憲兵に匿名でソフィアの保護を依頼したリーレニカは、一度フランジェリエッタの生花店へ戻る。「悪漢に部屋を荒らされ、女性が逃げていった」と虚偽の目撃情報を伝えたわけだが、要はソフィアを保護できれば問題ないという考えだ。
――生花店への道中違和感を覚えていた。体が怠いというか、異質な浮遊感というのか。
それを確信したのは店内に入ってからだった。
肉眼では視認できないが、夥しい量の粉が部屋を満たしている。マシーナウイルスでできた粉塵だ。
『マシーナ粒子の塊……まるでモンスターハウスのようじゃな』
「もしかしてこのマシーナウイルス……花粉を媒体に」
部屋の奥からダウナの声がする。
「遅かったじゃない。もうお願いして良いかしら。何だかしんどいわ。この子のお守り」
フランジェリエッタはうなされたように険しい顔のまま眠っている。見た目では容体に変化はない――良くも悪くもなっていないが、リーレニカにだけはその変化が見てとれた。
このマシーナは、部屋を満たしている膨大なマシーナウイルスと同じ成分だ。
――フランジェリエッタがこのマシーナを生成している? いや、大量に分泌されたマシーナが盛れ出しているんだ。
「マシーナ濃度が高すぎる――こんなの、いつ機人になってもおかしくない」
「そうなの? 私なんか酔いそうで酔いそうで……吐きそう」
――マシーナ酔いか。
ダウナに小樽と水を差し出し、生態型デバイスと思念対話を試みる。
『Amaryllis、どこまで食べられる?』
『これはご馳走だが……精々レイヤー弐までだろうな』
『やって』
フランジェリエッタの額に手を乗せる。瞬間、視界が歪む感覚に襲われた。
自身の触れた手を通してAmaryllisへマシーナウイルスを吸収させていた。
人間の強い感情に結びつくマシーナの性質が、リーレニカを襲う。
自分の知らない――彼女の記憶が雪崩れ込む。
この不快感は、フランジェリエッタの膨大なマシーナ量だけ続いた。
****
どれだけの時間が流れたのか。そう思うほどに、低解像度で凝縮された記憶の奔流に晒されたリーレニカは、大量の汗を顎から垂らしながらも施術をやり通した。
今では彼女も穏やかな顔で眠っている。
「目、凄いけど大丈夫なの?」
「え?」
ダウナに手鏡を向けられた。目が異常に充血している。
マシーナウイルスの過剰摂取で内臓に負担がかかったのだろう。だが、体は動く。
現状を再確認する。
時計に視線を向ける。ぼやけているが、三分と経っていない。
次はスタクだ。ソフィアよりも早く見つける必要がある。
次の行動を決めると同時に、危険を報せる警報デバイスが街中をけたたましく駆け巡った。
『マシーナ警報。マシーナ警報。エリア西区にて機人《きじん》出現。推定〈レイヤー伍〉。近隣の住民は直ちに最寄りの避難所へ退避してください。繰り返します――』
「レイヤー伍!? クリーチャー化したの?」
警報からスタクの顔が浮かぶ。
「レイヤー伍って最大値じゃない。しかも西区だなんて、どうやって入ってきたのかしら」
ダウナの言う通り、機人化したレイヤー肆が暴れ、即討伐出来なければ避難勧告が出るのが通常の避難体制だ。それが唐突にレイヤー伍の成体で警告となれば、空から急に現れたか突然変異でなければ説明がつかない。
基本、レイヤー伍となれば五メートル以上まで骨格、質量が大きく変化する。警報が出る前に騒ぎになっていないとおかしいくらいに、とにかく目立つものだ。
――それが突発の事柄なら、アルニスタが絡んでいると見て間違いないだろう。
「ダウナ嬢。倉庫の裏に枯れた月ノ花があるはずなので、彼女の周りに並べて置いてくれませんか」
「んもう。人使い荒くなってなあい?」
「今、どこも普通では無いんです。申し訳ありませんが、あと少しだけ頼みます」
「ちょっと」
こう騒ぎになってしまえばお互い店どころでは無いだろう。
ダウナに一方的なお願いをし、店を飛び出した。
ダウナのため息が小さく漏れる。
****
パレードが始まっていた街中では、ピエロに扮したスタッフが子供達の手を取り西区から離れるように誘導している。子供達はなんの事か分からないように、ただピエロの手を取ってついて行っていた。
その間を、リーレニカは流れに逆らうように駆ける。
極力目立つルートは避けたい。
壁を蹴り上がりながら飛び越え、路地裏に入った。
目的地は無論、西区――スタクだ。
「ポイントA、開放」
『承認』
レンガ壁に承認――「Accept」の文字が浮かぶ。レンガの塊が一段手前にずれ、横に引いた。
人一人が通れる穴が出来ると、リーレニカは一瞬で通過し、通過を感知したレンガも元の形状へ戻っていく。
レンガに含まれているマシーナウイルスへ仕込んだ、リーレニカ独自の使い捨てプログラムだ。先進国でも秘匿される技術に近いため、人目につかない場所にしか仕込んでいない。
使い捨てのため一度起動させると、再度仕込むまではただのハリボテ同然になる。
「ポイントB、開放」
淡々とレンガ壁を開放し、最短経路を進む。良い所で視界へ立体的な多次元地図データを展開した。地図で蠢く生体反応を、自分だけに限定して整理する。
自分の現在位置が地図上を滑らかに進んでいく。目的の西区までは予定時間までに到着できそうだ。
組織から通信をキャッチ。応答する。
『こちらソンツォ。リーレニカ。ここから先、マシーナ反応が乱れてマッピングが雑になってる。パレードのせいで生体反応が大量だが――高濃度マシーナ反応があるぞ! 気をつけろ』
「了解――ッ」
警告と〝奴ら〟が一致したのは路地を抜けた時だった。
機人――レイヤー肆の〈マネキン〉が数体、街を徘徊している。だが野放しではない。
次にリーレニカが視認したのは王立騎士団の人間だった。避難勧告を出したのだから、機人掃討部隊が展開されるのは必定だった。
武装している今、職務質問を受けるわけには行かない。まして、避難指示を受ければ大幅なタイムロスになる。
――こんな所で出くわすなんて。
「Amaryllis――〈帳〉」
リーレニカが選択したのは迂回ではなく、最低限の戦闘で切り抜ける〝中央突破〟だった。
『ほいよ、十秒じゃ』
充分。
大気中のマシーナがチカチカと反応を示し、夜空色の闇を展開。リーレニカの姿が厚さ五センチの闇で塗りつぶされる。その闇は陽光でさえ通過を阻む秘匿のベールとなった。
小さな星のように細く輝くマシーナウイルスだが、その程度の光で正体を目視できる人間は居なかった。
機人を警戒していた王立騎士団のうち一人が、一直線に接近するリーレニカ――漆黒の人型を視認する。
よく見ると顔見知りだった。
昼間に職務質問を受けた、名前は――シンと新兵のスクァードだったか。
シンは若手にしてもそれなりに剣術の心得はあるだろう。スクァードは焼却系の中型デバイスを提げているが、後始末用だ。警戒は一人に集中する。
「シン先輩……敵っす!」
「なんだアイツ、新種か!? 任せ――」
正体不明の黒い人影を敵と見据えたシンが、こちらを仕留めようと剣を構える。
機人ではないと弁明をする時間さえ惜しい。
リーレニカは更にデバイスを起動した。
「〈深海〉」
『三秒な』
重力と気圧変化の命令式をAmaryllisへ指示する。
途端、音の圧迫感とずっしりとした空気の塊が、自分を含め肉薄した三人を包み込んだ。
感覚の狂いは〈帳〉を纏うリーレニカには届かない。
「ナン、ダ、コ……レ」
三半規管を狂わせ、呼吸を制限する事に特化したマシーナ反応の応用技術。練度の高い学士なら人を圧死させられる者も居るらしいが、無用な殺生はしなくていい。
今は正体がバレなければ問題無い。
踏み込みすぎた横凪の剣を軽々と潜り抜た所で、〈深海〉が解除される。
スクァードの背中上を、体を捻るようにして飛び越えた。スクァードの頭を支えにしたため、「ぐえ」と苦しそうな声を漏らす。
着地。地を小さく穿ち、突き放すために更に加速する。
「はやっ――」
土埃を巻き上げながらリーレニカの居た地点で突風が引き込まれる。速度で引き離せればこちらのものだ。
『気、緩めるなよ』
「え?」
Amaryllisの意識の先――警戒を促された理由を知る。
「そっちに行きました。ファナリスさん!」
――剣鬼か。
肩で切り揃えられた金髪に、戦闘傷のない端正な顔立ちは、常勝不敗たる所以をその容姿一つで示している。
空色の瞳が部下の声に反応し、ゆったりと揺れる。
手に提げるは〈長剣のデバイス〉――外部からマシーナを取り込み、その量に応じて刀身を紅く染める型式。
既に何体もの機人を葬ったのだろう。十字を形成する白銀の護拳とは対照的に、刀身の中央に掘られた血抜き溝では赤黒いマシーナ粒子を循環させている。
殺傷のための兵器型デバイスであるにもかかわらず、薔薇のようだと錯覚した。
戦場で一切の焦燥も不安も見せない立ち姿。
マシーナ警報の中、恐らく自分の死は勘定に入れず、最短で機人を討伐することだけを計算しているのだろう。
剣の鬼と呼ばれるだけある。
ファナリスは横目でこちらを確認すると、背後に近付く機人には見向きもせず、一振りで致命傷を与え切り伏せた。
凛とした目で、速度を緩めないリーレニカを捉えると――剣を握り直す。
「凄いプレッシャーね」
思わず呟く。
気付けば指先が小さく震えていた。
――震えるのは久しぶりだ。
無意識に〈帳〉の起動時間を延長させる。
リーレニカを取り巻く夜空色のカーテンが鈍く明滅するのを感じた。
「団長、俺が出ます!」
「功績を上げるのは俺だ!」
また気の強い若い兵が二人、進行ルートに飛び出してくる。
「何をしている、よせ――」
ファナリスが兵二人に声を掛けるより早く、リーレニカの加速はギアを上げた。
二人は恐らく〈白札〉のスクァードより若い。この騒動に臨時で駆り出された王立騎士学園の学徒だろう。
今回の件で功績を上げれば、飛び級で騎士団への就任も可能と言ったところか。
スクァードに比べ警戒心がない。殺すことに執心し特攻してくる。ただの蛮勇故に厄介だ。組み伏せてでも自分の進行を止める気概を感じる。
とはいえ未熟な兵にまで〈深海〉の連発は避けたい。レイヤー伍と会敵する可能性は無視できない状況。余力は常に残しておく必要がある。
ならば手加減はしない。
スペツナズナイフを二本、深く握る。手荒だが情は必要ない。
殺傷は両腕とも、必ず一刀で済ませる。足を緩めることは論外だ。
殺すシミュレーションは済ませた。
兵二人と肉薄する。
「一体目!」
意気揚々と剣を振り上げる兵二人の頭上に、突然大きな影が差す。
不気味な二つのマネキン――機人だった。
「 え 」
一人は狼狽え体勢を崩す。もう一人は間に合わないと悟りながらも剣を頭上へ振りあげようとしていた。
マネキンは馬鹿にするように、粘液を引きながらニヤつくように口を割る。
――未熟だけれど、勘はいいわね。
スペツナズナイフを射出させ、兵二人の耳を掠める。
機人二体の額を正確に貫き、再度トリガーを引いてワイヤー伝いに回収した。
マシーナ殺しの毒を含んだ刀身は、瞬時にマネキンの血中マシーナを食い荒らす。絶命したマネキンは口を開けたまま力を抜き、兵二人に覆い被さる。リーレニカはその隙間を縫って通過した。
マネキンに押し倒された形となった二人から、慌てふためく情けない悲鳴が聞こえる。既にマネキンは殺したというのに。
胸部の赤い宝石――マシーナ・コアは破壊していない。故に急所ではなく体内から自壊するマネキンは、通常の消滅方法と異なる。肉体が粒子状に分解されないため、彼らの慌てようは無理もないのだろう。
彼らには悪いが、気付くまで醜態を晒してもらうこととした。
まだ問題は解決していない。
剣鬼――ファナリス・フリートベルクがこちらから視線を外さない。
少し驚いた表情をしていたが、直ぐに騎士の表情へ戻る。
確かに向こうからは「機人を攻撃する機人」という構図に映っているのだから、〈帳〉を起動しているリーレニカが奇妙な個体だと思われてもおかしくはない。
そうしてファナリスの間合いに入る際、ナイフ二本での剣戟の防御と、出し惜しみを諦め〈深海〉を起動しようとした。
『ほう? こいつは面白い』
Amaryllisが物珍しそうな反応を示す。
ファナリスはリーレニカに切り掛からず――見逃した。
「な……どうして」
この場の誰もが自分を機人と認識し疑わない中、ファナリスから殺気が一切感じられなかった。
柄を握る手にも力はなく、そういう剣技というわけでもない。
ただ、高速で駆ける黒い人影を見逃した。
――なぜ機人を見逃す? 無害だと判断したのか? この騒ぎだ。変異体であってもおかしくないのに。
あらゆる可能性を考えるが、とにかく危険地帯を脱した事実だけを受け止める。そろそろ〈帳〉が解除される時間だ。
『もう解くぞ』
再び人気のない道に抜け、リーレニカの正体を秘匿する漆黒の〈帳〉が解除される。流水で洗い流される泥のように、夜空色のマシーナ反応が解けていった。
『リーレニカ、そろそろポイントDだ。機人は居るか?』
「ポイントCには数体ほど。ファナリス隊が掃討に当たっていたところにエンカウントしましたが、通過しました。ここは人が大勢居ますが――」
広範囲を目標としたポイントで、ターゲットがどこに居るかは判別が難しい。更に中央を目指し、駆ける。
ある程度進んだところで、走る速度を緩めた。
――ん?
――人は大勢いる?
何か引っかかる。
――何故多発的に発熱者がいて、皆平然と外に居るんだ?
それどころか、パレードのピエロが子供の手を取り街を闊歩している。
――憲兵が慌ただしくしているのに、外出規制されていない?
「機械細胞の花粉は平気なのかね?」
声が聞こえ、気温が低くなった。
……違う。寒気だ。
「誰?」
「誰とはご挨拶だな。花売りの小娘」
「――アルニスタさん?」
群衆の中、黒みがかった長い金髪を靡かせたマントの男が立っている。
半径五メートルに人避けを施しているのか、マシーナ起動式の痕跡を知覚した。
興味深そうに、サングラスをかけた盲の男は見えないはずのリーレニカを凝視する。
獲物を見つけた蛇のように、邪悪に嗤っていた。
「私はアレルギー持ちだが、花型機人の出す花粉は平気なようだ」
世間話をするような気軽さで、アルニスタはリーレニカから視線を外す。
――隙だらけだ。
アルニスタ自体は間違いなくこちらを警戒していない。不自然過ぎるほど自然体。意識がこちらに一切向いていないことも、彼を取り巻くマシーナウイルス反応で確認できている。
だが、手を出そうと思えない。
別の何かに見張られている気がした。
「見学していくかね?」
おかしな発言だった。
アルニスタの周りには、群衆以外誰もいない。
だがリーレニカには見えている。
――〝とぐろを巻いた何者か〟が背景に溶け込んでいるのを。
あの中に居るのはスタクなのだろう。
リーレニカは諦めた。
きっとアルニスタは気づいている。
自分が生体型デバイスを使えることに。
だから「分かっている前提」で話をする。
「その前に医者に診せた方が良いと思いますが」
「詐欺師に縋るなど愚か者のする事だよ。奴らはマシーナウイルス促進剤をばら撒き、路上で診察し治療費を搾取するんだ。やりすぎて憲兵に泣きつくケースもあるがね」
彼はスタクを憐れむように続ける。
「だが、今更医者へ引き渡したところで、それは彼のタメにならないだろう。殺処分か――実験動物にされ、散々擦られた挙句殺されるのがオチだ」
「アルニスタさんの成されていることは実験では無いと?」
「私を低俗な連中と一緒にするな」
アルニスタは少し残念そうに笑う。
「リーレニカ、『機人はこの世から消えた方が良い』。そう思わないか? 私はそう思う」
「それとコレに関係が?」
「あるとも。一番の近道は生体型デバイスの上位クラス――〈古代獣〉を媒介としたエネルギー転用だ」
古代獣。
マシーナウイルスの始祖。
人類を苦しめ、同時に文明の進化をもたらした高位生命体。
「冗談でしょう? 彼は人間よ。古代獣なんかじゃないわ」
「存在ではない。性質だよ」
こちらの考えていることなどとうに分かっているように、アルニスタは遮る。
「彼は〈レイヤー参〉を発症しておきながら、同時に人の原型を失うであろう〈レイヤー伍〉を誘発している特異体質だ。分かるかね? 『人の心を宿したまま異形に成る』素質が彼にはあるのだよ」
まるで珍しい昆虫を見つけた子供のように、声音が高ぶっている。
アルニスタのしようとしていることは分からない。だが、このまま見過ごすと取り返しのつかない事になる予感がした。
それを知覚したAmaryllisが、リーレニカの指示を待たずに「白銀の世界」へ招き入れる。
感情を色として認識できるAmaryllis。それと同期したリーレニカは、全身が粟立つ感覚を止められなかった。
漆黒。
目の前でどす黒い悪意が立ち込めていた。
「分からないか? つまり、彼のマシーナウイルスは」
リーレニカは聞き終える前に、スペツナズナイフを握る。
「正常なマシーナ濃度である〈レイヤー壱〉の人間を、機人モドキ――〈レイヤー参〉へ引き上げることができるのだよ」
言下。
周りの人達が歩みを止め、苦しみ始めた。
全員の顔に痣が出る――反応したマシーナウイルスが皮膚まで浮き上がっているようだ。
「何をした!」
「花粉を散布しただけだ。レイヤー参を体に覚えさせれば、機人化の耐性が出来るだろう? 理性は吹き飛ぶだろうがな。ところで……何故君は平気なのかね?」
会話の中で攻撃されているのを感じる。
大気中の〈花粉〉に紛れ、スタクの悪性マシーナがリーレニカに侵入しようとしていた。
だが蝶の耳飾りはそれを許さない。
既にリーレニカを取り囲むように展開していた不可視の〈蝶〉が、その尽くを無力化している。
「あまりレディにしつこくすると嫌われますよ」
「構わんよ。私は欲しいものは何をしてでも手にしてきた」
蛇の頭蓋骨を模した杖から歪なマシーナ反応を感じる。
ただの兵器型デバイスではなさそうだ。
「多少手荒だが、許してくれたまえ」
苦しんでいた民衆が、糸の切れた傀儡のように脱力する。すぐに立ち上がった。
全員無表情で、慌てる様子は無い。
光を失った瞳が、次々とリーレニカに向く。
この能力には既視感があった。
〈マネキン〉を同意なしに使役する。機人の上位種――〈司令塔〉だ。
「下衆が」
悪態をつくと、スペツナズナイフから手を離す。
意識を失い傀儡と化した民衆は、無表情のまま荒々しくリーレニカへ殺到した。
「Amaryllis――」
『なんじゃ。何か言えい』
迷う。
研ぎ澄まされた白銀の世界で、暴走した民衆の足は止まらない。
――時間切れだ。
逡巡し、近接格闘に切り替える。
飛び込んできた目の前の男をいなし、後ろから羽交い締めを狙う女に、回し蹴りの要領で転倒させる。
左右から次々と飛び込んでくる男を駆け上がるように、体を捻りながら飛び越えた。
――ここでデバイスを使えば奴の思う壷だ。
Amaryllisは脳内で『「呼んだだけ」というヤツか?』とうるさい。
市民が凶暴化しているのはスタクのマシーナ能力――〈花粉〉のせいだろう。あまり長く暴れさせると彼らの体がもたない。
ここら一帯のマシーナ反応が乱れている原因も同じく、花粉による事は明白。しかも、アルニスタが欲しがっているモノ――〈生体型デバイス〉も自分の耳飾りに納めている。手の内を晒すと面倒だ。
――ならば。
「座標」
『優柔不断め』
デバイスが、リーレニカの眼球に巣食うマシーナウイルスへ干渉する。
瞳が金色に染まった。
スペツナズナイフを射出する。
「〈杭打ち〉――五本」
やはりアルニスタを無力化するしかない。
群衆の中、ナイフは推進力を殺すことなく直線上に飛翔する。
「ほう。人を殺すか」
操られた人々は意識がない故に、死ぬ恐怖もない。たとえ眼前にナイフが飛来していようと、避ける動作はプログラムされていない。
だが、ナイフにはプログラムされている。
「――?」
ある一点でワイヤーが直角に折れ曲がり、市民を避けるようにナイフの軌道が変化した。直後更に推進力を得る。
物理法則を無視したナイフの軌道変化。それを五回繰り返し、やがてアルニスタの眼前まで迫ろうとしていた。
「面白い玩具だ」
今まさに死の際に立っているであろうアルニスタは、この瞬間も他人事のように嗤っている。
「他と大差ないがね」
最後に直線の軌道を描いていたナイフが、虚空で停止した。
『尻尾を出しおったな』
比喩ではなく、見たままの結果をAmaryllisが述べる。
蛇だ。人を丸呑みできるほど、とても大きな。
マシーナ粒子の塊が大蛇を形成しているように見える。高々ともたげた尻尾がナイフを受け止めていた。
ナイフの毒は僅かに作用しているが、表面を蒸発させるだけで有効打になっていない。
そして直感する。
あの大蛇――生体型デバイスだ。
「時間切れだな」
民衆の波がリーレニカを組み伏せようと容赦なく飛びかかる。
『なあ小娘。こっちも挨拶してやらんとな』
そんなつもりはなかったリーレニカにしてみれば、このカードを切らされる状況は、情報を開示する点において大きな損失になる。
しかし、手段を限定された時点で負けだと諦める。
ため息をつき、〝起動〟の命令句を零した。
「――蝶庭園」
「〈蝶庭園〉」
言下。
リーレニカの足元から、花畑が地表を走るように咲き広がっていく。
そして現れる無数の煌めき。
リーレニカの耳飾りから極彩色の粒子が展開され、一定の距離を漂うと蝶へ姿を変えた。
組織のドクターが言うには、それは「マシーナウイルスで形成された、Amaryllisの固有世界」らしい。
耳元 でAmaryllisが嬉しそうに声をしゃくらせる。
『久々の馳走じゃ』
「まて、それは」
アルニスタの顔に昂りが浮かぶ。探し求めていた宝を見つけた時の子供が如く、口角がつり上がった。
「生体型――」
「〈蟲籠〉」
悪意と交わす言の葉は持ち合わせていない。
アルニスタの確信とも問いとも取れる言葉を遮り、リーレニカは独自の命令式を発言した。
夥しい数の不気味な子供の笑い声が滲み出す。
大地を割り、蔦が激しく飛び出す。リーレニカに飛びかかる民衆を容赦なく封じ、地面に縫い付けていった。
『にひ』
Amaryllisが愉しそうに笑う。
『弱い生き物は難儀じゃのう』
アルニスタの〈大蛇〉がAmaryllisから溢れるマシーナ濃度に反応。明らかな敵意を向けていた。
全身がクリスタルブルーに透けた粒子の塊。
頭から尻尾まで透き通る青一色の大蛇が、不規則に土色の鱗へ変化し、すぐに戻る。忙しなく多様に擬態し続ける爬虫類を思わせた。
大蛇としてか、マシーナとしてか。定義を曖昧にする化け物は、時折蛇の顔を表示させ、また青い輪郭に戻る。
いずれにしても不気味な生き物だった。
手足の退化した相手は、全身の波状運動を用いて地表を滑る。
一瞬でリーレニカの〈花畑〉まで到達。その優れた個体性能に舌を巻きつつ、迷わず迎撃を選択する。
リーレニカが次の命令句を紡ぐべく口を開くと、
「待て」
アルニスタの指示で大蛇がビタリと動きを止めた。
手足の退化した獰猛な爬虫類が、紫陽花色の少女を食い荒らそうと興奮している。
「時間切れだと言ったろう」
アルニスタは蛇の頭蓋骨を模したステッキを強く突いた。
大蛇が大きく脈動し、震え、やがてその姿を保てなくなる。
蛇を形成していたマシーナ粒子の塊が四散する。黒い霧と成り果て、リーレニカの視界を遮った。
アルニスタの気配が希薄になる。
「逃がすかッ」
『お預けじゃ。周りみてみい』
Amaryllisは民衆の異変を即座に察知し、〈蝶庭園〉と〈白銀の世界〉を解除していた。
地に縫い付けた蔦も粒子となって消え、拘束していた暴徒はアルニスタの支配から抜けたのか、気を失っている。
黒い霧が晴れると、アルニスタとスタクが姿を消していた。
だが彼は逃げるだけで終わらせなかった。
****
「こいつら正気失ってるぞ!」
「憲兵は何してるんだ!」
兵器型デバイスを持った市民が少数の〈マネキン〉を相手にしている。
更にスタクの〈花粉〉に晒された市民の一部は、気でも触れたように小規模な暴徒と化していた。
機人と狂人が入り乱れ、混沌とした戦場が出来上がる。
「まさか――暴走」
兵器型デバイス――銃火器を持った一団は兵服を着ていない。黒いスーツであったり、エプロン姿の者もいれば、作業服のツナギを着た者もいた。
やけにデバイスの扱いに慣れているようだが、機人ではない人間に向けることを戸惑っている。
『いやーな造花屋の暴力団じゃな』
ミゲルの束ねる暴力組織らしい。
「なぜ憲兵の手薄なエリアに」
率直な感想が口をついて出たが、恐らく理由は単純だ。
街を守るため。あとは――
「ミゲルさん。たぶんリタだ、見つけたぞ!」
黒服が声を上げる。
白塗りの道化師が、カラフルな衣装で女の子の手を取り歩いている。
黒服がその子を掴むと、ピエロは急に高笑いを上げた。
奇天烈な道化師の服が風船のように膨らむ。
止まらない。どんどんと、更に肥大化を続ける。
「離せこの野郎」
「待てギニシャ。そいつ――!」
ミゲルが、部下へ声を張り上げながら飛び出す。
娘を掴む道化師は不気味な笑顔で膨張し、ピークに達しようとしていた。
『奴は生き物ではないな』
「くそったれ」
ピエロへ悪態をつく。
Amaryllisの言いたいことはリーレニカにも理解出来ていた。
「Amaryllis。やって」
『……尻拭いはせんからな』
相棒の意図を察したのか、Amaryllisは己の固有世界と〈同期〉を開始する。
水泡に包まれる感覚。そして泡は弾け、リーレニカの視界は色を失った。
白銀の世界が広がり、更に体感時間が凝縮される。
次いで民衆のマシーナ反応がネオン色で映し出される。恐怖と怒りの色が混ざりあった、混沌とした世界が広がっていた。
知覚対象をピエロだけとなるようフィルターをかける。
人間の持つマシーナ濃度とは異質な、極めて赤い粒子の塊が浮き彫りになる。
『十二時の方向。レイヤー不明。人型。マシーナ濃度――オーバー百パーセント』
やはり。
リーレニカの見立て通り、ピエロはマシーナ粒子の集合体だ。
人間じゃない。
だだ〈歩行〉と〈把持〉の単純なプログラムを施しただけの個体。
それが破裂しようとしている。
『矛盾した命令式による暴発を検知』
――自壊か。
マシーナウイルスは無秩序のエネルギー体であると同時に、非論理的な指示に対してはどこまでいっても出鱈目な結果を提示する。
マシーナウイルス単体が持つ不可思議なエネルギー。その使い道を見失うと――爆発するのだ。
リーレニカは自爆までのリミットを見積もり、最短で成すべきことを計算した。
そして、〝殺しの設計図〟をプログラムする。
「フローチャート構築完了。テスト開始」
『所有者確認――承認。プログラム〈リーレニカ〉実行』
リーレニカは生体型デバイスに即興のプログラムを施し、己の〝人間的部分〟を漏れなく排除した。
直後、くそったれは生体型デバイスの力に晒されることとなる。
紫の軌跡が街中を迸る。
『対象の自爆まで十五秒』
この状態の主人と対話が成立しない相棒は、自分だけ話すと滑稽に感じるのか、事務的な現状報告しか行わない。
――成すべきことは二つ。
一つは、ピエロを殺したうえで、ミゲルの娘リタを守ること。
次に、辛うじて正常な市民を狂人から逃がすこと。
これを十五秒の内に片付けなければならない。
ピエロとリーレニカを結ぶ最適経路が白銀の世界に表示されている。だがリーレニカは自らの意思でそのルートを走っているわけではなかった。
正確には「リーレニカが指示した手順を辿るよう、Amaryllisが体を操作」している。
光を失った瞳。
駆ける姿は、人間の限界を超えた速度。
非現実的な動きをその身を以て体現する。
実に機械的な精密行動だった。
『十秒』
まずは狂人を封殺する。
幸いにも機人化はしていない。まだ救われる道に賭けた。
両手に気絶を狙った〈衝撃〉を伝播させる命令式を施す。脚には膂力を増強する肉体強化のプログラム。
それは、対象が気絶するまで反響し、拡張する衝撃波。
初めに、狂人がリーレニカを襲うようマシーナウイルス反応を使い〝挑発〟し、自然、半径二メートル以内に狂人の群れを成すよう誘引する。
正気を保つ人間は、危険から逃れる本能に従い狂人の流れから離脱し、リーレニカを横切る。
――この瞬間。
リーレニカの間合いには〈花粉〉の影響を受けた者しか居なくなった。
結果の現象から言えば、紫陽花色の軌跡が通過した一秒後に、至る所で〝軽快な破裂音〟が幾重にも、同時多発的に生じることになる。
****
広範囲に影響を及ぼした〈花粉〉と、それによる狂人の群れ。
初めにリーレニカを殴ろうと大振りの右腕が来ると、その鳩尾へ〈衝撃〉の命令式を打ち込む。
狂人の胴体がくの字に折れ曲がる。
衝撃は更に増幅した。
空気の揺らぎが起きると、初撃を受けた狂人を中心として、地に積もった砂埃が円状に舞う。半径二メートル圏内の狂人がその波状攻撃に晒された。
一口に言えば〝超広範囲連鎖攻撃〟。
リーレニカの周囲一名ずつが強力な〈衝撃波〉に襲われ、尚も増幅し、芋づる式に周囲の狂人へ伝播する。
狂人の数を目測で推し量り、〈衝撃〉の拡張は十人まで――半径二メートル圏内に生命体がいなければ途絶――個体の中で気絶に要する反響は最大三回になるようプログラムした。
――狂人を相手取るには、いくら戦闘のエキスパートとはいえ足止めを食うことになる。
ならばまともに取り合うのは一人で良い。
狂人の集団を不規則な一塊と仮定し、リーレニカの走行経路上で簡易的な五ブロックとして区分けした。その集団で初撃を受けた狂人が〈衝撃波〉の起こりになる。
それが掌底一つで起動。
リーレニカの通過した跡は、機人になりきれず横倒しとなった、狂人達の昏睡体が連なっていく。
暴徒の動きが次々と途絶える。
既に五十もの機人予備軍は意識を失っていた。
ピエロの膨張は間もなく限界域に達しようとしている。
体内のマシーナウイルスが、有り余るエネルギーの解放を求め震えているようだった。
『五秒』
突如目の前に躍り出たコウモリスカートに、黒服のギニシャは目を見開き固まる。思考が完結するのを待ってやる猶予も気遣いもない。
人の意識を切り取ったリーレニカは、黒服の反応を待たず後ろへ突き飛ばし、ミゲルの娘――リタの手を取った。
『三秒』
「集合」
言下。マシーナ粒子が肉眼で捉えられるほどに、超密度の集合体となって荒々しく顕現した。
虹をデタラメにかき混ぜたような不格好な壁が、ピエロの手首を咥えている。相手を包むように半球状へと形成された。
マシーナ粒子は己の定義を見つけたのか、虹から土色に変色。壁のような、重厚な土塊と化した。
『二、一、――』
「閉じろ」
リーレニカは広げた五指を畳むように握ると、己の額へ引き寄せる。呼応するが如く、〈壁〉はピエロの手首を圧迫――容赦なく切断した。
零れ落ちた手は本体から離れると儚く灰と散る。
それを皮切りに、ピエロの正体が暴かれる。
手首の切断面から出血はない。代わりに、激しい火花が盛れ出していた。
ピエロがげらげらと笑う。
「リタ――!」
『――零』
馬鹿にするような熱風が、煌びやかに辺り一帯を刺した。
****
生体型デバイスとはいえ、他人に体を使われる感覚はとても慣れたものではない。
理想の動きを体現するには、相応の肉体が必要になる。修練を欠かしたことはなかったが、さすがのリーレニカも疲労が蓄積していた。
細い路地に入り、壁に手をつく。
大きく息を吐いた。
「ソンツォ、一度通信を遮断します」
『まてリーレニカ。今の爆発大丈夫――』
蝶型イヤリングの輝度が一段階落ちる。
司令室との通信を一方的に切ると、周りの喧騒が鮮明に聞こえるようになった。
皆一様に爆発の騒ぎに追われている。
マシーナ反応を見るに、死者は出ていないようだ。即興だったが、〈壁〉を構築したことで被害を最小限に抑えられたらしい。
リタという娘もピエロの高濃度マシーナに当てられていたようで、軽度のマシーナ中毒症状が見られていた。処置はしてやりたいところであったが、これ以上あの場にいるわけにもいかなかった。
――どうにか人の目からは逃れたか。
『なぜ隠れるんじゃ』
「あまり目立つような行動は控えないと」
『じゃが褒められることをしたぞ』
「それで衆目を集めでもしたらどうするんですか。ただでさえ」
『うるさいうるさい。ワシは褒められたいんじゃ』
「あなたが褒められるわけじゃないのよ」
駄々をこねるAmaryllisとの問答も大概疲れるものだ。これで偉大な高位生命体だというのだから呆れてしまう。
どうせ褒められたいというのは建前で、人間が褒められた時に出る感情を食べたいだけなのだろう。
リーレニカは灰色に濁った空を見上げて目を閉じた。
白銀の世界に入りすぎたようだ。気力も削がれ、マシーナ操作すら満足にできない。
考えないといけないことも多すぎる。
「ピエロといい、スカルデュラ家といい、一体なにを――」
「ここは隠れるのにちょうどいいよな」
聞き慣れた声。
――これで背後を取られるのは何度目だ。
我ながら学習しない。自分自身に苛立つ。
振り返ると、ミゲルが死にそうな顔でリーレニカを見ていた。
「ミゲルさん」
『そらきた。褒めてもらえるぞ』
Amaryllisが上擦った声ではしゃぐ。
――バカ言うな。
あの目はとてもじゃないが、そんな素敵なものとは程遠い。
あれは、そう。
化け物を見る目だ。
「なんなんだお前」
よもや自分の居所を嗅ぎつけた理由を聞くまい。
ミゲルは表の顔で生花店を演じているが、裏では暴力団を取り纏めるボスだ。憲兵とは仲が悪くて当然。目立たない場所だって欲しい。
ここも「そういう使い方」をしていたのだろう。
「ボディーガートとかそんな話じゃないんだろ。お前の、なんというかそれは」
ミゲルはいつになく深刻な顔をしている。
「非現実的だ」
「その冗談は嫌いじゃないですよ。ただ……そうですね。マシーナウイルスが現実を歪めているだけです」
リーレニカの軽口にミゲルは納得しない。
「私は元軍人です」
「それは『そういう事にしろ』と言っているのか」
「お互い様だと言っているだけです」
「……そうじゃねえだろ」
相変わらず話が通じない。
ため息をつく。長居している場合でもない。ミゲルの横を通り過ぎ、そのまま去ろうとしたが、
「なんで助けてくれたんだ」
「え?」
「お互い様じゃねえだろ。いくら高濃度マシーナの花を売っていたって、散々お前たちを目の敵にしたんだぞ。どうして仲間を――娘を助けてくれたんだ」
そんな話をしに来たのか。
「私は」
言葉を呑み込む。
「――あなたの娘は、慢性的なマシーナ中毒ですね」
ミゲルは予想しない答えに、一瞬瞠目した。
「あのピエロは人間じゃない。マシーナウイルスを詰め込んだ『肉の塊』です。マシーナ中毒者はより多くのマシーナを意味もなく求める。だから着いていった」
「なんでそんなこと分かるんだ」
「分かったのはアルニスタが来てからです。あの子の目は焦点が合っていなかった。いえ――マシーナを見ていたのでしょう。だから高濃度マシーナの花を売る私達が売人と重なった」
「リタはあんたの言う通りマシーナ中毒だ。俺が貴族連中に披露する造花を作っていた時、マシーナを抽出させた容器が破裂してな」
ミゲルは肩を落として「それからあの調子だ」と目を伏せた。
「最初から知ってたさ。全部俺が悪かったんだ」
「あの子は無事なのね?」
「ああ……リーレニカ。あんたが助けてくれなかったらリタだけじゃなく仲間も失っていた。今はうちのデバイス技師に診てもらってる」
「そばにいなくていいの?」
「『煩いから俺に任せろ』だとさ。あいつの腕は確かだ。リタが安心して起きられるよう、今は街をなんとかしてやらないとな」
「そう」
リーレニカも少し安堵する。
ふと、アルニスタの言葉が頭をよぎった。
――機械細胞の花粉は平気なのかね?
「――花だ」
「なに?」
「ミゲルさん。とにかく善性マシーナ溶液を集めて。リタもまだ安全じゃない」
「どういう事だ? なに言ってる。これから医者まで連れてくが」
「医者はダメ、薬剤師を訪ねて。それとマシーナ反応が出たばかりだから清潔にして、直ぐに眠らせて。生体型デバイスに干渉してると、〈レイヤー弐〉の幻覚症状が出やすいの。子供は心が未発達だから油断しないで。それにレイヤーの急性変化は記憶が錯乱し易いけど、数時間もあれば落ち着くから慌てないで。それから」
「おいおいちょっと待て。何なんだあんた。何でそんな事まで知ってる」
ミゲルは己の頭を抑えて話を遮る。いつかリーレニカに返り討ちにあい焼けたその手は、黒い手袋で隠されていた。
ここまで捲し立てたのは、あくまでも経験則に基づいた処置だ。確実性は乏しいかもしれない。
しかしこのままスタクの〈花粉〉に晒されて、何が起こるか予測がつかない。分析している時間があるのかさえ怪しい。
「――皆を死なせたくないの」
これ以上開示できる情報はない。
「何故分かるかは言えない。でも……信じて欲しい」
リーレニカの何かと葛藤するような声音に、ミゲルは何かを言いかけてため息をついた。
「やっとまともに喋りやがったと思えばワケのわからん事を」
「……ごめんなさい」
まさかリーレニカが謝るとは思ってもみなかっただろうミゲルが、更に目を見開く。
珍しく塩らしい態度に吹き出した。
「お前さんが不器用なのはずっとだろうが。ただ、今回はマジだってのは分かるぜ。商売人の勘は嘘つかねえんだ」
兵器型デバイスを主力とする構成員を取り仕切るミゲルは、裏と表の社会を器用に扱う。
善性マシーナは製造難易度が高く収集は容易ではないが、何とかするはずだ。
「それから何をしたらいいんだ。教えてくれ」
****
九名の大人に囲まれた少年――のように見える一団。兵士のようだ。
皆、貴族街の一角で円を作り、険しい顔をしている。
銀十字のファナリス隊とは少し様子が異なる。
銀の鎧に烏の紋章が刻印された一団。
彼らを除けば、平民区画で起きた騒動に対して気に留める者はいない。貴族達は変わらず優雅に街を往来している。
そうでなくとも、兵の会合にしては先程から明らかに一名浮いているのだが、誰もそれを気にする者はいない。
「商業区で行方不明者が続出しています。レイヴン団長、我々も出動すべきです」
大人の部下の意見に、〈少年〉は淡々と返す。
「どれも十歳前後の子供じゃないか。ファナリス隊は何してるんだよ」
「ファナリス隊の半数はロウレット副団長と、遠方の機人出没エリア調査のため出払っています。街に残っている隊だけで機人の掃討に追われているようです。レイヤー肆の発症者と、レイヤー参の半機人が同時多発的に出現しています」
「向こうも人手不足ってわけね」
ここまでのやり取りも、大人の兵士と子供の団長が交わしている。
隊員はもちろん鎧姿。
しかし、黒髪の子供は鎧が大きいためか、格好が明らかに違うのだ。
レイヴン団長と呼ばれた男の子は、布のような質感の――実際『衣服』と言った方がよい――白を基調としたフードに、膝丈のハーフパンツ姿。
背中に大きく、黒鳥の刺繍が施されている。
見た目、齢十五の少年だった。
レイヴンは凛々しい表情だけ団長っぽさを出しているが、初見の者は二度見必至の騎士団だった。
黒髪を乱暴にかきあげ、空色の瞳を細める。
肩口まで降りていた髪から黒鳥のピアスが顔を出し、陽光を散らした。
――銀十字のファナリス隊は、主に平民区画と外壁に至る領土を担当する王立騎士団だ。
対して黒鳥のレイヴン隊は、貴族街の守護を担っている。
ここで貴族街を手薄にしてファナリス隊の尻拭いをすべきか、黒髪の少年は逡巡する。
事態の全貌を掴めていない今、安易に兵力を割いた綻びで全てが瓦解するか――最悪のシナリオだけは避けなければならない。
「それで、パレードに紛れた〈ピエロ〉がどれも過剰なマシーナ値だと?」
「〈夜狐〉の調査によると、『人型に成形されたマシーナの塊』と結論が出たようです。命令式は『把持』と『指定ポイントへの前進』です」
「子供と手を繋ぐピエロ。過剰なマシーナ値による誘引作用と思考能力の阻害……子供の誘拐にはうってつけだね」
――だが、どうやってここまでの高濃度マシーナを量産している?
レイヴンが顎を抑えて呟いていると、隊の人間が銀製の薄い箱を手に合流した。
「夜狐がピエロと刃を交えた際に回収したものです。直ぐに西区へ向かいましたが、『団長に』と」
箱を開けると、敷き詰められた赤い布に、一際輝く〝青〟が一欠片。
「〈月ノ花〉か。散っていながらここまでのマシーナ濃度。並の回収屋でも採取は困難だな」
「商業区に生花店は一つだけですね」
「フランジェリエッタという女性が店長を務めています」
商業区に詳しい兵士が情報を口にする。
「そいつは重要参考人だ。身柄を押さえるぞ」
「どうやらトラブルがあったようで、療養のため店を閉めているようです」
「いいよ緊急事態だし。最悪この騒動の中心にあると思った方が良いね。過剰に抵抗するなら手段は選ばなくていいよ」
「では店のスタッフも追いますか? 一名だけですが」
「勿論。そいつの名前と特徴はわかる?」
「リーレニカという者です」
商業区のスタッフリストを開いた。
極力平静を装いつつ、街中を早足で進む。
休む暇はない。リーレニカは慌ただしくなる民衆には目もくれず、再び生花店を目指した。
アルニスタの目的が未だ分からない。これだけで終わるとは思えない。自分の正体を上辺だけでも知られた以上、こちらの関係者に危害が及ぶ可能性は無視できなかった。
『小娘、もうガス欠じゃな』
「本当に……食べ過ぎよ」
『お主が張り切るからじゃ。周りのうすーいマシーナじゃワシも力が入らん』
リタを助ける際に体内の善性マシーナを消費した。そのせいで、精神――気力をAmaryllisに食べさせていた。
実際戦闘中であれば、プログラムした動きを取るだけで心の介入は不要。緊急事態のため遠慮なく心と結びつくマシーナウイルスを使ってしまったツケが、今になって色濃くなっていく。
「リーレニカだな」
目の前で銀甲冑の男が立っていることに気づいたのは、男の足元が視界に入った後だった。
今にも倒れそうな己を自制し、下ばかり見ていたせいだ。
だがなぜ名指しされたのか。ふと違和感を感じ、腹部に力を込めて気丈に振る舞う。
「ええ。そうですが何か?」
「王立騎士団の者だ」
今更自己紹介されるまでも無い。これまで何人も対峙しているのだから。
――と、違和感の正体に気づく。
左胸に〈黒鳥〉の紋章。レイヴン隊の兵士。
上流階級を守護するための騎士団だ。
〈銀十字〉のファナリス隊と管轄は対をなす。ファナリス隊が市民街の警護及び機人掃討部隊だとすれば、〈黒鳥〉のレイヴン隊は貴族の護衛と外交までの支援。
とはいえ綺麗モノだけではなく、機人掃討の泥臭い仕事はそれぞれ請け負っている。
それがどうして自分を名指しで引き止めた。
「ストレス値計測ですか? すみませんが急いでますので、後からでも」
「とぼけるな。生花店で〈月ノ花〉を扱っているだろう」
「ええ。それが何か?」
「高濃度マシーナの商品には規制が出る」
今更商売に文句を言いに来たのか。
頭の固い騎士団に応対する時間すら惜しいリーレニカは、早急に話を終わらせるため結論に急ぐ。
「存じています。特殊製品として役所から許可証は出ているはずですが」
「勘違いしているな」
銀甲冑の男はリーレニカを訝しげに観察しながら続けた。
「これは職務質問ではない。リーレニカ、フランジェリエッタ両名に出頭命令が出ている」
「――え」
一瞬、視線が泳いでしまう。
――素性が暴かれたのか?
いや、ここまでで姿を晒したのはアルニスタとミゲルだけだ。この短時間で通報はありえない。
西区までは〈帳〉を使って姿をくらませたはずだ。
直ぐに落ち着きを取り戻し、表情には出さないよう思考を巡らせる。だが思い当たる節がない。
「身構えることはない。君たちの扱う〈月ノ花〉が事件現場各所から出た。関係性を聞きたいだけだ」
聞き、少し息を漏らす。
――取り調べか。
思案する。協力すべきか。
あれから三日。
考える。
何も自分がこの街のために動く必要はないのではないか。街から逃げ出したとしても、〈生体型デバイス〉の情報を得られないとはいえ失うものもない。
ここまでの騒ぎ。王立騎士団であれば、スタクを殺し、アルニスタも処刑対象とするはずだ。自分が暗躍する義理はない。
ましてこの騒動で想定外の物的証拠。冤罪だと訴える試みはできる。だが認めさせるのは容易ではない。取り調べが一日や二日、一週間で済むかも怪しい。
「うちの花が? 何かの間違いでは」
――フランジェリエッタが捕まっているのかすら分からない状況。もし捕まり、最悪拷問まで発展するような事があれば、か弱い彼女はある事ないこと口にする可能性だってある。
下手なことを口にされれば、自分だけではなく組織にもリスクが伴う。
怪しい所は彼女に見せていない……はずだ。だが何一つとして素性に繋がる手掛かりを掴まれてないと言い切れるか。
――絶対はない。
理由をつけて逃げ、早急に殺すべきか。
そこまで思考を巡らせ、気付く。
自分はどこまで行っても心無い諜報員だと。
「すみません。実は今――」
機人警報のサイレンが街中を抜ける。
『マシーナ警報。マシーナ警報。エリア中央区を除く全域で機人症発現。推定レイヤー参以上。移動は危険です。決して建物から出ず、カーテン等で身を隠してください。繰り返します――』
「全域だと? こんな時に」
普段耳慣れない警報デバイスが立て続けに起動し、街は不安に染め上げられる。
黒鳥の兵士はリーレニカを掴もうと手を伸ばす。
「ここは危険だ。とにかく来い」
「後ろ――!」
リーレニカの指さす先。
――カチカチカチ。
歯車が不規則に噛み合う音が近くで鳴る。
奇妙な苦悶の声を発しながら、全身を金属製の異形へと改造していく男。
居合わせていた誰かが「機人だ」と情けない悲鳴を上げた。
リーレニカもわざとらしく「誰か」と逃げ惑う市民を演じ、混乱と怒号の奔流に紛れこの場を離れる。
兵士もリーレニカが離れるのを見て、追うか逡巡する。しかしレイヤー肆となった機人を放っておくことは出来なかった。
「くそ」
悪態と共に剣を抜く。黒曜色の刀身は陽光を受けながら光を逃がすことはなく、金属特有の反射が生じない代物。
レイヴン隊に支給される剣――兵器型デバイスが悪性マシーナの塊に反応し、怪しく唸った。
「デバイス起動」
日が暮れ始めた。街を茜に染め、闇を数滴混ぜたような濁った夕焼けが不気味さを残す。
闇はリーレニカの味方をしてくれる。
リーレニカの得意とする独自の裏ルートを選び走る。アドレナリンで疲労はどこかに失せ、暗がりを遁走するお尋ね者となった。
――フランジェリエッタも兵士の手にかかっている頃か。楽観視はできない。
『まずいな』
Amaryllisの言葉の意味を知ったのは、何度目になるのか。リーレニカの足を止めさせる存在と対峙したためだった。
しかし銀甲冑ではない。
表情を伺えない――狐の仮面。
薄い黒鉄を幾重にも重ねたような鋼鉄の仮面。それが立体的な狐面を形成している。目元が淡い薄緑の光を宿し、双眸は間違いなくリーレニカを捉えていた。
更に、全身の輪郭を誤魔化すように揺れ動く漆黒の蜃気楼。
得体の知れないヴェールに包まれている。
まるでリーレニカの得意とする〈帳〉のようだった〟。
「え……なんですか?」
生活ゴミを投棄する箱が追いやられた路地裏では、あまりにも窮屈な道幅。
無視するには素通りできる自然さはなく、引き返すにも背中を見せる愚行はできない。
怯えた一市民を演じる。通用するかは期待しない。出来ることは全てやる。
だが目の前の狐面は取り合うつもりなどないらしい。
「リーレニカだな」
名指しに、リーレニカは思わず目線を冷たくする。
――同業か。
うんざりしたのか、リーレニカはあからさまに目を回した。
『人気者じゃのう。小娘』
「あの、なんですか。憲兵呼びますよ」
自分はあくまで何も知らない避難民だと主張する。間合いに入ってこない今、リーレニカから動いてやるつもりはなかった。
「通報は必要ない。兵舎まで着いてきてもらうだけだ」
「あなた騎士団の方なんですか? 兵証は持っています? あなたのような人が憲兵だとは思えませんが」
「憲兵ではない。知る必要も無い」
こいつ。
リーレニカは眉根を寄せる。
同業どころではない。
――ただの人間じゃない?
「――? 今受けたのか?」
唐突に。
狐面がおかしなことを言う。
否、当然の反応を示していた。
狐面は今間違いなく攻撃をしたのだ。
大気を極限まで圧縮し、漆黒の蜃気楼によって隠された前触れなき超長距離打撃。その簡易技術。
言ってしまえば不意打ち。
十人が十人、予備動作を知覚する余暇を与えられることなく放たれる一撃必中の掌底――といったところか。
それを。
無意識のうちに受け流してしまった。
せめて偶然を装った受け身にすべきところだ。
「なんのことか――」
しまった、と。
口先は冷静を保ちながらも、後悔が顔に出てしまいそうになる。
マシーナの殺意反応を受信してしまい、思わず抵抗してしまった。
少なくとも一般市民では起こり得ないこの結果を、相手は理解しようとしている。
だがこの際構っていられない。
相手は明確な敵意を向けている。マシーナがその敵意を明確に示している。
ならばやるしかない。
『ネットワーク検索――完了。王都直属の工作員。部隊名称は〈夜狐〉。主な職務は諜報と憲兵の戦闘支援。また、指定犯罪者の暗殺』
工作員――王都御用達のエージェントか。組織のネットワークに割れているという事は、公認の部隊であることの裏付け。
こんな所で同業と会えるとは思ってもいなかったリーレニカは、馬鹿馬鹿しくてつい口角が上がってしまう。
――やはり同業か。仲良く出来そうにないな。
「この騒動だ。我々は迅速に事を治める義務がある」
まるでリーレニカが犯人であるかのような物言い。
初撃のやり取りで何者か見抜かれた。どころか、初めから市民とすら見られていなかったのかもしれない。
同業には同業にしか分からない所作がある。
さらに路地裏を好んで走る避難民。我ながら好き放題動いたものだと、リーレニカはため息をついた。
「抵抗は許そう。だが身の保証は期待するな」
「……『正当防衛』でいいんですね」
少しは手の内を晒して良いか。
腹を割って――叩きのめそう。
リーレニカのせせら笑う様子に、夜狐も仮面の裏で笑っているような気がした。
狐面は今のところ、デバイスを起動する素振りは見せない。どこまで行っても格下に見られている。
否、そう認識させている。
力にせよ何にせよ、底を知られないこと。それがリーレニカが「仕事」をする上で譲れないプライドだった。
しかし、なぜ自分を狙うのかすらリーレニカにはわからない。逮捕するにしても暗躍部隊を仕向ける必要はないはずだ。
どう見ても不当。普通では無い。
状況を整理する余暇を与えてくれるはずはなく、夜狐は地を蹴った。
想像を裏切り、相手はたった一蹴りで数メートルの距離を潰し、肉薄する。
――〝同期〟。
思念による指示。波紋を打つように白藍の格子線が広がり、〈白銀の世界〉が完成。
狐面から赤い行動予測線が伸びる。一本ではない。
大量の予測線がリーレニカを突き刺すように溢れ、視界を埋め尽くす。
人間一人からそれが出る事実に舌を巻く。本当にそんな動きが可能なのかと目を丸くした。
予測線の濃度はどれも差がない――つまり本意気。フェイントではない。尽くが全力――信じられないが。
予測線が役割を果たそうと輝度を上げた。
多重打撃が来る。距離を取る時間はない。
『使うか?』
――いらない。
Amaryllisの提案は殺害だった。手加減をして無傷でいられる相手ではないと暗に示している。
それは拒否した。
相手は機人ではない。
程度はどうあれ――ベースは人間だ。
狐面がリーレニカの腰下まで屈むと、次の瞬間、漆黒の蜃気楼から無数の腕が飛び出した。
――ちがう。無数に見えるだけだ。
極限まで肉体の速度を上げた、コンマ一秒差の多重打撃。
容赦なく浴びせられる両の拳がリーレニカへ殺到。
人間の体を殴打する音が、絶え間なく、激しく生まれる。
リーレニカの――右膝、顎、肩、腹、左側頭部、鼻、左足、右脇腹、額、右足、鳩尾、首――。
その全てを掌底で撃ち落とした。
「――!?」
驚異的な速度であるにせよ、完全に同時でなければ手数は問題にならない。
相手の攻撃にこちらの掌底を合わせるだけでいい。
正しい手順を踏めば、正しい結果が生まれるだけの事だ。
とどめの回し蹴りが互いに衝突し、突風が生まれる。周囲の枯葉が舞い上がり、二人の空間が綺麗になる。
一瞬、時が止まった。
狐面は表情こそ見えないが、信じられないといった動揺の色を漏らしている。
「お前――何者だ」
「いきなり襲ってきて言う言葉ですか」
「探り合う腹は必要ないだろう。我々が何者かなど知れているだろうに」
「言えば通してくれるのですか?」
「……」
押し黙る。
肯定も否定もしない。相手の纏う漆黒の蜃気楼。そこから微弱に漏れるマシーナ変化では感情を分析できない。
鬱陶しいと、リーレニカは眉根を寄せた。
〈夜狐〉という部隊を使うということは、理由は不明だが騎士団もなりふり構っている状況ではない証。事件に関与していると疑わしき人間は手当たり次第に尋問にかけるつもりなのか。
平民区画だからそんな不当が許されるとでも言いたいのか。
リーレニカはしれず、舌打ちをする。
今にもフランジェリエッタは捕まり、どんな目に遭っているかも分からない状況。
弁明をしている時間はない。ましてそれを聞き入れる耳が相手にあるとは思えない。
自分から情報を聞き出すにしても、身柄を拘束する工程は妥協しないのだろう。
ここで交わす言の葉がそもそも無駄。
ならば。
「待て!」
リーレニカは今度こそ踵を返し――疾駆した。
察するに、相手は人間ではない。
正しくは人をベースにした改造人間。
マシーナウイルスを効率的に循環させ、運動能力を限界まで引き上げた強化兵士。
なるほど非人道的な政策。一般公開しないはずだ。
だがリーレニカの所属組織では情報が入手できているレベル。中堅階級の〈青札〉まではその組織体制を共有しているようだ。
リーレニカは直線の逃走を嫌い、マンションの壁に備えられた室外機を足場に、屋上まで次々と跳躍した。
「Amaryllis、フランジェリエッタのマシーナ反応をポイントして」
『そんな悠長な事を言っている場合か?』
視界が開け、月明かりがリーレニカの姿を晒す。
漆黒の蜃気楼が目の前に躍り出た。
「アルファめ、しくじったな」
「――――」
新手。
〈夜狐〉は隠密部隊だ。一人のはずがない。
リーレニカは白銀の世界に映る情報を戦闘から解析モードに絞る。
漆黒の蜃気楼の秘匿情報を解析し、目を丸くした。
解析の完了を待たず、相手は掌に〈衝撃〉の命令式を携える。リーレニカの頭部を掴もうと詰め寄っていた。
もう一人――〝アルファ〟が路地から追従しようと追ってくる気配を感じる。
逡巡。思考の許される数秒。瞬きをする余裕などない。
リーレニカは再び地を蹴り――屋上から身を投げた。
「死ぬ気か」
呟く増援を鼻で笑う。
自由落下で加速するコウモリスカート。空気の膜を切り裂き、突風が全身を覆う。
二体の狐面がリーレニカの落下地点へ迫る。
〈夜狐〉という部隊がどこまでの規模で動いているかがわからない今、二人だけだという先入観に捉われてはいけないと判断した。
故に戦闘は路地裏の限定されたスペースへ誘い込む。
頭上の狐面と下で待ち構える狐面が、リーレニカの落下を受け止めると同時に意識を刈り取ろうとしているのを感じる。
リーレニカの瞳が金色に染まった。
「〈杭打ち〉――三本」
言下。
宙で見えない足場ができたように、リーレニカの落下軌道が変化した。
白銀の世界に映し出されたのは、紫陽花色の粒子集合体。自身で構築した、極度に圧縮した空気の塊。
「ベータ!」
ベータと呼ばれた頭上の狐面が体勢を変える。まさかリーレニカが空中を跳べるとは思うはずもなく、予想通り反応の遅れを生んだ。
空中を蹴る一歩目。
自由落下のエネルギーを大気中のマシーナ反応で拡散させ、生じた突風を地上のアルファにぶつける。
猛烈な突風に溶けたマシーナ反応の衝突で、アルファの掌から〈衝撃〉の命令式が霧散する。
この瞬間、実質的なベータとの一対一に持ち込んだ。
「お粗末なマシーナコントロールね」
リーレニカは更に二歩、宙を蹴り外壁に足を着ける。
身を翻し、捻った。
二回転。勢いを乗せた回し蹴りがベータの右肩を捉える。
相手の細腕が軋む感覚。手応えからベータは女性だと認識する。
漆黒の軌跡が尾を引き、レンガ壁に衝突――破砕した。
「……信じられん」
土煙の中、平然と降り立つコウモリスカートにアルファは驚愕しながらも構えなおす。
背後で激しく瓦礫を蹴り飛ばす音。
ベータが何事もなかったかのように立ち上がる。
だが間違いなく右腕は折れている。いくら漆黒のヴェールに身を包もうとも、蹴った本人の感覚を騙すことはできない。
しかしながら驚異的な胆力だ。負傷を隠す立ち姿から相当な訓練を積んでいることが伺える。
未だ状況は好転していない。
今の相手が単純に倍。手数で優位を取られた。
リーレニカは現状を認識し、直ぐに視線をアルファへ戻した。
――挟み撃ちか。
リーレニカは目を細める。
――問題ない。