『木漏れ日が似合う人』という言葉がもしこの世界にあるならば、私はその人のことを、そう表現したい。
 彼女は、今はそう思う。

『凄いなあ』 
 優しく頭を撫でる手は、柔らかい声音の割に硬い。

『ヴィンセントには、そんな力があるんだね』
 甘い声で彼は言う。
 名前を呼ぶ声はただただ温かく、それでいて、春に咲く花の綿毛のように儚く聞こえた。

『嫌だ。……嫌だよ。こんなの、こんな力……全然嬉しくなんてない』
 子供は小さな体を震わせて、世界のすべてを否定するかのように声を漏らす。

 夜色の髪に夕闇の瞳。
 世界を否定して、自分を消してしまいそうな子供の体を、彼は優しく抱きしめた。

『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』

 長い黒髪を優しく手で梳かして、小さな背中をさすれば、子どもは震える手で彼の服を掴んだ。

『嫌だ。嫌だ。僕は、嫌いだ。こんな力も。……僕自身も』

『自分を否定しないで』
 
 諭すような声だった。

『君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』

 大きな手で、彼は子どもの涙を拭う。
 見開かれた子どもの瞳は、血のように赤い色をしていた。

『一緒に眠ろう。大丈夫。夜は怖くない』
『……僕に、触るな』
『また、そんなことを言って。本当は君は、一人は寂しいだろう?』
『…………そんなこと、ない』

 柔らかい褥の上で、彼は子どもを抱きしめた。

 ――彼の、鼓動の音が聞こえる。
 子どもはその音を聞いて、少しだけ表情を和らげた。
 優しくて温かい、命の音。
 うとうとして子どもが目を瞑れば、彼は優しく子どもの頭を撫でた。

『大丈夫。泣かないで。君が眠るまで、そばに居るから』

 ぴちちちと鳥の声がする。
 部屋に明るい陽の光が差し込めば、彼は窓をあけていつも優しく子どもの体を揺するのだ。

『もう夜は明けた。さあ、朝だよ。起きて。起きて。ヴィンセント――……』
 


「ん……。うるさい。ディー……」
「起きて。起きなさい。ヴィクトリア。早く!!!!」

 朝を告げる鳥の声をかき消す、頭に響く甲高い少女の声。 

 聞き慣れた声に目を冷ましたヴィクトリアは、少しだけ瞼を押し上げて、よく知る少女の顔を見て再び毛布にくるまった。
 うごうごうご。寝台の上で、虫のように丸く固まる。 
 それを見た少女は、幼馴染がくるまった毛布に手をかけると、ぐいっと無理やり剥ぎ取った。

「いい加減、起きなさい!!!!!」
「わっっっ!!」

 寝台から転がり落ちる。
 毛布の中から現れたのは、髪に寝癖のついた、まだ幼さの残る顔立ちの少女だった。
 肩にかかるくらいの長さの茶髪に、茶色の瞳。
 まるまるとした大きな瞳は、陽の光を浴びてきらきらと輝く。
 彼女はふああと小さくあくびをして、目を擦ってから、自分を床に落とした犯人を見上げた。
 腰に手を当てての仁王だち。とても年頃の少女とは思えない勇ましさ。

「ようやく起きたわね。ヴィクトリア」
「……アルフェリア」

 刺々しい言葉を放つ幼馴染を、少女は呆れた声で呼んだ。
 アルフェリア・ギルヴァ。
 村長の娘であることもあり、身奇麗な格好をした少女は、不満げなヴィクトリアの声に青筋を浮かべた。

「貴方はもう本当に! いっつもいっつも、私達に起こされなきゃ起きないんだから! もう一五になるんだから、一人で起きれるようになりなさいっていつも言ってるでしょう? 一人で暮らしているからって、遅くまで寝てていい理由にはならないんだからね!」

「……はい」
 怒号を前に、ヴィクトリアは寝間着のまま正座して俯いた。
 同じ年頃の筈だが、昔からヴィクトリアはアルフェリアに頭が上がらない。
 ヴィクトリアが叱責に耐えていると、優しげな声音が彼女の頭上から降ってきた。

「そう朝から大声で怒るものじゃないよ。アルフェリア」

 にこりと笑う少年の手には、朝食の入った籠がある。

「おはよう。ヴィクトリア」
「――エイル!」
「よく眠れた?」
「……うん」

 優しげな笑みを浮かべる、少し癖のある茶髪の少年。
 田舎の純朴な少年を体現したような幼馴染に、ヴィクトリアはつられて微笑んだ。
 ただ、エイルの優しい微笑みと声を聞いていると、また眠気が襲ってくる。
 ヴィクトリアはのそのそと寝台に戻ると、再び何事もなかったように布団を被った。

「何また眠ろうとしているのかしら?」
「あだだだだ」

 しかし、それを見ていたアルフェリアに、問答無用で寝台から落とされる。

「み、耳を引っ張らないで。アルフェリア!」
 痛い。
 ヴィクトリアが叫び声を上げると、アルフェリアは耳元で、ゆっくり聞き取りやすく彼女に尋ねた。

「こ・れ・で、目が覚めたかしら???」
 確実に怒ってる。
 ヴィクトリアは震えた。アルフェリアは、絶対に怒らせてはならない人だというのに。

「――アルフェリア。そのへんにしておいてあげなよ。ヴィクトリアが困ってる」
「貴方は黙ってて」
「…………」

 ピシャリと言われ、水瓶を抱えていたエイルは笑顔のまま顔を強張らせた。
 この場で最年長の唯一の男だというのに、全く立つ瀬が無い。

「暴力は駄目だよ。それに、そんなふうに抓ったら、ヴィクトリアが痛いのは、君だってわかっているだろう?」
「……ごめんなさい」

 アルフェリアは、子どもに叱るように話すエイルから顔をそむけると、ヴィクトリアから手を離した。

 アルフェリア、ヴィクトリア、エイル。
 子どもの減ってしまったこの村で、年の近い三人は実の兄妹のように育てられた。
 村長の娘アルフェリア。
 パン屋の息子エイル。
 そして森に住む老夫婦の養子、ヴィクトリア・アシュレイ。

 ヴィクトリアが一人で暮らすようになり、もうすぐ一年になる。
 彼女は元々捨て子で、戦争で子を無くした老夫婦に、森で一人倒れていたところを拾われ育てられた。
 しかし昨年祖父が倒れ、その後を追うように、彼女を育ててくれた祖母も三ヶ月前に亡くなってしまった。
 二人が死んでからというもの、一人暮らす幼馴染の元に、二人は毎朝訪れている。

 パン屋の息子であるエイルは、毎朝ヴィクトリアに朝食を届けに来る。
 食事にこだわりのないヴィクトリアは、放っておけば一日食べない日も出てきてしまうからだ。
 遅めの朝食をとっていると、幼馴染みが今日はいつも以上に立派な服を着ていることに気付いて、ヴィクトリアは尋ねた。

「そういえば、アルフェリア。今日は、いつもより可愛い格好をしてるんだね。何か用事でもあるの?」

 今日のアルフェリアは、心なしか華やいでいるようにヴィクトリアには思えた。
 いつもなら髪は結い上げるだけなのに、今日は花をさして編み込んでいる。

「それは当然よ!!!」
 アルフェリアは胸を叩き、にっと快活そうな笑みを浮かべた。

「なんたって今日は、魔族の方が来るんだもの!」

「……………………魔族?」
 ヴィクトリアは食事をする手を止め、長い沈黙の後に言葉を繰り返した。

「それは……そんなに、嬉しいことなの?」
「当たり前でしょ!!」

 アルフェリアは即答した。

「今の世界があるのは現貴族派の魔族様のおかげだもの。黒のレイモンド様、赤のルーファス様といえば有名じゃない!!」
 
 先ほどの、暴力的な少女とはとても思えない。
 アルフェリアは年相応の夢見る乙女のように、手を合わせて瞳を輝かせていた。

「五〇〇年前、魔王のせいで滅び欠けた世界を救った英雄よ! 人間を殺そうとした悪い魔族たちを静粛して、五〇〇年経つ今もなお、私たち人間のために慈善活動も行ってくださっているんだから!」
「……」

 アルフェリアの言葉を聞いて、ヴィクトリアは顔を顰めた。

 この世界には、二つの『世界』が存在する。
 人間の住む『世界』デュアルソレイユ。
 魔族の住む『世界』セレネ。

 二つの種族・『世界』は、ちょうど硬貨の裏と表のように存在していたが、五〇〇年前、セレネに住む魔族が人間の住むデュアルソレイユに領地を広めようと侵攻した時代があった。
 だからこそ、『悪い魔族』を倒した二人は、『良い魔族』としてデュアルソレイユでは英雄視されている。

「でも、五〇〇年前から生きてるってことは五〇〇歳は超えているんだろう? アルフェリアはそれでもいいの?」

 エイルは困惑を隠しきれない様子で尋ねた。

「年齢なんて関係ない! ただし美形に限る! それに結婚できれば玉の輿だし!!」
「アルフェリア……」

 鼻息が荒い。
 これをきっかけにどっちかを落としてやる! と意気込む幼馴染みに、エイルはがっくりと肩を落とした。

「女の子って、こういうものなのかなあ……? ヴィクトリアも興味ある?」
「私は別に。……『魔族』が来るみたいだけど、私は仕事にいくよ。ご馳走さま、エイル」
「え? ちょっと、ヴィクトリア?」

 ヴィクトリアはそう言うと、幼馴染の返事も聞かず走り出した。
 
「全くもう……。せっかくあの子も可愛くしてあげようと思ったのに。逃げたわね。ヴィクトリア」

 アルフェリアは溜め息を吐いた。
 ヴィクトリアが勢いよくあけた扉は外れ、ギイコキイコと悲鳴を上げている。

「まあいいじゃないか。どうやらヴィクトリアは、玉の輿には興味がないみたいだし」

 それ以上壊れないよう扉を支えてから、元気よく家から飛び出していった幼馴染を思って、エイルは苦笑いした。




 仕事場《やま》についたヴィクトリアは、木の枝の上に隠れ息を殺していた。

 ヴィクトリアは、狩猟を生業にしている。
 若い人間が少ない村で、人里を襲う可能性がある動物を狩るのも彼女の仕事だ。

「――よし。いける!」 

 人並外れた跳躍力。
 獲物を見つけた彼女は木を強く蹴って宙に浮くと、落下による加速を利用してそのまま拳を熊の頭に叩き込んだ。

「熊、確保!!!!!」

 どおおん!
 脳天に重い一撃を食らって倒れた熊を前に、ヴィクトリアは一度手を合わせてから、太ももに隠していた短剣でとどめを刺した。
 
「熊持ち帰ったらエイルからまた心配されそうだけど、一人じゃ食べられないし仕方ないよね……」

 解体した熊の体を運びながらヴィクトリアは呟く。
 
 エイルに「うちで働かないか」と、誘われたことはある。
 けれどヴィクトリアは、その申し出を受けることは出来なかった。
 自分のやっていることが危険であることは重々承知している。でも、誰かがやらなくてはいけないのだ。そしてヴィクトリアは、自分なら殺されない自信があった。
 だからどんなに危険な仕事であっても、この仕事こそ自分に与えられたもののようにヴィクトリアには思えた。
 たとえそのせいで、自分の手が血で濡れたって――。

「…………」

 赤く濡れた手を見て、ヴィクトリアはふう、と深く息を吐いた。
 気持ちが沈んでしまう、こんなときは。

「よし、今日も水浴びをしよう!」

 水浴びは、ひと仕事終えたあとのヴィクトリアの楽しみの一つだ。
 ヴィクトリアは服を脱ぐと、水の中をスイスイ泳いだ。ついでとばかりに、魚を見つけては陸に打ち上げる。
 今日の昼ごはんは、焼き魚に決定だ。

「ん~~っ。気持ちいい!」

 ぷはあ! 
 水の中から顔を出すと、ヴィクトリアは思いっきり息を吸い込んだ。
 新鮮な森の陽気が、体に満ちる感覚がする。それに水の冷たさは、頭を冷やしてくれる気がして心地よかった。

「……今頃、村についているのかな……」

 朝のアルフェリアの言葉を思い出して、ヴィクトリアはぽつりそう呟いた。

(今日は、『二人』が来ると言っていた。)

「でも一体、なんのために、あの子達がこんな場所に……」

 呟いて、ヴィクトリアは瞳を閉じた。

『陛下』 

 柔らかそうな金色の髪に、宝石のような青の瞳。
 目を瞑れば記憶の中で、小さな手が自分の手を包んで、ふわりと優しく微笑む。

『陛下。陛下に、このお花を差し上げます』

 天使のような笑顔。可愛らしい、幼い声。もうずっと昔に、手を離してしまった小さな手。
 そして隣には、黒髪に赤い瞳をした子どもが、少し不機嫌そうな顔をして立っている。
 その姿を思い出して、ヴィクトリアは唇を動かしていた。

「会いたいな」

 けれど思わず漏らしてしまった言葉に気づいて、彼女はすぐに口を押さえた。

「……私は、何を言って」

 震える声で自嘲する。

「今更、会ってなんになるの。……今の私はもう、ただの人間なのに」
 
 その時だった。
 背後からかさりという音がして、生き物の気配に気付いた彼女は慌てて服で胸元を押さえた。
 敵の襲来に備え剣を構える。
 おかしい。この森には、自分以外、人は近づかないはずなのに。

(一体、何だというの……?)

 足音はゆっくりと、こちらに近づいてくる。ヴィクトリアは表情を険しくした。

 そして、現れた男は。

「――陛下?」
 
 ヴィクトリアを見て一言、そう呟いた。

「……え?」
「陛下! ああ、陛下!! ここにいらっしゃったのですね……!」

 ヴィクトリアは思わず剣を落とした。何故彼が、自分をそう呼ぶのか理解出来ない。
 呆然と立ちすくむ彼女に対し、男は服が水に濡れることもためらわず一気に距離を詰めると、ヴィクトリアの体を強く抱きしめていた。

 ――星のように輝く、美しい黄金色《こがねいろ》の髪。海を思わせる青の瞳。人とは思えない、凄絶なまでの美貌。

 彼自身に見覚えはない。しかし彼によく似た色をした少年なら、ヴィクトリアはよく知っていた。
 自分が死んでから五〇〇年。魔族の寿命は長く、それ故に成長も遅い。ならば自分が魔王だった頃、少年だった人間が大人になっていてもおかしくはない。

(彼は。彼は、まさか――……)

「貴方は……ルーファス・フォン・アンフィニ……?」 

 震える声で尋ねる。
 ヴィクトリアの問いに、青年は心の底から幸せそうに微笑んだ。

「はい。――私は、貴方の剣。この五〇〇年、ずっと貴方を探していました」

 ヴィクトリアに、老夫婦に拾われる前の記憶は無い。
 けれど確かに、覚えていることがある。
 彼女には、誰にも言えない秘密がある。
 ――それは。


「――ヴィンセント様」

 自分の前世が――五〇〇年前勇者に倒された魔王、ヴィンセント・グレイスだということだ。