「うーん。やっぱりいい情報は載ってないな……」

 グラナトゥムの魔法学院の図書館の蔵書量は、世界一とされている。
 しかしこの国に来て、リヒトは自分の国より、調べ物に不便に感じていた。
 クリスタロスの図書館では、望む本を簡単に見つけることの出来る魔法があるのだ。
 リヒトはグラナトゥムに来て、自分が今の年齢でここまで魔法の研究を進めることができたのは、図書館にかけられた光魔法のおかげだったのだと思った。

 グラナトゥムの図書館で本を探す場合、どの本に望む内容が書かれているのかがわからない。そのせいで、欲しい情報を手に入れるまでに時間がかかる。

「この本も……違う」

 リヒトはあれから、古代魔法が存在していた時代についても調べていた。
 天候・気候・生き物について。
 これまでのリヒトは、素材についてこだわりがなかっただけに、聞き慣れない言葉を見るたびに手を止めることを強いられた。

「古代魔法が存在していた時代……か」

 リヒトはそう言うと、古びた赤い本の表紙に触れた。その本は、リヒトが幼い頃、母に与えられたものだった。
 夢物語《おとぎばなし》のようにも語られる『古代魔法』。
 その実在を信じた上での、今の自分の行動が正しいかどうかは、リヒトにはまだわからない。
 けれどこの学院に来て出会った子どもたちが、自分を思い与えてくれた『ヒント』を、リヒトは無駄にしたくはなかった。

 ――それにもし、当時と同じ条件で魔法が再現できたことが明らかになれば、古代魔法の全てが、当時実在した証拠の一つになるかもしれない。そうなればその魔法を、実現可能なものとして、復活させようという声も増えるかもしれない。

 今の世界は、古代魔法の有用性は認めていても、再現に対しては消極的だともリヒトは感じていた。

 その一番の原因は、古代魔法の再現が今の社会構造を変える可能性があり、力や富を持つ者たちにとって、不利益に働く可能性があるせいだろうとリヒトは考えていた。

 例えば、薪を使ってでしか扱えなかった火を、魔法によって簡単に扱うことが可能になれば?
 生産性をあげることで、世界は広く開かれる。
 自由に使える時間が増え、生活の利便性が上がれば、個々の人間が選べる選択肢は増えるかもしれない。

 新しい『技術《ちからのきじゅん》』が生まれれば、過去の『技術《ちから》』の価値は下がる。
 魔力こそが、魔法こそが、この世界での力の証。
 だが古代魔法のある一つの『共通点』は、それを変える可能性を秘めていた。

 紙の鳥の魔法。
 魔法・魔力の増幅。

 古代魔法は、少ない力で魔法を使えるというところに利点がある。
 もし古代魔法の全てを復元することが可能なら、またそれを、更に発達させることが可能なら――。
 魔力の強さが、身分の高さとイコールにならない時代が来る可能性がある。

 ただ、世界を変えてしまうかもしれないそんな力を、魔力の殆ど無い、しかもグラナトゥムやディランのような大国とは言い難れ第二王子でしかない自分が発表したとして、この世界で権力《ちから》を持つものたちが、自分を含めたクリスタロスという国をどう見るかが、リヒトにはわからなかった。

 それに、誰もが広く魔法を使えるような世界になったとき、クリスタロスの特産品である『精霊晶』の価値がどう変わるかも、リヒトには未知数だった。

 魔力をためおくことができるわけではない、膨大な情報をためおくことのできる、戦闘などの際に使われる魔法のための『服飾品』。

 クリスタロスとは違い、望む本だけを読めないこの学院で、リヒトはこれまで読んでいなかった分野の本もよく読むようになった。

 その中で気になったのは、『科学』が発達した異世界で、争いが起きる原因や、その勝敗についてである。
 その中でリヒトが強く印象に残ったのは、『資源』と戦争の関係だ。
 クリスタロスが『宝石』の産出国であるせいもある。リヒトはその時、少しだけ怖くなったのだ。

 資源がある、今はいい。
 でもいつか、この国の資源が全て無くなったとき、自分の国が誇れるものは何だろう?
 工芸品を作るための加工技術。
 確かに芸術や伝統は、受け継ぎ誇るべきものだ。けれどそれだけで、全ての民が幸福に暮らせるわけではない。

 それに『関心』は移りゆくものだ。人は『新しいもの』に惹かれるものだ。
 だとしたら、これからのクリスタロスは、どういう国であるべきなのか。
 魔王を倒した『剣聖』は、魔法の不得手だった人間で、国民全員が高い魔力を持っているとも言いがたい。
 だとしたら、『クリスタロス』が、誇れるものはなんなのか。

 その時、リヒトは思ったのだ。
 『三人の王』――『賢王』レオンを輩出した国として、グラナトゥムとは少し違う形でも『学問《けんきゅう》』で、国を発達させることは出来ないか、と。
 ただこの祈りにも似た思いが、夢物語に近いことはリヒトは理解していた。
 結局は何をなそうにも、自分の魔力の低さが足枷となることを、今のリヒトは知っていた。

 ――少なくともあいつは、俺にそれを望んでくれているらしいけど……。

 大国の王ロイ・グラナトゥム。
 彼が後ろ盾になってくれるなら、自分の研究や新しい価値や考えも、公の場で認めてもらえる可能性はあるような気もした。

『誰かの善意や、幸運を受け入れることも、貴方がすべきこと。それもまた導きだと、受け入れることも必要よ。差し伸べられた手を掴む力も、生きていくには必要なことだわ』

 リヒトは、フィズの養い親の老婆の言葉を思い出して口の端をあげた。
 自分が何をなそうとしても、何を願っても、心のどこかでは、結局は無駄になると思って生きてきた。
 それでも今のリヒトは、ロイを、年上のその人の言葉を、信じたいと思った。



 早起きして本を読んでいたにもかかわらず、結局は望む情報を得ることが出来ずリヒトが図書館を出ると、リヒトはとある少女を見つけた。
 声をかけるべきか迷う。

 ――あれは、『ロゼリア・ディラン』?

 人目を避けるようにして壁に同化している様は、大国の皇女のあるべき姿とはかけ離れている。
 何故彼女がここにいるか考えて――リヒトはロゼリアのことを『引きこもり』だと言っていたロイの言葉を思い出した。

 最近不登校気味の彼女だが、今日はローズやユーリの講義があるため、ロイに連れてこられたのかもしれない。
 リヒトは自分にまるで心を許しているかのように、楽しげに笑うロイの姿を思い出てし、ロゼリアに声をかけることにした。

 ギルバートにとっての自分が弟のような存在であるように、ロイにとってのロゼリアが妹のような存在なら、リヒトは彼女を無視することができなかった。
 けれどリヒトが彼女に声をかけようとしたとき、品のない笑い声とともに、こんな会話が聞こえてきた。

「それにしても、がっかりだよなあ。『海の皇女』が、あんなだなんてさ」
「みんなの前で魔法を失敗させるなんてさ、本当、大恥だよ。陛下と剣神様がいなかったら、危うく俺たちまで巻き添えを食うところだった」
「使えない魔法を使おうとするなんて、身の程知らずというかなんというか」
「自分たちより劣るあんな出来損ないの下で働かなきゃいけないなんて、ディランの人間は本当に可哀想だよな」

 あまりに心ない言葉。
 それでもリヒトは、彼らの言葉に反論することは出来なかった。
 その言葉は自分がこれまで言われ続けた言葉であり、この世界の今の価値基準が変わらない限り、否定することは出来ないものだったから。
 その時だった。
 リヒトは、彼女の『異変』に気がついた。

「お、おい。大丈夫か?」

 ロゼリアは、上手く呼吸が出来ていないようだった。
 リヒトは慌てて彼女に駆け寄ったが、どう対処すべきなかのかリヒトには分らなかった。
 医学にはまだ疎い。

 ――一体、どうしたら。
 リヒトが一人慌てていると、ちょうどエミリーが二人の前を通りかかった。

「先生!」
「リヒトくん?」
「あの、彼女が……!!」

 リヒトは、苦しそうに息をするするロゼリアの体を支えながら叫んだ。
 するとエミリーは、小さな木の実を取り出して、ロゼリアの前でその実を潰した。 
 中から小さな粉がこぼれたかと思うと、ロゼリアはリヒトの腕の中で意識を失った。
 リヒトは目を瞬かせた。
 そんなリヒトに、エミリーは笑って『お願い』と手を合わせた。

「リヒトくん。お願いがあるんだけど、保健室まで彼女のことをだっこしてついてきてくれないかな?」
「え……」

 リヒトはロゼリアを抱き上げようと努力したが、何故か先ほどより重い気がして、上手く持ち上げることが出来なかった。

「……眠った人間は重く感じるわよね。おんぶでいいからお願いね」
「はい…………」
 自分の非力さを痛感し、リヒトは体を鍛えることを誓った。



「さっきのは、一体何だったんですか?」
 保健室についたリヒトは、ロゼリアを寝台に横たえてエミリーに尋ねた。

「眠り薬とでも言っておきましょうか」
「……危険ではないですか?」

 軽く答えたエミリーに、リヒトは眉をひそめた。
 一瞬で人の意識を奪う。
 そんなものが簡単に手に入るとしたら確実に危険だ。

「使い方によっては、ね。でも、道具も薬も、使い方によるでしょう?」

「……」
 屍花、青い薔薇の件もある。
 毒花が薬になることも知っているだけに、リヒトは彼女の言葉を完全には否定できなかった。
 ただリヒトは、素直に頷くこともできなかった。
 人の意識を簡単に奪える『薬』なんて、犯罪に使われそうで怖い。

「一応説明をしておくと、この木の実は地属性の適性者で能力がないと育てるのは難しいから、流通はしていないわ」
「なんで先生がそんなものを?」

 エミリー・クラークは地属性と水属性に適性を持つ人間だ。
 ならば本人が育てたのだろうと推測してリヒトが尋ねると、エミリーはリヒトから顔を背けて、ボソリと呟いた。

「…………大人になるとね、よく眠れないこともあるのよ」
「え?」
「何でもないわ。リヒトくん」

 コホンと一つ咳払いして、いつものような笑みを浮かべる。エミリーの呟きは、リヒトにはよく聞こえなかった。

「それであの……彼女が倒れた原因は?」
「心理的なものよ。彼女が、魔法を使えなくなってしまったことにも関係していと思うわ。ディランは大きな国だから、その国の皇女となれば、大変なことも多かったんのでしょうね。私もなんとか、彼女の心に寄り添えたらとは思っているんだけど……」
 
 エミリーはチラリとリヒトを見て苦笑いした。

「リヒトくんはお兄さんだから、みんなついリヒトくんに頼ってしまうのね」
「……」
 自国《クリスタロス》では出来損ないの弟扱いしかされないせいで、そう言われると少し照れてしまう。

「午後になれば目を覚ますと思うわ。例の講義には、彼女も一緒に連れて行ってくれる?」
「わかりました」
「ありがとう。やっぱり、リヒトくんは優しくて頼りになるわ」
 エミリーは、幼い子どもを褒めるようにそう言うと、リヒトに向かって優しい笑みを浮かべた。



 エミリーの言葉通り、ロゼリアは午後になると目を覚ました。 
 午前の講義を終え保健室を訪れたリヒトは、ロゼリアとともに『闘技場』に向かうことにした。
 学院を卒業するためには、学院で学んだことを披露する必要があるらしいとは聞いていた。
 
 いわゆる卒業試験、というものらしい。
 ただ今のリヒトには、その時自分が何を披露すべきか全く思いつかなかった。
 実技は壊滅的に苦手なのだ。
 紙の鳥の魔法で、『手品』をするくらいしか思いつかない。
 講義が始まるまでリヒトが手持ち無沙汰にしていると、嘲笑うような声が聞こえてきた。

「見ろよ。『馬鹿王子』も来てるぜ。元婚約者をなんでわざわざ見に来てるんだろうな」
「可哀想だろ。そんなこと、言ってやるなよ。魔法が使えないんだから、せめてこういうのは参加しなきゃ点数が稼げないんだろ」

 学院を卒業するためには、いくつかの試験に合格して単位を取得する必要がある。
 今回の講義に関しては、参加するだけで取得できるということもあってか、参加数はかなりのものだった。

「『海の皇女』サマと一緒だ」
「魔法が使えない者同士、ある意味お似合いか」

 彼らの話を聞いて、リヒトは叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

 ――その陰口、全部聞こえてるんだが!?
 
 最早、こちらに聞こえるように言っているとしか思えない。
 リヒトはなんて奴らだと思いつつ、隣に座るロゼリアの様子が気になった。

「……その、俺のせいですまない」
「…………」
 リヒトは気遣って声をかけたものの、ロゼリアはまるでリヒトの声なんて聞こえていないように、返事をすることはなかった。
 


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私はクリスタロス王国の騎士、ローズ・クロサイトです。今日は、私が魔王を討伐した際の話と、その再現が出来ればと思います」

 『講義』が始まり、『闘技場』に現れたのはローズとユーリ、そしてロイだった。

「はじめまして。クリスタロス王国騎士団長、ユーリ・セルジェスカです。今日は精一杯務めさせていただきます」
「俺の紹介は不要だろう。今日は、代役のために参加することになった。学院の生徒には講義を優先してもらうことになり、不参加になった『光の聖女』と、今日この場に招くことができなかったロッド卿の代わりは俺が務める」

 うまい言い訳だった。
 あくまでアカリがその場にいない理由を『学生』だと語るロイの言葉を、疑う者は誰もいない。

「ローズ様!」
「ユーリ様!」
「陛下!!」

 三人のと登場に、場がわっと湧き上がる。
 軍服に身を包んだローズは、にこやかに笑って軽く手を振った。その姿を見て、女性陣から黄色い歓声が上がる。リヒトは、周りの少女たちの顔を見ながら複雑な気持ちになった。
 
 元はリヒトが所有していた赤い指輪に口付けたローズは、剣を『召喚』した。
 観衆の期待通り、祖父が使っていた聖剣を手にしたローズが、風魔法で高い位置に設けられた球体を壊す、というのが、今回の彼女の役目だった。
 魔力を吸収してしまう石を二つも身につけた上で、魔法を使えるのはこの世界でローズだけに違いない。
 リヒトはそう思いながら、相変わらず大勢の視線の中でも、普段と変わらない態度のローズを見つめていた。

 ベアトリーチェとの決闘の際、全ての属性の精霊晶を集めたロイは、石に触れて土の階段を築きあげる。
 そしてユーリが風邪魔法でローズの体を空中に押し上げ、ロイはアカリの代わりに、ローズに光の防壁を纏わせた。
 剣を構えたローズは、落下する勢いそのままに球体に剣を下ろした。
 その瞬間、ローズは全力で雷魔法を発動させた。
 
「うわっ!」

 突然、空から光が降りてきたかと思うと、雷は球体にぶつかり爆音とともに弾けた。
 塵と化したそれは煙のように漂い、ローズの姿を隠す。
 しかし魔王討伐のときとは違い、ローズは風魔法を発動させると、煙を払い、何事もなかったかのように地面におり涼やかな笑みを浮かべた。

「以上です」
 以上です、ではない。
 あまりにも強すぎる魔法に、集まった全員、何が起きたかわからず目を瞬かせていた。
 
「ローズ嬢、やり過ぎだ……」
「これでも、あのときよりはこめた魔力は弱いはずですが?」

 ローズはキョトンとした顔でロイにこたえた。
 自分の力に無自覚なローズを前に、ロイは深くため息を吐くと、彼女の手を取って高く掲げさせた。

「『魔王討伐』に尽力した、ローズ・クロサイト公爵令嬢と、クリスタロス王国騎士団長ユーリ・セルジェスカ殿に拍手を!」

 ロイがそう告げると、ポツポツと起きた拍手は、やがて会場を包む盛大な歓声へと変わった。
 
 誰もが立ち上がり、この世界で最も強い魔法を持つ『英雄』に賞賛が向けられる。
 しかし当のローズは、やはりいつもと変わらないまま。
 自分に向けられる拍手を、ローズは当然とでも思っているかのようにリヒトには見えた。

「『天剣様』も素敵だったわ! 銀色の髪に金色の瞳。まるで宝石みたいに麗しくて……」
「あのお年で騎士団長だなんてすごいわ。剣の腕も魔法の腕もたって、『剣聖様』の弟子だなんて……」
「でも、その方に『剣神様』は勝たれたんでしょう? だって本に書いてあったもの」

 『魔王討伐の再現』を終えたあと、ローズとロイによる魔法の講義が行われ、生徒たちは食い入るように二人の話を聞いていた。
 そして講義の終わりを告げる鐘の音がなったあとも、生徒たちの話題はローズたちで持ちきりだった。

 『令嬢騎士物語』は、グラナトゥムでも好調な売れ行きらしい。
 そして本が変えない人々の間では、物語が口伝されている。
 つまりその分、リヒトの悪評は広がっていることになる。

「魔王討伐……あんな感じだったんだな。やっぱりローズたちは凄いな。俺もあんなふうに、魔法が使えればいいんだが……」

 リヒトは兄が書かせた本を、一度だけ読んだことがあった。
 ただ、ローズの実践的な魔法を見たのは久しぶりな気がして何気なく呟けば、隣を歩いていたロゼリアが、小馬鹿にするような声で言った。
 
「貴方は、自分がまだ魔法を使える可能性があると、本当に思っているの?」
「ああ。それに確かに俺は魔力は低いと言われているけど、でもその分俺は研究で――……」

 ――ロイ(アイツ)にだって、認めてもらえて。

 けれど歓声の中、自信に満ちた笑みを浮かべるロイの姿を思い出し、リヒトは言葉を飲み込んだ。
 するとロゼリアは、蔑むような声でリヒトに言った。

「そんなこと、したって無駄よ。魔力が低い貴方が何をしたって、認められるはずはないわ」

 違う、とリヒトは言いたかった。
 けれどこれまでの人生で、先ほど幼馴染みたちが当然のように受けいれる賞賛を受けたことがないリヒトは、反論することが出来なかった。

「誰も貴方に期待なんかしていない。出来損ないの第二王子。貴方は絶対に、貴方が手にしたいものは手に出来ないわ」
「……」

 リヒトには、ロゼリアが何故自分にこんな言葉を言うのかが分らなかった。
 同じ痛みを抱えているなら、魔法を使えないもの同士なら。
 同じように痛みを感じているものだと思っていた。だから彼女は、自分を傷付けるようなことはないと。
 けれどロゼリアがリヒトに向けた言葉は、リヒトがこれまで生きてきた中で、一番残酷に現実を突きつけた。

「貴方と私はおんなじね。出来損ないの、ないものねだりなんだわ」

 リヒトは声が出なかった。
 誰にも止められなくても、必死に努力を重ねた。その全てを、出会ったばかりの少女に否定され、胸が締め付けられる。
 悔しくて、情けなくて、泣き出したい気持ちを必死に抑える。

 ――こんなところで、一国の王子が、涙を見せていいはずがない。

 リヒトが唇を噛んで必死に耐えていると、ロゼリアとリヒトの間に、彼のよく知る相手が割って入った。

「僕の弟に、余計な考えを吹き込むのはやめて貰おうか。海の皇女。持った力を扱えないだけの君が、リヒトを責めるのは筋違いだ」
「……あ、兄上!?」

 リヒトは慌てた。
 いつも冷静なはずの兄が、怒りを示す理由が分らない。
 ――しかも、大国の皇女を相手に。

「才能があって努力するのと、才能がなくて努力するのは違う。砂浜に落ちた指輪を探すのと、砂浜の砂全てが指輪であるのと、何が一緒だって言うんだ」

 レオンはロゼリアを、真っ直ぐに否定していた。
 その言葉は、倒れるほど自分の力に対し負い目を感じているロゼリアには、尖すぎる言葉だとリヒトは思った。

「何よ! 何よ、何なのよ! 出来損ないと、諦められているのは一緒じゃない!」

 ロゼリアはそう叫ぶと、目に大粒の涙を浮かべて走り去った。
 リヒトは、彼女を追うべきか悩んだが出来なかった。レオンがリヒトの行く手を遮ったのだ。

「あ、兄上……」
「――リヒト」
「……は、はい……」

 どいてほしいと言おうとすれば、冷たい声で名前を呼ばれ、リヒトはびくりと体を震わせた。

「あんな考えしか出来ない人間と、付き合うことはおすすめしないよ」

 『氷炎の王子』
 その時リヒトはその名のように、兄から氷のような冷徹さと、炎のような威圧感を覚えた。
 


「はあ……」

 ローズたちの講義の後、与えられた課題をこなすために、リヒトは図書館を訪れていた。
 透眼症の治療のための、『魔方陣』としての構想自体は、大方固まりつつある。
 けれどそれを利用するための素材がどうやっても見つからず、リヒトは溜め息をこぼした。

「やっぱり、無理なのかな……?」

 この国に来て、自分に期待していると周りが言ってくれたその言葉に、行動で返せないことがリヒトは悔しかった。
 そしてこのまま何もなせなければ、本当にロゼリアの言うとおりになってしまう気がして怖かった。
 期待されるということは、失望される可能性があるということだ。そう考えたときリヒトはふと、今日の出来事を思い出した。

「兄上は、何で俺を庇ってくれたんだろう……?」

 『令嬢騎士物語』
 リヒトの無能さを全世界に広めるような書物を作らせておきながら、ロゼリアがリヒトを否定することは許さない兄の気持ちが、リヒトには分らなかった。
 ただ自分を庇った兄が口にした言葉を、リヒトはどうしても忘れることが出来なかった。

「砂浜の中の指輪、か……」

 クリスタロスの領地には、海も含まれる。
 リヒトは幼いときに一度だけ、幼馴染みたちと共に浜辺で遊んだことがあった。
 そしてその時、リヒトは当時大切にしていた小さな宝石を、誤って落としてしまった。
 リヒトが落とした石を探すため、みんなが協力した。
 けれどユーリが風魔法で砂を巻き上げ、そのせいで幼いローズが咳き込んで、ギルバートが海水を降らせると、海に流れてしまったのか、結局宝石が見つかることはなかった。

 夕暮れになってもまだ、一人宝物を探すと言ったリヒトに、父が似たものを与えるから諦めるように言い、レオンは大事なものをそんな場所に持ってきたリヒトを責めた。
 誰が悪いわけでもない。
 最初になくした自分が一番悪いのに、幼い頃のリヒトは、そう言われて泣いてしまった。
 大切なものだったのに。宝物だったのに。あの石を失って悲しいのは自分だけで、誰も自分の悲しみなんて、分かってくれないような気がした。
 美しい、赤い宝石。
 あの石はきっともう、自分の元にはかえってこない。

「ん? これ、は……」

 幼い頃のことを思い出し、リヒトが感傷に浸っていると、とある記述を見つけ、リヒトは勢いよく立ち上がった。
 学院には世界中からの新聞が寄せられており、リヒトは最新の情報を知るために、朝早くと講義後に、新聞を読むことにしていた。
 発刊日は三日前。それは、東に位置する小さなとある島国の新聞だった。

『生きた化石・古代生物の有用性に対する新発見』

 体の一部を、他の生き物に擬態させて複製することの出来る生き物。
 異世界では『カメレオン』という生き物に似ているということから、名付けられた名前は『ピストレオ』。

 その生き物が複製した『皮膚』を使い、火傷を治療したという記載がそこにはあった。つまりそれは、その生き物から複製された物体が、人体に触れても問題が無く、かつ損傷を受けた部位を、正常なものへ置き換えられる可能性を示していた。

「――これなら、作れるかもしれない……!」

 リヒトは頭に思い浮かべていた構想を、一気に書き上げロイに提出した。



「無害なものでなければ、実用は出来ない。……なるほど。確かにこれなら、実現できる可能性はあるか」

 走り書きのようにしか見えない紙の束を、ロイは一枚一枚丁寧に確認していた。

「……だがまあ、まさか俺に提出して来るとはな」

 リヒトに課題を出したのは、双子であってロイではない。
 ロイは、リヒトの今回の行動の理由を、正確には判断できないと思った。
 双子にリヒトに課題を出すよう指示したのが自分だと気付くほど、リヒトが周りを見えているようには思えなかったから。

 ――まあ別に、気付こうが気付くまいが、どうでもいいことだ。

 ロイはそう思った。
 結局、大事なのは結果だ。
 リヒトが導き出した答えを自分が手にすること。それこそが、ロイの望みだったのだから。

「――陛下」
「『ピストレオ』を活用するという考えは勿論――そのための魔法陣を、すでに完成させているなんて」

 笑みを浮かべる『おうさま』の様子がいつもと違う気がして、シャルルは小さな声で彼を呼んだ。
 しかしその声が、『おうさま』に届いていないような気がしてシャルルは少し不安になった。

「魔法の均等な効果の付与と、魔法の行使のための魔力消費量の縮小化。これであれば――……。いや、まさか……。こんなものをあげてくるなんて」

 これまでリヒトは、自分に与えられた財のみで研究を行ってきた。
 もともと『生き物』を使った研究、これまでのリヒトは行っていない。
 ましてや希少な生き物を使った実験は、『クリスタロスの王子』としては不可能と判断したらしく、実用化に向けた研究は、自分以外の人間に任せたいと報告書には書いてあった。

 そうこれは、『論文』と言うには、まだ不完全なものなのだ。
 実験を行い、実用可能であることをしめさなければ、握りつぶされる可能性もある――それは、そんなものだった。
 力のないリヒトが発表しようとすれば尚更。

「これの価値を、彼はわかっていないと見える。これほどのものを、他国の王にやすやすと渡すなんてな」
「……どうなさるつもりなのです?」
「決まっている。――これは、この国にとっても価値あるものだ」

 シャルルの問いに、ロイは不敵に笑った。



「レオン様!」
 遡ること少し前。
 ユーリは、闘技場から自室に戻るレオンを追いかけて叫んだ。

「どうしてあのようなことを仰ったのです! 昔の貴方は、もっと」
 クリスタロスに帰る前に、二人の王子に顔を出そうと思ったユーリは、偶然リヒトたちのやりとりを見てしまった。

「もっと……」
「僕に構うな」
 しかしその言葉の続きを遮って、レオンはユーリを睨んだ。
 これほどレオンが怒りをあらわにする姿は、幼い頃を思い出しても、ユーリは初めて見るような気がした。

「君は他人の心配じゃなく、もっと周りを見るべきだ」
「え?」
「ローズもユーリもリヒトも、僕の周りは馬鹿ばかりだ。ギルバートの――彼女のほうがよほど優秀だ」
 『彼女』――レオンがミリアを優秀だと言う理由が分からず、ユーリは首を傾げた。
 身分や立場を重んじるいつものレオンなら、あまり口にしない言葉だからだ。

「君の選択は誤りだよ。……ユーリ。君の役目はもう終わったんだから、早く帰るといい」

 言葉の意味を問うことも許すことなく、レオンはそう言うと、立ちすくむユーリに背を向けて、足早に歩き出した。
 彼の護衛であるジュテファーは、レオンの背を追いかけて尋ねた。

「レオン様……。レオン様はどうして、そう苛立ってらっしゃるのですか?」
「……」

 自分の弟は違う、優秀な『弟』。
 レオンは暫く歩いてから、人気の無い場所で突然立ち止まると、ゆっくりと口を開いた。

「人の行動を制限するものは、支配下にある時か? いいや。そうではないだろう。金で買われた? 抑圧・暴力による支配は、反抗に変わる」

 独り言のようなその声は、女生徒に囲まれているときのレオンとは違い、明るさは微塵も感じられない。

「時に『信頼』というものが、最も人を支配する。僕はそう考えている」
「支配……ですか?」

 ジュテファーには、レオンが何を言いたいのか分からなかった。

「柔らかく言い換えるなら、行動の抑制・制限かな。たとえば君に大切な人が――いや、君の兄が、美味しい菓子を手に入れたとする。君はそれが兄の好物だと知っている。彼はそれを置いて、家を出た。家にいるのは君一人。食べ物はその菓子だけ。君は空腹だ。――さあ、君はどうする?」

「……少しだけ、食べるかもしれません」
「彼に嫌われたとしても?」
「兄様は、それくらいで僕をお嫌いになる方ではありません」
「例え話さ」

 レオンはどこか影のある笑みを浮かべた。

「もし君が、彼に嫌われると思ったら、君は目の前の食べ物には手を出さない。そうだろう?」
「ええ。まあ……」
「つまりその時、君の判断は、最早彼を基準としたもののものとすげ変わっている。彼に嫌われたくないという思いが、彼の思い願う、君という人間に導く」

 レオンはそう言うと、胸ポケットから何かを取り出した。
 それは少し傷の付いた、小さな赤い石だった。

「信頼は、『愛』は偉大だ。人の行動をも縛り、侵蝕する。そして契約は、破れば罰を受ける社会的な支配とも言える。だから契約と信頼を裏切ることを、人は躊躇う。それが裏切りだと理解した上で行動するなら、余程の愚か者か、相手を軽視しているという証拠だ。勿論、義務的な契約なら、話はまた変わるだろうけれど」

 レオンはそう言うと、小さな石を握りしめた。

「人は、自らの行動や考えの正当性を主張するために『運命』という言葉を使いたがるが、僕から言わせてみればそれはただ、はた迷惑なだけの自己中心的な考えでしかない。それに気付かない人間は、等しく罪人の烙印を押されるべきだ」

 ジュテファーには、レオンが何故今こんな話をするのか分からなかった。

「ユーリは、彼を裏切れない。――信頼を示されて裏切れば、友を失うことをユーリは恐れるだろう。風属性を与えられた人間が、裏切りなんてできるはずがない」

 ――この方は一体、何をおっしゃりたいのだろうか?
 首を傾げることしか出来ないジュテファーに、レオンは静かに言った。
 
「君の兄は実に優秀だね。ユーリへの信頼を示す影で首をすげ替えて、自分にとって大切な相手を取り戻そうと画策するなんて」
「……すげかえる?」

 思考が追いつかない。けれど棘のある言葉に気がついて、ジュテファーは思わずレオンの言葉を繰り返した。

「優位に遊戯を進めるならば、優秀な手駒は多い方がいいものだ。自分の上に立つ人間もね。僕の従兄弟は、権力を望まない。けれど彼は、君の兄に執着しているとも聞いている。ユーリは僕の幼馴染だが、騎士団長を務めるにはまだまだ未熟な人間だ。以前と同じように――ローゼンティッヒ・フォンカートが地位を取り戻せば、クリスタロスの守りはより強固なものとなる」

「レオン様は……兄様が、団長を変えようとしていると、そう仰りたいのですか?」
「君の兄が優秀であるならば、的確な判断だと思うけれど? それに僕から言わせれば、『想い人に会うために』、こんな時期にのこのこやってくる騎士団長なんて、その座には相応しくないと判断する」

 ロイがユーリの名前を出したのは、護衛が誰になるか決まる前の話だった。
 だが、今のクリスタロスで優れた力を持つ人間が長期間国をあける中、他国に騎士団長であるユーリまでが来るというのは、レオンの言葉通り、褒められたものではないのかもしれないとジュテファーは思った。
 
「君は、人の上に立ち守るべき立場にありながら、私欲のために国を開ける人間を、上にいただきたいと思うのかな?」
「……ッ!」

 その問いに、ジュテファーはこたえることが出来なかった。

「彼女は、ユーリを信じていた。仲は悪いようでも、従兄弟だからね。彼女はああみえて誰よりも立場を理解しているし、ユーリを信じている。ユーリ・セルジェスカは自らの責務を全うできる男だとね。まさか騎士団長という地位にありながら、許しがあったとはいえこんな時に1人でやってくるなんて、夢にも思っていなかっただろう。彼女が怒ったのはそのためだ。ユーリはミリアの信頼を裏切り、そしてギルバートは、ユーリの裏切りをもって、彼女の信頼を得るつもりらしい」

 ジュテファーは、かつてレオンとした会話を思い出した。

『そう考えると――ギルの方が非情かな』
『なぜギルバート様が賭けに勝って、信頼を得ることが出来るのですか?』
 その問いに、レオンはどう答えたか。
『人は自分が絶対だと信じる未来が覆された時、その未来を言い当てた人間を、神や預言者と言うものなのさ』
 その言葉の意味を、今漸く理解する。
 『ギルバート・クロサイト』は、『ミリア・アルグノーベン』の信頼を得るために、『ユーリ・セルジェスカ』を利用したのだ。
 
「僕、は……」

 ギルバート・クロサイト。
 『兄上』の婚約者である女性の兄に当たる人間の人柄を、ジュテファーは知らない。
 光属性と水属性に適性を持ち、傷を癒やす、治癒に特化した光魔法の使い手。ジュテファーが知るギルバートは、そういう人間でしかない。

『俺、団長派!』
『俺は副団長派!!』
『お前は? やっぱ兄の味方なのか?』
 クリスタロスの騎士団では、若い騎士の間では、誰がローズとお似合いかだなんて話をすることがある。
 その時ジュテファーはいつも、最後に同じ質問をされた。
『僕は兄様を応援しています。でも兄様は、団長を気に入られているので』
『じゃあ、団長派ってこと?』
『うーん……』
 けれどいつもジュテファーは、その問いに答えを出すことは出来なかった。
『兄様の大切な人は、僕にとっても大切な人なので』
 兄に脆いところがあることは知っている。

『ユーリ』
 ジュテファーが知る兄は、ユーリを心の底から大切にしているように見えた。
『ビーチェ』
 『天剣』――現騎士団長であるユーリに、その名を与えたのも兄だとジュテファーは聞いていた。

 ――自分の対となる名を与えたその相手を、兄様が騙した?

 ジュテファーの知る兄は、世界で一番優しい人だ。
 兄を嫌っていた自分のために、ズタボロになってまで病を治す薬を完成させた。血の繋がった弟のために、罪を被ろうとしたこともある。
 その、兄が――……?

「……まだ、決まったわけではありません」
「決まっているさ」
 ベアトリーチェを庇おうとするジュテファーに、レオンはまるで最初からこうなることを、全てを知っていたかのように言った。

「――君の兄は昔から、大切なものを失うことを恐れているから」

◇◆◇

 クリスタロスに戻ったユーリは、一度騎士団に顔を出すと、植物園にいるというベアトリーチェに、帰国を知らせるために道を急いだ。
 ガラス張りの植物園。
 穏やかで優しい緑に囲まれて、自分に笑いかける相棒の顔を想像しながら、ユーリはその扉を開いた。

「ビーチェ! ただいま……」
「――戻ってきて、ください」

 しかしユーリを出迎えたのは、彼の知らないベアトリーチェの姿だった。

「……ユーリの代わりに、もう一度、貴方が騎士団長になってください」
「ビーチェ……?」

  彼の服の袖を引いて、懇願するかのように彼を見上げる。
 『相棒』のその姿は、初めてユーリが、メイジスと出会ったときと似ていた。
 そこにいるのは、自分を支える『副団長』ベアトリーチェ・ロッドではない。
 目の前にいるのは、ベアトリーチェがユーリには見せない、どこか子どものような彼だった。

「ビーチェ。今、なんて……」

 ユーリの声に、ベアトリーチェが振り返る。 
 しかしその姿を隠すように、ローゼンティッヒはベアトリーチェの前に出た。

「やあ、久しいな。天剣君?」

 金色の髪に、赤い瞳。
 この国で、王に望まれるべくして生まれたような色を宿した男は、ユーリを見て薄く笑った。

「今の言葉は……どういうことだ! ビーチェ!!」
「どうもこうもこういうことだ」

 ローゼンティッヒはまるで、今から遊びでも始まるかのように楽しげに笑った。

「おかえり。天剣君。じゃあ」
 ローゼンティッヒは薄く笑うと、剣を手にして一気に間合いをつめた。
「――早速、勝負を始めよう」

「ぐっ」
 反射的に剣をとって応戦する。ユーリに、ローゼンティッヒの剣は重く感じた。

「君の力はこの程度か? 遅いったらありゃしない」
「なんだと!」
「それじゃあ当たらない。ああ、残念だ。君は弱い。弱すぎる。君の力は、騎士団長の座には値しない」
「……黙れ!」

 自分を煽るローゼンティッヒに、ユーリは我を忘れて剣を振り下ろした。

「無駄だ。君の剣が、俺を捉えることは出来ない」
 しかしその攻撃を、ローゼンティッヒはまるで完璧に予知していたかのようにさらりとかわした。
 だからローゼンティッヒが、いつの間にか剣を収めていたことにも、ユーリは気付くことが出来なかった。
 ユーリは目を瞬かせた。

 ――なんだ? これは……。

 まるで自分の行動が、全て読まれているかのようだった。
 速さで負けているとは思わない。ただ、ユーリは実力の差を感じざるをえなかった。

 ローズと戦ったとき、彼女はユーリの攻撃を全て防いだ。
 しかしローゼンティッヒは、ユーリの攻撃の全てを避けてしまうのだ。
 ユーリは風属性の魔法を発動させた。
 しかしその『最速』をもってしても、ローゼンティッヒの前ではユーリは無力だった。
「何なんだ。貴方は!!」

「俺か? 俺は――ローゼンティッヒ・フォンカート」

 ローゼンティッヒは、ユーリの剣を避け、再び自分の剣を抜いて、真っ直ぐにユーリに向けた。
 その瞬間ユーリの髪が、パラパラと地面に落ちた。

「――ベアトリーチェの、相棒だ」

 『自分はお前の上だ』とでもいうように、ローゼンティッヒは自信たっぷりに笑ってユーリに告げた。

「そうだろ? ベアトリーチェ」
「……」

 ローゼンティッヒの問いに、ベアトリーチェはこたえない。
 ユーリには、ベアトリーチェが即答しない理由が分からなかった。

 ――ビーチェ。どうして、否定しない?

 自分に『天剣』の名を与えたのはベアトリーチェだ。だからこそユーリは自分こそが、ベアトリーチェの対だと自負していた。
 だというのに。

 ベアトリーチェは沈黙を保ったまま、ユーリから顔を背けた。
 そんなベアトリーチェを見てローゼンティッヒは目を細めると、どこか冷たい声でユーリに言った。

「全く久々に帰ってみたら、騎士団長だというのに前の騎士団長が来るから大丈夫と、副団長に仕事を任せて国をあけるなんて、責任感もあったものじゃないな。――レオン・クリスタロス、ローズ・クロサイト、ギルバート・クロサイト、ジュテファー・ロッド、アルフレッド・ライゼンに、ウィル・ゲートシュタイン。この国の次代を担うに相応しい優秀な人材が、揃って国を開けるんだ。こんな時に君まで国をあけるなんて、君は、何の躊躇いもなかったのか?」

「だって、あれはビーチェが……」
「ベアトリーチェが行っていいと言ったから、それをそのまま受け入れたのか? 君には自分の考えがないのか」

 ユーリはその言葉に反論出来なかった。

「これではまるで、立場が逆だな。君は、ベアトリーチェには相応しくない」
 ローゼンティッヒは深く溜め息を吐いた。

「責任感も、実力も、判断力も。何もかもが欠けている。しかも婚約者を奪おうとして――それで自分は『相棒』だなんて、おかしな話だと思わないか?」
「……」
「『クリスタロス王国騎士団長』ユーリ・セルジェスカ。君が自分こそベアトリーチェの相棒だと言うならば、俺のことを倒してみせろ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、にこりと笑って、とある品をユーリに見せた。

「ああ、そうだ。これは、君の『宝物』かな?」
「いつの間に……っ!?」

 それはかつて、ユーリがローズから貰った髪紐だった。

「君が自分で買い求めたにしては、随分可愛らしいからな。さしずめ、片思いの相手からの贈り物、というところか?」
「――返せ!」
「おっと」

 ユーリがローゼンティッヒに飛びかかろうとすると、彼は地面を蹴って後ろに下がった。

「そう怒るなよ。短気は損気だぞ。――それに」
 唇に人差し指を添えて、ローゼンティッヒは薄く笑う。

「人の宝を奪うなら、自分も奪われる覚悟を持たなくてはな?」
「……!!」

 その『宝』が何を差すのかを理解して、ユーリは唇を噛んだ。

「君に最後のチャンスをやろう。もし君がこれを返して欲しいなら、騎士団長としてベアトリーチェの上に立ち、この国を守りたいと言うのなら」

 ローゼンティッヒは赤い紐をユーリに見せつけながら言った。

「二週間待ってやる。その間に、君がその座に相応しい人間だと、俺に示せ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、剣を戻してユーリの横を通り過ぎた。
 まるで今のユーリには、その価値しかないとでも言うように。そしてベアトリーチェは、ローゼンティッヒの後ろに続く。
 あまりにも実力が違いすぎる。今のユーリは、二人を追いかける気にはなれなかった。

「ああそうだ。一つ君に助言しておこう」

 項垂れるユーリに、ローゼンティッヒはふとなにか思い出したかのように足を止めると、こんなことを呟いた。

「魔法は心から生まれる。なぜ君がこの地位を望むのか、それを理解しない限り、君が俺に勝つことは出来ない」

 一人残されたユーリは、それからしばらくの間、その場から動くことが出来なかった。

「俺がなんで望むか、なんて……」

 その理由を、今のユーリはこたえることが出来なかった。
 今の自分に実力が足りないことは、ユーリ自身が理解している。
 なぜなら今の地位は、ベアトリーチェに与えられた。ただそれだけのものだから。

 その時ユーリの中に、一人の女性の顔が浮かんだ。
 自分がグラナトゥムに来ていたときに、ひどく驚いて立腹していた。
 もしかしたら彼女は、こうなることを予測して怒っていたのかもしれない――そんなことを、今更思う。
 ローゼンティッヒの問いに答えなかった『相棒』の顔を思い出して、ユーリは一人拳を握りしめた。

「――――ミリア……」

 自分の始まり。
 幼い頃誰よりも、自分を気遣ってくれた相手。
 ローゼンティッヒの望む答えを知っている気がするその人は、『正解《こたえ》』を訊こうにも、今この国にはいなかった。