「あたし、暁のことずっと……好きだったんだよ」

 俺は今、夢を見ている。過去に戻る前のことだ。
 高校時代の同級生との同窓会、俺は大人になって……一際綺麗になった今宵と、話をしている。

「でもさ、暁は全然私の気持ちに気が付かないんだもん」

 今宵はそう言って、寂しそうな表情を浮かべた。
 
「俺も、今宵のことが好きだった(・・・)よ」

「じゃああたしたち、両思いだったんだね」

 今宵はそう呟いて、自らの手に視線を落とした。
 細くしなやかな彼女の左手の薬指に嵌められているそれ(・・)を見て、俺は自分の気持ちを伝えるには手遅れなのだと、実感していた。

 今宵の中で、俺への想いは既に、青春時代の思い出になっているのだろう。
 一方俺はどうだ? 彼女への想いは――深く暗く沈む、胸を締め付けられるこの想いは。
 ただの『青春時代の甘酸っぱい思い出』となって、風化したものだとは、到底言えそうにない。

 俺と、今宵の間には今、沈黙が訪れていた。
 そのせいか、周囲で明るく思い出話に花を咲かせる旧クラスメイト達の声が、嫌に鮮明に耳に届く。

「――そういえば、トワってさ、今日来れないんだっけ?」

「あんた知らないの? あの子詐欺だか窃盗だかで逮捕されて、今オツトメ中だから」

「うわ、マジ!? ショック……でもないか。いつか私はやると思ってました。馬鹿だったしね、あの子」

「ショックと言えば、現国の熱田先生覚えてる?」

「覚えてるよけど、クニオくんも捕まった?」

「捕まってはないけどさ、そのクニオくん。ちょっと前に結婚したんだけど、相手があたしらの一個下の、当時の女バレ副キャプテンらしいんだよね。しかも、彼女が一年生の頃から、周囲にバレないように付き合ってたらしいよ」

「うっわ、マジで!? いや、クニオくん若くて顔も良かったから人気あったけどさー……ロリコンだったかぁー」

「結婚までした純愛だから、単なるロリコンとは違うと思うけどね、まぁまぁショックだよねー」

「他になんかそういう話、仕入れてないの?」

「他かぁー、うーん……」

 雑音から意識を逸らして、俺は今宵を見る。
 全てが手遅れだったとしても。
 このまま、今宵との会話を終わらせたくはなかった。

「……今宵は今、幸せ?」

 俺は、彼女の左手から視線を逸らしながら、そう問いかける。

「うん、幸せだよ」

 今宵は、俺の問いかけにすぐに答えた。
 その表情は、少しだけ寂しそうだったが……それ以上に、本当に幸せそうだった。

「そうか、それなら良かった。……無責任な言葉だけど、今宵には幸せになってもらいたいから」
 
 その言葉とは裏腹に、俺の胸の内には暗い劣等感が宿っていた。
 出来ることなら今宵のことは、俺が幸せにしたかった

「ありがとう。……暁もさ、もう幸せになって良いんだよ?」

 目を細め、今宵は優しくそう言った。
 それから、俺の頭を撫で、髪の毛をくしゃくしゃにしてから、席を立った。
 彼女の背に、俺は声を掛けることができなかった。

 今思えば、今宵と言葉を交わすのが最後になると、この時既に予感していたと思う。
 俺は、炭酸が抜け、氷も解けてすっかり薄くなったハイボールを口にして――。

『もし、高校生のあの頃に戻れたら。暁はどうする?』

 突然、俺の前に高校時代の今宵が現れ、そう問いかけてきた。
 驚くものの……これは夢なのだ。不思議なことは、何もない。

「ずっと好きだったって、俺は今宵にそう伝える」

 俺は苦笑を浮かべ、高校生の今宵にそう伝える。

『そう……』

 今宵は憂いを帯びた眼差しを俺に向け、そう呟いた。

「でも、ごめんね」

 そう言って今宵は表情を急変させ……嘲笑を浮かべる。
 そして、ケラケラと馬鹿にしたように笑いながら、

『あたしのことが好き? はぁ、意味わかんないんだけど。付き合うわけな

 ジリリリリリリリ!

 騒々しい音が耳に届き、俺は半ば強制的に目を覚ました。
 それから枕元に置いてある目覚まし時計を操作し、アラームを切る。
 安眠している普段であればこの音色を忌々しく思うところだが、今日に限っては助けられたと思う。
 
「なんつー悪夢だよ……」

 今しがた見た夢を思い出しながら、俺は大きくため息を吐いてから呟く。
 その悪夢を……俺は今も見続けている。

 タイムリープをして過去の世界に戻ったことで、俺は今宵に告白をすることができた。
 そして、今宵に対する、『呪い』のような『想い』に決着をつけることができた。
 ――その代償として、この二周目の人生を生きることになったのだ。

 割に合わない……とは思わない。
 もしもあの世界で俺が生き続けていたとすれば、きっと死ぬまでわだかまりを抱えたままだったろう。それは――あまりにも価値のない人生だったに違いない。
 そのわだかまりがなくなったことで、今度は生きる意味すら見失ってしまったのは……皮肉というほかないのだが。
 しかし、この二周目の人生にも、終わりが見えてきたのが救いだった。

 ――那月未来。

 未来の世界では既に死んでいた彼女と、俺は共に死ぬことを約束した。
 一人では死ぬことができない俺でも、彼女と一緒になら死ぬことができるはずだから。

 那月のことが語られていなかったか、俺は同窓会のことを思い出した。
 10年近い年月は、少なからず人を変えていた。
 だが、外見も、内面も変わったとしても……思い出は変わらず、色あせることはない。
 
 それ故に、誰とも友情を育むことがなく、思い出を共有することができなかった那月のことを語る者は――一人もいなかった。



 夏休み初日。
 ――とはいえ、大学受験を控えた高校三年生が遊び惚けることなどできるわけがない。
 今日から補習で、クラスメイト達の多くは補習を受けに学校に行っていることだろう。

 しかし、この二周目の人生で大学受験をまともに考えていなかった俺は、近所の宅配ピザのバイトをすることにした。
 時給はなんと、俺が知っている東京の最低賃金を大きく下回る、790円。
 貴重な高校生の時間を費やすには低すぎる時給と思うものの、この田舎にしてはかなりの高時給ではある。

 原付の免許を持っていた俺は、このクソ暑い中、あちこちに宅配ピザをお届けに伺っていた。

 その日の夕方、バイト初日を特に問題なく終えた俺は、控室で着替え終えていた。それから携帯電話を確認したところ、複数のメールを受信していることに気付く。
 その送り主は、つい先日メールアドレスを赤外線通信という懐かしすぎる方法で交換したばかりの、那月だった。

『遅刻?』
『体調不良?』
『は、サボり?』
『無視すんな』

 非常に短い文面から、彼女の怒りが伝わってくる。
 どうやら那月は、きちんと補習を受けているらしい。

『サボり』

 俺が一言メールを送ると、驚いたことに1分も経たないうちに、那月から電話がかかってきた。
 俺が通話ボタンを押すと、

『何サボってんのよ?』

 早速、携帯電話から不機嫌そうな声が届いた。

「バイトしてた」

 俺が答えると、『はぁ、バイト?』と戸惑ったように彼女は言った。

「宅配ピザのバイト。クーポンいるか? めっちゃ安くなるけど」

『いらないわよ。え、あんた大学受験しないの?』
 
「一応、するつもりはあるけど」

『……今日はもう、バイト終わったの?』

「ああ、今日は終わったけど」

『今から西駅近くのファミレス来れる?』

「……行けるけど」

 何の用があるんだよ? と尋ねる前に、

『じゃあ、10分以内に来なさい』

 と那月は言い残し、通話を切った。
 俺は手に持った携帯電話を眺めてから、溜め息を一つ吐いた。



「早かったわね」

 指定されたファミレスに到着すると、制服姿の那月が既にいて、アイスティーを飲んでいた。
 俺は彼女の向かいに座ってから、

「お前が10分以内に来いとか言うからだ」

 と、不満を告げる。
 しかし、那月は俺の文句を涼しい顔で聞きながし、

「何か頼んだら?」

 と言って、俺にメニューを渡してくる。
 俺はそれを見ずに、通りがかった店員さんに声を掛けて、ドリンクバーを注文した。
 それから、立ち上がり、ウーロン茶をグラスに注いで席に戻る。
 一口飲んで喉を潤す。

「それで?」

 と、俺が聞きたいことを那月に問いかけられる。

「それは俺のセリフだ……」

「なんで受験する予定なのに、この時期にバイトなんてしてるのよ」

 真剣な表情で、那月は俺に言う。

「ああ、そういうことか」

「大学、どこ行くつもりなのよ」

 那月の言葉に、俺は元の世界で無事現役合格をしていた、都内の大学名を言った。

「結構レベル高いところ狙ってるみたいだけど、あんたって成績良いの?」

「確か……大体20位以内」

 那月の質問に、俺は記憶を探って答える。
 過去に来てからテストを受けていないため、10年前の記憶になるのだ。

「確か、って何よ?」

 俺の様子を訝しんだ那月は、そう問いかけてくる。

「万年学年一位に自慢できる順位じゃないからな」

「あら、そ。どうもありがとう」

 俺の嫌味な言葉にも、涼しい顔をして応える那月。
 彼女は転入してからずっと、学年一位を獲り続けている。
 ……そのせいで、『頭が良いからって人を見下している』と、陰口を叩かれていることも多い。

「お金に困ってるの?」

 聞きづらそうに、那月は俺に問いかける。

「そういうわけじゃない」

「それなら、バイトなんてしてる場合じゃないわよ。今の学力でも、合格安全圏ってわけじゃないんだし」

 と言われても、俺は今さら勉強に精を出すつもりはない。
 そして、できるだけ稼ぎたいわけがあった。

「……欲しいものがあるんだ」

 具体的には今後価値が大幅に上がる企業の『株』だ。
 それは、自分のために保有するものではない。
 ――少しでも多く、親に残したいのだ。

 先立つ不孝を、金で許してもらえるとは思っていない。
 それでも、何か残せるものがあるとすれば金しかない。
 そんなことくらいしか思いつかない俺は、浅はかな人間なのだろう。

 俺の言葉を聞いた那月は、呆れたような表情を浮かべ、大きくため息を吐いた。
 彼女に向かって、俺は言う。

「心配かけたみたいだな、ごめん」

「そうよ。心配して損した。……でもちょっと、安心したかも。欲しいものがあるなら、今すぐ死にたいと思ってるわけじゃなさそうだし」

 と穏やかに言ってから、那月ははっとした表情を浮かべる。

「いや、別に心配してないわよ!?」

 彼女は顔を真っ赤にして俺を睨みつけながら、そう言った。

「どっちだよ」

 俺が苦笑して言うと、

「知らないっ!」

 と、そっぽを向いて彼女は答えた。
 それから、再びため息を吐いた彼女は俺をまっすぐに見つめてから、諭すように穏やかな声音で言う。

「……事情は分からないけど、バイトばっかりして第一志望におちるようなことあれば、あんたが一番後悔するんだから。ちゃんと勉強はしなさいよ?」

 那月の言うことはもっともだった。
 ……まさか28歳にもなって、女子高生に正論を諭されるとは思いもしなかった。

「ああ、そうするよ」

 俺の言葉を素直に信じたわけではないのだろうが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。



 それから、一時間ほど、俺と那月は至って普通の高校生らしく、他愛のない世間話をした。
 彼女の好きな歌手や、芸能人のこと。
 そして、半ば験担ぎのために、4月以降に始まったドラマやバラエティ番組を取りためたDVDは、合格するまで決して見ないと決めているらしい。
 彼女との話は、俺にとっては懐かしい思い出であり、気持ちが若返ったように感じた。

 意外だと思った。
 元の世界ではまともに会話をしないまま、自らの命を絶った那月が、こんなに普通の女子高生のように話して、笑うことが。
 こうして話をしていると、彼女が高校を卒業する前に自殺をすることが、信じられない気持ちになる。

「……何見てんのよ?」

 彼女が話をしている最中、俺は相槌をするのを忘れて彼女の顔をじっと見てしまった。
 那月は怪訝そうに眉を顰め、俺に向かって問いかけた。

「いや……そろそろ暗くなってきたけど、時間大丈夫か?」

 俺が尋ねると、彼女は左手に嵌めた腕時計に目を落とした。
 
「もうこんな時間!」
 
 と驚いてから、何故か俺を睨む那月。

「はぁ? 別にあんたと話すのが時間を忘れるくらい楽しかったわけじゃないんだけど?」

 素直になれないこの刺々しさが、安っぽいツンデレみたいで、俺は微笑ましくなった。

「はいはい」

 俺は微笑みを浮かべて言うと、那月は俺から視線を逸らし、伝票を取ってから立ち上がる。
 彼女の後をついて行き、二人で会計を済ませてファミレスを出る。

 俺が駐輪場に停めていた自転車を引っ張り出すと、彼女が口を開いた。

「あれ、あんたの家って、駅から結構近い?」

「自転車で15分くらい」

「方向は?」

 那月の質問に、俺は自宅の大体の位置を教える。
 すると、彼女は驚いたように言った。

「え、私の家と近っ!」

 彼女が自宅の位置を説明した。
 俺の自宅と駅の半ばくらいの場所のようだ。
 これも、元の世界では全く知らない情報だった。

「送っていく」

 俺が言うと、那月は「悪いわね」と悪びれもせずに言ってから、荷台に座った。
 普通に歩くつもりだったのだが、漕げ、ということだろう。

「二人乗りは道路交通法違反だ」

「バレなきゃ良いわね」

 他人事のように那月は言う。どうやら降りる気はないらしい。
 ここで問答をするのも面倒だと思い、俺はおとなしく自転車を漕ぐ。
 
「頑張れ頑張れー」

 と、那月は楽しそうに言っていたが、俺は「はいはい」と適当に相槌を打つ塩対応をする。
 それから、ほんの数分後。
 交差点の赤信号で止まると、彼女は荷台から降りて、言った。

「あ、私の家この近くだから。送ってくれてありがとう」

「気をつけろよ」

 俺が言うと、彼女は「うん」と頷いてから両手を振り、

「それじゃ、またね」
 
 と言って、俺の進行方向とは違う方向へ向かって歩き始めた。

「……またね、か」

 今は夏休みの上、俺は補習に行く予定がない。
 次に会うのは2学期に入ってからだろうなと思いつつ、青信号になっているのを確認した俺は、再び自転車を漕いだ。
 それからさらに数分後、俺は自宅に到着した。

「ただいま」

 と、夕食の準備をしていた母親に声を掛けてから、俺は自室へと向かう。
 部屋の扉を開けると……、

「お、やっと帰ってきたー」

 と、どうしてか俺のベッドの上で寝転びながら漫画を読んでいる今宵に、そう声を掛けられた。

「……何でここにいるんだよ?」

 当たり前のように俺の部屋にいる今宵に、俺は問いかける。
 彼女は上体を起こしてこちらを見て、わかりやすく不機嫌そうな表情を浮かべている。
 
「あたしが部屋に来ちゃダメなの?」

「驚くから一言くらい連絡くれよ、って言いたかったんだよ」

「これまでは勝手に部屋に入っても、何も言わなかったじゃん」

 今宵は不満そうな表情を浮かべる。
 言われてみれば確かに、彼女は時折、こうして勝手に俺の部屋に入っていたのを思い出す。
 だけどそれは中学時代までの話で、高校に上がってからはお互いの部屋を勝手に行き来することは、なかったはず。……記憶違いかもしれないので、黙っておくが。

 無言でいる俺に、今宵はそれ以上追及をしなかった。

「今日、なんで補習来なかったの?」

 今宵は俺にそう問いかけてきた。
 どうやら、那月と同じように、彼女にも心配をかけてしまったらしい。

「サボりだよ。……いや、名目は強制参加ってわけじゃないんだし、正確にはサボりってわけでもないけど」

「でも、受験する子はみんな来てるし。暁だって、受験するでしょ」

 俺は今宵の言葉に、無言で頷く。

「じゃあ、来なきゃダメじゃん」

「そうだよ、俺はダメな奴なんだよ」

 俺の言葉に、今宵はムッとする。

「暁、結構成績良いじゃん。それでダメなら、暁以下のあたしは何になるのよ?」

「成績じゃなく、人間性の問題だから。今宵は俺より、よっぽど上等だよ」

 減らず口を叩く俺を今宵はじっと睨みつける。
 それから、彼女は瞼を伏せ、震える声で問いかけてきた。

「ホントはさ……あたしに会いたくないからじゃないの?」

 それから、彼女は続けて俺に問いかける。

「約束、覚えてる?」

 ……いつの約束だろうか?
 さすがに、高校時代にした些細な約束を思い出すのは困難だ。
 俺が無言でいると、彼女は言う。

「大きくなったら、あたしをお嫁さんにしてくれるって約束」

「それなら、覚えてる。もう10年以上前の約束だ」

 幼稚園の頃に交わした、ありがちで、微笑ましいその約束を、俺は未だに覚えていた。
 結局、果たされることのないその約束を。

「うん、そうだよ」

 俺が約束を覚えていたことに、今宵は照れ臭そうに笑顔を浮かべた。

「あのさ、暁さ……勘違いしてるから」

 彼女はそう言って、思いつめたような表情を見せる。
 嫌な予感がした。

「あたしは暁のこと、好きだし。……大好きだし」

 俺の告白を断った今宵は、恥ずかしそうに頬を朱色に染めながら、そう呟いた。
 その言葉に彼女を見返すと、俺の枕を手に取り、それで自分の顔を遮るようにした。

 彼女の様子を見て、言葉を聞いた俺は――疑うことなく、理解した。

「……みんなの前で告白されて、嬉しかったけど恥ずかしくて、とてもじゃないけどOKって返事が出来なかったってことだろ?」

 その可能性は、もちろん考慮していた。
 あの状況下で告白を了承できる人間は少ないだろうし、もちろん今宵はそんな神経の図太い奴ではない。
 
「はぁっ!? 分かってたの!?」

「いや、そうだったら良いなって思っていただけ。ホントにそうなら、もっと早く俺に自分の気持ちを伝えてくれると思ってたし」

 淀みなく言い訳を口にした俺。
 今宵は、恨みがましく俺を睨んでから、

「だって……ハズかったんだもん」

 俺の枕を抱きしめ、顔を埋めながらそう言った。
 表情は見えなかったが、ショートカットの髪から覗き見える両耳は、真っ赤になっていた。

 彼女の言葉を聞いて――嫌な予感が当たってしまった、と思った。

「あのさ、お互い受験が上手くいくまで、付き合うのは無しにしよ?」

「え、なんで?」

 俺は思わず『なんで(付き合うこと前提なんだよ)?』と口にしてしまった。
 
「だってあたし、無理だもん……。受験モードと恋愛モード、上手に切り替える自信ないから」

 しかし、都合よく解釈をしてくれたらしい。
 
「付き合ったら、絶対暁に迷惑かける。めっちゃ束縛するだろうし、いっつも一緒にいたいと思うし、嫉妬もめちゃくちゃして……勉強どころじゃなくなるから」

 俺は彼女の告白を、無言のまま聞いていた。

「でも、お互い受験が上手くいってから付き合えるってわかってたら……あたし、絶対勉強頑張れると思うの」

 今宵は、甘えるように俺を上目づかいで見つめて、告げた。

「だからさ、もう少しだけ……待ってくれるよね?」

 彼女の問いへの答えをどうすべきか、もちろん分かっている。
 断るべきだ。 
 俺はもう、今宵とともに生きる未来を思い浮かべることができない。
 ここで気を持たせる返事をすれば……俺が死んだときに、彼女を余計に悲しませるだけ。 
 それに今宵は、俺がいなくても幸せになる未来が待っているのだ。
 ……その幸せを奪う権利なんて、俺にはない。

 だから、俺は彼女に対してはっきりと告げる。

「ああ」

 しかし、俺の口から出た言葉は、考えていることと真逆のものだった。
 
「本当に、良いの……?」

 彼女は相変わらず俺の枕を抱きしめながら、確認をするように問いかける。
 俺は無言のまま、頷いた。

「……やった」

 体育座りで、抱いた枕に顔を埋め、足の指先をパタパタと動かして、今宵は喜びを表していた。
 その姿を見て、俺は無性に可愛らしいと思い、そして……胸の高鳴りを自覚した。

 それからすぐ、今宵は動きをぴたりと止めた。
 そしてベッドから立ち上がり、扉の前まで移動し、俺に背中を向けたまま、立ち止った。

「……どうした?」

 不審に思った俺がそう問いかけると、彼女はこちらを振り向かないまま答える。

「これ以上暁の部屋にいたら……頭、おかしくなっちゃうし」

 部屋の扉を開いてから、続けて彼女は言う。

「あたし、勉強頑張るから……暁も、ちゃんと頑張ってね?」

「お、おう」

「おやすみなさい」

 そう言い残し、今宵は部屋を出て行った。
 それから、閉じられた扉に視線を向けながら、俺は大きく溜め息を吐いた。

 いくら初恋の相手とはいえ、28の俺から見た今宵は、ただの田舎育ちの小娘に過ぎない。
 それが頭では分かっているのに、これほどドキドキしてしまうのは――、きっと、この18歳の肉体に精神が引っ張られているからだ。28歳の俺がいくら頭で終わった恋だと整理しても、この18歳の肉体がそれを拒絶し、彼女とともにいることを望んでしまっている。

 ……面倒なことになってしまった。

 彼女の告白は、間違いなく断るべきだった。
 俺の中で、彼女に対する気持ちは既に、整理がついている。
 今さら彼女と付き合ったところで、死ぬことをやめようとは1ミリも思わない。

 俺は頭を抱え、ベッドに仰向けに寝転んだ。
 そして、普段嗅ぎなれない甘い香りに、ドキリとする。
 今宵の残り香だ、そんなものにまでいちいち反応してしまうこの思春期の身体が、恨めしい。
 
 参ったな。
 自室の天井をぼうっと眺めながら考える。
 
 俺が死ねば、今宵の心には大きな傷を残すこととなる。
 にもかかわらず、死ぬことをやめようとも、彼女へ誠実な説明をしようとも一切考えない自分勝手な自分自身に対して――。
 たまらなく、嫌気がさした。



 今宵に気持ちを伝えられてから、数日後。

 俺はその間、補習を受けに行くことはなく、バイトに精を出していた。
 今宵からは『ちゃんと勉強もしろ』と連絡が一回あっただけで、補習に来いとは言われることはなかった。

 そんなわけで、今日も俺はこれからバイトだ。
 身支度を済ませたので自室から出ようとしたところ、携帯電話が着信を告げた。 
 着信画面を見ると、那月からだった。
 バイトが始まる時間にはまだ時間があるため、俺は電話に出る。

『あんたちゃんと勉強してる? 課題は?』

 いきなりだった。

「……やってない」

『やっぱりね』

 嘆息した彼女は、続けて問いかけてくる。

『バイト、次の休みっていつ?』

「次は……、今週の金曜」

『それじゃあ金曜、この間のファミレスに1時半。課題を持って集合ね』

 と、自分の言いたいことを言って、電話を切った那月。
 人の予定を確認せずに、勝手に予定を埋めやがって……と、少々腹は立ったが、一応は俺が勉強をしていないことを心配してくれていたのだろうし、無視をするのは忍びない。
 俺はおとなしく携帯電話のカレンダーに予定をメモして、バイトへと向かった。



 そして、金曜日。

「ん、来たね」

 俺がファミレスに到着すると、制服姿の那月が既に席に座っていた。
 当然だが、補習の帰りだったのだろう。

「あんた昼は食べたの?」

 俺に問いかける那月は、クリームパスタを食べているところだった。
 
「もう食べたよ」

 俺は店員さんを呼び止めて、ドリンクバーを頼む。

「そ。それじゃあこれ食べ終わったら、課題手伝ってあげる。ありがたく思うことね」

 パスタをフォークで口に運びながら、那月は偉そうに言った。

「はいはい、どうもありがとう」

 俺は適当にそう返事をしてから、彼女を横目で見る。
 多忙な受験生だ。本来ならば自分の勉強に時間を費やしたいはず。
 にもかかわらず、補習をサボるような不真面目な俺に、わざわざ時間を割いて課題を手伝おうとしているのだ。
 俺が思っていたよりもずっと、彼女はお人好しなのだろう。

「何?」

 俺の視線に気づいたのか、訝しんだ彼女は俺に問う。

「何か飲む?」

 那月の前のグラスを見ると、ほんのわずかに薄茶色の液体が残っているだけだった。

「アイスティー」

 彼女は憮然と答えた。
 俺はドリンクバーで自分と那月の分の飲み物をグラスに注ぐ。
 席に戻ってアイスティーを渡すと、

「ん、ありがと」

 と、彼女から素直にお礼を告げられた。
 それから、俺はウーロン茶を飲みながら、カバンから課題を取り出し始める。
 この時初めて、2周目の世界で課題の中身を見た。
 高校時代の勉強など、すっかり忘れてしまったものもあれば、意外と覚えているものもあった。
 俺は懐かしさを感じつつ、ぺラペラと課題を眺めていった。

「お待たせ」

 しばらくした後、那月は昼飯を食べ終えたようだった。
 彼女は店員さんに皿を下げてもらってから、お手拭きで机を拭いた。

「私も適当に課題やっとくから、分かんないことあったら何でも聞きなさい」

 と、言うことだったため、俺は一切遠慮せずにガンガン質問をしていく。

「いや、あんたマジで学年20位?」

「バイト漬けで頭から抜け落ちたのかもな」

「笑い事じゃないから……」

 俺の質問を聞く那月は、呆れを通り越して本気で心配そうな表情を浮かべていた。

 しかし、那月の教え方は本当に上手だった。
 忘れていたような問題も、驚くほど鮮明に思い出すことができた。

「……教えたらすぐに出来るようになったわね」

「那月の教え方が上手で、すぐに思い出したよ」

「そもそも、受験生のくせに勉強したことを忘れるほどバイト漬けになってるのがおかしいから」

 そう言ってから、那月は腕時計で時刻を確認した。
 俺も、店内の壁かけ時計で確認する。
 休憩を挟みつつ勉強をしていたが、時間は既に17時になっていた。
 真剣に勉強をしていたため、あっという間に感じた。

「朝から勉強しっぱなしだったから、疲れた。今日はおしまい、続きはまた今度ね」

「また課題手伝ってくれるのか? ……自分の勉強は良いのか?」

「あんたがそれ言う?」

 胡乱気な眼差しを俺に向ける那月。
 彼女はそれから、続けて言う。

「安心しなさい、何も慈善事業で勉強を見ている訳じゃないから」

「俺のバイト代が目当てなのか……?」

「違うわよ」

 彼女は頬杖をついてから、続けて俺に言う。

「私、この田舎町のこと全然知らないからさ。ちょっと案内してよ」



 ファミレスで会計を済ませてから、どこでも良いからおすすめのスポットに連れていけ、ということだったため、思い出の場所に彼女を連れてきていた。
 小学生のころ、よく友達と遊びに来ていた川だ。

「へー、こんな綺麗な川があるなんて、知らなかったわ」

 夕方の5時過ぎ。周囲はまだ十分に明るい。
 太陽の光を反射した水面が、キラキラと照らされていた。
 俺も、随分と久しぶりにこの場所に来た。

「あれ、ここってなんか釣れるの?」

 那月の視線の先には、釣竿を持っているおっさんがいた。

「ここは鮎が釣れるって、有名だな」

「私も釣りたい!」

 楽しそうに笑みを浮かべて、那月は言った。

「釣竿は、俺も友達に借りてたから持っていないし、そもそも漁協組合の遊漁券も必要だし、無理だな」

 俺がきっぱりと言うと、「無理かぁ……」と残念そうに落ち込んだ那月。

「でも、せっかくだし入ってみよ」

 そう言って靴下と靴を脱いで素足になった那月は、川に入った。

「冷たーい!」

 何が面白いのか、那月はテンション高めにはしゃいでいる。

「あんたもこっち来なさいよ!」

 めんどくさいな、と思いつつも、俺はサンダルを脱いで川に入る。

「冷てー!」

 何が面白いのかと思ったが、俺も川の冷たさに何故かテンションが上がっていた。
 那月を見ると、目視できる魚を掴み取ろうと、川に手を出し入れしているが、成果はなかった。

「指先に当たってる気はするんだけどなー」

 悔しそうに、彼女は言う。
 俺も試しにやってみるが、結果は那月と同じ。やはり手づかみ出来る気がしない。
 そうやってひとしきり遊んだ後、俺と那月は川に足を浸けながら、岩場に並んで腰かけた。

「私さ、鮎って食べたことないんだけど、美味しいの?」

「小骨が多いけど、塩焼きとか美味いよ」

「そっかー、それじゃあもうちょっと頑張ってみようかな」

 腕まくりをしてから、那月は言った。

「やめとけよ。獲れるわけないから黙ってたけど、手づかみも遊漁券ないとダメだから、ここ」

「それじゃあ、無駄な努力だったってこと!?」

「そういうことだ」

 がっかりする那月は、微笑ましく見えた。
 学校では常にむすっと押し黙っている姿しか見せないため、こんな無邪気にはしゃぐ姿は、非常に珍しい。

「私、東京で生まれて東京で育ったから、こういうことしたの初めて。……結構楽しかったかも」

 微笑みを浮かべて水面を眺めながら、那月はそう言った。
 俺は、気になったことを尋ねることにした。

「急に、この町のことを知りたがるなんてさ……どうしてなんだ?」

「来年、私は東京の大学に合格して、こんなクソ田舎とはおさらばする。多分、一生ここに戻ることはない」

 那月は、寂しそうな表情を浮かべるまでもなく、ただ淡々とそう言った。

「このクソ田舎には良い思い出なんてないし、大人になってこの町を思い出した時、最悪な場所だったとしかきっと思わないんだよね」

 どうしても、いじめられた高校時代の思い出をセットで思い出すことになるのだから、彼女が生きていたとしたら(・・・・・・・・・)、その予想はきっと的中したことだろう。

「でも……私はこの町のこと、知らないことばかりだから。何も知らないのに、クソみたいな場所だったって断言するのはさ、何か違うでしょ? ちゃんとこのクソ田舎のことを知ってから、クソみたいな場所だったって思いたいの」

「お前はクソ真面目だな。……よく知りもしないで無責任に叩くことなんて、言っちゃなんだが普通のことだろ?」

 那月の言葉を聞いて、俺は呆れつつもそう言った。
 無責任に人の悪口を言うなんて、この時代でもありふれていることだった。

「それじゃ、私のことよく知りもしないで悪口言うやつらとおんなじになる。私はそいつらなんかよりも、素晴らしい人間だから……そんなつまんないことはしないの」

 那月の言葉に、納得した。
 それは、彼女の意地のようなものも、あったのかもしれない。
 俺は、彼女の言葉を否定も肯定もしない。
 正しいとか、間違っているとかではなく、彼女の考えはただひたすらに生きづらそうだなと、そう思えた。

 無言でいる俺に、那月は視線を向けずに俯いたまま、呟いた。

「でも……あんたのおかげで、この場所のことは好きになれたかも」

 彼女の横顔を見て、いつの間にか日が傾いていることに気が付いた。

「また今度、別の場所を案内するよ」

 俺の言葉を聞いて、彼女はちらりとこちらを見た。

「そ、ありがと」

 そっけなく呟く那月の頬は――。
 夕暮れ方の太陽の光に照らされて、僅かに朱く染められていた。



 夏休みも既に折り返しが過ぎていた。

 1周目の人生では、お盆前後のこの時期には、高校での補習がなく、予備校での夏期合宿を受けており、勉強漬けの毎日だった。
 この2周目では、アルバイトに精を出し、適当に課題をこなし、たまの休みに那月から勉強を教わっているような状況で、一周目よりもよっぽど気楽な高三の夏休みを送っていた。

 今日は、バイトが休みのため、学校の図書室で那月に勉強を見てもらうことになっていた。
 課題をカバンに詰め、制服を着て家を出る。

 駅に到着し、改札前に来た時……目の前で電車が出て行った。
 久しぶりに電車を利用するため、駅に来るまでのペースを誤っていたらしい。次の電車は……30分後。

 嘆息しつつ、待合室に移動する。
 都会では考えられないが、この田舎では1時間待ちもあり得るので、まだましだったと思おう。
 俺は携帯を取り出し、メールにて那月に少し遅れることを伝える。
 既読機能はついていないため、すぐに確認をしたかは不明だが、時間になっても俺が来なければ、メールの一通くらい確認するだろう。

 ――それから、携帯をいじって時間つぶしをすること10分。
 伊織から電話がかかってきた。
 彼女とメールでやり取りすることは、ほとんどない。珍しいなと思いながらも、俺は電話に出る。

「もしもし、玄野です」

『トワでーす』

「何か用?」

『え、ちょっと待ってなんかテンション低くない?」

「低くないよ。伊織からの電話が珍しかったからさ」

 俺の言葉に伊織は、『あー、ね!』と、どういう意味かは分からないが、とにかく明るい調子でそう言った。

『てかあっきーの方が珍しくない? リカリノから聞いたけど、補習来てないんでしょ?」

 リカリノ? と首を傾げたが、伊織の友達のギャル二人のことだった。

「うん、行ってない」

『優等生のあっきーが珍しいじゃん! なんで?』

「バイトしてるから」

『バイト! ウケるー!』

 何が面白いのだろうか……? 伊織のハイテンションにはついて行けない。

『ま、それはいーや。でさ、そのせいでさ! トワとあっきーがさー……補習サボってデートしてんじゃね? ってリカリノに言われててさー』

「ああ、そういうことか。誤解させて悪いことしたな」

 文句でも言いたいのだろうと思い俺が速やかに謝罪すると、伊織は気にした様子もなく続けて言う。

『じゃなくてさー、今日とか暇? マジでデートしようよ』

「悪い、今日は予定あって、忙しい」

 俺は即答する。

『そっかー、残念……。じゃーさ、今度暇な日! あ、バイト代入ってからで良いからさっ!』

「バイト代目当てってことかよ?」

 俺のツッコミに、伊織は明るく言う。

『そんなことは……ある! ちなみにトワはいつでもオッケーだから、よろしくねー!』

「分かった、時間があったらまた連絡するから。……じゃ、またな」

『うん、またねー』

 会話を終え、俺は通話を切った。
 伊織には悪いが、面倒だから連絡はしないでおこう……。
 


「遅れて悪いな」

 那月との約束の時間より、少し遅れて学校に到着した俺は、図書室に入り那月に声を掛けた。

「良いわよ、田舎の電車は本数少なくて不便だしね」

 彼女はこちらに一瞥もせず、そう答えた。
 遅刻を怒っている様子ではなかった。

「貸切だな」

 彼女の対面の席に腰を下ろしてから、周囲を見渡し俺は言った。

「今は補習で学校にくる生徒はいないし、勉強したければ家か予備校でしてるだろうし。体育会系の部活に入ってる1,2年は図書室に来ることなんてないだろうしね」

 那月の口から予備校と出てきたので、俺は少し疑問にも思って問いかけた。

「そういえば、那月は予備校に通ったりしないのか?」

 俺はカバンから、今日こなそうと思っている課題を取り出し、筆記用具を用意した。
 それから、那月を見る。彼女はなぜか、答えに窮しているようだった。

「私は……、自分のペースで苦手をつぶしていきたいから」

 歯切れの悪い彼女の答えを聞いて、予備校でもいじめられているのか、もしくはいじめられるのを恐れているのかと、そう思った。

「そうか」

 俺は追及することなく、課題に取り掛かる。
 那月も、何も言わない。しばらくの間、俺たちは無言のまま課題を解いていった。



「……今日はそろそろ終わりね」

 那月の声を聞き、俺は窓から外を見る。
 既に日は落ちていた。随分と長い間、集中していたようだ。

 俺は座ったまま伸びをする。
 机の上に広がった課題や筆記具を、那月とともにカバンにしまう。

「この後も時間あるでしょ?」

「あるけど。ファミレスで続きでもするか?」

 那月の言葉にそう返すと、彼女は首を振った。

「あんたに案内してもらった、田舎町全体を見下ろせる展望台がある公園は、中々悪くない場所だったわ」

 先週の休みにも、俺は彼女を案内していた。

「展望台に上る階段に、蛇が出てきてめちゃくちゃビビってたのも俺的には悪くなかったよ」

 俺の言葉に、那月は恨めしそうにこちらを見て、「そのことは忘れて」と早口で言った。
 それから、気を取り直すように「コホン」と咳ばらいをしてから、

「今日はそのお礼に、良いものを見せてあげる。ついて来て」

 そう言って、彼女は席を立った。
 良いものとは何だろうか? 期待を抱かず、俺は彼女の後をついて行く。
 那月は校舎の階段を昇っていき、そして屋上の扉前に辿り着いた。
 しゃがみこんだ彼女は、捻じったクリップ二本を上手に使い、南京錠を開けた。

「手際良いな。……なるほど、その技が良いものってことか」

 俺が感心しながら言うと、

「ばーか」

 と呆れたように那月になじられた。
 彼女は屋上へと足を踏み入れ、俺も続いた。

「それじゃあ、良いものってのはどこにあるんだ?」

「まだ、見えない」

 すっかり暗くなった夜空を眺めながら、彼女は呟く。
 ……今日は、珍しい星でも見える日だったろうか。
 俺も、彼女と同じように空を見上げる。
 綺麗に星が見える日だった。思えば、こうして夜空を見上げたのは、いつぶりだろうか?

「都会の空は狭くて、田舎は広いとかって言う人いるけど、あんまりしっくりこないと思わない?」

 ふと、那月が空を見上げたまま言った。

「確かに、都会の空は、高層ビルが邪魔をして狭いように感じることもあったけど……田舎は電線が邪魔でうっとおしい」

「もっと大自然なら違うのかもしれないけど、言われてみればそうかもしれないな」

「大自然ではないけど。この屋上は空を遮るものがないから、田舎の空の広さが分かったの」

 ただの世間話に過ぎないのだろうとは思う。
 それでも俺は、気になったことを問いかけた。

「那月は、あの日。空を見上げず、下を向いていた」

 初めてこの屋上で彼女を見たとき、雨が降る中、彼女は地面を見下ろしていた。

「……上を見上げてばかりじゃ疲れるから、下を向いて楽になりたいときもあるでしょ?」

 無表情に感情なく、那月は言った。
 彼女は、周囲からいじめられている現状を、辛いと思っているのだろう。
 それでも心折れずに頑張っていられるのは、来年には東京へ戻るという支えがあるからに違いない。

 ――結局その心は折れ、自ら命を絶つことになるのだが。

「あ、始まった」

 那月はそう呟いて、空を指さした。
 彼女の指し示す方向を見ると、夜空を鮮やかな光が舞った。
 続々と、色鮮やかな光が花開く。俺はそれを、無言で眺める。

 全く気が付かなかったが、今日は花火大会の日だったようだ。
 那月は俺にこれを見せるために、今日は普段のファミレスではなく、わざわざ電車移動が必要になる学校での勉強を提案したのだろう。

「ありがとう、那月」

「良い息抜きになると思って」

 そう言ってから、彼女は続けて言う。

「ただ……思っていたより、しょぼいわね」

 ……こういう性格だから、敵を作るんだろうなと俺は苦笑する。

「予定が狂ったわ。こんなしょぼい花火じゃ、あんたに案内してもらったお礼には、なりそうにないわね」

「別に気にしてないよ」

 俺が答えると、彼女は遠くに見える花火よりも、さらに遠くのものを見ようとしているのか、目を細めて言った。

「……小学生の時、お父さんとお母さんに連れられて見に行った東京の花火大会は、もっともっと凄かった」

 有名どころで言えば隅田川の花火大会だろうか?
 東京の花火大会は他にも色々とあるが、確かにこの田舎町に比べれば、予算も規模も桁違いだ。

「そうかもな」

「……あんたが東京の大学に無事合格したら、今度はあたしが案内してあげる」

 その言葉を聞いて、俺は彼女を見た。
 花火を見るために上を向いているので、決して視線は合わない。
 
 それでも、俺は彼女の横顔をまっすぐに見て、答える。

「ああ、楽しみにしているよ」

 俺の答えを聞いた那月は、無言のまま口元に微笑みを湛えた。
 
 その笑みを見て、俺は自嘲した。
 ――それが決して果たされることのない約束だと、分かっていたから。