「う……っ。く……。ふ、うう……ぐぅ……っ!」

 ギルバートに『課題』を課されてから三日後、ロゼリアは紙の束を前にして、ひとり唸っていた。

「……なんで飛ぶどころか、少しも動かないの!?」

 それは彼女の心からの言葉だった。
 魔力が多すぎて上手く制御できないことは何度もあったが、作動しないというのはロゼリアにとって初めてのことだった。

「この魔法、本当に風魔法が使えなくても使えるの……?」

 『水鉄砲』の魔法確かには水属性の適性がなくとも確かに使えたが、『古代魔法』として語られるだけだった『紙の鳥』を、自分が使う日が来るなんてロゼリアは実感がわかなかった。

「……」
 ただ、ギルバートの言葉が嘘とは思えず――ロゼリアは目をつぶり、彼の言葉を思い出した。
 水属性と光属性に強い適性を持つという彼が、自分に向かって笑いながら言ったことを。

『この魔法には欠点があるんだ。紙の鳥の魔法は、魔法陣に送る魔力が多すぎるとうまく飛ばない。この鳥を飛ばすのに必要なのは、俺たちが普段魔法を使うために必要とするような、大量の魔力じゃないんだ。寧ろ魔法を使えない人間にこそ、この鳥は扱いやすい』

 この世界において、魔法は選ばれた者のみに与えられる異能《ちから》だ。

 王侯貴族――そして、後天的に魔法を使えるようになった者。
 強い意志、強い願いが、人に魔法という力を与える。
 ディランの『海の皇女』として生きてきたロゼリアにとって、その『力』の考え方は変えようがない。

 導く者、与える者。
 付き従い頭を垂れる者、与えられる者。
 その間には大きな壁があり、ロゼリアはずっと、自分は前者であるべきだと考えてきた。
 でももし――本当に『魔法の使えない者』にも使える魔法道具がこの世界に生まれるのなら、世界はこれから、大きな転換期を迎えるのかもしれない。
 そう考えるとロゼリアは、自分もこの魔法を使えるようになりたいと思った。

『目を閉じて、頭の中に思い浮かべるんだ。窓を開けたとき風が吹き込んで、薄いレースのカーテンが波打つ景色。蝋燭に明かりをつけたとき、風に揺らぐ灯火を。その感覚を、全ての紙に与えるんだ。さあ、手を差し出して。今日からこの鳥を飛ばす訓練を行おう』

 頭の中に響くギルバートの声は、ただただ柔らかく温かい。

『大丈夫。君になら千羽だって、簡単に飛ばせるはずだ』

 だが――感覚的すぎるギルバートの教えは、ロゼリアには理解不能だった。

「……あんな教え方で、わかるわけ無いでしょう!?」

 最早詐欺師としか思えない。
 ロゼリアが拳を握って叫ぶと、後ろから呆れたような声が聞こえてきて、彼女はびくっと体を跳ねさせた。

「何ひとりごとを言ってるんだ? 君は」

 『天敵』の声。
 自分とは違い、『完璧な王子』であると讃えられる王子に気付いて、ロゼリアは思わず後退った。

「……な、なんで貴方がここにいるの!?」

 レオンは、まるで逃げるかのように自分から一歩後ろに下がったロゼリアを見て、はあと小さく溜め息を吐いた。

「ギルバートが、君と僕と三人で行うと提出してしまったからね。君だって僕だとわかった上で受けたんだろう?」
「………………」

 卒業試験は三人一組。
 ギルバートの存在がプラス一〇〇なら、レオンの存在はマイナス五〇だ。
 結果としてプラスのチームだったこともあり受け入れたとは、ロゼリアはレオン本人に言う勇気はなかった。

「それにしても遅いな」
「…………」

 時計を気にするレオンを見て、ロゼリアは下を向いてぎゅっと服を掴んだ。
 ギルバートと組みたくてつい了承してしまったが、レオンと自分の相性が良いとはとても思えない。

 ――は、はやくきて。ギルバート・クロサイト……!

 心の中でそう唱えるも、当の本人はいくら待っても来てはくれない。
 そして最悪なことに、ギルバートを待つ二人のもとに『紙の鳥』が届いた。
 クリスタロスの人間しか使えないはずの『紙の鳥』が。

「ギルバートからだ」
「え?」

 紙の鳥はレオンの手にとまると、魔法が解けてもとの手紙へと形を変える。

「……どうやらギルは少し体調が悪いみたいだね。僕に君の練習をみてほしいと都会である」
「ええっ!?」

 ロゼリアは思わず声を上げた。

 ――最悪。苦手な相手と二人っきりだなんて……!!

「なにか問題でも?」
「も、問題なんかないわ……!」
 どこか冷えた声で尋ねられ、ロゼリアは慌てて返した。
 ――……それにしても。

「でも、あの人……簡単に体調を崩すようには見えなかったのだけど。風邪でもひいたの?」

 『光属性持ち』の公爵令息。
 ギルバートは治癒に長けていると聞いていただけに、ロゼリアはギルバートが体調を崩したという話に首を傾げた。

「頑丈さだけがウリのような男なんだけど……『三つの鍵』を使うには、それなりに魔力が必要になるからね。少し疲れたのかもしれない。でもまあ弱っていれば、『彼女』がついているはずだから、案外彼は今頃楽しい時間を過ごしているかもしれない」
「? どういうこと?」

 レオンの言葉の意味がわからず、ロゼリアは首を傾げた。
 体調を崩せば面倒を見てくれるような大切な相手が、ギルバートにはいるということだろうか?

「もしかして――……」

 ギルバートのそばにいた女性はただ一人。
 茶髪に金の瞳の気の強そうな、鷹のような女性を思い出して、ロゼリアが口を開こうとすると、レオンは言葉を遮った。

「君が知る必要のないことだ」
 レオンはそう言うと、ポツンと置かれた石の扉に鍵を差し込んだ。

「それでは、扉を開くとしよう」



 グラナトゥムの魔法学院では、『3つの鍵』はその日与えられる問題を最初にクリアした者に与えられる。

 一つ目の鍵は、魔法の実技によって貸し出され、二つ目の鍵は知識によって貸し出される。
 レオンが手にしていたのは、ギルバートか手にしていたものと同じ、魔法を要求されるほうの鍵だった。
 当然のように鍵を手にしたレオンは、『天蓋』の中にロゼリアを招いた。

「ところで、ギルからは何をするよう言われているの?」
「紙の鳥を飛ばせるようになれ……と」

 ロゼリアはギルバートた渡された紙をレオンに見せた。
 水魔法を使えないレオンに、ロゼリアと同じ適性を持つギルバートのような教え方は出来ない。
 たが紙の鳥の魔法なら、レオンだって教えることはできる。

「……なるほど。なら今日は、僕が教えるとしよう」

 レオンはそう言って頷くと、ロゼリアに魔法を使うよう促した。



「く……う……っ。……うう……っ!」
 そして、その後。
 ロゼリアは大量に地面に置かれた紙に触れて唸っていた。
 かれこれもう数十分間。
 欠片も動く様子のない紙の前に、大国の皇族でありながら地面に膝をつき唸るロゼリアを見て、レオンは呆れたような声で彼女を呼んだ。
「――君」
「な、なに?」
「さっきもだけど、一体何をしてるんだ?」
「ま、魔法を使おうと……」
 ロゼリアはレオンから視線をそらしながらそうかえした。
「それにしては一羽も飛んでないけれど」
 レオンは静かな声で指摘した。
 ロゼリアは胸に冷たい氷の矢をいられたような思いがした。

「駄目なの。私が何度やっても飛ばないの。私には、やっぱり出来ないのよ。私には、やっぱりもう魔法なんて……」

 自分を否定するロゼリアの言葉に、レオンは顔を顰めた。
「君はどうしていつも、下を向いているんだ? 君には溢れるほどの魔法の才能があるのに、そうやってすぐ自分を諦めるのはどうかと思うけど」
「……でも! だって、私には、あの日からもう……」
 ロゼリアは、言葉を続けようとして口籠った。そんな彼女に気付いて、レオンは静かに目を伏せた。

「君が魔法を使えなくなった理由は、僕にはわからない。でも、たとえ今、この世界にある他の魔法を君が使えなくても、この魔法だけは、『使えない』なんてありえない。この魔法は、すべての人が使えるようにと作られたものだから」

「すべての……」
「そう。今魔法が使える人間も、使えない人間も。みんなが魔法を使えるように」
 ロゼリアが言葉を繰り返すと、レオンがふっと優しく微笑んだようにロゼリアにね見えた。

「だから、君だって使えるはずだ」
 その表情は、いつもの『レオン・クリスタロス』とは別人のようにロゼリアには見えた。
 どこか人に壁を作る、そんな作り物の笑顔なんかじゃない。まるで春の柔らかな日差しが雪を溶かすかのような、そんなものを感じてロゼリアは目を瞬かせた。
 『氷炎の王子』――氷と炎の魔法を使う、王になるべくして生まれた完璧とまで称された人間がこんな表情《かお》をするなんて、ロゼリアは思いもしなかった。
 驚きを隠せないロゼリアに、レオンは距離を詰めると、ロゼリアの後ろに回り込んで囁いた。

「本当はこういうことは、光魔法の遣い手が一番向いているんだけど……」
「?」
「――触れるよ」
 そう言うと、レオンはロゼリアの右手に、自分の手を差し込んだ。
「……え!?」
 指と指の間に、大きな手が入ってくる。
 その感覚に、ロゼリアは胸の鼓動がはやくなるのを隠せなかった。
「えっと、その……あの」
 ――近い。
「力を抜いて」
 それは、これまで腫れ物のように、もしくは大国の皇族として扱われてきたロゼリアにとって、知らない感覚だった。
 落ち着いた、すこし低い声で耳元で囁かれると、頭の中が真っ白になる。

「僕に触られるのは、君にとって不快かもしれないけど耐えてくれ。君に教えるために必要なことだ」

 不快かどうかでいえば、嫌ではなかった。彼の手は少し冷たくも感じたが、必要以上に触れようというような、そんな意図は汲み取れない。

「まず、ギルバートに命じられたからと言って、全て飛ばそうと考えるのはやめるんだ。最初は一羽からでいい。古代魔法は、そもそも僕たちが使う魔法とは、使う魔力の量や感覚が違う」

 その声はまるで、自分よりも幼い相手に教えるかのようで、ギルバートとは違う柔らかさをロゼリアは感じた。

「想像してみてほしい。静まり返った水面に触れるとき、わずかでも指をつけたら波紋が広がるすがたを」

 その瞬間、僅かな痛みとともに、見えない力が自分の中をかけていくのをロゼリアは感じた。
 氷と炎の魔力。
 あたたかさと冷たさと、そんな力が、繋がれた手のひらから伝わってくる。

「魔法陣に直接触れずとも、強い魔力を持つものは、『触れない』ことで使える場合がある」

 レオンはそう言うと、ゆっくりと繋いだロゼリアを降ろした。
 そして、その手が上に近付いたとき――触れるより前に、ぴくりともしなかった魔法陣の描かれた紙が、目の前で鳥の形へと変形すると、ふわりと浮いて飛び立った。
 白い紙の鳥は空を飛ぶ。
 ロゼリアは、大きく目を見開いて空を見上げた。

「とん、だ……!」
 レオンはその姿を見て、そっと彼女から手を離した。鳥は空中を数度旋回すると、『天蓋』の天井を突き抜けて飛んでいく。
「飛んだ! 飛んだわ!!!」
「ああ。そのままギルバートのもとにいったみたいだね」
 レオンは冷静にそう呟く。
 興奮のさめないロゼリアは、自分に教えたのがレオンだとすっかり忘れて、思わず後ろを振り返って、満面の笑みを彼に向けた。

「こんなふうに、ちゃんと魔法を使えたのは久しぶり。本当にありがとう!」
 自分を前に、暗い顔ばかりしていた相手。
 ロゼリアのその笑顔に、レオンは驚いたような顔をしたあとに、少し困ったように微笑んだ。
「――……ああ。おめでとう」

 その声は、ただ優しく。
 ロゼリアは何故かその声を聞いた瞬間、胸が締め付けられるのを感じた。
 ――どうして。この人が笑うと、胸が苦しくなるの? 苦手だと、そう思っていたはずなのに。

 ロゼリアは、顔に熱が集まるのを感じて、立ち上がってからレオンに背を向けた。
「それにしてもこの魔法、すごいのね。最近は古代魔法の復元が活発に行われているの? ロイに瞳の色を変える魔法を教えて貰ったのだけど――……」
 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。そんな彼女の言葉を遮るように、レオンは静かに言った。

「――この魔法は、僕の弟が作ったものだ」

「え?」
「確証はないけれど――おそらく、君が『ハロウィン』の時に使っていた魔法も、ね。弟は魔法は使えない。でもだからこそ、魔力が少ない者でも使える、誰もが使えるそんな魔法を作った。これもその一つだ」

「ごめんなさい」
 レオンの声は、ロゼリアを責めるような声ではなかった。
 けれどロゼリアは、思わずそう呟いていた。
 『紙の鳥の魔法』――『古代魔法』の復元。
 そんなことは、きっと自分じゃできない。ロゼリアは振り返り、レオンに頭を下げて謝罪した。

「……僕に言われても困る。謝るなら、僕でなく弟に言ってくれ」
 
 責めるような、声ではなかった。
 ロゼリアは真っ直ぐにレオンの顔を見たわけじゃない。ただそれでも、ロゼリアにはそう感じた。



 翌日、高等部の講義に、ギルバートは参加していた。
 昼休み、ギルバートとレオンは外で昼食を取りながら外で話をしていた。
「へえ。じゃあ昨日は、彼女はついに一羽飛ばすことができのか」
「一羽だけだけど」
「少しは時間がかかると思っていたから、お前のおかげだよ。でも、レオン。お前が人に教えるなんて珍しいな? ああ、そうか。お前には、彼女が『誰か』と重なって見えたのか?」
 ギルバートの言葉に、レオンは顔を顰めた。

「……五月蝿いよ。ギルバート。だいたい、自分が教えるとぴ出しておきながら、いきなり体調を壊すし君らしくもない。彼女が使えなかったのも、君の目算が甘いのが原因だろう。あんな教え方じゃ、ローズくらいじゃないと理解できないよ」

「――甘いのは、そっちの方だろ」
 ギルバートの声は冷たかった。
「触れずに魔法を使う、『無駄』が生まれるお前の方法は、彼女の自信には繋がっても、根本的な解決にはならない。彼女なら、俺のやり方なら最初から千羽といわず一万羽だって飛ばせるはずなんだから」
「……でも彼女は、今は……」
「小手先の魔法の使い方を学んでも、結局は彼女のためにはならない。そんなものは、海の皇女にはふさわしくない」
 そしてギルバートは、まるでかつてロイがリヒトに向けたような言葉を口にした。

「海を統べる、それだけの力を持っているからこそ――彼女は『ロゼリア』の名を与えられたんだから」