紹介しよう。俺は、リヒトクリスタロス。君の名前を聞いてもいいだろうか?」
「……ユーゴ、です」
「いい名前だな。宜しくな。ユーゴ」
男はどこか弾んだ声で、私の名を繰り返した。
◇
それからも彼は、毎日のように私の屋敷にやってきた。
新しい魔法の研究で失敗した話、年下の弟が本当に可愛いという話。
彼の話は、どれもたわいない日常でしか無かったが、彼がいつも楽しそうに話すから、私には不思議と、どれもどこか輝いて聞こえた。
「そろそろ来る時間か」
――いつ来るのだろう。今日はどんな話をしてくれるだろうか。
そんな日が続く内に、私はいつの間にか、彼の訪れを心待ちにしていることに気が付いた。
彼は甘いものが好きらしかった。好みまで子どもっぽい。
特に苺が好きらしく、私は彼のために籠いっぱいの苺を用意した。
『ありがとう! 君が僕のために用意してくれたのか?』
大げさに喜ぶ彼の姿を思い浮かべて、私はとあることに気が付いて自分の顔を叩いた。
――私は、今、何を。
彼の笑顔を思い浮かべるだけで、顔がにやけるなんて気のせいなのだ。
「……遅いな」
いつもなら、もう来る時間。
でも彼は、その日森の屋敷に来なかった。
――流石に彼も国王だ。毎日にここに来ることは難しいだろう。
そう自分に言い聞かせ、私は彼のために用意した果実を齧った。
「……あれ」
彼が森に持ってくる料理なら、不味いと思っても食べるときは楽しかったはずなのに、一人齧った果実の味は、いつもと同じで美味しいはずなのに、私には何故か味気なく感じられた。
翌日も、私は彼を屋敷で待つことにした。
本当は水浴びにいこうかと思ったけれど、もし彼が、自分が居ないときにやってきたら、がっかりするだろうと思って待っておくことにした。
「今日も来ないのか」
それから三日、四日、五日経っても、彼は来なかった。
それまでは、三日とあけることなんて無かったのに。そして六日目の晩、土砂降りの雨が降った。
屋敷をゆらすほどの強い風が吹く。
蝋燭の明りを一つ灯した部屋の中で、私は一人呟いた。
「……ああ。飽きたのか」
その声は一人きりの森の屋敷に、はっきりと響いた。
そして声に出した瞬間に、耳に届いて私の心を強く揺さぶった。
一〇〇日間。
扉を開けることすらせず、嵐の中でさえ通わせて、ようやく受け入れるなんてひどい仕打ちをしたのは過去の自分自身なのに。
私は、森にこない彼を恨めしく思っている自分に気が付いて唇を噛んだ。
そして、もう二度と人に心を許すまいと思った翌日。
彼は再び、私の前に現れた。
「久しぶりだな。ユーゴ。元気にしていたか?」
「……え?」
もう、二度と来ないと思っていたのに。
十日ぶりにやってきた彼は、私に向かっていつものように笑いかけた。
「な、なんで貴方が。もう来ないんじゃなかったんですか?」
「何でそんな悲しいことを言うんだ?」
「だって……! これまでは、こんなに来なかったことはなかったのに!」
「ああ、すまない。君との約束が合って果たせなかった用が溜まっていてな。少し国を離れていたんだ」
「え? 国を、離れて……?」
――じゃあ、私に嫌気が差したわけじゃ……?
「ああ。……というか、ユーゴ。少し顔色が悪いようだが大丈夫か? 目元も少し赤いようだが」
「べ、別にこれは……! 何でもありません!」
「君は一人で暮しているし、最近会ってもなかったから……何かあったんじゃないか気になるんじゃないか。何か困ったことでもあったのか? よし。わかった! 君の悩みは、友として責任を持って俺が聞こう」
「結構です!」
――なんでぐいぐい来るんだこの男は!
私は、距離を詰められて思わず叫んでいた。
「貴方が。貴方が来ないから。だからもう来ないのかと思って考え事をしていただけです!」
「え?」
私の言葉に、彼は目を丸くしていた。
「俺のことを待っていたのか?」
「……あ」
改めて聞かれると恥ずかしい。
「ち、違います。別に待ってなんか」
私の声は、次第に小さくなってしまっていた。
「待って、なんか…………」
「……そうか」
彼は、小さく頷いて、私に頭を下げた。
「暫く来られなくて済まなかった。一応国を出る前に君には話したんだが、考え事をしていそうなときに伝えたから、聞こえていなかったみたいだな」
「……」
「今度からはちゃんと、君に確認をとってから行くとしよう」
「……」
何故か彼の表情が少し嬉しそうに見えて、私は少しだけ腹がたった。
「ところで、十日も一体国を空けてどこに行っていたのですか?」
「ああ、それは――」
男は、嬉しそうに笑った。
「グラナトゥムのロイと、ディランのロゼリアに会いにいっていたんだ」
「え?」
私は、その名を聞いて耳を疑った。
「大陸の王と海の皇女に……?」
「ああ。それでこれは、君へのお土産だ。国に戻ったら君に会いに行くと話をしたら、二人が君と食べるといいと――」
「待ってください。お二人と貴方は、どういう関係なのですか?」
「ん? いや、ただの友人だが」
「……『友人』……?」
クリスタロスの国王が、グラナトゥムやディランの王と『友だち』だって?
そんなこと、本当にありうるのだろうか?
「ああ。二人とも面白くて、優しいんだ。……ロゼリアは、たまに少し怖いけど」
だが彼が、私に嘘をついているようには見えなかった。
彼の言葉を聞いて、私は心の中にもやがかかるのを感じた。
私は彼が来ない間、陰鬱な気持ちで過ごしていたというのに、当の彼ときたら、友人だという大国の王と皇女と仲良く過ごしていたというのだ。
あまつさえその二人から、都でしか手に入らないような食べ物を持たせられて私にのもとにやってくるなんて。
私は、差を見せつけられたような気がした。
今の私が彼に用意できるのは、彼が顔をしかめるような薬湯や、森に自生する木の実や果実くらいだ。
だが私が用意できるものなんて、彼の友人だという二人なら、指先一つで手に入れることが出来るに違いない。
「どうかしたのか?」
「……別に、何でもありません」
そう思うと、私は少し苛ついた。
彼の話をよくよく聞いていると、彼は本当に、『友人』の多い男だった。
因みに何故大国の王と友人なのかと言うことを聞いたら、王の結婚式で『紙の鳥』を披露したことがきっかけらしい
しかも、彼らと学校を作るために計画を練っていると話を聞かされたときは、彼の変人っぷりを私は再認識することとなった。
『大切な友人なんだ』
彼が笑って話すその言葉を聞く度に、私の胸はつきりと痛んだ。
森の屋敷に、もう人は私だけだ。
そのこと、ずっと忘れたことなんてなかったはずなのに、彼と話すようになってから、私は『空白』というものを強く感じるようになっていた。
そんな日々が続いて暫くして、彼は再び国をあけると私に言った。
なんでも時空の歪みから『異世界人《まれびと》』がやってくると予言があったらしい。
現在異世界召喚について、世界に与える影響から、禁止の方向で世界は動いている。そんな中で、異世界にやってきてしまった彼らの保護は、急を要することは私にも理解できた。
『客人を、迎えに行ってくる』
そう笑う彼は『王』らしく、そして何故か、どこにでもいる『少年』のようでもあった。
彼を待つ間、私は彼が今どうしているかを想像してみた。
『ようこそ。俺の名前はリヒト・クリスタロス。ここは、俺が治める国、クリスタロス王国だ。異世界から招かれた客人よ。俺は、君のことを歓迎しよう』
金色の髪に赤い瞳。
純白の翼に青い目を持つフィンゴットともに現れた美しい王に手を差し出されたら、誰だってその手を取るに違いない。
そして今のこの世界の、『異世界人《まれびと》』を利用しようとする人間が多いなかで、自分を守ってくれる王に、やがて彼らは心酔するだろう。
敬愛というより執着に似た――いや、もっとその感情に、相応しい言葉は……?
「依存」
その言葉を口にしたとき、何故か私の胸は騒いだ。
―――違う。自分が、そんなはずはない。
心臓は、バクバクと音を立てる。
――有り得ない。私が、彼に依存している、など。
◇
「帰ってきたぞ! ユーゴ!」
約束通り数日後、再び彼はやってきた。
「聞いてくれ。なんと異世界人から、本で読んだことのない話を聞いたんだ!」
「それは良かったですね」
私が頷けば、彼は目を輝かせ、延々と異世界人から聞いた話を私に聞かせた。
「私、今日はもう貴方の話は、聞きたくありません」
流石に長時間、ずっと相槌を強要されると疲れる。私がそういえば、彼は首を傾げた。どうやら、本気で悪気はなかったらしい。
「えっ? なんでそんなこと言うんだ……?」
「知らない世界の、知らない人間の話を長々と聞かされる私の身にもなってみてください。貴方が異世界に興味を示している件については、十分私も理解しました」
「すまない。君は興味のない話だったか?」
「……」
彼の質問に、私は頷きはしなかった。
興味がなかったわけではなかった。
ただ、妬ましく思っただけだ。
私が与えられない知識を、異世界人は持っている。私が彼に与えられない権力を、二人の王は持っている。
私にはないものを喜んで語る彼の姿を、私は見たくはなかった。
「じゃあ!」
「はい?」
「今度は、君の話を聞かせてくれ!」
予想外の彼の願いに、私は驚くことしか出来なかった。
「私、ですか……?」
「ああ。俺が来ていないときは何をしているのか。好きなものだとか、嫌いなものだとか、何でもいい。――俺に、君の話を聞かせてくれ」
私のことを知りたいと願う。
彼の笑顔を見たときに、また胸はざわついた。
◇
その日、久しぶりに夢を見た。
それは忘れたはずの、過去の記憶の夢だった。
『ユーゴ様』
『どうか、どうか我らをお救いください!』
誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。
『神に祝福された子どもよ!』
誰かが私を讃える声が聞こえる。
『どうして、貴方だけが……?』
そうして、誰かが――私を見上げ、掠れた声で呟く。
「……っ!」
縋るように、女は私の脚を掴む。血に濡れたやせ細った女からは、昔の明るい面影は微塵も感じられない。
女の目に宿るのは、私への問いかけだけ。
女とは違い、健康な私への。
「は……ははは……」
目が覚めたら、私は泣いていた。
私は体を丸くすると、頭痛のする頭をおさえた。
「……全く、なんて夢だ」
◇
「大丈夫か? ユーゴ。顔色が悪いように見える」
「何でもありません」
「でも、顔色が……」
「何でも無いと言っているでしょう!」
彼に触れられそうになり、私は思わず声を上げた。
私に『癒し』なんて必要ない。
「落ち着け。君の心が乱れると、世界に影響が出る」
その言葉を聞いたとき、私は私の中で、何かがひび割れる音を聞いた。
「……ああ。やっぱり、分かっていたんですね。私が、『神に祝福された子ども』だと」
「ユーゴ?」
「ここに来たのは、自分の地位のために私を懐柔するためですか?」
祝福の子の忠誠を得る王は優れた王であるとされる。
彼は、人の心を掌握することに長けている。
大国の王の心さえ掴む。そんな彼なら、森で一人で暮らす人間の心を操ることなど容易いだろう。
「違う。俺は……!」
「触らないでください!」
私が叫べば、彼は体をビクリと震わせた。
「危うく貴方に騙されるところでした。……貴方の父が私の村に何をしたのか、貴方が知らないはずはなかったのに」
「……っ」
「私の村を見捨てた王の子が、私と友となろうなど――――虫がよすぎるにもほどがある」
◇
一三年前のことだった。
この森にはかつて、小さな村があった。
村には特産物などがあったわけではなかったが、誰もが心穏やかに暮していた。
ある日、村に一人の子どもが生まれた。
『神に祝福された子ども』
人々は、子どもの誕生を祝福した。
そして、永遠の命をも与えられるというその子どもの話を聞きつけた王は、自分の元に寄越すように言ったが、子どもの両親はそれを拒んだ。
長い時を生きる自らの息子に、二人は『普通』に生きていくことを望んだ。
両親は彼が一〇歳頃不慮の事故で亡くなったが、子どもが困窮するようなことはなかった。村で唯一地属性の魔法を使えた彼は、植物の成長の促進などを手伝いながら、同時に薬師としての役目も果たすようになった。
『ユーゴってば。まーた難しい顔してる!』
子どもはあまり外に出る生活は送らなかった。それは子どもの性分と言うより、幼すぎる外見のせいだった。
同じ年に生まれた少女とは、いつの間にか身長が離れてしまっていた。
『部屋に引きこもって、そうやってすり鉢とにらめっこする人生なんてつまらないわ』
彼女は子どもとは違い、どこまでも明るい人だった。美しい人というわけではなかった。ただ、彼女の纏う雰囲気は、いつもきらきらと輝いていた。
彼女がそこにいるだけで、周囲の空気は明るくなる。彼女は、そういう人だった。
『前空を見上げて、手を空に伸ばすの。陽の光を体いっぱいに浴びると、生きてるんだって、そう思うの』
無理矢理私の手を引いて外に出た彼女が、空に手を伸ばしてそんな事を言う。
『ねえ、ユーゴ。貴方も部屋にばかり閉じこもってないで、一日の間にこんな時間があってもいいものだとは思わない?』
そんな彼女だったからこそ、彼女を妻にと望む者は現れた。申し出を受ける前、彼女は私に話をした。
『ユーゴ。私は、どうすべきなのかな?』
『受ければいい』
『え?』
『あの男なら、貴方を幸せにできるだろう』
『そっか。……わかった』
子どもは彼女の顔が見られなかった。
その時彼女がどんな表情をしていたかしらぬまま――彼女の結婚は決まった。
周囲の人間が祝福の言葉を口にする中、子どもは祝福の言葉を述べることは出来なかった。
最初は同じ目線で進んでいたはずなのに、同じ世界を見ていたはずなのに――いつの間にか自分たちが見ていた世界は、大きく違ってしまったように子どもには思えた。
そんな日々を過ごす子どものもとに、何度も手紙は届いた。
『また手紙が……。いい加減、諦めてくれたらいいのに』
『神に祝福された子ども』として、自らに仕えよと――手紙の内容は、だいたいいつもそんなことだった。
王の下に行くつもりはなかった。
そんな時だった。
村に、病が蔓延した。
そして王はその対応として――村人を助けるどころか、結界を張って人々を森から出られなくしてしまった。
「私が。私が拒んだから……?」
王が村を救うつもりがないこと。それだけは明らかだった。
毎日人々が死ぬ中で、たった一人の子どもが――私だけが、病にかかることが出来なかった。
一緒に死んでしまえたら良かった。けれど自分に与えられた神の祝福は、それを許しはしなかった。
そしてそんな私のことを人々は神とあがめ、その祝福が自分に与えられないことがわかったとき、私への態度を変えた。
『どうして、貴方だけが……?』
いつだって優しい言葉を口にして、明るく笑っていた彼女でさえも、最期はそう言って私の腕の中で命を落とした。
私には、誰一人救えなかった。
たった一人。たった一人――愛した女性でさえも。
『は……は、あ……。は……はは……』
一人きりの森の中、私は空を見上げた。
王も村人も同じことだ。
馬鹿げている。こんな無力な自分を神の愛し子と思うことも、縋ることしか出来ない人間も。
みんなみんな、馬鹿げている。
『一人で生きよう。これからは、ずっと一人で』
この世界に、神などいない。
他人の優しさなんて所詮作り物だ。
信じるに値する人間など、この世界にどこにもいない。
◇
私が突き放してから、彼の訪れはなくなった。森に響くのは木々のざわめき、そして生き物の声だけだ。
手紙は来なかった。
そういえば、先代からなら鬱陶しいほど来ていたというのに、彼の代になってから連絡があったのは、初めて彼が森にやってきたときだった。
いつだって彼は突然やってきて、私の世界をかき回した。
嵐の日にさえやってきた、まるで嵐のような、太陽のような王。
訪れがなくなりしばらくして、森に聞き慣れた声が響いて、私は思わず扉を開けた。
「ピイ!」
「フィンゴット……?」
籠をくわえたあの王の契約獣が、森の屋敷にやってきた。
籠の中に、手紙は入っていなかった。
手紙を探す私を見て、フィンゴットは首を傾げ、それから静かに飛翔した。
飛び立つ白いドラゴンの背を見上げながら、私は一人自嘲した。
『はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?』
目を瞑ればあの日の彼の言葉が、鮮明に蘇る。
「……私は」
結局のところどうしようもなく、私は彼に溺れていた。
「あ……」
彼がいない。彼はもう、自分に会いに来てくれない。
そう思うだけで、胸が張り裂けそうになって涙がこぼれた。地属性の適性の強い自分では、この小さな体では、森から遠く離れた彼の城に行くことは難しい。
たとえ城にたどり着いてもなんというのだ。
自分は神の愛し子だから、王に会わせろと? ……そんなこと、今更得言えるはずない。
「リヒト、様……っ!」
私が、彼の名前を呼んだとき。
「……ユーゴ?」
彼が、驚いたような声で私を呼んだ。
「……な、なんで、ここに」
これは、夢か幻か。
私が目を瞬かせると、フィンゴットから降りた彼が、私の方へと近寄ってきた。
「フィンゴットが連れてきてくれたんだ。大丈夫か? まさか、どこか怪我でもしたのか?」
手を伸ばした彼は、私に触れそうになると――伸ばした手を引っ込めて、ぎこちなく目を伏せた。
「す、すまない。俺に触れられるのは嫌だよな」
だが私は、その手を取った。
「ユーゴ?」
「もう私には、会いに来てくださらないと思っていました」
「それは……」
彼が私から視線をそらす。
「今は君が俺に、会いたくないだろうと思って」
「これまでは私が拒んでいても会いに来ていたのに?」
「……」
沈黙の後、彼は口をひらいた。
「すまない。実は君に、話していなかったことがある」
「それは、なんですか?」
彼が何を話すのか、私にはわかっていた。
「君が言ったように、父上がしたことを、俺は知っていた。君が特別な存在であることも、最初から俺は知っていた」
「……」
「俺は君に会いに来た。でも……でもそれは、君が特別だったからじゃない。俺は……俺は君にただ、一人になって欲しくなかっただけなんだ」
彼は目をそらすことなく、まっすぐに私を見て言った。
「俺は、君と友だちになりたかった。君が誰かの痛みを、一人で背負ってしまわないように。君が誰かの、神様になってしまわないように。悪かった。守ってやれなくて、すまなかった。君を――一人にしてすまなかった」
王であるはずの彼が、私に深く頭を下げる。
それは彼の父が、私に一度もしなかったこと。
「貴方なら、どうしましたか」
「?」
「貴方も貴方の父と同じように、村を閉鎖されましたか」
「それは……今の俺には、わからない。もしかしたら、同じような選択をしたかも知れない」
彼の言葉に偽りはない。
そうだ。いつだって、彼はそういう人だった。
……それはきっと、本当は、彼女だって。
「でも同じ理由で、誰かが苦しむのは見たくない。だから俺は、同じことが起きないように、この国を変えたいとそう思う。例えば、誰もが使える薬を。光魔法が使えなくたって、役に立つそんなものを――これから作りたいと俺は思う」
空を見上げて語る彼の姿が、彼女と重なる。
姿形は似ていない。ただそれでも、明るい方へ、明るい方へ、私を連れ出そうとするところは、彼女と彼はとても良く似ているように思えた。
『前空を見上げて、手を空に伸ばすの。陽の光を体いっぱいに浴びると、生きてるんだって、そう思うの』
そう言って、笑っていた。
『どうして、貴方だけが……?』
最後の瞬間、彼女は私にそう言った。
かつての私は、それを裏切りだと思った。所詮本当に優しい人間など、この世界にはいないのだと。
でも、今は。
今なら彼女や死んでいった他の者たちの言葉も、理解出来るような気がした。
あの言葉は、全部。私の死を望む言葉ではなく、差別をされていたわけではなく、ただ――彼らはみな、きっと生きたかっただけだった。
だとしたら。
あの場所で過ごした、自分に向けられた笑顔も何もかも、全て偽りでなかったのなら。
あの時自分に向けられた彼女の笑顔が、本物だったのだとしたら――。
私が救えなかった、のは。
「……っ!」
『優しい人間』が嫌いだ。
善人のふりをして、その実何を考えているかわからない。
心の奥底の裏切りを知ったとき、彼らが私に与えたあらゆるものが、偽物へとかわる瞬間。
陽だまりのようだった世界は、欺瞞だらけの世界に変わる。
だからこそ――信じることは、愚かしい。
私は『死』を知らない。
でもだからといって、死に瀕した人の弱さを攻めることがどうして出来るだろう。
生きたいと願う人の心を、神ではない自分が、どうして否定できるだろうか。
「私。……私は」
「一緒に行こう。ユーゴ。俺は君を、一人にしないと約束する」
森の奥の屋敷はずっと、光が差し込んでいるのだと思っていた。
けれど男の見せる光の世界には、その輝きは、遠く及ばなかった。
「だから俺と、友達になってくれないか?」
その言葉に返す言葉は、とっくにもう決まっている。
◇
「何というか君とのこれまでを思い出して、俺は三顧の礼という話を思い出した」
ぽつり彼が呟いた言葉を聞いて、私は彼に尋ねた。
「因みにその話について、貴方はどの程度理解しているのですか?」
「ん? 友だちになりたい相手と仲良くなるために、三回相手の家に行く話だと聞いたが」
「貴方の場合、どちらかというより『三顧の礼』というより『天の岩戸』ですよ」
百夜通いにしては彼は図太く生きているし、三顧の礼というには礼儀がない。
だとしたら世界に閉じこもっていた存在を無理矢理外に出す話のほうが、よほど似ているように私には思えた。
自分は戸の内に引きこもっていたのに、外の世界がどうしようもなく騒がしいから。
外の世界を見てみようと少しだけ戸を開ければ、強引に腕を引かれる。
現実に背を向けて、自分の世界に引きこもっていた私を、貴方が外に連れ出したのだ。
「扉の外でどんちゃん騒ぎというか……。何度私が拒んでも、貴方は扉を開こうとするのでしょう?」
それでも、無理矢理連れ出された世界は案外悪くはなくて。
「すまない。迷惑だったか?」
一つあの神話と違うのは、閉じこもっていたのが、神ではなく私だったということで。
外の世界には私よりもっと尊い人が、本当にいたということ。
「それでも俺は君に、俺の愛するこの国を、この世界を、一緒に見て欲しいと思ったんだ」
風魔法を使えず、空を飛ぶ生きものとの契約も結べない私では空は飛べない。
彼が見せてくれた、初めて見た空からの王都の景色は、息をのむほど美しかった。
◇
「おはようございます。リヒト様。執務を終えられていないのに、ここにいらっしゃるとはいい度胸ですね?」
「お、おはよう。ユーゴ……」
彼の下についてからというもの、日常は慌ただしく過ぎていった。
森でいたときも彼には振り回されていたが、臣下となってからのことを思えば、あれはまだ甘かったのだと私は再認識させられた。
「陛下は今日も、宰相殿の尻に敷かれておりますなあ」
「一応俺がこの国の王なんだけどな……」
「ならばもっと、王らしく振る舞ってください」
彼の周囲の人間は、みんながみんな彼に甘い。
それが彼の人柄ゆえというのが理解できるからこそ、私はもどかしかった。
近くについてよくわかった。
彼は才能ある人だ。
森にいる時は、夢物語のように感じたことさえ、彼ならば出来るに違いない――今の私にはそう思えた。
「リヒト様、先日私がお渡ししたものは見ていただけましたか? 魔法の研究はほどほどになさって、早くいい人の一人や二人作ってください」
彼の欠点はただ一つ。
それは彼に、妃がいないことただそれだけ。
「そういう不誠実なことは、俺はだな……」
「浮いた話一つ無いから言っているんです!」
私は、思わず叫んだ。
それは私が、今彼に望む唯一のことだった。
そう。永く続くこの命が、貴方に願うことはただ一つだけ。
貴方がこの世界から消えても、貴方の面影を持つ王にお仕えしたい。
「早くお妃様を迎えてください。お世継ぎをつくって、早く私を安心させてください」
私の光。
誰よりも大切な優しい貴方が、悲しむ顔は見たくない。
だからこの国を、貴方が愛するこの国を守るために、貴方がいなくなっても私の心が揺るがないように、私にしるべを与えて欲しい。
永遠とも思えるこの命。
私の魂《こころ》が光を失い、闇に閉ざされてしまわぬように。
貴方が私に『世界』をくれた。
貴方が魅せてくれる世界が、私にとっての『世界』そのもの。
だから貴方が愛するこの国を、私が守ると誓いたい。
リヒト様。
この命が尽きるまで、変わらぬ敬愛を貴方に捧げましょう。
この世界にただ一人。
『我が君』――私にとっての、『光』の王よ。
いつの世も、多分兄と妹という関係は難しい。
「何故、お前がここにいる」
「兄様。せっかく可愛い妹が来てあげたのに、そんな言い方ないじゃない?」
白百合の咲く庭で、私を見るなり、兄様は今日も不機嫌になった。
まあ、私が兄様の至福の時間を邪魔したんだから、文句は言えないけれど。
「リカルド。リアを責めないで。リアは私のことを思ってきてくれたの」
姉様がそういえば、兄様はそれ以上何も言わなかった。
姉様のために兄様が用意した白百合の庭には、今日も美しい花が咲く。
昔から感情をあまり表に出さない兄様だけど、兄様が姉様に向ける愛情は本物だ。
「しかし、今日の来訪を俺は聞いていなかった。……アメリア。今日は、『光の巫女』としての仕事できたわけじゃないだろう?」
「仕事じゃなじゃ、私は姉様に会ってもいけないの?」
『光の巫女』アメリア・クリスタロス――それが、私の名前だ。
クリスタロス王国の姫として生まれた私は、生まれたときから強い魔力と、光属性に強い適性を持っていた。
得意分野は治癒。
未来予知……については、治癒に比べると精度は劣る。
私は兄様と離れて育った。
私は神殿で巫女として、兄様は王として育てられた。
私は、能力故にクリスタロス王国での最高位の巫女という立場だけでなく、王族でありながら、王族のための『魔法医』でもあった。
体があまり強くない姉様の診察や治療もその一つで、私は『姉様の診察』と称しては、神殿を抜け出して兄様をからかいに行っていた。
ちなみに見た目こそ私と兄様は同じ金髪だけれど、私と兄様の性格は全く似ていない。
兄様は慎重な人だ。
石橋は叩いて割って、それで壊して自分で作り直すくらい慎重だ。
はっきり言って、私はそばで見ていてたまに少しイライラする。
「はあ……。全くお前は昔から何なんだ。お前に、俺に関わる理由がどこにある?」
「妹が兄に絡んで何が悪いっていうの?」
「お前には感謝している。……だがお前は、そもそも巫女の役目があるだろう」
兄様が溜め息を吐くのを見て、私は良いことを思いついた。
私は、私と兄様のやりとりを微笑みながら眺めていた姉様の膝にわざとらしく頭を乗せて、お兄様を指さした。
「姉様。ひどいの。兄様が私をいじめる」
「まあ、可哀想に」
姉様が優しく私の髪を撫でる。
柔らかくて、温かな手。姉様の優しさに私が浸っていると、
「離れろ」
私は、兄様によって姉様から引き剥がされた。私はそのまま、兄様の手を掴んで背負い投げした。
「てぇいっ!」
一応、着地は『ふわっと』を意識した。
何が起こったか理解できなかったらしい兄様は、暫く目を瞬かせていた。
「兄様。力勝負で私に勝てるとでも?」
私が笑って兄様に手を差し出すと、兄様は眉間に皺を作って自力で立ち上がった。
「この馬鹿力め……!」
そう。
私には、光属性の他にもう一つ、魔法属性の適性がある。
それは、『強化属性』。
この国における神殿の最高位の巫女である『光の巫女』の名を賜る私が強化属性の魔法が使えることは公開されていないが、兄様や姉様に隠す必要は無い。
慈愛に満ちた愛の伝道者、聖女――『光の巫女』という存在を、世の多くの人はそう考えているけれど、そのイメージは実際の私とかけ離れている。
私は束縛されるのは嫌いだし、楽しいことが好きだ。
人が笑っている顔も好きだけど、生真面目な兄様をからかったり、優しい姉様に甘えるのも好きだ。精進潔斎、生きものを殺すことを嫌って肉も魚も食べないのが私のイメージらしいけど、私は振るうに肉や魚を食べるのも好きだし、あと甘いお菓子も好きだ。
巫女としてお祭りに参加するのは禁じられているけれど、神殿を抜け出して顔を隠して祭り屋台を楽しむくらいには、私は娯楽に飢えている。
詰まるところ私の本質は、魔法さえ使えなければ、他の普通の女の子と変わりはしない。
対して兄様。
兄様私と違って確かに魔法の才能は低い方かも知れないけれど、努力家で立派な人だ。
だって私の能力は、『努力』で手に入れたものじゃない。
その点、兄様は凄いと思う。とてもじゃないが、私は兄様のようにはなれない。
兄様は私とは違う視点で、この世界を見ることが出来る人だ。
だから私は兄様とは違う方法で、この国を、兄様を支えたいと思っている。
問題なのは、神殿と王室との関係だ。クリスタロスに限らず、世界各地にある神殿は、人々の支持によって力を強めていた。兄様は私と比べると、魔法に関わる素質で劣ることは、彼らにとって『つけいる隙』になるようだった。
ただ、どんなに彼らが私に媚び諂っても、私と兄様の敵対を望もうと、そんなこと私には関係ない。私の家族はここに居る。私の居場所はここにある。
「いっつも机仕事ばかりしているからこうなるのよ。兄様、少しは外に出て鍛錬でもしたらどう? 太るわよ」
にっこり笑って私が言うと、兄様の眉間の皺が深くなった。
「……全く、お前は何なんだ。私をからかって楽しんでいるのか?」
「だって、兄様、いっつも無表情なんだもの。まるで仮面を被っているみたい。そんなんじゃ、子どもが出来たら誤解されるわ」
「子ども……」
私の言葉に、兄様が姉様を見て頬を染める。私は、それを見過ごさなかった。
「兄様ってばむっつり……」
「……お、お前が先に言い出したんだろうっ!」
兄様は、今日もからかいがいのある人だった。
「アメリア様!」
「ジル」
神殿に戻ると、私の侍女であるジュリアが廊下を走って私の元へやってきた。
「ひどいです。せめて私も連れて行ってください! 私が神官長様に怒られるんですから!」
「ごめんね?」
私が謝ると、彼女はむう、と頬を膨らませた。
「もういいです。アメリア様はいっつも謝られるのに、結局私をおいて行かれるんですから。どうせ私のことなんて、すっかり忘れていらしたのでしょう?」
兄様や姉様の前では『妹』になる私だけれど、彼女の前での私は『手のかかる姉』のような気持ちになる。
「ご、ごめんなさい。ジル。今度からはちゃんとつれていくから……」
「絶対! 約束ですからね!」
「うん。約束」
ジルは私の手を掴むと、無理矢理指切りさせた。
「それで、王太子妃様はお元気でしたか?」
神殿のなかの私室に戻った私に、ジルはハーブティーをいれてくれた。
「姉様は元気だったわ」
姉様は、昔から体があまりお強くはない。それでも姉様を迎えたのは兄様だ。姉様だけが、他の婚約者候補たちと違って、王家に生まれながら力の弱い兄様に、気遣うことなく接していた。
だからこそ、今の状態は兄様にとってあまり良くない。姉様の体調が悪いと、兄様まで体を崩してしまう。
――姉様を元気にしてあげる方法を見つけないと。
私がティーカップ片手にため息をついていると、扉を叩く音が聞こえた。
「光の巫女様。神官長様がお呼びです」
「げっ」
私は、思わず顔を顰めた。
◇
「ご無事にお戻りで何よりです」
相変わらず、今日も男は胡散臭い笑みで私を出迎えた。
「どうもお気遣いありがとう」
「できればこんな気苦労をかけないでいただけると、私はもっと嬉しいのですが」
「……」
そして男は、今日も一言余計だった。
現在この神殿の中で、最も発言力のある男。
『預言者』とも呼ばれる彼は、『先見の神子』に並ぶともされるほどの未来予知の能力者だ。
涼やかな外見。
美しい銀色の髪に、人を惑わすような紫と緑のフローライトの瞳。彼こそまさに天の使いなどという者も居たが、私からすれば、男はただの詐欺師だった。
『神官長』と呼ばれているこの男は、実は私とさほど年は変わらない。たぶん、兄様より少し上くらいの筈だ。
幼い頃、私が神殿に入った時、道案内してくれたのが彼だった。
『はじめまして。アメリア・クリスタロス様』
初めてあった時は、まるで本の中から出てきた人みたいだ、と思った。
美しい外見も落ち着いた声も、幼い私には輝いて見えた。
『――手を』
彼は、私の手を引いて神殿を案内してくれた。
兄様より少し大人で、私よりずっと身長は高かったのに、私に合わせて歩いてくれた。今思えば、一瞬でも素敵だと思ってしまった自分を恥じる。
当時下級神官だった彼が、今や『神官長』だなんて――つまり神殿の、表面上高潔そうな狸親父たちを丸め込むことの出来る程の狡猾さが、彼にあるということに他ならない。
「貴方は、神より力を賜ったお方なのです。どうか、あまり勝手に出かけるようなことはなさらないでください」
私は、苦言を呈した男の体を見た。
――また、怪我してる。
正直出会った頃はまだ、彼は『まとも』だったと思う。
ただある時期からか、彼は自分の体を顧みず、魔法を酷使したり自分の体を傷付けるようになった。光魔法を神の恩寵であると考える神殿の人間が、修行と称して自分の体を傷付ける事は、昔からままあることだった。
魔法は心から生まれる。
後天的に魔法を手に入れる者がいるように、何かを強く信じたり強い痛みに晒されることは、確かに昔から魔法を強化する手段とはされているが、実際にそれをやる彼が、私は苦手だった。
信仰が何だ。魔法の力を、理を崩し、己の体に傷をつけてまで求めて何になるというのだろう?
私は男が嫌いだった。
自分の地位を高めるために、自分の体を傷付ける蛇のような狂人。
私にとって男は、そういう人間だった。
「大丈夫よ。いざとなったらこの力でどうにかするもの」
「神殿は、その力を使うことを禁じています」
さらっと釘を刺されて、私は声を上げた。
「どうして貴方たちに、私の行動を制限されなくてはいけないの? 私は巫女として、十分役目を果たしているつもりよ。これ以上私に、貴方たちは何を求めるというの!」
「私はただ、貴方が傷つくのが嫌なだけなんです」
男が私の手にとる。私は、すぐさま男の手を払った。
――気持ち悪い。
「勝手に私に触らないで」
「失礼しました」
男は、今日もにっこり笑って私に謝った。
でもその声からは、今日も謝罪の気持ちはひとかけらも感じられなかった。
◇
「むかつく。むかつくむかつく! あの男、本当にいけすかない……!」
部屋に戻った私は、ペンを手に持った。
こんな時は、幸せな物語を書くに限る。
「できた! 囚われのお姫様は、運命の出会い恋に落ちる――周囲の反対を押し切って、最後はハッピーエンドになる!」
結末まで書き終えて、私は椅子の上で背を伸ばした。
「やっぱり、物語の最後はハッピーエンドが一番だよね」
書き終えた物語に目を通しながら、私はうんうんと頷いた。そして完成した小説を読み返して――ヒーロの外見について記載された箇所で、私は手を止めた。
『銀色の髪に、宝石みたいな輝く紫の瞳』――なんて。こんなの、まるで私が大嫌いなあの男のようではないか。
「あの男、顔だけは良いのよね……」
それだけは、認めざるをえない。でも、私は――。
「でもあんな狂人、誰が好きになるもんか!!!」
そもそも『光の巫女』と呼ばれる私は、結婚して子どもを持つことを禁じられている。物語のようにハッピーエンドを迎えて、子どもを設けるなんて私には夢のまた夢だ。
「はあ……私も、こんな恋ができたらなあ……」
例えば、神殿を抜け出したときにばったり出会ったり。
私が光の巫女であると知らない人と出会って恋をするだなんて事ができたら、どれほど素敵だろうと思った。
まるで、異世界の有名な恋物語のようだ。