「……う……く……ぅああ……っ!」

 息が、うまく出来ない。

 ルーファスの傷は癒えている。
 魔法を止めようと思っているのに、頭の中から血が流れていく光景が、焼き付いて離れない。
 そのせいで、力の制御ができない。
 自分の中から、命が流れていくような感覚が止まらない。

 想像を、創造する魔法。
 ヴィンセントの創造魔法の弱点は、正確に思い浮かべられなければ使えないことだ。

 昔から、治癒魔法だけは苦手だった。
 その理由も、ヴィクトリアは理解していた。
 けれどルーファスを見殺しにできずに――不完全な魔法を行使した。

「……ぅ……ぅあ……」

 このままでは死んでしまう。

 ヴィクトリアは、せめてルーファスから離れようと体を動かした。
 自分がここで死ねば、一番傷付くのは彼だろうから。
 せめて誰もいない場所にまで、体を動かそうと、ヴィクトリアは体を引きずるように動かした。

(ここで気を失ったら、駄目)

 心ではそう思うのに、体が全く動かない。朦朧とした意識の中で、ぐにゃりと視界が崩れ乱れる。
 その時。
 
「――おい。大丈夫か!!」

 誰かが、息を乱して近づいてくるのがヴィクトリアにもわかった。
 ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中彼の前を呼んだ。

(――この声は……?)

「れ、い……?」

(レイモンド、なの……?)

 ヴィクトリアは、何故彼がこんなに早く駆けつけてくれたのかわからなかった。
 もし駆けつけてくれたとしても、カーライルの後に来ると思っていたのに。

「くそっ! なんでこんな……。ルーファス。お前がついていながら……っ!」
 
 レイモンドの声はいつになく真剣だった。
 しかしヴィクトリアには、レイモンドが慌てる理由がわからなかった。
 レイモンドはヴィンセント(じぶん)を嫌っている。昔はそうで、今はただの人間とか思っていない筈なのに。

(その貴方がどうして、私のために、こんな悲痛な声を上げるの?)

「アンタは……その魔法だけは使うなと、あれほど言っただろう……!」
 
 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアとルーファスを繋ぐ魔法の糸を断ち切った。
 赤い糸は、空気に溶けて霧散する。
 血を抜き取られるような感覚が漸く消えて、ヴィクトリアはぴくりと指を動かした。
 
 レイモンドは真っ直ぐに、ヴィクトリアを見つめていた。
 ヴィクトリアは、おぼろげな意識の中思った。
 
(この子は、さっきから一体何を言っているんだろう? それじゃあまるで最初から、私をヴィンセントだとわかっていたみたいじゃない)

「ぇいも……」
「いい。アンタは、今は喋るな……っ!」

 レイモンドは、ヴィクトリアの手を強く握った。
 赤と銀。
 2つの色が混じった光が、彼の手から溢れてヴィクトリアを包み込む。

「……っ!」

 静かな夜のような魔力が、自分の中に流れ込んできて、ヴィクトリアは息を飲んだ。
 魔力は持ち主の人を表すとされているがーー彼の魔力は、ヴィクトリアが想像していたものよりずっと優しく温かかった。

(レイモンド。これが貴方の、本当の貴方だというの?)

 空の器に、魔力が満ちる。
 それでも、人間の体を壊さないように注がれる魔力では足りなかった。満たすべき器はあまりに大きく、流れたものはあまりに多かった。
 このままでは、ヴィクトリアは死んてしまう。
 レイモンドは唇を噛んだ。

「すまない。今はこれしか、方法がない」

 レイモンドはそう言うと、とある小瓶を取り出し口に含んだ。
 その薬は、ヴィクトリアも知るものだった。

 人魚の秘薬。
 その薬は、人を人ならざるものへと変える。 

(どうして、それを……?)

 ヴィクトリアはそう口にしようとしたが、尋ねることは出来なかった。

「我慢してくれ。…………アンタが死ねば、ルーファスが悲しむ」

 レイモンドはそう言うと、ヴィクトリアに口付けた。

 甘くてどこか塩辛い、薬が喉を通って体の中に入ってくる。呼吸さえままならなかった体に、命が吹きこれる。
 血が、滾るように熱かった。
 魂に眠る記憶が、閉じていた箱の中から呼び起こされる。

 かつてヴィンセント・グレイスは『人間になりたい』と願った。
 願いは叶えられ、ヴィクトリアは今は人間として生まれ変わったはずだった。
 人魚の秘薬を飲めば、その器は人ならざるものへと変わる。
 たとえ人の器であろうとも。 

 ヴィクトリアは体に力を込めた。彼を自分を引き離そうと。
 けれど、それは出来なかった。
 レイモンドの表情を見てしまったら、拒絶することは出来なかった。

(どうして? レイモンド。私を嫌っていた貴方が、どうしてそんな泣きそうな顔をしているの……?)