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その花は、想いを糧に具現化した式神の一種だったのだ。花だからちうのように動くことはないものの、何かしらあった際は彼女を守ってくれるだろう。

しかし、それだけではない。

花の元は没になった絵画数枚……ざっと数えて八枚くらいだっただろうか。そして咲いた花の数も八本。――つまり、それだけ一枚一枚に込められた思いが強いことを表しているのだ。

(強い思いがない物は具現化もしないから、結構難しいんだよなぁ)

マサキは親戚の子供が上手くできず癇癪を起していたことを思い出し、苦く笑う。マサキは顔を引き攣らせる少女の頭を軽く撫でると、懐から名刺を取り出した。チラシの裏に書かれた、手書きの名刺だ。

「初めまして、僕の名前はマサキ。この町で陰陽師として活動している。そして」

「ちーう!」

「こいつが相棒のちうっていうんだ。よろしく!」

「マサキさん……ちう、くん……」

「ちゃっちゃるん!」

桜の木からマサキの肩へと飛び降りたちうを、少女はしっかりと目にする。

少女は手作りの名刺を受け取ると、マサキとちうを交互に見る。次いで自己紹介でもしようと思ったのだろう。「わたしは……」と言いかけて、しかし声を窄ませてしまった。どうやら絵画のことでいろいろあったのが、彼女の中でトラウマにでもなっているのだろう。

マサキはそんな彼女に、満面の笑みで笑いかける。ピッと出したのは、会長からもらった連絡先の書かれた紙。

「俺たちは箕面会長の頼みで『華絵 彼岸花』の護衛を任された! 僕ほどの有能な護衛は中々いないだろうな~!」

「え、護衛って」

「金も貰ったんだ! これでパンの耳生活からおさらばできる……!」

「パンの耳……」

「だから、そんなに緊張しないでくれたまえ。君に逃げられると、僕は困ってしまう。なあ、ちう」

「ちうー!」

マサキの言葉にちうが頷くように声を上げる。本当に、相棒のようなやり取りに少女は目を見開き――そして、小さく微笑んだ。

「ふふっ。二人とも、頼もしそうな護衛さんだ」

「一人と、一匹だけどな」

「そうだね、うん。私はnezasa。本当の名前は教えたいんだけど……秘密にしろって、お母さんが……」

「そうか! それじゃあ、俺は君をネザサって呼ぶことにするよ」

「うん」

「よろしくな、ネザサ!」

「よろしく、マサキ」

二人は手を取り合うと強く握手をする。何となく波長が合うような予感が二人の間を駆け巡る。

12

再び絵を描き始めるネザサの隣に腰を下ろすと、マサキはちうと戯れながらネザサの持つ道具を見て「あれは」「これは」と問いかけた。

ネザサはどうやらこの辺りで毎日絵を描いているらしく、『華絵 彼岸花』もここで描いたものなのだとか。色の濃い桜の花びらを紙の上に描きながら、ネザサはからからと笑う。その笑顔が年相応に見える反面、手付きは完全に大人顔負けのものだった。

マサキの視線が紙に注がれているのに気が付いたネザサは、クスリと笑うと『華絵 彼岸花』の話を口にした。

「彼岸花はね、初めて絵具を手作りして描いたものなんだ」

「絵具を、手作り……!?」

「うん。高いからあんまり量は作れないんだけど……」

ネザサは絵具を作る手順をマサキに教える。そんな簡単に人に教えてもいいのかとマサキは不安になったが「染物屋さんの人ならみんな知ってるよ」というネザサに、気にすることをやめた。

マサキは自分の知らない知識が自分よりも年下の少女から、溢れんばかりに出てくるのをどこか呆気にとられた気持ちで見ていた。

(……すごいな)

絵を描いたり、絵具を作ったりする技術もそうだが、その熱量は真似しようと思っても到底真似できるものではない。

(こりゃあ、大人たちが血眼になって探すわけだ)

「この墨は、その時の失敗作。水っぽくなっちゃって」

「そうだったのか!」

(墨も手作りとなれば、あんなにき綺麗に具現化したのも頷けるな)

マサキは、今は巾着に仕舞われてしまった先ほどの花を思い出し、笑う。金儲けしか考えていない陰陽師たちよりも、よっぽど彼女の方が素質があるように見える。

二人は他愛もない話を繰り返すと、日没と共に別れた。次に会う約束は特にしなかった。する必要がないと、マサキは思っていたから。

そしてその思惑通り、ネザサと再び出会うまでにそう時間はかからなかった。






僕は目の前に広がる草原に、両腕を広げ大きく息を吸い込んだ。草木の香りが肺の中を満たし、全身を駆け巡っていく。

「うーん! やっぱり田舎はいいなあ」

「ちょっと。失礼ですよ、あなた」

「おや。それはすまないことをした」

妻の言葉に、僕はいかんいかんと広げた腕を元に戻した。都内で生まれ育った僕にとっては広大な草原というのは珍しく、とても心躍る光景だったのだ。

(つい年甲斐もなくはしゃいでしまった)

13

「風も強くなってきましたし、そろそろ宿に行きませんか?」

「おお、そうだな。風邪を引いては旅行にならん」

「もう。旅行に来たのではないでしょう」

「はははっ、そうだったそうだった! いやあ、ずいぶん遠くまで来たからつい、な」

はっはっはと笑みを浮かべて、僕は妻の言葉に大きく頷く。呆れたような視線が突き刺さっているが、別に本気で忘れていたわけではない。ただほんのちょっと、ほんの少しだけ、爪の先くらい、浮かれてしまっていただけだ。

――噂に名高い、『華絵 彼岸花』。

圧倒されるほど美しいと言われているその絵画を描いた人物へ、取材をしに来たのが僕だ。

ついでに、本当にいい物であれば写真を撮って表紙にさせてもらえと言ったのは、僕の上に就く部長の言葉。……何でも、今回は新しくできた美術館にあやかり、美術系の特集を組もうと画策しているのだとか。

(本当に世の中の動きに目ざとい人だ)

だからと言って、急に出張を言い渡してくるのはどうかと思うが。

「大丈夫だよ。ちゃあんと取材のことは覚えているさ」

僕はそう告げると、首から下げた一眼レフカメラをするりと小さく撫でた。

「それにしてもいい雰囲気だと思わないか? 絶景も絶景だ。ちゅう秋たちも来られたらよかったんだがなぁ」

「仕方ないですよ。奥様のご実家がお忙しいのですから」

「なんと時が悪い。今回は土産だけを持参し、また今度別の旅行に誘ってやるとしよう」

「ええ。きっと喜ぶと思いますよ」

ふふっと微笑む妻の姿に、僕も笑みを浮かべる。

宿まではそう遠くはない。一度部屋に荷物を置いて、僕たちは目ぼしい観光地を回ることにした。



「よし。まずは昼食を食べないか?」

「ええ。下に観光案内所がありましたし、そちらでいいお店がないか聞いてみてもいいかもしれませんよ」

「おお、そうだな。そうしよう」

僕は荷物を宿に置くと、妻と連れ立って近くにあった観光案内所へと向かった。

ドアを開け、中に入れば白い床と壁が出迎えてくれる。壁にはバスや列車の時刻が多く貼られており、ちらほらと横文字の案内も見える。どうやら行先や使う公共機関で窓口が変わっているらしい。

僕は周囲を見回し、とあるポスターに目が向く。ひと際大きなポスターは、ドラマの宣伝や肩こり腰痛に効くという薬などの広告に混じって、堂々と貼られていた。

「へえ、ここは鎌崎選手が育った町だったのか」

「鎌崎選手?」

14

「今大会で見事優勝! 金メダル! みんなが声を上げ、血を沸き立たせ応援する声をその足に乗せ地を掛ける、今注目の女子陸上競技で、長距離の選手さ!」

「……」

「すまなかったから、そんな目で見ないでくれ」

じっと見つめてくる妻の視線に耐えられず、そう懇願する。

(ちゅう秋が言っていたのを真似しただけなのになぁ)

何故僕が冷ややかな視線を受けなければいけないのか。少々不服だが、仕方がないのかもしれない。元々、彼の真似はあまり評判が良くないことの方が多いのは知っている。

口を尖らせる僕に、妻が笑う。その笑顔が見れただけでも良しとしようじゃあないか。

「何か食べたいものはあるかい?」

「うーん、そうですね……。暑いですし、さっぱりした冷たい物がいいです」

「冷たい物かぁ」

何かあるだろうかと案内所の女性へ問い掛ければ、髪を一つに括った彼女はにこやかに老舗の場所を教えてくれた。思ったよりも近い場所にあるその店は、柿の葉を使ったお寿司を名物としているようで、それはそれは大変人気なのだとか。

「お寿司かぁ。いいねぇ、お前はどうだい?」

「ええ、美味しそうだと思います」

「そうか。ならばその店にしよう」

僕はウンウンと大きく頷いて、案内所の女性に礼を告げる。ついでにいい土産屋を数店舗聞くと、カウンターの端に置いてあった温州みかんのジュースを二本買って僕たちはその場を後にした。「土産は帰りに買うとしよう」と話し合い、教えてもらった店へと足を進める。

春とはいえ、じりじりと太陽の光が僕たちを照り付ける。風が少ない町は、思っていたよりも暑い。

「こりゃあ、君と同じように帽子を被ってくりゃあよかったなぁ」

「だから言ったでしょう? 春は陽射しが強いんですよ」

「もう少し風があると思っていたんだが……いやはや、君には敵わんな」

「そう言って。私の言うことなんか聞いたことないでしょう」

「そんなことはないさ! 僕はいつでも君の話を聞いているよ!」

「ふふっ、冗談ですよ」

「なんと。こりゃあ一本取られた!」

他愛もない話を交わしながら、妻と並んで街を歩く。頭上から降り注ぐ桃色の花びらは、春の陽気を受けて楽しそうにくるくると回っていた。

「すごい桜の木だ! 満開だな!」

「ふふっ。そうですね。でも、まだ七分咲きくらいだそうですよ」

「何だって? それじゃあこれからもっと綺麗になっていくのか?」

「ええ。二週間後には満開の予定だとか」

15

「ほう、二週間後か。今回の旅行は一週間だから、流石に難しそうだなぁ」

「そうですね」

「残念です」と告げる妻に、僕も頷く。

青い空、等間隔に植えられた鮮やかな桜、そこから舞い降りる桃色の花弁。そして、水のせせらぎと五月蠅くないほどの人の喧騒。全てが仕組まれていると思うほど整っているというのに、これ以上の光景が存在すると聞けば見たくなるのも当然だ。

(流石に仕事を休んでまでは来れないだろうなぁ)

仕事と称して写真を撮りに来てもいいのだろうが、残念ながらそういうものを撮るのは別の奴の方が上手い。それに、もしこれたとしても妻と一緒に来るのは難しいだろう。彼女も忙しいのだ。

「うーん」と思考を回し、唸っていれば不意に腕を引かれた。腕を引いたのは、妻だった。

「まあまあ。それはまた今度考えましょう。今年だけじゃあありませんし。それよりも、明日はお祭りがあるそうですよ」

「祭り?」

「ええ」

妻が頷き、細い指で何かを差す。そちらへ視線を向ければ、確かに地元の祭りのお知らせをしているポスターが貼られていた。『桜まつり』と大々的に書かれたそれは、見ているだけで心を躍らせる。――しかし、僕の目を引いたのは隣にある古ぼけたポスターの方だった。

『名画があなたの手に!? 絵画オークション開催!』

(絵画、オークション……?)

珍しいそのイベントは、どうやら数年前に行われたものらしい。ポスターは既に日焼けして、赤紫に染まった表面が辛うじて形を保っている状態である。

僕は無意識に近寄り、じっとポスターを見つめる。そこには出品されたらしい絵画が、辛うじて数点読み取ることができた。

ダ・ヴィンチの『モナリザ』の模造品や、ゴッホの『ひまわり』の模造品、『朝のひと時』や『カスミソウ』などの知っている人なら知っているかもしれない名前の絵画が並ぶ中、僕は掠れた文字を目にした。

「『華絵 彼岸花』……」

「え?」

「見てくれ。『華絵 彼岸花』が、名画オークションに出品されていたらしい」

僕は妻に見えるよう体を避ける。妻がポスターを覗き込み、「本当ですね」と驚いた声を上げた。

途端、後ろからしゃがれた声がかけられる。

「おや。お前さんたちも『華絵 彼岸花』に興味があるのかい?」

「うわああっ!?」

「ちょっと。人の声を聞いて叫び声を上げるなんて失礼だねぇ」

バンバンと背中を叩かれ、僕は慌てて振り返った。衝撃に揺れる視界で見えたのは、エプロンを付けたおばあさん。

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まん丸な顔を顰めてこちらを見上げていた。

(び、びっくりした……!)

「す、すみません。考え事をしていたものですから」

「ふん。まあ別に構いやしないさ。それよりアンタたち、『華絵 彼岸花』に興味があるのかい?」

「えっ」

「やめときな! あんな曰く付きの絵、あんた達不幸にしかならないよ!」

「「ええ?」」

おばあさんの言葉に、僕は首を傾げる。

(不幸になる?)

絵を買っただけで? どういうことだ?

「すみません、あの……それはどういうことですか?」

「何だい、あんた達知らないのかい? 『華絵 彼岸花』は不吉を呼ぶ絵画なんだよ」

「不吉を呼ぶ……」

「絵画だって……!?」

妻の言葉を引き継いで声を上げれば「仲がいいわねぇ」とおばあさんが朗らかに笑う。

おばあさんの警戒が緩んだところで、記者の僕の出番だ。

「お姉さん、もしお時間があれば『華絵 彼岸花』について知っていることを教えてくれませんか?」

おばあさんにそう問いかけると、彼女は「いやねえ! お姉さんだなんて!」と声を上げ、その言葉とは裏腹に意気揚々と話し始めてくれた。

「あの絵画はねぇ、呪われているのよ」

「“呪われている”?」

「そうなのよ! 絵画を最初に買ったの、お隣のおじいさんだったんだけどね。階段から足を滑らせたり、車に轢かれそうになったり、そりゃあもう大変だったのよぉ!」

「ええ? それは単に偶然とかじゃ……」

「偶然なんかじゃないわよ! あの絵を手に入れてから何人もの人間が不審死を遂げているんだから!」

「ふ、不審死……!?」

おばあさんからの情報に僕は目を見開く。まさか実害まで出ているなんて。

(不幸になるなんて言うから、気の持ちようとかそういうものだとばかり……)

「当時警察沙汰にもなったんだけどね、何かあるわけでもないって……絶対絵の呪いよ! そうじゃなきゃおかしいわ!」

「あんたもそう思うでしょ!?」と問われ、僕は頷くとも首を振るとも取れる不可思議な動きで問いかけを受け流す。

(呪いなんてそんな非現実的なもの、信じていいのか……?)

もし本当にそうなら担当は自分じゃなくて別の部署になるだろう。それこそ、スキャンダルとかホラー雑誌とか。

「あんなに大金叩いたっていうのにねぇ。死ぬくらいなら買わない方がいいわよ、あんなもの!」

「そんなに高かったんですか?」

「当然じゃない! オークションでも一番の目玉だったんだもの。競争率もすごかったらしいわよ~?」

「ええ? 最後はどれくらいの倍率に?」

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「うーん、そうねぇ。……ここだけの話、三桁はくだらないんじゃなかったかしら?」

「「三桁!!?」」

彼女の言葉に、僕と妻は心底驚いた。三桁以上の倍率が付いた絵なんて、聞いたことがない。

(僕たちはその絵を取材しに行こうとしているのか……!)

しかも部長の話では可能であれば『手に入れて来い』とも言っていた。倍率三桁を叩き出す絵を、自分たちが買えるわけがないだろう。

「流石に買うのは難しそうだなぁ……」

「そうですね」

「何だい。あんた達あの絵を買いに来たのかい?」

「ああ、いや。買いに来たっていうわけではないんですけど……」

「やめときな、やめときな! 金を払うだけ馬鹿をみるってもんだよ!」

しっしっと手を振って顔を顰めるおばあさんに、僕たちは何とも言えない悲壮感が込み上げて来ていた。

相手は絵画であり無機物であるとはいえ、そこまで恨まれるようなことを言われているのを聞くのは、何とも心が痛む。描いている本人が聞いたら一体どう思うのだろうか。

僕たちはおばあさんの元を後にすると、目的のお店へと向かう。しかし、こんな気持ちでは楽しめるわけもなく、僕たちは柿の葉の寿司を土産として持ち帰ることにした。その日は宿からあまり出ることなく、僕たちは温泉を満喫することにした。



――翌日。

十一時に起きた僕は妻と二人、カメラ片手に観光名所を巡ることにした。

まずはこの地を知ることから始めよう。幸いにも時間はまだまだたくさんある。その間、『華絵 彼岸花』の事に縛られるのも良くない。目的は添えたまま、僕たちは名所をぐるぐると回った。

桜は相変わらず見頃で、写真もどんどんと溜まっていく。僕の腕がいいのか、妻が綺麗なのかはわからないが、数枚は作品として出してもいいくらいのものが撮れただろう。

「あなた、そろそろ休憩しませんか?」

「ああ。もうそんな時間かい? 楽しくて気が付かなかったよ」

妻の言葉に、僕は近くのベンチに妻と二人腰をかける。

妻が持ってきた飲み物を受け取り、静かに啜れば爽やかな緑茶が喉を潤す。

「うん、これぞ花見! って感じだな!」

「ふふっ、飲んでいるのはお酒じゃないですけどね」

「そんなこと言うなよ。飲みたくなってしまうじゃあないか」

「宿まで我慢してくださいな」

「むう」

妻の冗談に口を尖らせれば、はらりと落ちてきた桜が魔法瓶のカップの中へと入っていく。緑色の水面に浮かぶ桜の花びらに僕は勢いよく妻を振り返った。

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「おい! おい、見てくれ! 花びらが!」

「はいはい。ちゃんと見えていますよ。綺麗ですね」

「だろう!? こりゃあ縁起がいい!」

はっはっは、と高笑いをしながら、僕はカップを掲げる。

「あなたったら……あんまり燥がないでくださいね」

「いいじゃないか。君もたまには燥いだ方がいいぞ」

「私は結構です。それに、こう見えてもちゃんと楽しんでいますから、お気になさらず」

小さく笑みを浮かべ、目を伏せる妻。何が楽しいのか、ふっと微笑んだままの口元は自分の欲目ではなく、美しいものだった。

僕はふっと視線を逸らし、周囲を見回した。……頬に紅が走っている姿なんて、情けなくて見せられたものではない。

人っ子一人いない世界に、僕たち二人だけが存在している。……そんな気分になりつつ、僕はふと感じる視線に振り返った。刹那、ぱちりと合う視線。

「!」

「どうかしたんですか?」

「あ、ああ、いや……」

無意識に指を向ければ、妻の視線がそれを辿る。

川を隔てた向かいには、一人の少女が座り込んでいた。――否、老婆、だろうか?

(……あんなに綺麗な白髪は初めて見たな)

まるで絹の糸のような艶やかな白髪に、僕は瞬きを繰り返す。少女は気づかれたことに焦っているのか、慌てて頭を下げていた。

「……あなた」

「あ、ああ。すまない」

妻の声に、慌てて視線を外す。妻を見ればその白い頬は少しばかり不満げに膨らまされていた。しかし、僕はそれどころではなかった。

僕の直感が囁く。――彼女は、只者ではない、と。

「……気になりますか?」

「うーん……少し」

「声、かけてみたらどうですか?」

「うーん」

妻の言葉に僕は唸る。顎に手を当て、空を見れば眩しさに目を閉じた。

「……そうしたいのは山々なんだが、僕が行って警戒されないかどうか……ほら、こう見えても僕は男だろう? 対して向こうは可憐な少女だ。怯えさせるのは本意じゃあない」

「はあ。……何を言うかと思えばそんな当然のことを」

「だから、良ければ君に第一声は任せたいと思うのだけれど」

「わ、私ですか?!」

「君は女性だろう? 警戒も薄くなるかと思って」

そう告げれば、妻は驚いたように振り返った。川向うにまだいた少女は、驚きに肩を揺らす。

(そんなに驚くことだったか?)

妻の反応に首を傾げつつも、僕は「頼むよ」と両手を合わせた。お茶が零れそうになり、慌てて持ち直す。

「……構いませんけれど」

「本当かい!?」

19

「もう……応えてくれなくても文句言わないでくださいね。一応私だって赤の他人なんですから」

「大丈夫だ! 君は美人だからな!」

「何の根拠にもなっていませんよ」

くすりと笑みを浮かべる妻に、僕は安心してお茶を飲み干し、魔法瓶にカップを戻した。鞄の中へと戻した妻と共に、近くの橋を渡り、少女のいるところまで戻って来た。

少女は白い髪を靡かせながら、一心不乱に筆を動かしている。

「ごめんなさい、ちょっといいかしら」

「っ!」

少女はびくりと肩を揺らすと、妻の声に振り返る。

簡単に自己紹介をする妻の声を聞きながら、僕は少女の周囲に散らばった紙の数々に目を走らせた。

(絵、か?)

どれもこれも、朱い墨で書かれたそれは、桜にしては少し色が濃いように見える。しかし、その儚さと力強さは、何かに似ているような気がして目が離せなかった。

「あ、あの……すみませんでした」

「え?」

「その、ずっと盗み見ていたこと……」

「あ、ああ!」

頭を下げる少女の言葉に、僕はハッとして首を横に振る。そんなこと気にしなくていいのに!

「別に気にしていないよ! ただ、なんで見ていたのかなって気になってね。僕たち、何か変なことをしていたかな?」

妻の隣にしゃがみ、少女の目線に合せてそう問いかける。

もちろん先ほど感じた直感もあったが、何かこの地ではやってはいけないことをしたんじゃないかという不安も、少なからずあったのだ。

「あ、えっと……その……」

「「?」」

少女の視線が彷徨い、頬が赤く染まる。ちらりと向けられた視線は、さっきまで少女が手に持っていた紙に注がれていた。妻と顔を見合わせ、紙に手を伸ばす。

「これは……」

「私達、ですね」

紙に描かれていたのは、桜の木の下で笑い合う男女。その笑顔はどちらも優しく、見ている側の心が温かくなるほどだった。

僕たちは揃って少女を見つめる。彼女は恥ずかし気に指を擦り合わせ、静かに俯いた。

「……その、とても仲良さそうにしていたので、つい」

「そうだったのか」

「す、すみません! 勝手に描いてしまって……!」

「ああいや! それは構わないんだが……すごいな。とても綺麗だ……! 君もそう思わないか?」

「ええ。すごく温かい気持ちにさせてくれます。すごい……」

「そ、そんな!」

「いやいや。謙遜しなくていい。寧ろ僕は描いてくれて嬉しいくらいだよ」

首を横に振る少女に、僕は正直に答えた。驚きに見開かれた目に笑みを向ければ、嬉しそうに微笑んだ。