『鹿島さん』に男のパーツは付いていなかった。この手掛かりに涼佑はどういうことだと頭を捻る。真奈美の話では、『鹿島さん』は夢の中で殺した人のパーツを奪う筈だ。今回の『鹿島さん』はその話と何かが違うのか、それとも真奈美の話が間違っていたのか。どっちだと考えている彼に、傍らに現れた巫女さんが助言する。
「奴が何故、女のパーツしか付けていなかったのかは知らんが、もう少し真奈美に突っ込んだ話は聞けないか?」
「突っ込んだ話……。なぁ、真奈美」
直樹と絢の間から逃れた真奈美がわざわざ涼佑の近くまで来てくれる。相変わらずの無表情だが、彼女はこういうところが気が利いている。
「なに? 涼佑くん」
「……真奈美自身はどう思う? 今回の『鹿島さん』について」
涼佑にそう問われ、真奈美は少しの間何事か思案していたが、やがて考え考え口を開く。
「多分……だけど、元々『鹿島さん』は女性、だから、だと思う」
「ん? 『女性だから』?」
「うん。もし、涼佑くんが片腕を失って――」
突然の物騒な喩えに、涼佑は頬をひくつかせる。
「いきなり、嫌な喩えだな」
「もし、だよ? それで、新しくくっつけるとしたら、流石に異性の腕は選ばないでしょ?」
「ああ、確かに」
「そういう感覚か」と彼は納得する。もし、自分の身に『鹿島さん』と同じようなことが起こり、代わりのものを付けるなら、なるべく同性のものを付けたいと考えるのが自然だと涼佑は至る。話自体は物騒極まりないが、その辺りの思考回路はたとえ死者と謂えど、生者と同じらしい。それに、と彼女は付け足した。
「あの『鹿島さん』、私の首を引き抜こうとしてたと思う」
真奈美の話に皆、何も言えなかった。重い沈黙が流れ、何か言おうと口を開いては止める、ということを何人かがする。彼女の話を聞いて渋い顔をしつつ、口を開いたのは直樹だった。彼は表情では非常に言いにくそうにしながらも、自信なさげに低く挙手する。彼が話したいことがあると察した一同は、彼に注目する。
「あのさ、今の話だと、その『鹿島さん』も、おれらと考えることは同じな訳じゃん?」
「? うん」
「それって、さ……真奈美のところにもう一回来る、とかない?」
直樹の言いたいことが今いちよく分からなかった一同は、互いに顔を見合わせ、不思議そうに小首を傾げたり、困惑したように眉を八の字にしたりする。どういうことかと絢が問うと、直樹は表情を変えずに恐る恐ると言い出した。
「いや、だって、幽霊とかその……妖怪? もおれらと同じように考えるってことはさ、『鹿島さん』から見て真奈美って、所謂取り逃がした獲物ってことだろ? そういうのってもう一度襲って来る可能性は無いって言い切れないじゃん? いや、おれだったら、絶対もう一度来る! 真奈美の話じゃ、首を引き抜こうとしたんだろ? つまり、真奈美の顔が欲しいって思ったから来たとしか考えられないって!」
少し青ざめた顔で自分の恐ろしい仮説を提示する直樹に、巫女さんは「しめた」と勝ち気な笑みを浮かべた。
「それだ」
「それ?」
彼女の方へ向く涼佑に、巫女さんは直樹の話からある結論に至ったことを教え、彼を介して一同に伝えられる。
「巫女さんが言うには、それがもし本当なら、真奈美の家で待ち伏せるのが良いと思うって。巫女さんが戦った感じ、あの『鹿島さん』はパーツに凄く執着してたみたいなんだ。恐らく、一度真奈美を狙ったから、その……」
涼佑も直樹と同様、かなり言いにくそうな様子だったが、その意図を汲んだ真奈美は了承したという意味で深く頷き、ある提案をする。
「じゃあ、今日はもう遅いから、明日の放課後、また私の家で待ち伏せた方が良いと思う」
「うん、そうしよう。……それまで真奈美には耐えてもらわなくちゃいけなくなるけど、大丈夫そうか?」
望がまだ霊だった頃、彼女に付き纏われていた涼佑からその言葉が出る。自分にしか見えない、認知できない存在に狙われる恐怖と不安は重々承知しているからこそ、彼は真奈美を心配した。彼女も彼の言葉の真意を分かっているらしく、少々不安そうだが、「うん」と頷く。
「私に相談してきた時の涼佑君、覚えてるよ。でも、ここで私が逃げ回ったら、皆に迷惑を掛けると思う。だから、逃げない。大丈夫」
「それに、対処法は知ってるから」と言い添える真奈美は常の無表情だったが、その瞳の奥には確かな覚悟が見てとれる。それを涼佑も感じ取り、「分かった」と彼女と同じように頷いた。が、二人のやり取りだけで納得しない者達がいた。直樹と絢だ。
「なぁにが『大丈夫』『分かった』だよぉっ! こちとら全っ然大丈夫じゃないんですけどぉっ!?」
「そうだよ、真奈美! あんた元々そうだけど、思い切り良すぎ! ちょっとはあたしらの気持ちも考えてよね!」
「万が一のことがあったら、どうするつもりだ!」と騒ぐ二人とうんうんと頷く友香里に、ぼんやりしている二人は「ああ」と思い出したように言う。
「大丈夫。巫女さんが守ってくれるから」
「大丈夫。しっかり守られるから」
「対策! もっと具体的な対策考えた方が良いって!」
「待ち伏せ以前に防ぐ方法を考えなさいよ! こぉのぼんやり二人組が!」
絢の「ぼんやり二人組」発言に涼佑と真奈美は意外そうに瞠目し、互いに顔を見合わせる。そして、直樹と絢にとっては信じられない発言をしたのだった。
「ぼんやりしてたか? オレ達」
「さぁ……?」
まるで覚えが無いと表情で主張する二人に、保護者三人組は「信じられない」とでも言いたげに瞠目し、盛大に深い溜息を吐いたのであった。
取り敢えず、今はもう夕方から夜になろうとしていることもあり、後の話はスマホを通してしようと、一同は解散した。直樹と絢は真奈美に「絶対一人になるな」と口を酸っぱくして言い含め、分かっているのかいないのか、真奈美は二人の話にうんうんと頷くばかり。その姿に直樹、絢、友香里は最後まで心配そうにしていたが、泊まる訳にもいかず、皆それぞれの自宅へ帰って行った。
その夜、真奈美は寝る前に小皿に塩を盛っていた。以前、除霊らしいことをした時の余りだが、まだ部屋の四隅に置くぐらいの量は残っている。素人が無闇に呪術めいたことをするのは危険だと分かってはいるが、しないよりはマシだろうと彼女は四枚の小皿に盛り塩をして自室の四隅に置いた。盛り塩が終わり、スマホを見るともう夜の十一時を回っている。流石にもう寝なくてはと思い、部屋の電気を消した時だった。
どんっ、とベランダへ続く窓に何かがぶつかる鈍い音がした。真奈美がそちらへ視線を移す。窓にはカーテンが掛かっていて、外は見えない。一瞬、気のせいかと思った彼女だったが、図ったようにまたどんっ、と音がする。音からして明らかにベランダからこちらへ向かってぶつかっているのだ。来た、と彼女は思った。否、『鹿島さん』が彼女を取り逃がしたのだから、来るとは分かっていたが、まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。
恐る恐る真奈美は窓に近付く。怖い物見たさという気持ちもあるにはあるが、それよりも何か『鹿島さん』を倒す手掛かりが掴めないかと思った。震える手でカーテンを掴む。その間にも音は続き、彼女がカーテンに手を掛ける頃には、どんどんどんっ、と断続的に音は続いている。今にも窓を割らんばかりの勢いだ。恐怖と緊張で震える手を押さえ、乾いた唇を舐めつつ、真奈美は心中で数を数え、思いきってカーテンを引っ張り開けた。
カーテンが開けられると同時に窓ガラスにどんっ、とまた何かがぶつかった。正体を確かめておこうと真奈美はじっと窓の向こうを凝視する。流石に窓を開けるようなことはしないと心に誓っている彼女だが、興味は大いにある。
何かがぶつかった後にはほんの少しだが、血の跡のような物が付着している。それにぞっと背筋を凍らせながらも、真奈美は夜闇の向こうまで見通そうと窓に近付いた。外からは月光が差し込み、反射しているせいで窓ガラスには真奈美の顔が映っており、その向こうはよく見えない。部屋の電気を消した方がまだもう少し見えるかもしれないと、彼女は咄嗟に部屋の電気を消す。月の光だけが差し込む薄闇の中、窓を見つめる彼女の目の前にどんっ、と白い塊がぶつかって来た。べちゃり、と窓ガラスに大きな範囲で血が付く。
それはやはり、真奈美の思っていた通りの姿でベランダに転がっていた。四肢も首も無い、真っ赤な切断面や青白い体をまるで八つ当たりのようにぶつけてくる。その様と間近で大きな打音が鳴ったことにより「わっ」とあまり驚いていない声を上げ、真奈美は思わず身を引いた。咄嗟にスマホで写真を撮り、しげしげと眺める。そこで彼女はあることに気が付いた。
「あれ? 手と足、付いてない……」
そうなのだ。夕方に遭遇した時とは打って変わって、今、彼女の部屋に来ている『鹿島さん』にはあの歪な右腕と左足が付いていない。何故だろうと考えてみるも、流石に彼女でも分からない。この現象は彼女の知識上ではなく、何だか『鹿島さん』の感情が元になっているような気がした。
「何か意味を考えるとしたら、『警告』、かなぁ」
「必ずお前の首を取りに行くぞ」今までの『鹿島さん』に関する噂話から鑑みると、真奈美にはそういった警告とも取れるのだ。証拠としてもう一枚写真を撮り、自分が思ったことと感じたことをスマホのメモ帳に打ち込んでから、真奈美はカーテンを閉め、盛り塩の状態を確認する。盛った時と変わりなく、真っ白なとんがり帽子のままだ。ベランダの窓では未だにどんどんと『鹿島さん』がぶつかって来ているが、気にしなければ大丈夫そうだと思った真奈美は、そのまま部屋の電気を消してから寝ることにした。窓にぶつかる音だけが煩いが、スマホに繋いだイヤフォンを耳に付けて安眠用の動画を流せばあまり気にならない。ガタンガタンと耳元に届く夜行列車の走行音に聞き入っているうちに、いつの間にか真奈美は眠っていた。
翌日、いつもより早く起きた真奈美は、制服に着替える前に早速部屋の四隅に置いておいた盛り塩の様子を見てみる。素人が作った即席の結界だが、一晩は保ったらしい。昨日の夜と変わらないとんがり帽子が小皿の上にちょこんと載っていた。あまり続けてもただのちょうはつになると思い、真奈美は家族が起きてこないうちに塩と小皿を洗い、自室へ戻った。
いつものように制服に着替え、通学鞄の中に今日の分の教材と筆記用具、宿題を入れて放課後の作戦への気合いを入れる為、お気に入りの靴下を出してくる。ギリギリ校則に引っかからない程度に猫のワンポイント刺繍がしてある紺色のハイソックスだ。まだ一年生だった頃、絢と友香里の三人でお揃いで買ったものだ。真奈美はサバトラ、絢はハチワレ、友香里は三毛猫の刺繍が入っている物を選んだのだ。真奈美達の通う八野坂第一高校は、あまり目立たない刺繍なら、お目こぼしを頂ける良い意味で緩い学校だから他の女子達も助かっている面がある。サバトラハイソックスを履き、階下へ下りて鞄を自分の席に置いた真奈美はそのまま洗面所へ向かう。歯磨きと身だしなみを整える為だ。
歯磨きと洗顔を済ませ、一通りのスキンケアをした後はブラシで長い髪を梳いて、少し邪魔な前髪を青い蝶々ピンで留める。最近、もちもちな肌触りになってきたので、それを確かめるように真奈美は自分の頬を両手でもちもちと揉んだり持ち上げたりして感触を楽しんだ。これが案外と楽しい。そうして、いくらかもちもちして満足した彼女は、何食わぬ顔でリビングへ戻った。
リビングに戻ると既に朝食が出来ており、真奈美はいつもながら早業だなと感心する。台所では起きてきたばかりの母の姿があり、ボサボサの髪をそのままにパジャマ姿でコーヒーを飲んでいた。
「おはよ、真奈美」
「おはよう、お母さん。ご飯、ありがと」
「ん。ちゃまオレ飲む?」
「飲みたい」
青谷家では真奈美用に砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを母が茶化して「ちゃまオレ」と呼ぶ。彼女曰く「こんなんカフェオレじゃなくて、ちゃまオレだわ」と言える程、コーヒーというものが入っていない。未成年にあまりコーヒーを飲ませる訳にはいかないという理由もあるにはあるが、真奈美が苦いものが苦手ということもある。母からちゃまオレを受け取り、真奈美は自分の席に用意されている朝食に手を付ける。
彼女は朝はあまり食べられないので、トーストとハムエッグにちゃまオレくらいしか食べない。絢は毎朝ご飯に味噌汁にほうれん草のおひたしや焼き鮭等のおかずを三品食べてくるというから、それに比べたら少ない方だろう。以前、「毎朝お母さん、大変じゃない?」と訊いたら、「うん。だから、自分で食べる分は自分で作ってる」と返ってきた時は素直に「偉いなぁ」と感心した真奈美だった。彼女は料理は好きだが、まだ絢のように自分で毎朝作るというところまでには達していない。どうしても、朝は頭も手足も鈍くて上手く動かせる自信が無いのだ。せいぜい朝の自分にできることといえば、皿洗いくらいなので、真奈美は食べ終わるといそいそと流しに食器を持って行って洗いに掛かった。
「続いて、次のニュースです」
テレビから朝のニュース番組の声が聞こえてくる。一瞬聞こえた『八野坂町』という単語に、真奈美は反射的にテレビへ視線を投げる。丁度、八野坂町で起きた殺人事件のニュースを女性キャスターが読み上げており、その現場を見て彼女は思わず、声を上げた。
「四件目だ……」
「え? なに?」
「な、何でも無いっ……」
母に独り言を拾われかけた真奈美は、咄嗟に首を振って否定する。親にはなるべく心配を掛けたくないと思った為だ。母には少々不審そうな目を向けられたが、何とか誤魔化せたと彼女は内心で安堵する。
テレビでは左腕を失った女性が救急搬送されたという内容が放送されていた。
その日の昼休み、晴れているのでまた中庭で昼食を摂っていた一同は、皆真奈美のスマホに入っている証拠写真に感心の声を上げる。直樹なんかは窓に付いた血の跡に顔を青くしていたが、今更そんなことに構う者はこの場にはいない。真奈美は昨日の夜に見たものを説明し、自分の考えもまとめて皆に話すと、巫女さんは納得したようだった。
「『警告』か……あるいは『予告』か」
「予告?」
訊き返す涼佑に巫女さんは丁寧に説明する。
「昨日の夕方、こいつは真奈美の首を取り逃がしたからな。「必ず取りに行くぞ」という『警告』にも見えるし、「近いうちに取りに行く」という『予告』にも見える。何にせよ、かなりの執着心を向けていることは事実だな」
「嫌なこと言うなよ、巫女さん」
「可能性の話をしてるだけだろ、私は」
「っていうか、また起こったよな。殺人事件」
直樹がおにぎりを頬張りつつ、スマホ画面を片手でフリックしながら言う。残念ながら朝のニュースを見ていなかった涼佑は、不思議そうに訊き返す。そんな彼に「ほら、これ。今朝のニュースでやってたっぽい」と直樹が全員に見えるようにスマホ画面を見せた。
そこには朝のニュースと同じ内容で、やはり女性が左腕を失い、救急搬送されたというものだった。そのニュースの一部を直樹が朗読する。
「被害者は二十代の女性で、夜道を歩いていたところを何者かに切りつけられた模様。搬送された時点で女性の左腕が行方不明になってしまっている……だってよ。こわ」
「行方不明?」
おそらくは『鹿島さん』の仕業だろうとは思うが、涼佑はこういった話を聞く度、少し疑問に思っていたことがある。霊は基本的に生きた人間に直接触れることはできない。なのに、こういった体の一部を奪われるという話の場合、殆ど霊から直接危害を加えられるというケースは定番だ、と思える。確証を得るため、彼は真奈美にこういった話の定石というものを訊いてみることにした。
「――なぁ、真奈美。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「うん、いいよ。なに? 涼佑君」
「こういったパターンの話って、夢とかを通して霊が直接人間に害を与えるって感じだけど、そういう傾向って、その……定番の話なのか?」
涼佑の問いに彼女は少々訝しげな顔をしたが、特に追求することも無く、「うん、大抵はそういうケースが多いかな」と概ね肯定する。定番だと分かると、続けて彼は質問する。
「そっか。じゃあさ、今回みたいに夢を使って現実の人間に害を与えるって、本当に可能なのかな?」
「どういうこと?」
「いや、よく考えたら、ちょっとおかしな話だなって思って。だって、『鹿島さん』って実体が無い霊だろ? 実体が無いんだったら、基本的に実体を持ってる人間に直接危害を与えることはできない筈じゃんか。それがどうして……」
「……『鹿島さん』にだけできるの? ってこと?」
「うん。力のある霊って、そんなこともできるのか。ちょっとオレにはよく分からないんだけど」
涼佑がそこまで言うと、彼と真奈美の会話に巫女さんが割って入ってきたので、涼佑は巫女さんがいるであろう虚空へ意識を向けた。
「そもそもだな、涼佑。お前の言う力のある霊ってのは、どういうもんだ?」
「え? その……怨霊、とか? ほら、有名な怨霊っているじゃん。崇徳天皇の怨霊とか」
「そこと比べられたら、大抵の霊は力の無い奴扱いになるが、まぁいい。要するに長い時間を掛けて霊が恨み辛み、妬みなど負の感情を募らせて成った霊のことだな? 確かに怨霊となれば、実体を持った人間に直接的な害を与えることはできる。だが、『鹿島さん』とやらは怨霊かと訊かれれば、違う。怨霊にしては姿が一定じゃない。姿が一定ではないが、実体に害を与えられる今回の怪異は都市伝説と呼ばれるものだからだ」
「都市伝説って口裂け女とかああいうの?」
涼佑の問いに巫女さんは肯定の意味で頷く。それを真奈美達に涼佑が伝えると、皆「へぇ」と興味深そうな声を上げた。皆が落ち着くのを見計らってから巫女さんは説明を続ける。
「都市伝説とは、普通の霊や妖怪と違って、存在自体が不確かなものだ。人から人へ口を通して伝わった、所謂『噂』によって生かされているとも言える存在だな。そこに個人の魂と呼べるものは無く、不特定多数の人間の『思い』が形になったものだ」
「ああ、だから何が何だか分からない文章が多かったのか」
「何が何だか分からない文章?」
今度は巫女さんの方が訊きたそうに返す。彼女と皆に説明するためにも、涼佑は巫女さんが『鹿島さん』と戦っていた時を思い返した。
巫女さんと交代し、まず最初に目覚めた涼佑の前にあったのは、ネオンの空間とガラス張りのドアだった。周りに時折文字のようなものが浮かぶが、その全てが文字化けしていて、文章として読めないものばかり。辛うじて読めそうな文章はドアに掛かっているプレートに刻まれているものだけだ。近付いて見てみると、そこには『わ上は縺励?鮖ソ蟲カ縺さん』とだけ書いてある。
不思議に思い、声に出して読めるところだけ読んでみると、ドアは独りでに開いたのだという。おっかなびっくり中に入ると、また同じような空間とドア。ドアプレートには『驛ス蟶でシ晁ェャ縺ョせつのカ縺輔sよ』と書いてある。それも音読すると、またドアが開く。
次の空間も同じようなもので、またドアプレートを見ると『繧す☆繧後↑縺?で』と書いてある。その一文を読もうとしたところで巫女さんと『鹿島さん』の戦いが終わり、涼佑は無理矢理追い出されてしまったのだという。
そこまで言うと、傍らにいる巫女さんがこれでもかと眉間に皺を寄せ、涼佑にメンチを切ってきた。
「お前、なんでそういうことを早く言わないんだよ」
「ご、ごめん。あの時は言うタイミングが掴めなくて……」
「まあいい。今更言っても仕方ないからな。……このぼんやり涼佑」
「ごめんって」
涼佑の見た空間というのは巫女さんには未だ謎な部分が多いながらも、殆どの文字が読めなかったのは、不特定多数の人間の『思い』が入り交じっているせいだろうとのことだ。
「人の『思い』は複数が入り交じると、もう特定の形を成すことはできない。だから、実際に怪異そのものを見た者達の意見が違うなんてことはザラにある。都市伝説ってのはそういうもんだ。ま、怪異を見る側の無意識的なイメージも入ってくるから、一概には言えないが。――しかし、お前の見る空間とかドアってのは、本当に一体何なんだろうな」
「さあ? オレにも分からないけど、巫女さんの役には立ってる?」
「ああ、まぁな」
「なら、良いけど」
思ったより呑気な涼佑の態度に、巫女さんは納得し切れないような渋い顔をする。その顔から「いや、良いのか? それで」とありありと読み取れる。しかし、涼佑達だけでは彼の見る光景が何なのか、具体的なことは何も分からないので、ここで自分が食い下がっても仕方ないと巫女さんは『鹿島さん』事件の方へ意識を向ける。
「取り敢えず、今それは置いといて目下は『鹿島さん』にもう一度接触することだ。真奈美の家で待ち伏せる以外はやれることは無い」
「そっか。じゃあ、次『鹿島さん』に会ったら、オレもなるべく早く核に行けるよう頑張るよ」
「そうしてくれ」
「捜査の進捗はどう? 進んでる?」
そう言いながら近付いてきたのは、やはり夏神だった。一見笑顔だが、直樹を見る目は笑っていない。わざわざこちらに近付いてきて遠回しに嫌味を言ってくるとは思っていなかった一同は、少し意外に思った。しかし、それとこれとは別だと思ったのか、直樹も臨戦態勢に入って言い返した。
「おう。お前には関係無ぇだろ。それにこの件に関してはおれらの方が一歩リードしてるしな」
「へぇ? やるじゃないか。遭ったのかい? 『鹿島さん』に」
「教えてやんねー。でも、こっちには巫女さんがいるし、次遭えば、確実に退治してくれるだろーから、おれの勝ちだな!」
「馬鹿野郎」と言いたくなった一同だったが、もう遅い。今まで巫女さんの存在は部外者には何となく伏せてきたのに、ここで暴露するとは思っていなかった涼佑達は、内心で焦り始める。そんな中、涼佑は夏神が密かに浮かべた表情に少し背筋が寒くなった。
「そうなんだ。巫女さんが、ねぇ」
一瞬だけいつもの彼とは違う、何を考えているのか分からない全くの無表情を浮かべた彼に、涼佑は言いようのない寒気を感じずにはいられなかった。何か決定的な間違いを犯したような気になって、心臓が跳ねたような気がしたが、他の面々は気付いていないようだ。それからの時間は、何となく夏神が彼には見えない筈の巫女さんを見ているような気がして、どうにも涼佑は落ち着かなかった。
それからというもの、涼佑は夏神からの視線に晒されているような気がしてならなかった。実際は恐らくそんなことは無いのだろうが、弁当を食べている間にも彼からの視線が気になってそちらを向くと、こちらを見ているなんてことは無いので、本当に気のせいなのだろうがと思うも、どうにも気になって仕方なかった。
そうして極力気にしないようにして、何とか昼休みを終えようとしたところで去り際、夏神が座っている涼佑のすぐ傍まで来て、何事か呟いた。が、声が小さすぎて何を言っているのかまでは分からない。しかし、その時の表情でおおよそ何を言っているのか、涼佑には察しが付いていた。去り際の彼は今まで見たことの無い冷酷な表情を浮かべていたからだ。
「まずいこと、したかもしれない」
「そうだな」
昼休み後の授業の合間、一人でトイレに来た涼佑は洗面所で手を洗いながら傍らの巫女さんに話しかける。彼女は基本的に涼佑にしか見えないので、一人でいる時はなるべく周りに違和感を与えるような行動をしないよう心がけている。今も蛇口から水を出している間に小声で話し合っているので、不審には思われないだろう。
「巫女さんはさっきの夏神が言ってたこと、聞き取れたか?」
「いや、元々私は人間に憑いていなければ、現世のことは一切分からない。私には自分の体が無い分、現世での感覚はお前の方が勝っているんだよ。だから、お前が分からなければ、私にも分からない」
「そうか……」
夏神のことも気になるが、そこで涼佑ははた、と思い出した。そもそも何故、巫女さんが『鹿島さん』を追っているのか、興味を持ったのか、まだ訊いていなかった。もうこの時を逃したら、きっと訊ける時間は無いなと思った涼佑は、さっさと訊いてしまおうと口を開いた。
「そういえば、巫女さんはなんで最初に『鹿島さん』の話を聞いた時、『丁度良い』って言ったんだ?」
「ああ、あれは私の霊力を高めるのに良い材料になると思ったからだよ」
「霊力?」
何故、そんなものを高めるのかと続けて訊くと、巫女さんは何でもないことのように簡潔に答える。
「何の為って、神を殺す為だ」
「――え? どういうこと?」
そこからの巫女さんの説明は、現代社会では考えられない程とても現実味の無い、荒唐無稽なものだった。
元々彼女が霊となったのは、ひとえに彼女の復讐の為なのだという。相手は神。どこの何という神なのかは、残念ながら永く彷徨っているうちに彼女の記憶からすっかり抜けてしまったのだという。何故、復讐するのかという理由すらも。しかし、神殺しをするには生身の体を捨てざるを得ず、若い身空で肉体を手放さなければならなかったということだけは覚えているらしい。
「それで気が付いたら、この体って訳だな。刀とかもいつの間にか持ってたし」
「出所不明ってこと!? その刀。本当に使ってて大丈夫なのか?」
「悪いものは感じないし、むしろ魔を滅するやる気しか感じないから『ま、いいか』って」
「はぁ……そうなのか」
随分とアバウトな巫女さんに、涼佑はそれしか言えなかった。呆れている彼を「そんなことより」と置いて、巫女さんは夏神の方へ涼佑の意識を向けさせる。
「どうするんだ? 夏神の奴、私がお前に憑いてるって勘付いてるだろ」
「そうなん、だけど……。でも、オレ達もあんま言う必要も無いと思ってたから言わなかったってだけで、別にオレに巫女さんが憑いてるからって、夏神に関係あるのか?」
「私に訊くなよ。そんなの夏神以外分かる筈も無い。――可能性があるとすれば、私に対する『恨み』か、『興味』くらいか」
『恨み』という単語に涼佑は心底驚いた。確かに巫女さんは少々乱暴なところはあるが、基本的には人間の味方で、現に自分を守ってくれている。そんな彼女がどうして他人から恨まれるのか、彼には全く分からなかった。
「『恨み』って、なんで? だって、巫女さんは人間を守ってくれる存在だろ?」
「……涼佑、たとえばだ。夏神が恨みを持っている相手を私が守っていた場合、私が恨みを買わないなんてことは有り得るか?」
あまりの言い草に一瞬、頭に血が上った涼佑が抗議しようと口を開くが、それを遮るようにして巫女さんが「たとえばの話だ」と念を押す。彼女曰く「絶対に無いなんてことは言えない」ということだ。現に、涼佑は望の恨みを極めて理不尽な理由で買ってしまっている。呪いを受けた身を思うと、「確かに」と彼も否定し切れない。人はどんな理由であれ、人を呪う。
「その時は……戦うしか、無い、の、かな……?」
「分からない。夏神がどう出るかで結果は変わってくる。私の刀は生者を斬る為の物じゃない。生者に仇成す死者を滅し、あの世からもこの世からも一切存在を消滅させる為の道具だ。そんな物を生者に使えば――」
その後はわざわざ言わずとも分かるだろうと言いたげに、巫女さんは深く嘆息する。
彼女の言わんとしているところは、涼佑にも何となく分かる。彼女の刀は霊達の世界でしか使われない物だ。魂を直接焼き、消滅させる物。そんな物を生者に使えば、魂の無い肉体が出来上がるだけだ。人格も精神も焼き尽くし、二度と元に戻らない廃人同然の人間が一人在るだけとなる。そんな光景を思い浮かべて、涼佑はぶるりと怖気に震えた。
「な、何とか……何とかしてみる。そうなる前にオレが何とか――」
「どうする気だ? まだ夏神が本当に私に恨みを持っているのか、確証は無いぞ。下手に突けば、それこそ衝突する原因になる。止めておけ。まだどうなるか、分からないんだ。逆に言うと、まだ判断する時間はある」
「そう、だよな……」
急ぐ必要は無い。そう諭されて、涼佑は静かに頷いた。丁度次の授業開始のチャイムが鳴り、涼佑は慌てて蛇口を閉めて男子トイレから出た。
鏡に映る男子トイレの壁。掃除用具が入っている個室が見える。その前、先程まで涼佑が立っていた場所に、ふ、と白い靄のようなものが立ち、まるでドアを開けて出て行くように出入り口のドアへ吸い込まれて消えた。
放課後、いつものように鞄へ教科書などを突っ込んだ涼佑と直樹は先にそれぞれの自宅へ帰り、私服に着替えてから真奈美の家に行くことにした。昼休みに真奈美達には連絡しているので、メッセージを送る手間は無い。さっさと帰ろうと昇降口まで行くと、「ねぇ」と背後から声を掛けられた。振り返らなくても、二人にはその声の主が夏神だと分かった。彼に一方的な敵意を向けている直樹は直ぐ様反応して振り返り、涼佑は今はあまり話したくないなという気持ちを悟られないよう、一拍遅れて愛想笑いを作り、振り返る。
夏神は厭に真剣な面持ちで涼佑を真っ直ぐに見つめていた。「どうした?」と涼佑が発する前に彼は口を開く。
「岡島君とは勝負をしているけれど、新條君はそういうのに遭ったことはある?」
「……どうしたんだ? 突然」
涼佑にとってよく分からない趣旨の質問をされ、夏神の真意が読み取れない彼は上手く躱そうと質問し返す。だが、そんな小手先の話術で騙されてくれる夏神ではなかった。ふふ、と余裕すら感じる苦笑を漏らし、「いや、ただ少し気になったから。それで、どうなの?」と打ち返してくる。もう少しはぐらかすこともできたなと心中で反省しつつ、これはちゃんと答えなければ解放してくれそうにないと判断した涼佑は、素直に答えた。
「あるよ。一度だけだけど」
その答えを聞くと、夏神はどこか納得したように思案し、頷き、「そうか」とだけ言って、丁度彼の傍に来た女子生徒達と一緒に「じゃあね」と校庭へ出て行った。
「なんだ? あいつ」
「さあ。取り敢えず、今は真奈美の家に急ごう」
「そうだけどさぁ」
夏神にまた何事か言いたいことがあるらしい直樹を宥めて、涼佑は彼を連れて校庭へ出て行った。
自宅に帰って来た涼佑は、急いで私服に着替えようと鞄を椅子の上に置き、クローゼットを開けて服を取ろうと中へ手を突っ込んだ。
中を探っているうちにひやり、と湿った冷たいものに手を掴まれた。涼佑はその感触の正体を分かっている。視線を上げてもそこには何もいない筈だとも分かっている。幻覚だと思えば、そうなのだろうとも思う。確かに言えることは、その感触が手を伝ってきている、ということだけ。過去のトラウマが幻覚を見せているのか、それとも本当に掴まれているのか、もう涼佑は考えないようにしている。『手』に掴まれてもなるべく平常心を心がけ、瞬間的に手に力を込めて振り払えば、どうということはない。だから、今この時も涼佑はそうして振り払い、適当な私服を取った。
自宅の前で直樹と合流し、真奈美の家に着いた二人はいつものように中へ通される。しかし、いつもとは違って真っ先にリビングへ通された二人は、そこに絢と友香里の姿を見つめて不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 真奈美の部屋とかじゃないんだ?」
「だって、待ち伏せるんでしょ? だったら、動きやすいように広い部屋の方が良いかなって話し合って決めたんだ」
「ああ、そうなんだ」
目で「そうなん?」と問いかけてくる直樹に、涼佑は助かると言いたげに頷く。巫女さんが戦う場は現実世界とは一線を画す妖域になるとはいえ、元々の建物や道の広さは変わらない。そういった意味では確かに真奈美の部屋よりはリビングの方が戦いやすいだろう。彼女達の心配りに感謝の意を述べつつ、さてこれからどういう作戦を取るか話し合う為、涼佑達もリビングソファに座った。
巫女さんも交えた作戦会議は、案外とすんなり決まっていき、後は待つだけとなっていた。巫女さんが近くにいると、『鹿島さん』は来ないかもしれないと思った一同は、涼佑だけ隣の部屋で待つことになり、リビングのすぐ隣にある和室を使うと良いと真奈美に了承を得て、涼佑は和室の襖を閉じて待機することになった。涼佑が来るまでは異変を直ぐ様感知できるようにする為、なるべく会話を続けることにした。
そうして和室への襖を閉め、世間話をしていると不意に、ずん、と空気が重くなる。「来た」と真奈美は思った。直樹達もその空気に気付いたらしく、自然と口数が減っていく。だが、肝心なのは『鹿島さん』に気付かせないことだと意識をしっかり持って、何とか会話は繋いでいてくれた。と、次いで彼らを襲ったのは、重い金縛りだった。いきなり全ての体の動きが止まり、頭は混乱しようともそれを表情に出すことすらできなくなる。今、この場にいる全員が「まずい」と直感した。
不意に閉めておいた筈のリビングのドアが独りでに開き、ゆらゆらとした動きで当たり前のように『鹿島さん』が入って来た。不揃いな両腕と片足を無理矢理取り付けたその姿で、体を覚束なく左右に揺らしながら侵入してきたのだ。重い空気と気配に和室の襖越しに感じ取りながらも、涼佑は全く動けないでいた。初めての金縛りに頭は完全にパニックになっており、「早く解かなければ」と気持ちばかりが逸る。
『鹿島さん』はリビングに入ってくると、まるで値踏みをするように真奈美達一人一人の顔を覗き込んでくる。頭などありはしないのに、皆一同、顔を覗き込まれるように屈まれると、厭な視線を感じた。直樹は間近で見せつけられるグロテスクな『鹿島さん』の姿に心底怯えていたし、絢と友香里、真奈美も悪意ある『鹿島さん』の行動と臭気に脂汗が流れる。そうしていたかと思うと、『鹿島さん』はやはり、真奈美の前まで歩み寄り、その柔らかな頬に不格好な手で触れた。ひやり、ともぬめりともつかない冷たく湿った感触が真奈美の頬を撫ぜる。その感触に怖気を感じ、恐怖から目を閉じてしまいたいのにそれすら叶わない。『鹿島さん』の両手が彼女の頬にかかり、そのまま引き抜こうと力が込められたその時、襖を開けて巫女さんが躍り出た。
「遅いっ……!」
若干苛立ったような声を上げ、彼女は『鹿島さん』に素早く近付き様、刀を抜き去って斬り付けた。真奈美の頬に添えられていた腕を切り落とそうとしたが、寸でのところで避けられてしまった。
「ちぃっ……!」
舌打ちをし、もう一歩踏み込んで再び刀を振るおうとしたが、それより早く『鹿島さん』が動き、あるものを引き寄せて自分と巫女さんの間に盾として割り込ませる。それに刀を振りかぶった巫女さんの動きが止まった。
「友香里……! お前!」
『鹿島さん』が盾として引き寄せたのは、真奈美の隣にいた友香里だった。彼女の頭を乱暴に掴み、無理矢理割り込ませた『鹿島さん』は勝ち誇って笑っているように肩を揺らす。この為に左腕を得たのかと思うと、巫女さんの胸に怒りが湧き起こる。生者であり、何の罪も無い友香里を傷付ける訳にはいかない。振りかぶる途中で巫女さんは無理矢理刀の軌道を変え、何とか友香里を刃の軌跡から守った。刀が下へ振り下ろされたと見るや、『鹿島さん』は巫女さんへ友香里を突き飛ばし、彼女が友香里を受け止めている隙に、真奈美の体を軽々と持ち上げて妖域を閉じてしまった。
皆の体の自由が利くと、同時に『鹿島さん』の気配も遠ざかっていく。金縛りに遭い、真奈美が連れ去られてしまったことでパニックが表面化する一同に構っている暇は無い巫女さんは、友香里に「後を頼む」と言い残して『鹿島さん』の気配を追う為、外へ飛び出して行った。
どんっ、と感じた上下の揺れで、涼佑は何となく『鹿島さん』が移動しているのだと分かった。相も変わらず、彼がいる場所はネオンで飾られた空間と意味が通らない文字で形成された世界。前と同じようにガラスドアのプレートを見る。そこには『繧たし縺励?縺かしまセ縺輔s』と書かれていた。以前、ここに来た時と同じような文字列だと思った涼佑だが、前と違うのは解読不能な箇所が違っていることだ。確か、前の解読可能な文字はと思い起こしてみると、ある一文が出来ることに気が付いた。
「……あ、これって、そういう意味だったのか」
解読可能な部分だけを読んでみるが、以前と違ってドアは開かない。そこではた、と思い至った涼佑は以前見た文字と組み合わせて呟いてみる。すると、ドアはすんなり開かれ、彼は次の空間へ足を踏み入れた。
望の時と違って厭なものは感じない。それより彼が次の空間で感じ取ったのは『鹿島さん』の『焦り』だった。
「時計……? いや、時限爆弾か? これ」
涼佑の目の前には、何本もの束のような物が小さなテーブルの上に鎮座している。黒いコードで目覚まし時計と繋がれたそれは映画や漫画でよく見る時限爆弾に見えた。チッチッチッとやけに針が動く音が大きく響くそれを見て、彼が抱いた印象は正に『焦り』であった。
「時限爆弾ってことは、『鹿島さん』はもうすぐ消える……ってことか? えっ!?」
言いながら何とはなしにひょいと束の一つを持ち上げてみる。が、それは筒の束のように見せているだけで、ただの張りぼてが涼佑の手で持ち上げられているだけに過ぎなかった。中は空洞になっており、特に怪しいものは何も入っていない。ただ、時計だけが忙しなく動いているだけだ。
「どういうことだ? ハッタリってことか?」
先程のガラスドアに書かれていた文章と合わせて考えてみても、まだよく分からない。もう少しヒントが欲しいと思った涼佑は、次のドアへ目を向けた。
次のドアに掛かっているプレートにはこう書かれていた。
『とし励〒ん○縺、縺ョかしまさん縺輔s繧』
それをじっと見ていても、よく分からない涼佑は仕方なくプレートの文章を音読しようとしたが、それより早く視界の端に何かが写り込み、そちらへ目を向ける。どこからかざわざわと人の声のようなざわめきが聞こえ、それを背景に宙に文章が浮かんでくる。『鹿島さん』とタイトルが打たれたそれはどこかで見たような形態の文章だったが、生憎と涼佑は思い出せない。それは話の流れというものが無く、ランダムに浮かんでくるだけだったが、だいたいの流れを整理すると、おそらく『鹿島さん』という噂話の始まりから現在までの流れを汲んでいると思われるが、都市伝説が流行り、盛り上がっていた過去と比べると、現在は『鹿島さん』という存在自体に懐疑的を通り越して、科学的根拠はおろか、「そんなものはいない」と全く相手にされていない。ランダムに現れる文章の多くは、『鹿島さん』の噂が最盛期を迎えている時のものが多かった。
それを見て、涼佑はやっと「ああ、そうか」と理解する。これは『鹿島さん』という都市伝説そのものの感情だ。巫女さんは都市伝説とは個人の『想い』ではない、不特定多数の人間の『想い』が形を成したものだと言っていたが、この感情だけは他の誰でもない『鹿島さん』のものだ。消えたくない、忘れないで欲しいという願いだ。都市伝説がかくあるのは、きっと元の話も深く関係しているのだろう。だから、『鹿島さん』は元の話の通りに行動しているのだと涼佑は理解した。
だからといって、他人の体を奪って良い訳が無い。それも何の罪も関係も無い、生きた人間から。
「……」
涼佑はぐっと自分の胸を押さえる。痛みも苦しみも無い。ただ、この空間にいると、確かにそこに望が渦巻いていることだけがまざまざと分かる。これ以上、こんな『想い』を抱えて彷徨う存在を増やしてはならない。そんな決意を胸に涼佑は再びドアプレートに向き直って音読した。
また次のプレートにはこう書かれている。
『わ上れない〒』
その意味を既に理解している涼佑は、応えるように頷き、その一文を声に出す。
「忘れないで」
淡々としたその声に呼応するようにガラスドアは独りでに開いて、彼を招き入れた。
ドアの向こうには一人の女性が蹲って泣いていた。この世の全てに絶望したように顔を手で覆い、さめざめと泣いている。その姿は他人の手足をくっ付けたような歪なものではなく、彼女本来のすらりとした手足が付いた綺麗な姿だった。
「これじゃないの……これじゃないのぉ……」
まるで幼い子が欲しいものを与えられなかった時のように嗚咽交じりに訴えている『鹿島さん』の傍に涼佑はしゃがみ込んだ。その小さな背中に触れようとして、止めた。代わりに優しく声を掛ける。
「もういいんじゃないですか?」
彼のその言葉に『鹿島さん』はやっと顔を上げて涼佑を見る。その顔は真奈美とも違う、綺麗な女性の顔だ。言葉の真意が分かっていない彼女に、涼佑はもう一度諭すように言った。
「もう、そんなに焦らなくてもいいんじゃないですか?」
その言葉の意味が分かったらしく、『鹿島さん』はそれでもふるふると首を左右に振って答える。
「だめなの。ちゃんと……ちゃんとやらないと、みんな忘れちゃう。私のこと、忘れちゃう……!」
追い詰められたように頭を抱えて怯える『鹿島さん』の背中を、涼佑は今度こそ優しく摩る。小さな子に言い聞かせるように、なるべく優しい口調を心がけて尚も言葉を紡いだ。
「他の人が覚えてなくても、オレはあなたのことを覚えています。こうして、あなたの心に触れることができたから」
「……ほんと?」
一度、力強く頷く涼佑に『鹿島さん』はいくらか泣き止んだようだった。そんな彼女をあまり刺激しないように涼佑は慎重に言葉を選ぶ。
「でも、あなたにはあなたの事情があっても、生きている人達から手足を奪った事実は変わりません」
その一言に『鹿島さん』はまた別の意味を持って怯え、震え始める。何か勘違いさせてしまったと気付いた涼佑は慌てて「違います。オレは何もしませんよ」と訂正した。あくまでも自分は味方だという態度を崩さずに、涼佑は続けた。
「あなたが都市伝説の『鹿島さん』として成ったのは、何が原因ですか?」
「わ、たしは……」
真奈美から聞いた話を思い返しつつ、涼佑は彼女が話し出すまで待っていた。しかし、原因を思い出してしまったら、自分にも危険が及ぶだろうことを彼は知っていたのだ。だから、『鹿島さん』の目つきが怯えからだんだん憎しみへと変貌していく様を見て、それでも涼佑は優しく言葉を掛ける。
「あなたが受けた酷いことは、きっと簡単には許せないでしょう。どう思うも自由ですが、こんな姿になるのだけは避けなければいけませんよ」
そう言いつつ、彼は少しだけシャツの前側を開けて見せた。そこには現実世界と違って彼の肉体は無い。代わりに彼の心臓を締め付ける無数の黒い蛇が蠢いていた。あまりにも悍ましい光景に『鹿島さん』も一瞬、憎しみから怯えに逆戻りしてしまう。「ひっ……!?」と息を呑む『鹿島さん』を落ち着かせようと慌ててシャツの前を閉めた。
「どんな原因だとしても、恨んではいけません。じゃないと、こうなっちゃうから……。あなたはまだ罪を償うチャンスがあるんです」
「どうか、あなたはこうならないで欲しい」と拙い言葉で訴える涼佑に、いくらか恐怖と憎しみが拭えたのだろう。彼の動向を多少警戒しつつも、『鹿島さん』が差し出された彼の手を取ろうと伸ばしかけた時だった。
突然、空間が揺らぎ始めたかと思うと、唐突に目の前にいる『鹿島さん』が裂けた。割り開かれた『鹿島さん』の中から一振りの刀が飛び出し、次いでその奥に殺意に満ち満ちた目が覗く。彼女を切り裂いた者の名を涼佑は直感のまま、口にした。
「巫女さん……!?」
「遅いぞ、涼佑」
割れた『鹿島さん』の中からそれだけ答えると、その光景を最後に空間いっぱいに女性の甲高い悲鳴が響き渡り、真っ白い光に包まれる。光が強くなるにつれて、「待って! まだ……!」と口に出す涼佑の意識はゆっくりと閉ざされた。
次に目が覚めると、そこはいつか訪れた住宅街の中だった。確かここはと辺りを見回す。奇しくもそこは以前、涼佑達が調査に向かい、『鹿島さん』による三件目の被害に遭った現場であり、巫女さんと『鹿島さん』が激闘を繰り広げた場所だった。『鹿島さん』が展開していた妖域は崩壊し、傍らにはいつものように巫女さんが佇んでいた。その手には光り輝く小さな玉のようなものが載せられている。その姿を見て、涼佑は怒りと罪悪感が混じった感情が湧いてくるのを感じた。
「なんで…………」
ふつふつと湧いてくる感情に任せて、彼は巫女さんに詰め寄った。
「なんで斬ったんだよっ!? 巫女さん! もうちょっとで『鹿島さん』を成仏させてやれたかもしれないのに!」
「そうか? それは悪かったな」
言葉とは裏腹にまるで悪びれもしていない彼女に、涼佑は拳を握る。物理的に殴れないが、抑えきれない感情をどう処理していいか分からず、そうするしかなかった。代わりに質問することで、何とか理性を保とうとする。
「…………なんで、『鹿島さん』を斬った?」
「――私はお前との契約を守っているだけだ」
そこで巫女さんは感情の読めない目つきで涼佑を凝視する。その目は普段の彼女からはおよそ考えられない、冷酷で無感情な目だった。
「私は最初に『新條涼佑を守る』という契約をお前と交わしているんだ。そのついでにお前に近付いてくる霊・妖怪・都市伝説は全て私の養分となる。その代わり、お前の周辺にいる生者は見捨てない。だが、私はあくまでもお前の『守護霊』だ。その他の霊のことなんざ、どうなろうと知らん」
「だからって、あんなやり方……!」
「だったら、なんだ? 真奈美が犠牲になっても良かったって言うのか?」
そう言い、巫女さんは少し離れたところで倒れている真奈美を指す。傷一つ無い五体満足の状態で気絶している彼女の姿を見て、涼佑は言葉に詰まった。巫女さんの話では、真奈美を連れ去った『鹿島さん』は途中で巫女さんに追いつかれると判断した途端、彼女の首に手を掛けたらしいが、寸でのところで巫女さんが刀を振るって歪な手足を落とし、胴を貫いたところで涼佑の姿を一瞬、見たのだという。「おそらく、刀を通してお前の魂に僅かに触れたんだろう」と淡々と告げる彼女に、涼佑は言葉が見付からなかった。
上手く行っていたと、思っていたのだ。自分が頑張れば、哀れな霊を成仏させられると思っていたのだ。しかし、今回のことでそれがどんなに難しいことか、涼佑は漸く理解したのだった。生者の命を救うにはなるべく早く怪異を斬らなければならない。けれど、それでは死者に対する救いにはならない。死者を救うには時間が要る。先程の現象はどちらかを取れと選択を迫られ、結局彼は自分で選べなかったのだ。
「オレ……は…………」
「――お前の気持ちが分からない訳じゃない。けど、現実は理想通りに行かないんだよ、涼佑」
『現実は理想通りに行かない』どこか諦観を含んだその言葉が、涼佑の胸に重石のように深く据えられた。彼の耳にはまだ『鹿島さん』の「忘れないで」という呟きが余韻のように残っている。
それから未だ納得はいっていないが、いくらか冷静になった涼佑は、取り敢えず真奈美を背負い、そのまま彼女の家に帰ることにした。傍らに巫女さんはいるのに、重い沈黙が流れる。怪異はもう倒したというのに、涼佑の心は晴れなかった。
そんな彼に巫女さんは「涼佑」と優しく声を掛ける。見ると、彼女は自分の手に載っている玉のような物を差し出して見せた。
「それ――」
「『鹿島さん』とやらの核だ。霊も妖怪も都市伝説も私に斬られると、最後はみんなこうなる。白く光ってるだろ? これは『鹿島さん』の魂が消滅して純粋な霊力だけを抽出された状態だ。もし、お前が今後も生者・死者問わず救いたいと思っているのなら、よく見て、覚えておけ」
「……なんで」
「戒め、と言ったらいいのか。まぁ、なんだ。お前が納得できるものに当てはめて考えろ。本当に誰かを救いたいと思うなら、考えることを放棄するな。お前が納得するなら、私を恨んでもいい。憎んでもいい。だが、自分の気持ちに嘘を吐くなよ」
「………………ずるいよ。オレが、今更巫女さんのこと恨める訳無いだろ」
静かに涙を流しながら弱々しくもそう主張する涼佑に、巫女さんは少々驚いたのか瞠目し、ふっと微かに笑んで、彼の肩を抱いた。直接触れられなくとも、それは確かな安心感を伴う。
「そうだな、済まなかった。今のは私が悪かった、許してくれ。だがな、涼佑。自分の気持ちに嘘を吐くなとは言ったが、感情・行動に伴う責任も忘れるな。今回、私が追いつくのが遅かったらどうなってたと思う」
「――真奈美が、死んでた。かも」
肯定するように巫女さんは頷く。涼佑にとってその答えは極めて残酷だが、絶対に有り得ない未来とは言い難いものだ。もうそれ以上、何も言わない巫女さんは言外に「お前の納得できる答えを見付けろ」と言っているようで、涼佑は自分の弱さを痛感した。
「もういいか?」
「うん」
じっと目に焼き付けるように『鹿島さん』だった玉を見つめていた涼佑は、決して忘れないように心に刻み付ける。これから先、こうして救えない魂はあるかもしれない。もしかしたら、数え切れない程出会うかもしれない。けれど、彼はそれらから逃げることだけはしたくない、と思った。彼の答えを聞いた巫女さんはひょい、といとも容易くその玉を口に含み、飲み込む。彼女の胸の辺りが一瞬だけほんのりと輝くのを見て、涼佑は複雑な気持ちになりながらも、自分に言い聞かせるように頷いた。
真奈美の家を目指して歩いていると、前方から直樹達の声がした。少しだけ目線を上げると、予想通り彼らが走って来るところだった。未だ少し混乱している様子の彼らは口々に「大丈夫!?」や「怪我はっ!?」や「『鹿島さん』は? もういない?」と涼佑達への心配や『鹿島さん』への警戒から声を掛けてくる。それに一つ一つ努めて冷静に返す涼佑の様子に、皆だんだんと落ち着いてきた。
どこか意気消沈している涼佑を気遣い、絢が直樹に「真奈美のこと、お願い」と頼むと、直樹は少し緊張した面持ちで返し、涼佑と交代した。心なしか頬を染め、嬉しそうに見える。煩くなるだろう彼を絢が急かして少し距離を取り、涼佑に寄り添うように友香里が隣を歩く。
「本当に大丈夫? 涼佑くん」
「……いや、ちょっと、分かんない」
直樹達と離れて友香里に優しく声を掛けられると、漸く涼佑は素直に自分の気持ちを吐露した。もう以前のように外面など気にしている余裕は無い。それほど、今回の結末は彼にとってショックだった。整理しきれないものを誰かと共有したかったという気持ちから、ぽつぽつと涼佑は歩きながら先程起こったことを友香里に話して聞かせた。
友香里は一度も口を挟まずに相槌を打ち、時折頷いて聞いてくれた。『鹿島さん』を成仏させることができなかったと落ち込む涼佑に、友香里は少し思案した後、「これは私の考えだけどね」と前置きしてから自分なりの意見を述べる。
「涼佑くんはできることをしただけだと思うよ。私達にできないことを涼佑くん一人でやってるってことは、それだけ凄く負担掛かってるってことだろうし。全部完璧にするのは、きっと私達の想像を超えることなんだと思う。そんな状況の中で、涼佑くんは精一杯やったと思う」
「…………でも、さ。そうかもしれないけどさ」
「うん」
重く肩を落として涼佑は立ち止まる。友香里も数歩進んだところで彼を振り返った。西日が眩しく、もうすぐ日が暮れると分かる。
「オレは、誇れないよ」
「――今すぐ納得しなくてもいいんじゃないかな」
友香里の言葉に思わず、彼は俯いていた顔を上げて彼女を見る。また泣きそうになっていた顔を見られたくない涼佑は、すぐにふいと逸らしてしまったが、友香里は隣に来て尚も励ました。
「今は無理でも、そのうち涼佑くんの中で腑に落ちる時が来るんじゃないかな。ほら、ある日突然、自分の部屋を大掃除したくなる時みたいにさ」
「大掃除、って……」
「あれ? 無い? 特にテスト前とか、無性に使命感感じたりしない?」
「…………ちょっとだけ分かるけど」
「ね? それにさ、涼佑くんがそうやって真剣に考えてくれてる間は『鹿島さん』のこともずっと覚えていられるってことじゃない?」
友香里の一言で再度、涼佑は『鹿島さん』の最後の言葉を思い返す。「忘れないで」と必死に訴えていた『鹿島さん』。彼女がしたことは許されなくとも、その存在を無かったことにするのは違うなと涼佑は思い、友香里が言ったことを噛み締める。少しだけ腑に落ちて「そっか」と返し、二人は前を歩く直樹達に合流しようと駆け出した。
真奈美を無事に家へ送り届け、自宅へ帰り着いてこれから寝ようという時間。涼佑は『鹿島さん』についてネットで調べていたが、やはり引っかかるのは過去の記事ばかりだ。少し考えてから彼は自分のSNSアカウントで呟いてみる。
鹿島さんという都市伝説のことを調べています。何か分かる方いますか?
何気なく投稿したその呟きに一部の人々が反応し、拡散やいいねが押される。多くが「自分で調べろ」というぶっきらぼうなものが多かったが、中には「懐かしい。あの頃、流行ってた」や「何だっけ? 沖縄発祥の話だっけ?」の声がちらほら上がる。
これで暫くは自分への戒めとなり、『鹿島さん』のことを忘れないでいられる、という満足感に満ちた涼佑はスマホを机上に置いて寝ることにした。
数ある何気ない投稿の中で、不意にある一文が上った。
そういえば、昔『カシマレイコ』っていうのもいたよね。
夢を見る。これは夢だとはっきり分かる夢。そこは見たことの無い山奥にある村で、いつも何人かの着物姿の子供達が「遊ぼうよ」と誘ってくる。あどけない子供達の声や弱い力で手を引いてくるその姿は、本当に可愛らしくて思わず童心に帰り、一歩、踏み出した。視点が低くなり、さっきまで小さかった子供達と同じくらいの背丈になったのだと分かった。「何して遊ぶ?」と訊かれ、かくれんぼや花いちもんめで遊んだ。それが凄く楽しくて仕方がなかった。
誰かが「鬼ごっこやろう」と言い出した。返事はもちろん「やろう」で、さっきと同じようにきゃあきゃあ声を上げて逃げ回った。鬼の子に捕まりそうになって、咄嗟に反対方向に逃げようとして、滑って転んでしまう。痛む膝を見ようと片足を立てたところで、いつの間にか遊んでいた面々に取り囲まれていた。全員何か呟いている。よく聞いてみると――
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
「転んだ」
皆一様に全くの無表情でずっと同じことを呟いている。恐怖を感じたその時、私の意識は暗く――
「それで朝起きたら、その人、死んじゃってたって話」
「いや、おかしいだろ」
昼休み。いつもの面々で弁当を食べているところに飲み物を買いに出ていた絢が戻って来た途端、喜色満面で「めっちゃ怖い話聞いちゃった」と言って話したのがこれだ。その話のタイトルは『転んだら死ぬ村』。また色々ツッコミどころが多過ぎる。今回ばかりは怖がりの直樹ですら呆れ顔で指摘した。
「いや、なんで夢見た本人死んでるのに、話が伝わるんだよ」
それに負けじと、絢は反論する。
「いや、過去に同じ夢を見て助かった人だっているんだよ」
「んじゃ、仮に三人その夢を見てそのうち二人が夢ん中で死んだとして、現実でも死んだかどうか発覚する確率どんだけだよ。ほぼ無いだろ。その三人が親族でもない限り」
「じゃあ、親族だったんじゃないの?」
「いや、仮に親族だったとしても、そんな変死事件、ニュースに取り上げられてないのはおかしいだろって!」
「あたしに言わないでよ。あたしはただ、そういう話を聞いたってだけ。それにさ、あんまり嘘話って最初から決めつけるのもどうかと思うけど?」
「どういうことだよ?」
そこでいきなり綾はびしっと人差し指で涼佑を指した。指された本人は絢の勢いに驚いて、びくっと身を震わせる。
「ここのとこ、涼佑に巫女さんが憑いてから、今まで縁が無かった怪異に皆遭ってるでしょ? それって、巫女さんが引き寄せてるとも考えられない?」
「おい、やめろよ。怖いこと言うな。今夜おれの夢に出てきたら、お前責任取れよ」
「自己責任系の話はやめろ」と自分の耳を両手で塞ぎ、泣きそうな顔で訴える直樹に、真奈美がそっと助言する。
「大丈夫だよ、直樹君。もし、見ても転ばなければいいんだから」
「その自信があったら、最初からこんなにビビってない訳よ。真奈美」
絢の台詞に「そうなの?」と返す真奈美。確かに彼女の言う通りだが、果たして助言通りにできるかと問われると、皆自信は無いようだった。ここにいる全員、特別体幹を鍛えている訳でもないから尚更だ。
「でも、夢の中ってのは結構ネックじゃん? 大抵、自由に動けないし」
「おれ、動けた試し無いわ」と零す直樹に涼佑も「確かに」と同意する。夢の中での怪異なら、普通の人間ではどうしようも無さそうだ。弁当に入っているだし巻き卵を一つ食べてから絢が言う。
「そう言うけど、その夢を見ている時は必ず明晰夢になるらしいよ」
「なに? 何む?」
「明晰夢。これは夢だってはっきり分かる夢のことよ。あの村に行くまで明晰夢を一切見たことが無い人でも、あの村に行く時は絶対に明晰夢になるんだって」
「んで、その村に行って転んだら死ぬって?」
そこで直樹は天を仰ぎ、深い溜息を吐いてから顔を元に戻して言った。
「理不尽か?」
「怪談ってそういうもんでしょ」
絢が言ったことを受けて、そういえばと涼佑はつい先日のことを思い出す。先日、正確には先週のことだが、鹿島さんと遭遇し、解決した日のことやもっと前の望とのことも思い出す。これまで出会った怪異を思い返してみると、涼佑は少し納得した。怪異は理不尽な性質を持っていて当然だと。そこに込められた人の思い自体がそういうものなんだと思った。
食べ終わった弁当箱をしまいつつ、涼佑は思わずぼそりと零した。
「厄介なのは、ただの怪談が怪談で終わらないとこだよな。巫女さんと一緒にいると」
「当たり前だろ。私だぞ」
彼女と一緒にいるだけで、これからも怪異に遭遇するのかと思うと、涼佑は一刻も早く自身にかけられた呪いを解きたいと思わざるを得なかった。そんな彼の憂鬱を露知らず、傍らにいる巫女さんは呑気に涼佑が用意したお供え物のおにぎりを頬張っていた。ちなみに昆布である。
「涼佑君の言うことが本当なら、巫女さんが私達と一緒にいる時点で、多分、その夢も実際に体験するんだと思う。早ければ今夜辺りに。……生き残れたら、また集まって報告しよう」
「『生き残れたら』ってフレーズ止めてください……」
まさかこんなに早く、しかも日常生活の中で命の危機を感じることになると思っていなかった様子の直樹は、力無く項垂れて意気消沈した。と、その時、一同に声を掛ける者が一人。夏神だった。今日は弁当なのか、緋色のバンダナの包みを持っている。彼がにこやかに近付いてくると、すかさず直樹が臨戦態勢になった。感情が忙しいな、と涼佑は苦笑する。
「なんだよ、また何か小言言いに来たのかよ」
「小言? 僕はそんなこと言った覚えは無いんだけどなぁ」
「参ったな」と困ったように笑うその姿からは、あのじっとりとした嫌なものは一切感じない。涼佑は彼の真意を見極めようとじっと見つめるが、不思議そうな顔をされただけでよく分からなかった。夏神に相変わらず威嚇し続けている直樹は、唐突に何かを思い出したのか、はっと我に返ってにやにや笑いを浮かべて言った。
「そういえば、あの勝負。おれらが勝ったな、夏神。あの時、お前いなかったもんな!」
「残念でしたぁ~! おれらの勝ち~!」と手を叩いて喜ぶ直樹を見て、絢が「子供か」とこの場にいる全員の代弁をしてくれる。しかし、次の夏神の言葉で形勢は逆転した。
「ああ、その勝負か。だったら、ごめんね。それは僕の不戦敗だよ」
「な、なんだよ。負け惜しみか?」
「もしかして、夏神。お前、また……?」
「うん、ちょっと体調が良くなくて。学校に来れる時はなるべく来るようにしてるんだけどね」
心底申し訳なさそうに謝る夏神に、さすがにばつが悪くなったのか、直樹はあからさまに喜ぶようなことはせず、「本当に大丈夫なのかよ?」と心配に変わった。それに「ありがとう」と返す夏神。だが、直樹は慌てて弁明のようなことを言い出した。
「いや別に心配してるとかじゃなくて!? こ、こっちとしてはその……張り合いが無ぇからさ! ってか、お前体弱すぎだろ。ちゃんと飯食え!」
「今から食べるんでしょうが」
「ふふ。面白いね、君達といると飽きないなぁ」
今のところ、夏神に変わったところは無い。あの嫌な感じは嘘だったのかとも思った涼佑だったが、傍らにいる巫女さんが終始夏神を警戒しているような目つきで睨んでいることから、やはり警戒するべき存在なのかと表情には出さなくとも、心中でずっと戸惑っていた。
それから談笑しつつ、食事を済ませた夏神は「先に教室戻ってるね」と手早く弁当箱を元に戻して立ち上がる。その際、直樹へ向かってにこやかに手を振りつつ、「次も頑張ってね」と声を掛けて去って行った。その言葉で『転ぶと死ぬ村』のことを思い出したのか、直樹は「んああっ! そうだよ、忘れてたのにぃっ!」と心底嘆く。付け焼き刃の対策を考えようとうんうん唸り始めた直樹を放置して、涼佑は去り際に夏神が放った一言が引っかかっていた。
「『次も』……?」
その疑問に答えてくれる存在はもういない。
「頼むぅ……時よ止まれぇ……」と自分の席に突っ伏す直樹の願いも空しく、それでも時間というものは残酷に過ぎていった。放課後になってしまえば、半分諦めがついたようだが、涼佑と別れる間際まで直樹は駄々っ子のように「寝たくない!」と渋っていた。一度、今日だけ徹夜すればいいんじゃないかという希望は、すかさず横入りしてきた巫女さんの一言で打ち砕かれる。
「今日徹夜しても、翌日の昼間、眠くなって寝れば、やって来る。その時は一人で対処せにゃならんぞ?」
この一言ですっかりビビりの直樹は、今夜寝ない訳にはいかなくなった。周りの誰もが起きている時間帯にたった一人で悪夢に立ち向かうなんて、割に合わない上に一人で対処できる気がしないと主張する。よくよく考えてみれば、それは今夜見る夢も結局は同じことなのだが、気持ちで違うものだ。何より直樹を恐怖させたのは、賑やかな教室でたった一人ひっそりと死ぬことだった。穏やかな時間が流れる中、自分だけがその中で死ぬなんて、絶対に嫌だった。だからこそ、巫女さんの一言に「ぐぎぎぃいい」と歯軋りでもしているような呻き声を上げて、徹夜の誘惑に耐える。
「――そうだよなぁ。おれ一人で死ぬのは嫌過ぎるな」
「お前は何だかんだ言って生き残ると思うよ。オレは」
「うるせぇわ」
「死ぬよりはいいだろ」
「ま……まぁ、確かに。そうだけどさぁ」
未だどこか納得していない直樹を置いて、涼佑は巫女さんに確認してみる。
「やっぱり、今夜早速来るのか? 巫女さん」
「恐らくな。これからは私の許に怪談が届いた時点で十中八九来ると思っていた方が良い。私の存在は大なり小なり確実に『呼ぶ』」
「呼ぶ、ってのはつまり……」
「私の存在は霊の世界ではそこそこ有名らしくてな。知名度というのもあるが、それより効いているのは『私の存在そのもの』だろう」
「存在そのもの?」
「私自身が霊や妖怪を養分としているから、奴らが集まりやすくなるよう長年掛けて『噂』をばら撒いた。その『思い』を辿って私のところに来る、という訳だな」
「できれば、呼ばないで欲しいんだけど……」
「そりゃあできない相談だ。それに、あれだ。涼佑。考えたんだが、私の霊力が高まれば、お前の呪いも解けるかもしれないぞ」
「だよなぁ。…………えっ!?」
「うおっ!? びっくりした。何だよ、涼佑。急にデカい声上げんな」
「ご、ごめん。――巫女さん、どういうこと?」
彼女の説明によれば、このまま他の霊や妖怪の霊力を取り込み続けていれば、いずれ望の霊力を上回り、呪いが解けるかもしれない、という話だ。確実な手とは言えないが、今の涼佑はそれに縋るしかない。彼女の力となるなら、あの『鹿島さん』も少しは報われるかもしれないと、涼佑は思わずにはいられなかった。
彼女の霊力が望を上回らなければ、呪いは解けない。それは分かっているのだが、それとは別に、やはり怪異とそう頻繁に関わりたくないなと涼佑は思う。思うだけで何の効果も得られないのだが、思わずにはいられなかった。
「え?」と振り返った時にはもう夏神はこちらへ見向きもしないで、近くの女子グループの中に入れて貰っていた。グループのメンバー全員が嬉しそうな顔で歓迎している。聞き間違いかと逡巡しつつも、今更夏神に訊くのは気が引けたので、涼佑は首を傾げつつも廊下へ出て行った。
夜。夕食も入浴も済ませ、後は寝るだけとなった時、唐突に直樹から電話が掛かってきた。やっぱり怖いのかと思った涼佑は、若干苦笑しつつ、電話に出る。
「どした? 直樹」
「………………いや、あの、うん。――今回の怪異なんだけどさ」
「うん」
「その…………巫女さんから何か対策みたいなの、聞いてない?」
直樹の言いたいことを伝えると、巫女さんは無常にも淡々とした口調で言った。
「頑張って転ばないようにする、だな」
なるほど、と納得できないまま、納得の常套句を発して涼佑がそっくりそのまま伝えると、直樹は電話の向こうで嘆いた。
「根性論しか無いのっ!? なんでっ!?」
「何か便利な道具とか出てこないの!?」と喚く直樹にまた巫女さんからの有難い助言をもらった涼佑は、またそのまま伝える。
「泣いてる暇あったら、体を鍛えろって」
「突然の筋肉!? 根性論の次は筋肉って、巫女さんって本当に女子なの……? 筋骨隆々の男だったりしない? 涼佑、騙されてない?」
「いや、ちゃんと女子だから、大丈夫」
「ちゃんと女子だから??」
電話の向こうで困惑しかしていない直樹。涼佑もよく分からなかったので、詳しく訊くと、巫女さんは「仕方ないな」と言って説明してくれた。体を鍛えて体型や体幹がしっかりしてくると同時に自信に繋がり、それが精神も強くするということらしい。精神が強く安定していれば、霊的なものに対抗できる力が備わり、抗いやすくなるということだ。
「それに体型が締まると、女にモテるぞ」
「おい、涼佑。スクワットやんぞっ!」
「現金かよ」
モテると聞いて一気にやる気を出し始めた直樹は、早速スクワットを始めたらしく、電話の向こうから「ふんっ! ふんっ!」と聞きたくもない気合いの声が聞こえてくる。スクワットをやるなら、電話切ってくれと思う涼佑だが、そう声を掛けると、「切んなよ!」と何故か止められる。お互いの筋トレ中の掛け声なんて、正直聞きたくないと思うのだが、直樹曰く、「一人の部屋でひたすら筋トレするとか怖くて無理」のようなので、涼佑も渋々付き合ってやっていた。
どのくらいひたすら鍛えていたのか、足ががくがくしてきた辺りで二人は止めた。さっき風呂に入ったばかりなのにもう汗だくだ。もう一回入浴してこようと、直樹に声を掛ける。
「風呂入ってくるから、電話切っていい?」
「ふざけんなよ。俺も入るから絶対切んなよ」
「なんでだよ。スマホ壊れるから風呂場に持ち込みたくない」
「お前この時間に一人で風呂って、お前ふざけんなよ。一人で入れる訳ねぇだろうが……!」
「なんで静かに逆ギレしながら、小学生みたいなこと言ってんだよ」
「こんな時間」という単語に、何気なくスマホの画面を見ると、もう二十三時を表示している。この時間に浴室を使う家族はいないので、シャワーを浴びるには最適だが、直樹と通話したまま入るのははばかられる。何より涼佑にとって、湿気の多い場所にスマホを持って行くのが嫌だった。いくらジップロックにスマホを入れればいいとはいえ、先代はそれが原因で中に湿気が入り込んでお亡くなりになったのだから、当然だろう。もうお互い高校生なのだから、いい加減聞き分けて欲しい。直樹が尚も喚いているうちにさっさと替えの下着と寝巻きを用意した涼佑は「んじゃ、風呂入ってくる」とだけ言って電話を切った。
「うーわっ、あいつ。マジで切りやがった! 最悪! サイテー! りょーちゃんってば、信じられないっ! アタシとは遊びだったのねっ!」
訳の分からないことを通話が切れたばかりのスマホに喚き散らしていると、寝室に行った筈の母に乱入され「夜中に大きな声出すんじゃないよっ!」と怒られ、気分を沈めながらも直樹はのろのろとシャワーを浴びる準備をし始めた。
替えの下着とパジャマ。唯一の心の拠り所であるスマホを持って、そろそろと階段を下る。直樹以外の家族は皆自室に引っ込んでいるので当然だが、一階は電灯が全て消えており、真っ暗だ。「畜生、なんでこんな時に限って誰もいないんだよ」と心中で毒づくも、救いの手が差し伸べられる筈も無く、依然として真っ暗闇の中へ突入するように階段を下るしかない。さっきまでは涼佑と電話で繋がっていたから心に多少の余裕が生まれていたが、今はもう誰とも繋がっていない、本当に一人なのだと実感すると、底冷えのする闇の中に自ら身を沈めるようで、直樹はぞっとした。
加えて、さっきまで涼佑と話していた怪異のこともある。転ぶと死ぬ村。もし、夢の中で転んでしまったら、死んでしまうなんて話を聴いてしまってはもう怖いなんてもんじゃない。視界の端に幽霊っぽいものを見たら、その場で死ぬんじゃないかと思う程の緊張感にずっと襲われている。戦々恐々とした足取りで、直樹は通りがかった居間の電灯を点けずに真っ直ぐ脱衣所へ向かう。彼の家は今時珍しい古い日本家屋なので、廊下はやたら広いし、丁度居間の裏側に脱衣所と浴室があるせいで、廊下の電灯を点けないと本当に真っ暗だ。はっきり言って、最近の洋風の家なんかとは比べものにならない程、雰囲気が段違いに怖い。
元は前の家主がちょっとした旅館のように小さな宿泊施設として経営していたものだったのだが、直樹の父が大層気に入ってからは水回りを使いやすくリフォームし、壁紙を変えただけの家だ。台所や浴室は新しくなっていてあまり恐怖は感じないのだが、それ以外は元のままなので、正直直樹は少し苦手だった。
「ああ、早くこんな家、出て行きたい」と思いつつ、何とか無事に脱衣所まで辿り着くと、脱衣所の壁にそろそろとおっかなびっくり、手を這わせて電灯のスイッチを押した。途端に明るくなるいつもの脱衣所の光景に、直樹は少しだけほっとする。いつものように洗濯機の蓋を閉めて着替えを置く。脱衣所の引き戸を閉めて服を脱ごうと着ているパジャマの裾を掴んだ時だった。
何となく、すぐ傍にある洗面所の鏡を見る。そこには少しだけ顔色の悪い自分と背景に折り戸が開けられている浴室が見える。湿気を逃がす為に開けられている折り戸の向こう。家族のうち誰かしらのシャンプーやらボディソープやらが置かれている棚がある。丁度直樹の目線より少し高い位置に白く長いものがあった。鏡越しに直樹はそれを見た。真っ白なドレスを着た背の高い女がこちらに背を向けて立っている。一瞬、それを視界の端に入れた直樹は、「ぴ」と小さく悲鳴を零してその場に倒れ込んだ。気絶した重い体が引き戸に当たり、そのまま床に向かってずり落ちるようにして彼の体は凭れ掛かった。
しかし、悲しいことに、よりによって、直樹は妹が新しく買ったばかりの真っ白な大判のボディタオルを幽霊と見間違って気絶してしまったのだった。
「さて、シャワー浴びたし、寝るか」
「お、寝るのか。いよいよだな、涼佑」
一方で、シャワーを浴び終えた涼佑は濡れた髪を粗方タオルで拭くと、新しいタオルを枕に敷いて寝る体勢に入る。絢が聞いたらきっと卒倒する行動だろうが、涼佑にとっては洗髪後のいつもの行動だ。部屋の電灯を消して巫女さんに「おやすみ」を言う涼佑に、彼女も同じように返した。