その日の夜は、紅と一緒に寝ることになった。
楪に頼んだら少し渋い顔をしたけれど、今日だけと頼み込んだら渋々承諾してくれた。
しかし、夜、寝室に入っても紅は騒々しかった。
桃李はねちっこいだの、言いかたが気に入らないだのと、桃李の愚痴を散々喚き散らした。
寝落ちるまで、ひっきりなしに。
蜂というより雲雀のあやかしなのではないかと思ったくらいだ。けれど、その彼女らしい騒々しさが懐かしく、睡蓮の心に安心を与えた。
紅がいると、暗く寒い部屋に優しい光が灯ったような心地になるのだ。不思議だ。
楪といても、こうはならない。楪といるのは落ち着くし、安らぐ。だが、同時にとても緊張してしまう。じぶんがどう見られているかが気になって、目を合わせるのが怖くなるのだ。
それがどうしてなのか、睡蓮はまだよく分からない。
楪のことも紅のことも、愛している。
それなのに、楪にだけ緊張したり、不安になってしまうのはどうしてなのだろう……。
ふわり、とあくびが出る。眠くなってきた。
その日、睡蓮は久しぶりに深い眠りについたような気がした。
***
その翌日から、社の空気が変わった。空気に色がついたように華やかに、かつ忙しなくなったのである。
四六時中、紅がぺちゃくちゃとおしゃべりしているということもあるが、紅が戻ってきたことで睡蓮の緊張もいい具合に解けたのである。
楪を前にすると、未だに緊張して萎縮気味になってしまう睡蓮も、紅とのおしゃべりでは明るい笑い声を響かせる。
表情の明るくなった睡蓮に、楪はほっとしていた。
そして、忙しなくなった理由はもうひとつ。
いよいよ、神渡り式の支度に取り掛かり始めたのだ。
式を明日に控えた睡蓮一行はいよいよ今日、式典が行われる月の京へ向かう。
「睡蓮。ごはんだよ」
「はーい」
朝食の支度を終えた紅が、部屋に睡蓮を呼びにやってくる。
紅はいつもの小さなあやかし姿ではなく、人間の姿をしていた。
基本、紅は夜寝るとき以外の時間は、人間の少女に変化している。料理や洗濯のとき、人間姿のほうがなにかと勝手がいいからだ。
人間姿の紅は相変わらず小柄だが、睡蓮と同じくらいの年齢に見える。赤毛は自然な栗色に変化し、頭の高い位置でふたつに結えられている。
小町鼠色の生地に銀杏の葉が描かれた単衣に身を包み、帯は藍色の縦縞しじら織半幅帯だ。
人間姿の紅と話していると、ふつうの女子学生に戻ったような気になる。あの頃には経験できなかった友だちとのひとときを過ごしているようで、睡蓮はそれが少し嬉しかった。
紅が用意してくれた朝食を食べ終えると、着替えに入る。
以前、楪とともに出かけた着物屋で仕立ててもらった、特別な着物だ。
白地の生地に、薄紅色の梅の蕾と鶯が描かれた清楚な着物だ。帯は深緑色の薄い市松模様で、帯留めは梅の花だ。蕾の単衣に帯留めの花。つまり一輪だけ咲いた演出である。
梅の枝に止まった鶯が今にも飛び立ちそうで、睡蓮はこの着物が大のお気に入りだが、勇気が出ず、まだ一度も着ていなかった。
髪は紅が結ってくれた。髪には梅の実色の簪を挿して、完成だ。
「できたよ、睡蓮」
紅が満足そうに言う。
「う、うん……」
姿見を見る。やはり、すごく可愛い着物だ。
……けれど。果たしてじぶんに似合っているのだろうか、と不安に思ってしまう。
「紅……私、変じゃないかな?」
「どこが? この世のすべての男が見惚れるって保証する」
「そ、それはないよ……」
自信満々な紅に、睡蓮は苦笑する。
「もう、いいからほら、行くよ。楪さま、待ってるでしょ。あたしも着替えなきゃだし」
「う……うん」
紅にせっつかれ、睡蓮はそろそろと部屋を出る。
着物の裾からは、ひらひらとした布地が見えている。プリーツスカートという西の都で流行っているものだ。
これは、西の素材もなにか取り入れたほうがいい、という桃李の提案である。この式の前夜祭で、薫に紅の雇用の許諾を得るつもりだからだ。
しかしそのおかげで着物特有の重々しさがなくなり、一気に華やかな装いになった。丈が短いため歩きやすい。
「……おまたせしました」
着付けを済ませた睡蓮が楪のいる座敷へ向かうと、楪は睡蓮を見たまま硬直した。
「……どうでしょうか?」
「……あぁ、いや、すみません。あまりにも似合っているものだから……」
まっすぐな褒め言葉に、睡蓮は頬を染めて俯いた。
「ありがとうございます……その、楪さんも……」
そういう楪だって、今日は一段とお洒落に決めている。薄藍色の着物に光沢のある銀色の帯は品がありながらも涼しげで、墨色の羽織りにほどこされた植物の模様は雅やかさを演出している。
とても似合っている。
そのひとことが言いたいだけなのに、どうしても言えない。
――だって……私なんかに言われたって、きっと嬉しくもなんともないだろうし……。
睡蓮は足元を見やる。
昨晩、紅に言われたことを思い出していた。
楪に頼んだら少し渋い顔をしたけれど、今日だけと頼み込んだら渋々承諾してくれた。
しかし、夜、寝室に入っても紅は騒々しかった。
桃李はねちっこいだの、言いかたが気に入らないだのと、桃李の愚痴を散々喚き散らした。
寝落ちるまで、ひっきりなしに。
蜂というより雲雀のあやかしなのではないかと思ったくらいだ。けれど、その彼女らしい騒々しさが懐かしく、睡蓮の心に安心を与えた。
紅がいると、暗く寒い部屋に優しい光が灯ったような心地になるのだ。不思議だ。
楪といても、こうはならない。楪といるのは落ち着くし、安らぐ。だが、同時にとても緊張してしまう。じぶんがどう見られているかが気になって、目を合わせるのが怖くなるのだ。
それがどうしてなのか、睡蓮はまだよく分からない。
楪のことも紅のことも、愛している。
それなのに、楪にだけ緊張したり、不安になってしまうのはどうしてなのだろう……。
ふわり、とあくびが出る。眠くなってきた。
その日、睡蓮は久しぶりに深い眠りについたような気がした。
***
その翌日から、社の空気が変わった。空気に色がついたように華やかに、かつ忙しなくなったのである。
四六時中、紅がぺちゃくちゃとおしゃべりしているということもあるが、紅が戻ってきたことで睡蓮の緊張もいい具合に解けたのである。
楪を前にすると、未だに緊張して萎縮気味になってしまう睡蓮も、紅とのおしゃべりでは明るい笑い声を響かせる。
表情の明るくなった睡蓮に、楪はほっとしていた。
そして、忙しなくなった理由はもうひとつ。
いよいよ、神渡り式の支度に取り掛かり始めたのだ。
式を明日に控えた睡蓮一行はいよいよ今日、式典が行われる月の京へ向かう。
「睡蓮。ごはんだよ」
「はーい」
朝食の支度を終えた紅が、部屋に睡蓮を呼びにやってくる。
紅はいつもの小さなあやかし姿ではなく、人間の姿をしていた。
基本、紅は夜寝るとき以外の時間は、人間の少女に変化している。料理や洗濯のとき、人間姿のほうがなにかと勝手がいいからだ。
人間姿の紅は相変わらず小柄だが、睡蓮と同じくらいの年齢に見える。赤毛は自然な栗色に変化し、頭の高い位置でふたつに結えられている。
小町鼠色の生地に銀杏の葉が描かれた単衣に身を包み、帯は藍色の縦縞しじら織半幅帯だ。
人間姿の紅と話していると、ふつうの女子学生に戻ったような気になる。あの頃には経験できなかった友だちとのひとときを過ごしているようで、睡蓮はそれが少し嬉しかった。
紅が用意してくれた朝食を食べ終えると、着替えに入る。
以前、楪とともに出かけた着物屋で仕立ててもらった、特別な着物だ。
白地の生地に、薄紅色の梅の蕾と鶯が描かれた清楚な着物だ。帯は深緑色の薄い市松模様で、帯留めは梅の花だ。蕾の単衣に帯留めの花。つまり一輪だけ咲いた演出である。
梅の枝に止まった鶯が今にも飛び立ちそうで、睡蓮はこの着物が大のお気に入りだが、勇気が出ず、まだ一度も着ていなかった。
髪は紅が結ってくれた。髪には梅の実色の簪を挿して、完成だ。
「できたよ、睡蓮」
紅が満足そうに言う。
「う、うん……」
姿見を見る。やはり、すごく可愛い着物だ。
……けれど。果たしてじぶんに似合っているのだろうか、と不安に思ってしまう。
「紅……私、変じゃないかな?」
「どこが? この世のすべての男が見惚れるって保証する」
「そ、それはないよ……」
自信満々な紅に、睡蓮は苦笑する。
「もう、いいからほら、行くよ。楪さま、待ってるでしょ。あたしも着替えなきゃだし」
「う……うん」
紅にせっつかれ、睡蓮はそろそろと部屋を出る。
着物の裾からは、ひらひらとした布地が見えている。プリーツスカートという西の都で流行っているものだ。
これは、西の素材もなにか取り入れたほうがいい、という桃李の提案である。この式の前夜祭で、薫に紅の雇用の許諾を得るつもりだからだ。
しかしそのおかげで着物特有の重々しさがなくなり、一気に華やかな装いになった。丈が短いため歩きやすい。
「……おまたせしました」
着付けを済ませた睡蓮が楪のいる座敷へ向かうと、楪は睡蓮を見たまま硬直した。
「……どうでしょうか?」
「……あぁ、いや、すみません。あまりにも似合っているものだから……」
まっすぐな褒め言葉に、睡蓮は頬を染めて俯いた。
「ありがとうございます……その、楪さんも……」
そういう楪だって、今日は一段とお洒落に決めている。薄藍色の着物に光沢のある銀色の帯は品がありながらも涼しげで、墨色の羽織りにほどこされた植物の模様は雅やかさを演出している。
とても似合っている。
そのひとことが言いたいだけなのに、どうしても言えない。
――だって……私なんかに言われたって、きっと嬉しくもなんともないだろうし……。
睡蓮は足元を見やる。
昨晩、紅に言われたことを思い出していた。