白い息が、空気にほわほわと溶けてゆく。
木枯らしが冷たい。
藍色のセーター。それを覆い隠す黒いフードつきロングコート。手袋は身につけていないがその代わりに手をポケットに突っ込んで、玉枝は小さな公園に佇んでいた。
冬枯れの樹木に、黒っぽい蛾が止まっている。
玉枝は、それを、ただじっと見ている。近づきはしない。触るとこっちの指がかぶれるかもしれないし、第一虫の羽なんて脆いもの。お互いに傷つかないように、ちょうどいい距離を保っている。

……けれど可能なら、その美しい模様の染め込まれた羽をそっと撫でて、血の巡りをもつ人間というもののぬくもりを感じてほしいと、そんなことを思う。だって、それぐらい、虫が好きだから。
などと、とりとめのないことを考えていた時だった。

午前中。
大体は年配の人か、犬の散歩をする人などが訪れる時間帯。小さな子供連れも来ないことはないが、遊具が全くない小さな公園なのでかなり稀だ。
……つまり、元同級生と顔を合わせるなんてことが、万が一にもないような時間帯なのだけれど。

「……あ。」
「………。」

誰だっけ。顔は覚えている。名前は完全に忘れた。

「雪子です。覚えて……ますか?」
「あー、うん。」

雪子。そういえばそうだった。
玉枝は、気まずそうに頷いた。久しぶり。言うと、素直な返事が返ってくる。はい、久しぶりです。


クラスに少なくとも一人、リーダーがいるとすれば。
————同じく少なくとも一人は、目立たない影のような子がいる。

その代表とも言える存在……雪子が、そこに立っていた。

雪子について覚えていることはあまりない。
ふと見れば、教室の隅っこでノートに絵を描いている。集合写真では後ろの方の端っこで埋もれている。そうして注目の的になれないことを、特に気にすることもなく。数人の静かな友人とたまに一緒に下校していたかもしれない。
雪子という同級生は、そんな子だった。

「えっと……学校は、今日は、」
「今日から冬休みです。」
「……なるほど。」

名前が思い出せなかった罪悪感を隠すように話の転換を試みれば、見事に撃沈した。日付感覚がなくなっていたらしい。玉枝の間抜けぶりが露呈しただけだった。

それにしても、と思う。
よくもまあこんな偶然があるものだ、と。

雪子は、公園に遊びに来るような少女ではなかったはずだ。
繊細で、優しく、雪細工みたいに大事にされていて、常に屋内で箱入り娘のように過ごしていたお絵かき少女。

とはいえ、二年。玉枝が学校に行かなくなってから、二年が経つ。

玉枝自身、こんな風にこそこそと誰もいない時間を狙って公園に行くとか、目立たない黒いコートとフードを被って隅っこに立っているとか、昔ではほとんどありえなかった行為を行っている。玉枝もこんなに変わってしまったのだから、雪子が劇的な変身を遂げていたとしても何ら不思議はない。
そう。雪子が暇さえあればあちこちの公園に出没する公園お化けになっていたとしても、別に驚くことでもないはずなのだ。

……ただし。
まだわからないことが、ある。

「あー、その。」と玉枝は切り出した。
「バケツとスコップは、一体何のために……」持ってきたのか、と聞こうとして。全部言う前に雪子が「ああ。」と頷いた。
「カブトムシの幼虫を、取りに。」
「……カブトムシ?」
「え、っと……その、弟が欲しがっていて……それで。」

なるほど。
弟が欲しがっていて、カブトムシの幼虫を。……弟が?
玉枝は雪子の顔を見た。ちょっと気まずそうに、頬を赤く染めている。そしてそれはきっと、寒さのせいだけではなくて。
玉枝がじっと見つめていると、雪子はコホン、と咳払いをした。

「……嘘ではないです。私“も“飼ってみたかった……というだけで、弟が欲しがっていたという点は嘘ではないです。」
「……カブトムシって、雪子ちゃん……好きだったのか?」
「最近、好きになりました。」
「なるほど。」

例のハチの騒動の時。雪子は真っ先に後退りして避難していた。その他の場面を思い出しても、雪子が虫好きだと感じるエピソードは特にない。逆に、虫嫌いだと断定できるエピソードなら手から溢れるくらいにあったように思うのだけれど。玉枝はへえ、と声を漏らした。

「……変わったんだな、雪子ちゃん。」
「玉枝さんこそ。初めは全然気づきませんでした。」
「悪かったな。びっくりさせただろ。」
「あ……その、それはお互い様だと思うので、別にいいんですが。」
「ん?」

妙に歯切れの悪い雪子の言葉に首を傾げながら、玉枝はとりあえず頷いておく。
雪子は、ふう、と息を吐く。白く霞んだ空気が生み出され、冷たい空気に消えてゆく。
凛としたその横顔。美しい。まるで、冬の妖精のように。
彼女が儚げで綺麗だったのは、昔からのことだった。
けれど……。
玉枝はどこか雪子の纏う雰囲気が変化しているような、そんな思いに囚われた。そして、実際に、口に出してみる。

「なんか、雪子ちゃん……変わった?」
「……さっき『変わったんだな雪子ちゃん』って断定したばかりじゃないですか。玉枝さん自身が。」
「あー、いや、そうなんだけどさ。」

なんかこう、別の意味で、と玉枝が言う。
背が伸びたからかな。まあ、背は伸びましたが。ああそうか。はい。いやちょっと待て。ええ、待ちますよ。その、よく考えたら背が伸びてなくても数年すれば何か変わるのは当たり前のことっつーか、逆に変わってなかったらおかしいくらいだから、私の言うことは結局当たり前の範疇にあると思うんだが————

「————雪子ちゃん、なんか姿勢よくなってないか?」

玉枝が言う。
それを聞いた雪子の反応はというと、

「へ。」

ポカンと、呆けたような顔をした。
本当に、予想の斜め上のそのまた斜め上の回答がきた、というような顔で、玉枝はさすがに内心ちょっと慌てた。

「むむ。やっぱ勘違いか?」
「勘違い……かどうかはわかりませんが。もしかしたら、その、少しくらいは姿勢がよくなってるかもしれないですね。私自身自覚がないだけで。」
「あー、自覚なしか。じゃあ意識して姿勢改善とかしたわけじゃあないってことだな。」
「そうですね。」

雪子はほんの少し複雑そうな表情で、でも、と言った。
ゆっくりと、口を開く。

「でも、私、出世はしたんで。」

はあ。
玉枝の口から出てきたのは、それだけだった。はあ。
真面目に考えてみても、よくわからない。
出世?……出世……?
ビジネスマンのセリフではないだろうか、それは。中学生が出世というと、なんだろう。部長に……つまり、部活動のリーダーになった、とか、そういうことか。

戸惑う玉枝に向かって、目を合わせ。
雪子は、淡々とこう言った。

「まずはクラスの学級委員、その次に生徒会の会長になりました。」
……と。





「ちなみにクラス内でのあだ名は、“白手袋の姫“です。」

ハッピー番長、みたいな感じでなんかいいですよね。
真顔でそんなことを言う雪子に、玉枝はあいた口が塞がらない。思ったよりも地位が上がっていたし、何ならかつての玉枝自身よりよっぽど権力を持っている。
……まあ、たかが中学校の学級委員や生徒会がそこまでの権力を持っているわけもなく、部活の延長のようなものであることも承知しているが。それでも。

「えっと……私も雪子ちゃんのこと、“姫“ってなかんじで呼んだほうがいい、のか……?」
「いえ、“雪子ちゃん“のままで大丈夫です。くすぐったいので。」
「だよな。」
「はい。」

何があったんだ、と素直に思う。
クラスの端っこで絵を描いていたような子が、いきなり生徒会長などと。

選挙活動とか、どうしたのだろうか。あれは自分を宣伝する大会だから、襷かけて挨拶したり、校内に手作りポスターを貼ったり、応援演説者を連れてきたり、マイクの前で公約を発表したり、色々と引っ込み思案な人には厳しいハードルがたくさんある。

というか、そもそも学級委員をやっていたという時点で、ある程度の人望はあったと思うのが自然だ。
クラスの中心に立つわけだから、みんなを引っ張れる自信がないと仕事をしていて辛い。それがわかるから、多くの人が立候補の挙手を遠慮する。
それに、候補者が何人もいれば当然選挙になったことだろう。つまり、雪子はクラスメイトから信頼される立ち位置にいた、というわけで。

「……すごいな。」

思わず呟けば。雪子も大きく頷いた。

「なんか、びっくりですよね。」
「自分で言っちゃうのか。」
「言っちゃいます。だって、自分でもびっくりなんですから。」

……どういう経緯で、自分でもびっくりするような事態に?
玉枝の疑問に応えるように、雪子は口を開いた。


「そう。あれは確か、一年半ほど前のこと————」





桜舞う麗らかな春。
二年生に進級し、晴れてクラス替えでシャッフルされた生徒たち。
雪子は、ひらひらと白く花弁を落としてゆく桜の花びらを眺めながら、こう思った。

————人生、案外短いものなのかもしれない……。と。

あんなに美しい桜でさえ、あっという間に散ってしまう。命を煌めかせるように。一瞬の輝きに全てを委ねる流星のように。雨が降れば、一日で葉桜に変化してしまう桜。風が吹けば、吹雪のようにたくさんの花びらを散らしてしまう桜。
桜というものは雪子にとって、思い入れの強い花だった。
昔好きだった男子が、言っていたのだ。
“満開の桜って、木に積もった雪みたいだよね。“と。
『雪』の一文字を名前に持つ雪子は、だから、桜を自分の分身のように思っていた。

生きよう。
悔いの、ないように。
失敗なんて、いくらでもしたっていいんだから。

始業式で浮かれたりゲンナリしたりしている人々に囲まれて、雪子はひたすら、ぼんやりと桜を眺め続けていた。
そして誓ったのだ。


生きよう、と。


かといって、じゃあこれをしよう、それをしよう、といった具体的なことは特に思いつかなかった。
思いつかないままに新年度が始まり。
そして教師が「あ、二日後くらいに委員会決めをしますねー。希望を考えてきてくださいー。」と連絡事項を伝達してきた時、唐突に雪子は思った。
「あ、学級委員やってみよう。」と。
でも、わからないことがあった。
それは、“どうやったら学級委員になれるんだろう“ということ。
とりあえずなってしまえばいいんだ、と思わなくもなかったが、さすがにこんな事態に直面するのは初めて。戸惑い、困ってしまったその時、雪子が思い出したのが————

「ハッピー番長の姿だったんです。」

なるほど。
玉枝は曖昧に頷いておいた。
私の姿を思い出した。なるほど。

「とりあえず、虫を怖がるのをやめようと決意しました。ハチが飛び込んで来た時、または蜘蛛が出た時、最悪の場合ではGが襲来した時、などといった緊急事態に、学級委員が逃げていたらなんかカッコわるいなと思って。」
「………。」

……別にカッコわるくはないのでは?と思った。
むしろ逃げるのは当たり前なのでは、という言葉が喉まで出かかったが、ギリギリで玉枝は踏みとどまった。真剣な雪子の話に水をさしては悪い。

「ですがやっぱり、虫は怖かった。特に、蜘蛛です。ハチはジャージ、Gは丸めた新聞の攻撃で対処できます。……しかし蜘蛛相手に、そんなまどろっこしいことをしていてはカッコわるい。そこはやっぱり素手でさっと逃してしまうのがクールです。」
「………。」

だからカッコわるくないのでは、と思ったが、やっぱり玉枝は黙っておいた。なんだかここまでくると、この話の行きつく先が気になってきてしまったので。

「ですから私は翌日、白い手袋を持参しました。シンデレラが舞踏会で嵌めていそうな、薄くて白い手袋です。そして私はその準備のおかげで見事、たまたまその日に襲来してきた蜘蛛を、さっと持ち上げてクールに外へ逃すことに成功したのです。」
「………。」

どうしよう、と玉枝は思った。どう反応するのが正解なのだろう。
一秒間の間に目まぐるしく悩んだ後、ここは無難に、と玉枝は決意した。

「あー、それはよかったな。」
「ありがとうございます。」

雪子も頷いた。無難に。
そして。雪子が昔を懐かしむように、静かに唇の端に微笑みを浮かべた。

「そういうわけで、新学年序盤から色々と何やかんやして。それで、あとノリと勢いで学級委員に手を挙げたら立候補者が一人だけだったおかげですんなり希望が通って。それで学級委員をそれなりにやっていたら、ついでになんか、私の白い手袋姿が人気になりました。」

……なるほど。そういう経緯で“白手袋の姫“がニックネームになったのか。
玉枝が呟くように言えば、雪子は同意するように頷いた。

「はい。不思議に担ぎ上げられてしまって、なかなか外すこともできず。というより、調子に乗って四六時中つけていたら外そうにも外せなくなって……」
「外せないってどういうことだ?」
「敏感肌だったので蒸れてかぶれてしまって、荒れた肌を見せたくないので手袋で隠し続けていたらもっとひどくなって……みんなを失望させないようにそれを手袋で隠して……」
「悪循環じゃねえか!」

思わず玉枝は声を上げた。つーか、水泳とかあるだろ。手袋外さなきゃダメな授業はどうしてんだ?

うーん、と。
雪子は玉枝の前でちょっと考え込むように首を傾げ。そして。

「見学、とか。」
「素直に外せばいいだろ……」
「皮膚科の先生にも同じことを言われました。正論だと思います。」
「思うのかよ。」
「はい、それは誰が考えてもそうでしょう。」
「………。」

微妙な空気が流れた。
ま、まあ、とにかく。一旦はこの話は置いておくことにして。
玉枝は空気を切り替えるように頷いてみせる。

「色々あったが、出世したわけだ。」
「はい、そうです。」
「よかったな。雪子ちゃん。」
「まあ……クラスメイトにはお姫さまみたいに担ぎ上げられちゃってますけど。」
「そういうの、案外楽しいもんだろ。」
「よくわかりましたね。私の心の声が読めるんですか?」
「いや読めないが。」

さとり妖怪じゃないのだから、読めるわけがない。そう言えば、そうですね、という応えが返ってくる。
そう。ただちょっと、自分はそうだったなぁという思い出と、雪子の態度の感じから推測してみただけだ。つまり、ほとんど勘だ。

はあ、と玉枝は息をついた。
そしてふと思う。
……いつの間にか、雪子はこんなになったんだな……。と。

周囲から認められて。偉くなって。
クラスの中央に君臨しているその立場を、案外いいものだな、と楽しめるくらいに。


でもまあ、と玉枝は思った。
改めて考えてみれば、けっこうわかる気がする。
クラスメイトが彼女を姫と担ぎ上げる、その理由。

何となく想像がつくのだ。
ちょっと不思議ちゃんだけど凛としていていざとなったらカッコいい頼れるリーダー。
基本はおとなしくて無表情だけど、優しいし、穏やかだし、絵が抜群に上手だし、それから危険な虫も追い払ってくれるらしいし。
おまけに、白い手袋をしている。それも手品師の燕尾服か貴族の夜会服に似合うような、オシャレのための一品……といった具合のデザインのものを。

……下手したらカルト的な人気が出るだろうな、と思った。

それに人間というものは、環境に合わせてある程度の自然な振る舞いができる生き物だ。
一度学級委員になってしまえば、あとは案外みんなを気にかけて引っ張っていく頼れる人格が完成してしまうものかもしれない。たとえ今までに雪子が一度も、誰かの中心で目立つような経験をしたことがなかったとしても。

「そっか。」

玉枝は、空を見上げた。白い雲が、夜明けの月のような淡い色で、うっすら漂っていた。

「雪子ちゃん、頑張ってるんだな。」

嫌いな虫も手袋越しに触れるようになったみたいだし。
それどころかいつの間にやら、“カブトムシを最近好きになった“とか何とか言えるようになっていたし。

「ああ。実はそれはですね、」と雪子が何でもないことのように言う。
「虫を触るようになってみると、意外とカッコよかったり綺麗だったりすることに気づいたってだけですよ。」
「へえ。」
「だんだん色んな虫に愛着が湧いてきて、最近では芋虫も可愛く思えるようになってきました。あとはたとえばゴキブリとかも、何だか黒くてピカピカで美しい甲冑に見えてきて……」

なるほどな……。
玉枝は頷こうとして、んぐ、と途中で踏みとどまった。

「……って、待て雪子ちゃん。さすがにそりゃ嘘だよな?」
「嘘じゃないです。玉枝さんはゴキブリ綺麗だなって思いませんか?」
「ん、むむ……ま、まあ、実は心の底でそう思ってはいたが……口に出すかどうかは別問題というか、何というか。」
「禁忌、みたいな?」
「そうだろ。うかつにそんなこと言ってみろよ、周囲にすごい目で見られるぞ。私なんか、虫が好きってだけで……」

言いかけて、玉枝は慌てて口をつぐんだ。
玉枝をじっと見る雪子が、どこか不安そうな目をしている。

玉枝はぐ、と唇を噛んだ。

————縄文時代の完璧ガールフレンドって感じじゃねえか?

……あれは別に、大した揶揄でもなかった。玉枝は自分の胸に、当たり前のことを言い聞かせる。……彼らには悪気も何もなかった。むしろあれはきっと、褒めているつもりだった。……そういう言葉を、使っていた。

玉枝は静かに一呼吸置くと、ゆるゆると全身の力を抜く。

「……いや、まあ。」

すう、ともう一度深呼吸をして息を鎮めた。

「私、かなり浮いてたよな、って思うけど。でも、多分そりゃあ、あれだ。私が常日頃から大騒ぎして、目立つことばっかやってたからな。虫のせいってよか、たとえば体育祭の後に花火打ち上げ計画にみんな連れてって危うく補導されかけたりとか、そういうことばっかやってたハチャメチャなハッピー番長だったからってことのほうがおっきいだろうな。」
「そう……ですね。」

雪子は、頷いた。
色白のその顔に柔らかな日の光が降り注ぎ、いっそう白々と光って見える。
少し、俯いて。
まつ毛をちょっと伏せたまま、雪子は口を開いた。

「確かに、ある意味では、私も浮いていますが。」

一度黙って、再び言葉を続ける。

「————“かっこいい“、と。そう思ってくれる人が、ほとんどだと思います。」

どうしてだろうか。
雪子の表情は、ほんの少し寂しそうだった。
玉枝は、“弟がカブトムシを欲しがって”と言い訳するように話していた雪子のことを、思い出していた。