その日の昼下がり、睡蓮は楪とともにみずみずしい夏山を背にした川辺を歩いていた。
 ちょうどいい場所を見つけ、川べりに降りてひと休みする。
 楪が言った逢い引きとは、宿場町へのおつかいのことだった。
 以前仕立てを頼んだ着物屋から、商品が完成したと楪のもとに連絡があったらしい。今は着物屋での買い物を済ませ、喫茶店でお茶を飲んだ帰りである。
 睡蓮はきらきらと光る水面を眺めて、目を細めた。川のせせらぎが涼やかだ。
 久しぶりに来た宿場町は、相変わらず活気があった。
 ふたりが背にしているのは、睡蓮の実家がある霊水山である。
「あの、ゆ……桔梗さん。本当に良かったんでしょうか? あんなにたくさんのお着物を買っていただいて……」
 うっかり楪、と言いかけて、睡蓮は慌てて言い直した。
「もちろんです」
 周囲には、水遊びをしている家族連れや、おしゃべりを楽しむ女学生たちが多くいる。
 聞かれていないかとひやひやして周囲を見ていると、楪がとなりでくすっと笑った。
「……大丈夫ですよ。堂々としていれば、案外気付かれないものです」
「は……はい」
 楪は今、桔梗の頃使っていた狐の面を被っている。
 現人神として町に降り立つとき、楪は基本、仮面を被って素顔を隠す。
 それは素顔を隠すためだけでなく、妖気を抑えるためだ。現人神の妖気はすさまじいため、妖気を抑える仮面は必須なのだ。
 しかしそれだけでなく、ふだんの町の様子を知るためという意図もある。とりあえず、現人神は多忙を極めるということである。
「あの……桔梗さん。今日はいろいろ、すみませんでした」
 桔梗、と呼ばれた楪は、涼しい顔――というか仮面を睡蓮へ向けて、言った。
「とんでもない。さっそく明日から着飾った睡蓮を見られると思うと、楽しみで眠れなさそうです」
「そ……それは……その、お着物に着られないといいんですけど」
「大丈夫ですよ。反物を合わせたとき、とても似合っていましたから」
 今日買った着物は、睡蓮に世界一似合うと楪は本気で確信している。
「そ……そうでしょうか……」
「はい」
 絶賛してくれる楪に、睡蓮は未だ慣れずにどぎまぎしてしまう。褒められるのは嬉しいけれど、どうもこうまっすぐ褒められると恐縮してしまうのだ。
 これまで、こんなふうに褒められるようなことなんてなかったから。
 言われていたことといえば、
『――杏子が生まれてきてくれたから、この家は安泰だわ。お姉ちゃん、将来杏子を支えてやってね』
『そうだな。お前はお姉ちゃんだからな』
 そんなことばかりだった。
 いやな記憶を思い出して、睡蓮はぎゅっと目を伏せる。
 川のせせらぎと、華やかな少女たちの笑い声が睡蓮の耳を支配する。笑い声たちがどうしても家族を連想させてしまって、睡蓮はじっと耐えた。
 そのときふと、こめかみをさらりとなにかが掠めた。
 目を開けると、楪の長い指先が睡蓮の前髪を軽くかき上げていた。
「睡蓮? どうかしましたか?」
「あ……いえ」
 慌てて笑みを作る。
「顔色が悪いです。気分が優れませんか? 今日は暑いですから……」
「いえ! 本当に大丈夫ですから」
「……そう、ですか」
 大丈夫と言い張る睡蓮に、楪は不服そうにしながらも、ようやく引き下がる。
「それにしても、桔梗さんの言うとおり今日はいい陽気ですね……」
「えぇ。気持ちのいい天気です」
 楪も頷いて空を見上げる。
 睡蓮はちらりと楪を見た。
 さらさらの銀髪は、まるで雨の糸を束ねたような幻想的な雰囲気を持つ。さらに、楪が今日着ているのは、淡い青磁色のお召。
 それに加え、上から羽織っている純白の羽織がまるで羽のように美しい。
 楪の銀髪が風にさらわれる。
 睡蓮はその横顔に、ぼんやりとした寂寥感を覚えた。
「私なんかより、楪さんのほうがよっぽど……」
 知らず、睡蓮は呟いていた。
「睡蓮?」
 楪の怪訝そうな顔を見て、はっとする。
「あっ……いえ」と、曖昧に笑う。
 そんな睡蓮に、楪も小さく笑う。睡蓮は呟いた。
「……私、嬉しいんです」
「え?」
「私にはもう、こんな穏やかな時間はやって来ないと思っていたから」
 ふと、夢なのではと思う。
 以前、桔梗とふたりで町に来たことを思い出す。
 着物屋で見た、美しい反物や帯。そのあと雨宿りで入った喫茶店では、初めて珈琲とチョコレートを食べた。
 あのとき楪は、睡蓮にたくさんの着物を注文してくれていたのだ。睡蓮がもう命尽きるということを、知らなかったから。
 だけど睡蓮は今、こうして楪とともにいる。また、あんなひとときを楪と送れるだなんて。
 本当に、夢のよう。
「……ありがとうございます、桔梗さん」
「こちらこそ。俺を選んでくれて、ありがとう」
 楪は、そっと睡蓮の手を取る。睡蓮が顔を上げると、仮面越しに楪が微笑むのが分かった。
「本当のことを言うと、以前仕立ててもらっていた着物ができあがったと連絡があったのは、つい今朝のことだったんですよ」
「え、そうなのですか?」
「明日にでもゆっくり行けばよかったんですけど、どうにも我慢ができなくて。……つい、急いてしまいました」
「……楪さん」
「ちゃんとあなたに贈れる日がきて良かったです」
「……はい」
 睡蓮は楪を見上げ、幸せを噛み締める。
 ――私はなんて、幸せなんだろう。
 こんな素敵なひとに愛されて。
 こんな素敵な贈り物をいただいて。
「桔梗さん、私――……」
 そのときだった。
 ふと、すぐ近くの土手に座り込んでいた少女たちの会話が聞こえてきた。
「それでね、彼ったら毎日口づけをねだってくるのよ。じぶんからより、わたしのほうからしてほしいのですって」
 睡蓮と楪は吹き出しそうになる。お互い顔を見合せて、しーっと指を唇に当てた。
「きゃあ! なにそれ、素敵!」
「甘過ぎですわ!」
 弾けんばかりの声だ。まるで小鳥たちのさえずりのようである。
「……でもね、わたくし、最初は結婚がすごく恐ろしくて、不安でたまらなかったのよ」
「分かるわよ。歳上の、しかも顔も知らないかたと結婚しなければならないなんて、わたくしだって目眩を覚えるわ」
「そうなのよ。だって、大人過ぎてなにを考えているのか分からないし」
 そういうものなのか、と思う。たしかに、あまりに歳上だと話が合わなそうな気はするが。
「えぇ。お気持ちは分かるわ。わたくしも、結婚が怖かったですもの! 変なおかただったらどうしようって!」
 なるほど。
 じぶんとそう変わらない歳頃の女学生たちの会話は、睡蓮にとって貴重だった。
 なにしろ睡蓮には友達がいない。紅は大親友だけれどあやかしだし、ふつうの人間の少女たちの価値観とは少し違う気がする。こういった常識は、睡蓮からしたら目から鱗なのである。
 睡蓮は彼女たちの会話に聞き耳を立てた。
「でも、今は幸せそうですわ」
「えぇ。じぶんでも不思議なのだけど。いつの間にか好きになってしまったのよ、あのおかたのこと」
「まぁ、素敵」
「私もいつか、あのおかたとそうなれるかしら」
「あのかたって? まさかあなた、良い殿がたがいるの?」
「まぁ……ちょっとだけ、気になってる殿がたがいるわ」
「きゃあ! ちょっと、どんなおかたのよー!」
「ちょっと、内緒よ」
「いいじゃない! 教えてよ」
 小鳥たちのさえずりのような楽しげな会話を聞きながら、睡蓮は考える。
 ――私も、今はすごく幸せ。だけど……。
 同時に怖さもある。
 この幸せがいつまで続くのか分からないし、そもそもこの幸せが本物かどうかすら、睡蓮には分からないから。
 それに、である。
 幸せは、ある日突然幻のように消え失せるものだと、睡蓮は知ってしまっている。
 ――楪さんにはぜったいにきらわれたくない……。
 楪にまできらわれてしまったら、睡蓮は今度こそどうしていいか分からない。愛しているはずなのに、一緒にいるのがどうしても緊張して、怖くなる。
 恋とは、こういうものなのだろうか。
 宿場町からの帰り道。
 睡蓮はどうしたらいいのか、よく分からなくなっていた。