家族と世の中のために、どんなに忙しくても文句も言わずに一生懸命働くお父さんと、優しくて美人なお母さんのことが、自慢だった。だから私は、そんな二人の自慢の娘になりたかった。

 それだけだったのに……私は一体どこで間違えてしまったんだろう?



 小学生の頃は、毎日がすごく楽しかった。
 お父さんが家にいることは少なかったけど、たまの休みには旅行に連れて行ってくれた。
 普段一緒にいられない分、たくさんの愛情を注いでくれた。

『大変でも、他人に流されないで、自分が正しいと思ったことを出来る人になってほしい』

 お父さんは口癖のようにそう言っていた。
 私はその言葉の通りにすれば、きっと自慢の子供になれると思って、頷いていた。

 お母さんはいつも優しかった。
 私は今でこそ成績優秀だけど、元々は勉強があんまり好きじゃなかった。
 だけど、私が学校で習ったことを、お母さんはいつも知りたがった。

『今日は学校でどんなことを勉強したのか、お母さんに教えて?』
 
 最初の内はめんどくさいなと思っていたけど、お母さんに勉強を教えると、すごく喜んでくれた。

『お母さんはあんまり頭が良くなかったから大学に行けなかったけど。未来は頭が良いから、将来どんな大学にだって行けそうだね』

 お母さんに喜んでもらいたくて、私はたくさん勉強をしていると、いつの間にか勉強をするのが苦じゃなくなっていた。

 学校も楽しかった。友達も、たくさんいた。
 勉強が苦手な友達に教えてあげると、いつも感謝の言葉を伝えられた。
 バカなことばっかりしている男子を注意したら、自分が悪かったと素直に謝ってくれた。

 勉強を頑張って、自分が正しいと思ったことを貫けば。
 きっと私は、お父さんとお母さんにとっての自慢の娘になれると信じていた。



 中学生になって、私は同級生からいじめられるようになっていた。
 
『未来ちゃんは勉強が出来るのからって他人を馬鹿にしているから嫌い』

 小学生の時のように勉強を教えていただけなのに。
 いつの間にか、私はそんな風に陰口を叩かれるようになっていた。

『那月って真面目過ぎて無理だわ』

『この間、ケータイ持ってきたこと先生にチクられて没収されたんだよ』

『内申点稼ぎのチクり魔。顔が可愛くても性格はブス』

 私は、間違っていることをしたらダメだよ、と言っているだけなのに。
 どうして誰も分かってくれないの?
 クラスメイト達は当然のように、私を無視し始めた。
 すごく辛くて、私は先生に助けを求めた。

『那月にも悪いところがあったんじゃないの?』

 でも、まともに取り合ってはくれなかった。
 クラスメイト達は先生に怒られることもなく、いじめ行為はエスカレートしていった。
 心配を掛けさせたくなかったから、私はお父さんとお母さんには、何も言えなかった。
 だけどある日、傷だらけになったカバンを抱えて家に帰った私を見て、お父さんとお母さんがいじめに気付いた。

 二人は学校に乗り込んで、いじめっ子とその親、そして先生を呼び出して、これまでに見たことがないくらい怖い顔で怒っていた。
 その様子を見て少し怖いと思ったけど、二人は家に帰ってから私を力強く抱きしめてくれた。

『気づいてあげられなくてごめんね』

 それから、三人で私が好きな近所の洋食屋さんに行った。
 私へのいじめはなくなった。
 だけど、中学校を卒業するまでの間。友達は一人も出来なかった。



 都内でも有数の進学校を受験して、無事に合格をした。
 お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれていた。
 私も、中学までの人間関係が終わり、ホッとしていた。
 話をしても分からないバカが紛れていた中学時代とは違って、ここには真面目で、勉強ができる人しかいないはず。
 思っていた通り1学期の間は、何も問題なかった。
 ちゃんと勉強ができる人たちはいじめなんてしてる暇ないし、しっかりしている。
 私はそう思って、喜んでいた。

『那月未来さん、好きです!』

『俺たち結構いい感じだと思うんだけどさ、付き合ってみね?』

『お前には俺がいないとダメなんだよ』

 夏休みを過ぎたあたりから、私は次々と告白をされるようになっていた。
 嫌われてばかりで、『性格ブス』なんて馬鹿にされていた私を好きになる人がたくさんいて。
 正直嬉しかった。

 だけど、やっぱり今は勉強が一番大切だったから、私は告白を断り続けていた。
 ――それが、良くなかったようだ。

『あいつ最近調子乗ってない?』

 いつのまにか、周囲には私を快く思わない人ばかりになっていた。
 私に告白をした男子のことが好きだった女子が言っているだけだと思った。

『顔が良いから告ったけど、性格はマジで無理だから!』

 だけど、私のことを好きだと言ってくれた男子までも、陰口を叩いて笑っていた。
 私はもう、誰のことも信じられなくなっていた。

 だから、お父さんとお母さんに、転校したいことを相談した。

『そうか……せっかく頑張って入ったけど、いじめられるのなんて嫌だよな』

 お父さんとお母さんは、すごく優しかった。

『今の学校から転校するなら、どこに行ってもレベルは下がるんだから……思い切って環境を変えてみるのはどう? 例えば――お父さんの出身高校とか?』

『環境を変えてみるのは良いかもしれないけど、お父さんの実家から通うつもり? 通学時間、結構かかるよ……?』

『未来一人をおばあちゃん家に預けて済ますつもりはないよ。田舎で家賃も安いだろうし、未来が大学受験に専念できるように、お母さんと二人で暮らしてみようよ』

 お母さんの提案に私が頷くと、二人はほっとしたような表情を浮かべた。
 二人は私を、気遣ってくれた。
 そして私は、二人を失望させてしまった。

 ――私が入学した時、すごく喜んでくれたのに。
 私が、いじめられるような性格をしていたから、余計な面倒ばかりを掛けてしまった。
 
 そのことが、たまらなく嫌だった。



 お父さんが卒業した高校だから、私は期待していた。
 だけど転入したこの学校は、これまでで最低の場所だった。
 私はここでも、いじめられた。
 早くこの学校に馴染みたくて訛り言葉を真似したことが、この学校の生徒の気に障ったようだった。

『俺たちのことを馬鹿にしている』

 勝手にそう思って、劣等感を抱いた馬鹿な田舎者たち。
 イジメられていることを、お父さんとお母さんに相談する気にはもうなれなかった。

 きっと、私の性格にこそ問題があるのだと疑われてしまう。
 私は二人の自慢の娘でいたい。これ以上、二人を失望させたくなかった。

 私はもう、何も気にしないことにした。
 田舎者のクラスメイトや馬鹿そうなギャルにどんないじめを受けても、何も気にしていないと装って、私は無視をし続けた。



 学校に行っている間、パートに出ているお母さんの様子が変だと気づいた。

『元気がないけど、どうしたの?』

『パート先で……酷いことを言われて。未来はどう? 友達できた?』

 本当のことなんて、言えるわけない。
 自分のことで弱ってるお母さんに、これ以上心配を掛けたくなかった。

『学校は……楽しいよ』

『未来が楽しいなら、良かった。……お母さんは、パート先変えなくちゃ』

 それからお母さんは、2回パート先を変えたけど、長くは続かなかった。
 結局、お母さんは家事に専念することになった。
 家にいる時間が長くなって、暗い表情を浮かべることが多くなって心配をしていたけど。
 年明け位から、家を出ることが多くなった。

『仲良くなった人がいるの! お母さんね、今日はその人と飲んでくるから、帰り遅くなるよ』

 お母さんに友達が出来るのは、良いことだと思った。
 落ち込んでいたお母さんが、日に日に明るくなっていった。
 そして、どんどんお洒落に、綺麗になっていった。
 夜に家を空けることも、多くなって。
 家に帰ってくるのが、次の日の朝になるのが当たり前になって――。

 流石に、それが良くないことだと、私は気づいていた。
 お母さんは、多分浮気をしている。

 気づいた時に、すぐにお父さんに教えた方が良かったのかもしれない。
 でも……どうしても、言えなかった。
 
 お母さんがここに来たのは、私のせいだから。
 お母さんが浮気をしているのは……一時の気の迷いに違いないから。
 東京に戻れば、お母さんも目を覚ましてくれるはずだから。

 私は自分にそう言い聞かせて、見て見ぬふりをすることに決めた。



 高校3年生になっても、私は相変わらず最悪な日々を過ごしていた。
 教室にいても、イジメられてばかりだから、一人になれる安全な場所を、私は探した。
 
 屋上前の階段の踊り場。
 埃っぽくて暗くって、清潔感の一切ない場所。
 その場所にわざわざ来る人がほとんどいないと気づいてから、私は昼休みをここで過ごすようになっていた。
 私の世界は、この狭くて暗い場所で完結していた。
 だけど……本当は、誰か信頼できる人が現れるのを私は待っていた。
 屋上へ続く扉に鍵をかけている南京錠が視界に入った。

 この南京錠を開けたら、いつか誰かが私をこの閉ざされた世界から解き放って、日の光の当たる場所へと連れ出してくれないだろうか? そんなことはあり得ないと、自分の考えを鼻で笑ってから――私は、鍵を開けることにした。
 簡単な構造の南京錠は、あまり苦労せずに開けられるようになった。

 屋上へ踏み入る。
 空は広く、吹き抜ける風は頬を撫でる。
 少しだけ、自分の世界が広がった気がしたけど――ただ、それだけだった。

 ここには、私以外誰もいない。
 誰も、私の世界に踏み入ろうとはしない。
 ただ、孤独を実感するだけだった。



 日増しに、馬鹿ギャルたちのいじめがエスカレートしていた。
 その日は、雨だった。放課後、私はいつも逃げるように教室を出る。
 少しでも遅れて、馬鹿ギャルたちに絡まれるのが嫌だったから。

 でも……それも疲れた。
 私は、誰からも必要とされていない。
 生きる意味なんて、ない。
 そんな風に、この頃は思っていた。

 だから、雨が降りしきる中、私は屋上へと踏み入った。
 手すりを乗り越え、下を見る。死への恐怖と生への執着、どちらが上回るのか確かめたくて。
 足が竦んだ。私はまだ、死ぬのが怖い。
 そう思って、少しだけホッとした。

 相変わらず、私の世界に足を踏み入れる人間は誰もいない、孤独のままだ。
 そんな時だった。
 傘もささずにずぶ濡れになった玄野暁が、私の世界に踏み入ってきたのは。

 玄野暁、男子バレー部のキャプテンで人望があり、見た目も頭もそこそこ良く、女子からの人気が高い男子だということは、話しをしたことがなくても知っていた。その人気は、突然授業中に幼馴染の狛江今宵に告白してフラれた後も続いているようだった。

 私にとっては、直接的な嫌がらせはしてこないけど、当然のように無視をしてくるような奴で。
 その他大勢の田舎者の一人にすぎないけど。

 ……だけどその日は、なんだかいつもと雰囲気が違った。
 そして、話をしていて妙な安心感を覚えた。
 後から気付いたけど、彼は私に合わせて標準語で話をしてくれていたからだ。
 こいつとなら仲良くできるかもしれないと、思い始めた時。

「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」

 そう言われ、流石に怖くなった私はその場から、すぐに逃げ出した。

 だけどそれから、夏休みに入るまでの間。
 日々エスカレートしていた馬鹿ギャルたちからのいじめがなくなった。
 心当たりは一つだけ。

 ()が、私のために止めさせたのだと分かった。
 だから私は、彼を屋上に呼び出して、約束をした。

「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」

 幼馴染にフラれた彼は今、生きるのが辛いのかもしれない。
 私にとって彼は、この高校で出会った唯一の、良い奴だから……死んでほしくない。
 そういう風に思っていれば、私もきっと自分勝手に死にたいと思うことなんて、なくなるだろうから。



「予備校の夏期合宿、行かせてあげられなくて、ごめんね」

 大して申し訳なさそうにもせずに、お母さんは私に言った。

「ううん、良いよ別に」

 予備校の夏期合宿、家計が苦しいからお金が用意ができなかったとお母さんは言った。
 身に着けたブランド物洋服やバッグ、高級な化粧品。あるいは夜に飲み歩いている酒代か――また別の出費なのか。
 いずれにせよ、家計が苦しくなったのは、浮気相手と関係してるのが明白だった。
 お父さんに言えば、解決したのかもしれない。
 それはつまり、私には解決することが出来ないということだった。

「自分で勉強していたら、十分だよ」

「ありがとう、未来」

 お母さんは綺麗な服を着こなして、美しく化粧をして笑顔を浮かべる。
 美人で自慢のお母さんの浮かべたその笑顔を……私は心底醜いと思った。
 彼と一緒に花火を見た日のこと。
 
「那月の母ちゃん。綺麗な人だな」
 
 彼がお母さんを見て言ったその言葉を、私は到底認められなかった。
 私のお母さんは、不貞を働くふしだらな女で、決して綺麗な人なんかじゃない。
 でも、そんな風には言えなかった。
 娘である私も、同じようにふしだらなんじゃないかと、彼にだけは思われたくなかったから。



 学校でのいじめは、随分と落ち着いた。
 彼との関係も良好で、穏やかな時間を過ごせていた。
 反対にお母さんは少しずつ、落ち込む日が多くなっていた。
 でも、話は聞かなかった。聞きたくもなかったから。



 彼とクリスマスを過ごすことになった。
 プレゼントをお父さんとお母さん以外に贈るのは初めてのことだから、すごく悩んだ。

 あんまり高価なものは、きっと迷惑になる。
 できれば、普段から使ってもらいたい。
 だからと言って手袋やマフラーを贈るのは、好意がありますとあからさまに宣言しているようで、恥ずかしい。
 ……でも、やっぱり、せっかくだから。彼には私のプレゼントで喜んでほしい。
 
 受験に合格して、一緒にこの田舎から東京に出て行こう。
 私の気持ちが少しでも伝わるようにと、『合格』の願いが書かれた絵馬のストラップを贈った。
 ……彼の喜んだ顔に、私もすごくうれしくなった。

 期待はしていなかったけど、彼はとても素敵なプレゼントをくれた。
 リンドウの植物標本(ハーバリウム)

 帰ってから、花言葉を調べた。
 彼が教えてくれた『勝利』という意味以外にも、いくつか意味があった。
 その中の一つが、私の目に留まる。

『悲しんでいるあなたを愛する』
 
 顔が熱くなって、胸が幸せに満たされた。
 ――彼と一緒なら、これから先何があっても、きっと大丈夫。
 私はそう、信じていた。



「ごめんね、未来。大学は諦めて」

「……え? どういうこと?」

 受験を終え、卒業式を間近に控えた日に、お母さんから告げられた。
 その言葉の意味が、私には分からなかった。

「お母さんね、お友達がお金に困っているっていうから、お金を貸してあげてたの。貯金を崩して、私の名前で借金までして。……だけど、その人と連絡が取れなくなっちゃって」

「なんでそんなことしたの……?」

「お母さんが辛いとき……()を助けてくれたのは、お父さんでも、未来でもなかった。私を助けてくれたのは、そのお友達だけだった。彼のためなら、私は何でもしてあげたかった」

 お母さんは、私を責めるような口調で、そう言った。

「浮気相手に、貢いでたってこと?」

「浮気? 貢いでた? ……そんな言い方しないで? 困っている友達を、助けただけなんだから」

 お母さんは前髪をかきむしりながら、苛立ちを隠しもせずにそう言った。
 私は唖然としてから……これまで我慢を続けていた感情が、一斉に溢れた。

「知らない……っ! なんで私にそんなことを言うの!? 全部お母さんのせいだからっ! 私には関係ない、お母さんが悪いんだから、お母さんが何とかしてよ!? 私は一人で東京の大学に進学するから!」

「あああぁぁ! うるさいっ!」

 お母さんはそう叫んで、私の頬を叩いた。

「全部、あんたのせいじゃない! 中学校でイジメられて、折角良い高校にも入れたのに、やっぱりまたイジメられて。そのせいで転校までして! あんたのためを思って、私は付き添った。だけどこんなに陰湿な人が多い田舎だって、知らなかった。知っていたならこんなところには、来なかったのに……。違う。やっぱりそもそも、あんたがいじめられなかったら良かった!」

 こんなに怒った表情を、私はこれまで一度も見たことがなかった。
 支離滅裂な言葉で、何を言っているのか理解は出来なかったけど……お母さんが私を憎んでいるのは、伝わった。
 お母さんは呼吸を整えてから、薄ら笑いを浮かべて、私に言った。

「でも、大丈夫。大学に行くのを一年我慢して、お母さんと一緒に働いたら、きっとお金を返せる」

「私、働いたことなんてないよ……」

「一緒に働くから、大丈夫。……お母さんは、自分が大学に行けなかったから、未来に背負わせ過ぎてしまったのかもしれない。ごめんね、未来」

 お母さんはそう言って、私を抱きしめる。
 違う、確かに最初はお母さんに褒めてもらうのが嬉しかったから勉強をしたけど。
 今は、自分の意思で進学したいと思っているのに……。

「もう、良い子でいようとしなくていいんだから」

 そう言って。
 お母さんは私の頑張ってきたことを、優しく否定した。

「友達の元上司の人がね、借金のことで相談に乗ってくれたの。すごく稼ぎの良い仕事を紹介してくれるんだって。しかも、お母さんと二人だったら、相場よりもずっと良いお給料を出してくれるって」

「……何の仕事?」

 私だって、何も知らない子供じゃない。
 なんとなく、どんな仕事なのか――察しはついていた。

「――でも――でも、何だったら――でも、何でも好きなお仕事を紹介してくれるって。未来はお母さんに似て美人だから、良かったね」

 お母さんの言葉はしっかりと耳に届いていたけど、私の頭は理解を拒んでいた。

「……私、そんなの嫌だよ」

 その言葉を聞いて、お母さんはもう一度私の頬をぶった。

「わがまま言うなっ! お願いだから、あんたを生んで良かったって思わせて……お母さんをこれ以上、苦しめないで?」

 ……そっか。
 私が大好きだった美人で優しいお母さんとは、もう二度と会えないんだ。
 このことを知ったら、お父さんはお母さんのことを、これまでみたいに愛せないだろう。
 それだけじゃなくて、きっと――。
 お母さんの浮気を黙認していた私のことも、許せなくなる。

「分かった」

 私はもう、そう答えるしかなかった。

「ありがとう。高校を卒業したらすぐにでも、って言ってくれてるの。明後日の卒業式の後に、すぐにお母さんと一緒に、挨拶しにいこっか」

 目の前で喜んでいる()の言葉は、全然頭に入ってこなかった。

「ありがとう、未来。……お母さん、あなたを愛しているわ」

 もう、どうでもいい。――死のう。

 私はその日、お父さんのためになると思って、遺書を書いた。
 死ぬことを決めたら、頭がすっきりした。不安なことも、嫌なことも何も感じなくなって、その日はぐっすりと眠れた。
 
 それから、朝早くに学校に行って、屋上でただ空を見上げ続けていた。
 この屋上で、彼と初めて話したあの日のことを、思い出す。

「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」

 きっと彼は、約束を守ってくれる。
 この約束は、私にとって、自殺を考えたときのブレーキになると思っていた。
 だけど、違った。
 綺麗な私でいられるうちに、大好きな彼が一緒に死んでくれる。
 これまで辛いことがたくさんあったんだから――最後くらい。

 こんな素敵なご褒美があっても、バチは当たらないよね?





「私はあんたにだけは……知られたくなかった。なのに酷い、どうしてそれを見ちゃったの……?」

 顔を涙でぐしょぐしょにしながら、那月は言った。
 彼女の独白の内容は、俺が今手にしている遺書である程度知っていた。
 だけど、彼女の口から直接その話を聞いて、理解が足らなかったのだと思い知った。

「那月は何も悪くない。俺は、那月が酷い女だなんて、思わない」

「嘘! 私がもっと良い子だったらイジメられることもなく、転校することもなかった! あの人が浮気をしたのに気づいたときに、すぐにお父さんに話していたら、こんなことにはならなかった!」

 俺の言葉を、那月はすぐに否定した。

「それが分かってるのに……私はあんたと会えたから、転校してきて良かったって思っちゃったの! お父さんとお母さんを不幸にしたのは私なのに、それでもこの場所であんたと出会えて良かったって、そう思った私は――」

 那月は俺を見つめてから、苦しそうに呟く。

「きっと、誰のことも幸せに出来ない、酷い女なの……」

 絶望と諦観と嘲笑を浮かべた那月。
 これまで積み重なった苦痛と苦悩が……那月の心を、どうしようもなく壊していた。

「ねぇ、お願い。ここで、一緒に死んでくれるよね? じゃなきゃ私は――」

 救われない。
 彼女の悲痛な囁きは、確かに俺の耳に届いた。
 俺はもう一度、彼女を両腕で強く抱きしめて、告げる。

「俺はまだ、自分のことを買いかぶっていたみたいだ」

 伊織に励まされ、自分がやったことが間違いばかりでないと知って。
 知らず知らずのうちに、勘違いをしていたようだ。

「那月の心を救うと覚悟して、俺はここに来た。だけど結局、那月のことを知ったつもりになっていただけだ。那月の求める救いは、俺が与えたかった救いとは違った」

 どんなに辛くても生きるべきだ、と。綺麗ごとを言うのは簡単だ。
 だけどそれで、那月は救われるだろうか? いいや、彼女の心はそんなことでは救われない。
 
 彼女はここで俺と一緒に死ぬことを、唯一の救いだと思っている。
 そして、俺はそれ以上の救いを彼女に与えることが――できない。
 彼女の母親が作った借金を返済できるだけの財力はない。
 彼女の家族関係を正常に戻すことなんて、誰にもできない。

 今の俺にできることは、彼女が前を歩けるように背中を押すことではない。
 彼女と共に奈落の底まで堕ちること、それだけだ。

「約束だもんな」

 俺の言葉に、那月は泣き止んだ。
 その場で、彼女を抱きかかえたまま、俺は立ち上がった。

「下を見ても怖いだけだから。せめて最後は、俺のことだけを見ていてくれ」

 俺は、那月に向かってそう言った。
 彼女は、少し照れ臭そうに、「うん」と呟き頷いた。
 物語の主人公みたいに、かっこよく那月を救い出すことが出来なくて、ごめん。

「ありがとう……()。私は、十分救われたよ」

 そう言って、彼女は俺の頬に、可愛らしくキスをした。
 それから俺は、彼女を決して離さないように固く抱きしめた。

 そして屋上から飛び降り――衝撃が全身を襲った。
 肺の空気が一気に口から出て行く。

 痛みに悶絶するが……意識ははっきりとしている。

 「なんで……生きてるの?」

 弱々しく、震えた声が耳に届いた。
 那月も、無事に生きている。

 俺は安心してから、伊織たちと一緒に(・・・・・・・・)こここまで来たことを思い出す。

☆ 

 この田舎町を一望できる展望台で、俺は縋るように伊織に向かって言った。

「俺たちを助けてくれ」

「……ん? たち(・・)?」

 伊織は、俺の言葉に首をひねった。

「那月が、死ぬつもりだ」

「……なんで?」

 不安そうな表情で、伊織は俺に問いかける。

「これまで受けたイジメと……家庭環境のせい」

「それって……トワのせいってこと、だよね?」

「ああ、間違いなく伊織はあいつを追い詰めた。それは、俺も同じだ」

「そのことを那月は、あっきーにだけは話したの?」

 那月は決して、俺に話すことはないだろう。それでも、知っているのだ。

「俺は、今宵にフラれて落ち込んでいた時に死のうとしたけど、結局一人で死ねなかった。だから、同じように死にたがっているように見えたあいつと約束した。死ぬときは、一緒に死なせてくれって」

「……それで、あっきーに死にたいって、連絡があったんだね」

「俺にはもう、死ねない理由がある。那月にも、生きていてほしい。だから伊織、俺と那月を助けてくれ」

 もう一度、俺は伊織に向かって言った。
 彼女は力強く頷いてから、俺をまっすぐに見て口を開いた。

「うん、分かった。……トワは、何をすれば良いの?」



 伊織と別れてから、俺は那月の家を訪れていた。

「どうも」

「あら、あなた……未来の彼氏よね」

 インターホンを鳴らすと、憔悴した様子の那月母が出てきた。
 以前見たときは年齢を感じさせない美人だと驚いたが、今の彼女は年相応……以上に、老け込んだように見える。

「あの子ならいないわよ」

 平然とした様子で、彼女は言う。
 自分で那月を追い詰めておいて他人事のように言う彼女に、怒りが湧いた。
 だけどその怒りを押し殺して、俺は無理やりに平然とした態度をとる。

「知ってます。部屋からあるものを取ってきてほしいって頼まれまして、上がっても良いですか?」

 めちゃくちゃな言い分だが、拒絶されたとしても、強引に部屋の中に踏み入ろう。

「ええ……好きにして」

 そう思っていたのに、那月の母はすんなりと部屋に入れてくれた。
 些細なことは、もうどうでも良いと思っているのだろう。

 俺は那月の部屋の机の引き出しを開ける。そこには、遺書が入っていた。
 封筒を開いて、中を見た。
 3度目の世界で、俺が読んだ内容とほとんど同じだった。
 開けた引き出しをもとに戻すことも億劫になって、俺は部屋を出た。

「頼まれたものは、見つかった?」

 俺を見て問いかける那月の母に、今しがた手に入れた『遺書』を、無言のまま彼女に押し付けた。
 彼女は首を傾げつつ、封筒の中身に少し目を通して――。

「……何、これ?」

 呆然と呟いた。

「那月は今日、死ぬつもりです。……心当たり、ありますよね?」

「違う! 私のせいじゃない!」

 俺の言葉を聞いて、彼女は突如声を荒げた。
 そして、手にした遺書を床に投げ捨てた。

「私は良い妻で、優しい母親だったのに! 未来がイジメられて、こんな田舎に引っ越す羽目になって、そこから全てがおかしくなった! 私はあの子のために我慢して、頑張ったんだから、あの子も我慢して、私のために頑張ってほしいって言っただけ! それの何が悪いの!?」
 
 聞いてもいないのに、自己擁護の言葉を延々と言うこの女を、ここで俺が殺せば那月は救われるのだろうか?
 俺は真剣に考えたが――残念ながら、今さら手遅れだろう。

 那月は、ここまで母親が壊れたことを、自分のせいだと思ってしまった。
 だからこそ耐えられず、死ぬことを選んだ。
 そのせいで、俺は那月を救えずに、何度も地獄を繰り返すことになったのだから。

「俺と同じくらい酷い人間、初めて見た」

 彼女に対して、怒りや憎しみを抱いていたが、今は憐れみが上回っていた。
 
「きっかけは、この町に引っ越してきて、周囲の人間に馴染めなかったからかもしれない。だから、この町の排他的な人間が悪いのかもしれない。弱ったところに付け込んだ、最低な男こそが元凶なのかもしれない」

「そうよ。私は悪くない、ただの被害者なのに、どうしてあの子は分かってくれないの――」

「でも、那月のことをここまで追い詰めたのは、紛れもなくあんただ」

 俺の言葉に、目の前の女は蹲り、髪をかきむしりながら、「違う、違う」と呟き続ける。

「何をしたって、あんたはもう、あいつの母親には戻れない」

 相手の耳には届いていないかもしれないが、それでも構わずに続ける。

「それでも、まだあんたの中に娘を想う心が残ってるなら――那月を助ける手伝いをしろ」

 俺はそう言ってから遺書を手にして、立ち上がる。
 どうせ、那月を助けるつもりはないだろう。
 そう考えて、そのまま部屋を出て行こうとして――。

「私は……どうすれば良いの?」

 彼女は、ひどく憔悴した様子で、俺に縋りつくように言った。



 学校に到着した俺は、連絡先に登録していた相手に、電話を掛ける。
 3コールほど呼び出し音が鳴ってから、

『もしもし』

 と、熱田先生は電話に出てくれた。

「休日にすみません、玄野です」

『おお、玄野か! ……どうした、何かあったのか?』

 俺の名前を聞いた熱田先生は、不安そうな声で俺に問いかけた。
 休日にいきなり生徒が電話をしてきたのだから、一大事だと思ったのだろう。

「はい。電話では話しづらいことがあって、直接話をしたいんですが……学校に来てもらうことって出来ますか?」

『分かった、今から向かえば良いか?』

 俺の言葉を聞いて、熱田先生は渋る様子もなく、即答した。
 俺の口元が、思わず綻んだ。

「はい、よろしくお願いします」

 それから通話を切って、熱田先生の到着を待った。

 ☆

 俺と熱田先生、そして伊織と那月の母の4人で、生徒指導室にいた。
 俺は、熱田先生に那月が書いた遺書を渡して、事情を説明した。

「――ここに書かれているのは、本当のことなのか?」

 動揺を隠せない熱田先生が、誰に尋ねるでもなく呟いた。

「トワは、あの子のこと虐めてた」

 伊織はそう言い、那月の母は無言のまま頷いていた。

「なんてことだ……」

 熱田先生はそう言ってから、那月の母に軽蔑の眼差しを向けた。
 それから、タイミングよく那月から立て続けに2通のメールが届いた。

「那月はこれから、この学校の屋上で飛び降りようとしています」

 そう言ってから、届いたメールを三人に見せる。
 伊織の顔が青ざめる。
 那月の母は嗚咽を漏らしてその場に蹲り、熱田先生は頭を抱えた。

「那月はもう、俺以外の人間のことを信じていません。無駄に刺激しないためにも、説得は俺一人で行います。その間三人は、万が一に備えて俺の指示する場所に、ありったけのクッションになりそうなものを敷き詰めておいてください。もしも飛び降りることになったら……そこをめがけて、落ちますから」

 熱田先生は俺の言葉を聞いて、少しだけ考えてから言う。

「三人じゃ人が少ない。応援を呼ばせてくれないか?」

 熱田先生の言葉に、俺は首を横に振ってから言う。

「あいつは死にたがってる。大人数で準備をして気付かれてしまったら、すぐにでも飛び降りると思います。だから、あいつのために必死になって動いてくれる人たちだけで動いてもらいたいんです」

「……分かった。玄野が失敗した時のことは考えたくないが、体育倉庫から出来る限りマットを運んで敷き詰めておこう」

 熱田先生の言葉に頷いてから、俺はマットを置く場所について、説明をした。

「迷惑をかけて、すみません」

 もしも、ここで失敗すれば……熱田先生にも、何らかの処分が下るかもしれない。
 善意に付け込んで、俺は彼を巻き込んだ。

「玄野。もしもお前らが本当に飛び降りたときは……俺が絶対に受け止めてやる」

 真剣な表情を浮かべる熱田先生に、

「普通に危ないからやめてください」
 
 俺は冷静に突っ込んだ。



「なんで……生きてるの?」

 飛び降りてから抱きしめたままでいた那月は、こうして無事に生きていた。
 良かった。
 ――そう思うと同時に、死なせてやれなかったことを、申し訳なくも思った。
 那月は起き上がり、何が起こったのか分からないとでも言いたげな表情で、周囲を見た。
 そんな那月に、一人の少女が縋り付いた。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」

 泣きながら謝り続ける伊織を、那月はただ茫然と眺めている。
 それから、周囲を見る。

 離れたところには、ぼそぼそと何かを呟きながら泣く那月の母。
 熱田先生は本当に那月が飛び降りたことに驚き、そして無事を確認したことで安堵し、放心して立ち尽くしていた。
 説得に失敗して飛び降りてしまったとはいえ、俺も那月も生きているんだ。もっと喜べよ。
 俺は、思わず皮肉にも笑ってしまった。
 こうして生き残ったはずなのに――屋上から堕ちた先のここも、変わらず地獄のようだ。

「那月が今も生きているのは、お前をイジメたいじめっ子と、イジメに気づけなかった教師と、お前に自殺を決意させた母親と、自殺を唆した張本人である俺が。お前に死んでほしくないと思って、必死になって動いたせい(・・)だ」

 困惑を浮かべる那月に、俺は言った。

「大好きなお前のお父さんは、今頃東京で明日のお仕事に備えてゆっくり就寝中。その他のクラスメイトや教師は、いつも通りお前が死のうが生きようが関係ないから、無視を決め込んでいる」

 俺の言葉を聞いて、那月は無表情を浮かべる。

「ここまで最低だと、もう笑うしかないよな」

「笑えないよ……」

 那月が今、どんな気持ちでいるのか……俺には正直、理解しようがなかった。
 だから俺は、自分勝手な感情を、彼女に向かってぶつける。

「じゃあ、怒れよ。擁護のしようがないクソ母に唾を吐き捨てて、何にも気づかず呑気に働くだけのクソ親父をぶん殴って、気に入らない世の中全てに中指突き立てて、『私以外の皆死ね』って叫べよ!」

 苛立ちが抑えられない。 
 誰も那月のことを助けようとしなかった、このクソみたいな世界に対して。
 そんなクソみたいな世界の中で、誰にも助けを乞わないまま、自己完結して死を選んでしまった那月に対して。

「――悪いな那月、俺にはやっぱりお前のことは救えない」

 そして何より、たった一人の女の子すら救えない、無能な自分自身に。
 
「生きていても良いことなんて何にもなくて、日々の満たされない気持ちに足掻いて、苦しんで、死にたいほど絶望をして、生きる意味が分からなくなったのだとしても。俺のためだけに生きてほしいから――死ぬことによって救われてなんか欲しくない。だってお前は、良い奴だから」

 頭の中は滅茶苦茶で、俺の言葉がまともに通じているのか分からない。
 それでも俺は、那月に向かって真っすぐに告げた。

「俺のために生きてほしいって……それじゃあ暁は、苦しみながら生きる私に、一体何をしてくれるって言うの?」

 那月は無表情のまま、俺に向かって問いかける。

「一緒に遊んで、たまに愚痴を聞く。……そんなことしか、俺にはできない」

 那月は伊織を振り払ってから、俺を睨みつける。

「そんなことじゃ、私の絶望は変わらない……それでも生きていてほしいなんて、卑怯だ。そんなことじゃ私は報われない、そんなことなら死んだ方が、ずっとマシ」

 那月は倒れている俺に馬乗りになった。

「マシなのに……。大好きな人にここまでされて、生きてほしいなんて言われたら。私はもう、死ねないじゃん……」

 那月の目尻から、涙があふれて頬を伝い落ち、俺の頬を濡らした。
 
「暁が私に、救いも何も与えてくれないなら、せめて。――愛してるって、そう言って」

 彼女は縋るようにそう言った。
 この期に及んで、中身のない空虚な言葉を囁くつもりなんて、俺には毛頭ない。

「10年はえーよ、バカ女」

 そう言ってから、俺は彼女の頬を伝う一筋の涙を指先で拭った。
 ――ああ、そうだ。そうだった。忘れていた。

 ただ俺は、こうして彼女の涙を拭いたかっただけなんだ。

 そのことに気付いた瞬間……俺の意識が遠のいた。
 何となくわかった。

 俺の役目はここで終わり、ということなのだろう。
 地獄のようなこの繰り返しの最後まで、彼女を救えなかったことは、確かに残念だ。

 だけどもう、後悔はない。
 那月は生きて、この先に訪れる困難もきっと乗り越えてくれるはず。
 自分のことを必死になって生かそうとする人間が、僅かにでもいると気づけたのだから。

『お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる』って、約束をしたのに。
 結局守れなくて、ごめん。
 でも俺は、これで良かったのだと心底思う。
 
「じゃあな――」

 今さっき、涙を拭ったばかりなのに。
 もう涙で顔をぐしゃぐしゃにした那月に向かって、俺は最後に一言だけ告げた。

 ――それからすぐに、俺の意識は途絶えた。