翌朝、カーライルに執務室に呼び出されたヴィクトリアは、笑顔でキレそうだった。

「実は昨日罠について変更を行ったところ怪我人がまして、ヴィクトリア様にはその代わりをお願いしたいのです」

(どう考えてもカーライルがドジを踏んだだけなのに、どうして私が責任を取らねばならないんだろう!?)

「……因みに何のお仕事ですか?」
「魔王代理補佐です」
「補佐……?」

 ヴィクトリアは首を傾げた。

(補佐……? って、何の仕事するの……?)

 ヴィンセントとして生きていた頃は、身の回りのことはカーライルが殆どしてくれていただけに、ヴィクトリアはいまいちピンとこなかった。

 ヴィクトリアは当時のことを思い出して頭を押さえた。
 朝のおはようからおやすみ、食事や入浴、着る服まで全てカーライルに管理されていたような気がするが……気のせいだろうか?

「はい。ですのでこちらに着替えてください」

 カーライルはそう言うと、ヴィクトリアに新しい服を差し出した。

「黒い服がとてもよくお似合いです」

 上品な光沢を持つ黒の革靴。足の先まで真っ黒だ。
 しかしかっちりした燕尾服を纏うには、ヴィクトリアの髪はあまりに少女らしすぎた。
 結った当人であるルーファスは、ヴィクトリアを椅子に案内すると、するりと結んでいた紐を解いて器用に再び髪をまとめ上げた。

「出来ました」
「ありがとうございます」

 カーライルの前で着替えるわけにも行かず、別室で着替えたヴィクトリアは、ルーファスと一緒に廊下を歩く。

「あの……それで、怪我は大丈夫なんですか?」

「はい。そこまでひどくはないと聞いています。それに、現役を退かれているといっても、元は剣の指導をされていた方ですから。受け身は取られていたようですし、特に問題はないかと思います」

(剣の指導……?)

 ヴィクトリアは、その言葉が気になった。
 鰶の中で剣を扱っていた人間は、『ヴィンセント』とレイモンドだけだ。

(もしかして、私が死んだ後、レイモンドは他の人に剣を習っていたのかな……?)

 そう考えると、少しヴィクトリアは胸がざわつくのを感じた。

「この本を図書室に片付けておいてください」 

 執務室に戻ってきたヴィクトリアに、カーライルは大量の本を手渡した。
 意外と重い。ヴィクトリアが顔を顰めていると、ルーファスが代わりに持ち上げた。

「陛下、私がお運びします」
「え? でも、それでは……」

 私の存在意義が――。ヴィクトリアが、本に手を伸ばそうとすると。

「構いませんよ」
 カーライルが静かに目を伏せ、ちらりとルーファスに視線を向けた。

「手伝いたいと彼が言うのなら、手伝わせても」
「カーライル様から許可はいただけましたし、こちらは私がお運びします。棚に片付ける際は、ご一緒していただけますか?」
「は、はいっ!」
「それでは、行きましょう」

 ルーファスは微笑むと、本を手に廊下に向かった。
 ヴィクトリアはルーファスの前を歩いて、荷物を持つ彼のために扉を開いて道を作った。


☆★☆★☆


 『ヴィンセント』が集めたリラ・ノアールの蔵書は多岐に及ぶ。

 『鉱物辞典』『天候』『温度による物質の変化』『毒の特性とその製法』『菓子の製法』
 実用的な知識から、趣味。神話や小説まで。

 ヴィクトリアは知識としての本も好きだったが、物語としての本も好きだった。
 小説の中に描かれた心情は、キャラクターの真であって嘘はない。
 恋物語に描かれた愛を語る言葉は真実であって、その中にもし不実があったとしても、それは物語を生きる者たちが、自らの意思によって発した言葉だと思えた。

 だからヴィンセントは、『物語』が好きだった。
 彼らの言葉に嘘はあっても、その心に嘘はないから。

 特にヴィンセントが好きだったのは、魔族と人間の恋物語。
 ヴィクトリアは、『ヴィンセント・グレイス』には似合わない小説の背表紙を撫でた。

『黒き王とライラックの乙女』
 この本は、次期魔王と人間の少女の物語で、魔王の後継ぎとして育てられた一人の魔族の青年が、人間の少女に恋をして、魔族と人間が共に手を取り合う未来を作ろうと、約束するまでの話が書かれている。
 希望に満ち溢れた物語に、ヴィンセントは初めて読んだとき心から喜び、そして故に絶望した。
 魔王となり、二つの世界を手中に収められる立場になって、現実は小説のようにうまく行かないことを思い知らされた。

『私たちが、共に生きることはできる』

 小説の終盤で少女は魔王の子を身籠るが、その続きは描かれていない。
 物語は幸福なまま幕を閉じる。
 それはまるでその幸福が、誰かの『祈り』であるかのように。

「祈り……か」

 ヴィクトリアは、目を細めて小さく呟いた。
 きっとこの物語は、かつての自分のようにその幸福を手にできなかった魔族が書き残したものに違いない。今の彼女には、そうとしか思えなかった。

 感傷に浸っていると、ルーファスがヴィクトリアに尋ねた。

「それにしても、カーライル様はどうしてこんなに沢山の本を陛下に運ぶように言われたのでしょう?」
「本当になんででしょうね……」

 確かにそれは妙だと、ヴィクトリアも考えていた。

(もしかして頼まれた本に理由があるとしら……?)

 ヴィクトリアは、片付けた本の題名を思い出した。

 『言葉の研究』『ヒトは言葉で操れる』『絶対にはいと言わせる方法』『記憶について』『魂の循環』『金色狼』
 ……どの本も、自分のことを言われているような気がしてならない。

(もしかして、これがカーライルの意図なの? 私に『バレているぞ』って言いたいってこと……?)

 しかし、それだけでわざわざ自分に『大量の』本を片付けさせるさせるなんて、カーライルらしくないようにもヴィクトリアは思った。

 カーライルの本意を探るために、ヴィクトリアは一冊だけ見覚えのない、彼らしくない本を見つけて読んでみることにした。
 最初の頁を開く。

 『魚の釣り方』
【十分に泳がせて、弱ったところを捕まえよう。これで君も、今日から大物釣り師だ!】

 ヴィクトリアは、すぐさま本を閉じた。

(まさか、本開くという行動さえ読まれてる……?!?!)

 だとしたらとても怖い。

「陛下? お顔色が悪いようですがどうかなさいましたか?」
「な……ナンデモアリマセンヨ」
 ヴィクトリアは笑顔を引つらせた。

(うん。カーライルはどうやら、私に本気で嫌がらせをしたいらしい)

 ヴィクトリアは最後の一冊を片付けながら嘆息した。

(貴方にとって私は、逃げる魚ってワケ?)

 疲労感がヴィクトリアを襲う。
 お腹も減ったし甘いものが食べたい。ヴィクトリアがそんなことを考えていると、まるで心を読んだかのように、ルーファスがヴィクトリアに言った。

「本の整理は終わりましたし、そろそろお昼ですからご一緒にどうですか? 実は陛下と食べたいなと思って、昼食とお菓子の用意を頼んでいるんです」
「本当ですか!? ありがとうございます。是非!!」

 思わず声が高くなる。
 ルーファスはなんて優しくていい子なんだろう!
 カーライルが悪魔だが、ルーファスは天使だと改めて彼女は思った(本当は蜘蛛と雪女の混血と狼だけど)。





「陛下。あちらに木陰がありますから、そちらで召し上がりませんか?」
「はい」

 空が青い。風はそよそよと吹いて心地よい。外でご飯を食べるには、今日は絶好の日和だとヴィクトリアは思った。
 「早く行きましょう」と手を引かれ、ヴィクトリアはふと、あることを思い出した。
 
(そういえば昔このあたりに、夢見草を植えたっけ)

 セレネに花見の文化はない。
 ただ、デュアルソレイユにヴィンセントが隠れて訪問したとき、人々が楽しげに花の下で語らっているのを見て、その木をセレネにも植樹することにした。

 いつか木が大きく育ったら、レイモンドやルーファスたち――子どもたちが、穏やかに時間を過ごせる場所になればいいと思って。
 綺麗な花が心を和ませ、柔らかい木陰が彼らを守ってくれますように、と願いを込めて。

 ヴィンセントとして生きていた頃、ルーファスやレイモンドとはそれほど多くの時間を、『仲良く』過ごすことはなかった。
 レイモンドに剣の才能があったから、彼の剣の指導をすることはあったが、能力を鍛えるためで、親子の触れ合いとは程遠かった。

(執務室からは、あの木の場所がよく見えたんだよね)
 
 そのことを思い出して、ヴィクトリアは笑った。花が成長して咲くまで、自分は生きてはいられなかったわけだけれど。

「楽しみにしていてくださいね。木陰と言いましたが、実は桃色の花がとても綺麗なんですよ」
「え……?」

 ルーファスの言葉を聞いて、ヴィクトリアは思わず駆け出した。

「お、お待ちください。陛下!」

 デュアルソレイユにいた頃から、気になっていた。

(私が植えたあの花は、ちゃんと咲いてくれたのだろうか――……?)

 春の暖かな陽気が世界を満たす。
 さあっと優しい風が、ヴィクトリアの頬を撫でた。
 祈りを込めた木は大地に根を伸ばし、空に向かって枝を伸ばしていた。
 緑は陽の光を浴びて青々と輝き、柔らかそうな新芽が萌えぐ。
 そして、夢のように儚げな薄桃色の花びらは、柔らかく地面に影を作っていた。

 セレネとデュアルソレイユでは、それぞれその世界でしか成長できない植物が存在する。
 だから夢見草も、セレネでは育たない可能性があった。
 魔素を遮断する魔法のおかげだろうか? 
『ヴィンセント』が植えた夢見草は、セレネでも立派に育っていた。
 その事実に、ヴィクトリアは胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 『昔の自分』は、叶わないと沢山のことを諦めていた。
 けれどそんな中、夢を抱いて植えた花が、時を経て無事大きく育ってくれていたことが、たまらなく嬉しかった。

(私がやることなんて、全て無駄だと思っていた。でも、無駄ではなかったことも、確かにここにあったんだ)

「あれ……?」

 そして、はたと気づく。
 よく見てみると、木の下には一人の青年が立っていた。
 背筋を伸ばした黒髪の少年。その手には、剣が握られている。

 一体、何をしているのだろう?
 ヴィクトリアは疑問に思った。
 するとその時、僅かな風に花が揺れて、ひとひらの花びらが、ひらりひらりと宙に舞った。

 一閃。
 青年は剣に手をかけると、ひとふりし、花びらを半分に切り裂いた。
 ヴィクトリアは目を見開く。
 その技は、自分が知らない類のものだった。

「陛下!」

 立ちすくむヴィクトリアの後ろから、ルーファスが駆け寄ってくる。

「突然走りだされてどうされたのです?」
「えっと。その……」

 その声に、ヴィクトリアは我に返った。花が気になったなんて言えない。
 そのことは、『ヴィンセント』しか知るはずがないから。

「……レイモンド?」

 ヴィクトリアが返答に困っていると、彼かに気付いたらしいルーファスが、背を向けた青年に呼びかけた。

「ルーファス」
 背を向けていたレイモンドが振り返る。
 上半身裸のままで。
 
(……ん? んんんんん????)

 ヴィクトリアは慌てた。
 訓練中だったのだから、特におかしくはないのは理解できるけれど、着痩せするたちなのか、思ったより筋肉のついた体が目に飛び込んで動揺する。 
 ルーファスは彼の姿に気付いて、すぐさまヴィクトリアの前に足を踏み出した。
 視界が、ルーファスの大きな背で塞がれる。

「陛下の御前だ。身だしなみは整えるべきだろう」

 巨大な壁を前に、レイモンドの姿はヴィクトリアの前から消える。

「……どうせそこまで気にしてないだろ」

 レイモンドは呆れたような声で言った。
 そうだ、とヴィクトリアも思った。

 レイモンドは前世の養子で、息子で。
 別にその裸を見たって、何も気にする必要なんてないはずなのに――……。

 どうしてドキドキしてしまうのか、ヴィクトリア自身よくわからなかった。
 子供だった頃の彼の裸なら、何度か見たことがある。親として、泥だらけになっていることは見過ごせず、風呂に入れたことだってある。
 その時たいそう嫌がられた記憶はあるが、何も思わなかったのに。

 知らなかった。子供だと思っていた相手が、もう子供ではなくなっていたなんて。

 ルーファスは、あくまで自分に非はないという態度のレイモンドを前に、静かに溜め息をついた。

「――陛下もそう思われますよね?」
「ふ、ふぁいっ!」

 ヴィクトリアは、突然ルーファスに呼ばれて思わず声を裏返らせた。
 二人より身長の低いヴィクトリアは、顔を真っ赤に染めて二人を見上げた。
 そんな彼女を見て、ルーファスの動きが止まる。

「その……え、えっと……あの…………」
「…………」

 ルーファスは、ごく、とつばを飲み込んだ。
 レイモンドは、ルーファスを横目に見てヴィクトリアから視線をそらすと、頭に手を当てて深く息を吐いた。

「……仕方がないな」
 レイモンドは独り言のように呟くと、軽く汗を拭いて服を着た。


☆★☆★☆


 木の下に敷物を引いて足をくつろげる。
 ヴィクトリアはセレネでの初花見を、顔には出さずに喜んだ。

「そういえば、さっきの技は何だったのですか?」

 昼食の準備をすすめるルーファスに、ヴィクトリアは疑問に思ったことを尋ねてみた。

「ああ。あれは、レイモンドがお師匠様から習ったものですよ」
「お師匠様?」 

 ヴィクトリアは首を傾げた。
 ルーファスはお茶をいれると、ヴィクトリアに差し出した。

「レイモンドの剣術の師匠です。彼は魔族ではなく人間なのです。陛下が代わりを務めるようカーライル様に任せられた、現在補佐として城にいらっしゃる方は、元々レイモンドの剣の師匠なんです」

「師匠……」

 ヴィクトリアは、その言葉にカップを受け取ろうとした手をピクリととめた。
 レイモンドの剣の師は、親である自分だったはずなのに。
 
「レイモンドは、剣の腕なら今はこの世界で一番だと言って良いでしょう。まあそのレイモンドも、陛下には敵わなかったわけですが」

 レイモンドに最初に剣を教えたのはヴィンセントだった。
 そしてヴィンセントが、勇者と戦う前に戦ったのもレイモンドだった。
 しかしその最後の戦いにおいても、レイモンドの剣はヴィンセントには届かなかった。

「……」

 レイモンドは自分の死後、新しく師を迎えて何をしたかったのだろう?
 しかも、魔族ではなく人間を師匠に迎えるなんて――何を考えているのかヴィクトリアには理解できなかった。

「陛下。お茶が冷めてしまいます。いれ直したほうがよろしいでしょうか?」
「あ! ごめんなさい。いただきま――……」

 ヴィクトリアがお茶を受け取ろうとすると、レイモンドがヴィクトリアに向かって、何か重いものを投げてよこした。

「受け取れ」
 それは、よく手入れのされた剣だった。

「レイモンド! 突然何て物を投げるんだ!」

 ルーファスはレイモンドに対して声を荒げた。

「カーライルが、今日はあの人の代理をさせると言っていた。なら、アンタが変わりを勤めてもおかしくはないだろう?」

「な……っ! 何を考えているんだ! 陛下に闘わせるなんて!」
「なんだ? 問題があるのか?」

 レイモンドは、あくまで落ち着いた様子だった。

「大体お前が言うように、本当にその人間がヴィンセントだというなら、俺に負けるわけがないだろう? だったら俺に勝って証明させればいい。それともお前は、そうやって『陛下』だなんだと呼びながら、本当は単に好みの女を囲いたいだけなのか?」

 レイモンドは、馬鹿にするかのように鼻で笑った。

「レイモンド。――その発言は、陛下と一族に対する侮辱と同義とみなすぞ」

 ルーファスの髪が、少しだけ宙に浮く。
 まるで獣が、毛を逆立てて威嚇でもするかのように。

「ルーファス様!」

 一発触発。
 ヴィクトリアは、慌てて二人の間に割って入った。
 せっかく花開いた夢見草の下で、二人が喧嘩するところなんて見たくない。

「わかりました。戦います。だから、お二人は離れてください」
 ヴィクトリアは、投げ渡された剣を手に取り立ち上がった。

 ヴィクトリアは、レイモンドの『能力』を理解していた。
 彼の魔法は、魔族に対して強い効力を持つ。
 剣の実力だけならば、たとえ今の自分が人間であったとしても、ヴィクトリアは負けるつもりは毛頭なかった。