「あの日俺の携帯に、那月……未来さんからメールが届きました。学校の屋上に来て、というメールの後『約束、守って』と一言続いて届きました」

「俺は、失恋をした時に、死のうと思ったことがあります。でも、一人では死ねなかった」

「俺は、未来さんがいじめられていることを知っていました。そして、その時一緒にいた彼女は、俺と同じように悲しんでいる様子だったから、『死ぬときは、一緒に死なせてくれ』と、約束をしました」

「だから、メールが届いたときに彼女は死ぬつもりなんだと思いました。だけど、最近はいつも楽しそうにしていたから……驚きました」

「屋上のカギは、開いていました。普段は南京錠で施錠している扉ですが、未来さんはネットで調べて、ピッキングの方法を知っていました。俺も、彼女に教わって、開けたことがあります」

「屋上に来た俺を見て、彼女は笑顔を浮かべました。とても、これから死ぬとは思えないくらい、無邪気に……嬉しそうに」

「俺はその表情を見て。一瞬、冗談で未来さんが俺を屋上にまで呼び出したんだと思いました」

「『何してんの?』と俺が問いかけると、未来さんは『思い出してたの、最悪だったこれまでの人生を』と答えました」

「『何があったか、教えてくれ』と聞いても、彼女は頑なでした」

「とにかく俺は、彼女に冷静になってもらいたかった。話を聞かせてほしかった。だから、彼女に言いました。『死ぬ前に、もう少し話をしたい』って」

「俺の言葉を聞いた未来さんは、失望したように俺を見ました。『死にたくない?』『私は話なんてしたくない』『今すぐここから飛び降りたい』錯乱した様子の未来さんは、狼狽える俺を見て、ふっと無表情になりました」

 一緒に死ぬって、約束したのに

 嘘つき

「未来さんはそう言って、躊躇うことなく屋上から飛び降りました。俺が止める間もなく」

「俺は何かの冗談だと思って、手摺りを乗り越えて下を見たのですが、暗くて良く分かりませんでした」

「すぐに屋上から出て行って、階段を駆け下りました。きっと何かの冗談で、慌てた俺を指さしながら『ビビりすぎ』って、笑った未来さんが俺の背後から出てくるって、その時は信じていました」

「校舎を出て、周辺を見ると、未来さんを見つけました」

「暗くて遠くからでは分かりませんでしたが、近づくと未来さんの周囲に、血の水たまりができていました」

「それから救急車を呼ばないといけないと思ったんですが……俺が電話をしたのか、近所の人が物音に気付いて連絡したのか、どうしてか思い出せません」

「未来さんとの最後の記憶は、ここまでです」



 那月が死んで、数日が経過していた。
 周囲の目を盗んで、俺は那月の家に来ていた。
 俺が最後に見た彼女のことを、彼女の両親に説明したかったから。
 そして、彼女が自殺を決心した何かに、心当たりがないか確かめるために。

「……辛い話を思い出させてしまって、申し訳ない」

 俺の話を、ずっと黙って聞いていたのは、那月の父だった。
 那月が死んだと聞いてすぐ、東京からこの町に来たようだ。

 俺の話を聞く那月の父は、無表情に努めていたけれど、力強く握りしめられた拳と、血が流れるほどに噛みしめられた唇を見て、隠しきれない憤りを抱えていることに、すぐに気付いた。

「君のことは……知っていたよ、玄野暁君」

「……未来さんのお母さんから聞いたんですか?」

 ゆっくりと首を振り、那月の父は答える。

「あいつは……今はまともに話せる状態じゃない」

 そう言ってから、彼は続けて言う。

「未来の遺書に、君のことが書かれていた。……この町に来て、唯一救いとなる人物だったと、理解しているよ」

「……遺書には、他に何が書かれていたんですか?」

「学校でいじめられていたこと、君に助けてもらったこと、そして――どうしても生きてはいられなくなった理由も書かれていた」

 そう言って、那月の父は俺に彼女の遺書を見せてくれた。
 遺書には、個人名は書かれていないが、学校中からいじめられていたと書かれていた。
 その最悪な状況を助けてくれたのが、俺だと書かれてある。

 そして、もう一つ。彼女を自殺に追い込んだ、致命的なきっかけについても書かれていた。
 その事情を知り、俺は全身の力が抜けた。

 それはあまりに手遅れで――。
 無力な18歳でしかない俺一人では、どうすることもできないものだった。

「その遺書を読めば、娘が君に感謝をしていたのはよくわかる。……ありがとう、君のおかげで娘は最後に、穏やかに死ねたはずだ」

 那月の父は、俺に向かって硬い声音でそう告げた。
 彼の表情を見て、ぞっとした。
 ありがとう、と感謝の言葉を告げる者の表情ではなかった。
 ……彼が俺に向けているのは、純粋な憎しみだった。

「俺は結局最後に、未来さんの信頼を裏切った」

 嘘つき

 ……那月の最後の絶望の表情を、俺はこの先忘れることは出来ないだろう。

「……疲れただろう、帰りたまえ。そして……もう二度と、私に会いに来ないでくれ」

 声を荒げて、那月の父は続ける。

「君のせいではないと、分かっている。君は未来の、唯一信頼できる人として、支えてくれたのだろう。感謝の念は尽きない、本当だ。……でも、だからこそ」

 彼は憚ることなく、涙を流して俺に向かって叫んだ。

「君が未来に『一緒に死のう』とさえ言わなければ……。未来は自らの命を絶つ選択肢を選ぶことは、絶対になかったのに……!」

 怒り
 憎しみ
 嫌悪

 真っ直ぐにぶつけられる生身の感情。
 俺はそれを、冷ややかな感情で受け止める。

 あんたは何も分かっていない。

 俺が何をしても、しなくても。
 結局全てに絶望して、那月はどうせ死んでいた。

 あいつが苦しんでいる最中、何の異変にも気付かずに働いていたあんたに、彼女を傍で支えていた俺が、文句を言われる筋合いはない。あんたら父娘のせいで、俺は最悪な気分だよ……。

 ――そんな詭弁が瞬時に思い浮かんだ自分を、心底軽蔑する。

 彼の怒りは……もっともだ。
 何度繰り返しても、女子高生一人救うことが出来ない俺は……生きる価値のない、ぐずだ。

「玄野くん、本当に申し訳ないがこれ以上は……まともでいられる自信がない。今すぐに、帰ってくれ」

 無言でいた俺から視線を背けて、彼はそう言った。
 俺は、彼の憎しみの炎に薪をくべるだけだと知りながら……その言葉を、彼に告げる。

「あなたの娘を奪ったのは……俺だと思います」

 目の前の男は、力なく、生気のない無表情を浮かべる。
 その後、全身が勢いよく壁に叩きつけられて、衝撃が全身に走る。
 後頭部を強く打ち、目の前の世界がゆらりと不確かになった。

 記憶を失う前に見た彼の表情は……暗い愉悦に染まっていた。



 次に目が覚めた時。
 俺は病院の先生から、今後左目が見えることはないだろうと聞かされた。
 それから、全身を覆う包帯の下にどのような傷がついているかの説明も受けた。
 その説明で、那月の父に何をされたのか、大体の見当がついた。
 
 あのマンションに住む住人が、那月の父の叫び声を聞いて、警察と救急車を呼んでくれたらしい。
 その通報がなければ、手遅れになっていただろう、とのことだ。

 余計なことをしてくれた、と思った。俺は死ぬべきなんだ。生きている意味も価値もない人間だから。

 ……那月の父には、本当に悪いことをしてしまった。
 娘を失った上、殺人未遂で逮捕。
 1周目の世界よりさらに酷い状況にさせてしまった。

「俺のせいだ……」

 俺は呟く。
 一人部屋の病室で、応える者は誰もいない。

「暁のせいじゃないよ」

 はずだったのに。
 いつの間にか、お見舞いのフルーツ盛りを手にした今宵が、病室にいた。
 
「……痩せた? ちゃんと食べてる?」

「……帰れ」

 今は、誰とも話す気分じゃなかった。
 俺は今宵を睨みつけて、一言だけ告げた。

「リンゴくらいは、食べられるよね?」

「良いからほっとけ」

 俺の言葉を意にも介さず、今宵は椅子に座って、果物ナイフを器用に使って、リンゴを剥いていった。

「ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 今宵は笑顔を浮かべて、皿に盛り付けたリンゴを差し出してきた。

 俺は無言でそれを払いのけた。

「帰れ」

 那月を死に追いやった、最後の一押しの原因は、いじめではなかった。
 それでも、那月がいじめられて、孤独に苦悩していたのは確かだ。
 
 そして今宵は、その他大勢と同じように、那月を追い込んだ側の人間だった。
 だから俺は、今宵のことが憎たらしくて仕方がなかった。

 しかし、悪意を孕んだ俺の言葉を聞いても、今宵は動じなかった
 彼女は微笑んでから、口を開いた。

「約束」

「黙れ」

「良いから、聞いて」

 俺の言葉を意にも介さず、今宵は話を続ける。

「『大きくなったら、お嫁さんにして』って約束した、幼稚園生の時。あたしは別に、暁のこと好きじゃなかったんだよね」

 彼女の言葉の意図が分からなかった。

「家が近所で、両親が仲が良くて、一緒に遊んでて楽しい幼馴染。それだけの友達だった」

 ……何が言いたいのだろうか。

「それなのにどうして、あたしが暁と約束をしたのかっていうと……。暁が、あたしのこと好きだったから。あたしは、誰かに愛されている自分が好きだったの。だから、あたしのことを一番好きでいてくれる暁に、ずっと一緒にいて欲しかった。子供の頃のあたしって、酷いよね」

 酷いとは思わない。小さな子供の好き・嫌いなんて、そのくらいの方が微笑ましく思える。

「でも、暁はあの約束をしてから、すごく頑張ってくれた。『可愛い今宵のお婿さんに相応しい男になるんだ』って宣言までして、素敵な男の子になれるように、運動も勉強も、一生懸命頑張ってくれたよね」

 今宵の言う通りだと、俺は思い出した。

「小学生のころは勉強も運動も苦手だったのに、中学校に入ったあたりから努力が実って、運動も勉強も人一倍できるようになってたよね。背が伸び始めた頃から、色んな女の子から告白されるようにもなって、暁は自慢の幼馴染だって思ってた」

 可愛らしく、誰からも好かれる今宵に恥じないようにと、俺は頑張っていた。

「中学三年生の時、一緒の高校に行けるように、つきっきりで勉強を教えてくれてありがとう」

 いつの間にか、俺は勉強も運動もできるようになっていた。今宵の隣にいられるだけで、その頃は満足だった。

「高校では、バレー部のキャプテンやって、最後の県大会でもベスト4になってさ、すごいよね。暁は、いつの間にか学校の人気者になってて、あたしはちょっと、寂しかったりもした」

 綺麗になった今宵の恋人として、俺は相応しいのだろうか? 自問自答を繰り返して……どうしても、俺は自信が持てなかった。
 周囲に映る俺は、努力と執念で着飾った、見かけだけの張りぼてだった。だから、1周目の俺は告白を出来ないままだった。

「だからね、授業中急に告白されて……揶揄われたと思って。嬉しくて恥ずかしくて、OK出せなかったって言ったけど、本当はあたし、ショックだったんだよ? なんでこんなところで、こんな時に? って。だから、あたしが傷ついたって知ってもらいたくって。暁を傷つけるようなことを言った」

 普段から今宵は軽口を言うが、確かにあの時の言葉は、少し攻撃的だったように思う。

「それから、暁はちょっと変になった気がする。屋上でびしょ濡れになるし、トワちゃんと仲良くなるし、びっくりするくらい成績が良くなるし……って、ごめん、こういうことが言いたいんじゃなかった」

 今宵はそう言ってから、俺を真剣な眼差しで見つめた。

「あのね、暁。あたしはね、あたしのことを愛してくれる暁に一緒にいて欲しいんじゃないの。運動も勉強もできる人気者の暁のことが好きなわけでもない。誰よりも頑張り屋さんな暁だから、大好きになったの。これからもあたしと一緒にいて」

 俺が自暴自棄になったことを知っているのだろう、今宵は瞳に涙を浮かべている。

「辛いことがあって、消えてなくなりたいって思ってるのは分かるよ。だけど、もう一人で全部抱え込まないで。一人きりで頑張らないで。あたしが傍で支えるから。だから、二人で一緒に頑張ろうよ」

 今宵は、俺の身体をギュッと抱きしめた。
 彼女の暖かな体温を感じ、俺は確かな優しさに包まれた。

「二人で一緒に、生きていこうよ」

 俺は今宵の背に回す手に、力をこめた。自然と、涙が出ていた。
 今宵が心底俺を気遣っていることが伝わる。

 彼女を疑い、避けた俺にその優しさに甘える権利はないと知っていたけど。
 俺は、心の奥底から湧き上がる想いを、吐露していた。

「俺は……何もできなかった」

 嗚咽をこらえきれない。

「助けたかった。死なせたくなかった。……生きていてほしかった」

 俺の口から紡がれる言葉は、震え、かすれていた。

「ごめん……那月」

 それでも俺の想いは、こうして口から溢れ出ていた。
 頭の中がごちゃごちゃで、何が何だか分からない。
 気持ちも想いも、追い付かない。ただ俺は、那月に謝りたいと思った。

「暁……」

 今宵は俺を呼び掛ける。
 彼女は口元に微笑みを湛えてから、俺を抱きしめる力を強めて、言った。


「あたしの前で、他の女の話をしないで」


 その言葉を聞いて、今宵の顔を見た。浮かべる笑みは、微笑みではなかった。
 背筋も凍えるような……体温を感じさせない薄ら笑いを浮かべ、彼女は俺を空虚な眼差しで見つめていた。

「……え?」

「特に、那月未来の話は絶対に嫌。聞きたくない」

「なんで……」

 俺は呆然とそう呟いてから――。
 激情が宿る彼女の瞳を見て、先ほどの言葉を思い出した。

「暁にちょっと優しくされて、勘違いしちゃったあの尻軽女のこと。あたしは絶対許せないよ。あいつがいなかったら、あたしの暁がこんなに傷つくこともなかったのに」

 どうしてすぐ違和感に気づけなかった?

「……いつから、知ってたんだ?」

「…暁とあいつが学校の屋上で会っていたこと? それなら、最初から知ってたよ?」

『屋上に行ってびしょ濡れになるし』

 今宵は、確かにそう言っていた。
 熱田先生には、渡り廊下で那月と話をしたことは言ったが、屋上のことは誰にも言ったことはない。
 那月も、他の誰かにその話をするとは思えない。
 ではなぜ今宵があの日のことを知っている?
 答えは一つしかない。

 今宵はあの日、教室の前で俺とぶつかってから、俺の後を着いてきて実際にその目で見ていたのだ。

「暁も、ダメじゃん。あんな性格ブス、好きになっちゃ」

 呆れたように、今宵は言う。

「でも、あの女の汚い手口に騙されちゃったってのは分かるよ。わざと周囲を煽って孤立して、暁の同情を引いた。姑息で卑劣なやり方で、絶対に許せないよ」

「そんな訳ないだろ……」

 今宵の言葉は、あからさまな勘違いだ。
 なのに、自分の考えこそが真実だと。彼女は信じて疑っていない。

「暁はあたし以外の女の子のこと、全然わかってないだけだから」

 俺の言葉は、もう彼女には通じない。

「それなら、伊織のことはどう思っているんだ? 俺とあいつは、普段から一緒にいて……」

「可哀そうだって思ったよ」

「可哀そ……う?」

「だって。暁はあんな馬鹿な子のこと好きにならないし。那月未来に嫉妬が向かないように、わざとらしく身代わりに利用しただけでしょ? ……暁のことなら、あたしは何でも分かるんだから」

 淡々と、今宵は言った。彼女の表情を見て俺は……ぞっとした。

 こいつは何を言ってる?
 何を見ている。
 彼女のいう暁とは、誰のことだ?
 本当に、俺のことを見ているのか?

「だから、那月未来は伊織トワとは、全然違うって思うの。頭が良くって美人。しかも、あたしの嫉妬を向けさせないように、わざわざ小細工までした」

 彼女の瞳には、仄暗い光が宿っていた。
 それが何なのか、俺には理解できそうもない。

「……那月は、文化祭の日。誰かから嫌がらせをされて、傷ついていた」

「嫌がらせ? あたしは事実を教えてあげただけだよ」

「事実……?」

 俺の問いかけに、今宵はニコリと笑ってから言う。

「あたしが那月未来の悪口を言った時に、楽しそうに笑ったこと。あたしが暁と那月未来が屋上で会ったことを知っていること。あたしと暁が志望校に合格したら、付き合うって約束したこと。ほかにもいろいろ言ったけど……『お前は暁から必要とされていない』って言った時が、一番面白い顔をしてたよ。普段は綺麗なおすまし顔が、小さな子供が泣く前みたいに、くしゃくしゃの不細工になっててさ」
 
 俺が那月の悪口を聞いて笑っていたのは、タイムリープをする前のことだ。
 俺と那月が屋上で会っていることを今宵が知っているのは、彼女に言ったからではない。
 俺が今宵と付き合う約束をしたのは、どうせその頃に俺は死んでいると思ったから、適当に返事をしただけだ。
 俺は那月を必要としていた。
 
 しかし、それ以外は――今宵が言った通り、事実を言っただけだ。

 那月とは、互いに信頼関係を築けていると思っていた。
 だけど、彼女はどう思っていた? 自分よりもずっと長い間、俺と一緒にいた今宵の言葉が全て嘘だと信じられたのか?

 今宵の言葉が悪意ある嘘だと思っても、芽生えた猜疑心の全てを晴らすことはどうしても出来ない。
 俺が彼女の傍にいても、最後の一線を頑なに超えようとしない俺を、那月はどう思った?

 最後の最後に、一緒に死ぬことを拒んだ俺を見て、どう思った?
 やっぱり、裏切られた。そう思い俺に失望し、この世の全てを呪いながら……彼女は死んでいったのではないか?

 それは……あまりに報われない。
 あまりにも、救いがない。

「ああ、その顔……」

 言葉を失い、呆然としていた俺を見て。
 今宵は嗜虐的に笑った。

「暁は、可愛いね」

 今宵は俺を押し倒し、身動きが出来ない俺の上に跨ってきた。
 身体に力が入らずに、払いのけることも出来ない。

「暁はまだ知らないかな? あたしたち二人とも志望校に合格してたんだよ。……これで約束通り、あたしたちは恋人同士だ」

 そう言って、今宵は俺に口づけをした。
 俺を貪る彼女に抵抗できないまま、衝撃の事実に気付いていた。

 未来が、変わっている。

 元々俺がいた未来では、今宵は大学に合格できずにいた。その後、二浪してから短大に入ることになる。
 無事に東京の大学に進学していた俺と、結局志望校に合格できなかった今宵は、連絡を取ることが気まずくなって、徐々に疎遠になっていった。

 卒業後、俺は東京、今宵は地元に就職をする。
 仕事が忙しく、連絡もなかなか取れなくなって、俺と今宵の関わりがほとんどなくなっていたころ。
 友人の紹介で年上の恋人ができたのだと、今宵は俺に報告をしてくれた。

 その後、今宵はその相手と結婚をした。
 今宵は、平凡だけど誰もが欲する幸せを手に入れるはずだったのに。
 このままではその幸せまでも、俺が奪ってしまうことになる。

 ――今宵のことは、憎い。
 だけど、これ以上俺のせいで誰かの人生を狂わせたくはない。
 
 俺が着ている病衣を、今宵が脱がせようとした。
 抵抗するために何かないかと周囲を見て、サイドテーブルの上に果物ナイフが置いてあるのに気が付いた。
 俺はそれを掴んで、今宵の首筋に切っ先を突き付けた。

「……どけ」

 俺の表情を見て、今宵は驚いたような表情を浮かべた。
 ナイフが肌を裂き、僅かに零れた血が、俺の顔を濡らした。

「どかないなら……本当に殺す」

 俺の言葉を聞いた今宵は――法悦の表情を浮かべていた。

「いいよ、殺して」

 今宵はそう言ってから、俺の顔を覗き込む。
 そして、囁くように、語り掛けてきた。

「人を殺すの、初めてだよね。きっとこれから先、暁はあたしを殺したことを一生忘れられない。朝起きて、ご飯を食べて、学校に行って、勉強をして、バイトをして、友達と話をして、お家に帰って、お風呂に入って、夜に寝て、また起きて。そんな当たり前の日常を過ごしている最中も、暁はふと思い出しちゃうの」

「……ううん、一時も忘れられないことに気付くの。あたしの最後の表情が、常に暁の頭の中にこびりついて、片時たりとも忘れられないことを」

「それって、これから一生暁は、あたしのことを想い続けてくれるってことでしょ? あたし以外の誰かを好きになって、想いを上書きすることも出来ない。あたしを殺せば、もう一生まともな恋愛なんてできないよ」

「大好きだよ、暁。これからはずっと、一緒にいられるね」

「だけど、お願い。苦しまないように殺して? だってこれから一生、暁が思い浮かべ続けるあたしの最後の表情が、痛みに苦しむ不細工な表情だなんて、絶対に嫌だもん」

 彼女の独白を聞いて、俺は自分の浅慮に気が付いた。誰かの人生を、これ以上狂わせたくない?
 今宵はとっくに……俺への想いと嫉妬のせいで狂っているじゃないか。

 頭がおかしくなりそうだ。
 いや、違う。俺もとっくにおかしくなっていた。
 ナイフを握る手に力を込め――。
 俺は自らの喉を、掻き切った。

「へ……?」

 まだ視力がある右目が、今宵の表情が徐々に絶望に染まるのを見た。
 ざまぁみろ、いい気味だ。
 お前はこれから一生、誰のことも愛せない。
 もう、まともな恋愛なんて出来っこない。
 俺の最後の表情を、片時も忘れることなんて出来はしない。

 俺は薄れゆく意識の中、今宵に最期の言葉を伝えるために、口を開いた。

「                」
 
 だけどもう、まともな言葉を発することができない。
 結局、最期の言葉は今宵に伝えられなかった――。