息の荒い子どもを前に手をかざし、私はいつものようにその精霊の名前を読んだ。
「ディーネ」
『精霊の愛し子』。
私の呼びかけにこたえた水の精霊は姿を現すと、子どもの体を包み込んだ。
私以外には見えないウンディーネは、子どもをあやすかのように、子守唄を歌う。
すると高熱にうなされていたはずの子どもの顔色はすっかり良くなり、すやすやと寝息を立てはじめた。
「ありがとうございます。……ありがとうございます。聖女様!」
子どもを抱いていた母親は、落ち着いた様子の子どもを見て安堵した表情をみせると、何度も私に頭を下げた。
私はそんな母親の頬に触れると、今度は『精霊』の力は借りず、『光魔法』を発動させた。
目の下にくまを作っていた女性の顔色が、少しだけ良くなる。
「これで、もう大丈夫です。お母さんも、無理はしないでくださいね」
私がそう言って微笑めば、彼女は目に涙を浮かべ、堰を切ったように泣き出した。
二度目の魔王を倒した後、私の日常は大きく変わった。
何が変わったと言ったら、一番は私の気持ちかも知れないけれど――私は『光の聖女』として『精霊の愛し子』として、以前より力を使いこなせるようになった。
二度目の魔王の出現。
壊れた建物を直すために、私は精霊たちの力を借りた。
私自身が使える属性魔法は光だけだけれど、火の精霊サラマンダーを筆頭に、『精霊の愛し子』である私には、地の精霊ノームや、水の精霊ウンディーネもたちも、多くの力を貸してくれた。
力の使えない『光の聖女』として、ずっと神殿で光魔法の練習を重ねてきた私だったけれど、最近は『精霊の愛し子』と『光の聖女』、両方の力をつかうことで、この世界に貢献できているように思う。
『光魔法』を使った治癒魔法は、命を縮める可能性もあるけれど、『精霊』の力を借りればこの副作用が起きないことも大きかった。
だから最近の私はこの力を使って、数は制限しているけれど、時折病に苦しむ子どもたちの診察も行っている。
そんな私に感謝を述べてくれる、必要としてくれる人たちに出会う度に、私は彼らの幸せを願えるようになりつつあった。
ただこの世界に生きる人々の全てが、私の存在に対して肯定的ではないことも事実だ。
これまでの経緯を綴った本を出版したことで、批判の目はリヒト様から私にも向けられるようになったからだ。
けれどそのことで、私が落ち込むことはなかった。
最初から分かっていたことだ。
それでも――たとえ自分が悪者《わるもの》と蔑まれても、私は、私を導いてくれたローズさんの幸せを願いたかった。
この気持ちは今も変わらない。だから私は自分の決断を後悔なんてしない。
最近の私の悩みと言えば、ただ一つだけ。
それは、今出版している小説の最後のページ。
最後に書くあとがきの言葉を、私は決めきれずにいた。
「本当に、どうしようかなあ……」
悩んだ末、私はクリスタロス王国の図書館を訪れることにした。
◇◆◇
「ようこそ。アカリ・ナナセ様」
図書館の司書だという人は、朝早く訪れた私を出迎えてくれた。
人目もあって、なかなか神殿以外の図書館に行ったことはなかったから、足を運ぶのはこれが初めてだった。
「開館までまだ時間がありますから、どうぞそれまでご自由に。探したい本が、きっと見つかりますよ」
「ありがとうございます」
神殿の蔵書では、『聖職者』に相応しくない内容の本は排除される傾向にあったから、私は『普通』の図書館を訪れることを心待ちにしていた。
司書さんの話によると、開館時間前に図書館を開くことは、『光の巫女』が存命の頃もよくあったことらしい。
「わっ!」
私が図書館を少し歩いていると、『光のたま』が突然私の前に現れた。
その光は、まるで意識でも持っているかのように、私の周りを楽しげにくるくる回る。
「これが、リヒト様の古代魔法……」
前世から本が苦手だったユーリさんのために、『光の王』が創り出した魔法は、触れると少し温かかった。
仕組みはよくわからない。
ただその光から、私は精霊に近いものを感じた。
光は私の前を進み、導くかのように進んでは、扉をすり抜ける。
その光を追いかけるうちに、私はなんだかまるでかくれんぼでもしているような気持ちになった。
――元の世界では病院暮らしで、結局ろくに出来なかったけれど。結構楽しい。
「ここは……」
光が私を導いた先は、あまり人の立ち入らなさそうな場所だった。
古い新聞や、地図が収められた棚に、その『本《てがみ》』はあった。
「これは……?」
私はその手紙を見て、声を震わせることしか出来なかった。何故ならその筆跡は、私がよく知るある人物のものと同じだったからだ。
『七瀬明様へ』
「嘘。なんで、――さんの……」
忘れられるはずがない。
それは間違いなく、私が病院で暮していたときに、いつも私に笑いかけてくれた看護師《かのじょ》の筆跡《もの》だった。
*************
拝啓 七瀬明様
この本を貴方が手に取っていると言うことは、光の聖女の予言は正しかったと言うことでしょう。
明ちゃん。
元の世界で、貴方に何も告げずにいなくなってごめんなさい。
病院を突然やめたことには、理由がありました。
あの時私は、実は私自身が、実は病に冒されていたのです。
でも貴方に、あの時の貴方に、私は「私も病気だった」なんて伝えることは出来なかった。だって私は貴方に、笑っていてほしかったから。
病室での貴方はいつも、窓の外を眺めていた。
いつだってここは、自分が望む場所ではないのだという顔をして生きていた。自分の幸せなんて、一生手に入らないと諦めているように。自分の人生に意味はないと、そう思っているような顔をしていた。
でも私は、貴方にこう思ってほしかった。
人は誰もが、何かしらの才能を持って生まれてくる。
例えば物作りが上手かったり、お話をするのが上手かったり、運動が出来たり。
そしてその才能に気付けた人が、私はこの世界に名前を残すことが出来るんだと思う。
何か一つでもいい。
私は貴方に、それを見つけて欲しかった。
流石にまさか全部上手いだなんて、想像していなかったけれど。
明ちゃん。
賢い貴方なら、もう気付いているかもしれません。
そう。この世界は、『ゲーム』の中の世界じゃない。
そして本当のことを言うと、あのゲームそのものが、実はこの世界を元に作られたものなのです。
私達が知っている『Happiness』というゲームは、『光の巫女』の転生者によって作られたゲームなのです。
国王の妹であった『光の巫女』は、光属性と強化属性、二つの属性に適性のある女性でした。
もし、この世界の未来が見えて、その未来を覆したいと思っても、そのためにはこの世界では、『強化魔法』が必要となる。
運命を打ち破る力を持つ者に、強化の魔法は与えられる。
かつて『光の巫女』は、『神に祝福された子ども』を生かすために、自分の命の殆どを彼に与えた。
そして彼女は自分の命が終わるときに、時空の歪に自ら飛び込み、異世界《わたしたちのせかい》に自分の魂を運んだ。
『光の聖女』は気付いていた。
自分の命を代償に救ったベアトリーチェ――その少年と同じ『神に祝福された子ども』は、この世界に破滅を齎そうとしている。
そしてその『子ども』はこの世界を壊すために、『力の使えない救世主』を作り出そうとしている。
だから『光の巫女』は未来をかえるために、この世界を去ったのだということを、私は『光の巫女』に手紙を託された女性から聞きました。
いつかこの世界に招かれる『光の聖女』。
『光の巫女』は、自分の命を代償に、魔王をも倒す『剣神』をこの世界に誕生させることが、自分の役目だとも話していたということでした。
そしてその時に、『聖女』に倒される『魔王』の正体も、彼女は私に教えてくれました。
世界を滅ぼすための『魔王』の核は、私の心臓の石だと。
そして彼女はこうも言った。
私の心臓の石である魔王の核を壊すため、異世界に招かれるのは、『七瀬明』という少女だと『光の聖女』は予言したと。
同じ名前を持つ別の誰かかもしれない。
でも、私は確信している。魔王を倒すために尽力し、この手紙を読んでいるのは、きっと私の知る貴方だと。
明ちゃん。
昔貴方に私が語ったことを、今でも貴方は覚えてくれていますか。
幼い頃から私は、『魔法使い』になりたかった。
貴方はそんな私のことを、『子どもっぽくて馬鹿みたいだ』と言ったけれど、本当は貴方が誰よりも、魔法というものに焦がれていたことを、私は知っています。
だから私は、貴方がこの世界で過ごすことは、貴方にとって幸せな未来に繋がると信じています。
明ちゃん。
何も言わずに、貴方の前から去ってごめんなさい。
でも私たちは違う世界で、きっともう一度出会う。
いつか貴方は、この世界にやってくる。
世界を救う『光の聖女』として。
私は貴方を信じている。
貴方はきっと、この世界を救うことの出来る、光の聖女なのだと。
だから私は怖くない。
いつか『神に祝福された子ども』によって、私の魔法の核が奪われ、この身が朽ちてしまっても、私はこの世界を滅ぼす魔王にはならないことを、私は信じているから。
貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる。
もし私が生まれ変わって、魔法を使う器を失って、次の人生では魔法を使えなくなっていたとしても、私の魔法はきっと、貴方の心に生き続ける。
明ちゃん。
貴方はいつだって、窓の外を眺めていた。
空を飛ぶ鳥を羨ましいと、昔貴方は私に言った。
あの日私は、貴方の言葉を否定はしなかった。でも、今の貴方になら言える。
今を生きる貴方なら、きっとこの言葉に、頷いてくれると信じている。
幸福の青い鳥は、いつも貴方の心の中にある。
貴方が幸福を感じる心さえ持っていれば、黒い鳥だって、青くその色を変えるだろう。
貴方が変われば、世界は変わる。
私の大好きな明ちゃん。
貴方が幸せな人生を、これから歩んでいけるように願って、この葉を私から貴方に贈ります。
**********
クローバー。
ハートの形の一枚の押し花の栞が、本には挟まっていた。
四枚の葉。
私はその葉はきっと、四枚のうちの一枚の葉であるように思えた。
「そうか。……そうだったんだ」
これまでもずっと、精霊病を用いて『魔王の核』が作られていたとするなら、過去の『魔王』にも、『被害者』はいたはずだ。
そして記録の日付からして、おそらく彼女が『魔王の核』となった後、核に力を集めるために、ギルバートさんとレオンさんが休眠状態に入った、と考えることが適切だろう。
薄々予測はしていた。
だがそれが、魔王の核か、自分が知る人間のものだとは思っていなかった。
『彼女』は優しい人だった。
だからそんな彼女が魔王となって、世界を滅ぼすことを望むとは、私には思えなかった。
『貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる』
手紙に書かれた文字を指でなぞる。
たとえそれが残酷な真実だとしても、彼女が私を思っていてくれたことが、私は心から嬉しかった。
「ありがとうございます。……リヒト様」
ハートの葉っぱの欠片を抱いて、私は呟いた。
この図書館にかけられた魔法は、『光の王』がユーリさんのような人間のために作ったものだ。
この魔法がなければ、私はこの手紙には出会えなかった。
覚えている。
白い病室で、生きることを諦めていた私に、いつも笑みを浮かべてくれた人。
その人は、ある日私の前から姿を消した。
夏の、暑い日だった。
笑っていたその人は、川で溺れかけた子どもを助けて命を落とした。
子どもの命を救ったヒーローは、夏の水難事故での、救出の失敗例としてニュースに取り上げられていた。
まるで愚かな道化のように。
彼女の死は無駄だったと、利口な行いではなかったと、そう語る画面の向こう側の人々の言葉は、私には遠く霞んでよく聞こえなかった。
自宅での療養の際、散歩をしていて火事の現場に遭遇した。
中から子どもの声が聞こえた。
私は、すぐさま家の中へと急いだ。
どうせもうすぐ失われる命だから。
自分がもし死ぬとしても、私は子どもを助けたかった。
子どもを助けてからすぐに、私は身動きがとれなくなった。
――貴方は、生きて。
自分のことばかりで精一杯で、希望を抱くことも忘れていた私に、彼女は光を与えてくれた。
そんな人を失った先で、私は漸く自分の意志で行動出来たような気がした。
自分の人生を、自分で選べたような気がした。
『貴方こそ、光の聖女に相応しい』
燃えさかる炎の中で、ユーゴさんが私に手を差し伸べる。
私はきっと、物語のヒロインには向いていない。誰かに希望を与えるような、そんな人に私はなれない。
でも、『誰かを守りたい』というその思いが、私がこの世界の救世主《ヒロイン》に選ばれた理由なら、私は私の精一杯で、『光の聖女』でありたいと願った。
でもこの世界は偽物だとしか思えなかった私には、魔法を使うことは難しかった。そんな私に、ローズさんは言ってくれたのだ。
『私は、貴方を信じます』
ローズさんの言葉が、『彼女』の言葉と重なる。
『大丈夫。大丈夫……だから』
優しい嘘を知っている。震える手を知っている。
その時だった。私がローズさんのことを、『本当の人間』だと思えたのは。
だから私は、ローズさんのためにこの世界で生きたいと思った。
そうしてローズさんが愛するこの世界を、私も愛したいと思った。
『貴方を悪役になんてさせません。貴方も私にとって、大切な人です。私は貴方一人に、全てを背負わせたりなんてしない』
ローズさんのために小説を書いた。
レオンさんが先に広めた『正史』を書き換えるために小説を書きなおす中で、沢山の人に協力してもらって、私は漸く、自分の居場所を見つけたような気がした。
今のこの世界には、私のことをちゃんと見てくれる人がいる。
私はもうこの世界で、独りなんかじゃない。
『ごめんね。こんな体に産んでしまってごめんね』
元の世界で、お母さんはいつもそんなことを言っては泣いていた。
私はその言葉を聞く度に、自分なんて生まれなきゃ良かったのにと思っていた。
両親を悲しませる、苦しませる自分なら、最初から生まれなければ良かったのだと、そう思っていた。
そしてその思いは、両親も同じなのだと思っていた。
今ならわかる。
両親が本当に願っていたのは、私が幸せであることだった。私の幸せを願っていたから、愛していてくれたから。でもどうしようも出来なかったから、二人はいつも泣いていたのだ。
だったらこの世界で私らしく生きることこそが、きっと二度と会えない両親への、恩返しになるように今の私には思えた。
「私を、産んでくれてありがとう」
手紙を抱いて、私は一人呟く。
そして私は、二人に手紙を書くことを決めた。
『向こう』と『こちら』を繋ぐ世界の歪み。それを使って人生で一度だけなら、私は元の世界に、手紙を出すことを許されていた。
それはあの日、リヒト様の力を取り戻すために魔法を使わなければ、本来元の世界にもどれた私が、最後に許されたことだった。
あの日の決断を、私は後悔なんてしていない。
感謝や愛。たとえもう二度と直接伝えることは出来なくても、私はこの世界で、前を向いて生きていくことを決めたのだ。
「お父さん。お母さん。――私は今、幸せです」
だから、もう。
――青い鳥は探さない。
☆★☆
図書館から帰る際、私はローズさんにお迎えを頼んでいた。
今日は、ローズさんと一緒にお茶をする日なのだ。
本《てがみ》は司書さんに伝えた上で、持ち帰らせてもらえることになった。
「アカリ。何かいいことでもあったのですか?」
「わかります? 実は……ずっと悩んでいた、最後の本の後書きについて、やっと今日決まったんです」
『ローズさんの光の聖女になりたい』
そう思っていた頃の自分とは違う。
本を書く中で、私はこの世界を生きている人たちそれぞれに、人生があることを知ることを知った。
だからだろうか。
突拍子もない行動をしたローズさんだけが『本物』だった私の世界に、今は確かに、たくさんの『友人』たちがいるようにも私は思えた。
今の私なら、ローズさんのためだけじゃない。この世界を愛して、この世界のために、『加護』の魔法を使えるような気がした。
ローズさんは、私が差し出したあとがき予定の言葉のメモを見ると、いつもの調子で言った。
「アカリのこの言葉、私はとても好きです」
「ローズさんにそう言ってもらえると嬉しいです!」
ローズさんの言葉が嬉しくて、思わず元気よくそう言うと、ローズさんは私の顔を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
最近のローズさんは気のせいかもしれないけれど――自分にも他人にも厳しいなと思うところは相変わらずあるけれど、どこか大人の余裕というか、そんなものを時折感じさせる。
それはもしかしたら、本当に大切な人と結ばれて幸せだからこそ、うまれる余裕なのかもしれない。
そのおかげというか、そのせいというか――ローズさんは昔よりもっと、周りの人から好かれているらしい。
おかげでリヒト様は「心労が絶えない」と愚痴を吐いていた。正直、ちょっとだけ、「せいぜい苦しめばいいんだ」と思ったのは秘密だ。
リヒト様には感謝しているし悪い人じゃないのはわかっているけれど、やっぱり悔しいなと思うことはある。
ただこれは、ローズさんを好きな人誰もがそうなのかもしれないとも思う。
そういえば以前、私がローズさんとリヒト様を見て少し落ち込んでいたら、精霊たちから『ローズさんと一緒に精霊の森で暮せばいい』と提案されたことがある。
『精霊の森』は人間は不可侵で、普通の人間には見つけることも入ることもできないから、そこに行けば、ローズさんは私に頼るしかなくなるらしい。
私は、その申し出を断った。
ローズさんと二人だけの世界。その響きに、魅力を感じなかったかといえば嘘になる。
でも私はやっぱり、大好きな人が幸せでいることが、笑っている姿を見ることが、幸せだと思うから。
ローズさんの笑顔を奪うようなことを、私はしたくなかった。
うまくはいえないけれど、ローズさんに対する私の気持ちは、憧れなんだと思う。
そして同時に、二度と会えない、私に魔法を与えてくれた『彼女』と、私はローズさんを重ねていたのかもしれなかった。
自分勝手なその人と、ローズさんの性格は全然似ていないけれど――私を信じ、私の気持ちを考えて行動してくれたところは、二人はよく似ているように思えた。
だから私は、そんなローズさんから、自由を奪いたくはなかった。
たとえ私とは違う誰かの側で、幸せそうに笑う姿を見るたびに微かに胸は痛んでも、彼女らしさを奪って自分のものにすることが、私は愛だとは思えない。
それはきっと彼女を想う沢山の人が、心に抱いている感情だとも、今の私は思った。
リヒト様の魔法の研究成果は、彼が魔力を取り戻したこともあり、徐々にだが認められつつある。
それはかつてローズさんが私に言ったように、「魔力の高さが重視される世界」だからということもあるだろう。
けれどリヒト様の魔法の研究の根本は、私が現代で当たり前に使っていた「便利な道具」で生活を楽にして、社会そのものの仕組みを変えることにある。
余分な時間が出来ることは、人々に新しい選択の自由を与える。
この世界の価値は、これから大きく変わるだろう。
その時、この世界の王侯貴族がになうべき責任の重さは、これまでとは変わるかもしれない。
そしてその影響で、本来の『魔法』を使える人は減る可能性があるとも、ローズさんたちは話していた。
王侯貴族のみが扱える『魔法』から、全ての人が『魔法道具』を扱える世界へ。
そう変わったときの世界がどうなるのかは、今の私たちにはまだ分からない。
けれどそれは、私が生きていた元の世界――誰もが機械を扱える今の世界と、少し似ているのかもしれなかった。
何かを成し得たいと思う。
例えば、海の向こうに大きな世界があると信じて行動する。
教科書で習う歴史上の偉人の偉業、沢山の人が命を落としてしまった海。
渡海を諦めて一生を終えた人がいたという話が残る中、私が生きていた時代では、飛行機を使えば簡単に海を渡ることが出来た。
技術が進化することで、私達が何かを成し得るための労力は、もしかしたら昔よりずっと少なくて済むのかもしれない。
でもだからこそ、誰もが『出来ることが当たり前』だと言われることは、時代が下るうちに増えてしまうのかもしれないと私は思った。
ただ結局、生まれる時代を選ぶことはできないただの人間である私達に出来ることは、その時代に合わせて、精一杯生きることだけなのだ。
そういえばリヒト様に、私はこんな話を聞いた。
この世界の仕組みは、長い目で見ればこれまでも、『書き換えられた』ことがあるらしい。
魔法という力がこの世界に生まれる前、人々は、神様や伝説の生き物と共存していた時代があったらしい。
そしてその時代、クリスタロス王国は国の規模こそ小さいが、武力だけなら世界一を誇っていたともいう。
そしてクリスタロスで精霊晶が多く出土するのは、かつてこの国が、戦火の中心になったせいかもしれないとのことだった。
でもそれは、『光の王』やユーゴさんたちが生きていたよりももっともっと昔の話で、その当時のクリスタロス王国の隆盛は、今は語られることはない。
でもせっかくだし、いつか遠い時代のこの国の話は、一度調べてみようと思う。
それがどんな歴史であったとしても、私が愛するこの世界のことを、もっと知りたいと思うから。
そしていつかその話を、また本にまとめてみるのも面白いかもしれない。
私はそう考えて、晴れやかな気持ちで空を見上げた。
見上げればどこまでも青い空が、私たちの頭上には広がっていた。
これは、『Happiness《こうふく》』から始まる物語。
この世界は、『ゲーム』じゃない。
それでも選択肢はいつだって、人の心の中にある。
だから私は祈りを捧げる。
この思いが、いつか誰かの幸福に繋がることを願って。
この言葉は私が捧げる、光の魔法《いのり》。
私がこの世界で生きていくときめた、そんな私の想いの証。
私は生きる。
この世界で、この世界にただ一人の『光の聖女』として。
だから私は、今はこの言葉を、書き残したいと思うのだ。
【貴方の心に魔法をかけたい。
この物語を最後まで読んでくれた貴方に、私は『加護』を与えたい。
この世界に生きる誰もが、自分の物語の主人公だから。
どうか後悔のない物語を、貴方が歩めるように。
この国を、この世界を生きる全ての人に
どうか、光の祝福を。】
「ディーネ」
『精霊の愛し子』。
私の呼びかけにこたえた水の精霊は姿を現すと、子どもの体を包み込んだ。
私以外には見えないウンディーネは、子どもをあやすかのように、子守唄を歌う。
すると高熱にうなされていたはずの子どもの顔色はすっかり良くなり、すやすやと寝息を立てはじめた。
「ありがとうございます。……ありがとうございます。聖女様!」
子どもを抱いていた母親は、落ち着いた様子の子どもを見て安堵した表情をみせると、何度も私に頭を下げた。
私はそんな母親の頬に触れると、今度は『精霊』の力は借りず、『光魔法』を発動させた。
目の下にくまを作っていた女性の顔色が、少しだけ良くなる。
「これで、もう大丈夫です。お母さんも、無理はしないでくださいね」
私がそう言って微笑めば、彼女は目に涙を浮かべ、堰を切ったように泣き出した。
二度目の魔王を倒した後、私の日常は大きく変わった。
何が変わったと言ったら、一番は私の気持ちかも知れないけれど――私は『光の聖女』として『精霊の愛し子』として、以前より力を使いこなせるようになった。
二度目の魔王の出現。
壊れた建物を直すために、私は精霊たちの力を借りた。
私自身が使える属性魔法は光だけだけれど、火の精霊サラマンダーを筆頭に、『精霊の愛し子』である私には、地の精霊ノームや、水の精霊ウンディーネもたちも、多くの力を貸してくれた。
力の使えない『光の聖女』として、ずっと神殿で光魔法の練習を重ねてきた私だったけれど、最近は『精霊の愛し子』と『光の聖女』、両方の力をつかうことで、この世界に貢献できているように思う。
『光魔法』を使った治癒魔法は、命を縮める可能性もあるけれど、『精霊』の力を借りればこの副作用が起きないことも大きかった。
だから最近の私はこの力を使って、数は制限しているけれど、時折病に苦しむ子どもたちの診察も行っている。
そんな私に感謝を述べてくれる、必要としてくれる人たちに出会う度に、私は彼らの幸せを願えるようになりつつあった。
ただこの世界に生きる人々の全てが、私の存在に対して肯定的ではないことも事実だ。
これまでの経緯を綴った本を出版したことで、批判の目はリヒト様から私にも向けられるようになったからだ。
けれどそのことで、私が落ち込むことはなかった。
最初から分かっていたことだ。
それでも――たとえ自分が悪者《わるもの》と蔑まれても、私は、私を導いてくれたローズさんの幸せを願いたかった。
この気持ちは今も変わらない。だから私は自分の決断を後悔なんてしない。
最近の私の悩みと言えば、ただ一つだけ。
それは、今出版している小説の最後のページ。
最後に書くあとがきの言葉を、私は決めきれずにいた。
「本当に、どうしようかなあ……」
悩んだ末、私はクリスタロス王国の図書館を訪れることにした。
◇◆◇
「ようこそ。アカリ・ナナセ様」
図書館の司書だという人は、朝早く訪れた私を出迎えてくれた。
人目もあって、なかなか神殿以外の図書館に行ったことはなかったから、足を運ぶのはこれが初めてだった。
「開館までまだ時間がありますから、どうぞそれまでご自由に。探したい本が、きっと見つかりますよ」
「ありがとうございます」
神殿の蔵書では、『聖職者』に相応しくない内容の本は排除される傾向にあったから、私は『普通』の図書館を訪れることを心待ちにしていた。
司書さんの話によると、開館時間前に図書館を開くことは、『光の巫女』が存命の頃もよくあったことらしい。
「わっ!」
私が図書館を少し歩いていると、『光のたま』が突然私の前に現れた。
その光は、まるで意識でも持っているかのように、私の周りを楽しげにくるくる回る。
「これが、リヒト様の古代魔法……」
前世から本が苦手だったユーリさんのために、『光の王』が創り出した魔法は、触れると少し温かかった。
仕組みはよくわからない。
ただその光から、私は精霊に近いものを感じた。
光は私の前を進み、導くかのように進んでは、扉をすり抜ける。
その光を追いかけるうちに、私はなんだかまるでかくれんぼでもしているような気持ちになった。
――元の世界では病院暮らしで、結局ろくに出来なかったけれど。結構楽しい。
「ここは……」
光が私を導いた先は、あまり人の立ち入らなさそうな場所だった。
古い新聞や、地図が収められた棚に、その『本《てがみ》』はあった。
「これは……?」
私はその手紙を見て、声を震わせることしか出来なかった。何故ならその筆跡は、私がよく知るある人物のものと同じだったからだ。
『七瀬明様へ』
「嘘。なんで、――さんの……」
忘れられるはずがない。
それは間違いなく、私が病院で暮していたときに、いつも私に笑いかけてくれた看護師《かのじょ》の筆跡《もの》だった。
*************
拝啓 七瀬明様
この本を貴方が手に取っていると言うことは、光の聖女の予言は正しかったと言うことでしょう。
明ちゃん。
元の世界で、貴方に何も告げずにいなくなってごめんなさい。
病院を突然やめたことには、理由がありました。
あの時私は、実は私自身が、実は病に冒されていたのです。
でも貴方に、あの時の貴方に、私は「私も病気だった」なんて伝えることは出来なかった。だって私は貴方に、笑っていてほしかったから。
病室での貴方はいつも、窓の外を眺めていた。
いつだってここは、自分が望む場所ではないのだという顔をして生きていた。自分の幸せなんて、一生手に入らないと諦めているように。自分の人生に意味はないと、そう思っているような顔をしていた。
でも私は、貴方にこう思ってほしかった。
人は誰もが、何かしらの才能を持って生まれてくる。
例えば物作りが上手かったり、お話をするのが上手かったり、運動が出来たり。
そしてその才能に気付けた人が、私はこの世界に名前を残すことが出来るんだと思う。
何か一つでもいい。
私は貴方に、それを見つけて欲しかった。
流石にまさか全部上手いだなんて、想像していなかったけれど。
明ちゃん。
賢い貴方なら、もう気付いているかもしれません。
そう。この世界は、『ゲーム』の中の世界じゃない。
そして本当のことを言うと、あのゲームそのものが、実はこの世界を元に作られたものなのです。
私達が知っている『Happiness』というゲームは、『光の巫女』の転生者によって作られたゲームなのです。
国王の妹であった『光の巫女』は、光属性と強化属性、二つの属性に適性のある女性でした。
もし、この世界の未来が見えて、その未来を覆したいと思っても、そのためにはこの世界では、『強化魔法』が必要となる。
運命を打ち破る力を持つ者に、強化の魔法は与えられる。
かつて『光の巫女』は、『神に祝福された子ども』を生かすために、自分の命の殆どを彼に与えた。
そして彼女は自分の命が終わるときに、時空の歪に自ら飛び込み、異世界《わたしたちのせかい》に自分の魂を運んだ。
『光の聖女』は気付いていた。
自分の命を代償に救ったベアトリーチェ――その少年と同じ『神に祝福された子ども』は、この世界に破滅を齎そうとしている。
そしてその『子ども』はこの世界を壊すために、『力の使えない救世主』を作り出そうとしている。
だから『光の巫女』は未来をかえるために、この世界を去ったのだということを、私は『光の巫女』に手紙を託された女性から聞きました。
いつかこの世界に招かれる『光の聖女』。
『光の巫女』は、自分の命を代償に、魔王をも倒す『剣神』をこの世界に誕生させることが、自分の役目だとも話していたということでした。
そしてその時に、『聖女』に倒される『魔王』の正体も、彼女は私に教えてくれました。
世界を滅ぼすための『魔王』の核は、私の心臓の石だと。
そして彼女はこうも言った。
私の心臓の石である魔王の核を壊すため、異世界に招かれるのは、『七瀬明』という少女だと『光の聖女』は予言したと。
同じ名前を持つ別の誰かかもしれない。
でも、私は確信している。魔王を倒すために尽力し、この手紙を読んでいるのは、きっと私の知る貴方だと。
明ちゃん。
昔貴方に私が語ったことを、今でも貴方は覚えてくれていますか。
幼い頃から私は、『魔法使い』になりたかった。
貴方はそんな私のことを、『子どもっぽくて馬鹿みたいだ』と言ったけれど、本当は貴方が誰よりも、魔法というものに焦がれていたことを、私は知っています。
だから私は、貴方がこの世界で過ごすことは、貴方にとって幸せな未来に繋がると信じています。
明ちゃん。
何も言わずに、貴方の前から去ってごめんなさい。
でも私たちは違う世界で、きっともう一度出会う。
いつか貴方は、この世界にやってくる。
世界を救う『光の聖女』として。
私は貴方を信じている。
貴方はきっと、この世界を救うことの出来る、光の聖女なのだと。
だから私は怖くない。
いつか『神に祝福された子ども』によって、私の魔法の核が奪われ、この身が朽ちてしまっても、私はこの世界を滅ぼす魔王にはならないことを、私は信じているから。
貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる。
もし私が生まれ変わって、魔法を使う器を失って、次の人生では魔法を使えなくなっていたとしても、私の魔法はきっと、貴方の心に生き続ける。
明ちゃん。
貴方はいつだって、窓の外を眺めていた。
空を飛ぶ鳥を羨ましいと、昔貴方は私に言った。
あの日私は、貴方の言葉を否定はしなかった。でも、今の貴方になら言える。
今を生きる貴方なら、きっとこの言葉に、頷いてくれると信じている。
幸福の青い鳥は、いつも貴方の心の中にある。
貴方が幸福を感じる心さえ持っていれば、黒い鳥だって、青くその色を変えるだろう。
貴方が変われば、世界は変わる。
私の大好きな明ちゃん。
貴方が幸せな人生を、これから歩んでいけるように願って、この葉を私から貴方に贈ります。
**********
クローバー。
ハートの形の一枚の押し花の栞が、本には挟まっていた。
四枚の葉。
私はその葉はきっと、四枚のうちの一枚の葉であるように思えた。
「そうか。……そうだったんだ」
これまでもずっと、精霊病を用いて『魔王の核』が作られていたとするなら、過去の『魔王』にも、『被害者』はいたはずだ。
そして記録の日付からして、おそらく彼女が『魔王の核』となった後、核に力を集めるために、ギルバートさんとレオンさんが休眠状態に入った、と考えることが適切だろう。
薄々予測はしていた。
だがそれが、魔王の核か、自分が知る人間のものだとは思っていなかった。
『彼女』は優しい人だった。
だからそんな彼女が魔王となって、世界を滅ぼすことを望むとは、私には思えなかった。
『貴方が私を壊すとき、私は貴方の魔法になる』
手紙に書かれた文字を指でなぞる。
たとえそれが残酷な真実だとしても、彼女が私を思っていてくれたことが、私は心から嬉しかった。
「ありがとうございます。……リヒト様」
ハートの葉っぱの欠片を抱いて、私は呟いた。
この図書館にかけられた魔法は、『光の王』がユーリさんのような人間のために作ったものだ。
この魔法がなければ、私はこの手紙には出会えなかった。
覚えている。
白い病室で、生きることを諦めていた私に、いつも笑みを浮かべてくれた人。
その人は、ある日私の前から姿を消した。
夏の、暑い日だった。
笑っていたその人は、川で溺れかけた子どもを助けて命を落とした。
子どもの命を救ったヒーローは、夏の水難事故での、救出の失敗例としてニュースに取り上げられていた。
まるで愚かな道化のように。
彼女の死は無駄だったと、利口な行いではなかったと、そう語る画面の向こう側の人々の言葉は、私には遠く霞んでよく聞こえなかった。
自宅での療養の際、散歩をしていて火事の現場に遭遇した。
中から子どもの声が聞こえた。
私は、すぐさま家の中へと急いだ。
どうせもうすぐ失われる命だから。
自分がもし死ぬとしても、私は子どもを助けたかった。
子どもを助けてからすぐに、私は身動きがとれなくなった。
――貴方は、生きて。
自分のことばかりで精一杯で、希望を抱くことも忘れていた私に、彼女は光を与えてくれた。
そんな人を失った先で、私は漸く自分の意志で行動出来たような気がした。
自分の人生を、自分で選べたような気がした。
『貴方こそ、光の聖女に相応しい』
燃えさかる炎の中で、ユーゴさんが私に手を差し伸べる。
私はきっと、物語のヒロインには向いていない。誰かに希望を与えるような、そんな人に私はなれない。
でも、『誰かを守りたい』というその思いが、私がこの世界の救世主《ヒロイン》に選ばれた理由なら、私は私の精一杯で、『光の聖女』でありたいと願った。
でもこの世界は偽物だとしか思えなかった私には、魔法を使うことは難しかった。そんな私に、ローズさんは言ってくれたのだ。
『私は、貴方を信じます』
ローズさんの言葉が、『彼女』の言葉と重なる。
『大丈夫。大丈夫……だから』
優しい嘘を知っている。震える手を知っている。
その時だった。私がローズさんのことを、『本当の人間』だと思えたのは。
だから私は、ローズさんのためにこの世界で生きたいと思った。
そうしてローズさんが愛するこの世界を、私も愛したいと思った。
『貴方を悪役になんてさせません。貴方も私にとって、大切な人です。私は貴方一人に、全てを背負わせたりなんてしない』
ローズさんのために小説を書いた。
レオンさんが先に広めた『正史』を書き換えるために小説を書きなおす中で、沢山の人に協力してもらって、私は漸く、自分の居場所を見つけたような気がした。
今のこの世界には、私のことをちゃんと見てくれる人がいる。
私はもうこの世界で、独りなんかじゃない。
『ごめんね。こんな体に産んでしまってごめんね』
元の世界で、お母さんはいつもそんなことを言っては泣いていた。
私はその言葉を聞く度に、自分なんて生まれなきゃ良かったのにと思っていた。
両親を悲しませる、苦しませる自分なら、最初から生まれなければ良かったのだと、そう思っていた。
そしてその思いは、両親も同じなのだと思っていた。
今ならわかる。
両親が本当に願っていたのは、私が幸せであることだった。私の幸せを願っていたから、愛していてくれたから。でもどうしようも出来なかったから、二人はいつも泣いていたのだ。
だったらこの世界で私らしく生きることこそが、きっと二度と会えない両親への、恩返しになるように今の私には思えた。
「私を、産んでくれてありがとう」
手紙を抱いて、私は一人呟く。
そして私は、二人に手紙を書くことを決めた。
『向こう』と『こちら』を繋ぐ世界の歪み。それを使って人生で一度だけなら、私は元の世界に、手紙を出すことを許されていた。
それはあの日、リヒト様の力を取り戻すために魔法を使わなければ、本来元の世界にもどれた私が、最後に許されたことだった。
あの日の決断を、私は後悔なんてしていない。
感謝や愛。たとえもう二度と直接伝えることは出来なくても、私はこの世界で、前を向いて生きていくことを決めたのだ。
「お父さん。お母さん。――私は今、幸せです」
だから、もう。
――青い鳥は探さない。
☆★☆
図書館から帰る際、私はローズさんにお迎えを頼んでいた。
今日は、ローズさんと一緒にお茶をする日なのだ。
本《てがみ》は司書さんに伝えた上で、持ち帰らせてもらえることになった。
「アカリ。何かいいことでもあったのですか?」
「わかります? 実は……ずっと悩んでいた、最後の本の後書きについて、やっと今日決まったんです」
『ローズさんの光の聖女になりたい』
そう思っていた頃の自分とは違う。
本を書く中で、私はこの世界を生きている人たちそれぞれに、人生があることを知ることを知った。
だからだろうか。
突拍子もない行動をしたローズさんだけが『本物』だった私の世界に、今は確かに、たくさんの『友人』たちがいるようにも私は思えた。
今の私なら、ローズさんのためだけじゃない。この世界を愛して、この世界のために、『加護』の魔法を使えるような気がした。
ローズさんは、私が差し出したあとがき予定の言葉のメモを見ると、いつもの調子で言った。
「アカリのこの言葉、私はとても好きです」
「ローズさんにそう言ってもらえると嬉しいです!」
ローズさんの言葉が嬉しくて、思わず元気よくそう言うと、ローズさんは私の顔を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
最近のローズさんは気のせいかもしれないけれど――自分にも他人にも厳しいなと思うところは相変わらずあるけれど、どこか大人の余裕というか、そんなものを時折感じさせる。
それはもしかしたら、本当に大切な人と結ばれて幸せだからこそ、うまれる余裕なのかもしれない。
そのおかげというか、そのせいというか――ローズさんは昔よりもっと、周りの人から好かれているらしい。
おかげでリヒト様は「心労が絶えない」と愚痴を吐いていた。正直、ちょっとだけ、「せいぜい苦しめばいいんだ」と思ったのは秘密だ。
リヒト様には感謝しているし悪い人じゃないのはわかっているけれど、やっぱり悔しいなと思うことはある。
ただこれは、ローズさんを好きな人誰もがそうなのかもしれないとも思う。
そういえば以前、私がローズさんとリヒト様を見て少し落ち込んでいたら、精霊たちから『ローズさんと一緒に精霊の森で暮せばいい』と提案されたことがある。
『精霊の森』は人間は不可侵で、普通の人間には見つけることも入ることもできないから、そこに行けば、ローズさんは私に頼るしかなくなるらしい。
私は、その申し出を断った。
ローズさんと二人だけの世界。その響きに、魅力を感じなかったかといえば嘘になる。
でも私はやっぱり、大好きな人が幸せでいることが、笑っている姿を見ることが、幸せだと思うから。
ローズさんの笑顔を奪うようなことを、私はしたくなかった。
うまくはいえないけれど、ローズさんに対する私の気持ちは、憧れなんだと思う。
そして同時に、二度と会えない、私に魔法を与えてくれた『彼女』と、私はローズさんを重ねていたのかもしれなかった。
自分勝手なその人と、ローズさんの性格は全然似ていないけれど――私を信じ、私の気持ちを考えて行動してくれたところは、二人はよく似ているように思えた。
だから私は、そんなローズさんから、自由を奪いたくはなかった。
たとえ私とは違う誰かの側で、幸せそうに笑う姿を見るたびに微かに胸は痛んでも、彼女らしさを奪って自分のものにすることが、私は愛だとは思えない。
それはきっと彼女を想う沢山の人が、心に抱いている感情だとも、今の私は思った。
リヒト様の魔法の研究成果は、彼が魔力を取り戻したこともあり、徐々にだが認められつつある。
それはかつてローズさんが私に言ったように、「魔力の高さが重視される世界」だからということもあるだろう。
けれどリヒト様の魔法の研究の根本は、私が現代で当たり前に使っていた「便利な道具」で生活を楽にして、社会そのものの仕組みを変えることにある。
余分な時間が出来ることは、人々に新しい選択の自由を与える。
この世界の価値は、これから大きく変わるだろう。
その時、この世界の王侯貴族がになうべき責任の重さは、これまでとは変わるかもしれない。
そしてその影響で、本来の『魔法』を使える人は減る可能性があるとも、ローズさんたちは話していた。
王侯貴族のみが扱える『魔法』から、全ての人が『魔法道具』を扱える世界へ。
そう変わったときの世界がどうなるのかは、今の私たちにはまだ分からない。
けれどそれは、私が生きていた元の世界――誰もが機械を扱える今の世界と、少し似ているのかもしれなかった。
何かを成し得たいと思う。
例えば、海の向こうに大きな世界があると信じて行動する。
教科書で習う歴史上の偉人の偉業、沢山の人が命を落としてしまった海。
渡海を諦めて一生を終えた人がいたという話が残る中、私が生きていた時代では、飛行機を使えば簡単に海を渡ることが出来た。
技術が進化することで、私達が何かを成し得るための労力は、もしかしたら昔よりずっと少なくて済むのかもしれない。
でもだからこそ、誰もが『出来ることが当たり前』だと言われることは、時代が下るうちに増えてしまうのかもしれないと私は思った。
ただ結局、生まれる時代を選ぶことはできないただの人間である私達に出来ることは、その時代に合わせて、精一杯生きることだけなのだ。
そういえばリヒト様に、私はこんな話を聞いた。
この世界の仕組みは、長い目で見ればこれまでも、『書き換えられた』ことがあるらしい。
魔法という力がこの世界に生まれる前、人々は、神様や伝説の生き物と共存していた時代があったらしい。
そしてその時代、クリスタロス王国は国の規模こそ小さいが、武力だけなら世界一を誇っていたともいう。
そしてクリスタロスで精霊晶が多く出土するのは、かつてこの国が、戦火の中心になったせいかもしれないとのことだった。
でもそれは、『光の王』やユーゴさんたちが生きていたよりももっともっと昔の話で、その当時のクリスタロス王国の隆盛は、今は語られることはない。
でもせっかくだし、いつか遠い時代のこの国の話は、一度調べてみようと思う。
それがどんな歴史であったとしても、私が愛するこの世界のことを、もっと知りたいと思うから。
そしていつかその話を、また本にまとめてみるのも面白いかもしれない。
私はそう考えて、晴れやかな気持ちで空を見上げた。
見上げればどこまでも青い空が、私たちの頭上には広がっていた。
これは、『Happiness《こうふく》』から始まる物語。
この世界は、『ゲーム』じゃない。
それでも選択肢はいつだって、人の心の中にある。
だから私は祈りを捧げる。
この思いが、いつか誰かの幸福に繋がることを願って。
この言葉は私が捧げる、光の魔法《いのり》。
私がこの世界で生きていくときめた、そんな私の想いの証。
私は生きる。
この世界で、この世界にただ一人の『光の聖女』として。
だから私は、今はこの言葉を、書き残したいと思うのだ。
【貴方の心に魔法をかけたい。
この物語を最後まで読んでくれた貴方に、私は『加護』を与えたい。
この世界に生きる誰もが、自分の物語の主人公だから。
どうか後悔のない物語を、貴方が歩めるように。
この国を、この世界を生きる全ての人に
どうか、光の祝福を。】