使用人として睡蓮のもとで働くことになった楪は、家事をすることになった。
しかし、楪はこれまで家事などやったことはない。身の回りのことは、当たり前のように妖力で使役していた式神にやらせていた。
使用人として入ったはいいものの、楪はなにもできなかった。
しかし、なにもできない楪に睡蓮は呆れることなく、何度もそのやりかたを教えてくれた。優しく、丁寧に。
睡蓮を注意深くうかがった結果、楪はじぶんの考えをあらためざるを得なかった。
睡蓮は清らかな少女だった。
ただ、朗らかで人当たりがいいけれど、彼女の心の最奥にある最後の扉は、どうしても開けなかった。
睡蓮は、さびしくなってもだれかにぬくもりを求めることなく、ただじっとその場にうずくまって膝を抱えているような、そんな性格をしていた。
睡蓮を知れば知るほど、楪は彼女が気になって仕方なくなった。
なにが好きで、なにがきらいか。なにに興味があって、なににつまらないと思うのか……。
気になってたまらない。
ある日、楪は思い切って結婚のことを訊ねた。睡蓮は一度は楪を拒むように目を伏せ、黙り込んでしまった。
しまった、と内心焦る。
慎重に睡蓮の様子を窺った。
まだ、ここまで立ち入った話ができるような関係性ではなかったのだ。
しかし、聞くなら今しかないとも思った。
『……すみません。出過ぎたことを聞いてしまって』
楪は謝りつつ、もう少し踏み込んでみる。
『失礼ながら、実家でこのような扱いを受けているのは、龍桜院との婚姻を破棄したからではないかと』
睡蓮はゆっくりと目を開けた。
楪の言葉に、睡蓮は困ったように微笑み、呟く。
『それは違います。この生活は私にとってはふつうなんですよ。……いいえ、むしろ以前よりずっといいかもしれません』
『以前よりいい……? これが、ですか』
楪は言っている意味が分からず、怪訝な顔をした。
だって、彼女が置かれている今の状況は、控えめに見ても最悪な待遇に思うのだが。
『実は私、もともと花柳家の子どもじゃないんです』
知っていた。だが、さも知らなかったふりをする。
『ですが、あなたはこの花柳家のご長女で……』
『養子なんです。十五年前、子供に恵まれなかった両親が、孤児だった私を家族に迎え入れてくれたんです。でも、そのあとすぐに妹ができて……うちはそこそこ有名な家でしたから、今さら私を捨てることは体裁が悪かったんだと思います。だから、表向きは長女として育てられました』
そう、睡蓮は話した。ときおり言葉を詰まらせたり、泣きそうな笑みを浮かべながら。
睡蓮は孤児で、花柳家の養子。そのため家に居場所がない。
その内容は桃李がくれた書類にすべて記載されているとおりだったけれど、彼女の口から直接聞くと、書面の文字と違って、心臓が握り潰されているかのようにひどく苦しくなった。
このとき楪は思い知った。
書類の上で分かるのは、事実のみ。
当事者の感情までは分からない。
睡蓮がこれまでどんな気持ちでいたのか。
楪からの契約の話を、どんなふうに思っていたのか。
楪のことを、どう思っていたのか……。
――彼女のことが、好きだ。
楪は睡蓮の思いを聞いてようやく、己の思いに気付いた。
彼女が不安げな顔をすれば、抱き締めてやりたくなる。
背中を向けられれば、その名前を呼んで、振り向かせたくなる。
俯いていれば、そっとその柔らかそうな頬に触れて、目を合わせたくなる。
睡蓮を前に、だれかを愛おしいと思う感情を楪は初めて自覚した。
そんな彼女は、いつも手紙を大切そうに抱えていた。
見覚えがある。
結婚していたとき、桃李が楪の代わりにやり取りしていた手紙だ。
あのときは、くだらないことをしていると思っていた。手紙なんかでなにが分かるのかと。
でも、睡蓮は……。
楪のことが書かれたその手紙を、なにより大切にしている。じぶんではない、ほかの男からの手紙を。
悔しい。もしこのやり取りをじぶんがしていれば、睡蓮はじぶんに、最後の扉を開いてくれたかもしれない。
今さら、そんなことを思ったところでどうにもならないのに……。
――ぱちん、と火が爆ぜるような音がした。
また場面が変わっている。
まだ鳥の声もしない早朝。
あの日である。
楪は、朝早くから離れにやってきた桃李に睡蓮の状況を聞いていた。
『先ほど、彼女の親友を名乗るあやかしから、証言を得ました』
『親友……?』
楪は眉を寄せ、考える。瞬時に理解した。
親友とは、睡蓮がよく縁側で話している赤蜂のあやかしだ。おそらく、あのあやかしは不法滞在している者。そのため、睡蓮は楪にもその存在を話していない。
まったく、どこまでも優しい乙女である。
桃李が続ける。
『睡蓮さまは、楪さまが以前封印したあやかしの妖狐に騙されています。妖狐は〝花嫁〟の幻花を狙い、近付いたもよう……おそらく、睡蓮さまをうまく騙して、魂の契約をしたものと思われます』
『なるほど……それで体調が悪かったのですね』
楪の声が暗くなる。
『これではっきりしました。彼女の離縁のわけは、おそらく楪さまのお命と、地位を守るためかと』
睡蓮の離縁の理由は、ほかでもない楪の命と、地位を守るためだった。
花嫁が死ぬということはつまり、現人神である楪が力不足であったと民に思われかねないからである。下手したら、神の力を没収され、現人神としての地位をなくしてしまうかもしれない。
睡蓮はそれを危惧して、自ら離縁を申し出たのだ。
すべては、楪のために……。
『驚きました。まさかここまで、睡蓮さまが考えていたとは……〝花嫁〟はやはりお強い』
なにが強い、だ。楪は桃李を怒鳴りつけたくなる衝動を必死にこらえた。
睡蓮を危険に巻き込んでいたのは、ほかでもないじぶんだった。
それなのに楪は、睡蓮がなにかを企んでいるのではないかなどと考えて……おろかにもほどがある。
しかし、嘆いている暇はない。一刻も早く、彼女の妖狐の居場所を聞いて、睡蓮の魂を取り戻さなくては。
『睡蓮に確認します』
急いで、睡蓮の部屋に向かう。
軽く声をかけ、襖を開ける。……が、睡蓮はいなかった。布団は整頓され、荷物もきれいに片付けられている。
楪は息を呑んだ。
背後に控えていた桃李が、失礼しますと断ってから、中へ入る。
『楪さま、こちらが……』
文机からなにかを見つけたらしい桃李が、楪のもとへやってくる。
『これは……』
桃李が見せてきたのは、手紙だった。
《桔梗さんへ
睡蓮です。いきなりお手紙なんて書いてごめんなさい。
ただ、あなたにはどうしても伝えなければならないことがあります。どうか、私の声に少しだけ付き合ってください。
実は私は、もうこの家に戻ることはありません。
あなたを雇っておきながら、勝手なことをして本当にごめんなさい。
あなたと過ごしたこの数ヶ月、夢のような時間でした。
お恥ずかしながら、私はあまり家族と上手くいっておらず、これまでふつうの生活を送ったことがありませんでした。
団欒というものを知らない私にとって、だれかと目を合わせて話したり、一緒にご飯を作ったり食べたり……。
幸せでした。
何気ない日常なのかもしれないけれど、私には初めてのことばかりで、本当に、本当に楽しかった。
ありがとう。
以前、桔梗さんに話したと思いますが、私は現人神の龍桜院楪さまと結婚しておりました。
離縁こそしてしまいましたが、私は今でも楪さまを愛しています。
だから、居場所のない私を必要としてくれた楪さまに、少しでも恩返しがしたいのです。
私はゆきます。
桔梗さん、巻き込んでしまってごめんなさい。
少ないですが、私の持っているすべてのお金を置いていきます。
どうか、お元気で。
睡蓮》
手紙を持つ手が震えた。
――楪さま。もう少し、花嫁さまのことも気にかけてやってください。
桃李には、何度もそう言われていた。でも、無視した。
ばかだった。ばか過ぎてじぶん自身を殴り飛ばしたくなる。
――離縁届です。
渡された離縁届。
睡蓮とは、三年も夫婦だったのに。三年もあったのに。
なんで一度も、顔を見にいかなかったのか。
なんでもっと、ちゃんと睡蓮と向き合ってやらなかったのか。
なんで。なんで。なんで……。
彼女が妖狐とふざけた契約をする前に、気付けたはずなのに……。
『楪さま、落ち込んでいる暇はありません』
『……分かっています』
楪は仮面を外し、懐から煙管を出す。
口をつけ吸い込むと、ふうっと息を吐いた。細い煙が立ち上る。
楪はその煙をじっと見つめた。
煙はしばらくふわふわとして、そして意志を持ったように窓の外へ抜けていく。苦手な追跡術だったが、成功した。いざとなるとできるものだ。
『追います』
『はい』
桃李を気遣っている暇はなかった。楪は容赦なく、空を駆ける。
場面が変わる。
おそらく、これが最後だろう、と楪は心のどこかで思った。
能力を全開放し、空を駆ける。
間一髪のところで睡蓮の姿を見つけ、その小さな身体を抱き寄せる。
よかった、間に合った。
睡蓮は、たった今魂を差し出すところだった。
彼女を覆う影を取り払い、その手にたしかに抱きとめる。
睡蓮は、驚いた顔をしていた。
なぜだろう、と思って、すぐにずっと隠していた素顔のことを思い出す。
そうだ。
楪はずっと、桔梗として仮面を被って過ごしていた。睡蓮はこの顔を知らないのだ。
『桔梗ですよ、睡蓮さま』
正体を伝えると、睡蓮はさらに目を大きくした。
そして、すべてを打ち明けて懺悔をして、妖狐と対峙する。
妖狐――幽雪。
睡蓮の魂を騙し取ろうとしたあやかし。
楪は容赦なく幽雪を妖力の氷で凍らせ、魂を引き抜いた。
そしてそれを見て、楪は確信した。
睡蓮は、本当に幻花の魂を持つ花嫁だった。睡蓮の魂は、美しい椿の花の形をしていたのだ。
楪は、幽雪から睡蓮の魂を奪い返すと、氷漬けになった幽雪を見やる。
さて、この腐ったあやかしをどうしようか。
睡蓮のことを考えないのであれば、もちろん今すぐ溶岩へ閉じ込めるのだが。
――しかし……。
彼女の前ではあまり、手荒なことはしたくない。
ちらり、と睡蓮を見る。
楪は苦笑した。やはり、睡蓮はそれは望んでいないようだ。
もう悪さをできないよう、楪は幽雪の妖力をできる限り己の中に吸い込んでから、彼を閉じ込める氷にふっと息を吹きかけた。
氷がゆっくり融解していく。
術を解かれた幽雪がその場に崩れ落ちると、睡蓮が駆け寄った。
睡蓮は、相変わらず優しい。
事件が一段落して力を奪われた幽雪は、去り際、睡蓮に言った。
――お前もともに来るか、と。
睡蓮は戸惑いながら、楪を見る。
楪は、やるせなく目を伏せた。楪には、睡蓮を引き止める権利はこれっぽっちもない。
睡蓮とはもう離縁してしまっているし、そうでなくとも彼女にはひどいことばかりしている。
今さら愛しているなんて、どの口が言えようか。
しかし、睡蓮は。
『……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません』
はっきりと、じぶんの言葉で断った。
楪は唇を引き結ぶ。
――やめてほしい。
だってそんなことを言われたら、楪はどうしても期待してしまう。手を伸ばしたくなってしまう。
『……睡蓮……』
胸が痛い。心臓を鷲掴みにされたように。目の奥が熱い。焼けるように。どうして?
……分かっている。
愛しているからだ。睡蓮のことを、どうしようもなく。
その後、幽雪が去った銀杏のトンネルの中で、楪と睡蓮は心を通わせた。
楪は、これまでの謝罪と後悔を、情けなくも言葉にした。
そして。
『今さらこんなこと、都合が良過ぎると分かっています。でも……あなたを失いそうになってあらためて、自覚しました。俺は、あなたが好きです。これからもずっと、あなたのそばにいたい』
もう一度告白をした。今度こそ、心から愛を込めて。
『睡蓮さま。……離縁の話を、破棄させてほしい。……もう一度、俺と生きてもらえませんか。今度は契約じゃない、本物の……愛の結婚をしてほしいんです』
びっくりした。
告白とは、こんなにも勇気をともなうものなのか。こんなに怖くて、心が震えるものなのか。
楪は目を瞑る。
これまで楪に想いを伝えてくれてきたひとたちの顔を思い浮かべる。彼女たちも、今の楪と同じ気持ちだったのだろうか。
もしそうならば、悪いことをしてしまったと思う。
そんなことを思いつつ顔を上げると、涙ぐんだ睡蓮と目が合った。
『私も……私も、楪さまとずっと一緒にいたいです』
睡蓮の言葉に、楪はどうしようもない感動を覚える。
睡蓮を抱き締め、噛み締めた。
そうか。これが、〝幸せ〟なのか……と。
なにもかも初めての感情をくれた睡蓮に、楪は誓う。この先、どんなことが起ころうとも命をかけて守り抜く。
眩しい朝日の中、楪は睡蓮を抱き寄せて、そう心に決めた。
ぱっと目が覚めた。
優しい木目の天井が目に入って、楪はまばたきをする。
――ここは。
ゆっくり起き上がり、となりを見る。楪が贈った椿柄の浴衣を着た睡蓮が可愛らしい寝息を立てていた。
睡蓮の寝顔を見て、じぶんが離れにいることを自覚する。
昨日はいろんなことがあった。
睡蓮の命が妖狐に狙われ、危機一髪彼女を助けて。しかしそのおかげで弱ってしまった彼女の体力を心配して、楪は睡蓮を自らの社に連れてきたのだった。そして、その後すぐ花柳家に戻って、結婚の挨拶をして……その日は、離れに泊まることになったのだった。
昨晩、ふたつ並べられた布団を見て顔を真っ赤にしていた睡蓮を思い出して、楪は思わず口元を緩ませた。
睡蓮はおそらく、今までどおりお互いべつの部屋で眠る気だったのだろうが、そうはさせまいと楪が自ら睡蓮の部屋に布団を運んだ。
睡蓮はまるきり初心だった。
もちろんなにもしないと言って布団に入っても、睡蓮は緊張が抜けないのかあまりに頻繁に寝返りを打つものだから、楪は最終的に睡蓮の手をぱっと掴んだ。
「じっとして、寝てください」――と、わざと耳元で囁いた。案の定、暗がりの中でも睡蓮は顔を真っ赤にしていた。
そのまま楪が手を離さずにいると、睡蓮は分かりやすく動揺していた。
正直、可愛すぎてどうにかしてやろうかと思った楪だったが、やめた。
大事にすると決めたのだから、と心に言い聞かせる。
……が。あんまり意識されるものだから、我慢できなくなった。
「……睡蓮。口づけくらいは、いいですか?」
欲に抗えず、正直に聞くと、
「ひぇっ?」
思わぬ声が飛んできて、楪は一瞬きょとんとなる。
「くっ……口づ……で、すか……えと……」
どこまでも奥ゆかしい花嫁だ。この状態の彼女に迫るのはさすがにかわいそうだろうか。
「冗談ですよ」と笑って、睡蓮から手を離す。
「さて、寝ましょうか」
本当はまったく冗談ではなかったが、新婚のうちからきらわれるのはいやだからやめた。それに、今は暗いからもったいない。
初めては、睡蓮の顔をちゃんと見たい。
そんなことを思っていると、
「もう、ね、眠れそうにありません……」
なんて呟いている。
「では、おやすみの口づけをもう一回しますか?」と言う楪に、睡蓮は黙り込み、恥ずかしそうに布団を頭まで被ってしまった。
やり過ぎただろうか。これでも我慢しているのだが。
と、思いつつ目を瞑ろうとすると、すっと手にぬくもりを感じた。睡蓮の手だ。きゅっと縋るように楪の指先を掴んでいるのがいじらしい。
「……手、だけ繋いだままでもいいですか」
おずおずとした声が聞こえて、楪は危うくその手を強く引きそうになる。
なんとかこらえて、「はい」とだけ告げた。若干、声が掠れていた。
以前、桃李が言っていたことを思い出す。
『〝花嫁〟はお強い』
まったく、そのとおりだった。楪はとなりで寝息を立てる睡蓮に白旗を上げて、そっと目を閉じるのだった。
無事、睡蓮が楪の花嫁となって一週間が過ぎた。
睡蓮は既に、本拠地を花柳家の離れから楪が住まう天空の社へと変えている。
最近の睡蓮は、社にある現人神や花嫁に関する資料を読み、勉強していることが多い。
現人神をそれぞれ加護する神獣のこと。それぞれの現人神が得意とする術式。花嫁の役割と、幻花と呼ばれる特別な魂について――。
現人神の花嫁として学ぶべきことは、たくさんある。
楪や薫たち〝現人神〟についても、じぶん自身である〝花嫁〟についても、睡蓮はまだまだ知らないことが多過ぎる。
睡蓮に与えられた部屋は、座敷と板間が襖ひとつで仕切られた二部屋。
しかし、睡蓮はいつも資料が保管されている資料庫の窓際にある洋風机と椅子を使って勉強している。
ぱら、と頁をめくる音が響いた。
そういえば、雨の音が消えている。
八角格子窓のほうへ目を向けると、しっとりとした水のにおいが濃くなった。
窓の向こうには、紫陽花がある。青、桃、白の花びらが灰色の空に鮮やかに映える。
近くにある柳の木も、いつもの乾いた葉音ではなく、生き返ったようにみずみずしい葉音に変わる。
睡蓮はそんなささいな変化が好きだった。
水と言えば、東の現人神について調べ始めて、分かったことがある。
楪は水を司る現人神だという。
ほかの現人神――たとえば白蓮路家は風、朱鷺風家は炎、玄都織家は土、である。
そしてひとびとは、その土地を治める現人神が司る力と同じ質の魂を持つと言われている。そのため、現人神は同じ系統の魂を持つ土地から花嫁を選ばなければならない。違う系統の魂では、番となり得ないからである。となると睡蓮は楪と同じ、水の魂を持っているらしい。しかも、その中でも特に稀有な幻の花と呼ばれる魂を。
ふと、資料庫の扉が音を立てて開いた。睡蓮は窓の外から、扉へ目を向ける。
だれだろう、と思って見ていると、入ってきたのは楪だった。社には今のところ、楪と睡蓮しかいないから当たり前と言えば当たり前なのだが。
楪は、紅と桃李もいずれここへ呼ぶつもりだと言っていたが、今のところはふたり暮らしだ。
紅と桃李は今、絶賛特訓中だからである。
なんでも、紅は護衛としての基礎を身につけるため、護衛任務に長けた桃李が特別に特訓するのだという。
しかし桃李の訓練は文字どおり鬼の訓練らしく、紅は半泣きになりながらこなしている、と楪は言っていた。
紅の武運を祈りつつ、睡蓮は毎日勉強している。
「睡蓮、少しいいですか?」
入ってきた楪が睡蓮を呼ぶ。睡蓮は資料を閉じ、立ち上がって楪のもとへ行く。
「どうかしましたか?」
楪は睡蓮と自室に移動すると、言った。
「花嫁の神渡り式が行われることが決まりました」
「花嫁の神渡り?」
睡蓮が首を傾げる。
「はい。以前の契約結婚時も行われる予定だったのですが。覚えていませんか?」
言われてみれば、と思い出す。
「そういえば……前のときはたしか、南の前現人神さまが崩御されて延期になったって、桃李さんから手紙で聞きました。えっと……花嫁の神渡り式って、いわゆる結婚式のことですよね?」
「そうです」
睡蓮と楪は、結婚式がまだなのである。
「そういえば、今南の現人神さまって……」
「炎禾さまが崩御されてからは、双子の妹である詠火さまが務めています」
「えっ! 現人神さまって、みんな男性なんじゃ……」
「まさか。現人神の中でも、朱鷺風家と玄都織家は代々、当主は女性ですよ。龍桜院家と白蓮路家は代々男が継いでいますが」
「なるほど……じゃあ、南と北の土地で幻花を持つのは、花婿さまとなるのですか?」
睡蓮が訊ねると楪は「はい」と微笑んだ。
「神渡り式は二週間後の夜、新月のもとで行われます。式自体は難しいことはないのですが、ただひとつ、睡蓮には話しておかなければならないことがありまして」
「話しておかなければならないこと?」
なんだろう。難しいことじゃなければいいが。
睡蓮はごくりと息を呑む。楪は説明を続ける。
「神渡り式は、月の京という特別な場所で行われます。月の京へは式前日に入って、その日はまず各現人神とその伴侶への挨拶回りがあり、そのあと晩餐会。翌日に式をして、式のあとは現人神と伴侶別れてのお茶会をして、解散……という流れになります」
「は、はい」
なかなか目まぐるしい。
――花嫁の神渡り。
現人神の〝花嫁〟が決まると、まずいちばんに行われる行事のひとつである。
世間で言う、いわゆる結婚式だ。
ただしかし、神事である花嫁の神渡りは、ふつうの結婚式とは少し違うところがある。
それは……。
「神渡り式では、現人神たちが一堂に会します。睡蓮は、この意味が分かりますか?」
「……いえ、えっと……?」
睡蓮は、楪の言葉の意味が分からず首を傾げる。
「現人神は、ひとのかたちをした神です。あくまで、神。そのため、ひととは桁違いの妖気を放っている」
「あっ……!」
それは、睡蓮も勉強した。
楪の言葉の意味を睡蓮はようやく理解する。
「現人神は凄まじい妖気を放つ。ひとの地に降りるときは神の力を封じるため、必ず仮面を被らなければならない」
睡蓮は資料に書かれていた文面を復唱した。楪が頷く。
「そのとおりです。妖気を抑える仮面は、現人神に限らず、強い妖気を持つあやかしには義務づけられています」
「つまり……現人神さまたちの妖気に、私が耐えられるのかが試されているということですか?」
「花嫁や花婿には、まずいちばんに求められる要素ですからね。彼らは式中、仮面は被りません。つまり、式のあいだそれに耐えられなければ、伴侶失格……と、なり得るということになります」
現人神について調べるまで、仮面に妖気を抑える力があるだなんて知らなかった。
高貴なあやかしが仮面を付けている理由は、ただ己の権力を誇示するためだと思っていたが、ちゃんとした理由があったらしい。しかも、ひとに配慮したものだったなんて。
「私に耐えられるでしょうか……」
「おそらく、問題はないかと思います。俺と過ごしてもまるでふつうでしたし、なにより幽雪と対峙したとき、俺は能力を解放していましたが、睡蓮は魂をほぼ失くした状態でも耐えていましたから」
「それはそうですけど……」
楪の話に、睡蓮の顔はみるみる青ざめていく。
楪はともかくとして、ほかの三神たちに認められる。
そんなこと、なんの取り柄もないじぶんにできるのだろうか。
途端に暗い顔になった睡蓮の背に、楪がそっと手を当てる。
「そう暗い顔をしないで、睡蓮。きっと大丈夫ですよ」 楪の言葉にも、睡蓮の中の不安はまだ消えない。
なぜなら睡蓮はじぶん自身が〝幻花の花嫁〟であると言われても、あまりぴんと来ていない。
幽雪との戦いのとき、己の魂のかたちを見て、それはたしかに、花のかたちをしていたのだけれど。
それだけではない。
睡蓮が楪にもたらしたという、あやかしの邪気を祓う力。
そんなすごい力が本当にじぶんにあるのか、睡蓮は未だに半信半疑だった。
「それからもうひとつ、睡蓮には覚悟していただかないといけないことが」
「ま、まだ覚悟することが?」
今度はなんだろう、とびくびくする睡蓮に、楪は控えめに続ける。
「正式に結婚を認められた場合、誓いの口づけがあるんです」
「く、くち、づけ……!?」
目を白黒させる睡蓮に、楪が小さくため息をつく。
睡蓮は未だに楪との距離感に慣れず、唇への口づけはおろか、楪の手が触れるだけでも身を固くしてしまう。それなのに、口づけだなんて。しかも、大勢のひとの前で。
無茶だ。ぜったい。
あわあわとする睡蓮を見つめ、楪は小さく吹き出した。
睡蓮との夫婦の営みについては、正直楪はもどかしい日々を送っていた。だが、楪は案外それも心地よいと思っていた。
なにしろ、楪だって心から通じ合った乙女は初めてなのである。触れたい反面、なにより大事にしたい存在に変わりない。
……ただ、神事となればべつである。
恥ずかしいからできません、はさすがに許されないだろう。
だが……。
楪はちらりと睡蓮を見た。
睡蓮はただ口づけと言葉にしただけで、顔を真っ赤にしている。
ふたりきりのときでこうなのだ。このままでは、人前で口づけなどおそらく無理に等しい。
「……睡蓮。そんな顔しないでください」
かちこちになってしまった睡蓮に、楪は苦笑混じりにそっと囁く。
「大丈夫ですよ、俺は、あなたがいやがることはぜったいにしません。だから心配しないで」
「え……本当、ですか?」
なおも不安そうな顔をする睡蓮に、楪は優しく微笑みかける。
「当日は、ふりにしましょう」
「えっ……ふり?」
驚く睡蓮に、楪が頷く。
「はい。口づけは式の最後……祭壇の上で行われます。現人神たちの前ではありますが、距離もありますし、ふりでもきっと見えませんよ」
「……そうですか」
「えぇ。だから心配しないで」
「はい……」
睡蓮がふっと息を吐く。どこか安堵したような表情をする睡蓮に、楪は少しの寂寥感を覚える。
睡蓮と思いを通じ合わせたものの、ふたりの間にはまだ距離がある。こうあからさまにホッとされてしまうと、寂しいものがある。
だが、あまり焦って距離を詰めても、彼女を怯えさせるだけだろう。楪は込み上げそうになる感情をぐっと抑えて、笑みを浮かべる。
「……そんなことより睡蓮。今から少し出かけませんか?」
「えっ? お出かけですか?」
「はい。さ、行きましょう」
楪は睡蓮に、いつもどおりの美しい仮面を被った。
その日の昼下がり、睡蓮は楪とともにみずみずしい夏山を背にした川辺を歩いていた。
ちょうどいい場所を見つけ、川べりに降りてひと休みする。
楪が言った逢い引きとは、宿場町へのおつかいのことだった。
以前仕立てを頼んだ着物屋から、商品が完成したと楪のもとに連絡があったらしい。今は着物屋での買い物を済ませ、喫茶店でお茶を飲んだ帰りである。
睡蓮はきらきらと光る水面を眺めて、目を細めた。川のせせらぎが涼やかだ。
久しぶりに来た宿場町は、相変わらず活気があった。
ふたりが背にしているのは、睡蓮の実家がある霊水山である。
「あの、ゆ……桔梗さん。本当に良かったんでしょうか? あんなにたくさんのお着物を買っていただいて……」
うっかり楪、と言いかけて、睡蓮は慌てて言い直した。
「もちろんです」
周囲には、水遊びをしている家族連れや、おしゃべりを楽しむ女学生たちが多くいる。
聞かれていないかとひやひやして周囲を見ていると、楪がとなりでくすっと笑った。
「……大丈夫ですよ。堂々としていれば、案外気付かれないものです」
「は……はい」
楪は今、桔梗の頃使っていた狐の面を被っている。
現人神として町に降り立つとき、楪は基本、仮面を被って素顔を隠す。
それは素顔を隠すためだけでなく、妖気を抑えるためだ。現人神の妖気はすさまじいため、妖気を抑える仮面は必須なのだ。
しかしそれだけでなく、ふだんの町の様子を知るためという意図もある。とりあえず、現人神は多忙を極めるということである。
「あの……桔梗さん。今日はいろいろ、すみませんでした」
桔梗、と呼ばれた楪は、涼しい顔――というか仮面を睡蓮へ向けて、言った。
「とんでもない。さっそく明日から着飾った睡蓮を見られると思うと、楽しみで眠れなさそうです」
「そ……それは……その、お着物に着られないといいんですけど」
「大丈夫ですよ。反物を合わせたとき、とても似合っていましたから」
今日買った着物は、睡蓮に世界一似合うと楪は本気で確信している。
「そ……そうでしょうか……」
「はい」
絶賛してくれる楪に、睡蓮は未だ慣れずにどぎまぎしてしまう。褒められるのは嬉しいけれど、どうもこうまっすぐ褒められると恐縮してしまうのだ。
これまで、こんなふうに褒められるようなことなんてなかったから。
言われていたことといえば、
『――杏子が生まれてきてくれたから、この家は安泰だわ。お姉ちゃん、将来杏子を支えてやってね』
『そうだな。お前はお姉ちゃんだからな』
そんなことばかりだった。
いやな記憶を思い出して、睡蓮はぎゅっと目を伏せる。
川のせせらぎと、華やかな少女たちの笑い声が睡蓮の耳を支配する。笑い声たちがどうしても家族を連想させてしまって、睡蓮はじっと耐えた。
そのときふと、こめかみをさらりとなにかが掠めた。
目を開けると、楪の長い指先が睡蓮の前髪を軽くかき上げていた。
「睡蓮? どうかしましたか?」
「あ……いえ」
慌てて笑みを作る。
「顔色が悪いです。気分が優れませんか? 今日は暑いですから……」
「いえ! 本当に大丈夫ですから」
「……そう、ですか」
大丈夫と言い張る睡蓮に、楪は不服そうにしながらも、ようやく引き下がる。
「それにしても、桔梗さんの言うとおり今日はいい陽気ですね……」
「えぇ。気持ちのいい天気です」
楪も頷いて空を見上げる。
睡蓮はちらりと楪を見た。
さらさらの銀髪は、まるで雨の糸を束ねたような幻想的な雰囲気を持つ。さらに、楪が今日着ているのは、淡い青磁色のお召。
それに加え、上から羽織っている純白の羽織がまるで羽のように美しい。
楪の銀髪が風にさらわれる。
睡蓮はその横顔に、ぼんやりとした寂寥感を覚えた。
「私なんかより、楪さんのほうがよっぽど……」
知らず、睡蓮は呟いていた。
「睡蓮?」
楪の怪訝そうな顔を見て、はっとする。
「あっ……いえ」と、曖昧に笑う。
そんな睡蓮に、楪も小さく笑う。睡蓮は呟いた。
「……私、嬉しいんです」
「え?」
「私にはもう、こんな穏やかな時間はやって来ないと思っていたから」
ふと、夢なのではと思う。
以前、桔梗とふたりで町に来たことを思い出す。
着物屋で見た、美しい反物や帯。そのあと雨宿りで入った喫茶店では、初めて珈琲とチョコレートを食べた。
あのとき楪は、睡蓮にたくさんの着物を注文してくれていたのだ。睡蓮がもう命尽きるということを、知らなかったから。
だけど睡蓮は今、こうして楪とともにいる。また、あんなひとときを楪と送れるだなんて。
本当に、夢のよう。
「……ありがとうございます、桔梗さん」
「こちらこそ。俺を選んでくれて、ありがとう」
楪は、そっと睡蓮の手を取る。睡蓮が顔を上げると、仮面越しに楪が微笑むのが分かった。
「本当のことを言うと、以前仕立ててもらっていた着物ができあがったと連絡があったのは、つい今朝のことだったんですよ」
「え、そうなのですか?」
「明日にでもゆっくり行けばよかったんですけど、どうにも我慢ができなくて。……つい、急いてしまいました」
「……楪さん」
「ちゃんとあなたに贈れる日がきて良かったです」
「……はい」
睡蓮は楪を見上げ、幸せを噛み締める。
――私はなんて、幸せなんだろう。
こんな素敵なひとに愛されて。
こんな素敵な贈り物をいただいて。
「桔梗さん、私――……」
そのときだった。
ふと、すぐ近くの土手に座り込んでいた少女たちの会話が聞こえてきた。
「それでね、彼ったら毎日口づけをねだってくるのよ。じぶんからより、わたしのほうからしてほしいのですって」
睡蓮と楪は吹き出しそうになる。お互い顔を見合せて、しーっと指を唇に当てた。
「きゃあ! なにそれ、素敵!」
「甘過ぎですわ!」
弾けんばかりの声だ。まるで小鳥たちのさえずりのようである。
「……でもね、わたくし、最初は結婚がすごく恐ろしくて、不安でたまらなかったのよ」
「分かるわよ。歳上の、しかも顔も知らないかたと結婚しなければならないなんて、わたくしだって目眩を覚えるわ」
「そうなのよ。だって、大人過ぎてなにを考えているのか分からないし」
そういうものなのか、と思う。たしかに、あまりに歳上だと話が合わなそうな気はするが。
「えぇ。お気持ちは分かるわ。わたくしも、結婚が怖かったですもの! 変なおかただったらどうしようって!」
なるほど。
じぶんとそう変わらない歳頃の女学生たちの会話は、睡蓮にとって貴重だった。
なにしろ睡蓮には友達がいない。紅は大親友だけれどあやかしだし、ふつうの人間の少女たちの価値観とは少し違う気がする。こういった常識は、睡蓮からしたら目から鱗なのである。
睡蓮は彼女たちの会話に聞き耳を立てた。
「でも、今は幸せそうですわ」
「えぇ。じぶんでも不思議なのだけど。いつの間にか好きになってしまったのよ、あのおかたのこと」
「まぁ、素敵」
「私もいつか、あのおかたとそうなれるかしら」
「あのかたって? まさかあなた、良い殿がたがいるの?」
「まぁ……ちょっとだけ、気になってる殿がたがいるわ」
「きゃあ! ちょっと、どんなおかたのよー!」
「ちょっと、内緒よ」
「いいじゃない! 教えてよ」
小鳥たちのさえずりのような楽しげな会話を聞きながら、睡蓮は考える。
――私も、今はすごく幸せ。だけど……。
同時に怖さもある。
この幸せがいつまで続くのか分からないし、そもそもこの幸せが本物かどうかすら、睡蓮には分からないから。
それに、である。
幸せは、ある日突然幻のように消え失せるものだと、睡蓮は知ってしまっている。
――楪さんにはぜったいにきらわれたくない……。
楪にまできらわれてしまったら、睡蓮は今度こそどうしていいか分からない。愛しているはずなのに、一緒にいるのがどうしても緊張して、怖くなる。
恋とは、こういうものなのだろうか。
宿場町からの帰り道。
睡蓮はどうしたらいいのか、よく分からなくなっていた。
それは、花嫁の神渡り式が三日後に迫った日の夜のことだった。
睡蓮が楪と龍桜院家の目録を見ていたとき。遠くで、ちりんと涼し気な音がした。鈴の音である。
社で柳の木に付けられた鈴が鳴ったとき、それはすなわち来客を表す。
ここへ来てすぐの頃、この鈴が鳴るたび睡蓮は紅が特訓を終えて帰ってきたのかと胸を弾ませた。
だが、毎回やってくるのは桃李だけ。話を聞いてみれば、紅は訓練に苦戦していて、合格点を取るのにはまだ時間がかかりそうだと苦笑い。
それから睡蓮は、桃李が来るたびにしたためておいた手紙を渡してもらっているが、返事が来た試しはない。もしかしたら、手紙を読む暇もないのかもしれない。
睡蓮は目録から顔を上げて、「こんな時間に桃李さんでしょうか?」と口にする。
睡蓮がそう思うのも無理はない。
なにしろこの鈴が鳴ったとき、だいたいやってくるのは桃李だけで、桃李以外来たためしがないからだ。
きっと今日も桃李だけだろう。無意識に落胆を醸し出す睡蓮に、楪はどこか意味深な笑みを浮かべた。
さて、と立ち上がり、睡蓮の手を引く。
「一緒にお迎えに行きましょうか」
「え……あ、はい」
促されるまま、睡蓮は楪とともに玄関に向かう。
そして、客人の顔を見た睡蓮の顔に、ぱっと花が咲く。
「紅!」
玄関を開けると、そこにいたのは、睡蓮が待ち続けた紅だった。
睡蓮が叫ぶように名前を呼ぶと、紅がぴゅっと小さな風を巻き起こして、睡蓮の頬に飛びついた。
耳元でぶんぶんと懐かしい羽音がする。紅だ。紛れもなく。
「紅……!」
「睡蓮〜!!」
睡蓮が名前を呼ぶと、紅は涙を滲ませて睡蓮のもとへ飛び込んできた。睡蓮は紅を受け止め、そのぬくもりを確かめる。
「特訓は? もういいの?」
「うん! もう完璧に護衛力身につけて……」
きたから――と、自信満々に頷いた紅の声に被せるように、桃李が言う。
「なんとか及第点を越えましたので――お待たせしてしまって申し訳ありませんでした、睡蓮さま」
さらっと言う桃李に、紅は小さく舌打ちをした。
「桃李さん! お疲れさまです」
紅ばかりに気を取られていたせいで、背後に桃李がいたことに気が付かなかった。
「紅の特訓、無事終わったんですね! 紅に良くしてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。まだまだ睡蓮さまをお守りするには気になるところが多々ありますが……まぁ、もうすぐ神渡り式ですし、いざとなれば私もいますからね。こんなのでも、いないよりはマシでしょう」
睡蓮が言うと、桃李はにこにこ笑顔で言った。いつも睡蓮に見せる優しい顔である。
すると、紅がけっと吐き捨てた。
「出たよ、腹黒鬼畜」
「鬼ですがなにか?」
「ああもうムカつく! この鬼畜め!」
「ちょっ……紅ったら、特訓してもらって文句言っちゃだめだよ」
「いいのよ、このくらい!」
たしかに、ちょっと桃李らしからぬ辛辣な物言いだけれど。
「それにね、睡蓮。あれは特訓じゃないわ。あれはいじめよ! もはやい、じ、めっ!」
紅が桃李を睨みながら羽音をぶんぶん鳴らす。ずいぶんとお怒りのようだ。
「そ、そんなに?」
さすがに心配になってきた。
桃李は穏やかでいいあやかしだ。睡蓮にも優しい。でも、彼のことをそこまで知ってるかと言われればそうでもない。
それに、紅のこの様子。
「うぅ……思い出すだけでも羽根が震えるわ……」
紅は良くも悪くも感情が豊かで、まっすぐな子だ。
「紅、いったいどんな特訓をしてきたの?」
「えっとねぇ。まず、乱気流内での長時間飛行訓練でしょ、それから嗅覚訓練、妖力向上訓練に変化術……しかもそれだけじゃなくて、お付のほうの特訓もやらされたんだよ! 料理とか洗濯とか、着物の仕立てかたとか、果ては洗顔用の水の温度とか、挨拶のときのお辞儀の角度まで……もう身体がばきばきだよぉ。ね、鬼でしょ!?」
紅がよろよろとした羽根さばきですがりついてくる。睡蓮は慌てて紅を受け止めた。
「ちょっと、大丈夫……」
「まったく……。睡蓮さま、騙されないでくださいね。紅さんはただ睡蓮さまに心配してほしくて演技しているだけですから」
「んなことないわ! まじでつらかったっつーの! あんた、鬼畜通り越してもはや変態なんじゃないの!」
「人聞きの悪いことを言わないでください。あなたの覚えが悪いからいけないんでしょう。一度言ったことを素直にできれば、私だって口うるさく言うことないんですから」
「はぁ!? あたしがばかだって言いたいの!?」
「おや。その程度の理解力はあるようで」
「くっ! この鬼が……!」
「ふふふ」
えっと、これはまた。どう解釈したらいいのだろう。
相性がいいのか悪いのか。
紅が顔を真っ赤にして睡蓮を見上げる。
「睡蓮、この男はまじで鬼畜だよ! こいつの言うことはもうなにも信じちゃだめよ!」
「わ、分かった分かった。とにかく……紅、疲れてるんでしょ? お風呂一緒に入ろうよ」
どうどう、と睡蓮は紅をなだめるように言う。すると、紅の瞳がきらんと光った。
「お風呂!? 入る!」
「楪さん、いいですか?」
睡蓮は楪を見上げる。
「えぇ、もちろん」
快諾してくれた楪に、睡蓮は笑顔を向けた。
その日の夜は、紅と一緒に寝ることになった。
楪に頼んだら少し渋い顔をしたけれど、今日だけと頼み込んだら渋々承諾してくれた。
しかし、夜、寝室に入っても紅は騒々しかった。
桃李はねちっこいだの、言いかたが気に入らないだのと、桃李の愚痴を散々喚き散らした。
寝落ちるまで、ひっきりなしに。
蜂というより雲雀のあやかしなのではないかと思ったくらいだ。けれど、その彼女らしい騒々しさが懐かしく、睡蓮の心に安心を与えた。
紅がいると、暗く寒い部屋に優しい光が灯ったような心地になるのだ。不思議だ。
楪といても、こうはならない。楪といるのは落ち着くし、安らぐ。だが、同時にとても緊張してしまう。じぶんがどう見られているかが気になって、目を合わせるのが怖くなるのだ。
それがどうしてなのか、睡蓮はまだよく分からない。
楪のことも紅のことも、愛している。
それなのに、楪にだけ緊張したり、不安になってしまうのはどうしてなのだろう……。
ふわり、とあくびが出る。眠くなってきた。
その日、睡蓮は久しぶりに深い眠りについたような気がした。
***
その翌日から、社の空気が変わった。空気に色がついたように華やかに、かつ忙しなくなったのである。
四六時中、紅がぺちゃくちゃとおしゃべりしているということもあるが、紅が戻ってきたことで睡蓮の緊張もいい具合に解けたのである。
楪を前にすると、未だに緊張して萎縮気味になってしまう睡蓮も、紅とのおしゃべりでは明るい笑い声を響かせる。
表情の明るくなった睡蓮に、楪はほっとしていた。
そして、忙しなくなった理由はもうひとつ。
いよいよ、神渡り式の支度に取り掛かり始めたのだ。
式を明日に控えた睡蓮一行はいよいよ今日、式典が行われる月の京へ向かう。
「睡蓮。ごはんだよ」
「はーい」
朝食の支度を終えた紅が、部屋に睡蓮を呼びにやってくる。
紅はいつもの小さなあやかし姿ではなく、人間の姿をしていた。
基本、紅は夜寝るとき以外の時間は、人間の少女に変化している。料理や洗濯のとき、人間姿のほうがなにかと勝手がいいからだ。
人間姿の紅は相変わらず小柄だが、睡蓮と同じくらいの年齢に見える。赤毛は自然な栗色に変化し、頭の高い位置でふたつに結えられている。
小町鼠色の生地に銀杏の葉が描かれた単衣に身を包み、帯は藍色の縦縞しじら織半幅帯だ。
人間姿の紅と話していると、ふつうの女子学生に戻ったような気になる。あの頃には経験できなかった友だちとのひとときを過ごしているようで、睡蓮はそれが少し嬉しかった。
紅が用意してくれた朝食を食べ終えると、着替えに入る。
以前、楪とともに出かけた着物屋で仕立ててもらった、特別な着物だ。
白地の生地に、薄紅色の梅の蕾と鶯が描かれた清楚な着物だ。帯は深緑色の薄い市松模様で、帯留めは梅の花だ。蕾の単衣に帯留めの花。つまり一輪だけ咲いた演出である。
梅の枝に止まった鶯が今にも飛び立ちそうで、睡蓮はこの着物が大のお気に入りだが、勇気が出ず、まだ一度も着ていなかった。
髪は紅が結ってくれた。髪には梅の実色の簪を挿して、完成だ。
「できたよ、睡蓮」
紅が満足そうに言う。
「う、うん……」
姿見を見る。やはり、すごく可愛い着物だ。
……けれど。果たしてじぶんに似合っているのだろうか、と不安に思ってしまう。
「紅……私、変じゃないかな?」
「どこが? この世のすべての男が見惚れるって保証する」
「そ、それはないよ……」
自信満々な紅に、睡蓮は苦笑する。
「もう、いいからほら、行くよ。楪さま、待ってるでしょ。あたしも着替えなきゃだし」
「う……うん」
紅にせっつかれ、睡蓮はそろそろと部屋を出る。
着物の裾からは、ひらひらとした布地が見えている。プリーツスカートという西の都で流行っているものだ。
これは、西の素材もなにか取り入れたほうがいい、という桃李の提案である。この式の前夜祭で、薫に紅の雇用の許諾を得るつもりだからだ。
しかしそのおかげで着物特有の重々しさがなくなり、一気に華やかな装いになった。丈が短いため歩きやすい。
「……おまたせしました」
着付けを済ませた睡蓮が楪のいる座敷へ向かうと、楪は睡蓮を見たまま硬直した。
「……どうでしょうか?」
「……あぁ、いや、すみません。あまりにも似合っているものだから……」
まっすぐな褒め言葉に、睡蓮は頬を染めて俯いた。
「ありがとうございます……その、楪さんも……」
そういう楪だって、今日は一段とお洒落に決めている。薄藍色の着物に光沢のある銀色の帯は品がありながらも涼しげで、墨色の羽織りにほどこされた植物の模様は雅やかさを演出している。
とても似合っている。
そのひとことが言いたいだけなのに、どうしても言えない。
――だって……私なんかに言われたって、きっと嬉しくもなんともないだろうし……。
睡蓮は足元を見やる。
昨晩、紅に言われたことを思い出していた。