月曜日、教室に入ると、すでに天国の姿があった。
金髪でも、ワンピース姿でもない。クラスの男の子たちと比べるとやや長めの黒い髪を耳にかけて、学ランに身をつつんだ彼は、窓際の席で頬づえをついて、退屈そうに窓の外を見ていた。
その横顔は、土曜と同じく、うつくしかったけれど、彩度だけが、わずかに落ちている。ひょっとすると、土曜の昼下がり、突如、天使としてわたしの前に現れた天国は、ほんのりとお化粧もしていたのかもしれない。
教室の後ろの扉付近で突っ立ったままひとり、名探偵を気取っていたら、「すーみ!」と呼ばれ、わたしの関心はあっさりと天国から声の主へ向かう。わたし、四季すみののことを、すーみと呼ぶのは、ひとりしかいない。
「ぐもにん、おりちゃん」
黒板のところにいたおりちゃんは、同じグループの女の子たちと落書きをしていたようで、指先にチョークの白い粉がついているのが遠目からでもわかった。
「興奮して、寝不足! なななちゃん、二位だったし!」
グループから抜けて、わたしのところまで来てくれた彼女は言う。昨夜、アイドルサバイバルオーディション番組の最新話が配信されたのだ。もちろん、わたしもリアルタイムで配信を見ていた。
「ね! みゆり、脱落せずに済んでよかったね」
「ほんとうにそれ。だめかと思ったから、正直、号泣したよね。すーみ、廊下で話す?」
頷いたら、おりちゃんがようやく自分の指先についていたチョークの粉に気づいたのか、はにかみながら、白くなった指を重ねてハートを作り、わたしに見せてきた。
そんなことをしてくれるなんて思いもしなくて、どういうリアクションをとるべきか分からず、動揺して、下手くそなウインクをお返ししてしまった。
織江 絹花。だから、おりちゃん。
分け隔てなく、みんなに愛想がいいひとのことを八方美人だとするいじわるな世界からも、おりちゃんは逃れられる。そういう女の子。
もちろん、ルックスに非の打ちどころがないという幸運もあるだろうけれど、そんなことが何になるの、とみんなに躊躇せず手を差し伸べてしまえるような屈託のなさと嫌みのない愛嬌がおりちゃんにはあるのだった。
一年生の頃から、廊下で見かけるたびに可愛いなと思っていたけれど、クラス替えで同じクラスになってからは、おりちゃんの一挙手一投足に、可愛すぎるよ、と少ししびれている。
親睦もかねて、とにぎやかな男の子たちが春に企画してくれたクラス会のあと、どさくさに紛れてSNSのアカウントで、わたしはおりちゃんとつながることに成功した。
一か月ほど前、おりちゃんの投稿で、彼女がアイドルサバイバルオーディション番組にはまっていることを知り、勇気を振り絞って、それについてのメッセージを送ったことが、おりちゃんお近づき大作戦のはじまりだった。
だから、わたしとおりちゃんの会話といえば、もっぱらアイドルサバイバルオーディション番組についてのことで、それ以外の話はほとんどしない。
クラスでは、おりちゃんは派手派手一軍グループに属している一方で、わたしは天国と同じく、どのグループにも属していない。だからといって、別にいじめられているわけではなく、必要に応じて、色々なグループに入ったり入らなかったりしながら、気ままな海月のように、女の子たちのあいだをふらふらしている。
土曜午後の天国尾行事件があったあとも、おりちゃんとは夜更けまでメッセージアプリ上でやりとりをしていたけれど、おりちゃんは、昨日の夜の最新話の興奮がまったく冷めていないまま登校してしまったのか、その熱量はすさまじく、目をぱちぱちさせながら饒舌に話す彼女は、とても可愛い。
アイドルサバイバルオーディション番組では、参加者の女の子たちがアイドルを目指しながら、番組内で課されたステージに挑む姿が映されて、それを見たプロのアーティスが様々な項目に分けて彼女たちを審査をする。
その審査の結果に応じて、回を重ねるごとに女の子たちが脱落していき、最後の五人に残ることができた子たちだけがアイドルになれるという厳しくて熱い番組なのだ。
昨日はちょうど、審査の結果が発表される回で、おりちゃんが推している女の子の順位があがり、ぎりぎり脱落を免れた。よくやったみゆり! と、わたしはおりちゃんが喜んでいる姿を頭に思い浮かべながら画面越しに、みゆりの頭をよしよし撫でた。
「すーみの、ゆるるんが七位っていう予想もあたってたよね! さすがだよ、あなたは」
「でも、ゆるるん、まったく納得してなかったね。ちなちゃんに負けて悔しそうだった」
「わたしは一位以外いらないんでって強気宣言してたし。あれについて、ネットでちょっとネガティブな言葉見かけたけど、わたしはすごく好きだなあ、遠慮して何になるのって思うもん」
「わかる! わたしもゆるるんの強気宣言、かなり推せた。てか、おりちゃん、今日のヘアピン、可愛いね、すごい似合ってる」
「ありがと、うれしい。すーみに褒められると、何でもね、間違いないって思える」
「なにそれ。……可愛い」
少しどきどきしながら、可愛い、だけをもう一度言う。
おりちゃんは、ウェーブのかかった自分の前髪を左右で留めている、銀色の個性的なピンを指さして、これ百円なんだよ、最高のお買い物しちゃったよね、と内緒を打ち明けるみたいに教えてくれた。
どきどきする。
だけど、わたしのどきどきは、きっとおりちゃんにはまったく気づかれていない。
廊下の窓を開けて、並んで窓額縁に肘をついて、中庭を見下ろしながら、アイドルサバイバルオーディション番組の話を続ける。
何度も、おりちゃんの横顔を盗み見る。
寝不足だって言っていた彼女の肌はつるんときれいで、目元にも影はない。服越しにくっついている肘に、どきどきは増す。おりちゃんは、何にも気づかずに笑っている。林檎をあまく煮詰めたようないい匂いがする。
可愛いなあ、と思う。
「すーみ、わたしの話、聞いてくれてる?」
ぼんやりしていた。というよりは、盗み見ることに失敗して、完全に見惚れてしまっていた。あわてて、うんうん、と頷くと、おりちゃんがまた、楽しそうに話し出す。
本当に、可愛い。可愛くて、胸がちょっと痛い。
結局、おりちゃんとは、ホームルームが始まる直前まで廊下で話し続けた。
最近のわたしの脳内は、おりちゃん、おりちゃん、アイドルサバイバルオーディション番組、可愛いお洋服やアクセサリ、だったけれど、土曜の午後から、そこに天国由玖も仲間入りしていた。
自分の席からは、天国の席を観察するのは容易く、窓の外でも眺めるような態度で、彼を視界におさめることができる。
休み時間、天国は、何度か他のクラスメイトと話していたけれど、別に素っ気ない態度をとることもなく、当たり障りがない、という言葉がふさわしい様子だった。
だけど、土曜の昼下がり、扉越しにわたしが見てしまった彼の笑顔とは、クラスメイトに向けるものはやはり明らかに違っていて、どことなく壁を感じる。
あまりにも、わたしがじっと見すぎてしまっていたからか、一度だけ、天国は振り返り、わたしを見た。頬杖をついたまま、わたしはあえて目を逸らさずにいた。
天国は、いち、に、とカウントできるようなスローの瞬きを数回落とし、視線をわたしからあっさりと外した。だけど、そのあとも、わたしは彼から目を離さなかった。
土曜にわたしがワンピース姿の天国を見かけてしまったことを、天国は知らないはずだと思っていながらも、そのことについて、彼と話してみたかった。時間の経過とともに、その気持ちは増す一方だったけれど、事が事であるだけに、単刀直入に尋ねることにも抵抗があり、うまい切り出し方が分からない。
窓際の天国を観察すればするほど悩ましさは募り、もやもや星人と化して迎えた放課後。
持ち帰る教科書をリュックサックに詰めていたら、「四季」と、後ろから名前を呼ばれた。相手を推測することもなく振り返れば、わたしをもやもや星人にさせた張本人の天国がいて、思わず、「い!」と無意味な返事をしてしまう。
「土曜のことで、ちょっと話したいんだけど」
土曜、の単語が天国の口から出たことで、あのとき、すれ違ったことに気がついたのは、わたしだけではないのだと分かった。話したいと強く思っていたのに、いざその機会があちらの方から巡ってくると、少し怖気づいてしまう。
慎重に頷くと、天国は黙って教室の扉に向かって歩き出した。すでに黒のリュックをかついでおり、帰り支度を済ませたあとらしい。ついてこい、という意味だと思い、あわてて自分のリュックに残りの物を詰め込んで、天国のあとを追う。
天国は、誰もいない屋上前の踊り場まで行き、そこで足を止めた。大きな窓から西日が差し込んで、床に水たまりみたいに光が集まっている。わたしも天国もその中には入らずに、向かい合う。
着ている服も、髪の色も長さも、靴だって違うけれど、天国は天国だから、いつもきれいな顔をしている。ただし、いま、そのきれいな顔は、当たり障りのない表情、ではなく、明確に、不機嫌そうだった。
「四季、おれに何か言いたいことがあるなら、言って」
「……言いたいこと?」
「今日、すごい見てきただろ」
「気づいてたんだ、とかは、うん、通用しないよね。めちゃくちゃ見てました。ごめん」
「どうせ、土曜のことだろ。尾行したよな、お前」
まさか尾行まで気づかれていたなんて。
自分の予想を上回るばれ具合に、目を丸くしたら、ふん、と鼻で笑われた。
「サルでも気づくぞ、あんなへったくそな尾行」
ヘッタクソナビコウ。
土曜は天使かと思った人物に対して、悪魔だったのか、と自分のしたことは差し置いて少し思う。
ここ数日で、知らない天国由玖を二度見ることになり、出会い直しの直しをさせられている気分だった。
天国は、横髪を耳にかけて、「で、」と、顎を少しあげ、首をかしげた。
「学校のみんなに言いふらしたいの?」
「いやいや、違うよ!」
「じゃあ、なに? ただの人間観察か?」
「いや、ただ、聞きたいことがあって」
なんだよ、と天国が眉をよせる。
単刀直入すぎるとか、彼を傷つけてしまう可能性だってあるとか、そういう常識や思いやりに勝る関心が、いまはもう、わたしの中で生まれてしまっていて、それは限りなく、願いに近いものだった。
「天国ってさ、……男のひとが、すきなの?」
聞きながら、自分に聞いているみたいで、胸が、波打った。
天国は、さらに眉間にしわをよせて、
「……は?」
と、言った。
しんじつを暴かれて動揺している、わけではなく、なに馬鹿なことを言ってるんだ、の、は。
それで、天国は、違うのだとすぐに分かった。土曜にわたしが扉越しに見たものは、わたしの解釈を通した加工物でしかなく、それはきっと、ほとんど幻だったのだろうと悟る。
「……うわ。なんでもない。間違えた」
「うわ?」
「本当になんでもない。今日のことも土曜のこともごめん、気持ち悪かったよね。……あ、でも、ひとつだけ。土曜の天国、めちゃくちゃ可愛かった。どこのワンピースかだけ教えてくれたら、うれしいかも。……いや、うそ。わたし、いま、空気読めない感じだし、気にしないで」
居たたまれなくなり、俯いてしまう。
すると、数秒後、天国はなぜか一歩分、わたしに近づいてきた。目線の先で、天国のつま先が光の中に入る。それでさえ何だか眩しくて、もう帰りたい。
「あれは、セブンスアンドミーの新作ワンピース。ちなみに、土曜、一緒にいたのは兄の友人だよ。古着好きの彼女に贈るもの、一緒に選んでた。四季が何を勘違いしたのかは知らないけど、おれはからだもこころも男で、ただ、可愛い恰好するのが好きなだけだからな」
「あれセブンスアンドミーだったんだ。最高だ。……えっと、教えてくれて、ありがとう。天国が、可愛い恰好するの好きだってことも全然知らなかったからさ、正直かなり驚きはしたんだけど、でも、改めて、何から何まで、ごめんね。つけてごめん。がん見してごめん。……変なこと、聞いてごめん。わたしの奇行は、どうかすべてお忘れください」
「え。いやだ」
思い通りの返事をもらえず、思わず彼を見上げる。そのあいだに、もう一歩、天国はわたしに近づいた。完全に、夕方の光のなかにはいった天国は、何かを企んでいる様子でにやりと笑う。
このひと、天使と悪魔のリバーシブルだったのか。
「ごめんっておれに謝ってきたってことは、四季、反省してるんだよな?」
嫌な予感を抱きつつ、頷く。
「じゃあ、おれのお願い、ひとつくらいは聞いてくれるよな?」
「……わたしに、できることなら」
「まあ、できるだろ」
そして、彼の口から発せられたお願いに、わたしは、盛大な肩透かしを食らったのだった。