【書籍化決定】もう二度と繰り返さないように。もう一度、君と死ぬ

「ちょっと、大丈夫!?」
 
 那月の心配そうな声が耳に届く。

 俺は蹲り、不快感を堪えていた。
 全てが終わったはずなのに、なぜこうして生きているのか?
 ……こんな不可思議な現象の理由がわかるわけもない。

 俺は平然を装い、顔を上げて那月に答えようとして、
 
「――っ!?」

 しかし、彼女の顔を見た瞬間に、激しい頭痛に襲われた。
 そして、記憶が混濁する。
 交通事故で死んだ28年間の記憶と、2周目の半年の記憶と――この肉体が過ごした18年間の記憶が、瞬時にフラッシュバックし、知覚できないはずの記憶を司る脳の海馬を焼き、焦がす。

 10年後の未来と半年後の卒業式前日が、俺の脳内では共に過去になっていた。
 時間と感覚が狂い、確立した自己と精神と記憶があやふやになり、混ざり合い……。

 今はいつだ? ここはどこだ?
 俺は――何者だ?

「本当に大丈夫? 具合悪いなら、横になる?」

 那月が俺の額に手を当て、心配そうに語りかける。
 彼女の生身の体温が、俺を現実に引き留めた。

 ――そう、今日は夏休みの、とある日。
 貸切状態の図書室で、那月に勉強を見てもらった後、俺は彼女に連れられ、屋上へとたどり着いた。
 夜空を見ると、今も続々と花火が打ち上げられている。
 俺は錯乱状態からやや落ち着きを取り戻し、鈍く痛む頭を手で押さえながら、那月に呼び掛ける。

「那月……」

「何、どうしたの? 飲みかけだけど、お茶飲む?」

 那月は俺の顔を覗き込み、言う。
 つい先ほど見たはずの、彼女の最後の表情が、脳裏に浮かんだ。
 あの時迎えた最期を、繰り返してはいけない。
 ……痛みでまともに働かない俺の頭でも、それだけははっきりと分かった。

 自分のカバンから、タオルとペットボトルのお茶を取り出した那月に、俺は告げる。

「案内、楽しみにしている。お互いに、東京の大学に行けると良いな」

 力を振り絞り、俺は笑う。彼女はポカンとした表情を浮かべてから、優しく微笑んで言った。

「あんたは、自分の心配だけしていなさい」

 それから、額にかいていた俺の汗を、彼女はタオルで優しく拭ってくれた。
 柔軟剤の落ち着いた甘い香りが、鼻腔をくすぐる。

「ありがとう」

 俺はそう言ってから、彼女の手を借り、ふらつきながらも立ち上がった。



 電車に揺られながら、先ほどに比べて随分とはっきりとした頭で、俺は思案していた。

 まず、間違いなく、俺は再びタイムリープをしていた。
 ……2回目の出来事とはいえ、慣れたとはとてもいえない。
 この不可思議な現象について、考察できることも、数少ない。
 それでも、1回目と2回目のタイムリープについて、共通する事項が、二つあった。

 まず、一つ。
 俺の死がトリガーになること。

 そして、二つ。
 死の間際に、後悔をしたこと。

 一度目のタイムリープでは、今宵に告白をすることが出来なかったことを悔やみ。
 今回は……死にゆく那月の涙を見て、彼女に手を差し伸べることもせず、ただ追い詰めてしまったことを、後悔した。
 これまで俺は、もう一度死ねば、全てが終わってくれるはずだと思っていた。
 だけど、その考えは甘かった。
 悔いを残したままでは、俺は死ねないのかもしれない。
 それどころか、何をしても、どうあがいても。
 俺はこの人生を繰り返し続けなければいけない可能性すらあった。

 頭がおかしくなりそうだった。
 いっそここで全てを終わらせるために、線路に身を投げ電車に轢かれてみれば良いのかもしれない。
 そう考えていると、電車が最寄り駅に着いた。

 俺はほんの僅かに逡巡して、定期券を駅員に見せて、改札を通った。
 ……覚悟を決めることが、できなかった。

「あのさ、あんたやっぱり、体調悪いでしょ」

 駅の出口から駐輪場に向かう途中、隣を歩いている那月が声を掛けてきた。

「屋上からここまでずっと、辛そうな顔して黙ってる。……あんたの家より、私の家の方が近いんだし。ちょっと休んでいきなよ」

「いや、迷惑だろ……」

 俺の言葉に、那月は溜息を吐いてから答える。

「あんたが無事に家に帰れたか心配で、勉強に手が付かなかったらどうしてくれるのよ」

「……心配してくれてるのか」

「はぁ!? 心配なんてしてないからっ!」

 反射的に那月はそう答えたが、すぐに首を振った。

「……嘘、心配してる」

 真剣な表情を、俺に向けている。
 確かに、屋上からこれまでの俺の様子は、はたから見ても心配になるくらい、おかしかっただろう。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせてくれ」

 良い機会だと思った。
 俺は、共に心中した那月未来のことを――何も知らない。
 彼女がどんな生活をしているのか、少しでも分かれば良いと、そう思った。
 俺は駐輪場から自転車を引っ張り出して、那月と並んで歩き始める。

「私が漕いであげようか?」

 二人乗りを提案しているようだ。
 以前は悪びれもせずに俺に漕がせていたのに、随分と対応が違った。

「いや、歩いて行こう。そのくらいなら、大丈夫だよ」

「それじゃあ、私が自転車押すから。貸して」

 そう言って、彼女は俺から自転車をひったくるように、奪い取った。
 彼女の優しさに触れる度、俺は――。

「あのさ」

「何?」

「あんまり、俺に優しくしないでくれ」

 自分の愚かさを突き付けられるようで、いたたまれない気持ちになっていた。

 真剣な俺の表情に、那月は思わず「ぷっ」と噴き出していた。

「身体が弱って、心も弱ってしまったの? 大丈夫よ、優しくするのは、今日だけだから」

 慈愛の表情を浮かべる那月。
 空っぽのはずの胸が、締め付けられるように苦しくなる。
 誰も、那月に対して優しく接することはなかったのに。
 それでも彼女は、俺のようなクズに優しく笑いかけてくれる。

 お前はクズだから、苦しむのは当たり前だ、と。
 見下されて笑われた方が、よっぽどましな気分だったろう。
 
 だが、それはあり得ない。
 今俺の隣を歩く那月未来には、俺と共に屋上から飛び降りた記憶は、ないのだから。



 駅から徒歩10分。
 オートロック付きの、築浅5階建てマンションの最上階、その角部屋。
 そこが、那月の暮らす部屋のようだった。

「ちょっと待ってて」

 そう言って、那月はポケットに手を入れ、鍵を探る。
 しかし、彼女が鍵を取り出す前に、扉が開かれた。

「あら、未来。お帰り」

 扉から出てきたのは、1周目の世界の俺と、同じか少し年上くらいの美女だった。

「ただいま、お母さん。今日は、これからなんだ」

 那月の言葉に、驚く。
 30前後にしか見えないが……。いや、ありえない話ではないのか。

「ええ。戸締り、ちゃんとしていてね。あら、そっちの子は彼氏?」

「違う。……体調悪いみたいだから、休んでもらうだけ」

 那月はその言葉に、眉を顰めて即答した。
 それを、楽しそうに眺める那月の母。

「そう、気分が良くなるまで、ゆっくり休んでいってね?」

 微笑みかけられるが、なんと答えれば良いのか分からない。

「……どうも」

「ええ。それじゃあ、行ってきます」 

「行ってらっしゃい」

 那月は、暗い声音で一言答えた。
 那月の母は、ヒールの高い靴を履いて、部屋を出て行った。

「那月の母ちゃん。綺麗な人だな」

「気持ち悪いこと、言わないで」

 俺の言葉に、無感情に那月は言い、部屋に入っていった。
 確かに気持ち悪かったな、と反省してから、「お邪魔します」と一応断り、俺も後に続く。

 生活感のあるダイニングキッチンから続く扉の一つを開けて、那月は俺を呼ぶ。

「こっちが、私の部屋。飲み物取ってくるから、ちょっと待ってて」

 彼女の言葉に頷いてから、俺は部屋の中央にあるローテーブルの前で、胡坐をかいて座る。
 今宵の部屋には、何度も通ったことがあったが、那月の部屋は彼女の好きなものに溢れた可愛らしい内装とは、似ても似つかなかった。

 5畳前後の手狭な部屋には、勉強をするための机といす、ファッション雑誌の一冊も並べられていない、参考書だらけの本棚、そして寝るためのベッド。
 今は閉じられているクローゼットの中に、趣味のものを詰め込んでいる、ということもないだろう。
 綺麗に片付けられている、というよりも、そもそも物自体が少なかった。

「お待たせ」

 那月が部屋に戻ってきた。
 彼女が手にしていたのは、スポーツドリンクとグラス、それから体温計だった。
 胡坐をかいて座る俺の隣に、那月はわざわざ座った。

「ん」

 それから、彼女は俺に体温計を差し出した。
 熱を測れということだろう。
 俺は受け取り、おとなしく従う。
 しばらくして電子音が聞こえ、俺は熱を確認した。

「36度8分、平熱だ」
 
 俺の言葉に、那月は「それなら、良かった」と言って、スポーツドリンクが注がれたグラスを差し出してきた。

「ありがとう」

 俺は受け取り、一口飲む。
 体の隅々まで、水分が染み渡るような気がした。

「せっかくだし、もう少し休んでおきなさい」

 肩が触れ合うほど近い距離で座る彼女は、俺の顔を覗き込みながら、そう言った。
 俺は無言のまま、頷いて応えた。

 ――この部屋に入り、何となく気が付いたことがあった。
 父親のいる気配がなく、そして母親は夜に働きに出ている。
 何らかの複雑な事情のある家庭環境なのかもしれない。
 であれば、高校2年時に転校してきたのも、家庭環境が関係している可能性は高い。

 と、推察をしてみても、正確なことは分からない。
 思い切って聞いてしまおうかとも思ったが……那月にとって、その話題は地雷かもしれない。
 俺は、彼女が自然と話すまで、無理に聞こうとするのはやめようと思った。
 その代わり、俺はかつて伝えられなかったことを、言葉にする。

「那月には助けられた。だからもし、那月が困ったときが来たら。……今度は、俺が一緒にいる」

 ポカンと口を開けたその表情は、間違いなく間抜けなのに、どこか可愛らしかった。
 そんな那月をまっすぐに見て、俺は今を生きる決意をする。

 それは、卒業式前日のあの日に、那月を死なせないため。
 那月が生きて卒業式を迎え、無事に東京の大学に通い、そして一緒に花火を見て。
 それから、彼女のことを必要とし、心の底から大切にする男性が現れれば――。
 俺は、そこでようやく、心置きなく。
 終わりを迎えることが出来るのだろう。
 
「――少なくとも。今私は、反応に困っているわ」

 冗談っぽく茶化して言った那月は、恥ずかしそうに、視線を逸らすのだった。



 那月の部屋に行った、翌日。

 俺はバイトを休んで、この先那月に生きてもらうために、どのように行動すれば良いかを考えていた。
 何もしなければきっと、前回と同じ結末をたどる。
 そうならないためにすべきことは、文化祭初日にあった出来事を回避すること。

 あの日の出来事以降、俺と那月の関係は変わってしまった。
 あの時、屋上で震える那月のことを一人にするべきではなかった。
 だから今回は、那月が一人になってしまったそもそもの原因を、無くす。
 那月があの日、屋上に一人でいたのは、学校の誰かから嫌がらせを受けたからだろう。
 そして、俺との関わりもなくなり、誰に頼ることも救われることもなく、自ら死を選んだ。

 ――2周目の俺は、そうなることを望んでいた。自分と一緒に、死んでもらうために。

 なのに今回は、自分が未練を残さずに死ぬために、彼女には生きてほしいと考えている。
 どこまでも自分本位なな考えに、我がことながら反吐が出そうになる。
 ……自嘲をしても、現状は変わらない。
 だからせめて、頭を働かせる。
 あの日、那月に普段よりも酷い嫌がらせをしそうな人間は誰がいるかを、考える。
 すぐに思いついた候補者は、二人。

 一人目は、伊織だ。
 俺の言葉で、那月に対する嫌がらせは一旦やめていたようだが、元々那月のことを毛嫌いしていた彼女のことだ。
 何かしらキッカケがあれば、これまで我慢をしていた分を上乗せした激しい嫌がらせをすることも、十分に考えられる。

 そしてもう一人は――今宵だ。
 そもそも今宵は那月を無視していたし、彼女の悪口を陰で言うくらいには嫌っていた。
 夏休み明けに初めて見た、嫉妬を宿した今宵の眼差しを思い出す。
 あの時、伊織と仲良くなったことを平然と俺は認めたが、那月との仲を邪推された時に怒りを見せてしまった。
 もしも今宵が犯人なのであれば、きっかけはまさしくあの時のことなのだろう。

 ――俺の予測に確証はない。
 文化祭初日のあの日から一緒に飛び降りる最後の日まで、那月と一切の会話をせずにいたから、犯人の正体が分からないでいる。あの時、俺が彼女に寄り添うことが出来ていたなら、少なくとも犯人探しに困ることはなかったはずだ。

 その過ちを、決して無駄にしてはいけない。
 前回の経験を生かせば悲劇を避けられるはずだ。

 俺は携帯を操作し、電話帳を開く。
 登録されている名前を選択し、俺は電話を掛けた。
 3コールの後、電話に応答する声があった。

『もしもし?』

 その言葉を聞いて、俺は単刀直入に告げた。

「今度、バイト休みの日に。俺とデートしてくれない?」



 待ち合わせに少し早くついていた俺は、相手が到着するまでどうやったら那月を死なせずに済むか、改めて考えていた。

 那月の様子を見守るために、彼女の傍に付きっきりでいられれば一番良いのかもしれないが、それには問題がある。
 まず前提として、那月は受験生のため、当然受験勉強で忙しい。
 あまり彼女にまとわりついて、これまである程度作り上げた信頼関係を損なうのは、上策ではない。

 そしてもう一つが致命的なのだが……。
 もしも、犯人が今宵であり、その動機が『嫉妬』であったなら。
 那月とずっと一緒に行動をした場合、その嫉妬心は2周目をはるかに上回ることが予想できる。
 そうなれば、2周目とは違うタイミングで、2周目よりも苛烈な悪意を那月にぶつける可能性がある。

 文化祭に問題が起こるという前提そのものがなくなれば、この3週目での対処は困難になる。
 可能な限り、今宵の嫉妬心が那月に向かないように立ち回る必要がある。そもそも、今宵が那月へ嫉妬心を抱かなければ理想的だ。

 ――だからと言って、今宵とは既に『受験が終わるまでは付き合わない』という約束を交わしている。その間は、必要以上に一緒にはいられない。
 無理やりにでも説得すれば、彼女との約束を反故にし、付き合い、行動を共にすることはできるだろうが、そうすると当然俺は今宵から束縛され、自由に行動できなくなる。
 問題が起こるかもしれない文化祭も、今宵に付き合わないといけなくなる。
 その場合、もしも那月に嫌がらせをした犯人が今宵ではなく伊織であれば、全く対応が出来ない。

 今宵の嫉妬心を、那月から逸らせること。
 そして、伊織の様子を確認できるポジションを確保すること。
 この両立をするために、これからの行動指針を決定した。
 それは、今宵の嫉妬心を那月から伊織(・・)へ向けさせることだ。
 と、いうわけで――。

「お待たせ、あっき―!」

「待ってないよ、俺も今着いたとこだから」

 俺は伊織をデートに誘ったのだ。
 今いる待ち合わせ場所は、自宅の最寄駅から電車で40分程度の市内の駅。
 あの田舎町と違い、遊ぶ場所には困らない。
 
「いきなり電話来たから、びっくりしたんだけど」

「今度暇な日にデートしようって、先に誘ってきたのは伊織だったろ?」

 俺が言うと、「それさー」と、楽しそうな表情で前置きをしてから、

「ダメ元で言ってたから、マジで誘われるとは思ってなかったし!」

 それから、続けて伊織は言う、

「それで、何するかまだ決まってないけど、何する?」

「とりあえず、昼ご飯食べに行かない?」

「ん、オッケー。ご飯食べながら話そっか」

 それから、俺と伊織は駅近くのファミレスに入る。
 昼時のため、それなりに混んではいたが、待たされることなく席に案内された。
 その後、注文の品を食べ終え、飲み物を口にしながら、俺は伊織に問いかける。

「そういえば、課題持ってきてくれたか?」

「うん、無くしたからコピーさせてってやつでしょ?」

 伊織はそう言って、カバンの中から俺が持ってきてほしいと頼んでいた課題を取り出した。
 予想通り、それは白紙のままだった。

「お願いしておいてなんだけど、本当に、全く手を付けてないんだな」

「ほら、トワって『愛されおバカキャラ』じゃん? イメージを守る努力をしてるんですよ」

 自称『愛されおバカキャラ』のバカが、恥ずかしげもなくそう言った。俺は嘆息しつつ、彼女に言う。

「でも、課題一つもやってなかったら、2学期始まってから面倒だろ?」

「そうかもしれないけどさー、やる気もないし、分かんないし。ま、いっかな―って」

「それなら、俺が課題を手伝ってやるよ」

「え、マジ!? ありがとーあっきー、助かるよー!」
 
 可愛らしく笑みを浮かべて、伊織は言った。
 それがなんだか微笑ましくて、俺は笑う。

「それじゃあ、早速」

 俺は店員さんを呼び止め、テーブル上の皿を下げてもらった。
 それから、持ってきていた筆記用具を取り出す。
 そして、伊織にシャープペンを渡す。

「トワが使ってるのとおんなじシャーペンだー」

 素直に受け取った伊織に課題を広げさせる。

「ちなみに、伊織って実際どのくらいの馬鹿なの?」

「……おバカとはいえ、トワはやればできる子だからなー」

 たはー、と手のひらで額を抑えた伊織に、俺は言う。

「じゃあ、自分で出来るところまで、課題を解いてくれる?」

 俺の言葉に、伊織は「へんっ!」と鼻を指先で擦ってから、課題を解き始めた。
 そして……。

「やっぱり無理―!」
 
 伊織はうんうんと唸った後、シャーペンを机の上に放り出した。
 課題を確認してみると、驚いたことに俺が思っていたよりも、ずっとマシな状態だった。
 基礎的な部分は意外としっかりしている。ただ、応用的な問題が少しでも入ると、混乱してしまうらしい。
 
「この問題は――」

 俺は伊織のつまずいた問題を、一つ一つ解説する。
 伊織に勉強を教えるのは、驚くほどやりやすかった。
 説明が理解できていれば、彼女はわかりやすい笑顔になって、

「なるほど、あっきー天才じゃん! 先生よりわかりやすいよ!」

 とほめてくれるし、説明が分かりづらかったら、

「……うん、分かったかも」

 と、全然ぴんときていない様子で呟く。
 そんなときは、どこから理解できていなかったのかを彼女の表情から探り、もう一度説明すると、

「なるほど、あっきー天才(以下略)」

 と、理解をしてくれる。
 うちの高校に入るだけの学力はあるので、地頭が悪いわけではない。
 面白いほど理解してくれるので、彼女に説明をしながら課題をサクサクと進めていき――。

「え、ちょっと待って!? もう外暗いんだけど!」

 昼からほとんど休憩なしで勉強を続けていたが、気付けばもう遅い時間になっていたらしい。

「それだけ集中してたってことだろ、良いことだな」

「デートは!?」

「また今度な」

 俺がそう言うと、荒ぶる伊織はやや落ち着きを取り戻し、

「……それなら、まぁ。いっか」

 と、はにかんで笑った。
 俺たちは机の上に広がっていた勉強道具を片付けて、席を立つ。
 会計を済ませてから店を出たところで、伊織に聞かれる。

「あれ、そういえば課題のコピーまだとってないよね? トワ、結構書き込んじゃったんだけど……」

 今さらながら、彼女は気づいたようだ。
 自分のミスでもないのに、心から申し訳なさそうにしていて、俺は心苦しくなる。

「大丈夫だ。課題無くしたのって、嘘だから」

 俺の言葉に、伊織はキョトンとした表情を浮かべる。

「え? それって……」

 そう言ってから、ハッとした表情を浮かべる。

「トワをデートに誘う口実が欲しかったわけだ、あっきーてば可愛いとこあるじゃーん?」

 にやにやとしている伊織に、俺は苦笑しつつ「そういうことだ」と答える。
 すると、「もう」と呟いてから、

「あんまカッコつけんなよー?」

 と、伊織は言った。
 流石に、最初から俺が伊織の課題を手伝うことが目的だったと、気が付いたらしい。

「そういえば、伊織の最寄り駅ってどこ?」

「あ、電車乗らない。トワ今、この近くでお姉ちゃんと一緒に住んでるから」

「え、そうなの?」

「うん、実家よりも、お姉ちゃんの部屋の方が、学校近いから」

 それは、これまで知らなかった。

「そうなんだ。……一応、送っていこうか?」

「大丈夫、ホントにこっから近いからさ。あっきーこそ気を付けて、バイバイ!」

「おう、それじゃあまたな」

 彼女は大きく俺に手を振って、駅とは逆方向に立ち去った。
 俺も、彼女に手を振って応えた。



 電車に揺られながら、俺は考える。
 
 伊織の性根は優しい。
 なのに、那月をいじめていたのはなぜなのか?
 俺は、その理由が知りたいと思った。



「終わったぁー!!」

 3周目の夏休み、最終日前日。
 俺はファミレスで、伊織に勉強を教えていた。
 今日まで毎日のように、バイト後の時間を利用し、こうして伊織の課題を手伝っていた。

 勉強漬けの日々は嫌がられると思っていたのだが、俺がわざわざバイトの後に時間を作って教えていたことに恩義を感じた伊織は、驚くほど真面目に付き合ってくれていた。
 
「お疲れ様。よく頑張ったな」

 課題の問題を解き終えた伊織が、大きく伸びをしてから、俺に向かって問いかける。

「それで、あっきー明日は暇!?」

「バイトは入れてないけど……もう課題は終わっただろ。何すんの?」

 俺の言葉に、伊織は『何言ってんだこいつ?』と馬鹿にしたような目を向けてから、大きく溜め息を吐いて、言う。

「トワの夏休みが勉強漬けで終わるなんてありえない……明日こそ、普通にデートっしょ!?」

「あ、そういうことか……」

 伊織の迫力に押されつつ、俺は納得する。

「どこか行きたいところ、あるのか?」

 俺の言葉に伊織は頷き、それから言った。



「水族館! 着いた!」

 夏休み最終日。
 伊織のリクエストに応え、今日は市内の水族館に来ていた。
 
「あっきー、水族館ってよく来る?」

 笑顔を浮かべて問いかける伊織。

「いいや、めちゃくちゃ久しぶりだ」

 この水族館に来たのは、中学時代に一度だけ。
 その時に一緒に来ていたのは、今宵だった。

「へー、ちなみにトワは年パス持ち!」

 そう言って、伊織は定期入れから年間パスポートを取り出す。

「あっきーも年パス買えば? 代金は普通の入場券2回分だから、めちゃくちゃお得だよ」

 多分来ないだろうな、と思いつつ、もしかしたら伊織とまた来る機会があるかもしれない。
 なにより、伊織に対して暗にそういう意思表示もできる。

「そうだな」

 俺は窓口で、伊織におすすめされた通り、年パスを購入した。

「伊織はよく水族館来るのか?」

「何を隠そうトワは……この年パスを購入してから、来たのはなんと2回目!」

 vサインを見せながら、ドヤッと不敵に笑う伊織。
 どうやら年パスで損をしたくないから俺を誘ったようだ。
 俺は無駄に1回分入場料を多く払ってしまったのかもしれない。

「……とりあえず、順路に沿って館内見て回るか?」

 俺の言葉に頷いてから、伊織は言う。

「イルカショーの時間が決まってて……」

 伊織の言葉を聞き、館内の案内板を見る。
 イルカショーは、日に3回開催され、次回は15時30分からのスタートだ。

「まだ時間は十分あるし、館内見て回ってから、イルカのショーを観ようか」

「そうだね、賛成!」

 笑顔を浮かべた伊織に手を引かれ、俺たちは館内の見学を始めた。
 水族館を見ていると、意外なほどに楽しめた。
 発電中のデンキウナギ、幻想的なクラゲ、不細工な見た目の深海魚、とにかくキモいグソクムシ……。
 伊織も随分と楽しんでいるようで、テンションがいつも以上に高かった。
 時計を見ると、時刻はいつの間にか15時10分となっている。
 
「そろそろ、イルカショーが始まるから会場に移動しようか」

 俺の言葉に伊織は頷き、「もうそんな時間になったかー」と楽しそうに笑っていた。

 それから、イルカショーの会場内に移動した。
 場内はそれなりに混雑をしていたが、場所取りに困るほどではなかった。
 
 全体の動きが見れるように、俺たちは最上段の場所をとった。
 それからすぐに、ウェットスーツを纏った、ショーの担当スタッフ3人が、舞台に現れた。
 愉快な音楽が流れ、スタッフがホイッスルを鳴らすと、水面からイルカがジャンプをして現れた。

「おー、すっご!」

 隣の伊織は、目を輝かせてショーを食い入るように見ている。
 それからも、人を背に乗せて泳いだり、フラフープをくぐったり、様々な芸を披露するイルカ。
 俺も、思わずそのすごさに目を奪われていた。

 それから、気付けばショーの終了時間が訪れた。
 観客は皆、満足そうに惜しみなく拍手を送っていた。
 周囲の客は立ち上がり、出口へと向かっていた。
 混雑が落ち着くまで、俺と伊織は座ったまま話をする。

「楽しかったね! てか、すっごいよね、人間の言うことあんなに聞いてくれるなんて、頭いいよねー」

 今日一番の笑顔を浮かべながら、伊織は興奮した様子で言う。

「イルカ、好きなのか?」

「うん、好きだよ。愛嬌あって可愛いし」

「確かに、イルカって頭が良くて、人懐っこい、穏やかな生き物ってイメージあるよな」

「大体トワとおんなじってこと……?」

 ふざけた様子で、伊織は呟いた。俺は、複雑な心境で言う。

「実際は、同種や小型のイルカをいじめるような、凶暴性も持っているんだってさ」

 俺の空気を読まない言葉に、伊織は当然冷めた態度で答える。

「……へー、あんなに可愛いのに。そゆとこ、人と変わんないんだね」

 間を開けてから、声のトーンを下げて、伊織はそう言った。
 これ以上その話をしてくれるなという態度を露わにする伊織に、またしても空気を読まずに俺は問いかける。

「伊織は何で、那月をイジメてたんだ?」

 俺の言葉に、彼女は「はぁ」と、大げさにため息を吐いてから答える。

「やっぱあっきーさ。トワたちに那月未来のこと虐めるなって言ったあの時から、あいつと仲良かったわけ?」

「確かに今は仲良くしてる。でも、あの時は滅茶苦茶嫌われていた」

 この夏休みに接して、伊織が進んで他人を虐めるような人間ではないことは分かっていた。
 今さら、夏休み明けに再びちょっかいを掛け始めるとも思えない。
 だから俺は、ここで彼女と仲良くしていることを、伊織に告げた。

「……それで、トワがあいつのことイジメめる理由を聞いて、どうするの?」

「俺にどうこうできる話なのか?」

 俺の言葉に、伊織はまたしても溜め息を吐いた。
 それから、うんざりするように、自嘲しながら彼女は口を開く。

「トワってさ、可愛さだけが取り柄じゃん?」

 彼女の言葉の意味が良く分からずに、俺は「はぁ……」と、間の抜けた返事をする。
 それを見た彼女は、苦笑してから続ける。

「そんなトワに比べて、那月未来は美人で、頭良くて、その上お洒落な都会育ち。つまりはトワの完全上位互換。嫉妬で意地悪したくもなるでしょ」

 そんな理由で……と思った。でも、十分な理由だとも思った。

 人が他者を貶めるのに足る、立派な理由なんてものはない。
 特に、思春期の少年少女の未成熟な精神では、嫉妬心というのは重大で、しかもコントロールが難しい部分でもある。

 それに……伊織は自ら言わないが、那月はプライドが高く、口調もキツイ。
 本人が意図していたかは分からないが、確実に余計なことも言ったのだろう。
 そうして、いじめが始まってしまった。

「それで、あっきーはこの理由を聞いて、どうするつもりなの?」

「さっきも言ったけど、俺はどうしようとも思っていない。でも、もし。伊織がこれまでのことを後悔して、謝りたいって思っているんだったら。その時は、俺もあいつに、ただいじめを傍観していたことを、謝りたいと思ってる」

 伊織トワは、近い将来必ず、那月を虐めたことを後悔する。
 俺は、未来の彼女がどうなっているのか知っている。
 優しい彼女が、どうして罪を犯して捕まってしまったのか?

 それはきっと、那月が死んだことを自分に原因があると思いつめ、自暴自棄になって、最後には悪い大人にいいように利用されてしまったからだろう。

「……どうしてあっきーは、あいつと仲直りできたの?」

 俺の言葉を聞いて、伊織は瞳を伏せたまま、尋ねてきた。

「あいつが一人で弱っている時に声を掛けたのが、たまたま俺だったから心を開いてくれただけで――それ以上の理由はない」

 俺の言葉を聞いた伊織は、一瞬口を開いて、それから唇を噛んだ。
 たったそれだけのことで許されるのかと、不満を抱いたのかもしれない。
 しかし、彼女はその思いを吐き出したりはしなかった。 

「トワは謝りたい、って思ってない。だけど今さらまた、あいつを虐めようなんて思ってない」

「それで、良いと思う。1クラス30人以上の集団で、嫌いな相手がいない方が不健全だ」

 伊織は、那月が死んだら後悔し、罪の意識に苛まれるのかもしれない。
 だけど、今回は……俺があいつが死ぬのを止めるから、二人の関係を清算する必要はない。

 俺の言葉を聞いた伊織は、その場で立ち上がり、出口へ向かって歩いて行った。

「……もう良いよね! 折角、夏休み最後の日にデートに来たんだから、もっと楽しまなくっちゃ!」

「そうだな、今の話は、忘れてくれ」

 俺は彼女の後を歩きながら言う。

「……忘れないよ」

 伊織が、俺の言葉に呟きを返す。
 その言葉には、どんな感情が込められていたかは分からない。
 だけど俺は、聞こえないふりをした。

 そうしてこの後も、何事もなかったように伊織と共に水族館を楽しんで見て回った。



 3度目の、高3の夏休みが明けた。
 日焼けをして登校した俺を見るクラスメイトの視線は、2度目の時と同じように哀れみを孕んでいた。

 それから、2度目と同じ内容の夏休み明けのテストを受け、

「お前はあまりにも自分勝手だ! 大学受験は団体戦。なのにお前は補習にも出ずに、一人で勉強。その結果、学年2位。お前は良くても、周囲はどう思う? 自分の夏休みの成果を疑問に思う人間も出てくる。自信を無くした奴らに対して、責任をとれるのかお前は!?」

 結局、担任から叱責を受けることとなる俺。成績が下がれば怒鳴られ、上がればさらに怒られる。
 予定調和のイベントに、苛立ちが募る。
 何を言われても無言で対応する俺に、「調子に乗るなよ!」と言った後、職員室を出るように担任教師が指示をした。
 俺は会釈の一つもしないまま、言われたとおりに廊下に出る。

「待て、玄野」

 それから、すぐに背後から声を掛けられる。
 振り返ると、そこには熱田先生がいた。

「なんですか?」

「少し話がある。生徒指導室に来い」

 先ほど、説教を受けていた態度が悪かったから、こうして声を掛けられているのだろうか。
 面倒だな、と思いつつも、おとなしく従う。
 生徒指導室に入り、椅子に腰かける。
 目前の熱田先生が目を細め、俺に向かって言う。

「お前、夏休み中バイトしてただろ?」

 その言葉に、俺は疑問を抱く。
 前回の夏休みは、バイトはバレてなかったと思うのだが……。

「バイトは許可制で、お前がその許可を取っていないのはもう把握している。本来は指導対象だが……そのために、ここに呼んだわけじゃない」

 俺は首を傾げる。
 彼は何を言いたいんだろうか?

「お金に困っているのか?」

 心配そうに、俺に語り掛ける熱田先生。

「……いえ、そういうわけじゃないんですが」

 俺の答えを聞いて、こちらの表情をまっすぐに覗き込んできた。
 
「隠れてバイトをしながらも、他の人より短い勉強時間で、学年2位の成績になるまで勉強も頑張る。普通のモチベーションじゃ絶対にできることじゃない」

 彼の言葉を聞いて、自分が失敗したことに気が付いた。
 こんなことになるのなら、前回と同じくらいの点数を取っておけばよかった。
 今回のテストで、好成績を狙ったのは……。
 俺が好成績を取ることで自信を無くす奴らがいるのなら、いい気味だと思ったから。
 同学年の奴らのほとんどは、那月が嫌がらせを受けても、見て見ぬふりをしていた連中だ。
 そいつらに対して、俺は幼稚な八つ当たりをしたのだった。

「バイトはもう、辞めろ。見逃すのは今回だけ、次に見つけたときは、改めて指導する。もしも、やめられない事情があるなら……俺に、相談をしてくれ」

 熱田先生は俺の肩に手を置き、諭すようにそう言った。

「はい、そうします」

 俺の答えを聞いた熱田先生は、苦笑して言う。

「そうしろ。良い成績が取れたからって、次回も同じようにとれるとは限らないんだからな」

 その言葉を聞いて、少し気になることがあった。

「どうした、玄野?」

 熱田先生が、俺の表情を伺いながら問いかける。

「いえ、俺の担任でも、生活指導の担当ってわけでもないのに。どうして熱心に話をしてくれるのかなって思っただけです」

 前回も同じように、俺がバイトをしていたのを知っていたはずなのに、今回に限ってこんな対応をしたのはなぜなのだろう。

「俺は玄野が思っているよりも、薄情な奴だよ。それでも、頑張っている奴や苦しんでいる奴の味方でありたい。……お前ら高校生は、自分たちのことを大人だって思っているかもしれないけど、まだまだ子供なんだ。だから、何かあったらいつでも頼ってくれ」
 
 熱田先生はそう言って、立ち上がり出口へと向かった。
 俺も立ち上がり、彼の後に続いた。

「それじゃあ、今日は気をつけて帰れよ」

 生徒指導室の施錠をする熱田先生に会釈をしてから、俺は教室へ向かって、廊下を歩き始める。

 ――熱田先生は、決して悪人ではない。
 しかし彼は庇護するべき子供である、バレー部の女子と恋人関係であり、那月がいじめに苦しんでいることにも気づかずにいた。
 彼の言葉を綺麗ごとだと思うのは、俺自身が汚い大人だからだろう。



「お、あっきー戻ってきた!」

 教室に戻ると、2度目の時と同じように、伊織が声を掛けてきた。
 今回も俺が戻るのを待っていたようだ。

「センセーに呼び出されてたけどさ……どうだった!?」

 楽しそうに、瞳を輝かせて問いかけてくる。

「成績が上がったから、怒られたんだよ」

「どういう意味!?」

「補習をサボった俺が良い成績を獲ると、真面目に補習を受けた生徒が自信を無くして可哀そうだから、だそうだ」

「何それ! 自分たちが勉強教えるのが下手なのをあっきーのせいにして、うっざー!」

 眉間に皺を寄せた伊織は、職員室の方向を見ながら中指を突き立てた。

「ていうか夏休み、あっきーが重要だってトワに勉強教えてくれたとこ、全部テストに出たおかげで、下から数えた方が早かった順位が、ギリギリ上から数えた方が早くなるまで順位上がったんだけど!」

「下から数えた方が早いっていうのは、結構オブラートに包んだな。ほぼ最下位くらいだったろ」

 俺が言うと、伊織はテヘヘ、と笑ってごまかした。

「それでさ、あっきーこの後暇? 折角だし、お礼がしたいんだけど」

「あー、それならカラオケとかどう?」

 前回は一緒にカラオケに行っていた。
 当然今回も付き合ってもらえると思っていたが、彼女はあまり乗り気ではなさそうだ。

「オケるのも良いけどさー。もっとゆっくりしたいって言うかー……」

 伊織の言葉に、俺は首を傾げる。
 何がしたいのだろうか?

「トワの部屋でも良いけど……、あっきーの部屋行ってみたいな」

 伊織は上目遣いに、俺の表情を覗き込んでそう言った。
 その言葉を聞いて、俺は随分と昔に聞いた覚えのある、伊織トワの悪い噂を思い出した。

『誰にでもヤラせる女』
『元カレは100人以上いるのに、3日以上付き合った男はいない』

 そういうことかと、俺は内心納得した。



「……あのさ、ここ絶対あっきーの家じゃないよね?」

 息を切らし汗をかいている伊織は、大きく深呼吸を繰り返してから、恨めしそうな表情を浮かべてから言った。
 ここは俺の家の近所にある、町並みを見渡せる展望台のある公園。
 普段から、元気のあり余ったキッズくらいしかこの場には来ない。
 今も、俺と肩で息をする伊織以外に、人はいなかった。

「うん、違う。今気づいたのか?」

「途中で気付いたけどさ……え、なんでここに? トワはゆっくりしたいって言ったじゃん! もう滅茶苦茶疲れたよー」 

 不満を爆発させる伊織に、俺は答える。

「ここでもゆっくり話せるだろ?」

「だからって、なんでこんな場所に……」

「お気に入りの場所だから、伊織にも知ってもらいたくて」

 この場所は、夏休み中に那月にも案内していた。
 彼女は上る途中に現れた蛇に驚いていたものの、この場所自体は気に入ってくれていた。

「……自分の好きなところを、トワにも見てもらいたいって、結構かわいいところあるんだね、あっきー?」

 可愛らしいハンカチで額の汗を拭きながら、伊織は挑発的にそう言った。
 彼女が汗を拭い終えるのを待ってから、俺は言う。

「伊織は別に、俺のこと好きでもないだろ?」

「……好きだよ?」

 伊織は、無表情で言った。

「俺に向けているその気持ちに、恋愛感情はないだろ」

 俺は真剣な表情を浮かべて、伊織に言う。
 彼女は、無表情に言う。

「トワってすっごい可愛いし、ギャルっぽい恰好が好きだからかな? 男の人が、エロい目でこっちを見てくるのも分かるんだよね」

 伊織は、スカートからむき出しになった、自らの白い太ももに視線を向ける。

「同級生とか、年上に告られることも、ナンパされることもしょっちゅうある。大体がチャラい人で、すぐに部屋とかホテルに誘って、やろうとしてくるんだよね。……あ、真面目そうに見える人でも、おんなじだったか」

 あはは、と可愛らしく笑ってから、

「その時点で、トワ的にアウト」

 と、伊織は硬い声音でそう言った。

「俺のことを試してたってわけだろ?」

「うん、そう。あっきーは、これまでトワをエロい目で見たことがなかった。だから、トワから部屋に行きたいって言ったのは、最終テスト」

 伊織は、俺の表情を窺ってから言う。

「最終テストに合格して、トワを部屋に連れ込まなかったあっきーのことなら、トワは信用できる。……だから、これからきっと、ちゃんと好きになれる気がするんだよ」

 その言葉はまるで、自分に言い聞かせているようだった。
 好きになれる気がするの、と言っている時点で、彼女が俺に抱く感情は、決して好意ではない。

「伊織は周りにいた男がろくでもない奴ばっかりだったせいで、男性不信になってるんだろうな」

「『誰とでもヤル女』ってひどい噂を流されてるけど、多分それってこれまで付き合って、結局ヤラなかった男が言いふらしてるんだと思うんだよね。3日以上付き合った人はいないけど、元カレ30人以上いるから、特定できる気しないけどね。……そういうことが重なって、信じたくても信じられなくなったのかも」

「まぁまぁ……スタンダード」

 俺が呟くと、伊織はキョトンとした表情で首を傾げた。それを見て俺はちょっと恥ずかしくなった。
 3日以上付き合った相手はいない、という一部分のみを除いて、噂は全て噓だった。
 そんなことは、これまで伊織と接してきて十分にわかることだった。

「別に俺は、伊織と付き合いたいとか思っていない。ただ、一緒にいると楽しいから、仲良くしたいとは思っている。……だから今度、文化祭を一緒に回ってくれないか?」

 俺の言葉に、伊織は落ちこんだ様子で言う。

「でもやっぱり、トワはあっきー以外の男を好きになれるとは思わないから……」

「無理に好きになる必要なんてないだろ」

 それが虚しいだけなのだと、俺は身をもって知っている。

「本当に俺のことを好きになっても、なれなくても結局は一緒だ。さっきも言ったけど、俺は伊織と付き合いたいとか思ってないから、どうせ振る」

 俺の言葉に、伊織は驚愕を浮かべ……そして、心底楽しそうに笑った。

「酷すぎ! こんなに可愛いトワのこと振るとか、あっきーどんだけ今宵ちゃんのこと引きずってんの? キモすぎー!」

 そう言ってから、伊織は立ち上がる。
 夕暮れに沈む町並みを、目を細めて眺めて、彼女は呟いた。

「チュロス出すクラス、あるかな?」

 2年のとあるクラスが出店していた記憶があるが、今はまだ決まっていないはず。

「もしあったら、文化祭付き合ってくれるお礼におごってやるよ」

「やった! 今の言葉、絶対忘れないから!」

 無邪気に笑う伊織に、俺は頷く。取るに足らない、些細な出費だ。
 ……これで、今宵の嫉妬を向けさせる生贄(スケープゴート)を手に入れられるのだから。
 申し訳ないという気持ちは確かにあるが、これ以外の手段を取る気はない。

 俺は立ち、伊織の隣に並ぶ。
 彼女はつくづく、男運がないんだなと実感する。

 初めて信頼した俺こそが、これまで伊織が出会った男の中で、断トツのクズなのだから。



 伊織を駅まで見送り、それから家に帰る。
 携帯を見ると、那月からメールが入っていた。

『あんた、どんな勉強したわけ?』

 俺が夏休み中バイトをしていたにもかかわらず、学年2位という好成績を残したことに、興味があるのだろう。

『学年一位の才女に勉強を見てもらえばこのくらい余裕(^^)v』

 俺がメールを送ると、間髪入れずに返信が届く。

『うざ』

 顔文字も絵文字もない、たったの二文字。
 それだけなのに、彼女の嫌がる表情が想像できた。

『ヤマが当たっただけ』

『それでも私には勝てなかったね』

「……わざわざ勝利宣言とか、負けず嫌いだな、こいつ」

 俺は那月から来たメールを見て、呟いた。
 それから、続けて彼女からのメールが届いた。

『でも、頑張ったね』

 ……きっと彼女は、この言葉を俺に言うために、メールをしてくれたのだろう。

『ありがとう』

 俺の送ったメールに、返信はなかった。



 その後、那月とは学校で積極的に関わることはなかった。
 ただ、ファミレスで一緒に勉強をすることはあったし、ちょっとしたことで電話やメールのやりとりをすることもあった。
 つまりは、相変わらずの……それなりに良好な関係を続けていた。

 そうして、2学期も1か月ほどが経過した頃。

「あのさ……最近トワちゃんと仲良くない?」

 2周目と同じように、制服姿の今宵が突然俺の部屋に訪れた。
 彼女は、俺のベッドの上に腰かけ、椅子に座る俺に対し、そう問いかけた。

「ああ、そうだな」

 今宵の問いかけを俺は肯定する。
 学校にいる時は、特に伊織と一緒にいる時間が増えた。
 世間話をするのはもちろん、休み時間中に彼女の勉強を見てあげることも増えた。
 それもこれも、こうして今宵の嫉妬心を、伊織に向けるためだった。

「ふーん、開き直るんだ?」

 だけど、今宵の様子が俺の想像と違った。
 彼女の表情には、どこか余裕を感じさせた。

「開き直る、ってわけじゃないけど。休みの日には、二人きりで遊びに行くことも多い。水族館とか、カラオケとか……」

 今宵は俺の言葉を聞いて、クスリと笑った。

「お互いに志望校に合格したら、付き合おうってあたしと約束したよね? なのに暁は他の女の子と遊び惚けてる。……どういうことなのかな、これって?」

 前回は硬い声音で憤慨していたのに。
 今日は、俺の答えを聞くのを楽しんでいるように見える。
 このギャップは、何なんだ……?

「別に、伊織とは付き合ってるわけじゃない。ただ、話してみたら思いのほかウマが合って、一緒にいることが増えただけだ」

 俺が言うと、今宵は「ふーん?」とニヤニヤしながら、俺を見た。
 それから、手招きをして、

「こっち来て、隣に座って」

 と自分の隣に座れと言ってくる。
 俺は今宵を警戒しつつ、彼女の隣に腰かけた。

「何ビクビクしてるの? 浮気されたと思ったあたしが、暁を怒るとでも思った?」

「まあ……、そうだな」

 俺の言葉に、今宵は微笑む。
 そして、意外なことに彼女は、俺の肩にもたれかかってきた。

「暁は変わったよね。一回あたしにフラれてから」

「……そんなことないだろ」

 俺がタイムリープをしていることを、今宵は気づいてはいないだろう。
 それでも、思わずどきりとするようなことを、彼女は言ってきた。

「あたしは暁のこと、何でも知ってるから。隠し事なんて出来ないよ?」

「隠し事なんて、していない」

「隠すつもりがないってこと? ……暁、わざとあたしがトワちゃんに嫉妬するようにしてるでしょ?」

 その言葉に、俺はびくりと肩を震わせてしまった。
 どうやら今宵は、思っていた以上に俺のことを理解しているようだった。

「図星だったね。暁の考えてることくらい、お見通しだよ? トワちゃんに嫉妬させて、あたしの気持ちを煽ってる。……二人が合格する約束の日まで、待てないから」

 しかし、伊織に嫉妬を向けさせている理由については、理解できていないみたいだった。

「暁は、あたしに振り向いてほしくて必死なだけなんだよね? ……可愛い」

 揶揄うように言う今宵に、俺はつい油断をして、気を抜いていた。

「……今日だけだよ?」

 そう言ってから今宵は、俺の肩を掴んで思いっきり押し倒してきた。
 ベッドの上に、仰向けに倒された俺の身体に、今宵は自らの身体を重ねた。
 脈打つ鼓動が伝わり、吐息が肌を撫でる。

「今日だけ――今だけ。暁のしたいこと、してほしいこと……なんだってしてあげる」

 今宵は、俺の耳元で囁いた。
 そして、彼女はゆっくりと、俺の太股を指先でなぞる。

「……っ」

 突然の快楽に、俺の口から意図せず声が漏れた。
 それを聞いた今宵の表情が、嗜虐的に歪んだ。
 ……このまま、彼女を抱くのも悪くはないのかもしれない。
 一度抱けば、きっと今宵はこれまで以上に俺に入れ込む。
 今日だけ、なんて言葉はすぐに忘れ、肉欲に溺れる日々を過ごすことになるだろう。

 そうして身も心も、俺なしではいられなくすれば――言うことを聞かせるのも容易だろう。
 
「……どいてくれ」

 だけど俺は、そう言って今宵の身体を押し返した。

「悪いけど、そういうつもりじゃないから」

 ベッドの上で起き上がり、向かい合う俺と今宵。

「……強情だね」

 今宵は呆れたように呟いてから、俺の胸に額を押し付けた。

「でも、我慢できて偉いね」

 そう呟いてから顔を上げ、慈しむように俺を見つめてから……首筋に口づけをしてきた。
 その後、今宵は立ち上がった。皺になった制服を手で叩いて伸ばす。
 それから、ベッドに腰かけた俺を見下ろして、彼女は今しがた口づけした首筋に指を這わせながら、尋ねてくる。

「暁は、あたしのこと好き?」

「愛してるよ」

 彼女の問いに、俺は悩む間もなく即答する。俺の口から放たれた、空虚な響きの偽りの言葉を。
 今宵は妖艶な笑みを浮かべて聞いていた。

「あたしも愛してるよ」

 そう言って、今宵は俺の部屋から出て行った。
 どっと疲れが出た俺は、一つ溜め息を吐いてベッドの上で仰向けになった。
 俺の思惑とは少し違った形だが、今宵は今、那月へ嫉妬を向けてはいないようだった。
 ふと、シーツから今宵の残した甘い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
 つい先ほど、その香りを機に、今宵に押し倒されたことを思い出した。

 彼女を抱くことに、良心の呵責があったわけではない。
 ああいう女を抱いても面倒ばかりでろくなことにならないことを、経験則で知っていただけだ。
 俺は自分にそう言い聞かせる。
 未だに胸の鼓動が収まらないのを、自覚しながら――。



 あれから、今宵にちょっかいを掛けられることはなかったが、不思議と視線が合うことが多くなったように思う。
 それは、俺も彼女を目で追うことが増えた、ということだろう。
 今宵は、那月に嫌がらせをしている可能性が高い、要注意人物だから。……ということ以外に、理由はないと思いたい。

 そうして、平穏な日々が過ぎ、今日は3度目の文化祭。

「あっきー、とりあえずチュロス!」

 最初と2回目の文化祭は男友達と回っていたが、今回は約束通り、伊織と文化祭を回る。

「はいはい」

 そして、俺は2年生のやっている出店で、伊織にチュロスを買い与えた。
 受け取った伊織は、一口ほおばってから、

「うーん、美味しくはなーい!」

 と、楽しそうに言った。

「はい、あっきー残りどうぞ」

 そう言って伊織は、一口だけ食べたそれを俺に押し付けてくる。
 俺は受け取り、しぶしぶ食べる。

「……二個買わないで良かった」

 食べられなくはない。ただ、パサパサしてるし、なのに油を吸い過ぎてて重いし、伊織の言葉の通り、決して美味しくはない。
 ……普通に不味い。

「じゃあ次は、お化け屋敷いこっか!」

 伊織は俺の手を引き、3つの教室を使って作られた、今回の文化祭の最大規模のお化け屋敷へと向かった。
 少しの間並んでから、お化け屋敷の中へ案内をされる。
 最初の頃は雰囲気がそれなりに出ており、期待をしていたのだが、恐怖演出が単調で、半ばを過ぎたころには飽きて怖がることもなくなった。最終的に、暗いところでちょっと散歩をしているみたいな感覚だった。

「時間を無駄にしたねー」

 伊織はにっこりと笑って言い、俺も笑顔を浮かべて、無言で頷いた。

「講堂でやってるステージでも観に行く?」

「そうしようか」

 それから、俺と伊織は講堂へと向かった。



 内輪ネタばかりの寒いお笑いコンテストを、伊織は存外楽しんでいるようだった。
 俺はというと、正直飽きていた。
 何といっても3回目の文化祭だ。
 2度目は懐かしくて楽しんでいたが、今回はそれも難しい。
 
 俺は時計を見る。既に夕方、あと一時間もすれば文化祭は終わる。

 そろそろ、伊織と一緒に文化祭を回っている俺に嫉妬した今宵が、顔を出す頃合いだ。
 俺は周囲を警戒していたのだが……。
 一向に、今宵は来ない。

 ――そして、文化祭終了まで残り30分となった。
 ここにきてようやく、俺は違和感を覚えた。
 もしかして俺は、思い違いをしていたのかもしれない。

「……ごめん、伊織。ちょっと外す」

「え? あ、うん。わかった」

 漫才コンテストの結果発表を見守る伊織に一言告げてから、俺は講堂から校舎へと向かった。
 そして屋上前の扉を見て、心臓の鼓動が逸った。

 南京錠のカギが……開いていた。
 
 扉を開いて、屋上へと入ると、2度目の時と同じように。
 彼女は手摺りに寄りかかりながら、眼下を見下ろしていた。
 俺は深呼吸をしてから彼女の隣に並んで、声を掛ける。

「今年は文化祭、楽しめた?」

「……ああ、まあね」

 俺の声に、彼女はこちらを一瞥もせず、怠そうにそう答えるだけ。……俺は、絶句する。
 那月は、今回も嫌がらせを受けてしまったのだ。

「何かあったのか? 話を聞かせてくれ」

 俺の言葉に、那月は肩をびくりと震わせた。

「……うるさい」

 俺の言葉に、那月は無感情にそう言ってから、俯いた。
 その様子を見て、思案する。

 伊織は今日一日、俺に付きっきりだった。彼女が犯人は、ありえない。
 もう一人の容疑者である今宵は、今回は那月に嫉妬をすることもないため、嫌がらせをする動機がない。

 つまり、那月に嫌がらせをした犯人は、俺が注意をしていた二人ではなかったのだ。

 回りくどいことをしていないで、那月と一緒にいるべきだった。
 いや、それは結果論か……。
 とにかく今は、那月を一人にはさせない。
 
「ここ、寒くない? 俺の上着で良ければ貸すけど」

「寒くない。……良いから一人にさせて」

「今の那月を一人には出来ないだろ」

 俺の言葉に、那月は顔を上げる。
 それから彼女は、俺を赤く泣き腫らした目で、睨みつけた。

「……うるっさい、私が一人が良いって言ってるんだから、一人にさせてよ」

 前回の俺は、彼女のためにできることは何もないと、屋上を後にした。
 だけど今回は、違う。彼女の死の運命を、俺は変えたい。

「分かった、もう何も話さない。だから、傍にいるくらい良いだろ?」

 俺の言葉を聞いて、彼女は拳を固く握った。

「あんたの顔なんて見たくないっ、さっさと私の前から消えて!」

 俺は無言のまま、彼女の視線を受ける。

「黙ってないで、何か言えよぉ……」

 弱々しく呟き、縋るような視線を送る那月。

「傍にいるって、言ってるだろ」

 俺の言葉を聞いて、那月はまっすぐに、こちらを見つめる。
 それから、俺の制服の裾を、ギュッと握りしめてから、声を振り絞るように言う。

「はやく、どこか行って……」

 その言葉とは裏腹に、俺の制服を掴む彼女の手には、強い力が込められていた。
 彼女の胸の内に隠した本心が、痛いくらい伝わってくる。
 俺は那月のその手に、自らの手を重ねた。

「……嘘。どこにも行かないで、このまま一緒にいて」

 震える声で、那月は呟く。

「傍にいるから、心配すんな」

 俺が答えると、彼女は俺の胸に飛び込んできた。

「……心の中でずっと、あんたに『助けて』って言ってた」

 深い悲しみが、彼女の声と体温を通して俺に伝わってくる。

「来るのが遅い、もっと早く来てよ。……バカ」

 そう呟いてから、那月は嗚咽を押し殺す。俺は、彼女の肩を抱いて言う。

「一人にして、ごめん」

「もう、一人にしないで……」

「うん、一緒にいる」

 泣き止まない那月を宥めるように肩を叩き、俺は問う。

「誰に、何を言われたんだ? 那月を傷つけた奴を、俺は許せない」

 自分が思っている以上に、俺は怒っていたようだ。
 怒気を孕んだ声音に、那月はビクリと肩を震わせ、怯えたように俺の表情を覗き込んできた。

「言いたくない。もう、あんた以外の誰とも、関わりたくない……」

 そう言って、那月は俯いた。
 那月は弱り切っていた。
 ……今の彼女に、誰に何を言われたのか、思い出させたくもない。

 俺は、心底自分が情けなくなった。
 普段は強気に振る舞っている那月だけど、俺が見て見ぬふりをしていた内に、ここまで追い詰められていたのだ。

 ――彼女を追い詰めた全てを、台無しにしてやりたいとさえ思った。

「明日、一緒に文化祭を回ろう」

「……え?」

 俺の言葉に、那月は呆然とした様子だった。

「那月は今日、最悪な文化祭だって思っただろ? だから明日は改めて、最悪な文化祭だってことを、二人で確認しよう」

「でも……」

 答えを悩んでいる様子の那月。
『私は見世物になるつもりはないから』
 彼女の言葉を思い出し、俺は問いかける。

「祭りなんだし、見世物が一個増えるくらい構わないだろ?」

「……見世物?」

 戸惑ったように、那月は言った。
 そうだ、これは前回の記憶。
 今目の前にいる那月とは、この会話をしていない――。

 俺は、「なんでもない」と呟いてから、続けて言う。

「パッサパサのクソ不味いチュロス、内輪ネタの笑えない漫才、青春ごっこの聞くに堪えないコピーバンド。この町と同じで、那月が好きになる要素なんて一つもない、クソみたいな文化祭だったって、いつか未来で思い出した時に笑いながら言えるように――」

 俺は、彼女に手を差し伸べてから、言う。

「明日は、俺と一緒に文化祭を回ろう」

「……うん、良いよ」

 那月は頷き、差し出した俺の手を、握り返して微笑んだ――。



 そして、翌日。
 初日の熱を持ち越した文化祭の2日目は大盛り上がりをしているようだが、俺と那月には関係なかった。

「これが我が校自慢のチュロスだ」
「うわ、ほんとにマッズ」

「漫才コンテストの決勝に進んだ漫才はどうだ?」
「どこで笑えば良いか分かんないっ」

「モテたいってだけでやってるお遊びコピーバンドが盛り上がってるみたいだけど、那月も盛り上がってる?」
「クッソ萎える!」

 俺と那月は、互いに笑顔を浮かべて悪口を言った。
 周囲の人間は、気分を害したように俺たちを睨んできたが、関係なかった。

 最初に那月を害してきたのは、お前たちの方だ。
 クソみたいな学校の、クソみたいな文化祭。
 しかも、俺は3度も繰り返している。
 退屈で、最低な気分になると思っていた。

 だけど、これまでで一番楽しいと思えたのは――なぜだろう。



 文化祭2日目が、あっという間に終わった。

 明日から……いや、今日の夜にはもう、3年生は受験勉強に集中することになる。
 だけど、俺と那月は帰ることなく、二人で屋上に来ていた。
 いつもは那月が開ける南京錠を、彼女にやり方を教えてもらいながら、俺が開けた。
 やってみたら意外と簡単で、だけど那月は「私の教え方が上手いから」と得意げに言っていた。

 日は既に落ちていて、夜空には少しずつ星が瞬き始めていた。

「やっぱ、つまらない文化祭だったろ?」

 俺は那月の隣に並び立ち、夜空を見上げながら問いかける。

「うん、クソみたいな文化祭だった」

「クソみたいな生徒と教師しかいないんだから、当然なんだけどな。クソの代表格である俺が言うんだから、間違いない」

 その言葉に、那月は答えない。
 彼女は、無言で俺の横顔を見ているようだ。

「こんな学校に来るなんて、運がなかったな」

 俺は苦笑して、那月を見た。
 彼女は、プイと視線を逸らした。

「そんなことない」

 俺の言葉を即座に否定した那月。
 どうしたのだろうかと思い、俺は那月の様子を見守る。
 彼女は、逡巡した様子だったが、俺が無言でいると、深呼吸をしてから口を開いた。

「文化祭はつまらなかったし、この学校には最低な奴ばっかりだけど――それでも、この学校に来たことを不運だったと嘆くことは、私にはもう出来ないから」

「……なんで?」

 俺の言葉に、那月は「これ、言わなきゃダメなの……?」と不満そうに呟いていた。

「言いたくないなら、無理に言わなくていいけど」

 俺の言葉に、那月は「はぁ~」と大きな溜め息を吐いた。
 恨めしそうに俺を睨みつけてから、まっすぐに伸ばした指先で俺の胸を強く3度突いた。
 
「私はあんたと……玄野暁と出会えた幸運まで、否定したくはない」

 上目遣いで俺を見た那月は、反応を窺っていた。
 こんなことを言われるとは思っていなかった俺は、すぐに反応が出来なかった。

「黙るな! ……それで、私にこんなことを言われた感想は?」

 目には見えないマイクを俺に向けた那月に、

「これからも、俺と出会えて幸運だったと思ってもらえるようにしたい」

 2度目の高校生活で、那月が俺と出会ったのは、紛れもなく不運だったろう。
 でも、今回は違うのだと、俺は自分に言い聞かせる。

「……あっそ」

 照れ隠しのように、那月はそう言い。
 俺の視線から逃れるように、プイと顔を背けた。
 


 3度目の文化祭も、終わった。

 クラスメイト達は完全に受験モードに切り替わっている。
 そんな中、俺はこれまでにないくらい周囲から浮いていた。

 それも当然のことだった。
 文化祭初日、俺は伊織と文化祭を回っていたのに、翌日には那月と一緒になって、各クラスや有志の出し物をボロクソに貶していたからだ。

『伊織が可哀そうだ』

『狛江にフラれてから、ずっとおかしいよな』

『受験、失敗すればいいのに』

 俺の陰口を叩く連中は、いくらでもいた。
 彼らの陰口は大体一理あったため、俺は口答えせずにおとなしく聞いていた。
 伊織からは一度、

『気にしてないよ』

 というメールが送られてきていた。
 俺は彼女に対しては、負い目があった。
 こちらから文化祭を一緒に回ろうと提案していたのに、結局は那月と一緒にいることを選んだのだから。

「迷惑かけた。ごめん」

 俺の謝罪の言葉に、伊織は優しい言葉で答えてくれる。

『良いよ、あっきーは友達だもん』

 しかし、そのすぐ後に送られてきた2通目の内容を見て、俺は肩を落とした。

『でも、那月に謝りたいって思ったこともあったけど…それは、もう無理っぽいかも』

 伊織の謝罪をする気持ちを、俺が奪ってしまった。
 クラスメイトに無視をされても、何とも思わなかったのに。
 このことについては、ショックを受けた。
 俺が周囲から浮きまくっている中、今宵はどういった態度をとっているかというと、意外にもこれまで通りの様子だった。

 伊織と俺が話そうとすると、周囲がそれを強引に止める。
 那月とは教室内でほとんど話すことがない。
 だから、文化祭以降、俺が教室で会話をすることがあるのは、今宵だけだった。

 今宵は、空気を読んでいないのか、何か用事があれば普通に俺に話しかけてくる。
 周囲のクラスメイトは、『幼馴染だからって甘やかしすぎ』と、今宵に呆れている様だった。
 
 俺はというと、その今宵の態度に違和感を抱いていた。
 2度目の時は、俺と那月が挨拶をしていただけで嫉妬をしていた。
 だけど今回は、文化祭を一緒に回っても、何の反応もない。

 伊織とのことがあからさま過ぎたせいで、那月との関係も、わざと嫉妬をさせるための行動と思っているのだろうか?
 それとも――他の理由があるのだろうか?

 今宵を問い質したかったが、下手に彼女を刺激したくはなかった。
 そうして結局、俺は今宵に何も聞けなかった。



 そして、2学期の終業式が終わった。
 世間はクリスマスムードで浮かれているが、受験を目前に控える高校三年生には関係がなかった。
 ……はずなのに。

「24日、暇?」

 電車を降り、一緒に帰宅中だった那月は俺にそう問いかけた。
 
「……勉強してると思うけど」

「それなら、私の家で一緒に勉強するわよ」

「……何で?」

 那月とは文化祭以降、自然と一緒に下校する仲になっていたが、こうして自宅に誘われたのは、あの花火の日以来初めてのことだった。

「一緒にいたいから。……ダメ、だった?」

 那月は前を向いたまま、呟いた。
 横顔しか見えないが、彼女の耳が真っ赤になっているので、恥ずかしがっているのが分かった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。勉強を教わりに行く」

 俺が答えると、那月は前を向いたまま、

「うん」

 と頷いた。
 彼女の口元が嬉しそうに歪んでいるのに、俺は気が付いた。



 そして、12月24日、クリスマスイブ当日。

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 俺は、那月の家に来た。
 どこか普段と違うように見える那月に迎え入れられた俺は、彼女の部屋に入った。
 以前来た時と同じように、相変わらず生活感のない部屋だった。
 
 ローテーブルの上に勉強道具を広げて、俺と那月は勉強を始める。
 互いに、無言のまま問題を解き進めた。

 ――そして、数時間後。
 静寂の中、空腹を感じた俺の腹の虫が鳴った。

「……なんかごめん」

 俺の言葉に、那月はクスリと笑って、

「ちょっと休憩にしよっか」

 と言った。
 彼女は飲み物とチーズケーキを用意した。

「はい、クリスマスケーキ」

「おお、いただきます」

 勉強で疲れ、脳が糖分を欲していたところだ。
 甘いものはありがたかった。

「美味しいな、これ」

「良かった」

 ホッとした様子の那月を見て、俺は彼女に聞いてみた。

「もしかして、手作り?」

 驚愕を浮かべた那月は、

「はぁ!? 受験勉強の息抜きに作っただけなんだけど?」

 と言って、そっぽを向いた。
 どうやら俺のために作ってくれたらしいが、これは思い上がりではないだろう。

「今日はいつもより気合を入れて化粧をしてるみたいだけど、それも息抜き?」

 俺が言うと、彼女は恨めしそうに俺を見る。
 普段のナチュラルメイク……というより、ほぼナチュラルな化粧に比べて、今日はばっちりとめかしこんでいた。

「……気づいてたなら、最初に言えよ」

 怒ったように、彼女は言った。

「綺麗だよ」

 俺の言葉に、那月は顔を真っ赤にして、「あ、ありがと」と、微かに呟く。

「そうだ。ケーキのお礼ってわけじゃないけど」

 俺はカバンからラッピングされた袋を取り出して、それを那月に渡した。

「メリークリスマス」

「……クリスマスプレゼント?」

 呆然として受け取った那月が、俺に問いかける。
 その問いに、首肯した。

「とは言っても本当に大したものじゃないしぶっちゃけ那月には不要なものだから過度な期待はしないように」

「めっちゃ早口で予防線張るじゃん……だっさ」

 辛辣な言葉に反し、彼女は笑顔を浮かべて、ラッピングを丁寧に剥いていった。

「五角形の鉛筆……」

 俺からのプレゼントは、所謂『合格鉛筆』だった。

「才女の那月には不要なものだと思うけんだけど、一応持ってて損はしないんじゃない?」

 俺の言葉に、那月はクスリと笑った。

「嬉しいよ、ありがとう」

 そう言ってから、彼女は立ち上がり、俺の隣に座る。
 俺の肩にもたれかかってから、彼女は言った。

「今日、泊っていってよ」

 ……那月はすっかり、俺に心を開いてくれている。
 彼女の言葉の意味が分からないほど、俺は純粋でも鈍感でもない。
 その問いかけに答える前に……俺は那月に聞きたいことがあった。

「那月の親が許さないだろ」

 那月の家族のことについて、俺はまだ何も知らなかった。
 今なら、自然な流れで聞き出せるはずだ。

「今日は帰ってこないよ。……そもそもお父さんは東京だし」

 この口ぶりだと、両親は離婚をしているわけではないようだった。

「そういえば、どうして別居をしているのか……聞いて良い?」

 恐る恐る問いかける俺に、那月は軽い調子で答えた。

「私の転校の関係。お父さんの職場は東京だし、お家もあるから」

 俺は那月の家庭は、勝手に複雑な環境だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか……?

「こんな田舎の高校に転校してきたのは、なんでなんだ?」

「……お父さんの出身高校だから」

 那月はそう言って、俺から視線を背けた。
 何か、隠し事があるのかもしれない。
 そう思い、無言のまま彼女を見た。

「……ほんの少しなんだけど」

 沈黙に耐えかねた那月は、そう前置きをしてから続けて言う。

「本当に、ほんのちょっと、微かに……ファザコン、じゃなくてファザコン風だから。お父さんの通ってた高校が、ちょっと気になったから、こっちの高校に転校してきた」

 全く俺の予想していなかった言葉。
 正直どう反応するべきか分からなかったので、俺は笑顔を浮かべて「そっか」と言った。
 那月は「うっざ」と言って、俺の脇腹を殴った。

「でもそれは、転校先をどこにするか決めたときの話だ。そもそも、那月はどうして転校をしたんだ?」

 俺の問いかけに、彼女は苦笑を浮かべてから、

「あんたにだけは、絶対教えないから」

 と、彼女は断言した。
 俺に聞かれたくないことなのだろうか……。それは、何なんだ?

「お母さんがこっちにいるのは、単純に一人暮らしはさせられないから、って理由。……田舎の生活も楽しそうだね、って文句の一つも言わずについてきてくれた」

 那月は、無言でいた俺にそう言った。

「そうだったのか。ちなみに……那月の母ちゃんって何の仕事してるんだ?」

 那月は答えなかった。
 踏み込んだ質問だったか? と焦っていると、彼女はむすっとした表情で俺を睨んだ。

「あのさ、あんた前にウチに来た時も、お母さんのこと見て美人だ、って言ってたよね。もしかして……人妻好き?」

「そういうのじゃねえよ!」

 予想外の疑いに、俺は思わず声を荒げた。
 それから、俺は立ち上がる。
 
「今日は帰るよ」

 俺の言葉を聞いた那月は、

「そっか……」

 と、寂しそうな表情で答えた。
 俺は彼女の頭にポンと手を置いて、言う。

「一人が寂しいのは分かるから、今日は家に帰ったら那月に電話するよ」

 那月は俺の言葉に、表情を明るくさせた。 

「うん、ありがとう。電話、待ってるから」

 そう言って、俺を出口まで見送ってくれた。

 彼女の笑顔を見て、もう大丈夫だと思った。
 文化祭の嫌がらせは、那月にとって最高の形でフォローが出来た。
 問題があるかと思っていた家庭環境も、俺の思い過ごしだった。

 きっとこのまま何事もなく過ごすことが出来れば。
 那月は、自殺をすることなんてないだろう。

 だったらこの先は、今の関係を続けるべきだ。
 友達以上、恋人未満。
 そしていつか、彼女が本当に誰かを好きになり。
 その相手にも好かれるようになったら。

 今度こそ、俺は後悔なく死ねるはずだ。

 俺は、雪解けの季節を待ちわびる。
 そして――。



 

「嘘つき」

 俺を責めるように、那月未来はそう言った。
 彼女は悲しげな表情を浮かべ、涙を流している。

「一緒に死ぬって、約束したのに……」

 諦観を浮かべた彼女は、最後の言葉を呟いてから――。
 眼下に広がる暗闇に飛び降りた。
「あの日俺の携帯に、那月……未来さんからメールが届きました。学校の屋上に来て、というメールの後『約束、守って』と一言続いて届きました」

「俺は、失恋をした時に、死のうと思ったことがあります。でも、一人では死ねなかった」

「俺は、未来さんがいじめられていることを知っていました。そして、その時一緒にいた彼女は、俺と同じように悲しんでいる様子だったから、『死ぬときは、一緒に死なせてくれ』と、約束をしました」

「だから、メールが届いたときに彼女は死ぬつもりなんだと思いました。だけど、最近はいつも楽しそうにしていたから……驚きました」

「屋上のカギは、開いていました。普段は南京錠で施錠している扉ですが、未来さんはネットで調べて、ピッキングの方法を知っていました。俺も、彼女に教わって、開けたことがあります」

「屋上に来た俺を見て、彼女は笑顔を浮かべました。とても、これから死ぬとは思えないくらい、無邪気に……嬉しそうに」

「俺はその表情を見て。一瞬、冗談で未来さんが俺を屋上にまで呼び出したんだと思いました」

「『何してんの?』と俺が問いかけると、未来さんは『思い出してたの、最悪だったこれまでの人生を』と答えました」

「『何があったか、教えてくれ』と聞いても、彼女は頑なでした」

「とにかく俺は、彼女に冷静になってもらいたかった。話を聞かせてほしかった。だから、彼女に言いました。『死ぬ前に、もう少し話をしたい』って」

「俺の言葉を聞いた未来さんは、失望したように俺を見ました。『死にたくない?』『私は話なんてしたくない』『今すぐここから飛び降りたい』錯乱した様子の未来さんは、狼狽える俺を見て、ふっと無表情になりました」

 一緒に死ぬって、約束したのに

 嘘つき

「未来さんはそう言って、躊躇うことなく屋上から飛び降りました。俺が止める間もなく」

「俺は何かの冗談だと思って、手摺りを乗り越えて下を見たのですが、暗くて良く分かりませんでした」

「すぐに屋上から出て行って、階段を駆け下りました。きっと何かの冗談で、慌てた俺を指さしながら『ビビりすぎ』って、笑った未来さんが俺の背後から出てくるって、その時は信じていました」

「校舎を出て、周辺を見ると、未来さんを見つけました」

「暗くて遠くからでは分かりませんでしたが、近づくと未来さんの周囲に、血の水たまりができていました」

「それから救急車を呼ばないといけないと思ったんですが……俺が電話をしたのか、近所の人が物音に気付いて連絡したのか、どうしてか思い出せません」

「未来さんとの最後の記憶は、ここまでです」



 那月が死んで、数日が経過していた。
 周囲の目を盗んで、俺は那月の家に来ていた。
 俺が最後に見た彼女のことを、彼女の両親に説明したかったから。
 そして、彼女が自殺を決心した何かに、心当たりがないか確かめるために。

「……辛い話を思い出させてしまって、申し訳ない」

 俺の話を、ずっと黙って聞いていたのは、那月の父だった。
 那月が死んだと聞いてすぐ、東京からこの町に来たようだ。

 俺の話を聞く那月の父は、無表情に努めていたけれど、力強く握りしめられた拳と、血が流れるほどに噛みしめられた唇を見て、隠しきれない憤りを抱えていることに、すぐに気付いた。

「君のことは……知っていたよ、玄野暁君」

「……未来さんのお母さんから聞いたんですか?」

 ゆっくりと首を振り、那月の父は答える。

「あいつは……今はまともに話せる状態じゃない」

 そう言ってから、彼は続けて言う。

「未来の遺書に、君のことが書かれていた。……この町に来て、唯一救いとなる人物だったと、理解しているよ」

「……遺書には、他に何が書かれていたんですか?」

「学校でいじめられていたこと、君に助けてもらったこと、そして――どうしても生きてはいられなくなった理由も書かれていた」

 そう言って、那月の父は俺に彼女の遺書を見せてくれた。
 遺書には、個人名は書かれていないが、学校中からいじめられていたと書かれていた。
 その最悪な状況を助けてくれたのが、俺だと書かれてある。

 そして、もう一つ。彼女を自殺に追い込んだ、致命的なきっかけについても書かれていた。
 その事情を知り、俺は全身の力が抜けた。

 それはあまりに手遅れで――。
 無力な18歳でしかない俺一人では、どうすることもできないものだった。

「その遺書を読めば、娘が君に感謝をしていたのはよくわかる。……ありがとう、君のおかげで娘は最後に、穏やかに死ねたはずだ」

 那月の父は、俺に向かって硬い声音でそう告げた。
 彼の表情を見て、ぞっとした。
 ありがとう、と感謝の言葉を告げる者の表情ではなかった。
 ……彼が俺に向けているのは、純粋な憎しみだった。

「俺は結局最後に、未来さんの信頼を裏切った」

 嘘つき

 ……那月の最後の絶望の表情を、俺はこの先忘れることは出来ないだろう。

「……疲れただろう、帰りたまえ。そして……もう二度と、私に会いに来ないでくれ」

 声を荒げて、那月の父は続ける。

「君のせいではないと、分かっている。君は未来の、唯一信頼できる人として、支えてくれたのだろう。感謝の念は尽きない、本当だ。……でも、だからこそ」

 彼は憚ることなく、涙を流して俺に向かって叫んだ。

「君が未来に『一緒に死のう』とさえ言わなければ……。未来は自らの命を絶つ選択肢を選ぶことは、絶対になかったのに……!」

 怒り
 憎しみ
 嫌悪

 真っ直ぐにぶつけられる生身の感情。
 俺はそれを、冷ややかな感情で受け止める。

 あんたは何も分かっていない。

 俺が何をしても、しなくても。
 結局全てに絶望して、那月はどうせ死んでいた。

 あいつが苦しんでいる最中、何の異変にも気付かずに働いていたあんたに、彼女を傍で支えていた俺が、文句を言われる筋合いはない。あんたら父娘のせいで、俺は最悪な気分だよ……。

 ――そんな詭弁が瞬時に思い浮かんだ自分を、心底軽蔑する。

 彼の怒りは……もっともだ。
 何度繰り返しても、女子高生一人救うことが出来ない俺は……生きる価値のない、ぐずだ。

「玄野くん、本当に申し訳ないがこれ以上は……まともでいられる自信がない。今すぐに、帰ってくれ」

 無言でいた俺から視線を背けて、彼はそう言った。
 俺は、彼の憎しみの炎に薪をくべるだけだと知りながら……その言葉を、彼に告げる。

「あなたの娘を奪ったのは……俺だと思います」

 目の前の男は、力なく、生気のない無表情を浮かべる。
 その後、全身が勢いよく壁に叩きつけられて、衝撃が全身に走る。
 後頭部を強く打ち、目の前の世界がゆらりと不確かになった。

 記憶を失う前に見た彼の表情は……暗い愉悦に染まっていた。



 次に目が覚めた時。
 俺は病院の先生から、今後左目が見えることはないだろうと聞かされた。
 それから、全身を覆う包帯の下にどのような傷がついているかの説明も受けた。
 その説明で、那月の父に何をされたのか、大体の見当がついた。
 
 あのマンションに住む住人が、那月の父の叫び声を聞いて、警察と救急車を呼んでくれたらしい。
 その通報がなければ、手遅れになっていただろう、とのことだ。

 余計なことをしてくれた、と思った。俺は死ぬべきなんだ。生きている意味も価値もない人間だから。

 ……那月の父には、本当に悪いことをしてしまった。
 娘を失った上、殺人未遂で逮捕。
 1周目の世界よりさらに酷い状況にさせてしまった。

「俺のせいだ……」

 俺は呟く。
 一人部屋の病室で、応える者は誰もいない。

「暁のせいじゃないよ」

 はずだったのに。
 いつの間にか、お見舞いのフルーツ盛りを手にした今宵が、病室にいた。
 
「……痩せた? ちゃんと食べてる?」

「……帰れ」

 今は、誰とも話す気分じゃなかった。
 俺は今宵を睨みつけて、一言だけ告げた。

「リンゴくらいは、食べられるよね?」

「良いからほっとけ」

 俺の言葉を意にも介さず、今宵は椅子に座って、果物ナイフを器用に使って、リンゴを剥いていった。

「ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 今宵は笑顔を浮かべて、皿に盛り付けたリンゴを差し出してきた。

 俺は無言でそれを払いのけた。

「帰れ」

 那月を死に追いやった、最後の一押しの原因は、いじめではなかった。
 それでも、那月がいじめられて、孤独に苦悩していたのは確かだ。
 
 そして今宵は、その他大勢と同じように、那月を追い込んだ側の人間だった。
 だから俺は、今宵のことが憎たらしくて仕方がなかった。

 しかし、悪意を孕んだ俺の言葉を聞いても、今宵は動じなかった
 彼女は微笑んでから、口を開いた。

「約束」

「黙れ」

「良いから、聞いて」

 俺の言葉を意にも介さず、今宵は話を続ける。

「『大きくなったら、お嫁さんにして』って約束した、幼稚園生の時。あたしは別に、暁のこと好きじゃなかったんだよね」

 彼女の言葉の意図が分からなかった。

「家が近所で、両親が仲が良くて、一緒に遊んでて楽しい幼馴染。それだけの友達だった」

 ……何が言いたいのだろうか。

「それなのにどうして、あたしが暁と約束をしたのかっていうと……。暁が、あたしのこと好きだったから。あたしは、誰かに愛されている自分が好きだったの。だから、あたしのことを一番好きでいてくれる暁に、ずっと一緒にいて欲しかった。子供の頃のあたしって、酷いよね」

 酷いとは思わない。小さな子供の好き・嫌いなんて、そのくらいの方が微笑ましく思える。

「でも、暁はあの約束をしてから、すごく頑張ってくれた。『可愛い今宵のお婿さんに相応しい男になるんだ』って宣言までして、素敵な男の子になれるように、運動も勉強も、一生懸命頑張ってくれたよね」

 今宵の言う通りだと、俺は思い出した。

「小学生のころは勉強も運動も苦手だったのに、中学校に入ったあたりから努力が実って、運動も勉強も人一倍できるようになってたよね。背が伸び始めた頃から、色んな女の子から告白されるようにもなって、暁は自慢の幼馴染だって思ってた」

 可愛らしく、誰からも好かれる今宵に恥じないようにと、俺は頑張っていた。

「中学三年生の時、一緒の高校に行けるように、つきっきりで勉強を教えてくれてありがとう」

 いつの間にか、俺は勉強も運動もできるようになっていた。今宵の隣にいられるだけで、その頃は満足だった。

「高校では、バレー部のキャプテンやって、最後の県大会でもベスト4になってさ、すごいよね。暁は、いつの間にか学校の人気者になってて、あたしはちょっと、寂しかったりもした」

 綺麗になった今宵の恋人として、俺は相応しいのだろうか? 自問自答を繰り返して……どうしても、俺は自信が持てなかった。
 周囲に映る俺は、努力と執念で着飾った、見かけだけの張りぼてだった。だから、1周目の俺は告白を出来ないままだった。

「だからね、授業中急に告白されて……揶揄われたと思って。嬉しくて恥ずかしくて、OK出せなかったって言ったけど、本当はあたし、ショックだったんだよ? なんでこんなところで、こんな時に? って。だから、あたしが傷ついたって知ってもらいたくって。暁を傷つけるようなことを言った」

 普段から今宵は軽口を言うが、確かにあの時の言葉は、少し攻撃的だったように思う。

「それから、暁はちょっと変になった気がする。屋上でびしょ濡れになるし、トワちゃんと仲良くなるし、びっくりするくらい成績が良くなるし……って、ごめん、こういうことが言いたいんじゃなかった」

 今宵はそう言ってから、俺を真剣な眼差しで見つめた。

「あのね、暁。あたしはね、あたしのことを愛してくれる暁に一緒にいて欲しいんじゃないの。運動も勉強もできる人気者の暁のことが好きなわけでもない。誰よりも頑張り屋さんな暁だから、大好きになったの。これからもあたしと一緒にいて」

 俺が自暴自棄になったことを知っているのだろう、今宵は瞳に涙を浮かべている。

「辛いことがあって、消えてなくなりたいって思ってるのは分かるよ。だけど、もう一人で全部抱え込まないで。一人きりで頑張らないで。あたしが傍で支えるから。だから、二人で一緒に頑張ろうよ」

 今宵は、俺の身体をギュッと抱きしめた。
 彼女の暖かな体温を感じ、俺は確かな優しさに包まれた。

「二人で一緒に、生きていこうよ」

 俺は今宵の背に回す手に、力をこめた。自然と、涙が出ていた。
 今宵が心底俺を気遣っていることが伝わる。

 彼女を疑い、避けた俺にその優しさに甘える権利はないと知っていたけど。
 俺は、心の奥底から湧き上がる想いを、吐露していた。

「俺は……何もできなかった」

 嗚咽をこらえきれない。

「助けたかった。死なせたくなかった。……生きていてほしかった」

 俺の口から紡がれる言葉は、震え、かすれていた。

「ごめん……那月」

 それでも俺の想いは、こうして口から溢れ出ていた。
 頭の中がごちゃごちゃで、何が何だか分からない。
 気持ちも想いも、追い付かない。ただ俺は、那月に謝りたいと思った。

「暁……」

 今宵は俺を呼び掛ける。
 彼女は口元に微笑みを湛えてから、俺を抱きしめる力を強めて、言った。


「あたしの前で、他の女の話をしないで」


 その言葉を聞いて、今宵の顔を見た。浮かべる笑みは、微笑みではなかった。
 背筋も凍えるような……体温を感じさせない薄ら笑いを浮かべ、彼女は俺を空虚な眼差しで見つめていた。

「……え?」

「特に、那月未来の話は絶対に嫌。聞きたくない」

「なんで……」

 俺は呆然とそう呟いてから――。
 激情が宿る彼女の瞳を見て、先ほどの言葉を思い出した。

「暁にちょっと優しくされて、勘違いしちゃったあの尻軽女のこと。あたしは絶対許せないよ。あいつがいなかったら、あたしの暁がこんなに傷つくこともなかったのに」

 どうしてすぐ違和感に気づけなかった?

「……いつから、知ってたんだ?」

「…暁とあいつが学校の屋上で会っていたこと? それなら、最初から知ってたよ?」

『屋上に行ってびしょ濡れになるし』

 今宵は、確かにそう言っていた。
 熱田先生には、渡り廊下で那月と話をしたことは言ったが、屋上のことは誰にも言ったことはない。
 那月も、他の誰かにその話をするとは思えない。
 ではなぜ今宵があの日のことを知っている?
 答えは一つしかない。

 今宵はあの日、教室の前で俺とぶつかってから、俺の後を着いてきて実際にその目で見ていたのだ。

「暁も、ダメじゃん。あんな性格ブス、好きになっちゃ」

 呆れたように、今宵は言う。

「でも、あの女の汚い手口に騙されちゃったってのは分かるよ。わざと周囲を煽って孤立して、暁の同情を引いた。姑息で卑劣なやり方で、絶対に許せないよ」

「そんな訳ないだろ……」

 今宵の言葉は、あからさまな勘違いだ。
 なのに、自分の考えこそが真実だと。彼女は信じて疑っていない。

「暁はあたし以外の女の子のこと、全然わかってないだけだから」

 俺の言葉は、もう彼女には通じない。

「それなら、伊織のことはどう思っているんだ? 俺とあいつは、普段から一緒にいて……」

「可哀そうだって思ったよ」

「可哀そ……う?」

「だって。暁はあんな馬鹿な子のこと好きにならないし。那月未来に嫉妬が向かないように、わざとらしく身代わりに利用しただけでしょ? ……暁のことなら、あたしは何でも分かるんだから」

 淡々と、今宵は言った。彼女の表情を見て俺は……ぞっとした。

 こいつは何を言ってる?
 何を見ている。
 彼女のいう暁とは、誰のことだ?
 本当に、俺のことを見ているのか?

「だから、那月未来は伊織トワとは、全然違うって思うの。頭が良くって美人。しかも、あたしの嫉妬を向けさせないように、わざわざ小細工までした」

 彼女の瞳には、仄暗い光が宿っていた。
 それが何なのか、俺には理解できそうもない。

「……那月は、文化祭の日。誰かから嫌がらせをされて、傷ついていた」

「嫌がらせ? あたしは事実を教えてあげただけだよ」

「事実……?」

 俺の問いかけに、今宵はニコリと笑ってから言う。

「あたしが那月未来の悪口を言った時に、楽しそうに笑ったこと。あたしが暁と那月未来が屋上で会ったことを知っていること。あたしと暁が志望校に合格したら、付き合うって約束したこと。ほかにもいろいろ言ったけど……『お前は暁から必要とされていない』って言った時が、一番面白い顔をしてたよ。普段は綺麗なおすまし顔が、小さな子供が泣く前みたいに、くしゃくしゃの不細工になっててさ」
 
 俺が那月の悪口を聞いて笑っていたのは、タイムリープをする前のことだ。
 俺と那月が屋上で会っていることを今宵が知っているのは、彼女に言ったからではない。
 俺が今宵と付き合う約束をしたのは、どうせその頃に俺は死んでいると思ったから、適当に返事をしただけだ。
 俺は那月を必要としていた。
 
 しかし、それ以外は――今宵が言った通り、事実を言っただけだ。

 那月とは、互いに信頼関係を築けていると思っていた。
 だけど、彼女はどう思っていた? 自分よりもずっと長い間、俺と一緒にいた今宵の言葉が全て嘘だと信じられたのか?

 今宵の言葉が悪意ある嘘だと思っても、芽生えた猜疑心の全てを晴らすことはどうしても出来ない。
 俺が彼女の傍にいても、最後の一線を頑なに超えようとしない俺を、那月はどう思った?

 最後の最後に、一緒に死ぬことを拒んだ俺を見て、どう思った?
 やっぱり、裏切られた。そう思い俺に失望し、この世の全てを呪いながら……彼女は死んでいったのではないか?

 それは……あまりに報われない。
 あまりにも、救いがない。

「ああ、その顔……」

 言葉を失い、呆然としていた俺を見て。
 今宵は嗜虐的に笑った。

「暁は、可愛いね」

 今宵は俺を押し倒し、身動きが出来ない俺の上に跨ってきた。
 身体に力が入らずに、払いのけることも出来ない。

「暁はまだ知らないかな? あたしたち二人とも志望校に合格してたんだよ。……これで約束通り、あたしたちは恋人同士だ」

 そう言って、今宵は俺に口づけをした。
 俺を貪る彼女に抵抗できないまま、衝撃の事実に気付いていた。

 未来が、変わっている。

 元々俺がいた未来では、今宵は大学に合格できずにいた。その後、二浪してから短大に入ることになる。
 無事に東京の大学に進学していた俺と、結局志望校に合格できなかった今宵は、連絡を取ることが気まずくなって、徐々に疎遠になっていった。

 卒業後、俺は東京、今宵は地元に就職をする。
 仕事が忙しく、連絡もなかなか取れなくなって、俺と今宵の関わりがほとんどなくなっていたころ。
 友人の紹介で年上の恋人ができたのだと、今宵は俺に報告をしてくれた。

 その後、今宵はその相手と結婚をした。
 今宵は、平凡だけど誰もが欲する幸せを手に入れるはずだったのに。
 このままではその幸せまでも、俺が奪ってしまうことになる。

 ――今宵のことは、憎い。
 だけど、これ以上俺のせいで誰かの人生を狂わせたくはない。
 
 俺が着ている病衣を、今宵が脱がせようとした。
 抵抗するために何かないかと周囲を見て、サイドテーブルの上に果物ナイフが置いてあるのに気が付いた。
 俺はそれを掴んで、今宵の首筋に切っ先を突き付けた。

「……どけ」

 俺の表情を見て、今宵は驚いたような表情を浮かべた。
 ナイフが肌を裂き、僅かに零れた血が、俺の顔を濡らした。

「どかないなら……本当に殺す」

 俺の言葉を聞いた今宵は――法悦の表情を浮かべていた。

「いいよ、殺して」

 今宵はそう言ってから、俺の顔を覗き込む。
 そして、囁くように、語り掛けてきた。

「人を殺すの、初めてだよね。きっとこれから先、暁はあたしを殺したことを一生忘れられない。朝起きて、ご飯を食べて、学校に行って、勉強をして、バイトをして、友達と話をして、お家に帰って、お風呂に入って、夜に寝て、また起きて。そんな当たり前の日常を過ごしている最中も、暁はふと思い出しちゃうの」

「……ううん、一時も忘れられないことに気付くの。あたしの最後の表情が、常に暁の頭の中にこびりついて、片時たりとも忘れられないことを」

「それって、これから一生暁は、あたしのことを想い続けてくれるってことでしょ? あたし以外の誰かを好きになって、想いを上書きすることも出来ない。あたしを殺せば、もう一生まともな恋愛なんてできないよ」

「大好きだよ、暁。これからはずっと、一緒にいられるね」

「だけど、お願い。苦しまないように殺して? だってこれから一生、暁が思い浮かべ続けるあたしの最後の表情が、痛みに苦しむ不細工な表情だなんて、絶対に嫌だもん」

 彼女の独白を聞いて、俺は自分の浅慮に気が付いた。誰かの人生を、これ以上狂わせたくない?
 今宵はとっくに……俺への想いと嫉妬のせいで狂っているじゃないか。

 頭がおかしくなりそうだ。
 いや、違う。俺もとっくにおかしくなっていた。
 ナイフを握る手に力を込め――。
 俺は自らの喉を、掻き切った。

「へ……?」

 まだ視力がある右目が、今宵の表情が徐々に絶望に染まるのを見た。
 ざまぁみろ、いい気味だ。
 お前はこれから一生、誰のことも愛せない。
 もう、まともな恋愛なんて出来っこない。
 俺の最後の表情を、片時も忘れることなんて出来はしない。

 俺は薄れゆく意識の中、今宵に最期の言葉を伝えるために、口を開いた。

「                」
 
 だけどもう、まともな言葉を発することができない。
 結局、最期の言葉は今宵に伝えられなかった――。
「あれ? ぼーっとしてどうしたの、あっきー?」

 隣に立った伊織が、心配そうに俺に声を掛けてきた。
 ぼうっとした頭で、俺は彼女の呼びかけに振り向く。
 そして、堪えきれない吐き気に襲われ、その場に蹲って吐いた。

「うっ、おぇ……っ!」

 頭が、割れるように痛い。
 これから先に起こる最低の出来事の記憶の数々が、再び俺の頭に焼き付く。
 自らの愚かさが、脳内で鮮明に再生されている。
 痛みも苦しみも怒りも、喪失感も全てが、一斉に蘇り、俺の心が悲鳴を上げていた。

「ごめん、那月……」

 謝罪をすべき相手はそこにいなくても、俺は繰り返し那月に謝る。
 胃の中が空っぽになって、胃液以外吐き出せなくなった頃に。

「ホントに大丈夫、あっきー!?」

 伊織の言葉に、気が付いた。
 心配そうに俺を見る伊織。周辺には野次馬が集まっていた。

「とにかく、保健室行こ」

「……片付けないと」

 俺の的外れな呟きに、野次馬の中にいた女子生徒が「吐しゃ物の処理は保健委員でやっとくから、早く保健室で休んでください」と声を掛けてきた。

「ありがと! ほらあっきー、歩ける?」

 俺は無言のまま頷いてから、立ち上がる。
 胃液と吐しゃ物でどろどろになった手を、伊織は嫌な顔を見せずに握り、俺を保健室へ連れて行く。
 彼女に握られていない、反対側の手で俺は、自分の首を触った。

 当然のことだが、そこに自らの手で付けた傷はなかった。
 なのにどうしてか、確かに熱を持った痛みを感じていた。



「特に異常はなさそうだけど、出店で食べた物が当たったのかも。あんたたち、何か心当たりある?」

 保健室に着いた俺は、養護教諭に診てもらっていた。

「トワたちが食べたのはチュロスくらいだよね?」

 伊織の言葉に、俺は首肯する。

「それなら、寝不足? 受験勉強に根詰め過ぎてない?」

「あー、あっきー最近めっちゃ成績良いもんね、無理してるのかも」

 伊織の言葉に、俺は首肯する。

「今が頑張り時なのは分かってるけど、ほどほどに。体調崩したら元も子もないから。ベッド、空いてるから体調良くなるまで休んでなさい。あ、それと手は洗って、口の中気持ち悪かったらうがいもして良いから」

 養護教諭はそう言って、ベッドの方を指さした。

「汚しちゃった服は洗濯しておくから、脱いでおきなさい。ジャージがあるからそれに着替えて。……伊織さんも少し汚してるわね。一緒に洗濯しておくわよ」

「じゃあ、借りますねー。あっきーは一人で着替えられる?」

 俺は伊織の言葉に首肯する。
 
 手を洗い、口の中に残った胃液をゆすいでいると、養護教諭が二人分のジャージを用意していた。
 俺はそれを受け取り、ジャージに着替える。
 脱いだ制服は籠に入れ、養護教諭に渡す。
 俺は力なく、ベッドに倒れこむ。

 ……もう何も考えたくないのに、次々と記憶が思い返される。
 
 最悪だ。
 那月を死なせて、彼女の父を前科持ちにして、今宵に一生残るトラウマを植え付けた。
 繰り返しても良いことなんて何もない。
 自分の無能とクズさを突き付けられるだけだ。

 ――もう嫌だ。
 今回もどうせ失敗する、俺には何もできないんだから。

「吐しゃ物の後始末、私も見てくるから、ちょっと保健室から出て行くね」

「はーい」

 考えていると、養護教諭の言葉が聞こえた。
 それに、伊織は答えた。
 それから、いつの間にかジャージに着替え終えた伊織が、カーテンを引いてベッドに腰かけた。

「あのチュロス、まずかったもんね。残飯処理を押し付けちゃってごめんね、あっきー」

 お道化た調子で、彼女は言う。

「……ごめん」

 俺の言葉を聞いて、伊織は心配したように言う。

「また、謝ってる」

 俺は「ごめん」ともう一度呟いた。
 伊織は溜息を吐いてから、言う。

「……那月未来となんかあったの?」

 伊織は、不安な表情を浮かべている。
 俺は、何も知らない伊織のやさしさに縋りついた。

「俺は、あいつに酷いことをしてしまった。謝りたいけど……合わせる顔がない」

 俺は頭を抱えて蹲る。
 今の那月に謝っても、彼女にとっては何のことかも分からないはずだ。
 それでも、俺は那月から罰を受けたい。

 震えて蹲る俺を……伊織は抱きしめた。

「そっか。それじゃトワもあっきーと一緒に謝る」

「……え?」

 伊織はそう言って、俺の背を安心させるように優しく撫でる。
 
「トワもあの子に謝りたかったけどさ、今まできっかけがなかったから」

 彼女の言葉は、少しだけ震えていた。

「だけどあっきーが謝るって言うなら、トワも一緒に謝るよ。……てか、トワの方が先に謝るからね」

 伊織の言葉を聞いて、俺は頷いていた。

 もう何もしたくないのに。
 それでも――まだ、やり直せるのだ。
 前回は、伊織が那月に謝る気を無くさせてしまったが、今回は違う。

 未来はきっと、変えられる。
 ……那月の家族、今宵の進路、そして俺の最期が変わったことで、確信をしている。

「……あっ!」

 それから、俺は今さらになって、ようやく気付いた。
 ベッドから勢いよく立ち上がる。
 俺を優しく抱きしめてくれていた伊織が、驚いて後ずさった。

「わっ! 急にどうしたの、あっきー!?」

「今日は、文化祭だ……」

「え? そ、そうだよ……?」

 困惑する伊織の声にこたえる余裕はない。
 
 今日は、文化祭なのだ。
 那月と一緒に屋上で花火を見た日から、さらに時間が経過している。

 このタイムリープの法則性は? 全くのランダム? 参考となるケースが少ない……俺は後何度やり直せる? 
 いや、そもそもこのループに終わりはあるのか?

 ……違う、今考えるのはそうじゃない!
 文化祭初日、那月は今宵の言葉により、絶望をした。
 まずはそれを止めなくてはいけない!

「今日は、文化祭の何日目だ!?」 

「え? ……一日目だよ?」

 時計を見る。
 前回動き始めたのは夕方、その頃には全てが終わった後だった。
 今は――14時前。

 この時間でもまだ間に合うのか、分からない。
 それでも、ここで寝ている暇はない。

「伊織、図書室に那月がいないか見に行ってくれないか?」

「え、トワ一人で? つか、あっきーは?」

「俺は屋上にあいつがいないか見に行く! 那月が図書室にいたら、俺に連絡をくれ」

 俺は伊織を置き去りにして、保健室の出口にまで向かう。
 その背に、彼女が声を掛けてくる。

「え、屋上!? てかあっきー、元気になったの?」

 俺は振り返る。
 元気になんてなっていない。
 ただ、落ち込んでいる時間もないだけだ。
 だけど、一歩も動けなかった俺が、その一歩を踏み出せたのは、紛れもなく伊織のおかげだ。

 俺は伊織の問いに答えないまま、屋上へと急いだ。



 身体も怠く、頭も未だ明瞭とはしていなかったが、何とか走ることはできた。
 文化祭を楽しんでいる生徒たちは、必死に階段を上る俺を見て不思議そうに首を傾げていたが、声を掛ける者はいない。

 屋上の扉の前に到着し、扉を見る。
 ――既に、鍵は開けられていた。

 最悪な状況が頭をよぎる。
 俺は勢いよく扉を開き、屋上へと踏み入る。

 そこには那月と――今宵がいた。
 動悸が激しくなる。
 那月に何か話しかけている今宵を見て、吐き気が込み上げてくる。
 俺は大きく息を吐いて、なんとか堪える。

「今宵っ!」

 俺の声に、今宵が振り返る。

「暁? 何でここに?」

 動揺した様子の今宵。
 俺は彼女の傍に歩み寄り、それから腕を掴んだ。

「来いっ!」

「ちょっと、痛いよ暁」

 今宵の言葉に反応することなく、俺は今宵の手を強引に引く。
 那月は、「何なの……?」と呆然とした様子で呟いていたが、応えている余裕はなかった。

 俺は屋上から出て、扉を閉める。
 それから、今宵の肩を押して乱暴に壁に叩きつけ、彼女を睨みつける。

「い……痛いよ、暁。何を怒ってるの?」

 今宵は俺の顔をまっすぐに見つめ返してきた。
 怒りを押し殺している俺の表情を見ても、彼女は……微笑みを崩さない。

「那月に……何を言った?」

「……あたしと暁が、付き合う約束してるって教えてあげただけだよ」

「本当に、それだけか?」

「うん、まだ話し始めたばっかりだったから。……言いたいことは、色々あったんだけどね」

 今宵の言うことが本当であれば……まだ、間に合うはずだ。
 こいつのことはさっさと放り出して、今すぐにでも那月の傍に駆け寄りたい。

 だけど……ダメだ。
 俺はどうしても、今宵のことが許せない。
 自分勝手な独占欲と嫉妬心で、那月を苦しめた。
 ……彼女をそんな風に狂わせたのは、俺自身だと分かってはいたけど。

「誰がお前みたいな歪んだ性根のクソ女と付き合うんだよ」

 最後に今宵の心にトラウマを植え付けたことが、最低だと分かってはいたけど。

「お前の歪んだ性根そのままの醜い顔も、気味の悪い視線も、不快な声も、存在全てが! 見るに堪えないんだよ」

 それでも俺はどうしても、狛江今宵を許すことが出来ない。

「あ、暁……? 変な冗談やめてよ、あたしたち付き合うって約束したし。那月未来にちょっかい出したこと、そんなに怒ったのなら謝るから……ね?」

 怯えた様子で、俺に問いかける今宵。

「お前と交わした約束なんて、俺にとってはどうでも良いんだよ。何より、お前は誰に謝るつもりなんだよ?」

「誰って、暁にだよ」

 俺のジャージの裾を掴んで、涙を流しながら今宵は言った。
 那月ではなく、俺に(・・・・・・・・・)謝りたいのだと。

「消えてくれ。何があっても、もう二度と。俺にも、那月にも話しかけるな」

 俺はそう言って、今宵を突き放した。

「暁! あ、あたしは……」

「二度と話しかけるなって言っただろ?」

 俺は今宵に、軽蔑の眼差しを向けて言った。
 今宵はその言葉に驚いてから……俺の頬を勢い良く平手打ちした。
 彼女は大粒の涙を零しながら、俺を睨みつけてくる。

「消えろ」

 今宵の視線から目を逸らさずに、俺はもう一度そう呟いた。
 彼女は再び手を振り上げ、ギュッと拳を握り……結局はそれを振るうことなく拳を下ろした。
 それから俺に背を向けて、階段を駆け下りていった。
 すぐに、彼女の背中は見えなくなった。

「……クソッ!」

 俺はやりきれなくなって、壁を思い切りぶん殴った。
 拳が酷く痛んだが、気分は一つも紛れない。

 ダメだ、もう何も考えるな。
 俺は自分にそう言い聞かせて、唇を噛みしめた。
 一つ深呼吸をしてから再度屋上へ入ると、那月が不審そうにこちらを見てきた。

「何、あんたたち喧嘩してるの?」

「……ああ」

「はぁ、下らないケンカに巻き込まないで欲しいんだけど」

 那月は大げさに肩をすくめて、溜め息を吐いて言った。

「……ちなみに、今宵にどんな話を聞いた?」

「あんたとあいつが付き合う約束してるって言われたけど……、みんなの前でフッておいて、何言ってんのって感じよね。あんな嘘で私が騙されるって思われたのが、普通にムカつく。というか、そもそも何であんな嘘吐いたんだろ? 意味不明すぎ」

 はぁ、と大きく溜め息を吐いた那月。
 那月が気分を害しているところ申し訳ないが、俺は一先ずホッとしていた。

 ここで今宵の言葉を聞くことが、那月が死に至る一つの大きなきっかけのはずだから。
 ようやく、一歩進むことが出来た。

 ……だから、間に合って嬉しいはずなのに、気分は一つも晴れなかった。

「うわっ、屋上ホントに開いてる……」

 その声に振り返ると、伊織が今まさに来たようだった。
 伊織は那月の姿を見て、少しだけ躊躇ったようだったが、いつもと同じ調子で俺に声をかけてきた。

「あっきー、さっきめっちゃ泣いてる今宵ちゃんとすれ違ったけど、あれなんだったの? 大丈夫なの?」

 伊織の姿を見た那月が驚愕を浮かべた。

「……は? なんでバカギャルがここにいるわけ?」

 那月が低い声で俺に問いかけた。
 伊織の質問は無視して、俺は那月に答える。

「伊織がこれまでのこと、那月に謝りたいんだってさ」

 伊織は俺の言葉を聞いて、緊張した様子だった。
 それでも彼女は、那月のことを真剣な表情で、まっすぐに見つめていた。

「……は? 無理なんだけど」

 那月は嫌悪感をあらわにして、ただ一言呟いた。

「……許してほしいわけじゃなくって。ただ、トワが反省してるってことを、知ってもらいたくて」

 伊織は那月の目前まで歩み寄り、申し訳なさそうな表情で俯きつつ言った。

「は? 勝手に」

「聞いてあげてほしい。伊織も、半端な気持ちで那月の前にいる訳じゃない」

 俺が那月の言葉を遮ると、彼女は不愉快そうに舌打ちをしてから、

「良いよ、あんたに免じて、聞くだけ聞いてあげる」

 そう言ってから、那月は伊織に対して高圧的に「早く言え」と促した。
 伊織はその言いようにも腹を立てた様子はなかった。
 彼女は数回、大きく深呼吸をしてから、口を開こうとして、

「何? いじめられっ子と話をするだけなのに、何か挙動不審じゃない? どうしたの? いつもみたいに余裕な態度で馬鹿にしたように笑えば? ……無理だよね、あんたって取り巻きの女がいなければ何にも出来ないわけだし」

 口をつぐんだ。
 那月が馬鹿にしたように、伊織を煽った。

 これまでの恨みつらみがあるのだから、仕方ないとは思うが。
 ……那月はこういう気の強いところで損をしている。
 この先もこの調子でい続けるのならば、周囲に理解者がいないと苦労は絶えないだろう。

「……そうだよ、トワは何にも出来ない」

 伊織は、那月の言葉を真剣な表情で聞いていた。

「トワは、可愛さ以外に自信がないし、頭だって良くない。自信がないから、悪いことだって思ってることでも、周りの人に乗せられたら、良いのかなって思っちゃうことも多い」

「あ、そう。だから意地悪してたのは周りの人のせいです、可愛いトワちゃんは何も悪くありませんって言いたいわけね。あー、はいはいそうね、可愛いだけが取り柄のトワちゃんは何も悪くないね」

「違う。那月のことは、トワがムカついてたから虐めてた」

「はぁ? 私があんたになんかしたっけ?」

「したから」

 那月の言葉に、伊織ははっきりと答えた。

「トワ、ホントは那月と仲良くしたかった。東京の話を色々聞いて、勉強も教えてもらいたかった。見た目も綺麗だから、自慢の友達になるって思ってた。だから、那月が周囲から浮き始めたとき、トワは声掛けたんじゃん!」

「そんなの覚えてないけど」

「覚えてないって何!? トワ、クラスの女子から酷いこと言われてた那月に、言ったもん。『あんなの気にしない方が良いよ』、って。そしたら『田舎者に憐れまれる筋合いなんてない』ってバカにしてきたんじゃん! それでトワ、すごくショックで……ムカついて! だから、リカリノと一緒に、いじめたの」

「あー、思い出した。そういうことあったかも。でも結局あんたあの時さ、『未来ちゃんも悪いとこあるでしょ? もう少し他の人の気持ちも考えた方が良いよ』とか得意げに言って、私のことを下に見てバカにしてたじゃん?」

 伊織は決して嫌味で言ったわけではないだろう。那月の被害妄想だ。
 だけど那月は、その時には既に周囲のことを信じられなくなっていた。

「はぁ!? 何それ、違う……全然違う! トワはそんなこと思ってないのに、あっきーのことは信じたのに! どうしてトワのことは信じてくれなかったの?」

 那月はその言葉を聞いて、ちらりと俺を一瞥した。
 俺と那月が仲良くやっていることについて、少し話をしたことがあったが、那月には当然そのことを伝えていない。
 どこまで話したのか、気になっているのかもしれない。
 説明をしようとした俺が口を開く前に、

「違う、そういう話じゃなかった。トワは、那月に謝りたいの」

 伊織がそう言って、那月をまっすぐに見つめた。

「今までひどいことをし続けて、ごめんなさい。もう二度と、誰に対しても。あんなことはしません」

 伊織はそう言って、那月に向かって頭を下げた。
 那月はそれを聞いて、唇を噛みしめてから、溜め息を吐いた。

「良いわよ、別に。私たちの間には、不幸なすれ違いがあったったことは十分に理解したから。もう気にしてないし、頭上げなさい。これからは仲良くしましょ」

 那月は笑顔を浮かべて、軽い調子で言った。
 それから、伊織は那月の表情を見て――言った。

「それ、嘘じゃん」

 伊織は申し訳なさそうに、だけどはっきりと自分の意思を伝える。

「トワ、何言われても良い。どんなにひどい仕返しされても、これまでしてきたこと考えたら、しょうがないって我慢できるから。……ここで、全部これまでため込んでたのを吐き出してよ」

 伊織の言葉に、那月は「はぁ?」と呆然と呟いていた。
 無表情のように見えたが、そうではない。
 必死に、怒りを隠していた。

 那月は、救いを求めるように、俺を見た。
 俺は彼女を、無言で見つめ返す。言いたいことは、ここで言った方が良い。

 すると那月は、ほんの少し悲しそうな表情を浮かべてから、口を開いた。

「ここで全部吐き出す? 無理よ、全部吐き出すには時間がいくらあっても足りないから」

 震える声で、那月はそう言った。

「あんたさ、トイレの個室でいきなり水をかけられて笑われたことある? 弁当を捨てられたことは? みんなの前で卑猥な悪口を言われたことは? 制服を切り刻まれたことは? 埃臭い体育倉庫に閉じ込められて長時間放置されたことは? 毎朝ビクビクしながら靴箱を開ける気持ちは分かる?」

 淡々と那月は言う。
 伊織は言葉に詰まり、何も言えなかった。

「ないよね? その時私がどんな惨めな気持ちになったか、分かる? 分からないよね? あんたたちは楽しそうに笑ってたもんね。あの最低な気持ちが理解できるなら、絶対に笑えないものね!」

 那月は声を荒げた。
 そして、伊織の胸倉をつかんで、睨みつけた。

「あんたが何者なのか、教えてあげる。人の気持ちを理解できない人間もどきの畜生女。何かの間違いで人間の姿かたちで生まれちゃって、本当に哀れ! 私はあんたと違って出来た人間だから、あんたみたいな人間未満のゴミクズにアドバイスしてあげる」

 憎しみの宿った那月の眼差しを受けて、伊織の全身は震えている。

「お前はこれから一生、自分が人間じゃないと自覚して行動しろ。ほんの少しでも気を抜けば、どうせろくでもない犯罪に加担して、警察のお世話になるに決まってる。せいぜいぼろが出ないように気をつけろっ!」

 今にも泣きだしてしまいそうな表情の伊織を乱暴に突き放し、嘲笑を浮かべた那月が続けて言う。

「……さっきも言ったけど、あんたにされたことを気にしていないのは本当よ。あんたみたいのは気にするだけ、時間の無駄だから」

 伊織は顔を伏せて震えている。

「だから、もう私の前から消えてくれる?」

 那月はそう言って、伊織を睨みつけた。
 伊織は一言。

「……本当にごめんなさい」

 と呟いてから、屋上から出て行った。
 俺は伊織の背と、無表情の那月を交互に見る。
 ……那月には、一人で落ち着く時間も必要だろう。
 そう判断して、俺は伊織を追った。

 屋上を出ると、蹲ってすすり泣いている伊織がいた。

「伊織、大丈夫か……?」

 しゃがみこんで、俺は伊織に問いかける。
 俺の声に、伊織は冷たい声で答える。

「なんでトワの方に来たの? 平気そうに見えても、それは本心じゃないって知ってるでしょ? トワよりずっと那月の方が辛いんだから、あっちについてなきゃダメじゃん……」

 自分だって辛いのに、それでも伊織はそう言ったのだ。
 彼女の言う通りだ、那月はただ怒っていたわけじゃないのは、十分に分かっていたのに。
 俺は那月と向き合うのが怖くて、伊織を言い訳に逃げてきただけだ。

「俺も、那月に謝ってくる。……ありがとう、伊織」

「早く行ってあげなよ」

 伊織は俺を見ることもなく、そう言った。
 肩を叩いて励まして、「よくやったよ」と言ってあげたい。
 でもそれをすればきっと、俺は伊織に本当に軽蔑をされてしまうだろう。
 俺はもう一度、扉を開いて屋上へと踏み入った。

 俺は肩を落として立ち尽くす那月に、声を掛ける。

「俺も、那月に謝りたいことがある」

「あいつをここに連れてきたこと? それなら別に良いよ、すっきりしたし」

「そうじゃない、俺自身が謝りたいことなんだ」

「……自己満足の謝罪は、聞きたくない」

 那月はそう言って、縋るように俺を見てきた。
 これ以上、彼女を追い詰めるべきではない。

 確かにそう思う。だけどこれは、本当に彼女を思ってのことなのか?
 俺はまた、彼女と向き合うのを逃げようとしているだけなんじゃないか?

「那月が辛くて、惨めな気持ちになっていた時に、俺は気づいていたのに見て見ぬふりして、他の奴らと一緒に笑っていた。自分の手を汚すことなく、安全圏から高みの見物。人の気持ちを考えることのできない、本物のクズだった。……本当にごめんなさい」

 那月を救うと決めたのに。
 人の気持ちを決めつけて、分かったつもりになって、結局何もできなかった。
 いくら年齢を重ねても、いくら繰り返しても、俺は無能なグズなんだ。

「あんたは……他の奴らと違うから!」

 那月は首を振って、俺の言葉を否定した。

「そうだ、俺は他の連中と違う。那月を傷つけてきたのに、まるで自分は改心しましたって顔をして、まともな謝罪もしないまま、お前の隣に居座った……誰よりも最低なクズだ」

「だったら!」

 俺の言葉を聞いた那月は、泣きそうな表情で叫んだ。

「……本気で悪いと思ってるなら。ここから飛び降りてくれる?」

 初めてここで話したあの日の繰り返しのように、那月は手摺りの向こう側を指さし、俺に言った。
 だけど今は、あの時とは違う。

「那月が本当に俺に死んでほしいなら、俺は死ぬ」

 俺は前回のループで、一線を越えた。
 痛みと苦しみと恐怖を、俺はきっともう一度乗り越え、この手で自らの人生を終わらせることが出来ると思う。
 ……当てつけのように今宵の前で死んだことに比べれば、よほど上等な死だ。

「だけど、少しでも俺が生きることを許してくれるのなら。那月を残して、俺は死ねない。……俺は、那月と一緒に生きたいから。ここから飛び降りることは、出来ない」

 俺の言葉を聞いた那月は、俺のジャージの裾を掴んで、その場に崩れ落ちる。
 しゃがみこんで、彼女の表情を覗き込んだ。

「あんたには……あんたにだけは。私がこんなに酷い人間だって、知られたくなかったのに」

 那月は、泣きそうな声で、諦観を浮かべて呟いた。

「あいつが勇気を出して私に謝りに来たのは、分かってる。それでも、あいつの全部を踏みにじらなきゃ気が済まない私のほうが……よっぽど人間じゃないよ」

 懺悔するように、那月は自らの感情を吐露した。
 ……それが懺悔であるならば、彼女は誰に許しを乞うているのだろう?

「人間だよ」

 俺は神でも仏でもない、ただの……いや、人一倍愚かな人間だ。
 だからこそ、俺は彼女の罪も愚かさも、全てを認められる。

「嘘を吐くし、人を傷つけるし、他人の気持ちが分かっても、自分の感情を優先させて誰も彼も傷つける。俺も、那月も……どうしようもなく、どうしようもない人間だ」

 俺や那月がこの先、他者に優しい人間になれるかは分からない。
 那月はこれまで、あまりにも人を遠ざけ過ぎた。
 それが自分を守るために仕方なかったとはいえ、今のままでは、この先もっと苦労することだろう。
 このまま社会に出れば、近い将来必ず周囲との軋轢に躓く。
 
 躓いて、転んで蹲った時。俺は彼女の傍らで寄り添うことはできるのだろうか。

「何それ、最悪」

 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたように、微かに笑った。
 立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
 那月は俺の手を掴んで、立ち上がった。

 那月はまだ、落ち込んでいる様子だった。
 俺は、彼女に言う。

「明日、一緒に文化祭を回らないか?」

 那月は一度俺を見て、それから弱々しく微笑んだ。

「やだ」

「そう……か」

 俺は一言で応じる。
 前回は、俺の誘いに応じてくれたのに、今回は断られたということは……心を閉ざされたということだろうか?
 俺がそう憂慮してたところ、那月は続けて言った。

「私、あのギャルに言い過ぎた。でも、私からは絶対に謝れないから……あんたがあいつを文化祭に誘って、元気づけてあげて」

「……俺は、那月と一緒にいたい」

 俺の言葉に、彼女は困惑を浮かべてから、照れ隠しのようにわずかに笑う。

「お願い」

「……分かった。その代わりに、こっちからもお願いがある」

「あんたは私にお願いできる立場なわけ?」

 苦笑を浮かべて、那月は俺に言う。
 できる立場ではないと即答できるが、俺は構わず彼女に言う。

「少し先の話だけど。クリスマスイブの日、一緒にどこか行こう」

 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたようにため息を吐いた。

「クリスマスイブ? 良い? 私たちは受験生なんだから、そんなイベントなんて関係なく、勉強しなくちゃいけないの! 受験前の最後の追い込み、一日だって無駄に出来ないの!」

 那月は俺の胸を人差し指で小突きながら言う。 
 クリスマスイブも、ダメだったか……と気落ちをしそうな俺に、彼女は続けて言う。

「だからその日は……ちゃんと、勉強してから出かけることにするわよ。それで、良いわよね?」

 照れ臭そうに、那月は俯いていた。

「うん、楽しみにしてる」

 俺の言葉を聞いて、那月は顔を上げた。

「私も、楽しみよ」

 那月はそう言って、クスリと微笑んだ。



 文化祭2日目。
 この日俺は、那月と伊織の二人と約束をした通り、伊織と一緒に文化祭を行動していた。

「今日も一緒に文化祭回ろうって言われた時は、何言ってんの? って正直思ったけど。やっぱり、一緒にいてくれて、楽しかったし、嬉しかったよ。……ありがとね、あっきー」

 文化祭が終わり、帰路につく前。
 伊織は少しだけ照れ臭そうに、そう言ってくれた。

 翌日以降、3度目の2学期のように、クラスの連中から疎まれるようなことはなかった。
 那月とも、伊織とも、他のクラスメイトとも。今回は上手くやれている。
 ただ、今宵とは会話をせず、目を合わすこともなくなったが……那月に迷惑を掛けなければ、あとはどうでも良い。

 それ以外にあった変化としては……。
 これまで以上に俺のことを気にかけてくれる人がいることくらいか。

「文化祭で吐いて倒れたって聞いたぞ。大丈夫だったか?」

 休み時間中、教室棟から実習棟へ移動するために渡り廊下を歩いていたところ、熱田先生に声を掛けられた。

「ちょっとした寝不足が原因だっただけで、何にも問題ないですよ」

「吐くほど寝不足になるのは大問題だろう……」

 はぁ、とため息を吐いた熱田先生。
 本当のことを言うわけにもいかず、俺は「はぁ」と間の抜けた相槌をうつ。

「もしかして、まだバイトをしてるのか?」

「バイトはもうやめてます」

「それならいいんだが。……前にも言ったが、何かあったらいつでも相談しろよ」

 熱田先生は、苦笑を浮かべてそう言った。
 ――余計なお世話だと思った。
 俺よりも気に掛ける必要がある人間は、絶対にいるのに。

「……もっと気にした方が良い奴がいると思いますけどね」

 俺の言葉に、「そうか?」と眉をひそめてから、熱田先生は言う。

「ここ最近の玄野より危うそうな生徒を、俺はこの学校で見た覚えがないけどな」

 俺はその言葉を聞いて、唇を噛みしめた。
 彼の言うことは、間違いではないだろう。
 死んで生き返って、また死んで。
 そんなことを繰り返している俺より絶望的な悩みを持っている高校生は、そうはいない。

「……何かあったら、すぐに頼ります」

 俺は素直にそう言った。

「今、携帯持ってるか?」

 熱田先生は、俺に向かってそういった。
 緊急時に校内での使用を認められているため、携帯を持ち歩くことは禁止されていない。
 俺はポケットから携帯を取り出して、

「持ってますけど……?」

 と答えると、熱田先生はいきなり電話番号を口にした。

「俺の携帯番号だ、登録しておけ」

「……あとで登録しておきます」

「俺の目の前で、登録しろ」

 一歩も譲る様子がなかった。
 俺は観念して、熱田先生の前で彼の電話番号を登録した。

「よし、それで良い。何かあったら、休みの日とか関係なく、いつでも連絡してくれていいからな!」

 熱田先生がそう言うと、タイミングよくチャイムが鳴った。

「ほら、移動教室だ。さっさと行かないと怒られるぞ!」

「熱田先生が引き留めてたんですよね……?」
 
 俺が恨みがましく言うと、

「すまんすまん」

 と軽い調子で笑い、教室棟へ歩いて行った。
 俺は熱田先生の連絡先が登録された携帯をポケットにしまい、実習棟へ向かって歩く。

 熱田先生は、良い人なんだと思う。
 ……生徒に手を出すロリコンだけど。

 だからと言って、俺の非常識な現実を説明し、助けを求めても、信じることはないだろう。
 むしろ、とうとう頭がおかしくなったと思われ、心配させることになるのがオチだ。

 だけど、彼に相談することはないけれど、俺のことを気にかけてくれる人がいるのだと思うと……。
 絶対、無事に卒業しなければと、思えてくるのだった。



 それから、受験に向けて勉強漬けの日々が訪れた。
 ……といっても、俺はこの繰り返しの中で大体の試験内容を覚えているので、必死に勉強するまでもなかった。
 緊張感の中で日々を過ごすクラスメイト達を横目に、こまめに那月とコミュニケーションを図る毎日だった。
 
 あっという間に、2学期の終業式を終え、クリスマスイブを迎えた。

「ちっす」

 集合場所の、いつものファミレスに来た那月に、俺は声を掛ける。

「おっす」

 気安く答える那月を、俺は見る。
 制服姿で会うことが多いが、今日の彼女は私服だった。

「いつもより、お洒落してる? 似合ってるよ」

 俺の問いかけに、対面に座った那月は、
 
「うっさいんだけど、バカ」

 と照れ臭そうに言って、俺の脛を蹴り上げてきた。
 痛がる俺を見て満足したのか、那月は店員を呼んだ。
 その後は、一緒に昼食を食べて、勉強をしてから、俺たちはファミレスを出た。
 それから電車に乗り、市内へ向かう。

 那月と一緒に市内に行くのは、初めてだった。
 電車の中で適当な世間話をしつつ、一つ気になっていたことを彼女へ問いかけた。

「文化祭の日以降、今宵に何か意地悪をされてないか?」

 俺と今宵の関係は、既に崩壊している。
 今さら嫉妬で、今宵が那月にちょっかいを掛けることはないだろうが、腹いせに八つ当たりをする可能性は0ではない。

「別に、何もされてないけど……あんたたち、喧嘩してるんだよね?」

 隣で英単語カードをめくっていた那月は、顔を上げて答えた。

「……ああ。だからまた、今宵が那月にちょっかいかけるかもしれないけど。その時は無視して、すぐに俺に言ってくれないか?」

 那月は「まぁ、別にいいけど」と言った後、

「仲直りするつもりないの?」

「無理だな」

 俺は彼女の問いかけに、即答した。全ての原因が俺にあるのだと、分かってはいる。
 それでも、どうしても、俺は今宵のことを許せなかった。

「ふーん。何が原因か知らないけど。あんたを怒らすと、根に持つってことを知れて良かったわ」

「那月にとっては、生きていく上で何の役にも立たない無駄な知識だと思うけどな」

「うわー、トリビア懐かしー……」

 那月がそう呟いた後、俺たちはお互いに、印象深かったトリビアを語り始める。
 目的の駅までの時間が、あっという間に感じた。



 駅を降りてから、歩くこと数分。
 俺たちは県で最も大きな繁華街に入った。
 
 とはいえ、これから何をするか、予定を決めていなかった。

「全く予定立ててなかったけど、どこか行きたいところある?」

「……てっきりエスコートしてもらえると思ってたんだけど?」

 ニヤリと笑った那月に「申し訳ない」と伝えると、クスリと笑って彼女は言う。

「ゲームセンター、連れて行ってよ」

「良いけど、何かしたいゲームあるのか?」

「……マリカー、気になってたけど、一人でやるのは恥ずかしかったから」

「何でそのゲームをしたいかまでは、教えてくれなくても良かったんだけど」

 那月の言葉が微笑ましくて、俺は揶揄うようにそう言った。
 彼女は照れ臭そうで、そして少しだけ怒ったような表情を浮かべて、俺の脇腹をチョップしてきた。
 それを適当にいなしつつ、一番大きなゲームセンターに入った。
 
 まずは目的のマリオカートで対戦し、次にクレーンゲームで無駄遣いをして那月にバカにされ、それから色々二人でゲームを楽しみ――。

「プリクラ撮ったの、初めて……」

 俺と那月は、ふたりでプリクラを撮った。
 やけに緊張した面持ちだったが、初めてだったからなのだろう。
 
「次撮るときは、もっと笑顔で写ったほうが良さそうだね」

 俺が揶揄うように言うと、那月はムッとしてから、少し考えて……。

「また次も、一緒に撮ってくれる?」

 と、彼女は頬を朱く染めて、プリクラに写っているよりもなお、緊張した面持ちで俺に問いかけた。

「もちろん。次は、受験が終わってから、また撮ろうか」

 俺の言葉に、那月は口元が綻び「うん」と頷いて応えた。



 それから日が落ち、俺たちはゲームセンターを出て、夕食を食べることにした。
 学生から人気の高い、少しお洒落なレストランの予約を取っていて、そこで夕食を済ませた。

「……この後、どうしよっか?」

 店を出てから、那月が問いかけてきた。
 その言葉に、俺は答える。

「行きたい場所あるんだけど、付き合ってもらっていいか?」 
 
 彼女は大きく頷いた。
 俺たちは二人並んで数分歩き、目的の場所に到着した。

「……綺麗」

 那月は、うっとりとしたようにそう呟いた。
 俺が彼女に見せたかったのは、県内で最も有名なイルミネーションだ。
 色鮮やかな光に目を奪われている那月に、

「ここまで立派なのは、都内でも中々見られないよな」

 俺が揶揄うように言うと、彼女はハッとした様子で俺をジロリと見てきた。
 いつもの調子で、『田舎の割には頑張ってるわね』くらい言うと思っていたが、彼女は不意に微笑んだ。

「……確かに。私は東京でも、こんなに綺麗なイルミネーションは見たことないかも」

 那月は意外にも、素直にそう言った。
 幻想的な光に照らされる彼女の横顔が、なんだか無性に可愛らしく思えた。

 イルミネーションに目を奪われたままの彼女に、俺は鞄からプレゼントを取り出して、差し出す。

「いつも勉強を見てもらってるから、日ごろの感謝を込めて……クリスマスプレゼント」

 那月は驚いてから、俺のプレゼントを受けとった。

「あの……ありがとう。……中、見ても良い?」

 俺は無言で頷く。
 彼女はラッピングされたプレゼントを丁寧に開けていき、

「……え、なにこれ凄い綺麗」

 那月は俺が贈った、リンドウの植物標本(ハーバリウム)を見て、感嘆した。

「リンドウの花言葉は、勝利。受験に勝てるように、ゲン担ぎだ」

「あ、ありがとう。こんな素敵なプレゼントもらえるなんて、私思っても……」

「ちなみに、リンドウは『病に打ち勝つ』などの意味を込めて、敬老の日の贈り物に人気の花だ」

 俺の言葉を聞いた那月は、「……今その情報、必要だった?」と険しい表情で俺を睨んだ。

「……あんたに、ロマンチックな展開を期待した私がバカだった」
 
 那月はそう苦笑してから、今度は自分のカバンからラッピングされた小さな袋を取り出した。

「はい、私からも。いつも一緒にいてくれて、ありがとう」

 そう言って、那月は俺に手にしたそれを渡してきた。
 3度目のクリスマスでは、彼女からプレゼントをもらうことはなかったので少し驚きつつ、受け取る。
 
「中身、見るよ」

 と一言断り、袋の中からプレゼントを取り出す。
『合格』と書かれた絵馬の形をした、携帯クリーナー付きストラップだった。

「ありがとう……凄く、嬉しい」

 俺はそう言ってから、早速そのストラップを携帯につけた。

「どういたしまして」

 那月は俺の言葉を聞いて、はにかんだように笑った。
 ……その表情を見て、近い将来彼女が自殺をすると、誰が思うだろうか?
 それでも、俺は知っている。

 卒業式の前日。
 那月は絶望し、自殺を決意する。
 そのきっかけを取り除くことはできない。

 だけど今回は、もう一つのきっかけであった、那月へのいじめはもう行われていない。
 那月の精神的負担はこれまでよりも軽くなっているはずだ。
 今回も自殺を考えるだろうが……死ぬには惜しいと思わせることは、十分に可能なはずだ。

 まずは、那月を生き延びさせること。
 その後の問題の解決は、それから考えれば良い。

 今回は、小細工抜きで勝負だ。
 那月が絶望して死を望んだ時。
 俺は彼女に、それでも生きていてほしいと、まっすぐに伝えよう――。

「な、何よ? ……何か言いなさいよ」

 真剣な表情を浮かべて那月を見ていた俺に、彼女はもじもじとした様子で問いかけた。

「……受験が終わってから、伝えたいことがあるから。聞いてくれるよな」

 俺の言葉を聞いて、ポカンとした表情を浮かべた那月は、

「うん」

 と呟いて応じてから。
 とても幸せそうに、微笑みを浮かべていた。



 無事、受験が終わった。
 今さら試験の出来をどうこう言うことはない。

 俺にとって何よりも重要なのは……那月の自殺を止めることだ。
 あの文化祭の日から今日まで、那月に対する無視などはあったものの、酷いいじめはなかった。
 もちろん、今宵と接触した様子もない。
 これまでの高校生活よりも、那月の抱えるストレスは軽かったと思うのだが、それでも楽観はできない。 

 明日は、卒業式。
 つまり今日は……これまでの繰り返しの中で、毎回那月未来が自殺をした日だ。

 那月とは、これまでにないくらい信頼関係を築き上げることが出来た。
 ……大丈夫、これまでの俺には出来なかったことでも。
 きっと、今の俺になら(・・・・・・)、那月の自殺を止めることが出来る。
 
 いや、絶対に止めてみせる……!
 俺はそう決意して、家を出た。



 時刻は昼過ぎ、俺は学校に到着していた。
 3年生のいない校内は、どこか寂しく俺の目に映った。
 誰もいない3年生の教室を少しだけ覗いてから、俺は階段を上った。
 
 彼女が俺を屋上に呼び出すのは、決まって夜だった。
 昼間から屋上に向かっても、那月はそこにいないだろう。
 だけど、それこそが狙いだ。
 
 待ち伏せし、屋上に入ってきた那月を一度校舎内に押し返す。
 それから、ゆっくりと那月の話を聞いて、説得をする。
 彼女が屋上にいるのは、それだけでリスクが高いからだ。
 
 そう考えていたのに。
 当然鍵がかかっていると思っていた屋上の扉が――既に、開いていた。
 俺は深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、扉を開いた。

 屋上には、一見誰もいないように見えた。
 だがしかし、よく見ると……制服を着た那月が、手すりの向こうで体育座りをしていた。

 こんなに早く屋上に来ているのは、予想外だった。
 俺が考えていた安全策を使うのは、難しいだろう。
 だけど、失敗が決まったわけじゃない。

 俺は屋上へと踏み入り、そして那月の傍に歩み寄った。

「こんなところにいたら、危ないぞ」

 那月にそう声を掛けてから、俺は手摺りを乗り越えて彼女の隣に座った。

「ちょっと危ないくらい、何も問題ないでしょ?」

 那月は俺の出現にも驚いた様子はなかった。
 ただ、彼女は嬉しそうに、笑っていた。

「私がここにいるって思ったの?」

 俺は、そう問いかけた那月の手を、どこにも逃がさないようにと握りしめた。
 
「何となくな」

 俺が答えると、彼女は俺の手をギュッと握り返してきた。

「それって、なんだか運命みたいだね」

 那月は惚けた表情で呟いた。
 
 俺は唇を噛みしめる。
 今日ここで死ぬのが那月の運命だと、俺は決して認めない。

「ここであんたと初めて話したあの時。私にはあんたが死にたがってるように見えた。幼馴染にフラれただけで、バカみたいって思ってたけど……今なら、その気持ちも分かる」

 両足のつま先を上下に動かしながら、無表情で那月は続ける。

「これから先、半世紀以上先の寿命が来るまで生きてたって……どうせ、良いことなんてない。努力をしたって、報われることなんてない」

 那月は淡々とした様子で言う。

「私の想像を超える出来事なんて、きっとこの先訪れない。生きるってことは、ただの確認作業。平凡以下の惨めな人生を確認して……それでお終い」

 諦観を浮かべた表情を、彼女は俺に向けてきた。

「そんな風につまらない人生を送って、よぼよぼのおばあちゃんになってから、良いことなんて何もなかったって思いながら死ぬよりかはさ。今日ここで、綺麗なうちに……大好きな人と一緒に死んだ方が良いじゃん。……ね?」

 那月はそう言って、俺に同意を求めるように、俺の手を力強く握りなおしてきた。

 彼女はそれから、立ち上がる。
 彼女に手を引かれて、俺もつられて立ち上がった。
 
 大きく一歩踏み出せば、即座に真下に落下する。
 そうなれば、きっと助からない。

 ――そうならないために、俺はここにいる。

「俺も、那月のことが好きだ」

 俺はそう言って、彼女を見た。

「嬉しい……幸せだよ」

 彼女は蕩けたような、幸せそうな表情をして、呟いた。
 だから、この先も一緒に生きよう、と。
 辛いことは、二人で乗り越えよう、と。

 俺は那月にそう言おうと思い、口を開こうとして……。

「もう、死んじゃおっか」

 不意に、那月が俺にキスをした。
 那月の柔らかな唇によって、俺の口は塞がれ……。
 そして、彼女は俺を抱きしめながら、身を投げた。
 不安定な足場、人一人分の体重を預けられて、バランスを取ることが出来ず……。

 俺と那月は屋上から、落ちた。

 ……え?
 ……これで死ぬのか?
 俺はまだ何も伝えてないのに……どうして、俺の話を聞いてくれないんだ?

 俺の思考を遮るように、衝撃が全身を伝う。
 
 薄れゆく意識の中、那月の面影が残る肉の塊(・・・)が視界に入った。
 それは……不明瞭な意識でも、既に手遅れだと一目見てわかった。

 理不尽な結末を迎え、無力感に苛まれた俺は……。
 決して、俺だけは言ってはいけない一言を、力なく呟く。

「そんなに死にたいなら……一人で勝手に死ねよ」



 目が覚めた。見覚えのない天井を視界に収め、その後すぐに、自分の身体の違和感に気が付いた。
 全身の感覚が全くなかったのだ。
 ……どうやら俺は、生き残ってしまったらしい。
 
「玄野さん、目が覚めたみたいです。先生来てください!」

 看護師のその言葉がやけに耳に響いた。

 すぐに駆け付けた医者が、俺に説明をしてくれた。
 学校に人がいる時間が幸いし、教師がすぐに救急車を呼んでくれたおかげで、俺だけは一命をとりとめたようだった。
 とても言いにくそうにしていたが……つまりは那月の身体がクッション代わりになっていたらしい。

 今は麻酔が身体に残っていて、意識と感覚がはっきりしないだろうが、薬が抜けてリハビリを頑張れば、日常生活を送れるようにはなるということだった。

 その後に、家族や警察が病室に訪れた。
 事情聴取には、「自殺に巻き込まれた」と、はっきりと答えた。

 さらにしばらくしてから、今度は那月の父が現れた。
 彼は涙を浮かべてから、俺に土下座をして謝った。
 俺は何も話したくなかったから、一言も応じなかった。
 気づけば、彼は病室を後にしていた。きっと、もう二度と会うことはないだろう。

 絶対安静の入院中は、することが何もなかった。
 全てが、どうでも良くなっていた。今回のことで、俺はよくわかった。

 誰にも、那月未来は救えない。

 それが分かっただけで十分だ。
 やるだけのことはやって、救えなかったのだから、もう後悔はない。
 そして、生きる目的もなくなった。

 だけど、死のうとも思わなかった。
 自殺するにも、膨大なエネルギーが必要だ。

 苦しみや悲しみや貧しさや、怒り。
 そういう『糧』がなければ、人は自発的には死ねない。
 
 つまり、俺は終わりを迎えるその時まで、何の意味もなく生きなければならなくなった。



 病院を退院し、リハビリのため通院をする毎日。
 合格をしていた志望校は、入学を辞退していた。
 俺は必死にリハビリに励んだ。
 辛いリハビリだったが、何も考えなくて良かったので、好都合だった。

「リハビリ、今日も大変だった?」

「ああ」

 俺は、車で病院への送迎をしてくれている今宵に、力なく答える。

「早く歩けるようになると良いね」

 明るくそう言った今宵に、俺は答える。

「そう言えば、なんで今宵が送迎してくれてるんだっけ?」

 時間の感覚も、記憶も、あいまいだった。
 俺の言葉に、彼女は辛そうな表情を浮かべた。
 しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべた。

「大学の夏休みだから。帰省中、幼馴染の面倒を見てあげてるだけだよ」

「ああ、そっか」

 俺は無感動に答える。
 いつの間にか、季節は夏になっているようだった。
 
「……うん。明日も今日と同じ時間にリハビリだよね?」

「ああ」

 次の日も、今宵は俺を病院まで送迎してくれた。



 リハビリを開始して、長い時間が経っていた。
 ある程度の後遺症は残っているが、それでも日常生活が出来るようになった頃。
 俺は、田舎での生活に嫌気がさし、東京へと引っ越しをした。

「大学生って結構暇だからさ、気にしないで」

 俺の両親から聞いたのだろう。
 今宵は、今日から住むことになった1Kの部屋で、荷解きを手伝ってくれた。
 甲斐甲斐しく世話を焼く今宵に対し、俺は疑問が一つ浮かんだ。

「そういえば。俺と今宵って、いつ仲直りしたんだっけ?」

 俺の言葉を聞いた今宵は、気丈に微笑もうとして……そうすることが出来なくて。
 静かに、涙を流していた。

「ごめんね、暁……」

 今宵は俺に、そう謝罪をした。

「暁は、悪くないよ。いじめられていたあの子を助けてあげられなかったことを、気に病んでいるのは分かる。でもそれは……絶対に暁のせいじゃないから」

 今宵は涙を流しながら、俺を抱きしめた。

「あの子を虐めた人も、見て見ぬふりをしていた人も。みんな何事もなかったように、あの子を追い詰めたことを忘れ切って……素知らぬ顔で日常を過ごしてるの」

 彼女の温もりが伝わる。

「悪いのは暁じゃない。自殺しか考えられなかったあの子でもない。あの子を追い詰めた……あたしを含めた周囲の皆が悪いんだよ」

「……たった一人も救えない。俺は無能だ」

 俺の言葉に、今宵は首を振ってから言う。

「お願い……、一人で抱え込まないで。あたしは、あたしだけは。あの子に対する罪を忘れないから、一緒に背負うから。傍にいさせて、支えさせてよ……」

 顔を上げ、彼女はまっすぐに俺を見つめて、言った。

「暁は幸せになって良いんだから」

 俺に、幸せになる権利なんてない。
 そんなことは、分かっているのに……。

 涙を流して、俺を案じる今宵の唇に――気づけば俺は、自らの唇を重ねていた。



 それから、今宵は献身的に俺を支えてくれた。
 ほとんど部屋に引きこもっている俺に、彼女は毎日会いに来てくれた。

「ちゃんとバランスよく栄養のあるご飯食べないと、体調崩すよ?」

 そう言って今宵は、いつも俺に手料理を振る舞ってくれた。
 食事なんて、これまでまともに喉を通らなかったのに。
 彼女の手料理だけは、別だった。
 空腹を満たすだけではなく、心まで温かくしてくれた。

 きっとそれは、食卓を共にしてくれる今宵の笑顔もあったからだろう。

 俺の部屋の方が、今宵の大学に近いという理由で、彼女とはほとんど同棲状態になっていた。
 今宵が大学に行っている間、することはほとんどなかった。

 金なら、あった。
 かつて俺がバイトをして購入していた株の価値は、想定していた通り上がっていた。
 1周目の記憶を生かし、最大の価値になったところで利益を確定させ、次に短期間のうちに10倍以上に値上がりをする株を購入する。
 やったことは、それだけ。
 それだけで、俺の資産は既に億に近づいていた。

 俺は日ごろの感謝の気持ちを伝えたくて、普通の大学生では到底手が出せないようなハイブランドのバッグを購入し、今宵にプレゼントをした。

「……ありがとう、暁。でも、受け取れないよ」

 虚しそうな表情で、今宵は言った。

「なんでだよ……」

「あたしが欲しいのは、こんなモノじゃなくって……暁が幸せになる未来だから」

 そう言ってから、今宵は俺を抱きしめてくれた。
 何もできない、彼女の優しさに甘えることしか出来ない自分に苛立つも、俺は彼女の胸でみっともなく泣いていた。
 このころにはもう俺は、那月のことは思い出すこともなくなり――。
 今宵との間にあったわだかまりは、何一つなくなっていた。
 


 今宵が大学を卒業し、就職をすることになった。
 だけど俺は、彼女には就職なんてせず、傍にいて欲しかった。

「金ならいくらでもあるんだ。就職なんかしないで……ずっと、俺の傍で支えてくれ」

 俺の言葉に、今宵は苦笑をして言う。

「暁がたくさんお金を持ってるのは知っているけど。それでも、株でものすごい損を出す時もあるでしょ? そんな時に、あたしだけでも働いてたら、食うに困らなくて良いじゃん」

 今宵の言う通りだった。
 時間が経つごとに、1周目とは違った値動きをすることも多かった。
 それでも、今のところ資産は順調に増え続けている。

「……分かった」

 彼女の自由を、俺の意志で阻害したくはなかった。
 だから、俺は彼女が就職することに、納得した。

 それでも、胸の内には不安が宿っていた。
 俺はその不安を誤魔化すように、酒に溺れるようになった。



 今宵が就職し、仕事も落ち着き始めたころ。
 
「大きくなったら、今宵をお嫁さんにするって約束……今も、有効だよな?」

 俺の言葉に、今宵は大きく頷いた。

「これからも、ずっと一緒にいてくれ」

 俺は彼女に、指輪を贈った。
 今宵はうっとりとした表情で、

「幸せだよ、暁」

 と、喜んでくれた。
 
 それから、二人で一度地元に帰り、お互いの家であいさつをすることにした。
 俺の両親は喜んでいた。娘同然に成長を見守っていた今宵が、本当の娘になるのだから。

 だが、今宵の両親はどこか複雑そうな表情だった。
 当然だ、と俺は思った。
 俺は定職に就いていないし、何より高校の卒業式前日の事件のこともある。
 巻き込まれただけと説明をしても、不安を感じるのは当たり前だ。

 だから俺は、二人を安心させるために、素敵な贈り物をした。

「娘のことは任せたよ、暁!」

 お義父さんとお義母さんは、そうして俺たちの結婚を認めてくれた。
 
「なんか……ごめんね」

 帰りの新幹線の中、申し訳なさそうに今宵は言った。

「俺のしたことを考えれば、当然だ。それに……俺の方こそ、こんなやり方しか出来なくて、ごめん」

「ううん、良いの。ありがとう、幸せだよ」

 今宵はそう言って、ギュッと俺の手を握りしめた。
 この時俺は、確かな幸せを感じていた。



 それから、さらに数年が経っていた。
 思っていた以上に、投資が上手くいった。
 もう何をせずとも、一生食うに困らない……どころか、遊んで暮らして余りある金を手にした。

「なぁ、仕事を辞めてくれないか?」

「……暁の気持ちも分かるけど、あたしは働いていたいの」

 だけど、今宵は頑なに仕事を辞めてはくれなかった。
 そのことで、喧嘩になることもあった。

 俺は家で一人、考え込むようになった。
 今宵は、本当に綺麗になった。
 それに比べて、俺はどうだろうか?
 ただ、金があるだけの……何の魅力もない人間に落ちてしまった。

 自分と今宵のその差を考えると、どうしようもない不安に駆られる。
 ――何より、俺は知っているのだ。
 今宵が、俺以外の男を愛せるということを。

 1周目の世界では、今宵は俺ではない男と結ばれ、幸せになった。
 今回の世界で、俺に愛想を尽かして、他の男を愛することは絶対にない……とは、言いきれない。

 不安と不信で気が狂いそうになった俺の酒量は、どんどん増えていく。
 そしてある日、酒を飲んで勢いをつけ、もう一度今宵に言った。

「やっぱり、仕事は辞めてくれ。絶対に経済的に不自由させないから」

 それでも、今宵はやはり俺の言うことを聞いてはくれなかった。俺の中で、何かが爆ぜた。

「なんで今宵は俺の気持ちを分かってくれないんだ! こんなにも俺は不安で、辛いのに……なんで、自分のことしか考えてくれないんだ!」

 俺はそう言って、固めた拳で今宵を殴った。
 今宵は、腹を抱えて苦しんでいた。蹲る今宵を、俺は見下ろす。

「仕事を辞めろ! 不自由なんて、何もないだろ!? 金はあるんだから……それでも辞めないのは、職場で男と不倫してるからだろう!?」

 俺は彼女に頭を上げさせ、もう一度殴った。
 顔を両手で覆い、今宵は呟く。

「ごめんなさい」

「俺は今宵に、謝ってほしいわけじゃない!」

 もう一度、俺は今宵を殴った。
 彼女は呻き声すら上げずに、痛みに耐えた。
 それから、今宵は俺を見た。

「分かった。仕事、やめる。こんなになるまで追い詰めて、ごめんね。あたしって、やっぱり駄目だね」

 俺を安心させるように、申し訳なさそうに、今宵はそう言った。
 彼女のその表情を見て、その言葉を聞いて。
 ――俺は、自分のしたことの愚かさに、気付いた。

「ご、ごめん、今宵……俺は、今宵を傷つけるつもりなんかじゃなくって、ただ、一緒にいて欲しかっただけで……ごめん、本当にごめん……」

 今宵は涙の一つも流さず耐えていたのに。
 俺は、子供のように泣き喚いた。

「ううん、良いんだよ暁」

 そう言って、泣いている俺の頭を今宵は優しく撫でてくれる。

「ごめん今宵、愛してるから……もう二度としないから……」

 そう言って、俺は今宵を抱きしめた。

「あたしも愛してるよ、暁……」

 今宵はそう呟いて、俺と口づけをした。
 俺はこの時、確かな愛を感じていた。
 


 それからも俺は、度々今宵に暴力を振るうようになっていた。
 その多くが、酒を飲んで落ち込んだ時だ。
 今宵の美しさを目の当たりにするたび、俺の心には不安と不信が宿る。
 それが、最悪の形で発露するのだ。

 俺が今宵に暴力を振る間、今宵は悲鳴も上げずに、ただ耐えた。
 それから、痛みに耐える今宵を見て、俺はいつも後悔と自己嫌悪に陥る。
 嫌われてしまった、捨てないでくれ。
 そう心の中で叫びながら、俺はいつも今宵を抱きしめ愛の言葉を囁く。
 
 今宵はいつも、優しく「大丈夫、愛しているよ」と答えてくれた。
 その時だけは、俺は救われた気持ちになっていた。



 その日はいつもより、酒を飲み過ぎていた。
 まともに頭は働かなかったが、今宵が涙を流しているのが分かった。

 俺は、泣いている今宵を優しく抱きしめた。
 彼女は、俺の耳元で、「愛しているよ」と震える声で囁いた。

 俺の脇腹に、酔いを醒ますほどの強烈な熱さと痛みが襲い掛かった。
 見ると、今宵が包丁を握りしめ、俺を刺していた。
 それから、今宵は何度も何度も、涙を流し続けて俺を刺す。

「大好きだよ、愛してるよ。ずっと一緒だよ」

 彼女はそう言って、俺に口づけをしてきた。
 どこか、寂しいキスだった。

「だから、暁を嫌いになってしまう前に……。この気持ちを永遠のまま、終わりにさせて」

「あ、り……がと、う」

 俺は、これまでの感謝を込めて、今宵に伝える。
 酷いことをたくさんしてきたけど、今言うべきは謝罪の言葉なんかではない。

 俺は、今宵と一緒に居られて幸せだった。
 
 ずっと俺は、人のことを愛せない欠陥品だと思っていた。
 卒業式の前日、那月に対して伝えた「好き」という言葉は、今の今宵に抱いてるこの感情に比べれば、真実ではなかったはずだ。

 だけど、今は違う。
 今宵は、俺に人を愛する喜びを教えてくれた……大切な人だ。

「愛……してる」

 俺の言葉は、この想いは。
 きっと今宵に、届いている。

 今俺の胸にある温かな気持ちこそが……真実の愛に違いない。
 心の孔は、塞がった。
 もう、後悔なんて何もない。
 心置きなく、俺はようやく死ぬことが出来る――。

「あり、がとう……」

 俺の言葉を聞いた彼女は、涙を流しながら、何度も、何度も。
 俺の身体に包丁を突き立て続けた。

「愛してるよ、暁……」

 最後に見た、返り血にと涙でぐしょぐしょになった今宵の表情を。
 俺は、何よりも美しいと思った。





 目が覚めた。
 
「なんだ……夢か」

 空虚な言葉が俺の口からこぼれた。
 分かっていた。それでも、絶対に認めたくなかった。

 全ての憎しみを吐き出すように叫び声を上げようとした、次の瞬間――。

 耐え切れないほどの頭の痛みに、俺は襲われた。

 声を上げることさえできずに苦しんでいたが、こんな痛みは大したものではないと思えた。
 痛みにもだえ苦しみながら、俺は正気でいる自分の無神経さにこそ絶望した。
 


 割れるような頭の痛みが、徐々に引いていった。
 それから、未来に起こった記憶の数々が、この身体に馴染んでいった。
 大きく、息を吐く。

 結局、この力は何なんだ?
 本人の意思も常識も無視して、何度も何度も何度も、現実(じごく)を見せつけてくるこの力は――。

 まるで、呪いだ。
 繰り返しても、自分の愚かさと無力さをただ思い知るだけだ。

 もう嫌だ。
 もう俺に後悔なんてない、ただ、死にたいだけだ。お願いだから死なせてくれ――。

 頭を抱えて現実から目を逸らし、呻き声を上げても――当然、俺が死ぬことはない。
 嘲笑が零れる。……分かっている。

 卒業式の前日、那月を救えなかったこと。
 今宵が手に入れるはずだった幸せを、俺がこの手で奪ってしまったこと。

 気づかないふりをしていただけで、心の奥底では……後悔していたのだ。
 周りを不幸にし続けた、どうしようもないクズだと自覚しているのに。
 皮肉にも、俺には彼女たちへ罪悪感を抱く程度の人間性が……ほんの僅かに、残っている。
 
 ……そういえば、今はいつだ?
 10年分の記憶が同期した今、現在の記憶は曖昧になっている部分が多い。
 俺は周囲を見て、実家のベッドで目覚めたことを確認した。

 それからスマホを……いや、枕元にあったのは、携帯電話だ。
 画面を見て、日付を確認して……思い出した。
 
 今日は卒業式の前日。
 つまり――那月未来が学校の屋上から飛び降りる日だ。

 ――タイムリープの度に、戻る時間が進んでいる。
 最初は、梅雨の時期。
 2度目は、那月と花火を見た夏休み。
 3度目は秋、文化祭の初日。
 そして今回は、卒業式の前日。

 繰り返す度、那月の自殺の日が近づいてきている。
 考えたくないことだが、もしも今回も、これまで通り那月を救えなかったら――。
 一体、どうなってしまうのだろうか?

 那月を救えなかったことを悔やみ、苦しんで死んだとする。
 そうなった場合、次に戻るのはいつなんだ?
 今回と同じ、卒業式前日ならまだ那月を救うことが出来る可能性がある。
 だけどもし、那月を救えずに後悔したのに、巻き戻った先が那月の死後であったとすれば――。

 俺は、終点のない繰り返しを生き続けることになるのか?

「……じゃあ、今回で終わらせるしかないよな」

 失敗をした時のことを考えても、どうにもならない。
 俺はただ淡々と、今回確実に那月の命を救えば良いのだ。

 これまでの失敗の原因は、明らかだ。
 分不相応にも、那月の命だけでなく、心まで救おうとしたことだ。

 そんな必要は――ないのに。

 少し頭を使えば、彼女を生かすのは簡単だ。
 屋上にいる那月を地面に落ちないように手摺りにでもしばりつけてから、ぶん殴って言うことを聞かせれば良い。
 抵抗が激しければ、自分で身動き取れないように全身の骨を折るのも手だ。

 そうしてから救急車でも呼べば、自殺なんてできっこない。
 俺はそれを確認してから、自ら命を絶つ。
 那月が生きてさえいれば、それで俺の役目はお終い。
 その後どうなるか、知ったことではない。
 それで那月の命は救われ、俺も心残りなく死ねる。
 そうすれば、ようやく全てを終わらせることが出来るだろう。

 ……だけど、その前に一つだけ。
 俺にはやらないといけないことがあった。


 
 那月と伊織と一緒に来たこともある、町を一望できる展望台のある公園。
 俺はそこに、今宵と一緒に来ていた。

「久しぶりに来たけど、こんなに大変だったっけ?」

 展望台に到着した今宵は、膝に手をついて息を乱していた。

「確かに、久しぶりだと大変だな」

「暁は、どのくらいぶりに来たの?」

「俺は……10年ぶりだ」

 俺の言葉を冗談と受け取った今宵は、呆れたように笑って言う。

「中学生の時に一緒に来たことあったし、そんなわけないじゃん」

 俺は彼女の言葉に、無言で応じる。
 俺の雰囲気がいつもと違うことに、彼女はすぐに気づいたのだろう。

「今日、呼び出してくれたのは……約束のこと、だよね?」

 神妙な顔をしている俺に、今宵は問いかけてきた。

「うん」と応じて、口を開く。

「でも、その前に謝らせてくれ。文化祭の日、酷いことをたくさん言って、ごめん」

 そう言って、俺は今宵に頭を下げる。

「良いの、暁は、間違ったこと言ってないし。……あたし、多分おかしくなってた。暁のこと好きなのに、考えが分からなくなる時が多くなって、不安になるときも増えて……嫉妬心を抑えきれなくって。あの時、暁が止めてくれなかったら。きっとあの子に、あたしは滅茶苦茶酷いことを言ってたと思う」

 震える声で、今宵は続けて言う。

「だから、暁の言ったことは間違いじゃないんだよ」

 今宵は、ギュッと拳を握りしめていた。
 辛い気持ちを思い出させてしまった。
 今宵が抱いた不安も嫉妬も、全ての原因は俺にあるのに。

「それで……こうして謝ってくれたってことはさ。大学、お互いに合格をしたら恋人になってくれるって、ことだよね?」

「違う」

「……え?」

 不安そうな、今宵の声。
 俺は顔を上げて……ここに至るまでまともに見られなかった彼女の顔を、まっすぐに見る。
 那月を追い込んだことに対する憎しみと。
 彼女の幸せを奪ってしまったことに対する悔恨の念と。
 何より、今宵を想う愛情が混じり合う。

「どういうことなの? ……あたし、また何か悪いことした? それなら、教えてよ。あたし悪いところあったら、すぐに直すから! だから、そんなこと……言わないで」

 目じりに涙を溜めながら、今宵は俺に縋りながら言った。

「俺と一緒にいたら、今宵は絶対に……幸せになれない。でも俺は、今宵には幸せになってほしい。だから――俺は。もう今宵とは、一緒にいられない。もう二度と、俺に関わらないでくれ」 

 俺の言葉を聞いた今宵は、呆然とした表情で乾いた笑いをを浮かべる。

「何それ……意味わかんないよ」

 そう言ってから、「冗談だよね?」と彼女は問いかけた。

「本気だ」

 俺がそう答えた瞬間、左頬に痛みが走った。

「……最低っ。そんなにあたしのことが嫌いなら、はっきりそう言えばいいじゃん」

 今宵が、俺に平手打ちをしていた。
 それから、彼女はもう一度俺の頬を思い切りぶった。
 俺の頬を打つたびに、今宵は辛そうに表情を歪ませる。

 2度、3度、4度と繰り返し平手打ちをされても、俺は無言のまま彼女を見つめる。

「……っ! なんか言えよ!」

 そう言ってからもう一度、今宵は俺に平手打ちをした。
 
「気の済むまで、いくらでも殴ってくれていいから」

 俺が答えると、今宵は両手をだらりとおろした。
 それから、怒りに満ちた瞳を俺に向ける。
 力いっぱい拳を握り、彼女は俺を殴ってきた。

 何度も何度も、固めた拳を打ち付け、そのうちの一発の拳が、俺の顎を偶然にも的確にとらえた。
 俺の視界は揺れ、尻餅をついて倒れる。

 今宵は蹲る俺を押し倒し、馬乗りになった。
 マウントポジションを取って、息を荒げながら、何度も何度も俺を殴り続ける。

 痛みはあった。それが嬉しかった。
 今宵自らが愚かな俺に、罰を与えてくれていると思えたからだ。
 少しづつ、痛みがマヒして、意識がかすれ始めた。
 もしかしたら、俺はここで今宵に殴り殺されるのかもしれない。
 まだ俺は、那月のことを助けていないのに。

 ……それも良いか、と思えた。

「死ね、死ね……死ねっ! このろくでなし! 浮気男! 言いたいことだけ言って、ろくな説明もなしで、二度と会えないとか、ふざけんな! 何なの……なんなんだよ!」

 泣き叫びながら、今宵は俺に拳を振り下ろし続ける。
 無抵抗な俺を殴り続け、疲れてしまったのか、今宵は手を止めた。それから俺の胸元を強く握りしめた。

「……やっぱり、死ぬのはダメ」

 今宵は呟いた。

「死ぬなら、あたしが幸せになったのをその目でちゃんと確かめて、心底後悔してから死んで」

 俺の胸元を握りしめる拳に、ギュッと力がこめられる。

「あたしはこれから、暁のことなんか忘れる。それで、綺麗になって、素敵な男の人と沢山出会って、暁よりも優しくて、かっこよくて、身長も高くて、ついでにお金持ちで。何よりあたしのことを大切にしてくれる人のことを……」

 今宵は俺をまっすぐに見る。
 目じりに溜まった涙が頬を伝う。

「暁のことと、おんなじくらい好きになる」

 その涙が零れ落ち、俺の頬を濡らした。

「あたしはその人と結婚して、可愛い子供も産んで、家族みんなで暮らして、誰よりも幸せになる。暁は、あたしが幸せになるのを確認して、死ぬほど後悔しないと、許さない。……だから、そんな風に自暴自棄にならないで……ちゃんと生きて」

 今宵は立ち上がって、俺に背を向けてから言う。

「バイバイ暁、大好きだったよ」

 俺のことを振り返ることなく、今宵は展望台から立ち去っていった。
 
 彼女の背中を、止めることが出来なかった。
 仰向けになったまま、俺は声を上げて泣き叫ぶ。

 もう、死にたいのに。
 どうせ生きていても、俺は自分も、周りも不幸にするだけなのに。

 今宵のせいで、どうしても死ねない理由が出来てしまったから――。



「え!? あっきー!?」

 未だ泣き止まない俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「やば、顔ボロボロじゃん! どうしたの? 立てる?」

 その声の主は、俺の手を引いて身体を起き上がらせて、ベンチに座らせた。
 俺はうな垂れつつ、横目で見た。……誰だっけ、こいつ?

「うわ、痛そー……。トワ、ハンカチ濡らしてくるからちょっと待っててね」

 トワ? ……ああそうか、伊織だ。なんでここにいるのだろうか? ……いや、どうでも良いか。
 伊織は俺にそう言ってから、水道でハンカチを濡らしてから、腫れた俺の顔をそれで押さえた。

「やっぱ氷で冷やした方が良いよね……? 下にコンビニあったから、トワちょっと買ってくる。待っててね、あっきー」

 そう言って彼女は立ち上がった。
 心配をしてくれているのだろうが……。

「余計なお世話だ」

 伊織に向かって、俺は言う。
 彼女は「そっか」と呟いてから、俺の隣に座る。

「てか、それどうしたの?」

 俺の言葉に、伊織は気分を害した様子ではなかった。
 伊織は俺に質問をしたが、俺は答える気になれなかった。

「さっき今宵ちゃんとすれ違ったけど、やっぱ本人だった?」

 彼女の言葉に、俺は答えない。

「人違いだったらどうしようって思って話しかけなかったけどさ。今度は泣きまくってるヤバい奴がいるって思って、『うわ、関わりたくねー』って思ったら、まさかのあっきーだしね。やばいよね」

 彼女の言葉に、俺は答えない。

「あっきーが今宵ちゃんをフッて、怒った今宵ちゃんがあっきーをぼこぼこにして。あっきーはされるがままで……殴らたとこが痛いし、みじめだし。それで泣いちゃった、って感じだったりする? トワが慰めてあげよっか?」

 俺が答える気なんてないと分かっているのに、伊織は立て続けに質問をしてくる。
 
「良いから放っておいてくれっ!」

 いい加減イラついていた。一人になりたかった。
 もう誰にも、俺の心に踏み入れさせたくない。だから、詮索も同情もごめんだ。

「放っておかないよ」

「なんでだよ……」

「何で、って。だってあっきー、泣いてるじゃん」

 そう言って伊織は、顔の腫れを押さえていたハンカチで、俺の頬に流れる涙を拭った。

「辛いときに誰かが傍にいてくれたら、それだけでケッコー救われるもんじゃん? だから、トワはあっきーの傍にいるよ」

 伊織は俺の表情を覗き込んでから、優しく微笑んだ。
 慈愛に溢れるその瞳に――これ以上見られたくない。
 どうしたって、自分の惨めさばかりが浮き彫りになってしまうから。

「俺は、誰かに優しくしてもらう価値もない人間だ。――関わる人全員を不幸にする、人格破綻者だ」

 俺は伊織を睨みつけてから、続けて言う。

「俺にとって伊織は、今宵に対する当て馬だ。あいつに嫉妬心を抱かせるために、勉強を教えて、デートして、文化祭を一緒に回った。俺は伊織のことなんてどうとも思っていない」

 うんざりだった。
 取り繕うことを止めた俺の口からは、自分勝手な言葉しか発することは出来なかったから。
 伊織は俺に幻滅しただろうが、それで良い。このまま立ち去ってくれ。

「でもトワは、あっきーに救われたんだよ?」

 だけど伊織は、俺の隣に未だに寄り添ってくれている。
 俺は今、伊織に酷いことを言ったはずなのに。 
 それでも彼女は、嬉しそうに俺に向かってそう言った。
 
「あっきーが那月をイジメるのをやめた方が良いって言ってくれなかったら、トワはどんどんエスカレートして。きっと那月に、もっと酷いことをし続けてた」

 伊織は、どこか遠くを見てそう言った。
 確かに、1周目の世界では、那月に対するいじめはどんどんエスカレートしていた。

「あっきーが、一緒に那月に謝ろうって言ってくれなかったら、トワの心はマヒをして、他人に対してどんな酷いことをしても、何も感じることが出来なくなってた」

 彼女は、自分がそんな人間なのだと確信しているように言う。

「トワは馬鹿で、すぐに楽な方に流れるから。那月の言った通り、いつかどこかで酷い犯罪に平気な顔して手を染めた。それで、やっぱりバカだからすぐに捕まるの。それでも、自分の非を認められなくて、何もかも周囲が間違っているんだって自分勝手に叫ぶような……そんな、最低な大人になってた」

 ……伊織の言葉が間違いではないことを、俺は知っている。
 でも、俺は伊織のためを思って、彼女に関わっていたわけじゃない。

「それも全部……全部、全部全部全部! 那月のために……いや! 那月が虐められているのを見てムカついた俺が、誰のことも考えずにただ自分勝手にしたことだ! 伊織のことなんて、これっぽっちも考えてなんかいなかった! お礼なんて言うなよ、お願いだからこれ以上俺を……惨めにさせないでくれ」

 俺の懇願を、伊織は聞いてくれない。

「那月をイジメていて自分に嫌悪感を抱いていたトワを肯定してくれたのも。誰かを無理に好きになる必要はないって言ってくれたのも。那月に謝った後、泣いているトワを心配してくれたのも。全部、全部全部ぜーんぶ! あっきーなんだよ?」

 伊織はそう言って、俺を抱きしめた。

「あっきーがトワのことを利用したのは、本当なのかもしれない。でも、一緒にいてくれた時間、トワはあっきーの思いやりを、確かに感じてたから。その時感じた、温かな気持ちは……あっきーにだって否定させないよ」

 彼女はそれから、優しく俺の頭を撫でる。

「トワのことを救ってくれてありがとう、あっきー」

 俺は、これまで繰り返してきた時間の全てが無駄で。
 ただ自分の愚かさと、無能さを突き付けてくるだけだと思っていた。
 でも……違った。
 俺のやってきたことは間違いだらけだったけど。
 それでも、全てが間違いではなかった。

「ありがとう、伊織……」

 そう呟いてから、俺は伊織の胸に縋りついて、声を上げて泣いた。
 彼女の鼓動が、体温が、息遣いが、優しく俺を包み込んでくれる。

「どういたしまして」

 伊織の優しい声が、俺の耳に届いた。



「……そういえば、伊織は何でここにいるんだ?」

 自分でも引くほど大泣きして、気持ちを落ち着けた俺は今さらだが伊織に問いかけた。

「あっきーに話したいことがあったから」

 彼女はどこか照れ臭そうにそう答えた。

「話……?」

「うん。あっきーに勉強沢山教えてもらったのに、トワは何の相談もしないで大学受験しなかったじゃん? だから、せっかく勉強教えてくれたのにごめんね、って」

 伊織は続けて言う。

「トワ、お姉ちゃんがお酒を飲み過ぎて大変な時とか、あっきーが文化祭で体調崩して大変な時とか。……あと、今とか。そういうので慣れてるし、誰かに感謝してもらえるのはすごく嬉しいから。看護専門学校にいくことにしたんだ」

 伊織は自分の進路を教えてくれた。
 彼女が看護師になる姿を想像して……すごく素敵なことだと、俺は思った。

「伊織は絶対、良い看護師になるよ。……めちゃくちゃ世話になった俺が言うんだから、間違いない」

「あっきーのお墨付きなら、確実だね」

 揶揄うように伊織は言った。
 俺が苦笑して応えると、彼女は楽しそうに笑った。 

「でも、そういうことなら電話でも、卒業式でも良かったんじゃ?」

 純粋な疑問を告げると、彼女はばつが悪そうに「あー……」と伝えてから、

「あっきーが教えてくれたこの場所で、偶然出会えたら……ロマンチックだなって思って」

 そう言ってから、伊織は俺をまっすぐに見つめて、真剣な表情で告げる。

「トワはあっきーのこと――大好きだよ」

 かつて伊織はここで、無表情に俺に向けた言葉と、同じことを言った。
 だけど今は、あの時とは違う。
 かつてはただ虚しかった彼女の言葉だが、今は確かな温もりを感じることができる。

 俺は、伊織の優しさに絆されたばかりだ。
 苦悩と絶望の底にいた俺を救ってくれたのは――間違いなく、伊織だ。
 彼女の言葉に、俺は答えようとして――。

「でも実際は、全然ロマンチックなんかじゃなかったね」

 はぁ、と大きなため息を吐いてから、わざとらしく肩をすくめる伊織。

「女の子に殴られてボコボコに腫れた顔で子供みたいに大泣き、しかもなんか八つ当たりまでされたらさぁ……100年の恋も一瞬で冷めるよね、普通に」

 不満な様子で、伊織は俺を見た。

「……なんか、ごめんな」

 彼女の初恋に、ケチをつけてしまった。
 俺は申し訳なくなり、頭を下げた。
 それを見た伊織は、呆れたように笑ってから、口を開いた。

「あのさ、あっきー。勘違いしてほしくないんだけどさ。トワのあっきーに対する気持ちは、本物だったからね?」

「分かってる。伊織の抱いた気持ちを、俺は否定しない」

 俺の言葉に、伊織は「分かっていれば、それでよし」と満足そうに頷いてから、続けて言う。

「あっきーもさ。……那月のこと好きなら、ちゃんと気持ちを伝えた方が良いよ?」

 心配そうに、俺を伺いながら伊織は言った。きっとここで、今宵にそう伝えたのだと思ったのだろう。
 だけど……違う。
 俺は首を振ってから、伊織に答える。

「俺の那月に対する気持ちは……絶対に、そんな綺麗なもんじゃない」

 俺が言うと、伊織はおかしそうに噴き出し、声を上げて笑った。
 どうしたのだろうと彼女を見ていると、「ごめんごめん」と前置きをしてから、続けて言う。

「誰かを好きになる気持ちが、綺麗なだけじゃないなんて……そんなの、ようやく初恋が終わったばっかりのトワにだって分かるから」

 そう言う伊織の横顔は――とても、美しかった。

 目を閉じて伊織の言葉を反芻する。
 俺はきっと、那月に好意を抱いている。
 それは、今宵に向けた愛情とはまた別の感情だ。

 彼女と過ごした高校時代。
 それは苦悩と絶望と後悔と諦観ばかりだったけど……それ以外の様々な感情も、複雑に絡み合っていて。
 決して、綺麗ごとだけじゃ語り切れない。
 それでも――。

「それでも、やっぱり。俺の那月に対するこの気持ちは……好きって言葉で言い表すものじゃない」

 俺の言葉に、伊織は「そっか」と苦笑をして言った。

「と、いうわけで。トワとあっきーはこれからもズットモだから! ……卒業しても、こっちに戻った時は連絡してね。また一緒に遊びに行こうよ」

「うん、約束する」

「流石あっきー、第一志望の大学に落ちたと思ってすらいないようだね」

 伊織は楽し気に笑ってから、そう言って立ち上がった。
 俺もつられて立ち上がる。

「また辛いときは、いつでもトワが助けてあげるから。あっきーが辛いときは、いつでも連絡してね」

 伊織は微笑みを浮かべて、まっすぐに俺に向かって言った。
 きっと彼女は、俺のことを心配してくれているのだろう。
 その言葉に、俺は本当に救われた。

「ありがとう、伊織」

 それから俺は、縋るように、彼女に向かって告げた――。



 卒業式前日の夜。
 屋上に続く扉の前に、俺は立っていた。
 おかしな言い方だが、こうして学校の屋上に来るのは、これで3回目になる。

 携帯電話に届いたメールを見る。
『学校の屋上に来て』というメールのすぐ後に、『約束、守って』と、2通のメールが届いていた。
 それから、那月からクリスマスにもらった、『合格』と書かれた絵馬の形をしたストラップを見る。

 那月の気持ちを考えず、力づくにでも生かそうと考えていたが、それは止めることにした。
 伊織が教えてくれた。間違いばかりを犯していた俺だけど、それでも全てが間違いだったわけではないと。
 那月が俺に向けてくれた笑顔や気持ちも、間違いだらけではないはずだ。

 そのことを否定して彼女をただ生かしても……今の俺の心には、きっと後悔が残ってしまう。
 だから結局俺は、覚悟を決めてやるしかないのだ。

 那月未来の、心を救うと。

 俺はストラップについているクリーナーで画面を綺麗に拭いてから、携帯を折り畳んだ。
 大きく深呼吸をしてから、既に鍵が開けられている屋上へ続く扉を開ける。
 屋上を歩き、そして手摺りの向こう側に座っている那月のもとに辿り着いた。
 
「久しぶりだな」

 俺が声を掛けると、那月は振り返った。
 呆れたように笑顔を浮かべる彼女は、つい最近あったばかりだと頭では分かってはいても――。
 10年ぶりに再会したような懐かしさがこみあげてくる。

「言うほど久しぶり?」

 那月の浮かべる笑顔は、どこか寂しそうだだった。
 俺は手摺りを乗り越え、彼女の隣に座り込む。

「気持ちの問題なんだよ」

 俺の言葉に「ふーん?」と頷いてから、こちらの表情を覗き込んできた那月が驚いたように言う。 

「……あれ、暗くて分かりづらかったけど、もしかして顔ケガしてる? どうしたの?」

 ここに来るまでに、手当てはしていた。
 だからこそ、傷口に当てられたガーゼや絆創膏が、目立って仕方がないのだろう。

「今宵に殴られた」

「……狛江今宵には、話したってこと?」

 俺の言葉に、那月は声を強張らせて問いかけてくる。
 俺と那月が交わした約束は、二人だけの秘密の約束。
 それを勝手に他人に言ったのか、彼女は気になっているのだ。

「言っていない。ただ、お別れだけは済ませてきた」

 那月が想像しているような言葉ではないが、それでも決別の意思を今宵に伝えていた。
 俺の言葉を聞いて、那月は複雑そうな表情を浮かべる。

「文化祭の日、あいつに怒ってたよね? でも、最後にはお別れを言うってさ……どういうこと?」

 那月はそう言ってから俺の表情を見た。

「ごめん、やっぱりちゃんと聞く」

 そう前置きをしてから、那月は恐る恐る、俺に問いかける。

「あいつのこと――まだ、好きなの?」

「好きだよ」

 俺は那月の言葉に、即答をした。
 彼女は――どこか落胆した様子だった。
 それでも俺は、今宵に対する気持ちに嘘はつけなかった。
 憎悪も嫌悪も、愛情も。
 今宵に向ける気持ちはどうしようもなく複雑で――呆れるほどに純粋だった。

「だけど俺は、今宵と歩む未来を選ばずに、ここに来た」

 そして、今俺が那月に伝えた言葉も、真実だった。
 俺は、今宵と幸せになることはできない。
 傷ついて一人孤独に苦しむ那月を放っておくことも、もう出来ない。
 
「……ありがとう」

 俺が言うと、那月は嬉しそうにそう言って、俺の肩にもたれかかった。
 
「少しだけ、話をしないか?」

「どうして死にたいか、聞きたいの?」

 声音を少し硬くして、那月は言った。

「転校してから、どうだった?」

 俺は首を振ってから、聞いた。
 彼女はちらりと俺を窺ってから、揶揄うように笑ってから言った。

「最低だったよ。あんたと一緒にいる時間以外は」

「光栄だ」

 俺はそう微笑んでから、もう一つ質問をする。

「それじゃあ、俺がずっと一緒にいるから。この先も生きようって言ったら、那月はどうする?」

 俺の言葉に、那月は驚いたように、俺を見つめた。
 それから、照れ臭そうに笑ってから、彼女は答える。

「嬉しいよ。……本当に、すっごく嬉しい」

 しかし、彼女は俯いてから、続けて言った。

「だけど、だめ。私はやっぱり、ここであんたと死にたい」

 俺の服の袖をぎゅっと握って、彼女は言った。

「そうか……」

 俺はそう呟いて応じた。

「あんたはさ……未練って残ってる?」

 那月は俺に、そう問いかけた。
 そんなことを問われるとは思っていなかった俺は、動揺した。
 しかし、彼女はこちらを見ておらず、俺が狼狽えたことには気づかなかったようだ。

「ここで死んだら……後悔は残る」

 那月を救えなければ、俺の胸には後悔が残り。
 ――そして、無意味な時間を繰り返してしまうことになるだろう。

「良かった」

「良かった? ……どうして?」

「未練が残ってたら、私も、あんたも。幽霊になれるかなって思ったから」

 那月は夜空を見上げて、呟く。

「そうしたら。きっとまた一緒に花火を見られるでしょ?」

 一緒に花火を見上げた、夏休みのあの日。
 志望校にお互い合格していたら、那月は東京を案内すると、俺に言っていた。
 もしかしたら、その約束を果たさないままに死ぬことを気にしているのかもしれない。

 ただ、彼女の未練がそれだけじゃないことを、俺はもう知っている。
 俺は彼女の身体を、ギュッと抱きしめる。

「んっ……」

 那月はそう呟いたが、抵抗は一切しなかった。
 身体を委ねて、彼女は俺の背に手を回した。

 これなら――動揺した那月がここから飛び降りようとしても、押さえつけることができる。

「那月の未練は……お父さんのこと?」

 俺は那月の肩を抱いたまま――彼女自身が本日書いたばかりの遺書を、ポケットから取り出して、見せた。

「……え? なんで、それ持ってるの……?」

 俺の腕の中で、那月は怯えたような表情を浮かべている。

「那月の家に入って、取ってきた」

「それじゃあ、中身……」

 なんで俺が那月が遺書を書いたのを知っているのかということまでは、頭が回っていないようだった。

「ああ、読んだ」

 俺の言葉を聞いた那月は――絶望を孕んだ表情を浮かべて、言った。

「あんたには……あんたにだけは、絶対に見られたくなかったのに……!」

 彼女はそう言って、自分の顔を見られないように、俺の胸に額を押し付けた。
 その言葉と、今の那月の様子を見て、俺は思う。

 那月は、いつもこうだ、と。

 那月が相談できる、信頼できる身近な人間なんて、もう俺以外いないはずなのに。
 彼女は俺に幻滅されることを恐れて、いつだって相談できずに抱え込み、平気な風に取り繕って――綻んで。
 どうしようもなく手遅れになって、彼女の心は壊れてしまう。

 自分は優秀で、何でもできて、他人になんて頼らない。
 そう思うのは決して、強さなんかじゃない。
 頼れる友人を作れなかった那月の、致命的な欠点だ。

 いや、那月のせいだけにするのは公平(フェア)じゃない。
 その欠点に気付きながら、俺が彼女の頼れる存在になりきれなかったせいでもあるのだから。

「那月のせいじゃない」

 これが、彼女が全てを吐き出して前を向いて歩けるようになる、最後のチャンスだ。

「ゆっくりでいいから。ため込んだものを、今ここで全部吐き出してほしい。俺は――絶対に、最後まで。那月の味方だから」
 
 顔を上げた那月をまっすぐに見つめて、俺は彼女にそう告げた。
 家族と世の中のために、どんなに忙しくても文句も言わずに一生懸命働くお父さんと、優しくて美人なお母さんのことが、自慢だった。だから私は、そんな二人の自慢の娘になりたかった。

 それだけだったのに……私は一体どこで間違えてしまったんだろう?



 小学生の頃は、毎日がすごく楽しかった。
 お父さんが家にいることは少なかったけど、たまの休みには旅行に連れて行ってくれた。
 普段一緒にいられない分、たくさんの愛情を注いでくれた。

『大変でも、他人に流されないで、自分が正しいと思ったことを出来る人になってほしい』

 お父さんは口癖のようにそう言っていた。
 私はその言葉の通りにすれば、きっと自慢の子供になれると思って、頷いていた。

 お母さんはいつも優しかった。
 私は今でこそ成績優秀だけど、元々は勉強があんまり好きじゃなかった。
 だけど、私が学校で習ったことを、お母さんはいつも知りたがった。

『今日は学校でどんなことを勉強したのか、お母さんに教えて?』
 
 最初の内はめんどくさいなと思っていたけど、お母さんに勉強を教えると、すごく喜んでくれた。

『お母さんはあんまり頭が良くなかったから大学に行けなかったけど。未来は頭が良いから、将来どんな大学にだって行けそうだね』

 お母さんに喜んでもらいたくて、私はたくさん勉強をしていると、いつの間にか勉強をするのが苦じゃなくなっていた。

 学校も楽しかった。友達も、たくさんいた。
 勉強が苦手な友達に教えてあげると、いつも感謝の言葉を伝えられた。
 バカなことばっかりしている男子を注意したら、自分が悪かったと素直に謝ってくれた。

 勉強を頑張って、自分が正しいと思ったことを貫けば。
 きっと私は、お父さんとお母さんにとっての自慢の娘になれると信じていた。



 中学生になって、私は同級生からいじめられるようになっていた。
 
『未来ちゃんは勉強が出来るのからって他人を馬鹿にしているから嫌い』

 小学生の時のように勉強を教えていただけなのに。
 いつの間にか、私はそんな風に陰口を叩かれるようになっていた。

『那月って真面目過ぎて無理だわ』

『この間、ケータイ持ってきたこと先生にチクられて没収されたんだよ』

『内申点稼ぎのチクり魔。顔が可愛くても性格はブス』

 私は、間違っていることをしたらダメだよ、と言っているだけなのに。
 どうして誰も分かってくれないの?
 クラスメイト達は当然のように、私を無視し始めた。
 すごく辛くて、私は先生に助けを求めた。

『那月にも悪いところがあったんじゃないの?』

 でも、まともに取り合ってはくれなかった。
 クラスメイト達は先生に怒られることもなく、いじめ行為はエスカレートしていった。
 心配を掛けさせたくなかったから、私はお父さんとお母さんには、何も言えなかった。
 だけどある日、傷だらけになったカバンを抱えて家に帰った私を見て、お父さんとお母さんがいじめに気付いた。

 二人は学校に乗り込んで、いじめっ子とその親、そして先生を呼び出して、これまでに見たことがないくらい怖い顔で怒っていた。
 その様子を見て少し怖いと思ったけど、二人は家に帰ってから私を力強く抱きしめてくれた。

『気づいてあげられなくてごめんね』

 それから、三人で私が好きな近所の洋食屋さんに行った。
 私へのいじめはなくなった。
 だけど、中学校を卒業するまでの間。友達は一人も出来なかった。



 都内でも有数の進学校を受験して、無事に合格をした。
 お父さんもお母さんも、すごく喜んでくれていた。
 私も、中学までの人間関係が終わり、ホッとしていた。
 話をしても分からないバカが紛れていた中学時代とは違って、ここには真面目で、勉強ができる人しかいないはず。
 思っていた通り1学期の間は、何も問題なかった。
 ちゃんと勉強ができる人たちはいじめなんてしてる暇ないし、しっかりしている。
 私はそう思って、喜んでいた。

『那月未来さん、好きです!』

『俺たち結構いい感じだと思うんだけどさ、付き合ってみね?』

『お前には俺がいないとダメなんだよ』

 夏休みを過ぎたあたりから、私は次々と告白をされるようになっていた。
 嫌われてばかりで、『性格ブス』なんて馬鹿にされていた私を好きになる人がたくさんいて。
 正直嬉しかった。

 だけど、やっぱり今は勉強が一番大切だったから、私は告白を断り続けていた。
 ――それが、良くなかったようだ。

『あいつ最近調子乗ってない?』

 いつのまにか、周囲には私を快く思わない人ばかりになっていた。
 私に告白をした男子のことが好きだった女子が言っているだけだと思った。

『顔が良いから告ったけど、性格はマジで無理だから!』

 だけど、私のことを好きだと言ってくれた男子までも、陰口を叩いて笑っていた。
 私はもう、誰のことも信じられなくなっていた。

 だから、お父さんとお母さんに、転校したいことを相談した。

『そうか……せっかく頑張って入ったけど、いじめられるのなんて嫌だよな』

 お父さんとお母さんは、すごく優しかった。

『今の学校から転校するなら、どこに行ってもレベルは下がるんだから……思い切って環境を変えてみるのはどう? 例えば――お父さんの出身高校とか?』

『環境を変えてみるのは良いかもしれないけど、お父さんの実家から通うつもり? 通学時間、結構かかるよ……?』

『未来一人をおばあちゃん家に預けて済ますつもりはないよ。田舎で家賃も安いだろうし、未来が大学受験に専念できるように、お母さんと二人で暮らしてみようよ』

 お母さんの提案に私が頷くと、二人はほっとしたような表情を浮かべた。
 二人は私を、気遣ってくれた。
 そして私は、二人を失望させてしまった。

 ――私が入学した時、すごく喜んでくれたのに。
 私が、いじめられるような性格をしていたから、余計な面倒ばかりを掛けてしまった。
 
 そのことが、たまらなく嫌だった。



 お父さんが卒業した高校だから、私は期待していた。
 だけど転入したこの学校は、これまでで最低の場所だった。
 私はここでも、いじめられた。
 早くこの学校に馴染みたくて訛り言葉を真似したことが、この学校の生徒の気に障ったようだった。

『俺たちのことを馬鹿にしている』

 勝手にそう思って、劣等感を抱いた馬鹿な田舎者たち。
 イジメられていることを、お父さんとお母さんに相談する気にはもうなれなかった。

 きっと、私の性格にこそ問題があるのだと疑われてしまう。
 私は二人の自慢の娘でいたい。これ以上、二人を失望させたくなかった。

 私はもう、何も気にしないことにした。
 田舎者のクラスメイトや馬鹿そうなギャルにどんないじめを受けても、何も気にしていないと装って、私は無視をし続けた。



 学校に行っている間、パートに出ているお母さんの様子が変だと気づいた。

『元気がないけど、どうしたの?』

『パート先で……酷いことを言われて。未来はどう? 友達できた?』

 本当のことなんて、言えるわけない。
 自分のことで弱ってるお母さんに、これ以上心配を掛けたくなかった。

『学校は……楽しいよ』

『未来が楽しいなら、良かった。……お母さんは、パート先変えなくちゃ』

 それからお母さんは、2回パート先を変えたけど、長くは続かなかった。
 結局、お母さんは家事に専念することになった。
 家にいる時間が長くなって、暗い表情を浮かべることが多くなって心配をしていたけど。
 年明け位から、家を出ることが多くなった。

『仲良くなった人がいるの! お母さんね、今日はその人と飲んでくるから、帰り遅くなるよ』

 お母さんに友達が出来るのは、良いことだと思った。
 落ち込んでいたお母さんが、日に日に明るくなっていった。
 そして、どんどんお洒落に、綺麗になっていった。
 夜に家を空けることも、多くなって。
 家に帰ってくるのが、次の日の朝になるのが当たり前になって――。

 流石に、それが良くないことだと、私は気づいていた。
 お母さんは、多分浮気をしている。

 気づいた時に、すぐにお父さんに教えた方が良かったのかもしれない。
 でも……どうしても、言えなかった。
 
 お母さんがここに来たのは、私のせいだから。
 お母さんが浮気をしているのは……一時の気の迷いに違いないから。
 東京に戻れば、お母さんも目を覚ましてくれるはずだから。

 私は自分にそう言い聞かせて、見て見ぬふりをすることに決めた。



 高校3年生になっても、私は相変わらず最悪な日々を過ごしていた。
 教室にいても、イジメられてばかりだから、一人になれる安全な場所を、私は探した。
 
 屋上前の階段の踊り場。
 埃っぽくて暗くって、清潔感の一切ない場所。
 その場所にわざわざ来る人がほとんどいないと気づいてから、私は昼休みをここで過ごすようになっていた。
 私の世界は、この狭くて暗い場所で完結していた。
 だけど……本当は、誰か信頼できる人が現れるのを私は待っていた。
 屋上へ続く扉に鍵をかけている南京錠が視界に入った。

 この南京錠を開けたら、いつか誰かが私をこの閉ざされた世界から解き放って、日の光の当たる場所へと連れ出してくれないだろうか? そんなことはあり得ないと、自分の考えを鼻で笑ってから――私は、鍵を開けることにした。
 簡単な構造の南京錠は、あまり苦労せずに開けられるようになった。

 屋上へ踏み入る。
 空は広く、吹き抜ける風は頬を撫でる。
 少しだけ、自分の世界が広がった気がしたけど――ただ、それだけだった。

 ここには、私以外誰もいない。
 誰も、私の世界に踏み入ろうとはしない。
 ただ、孤独を実感するだけだった。



 日増しに、馬鹿ギャルたちのいじめがエスカレートしていた。
 その日は、雨だった。放課後、私はいつも逃げるように教室を出る。
 少しでも遅れて、馬鹿ギャルたちに絡まれるのが嫌だったから。

 でも……それも疲れた。
 私は、誰からも必要とされていない。
 生きる意味なんて、ない。
 そんな風に、この頃は思っていた。

 だから、雨が降りしきる中、私は屋上へと踏み入った。
 手すりを乗り越え、下を見る。死への恐怖と生への執着、どちらが上回るのか確かめたくて。
 足が竦んだ。私はまだ、死ぬのが怖い。
 そう思って、少しだけホッとした。

 相変わらず、私の世界に足を踏み入れる人間は誰もいない、孤独のままだ。
 そんな時だった。
 傘もささずにずぶ濡れになった玄野暁が、私の世界に踏み入ってきたのは。

 玄野暁、男子バレー部のキャプテンで人望があり、見た目も頭もそこそこ良く、女子からの人気が高い男子だということは、話しをしたことがなくても知っていた。その人気は、突然授業中に幼馴染の狛江今宵に告白してフラれた後も続いているようだった。

 私にとっては、直接的な嫌がらせはしてこないけど、当然のように無視をしてくるような奴で。
 その他大勢の田舎者の一人にすぎないけど。

 ……だけどその日は、なんだかいつもと雰囲気が違った。
 そして、話をしていて妙な安心感を覚えた。
 後から気付いたけど、彼は私に合わせて標準語で話をしてくれていたからだ。
 こいつとなら仲良くできるかもしれないと、思い始めた時。

「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」

 そう言われ、流石に怖くなった私はその場から、すぐに逃げ出した。

 だけどそれから、夏休みに入るまでの間。
 日々エスカレートしていた馬鹿ギャルたちからのいじめがなくなった。
 心当たりは一つだけ。

 ()が、私のために止めさせたのだと分かった。
 だから私は、彼を屋上に呼び出して、約束をした。

「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」

 幼馴染にフラれた彼は今、生きるのが辛いのかもしれない。
 私にとって彼は、この高校で出会った唯一の、良い奴だから……死んでほしくない。
 そういう風に思っていれば、私もきっと自分勝手に死にたいと思うことなんて、なくなるだろうから。



「予備校の夏期合宿、行かせてあげられなくて、ごめんね」

 大して申し訳なさそうにもせずに、お母さんは私に言った。

「ううん、良いよ別に」

 予備校の夏期合宿、家計が苦しいからお金が用意ができなかったとお母さんは言った。
 身に着けたブランド物洋服やバッグ、高級な化粧品。あるいは夜に飲み歩いている酒代か――また別の出費なのか。
 いずれにせよ、家計が苦しくなったのは、浮気相手と関係してるのが明白だった。
 お父さんに言えば、解決したのかもしれない。
 それはつまり、私には解決することが出来ないということだった。

「自分で勉強していたら、十分だよ」

「ありがとう、未来」

 お母さんは綺麗な服を着こなして、美しく化粧をして笑顔を浮かべる。
 美人で自慢のお母さんの浮かべたその笑顔を……私は心底醜いと思った。
 彼と一緒に花火を見た日のこと。
 
「那月の母ちゃん。綺麗な人だな」
 
 彼がお母さんを見て言ったその言葉を、私は到底認められなかった。
 私のお母さんは、不貞を働くふしだらな女で、決して綺麗な人なんかじゃない。
 でも、そんな風には言えなかった。
 娘である私も、同じようにふしだらなんじゃないかと、彼にだけは思われたくなかったから。



 学校でのいじめは、随分と落ち着いた。
 彼との関係も良好で、穏やかな時間を過ごせていた。
 反対にお母さんは少しずつ、落ち込む日が多くなっていた。
 でも、話は聞かなかった。聞きたくもなかったから。



 彼とクリスマスを過ごすことになった。
 プレゼントをお父さんとお母さん以外に贈るのは初めてのことだから、すごく悩んだ。

 あんまり高価なものは、きっと迷惑になる。
 できれば、普段から使ってもらいたい。
 だからと言って手袋やマフラーを贈るのは、好意がありますとあからさまに宣言しているようで、恥ずかしい。
 ……でも、やっぱり、せっかくだから。彼には私のプレゼントで喜んでほしい。
 
 受験に合格して、一緒にこの田舎から東京に出て行こう。
 私の気持ちが少しでも伝わるようにと、『合格』の願いが書かれた絵馬のストラップを贈った。
 ……彼の喜んだ顔に、私もすごくうれしくなった。

 期待はしていなかったけど、彼はとても素敵なプレゼントをくれた。
 リンドウの植物標本(ハーバリウム)

 帰ってから、花言葉を調べた。
 彼が教えてくれた『勝利』という意味以外にも、いくつか意味があった。
 その中の一つが、私の目に留まる。

『悲しんでいるあなたを愛する』
 
 顔が熱くなって、胸が幸せに満たされた。
 ――彼と一緒なら、これから先何があっても、きっと大丈夫。
 私はそう、信じていた。



「ごめんね、未来。大学は諦めて」

「……え? どういうこと?」

 受験を終え、卒業式を間近に控えた日に、お母さんから告げられた。
 その言葉の意味が、私には分からなかった。

「お母さんね、お友達がお金に困っているっていうから、お金を貸してあげてたの。貯金を崩して、私の名前で借金までして。……だけど、その人と連絡が取れなくなっちゃって」

「なんでそんなことしたの……?」

「お母さんが辛いとき……()を助けてくれたのは、お父さんでも、未来でもなかった。私を助けてくれたのは、そのお友達だけだった。彼のためなら、私は何でもしてあげたかった」

 お母さんは、私を責めるような口調で、そう言った。

「浮気相手に、貢いでたってこと?」

「浮気? 貢いでた? ……そんな言い方しないで? 困っている友達を、助けただけなんだから」

 お母さんは前髪をかきむしりながら、苛立ちを隠しもせずにそう言った。
 私は唖然としてから……これまで我慢を続けていた感情が、一斉に溢れた。

「知らない……っ! なんで私にそんなことを言うの!? 全部お母さんのせいだからっ! 私には関係ない、お母さんが悪いんだから、お母さんが何とかしてよ!? 私は一人で東京の大学に進学するから!」

「あああぁぁ! うるさいっ!」

 お母さんはそう叫んで、私の頬を叩いた。

「全部、あんたのせいじゃない! 中学校でイジメられて、折角良い高校にも入れたのに、やっぱりまたイジメられて。そのせいで転校までして! あんたのためを思って、私は付き添った。だけどこんなに陰湿な人が多い田舎だって、知らなかった。知っていたならこんなところには、来なかったのに……。違う。やっぱりそもそも、あんたがいじめられなかったら良かった!」

 こんなに怒った表情を、私はこれまで一度も見たことがなかった。
 支離滅裂な言葉で、何を言っているのか理解は出来なかったけど……お母さんが私を憎んでいるのは、伝わった。
 お母さんは呼吸を整えてから、薄ら笑いを浮かべて、私に言った。

「でも、大丈夫。大学に行くのを一年我慢して、お母さんと一緒に働いたら、きっとお金を返せる」

「私、働いたことなんてないよ……」

「一緒に働くから、大丈夫。……お母さんは、自分が大学に行けなかったから、未来に背負わせ過ぎてしまったのかもしれない。ごめんね、未来」

 お母さんはそう言って、私を抱きしめる。
 違う、確かに最初はお母さんに褒めてもらうのが嬉しかったから勉強をしたけど。
 今は、自分の意思で進学したいと思っているのに……。

「もう、良い子でいようとしなくていいんだから」

 そう言って。
 お母さんは私の頑張ってきたことを、優しく否定した。

「友達の元上司の人がね、借金のことで相談に乗ってくれたの。すごく稼ぎの良い仕事を紹介してくれるんだって。しかも、お母さんと二人だったら、相場よりもずっと良いお給料を出してくれるって」

「……何の仕事?」

 私だって、何も知らない子供じゃない。
 なんとなく、どんな仕事なのか――察しはついていた。

「――でも――でも、何だったら――でも、何でも好きなお仕事を紹介してくれるって。未来はお母さんに似て美人だから、良かったね」

 お母さんの言葉はしっかりと耳に届いていたけど、私の頭は理解を拒んでいた。

「……私、そんなの嫌だよ」

 その言葉を聞いて、お母さんはもう一度私の頬をぶった。

「わがまま言うなっ! お願いだから、あんたを生んで良かったって思わせて……お母さんをこれ以上、苦しめないで?」

 ……そっか。
 私が大好きだった美人で優しいお母さんとは、もう二度と会えないんだ。
 このことを知ったら、お父さんはお母さんのことを、これまでみたいに愛せないだろう。
 それだけじゃなくて、きっと――。
 お母さんの浮気を黙認していた私のことも、許せなくなる。

「分かった」

 私はもう、そう答えるしかなかった。

「ありがとう。高校を卒業したらすぐにでも、って言ってくれてるの。明後日の卒業式の後に、すぐにお母さんと一緒に、挨拶しにいこっか」

 目の前で喜んでいる()の言葉は、全然頭に入ってこなかった。

「ありがとう、未来。……お母さん、あなたを愛しているわ」

 もう、どうでもいい。――死のう。

 私はその日、お父さんのためになると思って、遺書を書いた。
 死ぬことを決めたら、頭がすっきりした。不安なことも、嫌なことも何も感じなくなって、その日はぐっすりと眠れた。
 
 それから、朝早くに学校に行って、屋上でただ空を見上げ続けていた。
 この屋上で、彼と初めて話したあの日のことを、思い出す。

「お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる」

 きっと彼は、約束を守ってくれる。
 この約束は、私にとって、自殺を考えたときのブレーキになると思っていた。
 だけど、違った。
 綺麗な私でいられるうちに、大好きな彼が一緒に死んでくれる。
 これまで辛いことがたくさんあったんだから――最後くらい。

 こんな素敵なご褒美があっても、バチは当たらないよね?





「私はあんたにだけは……知られたくなかった。なのに酷い、どうしてそれを見ちゃったの……?」

 顔を涙でぐしょぐしょにしながら、那月は言った。
 彼女の独白の内容は、俺が今手にしている遺書である程度知っていた。
 だけど、彼女の口から直接その話を聞いて、理解が足らなかったのだと思い知った。

「那月は何も悪くない。俺は、那月が酷い女だなんて、思わない」

「嘘! 私がもっと良い子だったらイジメられることもなく、転校することもなかった! あの人が浮気をしたのに気づいたときに、すぐにお父さんに話していたら、こんなことにはならなかった!」

 俺の言葉を、那月はすぐに否定した。

「それが分かってるのに……私はあんたと会えたから、転校してきて良かったって思っちゃったの! お父さんとお母さんを不幸にしたのは私なのに、それでもこの場所であんたと出会えて良かったって、そう思った私は――」

 那月は俺を見つめてから、苦しそうに呟く。

「きっと、誰のことも幸せに出来ない、酷い女なの……」

 絶望と諦観と嘲笑を浮かべた那月。
 これまで積み重なった苦痛と苦悩が……那月の心を、どうしようもなく壊していた。

「ねぇ、お願い。ここで、一緒に死んでくれるよね? じゃなきゃ私は――」

 救われない。
 彼女の悲痛な囁きは、確かに俺の耳に届いた。
 俺はもう一度、彼女を両腕で強く抱きしめて、告げる。

「俺はまだ、自分のことを買いかぶっていたみたいだ」

 伊織に励まされ、自分がやったことが間違いばかりでないと知って。
 知らず知らずのうちに、勘違いをしていたようだ。

「那月の心を救うと覚悟して、俺はここに来た。だけど結局、那月のことを知ったつもりになっていただけだ。那月の求める救いは、俺が与えたかった救いとは違った」

 どんなに辛くても生きるべきだ、と。綺麗ごとを言うのは簡単だ。
 だけどそれで、那月は救われるだろうか? いいや、彼女の心はそんなことでは救われない。
 
 彼女はここで俺と一緒に死ぬことを、唯一の救いだと思っている。
 そして、俺はそれ以上の救いを彼女に与えることが――できない。
 彼女の母親が作った借金を返済できるだけの財力はない。
 彼女の家族関係を正常に戻すことなんて、誰にもできない。

 今の俺にできることは、彼女が前を歩けるように背中を押すことではない。
 彼女と共に奈落の底まで堕ちること、それだけだ。

「約束だもんな」

 俺の言葉に、那月は泣き止んだ。
 その場で、彼女を抱きかかえたまま、俺は立ち上がった。

「下を見ても怖いだけだから。せめて最後は、俺のことだけを見ていてくれ」

 俺は、那月に向かってそう言った。
 彼女は、少し照れ臭そうに、「うん」と呟き頷いた。
 物語の主人公みたいに、かっこよく那月を救い出すことが出来なくて、ごめん。

「ありがとう……()。私は、十分救われたよ」

 そう言って、彼女は俺の頬に、可愛らしくキスをした。
 それから俺は、彼女を決して離さないように固く抱きしめた。

 そして屋上から飛び降り――衝撃が全身を襲った。
 肺の空気が一気に口から出て行く。

 痛みに悶絶するが……意識ははっきりとしている。

 「なんで……生きてるの?」

 弱々しく、震えた声が耳に届いた。
 那月も、無事に生きている。

 俺は安心してから、伊織たちと一緒に(・・・・・・・・)こここまで来たことを思い出す。

☆ 

 この田舎町を一望できる展望台で、俺は縋るように伊織に向かって言った。

「俺たちを助けてくれ」

「……ん? たち(・・)?」

 伊織は、俺の言葉に首をひねった。

「那月が、死ぬつもりだ」

「……なんで?」

 不安そうな表情で、伊織は俺に問いかける。

「これまで受けたイジメと……家庭環境のせい」

「それって……トワのせいってこと、だよね?」

「ああ、間違いなく伊織はあいつを追い詰めた。それは、俺も同じだ」

「そのことを那月は、あっきーにだけは話したの?」

 那月は決して、俺に話すことはないだろう。それでも、知っているのだ。

「俺は、今宵にフラれて落ち込んでいた時に死のうとしたけど、結局一人で死ねなかった。だから、同じように死にたがっているように見えたあいつと約束した。死ぬときは、一緒に死なせてくれって」

「……それで、あっきーに死にたいって、連絡があったんだね」

「俺にはもう、死ねない理由がある。那月にも、生きていてほしい。だから伊織、俺と那月を助けてくれ」

 もう一度、俺は伊織に向かって言った。
 彼女は力強く頷いてから、俺をまっすぐに見て口を開いた。

「うん、分かった。……トワは、何をすれば良いの?」



 伊織と別れてから、俺は那月の家を訪れていた。

「どうも」

「あら、あなた……未来の彼氏よね」

 インターホンを鳴らすと、憔悴した様子の那月母が出てきた。
 以前見たときは年齢を感じさせない美人だと驚いたが、今の彼女は年相応……以上に、老け込んだように見える。

「あの子ならいないわよ」

 平然とした様子で、彼女は言う。
 自分で那月を追い詰めておいて他人事のように言う彼女に、怒りが湧いた。
 だけどその怒りを押し殺して、俺は無理やりに平然とした態度をとる。

「知ってます。部屋からあるものを取ってきてほしいって頼まれまして、上がっても良いですか?」

 めちゃくちゃな言い分だが、拒絶されたとしても、強引に部屋の中に踏み入ろう。

「ええ……好きにして」

 そう思っていたのに、那月の母はすんなりと部屋に入れてくれた。
 些細なことは、もうどうでも良いと思っているのだろう。

 俺は那月の部屋の机の引き出しを開ける。そこには、遺書が入っていた。
 封筒を開いて、中を見た。
 3度目の世界で、俺が読んだ内容とほとんど同じだった。
 開けた引き出しをもとに戻すことも億劫になって、俺は部屋を出た。

「頼まれたものは、見つかった?」

 俺を見て問いかける那月の母に、今しがた手に入れた『遺書』を、無言のまま彼女に押し付けた。
 彼女は首を傾げつつ、封筒の中身に少し目を通して――。

「……何、これ?」

 呆然と呟いた。

「那月は今日、死ぬつもりです。……心当たり、ありますよね?」

「違う! 私のせいじゃない!」

 俺の言葉を聞いて、彼女は突如声を荒げた。
 そして、手にした遺書を床に投げ捨てた。

「私は良い妻で、優しい母親だったのに! 未来がイジメられて、こんな田舎に引っ越す羽目になって、そこから全てがおかしくなった! 私はあの子のために我慢して、頑張ったんだから、あの子も我慢して、私のために頑張ってほしいって言っただけ! それの何が悪いの!?」
 
 聞いてもいないのに、自己擁護の言葉を延々と言うこの女を、ここで俺が殺せば那月は救われるのだろうか?
 俺は真剣に考えたが――残念ながら、今さら手遅れだろう。

 那月は、ここまで母親が壊れたことを、自分のせいだと思ってしまった。
 だからこそ耐えられず、死ぬことを選んだ。
 そのせいで、俺は那月を救えずに、何度も地獄を繰り返すことになったのだから。

「俺と同じくらい酷い人間、初めて見た」

 彼女に対して、怒りや憎しみを抱いていたが、今は憐れみが上回っていた。
 
「きっかけは、この町に引っ越してきて、周囲の人間に馴染めなかったからかもしれない。だから、この町の排他的な人間が悪いのかもしれない。弱ったところに付け込んだ、最低な男こそが元凶なのかもしれない」

「そうよ。私は悪くない、ただの被害者なのに、どうしてあの子は分かってくれないの――」

「でも、那月のことをここまで追い詰めたのは、紛れもなくあんただ」

 俺の言葉に、目の前の女は蹲り、髪をかきむしりながら、「違う、違う」と呟き続ける。

「何をしたって、あんたはもう、あいつの母親には戻れない」

 相手の耳には届いていないかもしれないが、それでも構わずに続ける。

「それでも、まだあんたの中に娘を想う心が残ってるなら――那月を助ける手伝いをしろ」

 俺はそう言ってから遺書を手にして、立ち上がる。
 どうせ、那月を助けるつもりはないだろう。
 そう考えて、そのまま部屋を出て行こうとして――。

「私は……どうすれば良いの?」

 彼女は、ひどく憔悴した様子で、俺に縋りつくように言った。



 学校に到着した俺は、連絡先に登録していた相手に、電話を掛ける。
 3コールほど呼び出し音が鳴ってから、

『もしもし』

 と、熱田先生は電話に出てくれた。

「休日にすみません、玄野です」

『おお、玄野か! ……どうした、何かあったのか?』

 俺の名前を聞いた熱田先生は、不安そうな声で俺に問いかけた。
 休日にいきなり生徒が電話をしてきたのだから、一大事だと思ったのだろう。

「はい。電話では話しづらいことがあって、直接話をしたいんですが……学校に来てもらうことって出来ますか?」

『分かった、今から向かえば良いか?』

 俺の言葉を聞いて、熱田先生は渋る様子もなく、即答した。
 俺の口元が、思わず綻んだ。

「はい、よろしくお願いします」

 それから通話を切って、熱田先生の到着を待った。

 ☆

 俺と熱田先生、そして伊織と那月の母の4人で、生徒指導室にいた。
 俺は、熱田先生に那月が書いた遺書を渡して、事情を説明した。

「――ここに書かれているのは、本当のことなのか?」

 動揺を隠せない熱田先生が、誰に尋ねるでもなく呟いた。

「トワは、あの子のこと虐めてた」

 伊織はそう言い、那月の母は無言のまま頷いていた。

「なんてことだ……」

 熱田先生はそう言ってから、那月の母に軽蔑の眼差しを向けた。
 それから、タイミングよく那月から立て続けに2通のメールが届いた。

「那月はこれから、この学校の屋上で飛び降りようとしています」

 そう言ってから、届いたメールを三人に見せる。
 伊織の顔が青ざめる。
 那月の母は嗚咽を漏らしてその場に蹲り、熱田先生は頭を抱えた。

「那月はもう、俺以外の人間のことを信じていません。無駄に刺激しないためにも、説得は俺一人で行います。その間三人は、万が一に備えて俺の指示する場所に、ありったけのクッションになりそうなものを敷き詰めておいてください。もしも飛び降りることになったら……そこをめがけて、落ちますから」

 熱田先生は俺の言葉を聞いて、少しだけ考えてから言う。

「三人じゃ人が少ない。応援を呼ばせてくれないか?」

 熱田先生の言葉に、俺は首を横に振ってから言う。

「あいつは死にたがってる。大人数で準備をして気付かれてしまったら、すぐにでも飛び降りると思います。だから、あいつのために必死になって動いてくれる人たちだけで動いてもらいたいんです」

「……分かった。玄野が失敗した時のことは考えたくないが、体育倉庫から出来る限りマットを運んで敷き詰めておこう」

 熱田先生の言葉に頷いてから、俺はマットを置く場所について、説明をした。

「迷惑をかけて、すみません」

 もしも、ここで失敗すれば……熱田先生にも、何らかの処分が下るかもしれない。
 善意に付け込んで、俺は彼を巻き込んだ。

「玄野。もしもお前らが本当に飛び降りたときは……俺が絶対に受け止めてやる」

 真剣な表情を浮かべる熱田先生に、

「普通に危ないからやめてください」
 
 俺は冷静に突っ込んだ。



「なんで……生きてるの?」

 飛び降りてから抱きしめたままでいた那月は、こうして無事に生きていた。
 良かった。
 ――そう思うと同時に、死なせてやれなかったことを、申し訳なくも思った。
 那月は起き上がり、何が起こったのか分からないとでも言いたげな表情で、周囲を見た。
 そんな那月に、一人の少女が縋り付いた。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」

 泣きながら謝り続ける伊織を、那月はただ茫然と眺めている。
 それから、周囲を見る。

 離れたところには、ぼそぼそと何かを呟きながら泣く那月の母。
 熱田先生は本当に那月が飛び降りたことに驚き、そして無事を確認したことで安堵し、放心して立ち尽くしていた。
 説得に失敗して飛び降りてしまったとはいえ、俺も那月も生きているんだ。もっと喜べよ。
 俺は、思わず皮肉にも笑ってしまった。
 こうして生き残ったはずなのに――屋上から堕ちた先のここも、変わらず地獄のようだ。

「那月が今も生きているのは、お前をイジメたいじめっ子と、イジメに気づけなかった教師と、お前に自殺を決意させた母親と、自殺を唆した張本人である俺が。お前に死んでほしくないと思って、必死になって動いたせい(・・)だ」

 困惑を浮かべる那月に、俺は言った。

「大好きなお前のお父さんは、今頃東京で明日のお仕事に備えてゆっくり就寝中。その他のクラスメイトや教師は、いつも通りお前が死のうが生きようが関係ないから、無視を決め込んでいる」

 俺の言葉を聞いて、那月は無表情を浮かべる。

「ここまで最低だと、もう笑うしかないよな」

「笑えないよ……」

 那月が今、どんな気持ちでいるのか……俺には正直、理解しようがなかった。
 だから俺は、自分勝手な感情を、彼女に向かってぶつける。

「じゃあ、怒れよ。擁護のしようがないクソ母に唾を吐き捨てて、何にも気づかず呑気に働くだけのクソ親父をぶん殴って、気に入らない世の中全てに中指突き立てて、『私以外の皆死ね』って叫べよ!」

 苛立ちが抑えられない。 
 誰も那月のことを助けようとしなかった、このクソみたいな世界に対して。
 そんなクソみたいな世界の中で、誰にも助けを乞わないまま、自己完結して死を選んでしまった那月に対して。

「――悪いな那月、俺にはやっぱりお前のことは救えない」

 そして何より、たった一人の女の子すら救えない、無能な自分自身に。
 
「生きていても良いことなんて何にもなくて、日々の満たされない気持ちに足掻いて、苦しんで、死にたいほど絶望をして、生きる意味が分からなくなったのだとしても。俺のためだけに生きてほしいから――死ぬことによって救われてなんか欲しくない。だってお前は、良い奴だから」

 頭の中は滅茶苦茶で、俺の言葉がまともに通じているのか分からない。
 それでも俺は、那月に向かって真っすぐに告げた。

「俺のために生きてほしいって……それじゃあ暁は、苦しみながら生きる私に、一体何をしてくれるって言うの?」

 那月は無表情のまま、俺に向かって問いかける。

「一緒に遊んで、たまに愚痴を聞く。……そんなことしか、俺にはできない」

 那月は伊織を振り払ってから、俺を睨みつける。

「そんなことじゃ、私の絶望は変わらない……それでも生きていてほしいなんて、卑怯だ。そんなことじゃ私は報われない、そんなことなら死んだ方が、ずっとマシ」

 那月は倒れている俺に馬乗りになった。

「マシなのに……。大好きな人にここまでされて、生きてほしいなんて言われたら。私はもう、死ねないじゃん……」

 那月の目尻から、涙があふれて頬を伝い落ち、俺の頬を濡らした。
 
「暁が私に、救いも何も与えてくれないなら、せめて。――愛してるって、そう言って」

 彼女は縋るようにそう言った。
 この期に及んで、中身のない空虚な言葉を囁くつもりなんて、俺には毛頭ない。

「10年はえーよ、バカ女」

 そう言ってから、俺は彼女の頬を伝う一筋の涙を指先で拭った。
 ――ああ、そうだ。そうだった。忘れていた。

 ただ俺は、こうして彼女の涙を拭いたかっただけなんだ。

 そのことに気付いた瞬間……俺の意識が遠のいた。
 何となくわかった。

 俺の役目はここで終わり、ということなのだろう。
 地獄のようなこの繰り返しの最後まで、彼女を救えなかったことは、確かに残念だ。

 だけどもう、後悔はない。
 那月は生きて、この先に訪れる困難もきっと乗り越えてくれるはず。
 自分のことを必死になって生かそうとする人間が、僅かにでもいると気づけたのだから。

『お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる』って、約束をしたのに。
 結局守れなくて、ごめん。
 でも俺は、これで良かったのだと心底思う。
 
「じゃあな――」

 今さっき、涙を拭ったばかりなのに。
 もう涙で顔をぐしゃぐしゃにした那月に向かって、俺は最後に一言だけ告げた。

 ――それからすぐに、俺の意識は途絶えた。
「彼女さん、結局お見舞いに来てくれたの初日だけでしたねー?」

 自称「患者(みんな)のアイドル」である美人看護師が、退院する俺に向かって揶揄うように言った。

「たった3日しか入院していないんで、わざわざお見舞いに来てもらうまでもないというか……そもそも彼女じゃないし」

 俺の言葉に、彼女は「はぁー……」と大きく溜め息を吐いた。

「そういう感じだから、愛想を尽かされちゃったのかもしれませんねー」

 責めるように、彼女は俺を見てくる。

「あんなに美人で頭も良くて献身的に尽くしてくれる人なんて、この先絶対現れないだろうに……あーあ、彼女さんかわいそー、見る目なーい」

「はいはい、とりあえずサボってないで仕事に戻ってください」

 俺がそう言うと、彼女はやれやれと肩をすくめてから言う。

「まだしばらく左手のギプス取れなくて不便すると思いますけど。お大事にね、あっきー(・・・)

「お世話になりました。……またな、伊織(・・)

 俺は入院中お世話になった、かつてのクラスメイトにお礼を言って、呼んでいたタクシーへと乗り込んだ。

 職場の近くに借りている1Kの自宅に帰りつくと、スマホ(・・・)に着信があったことに気が付いた。
 俺は通話アプリの履歴から、折り返し電話をかける。

『もしもし、熱田です。折り返し悪いな』

 熱田先生が、電話に応答した。

「こっちこそ電話すぐに気づかず、すみませんでした」

『交通事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫か?』

「軽いケガで済みました。検査も終わって、さっき退院したところですよ」

『そうだったのか。それじゃあ来週は、予定通りこっち(・・・)に帰ってこれるのか?』

「ええ、少し遅めの夏休みですけど、予定通り戻ります」

『それなら、退院祝いに最近見つけた飲み屋に連れてってやるよ』

「期待してますよ」

 俺の言葉に、熱田先生は『楽しみにしとけ』と言ってから、落ち着いた声音で続けて言う。

『お前が交通事故で入院したって聞いて、あの卒業式前の時みたいな無茶をしたのかって思ったよ』

「あんな無茶は、この先一生するつもりないですから」

 俺の呟きに、『そうか』と柔らかな声音で応じてから、

『昔話は、来週会った時の肴にとっておくか』

 と、続けて言った。

『それじゃあ、また連絡するから』

 熱田先生はそう言って、電話を切った。
 彼の言葉を、思い返す。
 卒業式前日、俺が那月と高校の屋上から飛び降りたあの日から、10年近くの月日が流れていた。
 あの日、俺は全てが終わったのだと思っていたのだが……現実は、違った。

 俺は那月と会話をした後、彼女が生きていた安心感で気が抜けてしまったのか、気絶をしてしまった。
 その後、那月が飛び降りたことは、学校側が内々に処理をした(隠蔽とも言う)おかげで大きな問題になることはなく、俺と那月は、無事に合格していた大学へ進学をすることが出来た。
 
 ……そう。那月も大学に通えたのだ。

 那月はあの後、父に全てを話した。
 父はひどくショックを受けていたが、那月を責めることは一切なかった。
 両親の関係は修復不可能で、二人はすぐに離婚をした。

 しかし、全てを妻に任せきりにして、娘の卒業式の日程すら知らなかったことについて、思うところがあったのだろう。
 母が作った借金は、都内のマンションを手放すことで、肩代わりして返済したようだ。

「購入時よりも価格が上がって、儲かったな」

 そう言った父の、やりきれない顔を忘れることは出来ないだろう、と那月は言っていた。

 母とはあれから一度も会ってはいないらしい。
 ただ、毎月少しずつだが、父親の口座に肩代わりしてくれた借金を返済するための入金があるらしい。
 預金通帳に毎月刻まれる数字だけが、母親が今もどこかで生きていることを証明している。

 無事に大学に進学した俺と那月は、高校を卒業してからも東京で頻繁に会った。
 那月は大学で友人が出来たようで、嬉しそうにその友人を俺に紹介してくれたこともあった。
 これまでの地獄が嘘のように、俺と那月はキャンパスライフを満喫した。

 あっという間に4年の月日が流れ、俺たちは大学を卒業することになった。
 俺は、1周目の時と同じ会社に就職をした。
 就職をした理由はシンプルで、購入していた株の価格が、かつてのような高値になることがなかったから、食っていくために働く必要があったからだ。
 その他の短期間で値上がりをした銘柄も、俺が知っている銘柄とは異なっていた。

 那月が今も生きているこの世界はいつの間にか、かつて俺が生きていた世界と似ているようで、全くの別物となっていた。

 那月も、もちろん東京で就職をした。
 日々の労働で不満や鬱憤が溜まれば、大学時代と変わらず、那月と一緒に気晴らしに出掛けることが多かった。
 飲みたくなった時には、すっかり那月と仲良くなった伊織も一緒に集まって、酒を飲むこともあった。

 俺は、いつも傍にいる那月に対し、自然と特別な想いを寄せるようになっていた。
 だけど決して、自分の気持ちを伝えることはなかった。

 そうして日々を過ごしているうちに、10年近くの月日が流れ。
 ――俺はかつて死んだ時と、同じ年齢になっていた。



 退院してから、1週間後。
 俺は、年末年始以来の帰省をしていた。

 腕にはギプスをはめていて、両親が何かと世話を焼いてくれる。
 素直にありがたかったが、これでは体が鈍ってしょうがない。

 俺は気晴らしに、散歩をすることにした。
 久しぶりに歩く町並みは、相変わらずのど田舎だ。
 のどかな風景を眺めながら歩いていると……偶然、彼女(・・)と再会した。

「あれ、暁じゃん。戻ってきてたの? ていうか腕大丈夫?」

 朗らかに俺に笑いかけてくるのは、かつて愛した幼馴染の狛江今宵だった。

「ああ、ちょっと遅い夏休みだ。腕は交通事故で怪我したけど、特に問題なし。そっちは……?」

 そう問いかけてから、彼女の大きくなったお腹を見て、察した。

「気分転換に散歩を兼ねて、お買い物」

 今宵はそう言って、食材が入ったエコバックを掲げて見せてきた。

「持つよ」

「良いよ、怪我人。無理すんな」

「妊婦さんこそ、自分の身体をお大事にしてください」

 俺はそう言って、ひったくるように彼女からエコバックを奪う。

「はいはい、ありがとね」

 今宵は苦笑を浮かべて、そう言った。
 それから、互いの近況を話しながら歩く。
 今宵とこうして楽しく話が出来ているのが、俺には不思議な気分だった。

「一つ、聞きたいことがあるんだけど、良い?」

「良いよ」

 俺は歩みを止めないまま、世間話の延長線上にある話題のように、言う。

「2年前。今宵の結婚式で会ったときには怖くて聞けなかったんだけど――。どうして、俺のことを許せたんだ?」

「あー……。高校生の時、公園で暁が言った言葉は本当に酷かったもんね」

 困ったような表情を浮かべる今宵につられて、俺は苦笑しながら「そうだよな、ごめん」と謝罪した。

「暁を結婚式に呼んだのは、やっぱり幸せになったあたしを見せたかったから、なんだけど。実際暁が本心から喜んでくれていたのがすぐにわかってさ。なんだか怒ってるのがバカバカしくなった。それに……勘違いだったのかもしれないけど。あたしが夫と笑いあっていた時。暁が少しだけ、悲しそうにしてたのを見てさ――あたしはそれで、満足しちゃった」

 意地悪な笑顔を浮かべて、今宵は続けて俺に問う。

「こっちからも一つ質問なんだけどさ。暁はあたしを振ったこと、後悔してる?」

 今宵からの質問に、俺はかつて彼女に『死ぬなら、あたしが幸せになったのをその目でちゃんと確かめて、心底後悔してから死んで』と告げられたことを思い出し、答えた。

「ああ、心底後悔してるよ」

 俺の言葉に、今宵はクスリと笑ってから、

「ざまぁみろ。後悔したって、もう遅いから」

 と、楽しそうに言った。
 その美しい表情を見て、俺が彼女に別れを告げたことが間違いではなかったのだと確信した。

「いつの間にか、お家に着いちゃった。せっかくだし、お茶でも飲んでいく?」

「いや、良いよ。もう少し、散歩したいし」

 俺は、今宵の誘いを断ってから、彼女に荷物を返した。

「そっか。それじゃあ、荷物運んでくれて、ありがとね暁」

「ああ、それじゃあな」

 今宵に別れを告げてから、俺は再び歩き始めた。

「あのさ、暁!」

 そんな俺の背中に、彼女は声を掛けた。

「何?」

 俺は振り返って、尋ねる。

「……暁もさ、もう幸せになって良いんだよ?」

 その言葉は、いつか、どこかの世界で。
 かつての今宵が俺に言ってくれた言葉、そのままだった。
 俺は無言のまま、苦笑をしながら頷いた。
  
 今宵は知らない。
 繰り返した時間の中で、俺が多くの人を不幸にしてしまったことを。
 それなのに、今さら俺が幸せになろうとするなんて――許されることではない。
 
 だから俺は、想いを寄せる那月に対して、これまで自らの気持ちを伝えられないでいたのだ。

 俺は思案をしながら歩き続け、かつて今宵に別れを告げた、展望台に辿り着いていた。
 高校時代は平然とここまで来ることが出来たのに、今は呼吸を乱し、身体も汗ばんでいる。
 ベンチに腰掛けようと見ると、そこには先客がいた。

「なんで……ここにいんの?」

「私がいちゃ悪い?」

 俺が質問をした相手は――東京で暮らしているはずの、那月だった。

「良いとか悪いとかじゃなくて、なんか普通に怖いんだけど……」

 俺が引き気味に言うと、那月は咳ばらいをしてから言う。

「直接話したいことがあったから、あんたがお気に入りの場所で待ってたってわけ」

 俺は那月のことを大切に想っているので、決して口には出さないのだが、彼女のやっていることはほとんどストーカーだった。
 俺が無言で那月を見ていると、彼女は顔を真っ赤にして「な、なによ……?」と呟いた。
 
「いや、気にしないでくれ。それで……話したいことって、何だ?」

 俺の言葉を聞いてから、彼女は恨めしそうにこちらを見てから、大きく溜め息を吐いてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「私の人生、あんたのせいでめちゃくちゃよ」

 その言葉に反して、彼女の表情は柔らかかった。

「卒業式の前日。一緒に屋上から飛び降りて、生き残って。良いことも悪いことも、たくさんあった。でも、良いことがあるときは、やっぱり決まってあんたが私の隣にいた。それなのに、私を置いて死なれたら、困る。……事故に遭ったって聞いて、本当に心配したから。だから、ほんの少しだけフライングだけど、次に会った時は言おうって決めてたの」

 那月は真剣な表情で、まっすぐに俺を見て告げた。 
 
「あれからもう、10年経ったわよ?」

 那月が何を言いたいのか、分からないような鈍感ではない。
 だけど俺の心には、複雑な思いが渦巻いている。

「俺は――幸せになっちゃいけないんだ」

「知ったことじゃないわよ、そんなの」

 俺の言葉に、那月はばかばかしいとでも言いたげな態度で言う。

「あんたが幸せになっちゃいけないと思ってるなら、別にそれでいいの。でもあんたには、私を生かした責任がある。つまり……私のことを、幸せにする義務がある」

 責めるような口調で、諭すような表情で――。

「私はね、10年前のあの日からあんたのために生きているの。だからあんたは、これから一生私のために生きなくちゃダメなの」

 那月未来は、まっすぐに自分の想いを俺に伝える。

「だから言いなさい、今度こそ。10年前のあの時、私に言ってくれなかった言葉を」

 俺は――怖かったのだ。

 1度目と4度目。
 俺は決まって、28歳の8月に死んでいた。
 だから今回も、同じように28歳の8月に死んでしまうのではないかと、そう恐れていた。

 もしも那月と結ばれた上で死んでしまった場合、彼女を一人残してこの世を去ることが、後悔になると思った。
 ――そのことを言い訳にして、俺は彼女とまっすぐに向き合えなかった。

 俺が後悔を抱えたまま死ぬことによって起こるタイムリープという現象が、この先に起こらない保証はない。
 あの原因不明の悪夢に、俺は今も脅かされ続けている。

 ――だけどもう、どうしようもなかった。
 先月、28歳の8月に俺は交通事故に遭った。
 やっぱり俺は、死んでしまうのか。
 そう思った時――どうしようもなく、俺は後悔をしていた。

『死ぬ前に、那月に想いを伝えるべきだった――』と。

 那月未来。
 多分、君の全てに魅せられたその時から――。
 俺の結末(さいご)は、定められてしまったのだ。

 もう二度と繰り返さないように。
 もう一度、君と死ぬことを……。

「この先俺は、那月のために生きていく。幸せな家庭を作って、俺たちは皺だらけの爺さん婆さんになって、お互い最後の時には悔いなく『良い人生だったな』って言い合えるように、俺はこれから先も、那月の傍で生きて――そして、死ぬから。俺と、ずっと一緒にいてください」

 俺の言葉を聞いた那月は、顔を真っ赤にして俯いて、「そこまで言えとは、言ってない」と呟いた。
 それから顔を上げて、俺を見た彼女は驚いた表情を浮かべた。

 彼女は俺に歩み寄り、そしていつの間にか俺の頬を流れていた涙を拭った。
 少しだけ笑って、そして困っているような、喜んでいるような表情を浮かべて、彼女は俺に向かって言う。

「約束する」

 それは、俺と那月の関係が始まったあの日に告げられた言葉と同じで。

「私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる」

 だけどその言葉に込められているのは、全く別の温かな想いだと、俺はもう知っていた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア