四月の始業式だからといって、わたしの朝の習慣が変わることはない。
 今年から高校二年生だ。去年の入学式の時は、制服も変わって、電車通学になって、他にもいろいろと変わっていたけれど、今年は大きな変化はない。いつも通り、長い休み明けの学校で、行きたくないなあという気持ちと戦っている。
 学校に行く、というか外に出るとなると、わたしは準備に時間がかかる。いや、わたしだけではなくて、女性なら誰でも時間がかかることだろう。高校では化粧は禁止されているから、化粧することはない。でも、他にも大切なことがあるでしょう?
 そう、髪の毛だ。
「ああああ!」
 わたしは苛立って声を上げた。ヘアアイロンを片手に、鏡に映った自分を見て、クセのついた髪をまっすぐに直していく。直していくのだけれど、そう簡単には直ってくれない。だから今のように苛立ちが募っていくことになる。
 髪の毛を少しずつ束にして、ヘアアイロンに通していく。うねうねと曲がりくねっていた髪が、すっとまっすぐになる。初めて使った時は魔法のような道具だと思った。わたしの強いクセのある髪とも、これでおさらばだと思ったものだ。これさえあれば、わたしがとても憧れているさらさらストレートの髪が手に入るのだ、なあんて思っていた。
 現実は違う。そう甘くはない。毎朝、かなりの時間を割いて、わたしは髪の毛と格闘している。ヘアアイロンの熱を受けても、わたしのクセは強情にも直ろうとしない。何回も当ててはいけないというから、一回でどうにか整えようとするのだけれど、そんなにうまくいかない。いっそのこと、この肩につくくらいの髪の毛をショートにしてしまおうかとさえ思ったが、それでクセがついたら絶望的だから、わたしはショートにするのも躊躇っていた。
 ああもう、嫌いだ、こんな髪。毎日毎日直しているのに、学校から帰る頃にはちょっとクセが戻りつつあって、お風呂に入ったらもう元通り。うねうねうねうね、あちこちに散らばって爆発する。いったいどれだけあたしを苦しめたら気が済むのだろうか。
 髪を直さずに外出できる人が羨ましい。わたしのクセ毛ももっと可愛いクセだったら、ウェーブがかかった髪です、と言い切れなくもないのに、どうやったってそうならないのだから、ヘアアイロンのお世話になるのだ。髪を直さずに出かけるなんて絶対に無理だ。
夏子(なつこ)! あんた、もう時間よ!」
 お母さんの声がリビングから飛んでくる。ええ、でもまだ直りきってないよお。
「もうちょっと!」
「あんた、毎日毎日髪の毛にどんだけ時間かけてんのよ! 多少曲がってたって誰も気にしないよ!」
「うるさいなあ、お母さんにはわかんないよ!」
 わたしは口答えしながら最後の毛束をヘアアイロンに通す。最後に全体をチェック。よし、これで、大丈夫。
 わたしのクセ毛は誰からの遺伝なのかわからない。お母さんもお父さんも直毛で、強いクセ毛のわたしからすれば羨ましいの一言だ。わたしは起きたら髪がぐにゃぐにゃ曲がっているのに、同じくらいの長さのお母さんはすらりと整っている。いったい何が違うというのだろう。
 今日、わたしがここまで完璧に髪を仕上げたのには、理由がある。それは、今日がクラス替えの日だということだ。
 初めて会う人がたくさんいるのは間違いない。もちろん、昨年度に同じクラスだった人もいるだろうけど、大半はきっと知らない人だ。そんな中で、クセ毛大爆発の状態で飛び込むわけにはいかない。さらりとしたストレートヘアの可愛い集団に混ざりたい。だから、わたしは今朝いつもより時間をかけて髪を仕上げたのだ。
 時間を見ると、もう家を出ないといけない時間は過ぎていた。まずい、遅刻する。
 わたしは鞄を引っ掴んで玄関へと走る。お母さんは呆れたようにわたしに言った。
「そんなに髪に時間かけなかったら、もっと余裕で出られるのにねえ」
「わたしもそう思うよ。でもね、大切なことなんだよ」
「はいはい。いってらっしゃい」
「いってきます!」
 わたしは靴を履いて、飛び出すように家を出た。うわあ、走らないと間に合わないよ。わたしはいつも乗っている電車に向かって、大通りを走る。
 わたしが通っている高校は、電車で二十分、そこから十分くらい歩いたところにある。一応は進学校として名の知れた高校で、有名な大学に毎年何人も合格している。わたしもこの高校に入るのは苦労した。入ってからも大変で、毎日けっこう勉強しないと追いつけない。それでも、私の成績はほとんど真ん中くらいだ。高くも低くもない。家で寛いでいる時間も勉強に充てたらもっと成績は伸びるかもしれないけれど、それは来年でいいかと思っている。今はまだ遊んでいたい。青春を謳歌したい。
 甘酸っぱい青春を楽しむためにも、わたしはこの髪を変えたかった。どうにかしたかった。
 簡単な方法は縮毛矯正だ。お金を払えば、数時間で憧れのストレートヘアに変わることができる。でも問題はそのお金と頻度だ。年に一回ならお小遣いの範囲でどうにかできるかもしれないが、聞くところによると三ヶ月から半年に一回だという。しかも、美容院によっては二万円もかかるとか。わたしにはそんなお金はないし、お母さんに頼める金額でもない。
 だから、わたしは縮毛矯正を諦めて、毎朝時間をかけてヘアアイロンでごまかしてきた。これ以外の手段を知らなかった。こうすることでしか、わたしは集団に混ざることができないのだと思ってきた。
 電車に乗る。艶やかなストレートの黒髪の女性が目を引く。ああ、わたしもあれくらい綺麗なまっすぐの髪になることができたらいいのになあ。
 電車を降りて、同じ制服の集団に混ざりながら徒歩で学校に向かう。その間にも、わたしの視線は女子の髪に向く。あの子のストレートは可愛い。ああ、あの子も。あの子はもしかしたらクセ毛を隠しているのかな。
 そんなことをしていたら、すぐに学校に到着する。クラス替えを発表している掲示板の前には人だかりができている。友人と一緒のクラスになって喜ぶ、きゃあきゃあという女子の声。男子は何も言わず、自分のクラスを見て去っていく。わたしの高校は女子のほうが比率が高いから、男子のほうがクラス替えの影響は大きいかもしれない。たぶん、知っている人はほとんどいなくなるのではないだろうか。
 わたしは騒がしい女子の集まりを避けるようにしながら、掲示板の前に辿り着く。自分の名前を探すと、割と見やすい位置に名前が書いてあった。
 特別進学クラス。通称、特進。その名の通り、有名な大学への進学を目指すためのクラスだ。他のクラスよりも厳しく指導され、その日の授業が始まる前、つまり朝から補講が行われると聞いている。当然、放課後にも補講があるから、他のクラスに比べて授業の数が多い。それくらい、先生方も本気で一流大学を目指しているのだ。
 特進は二年生から存在する。本人が希望していて、一年生の成績が良ければ、特進への編入が認められると聞いている。わたしは編入されると思っていなかったので、とりあえず希望することにしていたら、なんと特進に編入されてしまった。そんなに成績は良くなかったと記憶しているが、これは、どうして。
 とにかく、編入されてしまったものは仕方ない。わたしは特進の教室に向かう。
 ああ、すごく真面目な子ばかりだったらどうしよう。そういえば、特進に編入されたことに驚きすぎて、他に誰か知っている子がいるかどうかを見ていなかった。もしかしたら知っている子が誰もいないという可能性はある。去年友人だった子は、わたしよりも成績が悪かったから、特進に編入されるということはないだろう。
 二年生の特進の教室の扉を開ける。中にはもうクラスメイトの半分以上が揃っていた。まだ誰もが手探りの状態で、とりあえず席の近くにいた人同士で喋っているような感じだった。
 わたしは自分の席に向かうと、見知った顔を見つけた。彼も、わたしを見て微笑んだ。
「おはよう、柴崎(しばさき)さん」
佐々木(ささき)くん、おはよう」
 わたしは若干震えた声で挨拶した。まさか、佐々木くんがいたなんて。
 佐々木くんは去年も同じクラスだった男子だ。気さくで話しやすくて、頭も良くて、切れ長の瞳で見られるときゅんとしてしまう。
 佐々木、柴崎という並びだから、出席番号順の並びだとわたしが後ろの席になる。テストの時は必ず出席番号順に座るから、去年はテストのたびに佐々木くんと話していた。佐々木くんはいつも朗らかに笑って、わたしを励ましてくれていた。
 そう、わたしは佐々木くんが好きだ。佐々木くんに片想いをしているのだ。
 今日も髪を整えてきてよかった。佐々木くんにはあんな爆発した髪は見せられない。佐々木くんの前では、わたしは綺麗なミディアムストレートの女子でいたいのだ。
 わたしが自分の席に座ると、佐々木くんは身体をこちらに向けた。
「まさか柴崎さんが特進に来るなんて思ってなかったよ。特進には興味ないと思ってた」
「うん、わたしも、入れると思ってなかった」
「今年もよろしくな。あ、来年もか」
 特進は原則としてクラス替えをしない。原則として、というのは、あまりにも成績が悪い生徒に限っては入れ替えられるからだ。そんな不名誉なことにはならないようにしなければならない。
「来年までいられるように頑張らないとね」
「柴崎さんなら大丈夫だろ。いっつも難しい難しいって言いながら、そこそこの点数取るじゃないか」
「佐々木くんみたいに八十点とか九十点とか取ってないもん。ほんと、よく特進入れたなって思ってるよ」
「特進に入れるってことは、成績が良いってことだろ。もっと自信持っていいんだよ」
 佐々木くんは笑いながら言った。いいなあ、本当に、太陽みたいな人だ。
「ま、しばらくは席替えもないだろうし、よろしく。柴崎さんが特進に来てくれてよかった」
「どうして?」
「よく知ってる友達がひとりいるってことだろ。柴崎さんだったら連絡先だって知ってるしな」
 なあんだ。一瞬だけ期待したけれど、まあ、そうだよね。佐々木くんにとってわたしは仲の良い女友達でしかない。連絡先は知っているけれど、雑談するような仲ではない。
「ああ、うん、そうだね。わたしも、佐々木くんがいてくれてよかった」
 佐々木くんとは違う意味で、だけれど。
 先生が教室に入ってくる。担任の先生も変わるから、それもどきどきする。担任の先生はすらりと背が高い女性の先生で、黒のショートヘアだった。きりりとした印象を受ける。
 佐々木くんと話しているうちに、ホームルームの時間になったようだった。生徒たちは慌てて自分の席に戻り、先生がホームルームを始める。
「皆さん、初めまして。担任を受け持つことになりました、櫻井(さくらい)です」
 穏やかな声だった。優しそうな先生だ。ゴリラみたいにいかついとか、雰囲気から厳しいとかじゃなくてよかった。
 わたしの新生活は滞りなくスタートした。明日からも、いいことありますように。



 毎朝、髪を整えている時に思うことは、ただひとつだ。面倒臭い。
 ちょちょいと手櫛で整えるくらいで出かけることができたのなら、どれだけ楽だろうか。お母さんはそのタイプで、ブラシで梳かすだけで綺麗なストレートヘアになる。一方のわたしは、ブラシで梳かすとぶわっと広がって、なぜかボリュームが出てしまう。お母さんが羨ましくて仕方ない。
 問題は寝坊した日だ。人間、誰しも寝坊した経験はあるだろう。
「お母さん! なんで起こしてくれなかったの!」
 こうやって誰かのせいにするのも、誰もが経験したことがあるはずだ。
「起こしたわよ。あんたが起きなかったんでしょ」
「起きてくるまでが起こす人の責任でしょ!」
 わたしは完全にお母さんのせいにして、朝の準備を進めていた。我が家では朝食を抜くことは許されないから、朝食に時間を食われてしまう。ああもう、わたしは髪を整えたいのに。
 けれど、髪を整えている時間はなかった。いつもの電車に間に合うかどうかというところなのに、今から髪を整えるのだ。遅刻を覚悟で整えるか、諦めるか。
「夏子! あんた遅刻するよ!」
「わかってるけど、髪が」
「髪なんて結んでいけばいいでしょ! ほら、早く行きなさい!」
 わたしは髪を整えることもできないまま、お母さんに家を追い出される。
 ぶわあっと広がっていて、うねうねと変に曲がりくねっている髪をそのまま垂らすよりは、ひとつに結っておくほうがまだマシだろう。わたしはやむなく髪をポニーテールにした。毛先のクセは直していないから、わたしはクセ毛ですと言っているようなポニーテールができあがる。とても良く表現すれば、独特なウェーブがかかった髪、となるだろう。普通の人から見たら、寝グセかと言われても致し方ない。
 電車に乗っている間も、他人の目が気になってしまう。あーあ、どうして寝坊したんだろう。昨日夜遅くまでテレビを見ていたからだろうか。確かに、寝るの遅かったもんなあ。
 でもお母さんだって、ちゃんと起こしてくれないからこうなるんだ。わたしが起きていなくても返事することがあるって知っているくせに、どうしてもっとちゃんと起こしてくれなかったのか。
 こんな髪のまま登校するのは嫌だったけれど、それで遅刻や欠席ができるわけがない。誰かに笑われる覚悟で、わたしは教室に入った。
 もうクラスメイトはだいたい揃っているようだった。友達と話している人だけでなく、もう勉強している人がいる。さすがは特進といったところか。うわあ、仲良くなれそうにないなあ。
 佐々木くんはまだ来ていないようだった。こんな髪で佐々木くんに会うなんて憂鬱。
 わたしが自分の席に鞄を置くと、後ろの席の藍美(あいみ)が話しかけてきた。
「おはよ、なっちゃん」
 藍美とは初日に仲良くなった。話しやすくて、よく笑う可愛い子だ。
「おはよう、藍美」
「今日はポニーテールなんだぁ。いいなぁ、可愛い」
 藍美は目ざとくわたしの髪型の変化に気づいた。ああ、あまり見ないで。クセ毛を直す暇がなかったことがバレる。
 藍美の髪はショートボブで、藍美の快活な性格によく似合っていた。髪の毛はきっと細くて、とてもさらさらしている。わたしのように毎朝戦う必要はない人種なのではないだろうか。
 このクラスの女子はみんな綺麗な髪を持っている。クセ毛で悩んでいるのはわたしだけではないだろうかと不安になる。去年は同じ悩みを持っている子がいたから、梅雨のように湿気の多い時期や、夏のように汗をかく時期は、髪に関する愚痴を言い合っていた。今年は、どうだろうか。そんな悩みを共有できる人はいるのだろうか。
「髪が長いといいよね、いろいろアレンジできて」
 藍美は長いクセ毛がどれだけ大変なのか知らないからそんなことが言えるのだ。まずはこのクセをどうにかしなければ、ヘアアレンジも何もあったものではない。
「でも藍美のショートだって可愛いよ」
「あたしも伸ばしたいんだけどねぇ」
 藍美はため息を吐いた。伸ばすと管理が大変という理由だろうか。
「伸ばせばいいんじゃないの? きっと可愛いよ」
「無理無理。あたし、なっちゃんのこと尊敬してる」
「どうして?」
 わたしが尋ねると、藍美は声を潜めて言った。
「なっちゃん、今日はクセ毛直す時間なかったんだね」
 どきりとした。やっぱり、見ればすぐにわかってしまうのだ。これだけうねうねしてたら、誰にでもわかることだ。普段髪の毛を気にしないであろう男子だって、今日のわたしの髪がいつもと違うことくらいわかるだろう。
 しかし、藍美は机に頬杖をついて、自嘲気味に笑った。
「あたしも同じだよ、なっちゃん。クセ毛仲間」
「ええ? そうなの?」
 つい声を大きくしてしまった。クラスメイトの目が一瞬だけわたしに集まり、わたしは身を小さくした。藍美は笑いを噛み殺していた。
 まさか、藍美がクセ毛仲間? こんなに綺麗なショートボブなのに?
「ヘアアイロンでがーっとやるでしょ、毎朝」
「うん、やる。今日はそんな時間なかったけど」
「わかる。わかるよぉ、毎朝大変だよねぇ。あたしも一緒なの」
 藍美はそう言うけれど、そうは見えない。技術の差を感じた。それとも、髪質がわたしとは違うのだろうか。
「藍美は直さなかったらどうなるの?」
「くるくるどかーん、って感じかなぁ」
「あ、一緒かも! ヘアアイロンがなかったら外行けないでしょ?」
「無理だねぇ。短いから縛ってごまかすこともできないし」
「そっか。そうだよね、短いとそれはそれで大変だね」
「伸ばすと余計に手間かかるでしょ? だから、なっちゃんはすごいなと思う」
 藍美の言葉はお世辞ではないと思った。本当に、藍美も苦労しているのだ。
「クセ毛直さないと学校も行きづらいしねぇ」
 全くその通りだ。クセ毛のまま学校に来るなんてあり得ない。クセを伸ばしてストレートにするのがマナーだと思っている。つまり、今日のわたしはマナー違反。
「直す時間がなかったらこうなる、ってね」
「大丈夫だよなっちゃん、ちょっとうねっとしてるけど、大丈夫」
 藍美は励ましてくれたけれど、クセが出ているのは自分がいちばんよくわかっている。こんな髪のまま佐々木くんに会うのは嫌だなあ。佐々木くん、今日は休みだといいのに。
「藍美は縮毛矯正しないの?」
 わたしが訊くと、藍美は苦笑いを浮かべた。
「お母さんにそんなお金ないって言われちゃったの。ヘアアイロンでどうにかできるんだから、朝早く起きてなんとかしなさい、って」
「もしかして、お母さんはクセ毛じゃないんじゃない?」
「そう! そうなの、だからわかってもらえなくって!」
 藍美は嬉しそうに言った。どこの家庭も同じだ。親がクセ毛に理解を示してくれなければ、わたしたち子どもはどうにかやり過ごすしかない。
 確かにヘアアイロンでどうにかできるけれど、時間が経てば元に戻ってしまうし、縮毛矯正のほうが綺麗にできる。わたしだって、きっと藍美だって、本音を言えば縮毛矯正をしてしまいたいのだ。お金がないからできないだけ。
「しかもさぁ、この前朝起きた時にお母さんに言われたの。ひどい髪だねって」
「なにそれ。ひどいのはお母さんだよ」
 何が悪いのかは知らないけれど、寝起きは特にクセが強く出る。寝グセなのか、自分のクセ毛なのかわからないが、とにかく見せられるものではない。藍美のお母さんはその髪を見て言ったのだろう。
「でしょー? 娘が困ってるんだから、縮毛矯正のお金出してくれてもいいじゃんねぇ」
「ほんとに。わたしも、縮毛矯正できるならやりたいよ」
「ねぇ。これから梅雨もあるし、クセ毛には辛い季節が来るねぇ」
 藍美はもう少し先に控えている梅雨を今から憂いているようだった。早いな。
 梅雨にクセがひどく出るのは、湿気のせいらしい。そしてそのまま夏になり、今度は汗と湿気でクセが出る。ヘアアイロンで矯正しても、夕方帰る頃にはクセが出始める。これからしばらくの間、わたしたちクセ毛を悩ませる時期が続く。
「あーあ。クセ毛を直さなくてもいい人が羨ましいねぇ」
 藍美ががっくりと肩を落としながら言う。本当に、その通りだ。
「直さなくてもよかったら、朝もゆっくりできるもんね」
「そうだよねぇ。今は髪整えるのに何分使ってるんだって感じだしね」
 わたしと藍美は笑いあった。たかが髪だと笑う人がいるかもしれないが、同じ悩みを持つ者にしかわからない辛さがあるのだ。藍美のような理解者がいてくれてよかった。
「あ、先生来た」
 藍美がそう言って、わたしは前を向く。櫻井先生は今日もびしっと決まっている。実はクセ毛に悩んでいる、とかだったら親近感も湧くものだけれど、きっと違うんだろうな。
 いつの間にか佐々木くんも来ていたようだった。わたしが後ろを向いて藍美と話していたから、来たことに気づかなかった。まあ、そうだよね、休みなわけないよね。
 わたしは今一度、自分の髪に触れる。毛先までうねうねしているのがよくわかる。なんだかパーマに失敗したのをごまかしている人みたいに思えてきて、悲しくなった。
 どうしてわたしはこんな髪なのだろうか。大人になったら変わるのかと思って過ごしてきたけれど、昔よりもクセが強くなってきているような気がしてならない。いつか、ヘアアイロンで太刀打ちできないようなクセになってしまうのではないかと不安になる。
 もし神様がいるのなら、言ってやりたい。世の中からクセ毛をなくしてください、と。



 特進に入って最初に変わったことは、朝起きる時間だった。
 授業の前から、補講と称した授業のようなものが行われるせいで、これまでより一時間以上早く起きなければならなくなったのだ。たくさん宿題が出されるから、必然的に夜眠るのも遅くなって、慢性的な睡眠不足のような状態になる。土日に遊びに行く元気はなくて、録りためたドラマを見たり、インスタグラムをチェックしたり、金曜日に出された宿題を片付けたりしているうちに、休みは終わってしまう。正直、去年よりも疲弊していた。
 睡眠不足になろうが、朝起きる時間は変わらないし、このクセ毛との戦いがなくなるわけでもない。わたしは毎朝眠い目を擦りながら、このクセ毛を直すのだ。
 すべては、周りの人に、佐々木くんに、変だと思われないために。クセ毛のままで学校に行ってはいけないのだと思っていた。
 でも、心のどこかでは、どうしてクセ毛を直さなければならないのだろうとも思っていた。クセ毛はわたしの特徴のはずなのに、どうしてそれを矯正しないといけないのだろう。どうしてストレートヘアこそ絶対的な正義だと思われているのだろう。どうしてそれ以外は認められないのだろう。
 あーあ。クセ毛を直さなくてもよいところに生まれたかったなあ。周りがみんなクセ毛で、お互いのクセを認め合えるような、そんな場所に。
 わたしは今日もばっちりヘアアイロンでクセ毛を直して、学校へ向かった。朝早くなったから、電車も比較的空いている。座席に座ることもできるけれど、眠らないようにしないといけない。
 わたしが学校に着く頃には、クラスメイトの半数以上が来ている。そして、勉強している。わたしは特進に来たことを少し後悔していた。こんなに勉強漬けになるだなんて思っていなかったのだ。
 佐々木くんも来ていた。けれど、数学の問題を解いているようだった。わたしが来たことに気づいてくれて、片手を挙げて挨拶してくれたけれど、それだけだ。わたしも片手を振り返すだけにして、自分の席に鞄を置く。
 すごいなあ、みんな。よくそんなに勉強できるよなあ。
「なっちゃん、おはよ」
「おはよう、藍美」
 藍美はわたしが来るのを待っていたかのように声をかけてくれた。
 わたしの癒しは藍美だった。藍美は休み時間に勉強するようなタイプではないようで、休み時間にわたしと喋ってくれるのだ。藍美がいなかったら、わたしはみんなに合わせて嫌々勉強していたことだろう。
「ねえねえなっちゃん、これ見てよ」
「ん、なに?」
 藍美が鞄から取り出したのはファッション誌だった。綺麗な大人の女性が読むような雑誌で、表紙を飾っているのは綺麗な女性のモデルだ。社会人向けの雑誌だろう。
 藍美はこういうの読んでるんだ。だから藍美は可愛いのか、と一人で納得する。
「ほら、クセ毛が特集されてるんだよ」
「ええ? ほんと?」
「ほんとだよぉ。見てみて」
 藍美が雑誌をぱらぱらと捲り、ある記事を開いてわたしに見せてきた。
『クセ毛を活かせ! クセ毛はあなたのチャームポイント!』
 その記事はそう銘打って、クセ毛を特集しているようだった。記事に写っている女性はとても綺麗なウェーブがかかった髪で、とてもクセ毛とは思えなかった。
「これ、パーマかけた人をクセ毛だって言ってるんじゃないの? こんな綺麗なウェーブになるわけなくない?」
「ねぇ、そう思うよね? でも違うの、この人なの」
 藍美が次に見せてきたのは、スマートフォンだった。インスタグラムの投稿だ。この雑誌を飾っているモデルのアカウントだろう。
 髪を整える前と、整えた後の画像が投稿されていた。整える前は、わたしもよく知っているくるくるどかーんといった状態。まるでわたしが起きた直後のような、あちこちに髪の毛が散らばってうねうねしている。
 それをどうにかした画像が、二枚目。とても綺麗なウェーブが完成している。えっ、いったい何をどうやったらこんなに綺麗になるわけ?
 インスタグラムの文章を読むと、答えが書いてあった。
「ははあ、いろいろ必要なんだね」
「そうみたい。この人がやってるやり方だと、いろいろ買い揃えないといけないんだけど」
「けど、こんなに綺麗な髪になるんだね。ほんとかなあ?」
 インスタグラムの投稿を見ても、わたしはどうしても疑ってしまう。それくらい激変しているのだ。同じ人とは思えないくらいだ。
 視線を雑誌に戻す。雑誌にはやり方が書かれているようだけれど、詳しい解説が欲しければこの本を買ってね、という感じだった。やり方を読んでみたけれど、文章だけではあまりよくわからなかった。詳しいことを書いた本を買ったほうがよいだろう。まあ、そういう戦略なんだろうけどね。
「でね、あたしいろいろ調べてるの。そしたら、似たようなこと投稿してる人がいっぱいいるってわかったの」
 藍美はインスタグラムで別のアカウントの投稿を見せてくれた。確かに、先程の女性と同じように、整える前と後で別人のように変身している。この人も、同じ方法を採用しているようだった。詳しくはこの本、と書かれている本は、雑誌で紹介されている本と同じだった。
 別の人、別の人と表示されていくうちに、わたしも信じざるを得なくなってきた。中にはわたしよりもずっと強いクセを持った人が、綺麗なカーリーヘアに変わっている投稿もあった。これだけの人が経験しているのだから、この本に従えばクセ毛を矯正しなくてもよくなるのではないか。そんな希望を持ってしまう。
「ねぇ、すごくない? もうヘアアイロンでぐいぐいしなくてよくなるんだよ」
「すごいけど、わたしたちにもできるのかなあ? いろいろ必要そうじゃん?」
 雑誌に書いてあるだけでも、シャンプー、トリートメント、ヘアジェル、ブラシ、などなど多くのものを変えなければならない。聞いたことすらないものも含まれていた。これら全部を買うとなると、なかなかの出費になるのではないだろうか。
 わたしの疑問には答えが用意されていた。藍美は得意げな表情を見せた。
「なっちゃんならそう言うと思って、試算してみましたぁ」
 藍美が次に見せてくれた画面には、必要な物品それぞれの値段と、合計金額が表示されていた。一回の縮毛矯正に比べたら高いけれど、お年玉を使えば買えない金額ではなかった。もっと値が張ると思っていたわたしは肩透かしを食らったような気分になる。
 藍美も同じことを思っていたようで、わたしの反応を見て喜んでいた。
「ね? 意外と安くない?」
「まあ、これでクセ毛を直さなくてよくなるなら、安いよね」
「そうだよねぇ! あぁ、なっちゃんならわかってくれると思った!」
「毎朝あんなに苦労しなくてもよくなるんだもんね。へええ」
 感嘆の声しか出ない。藍美はにこにこと笑っていた。
 けれど、わたしは実践する気はなかった。だって、自分にできるとは思えなかったのだ。こういうのはわたしよりもっと器用な人がやるようなことであって、自分のヘアメイクすら満足にできないようなわたしができる芸当ではないだろう。インスタグラムで発信している人だって社会人ばかりだし、学生のわたしがチャレンジするようなものではないと感じていた。
 でも藍美は違った。藍美の目は挑戦する方向を見ていたのだ。
「あたし、やってみようと思うの」
「え? これを?」
 わたしが信じられないような気持ちで訊くと、藍美はうんうんと首を縦に振った。
「あたしがやってみて、できたら、なっちゃんにだってできるでしょ」
 それは暴論だ。同じ学生だけれど、わたしと藍美が同じように器用とはいえない。
「それは、どうだろう、藍美が器用なだけかもしれないし」
 わたしが否定的に返すと、藍美はわたしをまっすぐに見つめて、言った。
「器用とかじゃないよぉ。やるか、やらないか、それだけだよ」
「やるか、やらないか、ねえ」
「とにかく、あたしはやってみる。なっちゃんはそれを見て、やるかどうか決めたらよくない?」
「まあ、そうだね」
 藍美を実験台にしているようで気が引けるけれど、藍美がやると言うのなら止める権利はない。藍美がうまくいったのなら、わたしにだってできる可能性はある。可能性があるというだけで、できるとは思っていないけれど。
 藍美ならできそうな気がする。なぜだかそう思った。
「応援するね。藍美ができたら、わたしもやってみる」
「ふふ、ありがと。まずはいろいろ揃えないといけないから、すぐにはできないんだけどね」
「すぐ買い揃えるの?」
「お母さんに頼んでみようかなぁと思って。可愛い娘の悩みを解決するために、資金援助してくれませんかって」
 やはり最初に問題になるのはお金だ。必要な物品を買い揃えるにはお金が要る。わたしたち高校生にとっては決して安くない金額だ。親に相談したら、資金援助どころか挑戦を止められるかもしれない。
 それでも、藍美はチャレンジすると言う。わたしには藍美が眩しく見えた。
「もう少ししたら梅雨だし、それまでになんとかしたいよねぇ」
「そうだね。朝整えるのも大変だし、帰りまで保たないしね」
「うん、あたし、頑張る。なっちゃんのためにも」
 藍美はぐっと拳を握って、笑った。
 もしかしたら、藍美の今のショートボブを見る機会がなくなるのかもしれない。藍美の髪が綺麗なウェーブを手に入れることになるのかもしれない。努力すれば変えられるのだと藍美が証明してくれるかもしれない。
 どれも仮定の話だ。雑誌に踊らされているだけだと言われれば、反論のしようもない。藍美もきっとそれはわかっているだろう。それでも、飛びつかずにはいられない。それくらいわたしたちはクセ毛に悩んでいるのだ。どれくらい深い悩みなのかは、クセ毛の人にしかわからないだろう。
「どんな感じになるのかなぁ? 自分でもわかんないからどきどきしちゃうねぇ」
 藍美は自分の髪の毛先をくるくると弄る。
「確かに、完成予想図とか事前にわかればいいのにね」
「あっ、先に美容院行けばいいのかぁ。そこで整えてもらえばわかるかも!」
「でもさあ、美容院行ってもクセひどいですねって言われて終わりじゃない?」
 わたしは実際にそう言われた経験がある。美容師さんは髪のプロであるはずなのに、わたしのクセ毛は扱いづらいのだと言っていた。結局、クセ毛を綺麗にする方法なんて教えてもらえることもなくて、今に至っている。
 しかし藍美はそこも調べていた。また得意げな顔をして、わたしに言った。
「クセ毛御用達の美容院も見つけてありまーす」
「えっ、そんなところあるの?」
「あるんです、それが。今度行ってみます」
「すごい! ねえ、行ってみたら感想教えてよ」
 クセ毛御用達ということは、きっとクセ毛の扱いに慣れている美容師さんが在籍しているのだろう。そこならわたしのクセ毛だって綺麗に整えてくれるかもしれない。そんなところがあるだなんて知らなかった。
 藍美がこんなにいろいろ調べているだなんて思ってもみなかった。藍美は本気でクセ毛と共存する気なのだ。クセ毛をヘアアイロンで矯正するのではなくて、クセ毛のまま生きていこうともがいているのだ。
 その戦いにわたしも参加したかった。わたしも、できることならクセ毛と共存したい。このクセ毛を隠すのではなくて、見せびらかすことができるようになりたい。それこそ、わたしらしく生きていくことだと思うのだ。
「いいよ。あっ、お店の情報送るね」
 藍美はそう言って、メッセージアプリで美容院の場所を送ってくれた。なるほど、なかなかに高そうな外観だ。これ、カットだけでも結構なお値段になるんじゃないの?
「なっちゃんが思ってること、当ててあげよっか」
「うん、なに?」
「お高いんじゃないの、でしょ?」
「まったくその通り」
 わたしたちは笑いあった。藍美はにやりと笑って答えた。
「意外と良心的な価格なんですよぉ、これが。普通の美容院と一緒だよ」
 藍美が価格帯を見せてくれる。ああ、うん、思ったほど高くない。わたしが普段行っている店よりは高いけれど、充分手が届く範囲の金額だった。
「だからね、なっちゃん。あたしたち、クセ毛だって諦めなくてもいいんだよ。あたしが身をもって証明してあげる」
 藍美の声がずんと心に響いた。わたしは頷くことしかできなかった。
 すごいなあ、藍美は。自分でどんどん調べて、挑戦しようとしている。このままで生きていくしかないと諦めていたわたしとは大違いだ。
 櫻井先生が教室に入ってくる。わたしと藍美は喋るのをやめて、慌てて数学の参考書を机の上に出す。今朝は数学の補講だ。
 補講が始まっても、わたしの意識は先程の雑誌に向けられていた。
 クセ毛はあなたのチャームポイント、ね。
 そんなふうになれたらいいのに。わたしはそう思って、指示された問題に取り掛かった。



 もうすぐ梅雨入りが発表される頃。今日は土曜日だから髪の毛と格闘しなくてよい。気が済むまで朝はだらだらして、午後から宿題をやろうと思っていた。家の中なんだから、髪は適当に縛っておけばよい。勉強の邪魔にならなければそれでよいのだ。
 午後になって、わたしはようやく宿題をやり始めた。どうにも集中できず、一問解いてはスマートフォンを見て、興味のあるものを探す。自分でもわかっていることだけれど、スマートフォンを手元に置いて勉強するのはよくない。すぐにこうやって操作してしまうからだ。
 でも、そのおかげでメッセージアプリの通知に気づくことができた。藍美からだ。藍美も宿題をやっていて、やる気が削がれてわたしに連絡してきたのだろうか。藍美はわたしと似たところがあるから、話したい気分になって連絡してきたのかもしれない。
 特進に入ってもうすぐ二か月になるけれど、わたしは特進に入ったことを後悔している。来る日も来る日も勉強勉強で、高校生らしい青春を送ることができないのだ。まるで高校生活を捨てて大学生活に懸けているかのようだ。一流大学に入るために、高校生活の残りを捧げているようなのだ。
 藍美はわたしと同じだと思っている。藍美といる時だけは、高校生らしい青春を謳歌している気分になれた。だから、わたしにとって藍美は大切な友人になっていた。特進の生活で溜まったストレスを発散するには、藍美と話すのが一番だ。
 だから、わたしは宿題よりも藍美からの連絡を優先した。アプリを開くと、藍美から写真が送られてきたようだった。
 わたしは藍美のメッセージを確認する。そこには目を疑う写真があった。
「な……なに、これ」
 それは藍美の写真だった。けれど、わたしが知る藍美はそこにいなかった。
 藍美の髪はショートヘアではあるけれど、毛先が綺麗に丸まっていて、美しいウェーブを描いていた。そう、この前見せてもらった雑誌に載っていたモデルのように、とても綺麗なウェーブショートヘアになっているのだ。
 なんて可愛いんだ。わたしは驚いて、どう返信したらよいのかわからなくなってしまった。
『美容院行ってきた』
 写真の前に送られていたメッセージにはそう書いてあった。わたしは信じられないような気持ちで藍美に返信する。
『パーマかけたの?』
 そうとしか思えなかった。それ以外に、こんなに綺麗にセットできるはずがないのだ。
 しかし、藍美からの返信で、わたしはまた驚くことになる。
『違うよ。地毛』
『どういうこと?』
『ちょっと前に教えた美容院でクセ毛を整えてもらったの』
 あの、高そうに見えてそれほどでもなかった美容院か。藍美はそこに行ってきたらしい。
『可愛くない? あたしこんな髪だったんだって』
『すっごく可愛い。いいなあ』
 わたしは素直に羨望の言葉を投げた。心の中では、まだ信じられていなかった。
 地毛でそんなに綺麗にできるのだろうか。だって、パーマをかけたように美しいウェーブだよ? わたしは自分の髪を触ってみたけれど、これはウェーブではなくてただうねっているだけだ。こんなに綺麗にはならない。
 そうだ、藍美の髪質がよかったのだ。藍美は元からこういうウェーブを出せるようなクセを持っていたのだ。もともと綺麗になる素質がある髪だったのだ。ヘアアイロンで整えていない藍美を見たことはないから、わたしはそう思ってしまう。
『なっちゃんも行ったらいいよ』
『わたしでもできるかな?』
 藍美にメッセージを送りながら、思う。
 わたしは不安なのだ。自分でも、藍美のように綺麗になれるのか。美容院に行った結果、わたしのクセ毛では美しいウェーブを作れないと言われてしまうのではないか。そうなったら、わたしはいよいよ縮毛矯正に手を出すしかなくなる。
『できるよ、美容師さんがやってくれる』
 藍美がそう言ってくれると、なんだかできるような気分になってくる。会ったこともない美容師さんの姿を思い浮かべて、笑いながら請け負ってくれるところを想像する。
『あとクセ毛の整え方も教えてもらったの』
『整え方?』
『毎日こうやってスタイリングしたらいいよって。あたし、必要なものも全部買ったの』
 わたしは頭を殴られたような衝撃を受けた。
 藍美は本気でクセ毛と向き合っているのだ。それは前から知っていたことだけれど、お金まで費やしてクセ毛を乗りこなそうとしているのだ。そして、自分のクセ毛を活かすステップまで届いてしまった。
 わたしはどう? 本当に、クセ毛を活かそうとする気持ちはある?
 今までのわたしは、藍美の話に付き合って、クセ毛のままでいられたら楽だろうなあ、くらいの気持ちだった。本気で自分を変えようとは思っていなかった。どこか、藍美の話にも向き合っていなかったところがあったかもしれない。
 でも、藍美が変わったさまを見て、わたしの心も動いた。やろうと思えば、こんなに綺麗になることができるのだ。努力すれば、きっとわたしでもクセ毛を乗りこなすことができるのだ。
『わたしも藍美みたいになりたい』
『じゃあ美容院行かないとね。あと必要なものも買わないとね。お金かかるよ』
 藍美は現実を突きつけてくる。やる気になったわたしを引き留めようとする、お金の問題。
『藍美はお金どうしたの?』
『半分くらいお父さんに出してもらった。意外と理解があってびっくり』
 へえ。お母さんじゃなくて、お父さんなんだ。クセ毛に理解があることも驚きだけど、こういうのってお母さんのほうがわかってくれそうなのに。藍美とお父さんは仲が良いのだろう。
 わたしの家はどうだろう。やっぱり、お母さんかな。
『なっちゃんも親の力借りたほうがいいよ。きっとわかってくれる』
『そうだね。お母さんに話してみる』
『じゃあ必要なものの一覧と、お店のページ送るね』
 藍美からぽんぽんと連続でメッセージが届く。わたしはそれを目で追って、必要なものの多さに面食らう。こんなにも買わないといけないのか。あの雑誌で見た時も思ったけれど、クセ毛を活かすために必要なものって多いんだなあ。
 でも、藍美は自分で全部これを調べていたのだ。情報をもらうだけになってしまって、なんだか申し訳ない気持ちになる。
『教えてくれてありがと』
『いいよ。なっちゃんも一緒に変わろう』
 一緒に変わろう。それは、なんと心強い言葉なのだろう。
『ちょっとお母さんと話してくる』
 まずお母さんを説得しなければならない。わたしは藍美にメッセージを送って、椅子から立ち上がった。こういうのは思い至った時が大切なのだ。夕方まで待っていたら、この勢いは衰えてしまって、お母さんをうまく説得できないかもしれない。
 わたしがリビングに行くと、お母さんはソファに座ってコーヒーを飲んでいた。お父さんの姿はない。どこかに出かけているのだろうか。ううん、お父さんもいたほうがよかったかなあ。
「あら、どうしたの夏子。喉渇いた?」
 お母さんはわたしを見るなり、勉強はどうしたのだという顔をする。そうだ、わたしは午後から勉強するとお母さんに言ったんだっけ。それで朝はだらだらしたんだった。
 最初から流れが悪い。でも、わたしは諦めない。藍美と一緒に変わるって決めたんだ。
「お母さん、相談があるの」
「なによ、改まって」
 わたしが切り出すと、お母さんは変なものに向けるような目でわたしを見る。そんなに警戒されると話しづらいんだけど。
「あのね、わたしってクセ毛でしょ。毎朝ヘアアイロンで整えてるでしょ」
「ああ、そうね。毎日面倒なことするなあって思ってるわ」
「ヘアアイロンで整えなくてもいい髪になりたいの。クセ毛のままで、ちょっと整えるだけで学校に行けるようになりたいの」
 お母さんは話の行き先を察したようだった。ふうっと息を吐いて、お母さんは言う。
「縮毛矯正したいの?」
「違うの。クセ毛のままでいられる方法があるの」
 わたしは藍美の写真を見せた。お母さんは写真を見ても特に驚かなかった。
「可愛い子ね。これが、何?」
「髪を見てほしいの。わたしの友達なんだけど」
「パーマでもかけたの?」
 思うことはわたしと同じだ。誰だって最初は信じられないだろう。思っていた反応が返ってきて、わたしは嬉しくなってしまった。
「違う。この子もクセ毛で、地毛でこんなに綺麗なウェーブが出せるんだって」
「あら、そう。随分と綺麗な髪なのね」
「それでね、お母さん。わたしもこの子みたいになりたいの。いろいろ教えてもらったんだけど、わたしでもこんなに綺麗になれるはずなの」
「で、いくら欲しいの?」
 お母さんは察しがよい。もうわたしのお願いが何なのかわかってくれている。さすがはわたしの母だ。
 藍美は合計金額まで送ってくれている。わたしはそれをお母さんに見せた。
「友達が、これくらいかかったって」
「結構な金額ねえ」
 お母さんの声は否定的だ。お母さんは直毛だから、クセ毛の悩みは理解しづらいかもしれない。お母さんもクセ毛だったら、きっと即決で援助してくれただろうに。
 諦めるわけにはいかない。わたしは、藍美と一緒に変わると決めたのだから。
「全部払ってほしいわけじゃない。わたしのお小遣いで払える分は払う」
「ふうん。これだけ払ったら、夏子は毎朝ヘアアイロンで格闘しなくてよくなるのね?」
「まあ、一部は消耗品だから、これで全額っていうわけじゃないみたいなんだけど。でも最初にかかる金額はこれくらいだって」
「そう。うーん、そうなの」
 お母さんが悩んでいるのが伝わってくる。悩んでくれるだけありがたいと思うべきだ。わたしはもうひと押し、お母さんに訴えかける。
「お願い、お母さん。もう毎朝ヘアアイロンで整えるのは嫌なの。こんなに綺麗なウェーブが出せるなら、クセ毛のままで学校に行きたいの」
「まあ、毎朝大変そうだものね。その大変さは私にはわからないけれど、学校に行くなら可愛くしていきたいって気持ちはわかるわ」
「でしょ? クセ毛のままで、しかもこんなに可愛くして学校に行けるなら、安い買い物だと思うんだよ」
 お母さんはうぅんと唸って、わたしのスマートフォンを操作して必要なものを眺めている。藍美はそれも見越していたのか、どれがいくらかかるのかまで書いてくれていた。わたしがお母さんに説明する手間が省ける。
「ねえ、お母さん。半分でいいから出して」
「そうねえ。ちゃんと勉強する? 特進に入ったのに、おしゃれに気を取られて悪い成績になったりしない?」
「しないよ。ちゃんと勉強する。成績も、ちょっと自信はないけど、特進から落ちるような成績は取らないって約束する」
 我ながら気弱な約束だと思う。でも、わたしに言えるのはこれだけだ。周りについていくのが精一杯なのだから、良い成績を取れるとは口が裂けても言えない。
「弱いわねえ。そこは、良い成績を取る、ってびしっと決めなさい」
「いや、でもさあ、無理なことは言えないじゃん? 周りもみんな頭いいみたいだし」
「正直でよろしい。わかったわ、お金出してあげる」
 お母さんは仕方なさそうに言った。わたしは飛び上がりそうな勢いでお母さんに訊く。
「えっ、いいの? ほんとに?」
「ただし、勉強をおろそかにしないこと。今度のテストで成績が悪かったら、返してもらいますからね」
「うん! ありがと、お母さん!」
 わたしはお母さんに抱きついた。やった、言ってみるものだ。お母さんならきっとわかってくれると思っていた。
「私の気が変わらないうちに、必要なもの買っちゃいなさい。美容院も予約したら?」
「そうだね。お母さん、ほんとにありがと」
「ちゃんと勉強するのよ? 買ったら宿題やりなさい」
「はぁい。今日中に片付けます」
 わたしはうきうきしながら通販サイトで必要なものを買っていく。お母さんからの資金援助があるなら、多少高価でも気にならない。
 ああ、そうだ、藍美にも連絡しておかないと。わたしは買い物もそこそこに、藍美にメッセージを送った。
『お母さんがお金出してくれるって!』
 メッセージはすぐに既読になって、祝福するようなスタンプが返ってくる。藍美も喜んでくれているようだ。
 よし。わたしも、このクセ毛と向き合う時が来た。藍美のように綺麗なウェーブになることを祈るばかりだ。こればかりはやってみないとわからない。
 わたしは藍美の写真を見る。可愛いウェーブが羨ましく映る。わたしも、こんなふうになれたら。そう願いながら、わたしは美容院の予約を始めた。



 美容院に行って、わたしはこれまでの人生で一番驚いた。
 自分の髪がこんなに綺麗だったなんて知らなかった。美容師さんにクセを整えてもらったら、とても綺麗なウェーブヘアが完成したのだ。みんなに自慢できるくらい。
 そのウェーブ、わたしのクセ毛を自宅で整える方法も教えてもらった。いろいろ買ったものたちが役に立つ時が来たのだ。それぞれどういうふうに使うのか教えてもらって、わたしはクセ毛のまま生きていく人生の第一歩を踏み出した。ようやく自分の人生が始まるような気さえした。
 まずは藍美に報告した。藍美がしてくれたように、写真を送る。
『すっごく可愛い!』
 藍美の興奮が画面越しに伝わってくるようだった。わたしが初めて藍美の写真を見た時と同じように、藍美も驚いていることだろう。わたしだって驚いたのだから。
 それから家に帰って、出資してくれたお母さんにも見せびらかした。お母さんは口に手を当てて、まあ、と驚嘆した。
「変わるものねえ。可愛いんじゃないの」
「ね! わたしの髪、可愛いよね!」
「そうねえ。そんなふうになるなんて思ってなかったわ。お金出してよかった」
 お母さんも納得の出来だった。ふふん、そうでしょうそうでしょう。もっと褒めて。
 ただ、クセ毛のまま生きていくには、当然ながら日々の手入れが必須だ。これまでのように洗って乾かしておしまい、というわけにはいかない。洗ってから乾かすまでにいくつものステップがあって、その努力のおかげでクセ毛人生が成り立つのだ。慣れないうちは大変だろうけれど、こんなに美しいウェーブが維持できるのなら安いものだ。
 次の日、学校に行くのが楽しみだった。生まれ変わったわたしを見てほしかった。
 朝、ヘアアイロンと格闘する時間はなくなって、水でちょちょいとクセを整えるだけになった。これだけでもお金を払った価値は充分にあると言える。朝の忙しい時間を髪に充てなくてよいというのは大きい。その分だけ睡眠時間を確保できるのだから。
 わたしはいつもと同じ時間に起きてしまったので、ゆっくりと朝ご飯を食べてから学校に向かった。こんなにのんびりと朝の時間を過ごしたのはいつ以来だっただろうか。特進に入って朝が早くなってからは、いつも慌ただしい朝だったのに。
 あまり混んでいない電車に乗りながら、鏡を見て自分の髪をチェックする。うん、おかしいところはない。これならきっと、みんなびっくりするはずだ。佐々木くんにも可愛いと思ってもらえるだろうか。思ってもらえるといいなあ。
 学校に着いて、教室の扉を開ける時、ちょっと緊張した。髪型をこんなに変えたことがなかったから、受け入れられるかどうか不安だった。実は可愛いと思っているのは少数派で、多数派は変だ、おかしいと思っているのではないかと勘ぐってしまう。
 でも、わたしはクセ毛のまま生きていくと決めたのだ。こんなところで立ち止まるべきじゃない。本当のわたしをみんなに受け入れてもらうのだ。
 わたしは教室の扉を開けて、中に入った。いつものように、みんな自習している。わたしのほうを見る人なんていない。そうだよね、そうだったよね。ちょっとがっかり。
 佐々木くんはもう来ていた。わたしが横を通ると、佐々木くんは顔を上げた。
「おはよう、柴崎さん」
「お、おはよう、佐々木くん」
「髪型変えたんだね。似合ってる」
 気づいてくれて、しかも褒めてくれるとか、なんて素晴らしい男なんだ。そういうところも好き。普通の男子ならこんなことを言ってくれるはずがない。
 わたしは興奮を抑えながら微笑んだ。
「そうなの。昨日美容院に行ってね、整えてもらったの」
「へえ、パーマかけたの?」
 誰もがそう思うだろう。わたしだって何も知らなければそう思う。想定される質問ナンバーワンだ。
「違うの。これね、地毛なんだよ」
「地毛なの? へえ、すごいな。地毛でそんな髪になるんだ」
 佐々木くんは髪が短いし、たぶん直毛だからクセ毛のことはわからないのだろう。それでも理解しようとしてくれているのが伝わってくる。ああ、さすが佐々木くん。
「今までよりいいんじゃない? 俺はそう思うよ」
「えへへ、そうかなあ? ありがと」
 佐々木くんはにこやかに笑って、また自分の勉強に戻る。わたしは佐々木くんに褒められたことが嬉しくて、しばらく自分の世界に浸っていた。
 我に返って席に着くと、藍美がわたしの肩を優しく叩いた。
「なっちゃん、おはよ」
「おはよう、藍美。ねえ、見てこの髪」
「うんうん! 可愛いよ、似合ってる!」
 藍美はまるで自分のことのように喜んでくれる。わたしはそんな藍美の様子を見て頬が緩んだ。
 藍美はこの前美容院に行ってから、学校にはクセ毛のまま登校している。あの綺麗なショートウェーブヘアだ。家でもきっと努力しているのだろう。わたしにとってはクセ毛人生の先輩になる。いや、それ以上の存在か。なんと言えばよいのかわからない。
「なっちゃんも一緒にやってくれて嬉しいよぉ。今まであたしだけこんな髪でさ、ちょっと浮いてるかなって不安に思うこともあったの」
「そうなんだ。藍美だって可愛いし、地毛なんだから気にすることないのに」
「そうかなぁ。なっちゃんは強いね」
「だって地毛じゃん。わたしたちは自然にこうなってるんだから、直すほうがおかしいんだよ」
 それはわたしの気持ちの変化の表れかもしれない。以前はストレートヘアにしなければならないと思っていたけれど、今は違う。クセ毛のまま生きていくことこそ重要だと思うのだ。まだまだ周りはストレートヘアにするのが普通だと思っているだろうけれど、そうではないということを訴えたかった。そんな慣習はなくなってしまえばよいのだ。
「そうだね。あたしもそう思う」
「わたしはもうヘアアイロンと戦うのは嫌なの。藍美だってそうでしょ?」
「うん。あたしも、このまま生きていきたい。クセ毛ってこんなに可愛いんだもん」
「そうそう。クセ毛って可愛いんだって思ってもらいたいよね」
 わたしと藍美の意見は同じだ。それが嬉しかった。
 あんなに嫌いだと思っていたクセ毛が、今では好きになってしまった。あの雑誌はクセ毛があなたのチャームポイントだと書いていたけれど、全くその通りだ。ちゃんと整えたら、クセ毛はチャームポイントになるのだ。誰にも真似できない、自分だけのクセなのだから。
 櫻井先生が教室に入ってくる。わたしと藍美は会話を切り上げて、わたしは前を向いた。
 櫻井先生がわたしを見て、苦々しい表情を浮かべた気がした。なんだろう。いや、思い当たるのは髪しかない。わたしの髪が何かおかしいだろうか。
「補講を始めます。参考書の九十二ページを開いて、問題を解いてください」
 今日は数学の時間だ。櫻井先生に言われた通り、参考書の九十二ページを開く。わたしがあまり得意ではない分野の問題だった。嫌だなあ、朝からこれかあ。
「柴崎さん、須川(すがわ)さん、ちょっと来てください」
「はい?」
 急に櫻井先生に呼ばれて、わたしは訝しむように顔を上げた。櫻井先生は確かにこちらを見ている。わたしの聞き間違いではないようだった。
 藍美もわたしと同じように戸惑いながら席を立つ。呼ばれたのなら行くしかない。あまり良い話でないのは間違いないだろう。わたしは気が重くなった。
 櫻井先生について教室を出て、職員室まで連れていかれる。話す勇気がなくて、わたしも藍美も無言で櫻井先生の後についていった。櫻井先生も、一言も発さなかった。
 職員室に着いて、その一角にある面談できる場所に誘導された。向かい合うように二人掛けのソファが置いてあって、その間に低いテーブルがある。櫻井先生に促されて、わたしと藍美はソファに腰掛けた。櫻井先生はその向かい側に座る。
「なんで呼ばれたかわかる?」
 開口一番、櫻井先生はそう言った。わたしと藍美は顔を見合わせる。
 わたしにはわかっていた。絶対にこの髪のことだ。それでも、わかったと認めることがクセ毛を否定することのように思えて、わたしは反発した。
「わかりません。何もしていないと思います」
「柴崎さん、あなた、その髪どうしたの。先週までは普通だったじゃない」
 普通。わたしはその言葉にかちんときた。毎朝頑張って矯正していた髪が、普通。本来あるべき姿に戻したら、普通ではない。いったいどちらが正しいのだろう。
「美容院で整えてもらいました。これがわたしの普通です」
「そんなはずないでしょう。パーマをかけるのは校則で禁止されています」
 またか。ここでも同じ質問が飛んできて、わたしは嫌になってしまった。でも逆に言えば、パーマをかけたような髪型になっているということだ。プラスに捉えることにした。
「地毛です。先生はクセ毛じゃないんですか?」
「クセ毛だからってそんなふうになるわけないでしょう。変な言い訳はやめなさい」
 何も知らない先生に、上から押さえつけられる。クセ毛人生がこんなところで阻まれるなんて思わなかった。女性なら理解してくれると思っていたのに、櫻井先生はわたしたちを理解してくれなかったのだ。
「なるんですよ。本当に地毛なんです」
 わたしが訴えても、櫻井先生には届かなかった。眉をひそめて、今度は藍美に言う。
「須川さん。あなたも地毛だって言うの?」
「は、はい。あたしも、地毛です」
 藍美は明らかに怖がっていた。櫻井先生の不快そうな雰囲気に押されて、直せと言われたら直してしまいそうだった。
 そんなことはさせない。わたしが藍美を、クセ毛人生を守るのだ。
「明日は必ず直して学校に来なさい」
「どうしてですか? クセ毛のまま学校に来たら何がいけないんですか?」
 わたしは櫻井先生に噛みついた。櫻井先生は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「だから、地毛でそんな髪になるはずがないでしょう。柴崎さん、特進に入って生活指導されるような子はあなたが初めてなの。周りにも悪影響を及ぼします」
「クセ毛のままだと生活指導されるんですか? わたしのまま学校に来たら、怒られるんですか?」
「あくまでも地毛だって言うの? 私は、地毛でそんな髪になる子を見たことがないわ」
「それは先生の問題でしょう? わたしも、藍美も、地毛でこういう髪になるんですよ。これを直すほうが校則に違反するんじゃないですか? ちゃんと直すなら整髪料だってがんがん使いますし、そのほうが生活指導の対象ですよね?」
 わたしは苛々していた。どうしてわかってくれないんだ。クセ毛ってこういう髪なのに、どうして地毛だと理解してくれないんだ。
「まあまあ、その辺にしようじゃないか」
 割って入ってきたのは、学年主任の男性の先生だった。ぷっくりふくよかな身体が周囲を和ませるような、穏やかな先生だ。
 学年主任の先生は空いていた場所に座ると、わたしと藍美に一枚の紙を見せた。
「地毛だと言うのなら、地毛証明書を提出しなさい。保護者の方に書いてもらってね」
 地毛証明書。わたしと藍美の前に出された書類にはそう書かれていた。自分の子どもはこういう髪だけど、地毛であることを証明します、というような感じの文章と、印鑑を押す場所がある。
「普段は髪が茶色っぽい子に渡す書類なんだけど、二人に渡すから、早めに提出してね。そうじゃないと、生活指導の先生は地毛だってわからないかもしれないから」
「地毛なのに、書類を提出しないといけないんですか?」
 それもなんだかおかしな話だ。わたしがわたしであるために、書類を提出しなければならないのだ。わたし自身が認められていないような気分になる。
 学年主任の先生はのんびりとした口調で答えた。
「柴崎さん、きみは、自分の髪がパーマをかけたように見えるという自覚はある?」
「あります。それくらい綺麗だと思ってます」
「ということは、パーマをかけた人と区別がつかない、ということになる。こちらの都合で申し訳ないけれど、地毛の人を生活指導するわけにはいかないから、書類を出してほしいんだ」
 学年主任の先生の言葉はすうっと頭に入ってくる。先生方も苦労しているのかもしれない。
「わかりました。お母さんに書いてもらいます」
 わたしは書類を受け取り、藍美にも渡す。藍美の手が震えているのを見て、わたしはまた怒りを覚えてしまう。藍美にこんな怖い思いをさせるなんて、どうかしている。
「さあ、特進の子は補講の途中だろう? 櫻井先生と少し話があるから、二人は先に教室へ帰って、補講に参加しなさい」
「はい。ありがとうございます」
 学年主任の先生に言われて、わたしと藍美は席を立った。わたしはできるだけ堂々とした態度で歩いた。そうしないと、わたしが間違っていると思われるような気がしたのだ。
 職員室を出ると、藍美がはあっと深い溜息を吐いた。
「な、なっちゃん、すごいねぇ。あんなに立ち向かえるなんて」
「だっておかしいじゃん。わたしたち、悪いことは何もしてない」
「それでもさ、怖かったよぉ。なっちゃんがいなかったら、あたしきっと明日からヘアアイロンで直してたよ」
 藍美の様子を見る限り、たぶんそうなっただろう。あそこでわたしが騒いだから、学年主任の先生が来てくれたのだ。藍美のクセ毛を守ることができて、わたしは安堵する。
「これ、書いてもらわないとね。明日出してやる」
 わたしたちの手にある書類は、最大の盾になるものだ。これを出すことができれば、わたしたちは学校にも認められることになるはずだ。
「ね。あたしも、帰ったらお父さんに書いてもらうつもり」
「一緒に出しに行こう。明日の朝、叩きつけてやるんだから」
 思い出しても腹が立つ。地毛なわけないでしょう、だって。わたしだって最初はそう思ったけどさあ。
 櫻井先生はどうして否定するばかりで、理解しようとしてくれなかったんだろう。説明する機会を与えてくれなかったんだろう。ちゃんと説明させてもらえたら、クセ毛とはどういうものなのか理解してもらえたかもしれないのに。
 とにかく、この地毛証明書をさっさと書いてもらおう。お母さんに言えばすぐ書いてもらえるはずだ。お母さんに相談しておいてよかった。
 わたしと藍美は教室に戻った。教室の扉を開けた時、クラスメイトの視線が痛かった。
 ああもう。どうしてこんな思いをしなきゃいけないの? わたしはわたしらしくしたいだけなのに。



 わたしは帰ってからすぐにお母さんに事情を話した。いつもは帰ると夕飯は何だと騒ぐわたしが全然違うことを言うから、お母さんは驚いていた。
 しかし、お母さんはすぐに事態を察してくれた。お母さんの第一声はこれだ。
「まあ、そうよね。私もパーマかけたって思っちゃうもの」
 クセ毛は世の中に浸透しているようで、全然浸透していない。クセ毛という言葉は周囲に認知されているけれど、じゃあ実際にはどういうものなのかというのは全然理解されていないように思う。クセ毛であるわたしですら正しく理解できていなかったのだから、直毛の人にとっては未知の領域だろう。だから、櫻井先生はわたしたちを指導しようとしたのだ、きっと。
 地毛証明書を提出しないといけないということに関して、お母さんは特に異議はないようだった。むしろ当然提出するものだというような感じだった。
「書けっていうなら書くわよ。夏子は今のほうが絶対に可愛いわ」
 お母さんは地毛証明書を書いてくれた。理解のある親で助かる。
「でも面倒ね。こんなもの書かなきゃいけないなんて」
 お母さん、それはわたしも思っていることだよ。こんなものがなきゃ認められない世の中は間違っている。多様性だ何だと騒いでいるのはごく一部の人だけで、現実には多様性なんて認められていないのだと感じてしまう。
 いや、多様性を認めるために、地毛証明書というものがあるのかもしれない。クセ毛が認められず、無理やり矯正させられるよりはマシだ。この紙切れの存在はとても重い。
 お母さんから地毛証明書をもらって、わたしはひとまず安心した。まさかとは思ったが、お母さんが書いてくれないという可能性もあったからだ。本当に、お母さんがクセ毛を理解してくれる人でよかった。
 わたしは藍美に連絡した。藍美は無事に地毛証明書を入手できたのか、気になった。
『ばっちり! お父さんが学校にすごく怒ってた』
 よし、一安心。これで準備は整った。藍美のお父さんが学校にクレームを入れてくれないだろうか、なあんて思ってしまう。わたしの怒りはまだ収まっていないのだ。わたしたちが言うよりも、保護者から言ってもらったほうが効き目はあるはずだ。
 そして、翌朝。
 わたしはいつもより早く家を出た。早く学校に着くためだ。補講の時間に間に合うように地毛証明書を提出してやりたかった。いや、一秒でも早く認めさせたかったのだ。
 藍美にもちょっとだけ早く来てもらった。わたしが早く提出したいと言ったら、藍美も賛同してくれて、早めに来てくれることになっていた。
 教室の扉を開けると、普段よりもクラスメイトの数は少なかった。みんな勉強しているのは同じだ。勉強しかやることがないのかと思ってしまう。もっとさあ、高校生活を楽しもうよ。
 わたしは自分の席に鞄を置く。藍美はもう来ていて、不安げな瞳をわたしに向けた。
「おはよ、なっちゃん」
「行こ、藍美。向こうも早く出してほしいだろうし」
「う、うん。大丈夫かなぁ」
「大丈夫だよ。わたしがいるから、安心して」
「うん。ありがと、なっちゃん」
 藍美は席を立って、わたしと連れ立って教室を出て職員室へ向かう。
 安心して、とは言ったものの、わたしも緊張していた。地毛証明書を提出するだけだと思っても、本当に受け取ってくれるのかはわからない。ぐちぐちと説教される可能性は否定できない。櫻井先生なら受け取ってくれないかもしれない。わたしたちが自分で書いたのだ、とか因縁をつけてくるかもしれない。
 わたしは負けない。自分のクセ毛と、藍美を守るのだ。わたしは拳を握った。
 職員室の前に着く。藍美を見ると、藍美は入る前から怖がっているように見えた。
「大丈夫。紙切れを出すだけだよ」
「……うん」
 それは藍美に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、わからなかった。
 わたしは職員室の扉を開けた。朝早いからか、先生の姿も少ない。職員室の中に入って、わたしはずんずんと奥を目指す。地毛証明書を提出するなら、学年主任の先生がよいと思っていた。あの人ならクセ毛に理解を示してくれると思った。
 学年主任の先生はもう来ていた。わたしと藍美が来たことに気づいて、やわらかく微笑んだ。
「ああ、おはよう、柴崎さん、須川さん」
「おはようございます。先生、地毛証明書を持ってきました」
 わたしと藍美は地毛証明書を先生に提出した。先生はちらりと見ただけで、すぐに机の端のほうに置いてしまった。
 あれ? 見ないの? その程度の扱いなの?
「ありがとう、提出してくれて。他の先生方とも共有しておくよ」
「はい、お願いします。ありがとうございます」
「周りに合わせるのは大変かもしれないけれど、自分を持つというのはいいことだ。柴崎さんも須川さんも、自分を大切にしてほしい」
 先生は穏やかな声でわたしと藍美に言う。わたしたちは頷いた。
「これからもね、アルバイトの面接とか、就活とかで身だしなみの指摘を受けることがあるかもしれない。そんな時でも、自分を曲げずに生きていってほしいな」
「はい。わかりました」
「それじゃ、補講があるだろうから、教室に戻りなさい」
「え? いいんですか?」
 拍子抜けしてしまったわたしが尋ねると、先生のほうが首を傾げていた。
「他に何か用事があるかな?」
「いえ、なんでもないです。失礼します」
 このまま終わることができるのなら、何も言わないほうがよいだろう。藍美を一瞥すると、藍美の顔には早く帰りたいと書いてあった。だから、わたしは一礼して踵を返した。藍美も頭を下げて、早足で職員室を後にする。
 職員室を出ると、藍美は重圧から解放されたようで、大きな溜息を吐いた。
「出せたね、なっちゃん!」
 藍美の声から喜びがにじみ出ていた。わたしも嬉しい。飛び跳ねたい気分だ。
「やったね。これでクセ毛生活ができるよ」
「うんうん! なっちゃんのおかげだよ、ありがと!」
「でも、こんなにあっさり終わると思わなかったなあ。学年主任の先生が理解ある人でよかったよね」
 今回の勝因はそれだろう。たまたま理解のある人がその場にいたのだ。櫻井先生だけだったら、地毛証明書を出せば認められるという選択肢があることさえ教えてもらえなかっただろう。上から押さえつけられて、それでおしまいだっただろう。
「明日からもこの髪で学校来ていいんだもんね。ふふ、嬉しいなぁ」
「誰かに何か言われても、地毛証明書がありますって言えばいいんだよね」
「うん。あたしも、なっちゃんみたいに怖がらずに言えるようにならないと」
 藍美は嬉しそうに笑いながら言った。
 これで、クセ毛であることを学校にも認めてもらえた。最後はちょっとだけ意外だったけれど、これでよかったのだ。わたしがわたしのまま、学校に来ることができる。クラスメイトの視線も、見慣れてもらえばよいだけの話だ。
 これからもわたしはクセ毛のまま生きていこうと思う。学年主任の先生の言葉にあったように、この先にも髪に関して指摘を受けることがあるかもしれないけれど、これがわたしなんだと認めてもらえるようになりたい。わたしを隠さずに生きていきたい。
 それが、わたしらしく生きていくことだと思うから。