「陛下。段差がありますのでお気をつけください」
「ありがとうございます。ルーファス様」

 リラ・ノアールの城内にて、ルーファスとヴィクトリアは相変わらず奇妙な敬語での会話を続けていた。
 ヴィクトリアは彼の陛下呼びを止めてほしいと申し出ようとしたものの、ルーファスに悲しげな表情をされて結局言い出せないまま終了した。

 可愛いは正義!
 ヴィクトリアの中でのルーファスの印象は、初めて会った一〇歳前の時から、あまり変化していなかった。

 目線を合わせ、ヴィクトリアが少し言葉を話すだけで、ルーファスは心の底から幸せそうな顔をする。
 久々に出会ったとき、裸だったせいで再会に感極まった彼を思わず殴ってしまったが、あの行動も、今のヴィクトリアは許していた。
 彼は金色狼。犬に懐かれたと思えば問題はないはずだ――多分。
 
「あの、ルーファス様」
「はい」
「改めてお礼を。この髪、ありがとうございました。なんだか今日は、少し新鮮な気持ちになれました」

 ヴィクトリアは、綺麗に結上げられた髪に触れてルーファスに微笑んだ。

 城を案内する前、ルーファスは寝癖の残るヴィクトリアの髪を結うことを許可してほしいと願い出た。
 普段は女の子らしい格好をあまりすることのないヴィクトリアだったが、『可愛い陛下をもっと沢山みたいんです』と捨てられた犬のような目で見つめれて嫌とは言えず、椅子に座らされ身を任せれば、彼は慣れた手付きで髪を結い上げ、ヴィクトリアに鏡を差し出した。

 白いレースのリボンに、赤い宝石のついた髪留めは、ヴィクトリアの茶色の髪にもよく映えていていた。

「陛下に喜んでいただけたなら、それ以上の喜びはありません。実は陛下の髪をずっと結んで差し上げたくて、昔勉強したんです。今日は髪に触れる許可を下さり、ありがとうございました」

「お、お礼を言うべきは私の方です! だから……その、頭を上げてください」
 
 頭を下げられ思わず慌てる。
 ルーファスは、そんなヴィクトリアを見てくすりと笑った。

「陛下は、慌てられる姿も可愛らしいですね」
「えっ?」

(――可愛い? 私のどこが?)

 ヴィクトリアがぽかんとしていると、ルーファスは今度はふわりと笑って、ヴィクトリアの手を優しく引いた。

「陛下、こちらがこの城の図書室です」

 手を引いて案内される。
 図書室には、許可されたものしか入れないよう魔法がかかっているのだ。
 ルーファスの『許可』がなくては、今のヴィクトリアは入場できない。

「ここの蔵書数は、セレネ一と言って良いでしょう。セレネで書かれた全ての本が、ここに収められていると言っても過言ではありません」

 リラ・ノアールにある本は、元々全て『ヴィンセント』が集めたものだ。 
 ただ五〇〇年前よりも、本は増えているように見えた。というより、内部自体が当時より広くなっている。
 拡張魔法によって広げられた空間は、城の規模と比較してもかなり広い。 

「??」
 新しそうな棚の中に、見覚えのない本を見つけてヴィクトリアは手を伸ばした。
 しかし、『女性にしては長身だったヴィンセント』の身長や、魔法で取ることを前提に作られた図書室だ。今のヴィクトリアでは、背伸びしても本には届かない。
 
(く……悔しい!!)

 ふるふると足を震わせて本に手をのばす。でも、やはり届かない。
 すると、後ろでそれを見ていたルーファスが、ヴィクトリアの背後に回って手を伸ばした。

「おとりになりたい本はこちらですか?」

 大きな手は一度彼女の手と重なり、それからその手の目指す延長線上の本へとのびる。

「あ……ありがとうございます」
 
 予想外のルーファスの行動に鼓動が速くなり、ヴィクトリアは本で顔を隠した。
 少しだけ本を下げて上目遣いで礼を言うと、ルーファスは少しの沈黙の後、にこりと微笑んだ。
 それからルーファスは、背を向けて前を歩いた。

「この棚には、カーライル様が新しく集められた本が収められています。陛下の図書館への訪れがなくなってから、代わりに集められたものですね。カーライル様からの伝言です。もし読まれたい本があれば、陛下なら自室への持ち込みも許すと。ですので、もし気になる本があれば仰ってください。後ほど私が部屋までお運びします」

 なんなりとお命じください――振り返ってにっこりと笑うルーファス。だがヴィクトリアは、ある事実が気になってそれどころではなかった。

(――カーライルが私のために本を集めてくれていた……?)

 ヴィクトリアは驚きが隠せなかった。
 『ヴィンセント』の力は、言葉による命令だ。その力によって、ヴィンセントは魔法を『創造』できた。
 だからこそ、『ヴィンセント』は知識を蓄える必要があった。

 『金色狼』の毒が血液の凝固なら、それと対を成す、反対の毒を作ればいい。
 カーライルの糸が鉄を切り裂くなら、彼の鉄に対抗できる硬度を持ったものを創造すればいいというように――……。

 カーライルの考えが読めずにヴィクトリアは顔を顰めた。
 どうやっても自分を『ヴィンセント』だと決めつけて、王座に据えたいと思っているのは理解できたが、だからといって、わざわざ本を集めるなんて面倒なこと、どうして彼はこれまでしたのだろう?

 自分の大切な幼馴染であるアルフェリアを傷つけたカーライル。
 まるで自分の帰還を彼が待っていたという話を他者《ひと》に聞いたとしても、なにか裏があるんじゃないかと、ヴィクトリアはカーライルに対しては思ってしまう。

「ほんとう、何考えているんだか」

 ヴィクトリアが頭を抑えて考え込んでいると、ルーファスは再び彼女の手を引いた。

「最後に、陛下にとっておきの場所をご案内します。どうぞ、こちらへ」
「?」
 ヴィクトリアは首を傾げた。

 とっておきって、どこだろう?


☆★☆★☆

「ここは、お城の中の唯一の薔薇園なんです」

 ルーファスがヴィクトリアを案内したのは、リラ・ノアールにある薔薇園だった。

 美しい赤い薔薇。
 かつてはその花園全てを赤く染まっていたが、今はところどころに、白い薔薇が咲いていた。
 500年の間に、誰かが植えたのだろうか? 
 ヴィクトリアは、花に触れて目を瞑った。

(懐かしい。子供の頃はここで、よく眠っていたっけ)

 記憶に間違いがなければ、カーライルとも初めて会ったのはここだったはずだ。
 ヴィクトリアは昔の彼を思い出して苦笑いした。

 『ヴィンセント』とカーライルは幼馴染だ。
 幼い頃のカーライルはまだ、まだ純粋さの残る子どものように見えた。
 ある日眠っている『ヴィンセント』の頬に、そして目元に誰かが触れた。

『――……ているの?』

 カーライルと初めて出会った日のことを――昔のことを思い出そうとして、ヴィクトリアは頭を抑えた。

(あの時彼は、なんと言おうとしていたんだっけ……?)

 五〇〇年も昔の出来事のせいか、記憶に靄がかかったように思い出せない。

「どうぞ、陛下」

 一人考え込んでいると、棘一つない薔薇の花が差し出され、ヴィクトリアは目を瞬かせた。

「あれ? 棘が……」
「それなら、自分が先程取りました」
「とった……?」

 ヴィクトリアは、ルーファスの言葉を聞いて、すぐに彼の手に手を伸ばした。

「な、なんで素手で棘なんかとって……」
「陛下に喜んでいただきたくて」

 当然のようにルーファスは答えた。

「棘をつけたままお渡ししたら、陛下のお手が傷ついてしまうかもしれないでしょう?」
「……でも私は、ルーファス様に傷ができるのは嫌です」

 幸い人間とは違い魔族の体のおかげで、ルーファスの手に傷はなかった。
 ヴィクトリアはルーファスの手を包んでポツリ呟いた。
 かつてルーファスは『ヴィンセント』の命令で魔族を殺した。『ヴィンセント』に歯向かい、命を狙った者たちを――ルーファスは今も、同じ状況になれば棘を取るように、ヴィクトリアを傷付ける者たちを屠るのかもしれない。
 ヴィクトリアは、それを嫌だと思った。

「貴方は、本当にお優しい」
「え……?」
「そんな貴方だから、私は貴方を、『陛下』とお呼びしたいと思うんです」

 ヴィクトリアはその言葉を聞いて、ルーファスはまだヴィクトリアに記憶があること
は、確証は持てていないのだろうと思った。

(私はなんてひどい人間なんだろう。こんなに優しい子を騙してる。でも自分が『ヴィンセント・グレイス』だなんて、絶対に言うわけにはいかない。)

「……私はきっと、貴方の『陛下』じゃありませんよ」
「いいえ」

 消えてまいそうな声で呟けば、ルーファスはゆっくりと首を振った。

「貴方のその魂は、私がお慕いしていた『陛下』のものです。そして今も、貴方の本質は変わらない」
「……」
「私の手が棘で傷つくのが嫌だとおっしゃる陛下だからこそ、私は貴方を傷付ける棘を、全て取り払って差し上げたいと思うんです」
「ルーファス様……」
 
 花に棘はないはずなのに、彼の言葉に、ヴィクトリアは胸がチクリと痛むのを感じた。

「今の陛下には、白い薔薇もよくお似合いですね」
「……ありがとうございます」
「勿論どんな花も、陛下はお似合いになりますよ」

 ルーファスの社交辞令は、まるで心からのことばのようにヴィクトリアには聞こえた。

「……イーズベリーも?」
 だからこそヴィクトリアは、少し彼にいたずらを仕掛けてみることにした。

「そう。勿論陛下なら、イーズベリーも……。あ…………い、いえ! イーズベリーは別です!! あれは花というかなんといいますか、新手の生き物ですから……っ!」

 食人花の名が出てくるなんて思ってもみなかったのだろう。冷や汗をかいて慌てて話すルーファスに、ヴィクトリアは声を上げて笑った。

「あははは」
「わ、笑わないでください……」
「ごめんなさい。慌てる姿が、なんだか可愛くて」

(まるで、昔の貴方を見ているようで。)
 伝えられない喜びを、ヴィクトリアは心の中で呟く。

「……陛下の笑顔を拝見していると、私はとても幸せな心地になります」

 そう話す彼の表情は、いつもより心なしか暗かった。

「五〇〇年前のあの日から、私はずっと貴方を探していました。陛下について、今はひどい話ばかりが残っていますが、陛下は、決して悪い方ではなかったんです。……本当は、ずっとずっと優しい方でした。だからこそ、人間を襲う魔族の粛清を行われた。彼らは殺されても仕方ないような者たちでした。そもそもデュアルソレイユの人間たちを、同じ生き物と思っていないような殺し方をしていたいた魔族のほうが、本来非難されるべきなのに」

 ルーファスは、ヴィクトリアの腕を掴んで下を向いた。

「……」
「それに本当なら、陛下が勇者に負けるなんて、ありえない筈でした。あの方の魔法の特性はそういうものでしたから。だから、あの日陛下が勇者に敗れたのは、きっと本当は勇者の力のせいではなくて……。本当は、本当は私たちの……っ」

 ルーファスは顔を上げ、ヴィクトリアに近付いた。
 ルーファスの気持ちはわからない。けれどその瞳は、ヴィクトリアには、何故か濡れているように見えた。
 
「……ルーファス様。近」
 ――いです。

 そう言おうとしたとき、ヴィクトリアの足元から、カチッと不穏な音がして、彼女の体は大きく傾いた。

「え」

 その時ヴィクトリアは、カーライルの言葉を思い出した。

『貴方にだけは、命に関わる罠は発動しないようにさっき設定したので安心してください』

 ――つまり。

(命の危険がないなら、罠は解除されていない――ということ!?)

 ヴィクトリアは驚きのあまり反応に遅れた。
 その間に地面は起き上がり、空を飛べない彼女の体は、空中に放り出された。

「陛下!」
 ルーファスは咄嗟に狼の姿に変化して、空に飛ばされたヴィクトリアを抱きしめた。

 けれど、着地した場所が悪かった。
 ヴィクトリアは服に泥が跳ねる程度で済んだものの、彼女を助けた美しい金色の狼はーー……。

「……私のせいで、すいません」
 見事に泥まみれになっていた。