La vie en rose 〜人生の夜明けはパリの街で〜

 ポロポロと涙が止まらない美玲。
「岸本さん、大丈夫か?」
 そっと美玲の涙を拭う誠一。
「私……色々限界だったみたい……」
 美玲は俯く。
「そっか。無理にとは言わないけど、話したら少しスッキリするかもよ」
 誠一は頷き、美玲が話すのを待っている。
 ダムが決壊したかのように、美玲の涙は止まる気配がない。
「私さ……何のために生まれてきたんだろう……?」
 嗚咽を漏らしながら、ポツリと呟く美玲。
「うん、うん」
 誠一は黙って美玲が落ち着くのを待っている。
「仕事でさ、順調だったのに、異動になってからは色々と散々だったの」
 美玲はポツリポツリと今までのことを話し始めた。
「仕事自体は研究開発でガラッと変わることはないんだけどね、移動先での新しい上司……係長の冬田って奴がとんでもなくて……」
 苦笑してため息をつく美玲。
「冬田がミスしたのにさ、そのミスを私が被るように命じてきたんだよ。意味が分からな過ぎて拒否したら、次の日から嫌がらせが始まったの。仕事を回してもらえなかったり。周りも自分が被害に遭いたくないから見て見ぬ振りだよ」
 美玲は涙を拭う。
「それでさ、部長にもかけ合ってみたけど、部長は冬田の方を信じててさ。……だから、負けるものかって思って、私なりに頑張ってみたの。製品の改良とかさ。そしたらその手柄も冬田に取られた」
「うわあ……」
 誠一は気の毒そうな表情になる。
 美玲は話を続ける。
「流石に理不尽過ぎるから冬田に直接言いに行ったらさ、上司が部下の責任を取るのなら部下の手柄も上司のものにならないと理不尽だとか言われてさ」
「それはマジで意味不明だな、その係長」
 誠一は激しく同意していた。
「それでさ、冬田がその場を立ち去ろうとしたわけ。その時さ、私にぶつかってきたの。そのせいで私、よろけて転んじゃって机にぶつかったの。そしたら、共用パソコンが落ちて壊れた。それを私の責任にされた。本当にもう意味分かんない」
 悔しさが込み上げてきて、再び美玲の目からは涙がこぼれる。
「大変だったな」
「うん……。でもね、それだけじゃなかったの。色々重なってさ……」
 美玲はため息をつく。
「このことを彼氏に愚痴ろうとしたわけ」
「……岸本さん、彼氏いたんだ」
 誠一は少しショックを受けた表情になった。
「まあその時はね。もういないけどさ……」
 美玲は苦笑する。
 そして話を続ける。
「その時の彼氏からさ、別れようって言われたんだ。もう仕事の件もあったかショックだった。おまけにさ、そいつ、別の女と浮気してた。ホテル入って行く現場ガッツリ見たわけ」
 美玲はため息をつく。
「そっか……」
「それでさ……もう疲れちゃったの」
 美玲は暗い声になる。
「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって……」
 美玲は力なく自嘲した。
「それで……死のうかなって思った。でも、中川くんの従兄(いとこ)の晴斗さんと同じで、どうせ死ぬなら最後にフランスに行ってみたいなって思ったんだ」
 美玲は真っ直ぐリュクサンブール公園を歩いている人達を見ていた。
 午後六時になりかけているが、日は高く、美玲の顔を照らしている。
「そっか。色々大変だったんだな。そんな中、よく頑張ったな」
 誠一は優しく美玲を見つめていた。
「岸本さん、だったら逃げ出そうぜ。まずはそんなクソ野郎がいる会社なんかからさ」
 誠一はフッと優しく笑う。
 美玲は俯いて黙ってままである。
「日本に会社がいくつあるか知ってるか?」
「……ううん、知らない」
 美玲は首を横に振った。
「俺も詳しい数は知らないけど、確か三百万社以上はあるんだぞ。今の会社にクソ野郎がいるんだったら、辞めてもいいんじゃね? 数だけで言えば岸本さんを受け入れてくれそうな会社がたくさんあるんだしさ。だから……死ぬなんて言うなよ」
 最後、誠一はまっすぐ懇願するかのようだった。
 その言葉に、美玲の目からはまた涙がこぼれる。
「中川くん……私……」
 嗚咽で言葉が詰まる美玲。
「頼む、生きる選択をしてくれ」
 誠一のまっすぐな言葉が胸にスッと入ってくる。
「この先さ、生きてて楽しいって思えること……あるかな?」
 弱気の美玲である。
 そのくらい、色々なことが重なっていたのだ。
「ああ、きっとある。今の場所が(つら)ければ、逃げたらいい。岸本さん、知ってるか? 命とパスポートと金さえあれば俺達どこにでも行けるんだぜ。日本のパスポートって最強なの知ってるか? ロシアとかウクライナとか、紛争地は別として、今どこの国でも入国できるんだぞ。例えば北朝鮮もかも。まあ北朝鮮には行く気はないけどな」
 ハハっと笑う誠一。
 そして話を続ける。
「だから、岸本さんが楽しと思える場所、ずっとここにいたいって思える場所もきっとあるはずだ」
 誠一の言葉は心強かった。
 美玲は今回の旅をゆっくりと思い出す。

 ライトアップされたシャルトル大聖堂、そしてシャルトル大聖堂の美しいステンドグラス。そして荘厳で煌びやかなシャンボール城、歴史あるモン・サン=ミッシェル。更に、憧れていたパリの街並み。

「そう……だね」
 美玲はほんの少しだけ、前向きになれた。
「それにさ……」
 誠一はふいに美玲から目をそらす。
「その、男なんてさ、世界的に考えたら星の数程いるぞ。岸本さんのこと、ちゃんと考えてくれる奴だって、絶対にいるはずだ。例えば……俺……とかさ」
 誠一の頬は、少し赤く染まっていた。
「え……」
 美玲は誠一の言葉に驚き、目を見開く。
「それは……何かの冗談?」
 少しだけ困ったように笑う美玲。
 鼓動は速くなっていた。
「冗談でこんなこと言うかよ」
 誠一は苦笑した。
「俺さ、高校時代、岸本さんのこと好きだったんだ。卒業式の日、告白しなかったこと少し後悔してた」
 誠一の目は、どこまでもまっすぐだった。
 再び美玲の心臓が跳ねる。
「……いつから?」
 美玲は冷静さを装いながら、そう聞いた。
「高二の時。物理とかの授業で話すようになって、ちょっと気になるなって思ってた。物理のテストで俺、消しゴム忘れて焦ってた時あっただろ? あれが決定打だった」
 誠一は、はにかみながら懐かしむ。
「そっか……。何か懐かしいね。私も、その時のこと覚えてる。中川くんがお礼にお菓子くれたことも」
 美玲は少しドキドキしながら微笑んだ。
「そっか。いや、あの時少しでも岸本さんの気を引きたくて必死だった」
 若干恥ずかしそうに微笑む誠一である。
「再会してさ、やっぱり俺、まだ岸本さんのことが好きだなって思ったんだよ」
 誠一の目は、真剣そのものだ。
 美玲はその目に飲み込まれそうになる。
「私は……」
 思うように言葉が出ない美玲。
「別に、返事が欲しいわけじゃない。ただ……岸本さんを想ってる人がいるってことで、岸本さんが死ぬのを思いとどまってくれたらって思ってさ……」
 誠一はまっすぐ、優しく微笑んでいる。
 いきなりのことで驚きはしたが、美玲の胸の中にはじんわりと温かいものが広がった。
「うん……」
 ポロリと美玲の目からは涙がこぼれる。
 美玲はハンカチで涙を拭う。
「ありがとう、中川くん」
 美玲は憑き物が落ちたような、スッキリと明るい表情であった。
 誠一のお陰で生きようと思えるようになった美玲。
 その時、ぐぅ、と美玲のお腹の音が鳴る。
 気持ちが落ち着いたらお腹が空いていることに気付いたのだ。
「あ……」
 美玲は頬を真っ赤に染める。
 誠一は笑い出す。
「確かに腹も減ってきたよな。まだこんな明るいけど、もう午後六時だ」
 誠一はスマートフォンを取り出して何かを調べる。
「あ、日本で事前に調べてたビストロ、やってるっぽい。リーズナブルで割と量が多いみたいだけど、そこに行くか? リュクサンブール公園の近くにある店だし」
 誠一はスマートフォンの画面を美玲に見せてくれた。
 まじまじと画面を見る美玲。
「うん。料理も美味しそうだね。行ってみる」
「よし、じゃあ行くか」
 こうして、二人はリュクサンブール公園を後にして、誠一が調べたビストロへ向かうことにした。

◇◇◇◇

 ビストロに到着した美玲と誠一。
 席に案内され、注文を済ませていた。
「Hey, where are you from?」
 陽気そうなフランス人男性の店員に英語でそう聞かれた美玲と誠一。
 ビストロに入る時に「ボンジュール」と拙くともフランス語で挨拶さえすれば、後はフランス語が不慣れなら英語で対応してもらえるのだ。
「We are from Japan」
 誠一が少し拙い英語でそう答える。
 美玲はそれに頷いて同意した。
「Oh! Japan! コンニチハ! アリガト!」
 店員は嬉しそうに表情を輝かせた。
 日本に対していい印象を持っていることは明らかであった。
 そしてその店員は「イタダキマス」と言いながらオニオンスープを運んできたのである。
 恐らく日本語の『いただきます』とフランス語の『Bon appétit(召し上がれ)』が同じ意味なのだと思っているのだろう。
 不慣れな言語はやはり誰でも間違えたりするのだ。

「確かに口コミ通り量多いね。オニオンスープだけでお腹いっぱいになりそう」
「確かにな。グリル盛り合わせを一つにしといて正解だったかも」
 目の前には二人分のオニオンスープ。よく煮込まれ、チーズがたっぷりとふりかけてある。ふわりと漂うコンソメの香りが食欲を刺激した。
 美玲はオニオンスープを一口食べてみる。
「うわあ、結構濃厚だね。トロトロしてる」
「だな。お、中にパンが入ってるぞ」
 誠一はスプーンでパンをすくい、口まで運んだ。

 美玲と誠一がオニオンスープを食べ終わって少し経過した時、再び店員が「イタダキマス」と言いながらグリル盛り合わせが運ばれてきた。
 しっかりと焼けた牛の赤身、鶏肉、スペアリブ、そしてレタスとフライドポテトがたっぷり乗ったプレートである。
 お好みでケチャップやマヨネーズをかけて食べるそうだ。
「やっぱり量多いね。食べられるかな?」
 美玲は困ったように笑う。
「まあ俺が頑張って食べるからさ」
 誠一がハハっと笑いながら、牛肉に手を伸ばした。

◇◇◇◇

 満腹になった美玲と誠一は、支払いを済ませてビストロを後にした。
 その際店員からは、「アリガト!」と満面の笑みで言われたのであった。

 その後、ホテルに戻るために地下鉄に乗る二人。
「えっと、切符ってどれ押せばいいんだっけ?」
 美玲はスマートフォンの翻訳アプリを起動させ、券売機の前で戸惑っている。
「これは……多分この正規料金とか書いてあるやつじゃね?」
 誠一は券売機と翻訳アプリを交互に見ながらそう言う。
「分かった」
 美玲はボタンを押す。
「お、多分合ってる。地下鉄の正規料金出てるからさ」
「どこで降りても一律料金なんだね」
 目を丸くしながら美玲は購入ボタンを押した。
 その後、クレジットカードを差し込んで切符を購入するのであった。

「えっと、この方面に乗って乗り換え何駅目だ……?」
 誠一は自身のスマートフォンでホテルまでの戻り方を確認していた。
「上手く乗り換えできるか不安だね。日本に来てる外国人観光客もこんな気持ちなのかな?」
 キョロキョロと不安げな美玲。
「そうかもな」
 誠一もキョロキョロしながら苦笑した。

 駅のホームで数分待てば、地下鉄が到着した。
 何とドアは自動では開かず、スイッチのようなものを上にカチャリと上ないと開かないのだ。
 美玲と誠一は最初それが分からなかったので、後ろにいたフランス人がこうするんだと言うかのようにスイッチのようなものを上げてくれた。
 二人は初めてのことに戸惑いながらも、「メルシー」とお礼を言い、スリに気をつけながら地下鉄に乗り込む。
 パリの地下鉄は多いのだ。
「スリに気を付ける以外はあんまり日本の電車と変わらないね」
「確かに。でも駅と駅の間隔がめちゃくちゃ短くね? もう次の駅到着してるぞ。それとも地下鉄のスピードが速いのか?」
「言われてみればそうかも。それとさ、開くドアが片側に固定されてるよね。あっちのドア全然開かないし。日本だとこの駅は左側のドアが開いて、次の駅は右側とかあるのにさ」
 美玲と誠一はパリの地下鉄を楽しんでいた。

 白人と黒人、そして時々アジア人が入り混じっていて、地下鉄内は人種のるつぼに近い状態である。中には外国からの観光客もいるが、フランスは意外と多民族国家なのだ。

 その時、いきなりドア付近にいたフランス人らしき男性がアコーディオンを演奏し始めた。
 美玲はギョッとする。
「何か……自由だね……」
 日本ではほぼあり得ない光景に戸惑うばかりである。
「ああ、岸本さん、ああいうのはあんまり見ない方がいい。海外の情報とか色々調べたんだけど、地下鉄とか公共交通機関であんな風にパフォーマンスをしては金を請求してくる人がいたりするからさ」
 誠一はアコーディオンを演奏するフランス人を極力見ないように苦笑した。
「そうなんだ……」
 美玲は改めて日本とは全然違う国であることを認識するのであった。
「何か……面白いね……」
 美玲はクスッと笑っていた。

 ちなみに、パリの地下鉄での演奏は法律違反なのだが、美玲も誠一もそれは知らなかった。
 無事に地下鉄の乗り換えもできて、ホテルまで戻ってきた美玲と誠一。
「中川くん、今日は本当にありがとう」
 美玲はスッキリとした表情である。
「おう。また何かあったら相談に乗るから」
 誠一はフッと優しく微笑んだ。
「うん。じゃあまた明日」
「おう、また明日な」
 美玲と誠一はお互い部屋に戻るのであった。

◇◇◇◇

 そして翌日。
 朝食を終えた美玲はこの日持って行く荷物をまとめてワクワクしていた。
 この日は美玲が一番楽しみにしていたベルサイユ宮殿に行く日なのだ。
 ちなみに、美術館で買った絵画がプリントされたTシャツを着用し、同じく絵画がプリントされたトートバッグを持っている。更に、トートバッグにはエッフェル塔のキーホルダーを着けていた。
 シャルトルの街で購入したネックレスも着用している。
 もう完全にフランスを楽しんでいる観光客の姿である。

「おはよう、岸本さん」
 集合場所であるホテルのロビーで誠一に会った。
「あ……おはよう」
 昨日誠一から告白されたことを思い出し、美玲は少し頬を赤く染め、誠一から目をそらしてしまう。
(どうしよう……)
 美玲はうるさい心臓をひたすら落ち着かせようとしていた。
「昨日の返事は急いでないからさ。避けられる方が寂しい」
 誠一が苦笑しながらボソッと呟く。
「……うん」
 美玲はゆっくりと誠一を見上げた。
 穏やかで優しげな表情だった。
 美玲はその表情に、どこか安心した。
「それにしても、完全に観光客って感じの格好だな」
 誠一は、美玲の姿を見てそう笑った。
「うん、まあね」
 美玲はクスッと笑う
 死ぬことを考え直し、生きる選択をした美玲は、今までよりも明るかった。
 その表情を見た誠一はどこか安心したようである。
「おはよう、お二人さん」
「おはよう」
 ロビーには晃樹と凛子もやってくる。
「あ、美玲ちゃん、めちゃくちゃいい感じの服装やな。楽しんでる感満載」
 凛子も誠一同様、美玲の服装を見て明るく笑う。
 凛子も相変わらず耳にはエッフェル塔のピアスを着けていた。
「それにしても、今日のベルサイユ宮殿、めっちゃ楽しみやわ。実は一番行きたかった場所やねん」
「凛ちゃんもそうなんだ。実は私も。ベルサイユ宮殿行ってみたかったんだよね」
 早速朝から凛子と盛り上がる美玲であった。
 誠一の方も、晃樹と楽しそうに話している。
 その時、ロビーに明るい声が響き渡る。
「え、すごーい! 豪華だね! 美味しそう!」
 神田姉妹の妹、菫である。
「いかにもフランスって感じですね」
 姉の美桜も穂乃果から見せてもらった写真に目を輝かせていた。
「昨日朱理ちゃんと行ったんですよ〜。朱理ちゃん、注文とかの時もフランス語ペラペラでカッコよかったです〜」
 穂乃果が昨日の夕食の写真を見せてへにゃりと笑っていたのだ。
「そういや朱理ちゃんと穂乃果ちゃん、一緒にご飯行ったみたいやね」
 凛子も二人が何を食べたのか気になるようである。
 美玲達四人も穂乃果に写真を見せてもらうことにした。
 オニオングラタンスープ、牡蠣や海老などの海鮮盛り合わせ、フォアグラ、牛肉のソテーと非常に豪華であった。
「すごい……。これ結構高いんじゃない?」
 美玲は写真を見て大きく目を見開いている。
「はい、高かったです。でもせっかくですし奮てみました〜。めちゃくちゃ美味しかったんですよ。朱理ちゃんが言うには、お昼にカフェとして利用する方がやっぱり安いみたいです」
 アハハと笑う穂乃果。
「それと、朱理ちゃん、ああ見えて結構食べるんですよ〜」
 意外そうな表情の穂乃果だ。
「へえ……意外」
 美玲も目を丸くした。
(朱理ちゃん、小柄で華奢なのに割と量を食べる。それでいて太る気配を感じない……。正直羨ましい。だけど……)
 美玲は自分の内面の変化に気付いた。

 今までは胸がチクリと痛み、朱理に対して劣等感を抱いてしまっていた。
 しかし、今は朱理に対する劣等感が完全に薄れていた。

(もしかして、生きて自分の人生楽しんでやるって思えるようになったからかな?)
 美玲は微かに口角を上げた。
「ちなみになんて名前の店か教えてもらっていい?」
「あ、俺も教えて欲しいわ。明日の自由行動、凛ちゃんと行くのもありやし」
「えっと、店の名前は……あ、これです。ちょっと詳しい場所までは忘れちゃったので朱理ちゃんに聞いてくださいね〜」
 誠一と晃樹は穂乃果にお店の名前を聞いていた。
「おはようございます」
 そこへ朱理がやってくる。おっとりとした声である。
「朱理ちゃん、おはよう。昨日はありがとね〜」
 朱理の姿を見るなり穂乃果はへにゃりと笑った。
「いえ……」
 朱理は困ったように苦笑する。
「あの、穂乃果さん。明日は私、パリにいる友達と過ごすのでご一緒できませんからね。本当に大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だよ〜。多分」
 どうやら昨日、朱理と穂乃果に何かが起こったようだ。
「朱理ちゃん、何があったの?」
 美玲は恐る恐る聞いてみた。
「その……穂乃果さんの危機感のなさというか……色々とスリに狙われていたんですよ。穂乃果さんが」
 朱理はそう苦笑した。
「アハハ、朱理ちゃんがいてくれたお陰で何も盗まれなかったから大丈夫だったよ〜。それに、明日一人でもスマホがあれば何とかなる」
 被害に遭いかけた当人はあっけらかんとした様子だった。
「そのスマホを盗られかけていたんですよ。おまけに鞄に手を入れられる、ウエストポーチにまで手を伸ばしてくる人もいて大変でしたよ……。穂乃果さん、日本感覚じゃ本当に駄目ですからね」
 朱理は苦笑しながらやんわりとため息をついた。
「穂乃果ちゃん、明日ほんまに一人で大丈夫なん?」
「もしよければ私達と一緒に行動します?」
 穂乃果を心配する凛子と美桜。
 彼女達を横目に美玲は朱理と会話している。
「さっき穂乃果ちゃんから昨日の夕食の写真見せてもらったけど、かなり豪華だね」
「はい。豪華でした。せっかくですし、食べたいと思ったものを食べておきたかったんです。フランスといえば牡蠣でもありますし、フォアグラもニースで食べて美味しかったので、昨日のお店でも注文してみました」
 おっとりとした態度の朱理。しかし、やはりどこか堂々とした雰囲気でもある。
「昨日のお店、ミルフィーユも有名なんですよ」
「へえ、そうなんだ。明日行ってみようかな。せっかくだからフランスのスイーツも堪能したいし」
 美玲はクスッと笑う。
 すっかり朱理と普通に話せるようになっていたのであった。
 ベルサイユ宮殿に向かうためにバスに乗り込んだ美玲達ツアー参加者。
 この日はガイドとして仁美も同行する。
「皆さん、フランスと言えばベルサイユ宮殿のイメージがある人もいると思いますが、実はベルサイユ宮殿は割と歴史が浅いんですよ。何と、百八年くらいしか使われていないのです。現在は人生百年時代と言われていますが、人間の寿命プラスアルファの年数ですね。ルイ十四世がパリからベルサイユに拠点を移する前は、ルーブル宮殿が使われていました。皆さんが昨日行った美術館があった場所ですね」
(……そういえば、昨日そんな話聞いたっけ)
 美玲は車窓からの景色を見ながら、仁美の解説を聞いていた。

◇◇◇◇

 そしていよいよベルサイユ宮殿が見えてきた。
(もうすぐベルサイユ宮殿……!)
 美玲はワクワクと心躍らせていた。

 バスから降りる美玲達。
 開けた土地の少し奥に、コの字型の壮麗な宮殿が見えた。

 よく晴れた青い空の下、宮殿の屋根が煌めく様子はまさに当時の王侯貴族の栄華を象徴しているかのようである。

「ベルサイユ宮殿……本物だ……!」
 美玲は目を大きく見開き固まっていた。
 門の外からでも豪華絢爛で煌びやかな雰囲気が伝わってきて、十分(じゅうぶん)心満たされるものがあった。
「おいおい岸本さん、まだ中に入ってもないのに。まだまだこれからだぞ」
 隣で誠一は苦笑していた。
 その後、美玲は誠一に写真を撮ってもらい、ベルサイユ宮殿へ入るのであった。

◇◇◇◇

 厳重なセキュリティチェックを抜け、階段を上る。

 目に飛び込んでくる豪華絢爛で煌びやかな部屋、天井の絵画、所々にある百合をモチーフにしたフランス王家の紋章、価値ある調度品。

 美玲は見えるもの全てに心を奪われていた。
(本当にここで過ごした王族や貴族達がいるんだ……)
 かつてここで繰り広げられた華やかな舞踏会や宮廷生活に思いを馳せた。

「はい、ここが有名な鏡の間です。その名の通り壁一面鏡で覆われています」
 先頭を行く仁美がツアー参加者達にそう説明する。
 ちなみに添乗員の明美は最後尾にいる。
 美玲は目を輝かせる。

 壁一面の鏡、そして無数のシャンデリア。窓からの光が反射し、部屋全体が光の海と化している。

「すごい……」
 満足そうな表情の美玲。これ以上の言葉が出てこなかった。
 もちろん写真を撮ることを忘れてはいない。
 誠一と互いに写真の撮り合いや、二人で写る写真も撮ってもらった。

 フランスの華やかなイメージそのもののベルサイユ宮殿。過去と現在が交錯する場所である。
 美玲は圧倒されながらも、自身がこの空間にいることに対し、不思議な感覚になっていた。

 その後、美玲達は鏡の間を抜け、次の部屋へと向かった。
 マリー=アントワネットも使用したと言われている王妃の寝室。
 豪華絢爛、その上華やかで可愛らしい雰囲気の部屋である。
 赤を基調とした重厚な王の寝室とは雰囲気がガラリと変わる。
「皆さん、可愛らしい部屋ですよね。かの有名なマリー=アントワネットもここで過ごしていたんですよ」
 仁美がそう解説する。

 優美で繊細な装飾。そして壁には豪華な織物や絵画が飾られ、天井には美しいフレスコ画が施されている。

(こんなに豪華な部屋で暮らしてたんだ……。私なら緊張して落ち着かないかもしれないけど……一度はこういう場所でも生活してみたいかも)
 美玲は少しだけベルサイユ宮殿での生活を想像してうっとりとしていた。

◇◇◇◇

 ベルサイユ宮殿内部を一通り回った後は、それぞれ思い思いにお土産を選んでいた。
「あれ? 岸本さん、お土産買わないの?」
 誠一がお土産を見ているだけの美玲にそう声をかける。
「いやあ……今までは自暴自棄になってたからもう気になったやつどんどん買ってたけどさ……クレカ請求額が何か怖くなって……」
 ハハっと苦笑する美玲。
 この先の人生が続くとなれば、今までみたいに爆買いしていたら生活が苦しくなるのだ。
「今更じゃん。せっかく楽しみにしてたベルサイユ宮殿だからさ、今までみたいに心置きなく買えばいいと思うぞ。まあ破産しない程度にだけど」
 フッと笑う誠一。
「……まあ……そっか」
 美玲は少し悩みつつも、気になったものを手に取ってみた。
「……今まではお菓子とか中心だったけど、食器買って普段使いにしてみようかな」
「おお、いいんじゃないか。気に入ったものを使ってると毎日楽しいと思うぞ」
 ニッと白い歯を見せる誠一であった。
「そうだね。これ買ってみようかな」
 美玲は食器を手に取った。
 そしてレジへ並ぼうとした時、品物の前で悩んでいる朱理の姿が目に入った。
「朱理ちゃん、どれにするか悩んでるの?」
「美玲さん……。はい。実は同棲中の彼氏へのお土産なんですけど、彼紅茶が好きなので、どっちがいいかなと思っていまして」
 おっとりと微笑む朱理。
「朱理ちゃん、彼氏いるんだ。お嬢様って聞いてたから、そういうの家が厳しそうって勝手に思ってた」
 美玲は意外そうに目を見開いていた。
「実家は単に経済的に裕福なだけですよ。一番上の兄も二番目の兄も恋愛結婚していますし。ちなみにすぐ上の姉はアメリカ人と国際結婚して今アメリカにいます。ちなみに、家族でニースに行く時、兄夫婦も毎回ではないですが参加してる時があります。たまに姉夫婦もアメリカから来たりしてますよ」
 ふふっと笑う朱理。
 どうやら四人兄弟の末っ子らしい。
「何か……本当に意外」
 美玲はまだ驚きを隠せなかった。
「今回は彼氏と来なかったんだ」
「はい。彼は長時間フライトと外国の料理が合わないみたいなんです。大学時代も長期休みに一緒にドイツに行ったんですけど、やっぱり駄目みたいで」
 思い出しては苦笑する朱理。
「あ、これが彼氏なんですけど」
 朱理はスマートフォンに入っている写真を見せてくれた。
 眼鏡をかけた知的な好青年である。
「え、普通にカッコいい」
 美玲はクスッと笑う。
「ん? 何見てんの?」
 そこへ凛子もやってきた。
「朱理ちゃんの彼氏の写真」
「へえ、朱理ちゃん、彼氏おるんや。わあ、カッコいいな。やっぱり眼鏡をかけたらインテリっぽい感じになるけど、うちの晃ちゃんは……」
 凛子は朱理の彼氏と自身の彼氏である晃樹を見比べて苦笑した。
 同じ眼鏡でも、晃樹はインテリではなくひょうきんに見えてしまう。
「ええ、宮本さんも優しそうでいいと思いますよ」
 朱理はふふっと穏やかに笑う。
「まあそうなんよ。晃ちゃん、優しくておもろいんよなあ」
 凛子は少し離れた場所にいる晃樹を見て愛おしげに目を細めていた。
(何か凛ちゃん可愛い)
 美玲はクスッと笑うのであった。

 その後、会計を済ませた美玲はお土産の隣にパリで有名なマカロンのお店を発見した。
 こちらには初日からやたらとキラキラしたオーラを放っていた新婚の高橋夫妻がショーウィンドウの前で悩んでいた。
「佳奈、これも美味しそう」
「本当だ。何味だろう? フラ……フランボワーズ? フランボワーズって木苺だっけ?」
「多分そう。あ、下に英語表記もある。こっちのは英語でストロベリーだから苺だな」
「苺欲しいなあ。それと、キャラメルとバニラも。後、ローズも」
「あ、佳奈、後ろ並んでるから先に行ってもらおう」
 夫である悠人が美玲の姿に気付いたようだ。
「本当だ。すみません、私達時間かかりそうなのでお先にどうぞ」
 申し訳なさそうに微笑む妻の佳奈である。
「すみません、ありがとうございます」
 美玲は軽く会釈をし、会計に並んだ。
 会計の際、「ボンジュール」とカタコトのフランス語で挨拶をし、後はカタコトの英語でローズとキャラメルとバニラとピスタチオのマカロンを注文する美玲であった。
 その後、屋内ではなく外で食べるよう店員から指示があったので、美玲は屋外でマカロンを食べていた。
「美味そうだな」
 お土産を買い終えた誠一がやってくる。
「うん。美味しい」
 美玲は満面の笑みであった。
 その笑みを見て、誠一はフッと嬉しそうに笑っていた。
 次は噴水庭園の散策と昼食、その後大トリアノン宮殿と小トリアノン宮殿を見に行くのだが、現在はトイレ休憩の時間である。
「そういえば、フランス革命で処刑されたのってルイ何世でしたっけ?」
 ふと穂乃果が首を傾げている。
「ルイ十六世ですよ」
 朱理がおっとりとそう答える。
「ああ、十六世か〜。確か、死ぬ前に『お前もブルータスか』って言ってた人だっけ?」
 穂乃果がきょとんとしている。
「え……」
 朱理は少し引き気味だ。
「穂乃果ちゃん、それ絶対違うよ」
 美玲は高校時代に習った世界史を思い出そうとしていた。
「穂乃果ちゃん、それイタリア……と言うか、古代ローマのカエサルやな」
 凛子が苦笑しながら答える。
「それとさ、『ブルータス、お前もか』やな。『お前もブルータスか』やとブルータス何人おんねんってなるやん」
 隣で晃樹がそう爆笑している。
「確かに言われてみればそうだよな」
 誠一も笑いながら同意する。
 もうツアー終盤で、すっかり参加者達は打ち解けていた。

◇◇◇◇

 ベルサイユ宮殿にある、広大な噴水庭園。
 緑の絨毯のような芝生が遠くまで続いている。
 左右対称の平面的な幾何学的作りはフランス式庭園の特徴である。
「皆さん、この庭園はただの庭園ではありません。芸術と自然の融合なんですよ」
 仁美の説明に、美玲は納得していた。
(確かに、ただの庭園じゃない。自然も感じられて、見ても楽しい)
 美玲はクスッと笑い、写真を撮るのであった。

 その後、ベルサイユ宮殿内のレストランで昼食を取る美玲達ツアー参加者。
「仁美さんって、フランスでもヒトミって呼ばれてるんですか? スペルで言えば、H、I、T、O、M、Iじゃないですか。フランス語ってHの音は発音しないからどうなのかなって思ったんです」
 食事中、朱理がガイドの仁美に素朴な疑問をぶつけていた。
「ああ、夫や仲のいい人達にはちゃんとヒトミって呼ばれますよ。ただ、やっぱりフランス語はHの音を発音しないから、初対面の人にはイトミって呼ばれますね」
「そうなんですね」
 朱理は納得したように頷いていた。
「確かフランスってHをエイチじゃなくてアッシュって呼んでましたよね。私動画で見てびっくりしちゃいました」
 佳奈が炭酸水を飲み、そう言った。
「え? Hをアッシュって言うんですか?」
 美玲もそれには驚いていた。
「はい。せっかくだから少しはフランス語を勉強しようって思って、悠人と動画を見たんですけど、アルファベットでギブアップでした」
 佳奈は苦笑している。
「英語ですら微妙なのに、フランス語なんて分かるわけないですよ。Vはフランス語ではヴェ。そしてWはドゥブルヴェ……Vを二つに見立ててこう言うなんてもうめちゃくちゃです」
 悠人も苦笑していた。
「僕も大学時代第二外国語フランスってだったのでアルファベットから苦労の連続でした」
 宗平も苦笑して自らの大学時代を思い出していた。
「でも英単語も時々フランス語から輸入してきた系のやつもありますよね」
 誠一も会話に加わっている。
「フランス語から借用しているものですよね。実は英語のmountain……山もフランス語から来ているんですよ」
 添乗員の明美がそう説明すると、皆目を丸くして驚いていた。
「フランス語、奥が深いなあ」
「そうですねえ」
 年配夫婦の松本夫妻、茂と貴子が穏やかに笑っていた。
 昼食は和気藹々とした雰囲気であった。

◇◇◇◇

 昼食後はトラムで大トリアノン宮殿へ移動した。
 大トリアノン宮殿はベルサイユの壮麗さとは異なり、静かで親しみやすい雰囲気に包まれていた。
(何と言うか、ベルサイユ宮殿と比べるとシンプル。だけどやっぱり高級感はあるなあ)
 優雅なシンプルさがある大トリアノン宮殿。美玲はこちらにも心を奪われていた。
「この大トリアノン宮殿は、ルイ十四世が愛妾……要は愛人のことですけど、愛妾のモンテスパン夫人と密会するために建てられたんですよ」
 仁美がそう解説する。
 確かに愛人と密会するのならベルサイユ宮殿のような豪華絢爛な場所ではなく、シンプルで落ち着いた場所の方がいいかもしれないと美玲は思うのであった。

 柱の回廊ゆっくりと歩く美玲達。
 その名の通り、繊細な柱が並ぶ回廊である。ピンク色の大理石が特徴的だ。そこから見える庭園も、フランス式の幾何学的で美しかった。

 大トリアノン宮殿を回った後、再びトラムで小トリアノン宮殿へ向かった美玲達。
 五分程で到着した。
「小トリアノン、プティ・トリアノンとも呼ばれているこの場所は、ルイ十五世が愛人のポンパドゥール夫人のために建てたものでした。その後、ルイ十六世の妻で王妃だったマリー=アントワネットが堅苦しい宮廷生活から逃れるために使っていたそうです」
 仁美がそう解説する。
 落ち着いた上品さのある宮殿である。
 小トリアノン宮殿の王妃の寝室はベルサイユ宮殿のものとは異なり、豪華ではあるが落ち着いた雰囲気だった。
 その他にも、いろいろな部屋を回る美玲達。
 更には王妃の村里まで足を伸ばしていた。
 のんびりとのどかで可愛らしさのある雰囲気。
 美玲は深呼吸をし、その空気を全身に感じていた。

 ルーブル宮殿に比べると歴史は浅いが、それでもかつてフランスの中心地だったベルサイユ宮殿。
 一番行きたかった場所だったので、この日美玲は精一杯楽しんでいた。
 フランス六日目、この日は一日中自由行動だ。
 朝食を食べ終えた美玲は荷物を整理し、ロビーで待っていた誠一と合流する。
「遅くなってごめんね。お待たせ、中川くん」
「いや、気にするなよ。そんな待ってないから大丈夫」
 最終日、一緒に行動しないかと誠一から誘われていたのだ。
「もう私、セーヌ川クルーズ以外何も考えてないよ。パリは一昨日で見たいものは見ることできたし。あ、昨日朱理ちゃんから教えてもらったカフェ……なのかレストランなのか分かんないけど、そこのミルフィーユは食べてみたいかも。それと、せっかくだしパン屋巡りしたい。あれ? 何も考えてないけど何かやりたいこと次々出てくる」
 美玲は楽しそうに笑う。
「おう。店の名前聞いてるし、場所も調べたらから大丈夫。午前中空いてそうだったらまずはその店に行くか。セーヌ川クルーズは夕方とか夜の方がいいかもな。何か添乗員の斉藤さんが言ってたけど、エッフェル塔が夜の九時とか十時にライトアップされるらしいぞ」
 誠一はフッと頼もしげに笑うのであった。
 その表情に、美玲はやはりドキッとしてしまう。
「……ありがとう、中川くん。じゃあクルーズは夜だね。まあ夜って言ってもフランスはまだ明るいけど」
 美玲は少しだけ頬を赤く染めて微笑んだ。
「だな。パン屋巡りは……地図アプリ見ながら調べるか。何かこういうマークがあったらそこのクロワッサンは大会の賞とった経歴ありってことらしいぞ」
 誠一は美玲に自身のスマートフォンの検索ページに出てきた画像を見せる。
「そうなんだ。じゃあそのマークがあるパン屋探そうかな」
 美玲はワクワクと目を輝かせていた。
 その表情を見た誠一は、嬉しそうである。
 こうして、美玲と誠一のぶらりパリ歩きが始まるのであった。

◇◇◇◇

「……何これ?」
 美玲は目の前の光景にギョッとした。
 早速のトラブルである。
「ああ……地下鉄の券売機、故障してるっぽいな」
 誠一はフランス語で書かれた張り紙が貼られている券売機を見て苦笑する。
 券売機は二台あるのだが、どちらも使えないようだ。
 ホテル最寄りの地下鉄駅の券売機が故障し、駅員がいる場所にそこそこ長蛇の列ができていたのだ。
「まあこれは仕方ない。並んで切符買おう」
「そうだな」
 こればかりはどうしようもないので、美玲と誠一は諦めて並ぶことにした。

 何とか地下鉄の切符を買うことができた二人。そのまま目的地の方面の地下鉄に乗った。
 一昨日地下鉄に乗った時、手動のドアの開け方を覚えたので、今回は戸惑わずに乗ることができた。

「改めてさ、パリの街並みって何かお洒落だよね」
 地下鉄から降り、駅を出た美玲はパリの街並みを見渡す。
「まあ、確かにそうだな。日本とは違った雰囲気だ」
「うん。日本にも東京とか横浜とか神戸とか、お洒落な街はあるけど、それとは違うお洒落さがある」
 美玲はそう笑い、自身のスマートフォンでパリの街並みの写真を数枚撮る。
「岸本さん、パン屋、この近くだけど、早速行くか?」
 誠一がパリの街に夢中な美玲にそう呼びかける。
「うん」
 美玲は満面の笑みであった。

「んー! 美味しい!」
 サクサクの生地、ふわりと鼻奥を掠める香ばしいバター、ほのかな甘み。
 早速クロワッサンを買った美玲は、ベンチに座り舌鼓を打っていた。
「確かにクロワッサンの大会の賞を取ったって言われても納得できる味だな」
 誠一も目を見開き、クロワッサンを堪能していた。
「でも今食べ過ぎたらミルフィーユ、食べられなくなるぞ」
 誠一は隣でクロワッサンを食べる美玲を見て苦笑した。

◇◇◇◇

 続いて美玲と誠一は一昨日朱理と穂乃果が夕食を取ったレストランに行った。
 ランチやカフェメニューもかなり充実している。
「わあ……豪華……」
 美玲はそのインテリアに圧倒されていた。
 高級感あふれる空気が漂っていた。
 普段なら絶対に気後れしてしまうが、せっかくフランスに来ているのだから目一杯楽しもうと、案内された席へ進むのであった。
「めちゃくちゃ高級感あるからドレスコードとか必要かと思ったけど……そうでもないな」
 誠一は周囲の人のカジュアルな服装を見てホッとしていた。
 その後、美玲はミルフィーユと紅茶を注文し、特別感ある雰囲気を楽しむのであった。

 白く洗練された皿に乗った、美しく層を重ねたミルフィーユ。薄く繊細なパイ生地と濃厚なカスタードクリームが交互に重なり、表面は艶やかである。
 美玲はそっと用心深くナイフで一口分切り、口へ運ぶ。
 口の中に広がる甘さとバターの香り。サクサクとした食感。
 美玲は大きく目を見開き、表情を輝かせた。
「すごい……美味し過ぎる……!」
「そっか」
 誠一はコーヒーを一口飲み、見守るかのように美玲を見つめていた。

 スイーツと高級感あふれる空間を楽しむ二人であった。

 会計を済ませ店を出ようとした時、見知った顔を見かけた。
「あれ? 凛ちゃんだ」
「ああ、美玲ちゃん。もしかして、今出るとこ?」
 美玲は入り口で凛子を見かけて声をかけた。彼女の隣には晃樹もいる。
 凛子も美玲を見るなり表情を明るくする。
「うん。ミルフィーユ、美味しかったよ」
「そうなんや。私も頼もかな。今お店着いたとこやねん。楽しみやわ」
 ふふっと笑う凛子。
「誠一は今日も岸本さんと行動なんやな」
「まあな」
 晃樹の言葉にフッと笑う誠一。
「この後どこ行く予定なん?」
「まあパン屋巡りとか、パリをぶらぶらする予定。実は割と無計画なんだよ」
 誠一はハハっと笑いそう答えた。
「気ままにぶらぶらするのも楽しいよな。日本にはない景色見ることできるしさ」
 晃樹も同意していた。

 少しだけ四人で話した後、美玲と誠一は店を出て再びパリの街をぶらぶらと巡るのであった。
 誠一と一緒にパリの街を回り、お土産を買い、夕食を終えた美玲。
 いよいよセーヌ川クルーズだ。
 もう夜九時前なのだが、パリの街はまだ明るい。
 美玲も誠一も、それが普通だと思えるようになっていた。
「セーヌ川クルーズ、楽しみ。シテ島とかサン=ルイ島を回るんだっけ?」
 美玲がクルーズのパンフレットを見て首を傾げている。
 スマートフォンの翻訳アプリをかざし、何とか日本語を読み取っているのだ。
 クルーズマップには、セーヌ川の中洲であるシテ島とサン=ルイ島が載っていた。
「えっと……そうだな。パンフレットにもそれっぽいこと書いてある。お、火災から復興中のノートルダム大聖堂も見られるんだ」
 誠一もスマートフォンの翻訳アプリを使っていた。

 船に乗り込み、屋外デッキに出る美玲と誠一。
「あ! エッフェル塔ライトアップしてる!」
 時刻は午後九時。
 美玲は目を輝かせながらライトアップされているエッフェル塔を見ている。
 もちろん写真や動画を撮ることを忘れてはいない。

 少し明るい夕暮れのような空に、キラキラと輝くエッフェル塔。まるで宝石をまとった鋼のレースである。
 このライトアップはシャンパンフラッシュと呼ばれている。

「すげえな」
 誠一もゆっくりと動き出す船の上からエッフェル塔を見上げて写真を撮っていた。

 船内にはフランス語の解説の後、英語の解説が流れる。
 船の屋内でクルーズのガイドがアナウンスしているようだ。
「……何かフランス人の英語って、こう……あんまり上手くないんだな」
 癖のある英語アナウンスを聞いた誠一が少し苦笑している。
「そうだね。何か発音しにくそう。でも、こんなもんでいいんだって何か自信つく気がする。日本人のカタコト英語と似たようなレベルに感じてさ」
 クスッと笑う美玲。
「確かに」
 誠一もクスッと笑った。
 そうしているうちに、シテ島、サン=ルイ島付近までやってきた。
「おお、ノートルダム大聖堂だ!」
 誠一が目を輝かせている。
「わあ……」
 美玲もその威厳ある巨大な建物に圧倒されていた。
 ただ、二〇一九年の火災により屋根や尖塔が焼け落ちてしまっていて、現在火災から復興中である。
 復興中の姿も写真に収める美玲と誠一であった。

 のんびりとした様子で流れゆくパリの街並みのを眺める美玲と誠一。
 整頓された並木、そして白やベージュを基調とした石造りや漆喰の建物。
 美玲は穏やかな気持ちだった。
「私さ、何のために生きてるんだろうって、何のために生まれてきたんだろうって、ずっと思ってた」
 ポツリと美玲が話し始める。
 誠一は美玲の横顔を見ながら、話を聞く。
「でも、このツアーに参加して分かった。……私、この旅行のために生まれてきたような気がする」
 景色を見ながら、穏やかに微笑む美玲。
「うん、私、この旅行のために生きてきたんだ。フランスに、パリに行くために」
 美玲のその表情は、とても力強く感じた。
「そっか」
 誠一は嬉しそうに目を細めた。
「中川くんはさ、命とお金とパスポートさえあればどこにでも行けるって言ってたじゃん」
 美玲は一昨日誠一から言われたことを思い出していた。
「おう」
 誠一は頷く。
「本当にその通りだなって思った。私はどこにでも行けるんだって」
 晴れやかな表情の美玲。
 美玲はゆっくりと誠一の方を見る。
 高校時代、誠一に抱いていた気持ちがゆっくりとあふれ出す。
「中川くん、一昨日の返事だけど……」
 美玲は少しだけ頬を赤く染める。
「おう……」
 誠一は少し緊張して様子だ。ゴクリと唾を飲み込む音がした。
「私でよければ、是非付き合ってください」
 美玲はまっすぐ誠一を見つめ、微笑んでいた。
「本当に……?」
 誠一は嬉しそうに目を大きく見開く。
「うん。実はね、私も高校時代の時から中川くんのこと好きだったんだ。でも関係壊すのが怖くて言えなかった」
 懐かしむような表情の美玲。
「そっか。ああ、高校時代本当に告白しときゃよかった」
 誠一は苦笑しながらそう嘆く。
「でも十年前だよ。当時付き合ってたら、何かあって別れてる可能性もあったじゃん」
 悪戯っぽい笑みの美玲。
「でも晃樹と早乙女さんの事例あるぞ」
 フッと笑う誠一。
「まあ……それもそうか」
 美玲は凛子と晃樹の仲のいい様子を思い出す。
「ねえ、中川くん……」
 美玲は一呼吸置く。
「それでさ、またいつか……エジプトに行かない? 私と」
 美玲はまっすぐ誠一を見つめる。

 エジプト。誠一が初めて行った海外である。従兄(いとこ)の晴斗と一緒に行った思い出の場所。
 しかし、晴斗が日本に帰国後自殺してしまったことで、誠一にとっては少しトラウマになっていた。

 誠一は真剣な表情になる。
「……そうだな。……岸本さんとなら、行けそうな気がする。またエジプトに行って、楽しい思い出を作りたい」
 誠一は穏やかに口角を上げた。
「うん。絶対に行こう」
 美玲はホッとしたように微笑んだ。
「エジプト以外にも、ヨーロッパの他の国とかも行ってみたい」
「おう、いいなそれ。今の俺の給料なら、奨学金返済しながらでも年に一回は行けるぞ」
 ドヤ顔の誠一。
「奨学金返しながら!? すごいね。流石大手。私奨学金とか全然借りてないけど……まあ普通に年に一回くらいなら何とかなるかも」
 少し考えてそう答える美玲。
「いや、私立で院まで行って奨学金なしって岸本さんの実家どんだけ金持ちなんだよ?」
 誠一は羨ましそうな表情だった。
「まあ、今のクソ冬田がいる職場なんかもう辞める予定だけど。まあ先に転職エージェントに登録して転職先見つけてからになるけどさ。凛ちゃんもさ、転職先決めてから退職願出した方がいいって言ってたし。クソ冬田さえいなければまあ辞めなくてもいいかなとは思える職場なんだけどね」
「そっか。それがいいと思う。ていうかそういや早乙女さん、転職エージェント勤務って言ってたな」
 誠一は凛子に関する情報を思い出していた。
「そうだよ」
 ふふっと笑う美玲。
「よし、私はこれから自分の人生を生きてやるんだ」
 美玲のその表情は明るく輝いていた。
「おう、その意気だ」
 誠一も嬉しそうに笑っていた。

 こうして、美玲は人生の夜明けを迎えたのであった。
 クルーズ船は元来た場所へと戻っていた。
「ん……」
 船を降りる際、誠一は少し頬を赤くしながら美玲に手を差し出す。
「え?」
 きょとんとする美玲。
「いや……付き合ってるんだったら手とか繋がないかなって……」
 少しだけ美玲から目をそらす誠一。
「……そうだね」
 美玲は少し照れながら誠一の手を握った。
 ごつごつとした大きな手が、美玲の手を包み込んでいた。

「あれ? 美玲ちゃん? 中川さんも」
 クルーズ船を降りる際、美玲と誠一は凛子と晃樹にばったり遭遇した。
 お互い同じ時間のクルーズ船に乗っていたらしい。
「偶然やな。俺らと同じ船とか」
 ハハっと明るく笑う晃樹。
「まさか同じ船とは思わなかった」
 誠一も明るく笑う。
「うん。そうだね」
 美玲もそれに同意した。
「あれ? 二人共何で手繋いどん? もしかしてそういうこと!?」
 凛子が手を繋いでいる美玲と誠一を見て若干興奮気味であった。
「「あ……」」
 美玲と誠一は真っ赤にして顔を見合わせる。
「え、じゃあ付き合い始めたってことか! おめでとう!」
 晃樹も興奮気味だった。
「パリでフランスで再会して付き合い始めるとか何かロマンチックやな」
 凛子は少しうっとりとした表情だ。
 美玲と誠一は「ありがとう」と照れ笑いしていた。
「いやあ、実はな……」
 晃樹は凛子と目を合わせて改まる。
「俺、さっき凛ちゃんにプロポーズしたんよ」
 その言葉に美玲と誠一は驚いて目を丸くする。
「それで凛ちゃんからオッケーもらいましたー!」
 テンション高めで嬉しそうな晃樹。
 凛子も少し照れながら笑っている。
「えー! おめでとう!」
「末長くお幸せに!」
 美玲と誠一もまるで自分のことのように喜んだ。
「ありがとう、美玲ちゃん、中川さん」
「絶対凛ちゃんと二人でもっと幸せになるわ。誠一と岸本さんも幸せになるんやで」
 凛子も晃樹も、どこか晴れ晴れと嬉しそうな表情であった。
 パリで転機を迎えたのは美玲と誠一だけではなかったのだ。

◇◇◇◇

 翌日。
 この日フランスを出国して日本へ帰るのである。
 ホテルのロビーに集合してチェックアウトを済ませるのは何と午前三時。
 荷物の整理などをしていて完全に睡眠不足の美玲だった。
「おはよう、岸本さん。寝不足か?」
 少し後からやってきた誠一。
「おはよう、中川くん。多分三時間も寝てない気がする」
 ふああ、とあくびをする美玲。
「俺も同じようなもんだな」
 誠一もあくびをした。
 その後、美玲と誠一は他のツアー参加者が来るまで談笑していた。
 すると、神田姉妹と晃樹と凛子がやってきた。
 美玲と誠一は軽く挨拶をする。
「あれ? 二人は同じ高校だって聞いてたけど、何か今までより仲よさげになってない? もしかして、何かあった?」
 神田姉妹の妹、菫は寝不足そうに見えるにも関わらず、鋭い勘が働いていた。
「実は昨日から付き合い始めました」
 誠一が照れながらそう答えた。
「そうなんだ。おめでとう。何かロマンチックだね。フランスで同じ高校の人と再会して付き合い始めるとか。それに、凛子ちゃんと宮本さんの方はクルーズ船でパリの夜景を見ながらプロポーズ。ロマンチックなことばっかり起こってるね」
 興奮気味の菫。
「あのさ、お姉ちゃん。こういうの小説にできるんじゃない? 許可取って書かせてもらったら?」
 ワクワクとした様子の菫。
「いや、菫、それはちょっと」
「だって編集部から次は現代ものを書いたらどうかって言われてるんでしょう?」
「まあそうだけどさ」
 苦笑する神田姉妹の姉、美桜。
「え? 美桜さんって小説家なんですか?」
 美玲はきょとんとしながら聞いた。
 すると美桜の代わりに菫が答える。
「そうだよ。ライトノベルでデビューして、今色々書いてる。二十代後半から三十代くらいの女性をターゲットにしたやつが主かな」
「会社員やりながらですよね?」
 今度は凛子だ。
「まあ……そうですね」
 美桜が少し困ったように笑い頷く。
「本名で活動されてるんですか?」
 誠一も意外そうな表情だ。
「いえ、ペンネームです。本名は流石に少し恥ずかしいので」
 困ったように苦笑する美桜。
「俺、小説家の人に初めて会ったわ。取材ならいつでも受けますよ」
 ノリのいい笑みの晃樹だ。寝不足を吹っ飛ばせそうである。
 談笑しているうちに、今岡親子と年配の松本夫妻がやって来る。
「え! 父さん、スマホ見て! 妹の旦那さんから連絡来てる! 予定日より少し早いけど、生まれたってさ! 女の子! 母子共に健康だってさ!」
 息子である圭太の明るい声だ。
 圭太の妹が無事出産したようである。
「生まれたのか……!」
 感慨深い表情の父、隆。
「今岡さん、おめでとう。いよいよお祖父(じい)ちゃんか」
 茂がポンポンと隆の肩を叩く。まるで自分のことであるかのように嬉しそうだ。
「おめでとうございます。お孫さんの成長、楽しみですね」
 貴子も柔らかく笑っていた。
「はい……!」
 妻を亡くして気力をなくしていた隆だが、孫の誕生により表情が明るくなっていた。

「何かこの旅行でいいことが起こってる人多いね」
 美玲は今岡親子達の様子を見て微笑んだ。
「そうだな」
 誠一も穏やかに笑っていた。

 その後、残りのツアー参加者も揃い、明美の案内によりバスに乗り込んだ。
 早朝にも関わらず対応してくれたフランス人運転手には感謝である。

 こうして、空港へ向かった美玲達。
 フランスを出国して日本へと帰国するのであった。
 長時間フライトを終え、日本に戻ってきた美玲達。
「うう……足がむくんでます〜」
 穂乃果が自身の足を触り、困ったように苦笑していた。
「うん、分かるよ。私も足パンパン」
 美玲も自分の足を触り、苦笑していた。
 現在日本時間で午前九時である。
 飛行機の中で爆睡していたが、どうにもまだ眠い美玲であった。
 入国手続きをし、手荷物受け取り場までやってきた美玲達。
「皆さん、六泊八日の旅、お疲れ様でした。特に大きな事件や事故はなく、無事に戻ってこられて安心しています。皆さん、ここからはご自身の荷物を受け取った方から自由解散です。国内便乗り継ぎで帰る方もいらっしゃいますからね。皆さん、本当にありがとうございました。気を付けてお帰りくださいね。また皆さんとどこかでお会いできるのを楽しみにしています」
 明美からそう挨拶があった。
 添乗員として明美にはお世話になったのである。
 ロストバゲージせず、無事に手荷物を受け取った美玲は明美に挨拶に行く。
「斉藤さん、こちらこそ色々とありがとうございました」
 美玲は深く頭を下げた。
 美玲以外にも、誠一、晃樹、凛子、朱理や他の参加者も明美に挨拶していた。
「凛ちゃんと宮本さんは飛行機で神戸に帰るの?」
 美玲は明美に挨拶を終えた凛子にそう聞いた。
「そうやで。まだ時間少しあるから晃ちゃんと空港内をぶらぶらしようと思うわ」
 クスッと笑う凛子。
「そっか」
「美玲ちゃん、また連絡するな。もし神奈川とか東京に行く機会あったら会おな。美玲ちゃんも、神戸とか大阪に来る機会あれば連絡してな」
 凛子は穏やかに微笑んでいた。
「うん。ありがとう」
 美玲は嬉しそうに笑う。
 フランスで出会い友達になった凛子とは、お互い住む場所の距離が遠く離れているのだ。
 気軽に会うことは少し難しい。
 しかし、同じ国内であり連絡先も交換しているので、決して会えないわけではないのだ。
 新たに出会った人と関係を続けていけるのである。
 誠一と晃樹も、何やら楽しそうに話していた。
 美玲は朱理とも連絡先を交換するのであった。

 その後、美玲は誠一と方面が同じなので、一緒に帰ることにした。
「楽しかったけど……何かものっすごく眠い……」
 モノレールの中で、美玲は大あくびをする。その影響で、目からは涙がこぼれる。
 フランスに到着した時と同じで、まるで近くに強制的に眠らせてくるような技を使っている敵がいるかのようである。
「ああ……俺も……ちょっと限界……」
 誠一も急激な睡魔に襲われていた。
 今までフランスにいて、体内時計が狂っているのだ。要するに時差ボケである。
 座ったり横になったら強制的に眠りにつかされるような感覚だった。
 もうここは日本なので、完全に気が緩み二人揃って眠ってしまうのであった。

◇◇◇◇

「そういや岸本さんは仕事いつから?」
 少し目が覚め、電車を乗り換えた誠一がそう聞く。
 方面が同じなので、美玲も同じ電車に乗っている。
「明後日。まあ暦通りだよ」
 美玲はあくびをして眠たそうな目をこすり、苦笑する。
「だから明日転職エージェントに登録して転職活動開始しようかと思ってる」
「そっか」
 誠一もあくびをし、眠そうな目で頷いた。
 日本に戻った美玲はすっかり前を向いていたのである。
 こうして、一人暮らししているマンションに帰宅した美玲であった。

◇◇◇◇

 早速転職エージェントに登録し、職務経歴書を書いた美玲。それを終えたらこの日はまだ時差ボケ中の体を休めて後日の仕事に備えるのであった。

 そして迎えた翌日。
 足取りは重いが冬田がいる職場から転職してやる決めているので、何とか精神を保つことができた。
 しかし、出社したら美玲にとって予想外のことが起こっていた。
「おお、岸本さん、来たか。待っていたよ」
 部長の曽我部が出勤した美玲を見つけるなりそう言った。
「……おはようございます」
 曽我部は冬田の肩を持っていたので、美玲はやや警戒心を強めていた。
 するといきなり曽我部が美玲に対して頭を下げた。
「岸本さん、今まで申し訳なかった」
「え……!?」
 曽我部からの突然の謝罪に美玲はギョッと目を見開く。
 完全に戸惑っていた。
「あの……曽我部部長?」
「岸本さん、冬田が君にパワハラや嫌がらせをしていたことに気付けなくて本当に申し訳ない。君も僕に訴えてくれていたのに、信じてあげられなくて本当に申し訳なかった」
 曽我部は真摯な様子である。
「岸本さんが休んだ日、冬田は無断欠勤だのどうたらこうたら騒いでいたよ。でも、小島さんが僕に君が冬田からパワハラや嫌がらせを受けていると相談しに来てくれたんだ。でも、その時も僕は冬田の肩を持ってしまった……」
 目線を下に落とす曽我部。
 美玲はふと同期である小島祥子に目をやる。
 祥子は申し訳なさそうに美玲を見ていた。
「その後、小島さんが労基に駆け込んだんだよ」
「はい……?」
 美玲は祥子と曽我部を交互に見て目を丸くした。
「割とすぐに労基の人からの立ち入りがあってね。冬田のパワハラや嫌がらせの証拠が数多く見つかった。他の役員もこのことにかなり怒っていてね。冬田は懲戒解雇になったよ。岸本さん、今まで悔しい思いや大変な思いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」
 心底反省している様子の曽我部である。
「あの、曽我部部長、頭を上げてください」
 美玲の方が完全に恐縮してしまっていた。
 重い気持ちで出社したのだが、冬田が解雇されてもういなくなっていたので、色々と拍子抜けの美玲であった。