リーマンショックで社会の底辺に落ちたオレが、国王に転生した異世界で、経済の知識を活かして富国強兵する、冒険コメディ

 俺はルミアナの部屋で密かに魔法の訓練を続けていた。自分に魔力が備わっていることを知った時は、内心小躍りして喜んだ俺だったが、いざ訓練を始めてみると簡単に上達するものではなかった。いきなり「オレ最強」なんて世界ではなかった。それでも幻惑と火炎の初級魔法をいくつか習得しつつあった。

 俺がルミアナの部屋に行くときはキャサリンも必ず付いてきて、俺の練習の合間に、魔力黒板に向かって基本図形である「丸印」を念じている。もう何日も通っているのに、黒板に円形が表示される気配はない。それでも、いつも何かを念じているようだ。もしかすると、別の何か怪しい願望を念じているような気がして一抹の不安を覚えるのだが。

 さて、ルミアナによれば、どうやら俺は攻撃系の魔法、とりわけ火炎魔法の才能に秀でているらしい。とはいえ魔力黒板で練習するばかりで、魔法石を使って実際に火炎魔法を発動したことは一度もない。魔法石はルミアナが少し持っているだけで、俺は一つも持っていないからだ。これではちっとも面白くない。

「そろそろ魔法を実践してみたい気もするのだが、魔法石が無いと何もできないな」

「そうですね。攻撃系の魔法ならほとんどの場合は魔法石が必要ですからね。魔法石を売っているのはエルフの国ですから、ここから買いに行くことは、ほとんど不可能です。時間があればアルカナ国内で、ご自身で探し出すこともできますが」

「本当か! どうやって魔法石を探すのだ」

「魔法石を探すには、<素材探知(マテリアル・ディテクション)>の魔法を使います。素材探知の魔法の発動に素材は不要です。魔法石の見つかりそうな場所、たとえば崖のような地層のむき出しになっている場所、あるいは洞窟、古い鉱山などで素材探知を行うと、魔法石から、かすかな囁きが聞こえてきます。その音を元にして見つけ出します」

「なるほど、それは地道な作業になるな」

「いま取り組んでおられるお仕事が一段落したら、一緒に探しに行きましょう」

 そうか、エルフの里でなくても、素材探知の魔法を使えば国内で魔法石を調達できるのか。素材集めは必要だが、それなら魔法もかなり使い勝手が良くなるな。

「また、支援系の魔法や補助系の魔法に使用する素材であれば、このあたりの市場で売っている薬草から抽出できます。すでにこの部屋にも数多く準備してありますので、しばらくは幻惑魔法や補助系の魔法で実践してみるのもありでしょう」

「そうだな、しかし、どこで幻惑魔法を実践しようか」

「人間を相手に練習するわけにはいきませんので、まずはお庭で飼ってるウサギを幻惑魔法の<睡眠(スリープ)>で眠らせるところから始めましょう」

 確かに人間を相手に魔法を掛けるわけにはいかない。とはいえウサギだって迷惑だろうな。まあ、<睡眠(スリープ)>の魔法で死んでしまうことは無いだろうから、勘弁してもらおう。

 その時、魔力黒板を見ていたキャサリンが、突然大声を上げた。

「ちょっと、ちょっと見てよ! 黒板に見たこともない模様が浮かび上がったわ。これ何かしら、すごい予感がするわ。絶対にすごい特殊能力だわ」

 普段から冷静なルミアナだが、黒板を一目見たとたんに驚きの表情を浮かべた。

「こ、この絵文字は・・・実物を見たのは初めてですわ。これは極めて特殊な魔法文字で、エルフの古文書で見ただけなのです。生まれながらにして、この絵文字の記憶を持っている者は、とある神より不思議な能力を授かっていると言われています。その神とは・・・」

「その神とは・・・」

「貧乏神です。あなたは貧乏神に選ばれし、貧乏神の勇者なのです」

「はあ? なんでわたくしが貧乏神の勇者なのよ! このわたくしには、美の女神の勇者とか、愛の女神の勇者がふさわしいはずですわ。よりによって貧乏神の勇者なんて納得できませんわ」

「キャサリン様、貧乏神の勇者をあなどってはいけません。貧乏神の勇者は神の勇者の一種なので、魔力も魔法素材も一切使うことなく、特別な魔法を発動できるのです。これは世界にただ一人の特別な力です。ただし、その魔法がすべて『貧乏くさい』ということが欠点ですが・・・」

「使える魔法がすべて貧乏くさいなんて、ちっとも凄くないわ! ぷんぷん・・・まあいいわ。例えば具体的にどんな奇跡が使えるのよ?」 

「貧乏神の基本魔法である『貧乏になあれ』という魔法が使えます。これをかけられた相手は、いつの間にかおカネを落としたり、盗まれたり、税金をふんだくられたり、仕事が無くなったりして、高い確率で貧乏になってしまいます」

「なによ、ただ貧乏になるだけじゃないの」

 それを聞いた俺が身を乗り出した。

「それだ! その『貧乏になあれ』という貧乏神の魔法は、敵の国家を破壊する恐ろしい威力を持っているぞ。まず身分がバレないよう、キャサリンが頭から、ぼろぼろのローブ被って敵国の王都に乗り込むんだ。そして、街の端から端まで『貧乏になあれ』と念じて歩き回れば、みんな貧乏になって国が滅びる。だから戦わずして勝てる。キャサリンは最凶の兵器だ」

「何よ! それって、そのまんま私が貧乏神なだけじゃないの。いやよ、そんなかっこわるいのは。もっとかっこいい魔法は無いの?」

「それは私にもわかりません。古文書にわずかに記載があっただけですので・・・ただし、神の勇者は、経験を積むことで新しい魔法を体得できるようです。つまり訓練を続けることで能力が一定レベルを超えると、突然、頭の中に新しい貧乏魔法が閃くわけです。ですから、魔力黒板で『貧乏になあれ』を念じ続ければ、やがて強力な貧乏魔法を会得できるでしょう」

「強力な貧乏魔法を会得しても、ちっともうれしくないわよ。まあ、しかたがないですわ。わたくしも貧乏魔法の練習をしますわ」

「間違っても町の人間を相手に練習しないでくださいね。アルカナじゅうが貧乏人だらけになって国が滅びますので」

「うるさいわね、そんなのわかってるわよ」

ーーー

 数日すると、たい肥を作るためにトミーがショーベン村からやってきた。たい肥小屋は王都から十分に離れた農園の一角に十数棟建ててある。藁も大量に準備した。そろそろたい肥作りを始めてもらおうと考えている。

「わっはっは、国王陛下、仕事場はこちらですかな」

「そうだ。たい肥を作る作業員としてスラムの住人からとりあえず五十人ほど採用した。若い男はすべてアルカナ川の工事に従事してもらっているので、たい肥を作る作業員は年寄りや女性ばかりだが、人数が足りなければ追加で採用する。糞尿の収集については、そちらの準備さえ整えば、いつでも開始してもらうつもりだ」

「それはありがたい。そうだな、糞尿の収集は1週間後に始めてくだされ」

「わかった。糞尿は各家から早朝に回収して北門の外に集め、馬車に積んだ樽でここまで運んでくる段取りになっている。頼んだぞ」

 俺の横で話を聞いていたミックが言った。

「これで王都もきれいになりますね。それにしても、たい肥の製造だの、糞尿の回収だの、言っては悪いですが、こんな汚い仕事を誰が引き受けるんだろうと思っていました。しかも報酬といえば食料の配給量が増える程度ですからね。

 ところが、こんなに報酬が安くて汚い仕事なのに、募集人数の十倍もの応募が殺到して驚きました。こんな安くて汚い仕事でもやりたがる人が大勢いるんですね」

 俺は転生前の世界を思い出しながら言った。

「それは、この社会に貧しい人が多いからだ」

「それはどういうことですか、陛下」

「貧しくて明日の食べ物にも困っている人は、たとえ汚くてキツくて危険な仕事であっても、たとえ報酬がわずかでも、それをやらなければ飢えて死んでしまう。だから糞尿回収のような仕事であっても、希望者が殺到するのだ」

「なるほど、確かに飢え死にするよりは糞尿回収の仕事をするほうが良いですからね」

「そうなんだ。今のアルカナは、あまりにも貧困な人が多すぎるのだ」

 転生前の世界でも同じだった。汚くてキツくて危険な仕事を、貧乏な人たちが安い給料でやらされていたのだ。それは景気が悪くて仕事がない社会だったからだ。仕事が無ければ生きてゆけない。だから汚くてキツくて危険な仕事を安い給料でもやらざるを得ない。現代国家のくせに、中世のアルカナと同じなのだ。

 貧しい人たちに嫌な仕事を押し付けることで成り立つ現代の社会。しかもそれを当たり前だと思っている世間の人々。曰く「仕事があるだけマシと思え」。どれほど文明が進歩しても、本質は中世の時代と何も変わらないではないか。そんな偽善社会なら、俺はこの世界に転生してきてよかったと思った。
 俺はアルカナの命運を左右するほど重要な国家制度を説明するため、会議を招集した。会議には主だった大臣と仲間たちに出席してもらった。

「本日皆さんに集まってもらったのは、私がアルカナに設立を考えている『王立銀行』について説明するためだ」

 一同は顔を見合わせた。ミックが言った。

「陛下、銀行とは何でしょうか?」

「銀行とは、おカネを発行するところだ。アルカナに王立銀行を設立して、おカネを自由に発行できるようにする」

「しかし陛下、金貨や銀貨のおカネは今でも王国政府が発行しておりますが」

「確かに金貨や銀貨は王国政府が発行している。だが金貨や銀貨は、アルカナで産出される金や銀の量によって発行できる量が決まってしまう。金や銀が無ければ、必要に応じて自由におカネを発行することはできない。それがこの先、大きな問題になるはずだ。そこで王立銀行を設立して自由におカネを発行できる体制を整える」

「その王立銀行とやらを設立しても、金や銀がなければ、やはり自由におカネを発行することはできないのでは?」

「確かにこれまでの常識で考えれば、金や銀が無ければおカネは発行できない。そこで紙でおカネを作ることにする。紙に金額を印刷した紙幣、『銀行券』を作る。紙でおカネを作れば、いくらでもおカネを作ることができる」

 財務大臣のヘンリーが軽蔑のまなざしを向けた。

「金や銀の代わりに紙でおカネを作るですと?紙に印刷されたおカネなど、誰も信用しませんぞ。子供でも分かる話です。陛下は何を血迷われたのですか」

 ミックが身を乗り出した。

「もしや、それは陛下が以前に仰っていた神の啓示なのですか?」

 ヘンリーが、いぶかしげに言った。

「神の啓示ですと?何ですか、それは」

 俺は疑われることがないように、確信を持った口調で言い切った。

「ミックの言う通りだ、それは神の啓示によってもたらされた知識だ。このことは城内の者でも、ごく近しい者しか知らない。私が五日間のこん睡状態にあったことはご存じの通りだ。死の淵を彷徨っていた五日間の間に私は夢を見た。この世界とは別の『異世界』の夢だった。異世界はこの世界よりはるかに文明が進んでいた。その夢の中で私は多くの知識を得た。そして私は生き返った。私は確信した。これは神の啓示に違いないと」

 ヘンリーが馬鹿者でも見るような目つきで言った。

「夢のお話ですか。それで、その夢で見た世界では、紙のおカネを使っていたのですか」

「その通りだ。金貨や銀貨というおカネの仕組みは廃れ、とうに消え去っていた」

 ヘンリーは苦々しい顔で俺を見た。

「紙のおカネを使うなど、いくら陛下のお話でも、そんな話は信じられませんな」

「それはそうだろう。私も最初は信じられなかったからな、だが、よく考えてみると銀行という仕組みは実に巧妙であることがわかったのだ」

 ミックは俺の話を信用し、真剣な表情で言った。

「銀行とはどのような仕組みなのでしょうか」

「夢で見た異世界の銀行制度は非常に複雑なしくみだった。しかし初期の頃の銀行、つまり世界に銀行というものが誕生した頃のしくみは単純だった。銀行を知るには、まず銀行が誕生した経緯を理解することが手っ取り早いだろう」

 会議場は俺の話を聞こうと、再び静まり返った。 

「異世界での銀行はどのようにして誕生したのか。銀行が誕生する以前の世界は、今のアルカナと同じように、おカネは金貨や銀貨のような硬貨だった。経済活動が活発になるにつれて、世の中にはお金持ちが増えてきた。お金持ちは金貨や銀貨を大量に所有している。しかし大量の金貨や銀貨を自宅に保管していると、盗まれたり強盗に襲われる危険性がある。そこで、武装した兵士に守られた警備の厳重な金庫に、金貨や銀貨を預けた方が安全だと考えた。

 そうしたニーズを受けて、銀行という『金貨や銀貨の預かり所』ができた。銀行は預金者から金貨や銀貨を預かって金庫に保管し、預かった証として証明書を渡した。この証明書は紙で作られている。この証明書が後に銀行券と呼ばれるようになり、それが紙のおカネになったのだ。

 例えば預金者が金貨百枚を預けたら、金貨百枚に相当する金額の銀行券を預金者に渡す。そして預金者が銀行に預けた金貨や銀貨を引き出したいと希望すれば、その銀行券を銀行に持ち込めば、いつでも金貨や銀貨と交換することができる。これがもっとも基本的な銀行の仕組みだ」

 ミックが言った。

「金貨や銀貨を銀行に預けた際に渡される『預かり証明書』が銀行券ということですね」

「そうだ。やがて金貨や銀貨の代わりに、人々はこの銀行券をおカネの代わりに使い始めた。なぜなら金貨や銀貨よりも銀行券の方が軽くて持ち運びに便利だったからだ。しかも金貨や銀貨が必要なら、この銀行券があればいつでも交換できる。つまり銀行券は価値が保障されている。

 だから、やがて人々は金貨や銀貨を持ち歩かず、もっぱら紙でできた銀行券を持ち歩いて買い物や取引をするようになった。やがて金貨や銀貨は銀行の金庫に預けっぱなしで、金貨や銀貨は取引にほとんど使われなくなった。こうして金貨や銀貨は廃れたんだ」

 ミックが感心したように言った。

「なるほど、銀行券を銀行に持参すると、同額の金貨や銀貨を引き出すことができるから、紙のおカネである銀行券に金貨や銀貨と同じ価値があると信じられたわけですね。そうなると、金貨や銀貨を使う必要はなくなったわけですね」

 それまで黙って話を聞いていたルミアナが口を挟んだ。

「これまでの説明だと、あくまでも銀行は預かった金貨や銀貨の証明として銀行券、つまりおカネを発行していますね。ということは、金貨や銀貨がなければ、やっぱり自由におカネを発行することはできないのではないでしょうか」

「確かにその通りだ。ところがここに驚きの仕掛けがある。金貨や銀貨を預からずに銀行券を発行しても問題が生じないのだ」

「え、それはどういうことでしょうか」

 多くの出席者はキツネにつままれたような表情になった。俺はつづけた。

「なぜ金貨や銀貨を預からずに銀行券を発行しても問題が生じないのか。それは金貨や銀貨を銀行に引き出しに来る人がほとんど居ないからだ。金貨や銀貨は銀行に預けっぱなしになっている。だから、金貨や銀貨と無関係に銀行券を発行しても問題が生じない。

 例えば、金貨や銀貨を預からずに銀行券だけを発行すれば、預かっている金貨や銀貨の総額よりも銀行券の総額の方が大きくなる。その状態で、もしすべての人が一斉に金貨や銀貨を引き出しに来れば、金貨や銀貨の量が足りなくて引き出しに応じられなくなる。異世界ではこれを『取り付け騒ぎ』と呼ぶ。

 しかし実際にはすべての人が同時に金貨や銀貨を引き出しに来ることはあり得ない。預けっぱなしだ。だから金貨や銀貨とは無関係に銀行券を発行しても問題が発生することはない。この仕組みを『信用創造』というんだ」

 ヘンリーはほとんど必死になって机をたたいた。

「とんでもない、陛下は異世界で犯罪を勉強してきたのか。国民から金貨や銀貨を巻き上げて紙のおカネを渡そうとしている。しかも金貨や銀貨を預かってもいないのに、銀行券を発行する。これは詐欺行為ですぞ」

「良く考えることだ。確かに詐欺行為かも知れないが、異世界ではどの国もこぞって銀行制度を採用していた。金貨や銀貨を使う国など、どこにもない。銀行制度を採用することによって、金や銀の量に縛られることなく自由におカネを増やせたことで、異世界では多くの国が発展した。つまり銀行制度こそアルカナ発展のカギになるのだ」

 興奮が収まらないヘンリーを一瞥してから、ミックが言った。

「なるほど、金や銀の少ない我が国にとっては最適の制度かもしれません。ところで、銀行が信用創造で発行したおカネはどのように利用するのでしょうか。何かを買い入れるのでしょうか」

「銀行が新たに発行した銀行券でモノを買ってはいけない。あくまでも貸出として使うのだ。なぜなら、貸し出した銀行券は返済によって戻ってくるが、支払った銀行券は戻ってこないからだ。貸し出した銀行券がすべて戻ってくれば、取り付け騒ぎが起きることはない。しかし支払いに使った銀行券は戻ってこないので、取り付け騒ぎを起こすリスクが高まる。だから『原則的に』銀行はおカネを発行して貸すのだ」

「少々話がややこしくなってきましたが、銀行がおカネを発行して貸すことはわかりました」

「ここが誤解を生みやすいところだから繰り返すが、銀行は預金者の預けた金貨や銀貨を貸すのではない。あくまでも、信用創造で銀行券を発行して、それを貸し出して利息を稼ぐ。これが銀行の基本的な仕組みだ」

「しかし銀行制度はこの世界にこれまでなかった仕組みですし、誰も聞いたことすらありません。うまく行くでしょうか」

「導入のためのプランはすでに考えてある。もちろん周到な準備とそれなりの時間が必要になる。だから、すぐにでも準備を始めたいと思う」

「それにしても、なぜ陛下はおカネを自由に発行したいと考えるのでしょうか?」

「その理由はいろいろあるが、長くなるのでまた別の機会にしよう。ただし、一つだけ説明しよう。国家がおカネを発行する理由は、国家運営を円滑に執り行うためだ」

「国家運営のため?」

「すでに周知のようにアルカナ国の財政は火の車である。このままでは国を発展させたり、外国からの侵略に備える事に支障をきたしかねない。実際、今回のアルカナ川工事の費用を調達するにも、金貸し商からの借金に依存せざるをえなかった。だから王立銀行を設立して、そこからおカネを調達すれば、金貸し商から借金する必要がなくなる。それにより、心置きなく国家の課題に取り組むことができる」

 財務大臣のヘンリーが言った。

「なんと、王立銀行を作ることで、金貸し商からカネを借りることを止めるのですか」

「そのとおりだ。ヘンリーも常日頃から『王国の借金がー、王国の借金がー』と嘆いていたから、もう二度と金貸し商からカネを借りる必要がなくなって安心だろう」

「それは・・・」

 言葉に窮しているヘンリーを横目に、ミックが言った。

「なるほど、銀行制度にすれば『おカネが足りないから重要な国家政策ができなくなる』という、愚かな事態がなくなるわけですね。それはすごいことです。これまでの常識を完全に覆すことができます」

 キャサリンが言った。

「さすがはお兄様ですわ。やっぱり神の啓示はすごい知識なのです。『金や銀の産出量が少ない』というアルカナのおカネの問題が、ウソのように解決できますわね。おカネを発行するのに金も銀も必要ない。お兄様のおかげで、アルカナも無双国家へ向かって前進するのですわ」

 さすがに、そこまで簡単にはいかないな。おカネなど、銀行制度さえ整えれば無限に発行できるにすぎない。そうなると本当に重要なのはおカネや財源の問題ではない。おカネの改革はアルカナを無双国家にするための最重要な政策ではあるが、それだけでは不十分なのだ。

 会議で大きな異論は出されなかった。おそらく銀行の基本的な仕組みから説明したから、みんなが理解できたのだろう。一方、転生前の日本では、銀行制度の本質的な仕組みを理解している人は全国民の1パーセントにも満たない悲惨な状態だった。これでは経済のことなど国民に理解できるはずがない。

 だから「財源がない」などとまことしやかな嘘をつくマスコミや官僚の、思うがままに操られるだけだったのだ・・・。
 その日、俺は寝室の窓際に立って外の様子を見ていた。ミックが背後から声を掛けた。

「国王様、報告がございます」

 俺はミックの方を振り返ることなく、窓の外を眺めたまま言った。

「なんだい、ミック」

「最近、王都では奇妙な事件が多発しており、世間を騒がせております」

「ほほう、例えばどのような?」

「王城のお庭で飼われている白ウサギが、一匹のこらず死んだように眠っていたそうでございます。触ってもまったく動かないほど、ぐっすり眠っていたとか」

「なあに、このところの陽気でウサギたちが眠くなるのも不思議はないだろう」

「それだけではございません。王国農場では、鶏が狂ったように走り回っているのが目撃されたり、牛舎のメス牛に口説かれたと主張する乳しぼりの農夫もおります」

「それから?」

「王都の町中(まちなか)でもおかしなことが起きています。夜中に幽霊を見たものが続出しているのです。どれもが王城の近くでの目撃情報です。あろうことか、アルフレッド国王が真夜中に大通りを素っ裸で全力疾走する姿を見た、と抜かす無礼者まであらわれました」

 相変わらず俺はミックの方を振り返ることなく、窓の外を眺めたまま言った。

「まあ、特に害が無ければ放っておけばいい、そのうち収まるだろう」

「はあ・・・そうですか、何かあればまたご報告いたします。それでは失礼します」

 言うまでもなく、それらはすべて俺の仕業である。内緒で幻惑魔法の練習をしていたのだ。俺には幻惑魔法の才能がないらしく、どうもうまくいかない。鶏は言うことを聞かないし、メス牛が勝手に農夫に色目をつかっている。国王が素っ裸で夜中に大通りを全力疾走したのは、俺が隠密の魔法に失敗して、服だけ透明化してしまったからだ。これが本当のストリーキングである。などと馬鹿なことを言っている場合ではない。少し幻惑魔法の実践練習は自重しなければならないようだ。

 俺はジェイソンの勧めもあり、エニマ国に続いてロマラン王国へ親善訪問に向かうことにした。ロマラン王国はアルカナの西にある小国で、北方、南方そして東方へ続く交易路の中継点として栄えてきた。

 ロマラン王国へ向かう目的は友好関係を深めるためである。しかし本当の目的は別のところにあった。というのも、ロマランには、十年ほど前に南方交易でアカイモという乾燥に強い作物が伝えられた、という噂を聞いたからである。ロマランではそのアカイモを栽培することで、干ばつによる飢饉の発生を防いでいるという。アルカナ国でもその作物を手に入れて栽培できれば、食料問題を解決するための一助となることは間違いない。

 今回は外交と言っても親善訪問なので、キャサリンも連れていくことにした。連れて行かないと不機嫌になるからであるが、他にも理由がある。お付きの近衛騎士であるレイラの話し相手になって欲しいからだ。エニマ国への訪問の際には、馬車の中でレイラが全然しゃべらず、無言のまま何時間も揺られていたので、すっかり気疲れしてしまった。その点キャサリンがいれば、無言で一分以上黙っていられるはずがないからである。

 俺たちはロマランへ向けて出発した。馬車の中では、相変わらずレイラが正面の座席で背筋をピントと伸ばしたまま、前方を凝視している。空気を全然読まないルミアナも地蔵のように黙っている。しかし狙い通りだった。キャサリンが喋り始めた。

「ねえ、そういえば来月、お城でパーティーがあるわね。レイラもお城の警護のために来られるのかしら?」

「はい、もちろんです、お嬢様」

「でも、プレートアーマーで毎回お兄様の傍に立っているのも堅苦しいわ。レイラもドレスにしたらどうかと思うの。警備の担当者は他にもいるし、城の中だから重装備は必要ないわ。ドレスにしてみましょう」

 ミックもキャサリンに続けて言った。

「そうそう、私もそう思いますよレイラ様。王室には腕の良い仕立て屋がおりますので、新しいドレスをお作りになってはいかがですか」

「お気遣いありがとうございます。ドレスを着てみたいとは思うのですが、なぜか私が着たドレスはどれも、少し力を入れると、ビリビリに破けてしまいますので、ドレスは着れないのです」

「・・・まあ、それはお可哀そうですわね。普段は何をお召しになってますの?」

「鋼鉄の鎖を全身に巻き、鉄下駄を履いています。アクセサリーとして足に鉄球を付けることもあります」

「鋼鉄の鎖に鉄下駄ですって? よくそんな拷問みたいな格好で平気ですわね。家の中でもそんな恰好をしているの?」

「いえ、それは外出している間に筋力を鍛えるための服ですので、家の中で休んでいる時はローブのようなゆったりした服を着ております。ぶかぶかのローブであれば、力を入れても破ける心配はありません」

「そう・・・まあこの際、ローブみたいな服でもいいわ。プレートアーマーじゃなくて、ふわっとしたローブにしましょう。ところでダンスは踊れますの?」

「申し訳ございません。生まれてこの方、ダンスを踊ったことはございません。なにしろ日夜剣術の稽古に励んでおりましたもので、そのような暇は・・・」

 そう言いかけたレイラは、何かを思い出して嬉しそうにミックに向かって言った。

「おお、そうでした。わたくし、ペアでダンスを踊ることはできませんが、ペアで組み手をするなら得意です。私の寸止めの技術は確かなので、幸いまだ人を殺したことはありません。パーティー会場では、ぜひ大臣に私のお相手をお願いしたいのですが」

 ミックが飛び上がった。

「ひえ、とんでもございません。レイラ様がまだ誰も殺していなくても、私が最初に殺される人になるかも知れません・・・」

 キャサリンが言った。

「まあ、ダンスは出来なくてもいいわ。ところで、レイラはアクセサリーに興味はないのかしら。例えば指輪よ。ちょっとご覧になって、これはわたくしの指輪ですの。どう?大きな宝石が三つもあしらってあるのよ。レイラもこういう指輪で飾って、意中の男性のハートを射止めるのですわ」

「お嬢さま、それでしたら私も嵌めております。どうぞご覧ください」

「・・・何よそれ」

「アイアンナックルです。これでどんな屈強な男性も仕留めることができます」

「仕留めてどうすんのよ。ハートを射止めるの。それと、指輪に嵌められている宝石が大切なのよ、宝石の魅力で指輪の効果が倍増するのよ」

「はい、私のナックルにもダイアモンド並みに固い宝石が五つも嵌め込まれており、この宝石の殺傷力で威力が倍増しております。どんな男性でも一撃で仕留めることができます」

「いや、だから男性を仕留めるんじゃないの。射止めるの」

 何やら恐ろしい会話が展開されている模様だ。俺も下手をすると、アイアンナックルで仕留められるかもしれない。間違ってもレイラを怒らせてはいけない、優しく接しよう。

 ロマランの王都マリーまでは馬車で十日間ほどの道のりだ。途中、商人たちが利用する街道沿いの宿に泊まりながらの旅である。アルカナからマリーへ向かって徐々に標高が高くなる。ロマランは草原の国である。見渡す限りの丘陵地帯が広がり、草原には羊が放牧されている。ロマランの羊毛と羊肉はアルカナにも輸入されており、その品質の良さからとても重宝されている。

 マリーの近くへ来ると木々も徐々に増えて農地も見られるようになってきた。街に着くと、市場の近くで馬車を止め、干ばつに強いというアカイモを探すことにした。まずこの目で確かめるのだ。食料品の露店はすぐに見つかった。

「ちょっと伺いたい。このあたりでアカイモを売っているという話を聞いたのだが、この店には置いていないのか」

「ああ、アカイモを知らないとは外国の人かね。アカイモならそれだよ」

 店の主人が指さした先には、台の上に山盛りになった見慣れた赤いイモがあった。これはサツマイモだろう。サツマイモなら乾燥に強いのも頷ける。昔の日本でもサツマイモを栽培することで干ばつによる飢饉から農民が救われたという。サツマイモは収穫量も多いので、スラムの食料として最適だろう。品種の関係なのか、形は細長いものが多いようだ。

 生まれて初めてアカイモをみたキャサリンが言った。

「何これ、見るからにまずそうだわ、泥だらけでしっぽがあってネズミみたい。これが食べ物なの?とても食べられるようには見えないけど」

「大丈夫だ。煮ても焼いても食える。十数年前に貿易商が南のジャビ帝国から持ち込んで栽培したのがきっかけで、それ以来ロマラン全土に広まったらしい。これは干ばつに強い作物だから、小麦なんかが不作の時でも収穫できる。食料不足の解消に役立つはずだ。」

「そうね、わたくしじゃなくてスラムの人たちが食べるのでしたら、見た目が悪くてもかまいませんわね」

 アカイモ・・・いや、転生前の世界のサツマイモは、女性に大人気の食べ物だったからなあ。食べさえすれば、キャサリンも気に入ってくれると思う。
 市場でアカイモの現物を確認した一行は、ロマランの宮殿へ向かった。ロマランの宮殿はとんでもなく豪華だった。宮殿の建物には大理石の白い化粧石がふんだんに使われており、高原の澄み切った青空に、建物全体が白く美しく輝いて見える。アルカナの灰色の王城とは大違いである。

 等身大ほどの様々なポーズをした見事な大理石の彫像が、美しい花々とともに、手入れの行き届いた庭のあちらこちらに立っている。これらの高価な美術品は、交易で得た富を惜しみなくつぎ込んで作られたのであろう。

 宮殿の敷地の中央には、四隅に装飾塔の付けられた大きな建物があり、その広間で両国王の会見が行われることになっていた。俺たちが宮殿の門に到着すると、大きな建物に続く中央通路の両側に、正装したロマランの近衛騎士がずらりと並んで出迎えた。建物の前では、ロマランの国王レオナルド・ロッシと家臣が待っていた。

 レオナルド国王は背が低くかなり太めの体形である。もともと丸顔だったのだろうが、太ることでますます顔が丸くなり、首との境目がよくわからない状態だ。赤を基調とした派手な服に見事な金糸の刺繍が施されており、これでもかと言わんばかりに宝石をあしらった王冠が頭上に輝いている。

「ようこそおいで下さいましたアルフレッド陛下。はじめまして、私がロマランの国王、レオナルドです。遠いところお越しいただき誠にありがとうございます」

「こちらこそ。アルカナ国の国王アルフレッドでございます。以後お見知りおきください」

「そちらの美しいご婦人は、どちら様で?」

 キャサリンの機嫌がすこぶる良くなった。

「私はアルフレッドの妹のキャサリンでございますわ」

「キャサリン様、歓迎いたします。さあ皆様どうぞこちらへ」

 赤い絨毯の上をレオナルド国王と並んでゆっくりと歩きながら俺が言った。

「ロマラン国とアルカナ国は古くから交易関係にありますが、本日の会談により、一歩進んだ友好関係が始まるものと、期待に胸を膨らませております」

「我々も同じ思いでございます」

 立ち並ぶ彫刻に見とれながらキャサリンが言った。

「これほど美しい宮殿を拝見したことはございませんわ。建物の壮麗さもさることながら、お庭に並ぶ彫刻も実に見事ですわ」

「ありがとうございます。それらは、はるばる北方のザルトバイン帝国から有名な職人を呼び寄せて掘らせたものです。このあたりでは、これほど芸術性の高い彫刻を見ることは難しいでしょうな」

 レオナルド国王の先導で白亜に輝く建物の中へと進んだ。広間へ続く通路の壁には大きな絵画がいくつも飾られていたが、先ほど庭で見た見事な彫刻に比べると何か違和感がある。これは小学生の絵か、と思うほど下手糞なのである。総務大臣のミックが妙なものでも見るような目つきで、ジロジロと絵を見上げながら言った。

「この絵はなんでしょうか。これはなんといいますか・・・・」

 レオナルド国王が嬉しそうに言った。

「おお、それは私が描いた絵です。完成までに三カ月を費やした自信作です。いやあ、私は絵を描くのが趣味でしてな。妻には私の絵の良さがなかなか理解して貰えませんで、『そんな絵を宮殿に飾るな』と怒られるのですが、大臣はいかが思われますか」

 それを聞いてミックの態度が豹変した。

「な、なんと、左様でございましたか。いやすばらしい、実に見事な絵でございますな。その・・・なんと申しましょうか・・・何の絵なのかさっぱりわからないところが、いかにも芸術的ですな。まさに画面が大爆発してございます。そのまま通り過ぎてしまうのが実に惜しい、ずっと鑑賞していたい気分になります」

「うむ、大臣殿はやはり優れた審美眼をお持ちのようですな。それほど気に入っていただけたのなら、一枚差し上げますので、ぜひアルカナの城内で一番目立つところに飾ってください。そうですね、この絵はさすがに差し上げられませんので、あちらの絵など、いかがですか」

 一段と何だかわからない絵が、黄金の立派な額縁に入れられている。

「はあ、なんともかわいらしい絵ですね、これは・・・ネコですか」

「犬のフランコですが、何か」

「いやー、最初から犬じゃないかと思ってました。レオナルド様の愛犬でしょうかね、実に賢そうな犬ですこと。頭が三つもあるんですね」

 広間の奥から背の高い、ほっそりした女性が現れた。国王とは対照的な体形だ。上品な服装からして王妃と思われる。

「あなた、また外国の偉い方を困らせているんじゃないでしょうね」

「何を言うか、困らせてなどおらんぞ、お前と違ってワシの絵の良さがわかる方々なんだ。この犬のフランコの絵をアルカナ城に飾ってもらうのだ。なあ、大臣殿」

「はい、それはもう喜んで。できればその黄金の額縁と一緒にお預かりさせていただければ幸いです。その美しい絵には黄金の額縁が大変に似合いますので」

 いやいや、それは明らかに黄金の額縁が欲しいだけである。

 広間の中央には御影石で作られた大きな長机が対面に配置されており、両国の代表が向かい合わせに着席した。頭上には大きなシャンデリアが下がっている。シャンデリアには数十本の蝋燭が灯されており、そこから放たれる光が無数のクリスタルガラスにきらめき、豪華で美しい。

 それにしてもレオナルド国王は大らかで友好的な国王である。こんなお人好しの国王では、もしジャビ帝国に侵略されたらどうなるか心配である。以前侵略された際には莫大なおカネを払って見逃してもらったとの話を聞いたことがある。いつもカネで見逃してくれれば良いのだが。

 俺はレオナルド国王に尋ねてみた。

「ロマラン国は兵力の増強を考えておられないのですか?」

「考えておりません。兵力を増やせば周辺国に脅威を与えることになり、相手を刺激して危険です。戦っても勝てないのなら、武力を持たないことが平和の第一歩なのです」

 どこかで聞いたセリフだなと思ったが、俺はあえて何も言わなかった。

 懇談は終始なごやかな雰囲気で行われた。もともと交易立国であるロマランは多くの国の貿易商人を受け入れて発展してきたオープンな国だから、アルカナとの関係強化にも前向きだった。アルカナが栄えれば当然ながらアルカナとの貿易量が増え、ロマランにも恩恵がもたらされるわけだ。そこでアカイモの件を切り出してみた。

「レオナルド国王にはひとつお願いがございます。それはロマランで栽培されているアカイモという作物のことです。アカイモは干ばつに強く、小麦などが不作の際にもたくさん収穫できると聞きます。近年はアルカナで小麦の作柄が悪く、国民が飢えに苦しむ状況にあります。そこでアカイモを我がアルカナでも栽培したいと考えておりますが、栽培法を教えていただくことはできないでしょうか」

 レオナルド国王は時々頷きながら話を聞いていたが、にこやかに言った。

「そうですか、承知いたしました。アルフレッド殿にご協力いたしましょう。詳しくは後程我が国の農業大臣と打ち合わせをしてください。アカイモは干ばつに強いため、我が国において、とても重宝しております。それに私はアカイモが大の好物でして、宮廷では私の肝いりでさまざまな料理を研究しておりますぞ」

 キャサリンはあまり興味なさそうに言った。

「こちらへ伺う途中に、市場でアカイモを見ましたわ。あまりおいしそうには見えませんでしたの」

「ほっほっほ、それは皆様がまだアカイモの真のおいしさをご存じないからです。それでは皆様に宮廷自慢のアカイモ料理を味わっていただきましょう。実は、そのつもりで準備しておりました。さあ給仕の皆さま、お客様にお料理をお出ししてください」

 宮廷のアカイモ料理と聞いて、期待で爆発しそうな表情で待ち構えていたキャサリンの目の前に、丸ごと一個の焼き芋が出された。期待の表情が落胆に変わった。

「何これ、ネズミの丸焼きみたいですわ」

 俺はあわてて言った。

「しーっ、キャサリン。失礼なことを言わない」

 レオナルド国王が自信たっぷりに言った。

「そうです、単なるイモの丸焼きです。ですが普通に焼いたものではありません。専用の窯を用いて低温で四時間かけてじっくり焼き上げてあるのです。見た目は悪いですが、まあ食べてみてください」

 給仕係が焼き芋を切って中身を皿に盛りつけた。一口食べたキャサリンが叫んだ。

「うわ。甘いわ、まるで蜂蜜でも混ぜてあるみたい。すごい美味しい。こんなの初めて。こんなおイモに目を付けるなんて、やっぱりお兄様はすごいですわ」

 ルミアナも感心したように言った。

「本当だわ、世界を旅してきたけど、こんなに甘いイモを食べたことはないわね。これならアルカナ国でも、間違いなく人気になるわ」

 レイラは何も言わない。何も言わずに黙々と食べている。普段は我慢しているが、本当は甘いものが大好きなのに違いない。

 アカイモは同行した女性たちに大好評である。その後もスイートポテトやあげイモの蜂蜜掛けなど、甘いものがどんどん出てきたが、なんだかんだ言いながら彼女たちはすべて平らげてしまった。甘い食べ物を、それほど頻繁に食べられない時代だったから、よほど美味しかったのだろう。

 レオナルド国王も上機嫌で、一時間ばかりアカイモの料理について話をした。平和でおだやかな時間が流れた。こんな生活がいつまでも続けば良いのにと思った。
 翌日、俺たち一行は帰路に就いた。せっかくはるばる西方まで足を運んだのだから、少し寄り道をして、アルカナ西部の町ファーメンの視察を予定していた。

 ファーメンは昔から蒸留酒の醸造が盛んで、その芳香と味わいは国内外で高い人気を博している。俺は、こうした特産品の生産を助成して他国との交易を増やしたいと考えているのだ。アルカナには鉱物資源が少ないので、軍事力を強化するためには特産品を開発して輸出し、鉄や銅など金属資源の輸入を増やす必要があるからだ。

 アルカナの西端からは、はるか南へ続く広大なリクル山脈が始まり、ファーメンはその山すそにある。山脈には南の海から流れてくる雲を受けて雨が降るため、小さな川が無数に流れている。ファーメンではその清らかな水を利用して酒が作られている。ファーメンはアルカナの最西端の町であり、王都アルカから馬車でも到着までに数日を要する。

 馬車の中はこれまでになく微妙な雰囲気が漂っていた。会話がぎこちない。誰も何も言わないが、その理由は俺にはわかっていた。前日の晩にあれだけイモを腹いっぱい食べたのだから、当然、おならが出るに決まっている。しかも狭い馬車の中である。音を出さないように加減しても臭いまでは消せない。そこで、俺が率先して女性の気を楽にすることにした。

「おう、おならが出たぞ。昨日アカイモをあれだけ食べれば、おならが出るのは当たり前だな。みんなも出した方がいいぞ。おならを我慢するとからだに良くない。な、ミック」

「そうですとも。私も朝から十回は放屁してございます。放屁をするとお腹がスッキリいたしますな」

「キャサリンも我慢しなくていいんだぞ」

 キャサリンが真っ赤になって怒った。

「何で私に言うのよ、お兄様ったらデリカシーがないんだから。私はおならなんかしませんからね。この臭いはすべてお兄様とミック様の臭いなんですの。お下品ですわ」

 ルミアナは澄ましたように言った。

「あら、私はおならなんか気にしませんわ」

「そりゃルミアナはおばさんだからよ。本当は何歳なのかわかったもんじゃないし」

「あら、私は二十歳よ」

「ちょっとお兄様、ルミアナがまたとんでもない嘘をついてますわよ。年齢詐称ですわ」

 旅の商人風の荷馬車が、俺たちの乗った馬車の正面からやってきた。背の高い荷台には幌がかけられている。その荷馬車が次第に近づいて来ると、突然、俺たちの馬車の前に突っ込み行く手をふさいだ。同時に荷馬車の幌が跳ね除けられ、中から爬虫類のような顔をした生き物が十人ほど飛び出してきた。トカゲ族の兵士である。全員が剣と盾で武装している。

「うわああ、トカゲ族の襲撃だ! 襲撃だ! 近衛兵」

 御者が大声で叫ぶ。前後を進んでいた近衛騎士がすぐに駆け付けたが、馬車を取り囲むトカゲ族の兵士と組み合いになり馬車に近づけない。その隙に残りのトカゲ族の兵士が二名、俺たちの馬車へ小走りに近づくと、怒声を上げながらドアを蹴破った。

「アルカナ国王の命はもらった!シャシャシャシャ」

 ところが馬車の中はもぬけの殻である。そう、ルミアナが隠密の魔法によって一行の姿を瞬時に見えなくしたのである。

「なんだ、おかしな臭いはするが、姿は見えぬ。どこへいった! 逃がさんぞ」

 トカゲ兵は慌てて後ろを振り返った。その瞬間に馬車の中から目にもとまらぬ速さで剣が突き出され、トカゲ兵の後頭部に深々と刺さった。トカゲ兵は声を出す間もなくその場に崩れ落ちた。血の吹き出す頭部から剣を抜くと、レイラが大きな鋼鉄の盾を構えて馬車からゆっくり歩み出た。もう一人のトカゲ兵が上段から切りかかってきた。

「死ねえええ」

 降り下ろされた剣をレイラが盾で受け、左に大きく払うとトカゲ兵は体勢を崩してよろめいた。すかさずレイラはその腹部を横から切り裂く。断末魔の叫びを聞いた他のトカゲ兵が思わず振り返る。その顔には戸惑いの色が見て取れる。

「なんだこの女は。俺たちの硬い鱗の体を簡単に切り裂いてしまうとは、化け物か」

 弓を構えた二名の近衛騎士がレイラの加勢に入り、トカゲ兵の横から矢を射る。矢はトカゲ兵の腕と横腹に刺さったが、トカゲ兵はそれらの矢を意図もたやすく抜き捨てるとあざ笑うように言った。

「馬鹿め、お前らの矢が俺たちの鱗の体に通用するとでも思ったか」

 トカゲ兵はたちまち近衛騎士に飛び掛かると、素早い身のこなしで剣を振りぬき、弓を持った近衛騎士の腕を切り落とした。近衛騎士が血の吹き出す肩の傷口を押さえながら苦悶の表情で倒れる。トカゲ兵は満足そうに背筋を伸ばすと周囲を見回して次の獲物を探した。

 次の瞬間、風を切る音が聞こえ、トカゲ兵の胸に矢が突き刺さった。トカゲ兵は叫びをあげると全身を痙攣させながら前のめりに倒れこんだ。他のトカゲ兵は驚愕のあまり矢の突き刺さった血まみれの死体を凝視した。

「人間の弓矢で俺たちが殺されるなんて、あり得ない。何かおかしいぞ」

「あら、おあいにくさま。私、人間じゃなくてエルフなの」

 いつの間にか馬車の屋根の上に立ったルミアナが言った。

「なぜ、こんなところにエルフが・・・なんでもいい、とにかくエルフを殺せ」

 馬車に駆け寄るトカゲ兵の前に盾を構えたレイラが立ちはだかった。

「おっと、まずは私を相手してからにしてくれ」

 その言葉が終わらないうちに、もう一人のトカゲ兵の眼球に矢が突き刺さり、矢じりが脳まで達して即死すると、体が棒のように後ろへ倒れた。

 これを見て、トカゲ兵の固い鱗の体に手こずっていた他の近衛騎士たちも勇気百倍となり、盾を構えてトカゲ兵の逃げ道をふさぐ様に四方から取り囲むと、剣や槍でメッタ突きにし始めた。もともと近衛騎士の数はトカゲ兵の倍以上なので、こうなると戦いは一方的となり、さすがのトカゲ兵も一人また一人と倒されていった。

 すべてのトカゲ兵が倒されると、キャサリンが恐る恐る馬車から降りてきた。

「お、おならの臭いで隠れていることがバレるかと思ってドキドキしましたわ」

 続いてミックも降りてきた。

「いやはや命拾いしました。さすがは近衛騎士の実力者レイラ様でございますな」

 レイラは剣や盾に付いた返り血を布でふき取りながら言った。

「国王陛下も大臣殿もご無事で何よりです。それはそうと、なぜこんなところでジャビ帝国の暗殺隊に遭遇するのか。とても偶然とは考えられない。明らかに我々が来ることを知っていたようだ」

 ルミアナが言った。

「これは、内部に裏切り者が居て、情報を流していることは間違いない」

 ミックが厳しい表情で言った。

「もちろん、今回のトカゲ兵による国王襲撃の件は貴族会議でも報告いたします。裏切者のいる可能性が公になれば、その者たちもしばらくは大人しくなるかも知れません。厄介なのは黒幕が我が国の有力な貴族だった場合です。確たる証拠もなしにその貴族を非難すれば関係は悪化しますし、下手に処罰すれば内戦にもなりかねません」

 俺はトカゲ兵の死体が地面に転がる様子を眺めながら言った。

「そうだな、国家経済が危機的な状況にある今は、内戦など起こしている場合ではない。裏切者が誰なのかを探り出す必要はあるが、仮に裏切者を特定できたとしても、穏便に済ませたいところだ」

 ルミアナが自家製のポーションで負傷した近衛騎士の手当をした。強力な止血効果のある薬草で血を止めるだけでも命が救われる。負傷者の傷の手当てを終えると、重傷者は護衛を付けて王都へ返し、残りのメンバーは予定通りファーメンの街を視察することにした。
 ファーメンの街に着いたのは三日後の午後のことである。ファーメンの街には城壁がなく高い建物もほとんどないため、広い敷地にゆったりとした街並みが広がって見える。王都と違って小川が流れ、緑の街路樹も多い美しい街だ。南には残雪が眩しいリクル山脈の山々を見渡すことができる。麦畑に広がる緑の小麦も風に揺れている。

 街道沿いには醸造所と思われる大きな建物がところどころにある。街の中心部には並木に縁どられた小さな広場があり、人々が集まっている。あらかじめ国王が訪問することを伝えてあったので、町長が歓迎の宴の準備をして待っていた。アルフレッド国王が即位してから街を訪問するのは初めてらしく、地元の食材を使った料理の他、特産の蒸留酒を存分に振舞ってくれるというので楽しみである。

 先日のトカゲ兵による襲撃で騎士たちも疲れているだろうから、体力と気力を癒すにはありがたい機会だ。それにレイラもストレスが溜まっているに違いない。馬車の中でも一日中姿勢を正している。気を張り詰めすぎると身体によくない。もっとリラックスして欲しいのだが、性格が真面目過ぎて冗談も通じないほどだから、この機会にお酒を飲んで、仲間ともっと打ち解けて欲しいものだ。

 町長によるお決まりの社交辞令の挨拶が終わると、全員のカップにはお酒が注がれた。キャサリンがレイラにゆっくり近づいた。

「レイラは、お酒を飲みますわよね。今日はどんどん飲んで日ごろのストレスを発散させたらいいですわ。私がお手伝いしますわ」

「まあ、どちらかと言えばお酒は好きです。しかし、ちょっと・・・・」

 遠慮しているレイラを見て俺は言った。

「いいじゃないか。今日はお酒でも飲んで身体も気分も休めるといい。先日はレイラのおかげで命を救われた。本当に感謝している」

「ありがたいお言葉です陛下。そうさせていただきます」

「アルカナの未来に乾杯!」

 レイラはカップのお酒を軽々と飲み干した。それを見たキャサリンがすかさず言った。

「レイラ、すごいですわ、見事な飲みっぷり。給仕の方、レイラにどんどんお酒をお出ししてくださいな。・・・そういえば、レイラが先日のトカゲを撃退した剣技は本当に見事でしたわ。あの固い鱗のトカゲを一刀両断にする技。お兄様に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです・・・」

 ルミアナは会場の外れの立ち木に背をもたせかけながら、一人でお酒を飲んでいた。俺はレイラをキャサリンに任せると、宴席を外れてルミアナの方へ歩み寄った。

「先日は本当にありがとう。実に鮮やかな活躍だった」

「どういたしまして」

「ところで、私はジャビ帝国のトカゲ兵を初めて見たのだが、正直驚いた。全身が固い鱗に覆われているんだな。普通の弓矢では歯が立たないし、剣で切り付けても簡単には倒せないだろう。レイラが簡単にトカゲ兵を倒せたのは、彼女が特別だったからだ」

「そうね、普通の兵士がまともに一対一で戦って勝てる相手じゃないでしょうね」

 俺は手にしたカップから蒸留酒を一口飲むと、それを味わってからゆっくり言った。

「ところで、ルミアナの弓矢は一撃でトカゲ兵を仕留めていた。エルフの弓矢を人間の弓職人に作らせることはできないだろうか。そうすればかなりの戦力になる」

 ルミアナは肩にかけた弓を手に取ると、弦を引いて矢を射るようなマネをして見せた。

「矢は人間にも作れるけど弓は作れないわ。それに作れたとしても、エルフの弓を使うには、わずかだけと魔力が必要なの。普通の人間には魔力が無いから扱うことはできないわ」

「それは残念だな。そうなるとトカゲ族を倒すためには、連中の弱点を見つけてそこを利用するしかないか。トカゲ族の情報がもっとたくさん欲しいな」

「そうね、ロマラン王国の南にあるナンタル王国だけど、そこは最近ジャビ帝国の侵略を受けて国王が殺され、今は属国領にされているわ。だからトカゲ族の総督が本国から派遣されているし、役人も兵士も多数いる。そこなら情報を集めるのに適しているんじゃないかしら」

「そうだな、もし差し支えなければ、ルミアナにナンタルの状況を探ってもらうことはできないだろうか。ナンタルでジャビ帝国の諜報活動ができればありがたい」

「お安い御用です陛下。潜入は私の専門ですからね」

 その時、キャサリンが慌ててこっちに走ってきた。

「お兄様たいへん、レイラをリラックスさせようと思ってお酒をどんどん飲ませたら、リラックスを通り越して暴走してしまったの。どうしましょう、お兄様なんとかして」

 広場の中央から女性の大声が聞こえてくる。

「町長さん、いいから私の話を聞きなさい!あはははは」

 声の主はレイラだった。彼女の顔の赤さは松明の明かりのせいではなく、無茶苦茶に酔っ払っていることが原因だ。町長を捕まえて無理やり話を聞かせている。

「ロマランの国王様って絵が趣味らしいんだけど、その絵が下手糞の何のって、ネコの絵かと思ったらイヌの絵だったんだよ、あははは。それで、その奥さんがまた、性格がきつそうな感じだったから、王様は絶対に尻に敷かれてるタイプなんだわ。外国の偉い人を困らせたらダメでしょ、とか怒られてんだから、あはははは」

 ミックが作り笑いを浮かべながら、レイラをなだめている。

「レイラ様、ロマラン国王のことを笑っては失礼ですよ、大切な友好国なんですから」

「それは失礼いたしました、あははは。でもね、ミックがゴマをすって下手糞な犬の絵を褒めたもんだからね、王様が喜んじゃって、アルカナのお城にその絵を飾るハメになったの。でも本当は絵を縁どっていた黄金の額縁が欲しかっただけなんじゃないの?」

「ななな、なんと。そのようなことはございませんよ。あれはアルフレッド陛下のお部屋を飾るのにふさわしい芸術的な絵画です」

 なんだよ、邪魔だからって俺の部屋に飾るのかよ。まあいいか。それにしてもレイラの豹変ぶりはすごいな、お酒でタガが外れて一気に感情が爆発した感じだ。かなりストレスを溜め込んでいたに違いない。

「あの、頭が三つある犬の絵をアルフレッド陛下のお部屋に飾るの?それはいいわ、陛下の頭も三つになるかもしれないわね、あははは。町長もぜったい見に来なさいね、あははは、あ、国王陛下、そこにいらしたんですか」

 酔っ払いに絡まれると厄介なので、速攻で視線を逸らしたが遅かった。レイラがズカズカとこっちに歩いて来た。

「陛下、なんで視線を逸らすんですか、私が嫌いなんですか。からだがでかくて、剣を振り回す暴力的な女だと思ってるんでしょう」

「いやいやいや、それは誤解だ。頼もしい部下だと思っているし、その剣術は尊敬に値する。その、女性としても素晴らしい人物だと思うよ」

 と言ったものの、すでにレイラは俺の話など全然聞いていない。あらぬ方向を見て、一人でしゃべり続けている。

「それでも、先王であるウルフガル様は私を大切にして下さったのれす。ひっく。いつも私の剣技を褒めてくれて、お付きの近衛騎士に取り立ててくださいました。小さい頃から父にしごかれてきた私の努力は報われたのれす。ひっく。なのに・・・なのに・・・なぜウルフガル様はお亡くなりになったのですか。わああ、ウルフガルさまああ」

 号泣し始めた。しばらくワアワアと泣いていたが、ふと泣き止むと、今度は俺を見つめてきた。やばい、タダならぬ予感を感じて俺は思わず後ろへ引いた。

「あたしが陛下をウルフガル様のような、屈強の剣士に鍛えて差し上げるのれす。ひっく。それがウルフガル様への恩返し・・・。い、いまから陛下を特訓して差し上げます」

「あ、いや、それはありがたいが、今はちょっと・・・」

「大丈夫れすよ。ひっく。まずは何より身体づくりれす。筋肉強化トレーニング。さあ、いっしょに腕立て伏せやるのれす・・・」

 レイラが両腕を広げて迫ってきたので、俺は全力で逃げた。捕まったら腕立て一万回とか、やらされかねない。他の近衛騎士たちがあわててレイラを押さえた。そのすきに、俺は酒樽の影に隠れた。だがレイラは近衛騎士たちを投げ飛ばすと、隠れている俺をみつけて、猛牛のような勢いで走ってきた。

「みーつけた!」

 逃げ場はない、ここは反射神経の勝負だ。相手はぐでんぐでんの酔っ払いである。レイラが目の前まで近づいた瞬間に、俺はさっと右に避けた。レイラはまっすぐ酒樽に突っ込み、そのまま両腕で酒樽に抱きついた。

「つかまえたー、ははは」

 レイラの腕の中で酒樽がミシミシと音を立て、樽の栓が吹き飛び、詰められているお酒が噴水のように勢いよく噴き出した。あたりにお酒の雨が降り注いだ。

「あれ、まちがえたのれす、ひっく・・・」

 まちがえたじゃねえだろ、レイラに捕まったら、また別の世界に転生しかねない。

「あ。陛下、そんなところに・・・捕まえた・・・あはは」

 レイラはお酒まみれのまま、俺の方にフラフラと歩み寄ってきたが、五歩ほど歩いてばったり倒れ、そのまま寝てしまった。助かった。

 ファーメンのお酒は蒸留酒だからアルコール度数が高い。あんなにガブガブ飲んで全力で走り回れば、さすがのレイラでも、あっという間に酔いが回ってしまう。しかし・・・酔いつぶれて寝ているレイラは意外にかわいいな。トカゲを一刀両断にしている豪快な姿からは、想像もつかないが。

 ミックが俺の傍らにやって来て言った。

「国王陛下、・・・レイラ様が寝てしまわれて、すこし残念そうですね」

「な、何を言ってるんだ、何かを期待していたわけないだろ。レイラに追い回されて喜んでなんかいないぞ。ミ、ミックまで俺の事を何か誤解しているんじゃないのか」

 レイラが仲間の近衛騎士に担がれて宿屋へ運ばれていくのを見届けると俺は言った。

「ふう、危なかった。まあ、たまには、こういうのもありじゃないか。ちょっとお酒がきつ過ぎたんだ。そのうちレイラもお酒との付き合い方に慣れるよ」

 キャサリンが慌てて俺たちに駆け寄ると、やや困惑した表情を浮かべて言った。

「わたくしのせいじゃありませんわ。レイラったらお酒を注いだらすぐに全部飲んじゃうのですわ。途中から『もう飲むな』って言ったのですけど、止まらなくって」

「わかってる。レイラにはもっと肩の力を抜いて欲しいと思っていたから、キャサリンが気を使ってくれて嬉しいよ。今回は失敗したけど、今後もレイラを頼むよ」

「そうよ、わたくしはいつだってお兄様のお役に立つように頑張っていますわ。お兄様はわたくしにもっと感謝していいと思うの。怖い思いもしたけど、こうしてお兄様と旅ができて、とても楽しいですわ」

 辺りはすっかり暗くなり、見上げれば満天の星空が広がる。星は驚くほど明るい。転生前の陰鬱な気分が嘘のように感じられた。これが生きているという実感なのか。俺は町長に丁重なお礼を言うと祝宴の席を離れ、宿屋へ向かった。
 ロマラン国から戻ると、王国農場にアカイモの植え付けを開始した。アルカナの農場では、冬に小麦の種を蒔いて春に収穫している。春から冬の間は乾燥に強いスイカやかぼちゃなどの作物を植えている。春蒔きの二割ほどでもアカイモに切り替えれば、食料事情はかなり改善するだろう。

「ミック、アカイモの栽培事業はどこまで進んでいる?」

「はい、先日、王国農場の小作農民を集めて、ロマランより招いた技術者からアカイモの栽培法を学習させました。今は、植え付けのための準備を進めております。また、これまで仕事が無かったスラムの人々を新たな小作労働者として採用して、新たな土地にアカイモ専用の畑を開墾させております」

「アカイモは?せた土地でも育つので、まずは焼き畑で十分だろう。農地として整えるのは後でもいい」

「わかりました」

「それと話は変わるが、王立銀行の準備状況はどうだ?」

「はい、王立銀行の建物は城の隣にある王家の別邸を改造して利用いたしますが、すでに内部の工事はほぼ完了しております。巨大な金庫も設置いたしました。また、銀行券の印刷も進んでおります」

「ルミアナに依頼してある銀行券のサンプルを見せてくれないか?」

 金貨と違って紙幣は紙に印刷するだけなので偽造されやすい。そこで普通に印刷機で紙幣を印刷したあと、ルミアナに作ってもらった魔法のインクを使って上からさらに王立銀行の紋章を印刷し、光にかざすと紋章がきらめく仕掛けを施した。サンプルを一枚手に取って良く見たが、部屋の明かり程度でも紋章がキラキラと虹色にきらめいて見えた。

「なるほど、これなら偽造はできないだろう。それに幻惑の効果もあって、紙でできたおカネにもかかわらず、とても魅力を感じるな」

「左様でございますね。これで銀行券の準備も問題ありません。ところで、王立銀行の設立は、具体的にどのような手順で始めればよろしいのでしょうか」

「まず、おカネに関する法律を布告する。内容は『これまでの王国の金貨と同様に、王立銀行の銀行券を新たなおカネと定めて、王国がその価値を保証する』というものだ。もちろん、王立銀行において銀行券と金貨は交換が可能だから、価値が保証されていると言える。その代わり、銀行券を使った支払いに応じない場合は罰する」

「なるほど、銀行券を金貨や銀貨と同じように扱いなさい、と法律で定めるわけですね」

「そうだ。それを『法定通貨』と呼ぶ。とはいえ、法律で定めただけでは銀行券を使う人は限られてしまう。だから多くの国民が普通に銀行券を使う環境を作り出す必要がある。王国が率先して銀行券による取引を行なえば、自然に銀行券は世の中に広まってゆく。

 そこで注目すべきなのが、王国が販売している穀物だ。王国は王国農場で穀物を生産したり、あるいは税として農民から穀物を徴収している。その量は膨大だ。そして王国はそれらの穀物を市場で売っている。つまり、国内で取引される穀物の大部分は王国政府が販売しているのだ。

 そこで、王国政府が小麦などの穀物を売る場合、金貨ではなく銀行券での支払いを求める。そうすれば、多くの人々が銀行券を必要とするようになる。銀行券は王立銀行で金貨や銀貨を預金すれば手に入る。逆に、もし金貨や銀貨が必要なら、銀行券を持ち込めば引き出すことができる」

「なるほど、国民たちに強制的に銀行券を使わせるのではなく、使う必然性があれば自然と使うようになるのですね。そうすれば、国民たちも自発的に金貨を銀行券に交換するようになる。自発的に預金するようになるのですね」

「そうだ。これまでの金貨と同じように、銀行券と引き換えに王国が穀物を売るのだから、銀行券の信用が高まるのは当然だ。しかも銀行券が無ければ穀物が買えない。それでも最初のうちは銀行券を信用しない人もいるだろうから、銀行券を持ったらすぐに王立銀行へ行って金貨を引き出すかもしれない。が、銀行券を使うことに慣れてくれば信用が高まり、いちいち金貨に交換することもなくなる」

「なるほど、信用とは『慣れ』なんですね」

「そうだ。信用とは慣れに基づいている。紙のおカネだから信用がない、金貨だから信用がある、というのは思い込みに過ぎない。使い慣れれば、どんなおカネも信用が生じる。

 そして次のステップとしては、王国政府が兵士や使用人に給料として支給している穀物、あるいは城に出入りする職人や商人に支払っている金貨や銀貨を銀行券に変える。つまり王国政府の支払いをすべて銀行券に変える。もちろん、受け取った人は、銀行券が嫌なら王立銀行へ行って即座に金貨に変えればよいだろう。しかし銀行券が金貨と同じように使えるとわかれば、いちいち金貨に変えることはなくなる」

「なるほど、これも慣れですね」

「そうだ。さらに、王国政府が商人などから集めている税金も銀行券で納めさせるようにする。いまは税収の大部分は農民から集める穀物などの現物だ。しかし工業や商業が活発になれば、税の多くがおカネで納められるようになるだろう。だから銀行券で納税させるようにすれば、ますます銀行券の信用が増す」

「よく考えられていますね。しばらくは金貨や銀貨と銀行券は並行して利用するのですか」

「そうだ。慣れるには時間が必要だからな。人々が銀行券を使うことに十分に慣れて、銀行券がおカネだと誰もが信じるようになれば、やがて金貨や銀貨を廃止することが可能になる。私の見てきた異世界では、金貨や銀貨を使う国などなかった」

「よくわかりました。では準備ができ次第、法律を布告することにいたします」

「よろしく頼みます」

 ついに念願の王立銀行が稼働する。これで王国政府が財源に困ることは二度と無くなるだろう。これまでのアルカナ王国は、金や銀の産出量が少ないためにおカネの発行が自由に出来なかった。

 だが、王立銀行の稼働により、金や銀の産出量に縛られることなく、国家運営に必要なおカネを発行することができるのだ。もちろん金貸し商から王国がおカネを借りる必要もない。王立銀行のおかげで、国家が借金で苦しめられることは二度とないのだ。
 長年の敵国であるジャビ帝国の動向を探るため、ジャビ帝国の属国領であるナンタルで秘密裏に情報を収集することにした。今回は隠密行動なので俺は城にとどまり、ルミアナとレイラの二人に行ってもらうことにした。あの二人ならうまくやってくれるに違いない。

―――

 ラクダに引かれた馬車が砂漠を南に進んでいた。ルミアナとレイラの二人は商人に成りすました。ルミアナが錬金術師の商人、レイラがその護衛という設定だ。ルミアナはエルフの長い耳を隠すためにフード付きのマントをかぶり、商人のローブを身に着けている。レイラは身分を隠すため近衛騎士のプレートアーマーではなく、戦士用のチェインメイルにプレートのベストを着用している。

 ナンタルまではロマランから馬車で二十日ほどの長旅である。砂漠地帯であるため、道中は宿屋が少なく、野宿も強いられる過酷な旅だ。

 ロマランから南西の方角へ進むと、両側を険しい山に挟まれた谷に至る。そのあたりは極度に乾燥した岩と礫(れき)ばかりが広がっている。さらにすすむと谷は広がり、やがてシャビ砂漠に至る。砂漠をさらに南西へ十日ほど進むと彼方にリフレ湖が見えてくる。そこまで来れば目的地のナンタルはもうすぐである。

 砂漠を見るのが生まれて初めてだったレイラは、最初こそ興味津々に周囲を見渡していたが、十日目を過ぎる頃には熱さに耐え兼ねて荷台に寝転がっているだけの状態になった。

「ねえレイラ、リフレ湖が見えてきたわよ。今日中にはナンタルに着けると思うわ。」

 荷台に転がっていたレイラがむっくりと起き上がった。

「え、湖だって、本当? ちょっと湖の水辺に立ち寄らないか。身体が汗でベトベトして耐えられない、湖の水でサッパリと洗いたいんだ」

 ルミアナは手綱を捌きながらレイラを振り返った。

「リフレ湖の水は塩水だから、サッパリするどころか、なおさらベトベトになるわよ」

「へえええ、それは残念」

 レイラは再び寝転がった。今回は国王のお付きの仕事ではないためか、レイラの会話もリラックスしている。ナンタルは東と南を結ぶ貿易ルートの中継地として栄えてきたオアシス国家だ。文化的には南方圏に属しており、町並みはオリエンタルな雰囲気で、ヤシの木に代表される南国の植物が生い茂っている。街は日干し煉瓦で作られた城壁に囲まれており、街の入り口には小さいながらも塔が立っている。

 馬車が城門のところまで来ると、二人のトカゲ族の衛兵が行く手に立ちふさがった。

「止まれ。名前と町に来た目的を言え」

「兵士様、私たちは旅の商人です。私は錬金術師のラルカ、隣が護衛のマスルです。商品はポーションになります。ご覧になりますか?」

 ルミアナは荷台の幌をめくりあげ、木製のポーションケースを指さした。衛兵は木の箱を一瞥すると、見下したような態度で高圧的に言った。

「ふん、錬金術師か。まあ、そうだな、この街に入るには税金を払う必要があるんだが」

 税金とは作り話であって、明らかに賄賂の要求である。

「はい、もちろんでございます兵士様。こちらで足りますか?」

 衛兵は差し出された革袋をひったくるように奪い取ると、中を確かめ、すこし驚いたあとで満足そうな表情を浮かべた。思ったより多かったようだ。

「そうだな、すこし足りないが多めに見てやるとしよう。ほれ、これが二人分の通行許可証だ、街の中では通行証を常に首から下げておくように。では行け」

 一行は馬車を進めた。背後では二人の衛兵が賄賂の取り分を巡って言い争いをしているのが聞こえる。ルミアナはそれを気にすることなく涼しげな表情で手綱を操る。大通りの両側には日干し煉瓦で作られた平屋の家々が並ぶ。道沿いにはオアシスの泉から引き込んだ地下水路の上に井戸が点在している。

 すれ違う人々の多くは茶色の首輪を付けている。どうやらジャビ帝国の属国となったナンタルの人々は、識別のために首輪を付けられているようだ。皆表情は暗く、うつむいたまま歩いている。道端の建設工事現場では多くの労働者が働いており、おそらく現場監督であろうトカゲ族の男が人々の間を歩き回りながら鞭を鳴らしている。労働者の首輪の色は赤である。赤い色の首輪は奴隷の印なのかもしれない。

「もたもたするな、そこ、煉瓦は一度に六つ運ぶんだ。日暮れまでに運び終わらないと承知しないからな。お前は足場用の丸太を資材置き場から持ってこい」

 道には、ナツメヤシの実を山のように積んだ荷車を必死に引く若い奴隷の男と、その前をガニ股で歩く腹の突き出たトカゲの姿があった。運んでいた果物を落として、棒でひどく殴られる少女もいる。ナンタルでは多くの人々がトカゲ族の奴隷に貶められている。

 見るに堪えない光景に眉をひそめながらさらに進むと、町の中央と思われる大きな広場に出た。広場からは八方に大通りが伸びており、広場に面して馬車を停める場所と数軒の宿が見える。

 馬車を置き場に止めると、ルミアナとレイラは広場に降り立った。広場の中央付近には大きな石の台座があった。おそらく国王のような偉人の石像が立っていたと思われるが、そこに石像はなく、台座の周囲に打ち砕かれた石の残骸が転がっているだけだ。おそらく破壊されたのだろう。

 その近くにはステージのような、木で作られた急ごしらえの建築物があり、ステージ上には赤い首輪をつけた人間が一列に並ばされている。その横でトカゲが大声で叫ぶ。

「はい、五千、五千の次はないか?五千二百、五千五百が出た。五千五百。五千五百。はい五千八百、五千八百、次はないか、五千八百、五千八百、もうないか?はい、それじゃあ、二番の男は五千八百で決まり」

 奴隷のオークションのようである。二人が近づいてみると、多くのトカゲ族の奴隷商人に混じって、人間の奴隷商人もいるようだ。メグマール地方で奴隷制度を認めている国はないはずだが。レイラが思わずつぶやいた。

「人間の奴隷商人がいるなんて信じられない」

 すぐ近くで路上に商品を並べていた貧しい身なりの年老いた露天商が、レイラを見かけるとよろよろと近付いてきて、しわがれた声で言った。

「ナンタルは初めてかね、旅の人。ここじゃ人間の奴隷商人は珍しくないよ。トカゲ族は、主に農園や建設現場で強制労働させる目的で奴隷を買うんだ。だから力の強い男は人気がある。でも女の奴隷は力が弱いからトカゲ族にはあまり人気がない。そのかわり、女の奴隷は人間の奴隷商人に高く売れるらしい。別の目的があるからね。遥か北にあるというザルトバイン帝国は奴隷が合法だから、そこからはるばる奴隷商人がやってくる。アルカナ国でひそかに取引している連中もいるという噂もあるけどな」

「本当か、私はアルカナから来た者だが奴隷は見たことがないぞ」

「わしも、詳しくは知らないんです。単なるうわさかも知れません。それはそうと、何か商品を買って頂けませんか。せっかくの旅のお土産にいかがです」

 道端の薄汚れた赤い布の上に老人が並べたアクセサリーは特に珍しいものではなかったが、老人に対する、というより、ナンタルの町に対する同情心が激しく湧きだしてきて、レイラは一つ買い求めずにはいられなかった。

「ありがとうございます。あなた様の旅が、快適でありますように」

 レイラは掌のアクセサリーを見つめた。ルミアナはそんなレイラの様子を見ていた。

「許せないか」

「ああ、絶対に許せない。必ずこの町の人々を救ってやらなければならない」
 二人は宿屋に入った。宿屋のホールには装飾品が一つもなく、ひび割れた木製のテーブルと椅子が並んでいるだけだ。金目の装飾品はすべて略奪されてしまったのだろう。人間の先客が二組ほど、薄暗い部屋の中で押し黙ったまま食事をしている。

「いらっしゃい」

 店主と思しき白髪交じりの男が、店の床を掃きながら愛想よく声をかけた。荒んだ街の状況に気分が落ち込んでいた二人だったが、その威勢の良い声に少し救われた気がした。ルミアナが言った。

「食事と今夜の宿をお願いしたい。ここが気に入ったら何日か泊まろうと思う」

「ありがとうございます。うちはここらじゃ、安くて飯もうまいって評判なんです、必ずお気に召すと思いますよ。一泊130ギル、食事は朝晩で19ギルだ、それでいいかい」

「それでいいわ。まず、お水をいただけないかしら、喉がカラカラなの。」

 店の主人が水差しになみなみと注がれた水と木のカップを二つ持ってきた。

「はいよ、好きなだけ飲んでくれ」

 レイラが待ちかねたように訊ねた。

「ところで、この宿に風呂とか水浴び場とかはないか」

「身体をタオルで拭くならできるけど、風呂は無いよ。まちなかじゃあ綺麗な水は貴重品だからね、身体を洗い流すほど贅沢な使い方はできないんだ。もし水浴びや洗濯がしたいなら、町の外に大きな川が流れているから、そこでするといい。水は少し濁っているけど、洗濯はみんなその川でしてるからね」

「それはいいな。どうやって行くんだ」

「北門を出てナツメヤシの農園を抜けると、大きな川がリフレ湖に流れ込む河口付近に出る。ただし最近は大きなワニが迷い込んで住みついているらしく、人間を襲うこともあるから注意した方がいい。私なら身体を拭くだけで我慢するけどね」

「ありがとう」

 二人がくつろいでいると、突然入口の木製ドアが壊れんばかりに激しく開き、大きな足音を響かせてトカゲ族の一団が入ってきた。おそらく奴隷オークションに参加していた、トカゲ族の奴隷商人だろう。オークションが終わったので、一杯やりに来たといったところか。

 トカゲの姿を見ると店の主人は眉をしかめ、そそくさとカウンターの後ろへ戻ってしまった。トカゲが店の奥へと歩いてきた。

「おい、人間、その席は俺たちが座る、どきな」

 奥の席に座っている客を無理やりに退かせると、トカゲたちが座った。一人のトカゲが乱暴に足をテーブルの上に投げ出した。別の一人が懐からタバコの様なものを取り出すと、先端に火をつけて吸い込み、上を向いて大量の煙を吐き出した。もう一人が大声で言った。

「おい、おやじ、酒を持ってこい、それと料理だ。肉だぞ、焼き肉を持ってこい。酒はいつものいちばん上等なやつだ、わかってるな」

「へいへい、わかりました。でも旦那、少しはお代をいただきませんと、宿屋が潰れてしまいます。少しでいいんで、なんとかひとつ、お願いできませんか・・・」

 トカゲが大口を開けて不愉快そうに言った。

「はあああああ?何を生意気なことを言ってるんだあ。誰のおかげで宿を開いていられると思ってるんだ。宿屋がつぶれるだと? 文句があるなら、今すぐここで潰してやってもいいんだぜ、なあおい」

 トカゲ達は顔を見合わせてニタニタ笑っている。宿屋の主人はそれ以上何も言えず、黙って厨房へ入って行った。トカゲの吸っているタバコの煙は独特の臭いがきつく、人間には耐えられないほどだ。それが部屋中に充満してくる。

 一人のトカゲが暇そうに周囲を見回し、住民たちは彼らに視線を合わせないよう、うつむいて食事を続けている。レイラは身体も大きく目立つ存在だから、連中の目に留まらないわけがない。

「あんだ? 妙にデカいやつがいるな。・・・おい、見ろよ、こいつ男じゃなくて人間の女だぜ。とても女には見えねえな、ゴリラ女だ、シャシャシャシャ」

 周りのトカゲがみんな大声をあげて下品に笑った。

「お前が相手してやれよ。デカい女が好きなんだろ」

「バカいえ、デカけりゃいいってもんじゃねえ。ゴリラ女と寝るくらいならメスワニの方がマシだ。ゴリラは毛が生えているから気持ち悪いんだよ。げえええ」

 トカゲたちは前より一段と大声で笑うと、狂ったようにテーブルをバンバン叩いて喜んでいる。レイラの握っているカップがミシッと音を立てた。

「だめよ、挑発に乗ったら。ここで騒ぎを起こしたら、町を追い出されてしまうわ」

「なあにをコソコソ話してるんだ、俺たちにも聞かせてくれよ姉ちゃん、へっへっへん、・・・こいつはゴリラ女とは対照的に痩せたカラダだな」

「本当だ、胸がないじゃねえか。洗濯板だ。洗濯板おんな」

「ゴリラに洗濯板のコンビだとよ、ウヘへへ、こりゃ傑作だな」

 ルミアナの顔が引きつっている。ルミアナは決して痩せているわけではないのだが、からだ全体が大きいレイラの隣にいると、誰でもそう見えてしまうのである。たまりかねたルミアナが叫んだ。

「おやじさん! 私たちはもう疲れたから部屋で休むことにするわ。食事はあとで部屋に運んでちょうだい」

「わかりました、ただいまお部屋にご案内します」

「なあんだ、逃げちまうのか、つまらねえな」

「やめとけ、あいつらは旅の商人だ。トラブルになったら後が面倒だ」

 二人は二階の部屋に案内された。ベッドと椅子、机以外は何もない部屋だが、広さは十分だった。ヤシの油で満たされたランプに火を灯すと、部屋の中がぼんやりと明るくなった。部屋のドアを閉めるとレイラはベッドの上に腰を掛けてブリブリ怒っている。

「あのトカゲ野郎、町の外で会ったらぶっ殺して皮を剥いで財布にしてやる」

「あまりゆっくりしている暇はないわ。今夜、私は街を調査してジャビ帝国の総督府の場所を探るわ。おそらく昔の宮殿が総督府として利用されていると思う。宮殿の内部も軽く見ておきたい。それと、お願いがあるんだけど、私が偵察に出ている間に馬車から荷物をこの部屋に運んでおいて欲しいの」

「お安い御用だよ。じゃあ、そのあとで私は水浴びに出かけてくるから」

「それはかまわないけど、騒ぎは起こさないでね。私は明け方までには戻るわ」

「気を付けて」

 馬車から部屋にすべての荷物を運び入れると、レイラは宿屋の主人に桶とタオルを借りて鼻歌交じりに川へ向かった。つい先ほどトカゲにさんざんバカにされたことはすっかり忘れて、水浴びのことを考えると上機嫌だった。北の門を抜ける際、トカゲ兵に通行許可証の提示を求められたが、すんなり町の外に出られた。

 すでに真夜中になっており、川へ向かう通りに人影はない。これなら水浴びしても誰かに見られる心配はなさそうだ。そんなレイラの後ろを、二つの影が物陰に隠れながら歩いている。先ほどの宿にいたトカゲ族の奴隷商人である。夜中に人さらいをしようと企んでいるようだ。