ここにふたりの天使が


 天使が、目の前をさっそうと通り過ぎて行った。

 昼下がりの日差しをうけて、ミモレ丈のワンピースがうす緑の光を放っている。
 きめ細かなレース、腰のあたりにはふんわりとしたリボン、祝福と名づけたくなるような、うつくしい光沢感のある生地。金色の髪が踊るようになびいていた。足元では、持ち主が歩くのに合わせて、シャンパンゴールドのバレエシューズが煌めいている。
 羽が生えていないことが不思議なくらいに、そのひとは、可愛かった。

「……いや、そうじゃなくて。……天国、だよね」

 駅前の人混みのなか、かなりの声量で独り言ちてしまう。隣にいた知らないおばさんにじろりと見られて、リズミカルな咳払いで誤魔化した。

【ゆるるんは七位くらいな気がするよ! おりちゃんの一位予想は?♡♡】

 はーと、はーと。高速で文字を打ち、やりとりの最中だった相手に返信をする。
 ちなみに、ゆるるんとは、アイドルを目指している高校生の女の子のことで、このわたくし、最近ようやくお近づきになれた女の子──おりちゃんと、メッセージアプリ上で、アイドルサバイバルオーディション番組の話で盛り上がっていたところだったのだ。
 お話を続けたい気持ちはやまやまだけど、いったん中断。ハート形の銀色ショルダーバッグにスマートフォンを押し込んで、急いで、天使のゆくえを追う。

 街にはいつも、さまざまな天使がおられる。ここでいう天使とは、羽の生えた本物の天の使いのことではなくて、ことに素敵なファッションセンスをもつ可愛い女の子たちのことである。
 今までにも、そういう子たちをじっと見つめたりふり返ったりしてしまうことはあったものの、さすがに追いかけたことはない。

 だけど、今回は、例外も例外だ。
 その相手が、同じクラスの男の子──天国由玖(あまくにゆく)だったから。

 この春、高校二年に進級するタイミングで行われたクラス替えで、天国とは同じクラスになった。それから二か月ほどが経ったけれど、天国とはこれといって接点がなく、今までまともに話したことはない。
 天国は、きどっている風でも別にないけれど、未だに特定のグループには属しておらず、教室では、たいていひとりでいる。
 教室で見ていた天国の髪は、肩にかかるくらいの長さだったし、色だって透き通るような黒色だった。だから、いまわたしが追っている天国の金色の長い髪は、ウィッグかなにかなのだろう。姿勢よく、すたすたと歩いていく彼を追いながら、思う。

 通り過ぎる一瞬、いつもとはまるっきり違う風貌でも、一目で天国だと分かったのは、彼の顔立ちがいっとう整っていて印象的であるからだった。
少なくとも、服装や髪型の違い程度で見間違えたりできないくらいには。
 クラスメイトにあとをつけられているというのに、天国は振り返る気配をみせない。駅前の小さな公園を横切って、古着屋が建ち並ぶ路地をすたすたと歩いていく。一定の距離を保ちながら、わたしは彼の後ろを半ばかけ足でついていく。
 土曜の午後だ。表通りでなくとも、ひと気はかなりある。だけど、天国の後ろ姿は凛としていて、隙がなかった。

 ふいに、天国が立ち止まる。
 彼の右手があがり、横に揺れた。ひかりの薄い路地裏でも、彼の動きにあわせてワンピースの袖はきれいに光る。彼の十メートルほど後ろで、わたしも同じく立ち止まり、天国が手を振った先を探す。相手は、すぐに見つけられた。
 向かいから、背の高いひとが歩いてくる。爽やかな柄シャツにブラウンのズボン──天使に見劣りしないお洒落な装いで、そのひとは、にっこりと笑って、天国に手を振り返した。おそらく高校生ではなさそうな、大人の男のひとだった。
 ほおっと見惚れている間に、天国と彼は合流して、親し気に会話を楽しみながら、すぐそばの建物に入っていった。彼らの姿が中に消えてしばらくたってから、その建物の前まで行く。
 古びた立て看板には、青いペンキで、シャル・ウィ・ダンス、と筆記体で描かれていた。
 硝子張りの扉越しに中をのぞくと、ワンピース姿の天国は、ハンガーに吊るされたままのブラウスを自分の身体にあてながら、連れの男のひとに、幸せそうな表情で笑いかけていた。
 その笑顔が、教室では見たことのない無防備なものだったので、盗み見してしまったことに少しの罪悪感を抱きつつ、不意打ちでときめきつつ、わたしの、ほんとうのほんとうの関心は、また別のところにあった。

 とびきりのワンピースを身にまとって、素敵な男のひとと二人きりで会って、その相手に、学校では誰にも見せないようなとびきりの笑顔を向けるということは、つまり。
 天国は、男のひとが好き、なんだろうか。 
 乱暴な式を頭のなかで成立させると、少し興奮した。身勝手なよろこびがこころの底から、湧き上がってくる。
 男のひとの手が天国の肩に触れる。天国は、彼を見上げてうれしそうに目を細める。その光景を、わたしは扉越しに眺める。
 ずっと眺めていれば、自分がたった今作り上げた式が確かなものになるような気がした。だけど、このままでは、いずれ天国にばれてしまうかもしれず、そうなることは、なんとなく避けたかった。
 名残惜しくはあるものの、もうこのあたりで、と踏ん切りをつけ、店前から去ることにする。
 ふたりから視線を外し、バッグからスマートフォンを取り出す。メッセージアプリを開いて、また駅の方へ向かう。

【一位はなななちゃんでしょ♡ でも、最推しのみゆりにはいけるとこまでいってほしいよね、というかいけ! いくしかないんだよ、みゆり!】

 おりちゃんから届いていた熱いメッセージにくすりと笑っていたら、意識はおのずと彼女とのトーク画面に戻る。
 天国が、扉からわたしの姿が切れる間際、こちらの方を見たことに、気づくことはなかった。


 月曜日、教室に入ると、すでに天国の姿があった。
 金髪でも、ワンピース姿でもない。クラスの男の子たちと比べるとやや長めの黒い髪を耳にかけて、学ランに身をつつんだ彼は、窓際の席で頬づえをついて、退屈そうに窓の外を見ていた。
 その横顔は、土曜と同じく、うつくしかったけれど、彩度だけが、わずかに落ちている。ひょっとすると、土曜の昼下がり、突如、天使としてわたしの前に現れた天国は、ほんのりとお化粧もしていたのかもしれない。

 教室の後ろの扉付近で突っ立ったままひとり、名探偵を気取っていたら、「すーみ!」と呼ばれ、わたしの関心はあっさりと天国から声の主へ向かう。わたし、四季(しき)すみののことを、すーみと呼ぶのは、ひとりしかいない。

「ぐもにん、おりちゃん」

 黒板のところにいたおりちゃんは、同じグループの女の子たちと落書きをしていたようで、指先にチョークの白い粉がついているのが遠目からでもわかった。

「興奮して、寝不足! なななちゃん、二位だったし!」

 グループから抜けて、わたしのところまで来てくれた彼女は言う。昨夜、アイドルサバイバルオーディション番組の最新話が配信されたのだ。もちろん、わたしもリアルタイムで配信を見ていた。

「ね! みゆり、脱落せずに済んでよかったね」
「ほんとうにそれ。だめかと思ったから、正直、号泣したよね。すーみ、廊下で話す?」

 頷いたら、おりちゃんがようやく自分の指先についていたチョークの粉に気づいたのか、はにかみながら、白くなった指を重ねてハートを作り、わたしに見せてきた。
 そんなことをしてくれるなんて思いもしなくて、どういうリアクションをとるべきか分からず、動揺して、下手くそなウインクをお返ししてしまった。

 織江 絹花(おりえ きぬは)。だから、おりちゃん。
 分け隔てなく、みんなに愛想がいいひとのことを八方美人だとするいじわるな世界からも、おりちゃんは逃れられる。そういう女の子。
 もちろん、ルックスに非の打ちどころがないという幸運もあるだろうけれど、そんなことが何になるの、とみんなに躊躇せず手を差し伸べてしまえるような屈託のなさと嫌みのない愛嬌がおりちゃんにはあるのだった。
 一年生の頃から、廊下で見かけるたびに可愛いなと思っていたけれど、クラス替えで同じクラスになってからは、おりちゃんの一挙手一投足に、可愛すぎるよ、と少ししびれている。

 親睦もかねて、とにぎやかな男の子たちが春に企画してくれたクラス会のあと、どさくさに紛れてSNSのアカウントで、わたしはおりちゃんとつながることに成功した。
 一か月ほど前、おりちゃんの投稿で、彼女がアイドルサバイバルオーディション番組にはまっていることを知り、勇気を振り絞って、それについてのメッセージを送ったことが、おりちゃんお近づき大作戦のはじまりだった。
 だから、わたしとおりちゃんの会話といえば、もっぱらアイドルサバイバルオーディション番組についてのことで、それ以外の話はほとんどしない。
 クラスでは、おりちゃんは派手派手一軍グループに属している一方で、わたしは天国と同じく、どのグループにも属していない。だからといって、別にいじめられているわけではなく、必要に応じて、色々なグループに入ったり入らなかったりしながら、気ままな海月のように、女の子たちのあいだをふらふらしている。

 土曜午後の天国尾行事件があったあとも、おりちゃんとは夜更けまでメッセージアプリ上でやりとりをしていたけれど、おりちゃんは、昨日の夜の最新話の興奮がまったく冷めていないまま登校してしまったのか、その熱量はすさまじく、目をぱちぱちさせながら饒舌に話す彼女は、とても可愛い。

 アイドルサバイバルオーディション番組では、参加者の女の子たちがアイドルを目指しながら、番組内で課されたステージに挑む姿が映されて、それを見たプロのアーティスが様々な項目に分けて彼女たちを審査をする。
 その審査の結果に応じて、回を重ねるごとに女の子たちが脱落していき、最後の五人に残ることができた子たちだけがアイドルになれるという厳しくて熱い番組なのだ。
 昨日はちょうど、審査の結果が発表される回で、おりちゃんが推している女の子の順位があがり、ぎりぎり脱落を免れた。よくやったみゆり! と、わたしはおりちゃんが喜んでいる姿を頭に思い浮かべながら画面越しに、みゆりの頭をよしよし撫でた。

「すーみの、ゆるるんが七位っていう予想もあたってたよね! さすがだよ、あなたは」
「でも、ゆるるん、まったく納得してなかったね。ちなちゃんに負けて悔しそうだった」
「わたしは一位以外いらないんでって強気宣言してたし。あれについて、ネットでちょっとネガティブな言葉見かけたけど、わたしはすごく好きだなあ、遠慮して何になるのって思うもん」
「わかる! わたしもゆるるんの強気宣言、かなり推せた。てか、おりちゃん、今日のヘアピン、可愛いね、すごい似合ってる」
「ありがと、うれしい。すーみに褒められると、何でもね、間違いないって思える」
「なにそれ。……可愛い」

 少しどきどきしながら、可愛い、だけをもう一度言う。
 おりちゃんは、ウェーブのかかった自分の前髪を左右で留めている、銀色の個性的なピンを指さして、これ百円なんだよ、最高のお買い物しちゃったよね、と内緒を打ち明けるみたいに教えてくれた。
 どきどきする。
 だけど、わたしのどきどきは、きっとおりちゃんにはまったく気づかれていない。
 廊下の窓を開けて、並んで窓額縁に肘をついて、中庭を見下ろしながら、アイドルサバイバルオーディション番組の話を続ける。
 何度も、おりちゃんの横顔を盗み見る。
 寝不足だって言っていた彼女の肌はつるんときれいで、目元にも影はない。服越しにくっついている肘に、どきどきは増す。おりちゃんは、何にも気づかずに笑っている。林檎をあまく煮詰めたようないい匂いがする。
 可愛いなあ、と思う。

「すーみ、わたしの話、聞いてくれてる?」

 ぼんやりしていた。というよりは、盗み見ることに失敗して、完全に見惚れてしまっていた。あわてて、うんうん、と頷くと、おりちゃんがまた、楽しそうに話し出す。
 本当に、可愛い。可愛くて、胸がちょっと痛い。
 結局、おりちゃんとは、ホームルームが始まる直前まで廊下で話し続けた。


 最近のわたしの脳内は、おりちゃん、おりちゃん、アイドルサバイバルオーディション番組、可愛いお洋服やアクセサリ、だったけれど、土曜の午後から、そこに天国由玖も仲間入りしていた。
 自分の席からは、天国の席を観察するのは容易く、窓の外でも眺めるような態度で、彼を視界におさめることができる。
 休み時間、天国は、何度か他のクラスメイトと話していたけれど、別に素っ気ない態度をとることもなく、当たり障りがない、という言葉がふさわしい様子だった。
 だけど、土曜の昼下がり、扉越しにわたしが見てしまった彼の笑顔とは、クラスメイトに向けるものはやはり明らかに違っていて、どことなく壁を感じる。

 あまりにも、わたしがじっと見すぎてしまっていたからか、一度だけ、天国は振り返り、わたしを見た。頬杖をついたまま、わたしはあえて目を逸らさずにいた。
 天国は、いち、に、とカウントできるようなスローの瞬きを数回落とし、視線をわたしからあっさりと外した。だけど、そのあとも、わたしは彼から目を離さなかった。
 土曜にわたしがワンピース姿の天国を見かけてしまったことを、天国は知らないはずだと思っていながらも、そのことについて、彼と話してみたかった。時間の経過とともに、その気持ちは増す一方だったけれど、事が事であるだけに、単刀直入に尋ねることにも抵抗があり、うまい切り出し方が分からない。

 窓際の天国を観察すればするほど悩ましさは募り、もやもや星人と化して迎えた放課後。
 持ち帰る教科書をリュックサックに詰めていたら、「四季」と、後ろから名前を呼ばれた。相手を推測することもなく振り返れば、わたしをもやもや星人にさせた張本人の天国がいて、思わず、「い!」と無意味な返事をしてしまう。

「土曜のことで、ちょっと話したいんだけど」

 土曜、の単語が天国の口から出たことで、あのとき、すれ違ったことに気がついたのは、わたしだけではないのだと分かった。話したいと強く思っていたのに、いざその機会があちらの方から巡ってくると、少し怖気づいてしまう。
 慎重に頷くと、天国は黙って教室の扉に向かって歩き出した。すでに黒のリュックをかついでおり、帰り支度を済ませたあとらしい。ついてこい、という意味だと思い、あわてて自分のリュックに残りの物を詰め込んで、天国のあとを追う。

 天国は、誰もいない屋上前の踊り場まで行き、そこで足を止めた。大きな窓から西日が差し込んで、床に水たまりみたいに光が集まっている。わたしも天国もその中には入らずに、向かい合う。
 着ている服も、髪の色も長さも、靴だって違うけれど、天国は天国だから、いつもきれいな顔をしている。ただし、いま、そのきれいな顔は、当たり障りのない表情、ではなく、明確に、不機嫌そうだった。

「四季、おれに何か言いたいことがあるなら、言って」
「……言いたいこと?」
「今日、すごい見てきただろ」
「気づいてたんだ、とかは、うん、通用しないよね。めちゃくちゃ見てました。ごめん」
「どうせ、土曜のことだろ。尾行したよな、お前」

 まさか尾行まで気づかれていたなんて。
 自分の予想を上回るばれ具合に、目を丸くしたら、ふん、と鼻で笑われた。

「サルでも気づくぞ、あんなへったくそな尾行」

 ヘッタクソナビコウ。
 土曜は天使かと思った人物に対して、悪魔だったのか、と自分のしたことは差し置いて少し思う。
 ここ数日で、知らない天国由玖を二度見ることになり、出会い直しの直しをさせられている気分だった。

 天国は、横髪を耳にかけて、「で、」と、顎を少しあげ、首をかしげた。

「学校のみんなに言いふらしたいの?」
「いやいや、違うよ!」
「じゃあ、なに? ただの人間観察か?」
「いや、ただ、聞きたいことがあって」

 なんだよ、と天国が眉をよせる。
 単刀直入すぎるとか、彼を傷つけてしまう可能性だってあるとか、そういう常識や思いやりに勝る関心が、いまはもう、わたしの中で生まれてしまっていて、それは限りなく、願いに近いものだった。

「天国ってさ、……男のひとが、すきなの?」

 聞きながら、自分に聞いているみたいで、胸が、波打った。

 天国は、さらに眉間にしわをよせて、
 「……は?」
 と、言った。
 しんじつを暴かれて動揺している、わけではなく、なに馬鹿なことを言ってるんだ、の、は。
 それで、天国は、違うのだとすぐに分かった。土曜にわたしが扉越しに見たものは、わたしの解釈を通した加工物でしかなく、それはきっと、ほとんど幻だったのだろうと悟る。

「……うわ。なんでもない。間違えた」
「うわ?」
「本当になんでもない。今日のことも土曜のこともごめん、気持ち悪かったよね。……あ、でも、ひとつだけ。土曜の天国、めちゃくちゃ可愛かった。どこのワンピースかだけ教えてくれたら、うれしいかも。……いや、うそ。わたし、いま、空気読めない感じだし、気にしないで」

 居たたまれなくなり、俯いてしまう。
 すると、数秒後、天国はなぜか一歩分、わたしに近づいてきた。目線の先で、天国のつま先が光の中に入る。それでさえ何だか眩しくて、もう帰りたい。

「あれは、セブンスアンドミーの新作ワンピース。ちなみに、土曜、一緒にいたのは兄の友人だよ。古着好きの彼女に贈るもの、一緒に選んでた。四季が何を勘違いしたのかは知らないけど、おれはからだもこころも男で、ただ、可愛い恰好するのが好きなだけだからな」
「あれセブンスアンドミーだったんだ。最高だ。……えっと、教えてくれて、ありがとう。天国が、可愛い恰好するの好きだってことも全然知らなかったからさ、正直かなり驚きはしたんだけど、でも、改めて、何から何まで、ごめんね。つけてごめん。がん見してごめん。……変なこと、聞いてごめん。わたしの奇行は、どうかすべてお忘れください」
「え。いやだ」

 思い通りの返事をもらえず、思わず彼を見上げる。そのあいだに、もう一歩、天国はわたしに近づいた。完全に、夕方の光のなかにはいった天国は、何かを企んでいる様子でにやりと笑う。
 このひと、天使と悪魔のリバーシブルだったのか。

「ごめんっておれに謝ってきたってことは、四季、反省してるんだよな?」

 嫌な予感を抱きつつ、頷く。

「じゃあ、おれのお願い、ひとつくらいは聞いてくれるよな?」
「……わたしに、できることなら」
「まあ、できるだろ」

 そして、彼の口から発せられたお願いに、わたしは、盛大な肩透かしを食らったのだった。




 自分の部屋に他人をいれたのはいつぶりだろうか。
 少なくとも、高校生になってからは一度もいれていないし、男の子をいれることなんて、この先も一生ないだろうと思っていた。

 視界いっぱいに見慣れた壁の模様が広がっている。後ろでは、五分ほど前から衣擦れの音がしていたけれど、もういいよ、と、いまようやく許可が出た。
 振り返る。そこには、セーラー服を、やや窮屈そうにしながらも、可憐に着こなし、不敵な笑みを浮かべた天使、ではなく、天国がおられた。

「どうだよ」
「………くやしい」
「はい?」
「……最高で、悔しいよ! 天使すぎる」
「何だそれ。想定外のリアクションだな。まあ、それならもっと褒めてくれてもいいぞ」
「いや、本当に。天国、めちゃくちゃ可愛い! どうしよう、可愛いすぎるね」

 この高校のセーラー服が着たいから、四季のを貸してほしい。

 踊り場でそうお願いされたときは、何を言ってるんだこの男、と身構えた分、脱力しながら思った。
 さすがに、校内は嫌で、わたしの家まで来てもらうことになった。正直なところ、セーラー服を着た天国をこの目で確かめる瞬間までは、ひたすらげんなりしていたのだが、いま、天国のあまりの可愛さに、そんなことは一瞬で吹っ飛び、不覚にも興奮してしまっている。
 それこそ、街で天使を見つけたときのように。

 わたしと天国では身長差もそれほどなく、サイズに心配はなかったけれど、彼、予想をはるかに上回る素晴らしい着こなしをされている。
 天国の方も、部屋にある全身鏡で自分の姿を確認して、スカートをひらひらさせながらくるんと一回転なんかして、浮かれている様子だ。

「いっこ、夢かなった。やっぱり、おれに似合うな」
「似合う!」
「四季すみのさん、尾行してくれて、どうもありがとう」

 興奮冷めやらぬまま、どういたしまして! と言いかけて、踏みとどまる。

「……それは、ちょっと待って。どういうこと? ……え、ぜんぶ、罠だったとか?」
「待て待て、違う。隣の街だったし、知り合いなんていないだろうし、いてもおれだってことはばれないだろうって、土曜はふつうに油断してたよ。でもお前にばれたから。言いふらされると鬱陶しいなと思って声かけたけど、そういうんじゃないんだってわかって。おれの土曜の恰好も可愛いって褒めてくれて。結果的に、相手が四季でラッキーだったってことだよ」
「……後半のラッキーが何なのかよく分からないのだけど」

 セーラー服の天国は、彼に制服を貸すため、すでに私服に着替え直していたわたしを指さして、「要するに、四季。その服も、めちゃくちゃ可愛い」と言った。
 いま着ているのは、お気に入りのセレクトショップでお小遣いをはたいて買った「花束と魔女」という名の黒のワンピースで、胸元のところやスカートの部分に色とりどりの花の刺繍が施されている。大好きな一着だ。

「春に、クラス会があっただろ。そのときの私服見て、四季ってファッションセンスいいんだなって思ってたから」
「そのとき言ってくれればよかったのに」
「おれって人見知りだから?」
「どこがですか? ……まあ、でも、もうこの際だから言っちゃうけど。わたしも、実はね、同じクラスになってから、天国にちょっとだけ親近感抱いてたよ。わたしと同じで、ひとりでも平気でいるひとだなって。それだけだけど」
「別にそんなこともないけどな。ただ、仲良くする相手をかなり選ぶだけで」
「ふぅん?」

 なんだ、なんだ。
 昔からの仲のように、気さくに話せてしまっているじゃないか。それも、自分の部屋で、自分のセーラー服を着たクラスメイトの男の子と。
 冷静に考えれば奇妙だが、どういう状況であれ、自分が身につけているものやファッションセンスを褒められるとうれしいのは、お互い様らしい。
 天国の声でつくられた「可愛い」という言葉は、今までの人生の中で、時折、男の子から押し付けられてきた「可愛い」とは違って、どこを切ってもその言葉通りであるように感じた。

「そういうことなら、天国由玖くん、話は変わってきちゃいますね」

 踊るようなステップで、部屋のクローゼットを開ける。くるんと振り返り、天国にウインクまでしてしまうのだから、わたしは単純だ。だけど、わたしは自分の単純さがそこそこ好きだ。

「天国に似合う服、たくさんあるかも。着てみる?」
「……いいの?」

 ここにきて遠慮してみせた天国が可笑しくて、少し笑ってしまった。

 それから、わたしと天国は、夕方のあやしい光に照らされた部屋で、束の間のファッションショーを楽しんだ。天国によりお洋服の新しい組み合わせ方もいくつか見つかり、大いに盛り上がり、彼を尾行してよかったなとわたしだって思ってしまった。
 部屋に散らかしたお洋服たちをふたり、一枚ずつ丁寧に畳んだりハンガーにかけたりしていたら、そういえば、と天国が切り出す。

「土曜に、おれが入った古着屋、四季も好きだと思うよ」
「……シャル・ウィ・ダンス?」
「うん、そう。行ったことあったか?」
「ないない。え、行きたい。今度、一緒に行こうよ」

 深く考えることなく流れで誘ってしまってから、今の発言は大丈夫だったかなと不安になった。だけど、天国は特に気にする様子もなくスカートの皺を伸ばしながら、「いいよ」と頷いた。

「メッセージアプリ、クラスのグループから天国のアカウント追加していい?」
「どうぞ」
「……誘うとき、踊りませんか? って言うね」
「じゃあ、おれもそうする」

 面倒なことになりそうだったので、両親が仕事から帰ってくる前に、天国には出て行ってもらうことにした。わたしは家の前で、学ランに身をつつみ直した天国の背中が消えるまで見送った。

 そのうち、少し冷静さを取り戻し、土曜から今までに、わたしと天国のあいだで起こったことをひとつひとつ考えてみた。
 すべてが急で、取りこぼしていることはどうしてもあるだろう。だけど、天国と距離を縮められたことは結果としてうれしいことだと思った。同時に、穏やかな落胆もあった。

 もしも、天国が男の人を好きであったなら、恋について話してみたかった。
 おりちゃんのことが、恋愛として好きなんだけど、どうしたらいいかな。天国は、どうやって、相手にアプローチしているの。
 人目も憚らず、自分の恋について口にして、真っ当に盛り上がることができるひとたちのようにはいかなくてもいい。だけど、わたしも、自分を偽らなくても済むような相手と、恋のお喋りを一度くらいはしてみたい。




「天国は、今日も天使だね」
「四季もな」
 これは、わたしたちのご挨拶。

 天国にセーラー服を貸したあの日から、二週間ほどが経った。
 いつの間にやら、わたしと天国は、高校の休み時間や、メッセージアプリ上で、有益なファッション情報の交換だけでなく、くだらない会話まで楽しむような仲になっていた。

【この土日、どちらかで踊ろうよ?】

 昨晩送ったメッセージには今朝、【踊るなら今日がいい】と返信がきていた。今は、土曜の午後一時半で、わたしと天国は、隣町の駅の北出口の前で向かい合っている。
 天国は、モネの睡蓮を思わせるようなシアーカットソーに、緑色のロング丈のプリーツスカートを合わせている。今日のウィッグは、ブラウンのボブだ。
 一方、こちらは、赤色チェックのミディ丈ワンピースにオフホワイトのタイツを合わせ、頭にはクリーム色の毛糸のボンネットをかぶってきた。
 踊るとはつまり、天国に教えてもらった古着屋へ一緒にいくということ。
 来週の土曜までにどうしても最高のデート服を揃えておく必要があったわたしは、シャル・ウィ・ダンスで何か掘り出し物でも見つかれば、と、思い切って天国を誘ったのだ。

 デート。
 なんていい響きだろう。
 しかも、その相手は、おりちゃんである。

 三日前、おりちゃんに、アイドルサバイバルオーディション番組と近くのカフェがコラボしていることを教えてあげたら、彼女の方から、来週末ふたりで一緒に行きたいな、と誘ってくれたのだ。はっきり言って、三日前からずっと浮かれっぱなしだ。
 天国とシャル・ウィ・ダンスに向かいながら、うっかりスキップしてしまったら、「本当に踊るつもりかよ」と、彼には呆れた顔をされた。
 
 シャル・ウィ・ダンスの扉を開けて、天国に続いて中に入る。ひんやりとした森みたいな匂いがした。そんなに広い空間ではないけれど、服がいっぱい並んでいる。
 ぱっと目についた、ベロア生地の海色ロングスカートをハンガーラックから取り出して、照明にかざしてみる。いいなと思ったけれど、七千円を超えていたので、小さな海には早々とお別れを告げて、そっと元の場所へ戻した。
 天国は、千鳥柄のプリーツスカパンの値段を確認している。

「わたし、来週、おりちゃんと遊びに行くんだよ、めちゃくちゃ楽しみ」
「おりちゃんって、同じクラスの織江のこと?」
「そう! だから、スペシャルなお洋服を見つけたいの」
「織江とか。いいな」
「いいな?」
「クラス会で、いちばんお洒落だなと思ったのが、織江だったし。あ、四季のファッションセンスが最高って思ったのも本当だよ。あと、佐原も、おれのすごい好きなブランドの洋服めちゃくちゃ個性的に着こなしていてテンションあがったんだよな」
「天国的には、クラス会のファッションはおりちゃんが優勝だったってこと?」
「うん。あくまで、おれの好みだけど」
「分かる。おりちゃんは、優勝」

 天国と、おりちゃんの話で盛り上がる。
 彼はひそかに、おりちゃんが学校に身につけてくるヘアアクセサリにも注目していたみたいで、同じだったからテンションがあがった。
 最高のデート服を探しに、シャル・ウィ・ダンスを訪れたはずが、途中で、おりちゃんに着てほしい服をそれぞれ見つけて発表しあう時間なんかもあった。

「おりちゃんとわたしはね、今、アイドルサバイバルオーディション番組に夢中なんだよ」
「なにそれ」
「アイドルになるために、女の子たちが燃えてる番組」
「熱そう。おれも見てみようかな」
「いや、たぶん、そんなに天国は興味ないと思うし、見なくていいよ。来週が最終回だし」

 おりちゃんについては話したいし、自慢だってしたいのに、おりちゃんとのあいだにある唯一のものは、天国と共有したくない。自分自身の可愛げのなさに苦笑いしてしまう。
 とうてい独占できないものにも、独占欲は生まれる。

 二時間ほど店内を見て回り、さんざん迷って、すみれ色のシャーリングワンピースを一枚買った。
 首と腰のところにある蔦のようなうすい緑色のリボンが個性的で、長袖ではあるもののシアー素材なので季節をまたいで着れそうなところも魅力のひとつ。天国も絶賛してくれて、おれが先に見つけたかった、と悔しがっていた。

 高揚した気分のままシャル・ウィ・ダンスを出る。
 これからどうするんだろうと思っていたら、天国のほうから「甘くて冷たいものが食いたい」とのリクエストがあったので、わたしたちは、出店でジェラートを買って、駅構内の見晴らしのいい広場でひとときを過ごすことになった。
 ベンチに並んで腰かけて、ひんやりとしたジェラートをちびちびと口に運びながら、前を通り過ぎる女の子たちを観察する。

「今、通ったひとのバッグ、白い犬のぬいぐるみみたいだった。きっちりしたセットアップと合わせるセンスがすばらしいね」
「おれも、思った。あっちの柱のところで突っ立ってるひとのスカートもすごい可愛いぞ」
「うわ、本当だ。天使がおられますね」
「……いまさらだけど、四季がいう天使って何なの? おれにも言うから、なんとなくで合わせてたけど。お前にだけ、羽とか見えてるのか?」
「本当にいまさらだね? 羽は見えてない。天使っていうのは、簡単にいえば際立った存在の可愛さのことだよ」
「概念なのか」
「うそ、ちょっとかっこつけた。可愛いお洋服を着た可愛いひとのこと」

 女の子、とは言わなかった。
 いまはもう、からだもこころも男である、可愛い恰好が好きなだけのひとを知っている。そして、そのひとは今わたしの隣にいて、まぎれもなく天使であられる。

「よかった。おれが考えてたのと一致してた」
「天使ウォッチング、楽しいね」
「勉強にもなる」
「あ、もうひとつ。わたしの思う天使はね、ぴんと背筋が伸びてる。本当かどうかは分からないよ、でも、この世界に存在しているのが誇らしいですわって、姿勢のよさで見せつけてくるの」
「その条件、いいな。おれの考えてた天使の定義にも追加採用させてもらうわ」

 ジェラートをすくう。吹き抜ける風が頬にあたって気持ちよかった。どきどきはまったくしない。だけど、つまらない平穏ではない。
 街の天使から、隣の天使に目をやる。きれいな横顔は、天使ウォッチングをひとり続行中だ。

「天国はさ、可愛い恰好、いつからしてるの?」

 ふいに聞いてみたくなった。聞いてみてもいいかなと思った。

「高校に入って少し経ってから。でも、ときめいてたのは小学生のころからだな。もどかしい数年間を過ごしたわけだよ」
「最初に可愛い恰好で街を歩いたとき、怖くなかった? 周りの目とか、どう思われるかとか。……だってほら、あんまりいないじゃん、男の子で可愛いお洋服を着るひと。わたしは天国がはじめてだったから」
「でも、あの日のおれ、相当可愛かっただろ?」
「それは、もう。可愛すぎたんだけどね」
「お前は、一度もおれに、女装とは言わないよな」

 そう言って、天国は横目でわたしを見て、ほんの少しだけ口角をあげた。すぐに天国の視線は逸れたけれど、微笑みはそのままだった。
 わたしは、天国がゆっくりとジェラートをすくい口元までもっていくのを、なぜかじっと見つめていた。

「最初は、怖かったよ。だから、なかなか好きな恰好だってできなかった。それに、別に、いまもまったくひとの目が気にならないわけではない。そういう格好をしはじめたばかりのときは、電車で知らないやつらに笑われたことだってあるし。おまえに見つかったときも、おれ、内心、少しだけびくびくしてた」
「……あの日、そんな感じは全くしなかったけど」
「もちろん、表には出さない。びくびくした分だけ、胸をはるのがおれの美学だから」

 それに、と、天国が言葉を続ける。

「ある日、大好きなブランドから出たスカートがショーウィンドウ越しに、おれにこう言った気がしたんだよ」

 天国の作り物のブラウンの髪が微かになびく。
 彼はゆっくりとこちらに顔を向けて、芝居の最中のようなきりっとした表情をつくった。

「恐れるな。このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?」

 不意打ちの爽やかさにこころを貫かれる。

「……その、スカートは、男の子だったの?」
「どうだろうな。知らない。でも、おれはそれで、自分の好きな恰好を自分がしたいときにしてやろうって」
「……もう一回」
「ん?」
「もう一回、言って。恐れるな、のつづき」
「はは。気に入ったの? いいよ」

 天国は、一度目よりも大袈裟にきりっとした表情をつくり、顎をくいっとあげて口を開く。

「恐れるな。このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?」

 芝居くささに拍車がかかっていたから、ツボにでも入ったのだろうか。自分のことなのに、分からない。でもあまりに可笑しくて、気がついたら、腹の底から笑っていた。天国もつられたのか、くしゃりと破顔する。
 笑っているうちに、なぜか視界がぼやけていく。そこからはまるで雪崩のように、目に映るすべての輪郭がほどけて、ほどけて、笑っているはずなのに、いつの間にか涙が止まらなくなった。

「は? 急になんだよ」
「わ、から、ない」

 お化粧をしていたけれど構わずに目元を擦って、はは、と笑う。不明瞭な視界の先で、天国が、狼狽えているのが分かった。
 ぎこちない仕草で、天国は、自分の分のジェラートをスプーンにすくい、わたしに差し出してくる。その即席の思いやりに、また笑う。遠慮なくスプーンを口に含んで味わっていたら、ようやく笑いも涙もおさまった。

 それからしばらく、わたしたちはお互いに口を開くことなくジェラートを黙々と食べながら、駅構内をひとが行き来するのを見ていた。
 ひとの波が落ち着いたころに、四季、と天国がわたしを呼ぶ。うん、と、隣を見ないまま、返事をした。

「はじまりはどうであれ、おれ、お前とこうしていられてよかったよ。まさか、同じ高校でそういうやつに出会えるなんて思ってなかったし」
「天国」
「うん?」
「また、セーラー服、着たくなったら言ってね。わたしが貸すから」
「どうも」

 心地のよい低い声に、わたしは浅く頷いた。





 スマートフォンのカメラで連写する音が、真横から聞こえる。
 なにごと、と、隣に目をやると、推しのみゆりの等身大パネルと一緒に自撮りをしているスペシャルスマイリーおりちゃんだった。
 いたく興奮している彼女は、いつもに増して光を放っている。気を抜いたら、大粒のラメ入りのアイシャドウを慎重に重ねた瞼の真ん中あたりが、少しだけ沈んで、わたしの目は本当にハート型になる。

 午前十時半きっかりに、おりちゃんこと、わたしの好きなひとは、待ち合わせた駅の改札に可憐に降り立った。二十分ほど前から待機していたわたしは、こちらに手を振り駆け寄ってくる圧倒的な天使を前にして、敗北者のぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。
 おりちゃんは三匹の仔猫がプリントされたクリーム色のTシャツのうえに、不規則なフリルの切り返しが入ったキャミワンピースを身にまとい、つるんとした黒色の厚底ローファーを履いていた。
 肩には、シンプルなベロア生地のポシェットをかけていて、なんといっても、わたしの目を奪ったのは、丁寧に三つ編みされて白いリボンで結われた髪と、ブラウンレッドのルージュが彩られぷるんとした唇だった。
 あまりにどきどきして、いつも学校でさりげなく伝えているみたいに「可愛い」と口にできなかった。そんなわたしの腕をとって、おりちゃんは魅惑の唇をひらいて言ったのだった。

「すーみ、すみれの妖精みたいで可愛いね」

 わたしは、天国と一緒にシャル・ウィ・ダンスに行ったときに買ったワンピースを着てきていた。
 おりちゃんに先に褒めさせてしまったことは悔しかったけれど、わたしの顔を覗き込む彼女の可愛さは、一瞬でわたしの世界のすべてになり、「おりちゃんも妖精の女王だよ」となんとか答えるので精一杯だった。

 コラボカフェの入口のところで自撮りを続けるおりちゃんに、「みゆりより、おりちゃんのほうが身長高いんだね」と声をかける。

「すーみも、一緒に撮ろうよ」
「わーん、お邪魔していいの?」
「当たり前でしょ。すーみみたいなかわいい子と撮れたらさ、みゆりだってきっとパネルの中で喜ぶはずだよ」
「……ずるーい」
「えー、ずるいって何が?」
「……なんでもなーい」

 パネルに印刷されたみゆりを、わたしとおりちゃんで左右から抱き着くようなかたちで記念撮影をした。その場でおりちゃんがエアドロップで送信してくれたので、スリーショットを永遠の家宝にしようと決める。
 コラボカフェの店内は、かなり混み合っていた。アイドルサバイバルオーディション番組で女の子たちが着ていた制服のコスプレをした店員さんに、窓際の席に案内されて、おりちゃんと向かい合って座る。

 わたしはゆるるん、おりちゃんはみゆり。それぞれ推しているメンバーとコラボしているスイーツと紅茶のセットを注文した。
 おりちゃんはテーブルに肘をついて、身を乗り出すような体勢でにこりと笑う。わたしは、それをもろに心臓の芯に食らう。

「昨日の夜ね、すーみと行くの楽しみだなあって思ったら、あんまり眠れなかった」
「……そんなのわたしのほうがだよ」
「そう? 明日、いよいよ最終回だよ。みゆりも、ゆるるんもアイドルになれるといいなあ」
「祈るしかないですな」
「ふふ。そうですなあ」

 ずっと、どきどきしている。
もうすでに、すごく楽しい。
コラボカフェが楽しみだったからだって分かっている。分かっているけれど、もしも、おりちゃんが、わたしと今日会うことそのものが楽しみで眠れなかったんだとしたら、わたしはそっとおりちゃんに手を伸ばしてみてもいいんだろうか。

 注文したセットが運ばれてきて、ぱしゃぱしゃと写真を撮る。おりちゃんも写るような画角で撮ろうとしたら、気づいたおりちゃんが顔をくしゃりと歪めて、かわいい変顔をしてくれた。
 それがあまりに尊くて、結局、おりちゃんを写しては撮れなかった。
 これまでの番組の配信を振り返りながら、最終的に選ばれそうな女の子について、周りのひとたちに配慮しつつ、小声で話す。おりちゃんは終始身を乗り出すような体勢で話してくれて、わたしは相槌を打ちながら、彼女の長い睫毛を真剣に見つめていた。
 昼頃になるとさらに店内は混雑してきて、店前には短い列ができていた。わたしもおりちゃんも、紅茶とスイーツをすっかりお腹におさめてしまってからも、かなり居座ってしまっていたので、名残惜しかったけれど、お店を出る。

 あっという間の数時間だった。
 満ち足りた表情で歩くおりちゃんに、ちらりと目をやる。
 まだ、一緒にいたい。
 このまま解散するのは、とても寂しいし、切ない。
 気の利いた提案はできそうになかったけれど、おりちゃんを退屈させないようなお遊びのアイデアを、なんとかひねり出そうとしていたら、いつの間にか、わたしの少し先を歩いていたおりちゃんが、突然、ぴたりと足を止めた。それから、くるんとキャミワンピースの裾を揺らめかせながら、振り返る。
 仄かに、甘い匂いがした。

「カラオケ、行かない? わたし、山盛りポテト食べながら、すーみと歌いたい気分」
「え。……絶対、行く! それはもう地球が滅んでもするしかないよね」
「もう、何それ。でも、よかった。すーみ、カラオケ好きなんだ?」
「大好きだよ」

 あなたのことが、わたし、本当に。


 週末だったからか、駅前のカラオケ屋はかなり混んでいて、二十分待ってようやく、少人数用の狭いカラオケボックスの一室に空きができた。
 ドリンクサーバーでメロンソーダをなみなみに注いだグラスに口をつけながら、歌詞が表示されている画面を眺める。おりちゃんは、有名なシンガーソングライターの曲を歌っている。
 テーブルの上には、山盛りのポテト、烏龍茶が注がれたおりちゃんのグラス、おりちゃんのスマートフォン、真横には、おりちゃん。
 狭いといってもひとが四人は座れるほどの横長のイスなのに、おりちゃんはなぜかわたしにくっついて座った。

 おりちゃんが音楽に合わせて横揺れするたびに、身体が触れる。そこからわたしは発熱してとんでもなくどきどきしているけれど、おりちゃんはまったく気づかずに、可愛い声で、気持ちよさそうに歌っている。
 ちらりと勇気を出して隣に視線を向けたら、おりちゃんの唇とマイクが一瞬だけ微かにくっついた。部屋にマイクは二つあるけれど、わたしが次に歌うとき、それを使って間接キスしたい、と邪なことを考える。
 邪念を振り払うために、ポテトに手を伸ばす。隣から、おりちゃんの手も、伸びてくる。わたしたちは、ほとんど同じタイミングでポテトをかじる。
 おりちゃんが、共犯者みたいな顔で笑いかけてくれる。
 おりちゃんの真似をして、わたしも同じアーティストの曲を歌った。おりちゃんは、すぐそばでポテトをつまみながら、口ずさんでくれた。

 ふたりで交互に曲を選んで、ひとしきり歌って、山盛りだったポテトの器にも底が見えてきた頃。
 おりちゃんが、曲をいれないまま背もたれに寄りかかり、仔猫のスキンシップみたいな軽々しさで、わたしの肩に頭をのせた。

「すーみ」
「……どうしたの」
「ポテトで胃もたれしちゃったよ」
「しちゃったの?」
「うん、しちゃった。わたしのお腹、よわよわなの。でも、それをわたしはすぐに忘れるの」

 おりちゃんは、そう言って、ゆっくりと瞼を閉じた。
 わたしは少しだけ泣きたいような気持ちになりながら、彼女の旋毛を見つめた。
 思わせぶり、とは、思わない。思いたくない。
 でも、期待はしてしまう。
いま、あなたがわたしと同じ気持ちならどれだけいいだろう。これが、みんなにあなたが差し出す手のように平等なものではなく、わたしにだけ向けられる特別であったなら。

 聞いてみようかな、とはじめて思えた。
 おりちゃんは、どういうひとを好きになるのか。どういう恋をしてきたのか、あるいは、してきていないのか。好きな仕草や癖はあるのか。

 おりちゃん、女のひとを好きになったことは、ある?

 おりちゃんが、わたしの肩に頭をのせたまま、もぞりと動く。心臓は、すみれ色のワンピースの下でうるさいくらいなのに、目を閉じているおりちゃんの表情は穏やかで、わたしは、どう聞いてみればいいのか、分からない。
 おりちゃんの睫毛が震える。
 それから彼女は、ゆっくりと目を開けて、何度か瞬きをした。

 「そういえば、最近、すーみ、天国君と仲いいよね」

 声のふるえを肩で直に感じる。だけど、ときめきに変わる前に、ふるえは失墜した。
 あ、と、発声しかけて、ぎりぎりのところで飲み込んだ。膨らんでいた期待は、みるみるうちに萎んでいって、瞬きするたびにカラオケボックスの彩度が落ちていく。

「教室でも、ふたり、よく話してるよね」
「……そう?」
「すーみと天国君ってわかるなあって、うちのグループでも噂してたんだよ。あ、もちろん、いい意味ですからね」
「……はは。なんですかそれは。……てれる。でも、何も、ないんだけどね?」
「そうなの? でも、その声は確かに照れてますなあ」
「……そう、なんですなあ」
「もーう、なにその返し」

 彩度が落ちた世界でも、おりちゃんは可愛くて、可愛くて、可愛い。
 だけど、同時に、ひどい女の子だとも思った。
 触れているところは、熱いし、どきどきしている。でも、いまも、これからも、きっとこの熱やどきどきが、彼女に伝わることなんてないのだと分かった。

 わたしの恋する気持ちは、おりちゃんの世界には存在していない。

「……おりちゃんは」
「うん?」
「おりちゃんは、いま、好きなひと、いるの?」

 気丈にふるまわなければいけないと思いながらも、もうすでに、半ば自暴自棄になっていた。
 おりちゃんが、わたしの肩に頭を預けるのをやめて、体勢を戻す。至近距離で目が合って、口づけだってできそうなのに、どこまでも遠かった。近づくことは、きっと永遠にない。

「内緒だよ?」

 おりちゃんが、立てた人差し指を顔の前にもっていって、はにかむ。その指で、許可なくわたしの腕に触れて、彼女はゆっくりと口を開く。

 波が、引いていくのを、感じた。
 だけど、おりちゃんに触れられたところだけは、ずっと熱いままだった。




「今日、織江と遊ぶ日って言ってなかったか?」

 長いあいだ、何にも焦点を合わせずに、絶え間なく変わっていく景色をぼんやりと眺めたままでいたら、聞き馴染みのある低音がすぐ後ろで聞こえた。
 それで、わたしは、目に映るものの輪郭のひとつひとつを取り戻す。
 振り返るのも億劫で、のけぞるようにして後ろを確認すると、長い金髪に、上品な丸襟の白いブラウスを着た可愛いひとが、むすっとした表情でわたしを見下ろしていた。耳のところで、花の形をした金色のイヤリングが光っている。

「……天国」
「急に呼び出して、何だよ」

 わたしに何が起ころうと、わたしがどんな気持ちであろうと、天国は天国で、あまりにも天使なのだった。
 そのことに、自分でもわけがわからないけれど、安心してしまい、わたしの都合ひとつでは変わらない天国が悔しくもあり、のけぞったまま、「何って。わたし、今から泣いてやるの」と、大きな声で答える。
 天国のむすっとした表情は、視界がぼやける間際で、ぎょっとしたような間抜けなものに変わった。
 引いて驚くのも、無理はない。土曜の昼過ぎに突然呼び出されたかと思えば、呼び出した相手に会った瞬間、大泣きされるのだ。彼は、不憫な天使さまなのだ。
かまわず、わたしはあふれ出る涙をそのままにする。

 のけぞったまま泣いたことなんてはじめてだ。
 失恋は、今回がはじめてではない。でも、おりちゃんへの恋はひとつしかないから、はじめてとも、にどめとも、比べものにはならなくて、あたらしく痛い。

「なんなんだよ、お前」

 可愛いものを堂々と身にまとう天国なのに、賑わいのなかで泣くひとには抵抗があるのか、きょろきょろと周りを見渡している。
 眉間にしわを寄せて頭をかいた天国が涙の層の向こうで、「……とりあえずここから移動しないか」と、困惑の滲む声音でわたしに言った。
 うん、と、泣きながらなんとか返事をしたら、天国が前にまわりこんできて、わたしの腕にやさしく触れた。

「何が何だか分からないし、泣きやんでくれとは言わないけど、号泣している天使はそういない」

 腕を掴まれて立たされる。
 引っ張られるような状態で、天国の後ろをとぼとぼとついていった。
 おりちゃんに触れられた部分を覆うように、天国の指が触れている。発熱は、いつの間にか、終わっていた。それを確認したら、また涙があふれてきた。
 彼の金髪が美しく揺れるのを、間近でとらえる。泣いているからか、煌めくシャンデリアのように綺麗に見えた。

 歩いている途中で、自分がどうして泣いているのか厳密には分からなくなってしまい、ほとんど惰性で泣き続けていたら、いつの間にか涙は止まっていた。
 閑静な住宅街にはいり、少し歩いたところにある平凡な一軒家の前で、天国は足を止めて、わたしの腕を解放した。
 何も言わずに天国が玄関へ向かうので、それに続く。天国が扉を開いて、「ただいま」と言ってようやく、そこが彼の家なのだと理解した。
 天国の声のあと、玄関に近い扉の向こうから、おかえりい、と間延びした声がいくつか聞こえた。
 天国は、履いていたフリルのついたメタリックシューズを、大きさも種類も違う何足かの靴の隣に丁寧に並べて、わたしを玄関に取り残したまま、声がした扉の向こうに消えていった。

 天国と知らないひとの話し声が扉越しに届く。
 天国が可愛い恰好をすることを、天国の家族は知っているのだと分かった。彼は、躊躇いなく自分の履いていた可愛い靴を玄関に並べることができるし、可愛い恰好のまま家族とお喋りができる。きっと、天国は天国のままで受け入れられている。
 わたしの恋は、わたし以外のだれも、知らないのに。

 一度は止まったはずの涙が、また溢れてくる。
 世界にひとりきりだ、ということのむなしさが、急にこころに迫ってきて、太刀打ちできないと感じていたら、天国が戻ってきた。

「何してんの、四季。入れよ。親いるけど、気にしなくていいから」
「……おじゃま、します」

 それでも、わたしは、ひとりきりだった。
 泣きながら靴を脱いで、隅に寄せて並べる。天国の後ろにつづいて階段をのぼり、狭い廊下の突き当りの部屋に入った。

 六畳ほどの空間に、シンプルな勉強机と本棚と、あとは藍色を基調としたシングルベッドが部屋の四隅の三角にそれぞれ配置されている。
 それだけだったら可愛げのない無個性な部屋だっただろうけど、残り四分の一のスペースには、アクセサリやウィッグが置かれたドレッサーと、お洋服が所狭しに並べられたハンガーラックと全身鏡が置いてあり、その一角だけ、可愛さが凄かった。
 孤独感と、それから知らぬ間に生まれた不貞腐れたような気持ちに苛まれたまま、許可をとることなく、ベッドに近づいて、ぽすんと飛び乗るようにしてシーツに顔を埋める。

「泣いていたら、何でもありなのかよ」
「……う、ん」
「うん、じゃないだろ。……まあ、別にいいけど」

 天国は呆れているようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。

 部屋はしばらくのあいだ、沈黙につつまれる。
 わたしはまた途中でどうして泣いているのか分からなくなり、今度は溢れる涙をすぐにシーツが吸い取ってしまうので、惰性で泣き続けることも難しく、それでも顔を伏せたまま、じっとしていた。
 天国のため息がすぐそばで聞こえる。それは諦めに近い音だったけれど、どことなく優しさを孕んでいるような気がした。ごめんね、と、ここまでの愚行をシーツに顔を押し付けたまま詫びる。いいよ、と、天国は少し笑った声で、ゆるしてくれた。
 後頭部に人の肌のぬくもりを感じる。ぽん、ぽん、とあやすように撫でられて、それが彼の手のひらの温度だと分かった。いやらしさの欠片も感じられない撫で方だったけれど、大いにぎこちなく、天国は、きっと今まで人の頭なんて撫でたことがないのだろうと思った。

 そして、わたしは、なぜか乱雑に思い出す。
 天国と駅の構内で隣に並んでジェラートを食べたこと、カラオケボックスの密室で人差し指を唇にあてたときのおりちゃんの照れたような表情、天国が特別な映画のワンシーンのような決め顔で口を開いたときのこと、おりちゃんの指先に触れられた素肌、わたしの恋に終止符を打ったおりちゃんの声。

 ───他校生なんだけどさ、三年ほど付き合っている彼氏いるの、わたし。

 あのあと、わたしは、彼女に何て返事をしたのだろうか。何も思い出せない。だけど、きっとうまくやれていた。せめて、そう願うしかない。
 いま、ゆいいつ確かなことは、わたしの頭を撫でる天国の手のひらが、あたたかいということだけだった。

 あの日から、何度、思い出しただろうか。天国の声やきりっとした表情を頭に浮かべながら。
 恐れるな、このおれより、おまえをときめかせないあいつらか?
 それはしんじつ、いつの間にか、お守りにちかいものに変わっていて、だけど、そのお守りのような彼の言葉はいま、わたしが今まで自分のこころに築いてきた防壁を容赦なく脆くさせた。
 天国に頭を撫でられたまま、わたしはそっと息を吸う。

「……天国」
「ん」
「……ワンピースを着ている天国をはじめて見たとき、追いかけていった先で、天国が知らない男のひとに可愛く笑いかけたとき、わたし、わたしね、あ、仲間だ、って思ったの」
「うん」
「恋についての話を、みんなする、じゃん。みんなじゃないかも、しれないけど。……わたしは、それにいつも混じれない。みんな、いちばんはじめに、好きな男の子いる? って聞くから。聞かなくても、それが前提だって分かるから。……わたしは、男の子が好きじゃ、ない。怖いとか気持ち悪いとかそういうんじゃなくて、ただ、好きじゃないの、好きにならないの。だから、いつもいちばんはじめに、みんなの恋の話から、はじき、だされる」

 天国の手が止まる。でも、触れたままでいてほしかった。いま、ほんとうにひとりきりにされたら、このシングルベッドがわたしの墓になる、とすら思った。
 天国は、わたしの頭に手を置いたまま、「うん」とひとつだけ相槌を打っただけだった。

「……いつか、わたしの、お姫様が、わたしの前にあらわれてくれるのかな。その子も、女の子が好きで、だからわたしのことを好きになってくれるなんて、それは、もちろん、分からない。でもさ、天国」

 天国に、というより、天国の体温に向けて伝えているような感覚だった。

「好きなひとが、おなじように、わたしを、好きになってくれたら、うれしい。どきどきしてることに気づいてくれて、わたしにどきどきしてくれて」
「うん」
「可愛い恰好、……最強にね、可愛いお洋服を着て、ふたりで手をつないで街を歩くの。友達じゃないの。恋人として、いつか。それが、わたしの憧れ」

 言いたいことを言い切った。
 生まれてはじめて、わたしは、自分の気持ちを外の世界へ、声として出した。本当は、天国みたいに、きりっとした表情で言えたらよかったのだろうけど、シーツに顔を埋めてなんとか言い切るので精一杯だった。
 今からでも遅くないか、と思い、そっと顔をあげる。
 おりちゃんと別れて、天国が来てくれてからわたしは泣いてばかりだから、きっとひどい顔をしているに違いないけれど、渾身の決め顔をしてやりたかった。
 だけど、その前に天国が、わたしをじっと見ながら、「どうだろうな」と言うので、出鼻をくじかれる。ただ、そこで終わりではなく、彼はベッドに頬杖をつき、口角をあげて瞬いた。

「恋愛のことは、おれには分からない。したこともないしな。でも、四季は、いまおれの前に確かにいて、それと同じように、お前の未来のお姫様だって、きっとこの星のどこかにいるんだって思うよ。最強に可愛い恰好をしてさ、背筋を伸ばして歩いてる。おれは、いつか、四季とそのだれかが手をつないで歩いてるところに居合わせて、すれ違ったら、ここにふたりの天使が、って思いながら、うっかり振り返ってやる」

 彼の言葉は、すとんとわたしのこころの底に落ちてきて、あっという間にからだを満たした。
 うん、と何テンポも遅れて深く頷いたら、今度は髪を雑に撫でられ、ぐしゃぐしゃにされる。
 何を思ったのか、それからすぐに天国は立ち上がり、ハンガーラックのところまで行き、布らしきものを手にしてまた戻ってきた。

「これは、おれを勇気づけたスカート」
「……恐れるなさん?」
「はは、うん、正解。お前もはいてみろよ、似合うと思う」

 そう言って、手渡されたのは、左右にレトロなリボンがいくつかあしらわれている深緑のギンガムチェックのフレアスカートだった。
 わたしはそれを受け取って、生地の感触を指で確かめた。もう何度も着られていることが、色褪せ具合からは見て取れたけれど、肌触りはすべすべで、天国によってとても大切にされていることが分かった。
 あとこれも合わせると最強だから、と天国が一枚のブラウスをまたハンガーラックから持ってきて渡してくる。わたしはそれを受け取って、シーツのなかを試着室にして、着替えた。
 天国は、着替え直したわたしをじーっと見てから、満足そうにうなずいて、「可愛い」と言った。

「……わたしが今日、着ているワンピースも試してみる?」
「お前がいいなら」
「足りないくらいだよ」
「じゃあ、譲ってくれよ」
「それは、やだ」
「うそだよ、貸して」

 シャル・ウィ・ダンスで買ったワンピースは天国にもよく似合った。
今日会ってすぐのおりちゃんにもらった褒め言葉を思い出してしまい、まだ生々しい痛みがわたしを襲う。
だけどもう、涙は出なかった。

 その後、わたしと天国は、セーラー服を彼に貸してあげた日のように、今度は天国の部屋でふたりだけのファッションショーをおこない、その流れで、わたしが天国に似合うお化粧をすこし教えてあげたりもした。
 わたしは、天国に恋をすることはない。
だけど、彼は、ある日突然、天使としてわたしの前に現れ直して、今日、恋を失ったばかりのわたしに、ひかりのような言葉をくれた。そういうことは、きっと、これからの人生でも、そうそう起こらない、気がする。
 天国の可愛いお洋服に身をつつんで、スカートの裾をつまみ英国貴族のお辞儀をしていたら、ベッドのそばに放置していた巾着ポシェットが音を立てる。
 中を確認すると、スマートフォンにおりちゃんから一件のメッセージが届いていた。

【今日はありがとう♡♡ 楽しかった♡ またいつか遊ぼうね♡♡】

 わたしが泣いたことを、彼女が知ることはない。
 【ありがとう♡♡】とだけ返信して、スマートフォンの電源を落とした。
 明日は、わたしとおりちゃんのお喋りの中心にあったアイドルサバイバルオーディション番組の最終回が放送される日で、それが終わればきっと、わたしとおりちゃんは自然と疎遠になる。そういうことは、なんとなく、分かる。もう一緒に遊ぶことはないと思う。
 少なくとも、わたしは失恋の傷が癒えるまでは、おりちゃんと笑って言葉を交わす以上のことはできそうにない。

「天国、わたしね、今日失恋したの」
「どんまい」
「雑だなあ」
「さっき、充分、泣いているお前を慰めてやっただろ」

 天国が、あたらしく袖を通したトップスについているリボンを結ぶ。彼は、恋なんかよりも、可愛いお洋服に夢中なのである。
 わたしの失恋を認めてあげられるのは、今までわたしだけだった。だけど、今回は違う。はじめて他人とする恋のお喋りのきっかけが失恋だなんて悲しいけれど、悲しいだけではなく、わたしはひとりきりのまま、ひとりぼっちではなくなっていた。

「天国」
「今度は、何?」
「……わたしと、こうしていてくれて、ありがとう」
「……セーラー服、五回分な」
「十回でもいいよ」
「気前がいいですね。……あ、これもおまえに似合うと思う」

 そう言って、彼がウィリアムモリスを思わせるような個性的な植物柄のスカートを、わたしに差し出してくる。
 ───わたし、このひとが大切だな。
 咄嗟に、そう思った。
 家族に対してのものではない。恋でもないし、愛は知らない。自分のなかではじめて生まれたその感情を自分自身で受け止めるのは、欠伸をするのとそう変わらず、思いのほか、容易いものだった。
 わたしは、ようやく少し笑うことができて、差し出されたスカートに手を伸ばす。
 だけど、なぜか彼は眉をひそめて、動きを止めた。

「待て。また泣く気か?」

 この期に及んでまた泣く気などさらさらなかったので、どうして天国がそのような勘違いをしたのか分からなかったけれど、「失恋したてだから、いつまた泣き出すかは分からないよね」と合わせておく。

「どうしても泣きたいなら、今度は胸くらい貸すから、服では拭うなよ」
「ひとの胸では泣かないし」
「のけぞって駅前でわんわん泣いてたやつがよく言うよ」

 天使な恰好で、手厳しく正論を返されたから、悪魔め、と矛盾めいたことを思いながら、唇を尖らせるしかなかった。

 それから、わたしと天国は、窓のそばの陽だまりのなかで、天国のコレクションから、それぞれがお互いのために選び合ったとびきりの可愛いお洋服に身をつつみ、向かい合った。
 同じ光のなかに、わたしと天国のふたりが入り、それぞれきりっとした表情をつくって、貴族のお辞儀を交わす。それは、冗談めいていたけれど、何かの儀式のように特別で、少しそわそわした。

「……天国ってさ」
「なんだよ」
「本当に、可愛いよね」
「当たり前だろ。あと、言っておくけど、四季も最高に可愛いから」

 わたしと天国の関係が友達と呼べるようなものなのかどうかは、分からない。

「天使?」
「お前もおれも、そういうことになるよな」

 だけど、友達、よりも、そう。
 いまのわたしたちの間柄に名前をつけるなら、天使同盟、くらいがきっと妥当だ。
                         

 了

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