『婚約破棄された悪役令嬢は今日から騎士になるそうです。』海の皇女編

「おい。誰か話しかけろよ」
「無理だって。なんか近寄りがたいもん。ディランのお姫様とか、怒らせたら怖いし」
「だよなあ。そもそも王族とか、俺達とは遠すぎるし……」

 新たに加わった『仲間』を前に、幼等部の教室ではヒソヒソとそんな会話が行われていた。

「……でも、このままじゃ俺たち、のけものにしてるみたいじゃん」
「それは、みんなわかってるけどさあ……」

 窓際に座る海を思わせる少女は、まるでこの教室には誰もいないかのように悠然と鎮座していた。
 強い魔力を持つ者は、独特な存在感を持っている。
 故に誰もが彼女から目を逸らそうとしても、引力でもあるかのように気になってしまうのだった。
 結果、じろじろと見てしまうのに話しかけられないという事態が発生するわけで――生徒たちがどうしようかと考えあぐねていると、本を抱えた救世主が現れた。

「お前たち、なに固まって話してるんだ?」

「「あ~~~~っ!!!」
 その瞬間、リヒト以外の生徒の心が一致した。
 そうだった。今この教室には、『王子様』がいるんだった!

「リヒト、リヒトがいたじゃん!」
「そうだよ。リヒト様なら問題ない!」
「なあリヒト! 実は一つお願いがあるんだけどさぁ」
「……ど、どうした? とりあえず、一人ずつ話してくれ」
 前のめりに瞳を輝かせた年下たちに詰め寄られ、リヒトはたじろいだ。



「…………」
「………………」

 リヒトの席はロゼリアの隣になった。

『リヒト様の隣に座りたい!』
 そんな女の子同士の攻防があったのは遠い昔。
 教室の中、リヒトとロゼリアは完全に孤立していた。
 まるで、触ったら爆発する爆弾のような扱いだ。
 リヒトは彼らの反応に頭を悩ませていたが、百面相するリヒトを見てエミリーはにっこり笑っていた。

「あら。リヒトくんとロゼリアちゃんは仲良しなのね。リヒトくんはこの教室では一番お兄さんだし、ロゼリアちゃんに分らないことは教えてあげてね」

 仲良し。
 そんな言葉で自分たちの仲を表現されると、いささか困る。

 ――というか、世界で一、二を争う規模の大国の、ただ一人の皇女を『ちゃん呼び』って……。

 リヒトは思わずエミリーの顔をまじまじ見てしまった。
 ローズとは方向性が違うが、いろんな意味で強い人だ、と改めてリヒトは思った。



 午前の講義を終え、幼等部の生徒たちは共に食事をとっていた。
 学食は特待生である彼らに無償で食事を提供しており、今日彼らはサンドイッチを作って貰い、青空の下集まっていた。

 午後の講義は、エミリーがロゼリアに学院を案内することになり休講となったのだ。
 時間はたっぷりある。
 ただ、最近いつもリヒトの側にいるフィズは、用があるとかでこの場にはいなかった。

「お前らなあ……。確かに少し話しづらいタイプかもしれないけど、ああやって距離とると逆効果だってわかるだろ? 普通に接しろよ。同じ仲間だろ?」
「ごめんって」
「俺たちも悪気はないんだよ」
「でもさあ……ほら、『触らぬ神に祟りなし』っていうか」
 
 年長者として、供物として捧げられたリヒトは、乾いた笑いを浮かべる彼らに注意した。
 ロゼリアの態度が悪いというのは確かだ。ただだからといって、たくさんの人間が一人の人間を避けるようなことは、構造上いじめと変わらない。
 
「上手く言えないんだけどさ、俺たちにしたら、教室に突然陛下がやってきたのと変わらないんだよ」
「それめっちゃわかる! なんか、緊張感があるって言うか……」
 
 うんうんと頷く生徒たちを横目に、リヒトはロイのことを思い浮かべてみた。
 教室にロイがいる――。
 少し面倒だとは思うし目立つだろうが、それ以上の感情は、リヒトには浮かばない。

「だって三人の王の名前を継ぐのは、その力と同等の力を、生まれたときから持っているって認められたやつだけなんだろ?」
「……まあ、そう言われてはいるな」

 リヒトはやや遅れて頷いた。
 『そういえば、確かにあいつは三人の王の名を継ぐ一人だった』なんて思う。
 代わりにリヒトはレオンを思い出し、もし教室に兄がいたら、自分は避けてしまうかもしれないと思った。

 大陸の王ロイ・グラナトゥム
 海の皇女ロゼリア・ディラン
 賢王レオン・クリスタロス

 兄であるレオンが、幼い頃から才能が特出していたことはリヒトも知っている。
 クリスタロスが、グラナトゥムやディランに名を並べるには規模が劣る国でありながら他国に一目置かれているのは、『三人の王』の輩出国であるからだ。
 そしてその王の生まれ変わりと言うに相応しい者として、レオンの名前を与えられた兄の凄さを、リヒトは幼い頃見せつけられて育った。

 ――そんな兄上に勝とうだなんて、確かにおこがましいかもしれないけど……。でも。

『伸びる前の芽は、いつだって小さいものだ』
 ロイの言葉を思い出し、リヒトはぎゅっと拳を握った。

「俺にだって、きっと、俺にしか出来ないことが……」

「そういえばさ、リヒトは最近、なんか課題? 出されたやつって進んでんのか?」
 しかしその言葉は、心配そうにリヒトを見つめる少年の声に妨げられた。

「……まあ、一応」
「よかったじゃん! なんかいっつも図書館とかに籠もってるし気になってたんだよ。またなんか作るつもりなのか?」
 少年の問いに、リヒトは少し笑って大きく頷いた。

「ああ。異世界で、『コンタクト』と呼ばれるものを作ろうと思うんだ」

「……こん……たくと?」
 しかし聞き慣れない言葉に、その場にいた者たち全員が目を瞬かせた。

「イメージとしては、目にメガネを入れる? という方がわかりやすいかもしれない」
「え!?」
「なにそれ、めちゃくちゃ痛そうじゃん!」
 リヒトが『コンタクト』を目に入れるふりをすると、あちらこちらから悲鳴が上がり、リヒトは慌てて補足した。

「それについてはちゃんと考えるから、たぶん痛くはない! ただ、どうやら本によると、『コンタクト』には、柔らかい素材と硬い素材があるみたいなんだよな。硬い方が耐久性はあるみたいだけど、痛みの症状が出やすいみたいで……。柔らかい方は痛みが出にくい人が多いけど、耐久性としてやや弱いらしいんだよな」

 リヒトの説明を聞いて、『なら大丈夫かなあ』なんて声が上がる。
 リヒトはそれを聞いて微笑んだ。

「驚かせてごめん。正直、俺の話を聞いて『怖い』って声がでるのは予測していた。世界が違えば『常識』も違うからな。だから俺は、まれびとには当たり前でも、この世界で当たり前でないものを取り入れるとは、最初から痛みが出るものを利用するべきじゃないとは考えてる。ただ逆に、こうも考えられる。あちらの世界にはなくても、この世界には、もっと柔らかくて適した素材、長い期間使っても耐えられる耐久性をもつものもあるかもしれないって。それにそもそも、視力の低下が魔力の低下によるものなら、それは異世界と同じ原理でものを作っても使えない可能性が高い。考えるべきことはいろいろある。問題の解決には、俺は『この世界に合わせて作ること』が、一番大切だと思うんだ」

 熱弁していたリヒトは、自分が注目されていることに気付いて、ハッと我に返った。
 なんとなく気恥ずかしい。

「……なんで俺のことみんなそんなじっと見てるんだ?」
「いや……リヒトがなんか真面目なこと言ってるなって思って」
 素直な返答の後、長い沈黙があった。

「お前らも、俺のこと馬鹿って思ってたのか?」
 リヒトは、はあと溜め息を吐いて尋ねた。

「違う! そういうのじゃなくて!」
「なんか、こう……。……普段とは違うなって思って」
「普段と違う……といえば、この間図書館で見かけたとき眼鏡かけてなかったか?」

「ああ! これか?」
 リヒトは自分の発明品に気付いてもらえたのが嬉しくて、さっと懐から『ぐるぐるメガネ』を取り出した。

「これは俺の発明品なんだが、特殊な魔法がかけてあるんだ。これがあれば読書がはかどるぞ。いるならやろう」

 だが、瞳を輝かせていたのはリヒトだけで、周りの生徒たちは可哀想なものをみるような目でリヒトを見ていた。

「ごめん。それダサいからいらない」
「リヒトって、ほんとこういう才能ないよな」

 一刀両断。
 暴言を吐かれて、リヒトは胸を押さえた。
 傷なんてどこにもないはずなのに、胸が痛かった。
 直球ストレート、子ども素直な意見がリヒトを襲う!
 リヒトが眼鏡を手に一人膝をついて落ち込んでいると、生徒の一人が思い出したかのように言った。

「そういえばさ、確か古代魔法の一つに、瞳の色を変える魔法ってなかったっけ? 絵本で読んだ気がする」

 古代魔法は、魔法陣が残っていないことから、復元不可能な魔法ともされている。
 だからこそその魔法は絵本や小説の中で、『おとぎ話の魔法』として登場することがある。

「古代魔法が出てくる絵本だったから、俺も昔読んだことがある。でもあれは赤い本によると、視力回復効果はないとみたいなんだよな。それに透眼症は、やっぱり目が見えなくなるっていうのが、俺は一番の問題だと思うし……」

「でもさ、模試その古代魔法が本当にあったってんなら、リヒトが言う『この世界で使える素材』は、昔からこの世界にあったってことにならないか? つまり、瞳に触れても大丈夫な素材が――」
「……なるほど、確かにそうだよな」

 古代魔法の全てが、かつて実際にあったっていう場合は、だが。

 ――確かにそう仮定するならば、『素材そのものは、古い時代からこの世界に実在するもの』ということになり数を絞れる。
 リヒトはこれまでそういう視点で、絵本の中の記述を見たことはなかった。
 絵本にされるような話は、創作されたものもあるが、有名なものの場合原型は古くかる存在するものも多い。
 リヒトにとって、それは新しい『発見』だった。

「でも古代魔法って、割と謎な魔法魔法あるよな。瞳の色を変える魔法なんて、作る意味わからないし。しかも確か話によると、古代魔法のやつって、赤い目を青い目に変える方法だったらしいじゃん? 水属性だから魔力強くても青、って人はいるけど、基本赤は最強の証なのに、それをわざわざ青くするなんて、意味分かんないよな。まあ、これは今はどうでも良いか」

「……ありがとう。希望が見えた気がする」

 リヒトは、自分のために一緒になって考えてくれる子どもたちの言葉を聞いて笑った。 
 リヒトにとって、幼い頃から研究は、ずっと一人でするものだった。 
 誰かと話をして、何か新しい『発見』をしたことなんて、これまでのリヒトにはなかったことだ。

「おう!」
 心からの笑顔を見せたリヒトを見て、子どもたちもつられて笑みを浮かべる。
 穏やかな空気が流れる中、食事を終えたりリヒトは元気よく立ち上がった。

「じゃあ、俺はこれから早速図書館に行って調べ物を」
「待て! 今日こそは逃さないぞ!」

 しかしその瞬間、リヒトは子どもたちに体を拘束された。
 手や足にしがみつかれては、リヒトは彼らを振りほどくことが出来ない。

「な、なんだよ。俺はこれから――」
「そんなこと言いながら、俺たちに全然かまってくんないじゃん!」
「リヒトのくせに生意気だぞ!!」
「生意気って……」

『これでも俺はお前たちより年上で、一応一国の王子なんだが?』
 リヒトは、喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
 ひどいいわれようだと思うものの、身分の差を意識せず彼らが自分に接することが、リヒトは嫌いではなかった。

 ――意識させて、自分から壁を作る必要は無い。

「勉強に、息抜きは必要だって! 常識だぞ!」

 詰まるところ、『自分と遊びたい』と言いたいらしい子どもたちを前に、リヒトは降参したとわんばかりに手を上げた。

「……わかった。それで、何をするんだ?」

 リヒトが尋ねれば、子どもたちはわっと声を上げて、リヒトの手を強く握って満面の笑みを浮かべた。

「じゃあ今日これから、みんなでお化け屋敷に行こうぜ!」
 幼等部の生徒たちと学院を出たリヒトは、急遽城下を訪れることになった。

 ――『赤の大陸』。
 そう呼ばれるだけあって、グラナトゥムは世界で最も陸地を有している。
 多くの穀倉地帯を持つこの国は、領地に気候の違う地域をもち、またまれびとの文化を積極的に採用しているため、様々な『食』を楽しむことができることでも有名だ。

 甘いお菓子や香ばしい串刺しの肉、おにぎりや果実――子どもたちにすすめられるまま食べ物を買っていたリヒトは、沢山の荷物を抱える羽目になってしまった。

 クリスタロス王国は、宝石、特に精霊晶の産出国で知られており、加工までを国内で行っている。
 鉱石《しげん》はいつ枯渇するかわからないため、出来るだけ長く利益を生み出せるように、宝飾品として扱われるよう手を加えているのだ。
 そもそも精霊晶は、普通の宝石よりも値が張る物だ。
 その国の王子であるリヒトは、自由にできる金はそれなりに与えられている。

 ――まあ、こういう国だから俺の立場がないのもあるんだけどな……。

 だからこそ、クリスタロス王国の書くことだ王族に生まれながら、魔力が低く、芸術に関して全くの才能が無いのは、国を代表する人間として不適格と指摘される理由になりうる。
 リヒトとは違い、レオンには芸術の才能もあるのだ。

 この世界において、王族は火属性を使えるほかに、国を代表する産業において才覚を示すことが求められる。
 『広大な地を領地に持つ』――グラナトゥムの王族が、代々地属性の使い手であることが重視されてきたのもこのためである。

 強大な魔力を持つ火属性の王。
 『当代』のロイ・グラナトゥムは地属性魔法が使えなかったが、今後は精霊晶を用い、『赤の大陸(グラナトゥム)』の王として、地属性魔法をはじめとした様々な属性魔法を必要とする祭典でも魔法を使う予定らしく、生徒たちはリヒトを神殿へと案内した。

「次の『光の祭典』は、陛下が行われるんだぜ」

 尊敬のまなざしで神殿を見つめる子どもの言葉を聞きながら、リヒトはこの神殿の中にあるであろう、巨大な水晶を思い浮かべた。

 世界中の国には、その国でしか扱えない特別な石が一つずつ存在する。
 石は魔力を保存する力を持っており、傷つくことは決してない。
 クリスタロスにおいて、石はかつてレオンやギルバートたちの生命維持装置として利用されたが、通常その石は、国に光の守護を与えるために存在している。

 そのための儀式が『光の祭典』。
 リヒトの名前の由来でもあるこの祭りは、世界中に存在し、年に一度同時に行われることでも有名だ。

 そしてこれは前回、アカリがクリスタロスの代表として光魔法を行使しようとして失敗し、ローズが引き継いだ行事でもある。
 危うくレオンとギルバートは、アカリの魔法の失敗によって命を落とすところだった。

 リヒトはそのことを思い出して、当時の自分を恥じた。
 異世界人《まれびと》が伝える『医療技術』では、植物状態の人間の延命措置が技術として確立されているが、今のこの世界ではまだ、眠り続ける人間を生かすには、魔法の力をかりるしかない。
 現状、光魔法を10年もかけ続けるなんて真似は、王族かそれに近しい人間にしか許されない。神殿に存在する石を利用する他に方法がないからだ。
 
 ――でもそのことを、俺は話してもらえなかった。だからこの10年、俺は二人が生きている姿を見ることすら叶わなかった。

 その話を自分に父やローズがしなかったのは、それだけ自分が周りから信頼されていなかったのだろうと思うと、リヒトは胸が少し痛かった。
 いかに自分が軽視されていたか思い知らされる。
 ただその特別な役目を、どんな経緯であれロイが執り行えるようになったことを、リヒトは祝福したいと思った。



「――それで、お化け屋敷って、どういうところなんだ?」
「噂によると、『顔がない』らしいんだ」
 
 リヒトが尋ねると、しゃがむようリヒトに合図をして、少年は小さな声で言った。

「顔が……ない?」
「俺が思うに、『のっぺらぼう』ってやつじゃないかと思うんだよ」

 少年は至極真面目な顔をしていた。
 リヒトはその言葉を聞いて驚いた。

「のっぺらぼう? そんな言葉、よく知ってたな」

 そういえば異世界人《まれびと》の本の中に、そんなものがあった気がする。
 ただそれは、人が読まなさそうな本だった気がして――リヒトが驚いて返すと、子どもたちは何故かリヒトを哀れむような目で見た。

「は? 普通に絵本とかに出てくるじゃん。誰でも知ってるだろ」
「そうなのか?」
「……なんか、リヒトってさあ……」
「勉強ばっかしてるせいで、知識偏りまくってるよな。普通知ってること知らないっていうか」
「…………そうなのかな」

 彼らの指摘に、リヒトは思い当たる節はあった。
 ただ自分が『普通の子ども』が知るべき話を知らないのは、母上が早くなくなったせいかもしれない――そう考えていただけに、リヒトが胸の痛みを隠すために控えめな笑みを浮かべると、リヒトのそばに控えていたアルフレッドが、静かに剣に手をかけた。

「!!」
「……突然固まってどうしたんだ?」

 リヒトは子どもたちが何故か怯んでいることに気づいて、一度首を傾げた後、振り返って、慌ててアルフレッドの手に自分の手を添えた。

「あ、アルフレッド。俺は大丈夫だから」

 リヒトが宥めれば、アルフレッドはチラリと子どもたちを睨んで剣を納めると、ぷいっとリヒトから顔を背けた。

「別に貴方のことなんて、心配なんかしていません」
「…………そうか」

 バツの悪そうな顔をするアルフレッドを見て、リヒトは静かに頷いた。
 リヒトには何故かその言葉や姿が、彼の兄と被って見えた。

 ――前より好かれてる? っていうか、これは甘えられてるってことなのか……?
 ただそれを指摘すれば反抗される予感があったので、リヒトは黙って彼の好意を受け取ることにした。

 アルフレッド・ライゼン。
 ローズの婚約者であるベアトリーチェの実の弟である彼は、生意気でKY(意図的)であることを除けば、優秀な人材だ。
 今回の護衛はベアトリーチェが選んだが、リヒトはベアトリーチェが、身内贔屓をする人間ではないことは理解していた。
 ただこの国に来て、他国の人間の前では、自国の王子(じぶん)を軽んじる姿を見せないよう努力しているらしいアルフレッドを見れたのは、リヒトには発見だった。

「アルフレッド。面倒をかけてすまないが、何かあれば俺たちを守ってくれ」

 『俺たち』その意味を理解して、アルフレッドは頷いた。
「かしこまりました」



「あそこだよ! リヒト。あの家に、おばけが住んでるんだって!」

 『のっぺらぼう』の住む屋敷。
 王都の外れにあったその建物は、一見古いが、質のいい素材で作られているようにリヒトには見えた。
 蔦のはう屋敷は、どこか懐古的な趣もあり、お化け屋敷と言われて思い浮かべていたものとは、あまりに違う。

「でてこいお化けめ! 俺たちは何も怖くないぞ!」
「かっこいい! おばけなんかやっつけてやれ!」

 だが、首を傾げるリヒトは余所に、『化け物を倒しに来た勇者気取り』の子どもたちは、おのおの森で拾った木を手に、屋敷の前で大声で叫んでいた。
 周りに人家はないとはいえ、勘違いだとすると、あまりに無礼な物言いだ。

「おいお前たち、落ち着け。この家なんだけど、本当に」
 ――お前たちの言う『のっぺらぼう』の住む屋敷なのか?

 しかしリヒトが止めに入るより前、屋敷の扉がゆっくりと開いた。

「はい。どちら様」
「ひゅっ! うわあああああああああああああ!! でたあああああああああああああっ!!!!!」
 
 その瞬間、子どもたちはリヒトを置いて、全速力で駆け出した。

「ええっ!?」
 ――なんで俺、置いて行かれてるんだ!?
 リヒトは慌てた。
 扉の向こうには、年老いた老婆が一人。
 食べ物を抱えた自分だけが取り残される、この状況はいかに。

「ええと……あの、これは、その……」
 リヒトがどう取り繕うか悩んでいると、屋敷の奥から、リヒトのよく知る声が聞こえた。
「いいって。ばあちゃん、危ないから俺がでるってば。良いから、今日は座っててよ」
「え?」
 この声は――……。

「フィズ?」
「――……なんで、リヒトがここに?」

 用があると言って今回の『お化け退治』には参加していなかったフィズは、リヒトを見て目を瞬かせていた。
「貴方は、フィズのお友だちだったのね」

「はい」
 まさか『のっぺらぼう』を退治しに来たとは言えず、リヒトは苦笑いした。

「リヒトは紅茶でいい? あとこのお菓子、本当にもらっていいのか?」
「ああ、かまわない。ありがとう」
「ありがと。ばあちゃんも喜ぶよ」

 意図せずして、リヒトは手土産を持参出来た。フィズは返事を聞いて、嬉しそうに笑った。
 教室では年齢相応に見えるフィズが、老婆の前ではまるでしっかり者の少年のように振る舞っていたのは、リヒトは少し意外だった。
 茶を入れるのが手慣れている。

「今日はね、午後から休みだからってわざわざ来てくれたのよ」
 フィズを見て、老婆はまるで自慢の孫の話をするかのように、嬉しそうに微笑んだ。

「用があると言っていたのは、貴方に会うことだったんですね。普段お一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
「ええ。フィズが寮に入る前までは一緒に住んでいたのだけれど、今は一人で暮らしているわ」

 老婆はにこりと笑って答えた。
 血縁だろうか? しかし老婆の姿は、欠片もフィズとは似ていないようにリヒトには思えた。
 肩にかかる程度の銀色の髪。そして老婆の瞳は、リヒトが最近ずっと調べていたある病の症例と、よく似ていた。

 ――この人は、『透眼症』の……。

 色素の薄い瞳、銀色の髪。
 透けるような白い肌は、まるでこの世界から、今にも消えてしまいそうなほど儚く見えた。
 リヒトは老婆の姿を見て、何故子どもたちが彼女のことを、『のっぺらぼう』だと思ったのか推測した。

 『噂』は、人によって広がるものだ。
 最初はきっと、『幽霊みたいな瞳の色の薄いおばあさんがいる』程度のものだったにちがいない。

 けれどいつのまにか『瞳の色が薄い』が『ない』に変わり、瞳に限定していた話が、より面白おかしくするために、『顔がない』に脚色されたのではないだろうか? 
 リヒトはそう考えて目を細めた。

 ――やはり、人の噂はあてにならない。

「はい。どうぞ」
 フィズは、紅茶と菓子をリヒトと老婆の前に並べた。

「ところでこの子、学院では頑張っているかしら?」
「な……何聞いてるんだよ! ばあちゃん!」
 突然自分の話をされて、フィズは慌てた。
 フィズがぶつかった机の上の茶器が揺れる。危うく中身がこぼれるところだった。

「はい。いつも頑張っていますよ。先日は舞踏会があったんですが、俺の教室で、一番上手に踊れていたのはフィズでした」
「……り、リヒト!?」
「まあ。そうなの? それは素敵ね。フィズがダンスの才能があるなんて知らなかったわ」
 慌てるフィズはよそに、老婆は嬉しそうに声をはずませる。

「あれはリヒトに教わったからだし……。っていうか、なんでリヒトは踊ってなかったんだよ」
「俺には相手がいなかったから……?」

 リヒトは苦笑いして答えた。
 正確に言うと、アカリを誘おうにも、公衆の面前で泣かせてしまうのはまずかったからだ。
 リヒトに闇魔法は使えない。

「まあ。こんなに素敵なのに、相手がいないなんて不思議な話ね。貴方は、光魔法の使い手なのよね?」
「!?」

 ――何故それを!?
 突然自分の話をされて、リヒトは目を大きく見開いた。

「ふふふ。驚かせちゃったかしら?」
 固まるリヒトを前に、老婆は楽しげに笑う。

「綺麗な金色だから、すぐにわかったわ。フィズから貴方の話は聞いていたと言うのもあるけれど……。症例が少ないから、知らなかったかしら? 私の病は、人を見ることは出来なくても、魔力や魔法を、色として見ることが出来るのよ」

 リヒトは大きく目を見開いた。
 透眼症の罹患者が魔力を見ることが出来るなんて知らなかった。
 ただその前に一つ気になることがあって、リヒトはフィズを見た。

 ――フィズはこの人に、解決策がまだ見つけられていないのに、俺の『課題』の話をしたんだろうか……? 

「……あの、その……」
「そう。貴方の課題の話は、フィズから今日聞いたわ。学院の先生から課されたとのことだろうけれど、貴方にそうさせたのはきっと、その先生ではなくて陛下でしょうね」
 リヒトはその言葉を聞いて首を傾げた。
 なぜ今、ロイの名前が出てくるのかがわからない。

「ロイを……あ、いや、『陛下』をご存じなんですか?」
「私ね、もともと王宮で働いていたの。だから、あの方の幼い頃は存じ上げているわ」
  
 よく見れば屋敷の中には、金糸で刺繍のされたローブが飾ってあった。
 グラナトゥムでは、王に仕える魔法使いは、金の糸で刺繍されたローブを下賜される。
 つまりそれは彼女が、一人の魔法使いとして、かつて王に認められていたことを示していた。

「陛下は不可能なことを押しつけるような方ではないと思うわ。きっと貴方なら、いつか答えを見つけることが出来ると思われて、その課題を貴方に課されたのでしょうね」

「一つ、質問してもいいですか?」
「ええ。何かしら」
「……ロ……この国の王は、昔からあんなに自信満々なんですか? いつもよく笑ってるっていうか……。上手くは言えないんですけど」
「ふふ。面白いことを貴方は聞くのね? もしかしたら陛下が『そう』なのは、貴方の前だからかもしれないわねよ?」

 自国の王への悪口とも取れる言葉を聞いて、老婆はくすくす笑った。

「……私の知る陛下は、いつもどこか、寂しそうな顔をしていらしたわ」
「え?」
「昔から優秀な方で、ね。王宮でお仕えしている間、私が言葉を交わしたことはなかったわ。ただ当時一人だけ、教育係の女性に懐いていらしたのを覚えているわ。でもその方は陛下が幼い頃、結局王宮から下がってしまわれて……。幼かった陛下は、暫く塞ぎ込んでいらしたわ。私もそれから病にかかって下がらせていただいたから、当時のあの方しか知らないのだけれど、フィズが学院に入学する際にね、わざわさ私のもとを訪ねてきてくださったの」

 リヒトは話を聞きながら首を傾げた。
 ――ロイがこの屋敷を最近訪ねた? 一体何のために?

「求婚を断られたとうかがっていたのに、すごく嬉しそうにされていたわ。憑き物が落ちた、とでも言うのかしら。どこか晴れやかな表情をされていた。その時にね、私の病を治せる人を見つけたかもしれないと仰っていたの。きっとその国で、素敵な出会いがあったのだと、私はそう思ったわ」
「それ、は――……」

 リヒトはその言葉に、どう返していいかわからなかった。
 もともとこの学院に招かれる予定だったのは自分だけだった。
 しかし、自分がロイの中でそれだけ重要な人間だと思うことができず、リヒトは返答に困った。

「それで、どう? 研究は進んでいるかしら?」
「……」

 正直、順調とは言えないのかもしれない。
 リヒトが無言になって下を向くと、老婆は目を細め、気遣うように言った。

「ごめんなさいね。急かしているわけではないのよ。――『息抜き』に『お化け退治』に来た貴方に、この問いは良くなかったわね」
「……え!?」

 リヒトは思わず声を立ち上げて立ち上がった。
 ――なぜこの人が、そのことを?
 リヒトはフィズの方を見た。
 驚いた顔をしているあたり、フィズはリヒトがここに来た理由を知らなかったように見えた。

「私の耳ね、普通の人よりしっかり聞こえるの」
「すいません。あの俺……あいつらも、悪気があったわけじゃなくて」
「ええ、分っているわ」

 老婆は紅茶を飲んでふわりと笑う。

「私は、貴方の言葉を信じるわ。だって貴方は、優しい色をしているもの。貴方はきっと、美しいものを信じているのね」
「…………美しい、もの……?」
「ええ、そうよ」

 老婆はそう言うと、そっとリヒトの頬に手を伸ばした。
 皺の追い手がくすぐったくて、リヒトがピクリと体を震わせると、老婆が何故か動きを止めた。

「貴方は、周りの人に愛されているのね」
「え……?」
「後ろの彼が剣に触れたのは、私が貴方に何かすると思ったんでしょう。彼はずっと、私を警戒していたから」

 リヒトはその言葉を聞いて、後ろを振り返った。
 見れば自分の後ろに控えていたアルフレッドが、確かに剣に手を伸ばしていた。
 リヒトは慌ててアルフレッドを制した。けれど同時に、ある疑問が浮かぶ。

 ――どうして彼女は、そんなことまで分かるのだろう?

「ふふ。不思議だって思ったかしら? 確かに、昔のように私の目はこの世界を映すことはなくなったわ。でもね、見えなくなったからこそ、わかることもあるのよ」

 老婆の声は穏やかだった。

「目に映るものだけが、全てじゃない。それにね、目が見えているときは、移り変わるものを目に移すので精一杯になっていたけれど、今は見えないからこそ、わかることもあるのよ」

 老婆はそう言うと、リヒトの髪に触れた。

「柔らかい髪ね。貴方は、一体どんな色をしているのかしら?」
「リヒトは、金髪に碧の目だよ」
 老婆の問いにフィズが答える。

「まあ、素敵。まるで王子様みたいな色をしているのね」
「……一応、これでも王子です」
 リヒトは躊躇いがちに言った。

「あら、ごめんなさい」
 老婆はそう言うと、ゆっくりとリヒトから手を離した。

「貴方の色は、これまで出会った王族の方々とは違ったから。あの方々は、赤の色が強いから」
「…………じゃあ、俺は……?」

 リヒトは、声が震えそうになるのを抑えて尋ねた。
 病により見えなくなった瞳。暗い世界に灯る色。
 王の色は、自分にはない。
 そんな自分が、彼女の世界でどう見えているのか、それが無性に気になった。

「そうね。柔らかく溶ける、金色。木漏れ日の――陽だまりのような、優しい色よ」

「え……?」
 リヒトは、その言葉に目を瞬かせた。
 弱々しい光。
 今の自分の、弱いそんな力を、そう表現してもらえるなんて、リヒトは思っても見なかった。

「……私ね、今日貴方に会えて、良かったと思っているわ。貴方がここにきたことは、偶然ではないはずだもの。出会いはきっと、それがどんな形であれ、意味があることなのよ。貴方はきっとここにこなければ、透眼症の発症者が、魔法を色として捉えられることを知るのは、ずっと遅れていたんじゃないかしら」

 はやくなった鼓動を抑える方法のわからないリヒトに、老婆は静かな声で続ける。

「この病にかかり、これまで命を落とした人はいるわ。悲しいことに、自ら命を絶った人も。でもね、私はこの病にかかったからこそ、フィズに出会うことが出来た」
「それは、どういう……?」
 リヒトは、老婆と自分を見守るように佇むフィズの顔を見た。
 フィズはリヒトと目を合わせると、小さく苦笑した。

「フィズはね、魔物に襲われて森の中に倒れていたの。ご両親は……その時亡くなってしまったの。でもフィズは魔力を持っていたから、私は彼を見つけることが出来た」
「え……?」

 ――フィズとこの人は、血が繋がっていないのか……?

 外見が違うのは、病のせいだと思っていた。明かされた事実に、リヒトは目を大きく見開いた。
 動揺するリヒトに、老婆はこんなことを尋ねた。

「ねえ、貴方はこの世界で、人を殺すものはなんだと思う?」
「……わかりません」
「それはね、絶望よ。絶望は、世界から光が消えることを言うわ。絶望は、世界を狭くする。でも人は生きている限り、歩みを止めることなんて出来ないのよ。だからね、もし貴方の世界が暗く閉ざされそうになったときは、明るい方を目指すのよ」

 老婆の声は穏やかだった。

「明るい方に、光は伸びる」
 ――言葉遊びだ、と思う。
 けれどその言葉を、リヒトは嫌いにはなれなかった。

「わからないって顔をしているわね」
「…………」
「誰かの善意や、幸運を受け入れることも、貴方がすべきこと。それもまた導きだと、受け入れることも必要よ。差し伸べられた手を掴む力も、生きていくには必要なことだわ」

 老婆はそう言うと、リヒトに手を伸ばした。

「年寄の話に、付き合わせてしまってごめんなさいね。王子様。貴方に、たくさんの幸せがありますように」

 老婆は、そう言うと色素の薄くなった目を細めて笑った。

「……いいえ。貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました」
 リヒトはそう言うと、自分に伸ばされた老婆の手を、そっと優しく包み込んだ。



「リヒト、待って。俺も一緒に帰るから! じゃあばあちゃん、また来るから!」
「ええ。待っているわ」

 老婆の家で夕飯をごちそうになったリヒトは、学院の寮への帰路でフィズに尋ねた。

「なんで言わなかったんだ?」
「……リヒトが、気にするかもしれないと思ったんだ」
 フィズの声は小さかった。
「透眼症の発症者が、少ないのは分ってる。だから……」

 発症者が少ないということは、利益の少ない研究だということだ。
 それは今この病を、研究している人間が少ないこととも同義だった。

「でも、化け物扱いされても。俺は……俺にとっては、大切な人なんだ」

 フィズの声は小さくて、今にも消えてしまいそうだった。
 小さく震えるその肩は、リヒトが知る『子どもっぽいいつもの彼』とは全く違う。

「フィズが点字が読めたのは、この人のためだったんだな」

 こくりと頷いたフィズの頭を、リヒトはギルバートが自分にするかのように少しだけ乱暴に撫でた。

「り、リヒト! 何するんだよっ!」
「暗い顔をしていたから、元気になるかと思って」

 リヒトはこの学院に来て、初めて『弟』のような存在に出会えた気がした。
 従順な性格とは言いがたい。
 でも精一杯、日々を自分なりに頑張って生きている。
 反抗的で、少し手がかかる子どものようなところがある。
 ただそれでも、リヒトはフィズに心から笑って欲しいと思った。
 リヒトがもし、課題を達成させられたなら。
 老婆にもう一度世界を、フィズの姿を見せてあげられるかもしれないのだ。

 ――力になりたい。俺は俺の力で、誰かを笑顔にしたい。

 そう思うなら、可能性を諦めてはならない。今のリヒトには、これまでの自分の努力は、ずっと自分のためだけのものだったようにも思えた。
 今までの自分の研究は、ずっと『あればいいけれど、なくても問題はないもの』ばかりで、『それを本当に必要とする誰か』のことは、ちゃんと意識できていなかった。

 ただ『透眼症』――この課題においては、確かに今、それを必要としている『人』がいるのだ。

 ――だったらこの課題は、課題であって『課題』じゃない。

 今のリヒトにはそう思えた。

 ――俺には、『賢王《あにうえ》』のような、肩書きはない。ユーリのように、剣の腕がたつわけでもない。でも、魔法の研究はしていても、ベアトリーチェのように病で死を待つ人を助けるために、身を粉にして働いたことなんてなかった。
 それでもこの名前が、誰かを守るための祭典から名付けられたというのなら。

「俺は誰かの、光になりたい」

 名前として与えられているのなら、それに相応しい自分でありたい。与えられた名前に、恥じないように生きていきたい。 
 リヒトは拳に力を込めた。

「……また、頑張らなきゃな」



「リヒト置いてきちゃったな……」
「リヒト帰ってこないけど、もしかしてお化けに食べられちゃった、とかないよな!?」

 『お化け屋敷』にリヒトを置いてきた子どもたちは、食堂で夕飯をとりながら、帰りの遅いリヒトを心配して、こんな話をしていた。

「だ、大丈夫だろ。リヒトだし! 護衛もいるみたいだったし」
「皇女さまのことだけどさ、リヒトからも怒られたし、やっぱりどうにかすべきかなあ?」
「よくはなかったかもしれないよね。傷つけちゃったかなあ……。でも、そもそもあれは男子が」
「俺たちのこと悪者にするなよ! だいたい話しやすさで言うなら女子の方だろ!?」
「みんな、喧嘩しないでよ!」

 責任の押しつけあいで喧嘩が起きる一歩手前――そうなった時、誰かが叫んだ。
 冷静になった子どもたちは顔を見合わせ、はあと深い溜め息を吐いた。

「ていうかさ、そもそもなんで『海の皇女』様が俺たちと同じなんだよ? 試験の魔法も失敗してたし、あれがやっぱり、最近人前に出てなかった理由なのかなあ?」
「でも、昔はすごい魔法使えたっていう話だよ。『海の皇女』の名前を継いだ人はこれまでもいたけど、水晶宮の魔法を使えたのは彼女一人だったって」

 その時、眼鏡をかけた子どもの一人が、こんなことを言った。

「『水晶宮の魔法』って?」
「古代魔法の遺産の一つとされている魔法なんだ。学院を作った三人の王の一人、『海の皇女』ロゼリア・ディランが使っていた魔法だと聞いてる」

 『三人の王』。
 それはこの世界で、最も尊敬される王を指す。
 そんな人物しか使えなかった魔法を使えた人間が、今は幼等部だなんて――子どもたちは、一様に顔を曇らせた。

「じゃあ昔はすごかったのに、魔法が突然使えなくなった、ってこと……?」
「うん。だからさ、何か理由があったんじゃないか、っても思うんだよ」
「理由って?」
「皇女様が、魔法を使えなくなった理由」
「魔法が使えなくなるって、よほどだよね?」
「いや。案外原因は、単純なことなのかもしれないよ」
「?」

 少年はそう言うと、机の上にペンをたて、少しだけ傾けた。
 最初は『小さな』ズレだったものは、だんだん大きな隙間になっていく。

「きっと、力が大きければ大きいほど、ズレは大きくなるんだ。だとしたらそんな強大な力を使えない気持ちなんて、彼女にしかわからないのかもしれない」
「うーん。やっぱりいい情報は載ってないな……」

 グラナトゥムの魔法学院の図書館の蔵書量は、世界一とされている。
 しかしこの国に来て、リヒトは自分の国より、調べ物に不便に感じていた。
 クリスタロスの図書館では、望む本を簡単に見つけることの出来る魔法があるのだ。
 リヒトはグラナトゥムに来て、自分が今の年齢でここまで魔法の研究を進めることができたのは、図書館にかけられた光魔法のおかげだったのだと思った。

 グラナトゥムの図書館で本を探す場合、どの本に望む内容が書かれているのかがわからない。そのせいで、欲しい情報を手に入れるまでに時間がかかる。

「この本も……違う」

 リヒトはあれから、古代魔法が存在していた時代についても調べていた。
 天候・気候・生き物について。
 これまでのリヒトは、素材についてこだわりがなかっただけに、聞き慣れない言葉を見るたびに手を止めることを強いられた。

「古代魔法が存在していた時代……か」

 リヒトはそう言うと、古びた赤い本の表紙に触れた。その本は、リヒトが幼い頃、母に与えられたものだった。
 夢物語《おとぎばなし》のようにも語られる『古代魔法』。
 その実在を信じた上での、今の自分の行動が正しいかどうかは、リヒトにはまだわからない。
 けれどこの学院に来て出会った子どもたちが、自分を思い与えてくれた『ヒント』を、リヒトは無駄にしたくはなかった。

 ――それにもし、当時と同じ条件で魔法が再現できたことが明らかになれば、古代魔法の全てが、当時実在した証拠の一つになるかもしれない。そうなればその魔法を、実現可能なものとして、復活させようという声も増えるかもしれない。

 今の世界は、古代魔法の有用性は認めていても、再現に対しては消極的だともリヒトは感じていた。

 その一番の原因は、古代魔法の再現が今の社会構造を変える可能性があり、力や富を持つ者たちにとって、不利益に働く可能性があるせいだろうとリヒトは考えていた。

 例えば、薪を使ってでしか扱えなかった火を、魔法によって簡単に扱うことが可能になれば?
 生産性をあげることで、世界は広く開かれる。
 自由に使える時間が増え、生活の利便性が上がれば、個々の人間が選べる選択肢は増えるかもしれない。

 新しい『技術《ちからのきじゅん》』が生まれれば、過去の『技術《ちから》』の価値は下がる。
 魔力こそが、魔法こそが、この世界での力の証。
 だが古代魔法のある一つの『共通点』は、それを変える可能性を秘めていた。

 紙の鳥の魔法。
 魔法・魔力の増幅。

 古代魔法は、少ない力で魔法を使えるというところに利点がある。
 もし古代魔法の全てを復元することが可能なら、またそれを、更に発達させることが可能なら――。
 魔力の強さが、身分の高さとイコールにならない時代が来る可能性がある。

 ただ、世界を変えてしまうかもしれないそんな力を、魔力の殆ど無い、しかもグラナトゥムやディランのような大国とは言い難れ第二王子でしかない自分が発表したとして、この世界で権力《ちから》を持つものたちが、自分を含めたクリスタロスという国をどう見るかが、リヒトにはわからなかった。

 それに、誰もが広く魔法を使えるような世界になったとき、クリスタロスの特産品である『精霊晶』の価値がどう変わるかも、リヒトには未知数だった。

 魔力をためおくことができるわけではない、膨大な情報をためおくことのできる、戦闘などの際に使われる魔法のための『服飾品』。

 クリスタロスとは違い、望む本だけを読めないこの学院で、リヒトはこれまで読んでいなかった分野の本もよく読むようになった。

 その中で気になったのは、『科学』が発達した異世界で、争いが起きる原因や、その勝敗についてである。
 その中でリヒトが強く印象に残ったのは、『資源』と戦争の関係だ。
 クリスタロスが『宝石』の産出国であるせいもある。リヒトはその時、少しだけ怖くなったのだ。

 資源がある、今はいい。
 でもいつか、この国の資源が全て無くなったとき、自分の国が誇れるものは何だろう?
 工芸品を作るための加工技術。
 確かに芸術や伝統は、受け継ぎ誇るべきものだ。けれどそれだけで、全ての民が幸福に暮らせるわけではない。

 それに『関心』は移りゆくものだ。人は『新しいもの』に惹かれるものだ。
 だとしたら、これからのクリスタロスは、どういう国であるべきなのか。
 魔王を倒した『剣聖』は、魔法の不得手だった人間で、国民全員が高い魔力を持っているとも言いがたい。
 だとしたら、『クリスタロス』が、誇れるものはなんなのか。

 その時、リヒトは思ったのだ。
 『三人の王』――『賢王』レオンを輩出した国として、グラナトゥムとは少し違う形でも『学問《けんきゅう》』で、国を発達させることは出来ないか、と。
 ただこの祈りにも似た思いが、夢物語に近いことはリヒトは理解していた。
 結局は何をなそうにも、自分の魔力の低さが足枷となることを、今のリヒトは知っていた。

 ――少なくともあいつは、俺にそれを望んでくれているらしいけど……。

 大国の王ロイ・グラナトゥム。
 彼が後ろ盾になってくれるなら、自分の研究や新しい価値や考えも、公の場で認めてもらえる可能性はあるような気もした。

『誰かの善意や、幸運を受け入れることも、貴方がすべきこと。それもまた導きだと、受け入れることも必要よ。差し伸べられた手を掴む力も、生きていくには必要なことだわ』

 リヒトは、フィズの養い親の老婆の言葉を思い出して口の端をあげた。
 自分が何をなそうとしても、何を願っても、心のどこかでは、結局は無駄になると思って生きてきた。
 それでも今のリヒトは、ロイを、年上のその人の言葉を、信じたいと思った。



 早起きして本を読んでいたにもかかわらず、結局は望む情報を得ることが出来ずリヒトが図書館を出ると、リヒトはとある少女を見つけた。
 声をかけるべきか迷う。

 ――あれは、『ロゼリア・ディラン』?

 人目を避けるようにして壁に同化している様は、大国の皇女のあるべき姿とはかけ離れている。
 何故彼女がここにいるか考えて――リヒトはロゼリアのことを『引きこもり』だと言っていたロイの言葉を思い出した。

 最近不登校気味の彼女だが、今日はローズやユーリの講義があるため、ロイに連れてこられたのかもしれない。
 リヒトは自分にまるで心を許しているかのように、楽しげに笑うロイの姿を思い出てし、ロゼリアに声をかけることにした。

 ギルバートにとっての自分が弟のような存在であるように、ロイにとってのロゼリアが妹のような存在なら、リヒトは彼女を無視することができなかった。
 けれどリヒトが彼女に声をかけようとしたとき、品のない笑い声とともに、こんな会話が聞こえてきた。

「それにしても、がっかりだよなあ。『海の皇女』が、あんなだなんてさ」
「みんなの前で魔法を失敗させるなんてさ、本当、大恥だよ。陛下と剣神様がいなかったら、危うく俺たちまで巻き添えを食うところだった」
「使えない魔法を使おうとするなんて、身の程知らずというかなんというか」
「自分たちより劣るあんな出来損ないの下で働かなきゃいけないなんて、ディランの人間は本当に可哀想だよな」

 あまりに心ない言葉。
 それでもリヒトは、彼らの言葉に反論することは出来なかった。
 その言葉は自分がこれまで言われ続けた言葉であり、この世界の今の価値基準が変わらない限り、否定することは出来ないものだったから。
 その時だった。
 リヒトは、彼女の『異変』に気がついた。

「お、おい。大丈夫か?」

 ロゼリアは、上手く呼吸が出来ていないようだった。
 リヒトは慌てて彼女に駆け寄ったが、どう対処すべきなかのかリヒトには分らなかった。
 医学にはまだ疎い。

 ――一体、どうしたら。
 リヒトが一人慌てていると、ちょうどエミリーが二人の前を通りかかった。

「先生!」
「リヒトくん?」
「あの、彼女が……!!」

 リヒトは、苦しそうに息をするするロゼリアの体を支えながら叫んだ。
 するとエミリーは、小さな木の実を取り出して、ロゼリアの前でその実を潰した。 
 中から小さな粉がこぼれたかと思うと、ロゼリアはリヒトの腕の中で意識を失った。
 リヒトは目を瞬かせた。
 そんなリヒトに、エミリーは笑って『お願い』と手を合わせた。

「リヒトくん。お願いがあるんだけど、保健室まで彼女のことをだっこしてついてきてくれないかな?」
「え……」

 リヒトはロゼリアを抱き上げようと努力したが、何故か先ほどより重い気がして、上手く持ち上げることが出来なかった。

「……眠った人間は重く感じるわよね。おんぶでいいからお願いね」
「はい…………」
 自分の非力さを痛感し、リヒトは体を鍛えることを誓った。



「さっきのは、一体何だったんですか?」
 保健室についたリヒトは、ロゼリアを寝台に横たえてエミリーに尋ねた。

「眠り薬とでも言っておきましょうか」
「……危険ではないですか?」

 軽く答えたエミリーに、リヒトは眉をひそめた。
 一瞬で人の意識を奪う。
 そんなものが簡単に手に入るとしたら確実に危険だ。

「使い方によっては、ね。でも、道具も薬も、使い方によるでしょう?」

「……」
 屍花、青い薔薇の件もある。
 毒花が薬になることも知っているだけに、リヒトは彼女の言葉を完全には否定できなかった。
 ただリヒトは、素直に頷くこともできなかった。
 人の意識を簡単に奪える『薬』なんて、犯罪に使われそうで怖い。

「一応説明をしておくと、この木の実は地属性の適性者で能力がないと育てるのは難しいから、流通はしていないわ」
「なんで先生がそんなものを?」

 エミリー・クラークは地属性と水属性に適性を持つ人間だ。
 ならば本人が育てたのだろうと推測してリヒトが尋ねると、エミリーはリヒトから顔を背けて、ボソリと呟いた。

「…………大人になるとね、よく眠れないこともあるのよ」
「え?」
「何でもないわ。リヒトくん」

 コホンと一つ咳払いして、いつものような笑みを浮かべる。エミリーの呟きは、リヒトにはよく聞こえなかった。

「それであの……彼女が倒れた原因は?」
「心理的なものよ。彼女が、魔法を使えなくなってしまったことにも関係していと思うわ。ディランは大きな国だから、その国の皇女となれば、大変なことも多かったんのでしょうね。私もなんとか、彼女の心に寄り添えたらとは思っているんだけど……」
 
 エミリーはチラリとリヒトを見て苦笑いした。

「リヒトくんはお兄さんだから、みんなついリヒトくんに頼ってしまうのね」
「……」
 自国《クリスタロス》では出来損ないの弟扱いしかされないせいで、そう言われると少し照れてしまう。

「午後になれば目を覚ますと思うわ。例の講義には、彼女も一緒に連れて行ってくれる?」
「わかりました」
「ありがとう。やっぱり、リヒトくんは優しくて頼りになるわ」
 エミリーは、幼い子どもを褒めるようにそう言うと、リヒトに向かって優しい笑みを浮かべた。



 エミリーの言葉通り、ロゼリアは午後になると目を覚ました。 
 午前の講義を終え保健室を訪れたリヒトは、ロゼリアとともに『闘技場』に向かうことにした。
 学院を卒業するためには、学院で学んだことを披露する必要があるらしいとは聞いていた。
 
 いわゆる卒業試験、というものらしい。
 ただ今のリヒトには、その時自分が何を披露すべきか全く思いつかなかった。
 実技は壊滅的に苦手なのだ。
 紙の鳥の魔法で、『手品』をするくらいしか思いつかない。
 講義が始まるまでリヒトが手持ち無沙汰にしていると、嘲笑うような声が聞こえてきた。

「見ろよ。『馬鹿王子』も来てるぜ。元婚約者をなんでわざわざ見に来てるんだろうな」
「可哀想だろ。そんなこと、言ってやるなよ。魔法が使えないんだから、せめてこういうのは参加しなきゃ点数が稼げないんだろ」

 学院を卒業するためには、いくつかの試験に合格して単位を取得する必要がある。
 今回の講義に関しては、参加するだけで取得できるということもあってか、参加数はかなりのものだった。

「『海の皇女』サマと一緒だ」
「魔法が使えない者同士、ある意味お似合いか」

 彼らの話を聞いて、リヒトは叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

 ――その陰口、全部聞こえてるんだが!?
 
 最早、こちらに聞こえるように言っているとしか思えない。
 リヒトはなんて奴らだと思いつつ、隣に座るロゼリアの様子が気になった。

「……その、俺のせいですまない」
「…………」
 リヒトは気遣って声をかけたものの、ロゼリアはまるでリヒトの声なんて聞こえていないように、返事をすることはなかった。
 


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私はクリスタロス王国の騎士、ローズ・クロサイトです。今日は、私が魔王を討伐した際の話と、その再現が出来ればと思います」

 『講義』が始まり、『闘技場』に現れたのはローズとユーリ、そしてロイだった。

「はじめまして。クリスタロス王国騎士団長、ユーリ・セルジェスカです。今日は精一杯務めさせていただきます」
「俺の紹介は不要だろう。今日は、代役のために参加することになった。学院の生徒には講義を優先してもらうことになり、不参加になった『光の聖女』と、今日この場に招くことができなかったロッド卿の代わりは俺が務める」

 うまい言い訳だった。
 あくまでアカリがその場にいない理由を『学生』だと語るロイの言葉を、疑う者は誰もいない。

「ローズ様!」
「ユーリ様!」
「陛下!!」

 三人のと登場に、場がわっと湧き上がる。
 軍服に身を包んだローズは、にこやかに笑って軽く手を振った。その姿を見て、女性陣から黄色い歓声が上がる。リヒトは、周りの少女たちの顔を見ながら複雑な気持ちになった。
 
 元はリヒトが所有していた赤い指輪に口付けたローズは、剣を『召喚』した。
 観衆の期待通り、祖父が使っていた聖剣を手にしたローズが、風魔法で高い位置に設けられた球体を壊す、というのが、今回の彼女の役目だった。
 魔力を吸収してしまう石を二つも身につけた上で、魔法を使えるのはこの世界でローズだけに違いない。
 リヒトはそう思いながら、相変わらず大勢の視線の中でも、普段と変わらない態度のローズを見つめていた。

 ベアトリーチェとの決闘の際、全ての属性の精霊晶を集めたロイは、石に触れて土の階段を築きあげる。
 そしてユーリが風邪魔法でローズの体を空中に押し上げ、ロイはアカリの代わりに、ローズに光の防壁を纏わせた。
 剣を構えたローズは、落下する勢いそのままに球体に剣を下ろした。
 その瞬間、ローズは全力で雷魔法を発動させた。
 
「うわっ!」

 突然、空から光が降りてきたかと思うと、雷は球体にぶつかり爆音とともに弾けた。
 塵と化したそれは煙のように漂い、ローズの姿を隠す。
 しかし魔王討伐のときとは違い、ローズは風魔法を発動させると、煙を払い、何事もなかったかのように地面におり涼やかな笑みを浮かべた。

「以上です」
 以上です、ではない。
 あまりにも強すぎる魔法に、集まった全員、何が起きたかわからず目を瞬かせていた。
 
「ローズ嬢、やり過ぎだ……」
「これでも、あのときよりはこめた魔力は弱いはずですが?」

 ローズはキョトンとした顔でロイにこたえた。
 自分の力に無自覚なローズを前に、ロイは深くため息を吐くと、彼女の手を取って高く掲げさせた。

「『魔王討伐』に尽力した、ローズ・クロサイト公爵令嬢と、クリスタロス王国騎士団長ユーリ・セルジェスカ殿に拍手を!」

 ロイがそう告げると、ポツポツと起きた拍手は、やがて会場を包む盛大な歓声へと変わった。
 
 誰もが立ち上がり、この世界で最も強い魔法を持つ『英雄』に賞賛が向けられる。
 しかし当のローズは、やはりいつもと変わらないまま。
 自分に向けられる拍手を、ローズは当然とでも思っているかのようにリヒトには見えた。

「『天剣様』も素敵だったわ! 銀色の髪に金色の瞳。まるで宝石みたいに麗しくて……」
「あのお年で騎士団長だなんてすごいわ。剣の腕も魔法の腕もたって、『剣聖様』の弟子だなんて……」
「でも、その方に『剣神様』は勝たれたんでしょう? だって本に書いてあったもの」

 『魔王討伐の再現』を終えたあと、ローズとロイによる魔法の講義が行われ、生徒たちは食い入るように二人の話を聞いていた。
 そして講義の終わりを告げる鐘の音がなったあとも、生徒たちの話題はローズたちで持ちきりだった。

 『令嬢騎士物語』は、グラナトゥムでも好調な売れ行きらしい。
 そして本が変えない人々の間では、物語が口伝されている。
 つまりその分、リヒトの悪評は広がっていることになる。

「魔王討伐……あんな感じだったんだな。やっぱりローズたちは凄いな。俺もあんなふうに、魔法が使えればいいんだが……」

 リヒトは兄が書かせた本を、一度だけ読んだことがあった。
 ただ、ローズの実践的な魔法を見たのは久しぶりな気がして何気なく呟けば、隣を歩いていたロゼリアが、小馬鹿にするような声で言った。
 
「貴方は、自分がまだ魔法を使える可能性があると、本当に思っているの?」
「ああ。それに確かに俺は魔力は低いと言われているけど、でもその分俺は研究で――……」

 ――ロイ(アイツ)にだって、認めてもらえて。

 けれど歓声の中、自信に満ちた笑みを浮かべるロイの姿を思い出し、リヒトは言葉を飲み込んだ。
 するとロゼリアは、蔑むような声でリヒトに言った。

「そんなこと、したって無駄よ。魔力が低い貴方が何をしたって、認められるはずはないわ」

 違う、とリヒトは言いたかった。
 けれどこれまでの人生で、先ほど幼馴染みたちが当然のように受けいれる賞賛を受けたことがないリヒトは、反論することが出来なかった。

「誰も貴方に期待なんかしていない。出来損ないの第二王子。貴方は絶対に、貴方が手にしたいものは手に出来ないわ」
「……」

 リヒトには、ロゼリアが何故自分にこんな言葉を言うのかが分らなかった。
 同じ痛みを抱えているなら、魔法を使えないもの同士なら。
 同じように痛みを感じているものだと思っていた。だから彼女は、自分を傷付けるようなことはないと。
 けれどロゼリアがリヒトに向けた言葉は、リヒトがこれまで生きてきた中で、一番残酷に現実を突きつけた。

「貴方と私はおんなじね。出来損ないの、ないものねだりなんだわ」

 リヒトは声が出なかった。
 誰にも止められなくても、必死に努力を重ねた。その全てを、出会ったばかりの少女に否定され、胸が締め付けられる。
 悔しくて、情けなくて、泣き出したい気持ちを必死に抑える。

 ――こんなところで、一国の王子が、涙を見せていいはずがない。

 リヒトが唇を噛んで必死に耐えていると、ロゼリアとリヒトの間に、彼のよく知る相手が割って入った。

「僕の弟に、余計な考えを吹き込むのはやめて貰おうか。海の皇女。持った力を扱えないだけの君が、リヒトを責めるのは筋違いだ」
「……あ、兄上!?」

 リヒトは慌てた。
 いつも冷静なはずの兄が、怒りを示す理由が分らない。
 ――しかも、大国の皇女を相手に。

「才能があって努力するのと、才能がなくて努力するのは違う。砂浜に落ちた指輪を探すのと、砂浜の砂全てが指輪であるのと、何が一緒だって言うんだ」

 レオンはロゼリアを、真っ直ぐに否定していた。
 その言葉は、倒れるほど自分の力に対し負い目を感じているロゼリアには、尖すぎる言葉だとリヒトは思った。

「何よ! 何よ、何なのよ! 出来損ないと、諦められているのは一緒じゃない!」

 ロゼリアはそう叫ぶと、目に大粒の涙を浮かべて走り去った。
 リヒトは、彼女を追うべきか悩んだが出来なかった。レオンがリヒトの行く手を遮ったのだ。

「あ、兄上……」
「――リヒト」
「……は、はい……」

 どいてほしいと言おうとすれば、冷たい声で名前を呼ばれ、リヒトはびくりと体を震わせた。

「あんな考えしか出来ない人間と、付き合うことはおすすめしないよ」

 『氷炎の王子』
 その時リヒトはその名のように、兄から氷のような冷徹さと、炎のような威圧感を覚えた。
 


「はあ……」

 ローズたちの講義の後、与えられた課題をこなすために、リヒトは図書館を訪れていた。
 透眼症の治療のための、『魔方陣』としての構想自体は、大方固まりつつある。
 けれどそれを利用するための素材がどうやっても見つからず、リヒトは溜め息をこぼした。

「やっぱり、無理なのかな……?」

 この国に来て、自分に期待していると周りが言ってくれたその言葉に、行動で返せないことがリヒトは悔しかった。
 そしてこのまま何もなせなければ、本当にロゼリアの言うとおりになってしまう気がして怖かった。
 期待されるということは、失望される可能性があるということだ。そう考えたときリヒトはふと、今日の出来事を思い出した。

「兄上は、何で俺を庇ってくれたんだろう……?」

 『令嬢騎士物語』
 リヒトの無能さを全世界に広めるような書物を作らせておきながら、ロゼリアがリヒトを否定することは許さない兄の気持ちが、リヒトには分らなかった。
 ただ自分を庇った兄が口にした言葉を、リヒトはどうしても忘れることが出来なかった。

「砂浜の中の指輪、か……」

 クリスタロスの領地には、海も含まれる。
 リヒトは幼いときに一度だけ、幼馴染みたちと共に浜辺で遊んだことがあった。
 そしてその時、リヒトは当時大切にしていた小さな宝石を、誤って落としてしまった。
 リヒトが落とした石を探すため、みんなが協力した。
 けれどユーリが風魔法で砂を巻き上げ、そのせいで幼いローズが咳き込んで、ギルバートが海水を降らせると、海に流れてしまったのか、結局宝石が見つかることはなかった。

 夕暮れになってもまだ、一人宝物を探すと言ったリヒトに、父が似たものを与えるから諦めるように言い、レオンは大事なものをそんな場所に持ってきたリヒトを責めた。
 誰が悪いわけでもない。
 最初になくした自分が一番悪いのに、幼い頃のリヒトは、そう言われて泣いてしまった。
 大切なものだったのに。宝物だったのに。あの石を失って悲しいのは自分だけで、誰も自分の悲しみなんて、分かってくれないような気がした。
 美しい、赤い宝石。
 あの石はきっともう、自分の元にはかえってこない。

「ん? これ、は……」

 幼い頃のことを思い出し、リヒトが感傷に浸っていると、とある記述を見つけ、リヒトは勢いよく立ち上がった。
 学院には世界中からの新聞が寄せられており、リヒトは最新の情報を知るために、朝早くと講義後に、新聞を読むことにしていた。
 発刊日は三日前。それは、東に位置する小さなとある島国の新聞だった。

『生きた化石・古代生物の有用性に対する新発見』

 体の一部を、他の生き物に擬態させて複製することの出来る生き物。
 異世界では『カメレオン』という生き物に似ているということから、名付けられた名前は『ピストレオ』。

 その生き物が複製した『皮膚』を使い、火傷を治療したという記載がそこにはあった。つまりそれは、その生き物から複製された物体が、人体に触れても問題が無く、かつ損傷を受けた部位を、正常なものへ置き換えられる可能性を示していた。

「――これなら、作れるかもしれない……!」

 リヒトは頭に思い浮かべていた構想を、一気に書き上げロイに提出した。



「無害なものでなければ、実用は出来ない。……なるほど。確かにこれなら、実現できる可能性はあるか」

 走り書きのようにしか見えない紙の束を、ロイは一枚一枚丁寧に確認していた。

「……だがまあ、まさか俺に提出して来るとはな」

 リヒトに課題を出したのは、双子であってロイではない。
 ロイは、リヒトの今回の行動の理由を、正確には判断できないと思った。
 双子にリヒトに課題を出すよう指示したのが自分だと気付くほど、リヒトが周りを見えているようには思えなかったから。

 ――まあ別に、気付こうが気付くまいが、どうでもいいことだ。

 ロイはそう思った。
 結局、大事なのは結果だ。
 リヒトが導き出した答えを自分が手にすること。それこそが、ロイの望みだったのだから。

「――陛下」
「『ピストレオ』を活用するという考えは勿論――そのための魔法陣を、すでに完成させているなんて」

 笑みを浮かべる『おうさま』の様子がいつもと違う気がして、シャルルは小さな声で彼を呼んだ。
 しかしその声が、『おうさま』に届いていないような気がしてシャルルは少し不安になった。

「魔法の均等な効果の付与と、魔法の行使のための魔力消費量の縮小化。これであれば――……。いや、まさか……。こんなものをあげてくるなんて」

 これまでリヒトは、自分に与えられた財のみで研究を行ってきた。
 もともと『生き物』を使った研究、これまでのリヒトは行っていない。
 ましてや希少な生き物を使った実験は、『クリスタロスの王子』としては不可能と判断したらしく、実用化に向けた研究は、自分以外の人間に任せたいと報告書には書いてあった。

 そうこれは、『論文』と言うには、まだ不完全なものなのだ。
 実験を行い、実用可能であることをしめさなければ、握りつぶされる可能性もある――それは、そんなものだった。
 力のないリヒトが発表しようとすれば尚更。

「これの価値を、彼はわかっていないと見える。これほどのものを、他国の王にやすやすと渡すなんてな」
「……どうなさるつもりなのです?」
「決まっている。――これは、この国にとっても価値あるものだ」

 シャルルの問いに、ロイは不敵に笑った。



「レオン様!」
 遡ること少し前。
 ユーリは、闘技場から自室に戻るレオンを追いかけて叫んだ。

「どうしてあのようなことを仰ったのです! 昔の貴方は、もっと」
 クリスタロスに帰る前に、二人の王子に顔を出そうと思ったユーリは、偶然リヒトたちのやりとりを見てしまった。

「もっと……」
「僕に構うな」
 しかしその言葉の続きを遮って、レオンはユーリを睨んだ。
 これほどレオンが怒りをあらわにする姿は、幼い頃を思い出しても、ユーリは初めて見るような気がした。

「君は他人の心配じゃなく、もっと周りを見るべきだ」
「え?」
「ローズもユーリもリヒトも、僕の周りは馬鹿ばかりだ。ギルバートの――彼女のほうがよほど優秀だ」
 『彼女』――レオンがミリアを優秀だと言う理由が分からず、ユーリは首を傾げた。
 身分や立場を重んじるいつものレオンなら、あまり口にしない言葉だからだ。

「君の選択は誤りだよ。……ユーリ。君の役目はもう終わったんだから、早く帰るといい」

 言葉の意味を問うことも許すことなく、レオンはそう言うと、立ちすくむユーリに背を向けて、足早に歩き出した。
 彼の護衛であるジュテファーは、レオンの背を追いかけて尋ねた。

「レオン様……。レオン様はどうして、そう苛立ってらっしゃるのですか?」
「……」

 自分の弟は違う、優秀な『弟』。
 レオンは暫く歩いてから、人気の無い場所で突然立ち止まると、ゆっくりと口を開いた。

「人の行動を制限するものは、支配下にある時か? いいや。そうではないだろう。金で買われた? 抑圧・暴力による支配は、反抗に変わる」

 独り言のようなその声は、女生徒に囲まれているときのレオンとは違い、明るさは微塵も感じられない。

「時に『信頼』というものが、最も人を支配する。僕はそう考えている」
「支配……ですか?」

 ジュテファーには、レオンが何を言いたいのか分からなかった。

「柔らかく言い換えるなら、行動の抑制・制限かな。たとえば君に大切な人が――いや、君の兄が、美味しい菓子を手に入れたとする。君はそれが兄の好物だと知っている。彼はそれを置いて、家を出た。家にいるのは君一人。食べ物はその菓子だけ。君は空腹だ。――さあ、君はどうする?」

「……少しだけ、食べるかもしれません」
「彼に嫌われたとしても?」
「兄様は、それくらいで僕をお嫌いになる方ではありません」
「例え話さ」

 レオンはどこか影のある笑みを浮かべた。

「もし君が、彼に嫌われると思ったら、君は目の前の食べ物には手を出さない。そうだろう?」
「ええ。まあ……」
「つまりその時、君の判断は、最早彼を基準としたもののものとすげ変わっている。彼に嫌われたくないという思いが、彼の思い願う、君という人間に導く」

 レオンはそう言うと、胸ポケットから何かを取り出した。
 それは少し傷の付いた、小さな赤い石だった。

「信頼は、『愛』は偉大だ。人の行動をも縛り、侵蝕する。そして契約は、破れば罰を受ける社会的な支配とも言える。だから契約と信頼を裏切ることを、人は躊躇う。それが裏切りだと理解した上で行動するなら、余程の愚か者か、相手を軽視しているという証拠だ。勿論、義務的な契約なら、話はまた変わるだろうけれど」

 レオンはそう言うと、小さな石を握りしめた。

「人は、自らの行動や考えの正当性を主張するために『運命』という言葉を使いたがるが、僕から言わせてみればそれはただ、はた迷惑なだけの自己中心的な考えでしかない。それに気付かない人間は、等しく罪人の烙印を押されるべきだ」

 ジュテファーには、レオンが何故今こんな話をするのか分からなかった。

「ユーリは、彼を裏切れない。――信頼を示されて裏切れば、友を失うことをユーリは恐れるだろう。風属性を与えられた人間が、裏切りなんてできるはずがない」

 ――この方は一体、何をおっしゃりたいのだろうか?
 首を傾げることしか出来ないジュテファーに、レオンは静かに言った。
 
「君の兄は実に優秀だね。ユーリへの信頼を示す影で首をすげ替えて、自分にとって大切な相手を取り戻そうと画策するなんて」
「……すげかえる?」

 思考が追いつかない。けれど棘のある言葉に気がついて、ジュテファーは思わずレオンの言葉を繰り返した。

「優位に遊戯を進めるならば、優秀な手駒は多い方がいいものだ。自分の上に立つ人間もね。僕の従兄弟は、権力を望まない。けれど彼は、君の兄に執着しているとも聞いている。ユーリは僕の幼馴染だが、騎士団長を務めるにはまだまだ未熟な人間だ。以前と同じように――ローゼンティッヒ・フォンカートが地位を取り戻せば、クリスタロスの守りはより強固なものとなる」

「レオン様は……兄様が、団長を変えようとしていると、そう仰りたいのですか?」
「君の兄が優秀であるならば、的確な判断だと思うけれど? それに僕から言わせれば、『想い人に会うために』、こんな時期にのこのこやってくる騎士団長なんて、その座には相応しくないと判断する」

 ロイがユーリの名前を出したのは、護衛が誰になるか決まる前の話だった。
 だが、今のクリスタロスで優れた力を持つ人間が長期間国をあける中、他国に騎士団長であるユーリまでが来るというのは、レオンの言葉通り、褒められたものではないのかもしれないとジュテファーは思った。
 
「君は、人の上に立ち守るべき立場にありながら、私欲のために国を開ける人間を、上にいただきたいと思うのかな?」
「……ッ!」

 その問いに、ジュテファーはこたえることが出来なかった。

「彼女は、ユーリを信じていた。仲は悪いようでも、従兄弟だからね。彼女はああみえて誰よりも立場を理解しているし、ユーリを信じている。ユーリ・セルジェスカは自らの責務を全うできる男だとね。まさか騎士団長という地位にありながら、許しがあったとはいえこんな時に1人でやってくるなんて、夢にも思っていなかっただろう。彼女が怒ったのはそのためだ。ユーリはミリアの信頼を裏切り、そしてギルバートは、ユーリの裏切りをもって、彼女の信頼を得るつもりらしい」

 ジュテファーは、かつてレオンとした会話を思い出した。

『そう考えると――ギルの方が非情かな』
『なぜギルバート様が賭けに勝って、信頼を得ることが出来るのですか?』
 その問いに、レオンはどう答えたか。
『人は自分が絶対だと信じる未来が覆された時、その未来を言い当てた人間を、神や預言者と言うものなのさ』
 その言葉の意味を、今漸く理解する。
 『ギルバート・クロサイト』は、『ミリア・アルグノーベン』の信頼を得るために、『ユーリ・セルジェスカ』を利用したのだ。
 
「僕、は……」

 ギルバート・クロサイト。
 『兄上』の婚約者である女性の兄に当たる人間の人柄を、ジュテファーは知らない。
 光属性と水属性に適性を持ち、傷を癒やす、治癒に特化した光魔法の使い手。ジュテファーが知るギルバートは、そういう人間でしかない。

『俺、団長派!』
『俺は副団長派!!』
『お前は? やっぱ兄の味方なのか?』
 クリスタロスの騎士団では、若い騎士の間では、誰がローズとお似合いかだなんて話をすることがある。
 その時ジュテファーはいつも、最後に同じ質問をされた。
『僕は兄様を応援しています。でも兄様は、団長を気に入られているので』
『じゃあ、団長派ってこと?』
『うーん……』
 けれどいつもジュテファーは、その問いに答えを出すことは出来なかった。
『兄様の大切な人は、僕にとっても大切な人なので』
 兄に脆いところがあることは知っている。

『ユーリ』
 ジュテファーが知る兄は、ユーリを心の底から大切にしているように見えた。
『ビーチェ』
 『天剣』――現騎士団長であるユーリに、その名を与えたのも兄だとジュテファーは聞いていた。

 ――自分の対となる名を与えたその相手を、兄様が騙した?

 ジュテファーの知る兄は、世界で一番優しい人だ。
 兄を嫌っていた自分のために、ズタボロになってまで病を治す薬を完成させた。血の繋がった弟のために、罪を被ろうとしたこともある。
 その、兄が――……?

「……まだ、決まったわけではありません」
「決まっているさ」
 ベアトリーチェを庇おうとするジュテファーに、レオンはまるで最初からこうなることを、全てを知っていたかのように言った。

「――君の兄は昔から、大切なものを失うことを恐れているから」

◇◆◇

 クリスタロスに戻ったユーリは、一度騎士団に顔を出すと、植物園にいるというベアトリーチェに、帰国を知らせるために道を急いだ。
 ガラス張りの植物園。
 穏やかで優しい緑に囲まれて、自分に笑いかける相棒の顔を想像しながら、ユーリはその扉を開いた。

「ビーチェ! ただいま……」
「――戻ってきて、ください」

 しかしユーリを出迎えたのは、彼の知らないベアトリーチェの姿だった。

「……ユーリの代わりに、もう一度、貴方が騎士団長になってください」
「ビーチェ……?」

  彼の服の袖を引いて、懇願するかのように彼を見上げる。
 『相棒』のその姿は、初めてユーリが、メイジスと出会ったときと似ていた。
 そこにいるのは、自分を支える『副団長』ベアトリーチェ・ロッドではない。
 目の前にいるのは、ベアトリーチェがユーリには見せない、どこか子どものような彼だった。

「ビーチェ。今、なんて……」

 ユーリの声に、ベアトリーチェが振り返る。 
 しかしその姿を隠すように、ローゼンティッヒはベアトリーチェの前に出た。

「やあ、久しいな。天剣君?」

 金色の髪に、赤い瞳。
 この国で、王に望まれるべくして生まれたような色を宿した男は、ユーリを見て薄く笑った。

「今の言葉は……どういうことだ! ビーチェ!!」
「どうもこうもこういうことだ」

 ローゼンティッヒはまるで、今から遊びでも始まるかのように楽しげに笑った。

「おかえり。天剣君。じゃあ」
 ローゼンティッヒは薄く笑うと、剣を手にして一気に間合いをつめた。
「――早速、勝負を始めよう」

「ぐっ」
 反射的に剣をとって応戦する。ユーリに、ローゼンティッヒの剣は重く感じた。

「君の力はこの程度か? 遅いったらありゃしない」
「なんだと!」
「それじゃあ当たらない。ああ、残念だ。君は弱い。弱すぎる。君の力は、騎士団長の座には値しない」
「……黙れ!」

 自分を煽るローゼンティッヒに、ユーリは我を忘れて剣を振り下ろした。

「無駄だ。君の剣が、俺を捉えることは出来ない」
 しかしその攻撃を、ローゼンティッヒはまるで完璧に予知していたかのようにさらりとかわした。
 だからローゼンティッヒが、いつの間にか剣を収めていたことにも、ユーリは気付くことが出来なかった。
 ユーリは目を瞬かせた。

 ――なんだ? これは……。

 まるで自分の行動が、全て読まれているかのようだった。
 速さで負けているとは思わない。ただ、ユーリは実力の差を感じざるをえなかった。

 ローズと戦ったとき、彼女はユーリの攻撃を全て防いだ。
 しかしローゼンティッヒは、ユーリの攻撃の全てを避けてしまうのだ。
 ユーリは風属性の魔法を発動させた。
 しかしその『最速』をもってしても、ローゼンティッヒの前ではユーリは無力だった。
「何なんだ。貴方は!!」

「俺か? 俺は――ローゼンティッヒ・フォンカート」

 ローゼンティッヒは、ユーリの剣を避け、再び自分の剣を抜いて、真っ直ぐにユーリに向けた。
 その瞬間ユーリの髪が、パラパラと地面に落ちた。

「――ベアトリーチェの、相棒だ」

 『自分はお前の上だ』とでもいうように、ローゼンティッヒは自信たっぷりに笑ってユーリに告げた。

「そうだろ? ベアトリーチェ」
「……」

 ローゼンティッヒの問いに、ベアトリーチェはこたえない。
 ユーリには、ベアトリーチェが即答しない理由が分からなかった。

 ――ビーチェ。どうして、否定しない?

 自分に『天剣』の名を与えたのはベアトリーチェだ。だからこそユーリは自分こそが、ベアトリーチェの対だと自負していた。
 だというのに。

 ベアトリーチェは沈黙を保ったまま、ユーリから顔を背けた。
 そんなベアトリーチェを見てローゼンティッヒは目を細めると、どこか冷たい声でユーリに言った。

「全く久々に帰ってみたら、騎士団長だというのに前の騎士団長が来るから大丈夫と、副団長に仕事を任せて国をあけるなんて、責任感もあったものじゃないな。――レオン・クリスタロス、ローズ・クロサイト、ギルバート・クロサイト、ジュテファー・ロッド、アルフレッド・ライゼンに、ウィル・ゲートシュタイン。この国の次代を担うに相応しい優秀な人材が、揃って国を開けるんだ。こんな時に君まで国をあけるなんて、君は、何の躊躇いもなかったのか?」

「だって、あれはビーチェが……」
「ベアトリーチェが行っていいと言ったから、それをそのまま受け入れたのか? 君には自分の考えがないのか」

 ユーリはその言葉に反論出来なかった。

「これではまるで、立場が逆だな。君は、ベアトリーチェには相応しくない」
 ローゼンティッヒは深く溜め息を吐いた。

「責任感も、実力も、判断力も。何もかもが欠けている。しかも婚約者を奪おうとして――それで自分は『相棒』だなんて、おかしな話だと思わないか?」
「……」
「『クリスタロス王国騎士団長』ユーリ・セルジェスカ。君が自分こそベアトリーチェの相棒だと言うならば、俺のことを倒してみせろ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、にこりと笑って、とある品をユーリに見せた。

「ああ、そうだ。これは、君の『宝物』かな?」
「いつの間に……っ!?」

 それはかつて、ユーリがローズから貰った髪紐だった。

「君が自分で買い求めたにしては、随分可愛らしいからな。さしずめ、片思いの相手からの贈り物、というところか?」
「――返せ!」
「おっと」

 ユーリがローゼンティッヒに飛びかかろうとすると、彼は地面を蹴って後ろに下がった。

「そう怒るなよ。短気は損気だぞ。――それに」
 唇に人差し指を添えて、ローゼンティッヒは薄く笑う。

「人の宝を奪うなら、自分も奪われる覚悟を持たなくてはな?」
「……!!」

 その『宝』が何を差すのかを理解して、ユーリは唇を噛んだ。

「君に最後のチャンスをやろう。もし君がこれを返して欲しいなら、騎士団長としてベアトリーチェの上に立ち、この国を守りたいと言うのなら」

 ローゼンティッヒは赤い紐をユーリに見せつけながら言った。

「二週間待ってやる。その間に、君がその座に相応しい人間だと、俺に示せ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、剣を戻してユーリの横を通り過ぎた。
 まるで今のユーリには、その価値しかないとでも言うように。そしてベアトリーチェは、ローゼンティッヒの後ろに続く。
 あまりにも実力が違いすぎる。今のユーリは、二人を追いかける気にはなれなかった。

「ああそうだ。一つ君に助言しておこう」

 項垂れるユーリに、ローゼンティッヒはふとなにか思い出したかのように足を止めると、こんなことを呟いた。

「魔法は心から生まれる。なぜ君がこの地位を望むのか、それを理解しない限り、君が俺に勝つことは出来ない」

 一人残されたユーリは、それからしばらくの間、その場から動くことが出来なかった。

「俺がなんで望むか、なんて……」

 その理由を、今のユーリはこたえることが出来なかった。
 今の自分に実力が足りないことは、ユーリ自身が理解している。
 なぜなら今の地位は、ベアトリーチェに与えられた。ただそれだけのものだから。

 その時ユーリの中に、一人の女性の顔が浮かんだ。
 自分がグラナトゥムに来ていたときに、ひどく驚いて立腹していた。
 もしかしたら彼女は、こうなることを予測して怒っていたのかもしれない――そんなことを、今更思う。
 ローゼンティッヒの問いに答えなかった『相棒』の顔を思い出して、ユーリは一人拳を握りしめた。

「――――ミリア……」

 自分の始まり。
 幼い頃誰よりも、自分を気遣ってくれた相手。
 ローゼンティッヒの望む答えを知っている気がするその人は、『正解《こたえ》』を訊こうにも、今この国にはいなかった。
◆ユーリ過去編◆

「くぉらあ! 待て、お前らっ!!!!」

 多くの店の立ち並ぶ場所で、薄汚れた服を着た子どもたちを、大人が拳を作って追いかける。
 子どもらの手には食料が抱えられており、子どもが男の店の品を盗んで逃亡しようとしているのは、誰が見ても明らかだった。

「みんな、逃げろ!」

 子どもたちの中で、一番年上らしき痩せた子どもが、そう言って手を上げた。
 しかし、逃げていた子どものうちの一人が躓いて転んでしまい、男はそれを見てにやりと笑い、的を絞って走り出した。
 子どもたちは転んだ子を助けることはなく、一目散に逃げていく。

 殴られる。捕まってしまう!
 しかし転んだ子どもがそう思い、目を瞑ったその時だった。
 地べたを体につけて頭を抱えて震える子どもの上空から、少年の高い声が響いた。

「てぇえええいっ!」

 その瞬間、屋根から一人の子どもが飛び降りて、子ども追いかける大人の足を、思いっきり引っ掛けた。

「うわっ!」

 子どもに男の手が届くより前に、ダンッという強い音がして、男は地面に倒れ込んだ。

「悪者は成敗したぞ! 早くこっちにこい!」

 その様子を見て少し遠くから見ていた少し体の大きな子どもは、転んでいたこの手を取り立ち上がらせると、手を引いて一目散に逃げていく。
 ボサボサの銀色の髪の少年は、その様子を見て腰に手を当て、満足気に「よし」と頷いてから、こう叫んだ。

「子どもを殴ろうとして追いかけるなんて、お前はなんてひどい悪党なんだ!」

 少年の見た目は、彼らとあまり変わらない。
 けれどその声は、自分の正義を信じる、そんな強い意思のようなものを人に感じさせる声をしていた。
 獅子のたてがみように伸びた銀色の髪の間から覗く、琥珀のような美しい金色の瞳は、彼の異質さを際立たせていた。

「子どもを虐める悪者は、この俺、ユーリ・セルジェスカが許さないッ!」

 びしい!
 少年は、まるで一人前の『勇者』のように自分の名前を高らかに述べると、這いつくばっていた男を指差した。

「くそ……何しやがるこのクソガキ!」

 『キマッた!』とどや顔のユーリ。
 しかし子どもの体は、立ち上がった男によって、簡単に捕まってしまった。

「離せ。この悪党! 俺を捕まえるなんてどういうつもりだ!」
「俺が悪党だって!? 悪党はあいつらだろう! お前らのせいで、盗人が逃げただろうが! ああ!? 一体、どう落とし前をつけてくれるんだぁっ!?」
「え!? あいつらそんなことしてたのか……!?」

 大人に凄まれて怯えることはない。
 しかし、自分の正義を信じての行動が、本当に正しかったのかわからずユーリは狼狽えた。

「お前もあいつらの仲間か! 吐け! あいつらはどこにいる!? 一緒に捕まえてつきだしてやる!」
「違うし痛いっ!」

 男の手に強い力をこもり、ユーリは顔を顰めた。
 鈍い痛みが手首を襲う。
 その時。

「申し訳ございません。どうか、その手を離してやってください」

 静かな少女の声が響いて、男は後ろを振り返った。
 そこには、屋敷づとめらしい綺麗な身なりの少女が、ローブをおろして立っていた。

「申し訳ございません。弟が、失礼を致しました。この子は少し、早とちりする癖がありまして……。あの子たちが追われている理由を、ちきんと理解していなかったようなのです。あの子達が盗んだ代金は、私がお支払いします。ですからどうか、その子を離してくださいませんか?」

 ユーリは少女を見て目を瞬かせた。 
 少女は男の手に多めに金を握らせると、にこりと微笑んだ。

「迷惑料も含めて、お支払いいたします。この度は、本当に失礼いたしました」

 男は少女が握らせた金に目をやると、子どもを抑えていた手を離した。
 ユーリは尻餅をつく。

「お嬢ちゃんに免じて許してやろう。お前、今度はもう邪魔はするなよ」
 男はそう言うと、軽い足取りで自分の店へと戻っていった。



「全く、馬鹿なんですか? 貴方は」

  ドスッ!
 その男の背を見やりながら、少女はユーリの頭に手刀をくらわせた。

「いったああああっ!!!」

 ユーリは頭を押さえて叫んだ。
 そして、彼は自分にそんな痛みを与えた相手を見上げて睨んだ。

「ミリア! なんで俺の頭を頭叩くんだよ!」
「痛みを与えたほうが、馬鹿には聞くかと思いまして」

 ミリアは、冷たい瞳でユーリを見下ろしながらサラリと言った。その言葉を聞いて、ユーリはカチンと来た。

「なんだよ! バカバカって。バカっていうやつのほうが馬鹿なんだからなっ! 馬鹿っ!」
「私より貴方のほうが言っているではありませんか……。全く貴方という人は、本当に頭が悪いんですね。私が助けなくてはならないような事態を引き起こすのはやめてください。叔父様方に申し訳がたちません」
「だって、追いかけられてたんだぞ!? 助けてやらなきゃ、って思うのが普通だろ!?」
「時と場合によって、貴方はもっと考えて行動するべきです」

 ミリアはそう言うと膝をおって、ユーリの細い腕に触れた。
 そして小さな入れ物を取り出すと、中に入っていた緑色の物体を、躊躇いなくユーリの腕に塗りつけた。

「全く、腕が赤くなっているではありませんか。骨は折れてはいないようですが……。薬を塗っておきますので、赤みが引くまでは安静にしていなさい」

 そして綺麗な布を取り出すと、慣れた手付きで腕に巻き付けた。

「とりあえず、久しぶりですね。ユーリ。貴方は暫くはこちらにいると聞いています。その間に貴方のことを、叔父様方のお望み通り、ちゃんと人らしくしてあげましょう」
「うっ」

 にこりと笑う年上の従兄弟の顔を見て、ユーリは顔を強ばらせた。

 ミリア・アルグノーベンは、クリスタロス王国の公爵家、クロサイト家に古くから仕える家系の長女である。

 彼女の父の妻には弟が一人おり、彼の一人息子ユーリ・セルジェスカは、実に『少年らしい』気質の持ち主だった。

 銀色の髪に金の瞳。
 それは彼の血筋からすると珍しい色だったが、彼の両親は、一人息子であるユーリのことを、何よりも大切に愛し育てた。

 しかしその結果、『自称勇者』な獅子が爆誕してしまい、彼の従兄弟で公爵家に仕えるために礼儀などを学んでいたミリアに、彼を教育して欲しいという依頼が舞い込んだ。

 ユーリが八歳になる頃、ユーリは単身ミリアの住む町にやってきた。
 まだ幼い一人息子に金だけ渡して旅立たせるというのは、親としてどうなのかともミリアは思ったが、本人が自分一人でこちらに行きたいと言って聞かなかったらしい。
 『冒険』を終え、無事目的地に辿り着いたユーリは、彼が暮らしている町よりも栄えていたその町の市場で、従兄弟である少女の腕を引いて騒いでいた。

「ミリア、ミリアッ!  ねえ、俺これ食べたい!」
「はいはい」

 アルグノーベンは、セルジェスカよりも裕福な家系だ。
 弟分に食べ物をねだられ、ミリアはその度に財布を取り出した。

「へへ。ありがとう! あ、これ美味しい!」

 長旅のせいか浮浪者にも見える子どもは、声を弾ませると肉串をミリアに差し出した。

「はい! ミリアにも上げる!」
「いりません」
「……」

 さらりとミリアが断ると、子どもは悲しそうに腕を下ろした。
 見れば元気よくぼさぼさとしていた髪が、幾分力を失っているしているように見えて、ミリアは溜め息を一つ吐くと、ユーリの腕をとって、一口だけそれを食べた。

「……ありがとうございます。美味しいですね」

 ミリアがそういえば、ユーリはぴょこぴょこと体を弾ませて笑った。

「ね! だよね!」
「…………他に、何か欲しいものはありますか」
「え!? まだ買ってくれるの!? いいの!?」
「今日は久々に会ったのですから、貴方の買いたいものくらい、全部買ってあげますよ」
「じゃああれも! アレも食べてみたい!」

 ユーリはそう言うと、看板を指さしてミリアを見て目を輝かせた。



「ありがとう。今日はミリアのおかげで大満足だった!」

 二人が市場を離れる頃には、大分日も落ちていた。
 ユーリは膨らんだおなかに手を当てると、えへへと嬉しそうに笑った。

「美味しいお菓子とかお肉って高いから、なかなか買えなくて。たくさん食べられたのも嬉しかった! ありがとう。ミリア」
「貴方が満足したなら良かったです。それより、今日は貴方の買い物に付き合いましたが、明日からはきちんと勉強してもらいますから、そのつもりでいてくださいね。私も貴方の側にいられる時間は長くはありませんし、しっかり学んで……」
「ミリアはもうすぐ、働きにでるんだよね?」

 ミリアがくどくどと言葉を並べると、ユーリは言葉を切って尋ねた。

「ええ、まあ。もうすぐ王都にある、公爵邸で働かせていただく予定です。王都のお屋敷には、今、ご令息とご令嬢の二人がいらっしゃるそうです。年の近い王子が二人いらっしゃるため、今お二人は王都で暮らしているそうです。だから、私がお二人の勉強も見られるようにと考えて勉強を――……」

 ミリアがそう言えば、ユーリは露骨に顔を顰めた。

「なんて顔をしているんですか」
「俺、勉強嫌い」
 ユーリははっきり言った。

「お父さんたちは勉強してこいって言ってたけど、俺には必要ないって。ミリアとは従兄弟だけど、俺はフツーの家の人間だもん」

 ユーリの父は、剣というより本を好む人で、光属性の適性があったこともあり、彼の神殿の認可を受け、地方で牧師を務めていた。
 セルジェスカという名前は、彼の母方の姓である。
 元々ユーリの祖父がその町で牧師を務めていたが、教会の派遣で赴任したユーリの父と、祖父の手伝いをしていた母が出会い、ユーリは生まれた。
 貴族ほどの能力はないものの、光属性の魔法が使えるということは、神殿に関わる仕事につきやすくなる。
 彼の両親は共に力は弱いもののその適性を宿していたが、一人息子のユーリは、なんの適性もまだ発現してはいなかった。
 
 魔法持ちの親を持ちながら、魔法の使えない凡才の従兄弟。
 彼のその言葉を聞いて、ミリアは長い沈黙の後溜め息を吐いた。

「私は貴方の将来が心配です」
「何でそんなこと言うんだよ! 俺だって、ちゃんと将来のことなら考えてるさ!」
「何か目標でもあるんですか?」
「聞いて驚くなよ! ミリア、俺は街で一番になる!」

 ユーリはそう言うと、誇らしげに人差し指を立て腕を上げた。
 
「……で、なんの?」
 そんなユーリに対し、ミリアは冷静な声で尋ねた。

「え?」
「え? じゃ、ありませんよ。『一番』にも、沢山あるでしょう。貴方は何の一番になりたいのですか?」
「えっと……じゃあ、パンが好きだからパン屋さん? とか?」
「好きだからという理由だけで、うまく行くと思えませんね」
「なんてこと言うんだよミリア!」

 ばっさりと自分の『未来』を否定され、ユーリは声を上げた。

「貴方の意思が弱いからこう言っているだけです。私に苦言を吐かれたくないなら、もう少しちゃんと考えて、揺るぎない自分だけの意志や意見を持ちなさい」
「〜〜ッ!! 分かった。じゃあ俺はミリアに文句を言われないくらい、すっごい一番になってやる!」
「今の貴方には何も出来ないと思いますが、出来たら褒めてあげます」

 ミリアはそう言うと、ユーリのことを鼻で笑った。

 
 ユーリは邸宅の一室を与えられ、任された雑務をこなしつつ、ミリアに教養などを学ぶことになった。
 ミリアは勉強だけではなく、剣の腕も確かで、ユーリは何度もミリアに勝負を挑んでは、コテンパンに叩きのめされた。

 強化属性の魔法は、アルグノーベンの家に伝わる魔法で、ユーリは自分の従兄弟が、大木でさえ一閃で切り倒すのを見ては目を輝かせた。
 それはまるで、父が眠る前によく語って聞かせてくれた、物語の『英雄《ヒーロー》』のようにも見えた。

「見て見てミリア!」
「……なんですか?」
「聖剣を発見した!」

 ある日ユーリは、ちょうど良い木の棒を見つけて、ミリアの前で高らかに掲げてみせた。
 しかしその『剣』を、ミリアはユーリから取り上げた。

「全く、危ないというのが分からないのですか? 貴方は。木の棒を振り回すのはやめなさい」
「 俺の聖剣を返してよ!!!」

 ユーリはぴょんぴょん跳ねながら、自分より身長の高いミリアに奪われた木の棒に手を伸ばした。
 ミリアはそんなユーリを見下ろして、眉間に皺を作りながら尋ねた。

「聖剣? 何を言っているんですか。勇者にでもなるつもりですか?」
「いいな。それ、かっこいい!!」
「貴方は考えが浅すぎます」

 ミリアはそう言うと、取り上げた木の棒を真っ二つに折った。

「……あああああっ!!! な、何するんだよっ! ミリア!」
「……」
「俺の聖剣をいきなり折るなんて! ミリアの馬鹿! 阿呆!」

 ユーリはそう言うと、ぽかぽかミリアの体を殴った。しかしその拳に、力は全く入っていない。ミリアはそれに気がついて、ユーリの頭に強めに指をはじいた。

「痛っ!」
「はあ……」
「な、なんで溜め息なんか吐くの……?」
「どうしてこんなに精神年齢の低い子供が、私の従弟なのかとふと悲しくなっただけです」
「ひどい!」
 ユーリはミリアの言葉に憤慨した。


 ミリア・アルグノーベンは、優秀だがそれをあまり人には見せないようにして過ごしていた。
 しかし従兄弟であるユーリの前では例外で、ミリアは幼いユーリに望まれては、普通の人間には到底出来ない芸当を披露した。

「かっこいい――! ねえ、ミリア! 何今の! 今の何!?」

 遙か遠くにある赤い果実に、ミリアは短剣を投げつける。
 百発百中の技を初めて見たとき、ユーリはミリアにもう一度見せてと何度もせがんだ。その度にミリアは軽く再現してみせ、ユーリは声を上げて喜んだ。

「すごい! 本当にすごい! ミリアなら、サーカスに入れるよ!」
「……お褒めの言葉を預かり光栄です」
 ミリアはそう言うと、ユーリの頭に再び手刀を振り下ろした。

「痛い。何するんだよ! 褒めたのにっ!」
「褒められた気がしない上に不愉快です」
 ミリアははっきり言った。

「この力を、私は見世物に使うつもりはありません」
「え~~? でも、そうしたら絶対人気者になれるのに……」
「無駄なことばかり叩くのはこの口ですか?」
「それ耳! 耳だからっ!ミリアっ!」
 作り物の笑みを浮かべて耳を抓られ、ユーリは悲鳴を上げた。



 アルグノーベン家は、代々公爵家に仕えてきた。
 ミリアの祖父は公爵家の家令であり、そしてミリア直系であるミリアは生まれる前、男子であることを望まれていた。
 しかし、産まれたのは女の子ども。
 しかもこともあろうに、子どもは強化の魔法を宿していた。

「また負けた……」
 今日も剣の授業でミリアに破れ、ユーリは尻餅をついて脱力した。
 息一つ乱していない。
 そんなミリアを見るたびに、ユーリは自分は彼女に負けたのに、心のどこかで嬉しかった。

「ミリアは、強くて凄いなあ。俺は勉強も運動も出来ない。見た目だけはいいって、言ってもらえることはあるんだけど」
「その見た目さえ、今は整えていないではありませんか。ずっと黙っていましたが、貴方、それではただの獣ですよ」

 公爵邸で手伝いをするようになり、ユーリは清潔であることは心がけるようになったが、長い髪は伸ばしたままだった。
 ユーリはミリアに指摘されてたじろいだ。

「銀の髪に金の瞳。獅子のような身なりの癖に、貴方の中身は鼠以下ですね」
「う……」
 さらりとひどいことを言われ、ユーリは唇を噛んだ。

「ほら、髪を切って上げますから。ここに座ってください」
「あの……ミリア。なんで切ろうとしているの?」
「何か問題が?」
 ミリアの手には短剣が握られている。ユーリは慌てた。

「ちょっと待って! 怖い! 流石に怖いってばっ!」
「騒がないでください。煩い。動くと刃が肌を掠めますよ」
「ミリア。それ、人を殺す人の言葉だよ。絶対」
「私は、人を殺したりなんかしません」

 公爵家を守るための剣。
 アルグノーベン家はそういう家系だと、以前ユーリは父から聞いたことがあった。
 その血を継ぐミリアは、短剣を見つめて、いつもより小さな声で言った。

「私はこの力で、人を守りたいんです」
「ミリアなら、きっと出来るよ」
「……え?」
 ユーリがそう言えば、ミリアは目を瞬かせた。

「だってミリアは強くて、かっこいいから! ヒーローみたいに!」
「それは、あまり女性に向ける言葉ではありませんね? 一体、どういう育ち方をしたらこんな失礼な子に育つんでしょう?」

 『ヒーロー』という言葉は英雄だとか、勇者のことを言うと、ユーリは聞いたことがあった。
 ユーリにとってその言葉は最大の賛辞だったが、ミリアは褒めたつもりのユーリの頭に、拳をねじ込んだ。

「いたいいたいいたい! ミリア、頭ぐりぐりしてないで!!」
「はあ……。本当に、何も知らない子どもは気楽でいいものですね」
「ミリア? なんで溜め息なんか吐いてるの?」
「なんでもありません。それより、ユーリ。昨日私が出した課題は、ちゃんとしましたか?」
「うっ」

 ミリアに尋ねられ、ユーリはおずおずと解答用紙を差し出した。
 ミリアは紙を見るなり顔を顰めた。

「これもバツ、バツ、バツ、バツ……」
 ミリアは殆ど同じ言葉を口にしていた。

「――ユーリ・セルジェスカ」
「ふあっ! ふぁい!」
 返事をする、ユーリの声は裏返っていた。

「殆どの問題を間違えているというのは、一体どういうことですか?」
「だっ。だって!」
 冷たい声で尋ねられ、ユーリは思わず叫んだ。

「ミリア、一回読んだら何でも覚えるし、なんか軽々と屋根にだって登るし、崖から落ちても這い上がってきそうだけど、俺は普通なんだから仕方ないじゃんか!」
「……」
「勉強なんか嫌いだー!  ミリアはずるい!  何でも出来るから、出来ない俺の気持ちなんてわかんないんだ!」
「五月蝿い」
「ふぉふぇんひゃひゃひ……」

 唇を引っ張られ、ユーリは思わず謝っていた。
 ミリアに怒られるのは慣れているはずなのに、何故かその時の彼女が、ユーリは少し怖かった。

「子ども相手にすごんでも意味はありませんね。……そう。私は、特別なんです。でもこの世界に、特別な人間はそうはいない」
「……」
 ミリアのその言葉を聞いて、ユーリは何故かその言葉が、ミリア自身に向けられたもののように思えた。

「その私の普通についてくることができたなら、貴方は確実に他の人より優れていると評価されるはずです。だから」
 ミリアはそう言うと、ユーリの顔から手を離した。

「ついてきなさい。一度で駄目ならもう一度。諦めたらそれまでです。貴方の限界はこの程度なのですか?」
 ミリアは、ユーリを見下ろして小さく笑う。

「……私の従兄弟でありながら、情けない」
 それが悔しくて、ユーリはミリアを見つめたまま立ち上がった。

「やだ! ついていくだけなんて嫌だ! 俺は絶対、ミリアに勝つ!!!」
「そう。その意気です」
 ユーリが高らかに宣言すれば、ミリアはまるでまぶしいものでも見るように目を細めて、楽しそうに小さく笑った。



 しかし『学問』という分野では、ユーリは結局ミリアには勝てないことを学んだ。
 一度だけ読んだ内容を丸暗記するような人間に、自分が勝てるはずがない。
 そう思ったとき、ユーリはいつかミリアに剣で勝つことを願った。
 暇な時間を見つけては、一人訓練を続けた。
 けれど『強化魔法』の使い手と、魔法の使えない凡人では、実力の差は開くばかりで追いつくことは出来ない。
 もっと速く、もっと速く――ユーリは、ミリアが予測出来ないような剣を、自分が身につけることを願った。
 そして練習に疲れて、一人眠っていたときに、ある日こんな夢を見た。

『ユーリ』
『ユーリ――……』
『勝負しよう!』

 茶色の髪。茶色の瞳。
  ポニーテールの、少し気の強そうな声の女の子。
 その子のことを自分は知らないはずなのに、ユーリは「守りたい」と、そう思った。
『ユーリ、私に空に連れて行って』
 夢の少女は願う。
 けれどユーリは、頷くことは出来なかった。
 彼女の願いを叶えたいと思っても、今の自分に、空を飛ぶための『風魔法』は使えないから。

『この国を、私が守るべきものを、もう一度見たいの。だから――お願い。ユーリ』

「あれ。――なんで、涙、なんか……」
 夢から目を覚ますと、ユーリは泣いていた。
 そして、不思議なことがもう一つ。

「……石が、光ってる……?」

 魔除けのお守り、幸運のお守りとして、ユーリが両親に渡された石。
 薄っすらと青みがかった、限りなく透明な石は、きらきらと輝いていた。
 そして彼の体の側には、見慣れない薄桃色の花びらが落ちていた。
 ユーリがその花弁を拾い上げると、薄桃色の花びらは、まるで幻だったかのように溶けて消えた。

「……変な、夢」
 ユーリは思わずそう呟いていた。
 花びらのことも少女のことも、全てが夢《まぼろし》だったかのような気がして。
 ユーリはそう呟くと、ミリアとの約束の時間が近いことを思い出して、間に合うよう帰路を急いだ。

「――ユーリ・セルジェスカ。何顔を赤くしているんですか」
「へっ!?」

 剣の授業には間に合ったものの、ユーリは全く集中出来なかった。

 ――駄目だ。怒られる! でも、女の子の夢を見たせいで集中出来ないなんて、絶対に言えない!

「遅い」
 ユーリの思いなど関係なく、ミリアの剣はユーリに向かう。
 ユーリは剣に力をこめた。このままミリアの攻撃を受ければ、確実に負けてしまう。

 ――どう頑張ったってミリアに勝てない。体が浮いたら、今の攻撃も避けられるかもしれないけれど。

 ユーリがそう思った、その時だった。

「へあっ!?」

 両親から貰った石が光を放ち、ユーリの体はふわりと空中に浮くと、ミリアの攻撃を受ける前に後方に下がった。
 ユーリは、何が起きたのか理解出来なかった。
 それはミリアも同じで、彼女もまた目を丸くしていた。
 剣を手に、対峙する二人。
 静寂を破ったのは、老人が手を叩く音だった。

「実に素晴らしい! こんなところで、新たな才能に出会うことが出来るとは!」
 老人はそう言うと、小さなユーリの手をとって笑みを浮かべた。

「……おじさんは、誰?」
 その時のユーリは、彼が何者なのか、まだ知らなかった。ただユーリは、彼の視界の隅で、従兄弟が静かに頭を垂れたのを見た。

「儂はグラン・レイバルト。小さき勇者よ。どうか君の名を、教えてはくれないかな?」

 それこそがユーリ・セルジェスカと、『剣聖』グラン・レイバルトとの出会いだった。
「……前よりも、随分良くなりましたね」
「本当!?」

 公爵邸にてユーリと手合わせしていたミリアは、武器を収めて静かに言った。
 『剣聖』グラン・レイバルトはユーリの才能を高く評価し、彼を弟子に迎え、直接ユーリは稽古をうけることになった。
 そして一週間ぶりに手合わせを行い――ユーリは以前よりもミリアに近付けたような気がして、満面の笑みを浮かべた。

「やった〜〜! よし……! これならいつか、ミリアにだって追いつけるかも……」

 強く拳を握り、また頑張ろうと意気込む。
 ミリアはそんなユーリを見て、子どもっぽさの残るその頬を、指で抓って引っ張った。

「いたあっ!」
「生意気言わないでください。貴方はまだまだ私より下です」
「な、なんだよ。ひっぱることないだろ!?」
 ユーリが頬をさすりながら反抗すると、ミリアは目を細めて言った。

「……たとえ」
「うん?」
「たとえ貴方の身長が伸びようが、どんな地位につこうが、貴方が私の従兄弟で、年下という事実は永遠に変わりません」
「むぅ……」

 ――確かに、それはそうだけど。
 でもそう言われたら、一生自分はミリアに勝てないじゃないかと思って、ユーリは頬を膨らませた。

「なんですか。不満なんですか?」
「不満って、ワケじゃないけど……。ねえ。そういえば、ミリアはさ」
「はい」
「おじさんの跡を継ぐことって以外に、何かしたいって思わないの?」
「……」
「だってミリアはこんなに強いし、頭だっていいんだから、別に公爵家に仕えなくたって何にだって……」

 ユーリの問いに、ミリアはすぐには答えなかった。
 そしてまるで、そう答えることが『正解』であるかのように彼女は言った。

「私は……。私は、ずっと公爵家の方々にお仕えするために育てられました。だから私の強さも、学の深さも、全てそのためのものなのです」
 
「ミリアがいいなら、俺はそれでいいけど……」
「ユーリ」
「うん?」
「公爵様は、貴方によくしてくださいますか?」
「うん! いろんなことを教えて貰ってるよ」

 ――でもさ、ミリアは本当にそれでいいと思ってるの?

 そう聞こうとしたけれど、ミリアに話を変えられ、ユーリは結局それ以上、何も言う事ができなかった。

「そうですか。ならよかった。ああそうです。ユーリ」
「明日は買い物に行くのですが、貴方も一緒に来ませんか?」
「一緒に行く!」
 そして楽しそうな誘いを受けて、ユーリは彼女に言いたかったことを、完全に頭の中から消してしまった。



「海だ――!」

 ミリアがユーリを連れてきたのは海だった。
 公爵であるクロサイト家の治める領土は広く、その一部には海が含まれる。
 初めて海を目にしたユーリは、日光を反射させてキラキラと輝く海を指さして、ミリアに尋ねた。

「ねえ、ミリア! 海には、人を丸呑みできるくらい大きな魚がいるって本当?」
「ええ、本当ですよ。貴方なんて一口でパクリですよ」
「うえええ……。じゃあ、近寄るのやめとこうかな……?」
「え? なんですか? 『行きたい』?」
「ちがうっ! 俺、そんなこと言ってないっ!」
「わかりましたから騒がないでください」

 顔の近くて大声を出されて、ミリアはユーリを嗜めた。
 ミリアはユーリをのせ、港まで馬を走らせていた。ミリアの馬術の腕前は確かなもので、ユーリはなんでもサラリとこなしてしまうミリアは、やっぱり凄いと心の中で思った。

「ミリアは何を買いに来たの?」
「王都に持っていきたいものを買おうと思って。この辺りにはあまり来ないのですが、貴方もいることですし」
「じゃあミリアは、俺のためにここに来たってこと?」
「…………」

 ユーリの問いに、ミリアはバツの悪そうな顔をした。
 沈黙は肯定を意味している。ユーリはそんなミリアを見上げて、ぱっと花が咲くように笑った。
「ありがとう。嬉しい!」

 魚が多く取れるその地は、古くは人魚が住んでいたという言い伝えもあり、『人魚の涙』と呼ばれる真珠も売られている。
 『青の大海』ディランでも多くの真珠がとれるが、真珠に魔法式を書き込める『精霊晶』は、クリスタロス王国産のもののみである。

「ミリア……。見て。やばい。この石めちゃくちゃ高い」
 宝石店に並べられた値札を見て、ユーリは震える声で呟いた。

「それはそうですよ」
 けれど後ろからそれを見たミリアは、妥当な金額だとユーリに告げた。

「魔法式を保存できる石は高価なのです。加えて、これは加工済みですからね。ただ、真珠を取り囲む金剛石よりも、この真珠一個の値段のほうが高価です。クリスタロスでは不思議なことに、昔からこういったものが多く取れるんですよね」
 真珠は耳飾りとして加工されていた。

「え? じゃあ、俺のこの石も?」
 ユーリは両親から貰った首飾りを指差した。

「それなりに大きさもありますし、かなり高価なもののはずです。見たところ、元々いろいろな魔法式が保存されているようでしたし、貴方が無意識に風魔法を使ったことを考えると、貴方がここまでに来るまでの道中で起きた事件は、全て貴方のせいだったのかもしれません」
「俺のせい? 何かあったの?」
「貴方がここに来るまでに、謎の竜巻に巻き込まれて、指名手配されていた人間が捕まったという事件があったんです」

 ユーリは初耳だった。
 自分が魔法を使ったという自覚はなかったが、とりあえず『悪者退治』の役に立ったのではないかと思って、ユーリは目を輝かせてミリアに尋ねた。

「え? じゃあそれもしかして、俺のおかげってこと?」
「無意識に魔法を使うことは、力を制御できていない証です。魔法の属性に適性がありすぎる場合、魔力の使われず貯蓄が多いと、意図せずして魔法が発動されることがあるというのは聞いたことがあります。――けれどそれは魔法を使う者として恥じるべきことであり、誇るべきことではありません」

 きっぱりと言われ、ユーリは肩を落とした。

「精霊言語を用いて書かれた魔法陣を、石に魔法式として取り込み保存する。魔法の発動には力の制御が必要で、それはどのように魔法を使いたいのか、正確に想像する必要がある。現在の魔法とはそうやって、知識と技術を必要とし、安全に使うものなのです。高等魔法において、詠唱を必要とするのはそのためです。まあ確かにある意味、有り余る魔法適性という点では、無意識に魔法を使える人間は、『才能がある』と表現できるのかもしれません。グラン様が認められたことですし、貴方には才能があるのですから、奢ることなく努力なさい」
「はーい!」

 一度は怒られてしまったが最後は褒められた気がして、ユーリは元気よく返事をして手を上げた。

「言葉伸ばさない」
「はい…………」
 けれど低い声出そう言われ、小さな声でもう一度返事をした。



 神殿に名を連ねる者は、清貧であることを求められる。
 神の恵みを、神が人に向ける慈しみを、広く人に語る彼らは、その存在を表すように、白い服を身に纏う。
 彼らの胸には、光魔法を使うための石の首飾りがあり、彼らはこの世界が平穏であることに、日々祈りを捧げている。
 両親の仕事の都合上、ユーリはそういう家で育ったが、ユーリは清貧が似合う少年ではなかった。

「ユーリ……貴方は食べることしか頭にないのですか?」

 よく食べ、よく喋り、よく眠る。
 勇者に憧れる彼はどこにでもいる少年そのもので、服を汚して豪快にご飯を食べる姿を見ては、ミリアは溜め息を吐いた。
 せっかく髪を切って身なりを整えたというのに、これでは台無しである。

「せいちょーき、ってやつなんだから!」
「どうして解答はバツばかりなのに、そういう言葉だけ覚えているんですか? 貴方は」
「ね、ね、ミリア! 俺せいちょーきだから、あれ食べたい!」
「……とりあえずとまりなさい。今口を拭いてあげますから」

 ミリアはそう言うと、手巾を取り出してユーリの口の周りを拭った。
 上質そうな布が、一瞬で赤と油の色に染まる。
 その時だった。
 二人の背後から、女性の叫び声が聞こえた。

「ひったくりです!」

 振り返れば、女性のものらしき財布を手にした男が、二人に向かって走ってきていた。
 ミリアは、顔を顰めてユーリを背に庇おうとした。
 けれどそんなミリアを押しのけて、ユーリは男を迎え討とうと拳を構えた。

「見てて、ミリア! 俺だって成長したんだから。実力を見せてやるッ!」
「ユーリ!」

 予想外の行動に、ミリアは思わず叫んでいた。
 戦う意思を示すユーリを前に、男はニッと不気味な笑みを浮かべると、懐から短剣を取り出して振り回し始めた。

「うわっ!」

 流石に、真剣を持っている相手に素手で戦うのは無理だ。
 ユーリが男から逃れようと下がると、足元にあった石に躓いて、ユーリの体は後ろに倒れた。

「ぃた……っ」

 その時、地面に落ちていた小さな硝子の欠片が手に刺さって、ユーリは小さくそう漏らした。
 小さな彼の手に、血がぷくりと滲む。
 その瞬間、ミリアの中で何かがぷちりと切れた。

「――覚悟なさい」
 短剣と縄を取り出したミリアは、跳躍して素早く男の背後にまわり込むと、彼の体を一瞬で縛り上げた。

「この子を傷付けた罰は、その体で払っていただきましょう」

 ミリアがそう言って縄を引っ張れば、縄は男の体にめり込んだ。
 カーン……。
 いつの間にか服を切り刻まれ、空中に吊るされた男は、震えながら手に持っていた剣を落とした。
 
 ミリアは手頃な場所に男を固定すると、尻餅をついていたユーリのもとへと駆け寄った。

「ユーリ。怪我は大丈夫ですか?」
「すごい! すごい! ミリア、かっこよかった!」

 心配そうにミリアが尋ねる。
 けれどユーリは、自分の感動と興奮を抑えることが出来なかった。

「剣持ってたのに、距離だって離れてたのに! 一瞬だった! ミリアがいなくなっちゃったな、って、思ったら、もう!!!」

 すごいすごいと鼻息荒く語るユーリの手からは、相変わらず血が滲んでいる。 
 ミリアはしばしの沈黙の後、ユーリの腕を握ると、その手を開かせて硝子を取り去って傷跡を洗い、包帯を巻き付けた。

「あとの手当はお屋敷に帰ってから行います。さ、ユーリ。立ちなさい」
「え? ちょっと、ミリア??」

 自分の怪我の手当を行ってから、まるでこの場所から逃げようとでもするかのように自分の腕を引くミリアに、ユーリは意味がわからす首を傾げた。

 ひったくりを捕まえたのだ。いいことをしたのだ。
 だったからそのことを周りは褒め称えて、お礼を言ってもらってもいいはずなのに――なんだか、様子がおかしい。
 ユーリが考え事をしていると、荷物を奪われたらしい女性が、息を荒らげて二人に駆け寄ってきた。

「あ、あの! ありがとうございました。おかげで助かりました!」
「……これからはお気を付けください。女性の独り歩きは狙われやすいですから。特に貴方のような、可愛らしい方は」

 ミリアがそう言えば、女性の顔が赤く染まる。
 だがミリアは女性には気を止める様子はなく、ユーリの手を強く再び引いて歩き出した。
「行きますよ、ユーリ。ここにこれ以上、長居するつもりはありません」



「どうかしたかね? 集中ができていないようだが」
「い、いえ……。師匠、すいません」

 翌日、グランに稽古をつけてもらっていたユーリは、自分の失態を指摘されて素直に頭を下げた。

「今日の訓練は、これまでにしておこうかの」

 グランは、そう言うと剣をおさめた。
 白ひげの似合う老人は、剣を握っているときとそうでないときとでは、纏う雰囲気が大きく異なる。
 好々爺という言葉が似合う老人の笑みに、ユーリは静かにコクリと頷いた。
 ユーリはその日初めて、ずっと気になっていたことをグランに尋ねた。

「師匠の魔法は、一体何なのですか?」
「儂は、大した魔法は使えんよ」
「そんなことはないはずです」

 ユーリははっきり言った。
 『剣聖』グラン・レイバルト。
 彼と戦っていて、ユーリは違和感を感じることがあったのだ。

「だって師匠は魔王を倒された方ですし、気のせいかもしれないんですけど、なんだか師匠と戦っていると、俺の魔法が弱くなってる? ようにも感じて――……」
「……弟子にまで、嘘はつけないな。いいだろう。ユーリ。君にだけ、儂の魔法を教えよう」
「じゃあ……?」
「儂の魔法は、『打ち消し』の魔法」
「『打ち消し』……?」

 ユーリは、ミリアから魔法について学んでいる。
 けれど、そんな魔法は聞いたことがなかった。

「この国――クリスタロス王国には、古い魔法があるのだ。この国の王都には、この世界には今は存在しないはずの魔法がいくつか残っている。儂はこの力があったからこそ、魔王を倒すことが出来た」
「ではその魔法があれば、俺も魔王を倒せるということですか?」

 ユーリの問いに、グランは首を振った。

「いいや。そうではない。この魔法を使うにも、適性はあるようなのだ。それにもしこの力を得たとしても――きっと、今の君ではまだ無理だ。儂が魔王を倒せたのも、人の助け合ってのもの。人一人のちからだけでは、生きてあれを倒すことは出来ないのだよ」
「魔王は……一人では、倒せない……?」

 ユーリは『勇者』なら、一人で何でもできるものだと思っていた。だからユーリはグランの言葉が、なんだか不思議な話のように思えた。

「それにこの魔法は、近々封印しようと考えているからな」
「え……? どうして、ですか?」
 突然の話に、ユーリは思わずたずねた。

「儂が耄碌して、この魔法を消す前に死んでしまえば、いつかこの魔法は、争いの火種になるかもしれない。魔法は、使い方によっては人を幸せに出来るが、使い方を誤れば、多くの人を傷付ける。強い力は、災いを呼んでしまうものなのだ」
「そうなんですね……」

 強い力があれば何でもできる。
 一人で世界を変えることができる。
 そんな勇者に思いを馳せていたユーリは、グランの言葉を聞いて下を向いた。

「教えてやれずすまない」
「いえっ!」

 困ったように笑みを向けられ、慌ててユーリは首を振った。

「大丈夫です。俺は、俺の魔法と、剣を磨きます!」
「……ユーリ。今の君では君の魔法は、おそらくそう強くならない。個人が使える魔法は、その心の性質に依存するからだ。だから、ユーリ。純粋に正義に焦がれ、力に憧れながらも、どこかで人を傷付けることを嫌う君は、魔法と剣、2つを磨く必要がある。それは難しいことかもしれないが、儂は君になら、それが出来ると信じている」

 風魔法の中には、風を刃として武器にして、敵を傷付けることのできる魔法があることをユーリは教わった。
 けれどユーリは何度試しても、それを使いこなすことができなかった。
 魔法を発動させたあと、意図せずして自分の魔法が人を傷つける可能性を、心のどこかで恐れたためだ。

「王都にはその魔法の名残がある。君も王都に来れば、その魔法に出会うことも出来るだろう。ユーリ。君がもっと強くなることを望むなら、儂と一緒に王都の屋敷に来ないか?」
 
 グランの誘いに、ユーリは目を瞬かせた。

「真っ直ぐな君の剣は、きっといつか、この国を光へと導くだろう。王都では儂の弟子として、屋敷で暮らすといい。そうすれば、騎士として仕官することも容易になるだろう。悪くない提案だと思うが、どうかね?」
 
 王都に行けば――ミリアとも、一緒に過ごせる。
 それに師匠の魔法を引き継ぐことは出来なくても、他の国の人間が知らない古い魔法が王都にあるとするなら、行ってみてみたいとユーリは思った。

「行きたい。行きたいです。そして俺に、もっと剣を教えてださい!」
 ユーリがそう言えば、彼の師は嬉しそうに笑った。


 ミリアと一緒に王都に行ける。
 そこで師匠に剣を見てもらって、いつかこの国の騎士になる。
 両親と同じ仕事を自分がすることを、ずっと想像できなかったユーリにとって、それは初めて自分に示された、これからの自分の人生のしるべそのものだった。

 進むべき道を示されて、ユーリは心が軽くなった気がした。
 足取り軽く、ユーリはミリアに一刻も早くこのことを報告しようと、屋敷の中を走って彼女を探した。
 そして漸くその人の姿を見つけたとき、柱に隠れていた人の言葉に、彼は耳を疑った。

「ミリア! 俺さ、グラン様に王都に一緒に来ないかっていわれたんだ。だから王都に行っても、ミリアとまた一緒に……」
「やめなさい」

 ミリアの父であり、ユーリの叔父にあたるその人は、険しい表情で一人娘を見下ろしていた。

「もう、剣を握るのはやめなさい。ミリア」
「なんでそんなひどいこと言うの!?」
 ユーリは思わず叫んでいた。

「……ユーリ?」
 廊下の向こう側からやってくるユーリに気付いたミリアの父ヘンリーは、宥めるような声で言った。

「ミリアは昨日、街で力を使った。そう報告があってね」
「でもあれは……。あれは、俺のためにしてくれたんだ! それに、助けた女の人だって喜んでた。ミリアに『ありがとう』って、そう言ってたんだ。それなのに、なんでおじさんはそんなこと言うの!? なんで、なんで……? ミリアが、どうして強いことがいけないことなの!?」
「…………」
 ユーリの問いに、ヘンリーは何も言わなかった。

「やめなさい」
 代わりに、ミリアの冷たい声が響いた。

「でも、こんなのおかしいよ!」
「……やめなさい」
「ねえ……。ミリアも、本当はそう思うでしょう!?」
「ユーリ・セルジェスカ!」

 ミリアはユーリの頬を叩いた。
 乾いた音が響いて、ユーリは痛む頬に触れながら、目を潤ませてミリアに尋ねた。

「……なんで? ミリア……」
「申し訳ございません。お父様。これからは、人目に付かぬよう気をつけます」

 ユーリの問いには答えずに、ミリアは静かにヘンリーに頭を下げる。ユーリはわけがわからなかった。
 自分が怒られる理由《わけ》も、ミリアが謝罪する理由《わけ》も。

「ヘンリー」
 その時、グランの声が聞こえて、ユーリは目元をぐいっと拭った。師匠の前で、醜態を晒すわけには行かない。

「旦那様」
「おや。ユーリ、いいところに」
 ヘンリーがグランに向かって頭を下げる。グランはユーリを見つけると、ユーリの肩に手をのせて、ヘンリーにユーリを紹介した。

「実は彼も一緒に来てもらうことにしたんだ。彼には剣の才能がある。王都に戻ったら、孫に剣の稽古をつける予定だ。彼にも一緒に教えたいと思っている」

 グランに認められることは誇らしいことのはずなのに、ユーリは居心地が悪かった。

「――ミリア。今日はもう、部屋に戻りなさい」
「かしこまりました」
「ユーリ。君も一緒に話を……」

 グランがユーリに手を差し出し、ミリアは三人に背を向ける。
 ユーリはグランの手は取らず、部屋へと向かうミリアを追いかけた。

「待って! 待ってよ! ミリア!」
 けれど彼女が、足を止めることはなかった。

「なんで言い返さないんだ! おじさんは、ミリアにいっぱいひどいこと言ったのに!」
「……戻りなさい。貴方はお父様たちと、お話があるでしょう」
「嫌だ! だってそんな顔してるミリア、一人になんて出来ないよ!」
「……ユーリ。貴方は、何もわかっていない」

 ミリアはそう言うと、足を止めて振り向いた。

「お伽話じゃないこの世界では、どんなに思いをかけたとしても、どんなに努力を重ねても、それが形になってかえってくることのほうが、よほど少ないのです」

「ミリア……?」
「ついてきなさい」
 それからユーリの手を取ると、二人がいつも練習を重ねた裏庭に、ミリアはユーリを引っ張った。

「ユーリ・セルジェスカ。剣を取りなさい」
 ミリアはそう言うと、いつものように短剣を取り出した。
「貴方には素質がある。貴方なら、きっと認められる」

 わずかに揺れるミリアの瞳。
 ユーリはミリアに言われたように、長剣を手に取った。
 ミリアの魔法は強化魔法。ユーリの魔法は風魔法。
 加速と空中戦を得意とするユーリとは違い、強化魔法使いのミリアの攻撃をユーリが避けると、その場所にはくぼみのようなものが出来ていた。
 圧倒的な『力』の魔法。
 それは彼女の実力を、強化させただけに過ぎない。ゼロに何をかけてもゼロのままだ。その力の源は、ミリア自身の才覚なのだ。
 ユーリは彼女の剣を受け止めて、その能力の高さに唇を噛んだ。

 ――本当は、知っている。もしミリアが男の子だったら、騎士にだってなれた。いいや、違う。騎士だけじゃない。ミリアは頭がいいから、何にだってなれた。でも、駄目だ。駄目なんだ。今じゃ、この国じゃ。ミリアは公爵家に仕える家の子供だから。そして、何よりも――女性の強さを嫌う今のこの国では、ミリアの強さは認められない。

 ユーリは街でひったくりを捕まえたとき。観衆たちがミリアを見て口にしていた言葉を、ユーリは思い出した。

『身なりは良さそうだが、強化魔法の使い手では、嫁の貰い手もあるかどうか……』
『見たか? さっきの女。怖い怖い。浮気でもすれば殺されかねないな』

 ユーリはミリアに勝てない。けれどグランに認められたのはユーリだけだった。
 自分が得た立場は、本当は正当な評価でない気がして、ユーリは何故か悲しくてたまらなかった。

 ――才能も、努力も。本当は自分ではない他の誰かのほうが、相応しいような気がして。

「……ッ!」
 そんなことをしているうちに、ユーリはいつの間にかミリアに剣を奪われ、地面に押さえつけられていた。
 長剣は弾かれ、終わりを告げるかのように地面に刺さる。

「――男である、貴方なら」

 ミリアが振り下ろした短剣は、ユーリの頬を僅かにかすめた。
 じわじわと鈍い痛みがユーリの中に生まれる。けれどその時、ユーリは自分よりも、ミリアのほうがずっと、強い痛みを抱えているように見えた。
 乱れた髪のせいで、ミリアの表情が見えない。けれどその姿を見て、ユーリは胸が締め付けられた。
 
 ――ミリアはずっと、俺のヒーローだった。でも、この世界は。誰も、俺のヒーローを認めてはくれなかった。



「さあ、出発だ!」
 グランの声を合図に、公爵家の紋章の入った馬車が動き出す。
 ミリアと同じ馬車に乗ることになったユーリは、彼女にどう話しかけていいかわからなかった。

「あの、ミリア……俺さ……」
「『私』」
「え?」
「これからは自分のことは、『私』というようにしなさい。自分の目上の人間の前では」
「わ、わたし……?」

 しかし話しかけようとして、分厚い本を差し出され、ユーリは狼狽えた。

「王都につく前に、この本を全部読んで覚えてください」
「――え?」
「え、じゃありません。王都のお屋敷の方々に会うのに、その言葉遣いはありません。時と場合、身分にあった言葉を使わなければ、大人とは呼べません」

「え……? あの、ミリア……?」

 ――まさか、馬車の中でも勉強をしろと!?

 ユーリは目を丸くした。
 感傷的な彼女はどこへやら。
 『先生』の顔をしたミリアの表情に、ユーリは嫌な予感がした。

「まさか私の従兄弟が、敬語も使えないなんて醜態を晒すはずはありませんね?」
「……お、鬼~~~~ッ!」
 


「ここが、王都……」
「田舎から来たのが丸わかりです。ユーリ」  

 王都の門をくぐったとき、初めて見える風景に、ユーリは興奮で窓から離れることができなかった。

「みてみて! ミリア、凄い! 花がいっぱい飾られてる! あれは何?」

 その中でも、ユーリが特に気になったのは、花に囲まれた純白の建物だった。
 どことなく自分の生家に似たものを感じユーリが指させば、ミリアが読んでいた本を閉じて答えた。

「あそこは王都の神殿です。近々光の祭典が行われます。その準備で、王都は賑わっているのです」
「光の祭典?」

 そういえば毎年春になると、父たちがそんな言葉を口にしていた気がする。
 ユーリが首を傾げれば、ミリアは呆れたという顔をした。

「簡単に言うと、魔物から国を守る結界をはる儀式です。年に一度、神殿の巫女が結界の貼り直しを行うのです」
「巫女って?」

「我が国の今の巫女は、国王陛下の妹君――『光の巫女』と呼ばれるお方です。歴代の巫女の中でも、最も優れた力を持つとも噂されている方です。あらゆる未来を見通す力を持つとされ、その力は『先見の神子』に匹敵すると言われています」

「ごめん。ミリア。あの……先見の神子? って、誰?」
「千年以上の昔から度々歴史書に登場する、この世界で最も強い光属性の魔法を使える方のことです。本来人は生まれ変わるときに前世の記憶を忘れるものですが、その方は自分の前世の記憶を、全て引き継いでいらっしゃるということです」
 
「なにそれ! かっこいい!!」
 ユーリは前のめりになって叫んだ。

「……かっこいい?」
 ユーリの反応にミリアは首を傾げた。

「だって、生まれる前からなんでも知ってるってことなら、勉強も何もしなくて良さそうだし、俺何でも知ってるんだぜ〜〜って自慢できる!」 
「どれだけ貴方は勉強が嫌いなんですか。……全く」
 ユーリが目を輝かせると、ミリアは深くため息を吐いた。
「だって……」

「……一生分の思いを抱えて生きていくのでも大変なのに、前世の記憶まで抱えることが、いいことのわけがないじゃないでしょう? それにもし大切な人がいたとしても、二度と会えないんですよ?」

 両親やミリアや師匠。ユーリは生まれたときから、大切な人がいない世界を思い浮かべた。それだけで、胸が痛かった。

「う……。それは、嫌だ……」
 顔を顰めてユーリが脱力してそう漏らすと、ミリアは苦笑いした。
 
 王都についた夜。
 ユーリはまた不思議な夢を見た。
 夢の中の風景は、王都の景色とよく似ているようにも、違うようにも思えた。

『何をしているんだ?』
『本を読んでいたんだ』
 夢の中で、茶色の髪をした女性は、樹の下で本を読んでいた。

『本?』
『そう。兄上が、書かれた本』
 彼女はそう言うと、こちらに向かって本を差し出した。
 表紙に人形と花の描かれたその本は、彼女には不似合いだった。

『こんな子供向けの本をわざわざ作るなんて。――兄上は、昔から何を考えているのか時々わからない』
『あの方は、特別な方だから。俺たちにはわからないことが、沢山あるんだろう』
『……そうかもしれない』

 どこか少年のような、そんな荒さを残す。その声を、何故か懐かしいとユーリは思った。

『兄上は、遠い未来を知っている。それは時に、兄上を不幸にすることだろう。誰一人として、兄上と同じ世界を見ることはできない。同じ目線で世界を見つめることを、共に生きることだというのなら――それはとても悲しいことだと私は思う。生きているというのに、誰とも心をかわせない。だからせめて、私は兄上が描く物語を、ちゃんと知っておきたいと思う。たとえ同じ目線で世界を見ることはできなくても、せめてそうあることを望む人間がいることを、私は兄上に知ってほしい』

 彼女には兄がいるらしかった。

『でも、こうも思う。もし兄上と同じ目線で世界を見つめられるものがいるとするなら――それは兄上が見た未来を、変えることができる人間かもしれない』
『未来?』
『そう。決められた未来を、【運命】を打ち砕く――そんな力を持つ人が現れたなら、その人はきっと兄上にとって、【運命の人】になり得る人だ』
『運命の、人――……』

 夢の場面が移り変わる。

『おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ!』
 明るい子供の声が響いて、ユーリは少し困惑した。

『母子ともに健康ですよ』
『ほら。ユーリと、私の子どもだ』
 そしてあの茶髪の女性が、小さな赤子を抱いて自分の名を口にしたとき、ユーリは跳ね起きた。

「何? 今の、夢…………?」
 
 ユーリの父や母は光属性の魔法に適性を持っている。
 だからこそユーリは、同じ属性に適性があるのではと言われて育った。
 そして光属性に適性がある人間は、時折『予知夢』をみることがあることを、ユーリは両親から聞いたことがあった。

 ――もしかして、もしかして……?

 ユーリは、とある可能性に気付いて頬を染めた。

 ―――つまり俺はいつかあの子―――じゃない。あの女性と結婚するってことなのか!? もしかして俺、風属性だけじゃなくて光属性も使えて未来が見えるとか!?  有り余る才能――……もしかしたら、俺って天才?

「つまり夢の中の女の子が俺の『運命』の人!」

 言葉遣いは少し乱暴そうな感じはしたが可愛かった気がするし、もし出会えたら絶対に声を掛けよう。
 ユーリはそう、心に誓った。

『ユーリ』

 高鳴る心臓の鼓動に気づかないふりをして、ユーリは布団を被った。
 少しだけ布団から顔を出して窓を見ると、窓の外には月が浮かんでいて、夜の暗い闇の中、ちらほらと雪が降っているように見えた。
 しかし、雪では季節が合わない。
 窓を開けてよく見ると、それは無数の花びらで、それがまるで雪のように、王都に降りそそいでいた。
 幻想的な光景。
 けれど夜の外気はまだ肌寒く、ユーリは窓を締めて再び布団にくるまった。
 彼女の声を思い出すだけで、心臓がどきどきした。

 ――君に、俺の名前を呼んでほしい。君が笑ってくれると嬉しい。君が幸せなら、それだけで、俺はきっと幸せだから。

 会ったことなんてないはずなのに、彼女を思い浮かべると、そんな感情が心に浮かんだ。
「いつか……会えるかな……?」
 星の流れない月の輝く晩に、ユーリは彼女との出会いを願った。



「はじめまして。私は、ユーリ・セルジェスカと申します」

 ――なんで俺が、『私』なんて使わなきゃなんないんだ……!

 グランが用意した服に身を包み、ユーリは、公爵邸を訪れた。
 ミリアの指導通りの言葉遣いは、まだ慣れてはおらずぎこちない。

「貴方が、ユーリ?」

 ――え? この、声――……。

 どこかで聞き覚えのある声に、ユーリは思わず目を瞬かせた。
 そうしてその声の主を見て、ユーリは自分の心臓が跳ねるのを感じた。

「はじめまして。私は、ローズ・クロサイト、です。貴方は、お祖父様の弟子なんですよね? 私、貴方に会えてうれしい!」

『ユーリ』
 夢の中の女の子は、茶色の髪だった。
 目の前の少女は黒髪で、赤い瞳。ドレスを着ていて、勿論軍服なんて着ていない。言葉だって丁寧だ。
 なのに。
 『似ている』と、何故か思った。

「ローズ。ユーリが固まってる」
「お兄様」
「悪かったな。俺はギルバート・クロサイト」 

 ローズの後ろから現れたのは、自分よりも年下のはずなのに、堂々とした少年だった。

「ユーリって、呼んでもいいか?」
「ああ、うん。勿論――って、っったあっ!」

 ギルバートの砕けた言葉遣いにつられユーリが言葉を崩すと、ユーリはミリアに足をふまれた上にギロリとにらまれ、慌てて訂正した。

「……です」
 
 足が痛い。
 痛みをこらえながら涙目で小さく言うと、ギルバートは大笑いした。

「あはははっ! ユーリは面白いな。まあいい。早速だが、屋敷の中を案内しよう」
「お兄さま……」
 ユーリがギルバートに言われるまま、彼のあとをついていくと、残されたローズが悲しげな声で兄を呼んだ。

「ローズもついてこい」
「はい! お兄さま!」
 その一言で、ローズの表情がぱっと明るくなる。
 ユーリはなんだが温かい気持ちになった。彼女が兄を思う気持ちが、手に取るようにわかるようで。

「ローズ様は、ギルバート様がお好きなんですね」
「お兄様は、強くて、賢くて、頭も良くてかっこいいのです!」
「あははは……」

 賢いと頭がいいがダブっている。
 『兄のことが大好きで、少し天然な公爵令嬢』それがユーリが幼い頃抱いていた、ローズに対する印象だった。

 ギルバートは、屋敷の中の図書室もユーリに案内した。

「ここにある本は好きに読んでいい。俺はもう全部頭に入っているから」
「全部!?」

 ユーリは思わず声を上げた。
 自分より年下のはずなのに、どれだけギルバートは優秀だというのか。
 
「お兄様は、何でもご存知なのです! 先生も、お兄様にはもう教えることは何もないっておっしゃったのです!」

 驚くユーリに、目を輝かせてローズが言う。

 ――そういえば夢の中のあの子も、兄を慕っていたっけ。

 そう思って、ユーリは頭を振った。

 ――違う。目の前の少女と、彼女は別人だ。
 ユーリは心のなかで言い聞かせた。そしてミリアから講義を受けてきたユーリ自身、たしかにそう思っていた。
 何故なら夢の中の少女の髪は茶色で、どこにでもいるような平凡な色で、ローズは黒髪に赤い瞳――特別な色を、その身に宿しているのだから。

「ミリア・アルグノーベン」
「はい」
「君には俺の手伝いをと父上は言っていたが……ローズの面倒を君には頼めるだろうか?」
「私がお嬢様を、ですか?」

 アルグノーベン家の長女であるミリアは、元々ギルバート付きになるはずだった。
 主人となるべき相手の言葉に、ミリアは目を瞬かせた。
 驚いていたのはもう一人。

「え!? ではこれからは、もうお兄様は私と遊んでくださらないのですか!? 私、お兄様のご迷惑になっていましたか……?」
「……迷惑、というわけじゃない。だが俺は、いつまでもお前と一緒にいることはできないからな」
「そんな…………」

 ギルバートの言葉に、一番悲しんでいたのはローズだった。

「俺はお祖父様から、そこにいるユーリと一緒に剣をならうよう言われてるんだ」
「え……? お兄様が、剣を!?」
 しかし次の瞬間、兄が口にした言葉によって、ローズの顔色は一瞬で明るくなった。

「楽しみです!」
「そうか」
「お兄さま。お兄さま」

 雛鳥が卵の殻を破って、初めて目にしたものを親と思うかのように――ローズは兄であるギルバートの後ろを、いつもついて回っていた。

 ローズの言うように、ギルバートの優秀さは、数日ともに過ごしただけでもユーリにもよくわかった。

「ギルバート様って、すごく頭が良いんだな。俺が知っている中ではミリアの次だ」
「いえ、でも、あれは――……」

 けれどユーリがそういえば、ミリアは眉間にシワを寄せ、何か考えるような素振りをした。

「? ミリアはそうは思わないの?」
「……いえ。私の勘違いしれませんし、どうか貴方は気にしないでください」

 当時のローズの世界は、兄を中心に回っていた。
 レオンとリヒト。
 年の近い二人の王子が一緒でも、ローズが見ていたのは、兄であるギルバートのようにユーリには見えた。
 
 ある日のことだった。
 ギルバートの姿が見えないと、ローズがユーリの部屋を訪れたことがあった。
 ローズはギルバートを探すのを手伝ってほしいとユーリに言って、ユーリはその願いを受け入れた。
 その途中、ユーリはミリアに出会い、少しの間だけユーリはローズから目を離した。

「ユーリ・セルジェスカ。お嬢様を連れ出して、どこに行ったと思えば――ここには入るなと言われていたでしょう?」
「でも、ローズ様が行きたいって」
「お嬢様の言葉をそのまま受けるものではありません。貴方のほうが歳上なのに」
「――え?」

 ガミガミと怒られて、ユーリは耳を塞いだ。
 そんな時だった。
 当時建築途中だった屋敷の中に入ったローズめがけて、瓦礫が落ちるのがユーリには見えた。

「お嬢様!」

 ミリアの悲鳴が聞こえたかと思うと、どこからともなく現れたギルバートが、冷静な声で言った。

「やはり、こうなったか」

 ユーリは耳を疑った。
 ――この方は、ローズ様に普段あんなに慕われているのに、どうしてこんなに冷静でいられるんだ!?
 そう思ったからこそ、ユーリはギルバートに対して声を荒げた。

「どうして平然としてるんですか! 妹が、ローズ様があんなことになってるのに……!」
「どうしようもないんだ」

 その声はユーリには、何故か泣いているかのようにも聞こえた。

「ここで、また終わる。――やっと全てが、揃ったと思ったのに。今度こそ……やり直せると、思ったのに」
「終わる……?」
「運命は、変えられない」

 全てを諦めたかのような声だった。
 もう何度も、同じ物語を繰り返して――何度も絶望を見たような。
 しかしその瞬間、瓦礫の中から、ローズを抱いたミリアが現れた。

「――ミリア! ローズ様!」

 ユーリは二人の無事を見て安堵した。
 そしてユーリは二人から、目をそらすことが出来なかった。
 傷だらけのミリアの手を、幼いローズの手が包む。
 そしてローズは、まるで小さな薔薇の花のように、美しく微笑んだ。

「私を、助けてくれてありがとう。貴方の手は、人を守ることが出来る手なのね」

 ローズの言葉に、ミリアの瞳が大きく開かれる。
 その瞳は僅かに揺れて、それでもミリアは涙をこぼすことはなく、目を細めて微笑んだ。
 その時からだった。
 小さな『お嬢様』を見つめるミリアの瞳に、主君にのためなら命をなげうつ覚悟のある騎士でもあるかのように、尊敬と忠誠の色が宿るようになったのは。

『私はこの力で、人を守りたいんです』

 大切な人に、自分が掛けることの出来なかった言葉。
 ローズが何気なく口にしたその言葉は、ミリアが心の底から、ずっと求めていた言葉のようにユーリには思えた。

 そしてその時、ユーリは自分の隣でもう一人、大きく目を見開いて、二人を見つめる少年に気がついた。
 自分より年下のはずの少年は、自身より年上であるはずのミリアより、落ち着いた声音でこう呟いた。

「まさか……いや、そうか。運命を打ち破る者に、強化の魔法は与えられる……」

 ユーリは目を瞬かせた。
 なぜならずっと探していた宝物を漸く見つけたとでもいうように――次期公爵であるはずのその人が、真っ直ぐに自分の従姉妹を見つめていたから。

「見つけた。俺の――『運命』」



「ミリア。――君が、僕の『運命』なんだ」
「申し訳ございません。このようなものを、私は受け取ることは出来ません」

 その日からというもの、ギルバートはミリアに好意を示すようになった。
 ユーリやギルバート共に剣を習っていたレオンは、対応に困るミリアに対し、どこか冷めた声で言った。

「最近ギルは、君にご執心だね」

 まるで観察するような目をレオンに向けられる度、ミリアは居心地が悪そうに表情を曇らせた。

「ユーリ、ユーリ」
 レオンと共に公爵邸を訪れていた幼いリヒトはユーリによく懐いていた。

「なんでしょう? リヒト様」
「これ、お花。ユーリにあげる!」

 それは、白い綿毛のたんぽぽだった。

「たんぽぽ?」
「うん! ここに来る途中、見つけたんだ。白と黄色でユーリみたいだったから」
「わざわざ馬車を止めてまでつんだものだから、受け取ってもらえると助かるよ」

 ユーリが受け取るべきか困っていると、レオンに早く受け取るよう言われて、ユーリは白い綿毛の花を受け取った。

「ありがとうございます。リヒト様」
「どういたしまして!」
 元気よくリヒトは笑う。

「ユーリ、その花は?」
 しかしローズに後ろから声をかけられ、ユーリが驚いた矢先、風が起きて綿毛は空に舞い上がってしまった。

「ローズが壊した!」
「すいません。でもこれは、もともとこういうものでしょう?」
 ローズはそう言うと、綿毛にふうっと息を吹きかけた。
「ほら。風が、種を運ぶんです」
「種?」
 ローズの言葉に、リヒトが首を傾げる。

「これは花自体が、種の集まりなんですよ」
「風が運ぶの?」
 ローズは静かに頷く。するとリヒトは、きらきらと目を輝かせた。

「ユーリと一緒ですごい!」
「凄い?」
 ユーリは首を傾げた。

「ギル兄上が、風は見えないけど、ずっと近くにいて僕たちを守ってくれるんだよって言ってたんだ。だから風は、そういう優しい人のための魔法なんだよって」

 リヒトはそう言うと、その名のように、光《たいよう》のような笑みを浮かべた。

「だから、凄い」
「ありがとうございます」
 ユーリはリヒトに褒められて、目を細めて微笑んだ。



「ユーリ、手を出しなさい」
「これ……」
「受け取っておきなさい」

 それから少しして、ユーリはミリアから耳飾りを受け取った。

「この石って、まさか、おばさんの……」

 ユーリは目を瞬かせた。
 ミリアの母は、数年前に亡くなっている。耳飾りは、生前彼女がよく身に着けていたものだった。

「ええ。でも私には似合いませんし。この石は、貴方の瞳と同じ色。きっと母も、貴方が身につけることを望んでくれることでしょう」

 ユーリは生前、もし息子を授かることが出来たなら、ユーリのような子どもが欲しかったと言われていた。
 そんなユーリに、いつか彼女は耳飾りをあげようとは言っていたが、所詮それは口約束だとユーリは思っていた。

『ミリアはね、頑張りすぎてしまうところがあるの。だから笑うことも苦手なの。でもユーリ君といるときは、なんだかあの子、お姉さんっていう感じで、とても可愛いの』

 そして腕輪はミリアに、耳飾りはユーリに、指輪は夫であるヘンリーに。彼女の遺産は分けられた。

「……ありがとう。大事にする」

 魔法を使う石は、高価だ。
 ユーリの両親がユーリに渡してくれた首飾りは、風魔法を使う自分には、合わないようにも感じていた。
 瞳と同じ色をした、小さめの石のあしらわれた耳飾り。
 ユーリが母の耳飾りを身につけると、ミリアは満足そうに微笑んだ。
 日々は穏やかに過ぎた。
 
「ゆーり、大丈夫?」
「泣きそうな顔をされないでください。リヒト様」

 グランの訓練で生傷は絶えなかったが、ユーリからすれば、ミリアに比べたらグランは優しかった。
 リヒトとローズは訓練には参加せず、兄たちやユーリたちの様子を、一緒に座って見学していた。

「だって……すごく、いたそうだから。ああ、そうだ」

 リヒトは、傷だらけのユーリの手を見て、大きく手を空に向かってあげた。

「いたいのいたいのとんでいけー!」
「……」

 光の名を宿していても、リヒトにまともに魔法を使えない。だから、リヒトの行動は無意味だ。
 けれど気持ちが嬉しくて、ユーリは期待に目を輝かせるリヒトに微笑んだ。

「ゆーり! ゆーり! いたいの、なくなった?」
「……ええ。ありがとうございます。リヒト様」
「リヒトさま。それじゃ駄目です」
 けれどその瞬間、二人に割って入ったローズがユーリの手を取った。

「傷を癒やせ」
 ローズが光魔法を発動させる。
 すると、みるみるうちに傷が消えて、ユーリは目を瞬かせた。

「……! ありがとうございます」
「リヒト様。おまじないでは、傷は治らないのです」
 ローズはユーリの感謝に頷いてから、リヒトを見てばっさり言い切った。

「あにうえはいたいのなくなったって……」
「それは、レオン様がリヒト様に甘いだけです」
「でも、ぎるあにうえが――ぼくにもつかえる、まほうだって」
「お兄様が……?」

 『お兄様』発案だと明かされ、ローズは少しだけ首を捻った。
 けれど一瞬考えてから、ローズはまた冷静に現実をリヒトに告げた。

「……お兄様も、リヒト様に甘いだけです」
「う……」
「リヒト様。魔法のお勉強の続きをしましょう。リヒト様は王子様なんです。今度はちゃんと、出来るはずですから」
「わかった。……ろーず……」
「じゃあ、行きましょう」
 ローズはそう言うと、リヒトの手を引いて屋敷へとは戻っていった。

「ローズもめげないなあ。どうせ無駄だろうに」
「まあ、やりたいようにやらせておけばいい。結果はおのずと分かる」
 二人の兄たちは、小さな背を見送りながら、そんな言葉を口にしていた。



 それから少しした、ある日のことだった。
 ユーリはグランに連れられ、魔物の討伐に参加することになった。

 黒い臭気を纏う。
 狼に似た生き物は、ユーリにとって未知の存在だった。
 いつものユーリなら、避けられる程度の速さだった。けれど臭気から冷たいものを感じて、ユーリはその場から動けなくなってしまった。

 鋭い爪が、ユーリに襲いかかる。爪は、僅かに彼の胸を掠めた。
「ユーリ!」
 グランがユーリの体を引き寄せなければ、ユーリは確実にその瞬間に死んでいた。

「ローズ!」
「おじいさま?」
「ローズ。彼の治療を!」
 魔物の爪には毒があった。討伐隊から離れ、グランはユーリを公爵邸へと連れ帰った。

「ユーリ!?」
 ローズは慌てて魔法を使った。
 ローズの魔法のおかげで、ユーリは回復した。脂汗の浮かんでいた顔に生気が戻る。

「ローズ様、ギルバート様……?」
 目を覚ましたユーリが目にしたのは、自分の手を取り、心配そうに見下ろすローズの顔だった。

「良かった! ユーリ、もう大丈夫?」
「……本物の魔物と、戦ったんです」
 毒のせいで混濁した意識が戻ったとき、安堵と恐怖心から、ユーリは震える声でそう呟いた。

「殺されるかと、思った。足が、動かなくて。師匠がいなかったら、俺は……っ!」
 自分より幼い少女を前に、ユーリは目に涙を浮かべた。

「痛いのは、怖い。死ぬのは、怖い……っ!」
「いたいの、いたいの、とんでいけー!」

 するとその時、ローズがリヒトのように、意味のない言葉を大きな声で叫んだ。
 ユーリは目を丸くした。ローズがそんなことを言う意味がわからなかった。

「……お兄様が、仰っていました」
 ローズは、ユーリの手を握って言った。

「この言葉は、わるいものを、まをはらうのだと」
「……」
「心が弱っていたら、勝てる敵にも勝てません」
 知己的な赤い瞳はまっすぐに、ユーリを見つめていた。
 ローズは、服のリボンを解いた。

「ユーリ」
「?」
「おまじない」

 ローズは、震えるユーリの手にリボンを巻き付けた。

「赤は、悪いものを追い払う色なの」
 それは、ローズの瞳と同じ色。

「ユーリは負けない。ぜったい、ぜったい負けない。もしユーリが、負けそうになったら、私のことを思い出して」
 幼いローズは、強く何度も言った。

「私はユーリの味方。貴方がどんな怪我をしても、私が治してあげるから。ユーリは、死なない。だから、ユーリは大丈夫。だから……だから」
 けれどその瞬間、ぐらりとローズの体が倒れた。

「ローズ様!? ローズ様、大丈夫ですか!?」
 意識がない。
 ローズの異変を前に、ユーリは慌てて彼女の肩を揺らした。けれどその手を、ユーリはギルバートに止められた。

「そう揺さぶるな。単に眠っているだけだ」
 妹が急に倒れたというのに、ギルバートは冷静だった。

「ローズはああ言ったが……光属性の使い過ぎは命を縮める。妹を早死させないでくれよ。ユーリ」
「ギルバート様……」

 子どもの割に大人びた口調や表情。
 兄が特別素晴らしいからだと羨望の目を向ける妹でさえ、いつも冷静に見つめるギルバートに、ユーリが違和感を感じることは何度もあった。
 けれど『賢王』レオンの生まれ変わりとされる第一王子が、大人たちから賞賛を受けている様を見て、特別な二人だからこそ、その地位に生まれたのだとも思っていた。
 次期国王の第一王子と、その補佐となるであろう公爵令息。
 二人を中心に、この国はまわっていくのたからと。
 だからレオンの言葉を、ユーリは否定はしなかった。
 ある日のことだ。
 訓練を終えて昼食をとっていたとき、レオンがこんなことを言った。

「僕がこの国の王となって国を守ろう。僕は優秀だからね。僕以上に相応しい人間は居ないだろう?」
「俺はこの目をこの国の為に使う。それが俺の役目だ」
「私も公爵令嬢として、お兄様と一緒にこの国の為に力を使います!」
「私は、騎士になって、この国を守ります」

 次期国王はレオン。
 ならば自分は騎士として、この国を守ろうとユーリは思った。

「僕としては、ローズが僕の王妃になってくれたら助かるなあ。僕が王様でギルが宰相で、ユーリが騎士団長。名案だとは思わない?」

 そこに幼馴染の中で唯一、リヒトの名前は存在しない。

「あっ。あの、兄上。ぼ、僕は……」
「リヒトは才能がないんだから、どこかの令嬢と結婚でもすべきなんじゃないかな? 良かったね。王族に生まれたおかげで選り取り見取り」
「そんな! 嫌です。僕だって、兄上たちと一緒がいいです!」
「――リヒト」

 そんな彼に、聞き分けのない子どもをなだめるように、彼の兄――レオンは言った。

「人にはね、向き不向きというものがあるんだよ。君は国王には向いていない。でも大丈夫。僕たち四人がいれば、この国は安泰だ」

 レオンの言葉は、それがリヒトにとって幸せなのだと、言い聞かせているかのようにユーリには聞こえた。

「君は、僕が守ってあげる」
「そうだな。お前は何も心配しなくていい。弟みたいなもんだしな」
「リヒト様、大丈夫ですよ」
「リヒト様は、この剣でお守りします」
「――……僕。僕、だって……」

 身分でいえば、到底釣り合うことのない相手。
 けれど弱くて小さな弟のようなその王子を、ユーリは見守ってきた。
 生まれたときから備わった、天命のような魔力《ちから》は、望んで得ることは難しい。

『お伽話じゃないこの世界では、どんなに思いをかけたとしても、どんなに努力を重ねても、それが形になってかえってくることのほうが、よほど少ないのです』

 ふと何故か、かつてのミリアの言葉がユーリの頭をよぎった。
 ユーリは首を振った。

 ――これで、いい。これでいいんだ。どうせ誰も認めてくれないなら、俺が強くなって、大切な人を守れば……。

 『平穏』な日々が続いた。
 その中に僅かに混じる違和感を、ユーリはいつも見ない振りをしていた。
 レオンやギルバート。
 優秀な彼らがいればこの国は大丈夫だと、誰もがそれだけを信じて生きていた。
 彼らが原因不明の長い眠りにつく日が来るなんて、思いもせずに。

「レオン様! ギルバート様!!」
「お兄様!! レオン様!!」

 ミリアとローズの声が響く。
 二人の悲鳴を聞いて駆けつけたユーリが目にしたのは、幼馴染の二人が倒れた姿だった。
 その日から、公爵邸から笑い声は消え失せた。
 花のように笑う少女は、どこか虚ろな目で窓の外を眺めるようになった。
 ミリアに導かれて外を歩いても、ローズに昔のような笑顔が戻ることはなかった。

「兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺は傍に居る。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしない。だから」

 幼い頃――彼らが眠りにつく前のリヒトは、自分のことを「僕」と言っていた。リヒトが「俺」といいだしたのは、彼らが眠りについた後。
 まるでローズが大好きだった、「ギルバート(あに)」の真似をするように。

「俺と、婚約してほしい」
「――はい」
 そしてリヒトの言葉に、ローズは久しぶりに、笑って頷いた。

 十年も前のこと。
 ユーリは落ち込んでいたローズに、どう声をかけるべきか悩んでいた。
 ローズのために花を買って、彼女に贈ろうとしたその日、ユーリは二人のやりとりを目撃した。 
 祝福の言葉は言えなかった。
 ただ二人の婚約を、誰もが落ちこぼれのリヒトを補佐するためのものだと言った。
 
「もともとは公爵の地位をギルバート様に、レオン様の王妃にローズ様をというお話でした。……けれどその二人がいらっしゃらない今、ローズ様の悲しみがどれほど深いか……」

 『お嬢様』を敬愛する従姉妹の言葉に、ユーリは何も言えなかった。

「あんまりです。魔法の使えない第二王子の補佐として、才能ある公爵令嬢であるローズ様を、なんて。……こんなこと、幼いローズ様には重荷でしかない」

 その言葉は事実だ。
 誰の目にも明らかだった。二人の婚約が、『契約』でしかないことくらい。

 黒髪に赤の瞳。強い魔力を持つ者の証。
 『ローズ・クロサイト』という少女に、『リヒト・クリスタロス』は釣り合わない。

 この世界で釣り合う者がいるとしたら、彼女と同じ赤い瞳を持つ者か、次期国王として期待されていた少年だけ。
 もしくは、それに準じるような――神の祝福を受けたと人が思うような、そんな特別な人間だけだ。

「『光の巫女』亡き今、神殿の石を使ってギルバートと様とレオン様の生命維持の魔法が使えるのはローズ様お一人でした。まだ幼いお嬢様が、どんな思いで魔法を使われたのかと思うと……失敗すれば二人が死んでしまうかもしれないなんて、そんな魔法を」

 ミリアは口を噤むユーリの手を取って、昔のように『先生』であるかのように言った。

「私は何があっても、ローズ様をお守りします。ユーリ、貴方も。今の自分に何が出来るか考えて行動しなさい」



「ここが、騎士団……。師匠の、剣の……」
 
 ミリアの言葉の翌日、ユーリは騎士団の門を叩いた。
 騎士団の入団試験。
 『二つ名』を持つ騎士との対決。対戦相手は、『地剣』と呼ばれる騎士だということだけ、ユーリは聞いていた。
 『地剣』は、自分より小さな子どものように見えた。
 けれどユーリは絶対に、手を抜くことは出来なかった。

 ――俺は、ここで上を目指す。

「はああああああっ!」

 跳躍する。
 ミリアがずっと、そうしていたように。
 強化魔法ではなく風魔法で、ユーリはミリアの剣をなぞった。
 そんな自分の姿を、『地剣《かれ》』が見上げているのが見えた。

「これで……終わりだ!!!」
 ユーリがそう叫んで剣を振り下ろせば、なぜか目の前の相手は、少し笑ったように見えた。

「――参りました」
 彼の声を合図に、観衆たちがわっと声を上げ、ユーリを歓迎する声が響いた。
 そんな中で、『地剣《かれ》』はユーリに手を差し出した。

「私は、ベアトリーチェ・ロッド。これからどうぞ、宜しくお願いします」
「まだ小さいのに強いんだな」 

 差し出された手はやはり小さくて、ユーリは思わずそう呟いていた。
 すると『ベアトリーチェ』が眼を瞬かせ、審判をしていた人間に告げられた言葉にユーリは顔を青褪めさせた。

「お前! 彼はお前より年上だぞ!」
「え? あ、え? も、申し訳ございません!」

 慌てて謝罪すると、ベアトリーチェは小さく笑った。

「いいですよ。どうか、そのままで」
 その声があまりに優しくて、ユーリは少し、どきりとした。不思議とその姿が、ミリアと重なって見えたから。

「これから、宜しくお願いします。セルジェスカ」
「……ユーリでいい」

 ミリアにはいつも、そう呼ばれている。
 ユーリがそう言えば、ベアトリーチェはどこか嬉しそうに笑った。

「そうですか。では私のことは、ビーチェと呼んでください」

 数日後、正式にベアトリーチェから『二つ名』を与えられ、ユーリは騎士として生きていくために、公爵邸を去ることになった。

「貴方は『天剣』です。私が、そうつけさせてもらいました。改めて、これから宜しくお願いします。ユーリ」

 また屋敷が静かになると、ユーリに声をかける者もいたが、ユーリは世話になった礼だけ述べて、屋敷を出ることにした。
「騎士団に入ります。今まで、お世話になりました」
 自分がそう告げた時のローズの顔を、ユーリはちゃんと見ることは出来なかった。

◇◆◇

「ここにいらっしゃったのですね」
「ああ、君か」

 ガラス張りの植物園。
 ローゼンティッヒは声をかけられて振り返ったが、すぐに元に見つめていた方向に視線を戻した。

「見てくれ。よく寝ている」
「……寝ているときは、本当に子供のようなのに」

 メイジスはそう言うと、長椅子で眠るベアトリ―チェに静かに毛布を掛けた。
 ベアトリーチェが少し前まで仕事をしていたであろう机には、赤い薔薇の花が一輪飾られている。

「――薔薇の騎士か」
 ローゼンティッヒは花を見て、懐かしいものを見るかのように眼を細めた。

「こいつはつくづく、薔薇に縁があるな」
 その声音はどこか暗い。

「……そうですね」
「なあ君、君に一つだけ、俺の秘密を教えよう」
「?」

 頷くことしか出来ないメイジスに、ローゼンティッヒは目を伏せて静かに言った。

「俺は、本当は――彼女が死ぬのを、知っていた」

「それ、は………」
 メイジスは、彼の告白に息をのんだ。
 そしてすぐ、彼は眠る子どもの方に目をやった。
 ベアトリーチェがすやすやと寝息を立てているのを見て、メイジスはほっと息を吐いた。

「でも、それでも……。俺は、薔薇の少女のことを話さなかった。それが、彼女の『運命』だったから」

 メイジスは、ローゼンティッヒを肯定も否定もしなかった。
 何故ならメイジスの魔法《ちから》もまた、喪失から生まれたものだったから。
 後悔は時に、人を強く突き動し、大きな力を与える。メイジスは、それを知っている。
 ただローゼンティッヒは、ベアトリーチェが悲しむことは望んでいるわけではない――メイジスはそう思った。
 だがたくさんの人間を助けるために必要だと判断すれば、ローゼンティッヒはそれを受け入れることのできる人間なのだろうとも、メイジスは思った。

「何かを手にするには、代償が必要だ。青い薔薇のために――精霊病から人々を守るためには、彼女は死なねばならなかった」

 完全な治療薬が完成してから、さほど時間は経っていない。
 けれど青い薔薇を使った未完成の薬は、病の進行を抑えるだけの効力は有していた。
 ジュテファーが命を取り留めたのも、未完成品の薬の効果のためだ。青い薔薇が無ければきっと、世界中で多くの死者が出たことだろう。 
 メイジスはローゼンティッヒの言葉を、黙って聞くことしか出来なかった。

 ベアトリーチェの『兄貴分』であり、彼の命の恩人――王妹であった『光の巫女』の子で、元騎士団長。
 魔法を持たないリヒトより、一〇年間ずっと眠っていたレオンより、王に相応しいと思わせるのは、その外見にも現れている。

 クリスタロス王国初代国王と同じ金色の髪。
 強い魔力を持つ証である赤の瞳。
 彼はその姿と能力故に、一〇年ほど前から人前に姿を見せるのを控えるようになった。
 そしてベアトリーチェが薬を完成させ、漸く肩の荷を下ろしたとき、ローゼンティッヒは正式に、騎士団の退団を申し出た。

「なあ、メイジス・アンクロット。君は俺を、残酷だと思うか?」

 ローゼンティッヒはそう言うと、自分を慕う幼い子どもを見下ろした。
 柔らかな茶色の髪に触れて、ローゼンティッヒは顔を歪めた。

「真実を隠す優しい嘘は、時に人の希望に変わる。青い薔薇のおかげで、あいつは『弟』を救い、自らの地位を盤石なものにした。赤い薔薇の少女を守ることが出来るのは、精霊晶を持つベアトリーチェだけだった」

 ティアの死がなければ、誰からも信頼される『今のベアトリーチェ』は存在しない。

「どんな時も、人が生きていくには希望が必要だ。たとえそれが、どんなに嘘にまみれたものであったとしても。その瞬間《とき》を生きぬくための希望《ひかり》は、常になくてはならない。人は今を信じなければ、前に進めはしない」

 眠るベアトリーチェの髪を手で優しく梳いて、ローゼンティッヒは苦笑いした。
 ベアトリーチェの外見は、彼が知る一〇年前とほとんど変わらない。
 だというのに、子どものような彼の肩にのしかかる責任は、この国の中でも重いに違いなかった。
 それは自分が、責任を放棄して彼を置いて国を出たことにも理由があることを、ローゼンティッヒは理解していた。
 けれどもし、時を戻して過去に戻れたとしても、自分は同じ選択をするだろうとローゼンティッヒは思った。

 ベアトリーチェのことを大切だと思う。
 愛しく思う。愛しているかと聞かれたら、そばにいてやりたいかと聞かれたら、自分は躊躇わずに頷くだろう。
 そうわかってはいるけれど、自分には彼以上に、優先すべきことがあることも、ローゼンティッヒは理解していた。
 それに、未来《けつまつ》はすでに見えている。

 誰が何を行い、選択をすることが求められるのか――過程は見えずとも、自分が理想とする未来のために、行動することがローゼンティッヒには出来る。今の自分がこうすることが、『正解』だと知っている。
 そのためには――非道だと思われても、切り捨てなければならないものもあるのだ。
 その時だった。
 ローゼンティッヒの袖を、ベアトリーチェの小さな手が掴んだ。

「――……行かないで」

「ごめんな。ベアトリーチェ」
 ローゼンティッヒはそう言うと、優しく幼子の頭を撫でてから、ベアトリーチェの手をほどいた。そしてローゼンティッヒは立ち上がると、ベアトリーチェに背を向けた。

「……貴方は優しくて、残酷な方です」
 そんな彼の背に、メイジスが言った。

「いいんだ。俺は、どう思われようと」
 ローゼンティッヒはメイジスの声に足を止めたが、振り返ることはなかった。
 彼は扉の前にで立ち止まると、少しだけ寂しそうな顔をして、小さく笑った。

「こいつに一番相応しいのは、あの日からもう、俺じゃない」
「……でも、どうしたらいいんだろう?」

 ローゼンティッヒとの戦いの翌日、ユーリは一人悩んでいた。
 騎士団長になった理由。
 そんなもの、『ベアトリーチェに推薦されたから』としか、今のユーリには言いようがない。

『魔法は心から生まれる。なぜ君がこの地位を望むのか、それを理解しない限り、君が俺に勝つことは出来ない』

 ユーリは、ローゼンティッヒの言葉を思い出して唇を噛んだ。
 ローゼンティッヒがその座にいた頃、ユーリはほとんど彼のことを知らなかった。
 彼はあまり、人の前に姿を晒すことはなかったから。
 ただその存在が、自分にとってずっと大きな壁となっていたことを、ユーリは理解していた。
 遠目に見たことはあった。
 そしてローゼンティッヒという人間は
たとえその場にいなくても、誰もが彼を意識している――彼は、そういう人だった。
 ローゼンティッヒはどことなくギルバートに似ていて、妙に存在感のある人物だった。
 最後にユーリが彼を目にしたのは、彼がこの国を去る前、ベアトリーチェと勝負をしていたときだ。

 その闘いでローゼンティッヒはベアトリーチェに敗北し、そして彼はベアトリーチェに騎士団を任せ、この国を去った。
 だが彼が国を去った後も、ユーリが周りから彼のことを聞くことは何度もあった。
 優秀で頼りがいのあった、前騎士団長として。
 その度に、ユーリは自分との違いを認識せずにはいられなかった。

 『前騎士団長』ローゼンティッヒ・フォンカート。
 騎士団で今誰よりも信頼されている『ベアトリーチェ・ロッド』が、最も信頼を寄せ、補佐をしていた相手。
 その人間が戻ってくるとしたら――自分の立場はどうなるのか、今のユーリにはわからなかった。

「本当に、『騎士団長』に、相応しいのは……」

 その言葉の続きを口にしようとして、ユーリは頭を振った。
 ――違う。弱気になってはいけない。
 そしてその時、ユーリの中にある疑問が頭に浮かんだ。

「あの人より前の……これまでの『騎士団長』は、どんな人だったんだろう……?」
 
 クリスタロス王国王都にある図書館は、歴史ある建築物だ。
 グラナトゥムにある魔法学院からすれば現在の蔵書量では劣るものの、学院を作った三人の王の輩出国ということもあり、古い蔵書だけならば、学院と勝るとも劣らない。

 ユーリが図書館に着くとまた、ふわふわした光が、まるでユーリを歓迎するかのように彼の周りをくるくる回った。
 ユーリがこの図書館に来るのは、ベアトリーチェのことがあって以来だった。
 ユーリが光に触ってみると、不思議とほんのりと温かかった。

「これまでの、騎士団長について教えてくれ」

 ユーリが言うと、光は返事をするかのように点滅して、彼を導くように進み出した。
 どこが楽しげに、追うユーリをからかうかのように――そしてとある本棚を前で、光はパッと弾けて消えた。

「クリスタロス王国……騎士団の……歴史……」

 それはクリスタロス王国が建国されて以来の、騎士団の記録のようだった。
 古い本だ。けれどその本は、本が書かれた頃を思えば、まだ真新しく見えるようにユーリは感じた。
 本はまるで、当時の状態を維持しているかのようだった。まるで本に、魔法がかかっているかのように。
 図書館にかかっている魔法は、導きの光の魔法だけではないのかもしれない――そんなことを、ふと思う。
 戦いの歴史魔法生物との契約。
 そして――過去の騎士団長を始めとした、歴史に名を残した騎士たちの、魔法適性の記録。
 ユーリはその内容を見て、思わず本を落としかけた。
 歴代の『騎士団長』は、ある事柄が共通していたのだ。

「俺以外の、これまでのクリスタロス王国の騎士団長は……全て、光属性の適性者……?」

 そして、初代騎士団長。
 その頁には、こんな言葉が刻まれていた。

【光を以て人を導く者、『聖騎士』の名に相応しき者に、その座は与えられる。】

◇ 

「あれから連絡はないけど、大丈夫だったかな?」

 課題は提出したのに、ロイからあれから音沙汰はなかった。
 樹の下で一人休んでいたリヒトは、本を閉じてぽつり呟いた。

「もしかして、双子に提出すべきだったのか……?」

 リヒトは、双子の姿を思い浮かべて顔を横に振った。フィズの祖母の言葉からすると、ロイに渡すのが正解だと思ったのだ。
 それに『課題』を提出した際、ロイは普通に受け取ったものだからそれでいいのだと思っていたが――間違ったかとリヒトは頭を抑えた。
 
「リヒト」
「ギル兄上?」

 一人悶々としていると、後ろから声を掛けられてリヒトは振り返った。
 ローズの兄のギルバートは、ふっと笑って手を上げた。
 リヒトはその時、ギルバートの、ある異変に気がついた。

「ギル兄上……その手、怪我でもされたのですか?」

 ギルバートが、手に包帯を巻いていたのだ。
 その隙間から、黒ずんだ肌が気がして、リヒトはギルバートに尋ねた。

「まあ、そんなところだ。おかげでしばらく動かすのは難しいかもしれないな」
「ギル兄上は治癒魔法が使えるのですから、その程度の怪我であれば、ご自分で治されればいいのでは?」

 リヒトの問いに、ギルバートは少し間を開けて笑って答えた。

「……こうしているとミリアが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだ。怪我の功名というやつだな」
「…………」

  好意を持っている相手に世話を焼かれたいからと、人の善意を利用するのはどうかとリヒトは思う。ギルバートに賛同できず、リヒトは口ごもった。

 ――ギル兄上は、相変わらず自由な人だな。

「それで、リヒト。あの課題は進んでいるか?」
「それならもう提出しました」
「――『大陸の王』に?」
「そう……ですが……? ただ、実験は難しそうだったので、仮説を提出しただけですが……」
「ふうん? じゃあお前は、その状態で、それをあの王に渡したわけだ?」

 ギルバートの声音はいつもと変わらないはずなのに、なんだか冷たいものを感じて、リヒトは首を傾げた。

「そうすることが、最も適切かと思ったので」

 『生きる化石』とも呼ばれる希少な生き物を、自分が実験に使いたいと言ってもどうせ受理はされないだろう。
 けれどリヒトの答えを聞いて、ギルバートは再びリヒトに尋ねた。

「リヒト。お前はその研究について、他の誰かに話したか?」
「いいえ?」
「――そうか……。なあ、リヒト」

 そしてギルバートは、真実を見極めるとされる瞳で、リヒトをまっすぐ見つめた。

「もしお前が目の前に宝が落ちていて、それが自国に長きに渡り富をもたらすものであったなら、お前はどうする?」
「まず持ち主を探します」

 リヒトは即答した。その答えを聞いて、ギルバートは目を細めた。

「……まあ、お前はそういう奴だよな」
「他に、一体何があると言うんですか?」

 リヒトには、ギルバートの問いの意味がわからなかった。
 だからこそ、ギルバートの言葉を聞いて、リヒトは大きく目を見開いた。

「――リヒト。もしその宝が自分のものであると証明が不可能なものであるなら、その宝は見つけた人間が、自らの財だと発表しても、何も問題は起きないと思わないか?」

 リヒトは、ギルバートの意図を理解するまでに時間を要した。 
 リヒトは言葉の意図に気付くと、ぐっと拳に力を込めた。

「お前は、これまで自分の魔法研究について、きちんと発表出来ていない。魔力の低い王子としてしか、周りはお前を認識していない。そんな中、地位ある人間がお前の研究結果を代わりに発表すれば、どうなると思う?」
「――ギル兄上は、俺の研究が盗まれると、そう仰りたいのですか?」
「…………」

 ギルバートはそうだとも、違うとも言わなかった。ただ自分から不自然に避けられた瞳が、問いの答えのようにリヒトは思えた。

「……あいつが、あいつがそんなことするはずない!」
「何故、そう言い切れる?」
「それは……っ!」

 リヒトは言葉につまった。ロイはかつてクリスタロスで、自分たちを傷つけた前科がある。
 出会ったばかりのはずの相手を、かつてローズや家族を傷つけた相手を、どうしてそこまで信頼できると思うのか――?  その理由は、リヒトは自分でもよくわからなかった。
 だがその時リヒトの頭の中には、ロイが笑う姿が頭に浮かんでいた。

『母上の箱を開けることが出来たのは、君たちのおかげだ。――ありがとう』
 
 ――あの笑顔を、信じたいと思うから。

 自分の中に浮かんだ漠然とした答えに気づいて、リヒトは唇を噛んだ。
 こんな答えを口にしても、無駄だということはわかっている。目の前の相手は、こんな思いはきっと、『正解』だとは言ってくれない。

「もしそうなったとき、周りはお前の言葉と彼の言葉、どちらを信じるんだろうな?」

  大国の王と、グラナトゥムと比べたとき国力の劣るクリスタロスの、魔力の弱い第二王子の言葉なら、人はどちらを信じるのか。
 そんなこと、子供でもわかる愚問だ。

「リヒト。お前が人の上に立ちたいと願うなら、人に思いをかけすぎるな。そうしなければ」
 ギルバートは今度は、リヒトを真っ直ぐに見て言った。

「お前が傷つくことになる」
 
「俺は、俺は……」
 下を向くリヒトに頭を、ギルバートは優しく撫でた。

「そんな顔するなよ。とりあえず、昼休みももうすぐ終わる。教室まで送ろう」
 ギルバートはそう言うと、顔色の悪いリヒトの服を掴んで歩き出した。

 そしてリヒトが幼等部に着いた時、教室に響く怒号を聞いた。

「皇女様だし、気付かおうかと思ってたけどやめた! この間リヒトにひどいこと言ったそうだな。リヒトはお前のことを庇ってたのに、よくもそんなこと言えたんだよ! そんな奴、この教室にはいらない!」
「頑張ってる奴はこの学校ではみんな平等だって、先生は言ってたんだ! 頑張ってる仲間を傷つけるような奴を、俺たちは俺たちの仲間を認めない!」

 多勢に無勢。
 ロゼリアは教室で、幼等部の生徒たちに囲まれていた。
 リヒトは、小さな手でドレスをぎゅっと掴んで、涙がこぼれないように耐えているロゼリアに気付いて、彼らを止めようとした。
 だがリヒトより先に、彼の隣りにいた人物の言葉で、全員が動きを止めた。

「――まあまあ。そう喧嘩するなよ」
「なんだよ。お前……? お前には関係ないだろ?」

 幼等部の生徒たちは、ギルバートを見て不快感を示した。
 当然だ。彼らからすれば、『よく知らない年上』に、いきなり話に割って入られただけに過ぎない。
 
「全員頭を冷やせ」
「なっ」

 そんな幼等部の生徒たちに対して、ギルバートは指を鳴らすと、魔法を発動させた。

 バシャア!

 すると空中から大量の水が現れ、リヒトとギルバート以外の、全員を濡らした。勿論その中には、ロゼリアも含まれている。
 リヒトは呆然とした。

 ――ギル兄上は、本当に何を考えて……!?

 そうリヒトが問おうにも、ギルバートは飄々として、子どもたちに対して好戦的な態度を変えようとはしなかった。

「頭は冷えたか?」
「な……なにすんだよ!」
「一人の女の子を、大人数でいじめてるチビたちを見つけたから、頭を冷やしてやろうと思ってな」

 子どもたちは、ギルバートを睨みつけていた。
 しかしギルバートはそんな彼らをみて、にやりと笑うばかりだった。
 これでは火に油だ。

「とうした? ここの教室の人間は、やられても反撃の一つも出来ない意気地なしの集まりなのか?」
「ふざけんな! 勝手に攻撃してきてなんのつもりだっ!」

 歯には歯を。水には水を。
 一人の生徒が水魔法を発動させ、ギルバートに向かって放つ。だがギルバートは、軽々とそれを避けて口笛を吹いた。

「遅いな。それじゃあ俺には当たらないぞ?」
「な……っ!」
「悔しかったら俺に攻撃を当ててみせろ」
 小馬鹿にするようなギルバートの態度に、子どもたちの堪忍袋の緒が切れた。

「あの、ギル兄上……? 一体何を考えてこんなことを?」

 ギルバートが喧嘩を売る意図がわからず、リヒトは呆然としていた。
 ギルバートは、心配そうに自分を見つめるリヒトに、余裕たっぷりに笑った。

「見ておけ。子どもはな、遊びながら学ぶものなんだぞ。だからたまには悪役になってでも、俺たちが鍛えてやらなきゃだよな?」
「あの……それは、どういう……?」
「よし! リヒト、お前も走れ!」

 ギルバートはニヤリと笑って、リヒトの手を引いた。
 リヒトは血の気が引いた。
 自分まで『鬼ごっこ』に巻き込まれるのはゴメンである。リヒトは昔から、研究優先で体は鍛えてはいなかった。
 リヒト(なかま)が攫われたのを見て、子どもたちはそれぞれに魔法を発動させ、ギルバートに向けて放った。

「くそっ! リヒトが攫われたぞ。全員、かかれ〜〜っ!!!」