「あれ? ぼーっとしてどうしたの、あっきー?」

 隣に立った伊織が、心配そうに俺に声を掛けてきた。
 ぼうっとした頭で、俺は彼女の呼びかけに振り向く。
 そして、堪えきれない吐き気に襲われ、その場に蹲って吐いた。

「うっ、おぇ……っ!」

 頭が、割れるように痛い。
 これから先に起こる最低の出来事の記憶の数々が、再び俺の頭に焼き付く。
 自らの愚かさが、脳内で鮮明に再生されている。
 痛みも苦しみも怒りも、喪失感も全てが、一斉に蘇り、俺の心が悲鳴を上げていた。

「ごめん、那月……」

 謝罪をすべき相手はそこにいなくても、俺は繰り返し那月に謝る。
 胃の中が空っぽになって、胃液以外吐き出せなくなった頃に。

「ホントに大丈夫、あっきー!?」

 伊織の言葉に、気が付いた。
 心配そうに俺を見る伊織。周辺には野次馬が集まっていた。

「とにかく、保健室行こ」

「……片付けないと」

 俺の的外れな呟きに、野次馬の中にいた女子生徒が「吐しゃ物の処理は保健委員でやっとくから、早く保健室で休んでください」と声を掛けてきた。

「ありがと! ほらあっきー、歩ける?」

 俺は無言のまま頷いてから、立ち上がる。
 胃液と吐しゃ物でどろどろになった手を、伊織は嫌な顔を見せずに握り、俺を保健室へ連れて行く。
 彼女に握られていない、反対側の手で俺は、自分の首を触った。

 当然のことだが、そこに自らの手で付けた傷はなかった。
 なのにどうしてか、確かに熱を持った痛みを感じていた。



「特に異常はなさそうだけど、出店で食べた物が当たったのかも。あんたたち、何か心当たりある?」

 保健室に着いた俺は、養護教諭に診てもらっていた。

「トワたちが食べたのはチュロスくらいだよね?」

 伊織の言葉に、俺は首肯する。

「それなら、寝不足? 受験勉強に根詰め過ぎてない?」

「あー、あっきー最近めっちゃ成績良いもんね、無理してるのかも」

 伊織の言葉に、俺は首肯する。

「今が頑張り時なのは分かってるけど、ほどほどに。体調崩したら元も子もないから。ベッド、空いてるから体調良くなるまで休んでなさい。あ、それと手は洗って、口の中気持ち悪かったらうがいもして良いから」

 養護教諭はそう言って、ベッドの方を指さした。

「汚しちゃった服は洗濯しておくから、脱いでおきなさい。ジャージがあるからそれに着替えて。……伊織さんも少し汚してるわね。一緒に洗濯しておくわよ」

「じゃあ、借りますねー。あっきーは一人で着替えられる?」

 俺は伊織の言葉に首肯する。
 
 手を洗い、口の中に残った胃液をゆすいでいると、養護教諭が二人分のジャージを用意していた。
 俺はそれを受け取り、ジャージに着替える。
 脱いだ制服は籠に入れ、養護教諭に渡す。
 俺は力なく、ベッドに倒れこむ。

 ……もう何も考えたくないのに、次々と記憶が思い返される。
 
 最悪だ。
 那月を死なせて、彼女の父を前科持ちにして、今宵に一生残るトラウマを植え付けた。
 繰り返しても良いことなんて何もない。
 自分の無能とクズさを突き付けられるだけだ。

 ――もう嫌だ。
 今回もどうせ失敗する、俺には何もできないんだから。

「吐しゃ物の後始末、私も見てくるから、ちょっと保健室から出て行くね」

「はーい」

 考えていると、養護教諭の言葉が聞こえた。
 それに、伊織は答えた。
 それから、いつの間にかジャージに着替え終えた伊織が、カーテンを引いてベッドに腰かけた。

「あのチュロス、まずかったもんね。残飯処理を押し付けちゃってごめんね、あっきー」

 お道化た調子で、彼女は言う。

「……ごめん」

 俺の言葉を聞いて、伊織は心配したように言う。

「また、謝ってる」

 俺は「ごめん」ともう一度呟いた。
 伊織は溜息を吐いてから、言う。

「……那月未来となんかあったの?」

 伊織は、不安な表情を浮かべている。
 俺は、何も知らない伊織のやさしさに縋りついた。

「俺は、あいつに酷いことをしてしまった。謝りたいけど……合わせる顔がない」

 俺は頭を抱えて蹲る。
 今の那月に謝っても、彼女にとっては何のことかも分からないはずだ。
 それでも、俺は那月から罰を受けたい。

 震えて蹲る俺を……伊織は抱きしめた。

「そっか。それじゃトワもあっきーと一緒に謝る」

「……え?」

 伊織はそう言って、俺の背を安心させるように優しく撫でる。
 
「トワもあの子に謝りたかったけどさ、今まできっかけがなかったから」

 彼女の言葉は、少しだけ震えていた。

「だけどあっきーが謝るって言うなら、トワも一緒に謝るよ。……てか、トワの方が先に謝るからね」

 伊織の言葉を聞いて、俺は頷いていた。

 もう何もしたくないのに。
 それでも――まだ、やり直せるのだ。
 前回は、伊織が那月に謝る気を無くさせてしまったが、今回は違う。

 未来はきっと、変えられる。
 ……那月の家族、今宵の進路、そして俺の最期が変わったことで、確信をしている。

「……あっ!」

 それから、俺は今さらになって、ようやく気付いた。
 ベッドから勢いよく立ち上がる。
 俺を優しく抱きしめてくれていた伊織が、驚いて後ずさった。

「わっ! 急にどうしたの、あっきー!?」

「今日は、文化祭だ……」

「え? そ、そうだよ……?」

 困惑する伊織の声にこたえる余裕はない。
 
 今日は、文化祭なのだ。
 那月と一緒に屋上で花火を見た日から、さらに時間が経過している。

 このタイムリープの法則性は? 全くのランダム? 参考となるケースが少ない……俺は後何度やり直せる? 
 いや、そもそもこのループに終わりはあるのか?

 ……違う、今考えるのはそうじゃない!
 文化祭初日、那月は今宵の言葉により、絶望をした。
 まずはそれを止めなくてはいけない!

「今日は、文化祭の何日目だ!?」 

「え? ……一日目だよ?」

 時計を見る。
 前回動き始めたのは夕方、その頃には全てが終わった後だった。
 今は――14時前。

 この時間でもまだ間に合うのか、分からない。
 それでも、ここで寝ている暇はない。

「伊織、図書室に那月がいないか見に行ってくれないか?」

「え、トワ一人で? つか、あっきーは?」

「俺は屋上にあいつがいないか見に行く! 那月が図書室にいたら、俺に連絡をくれ」

 俺は伊織を置き去りにして、保健室の出口にまで向かう。
 その背に、彼女が声を掛けてくる。

「え、屋上!? てかあっきー、元気になったの?」

 俺は振り返る。
 元気になんてなっていない。
 ただ、落ち込んでいる時間もないだけだ。
 だけど、一歩も動けなかった俺が、その一歩を踏み出せたのは、紛れもなく伊織のおかげだ。

 俺は伊織の問いに答えないまま、屋上へと急いだ。



 身体も怠く、頭も未だ明瞭とはしていなかったが、何とか走ることはできた。
 文化祭を楽しんでいる生徒たちは、必死に階段を上る俺を見て不思議そうに首を傾げていたが、声を掛ける者はいない。

 屋上の扉の前に到着し、扉を見る。
 ――既に、鍵は開けられていた。

 最悪な状況が頭をよぎる。
 俺は勢いよく扉を開き、屋上へと踏み入る。

 そこには那月と――今宵がいた。
 動悸が激しくなる。
 那月に何か話しかけている今宵を見て、吐き気が込み上げてくる。
 俺は大きく息を吐いて、なんとか堪える。

「今宵っ!」

 俺の声に、今宵が振り返る。

「暁? 何でここに?」

 動揺した様子の今宵。
 俺は彼女の傍に歩み寄り、それから腕を掴んだ。

「来いっ!」

「ちょっと、痛いよ暁」

 今宵の言葉に反応することなく、俺は今宵の手を強引に引く。
 那月は、「何なの……?」と呆然とした様子で呟いていたが、応えている余裕はなかった。

 俺は屋上から出て、扉を閉める。
 それから、今宵の肩を押して乱暴に壁に叩きつけ、彼女を睨みつける。

「い……痛いよ、暁。何を怒ってるの?」

 今宵は俺の顔をまっすぐに見つめ返してきた。
 怒りを押し殺している俺の表情を見ても、彼女は……微笑みを崩さない。

「那月に……何を言った?」

「……あたしと暁が、付き合う約束してるって教えてあげただけだよ」

「本当に、それだけか?」

「うん、まだ話し始めたばっかりだったから。……言いたいことは、色々あったんだけどね」

 今宵の言うことが本当であれば……まだ、間に合うはずだ。
 こいつのことはさっさと放り出して、今すぐにでも那月の傍に駆け寄りたい。

 だけど……ダメだ。
 俺はどうしても、今宵のことが許せない。
 自分勝手な独占欲と嫉妬心で、那月を苦しめた。
 ……彼女をそんな風に狂わせたのは、俺自身だと分かってはいたけど。

「誰がお前みたいな歪んだ性根のクソ女と付き合うんだよ」

 最後に今宵の心にトラウマを植え付けたことが、最低だと分かってはいたけど。

「お前の歪んだ性根そのままの醜い顔も、気味の悪い視線も、不快な声も、存在全てが! 見るに堪えないんだよ」

 それでも俺はどうしても、狛江今宵を許すことが出来ない。

「あ、暁……? 変な冗談やめてよ、あたしたち付き合うって約束したし。那月未来にちょっかい出したこと、そんなに怒ったのなら謝るから……ね?」

 怯えた様子で、俺に問いかける今宵。

「お前と交わした約束なんて、俺にとってはどうでも良いんだよ。何より、お前は誰に謝るつもりなんだよ?」

「誰って、暁にだよ」

 俺のジャージの裾を掴んで、涙を流しながら今宵は言った。
 那月ではなく、俺に(・・・・・・・・・)謝りたいのだと。

「消えてくれ。何があっても、もう二度と。俺にも、那月にも話しかけるな」

 俺はそう言って、今宵を突き放した。

「暁! あ、あたしは……」

「二度と話しかけるなって言っただろ?」

 俺は今宵に、軽蔑の眼差しを向けて言った。
 今宵はその言葉に驚いてから……俺の頬を勢い良く平手打ちした。
 彼女は大粒の涙を零しながら、俺を睨みつけてくる。

「消えろ」

 今宵の視線から目を逸らさずに、俺はもう一度そう呟いた。
 彼女は再び手を振り上げ、ギュッと拳を握り……結局はそれを振るうことなく拳を下ろした。
 それから俺に背を向けて、階段を駆け下りていった。
 すぐに、彼女の背中は見えなくなった。

「……クソッ!」

 俺はやりきれなくなって、壁を思い切りぶん殴った。
 拳が酷く痛んだが、気分は一つも紛れない。

 ダメだ、もう何も考えるな。
 俺は自分にそう言い聞かせて、唇を噛みしめた。
 一つ深呼吸をしてから再度屋上へ入ると、那月が不審そうにこちらを見てきた。

「何、あんたたち喧嘩してるの?」

「……ああ」

「はぁ、下らないケンカに巻き込まないで欲しいんだけど」

 那月は大げさに肩をすくめて、溜め息を吐いて言った。

「……ちなみに、今宵にどんな話を聞いた?」

「あんたとあいつが付き合う約束してるって言われたけど……、みんなの前でフッておいて、何言ってんのって感じよね。あんな嘘で私が騙されるって思われたのが、普通にムカつく。というか、そもそも何であんな嘘吐いたんだろ? 意味不明すぎ」

 はぁ、と大きく溜め息を吐いた那月。
 那月が気分を害しているところ申し訳ないが、俺は一先ずホッとしていた。

 ここで今宵の言葉を聞くことが、那月が死に至る一つの大きなきっかけのはずだから。
 ようやく、一歩進むことが出来た。

 ……だから、間に合って嬉しいはずなのに、気分は一つも晴れなかった。

「うわっ、屋上ホントに開いてる……」

 その声に振り返ると、伊織が今まさに来たようだった。
 伊織は那月の姿を見て、少しだけ躊躇ったようだったが、いつもと同じ調子で俺に声をかけてきた。

「あっきー、さっきめっちゃ泣いてる今宵ちゃんとすれ違ったけど、あれなんだったの? 大丈夫なの?」

 伊織の姿を見た那月が驚愕を浮かべた。

「……は? なんでバカギャルがここにいるわけ?」

 那月が低い声で俺に問いかけた。
 伊織の質問は無視して、俺は那月に答える。

「伊織がこれまでのこと、那月に謝りたいんだってさ」

 伊織は俺の言葉を聞いて、緊張した様子だった。
 それでも彼女は、那月のことを真剣な表情で、まっすぐに見つめていた。

「……は? 無理なんだけど」

 那月は嫌悪感をあらわにして、ただ一言呟いた。

「……許してほしいわけじゃなくって。ただ、トワが反省してるってことを、知ってもらいたくて」

 伊織は那月の目前まで歩み寄り、申し訳なさそうな表情で俯きつつ言った。

「は? 勝手に」

「聞いてあげてほしい。伊織も、半端な気持ちで那月の前にいる訳じゃない」

 俺が那月の言葉を遮ると、彼女は不愉快そうに舌打ちをしてから、

「良いよ、あんたに免じて、聞くだけ聞いてあげる」

 そう言ってから、那月は伊織に対して高圧的に「早く言え」と促した。
 伊織はその言いようにも腹を立てた様子はなかった。
 彼女は数回、大きく深呼吸をしてから、口を開こうとして、

「何? いじめられっ子と話をするだけなのに、何か挙動不審じゃない? どうしたの? いつもみたいに余裕な態度で馬鹿にしたように笑えば? ……無理だよね、あんたって取り巻きの女がいなければ何にも出来ないわけだし」

 口をつぐんだ。
 那月が馬鹿にしたように、伊織を煽った。

 これまでの恨みつらみがあるのだから、仕方ないとは思うが。
 ……那月はこういう気の強いところで損をしている。
 この先もこの調子でい続けるのならば、周囲に理解者がいないと苦労は絶えないだろう。

「……そうだよ、トワは何にも出来ない」

 伊織は、那月の言葉を真剣な表情で聞いていた。

「トワは、可愛さ以外に自信がないし、頭だって良くない。自信がないから、悪いことだって思ってることでも、周りの人に乗せられたら、良いのかなって思っちゃうことも多い」

「あ、そう。だから意地悪してたのは周りの人のせいです、可愛いトワちゃんは何も悪くありませんって言いたいわけね。あー、はいはいそうね、可愛いだけが取り柄のトワちゃんは何も悪くないね」

「違う。那月のことは、トワがムカついてたから虐めてた」

「はぁ? 私があんたになんかしたっけ?」

「したから」

 那月の言葉に、伊織ははっきりと答えた。

「トワ、ホントは那月と仲良くしたかった。東京の話を色々聞いて、勉強も教えてもらいたかった。見た目も綺麗だから、自慢の友達になるって思ってた。だから、那月が周囲から浮き始めたとき、トワは声掛けたんじゃん!」

「そんなの覚えてないけど」

「覚えてないって何!? トワ、クラスの女子から酷いこと言われてた那月に、言ったもん。『あんなの気にしない方が良いよ』、って。そしたら『田舎者に憐れまれる筋合いなんてない』ってバカにしてきたんじゃん! それでトワ、すごくショックで……ムカついて! だから、リカリノと一緒に、いじめたの」

「あー、思い出した。そういうことあったかも。でも結局あんたあの時さ、『未来ちゃんも悪いとこあるでしょ? もう少し他の人の気持ちも考えた方が良いよ』とか得意げに言って、私のことを下に見てバカにしてたじゃん?」

 伊織は決して嫌味で言ったわけではないだろう。那月の被害妄想だ。
 だけど那月は、その時には既に周囲のことを信じられなくなっていた。

「はぁ!? 何それ、違う……全然違う! トワはそんなこと思ってないのに、あっきーのことは信じたのに! どうしてトワのことは信じてくれなかったの?」

 那月はその言葉を聞いて、ちらりと俺を一瞥した。
 俺と那月が仲良くやっていることについて、少し話をしたことがあったが、那月には当然そのことを伝えていない。
 どこまで話したのか、気になっているのかもしれない。
 説明をしようとした俺が口を開く前に、

「違う、そういう話じゃなかった。トワは、那月に謝りたいの」

 伊織がそう言って、那月をまっすぐに見つめた。

「今までひどいことをし続けて、ごめんなさい。もう二度と、誰に対しても。あんなことはしません」

 伊織はそう言って、那月に向かって頭を下げた。
 那月はそれを聞いて、唇を噛みしめてから、溜め息を吐いた。

「良いわよ、別に。私たちの間には、不幸なすれ違いがあったったことは十分に理解したから。もう気にしてないし、頭上げなさい。これからは仲良くしましょ」

 那月は笑顔を浮かべて、軽い調子で言った。
 それから、伊織は那月の表情を見て――言った。

「それ、嘘じゃん」

 伊織は申し訳なさそうに、だけどはっきりと自分の意思を伝える。

「トワ、何言われても良い。どんなにひどい仕返しされても、これまでしてきたこと考えたら、しょうがないって我慢できるから。……ここで、全部これまでため込んでたのを吐き出してよ」

 伊織の言葉に、那月は「はぁ?」と呆然と呟いていた。
 無表情のように見えたが、そうではない。
 必死に、怒りを隠していた。

 那月は、救いを求めるように、俺を見た。
 俺は彼女を、無言で見つめ返す。言いたいことは、ここで言った方が良い。

 すると那月は、ほんの少し悲しそうな表情を浮かべてから、口を開いた。

「ここで全部吐き出す? 無理よ、全部吐き出すには時間がいくらあっても足りないから」

 震える声で、那月はそう言った。

「あんたさ、トイレの個室でいきなり水をかけられて笑われたことある? 弁当を捨てられたことは? みんなの前で卑猥な悪口を言われたことは? 制服を切り刻まれたことは? 埃臭い体育倉庫に閉じ込められて長時間放置されたことは? 毎朝ビクビクしながら靴箱を開ける気持ちは分かる?」

 淡々と那月は言う。
 伊織は言葉に詰まり、何も言えなかった。

「ないよね? その時私がどんな惨めな気持ちになったか、分かる? 分からないよね? あんたたちは楽しそうに笑ってたもんね。あの最低な気持ちが理解できるなら、絶対に笑えないものね!」

 那月は声を荒げた。
 そして、伊織の胸倉をつかんで、睨みつけた。

「あんたが何者なのか、教えてあげる。人の気持ちを理解できない人間もどきの畜生女。何かの間違いで人間の姿かたちで生まれちゃって、本当に哀れ! 私はあんたと違って出来た人間だから、あんたみたいな人間未満のゴミクズにアドバイスしてあげる」

 憎しみの宿った那月の眼差しを受けて、伊織の全身は震えている。

「お前はこれから一生、自分が人間じゃないと自覚して行動しろ。ほんの少しでも気を抜けば、どうせろくでもない犯罪に加担して、警察のお世話になるに決まってる。せいぜいぼろが出ないように気をつけろっ!」

 今にも泣きだしてしまいそうな表情の伊織を乱暴に突き放し、嘲笑を浮かべた那月が続けて言う。

「……さっきも言ったけど、あんたにされたことを気にしていないのは本当よ。あんたみたいのは気にするだけ、時間の無駄だから」

 伊織は顔を伏せて震えている。

「だから、もう私の前から消えてくれる?」

 那月はそう言って、伊織を睨みつけた。
 伊織は一言。

「……本当にごめんなさい」

 と呟いてから、屋上から出て行った。
 俺は伊織の背と、無表情の那月を交互に見る。
 ……那月には、一人で落ち着く時間も必要だろう。
 そう判断して、俺は伊織を追った。

 屋上を出ると、蹲ってすすり泣いている伊織がいた。

「伊織、大丈夫か……?」

 しゃがみこんで、俺は伊織に問いかける。
 俺の声に、伊織は冷たい声で答える。

「なんでトワの方に来たの? 平気そうに見えても、それは本心じゃないって知ってるでしょ? トワよりずっと那月の方が辛いんだから、あっちについてなきゃダメじゃん……」

 自分だって辛いのに、それでも伊織はそう言ったのだ。
 彼女の言う通りだ、那月はただ怒っていたわけじゃないのは、十分に分かっていたのに。
 俺は那月と向き合うのが怖くて、伊織を言い訳に逃げてきただけだ。

「俺も、那月に謝ってくる。……ありがとう、伊織」

「早く行ってあげなよ」

 伊織は俺を見ることもなく、そう言った。
 肩を叩いて励まして、「よくやったよ」と言ってあげたい。
 でもそれをすればきっと、俺は伊織に本当に軽蔑をされてしまうだろう。
 俺はもう一度、扉を開いて屋上へと踏み入った。

 俺は肩を落として立ち尽くす那月に、声を掛ける。

「俺も、那月に謝りたいことがある」

「あいつをここに連れてきたこと? それなら別に良いよ、すっきりしたし」

「そうじゃない、俺自身が謝りたいことなんだ」

「……自己満足の謝罪は、聞きたくない」

 那月はそう言って、縋るように俺を見てきた。
 これ以上、彼女を追い詰めるべきではない。

 確かにそう思う。だけどこれは、本当に彼女を思ってのことなのか?
 俺はまた、彼女と向き合うのを逃げようとしているだけなんじゃないか?

「那月が辛くて、惨めな気持ちになっていた時に、俺は気づいていたのに見て見ぬふりして、他の奴らと一緒に笑っていた。自分の手を汚すことなく、安全圏から高みの見物。人の気持ちを考えることのできない、本物のクズだった。……本当にごめんなさい」

 那月を救うと決めたのに。
 人の気持ちを決めつけて、分かったつもりになって、結局何もできなかった。
 いくら年齢を重ねても、いくら繰り返しても、俺は無能なグズなんだ。

「あんたは……他の奴らと違うから!」

 那月は首を振って、俺の言葉を否定した。

「そうだ、俺は他の連中と違う。那月を傷つけてきたのに、まるで自分は改心しましたって顔をして、まともな謝罪もしないまま、お前の隣に居座った……誰よりも最低なクズだ」

「だったら!」

 俺の言葉を聞いた那月は、泣きそうな表情で叫んだ。

「……本気で悪いと思ってるなら。ここから飛び降りてくれる?」

 初めてここで話したあの日の繰り返しのように、那月は手摺りの向こう側を指さし、俺に言った。
 だけど今は、あの時とは違う。

「那月が本当に俺に死んでほしいなら、俺は死ぬ」

 俺は前回のループで、一線を越えた。
 痛みと苦しみと恐怖を、俺はきっともう一度乗り越え、この手で自らの人生を終わらせることが出来ると思う。
 ……当てつけのように今宵の前で死んだことに比べれば、よほど上等な死だ。

「だけど、少しでも俺が生きることを許してくれるのなら。那月を残して、俺は死ねない。……俺は、那月と一緒に生きたいから。ここから飛び降りることは、出来ない」

 俺の言葉を聞いた那月は、俺のジャージの裾を掴んで、その場に崩れ落ちる。
 しゃがみこんで、彼女の表情を覗き込んだ。

「あんたには……あんたにだけは。私がこんなに酷い人間だって、知られたくなかったのに」

 那月は、泣きそうな声で、諦観を浮かべて呟いた。

「あいつが勇気を出して私に謝りに来たのは、分かってる。それでも、あいつの全部を踏みにじらなきゃ気が済まない私のほうが……よっぽど人間じゃないよ」

 懺悔するように、那月は自らの感情を吐露した。
 ……それが懺悔であるならば、彼女は誰に許しを乞うているのだろう?

「人間だよ」

 俺は神でも仏でもない、ただの……いや、人一倍愚かな人間だ。
 だからこそ、俺は彼女の罪も愚かさも、全てを認められる。

「嘘を吐くし、人を傷つけるし、他人の気持ちが分かっても、自分の感情を優先させて誰も彼も傷つける。俺も、那月も……どうしようもなく、どうしようもない人間だ」

 俺や那月がこの先、他者に優しい人間になれるかは分からない。
 那月はこれまで、あまりにも人を遠ざけ過ぎた。
 それが自分を守るために仕方なかったとはいえ、今のままでは、この先もっと苦労することだろう。
 このまま社会に出れば、近い将来必ず周囲との軋轢に躓く。
 
 躓いて、転んで蹲った時。俺は彼女の傍らで寄り添うことはできるのだろうか。

「何それ、最悪」

 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたように、微かに笑った。
 立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
 那月は俺の手を掴んで、立ち上がった。

 那月はまだ、落ち込んでいる様子だった。
 俺は、彼女に言う。

「明日、一緒に文化祭を回らないか?」

 那月は一度俺を見て、それから弱々しく微笑んだ。

「やだ」

「そう……か」

 俺は一言で応じる。
 前回は、俺の誘いに応じてくれたのに、今回は断られたということは……心を閉ざされたということだろうか?
 俺がそう憂慮してたところ、那月は続けて言った。

「私、あのギャルに言い過ぎた。でも、私からは絶対に謝れないから……あんたがあいつを文化祭に誘って、元気づけてあげて」

「……俺は、那月と一緒にいたい」

 俺の言葉に、彼女は困惑を浮かべてから、照れ隠しのようにわずかに笑う。

「お願い」

「……分かった。その代わりに、こっちからもお願いがある」

「あんたは私にお願いできる立場なわけ?」

 苦笑を浮かべて、那月は俺に言う。
 できる立場ではないと即答できるが、俺は構わず彼女に言う。

「少し先の話だけど。クリスマスイブの日、一緒にどこか行こう」

 俺の言葉を聞いて、那月は呆れたようにため息を吐いた。

「クリスマスイブ? 良い? 私たちは受験生なんだから、そんなイベントなんて関係なく、勉強しなくちゃいけないの! 受験前の最後の追い込み、一日だって無駄に出来ないの!」

 那月は俺の胸を人差し指で小突きながら言う。 
 クリスマスイブも、ダメだったか……と気落ちをしそうな俺に、彼女は続けて言う。

「だからその日は……ちゃんと、勉強してから出かけることにするわよ。それで、良いわよね?」

 照れ臭そうに、那月は俯いていた。

「うん、楽しみにしてる」

 俺の言葉を聞いて、那月は顔を上げた。

「私も、楽しみよ」

 那月はそう言って、クスリと微笑んだ。



 文化祭2日目。
 この日俺は、那月と伊織の二人と約束をした通り、伊織と一緒に文化祭を行動していた。

「今日も一緒に文化祭回ろうって言われた時は、何言ってんの? って正直思ったけど。やっぱり、一緒にいてくれて、楽しかったし、嬉しかったよ。……ありがとね、あっきー」

 文化祭が終わり、帰路につく前。
 伊織は少しだけ照れ臭そうに、そう言ってくれた。

 翌日以降、3度目の2学期のように、クラスの連中から疎まれるようなことはなかった。
 那月とも、伊織とも、他のクラスメイトとも。今回は上手くやれている。
 ただ、今宵とは会話をせず、目を合わすこともなくなったが……那月に迷惑を掛けなければ、あとはどうでも良い。

 それ以外にあった変化としては……。
 これまで以上に俺のことを気にかけてくれる人がいることくらいか。

「文化祭で吐いて倒れたって聞いたぞ。大丈夫だったか?」

 休み時間中、教室棟から実習棟へ移動するために渡り廊下を歩いていたところ、熱田先生に声を掛けられた。

「ちょっとした寝不足が原因だっただけで、何にも問題ないですよ」

「吐くほど寝不足になるのは大問題だろう……」

 はぁ、とため息を吐いた熱田先生。
 本当のことを言うわけにもいかず、俺は「はぁ」と間の抜けた相槌をうつ。

「もしかして、まだバイトをしてるのか?」

「バイトはもうやめてます」

「それならいいんだが。……前にも言ったが、何かあったらいつでも相談しろよ」

 熱田先生は、苦笑を浮かべてそう言った。
 ――余計なお世話だと思った。
 俺よりも気に掛ける必要がある人間は、絶対にいるのに。

「……もっと気にした方が良い奴がいると思いますけどね」

 俺の言葉に、「そうか?」と眉をひそめてから、熱田先生は言う。

「ここ最近の玄野より危うそうな生徒を、俺はこの学校で見た覚えがないけどな」

 俺はその言葉を聞いて、唇を噛みしめた。
 彼の言うことは、間違いではないだろう。
 死んで生き返って、また死んで。
 そんなことを繰り返している俺より絶望的な悩みを持っている高校生は、そうはいない。

「……何かあったら、すぐに頼ります」

 俺は素直にそう言った。

「今、携帯持ってるか?」

 熱田先生は、俺に向かってそういった。
 緊急時に校内での使用を認められているため、携帯を持ち歩くことは禁止されていない。
 俺はポケットから携帯を取り出して、

「持ってますけど……?」

 と答えると、熱田先生はいきなり電話番号を口にした。

「俺の携帯番号だ、登録しておけ」

「……あとで登録しておきます」

「俺の目の前で、登録しろ」

 一歩も譲る様子がなかった。
 俺は観念して、熱田先生の前で彼の電話番号を登録した。

「よし、それで良い。何かあったら、休みの日とか関係なく、いつでも連絡してくれていいからな!」

 熱田先生がそう言うと、タイミングよくチャイムが鳴った。

「ほら、移動教室だ。さっさと行かないと怒られるぞ!」

「熱田先生が引き留めてたんですよね……?」
 
 俺が恨みがましく言うと、

「すまんすまん」

 と軽い調子で笑い、教室棟へ歩いて行った。
 俺は熱田先生の連絡先が登録された携帯をポケットにしまい、実習棟へ向かって歩く。

 熱田先生は、良い人なんだと思う。
 ……生徒に手を出すロリコンだけど。

 だからと言って、俺の非常識な現実を説明し、助けを求めても、信じることはないだろう。
 むしろ、とうとう頭がおかしくなったと思われ、心配させることになるのがオチだ。

 だけど、彼に相談することはないけれど、俺のことを気にかけてくれる人がいるのだと思うと……。
 絶対、無事に卒業しなければと、思えてくるのだった。



 それから、受験に向けて勉強漬けの日々が訪れた。
 ……といっても、俺はこの繰り返しの中で大体の試験内容を覚えているので、必死に勉強するまでもなかった。
 緊張感の中で日々を過ごすクラスメイト達を横目に、こまめに那月とコミュニケーションを図る毎日だった。
 
 あっという間に、2学期の終業式を終え、クリスマスイブを迎えた。

「ちっす」

 集合場所の、いつものファミレスに来た那月に、俺は声を掛ける。

「おっす」

 気安く答える那月を、俺は見る。
 制服姿で会うことが多いが、今日の彼女は私服だった。

「いつもより、お洒落してる? 似合ってるよ」

 俺の問いかけに、対面に座った那月は、
 
「うっさいんだけど、バカ」

 と照れ臭そうに言って、俺の脛を蹴り上げてきた。
 痛がる俺を見て満足したのか、那月は店員を呼んだ。
 その後は、一緒に昼食を食べて、勉強をしてから、俺たちはファミレスを出た。
 それから電車に乗り、市内へ向かう。

 那月と一緒に市内に行くのは、初めてだった。
 電車の中で適当な世間話をしつつ、一つ気になっていたことを彼女へ問いかけた。

「文化祭の日以降、今宵に何か意地悪をされてないか?」

 俺と今宵の関係は、既に崩壊している。
 今さら嫉妬で、今宵が那月にちょっかいを掛けることはないだろうが、腹いせに八つ当たりをする可能性は0ではない。

「別に、何もされてないけど……あんたたち、喧嘩してるんだよね?」

 隣で英単語カードをめくっていた那月は、顔を上げて答えた。

「……ああ。だからまた、今宵が那月にちょっかいかけるかもしれないけど。その時は無視して、すぐに俺に言ってくれないか?」

 那月は「まぁ、別にいいけど」と言った後、

「仲直りするつもりないの?」

「無理だな」

 俺は彼女の問いかけに、即答した。全ての原因が俺にあるのだと、分かってはいる。
 それでも、どうしても、俺は今宵のことを許せなかった。

「ふーん。何が原因か知らないけど。あんたを怒らすと、根に持つってことを知れて良かったわ」

「那月にとっては、生きていく上で何の役にも立たない無駄な知識だと思うけどな」

「うわー、トリビア懐かしー……」

 那月がそう呟いた後、俺たちはお互いに、印象深かったトリビアを語り始める。
 目的の駅までの時間が、あっという間に感じた。



 駅を降りてから、歩くこと数分。
 俺たちは県で最も大きな繁華街に入った。
 
 とはいえ、これから何をするか、予定を決めていなかった。

「全く予定立ててなかったけど、どこか行きたいところある?」

「……てっきりエスコートしてもらえると思ってたんだけど?」

 ニヤリと笑った那月に「申し訳ない」と伝えると、クスリと笑って彼女は言う。

「ゲームセンター、連れて行ってよ」

「良いけど、何かしたいゲームあるのか?」

「……マリカー、気になってたけど、一人でやるのは恥ずかしかったから」

「何でそのゲームをしたいかまでは、教えてくれなくても良かったんだけど」

 那月の言葉が微笑ましくて、俺は揶揄うようにそう言った。
 彼女は照れ臭そうで、そして少しだけ怒ったような表情を浮かべて、俺の脇腹をチョップしてきた。
 それを適当にいなしつつ、一番大きなゲームセンターに入った。
 
 まずは目的のマリオカートで対戦し、次にクレーンゲームで無駄遣いをして那月にバカにされ、それから色々二人でゲームを楽しみ――。

「プリクラ撮ったの、初めて……」

 俺と那月は、ふたりでプリクラを撮った。
 やけに緊張した面持ちだったが、初めてだったからなのだろう。
 
「次撮るときは、もっと笑顔で写ったほうが良さそうだね」

 俺が揶揄うように言うと、那月はムッとしてから、少し考えて……。

「また次も、一緒に撮ってくれる?」

 と、彼女は頬を朱く染めて、プリクラに写っているよりもなお、緊張した面持ちで俺に問いかけた。

「もちろん。次は、受験が終わってから、また撮ろうか」

 俺の言葉に、那月は口元が綻び「うん」と頷いて応えた。



 それから日が落ち、俺たちはゲームセンターを出て、夕食を食べることにした。
 学生から人気の高い、少しお洒落なレストランの予約を取っていて、そこで夕食を済ませた。

「……この後、どうしよっか?」

 店を出てから、那月が問いかけてきた。
 その言葉に、俺は答える。

「行きたい場所あるんだけど、付き合ってもらっていいか?」 
 
 彼女は大きく頷いた。
 俺たちは二人並んで数分歩き、目的の場所に到着した。

「……綺麗」

 那月は、うっとりとしたようにそう呟いた。
 俺が彼女に見せたかったのは、県内で最も有名なイルミネーションだ。
 色鮮やかな光に目を奪われている那月に、

「ここまで立派なのは、都内でも中々見られないよな」

 俺が揶揄うように言うと、彼女はハッとした様子で俺をジロリと見てきた。
 いつもの調子で、『田舎の割には頑張ってるわね』くらい言うと思っていたが、彼女は不意に微笑んだ。

「……確かに。私は東京でも、こんなに綺麗なイルミネーションは見たことないかも」

 那月は意外にも、素直にそう言った。
 幻想的な光に照らされる彼女の横顔が、なんだか無性に可愛らしく思えた。

 イルミネーションに目を奪われたままの彼女に、俺は鞄からプレゼントを取り出して、差し出す。

「いつも勉強を見てもらってるから、日ごろの感謝を込めて……クリスマスプレゼント」

 那月は驚いてから、俺のプレゼントを受けとった。

「あの……ありがとう。……中、見ても良い?」

 俺は無言で頷く。
 彼女はラッピングされたプレゼントを丁寧に開けていき、

「……え、なにこれ凄い綺麗」

 那月は俺が贈った、リンドウの植物標本(ハーバリウム)を見て、感嘆した。

「リンドウの花言葉は、勝利。受験に勝てるように、ゲン担ぎだ」

「あ、ありがとう。こんな素敵なプレゼントもらえるなんて、私思っても……」

「ちなみに、リンドウは『病に打ち勝つ』などの意味を込めて、敬老の日の贈り物に人気の花だ」

 俺の言葉を聞いた那月は、「……今その情報、必要だった?」と険しい表情で俺を睨んだ。

「……あんたに、ロマンチックな展開を期待した私がバカだった」
 
 那月はそう苦笑してから、今度は自分のカバンからラッピングされた小さな袋を取り出した。

「はい、私からも。いつも一緒にいてくれて、ありがとう」

 そう言って、那月は俺に手にしたそれを渡してきた。
 3度目のクリスマスでは、彼女からプレゼントをもらうことはなかったので少し驚きつつ、受け取る。
 
「中身、見るよ」

 と一言断り、袋の中からプレゼントを取り出す。
『合格』と書かれた絵馬の形をした、携帯クリーナー付きストラップだった。

「ありがとう……凄く、嬉しい」

 俺はそう言ってから、早速そのストラップを携帯につけた。

「どういたしまして」

 那月は俺の言葉を聞いて、はにかんだように笑った。
 ……その表情を見て、近い将来彼女が自殺をすると、誰が思うだろうか?
 それでも、俺は知っている。

 卒業式の前日。
 那月は絶望し、自殺を決意する。
 そのきっかけを取り除くことはできない。

 だけど今回は、もう一つのきっかけであった、那月へのいじめはもう行われていない。
 那月の精神的負担はこれまでよりも軽くなっているはずだ。
 今回も自殺を考えるだろうが……死ぬには惜しいと思わせることは、十分に可能なはずだ。

 まずは、那月を生き延びさせること。
 その後の問題の解決は、それから考えれば良い。

 今回は、小細工抜きで勝負だ。
 那月が絶望して死を望んだ時。
 俺は彼女に、それでも生きていてほしいと、まっすぐに伝えよう――。

「な、何よ? ……何か言いなさいよ」

 真剣な表情を浮かべて那月を見ていた俺に、彼女はもじもじとした様子で問いかけた。

「……受験が終わってから、伝えたいことがあるから。聞いてくれるよな」

 俺の言葉を聞いて、ポカンとした表情を浮かべた那月は、

「うん」

 と呟いて応じてから。
 とても幸せそうに、微笑みを浮かべていた。



 無事、受験が終わった。
 今さら試験の出来をどうこう言うことはない。

 俺にとって何よりも重要なのは……那月の自殺を止めることだ。
 あの文化祭の日から今日まで、那月に対する無視などはあったものの、酷いいじめはなかった。
 もちろん、今宵と接触した様子もない。
 これまでの高校生活よりも、那月の抱えるストレスは軽かったと思うのだが、それでも楽観はできない。 

 明日は、卒業式。
 つまり今日は……これまでの繰り返しの中で、毎回那月未来が自殺をした日だ。

 那月とは、これまでにないくらい信頼関係を築き上げることが出来た。
 ……大丈夫、これまでの俺には出来なかったことでも。
 きっと、今の俺になら(・・・・・・)、那月の自殺を止めることが出来る。
 
 いや、絶対に止めてみせる……!
 俺はそう決意して、家を出た。



 時刻は昼過ぎ、俺は学校に到着していた。
 3年生のいない校内は、どこか寂しく俺の目に映った。
 誰もいない3年生の教室を少しだけ覗いてから、俺は階段を上った。
 
 彼女が俺を屋上に呼び出すのは、決まって夜だった。
 昼間から屋上に向かっても、那月はそこにいないだろう。
 だけど、それこそが狙いだ。
 
 待ち伏せし、屋上に入ってきた那月を一度校舎内に押し返す。
 それから、ゆっくりと那月の話を聞いて、説得をする。
 彼女が屋上にいるのは、それだけでリスクが高いからだ。
 
 そう考えていたのに。
 当然鍵がかかっていると思っていた屋上の扉が――既に、開いていた。
 俺は深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、扉を開いた。

 屋上には、一見誰もいないように見えた。
 だがしかし、よく見ると……制服を着た那月が、手すりの向こうで体育座りをしていた。

 こんなに早く屋上に来ているのは、予想外だった。
 俺が考えていた安全策を使うのは、難しいだろう。
 だけど、失敗が決まったわけじゃない。

 俺は屋上へと踏み入り、そして那月の傍に歩み寄った。

「こんなところにいたら、危ないぞ」

 那月にそう声を掛けてから、俺は手摺りを乗り越えて彼女の隣に座った。

「ちょっと危ないくらい、何も問題ないでしょ?」

 那月は俺の出現にも驚いた様子はなかった。
 ただ、彼女は嬉しそうに、笑っていた。

「私がここにいるって思ったの?」

 俺は、そう問いかけた那月の手を、どこにも逃がさないようにと握りしめた。
 
「何となくな」

 俺が答えると、彼女は俺の手をギュッと握り返してきた。

「それって、なんだか運命みたいだね」

 那月は惚けた表情で呟いた。
 
 俺は唇を噛みしめる。
 今日ここで死ぬのが那月の運命だと、俺は決して認めない。

「ここであんたと初めて話したあの時。私にはあんたが死にたがってるように見えた。幼馴染にフラれただけで、バカみたいって思ってたけど……今なら、その気持ちも分かる」

 両足のつま先を上下に動かしながら、無表情で那月は続ける。

「これから先、半世紀以上先の寿命が来るまで生きてたって……どうせ、良いことなんてない。努力をしたって、報われることなんてない」

 那月は淡々とした様子で言う。

「私の想像を超える出来事なんて、きっとこの先訪れない。生きるってことは、ただの確認作業。平凡以下の惨めな人生を確認して……それでお終い」

 諦観を浮かべた表情を、彼女は俺に向けてきた。

「そんな風につまらない人生を送って、よぼよぼのおばあちゃんになってから、良いことなんて何もなかったって思いながら死ぬよりかはさ。今日ここで、綺麗なうちに……大好きな人と一緒に死んだ方が良いじゃん。……ね?」

 那月はそう言って、俺に同意を求めるように、俺の手を力強く握りなおしてきた。

 彼女はそれから、立ち上がる。
 彼女に手を引かれて、俺もつられて立ち上がった。
 
 大きく一歩踏み出せば、即座に真下に落下する。
 そうなれば、きっと助からない。

 ――そうならないために、俺はここにいる。

「俺も、那月のことが好きだ」

 俺はそう言って、彼女を見た。

「嬉しい……幸せだよ」

 彼女は蕩けたような、幸せそうな表情をして、呟いた。
 だから、この先も一緒に生きよう、と。
 辛いことは、二人で乗り越えよう、と。

 俺は那月にそう言おうと思い、口を開こうとして……。

「もう、死んじゃおっか」

 不意に、那月が俺にキスをした。
 那月の柔らかな唇によって、俺の口は塞がれ……。
 そして、彼女は俺を抱きしめながら、身を投げた。
 不安定な足場、人一人分の体重を預けられて、バランスを取ることが出来ず……。

 俺と那月は屋上から、落ちた。

 ……え?
 ……これで死ぬのか?
 俺はまだ何も伝えてないのに……どうして、俺の話を聞いてくれないんだ?

 俺の思考を遮るように、衝撃が全身を伝う。
 
 薄れゆく意識の中、那月の面影が残る肉の塊(・・・)が視界に入った。
 それは……不明瞭な意識でも、既に手遅れだと一目見てわかった。

 理不尽な結末を迎え、無力感に苛まれた俺は……。
 決して、俺だけは言ってはいけない一言を、力なく呟く。

「そんなに死にたいなら……一人で勝手に死ねよ」



 目が覚めた。見覚えのない天井を視界に収め、その後すぐに、自分の身体の違和感に気が付いた。
 全身の感覚が全くなかったのだ。
 ……どうやら俺は、生き残ってしまったらしい。
 
「玄野さん、目が覚めたみたいです。先生来てください!」

 看護師のその言葉がやけに耳に響いた。

 すぐに駆け付けた医者が、俺に説明をしてくれた。
 学校に人がいる時間が幸いし、教師がすぐに救急車を呼んでくれたおかげで、俺だけは一命をとりとめたようだった。
 とても言いにくそうにしていたが……つまりは那月の身体がクッション代わりになっていたらしい。

 今は麻酔が身体に残っていて、意識と感覚がはっきりしないだろうが、薬が抜けてリハビリを頑張れば、日常生活を送れるようにはなるということだった。

 その後に、家族や警察が病室に訪れた。
 事情聴取には、「自殺に巻き込まれた」と、はっきりと答えた。

 さらにしばらくしてから、今度は那月の父が現れた。
 彼は涙を浮かべてから、俺に土下座をして謝った。
 俺は何も話したくなかったから、一言も応じなかった。
 気づけば、彼は病室を後にしていた。きっと、もう二度と会うことはないだろう。

 絶対安静の入院中は、することが何もなかった。
 全てが、どうでも良くなっていた。今回のことで、俺はよくわかった。

 誰にも、那月未来は救えない。

 それが分かっただけで十分だ。
 やるだけのことはやって、救えなかったのだから、もう後悔はない。
 そして、生きる目的もなくなった。

 だけど、死のうとも思わなかった。
 自殺するにも、膨大なエネルギーが必要だ。

 苦しみや悲しみや貧しさや、怒り。
 そういう『糧』がなければ、人は自発的には死ねない。
 
 つまり、俺は終わりを迎えるその時まで、何の意味もなく生きなければならなくなった。



 病院を退院し、リハビリのため通院をする毎日。
 合格をしていた志望校は、入学を辞退していた。
 俺は必死にリハビリに励んだ。
 辛いリハビリだったが、何も考えなくて良かったので、好都合だった。

「リハビリ、今日も大変だった?」

「ああ」

 俺は、車で病院への送迎をしてくれている今宵に、力なく答える。

「早く歩けるようになると良いね」

 明るくそう言った今宵に、俺は答える。

「そう言えば、なんで今宵が送迎してくれてるんだっけ?」

 時間の感覚も、記憶も、あいまいだった。
 俺の言葉に、彼女は辛そうな表情を浮かべた。
 しかし、すぐに優しい笑顔を浮かべた。

「大学の夏休みだから。帰省中、幼馴染の面倒を見てあげてるだけだよ」

「ああ、そっか」

 俺は無感動に答える。
 いつの間にか、季節は夏になっているようだった。
 
「……うん。明日も今日と同じ時間にリハビリだよね?」

「ああ」

 次の日も、今宵は俺を病院まで送迎してくれた。



 リハビリを開始して、長い時間が経っていた。
 ある程度の後遺症は残っているが、それでも日常生活が出来るようになった頃。
 俺は、田舎での生活に嫌気がさし、東京へと引っ越しをした。

「大学生って結構暇だからさ、気にしないで」

 俺の両親から聞いたのだろう。
 今宵は、今日から住むことになった1Kの部屋で、荷解きを手伝ってくれた。
 甲斐甲斐しく世話を焼く今宵に対し、俺は疑問が一つ浮かんだ。

「そういえば。俺と今宵って、いつ仲直りしたんだっけ?」

 俺の言葉を聞いた今宵は、気丈に微笑もうとして……そうすることが出来なくて。
 静かに、涙を流していた。

「ごめんね、暁……」

 今宵は俺に、そう謝罪をした。

「暁は、悪くないよ。いじめられていたあの子を助けてあげられなかったことを、気に病んでいるのは分かる。でもそれは……絶対に暁のせいじゃないから」

 今宵は涙を流しながら、俺を抱きしめた。

「あの子を虐めた人も、見て見ぬふりをしていた人も。みんな何事もなかったように、あの子を追い詰めたことを忘れ切って……素知らぬ顔で日常を過ごしてるの」

 彼女の温もりが伝わる。

「悪いのは暁じゃない。自殺しか考えられなかったあの子でもない。あの子を追い詰めた……あたしを含めた周囲の皆が悪いんだよ」

「……たった一人も救えない。俺は無能だ」

 俺の言葉に、今宵は首を振ってから言う。

「お願い……、一人で抱え込まないで。あたしは、あたしだけは。あの子に対する罪を忘れないから、一緒に背負うから。傍にいさせて、支えさせてよ……」

 顔を上げ、彼女はまっすぐに俺を見つめて、言った。

「暁は幸せになって良いんだから」

 俺に、幸せになる権利なんてない。
 そんなことは、分かっているのに……。

 涙を流して、俺を案じる今宵の唇に――気づけば俺は、自らの唇を重ねていた。



 それから、今宵は献身的に俺を支えてくれた。
 ほとんど部屋に引きこもっている俺に、彼女は毎日会いに来てくれた。

「ちゃんとバランスよく栄養のあるご飯食べないと、体調崩すよ?」

 そう言って今宵は、いつも俺に手料理を振る舞ってくれた。
 食事なんて、これまでまともに喉を通らなかったのに。
 彼女の手料理だけは、別だった。
 空腹を満たすだけではなく、心まで温かくしてくれた。

 きっとそれは、食卓を共にしてくれる今宵の笑顔もあったからだろう。

 俺の部屋の方が、今宵の大学に近いという理由で、彼女とはほとんど同棲状態になっていた。
 今宵が大学に行っている間、することはほとんどなかった。

 金なら、あった。
 かつて俺がバイトをして購入していた株の価値は、想定していた通り上がっていた。
 1周目の記憶を生かし、最大の価値になったところで利益を確定させ、次に短期間のうちに10倍以上に値上がりをする株を購入する。
 やったことは、それだけ。
 それだけで、俺の資産は既に億に近づいていた。

 俺は日ごろの感謝の気持ちを伝えたくて、普通の大学生では到底手が出せないようなハイブランドのバッグを購入し、今宵にプレゼントをした。

「……ありがとう、暁。でも、受け取れないよ」

 虚しそうな表情で、今宵は言った。

「なんでだよ……」

「あたしが欲しいのは、こんなモノじゃなくって……暁が幸せになる未来だから」

 そう言ってから、今宵は俺を抱きしめてくれた。
 何もできない、彼女の優しさに甘えることしか出来ない自分に苛立つも、俺は彼女の胸でみっともなく泣いていた。
 このころにはもう俺は、那月のことは思い出すこともなくなり――。
 今宵との間にあったわだかまりは、何一つなくなっていた。
 


 今宵が大学を卒業し、就職をすることになった。
 だけど俺は、彼女には就職なんてせず、傍にいて欲しかった。

「金ならいくらでもあるんだ。就職なんかしないで……ずっと、俺の傍で支えてくれ」

 俺の言葉に、今宵は苦笑をして言う。

「暁がたくさんお金を持ってるのは知っているけど。それでも、株でものすごい損を出す時もあるでしょ? そんな時に、あたしだけでも働いてたら、食うに困らなくて良いじゃん」

 今宵の言う通りだった。
 時間が経つごとに、1周目とは違った値動きをすることも多かった。
 それでも、今のところ資産は順調に増え続けている。

「……分かった」

 彼女の自由を、俺の意志で阻害したくはなかった。
 だから、俺は彼女が就職することに、納得した。

 それでも、胸の内には不安が宿っていた。
 俺はその不安を誤魔化すように、酒に溺れるようになった。



 今宵が就職し、仕事も落ち着き始めたころ。
 
「大きくなったら、今宵をお嫁さんにするって約束……今も、有効だよな?」

 俺の言葉に、今宵は大きく頷いた。

「これからも、ずっと一緒にいてくれ」

 俺は彼女に、指輪を贈った。
 今宵はうっとりとした表情で、

「幸せだよ、暁」

 と、喜んでくれた。
 
 それから、二人で一度地元に帰り、お互いの家であいさつをすることにした。
 俺の両親は喜んでいた。娘同然に成長を見守っていた今宵が、本当の娘になるのだから。

 だが、今宵の両親はどこか複雑そうな表情だった。
 当然だ、と俺は思った。
 俺は定職に就いていないし、何より高校の卒業式前日の事件のこともある。
 巻き込まれただけと説明をしても、不安を感じるのは当たり前だ。

 だから俺は、二人を安心させるために、素敵な贈り物をした。

「娘のことは任せたよ、暁!」

 お義父さんとお義母さんは、そうして俺たちの結婚を認めてくれた。
 
「なんか……ごめんね」

 帰りの新幹線の中、申し訳なさそうに今宵は言った。

「俺のしたことを考えれば、当然だ。それに……俺の方こそ、こんなやり方しか出来なくて、ごめん」

「ううん、良いの。ありがとう、幸せだよ」

 今宵はそう言って、ギュッと俺の手を握りしめた。
 この時俺は、確かな幸せを感じていた。



 それから、さらに数年が経っていた。
 思っていた以上に、投資が上手くいった。
 もう何をせずとも、一生食うに困らない……どころか、遊んで暮らして余りある金を手にした。

「なぁ、仕事を辞めてくれないか?」

「……暁の気持ちも分かるけど、あたしは働いていたいの」

 だけど、今宵は頑なに仕事を辞めてはくれなかった。
 そのことで、喧嘩になることもあった。

 俺は家で一人、考え込むようになった。
 今宵は、本当に綺麗になった。
 それに比べて、俺はどうだろうか?
 ただ、金があるだけの……何の魅力もない人間に落ちてしまった。

 自分と今宵のその差を考えると、どうしようもない不安に駆られる。
 ――何より、俺は知っているのだ。
 今宵が、俺以外の男を愛せるということを。

 1周目の世界では、今宵は俺ではない男と結ばれ、幸せになった。
 今回の世界で、俺に愛想を尽かして、他の男を愛することは絶対にない……とは、言いきれない。

 不安と不信で気が狂いそうになった俺の酒量は、どんどん増えていく。
 そしてある日、酒を飲んで勢いをつけ、もう一度今宵に言った。

「やっぱり、仕事は辞めてくれ。絶対に経済的に不自由させないから」

 それでも、今宵はやはり俺の言うことを聞いてはくれなかった。俺の中で、何かが爆ぜた。

「なんで今宵は俺の気持ちを分かってくれないんだ! こんなにも俺は不安で、辛いのに……なんで、自分のことしか考えてくれないんだ!」

 俺はそう言って、固めた拳で今宵を殴った。
 今宵は、腹を抱えて苦しんでいた。蹲る今宵を、俺は見下ろす。

「仕事を辞めろ! 不自由なんて、何もないだろ!? 金はあるんだから……それでも辞めないのは、職場で男と不倫してるからだろう!?」

 俺は彼女に頭を上げさせ、もう一度殴った。
 顔を両手で覆い、今宵は呟く。

「ごめんなさい」

「俺は今宵に、謝ってほしいわけじゃない!」

 もう一度、俺は今宵を殴った。
 彼女は呻き声すら上げずに、痛みに耐えた。
 それから、今宵は俺を見た。

「分かった。仕事、やめる。こんなになるまで追い詰めて、ごめんね。あたしって、やっぱり駄目だね」

 俺を安心させるように、申し訳なさそうに、今宵はそう言った。
 彼女のその表情を見て、その言葉を聞いて。
 ――俺は、自分のしたことの愚かさに、気付いた。

「ご、ごめん、今宵……俺は、今宵を傷つけるつもりなんかじゃなくって、ただ、一緒にいて欲しかっただけで……ごめん、本当にごめん……」

 今宵は涙の一つも流さず耐えていたのに。
 俺は、子供のように泣き喚いた。

「ううん、良いんだよ暁」

 そう言って、泣いている俺の頭を今宵は優しく撫でてくれる。

「ごめん今宵、愛してるから……もう二度としないから……」

 そう言って、俺は今宵を抱きしめた。

「あたしも愛してるよ、暁……」

 今宵はそう呟いて、俺と口づけをした。
 俺はこの時、確かな愛を感じていた。
 


 それからも俺は、度々今宵に暴力を振るうようになっていた。
 その多くが、酒を飲んで落ち込んだ時だ。
 今宵の美しさを目の当たりにするたび、俺の心には不安と不信が宿る。
 それが、最悪の形で発露するのだ。

 俺が今宵に暴力を振る間、今宵は悲鳴も上げずに、ただ耐えた。
 それから、痛みに耐える今宵を見て、俺はいつも後悔と自己嫌悪に陥る。
 嫌われてしまった、捨てないでくれ。
 そう心の中で叫びながら、俺はいつも今宵を抱きしめ愛の言葉を囁く。
 
 今宵はいつも、優しく「大丈夫、愛しているよ」と答えてくれた。
 その時だけは、俺は救われた気持ちになっていた。



 その日はいつもより、酒を飲み過ぎていた。
 まともに頭は働かなかったが、今宵が涙を流しているのが分かった。

 俺は、泣いている今宵を優しく抱きしめた。
 彼女は、俺の耳元で、「愛しているよ」と震える声で囁いた。

 俺の脇腹に、酔いを醒ますほどの強烈な熱さと痛みが襲い掛かった。
 見ると、今宵が包丁を握りしめ、俺を刺していた。
 それから、今宵は何度も何度も、涙を流し続けて俺を刺す。

「大好きだよ、愛してるよ。ずっと一緒だよ」

 彼女はそう言って、俺に口づけをしてきた。
 どこか、寂しいキスだった。

「だから、暁を嫌いになってしまう前に……。この気持ちを永遠のまま、終わりにさせて」

「あ、り……がと、う」

 俺は、これまでの感謝を込めて、今宵に伝える。
 酷いことをたくさんしてきたけど、今言うべきは謝罪の言葉なんかではない。

 俺は、今宵と一緒に居られて幸せだった。
 
 ずっと俺は、人のことを愛せない欠陥品だと思っていた。
 卒業式の前日、那月に対して伝えた「好き」という言葉は、今の今宵に抱いてるこの感情に比べれば、真実ではなかったはずだ。

 だけど、今は違う。
 今宵は、俺に人を愛する喜びを教えてくれた……大切な人だ。

「愛……してる」

 俺の言葉は、この想いは。
 きっと今宵に、届いている。

 今俺の胸にある温かな気持ちこそが……真実の愛に違いない。
 心の孔は、塞がった。
 もう、後悔なんて何もない。
 心置きなく、俺はようやく死ぬことが出来る――。

「あり、がとう……」

 俺の言葉を聞いた彼女は、涙を流しながら、何度も、何度も。
 俺の身体に包丁を突き立て続けた。

「愛してるよ、暁……」

 最後に見た、返り血にと涙でぐしょぐしょになった今宵の表情を。
 俺は、何よりも美しいと思った。





 目が覚めた。
 
「なんだ……夢か」

 空虚な言葉が俺の口からこぼれた。
 分かっていた。それでも、絶対に認めたくなかった。

 全ての憎しみを吐き出すように叫び声を上げようとした、次の瞬間――。

 耐え切れないほどの頭の痛みに、俺は襲われた。

 声を上げることさえできずに苦しんでいたが、こんな痛みは大したものではないと思えた。
 痛みにもだえ苦しみながら、俺は正気でいる自分の無神経さにこそ絶望した。
 


 割れるような頭の痛みが、徐々に引いていった。
 それから、未来に起こった記憶の数々が、この身体に馴染んでいった。
 大きく、息を吐く。

 結局、この力は何なんだ?
 本人の意思も常識も無視して、何度も何度も何度も、現実(じごく)を見せつけてくるこの力は――。

 まるで、呪いだ。
 繰り返しても、自分の愚かさと無力さをただ思い知るだけだ。

 もう嫌だ。
 もう俺に後悔なんてない、ただ、死にたいだけだ。お願いだから死なせてくれ――。

 頭を抱えて現実から目を逸らし、呻き声を上げても――当然、俺が死ぬことはない。
 嘲笑が零れる。……分かっている。

 卒業式の前日、那月を救えなかったこと。
 今宵が手に入れるはずだった幸せを、俺がこの手で奪ってしまったこと。

 気づかないふりをしていただけで、心の奥底では……後悔していたのだ。
 周りを不幸にし続けた、どうしようもないクズだと自覚しているのに。
 皮肉にも、俺には彼女たちへ罪悪感を抱く程度の人間性が……ほんの僅かに、残っている。
 
 ……そういえば、今はいつだ?
 10年分の記憶が同期した今、現在の記憶は曖昧になっている部分が多い。
 俺は周囲を見て、実家のベッドで目覚めたことを確認した。

 それからスマホを……いや、枕元にあったのは、携帯電話だ。
 画面を見て、日付を確認して……思い出した。
 
 今日は卒業式の前日。
 つまり――那月未来が学校の屋上から飛び降りる日だ。

 ――タイムリープの度に、戻る時間が進んでいる。
 最初は、梅雨の時期。
 2度目は、那月と花火を見た夏休み。
 3度目は秋、文化祭の初日。
 そして今回は、卒業式の前日。

 繰り返す度、那月の自殺の日が近づいてきている。
 考えたくないことだが、もしも今回も、これまで通り那月を救えなかったら――。
 一体、どうなってしまうのだろうか?

 那月を救えなかったことを悔やみ、苦しんで死んだとする。
 そうなった場合、次に戻るのはいつなんだ?
 今回と同じ、卒業式前日ならまだ那月を救うことが出来る可能性がある。
 だけどもし、那月を救えずに後悔したのに、巻き戻った先が那月の死後であったとすれば――。

 俺は、終点のない繰り返しを生き続けることになるのか?

「……じゃあ、今回で終わらせるしかないよな」

 失敗をした時のことを考えても、どうにもならない。
 俺はただ淡々と、今回確実に那月の命を救えば良いのだ。

 これまでの失敗の原因は、明らかだ。
 分不相応にも、那月の命だけでなく、心まで救おうとしたことだ。

 そんな必要は――ないのに。

 少し頭を使えば、彼女を生かすのは簡単だ。
 屋上にいる那月を地面に落ちないように手摺りにでもしばりつけてから、ぶん殴って言うことを聞かせれば良い。
 抵抗が激しければ、自分で身動き取れないように全身の骨を折るのも手だ。

 そうしてから救急車でも呼べば、自殺なんてできっこない。
 俺はそれを確認してから、自ら命を絶つ。
 那月が生きてさえいれば、それで俺の役目はお終い。
 その後どうなるか、知ったことではない。
 それで那月の命は救われ、俺も心残りなく死ねる。
 そうすれば、ようやく全てを終わらせることが出来るだろう。

 ……だけど、その前に一つだけ。
 俺にはやらないといけないことがあった。


 
 那月と伊織と一緒に来たこともある、町を一望できる展望台のある公園。
 俺はそこに、今宵と一緒に来ていた。

「久しぶりに来たけど、こんなに大変だったっけ?」

 展望台に到着した今宵は、膝に手をついて息を乱していた。

「確かに、久しぶりだと大変だな」

「暁は、どのくらいぶりに来たの?」

「俺は……10年ぶりだ」

 俺の言葉を冗談と受け取った今宵は、呆れたように笑って言う。

「中学生の時に一緒に来たことあったし、そんなわけないじゃん」

 俺は彼女の言葉に、無言で応じる。
 俺の雰囲気がいつもと違うことに、彼女はすぐに気づいたのだろう。

「今日、呼び出してくれたのは……約束のこと、だよね?」

 神妙な顔をしている俺に、今宵は問いかけてきた。

「うん」と応じて、口を開く。

「でも、その前に謝らせてくれ。文化祭の日、酷いことをたくさん言って、ごめん」

 そう言って、俺は今宵に頭を下げる。

「良いの、暁は、間違ったこと言ってないし。……あたし、多分おかしくなってた。暁のこと好きなのに、考えが分からなくなる時が多くなって、不安になるときも増えて……嫉妬心を抑えきれなくって。あの時、暁が止めてくれなかったら。きっとあの子に、あたしは滅茶苦茶酷いことを言ってたと思う」

 震える声で、今宵は続けて言う。

「だから、暁の言ったことは間違いじゃないんだよ」

 今宵は、ギュッと拳を握りしめていた。
 辛い気持ちを思い出させてしまった。
 今宵が抱いた不安も嫉妬も、全ての原因は俺にあるのに。

「それで……こうして謝ってくれたってことはさ。大学、お互いに合格をしたら恋人になってくれるって、ことだよね?」

「違う」

「……え?」

 不安そうな、今宵の声。
 俺は顔を上げて……ここに至るまでまともに見られなかった彼女の顔を、まっすぐに見る。
 那月を追い込んだことに対する憎しみと。
 彼女の幸せを奪ってしまったことに対する悔恨の念と。
 何より、今宵を想う愛情が混じり合う。

「どういうことなの? ……あたし、また何か悪いことした? それなら、教えてよ。あたし悪いところあったら、すぐに直すから! だから、そんなこと……言わないで」

 目じりに涙を溜めながら、今宵は俺に縋りながら言った。

「俺と一緒にいたら、今宵は絶対に……幸せになれない。でも俺は、今宵には幸せになってほしい。だから――俺は。もう今宵とは、一緒にいられない。もう二度と、俺に関わらないでくれ」 

 俺の言葉を聞いた今宵は、呆然とした表情で乾いた笑いをを浮かべる。

「何それ……意味わかんないよ」

 そう言ってから、「冗談だよね?」と彼女は問いかけた。

「本気だ」

 俺がそう答えた瞬間、左頬に痛みが走った。

「……最低っ。そんなにあたしのことが嫌いなら、はっきりそう言えばいいじゃん」

 今宵が、俺に平手打ちをしていた。
 それから、彼女はもう一度俺の頬を思い切りぶった。
 俺の頬を打つたびに、今宵は辛そうに表情を歪ませる。

 2度、3度、4度と繰り返し平手打ちをされても、俺は無言のまま彼女を見つめる。

「……っ! なんか言えよ!」

 そう言ってからもう一度、今宵は俺に平手打ちをした。
 
「気の済むまで、いくらでも殴ってくれていいから」

 俺が答えると、今宵は両手をだらりとおろした。
 それから、怒りに満ちた瞳を俺に向ける。
 力いっぱい拳を握り、彼女は俺を殴ってきた。

 何度も何度も、固めた拳を打ち付け、そのうちの一発の拳が、俺の顎を偶然にも的確にとらえた。
 俺の視界は揺れ、尻餅をついて倒れる。

 今宵は蹲る俺を押し倒し、馬乗りになった。
 マウントポジションを取って、息を荒げながら、何度も何度も俺を殴り続ける。

 痛みはあった。それが嬉しかった。
 今宵自らが愚かな俺に、罰を与えてくれていると思えたからだ。
 少しづつ、痛みがマヒして、意識がかすれ始めた。
 もしかしたら、俺はここで今宵に殴り殺されるのかもしれない。
 まだ俺は、那月のことを助けていないのに。

 ……それも良いか、と思えた。

「死ね、死ね……死ねっ! このろくでなし! 浮気男! 言いたいことだけ言って、ろくな説明もなしで、二度と会えないとか、ふざけんな! 何なの……なんなんだよ!」

 泣き叫びながら、今宵は俺に拳を振り下ろし続ける。
 無抵抗な俺を殴り続け、疲れてしまったのか、今宵は手を止めた。それから俺の胸元を強く握りしめた。

「……やっぱり、死ぬのはダメ」

 今宵は呟いた。

「死ぬなら、あたしが幸せになったのをその目でちゃんと確かめて、心底後悔してから死んで」

 俺の胸元を握りしめる拳に、ギュッと力がこめられる。

「あたしはこれから、暁のことなんか忘れる。それで、綺麗になって、素敵な男の人と沢山出会って、暁よりも優しくて、かっこよくて、身長も高くて、ついでにお金持ちで。何よりあたしのことを大切にしてくれる人のことを……」

 今宵は俺をまっすぐに見る。
 目じりに溜まった涙が頬を伝う。

「暁のことと、おんなじくらい好きになる」

 その涙が零れ落ち、俺の頬を濡らした。

「あたしはその人と結婚して、可愛い子供も産んで、家族みんなで暮らして、誰よりも幸せになる。暁は、あたしが幸せになるのを確認して、死ぬほど後悔しないと、許さない。……だから、そんな風に自暴自棄にならないで……ちゃんと生きて」

 今宵は立ち上がって、俺に背を向けてから言う。

「バイバイ暁、大好きだったよ」

 俺のことを振り返ることなく、今宵は展望台から立ち去っていった。
 
 彼女の背中を、止めることが出来なかった。
 仰向けになったまま、俺は声を上げて泣き叫ぶ。

 もう、死にたいのに。
 どうせ生きていても、俺は自分も、周りも不幸にするだけなのに。

 今宵のせいで、どうしても死ねない理由が出来てしまったから――。



「え!? あっきー!?」

 未だ泣き止まない俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「やば、顔ボロボロじゃん! どうしたの? 立てる?」

 その声の主は、俺の手を引いて身体を起き上がらせて、ベンチに座らせた。
 俺はうな垂れつつ、横目で見た。……誰だっけ、こいつ?

「うわ、痛そー……。トワ、ハンカチ濡らしてくるからちょっと待っててね」

 トワ? ……ああそうか、伊織だ。なんでここにいるのだろうか? ……いや、どうでも良いか。
 伊織は俺にそう言ってから、水道でハンカチを濡らしてから、腫れた俺の顔をそれで押さえた。

「やっぱ氷で冷やした方が良いよね……? 下にコンビニあったから、トワちょっと買ってくる。待っててね、あっきー」

 そう言って彼女は立ち上がった。
 心配をしてくれているのだろうが……。

「余計なお世話だ」

 伊織に向かって、俺は言う。
 彼女は「そっか」と呟いてから、俺の隣に座る。

「てか、それどうしたの?」

 俺の言葉に、伊織は気分を害した様子ではなかった。
 伊織は俺に質問をしたが、俺は答える気になれなかった。

「さっき今宵ちゃんとすれ違ったけど、やっぱ本人だった?」

 彼女の言葉に、俺は答えない。

「人違いだったらどうしようって思って話しかけなかったけどさ。今度は泣きまくってるヤバい奴がいるって思って、『うわ、関わりたくねー』って思ったら、まさかのあっきーだしね。やばいよね」

 彼女の言葉に、俺は答えない。

「あっきーが今宵ちゃんをフッて、怒った今宵ちゃんがあっきーをぼこぼこにして。あっきーはされるがままで……殴らたとこが痛いし、みじめだし。それで泣いちゃった、って感じだったりする? トワが慰めてあげよっか?」

 俺が答える気なんてないと分かっているのに、伊織は立て続けに質問をしてくる。
 
「良いから放っておいてくれっ!」

 いい加減イラついていた。一人になりたかった。
 もう誰にも、俺の心に踏み入れさせたくない。だから、詮索も同情もごめんだ。

「放っておかないよ」

「なんでだよ……」

「何で、って。だってあっきー、泣いてるじゃん」

 そう言って伊織は、顔の腫れを押さえていたハンカチで、俺の頬に流れる涙を拭った。

「辛いときに誰かが傍にいてくれたら、それだけでケッコー救われるもんじゃん? だから、トワはあっきーの傍にいるよ」

 伊織は俺の表情を覗き込んでから、優しく微笑んだ。
 慈愛に溢れるその瞳に――これ以上見られたくない。
 どうしたって、自分の惨めさばかりが浮き彫りになってしまうから。

「俺は、誰かに優しくしてもらう価値もない人間だ。――関わる人全員を不幸にする、人格破綻者だ」

 俺は伊織を睨みつけてから、続けて言う。

「俺にとって伊織は、今宵に対する当て馬だ。あいつに嫉妬心を抱かせるために、勉強を教えて、デートして、文化祭を一緒に回った。俺は伊織のことなんてどうとも思っていない」

 うんざりだった。
 取り繕うことを止めた俺の口からは、自分勝手な言葉しか発することは出来なかったから。
 伊織は俺に幻滅しただろうが、それで良い。このまま立ち去ってくれ。

「でもトワは、あっきーに救われたんだよ?」

 だけど伊織は、俺の隣に未だに寄り添ってくれている。
 俺は今、伊織に酷いことを言ったはずなのに。 
 それでも彼女は、嬉しそうに俺に向かってそう言った。
 
「あっきーが那月をイジメるのをやめた方が良いって言ってくれなかったら、トワはどんどんエスカレートして。きっと那月に、もっと酷いことをし続けてた」

 伊織は、どこか遠くを見てそう言った。
 確かに、1周目の世界では、那月に対するいじめはどんどんエスカレートしていた。

「あっきーが、一緒に那月に謝ろうって言ってくれなかったら、トワの心はマヒをして、他人に対してどんな酷いことをしても、何も感じることが出来なくなってた」

 彼女は、自分がそんな人間なのだと確信しているように言う。

「トワは馬鹿で、すぐに楽な方に流れるから。那月の言った通り、いつかどこかで酷い犯罪に平気な顔して手を染めた。それで、やっぱりバカだからすぐに捕まるの。それでも、自分の非を認められなくて、何もかも周囲が間違っているんだって自分勝手に叫ぶような……そんな、最低な大人になってた」

 ……伊織の言葉が間違いではないことを、俺は知っている。
 でも、俺は伊織のためを思って、彼女に関わっていたわけじゃない。

「それも全部……全部、全部全部全部! 那月のために……いや! 那月が虐められているのを見てムカついた俺が、誰のことも考えずにただ自分勝手にしたことだ! 伊織のことなんて、これっぽっちも考えてなんかいなかった! お礼なんて言うなよ、お願いだからこれ以上俺を……惨めにさせないでくれ」

 俺の懇願を、伊織は聞いてくれない。

「那月をイジメていて自分に嫌悪感を抱いていたトワを肯定してくれたのも。誰かを無理に好きになる必要はないって言ってくれたのも。那月に謝った後、泣いているトワを心配してくれたのも。全部、全部全部ぜーんぶ! あっきーなんだよ?」

 伊織はそう言って、俺を抱きしめた。

「あっきーがトワのことを利用したのは、本当なのかもしれない。でも、一緒にいてくれた時間、トワはあっきーの思いやりを、確かに感じてたから。その時感じた、温かな気持ちは……あっきーにだって否定させないよ」

 彼女はそれから、優しく俺の頭を撫でる。

「トワのことを救ってくれてありがとう、あっきー」

 俺は、これまで繰り返してきた時間の全てが無駄で。
 ただ自分の愚かさと、無能さを突き付けてくるだけだと思っていた。
 でも……違った。
 俺のやってきたことは間違いだらけだったけど。
 それでも、全てが間違いではなかった。

「ありがとう、伊織……」

 そう呟いてから、俺は伊織の胸に縋りついて、声を上げて泣いた。
 彼女の鼓動が、体温が、息遣いが、優しく俺を包み込んでくれる。

「どういたしまして」

 伊織の優しい声が、俺の耳に届いた。



「……そういえば、伊織は何でここにいるんだ?」

 自分でも引くほど大泣きして、気持ちを落ち着けた俺は今さらだが伊織に問いかけた。

「あっきーに話したいことがあったから」

 彼女はどこか照れ臭そうにそう答えた。

「話……?」

「うん。あっきーに勉強沢山教えてもらったのに、トワは何の相談もしないで大学受験しなかったじゃん? だから、せっかく勉強教えてくれたのにごめんね、って」

 伊織は続けて言う。

「トワ、お姉ちゃんがお酒を飲み過ぎて大変な時とか、あっきーが文化祭で体調崩して大変な時とか。……あと、今とか。そういうので慣れてるし、誰かに感謝してもらえるのはすごく嬉しいから。看護専門学校にいくことにしたんだ」

 伊織は自分の進路を教えてくれた。
 彼女が看護師になる姿を想像して……すごく素敵なことだと、俺は思った。

「伊織は絶対、良い看護師になるよ。……めちゃくちゃ世話になった俺が言うんだから、間違いない」

「あっきーのお墨付きなら、確実だね」

 揶揄うように伊織は言った。
 俺が苦笑して応えると、彼女は楽しそうに笑った。 

「でも、そういうことなら電話でも、卒業式でも良かったんじゃ?」

 純粋な疑問を告げると、彼女はばつが悪そうに「あー……」と伝えてから、

「あっきーが教えてくれたこの場所で、偶然出会えたら……ロマンチックだなって思って」

 そう言ってから、伊織は俺をまっすぐに見つめて、真剣な表情で告げる。

「トワはあっきーのこと――大好きだよ」

 かつて伊織はここで、無表情に俺に向けた言葉と、同じことを言った。
 だけど今は、あの時とは違う。
 かつてはただ虚しかった彼女の言葉だが、今は確かな温もりを感じることができる。

 俺は、伊織の優しさに絆されたばかりだ。
 苦悩と絶望の底にいた俺を救ってくれたのは――間違いなく、伊織だ。
 彼女の言葉に、俺は答えようとして――。

「でも実際は、全然ロマンチックなんかじゃなかったね」

 はぁ、と大きなため息を吐いてから、わざとらしく肩をすくめる伊織。

「女の子に殴られてボコボコに腫れた顔で子供みたいに大泣き、しかもなんか八つ当たりまでされたらさぁ……100年の恋も一瞬で冷めるよね、普通に」

 不満な様子で、伊織は俺を見た。

「……なんか、ごめんな」

 彼女の初恋に、ケチをつけてしまった。
 俺は申し訳なくなり、頭を下げた。
 それを見た伊織は、呆れたように笑ってから、口を開いた。

「あのさ、あっきー。勘違いしてほしくないんだけどさ。トワのあっきーに対する気持ちは、本物だったからね?」

「分かってる。伊織の抱いた気持ちを、俺は否定しない」

 俺の言葉に、伊織は「分かっていれば、それでよし」と満足そうに頷いてから、続けて言う。

「あっきーもさ。……那月のこと好きなら、ちゃんと気持ちを伝えた方が良いよ?」

 心配そうに、俺を伺いながら伊織は言った。きっとここで、今宵にそう伝えたのだと思ったのだろう。
 だけど……違う。
 俺は首を振ってから、伊織に答える。

「俺の那月に対する気持ちは……絶対に、そんな綺麗なもんじゃない」

 俺が言うと、伊織はおかしそうに噴き出し、声を上げて笑った。
 どうしたのだろうと彼女を見ていると、「ごめんごめん」と前置きをしてから、続けて言う。

「誰かを好きになる気持ちが、綺麗なだけじゃないなんて……そんなの、ようやく初恋が終わったばっかりのトワにだって分かるから」

 そう言う伊織の横顔は――とても、美しかった。

 目を閉じて伊織の言葉を反芻する。
 俺はきっと、那月に好意を抱いている。
 それは、今宵に向けた愛情とはまた別の感情だ。

 彼女と過ごした高校時代。
 それは苦悩と絶望と後悔と諦観ばかりだったけど……それ以外の様々な感情も、複雑に絡み合っていて。
 決して、綺麗ごとだけじゃ語り切れない。
 それでも――。

「それでも、やっぱり。俺の那月に対するこの気持ちは……好きって言葉で言い表すものじゃない」

 俺の言葉に、伊織は「そっか」と苦笑をして言った。

「と、いうわけで。トワとあっきーはこれからもズットモだから! ……卒業しても、こっちに戻った時は連絡してね。また一緒に遊びに行こうよ」

「うん、約束する」

「流石あっきー、第一志望の大学に落ちたと思ってすらいないようだね」

 伊織は楽し気に笑ってから、そう言って立ち上がった。
 俺もつられて立ち上がる。

「また辛いときは、いつでもトワが助けてあげるから。あっきーが辛いときは、いつでも連絡してね」

 伊織は微笑みを浮かべて、まっすぐに俺に向かって言った。
 きっと彼女は、俺のことを心配してくれているのだろう。
 その言葉に、俺は本当に救われた。

「ありがとう、伊織」

 それから俺は、縋るように、彼女に向かって告げた――。



 卒業式前日の夜。
 屋上に続く扉の前に、俺は立っていた。
 おかしな言い方だが、こうして学校の屋上に来るのは、これで3回目になる。

 携帯電話に届いたメールを見る。
『学校の屋上に来て』というメールのすぐ後に、『約束、守って』と、2通のメールが届いていた。
 それから、那月からクリスマスにもらった、『合格』と書かれた絵馬の形をしたストラップを見る。

 那月の気持ちを考えず、力づくにでも生かそうと考えていたが、それは止めることにした。
 伊織が教えてくれた。間違いばかりを犯していた俺だけど、それでも全てが間違いだったわけではないと。
 那月が俺に向けてくれた笑顔や気持ちも、間違いだらけではないはずだ。

 そのことを否定して彼女をただ生かしても……今の俺の心には、きっと後悔が残ってしまう。
 だから結局俺は、覚悟を決めてやるしかないのだ。

 那月未来の、心を救うと。

 俺はストラップについているクリーナーで画面を綺麗に拭いてから、携帯を折り畳んだ。
 大きく深呼吸をしてから、既に鍵が開けられている屋上へ続く扉を開ける。
 屋上を歩き、そして手摺りの向こう側に座っている那月のもとに辿り着いた。
 
「久しぶりだな」

 俺が声を掛けると、那月は振り返った。
 呆れたように笑顔を浮かべる彼女は、つい最近あったばかりだと頭では分かってはいても――。
 10年ぶりに再会したような懐かしさがこみあげてくる。

「言うほど久しぶり?」

 那月の浮かべる笑顔は、どこか寂しそうだだった。
 俺は手摺りを乗り越え、彼女の隣に座り込む。

「気持ちの問題なんだよ」

 俺の言葉に「ふーん?」と頷いてから、こちらの表情を覗き込んできた那月が驚いたように言う。 

「……あれ、暗くて分かりづらかったけど、もしかして顔ケガしてる? どうしたの?」

 ここに来るまでに、手当てはしていた。
 だからこそ、傷口に当てられたガーゼや絆創膏が、目立って仕方がないのだろう。

「今宵に殴られた」

「……狛江今宵には、話したってこと?」

 俺の言葉に、那月は声を強張らせて問いかけてくる。
 俺と那月が交わした約束は、二人だけの秘密の約束。
 それを勝手に他人に言ったのか、彼女は気になっているのだ。

「言っていない。ただ、お別れだけは済ませてきた」

 那月が想像しているような言葉ではないが、それでも決別の意思を今宵に伝えていた。
 俺の言葉を聞いて、那月は複雑そうな表情を浮かべる。

「文化祭の日、あいつに怒ってたよね? でも、最後にはお別れを言うってさ……どういうこと?」

 那月はそう言ってから俺の表情を見た。

「ごめん、やっぱりちゃんと聞く」

 そう前置きをしてから、那月は恐る恐る、俺に問いかける。

「あいつのこと――まだ、好きなの?」

「好きだよ」

 俺は那月の言葉に、即答をした。
 彼女は――どこか落胆した様子だった。
 それでも俺は、今宵に対する気持ちに嘘はつけなかった。
 憎悪も嫌悪も、愛情も。
 今宵に向ける気持ちはどうしようもなく複雑で――呆れるほどに純粋だった。

「だけど俺は、今宵と歩む未来を選ばずに、ここに来た」

 そして、今俺が那月に伝えた言葉も、真実だった。
 俺は、今宵と幸せになることはできない。
 傷ついて一人孤独に苦しむ那月を放っておくことも、もう出来ない。
 
「……ありがとう」

 俺が言うと、那月は嬉しそうにそう言って、俺の肩にもたれかかった。
 
「少しだけ、話をしないか?」

「どうして死にたいか、聞きたいの?」

 声音を少し硬くして、那月は言った。

「転校してから、どうだった?」

 俺は首を振ってから、聞いた。
 彼女はちらりと俺を窺ってから、揶揄うように笑ってから言った。

「最低だったよ。あんたと一緒にいる時間以外は」

「光栄だ」

 俺はそう微笑んでから、もう一つ質問をする。

「それじゃあ、俺がずっと一緒にいるから。この先も生きようって言ったら、那月はどうする?」

 俺の言葉に、那月は驚いたように、俺を見つめた。
 それから、照れ臭そうに笑ってから、彼女は答える。

「嬉しいよ。……本当に、すっごく嬉しい」

 しかし、彼女は俯いてから、続けて言った。

「だけど、だめ。私はやっぱり、ここであんたと死にたい」

 俺の服の袖をぎゅっと握って、彼女は言った。

「そうか……」

 俺はそう呟いて応じた。

「あんたはさ……未練って残ってる?」

 那月は俺に、そう問いかけた。
 そんなことを問われるとは思っていなかった俺は、動揺した。
 しかし、彼女はこちらを見ておらず、俺が狼狽えたことには気づかなかったようだ。

「ここで死んだら……後悔は残る」

 那月を救えなければ、俺の胸には後悔が残り。
 ――そして、無意味な時間を繰り返してしまうことになるだろう。

「良かった」

「良かった? ……どうして?」

「未練が残ってたら、私も、あんたも。幽霊になれるかなって思ったから」

 那月は夜空を見上げて、呟く。

「そうしたら。きっとまた一緒に花火を見られるでしょ?」

 一緒に花火を見上げた、夏休みのあの日。
 志望校にお互い合格していたら、那月は東京を案内すると、俺に言っていた。
 もしかしたら、その約束を果たさないままに死ぬことを気にしているのかもしれない。

 ただ、彼女の未練がそれだけじゃないことを、俺はもう知っている。
 俺は彼女の身体を、ギュッと抱きしめる。

「んっ……」

 那月はそう呟いたが、抵抗は一切しなかった。
 身体を委ねて、彼女は俺の背に手を回した。

 これなら――動揺した那月がここから飛び降りようとしても、押さえつけることができる。

「那月の未練は……お父さんのこと?」

 俺は那月の肩を抱いたまま――彼女自身が本日書いたばかりの遺書を、ポケットから取り出して、見せた。

「……え? なんで、それ持ってるの……?」

 俺の腕の中で、那月は怯えたような表情を浮かべている。

「那月の家に入って、取ってきた」

「それじゃあ、中身……」

 なんで俺が那月が遺書を書いたのを知っているのかということまでは、頭が回っていないようだった。

「ああ、読んだ」

 俺の言葉を聞いた那月は――絶望を孕んだ表情を浮かべて、言った。

「あんたには……あんたにだけは、絶対に見られたくなかったのに……!」

 彼女はそう言って、自分の顔を見られないように、俺の胸に額を押し付けた。
 その言葉と、今の那月の様子を見て、俺は思う。

 那月は、いつもこうだ、と。

 那月が相談できる、信頼できる身近な人間なんて、もう俺以外いないはずなのに。
 彼女は俺に幻滅されることを恐れて、いつだって相談できずに抱え込み、平気な風に取り繕って――綻んで。
 どうしようもなく手遅れになって、彼女の心は壊れてしまう。

 自分は優秀で、何でもできて、他人になんて頼らない。
 そう思うのは決して、強さなんかじゃない。
 頼れる友人を作れなかった那月の、致命的な欠点だ。

 いや、那月のせいだけにするのは公平(フェア)じゃない。
 その欠点に気付きながら、俺が彼女の頼れる存在になりきれなかったせいでもあるのだから。

「那月のせいじゃない」

 これが、彼女が全てを吐き出して前を向いて歩けるようになる、最後のチャンスだ。

「ゆっくりでいいから。ため込んだものを、今ここで全部吐き出してほしい。俺は――絶対に、最後まで。那月の味方だから」
 
 顔を上げた那月をまっすぐに見つめて、俺は彼女にそう告げた。