夏休みが明けた。
 
 クラスメイト達が1学期に比べて、全体的に青白くなっているのは気のせいではないだろう。
 まともに外にも出ずに、勉強漬けの毎日を送っていたのだから当然だ。

 それに比べ、炎天下の中ほぼ毎日原付でピザをお届けに伺っていた俺の肌は、いつの間にかすっかりと日に焼けていて、明らかに周囲から浮いていた。クラスメイトの多くは、そんな俺を哀れむように見る。
 ……失恋で受験勉強すら手が付けられなくなったのだ、とでも思っているのだろう。
 誰からも直接言われることはなかったため、俺は弁明もしなかった。
 受験が目前に迫っている。他人のことを気にする余裕は、どうせすぐになくなるだろうしな。


 
「お前は中途半端なんだよ。だから成績も落ちるんだ」

 夏休みが明け、一週間。
 職員室に呼び出された俺は、担任の教師から叱咤されていた。俺が夏の間補習をサボって遊びまわっていたのだと、日焼け跡を見てそう判断したのだろう。

 夏休み明けの実力テスト。
 その結果が学年23位と、一学期の期末テストの16位からわずかに順位が下がっていた。
 俺からしてみれば、10年ぶりに受けた高校のテストであり、予想以上の出来に満足していた。この結果はもちろん、那月が勉強を見てくれたのも大きいだろう。
 
「大学受験は団体戦だ。お前のようにやる気のない人間がクラスにいると、全体の士気にかかわる。油断をすれば落ちるのはあっという間だぞ。2学期は、心して勉学に励むように」

 現状の成績でも、第一志望の大学に合格するのに十分だとは思うのだが、俺が補習をサボって和を乱したことを非常にお怒りのようだった。俺は一度会釈してから、職員室を後にした。

「お、戻ってきた!」

 教室に戻ると、伊織が声を掛けてきた。
 既に放課後であり、残っているのは彼女だけ。
 どういうわけかは知らないが、俺が戻るのを待っていたようだ。

「センセーに呼び出されてたけどさ……どうだった!?」

 楽しそうに、瞳を輝かせて問いかけてくる。

「成績が下がったから、怒られたんだよ」

「やっぱそーなんだー!」

 嬉しそうに、伊織は言う。

「それでさ、どのくらい下がったのー? この間のテスト、何位だったわけー??」

「……23位」

「そっかー、23位かー」

 俺が答えると、伊織は朗らかに笑いながら、俺に中指を突き立てた。

「全然成績良いじゃん! うっぜー!」

 伊織は俺を睨みつけながら、続けて言う。

「ていうか、夏休み結局トワのことデートに誘わなかったのって、バイトが忙しかったからじゃなくって、時間があれば勉強してたからだ!」

 俺は無言のまま首肯した。

「あっきーはトワと一緒に落ちこぼれてくれると思ってたんだけどな。この裏切り者……」

 落ち込んだ様子でため息を吐いた伊織。

「リカリノも最近は結構まじめに勉強してるし、なんだかなー」

 つまらなさそうに、伊織は呟く。
 その様子を気の毒に思い、俺は彼女に声を掛ける。

「今日は怒られてイライラしてるから、この後時間あるならさ、ちょっと付き合ってくれよ」

 俺が言うと、彼女はポカンとした表情を浮かべてから、

「アッキーにとってトワは都合の良い女ってこと……?」

 と、泣きまねをしながら言った。
 俺はそれを無視して言う。

「駅前のカラオケ行こう。ストレス解消にはちょうど良いし」

「お、良いじゃ~ん! あっきー愛唄歌ってよ」

 カラオケと聞いて、あからさまに機嫌を良くした伊織。
 そして、彼女の言葉を聞いて、とてつもなく懐かしい気持ちになった俺は、

「おう、任せろ」

 と、快活に答えた。



「あのさ……最近トワちゃんと仲良くない?」

 2学期も既に、1か月ほどが経過した頃。
 突然俺の部屋を訪れ、ベッドの上に腰かける今宵が、椅子に座る俺を睨みながら、問い詰めるようにそう言った。

「あー、そうかも」

 カラオケに行ったあの日以降、俺は伊織になつかれているように思う。
 受験モードに切り替わった他のクラスメイト達よりも、俺の方が気軽に話せるのだろう。

「そうかもって……」

 責めるような視線を俺に向けて、今宵は呟く。

「……二人でカラオケ行ったって、本当なの?」

「本当だけど」

「何それっ!」

 今宵は俺の言葉を聞いて、憤慨した。
 俺ににじり寄り、胸倉をつかんだ今宵は、いつもよりずっと低い声音で俺に言う。

「あたしと約束したよね? お互いに志望校合格したら、付き合おうって。なのに暁は勉強もせずにトワちゃんと二人っきりでカラオケってどういうこと? 浮気?」

「とりあえず落ち着けよ」

 俺はそう言って、今宵の肩を押し、俺の胸倉から手を離させた。

「勉強はやってるよ。その息抜きにカラオケ行くにしても、受験勉強頑張ってる奴は誘いにくいから、伊織に声を掛けただけ。それで少し仲良くなったのかもしれないけど、それ以上でもそれ以下でもない」

 俺の言葉に、納得がいっていない様子の今宵。

「不安にさせて悪かったな」

 俺は今宵の頭を撫でながら、そう謝った。
 彼女は照れ臭そうに頬を赤く染め、視線を背けた。

「トワちゃんのことは分かった、信じる」

 どうやら今宵の不満は収まったようだ。正直ちょろいと思った。

「あとさ……もしかしてだけど。那月未来と、仲良い?」

「……なんで?」

 夏休み中、週一ペースで会っていた那月だが、教室では特に会話をすることはなかった。
 校外で一緒にいるのを見られたのだろうかと思ったのだが……。

「だってさ、毎朝挨拶してるじゃん」

「……そんだけ?」

 俺は肩透かしを食らった。
 その程度のことを言っているのであれば、否定することは何もない。

「それだけ? 暁、あいつのこと嫌ってたじゃん。一言も口きかないように、無視してた。あたしがあいつの悪口言っても、笑って同調してた。そんなだったのに、普通に挨拶するっておかしいでしょ」

 今宵にとっては、非常に重要なことらしかった。
 確かに今宵の言う通り、俺は那月のことを嫌っていたから、彼女が疑問に思うのは不思議ではないだろう。
 ただ、伊織とのことを問い詰めていた時よりも、さらに切羽詰まっているように見えるのが、俺には気になった。

「……なんで黙ってるの?」

 余裕のない表情で、俺の答えを聞き出そうとする今宵。

「いい加減にしろよ」

 俺は……少しだけうんざりして言う。

「高3にもなって、気に食わないってだけの相手を無視するなんて陰険だ。普通に挨拶したって、何も問題ないだろ」

 説得するつもりはなかった。
 ただ、こんなくだらないことで問い詰められるのが、無性に苛立たしかった。

「……うん、分かった」

 俺の表情を見て、機嫌が悪いことを察したのか、意外なほど素直に今宵は引き下がった。

「ただね……」

 そう呟いてから、今宵は俺に抱き着いた。
 鼻腔をくすぐる、甘い香り。彼女の体温と、俺の体温と混じりあうように錯覚した。
 今宵の胸の鼓動が伝わる。
 彼女は俺を見つめ……そして、首筋に口づけをした。

「……こういうのは、お互いが志望校に合格してからじゃなかったのか?」

「その自覚が薄いみたいだから、強硬手段」

 悪戯っぽく笑ってから、今宵は立ち上がる。
 そして、俺を見下ろしてから、彼女は今しがた口づけした首筋に指を這わせながら、言う。

「浮気は絶対、許さないから」

 彼女の笑みは、妖艶さを帯びていて。
 その瞳には、仄暗い嫉妬の炎が宿っていた。
 過去はもちろん、未来でも、ただの一度も見たことのない狛江今宵を目の前にして――。
 俺はただ、彼女の年齢不相応な美しさに見惚れて、何も言えなくなっていた。



 夏は過ぎ、気づけば季節は秋になっていた。
 日焼けの後はすっかりと落ち着き、上着を羽織らなければ、肌寒いほどになった。

 クラスメイト達は受験を控えて、どこか緊張感のある毎日を送っているようだったが、人生のゴールが間近に迫る俺には、あまり関係がない。

 あれから、今宵とは不自然なくらいいつも通りの関係に戻っていた。
 お互いの家に行き来することはなく、会話も至って普通。
 まるであの日に見た彼女は、俺の見間違いだったのかと思うほどだ。

「何ぼーっとしてんの?」

 呆れたようにそう言うのは、那月だった。
 俺は今、学校帰りに彼女と一緒に、いつものファミレスで勉強をしていた。 
 那月は今もこうして、時折俺の勉強を見てくれている。

 彼女のおかげで、現役時代以上の学力になっている気さえする。
 こうして接してみると、面倒見が良いことが良くわかる。
 なのに、当然のように。那月は、相変わらずクラスに馴染めてはいなかった。

「もうすぐ文化祭だけど、那月は去年どうしてたんだろうって思って」

 俺は那月にそう言った。
 高校最後の体育祭は既に終了し、受験までに迎える大きなイベントは、この文化祭で最後となる。

「そんなこと考えてたの? 文化祭は二日とも、図書室で勉強してたわ。いつもより人が少なくて、とても集中できたわ」

 溜め息を吐いて、那月は言った。
 一緒に文化祭を見て回る相手はいないだろうとは思っていたが、文化祭当日まで勉強をしていたとは、驚きだ。

「今年の文化祭も、見て回るつもりないのか?」

「なーにが楽しくて、田舎者の青春ごっこを見て回らないといけないのよ」

 大げさに肩をすくめながら、舌を出してお道化たように那月は言った。
 それから彼女は俺の表情を見て、はっとした表情を浮かべる。

「……もしかして、誘ってくれてる?」

「まぁ、一応」

 那月は驚いた様子で、苦笑する俺を見ていた。

「この学校のことを好きになってもらおうとは思っていない。だけど、よく知りもしないのに、嫌いたくはないんじゃないか?」

 俺が言うと、彼女は弱々しく笑ってから、言う。

「あんたの言う通り。まともに文化祭に参加してないのに、田舎者の青春ごっこだなんてバカにするのは、筋違いだったわね」

 それから、続けて言う。

「ありがたい申し出だけど、遠慮しておく。私は見世物になるつもりはないから」

「見世物?」

 どういう理屈だろうかと思っていると、彼女は俺に説明をする。

「あんたは一応、リア充って言われる側の人間。日陰者のあたしと一緒に行動すれば、どうしたって好奇の視線に晒される。そんなのごめんだわ」

「嫌なら無理には誘わない。でも、好奇の視線には慣れてるだろ?」

「はぁ? あんた、私のこと馬鹿にしてるの?」

 俺の言葉が癇に障ったのか、彼女は苛立ちを隠しもせずに俺に問いかける。

「そういうわけじゃなくて。那月は美人だから、普段から視線に晒されてるだろ」

 校外で彼女と並んで歩くとき、俺に羨望の眼差しを向ける男が数多くいることに、辟易しそうになるくらいだ。

「長年片想いしていた幼馴染にフラれた反動で、バカギャルを狙っていると思えば、今度は私まで口説くつもり? ごめんなさい、節操なしの軟派男はタイプじゃないの」

 白々しいと言いたげな様子で、俺を睨む那月。
 俺の言葉がナチュラルにセクハラだったせいだが、変な勘違いをされてしまった。

「そいつは残念。気が変わったらまた相手をしてくれ」

 肩をすくめてそう言うと、彼女は無言のまま俺のすねを蹴り上げ、未だ収まらぬ不満をぶつけてくるのだった。



 そしてまた、日常が過ぎ去り、高校生活最後の文化祭当日となった。
 3年生は受験を控えているため、出し物を担当することはなく、基本的に見学のみだ。
 那月はもちろん、今宵や伊織と行動をすることはせず、かつてそうだったように、俺はクラスの男子数人と共に、校内を見て回った。
 騒々しい校内の様子に、かつての記憶が蘇る。俺は懐かしさを覚え、普通に楽しんでいた。



 昼が過ぎ、盛り上がりを維持したまま、夕方になった。
 後一時間もすれば、文化祭初日は終了する。

 俺は友人たちと共にステージ発表を観ていたのだが、ふと那月のことが気になった。
 彼女は今年も、図書室で勉強をしているのだろうか?
 周囲がこんなに盛り上がっているのに、彼女は一人勉強に励んでいるのだとしたら、寂しすぎる。

 ……那月にはいつも勉強を見てもらっているし、ちょっとしたお礼に差し入れでも持っていこう。
 そう思った俺は友人に声を掛けてから、ステージ発表をしている講堂から出て行った。

 購買で紙パックの紅茶を購入して、図書室へと向かう。
 しかし入り口に到着したが、靴箱には何も入っていない。
 念のため入室して室内を見て回ったが、那月の姿はなかった。

 どこにいるのだろうかと考える。
 心当たりは……あった。
 俺は校舎に入り、階段を昇る。
 そして、屋上の扉の前に立つ。

 南京錠が開けられている。やはり、ここだった。
 俺は扉を開いて、屋上へと踏み入った。
 見ると、手摺りに寄りかかりながら、那月は下を眺めているようだった。

 俺は彼女の隣に並び、そして声を掛ける。

「今年は図書室で勉強しなくて良いのか?」

「……あんたか。何の用?」

 俺の声を聞いても、彼女は気に留めた様子はなく、こちらを一瞥もしない。
 気だるげな表情を浮かべたまま、ぼうっと眼下を眺めるだけだった。

「勉強中だと思って、ささやかながら差し入れを持ってきたんだよ」

 そう言って、彼女の目の前に、俺は紙パックのジュースを掲げて見せる。

「ああ……どうも」

 口ではそう言ったものの、一向にジュースを受け取ろうとしない。
 俺は彼女の前にジュースを掲げたまま、諭すような口調で言う。

「……何かあったんなら、話聞くけど」

 那月の様子は、明らかにおかしかった。嫌がらせを受けたに違いない。
 そして、誰からも傷つけられないように、一人になれるこの場所へと逃げてきたのだ。

「うるっさいっ!」

 俺の言葉に、那月は苛立ちを見せた。
 この時ようやく、彼女と俺の視線がぶつかった。
 那月の目元は、赤く腫れていた。

「その目……」

 俺が呟くと、彼女は視線を逸らしてから、俺の手を勢いよく払った。
 紙パックが俺の手から、地面に叩きつけられ、中身が零れた。

 紅茶がアスファルトに吸い込まれるのを無言で眺めていた那月は、決して俺と視線を合わせないようにして、言う。

「……良いから、一人にさせてよ」

 俺は不格好に潰れた紙パックを拾ってから、一言呟く。

「……悪い」

 今の俺が彼女のためにできることは……何もなかった。
 俺は呟き、那月の反応を見ることもせず、屋上を後にする。



 季節は、さらに巡る。
 紅葉が落ち、枯木がイルミネーションに彩られ、民家の門前には門松が飾られ――そうして日々は過ぎ去り、気付けば受験も終えていた。

 俺は、1周目の世界で合格をしていた大学を、今回も同様に受けた。
 おそらく無事に合格していることだろう。
 それは、那月が俺に勉強を教えてくれた日々があったおかげだ。

 ……その那月と最後に会話を交わしたのは、文化祭初日の、あの日。
 あれ以降、彼女が俺の勉強を見てくれることがなくなったのはもちろん。
 挨拶を返してくれることもなくなっていた。

 寂しい、と思うことはない。
 彼女の傍に寄り添うことをしなかったのだから、当然のことだ。

 俺は携帯電話のディスプレイに表示された日付を眺める。
 今日は卒業式の前日。
 それは、一周目の世界で、那月未来が自ら命を絶った日だ。

 俺は、彼女からの着信を待っている。
 梅雨が明け快晴の下で告げられた、彼女の言葉を思い出す。

『私が死ぬときは――あんたと一緒に、死んであげる』

 確かに交わした、彼女との約束。
 その約束を覚えていれば、そろそろ連絡が来るはずだ。
 ――そう思っていたのだが、いくら待っても彼女からの連絡はなかった。

 窓から外を見ると、周囲はすっかり暗く、既に夜になっていた。
 きっと、那月からの連絡は来ないのだろうと、半ば悟る。

 俺は、両親に宛てた遺書を机の上に置き――部屋を出た。



 夜の学校は、思っていた以上に冷え込んだ。
 俺はコートの襟を合わせて、階段を昇る。
 そして、屋上の扉の前に辿り着いた。当然のように、南京錠は開けられている。

 俺は、扉を開いた。
 瞬く星空の元にいたのは、幽鬼のように存在感がおぼろげな、那月未来だった。
 彼女は、屋上の扉が開いたことに気が付いて、振り返った。

「どうしてあんたが……ここに?」

 驚愕と、微かな歓喜を滲ませて、那月は俺に問いかけた。

「約束しただろ」

 俺の一言を聞いた那月は、悟ったように穏やかな表情を浮かべた。

「そっか」

 彼女は呟く。
 俺がここに来たことは、確かに不審なことだったろうが、死を決意した彼女にとっては、些事に過ぎないのかもしれない。
 俺は手すりを乗り越え、彼女の隣に立った。
 上を見上げれば、星が瞬く綺麗な夜空が広がっているのに、
 下を見下ろせば、果てのない奈落の暗闇が、口を開けていた。

「どうして、俺に声を掛けてくれなかったんだ?」

 俺は不満まじりに問いかけた。

「私と違ってあんたには、必要としてくれる人がいるから。――私と一緒に死なせるのが、申し訳なかった」

 那月の言葉は本心だと思った。
 言葉の通り、死ぬほど辛いことがあろうとも、誰かを道連れにして死のうと思うようなイカれた感性はしていないのだろう。

「あんたは、どうして私と一緒に死にたいの? ――狛江今宵も、伊織トワも。クラスの連中だって、きっとそう。あんたを必要としている人は、大勢いるのに」

 那月の言葉を聞いて、彼女が未だに、俺に対して幻想を抱いているのが分かった。
 だけど、その期待に応えることは――無理だ。

「……どうだって良いんだよ、そんなこと」

 俺の口から、心の内でせき止めていた絶望が漏れる。

「俺は、誰かのことを愛せる人間だと思っていた」

 かつての俺の記憶が、18歳の身体の俺を動かしている。
 呆然と俺を見つめる那月を慮ることもせず、俺は続ける。

「今宵に恋焦がれ、彼女のために努力を重ね、それでも最後の一歩を踏み出せず、後悔をした過去がある。……だから俺は、今宵以外の誰かを好きになろうと努力した。今宵以外の誰かとでも、俺は前を向いて愛を育み幸せになれると思っていた」

 まだ俺が経験していないはずの苦悩を思い出し、俺の身体は当然のように、きつく拳を握っていた。

「でも、ダメだった」

 どんなに美しい相手でも。
 どんなに聡明な相手でも。
 どんなに誠実な相手でも。
 どんなに情熱的な相手でも――。

「たとえ、誰もが羨む完璧な相手だとしても。俺が囁く愛の言葉は滑稽なまでに空虚だった。――俺の胸の内に、今宵に想いを伝えられなかった後悔が、大きな孔を空けたのだと思った。そしてそれは、誰にも埋めることはできなかった」

 俺が人生を繰り返していることを知らない那月には、意味の分からない言葉だったろう。

「だから、もう一度やり直せる機会を得られて、俺は歓喜した。たとえ拒絶をされたとしても、構わなかった。悔いはなくなり、いつ死んでも良いと思っていた」
 
 今宵にフラれた俺だったが、それでも満足だった。
 後悔はない。そして、未来に希望もない。俺はいつ死んでも良いと思った。
 だから、俺は那月に向かって、あの雨が降る屋上で、『お前が死ぬときは、俺も一緒に死んでやる』と伝えたのだ。
 だけど――。

「だけど、今宵の笑顔を見て。今宵に本当の想いを告げられて。鼓動が高鳴る肉体に反し、俺の心が彼女に囚われてはいないことを自覚した。その時気付いたんだ」

 夏休みの初日のこと。

『あたし、暁のこと、好きだし。……大好きだし』

 あれだけ恋焦がれた今宵から想いを伝えられたにも関わらず。
 恥ずかしがる彼女を可愛らしいと思い、18歳のこの肉体が胸の鼓動を高鳴らせても――。
 
 28歳の俺の記憶と、心は。
 ……彼女を愛おしいと思うことはなかった。

 それは、伊織トワに対しても、那月未来に対しても同じだった。

 彼女らへ向けて、先のことを考えられない俺が語った言葉は全て。
 かつて俺が愛そうとした相手に囁いた言葉と同じ、欺瞞に満ちた空虚な言葉だった。

「結局俺は。元から誰のことも愛せない空虚な人間だったと認めたくなくて、今宵へ気持ちを伝えられなかった後悔のせいだと言い訳をして、目を逸らし続けているだけだった」

 俺は、服の上から胸をかきむしる。
 心と肉体の境目には、目には見えない大きな孔が、確かにあった。

「たとえ勉強して良い大学に入り、良い会社へ就職して、社会的にも経済的にも勝ち組と呼ばれることになっても。たとえ目の眩むほどの大金を得て、誰もが羨むような大勢の美女を侍らせようとも。……俺の心は満たされず、愛に飢えて乾くだけ」

 時が経つほど、28歳の記憶が、この思春期の肉体に馴染む。
 だけど、記憶に肉体が追い付かない。
 強引に押し込まれた心が、未完成な(からだ)が、悲鳴を上げる度。
 俺の生への執着は薄れ、死を渇望するようになった。

「そんな生涯に、価値はない」

 那月を見ると、彼女は俺を無言のまま見ている。
 その視線には、明確な侮蔑が込められていた。

「だから、どうだって良いんだよ。たとえ誰かが俺のことを必要としても、俺は誰にも、何も返せない。俺の心は決定的に欠けていて、幸せになんてなれないし、誰かを幸せにするつもりもない。こんなに醜い自分自身と向き合うのに、これ以上耐えられない。それなのに――自分一人じゃ、死ぬ度胸もない」

 きっと今俺は、皮肉に歪められた、醜い表情を浮かべていることだろう。

「那月がどうして死にたがるのか、俺は聞かない……聞きたくない。もしもその理由に同情して、お前に死んでほしくないと思っても。それでも俺は自分のために、お前に一緒に死んでほしいと思うだろうから」

 俺の言葉を聞いた那月は、嘲笑を浮かべて、心の底から俺を見下すような視線を向けてきた。

「人生最後の夜に、頭のおかしくなりそうな気持ちの悪いポエムを聞かされた私は、もしかして今世界で一番不幸なんじゃない?」

 怒りに震える声。彼女の期待を裏切る俺の弁舌に、彼女は心底失望したようだ。

「悪いな」

 俺の言葉に、那月は不快感を露わにして言う。

「私はあんたを好きだと思ってた。でも、それってただの勘違いだったみたい――私よりも下の人間を見て、ただ安心したいだけだったんだから」

 俺は彼女の言葉をまっすぐに受け止める。
 俺と那月の関係は、それで良いのだ。
 互いの心に触れ合い、寄り添い、心を許しあう可能性を感じたのかもしれない。

 そんな未来なんてありえなかったのだと――、俺は自分自身に言い聞かせる。

「那月」

 俺の呼びかけに、彼女は寂しそうに、「なに?」と答える。

「俺には、お前が必要だ」

 俺は彼女に、手を差し出す。
 他の誰もが、那月を必要としなくても。
 今、俺は、他の誰でもなく――。
 那月未来と、共に死にゆく未来が欲しかった。

「最低」

 彼女は一言、吐いて捨てる。
 それでも、その表情は穏やかだった。
 彼女の手は、差し出した俺の手を、優しく握りしめた。

 俺と那月は、互いに視線を交わらせた。
 無言のまま、ほんのわずかに笑いあって……俺たちは自然と、一歩踏み出していた。

 身体に訪れる浮遊感。
 まるで空を飛んでいるような錯覚をしたのは、一瞬だけ。

 重力に囚われ堕ちてゆく中、ようやく迎える終わりを予感し、胸の内は歓喜に彩られた。

 しかし、それは一瞬のこと。
 地面にぶつかる、その瞬間――。
 那月を見て、俺は後悔した。
 
 彼女の頬を伝う、一筋の涙。
 いたいけな少女を救うことも考えず、ただ周囲と同じように追い詰めることしかしなかった、どうしようもなくクズな自分を、今際の際に改めて自覚させられた。

 どうして、誰も彼も、彼女の涙を拭いはしなかったのか。
 もしかしたら、俺が彼女の涙を止めた未来が、あったのかもしれない。

 今さらどうにもならないことに、最後の最後に気付かされ――。
 だからこそ、俺は彼女を見てしまったことを、心底後悔した。

 衝撃を受け、俺の思考は中断された。
 全身をバラバラに引き裂くような、堪えようのない痛みを受け。
 断末魔の声を上げることもできないまま――。

 俺の意識は、そこでなくなった。



 ――くない?――

 混濁した意識の中、俺は『何か』を見ていた。
 これは、何だろうか――?

「貸切だな」

 俺の言葉に、

『今は補――ければ家か予備校でして――は図書――いだろうしね』

 目前の那月は答えた。
 定かではない意識、それでも俺の肉体は、はっきりとした意志を持って動いているように見える。

 これは……あれか。
 今度こそ、本当に走馬灯を見ているのだろうか。
 思い返す。
 夏休みのこと、彼女に勉強を見てもらってから、屋上で花火を見た日のことを。
 彼女に連れられ、俺たちは屋上へとたどり着いた。
 そして、そこで見る鮮やかな花火。

『予定が狂っ――い花火じ――内してもらったお礼には、なりそうにないわね」

 意識が徐々に明瞭になる。
 頬を撫でる夜風を、隣に並ぶ那月の息遣いを感じ……。
 頭の中のノイズが、一気に晴れる。
 
 ああ、そうか。

「そうかもな」

「……あんたが東京の大学に無事合格したら、今度はあたしが案内してあげる」

 俺はまた、同じ時を繰り返すのか――。

「……聞いてる?」

 絶望する俺の頬を、遠慮なく平手打ちをした那月。

 か弱い力だったが、確かな痛みを感じた。
 その痛みが、これが現実なのだと、ダメ押しのように決定づけた。

 不満を浮かべつつも、どこか心配そうに俺を覗き込む、那月の表情を見て――。

 俺は力なく、その場に崩れ落ちるのだった。