リーマンショックで社会の底辺に落ちたオレが、国王に転生した異世界で、経済の知識を活かして富国強兵する、冒険コメディ

 ぼろアパートに住むワーキングプアだった俺は、ある晩、いつものように眠りについた。ところが朝になって俺が目覚めた場所は異世界だった。俺はいつの間にか、中世時代の国王アルフレッドになっていたのである。

 ミックという大臣から聴いた話では、どうやら本物のアルフレッド国王は何者かに毒を盛られて五日間も昏睡状態になっていたらしい。その間に、なぜか俺と意識が入れ替わってしまったようだ。こうして俺はアルフレッド国王になった。もちろん、このことは家臣たちには絶対に秘密である。

 アルフレッドの治めるアルカナ王国は衰退しつつあった。国家財政は危機的状況にあり、政情も不安定で、ジャビ帝国というトカゲ族からの侵略にもさらされていた。いつ国が滅んでもおかしくない状態だ。しかし俺は、現実世界では決して自らの手で成し遂げることのできないであろう「富国強兵」という大目標に挑戦することを決意した。

 アルフレッドにはキャサリンという金髪美少女の妹が居た。外見は可愛いが性格はS属性で、子供の頃は兄のアルフレッドをいじめて遊んでいたことが判明。しかしアルフレッドも妹にいじめられて、まんざらではなかったという、仲の良い変態兄妹だった。

 王国を立て直す上で、まずは王都アルカを視察して回ることにした俺は、城門の外に広がる巨大なスラムを目にした。生活に苦しむ大勢の貧しい人々に対して、市場で盗んだ食べ物を分け与えていたエルフの女性、ルミアナを助け、彼女を新しい仲間に加えた。ルミアナは弓と幻惑魔法を得意とするレンジャーだった。

 ルミアナの話によれば、魔法を使えるのはエルフだけであり、人間に魔法は使えないという。その話に落胆した俺だったが、せっかく異世界に来たにも関わらず、魔法が使えないことに納得できなかった俺は、後日、本当に俺に魔力がないか調べてもらうことにした。

 王国を立て直すヒントを探るため、次に王国農場を視察することにした。中世時代の中心的な産業は農業である。食料を増産できなければ、国を発展させることはできない。だがアルカナは雨が少なく、目立った川も流れていないことから農作物の不作に苦しんでいた。

 王国農場の視察の途中、大昔に流れていたらしき大きな川の痕跡を発見した俺たちは、その跡を辿って北へと向かった。そして遥か上流で東へ向かって流れる大河を目にした。それはアルカナ北部から隣国のエニマ国へと流れるエニマ川だった。

 現在は東の隣国へ流れるエニマ川だが、太古の昔には南のアルカナへ流れていたことを知った俺は、エニマ川に水門を建設して水を取水し、古い川筋に流すことで、アルカナに水をもたらす大河川工事を計画した。 

 だが財政難のアルカナ国政府には公共工事のためのおカネがなかった。金の産出量も少なく、金貨も発行できなかった。やむなく金貸しと国内の貴族からおカネを借りたが、金貸しに頼っていては国家事業を推進するうえで限界がある。俺は、いずれ王立銀行を設立せねばならないと痛感した。

 ルミアナとの約束通り、俺に魔力がないかどうかを魔力黒板で調べてもらった。すると人間にはないはずの魔力を俺が持っていることが判明した。俺は魔法が使えるのだ。だが、この世界で魔法を使うには、魔力だけでなく魔法素材と呼ばれる物質が必要であることがわかった。魔法素材の多くは貴重品であり、ルミアナも限られたものしか持ち合わせていなかった。

 エニマ川に水門を建設するに当たって、エニマ川が流れる先にある隣国エニマ国の了承を得る必要があると考えた俺は、エニマ国に向かった。その旅にお付きの護衛として同行したのが、女性の近衛騎士レイラだった。レイラは二メートルの長身で圧倒的な強さを誇る女戦士だが、性格が真面目すぎてガチガチだった。

 エニマ国では国王ハロルドの快諾を得たものの、皇太子マルコムがそのことに強く反発した。マルコムはアルカナ国を信用しておらず、自国を中心とする近隣諸国による統一国家の実現を望んでいた。

 エニマ国の了承を得た俺たちは、水門建設の現地調査へ向かった。その途中、巨大な猛獣ブラックライノの群れに襲われそうになったところを、居合わせたナッピーという小さなハーフリングの少女に助けられた。ナッピーは獣使いだった。ナッピーの協力でブラックライノに河川工事を手伝ってもらえることになった。

 河川工事の計画が一段落した俺は外交に目を向けた。王国の有力貴族であるジェイソンの勧めもあって、アルカナの西にある貿易国家ロマラン王国を訪問することにした。ロマラン王国ではレオナルド国王と親睦を深めると共に、乾燥に強いイモであるアカイモを譲り受け、食料増産のために王国農場で栽培することにした。

 ロマラン王国への親善訪問を終えた俺たちは、道すがら、アルカナ最西端の町ファーメンを視察することにした。だがその道中、ジャビ帝国の暗殺団と思われるトカゲ族の集団に襲撃される。この危機をルミアナの卓越した弓術とレイラの超人的な剣術パワーによって乗り切った俺たちは、負傷者を王都に返した後、ファーメンの町へと向かった。この襲撃の裏にいたのは、有力貴族ジェイソンだった。

 ファーメンは人気の高い蒸留酒の産地として有名だった。町の人々が用意してくれた歓迎の宴に参加した俺たちは心ゆくまで楽しんだが、酒を飲んでベロベロに酔っ払ったレイラが俺を追いかけ回すというハプニングに見舞われた。真面目すぎてガチガチだったレイラの別の一面が垣間見えた件であった。

 外国訪問から戻った俺は、周到な準備のうえ、いよいよ王立銀行をスタートさせた。もちろん、そうした新しい仕組みが社会に根付くには時間が必要だ。

 俺は宿敵であるジャビ帝国の情報を得るため、ロマランの南西に広がるジャビ砂漠にある、ナンタルという町に目を向けた。ジャビ帝国に属国化されていたナンタルに、スパイとしてルミアナとレイラを派遣することにしたのである。

 ナンタルの町では人間がトカゲ族の奴隷として働かされ、あるいは奴隷商品として売買されていた。宿屋に到着すると、何週間も風呂に入ることができなかったレイラは耐えきれず、夜中に川へ水浴びに出かけた。しかし武装を解除して水に入ったところをトカゲの奴隷商人たちに襲われる。素手による格闘術も身につけていたレイラはトカゲの奴隷商人を叩きのめし、逆に、ワニに食われそうになったトカゲを助けた。

 一方のルミアナは、潜入したジャビ帝国の総督府で偶然にレジスタンスの少年アズハルと知り合い、監獄に囚われている仲間を救出することになった。真夜中に下水道から潜入したルミアナとアズハルは仲間の救出に成功するが、脱出の途中でトカゲの衛兵たちの待ち伏せにあってしまう。その窮地に、ルミアナの後を付けてきたレイラが飛び込み、二人でトカゲの衛兵たちを倒して脱出する。これがきっかけで、ナンタルのレジスタンスが持っているジャビ帝国に関する情報網を利用させてもらえることになった。

 そしてついに水門の工事が完成し、アルカナに大河が復活した。王都アルカの人々は喜びに沸いた。俺はアルカナ川工事の成功のお祝いと、これまでの仲間たちへのねぎらいを兼ねて、王都の南にある温泉へ旅行することにした。仲間たちのほとんどは、温泉というものが初めてだった。女湯の露天風呂でくつろいでいたルミアナ、レイラ、キャサリン、ナッピーだったが、その様子を茂みに隠れてハゲ頭のドワーフが覗いていた。ドワーフはカザルという名前の中年男だった。

 覗きに気付いた女性たちが怒り狂ってドワーフを追いかけ回し、俺とミックがいる男湯に乱入する騒ぎになる。カザルは捕まり、反省して俺の部下になった。カザルが言うには、この近くの廃鉱山で特殊な鉱物を探す依頼を受けたのだという。俺たちは、その鉱物を探す手伝いをすることにした。だが、それは俺たちを廃鉱山に閉じ込めるための罠だった。

 カザルは膨大な借金を抱えてクビが回らなくなっており、借金返済のおカネを稼ぐために、俺たちを廃鉱山に監禁して身代金を要求する悪党たちの計画に参加していたのだ。ところがカザル自身も問答無用で廃鉱山に閉じ込められ、自らも罠にはめられたことを悟った。悪党は最初から全員を殺すつもりだったのだ。ジェイソンの陰謀だった。

 深く反省したカザルは、俺たちに協力して廃鉱山を脱出する方法を探すことになった。偶然にも、この廃鉱山は太古の昔、ドワーフたちが掘ったものだった。ドワーフ文字の読めるカザルが看板の文字などを解読することで脱出ルートが判明し、俺たちは鉱山の最下層へと向かった。

 最下層で俺たちを待ち受けていたのは、光るキノコに埋め尽くされた不思議な広い空間だった。美しい光景に見とれていた俺たちだったが、そこへ巨大なサソリの化け物が襲いかかってきた。その巨大サソリはルミアナの矢を弾き返し、レイラの怪力をもってしても撃退することができなかった。

 自分の魔法にまだ自信がなかった俺は、魔法の使用をためらった。だが、その間にレイラが巨大サソリの毒針を受けて倒れてしまう。もはや猶予はない。俺は渾身の魔力で火炎魔法を放ちサソリを倒した。幸い、ルミアナの解毒剤によってレイラは一命を取り留めた。最下層にたどり着いた俺たちは、何とか廃鉱山を脱出することができたのである。

 アルカナ川の完成と、同時に進めたたい肥の量産、そしてアカイモの栽培によって王国の食料生産は飛躍的に伸び、貧しい人々の飢えも解消された。王立銀行による紙幣の発行も順調にすすんでいる。アルカナの内政は順風満帆だった。

 だが、隣国のエニマ王国で大きな政変が起きた。クーデターである。かねてよりエニマ国を中心とする周辺諸国の統一国家樹立を目論んでいた皇太子マルコムが、大将軍のジーンと組んで国民を扇動し、国王ハロルドを退位に追い込んだのだ。そして自らがメグマール帝国皇帝であると宣言し、周辺諸国であるアルカナ王国、イシル公国、ネムール王国に対して、それぞれの国王が王位から退くことを求めたのである。

 いよいよ、戦乱の幕が切って落とされようとしていた。

「装甲巨人兵は前進せよ、火炎魔道士の全部隊は火炎攻撃を開始、目標は前方城壁左翼」

 俺は満を持して全部隊に指示を出した。目の前には黒々とそびえる巨大な城。火炎魔道士が火炎弾を次々に放つと、オレンジ色に輝く無数の火炎弾が尾を引いて飛び、黒い城壁に着弾して続けざまに爆発が巻き起こる。爆炎にさらされた城壁が徐々に真っ赤に加熱されると、やがて溶けるように崩れてゆく。

 俺は魔界の帝王ザイームを、奴の最後の砦である暗黒要塞に追い詰めた。そしてついに最後の決戦の火ぶたが切られたのである。自らの過ちを認めることのない帝王によって、これまでどれほど多くの人々が死に追いやられたことか。奴は自らが正義であると主張し、抵抗する勢力を容赦なく葬ってきた。その悪行もこれで終わりだ。

 その時、怒り狂った帝王ザイームの声が荒野に響き渡った。

「おのれ無知な民衆どもめ、我が信念の炎を浴びて滅びるがよい」

 来るぞ。俺たちは身構えた。ザイームの最終魔法<プライマリーバランスの呪い>である。<プライマリーバランスの呪い>は超強力な洗脳魔法である。これを浴びた者は思考能力が麻痺させられて戦意を喪失してしまうのだ。ザイームによって<プライマリーバランスの呪い>を打ち込まれた多くの国は国民の活力が失われ、国家の経済が崩壊し、成すすべもなく次々にザイームの支配下に置かれていった。我が国も崩壊寸前にまで追い詰められた。だが、狂気の洗脳魔法をブロックする防御魔法の開発に成功することで我が国の経済は復活し、新たな魔法技術を開発し、戦力を整えて反撃を開始したのだ。

「<プライマリーバランスの呪い>発射!」

 帝王ザイームの絶叫と共に暗黒要塞の頂点から、見るもおぞましいドロドロと波打つ赤い雲が放出され、我々の頭上に広がった。だが洗脳をブロックする魔法を用いる我々には通用しない。そうこうする間に、我が軍の激しい火炎攻撃によって暗黒要塞の左翼城壁は轟音と共に崩れ去った。

 よし、一気に押し切ってやる。

「重装歩兵は城内に突入せよ、装甲巨人兵も続け」

 ザイーム配下の御用翼竜兵が反撃に押し寄せるも、火炎魔道士の火炎弾によって次々に撃墜されてゆく。重装歩兵の大軍が帝王の玉座の間へとなだれ込む。装甲巨人兵も城の壁面を破壊して広間に突入した。燃え立つ黒い炎のようにも見える邪悪な玉座の前で、帝王ザイームが仁王立ちになっていた。

「おのれ愚かな大衆どもめ、我こそが正義、誰が何と言おうが私が正しいのだあああ」

 絶叫する帝王。俺は全軍に向けて最後の命令を下した。

「ザイームを倒せ」

 帝王めがけて無数の火炎弾が絶えることなく次々に撃ち込まれる。帝王の体は無数の爆裂に包まれ、目も眩むばかりの閃光がほとばしる。断末魔の悲鳴と共に帝王ザイームの体は消し飛んだ。ついに勝ったのだ。

 画面にエンディングロールが流れる。ゲームクリア。そう、これはストラテジー・ロールプレイングゲーム。自分が国家の指導者となり、様々な内政を駆使して自国の国力を成長させ、敵対する悪の帝国を打倒するゲームである。俺はスコアを確認した。国民の幸福度が九十五パーセント。国民の幸福度を高く維持しながらザイームの帝国を完膚なきまで叩き潰すのは、高い難易度が要求される上級テクニックだ。俺の心は達成感に包まれた。

 ゲームのエンディングが終わると、俺の意識はゴミだらけの薄汚い部屋に戻った。ここは築五十年になる木造のぼろアパートである。部屋の広さは六畳間。部屋には中古で買った大きなスチールの机があり、二十四インチのディスプレイとゲームPCが置かれている。キーボードの横には、すっかり冷めてしまった食いかけのコンビニ弁当とコーヒー缶が三つ。

 ゲームの興奮から冷めると俺は気が抜けたように脱力し、大きなため息をつくと椅子の背もたれに大きく寄りかかった。古い椅子はぎしぎしと耳障りな音を立てる。ヘッドフォンを外して机の上にゆっくりと置いた。

 ふと壁に目を向ける。薄汚れて黄土色に変色した壁紙には、何かが貼られていた跡がくっきり残っている。前の住人は相当なヘビースモーカーだったのだろうか、いや、前の前の住人かもしれない。ほとんど見捨てられたようなぼろアパートの壁紙など、何十年も張り替えていなくて当然だろう。いや、そんなことはどうでもいい。

 アメリカのサブプライムローンバブルが崩壊し、リーマンショックの余波が日本に押し寄せた翌年、俺の務めていた会社は倒産した。それまでは、高給取りとは言えないまでも、そこそこの暮らしができる程度の所得はあった。正社員だったし、それなりに仕事に打ち込み、社内の評価も高く、役職にも付けた。夢のある仕事じゃなかったが満足はしていた。だが会社が倒産して失業してからは、まるで世界が変わってしまった。今じゃコンビニの店員でなんとか生きながらえているありさまだ。

 俺は腹が立っていた。なぜこんなことになってしまったのか? インターネット上には「貧困は自己責任だ」と書き込む連中が大勢いて、貧しい人を叩いている。本人の努力が足りない、スキルを磨け、働けるだけありがたいと思えと説教する。驚くべきことに、叩いている連中が裕福な立場というわけではなく、実は俺と同じような底辺の存在なのだ。そんな底辺の連中が、自分たちより貧しい人々を叩いて自己満足に浸っている。荒んだ社会になったものだ。

 だが、連中が言うように自己責任がすべてなのだろうか? 少なくともバブル崩壊は自己責任じゃないし、それがなければ大勢の人たちが生活に苦しむこともなかったではないか。結局は個人がこつこつと努力したところで、そんな真面目な人々が想像もつかないところで起きる、もっと巨大な汚い出来事によって、すべての儚い努力は押しつぶされてしまうのだ。

 会社が潰れたのはなぜなのか、リーマンショックとは何なのか。会社が倒産して以来、俺はネットを使って経済について調べまくった。そして、今までの自分が経済について何も知らなかったことに、痛いほど気付かされた。それだけではない。ほとんどの国民も自分と同じ知識レベルであり、経済について何も知らないまま生きていることを知った。日々の生活、日々の労働に忙殺され、経済について考える暇など無いのが正直なところだろう。だがそのために、どれだけの人々の、こつこつ積み重ねた努力が無駄になり、あるいはそうした努力の成果が一部の人間にすべて吸い取られてしまっていることだろうか。

 だが、何年も経済について考え続けてきた俺には、経済の本質についていくらか理解できたという自信が生まれていた。そしてその知識を元に、いろいろな政党のマニフェストを調べては政策の是非を評価し、投票所に足を運んでは選挙のたびに世の中が変わることを期待した。

 それだけでは飽き足らず自らネットにサイトを立ち上げ、SNSで経済政策に関する情報を発信したりもした。だが政治は何も変わらなかった。政治だけでなく、世論も変わらなかった。新聞には今日も「日本は借金まみれでダメになる」「社会保障を削減しないと財政が破綻する」といった記事が溢れ、国の借金を増やさないためと称して、マスコミ総出で世の中を増税に追い込んでゆく。増税。その先にあるのは日本経済の死である。

 ゲームの世界ではいくらでも国家を豊かにできる。その方法もわかっている。だが現実の世界はまったく逆の方向に向かっている。国も国民もどんどん貧しくなるばかりだ。だが俺の力では何もできない、分かっていても何も変えることができないのだ。行き場のない絶望感が、生きることの虚しさを一層?き立てる。俺にせいぜいできる事は、皆が盲目的に信じている「努力」というやつで、徐々に少なくなってゆく椅子取りゲームの椅子にしがみつくために、あがいてみるだけなのだ。椅子を増やすという考えはないのだろうか。いつもそんなことを考えて堂々巡りしてしまう。

 もう疲れたので寝ることにした。また明日も同じことの繰り返しなのか。幸いなことに俺は不眠症にまるで縁がなく、ベットに入るといつも速攻で眠りに落ちるのだ。せめて夢だけでも良い夢をみたいと思った・・・。

・・・・・・。

 バラの香りがするな、と思って目が覚めた。バラなんか俺の部屋にはないはずだ。いや、それだけじゃない。目を開くと、いつもの薄汚れた石膏ボードの天井ではなく、絹のベールのような美しい生地で作られた蚊帳が見える。

 なんだこりゃ?ここはいつも見慣れた、ぼろアパートの部屋じゃないぞ。これはまるで映画に出てくるような、王侯貴族の豪華な部屋じゃないか! 驚いて思わずがばっと上半身を起こすと部屋中を見回した。そんな俺の姿にハッと気づいたのか、メイド服を着た侍女と思しき女性が、緊張で引きつった顔のまま、慌てたように部屋を飛び出して行った。誰かを呼びに行ったに違いない。

 それにしても、何が起きたのだろうか。転生。すぐにその言葉が頭をよぎった。アニメ好きの俺は、最近やたらに流行している「異世界転生アニメ」というのをよく見ていたから、もしかしたら、転生なのかも知れないと思った。転生のよくあるパターンとしては、主人公が何らかの事故にあって死亡してしまい、別の世界で新たな生を授かる、というストーリーだ。

 しかし自分は昨日の晩、普通に眠っただけだ。トラックに轢かれたこともなければ、通り魔に刺されたこともない。眠っているうちに突然心臓でも止まったのか?仮に転生したとして、いったい俺は何になったのだろう。この部屋の絢爛豪華な装飾品の数々から言えば、中世の、どこかの貴族にでも生まれ変わったのだろうか?

 ベッドの横に鏡があった。俺は鏡を覗き込んで驚いた。そこに映っていたのは、いつも見慣れた中年男の俺じゃない。若くて、しかも、そこそこ美形の男だった。誰だこいつは?

 ・・・とはいえ、確かに俺はここにいる。俺が頭を掻けば、鏡の中の男も頭を掻く・・・ということは、俺は異世界の人物と意識が入れ替わってしまったのか! 意識が入れ替わるというのは転生なのか、転移なのか。よくわからんが、とにかくそういうことだ。

 しばらくすると、石造りの廊下を響き渡る喧騒とともに、数人の男と女が部屋に駆け込んできた。その中の、最も身分の高そうな身なりをした若者が話しかけてきた。

「おお、これはこれは国王陛下。意識を取り戻されたのですか? いやまあ、心配しました。ご気分はいかがですか、お体はどんな具合ですか、痛いところはございませんか」

 驚いたことに、俺はどこかの国の国王に転生したらしい。

「お兄様、大丈夫ですの? 言葉は話せますかしら」

 どうやら妹のようだ。年は十六、七歳といったところか。かなりの美少女である。それにしても困った状況になった。まさか「私は本物の国王ではなく、異世界から意識だけ転生してきた別の人物です」などとは口が裂けても言えない。頭が混乱した俺は思わずマヌケな発言をしてしまった。

「ここはどこだ? ・・・わたしは誰なんだ?」

 相手の表情を確認するまでもなく、その場の空気が一瞬で凍り付いたことを肌で感じ取った。それはそうだろう、一国の国王が記憶をなくしたとなると、一大事である。医者らしい男が俺の脈を取りながら言った。

「う~む、これは毒の影響による記憶喪失かも知れませんな」

 それを聞いた若い男と妹らしき人物は、すっかり取り乱している。

「こ、国王陛下、しっかりなさってください」

「お兄様、わたくしの顔がわかりませんの?」

 二人を落ち着かせるために、医者が冷静な口調でゆっくりと言った。

「記憶喪失と言っても一時的なものかも知れません。まだ意識が戻られたばかりなのですから、あまり心配されない方がよろしいかと。今は、陛下の命が助かったことを素直に喜ぶべきでしょう」

 若い男が大きく頷いて言った。

「お医者様の言う通りです。毒に侵されて五日間も意識がなかったのです。生きておられるだけでも奇跡と言えましょう。きっと記憶は数日もすれば元に戻ります」

「そうですわ、見たところ元気そうに見えますから、すぐ元に戻りますとも」

 俺は思った。そうだ、このまま記憶喪失ということにしておけば、この場を何とか切り抜けられるに違いない。記憶喪失なら今後の俺の言動に違和感があったとしても、納得してくれるだろう。

 若い男が俺に言った。

「ところで、五日間も何も口にしておられないのですから、空腹ではございませんか。もしよろしければ、お腹に差しさわりのない軽い食事をお持ちしましょう」

「それはありがとうございます、よろしくお願いします・・・」

 俺の言葉を聞いたその若い男は少し戸惑いの表情を見せたが、すぐに侍女たちに命じて食事の準備をはじめた。

 侍女たちがベッドの横に急ごしらえで用意してくれた食卓で朝食を食べながら考えた。ここがどこなのか、俺は誰なのか、さっぱりわからない。このまま俺は記憶喪失の国王だということにして、若い男からこの世界について話を聞いてみよう。

「いろいろとお話を聞かせて頂けませんか・・・。もしかすると、お話を伺っているうちに何か思い出すかも知れません。申し訳ありませんが、まず、その・・・私が誰なのかをお教えいただけますか」

 若い男は俺を見ながら、病人をいたわるような優しい口調で言った。

「陛下、もっとリラックスなさってください。何も覚えておられなくとも、私ども家臣に気を使うことはございません。あなた様は国王です。もっと国王らしい口調でお話しくださって結構です」

 そうか、どんな事情があるにせよ、自分は国王になったのだから、それなりの口調で話さないと、かえって不自然になってしまう。偉そうに喋る必要があるな。ここは国王になりきるしかない。

「・・・そうか、それなら、まずは私が何者なのか教えて欲しい」

「あなたはアルカナ王国の国王、アルフレッド・グレン様でいらっしゃいます。そして、私はミック・エルマンと申します。総務大臣をしております。また陛下の秘書やアドバイザーとしての役割を担っております」

 俺は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。俺はミックという男にたずねた。

「私は・・・病気だったのか?五日間も意識が無かった、と医者が言っていたようだが、かなりの重病なのか」

 ミックは警戒するようにあたりを見回すと、顔を近づけて小声で答えた。

「病気ではないと思います。おそらく毒を盛られたのです。陛下は五日前の朝食を召し上がられている最中に、腰掛けておられた椅子から突然崩れ落ちました。そのまま意識を失いました。毒殺を疑い、すぐに厨房を探しましたが、疑わしい料理人はすでに逃走しておりました。その後、料理人の捜索を行ったのですが、翌日、港で溺死体となって発見されました。そのため真相はわからないままで、毒も見つかっていません」

「毒殺か、・・・恐ろしいな」

「恐ろしいことです。ですが、毒殺未遂の確たる証拠はありませんし、無用な騒ぎを起こすことは得策ではありませんので、対外的にはご病気であるとしております」

 俺は少し不安になった。命を狙われているらしいからだ。

「毒殺されるような理由があるのだろうか」

「アルカナ国は、まだ政治的に不安定な状況にあります。と申しますのも、二年前に先王であらせられたウルフガル様がご病気で急逝され、アルフレッド様が後を継いでご即位されてから、まだ一年ほどしか経っていないからです。そのため、国内にアルフレッド様のご即位を歓迎しない貴族や、この機会に王国の転覆を図ろうとする輩がおる可能性も排除しきれないのです」

「気の抜けない状況だな。王国と貴族はどんな関係にあるんだ?」

「アルカナ国の貴族は、それぞれに町や村を支配しております。貴族は王国に忠誠を誓う代わりに、王国は貴族たちに庇護を与えております。貴族は兵を有しており、なかには王国に匹敵するほどの力を持つ者もおりますので、頼りにはなりますが、逆に言えば油断はなりません」

「ところで、アルカナ国は繁栄しているのか」

 ミックは少し考え込んだ。本当の事を言うべきか悩んでいたようだ。

「正直に申し上げますと、近年の我が国の国力は低下しております。他国に比べて弱体化しつつあります。財政的にも多くの負債を抱えております。しかも、長年の宿敵であるトカゲ族の覇権国家が近年勢力を増しており、戦争のリスクも高まりつつあります。とはいえ国力を回復するための根本的な解決策も見つからず、アルカナはかなり厳しい状況に追い込まれていると言えます」

 これはまずいぞ。国内外がそんなに酷い状況なら、クーデターが発生して国王が処刑されたり、外国との戦争に負けて国王が戦死する事態も十分にあり得る。せっかく国王に転生したってのに、酒池肉林の甘い生活どころか、いきなりミンチにされちまいそうだ。
「わたくしは、お兄様の妹のキャサリンでございますわ」

 それまで黙って俺の横で話を聞いていた美少女が微笑んだ。この子が妹なのか、すげえ美少女だな。ミックからアルカナ国の悲惨な現状を聞いて絶望的な気分に落ち込んでいたが、こんな金髪美少女が妹なら、この異世界も捨てたもんじゃないな。俺は美少女の手前、ちょっとカッコつけて言った。

「キャサリンか・・・ああ、すまない。今は何も思い出せないんだ」

「大丈夫ですわ。それよりわたくし、お兄様が本当に死んでしまわれるのではないかと心配しましたわ。だからお兄様の回復を祈って、毎日、お庭のバラの花を摘んでお部屋に飾っておりましたのよ。このベッドの横のお花ですわ」

 ああ、なんて優しい妹なんだ。おまけに金髪美少女だし。見ているだけでも心が安らぐようだ。こんな天使のような妹がいるなんて、これは間違いなく異世界転生の特典だ。これだけでも転生した価値があったな。俺はまた、ちょっとカッコつけて言った。

「ありがとう、キャサリン。とてもうれしいよ」

 ところが、キャサリンはそれまでの優しい口調から打って変わり、まるで母親が子供を諭すように片手を腰に当てると、俺を指さしながら言った。

「それと、こういうことが二度と起きないよう、これからは、わたくしがお兄様と同じテーブルで食事をして、食べるものはすべてわたくしが毒見いたしますわ」

「え? ・・・な、何もそこまでしなくても・・・」

「いいえダメです。隙あらば自分が国王に成り替わって権力者になろうと企む貴族連中が国内にはいるのです。お兄様は考えが甘すぎですわ」

 あれ? 何だか雲行きがおかしくなってきたぞ。「天使のように優しい妹」じゃなかったのか? まるで怖い教育ママみたいになってきたぞ。なんだかわからないが、ここはとりあえず彼女に大人しく従っておこう。

「わかったよ、キャサリンの言う通りかも知れない、任せるよ」

 二人の様子を黙って見ていたミックは、少し間をおいてから言った。

「国王様、まだ何も思い出せませんか?」

「そうなんだ。まったく思い出せない。その代わり・・・」

 俺は少し考えた。二人を納得させるための、ちょっとした作り話をしようと思ったからだ。転生前の俺の記憶は神の啓示なんだ、という作り話である。

「その代わり、私には別の記憶があるんだ。こん睡状態で眠っていた時、私は不思議な夢をみた。夢の中では、この世界とは違う別の世界で生活していた。その夢で見た記憶が今でもはっきり残っているんだ」

「別の世界・・・陛下はもしかすると異世界の夢をご覧になったですか?」

「そうなんだ、しかも、この世界で記憶を失っていたのは五日間だが、夢の中ではもっと長い期間を過ごしていた気がする。一年とか二年とか、あるいはもっと長く・・・」

「それはすごく不思議なお話ですね。陛下が体験された異世界とは、どのような世界だったのですか?」

「この世界より遥かに文明が進歩した世界だった。巨大な鉄の船が海を行き交い、翼の生えた馬車が空を飛んでいた。夜の街は何万ものランプで昼間のように明るく照らされ、壁に飾られた額縁の中では絵が動いていた。そして、隣の町に居る人と会話ができる道具を、すべての人が持ち歩いていた。まるで魔法のような世界だった」

「本当ですか、にわかに信じられるお話ではありませんが」

「本当なんだ。信用できないなら、まだまだ話すことができる。もしかするとあれは単なる夢ではなくて、何かの啓示だったのかもしれない。あまりにも鮮明な記憶があるのだ・・・」

 突然、キャサリンがすっくと立ち上がると、きらきらした目で言った。

「すごいですわ、なんて不思議なお話でしょう。これは奇跡ですわ、奇跡に違いありません。お兄様がこん睡状態で生死の境を彷徨っている時、神様がアルカナを救うためにお兄様に啓示をお与えになったに違いありませんわ。まさしく奇跡です」

「しかし、お嬢様。アルフレッド様は毒の影響で夢をみていただけですから・・・」

「いいえ、ちがいます!」

 キャサリンは両手を胸の前に組んで上を見上げながら、うるうるして言った。

「お兄様は神を見たのですわ。お兄様は間違いなく神の啓示を受け、アルカナを救うために死の淵から蘇ったのですわ。さあ、ミックも信じるのです。お兄様は、そのうち空中浮遊して予言を口走るに違いありませんわ」

 どこの新興宗教だよ。異世界で教祖なんかやる気はないぞ。そこまで信じ込まれると怖いな。とはいえ俺の狙った通りの展開である。そこでダメ押しに俺は言った。

「キャサリンの言う通りかも知れない。神が私に不思議な啓示をお与えになり、そして毒に侵されて瀕死の状態だった命を救ってくださった。もしそうなら、アルカナのために神の啓示で授かった知識を生かすことが、生き返った私に課せられた使命なのだと思う」

「なんだか鳥肌が立つお話ですわね、お兄様。どきどきしますわ」

 その会話を聞いていたミックは言った。

「お、おっしゃる通りかも知れません。もし神がアルカナを救うために陛下に啓示をお与えになったのだとしたら、それを生かすことが陛下の責務と言えましょう」

 ウソみたいだが、二人を信じ込ませることに成功した。よくある異世界転生アニメだと「これで経験値を獲得し、俺はスキルを獲得した」という事になるのだが、残念ながらこの異世界ではそういうレベルアップは起こらなかった。まあこの場合、獲得しても『二枚舌』という不名誉なスキルだろうから、欲しいとは思わないが。

 それにしても、国王に転生するとは、俺はなんて幸運なんだ。これが奴隷や辺境の原住民にでも転生していたら、たまったものではない。腰蓑(こしみの)一丁で槍を持って転生していたら大変だった。それじゃあサバイバルクラフトゲームだ。

 国王といえば、政治を通じて国全体を動かすことのできる立場だ。普通の人間ならどれほど努力を重ねても、ほとんど到達することが不可能な立場なのだ。ならば、前の世界の俺には到底不可能だった「世の中を変える」ことを成し遂げてみたいと思った。人々が豊かに、幸福に暮らせる国を実現してみたい。そうした意欲が湧き上がってきた。

 俺はミックに言った。

「ミックにお願いしたいことがある」

「何でしょうか、陛下。何でもおっしゃって下さい」

「おかげで体の方は元気になってきた。そこで、二、三日中に王都やその周辺を視察してみたいと思う。せっかく神から啓示を受けたのだから、その知識を活かしてこの国を大きく発展させて豊かな国にしたいと思う。そのためには、まず現状を知る必要がある」

 ミックは少し驚いたようだった。

「陛下が積極的に領地を視察するとおっしゃるのは、これまでなかったことでございます。意識を失っておられる間に、本当に陛下は神から啓示を受けられたのかも知れません。わかりました。視察を行うための準備をいたします」

「よろしく頼む」

 その話を聞いていたキャサリンは、まるで当然のように言った。

「それでしたら、わたくしも同行させていただきますわ。わたくしがお兄様を案内して差し上げれば、きっと失われた記憶も戻るに違いありませんもの。幼いころは侍女たちといっしょに、お兄様と二人で王都のあちこちを見て歩いたものですわ」

ーーー

 一方、ここはアルカナの王都にある、とある建物。ランプに照らされた薄暗い部屋には豪華な調度品が並んでおり、この部屋の主の身分が高いことをうかがわせる。椅子には派手な身なりをした男が横柄な態度で足を組んで座っており、落ち着かない様子だ。男の部下と思われる黒装束の人物が跪いて報告している。

「お伝えしたいことがございます。アルフレッド国王の意識が戻られたとのことでございます。二、三日中には公務に復帰されるようです」

「なに? それは本当か」

「はい、城内に潜入させてある情報提供者からの報告ですので、間違いございません」

「わかった、下がってよい」

「はっ」

 男は椅子から立ち上がるとゆっくり窓際へ歩んだ。表情には口惜しさがにじんでいる。固く握りしめられた右手が、かすかに震えている。部下が部屋から退席して一人になると男はつぶやいた。

「今回も失敗か。あの男も頼りにならんな、文句の一つでも言ってやらねば・・・」

 この男は何者なのか、何を企んでいるのか、まだわからない。
 二日ほど過ぎると俺の体調は万全になった。今日はアルカナ王国の王都であるアルカを視察して、アルカナの人々の暮らしぶりや経済の状況などを把握しようと思う。

 王都は古い町で、二百年前からおおむね現在のような姿だったらしい。人口はおよそ十万人。町は石造りの城壁で囲まれており、中心には王の居城、そしてその周辺には政府の建物や公共施設がある。城から東西南北に大通りが伸び、南には港があり、海に面しているという。

 視察には総務大臣のミックと妹のキャサリンが同行した。ミックが説明してくれた。

「まずは公共の建物からご案内いたしましょう。こちらが南大通でございます。大通は東西南北にありまして、南大通りは港につながっております。こちらの建物は貴族会議場です」

 石造りのとても大きな建物が見えてきた。正面にはギリシャ神殿のような八本の石柱が立ち、張り出した屋根を支えている。両開きの扉の上には神話をモチーフにしたようなレリーフが彫りこまれ、荘厳な雰囲気を醸し出している。かなり昔に建てられたらしく、階段は擦り減り、壁には風化の跡が見られる。

「こちらは教会になります」

 教会は装飾の少ない直線的な壁と柱からなるデザインで、壁には小窓が多数配置されている。派手さはないが、石の素材が放つ重厚感が伝わってくる。屋根は三角形で尖っていたが十字架はなく、キリスト教というわけではなさそうだ。ドアには見たことのない紋章が描かれている。この建物もかなり古そうだ。

 教会のすぐ隣には、やはり石造りのシンプルな建物がある。教会と同じ紋章が飾られているところをみると、教会に付属する建物のようだ。キャサリンがその建物の入り口に駆け寄ると軽くドアを叩きながら言った。

「ここは子供のころ、お兄様が大好きだった、教会付属の図書館ですわ」

 俺は感心しながら言った。

「なるほど、幼少の頃の私は足?(あししげ)く図書館に通いながら知識を磨いていたわけか」

「何言ってるのよ、本なんかまったく読んでいませんでしたわ。それより、びくびくしながら本棚の陰に隠れていたのですわ」

「は? どうして私が本棚に隠れなきゃならないんだ」

「お兄様は昔から弱虫で、剣術の稽古が大嫌いだったの。それで稽古の時間になると決まって図書館に隠れていたのですわ。でも結局はゴードン先生に見つかって、泣きながら連れ戻されて、ビシビシ稽古を付けられていましたの」

「ははは、そうなのか・・・」

「まあ、本当のことを言えば、だいたいは、わたくしがお兄様の居所を探して、ゴードン先生に告げ口してましたのよ。そして物陰からお兄様が連れて行かれる様子を見ているのが面白かったのですわ。今では幼い頃の良い思い出ですわね」

 ちっとも良い思い出じゃないだろ。いじめじゃないのか、それ。

 俺はミックに尋ねた。

「貴族会議場にしろ図書館にしろ、昔に作られたような建物が多いんだな」

「左様です。これらはすべて百年以上前に建てられておりまして、それを今でも使用しております。残念ですが、アルカナは今よりも昔の方が繁栄していたようです。いまでは建物の傷んだ個所を修復する費用を賄う事すら難しい状況です。なんとも寂しい話です」

「お兄様、これをご覧になって。池ですわ。この池の周りで、お兄様と一緒によく遊んだものですわね。思い出しますわ」

 教会の前には、綺麗に成形された石で周囲を縁取られた円形の大きな池があり、水が張られている。池の真ん中には彫刻があって、噴水のようだったが水は出ていない。

 キャサリンが池の前で両手を広げて言った。

「この池を見ると子供の頃のことを思い出しますわね。ある日、お兄様は池の周りを喜んでぐるぐる走り回っていたのですわ。わたくしが『止まりなさい』と言うのに、全然言うことを聞かなかったのですわ」

「ははは、私も子供の頃は元気に走り回っていたんだな」

「そうなの、でもお兄様があんまり言うことを聞かないから、足を引っかけて池の中に転ばせましたの。そしたら溺れそうになったから、わたくしが助けてあげましたわ」

 無茶苦茶な妹だな。

「全身ずぶ濡れだったので、お兄様のお洋服を全部脱がせましたわ。裸のまま太陽の光で乾かそうと思ったんですけど、付き添いの侍女が、わたくしのひらひらフリルの赤いドレスを持っていたので、お兄様にそれを着せましたわ。そしたらお兄様はとても喜んで、一緒に手をつないで遊びましたの。微笑ましいですわね」

 それのどこが微笑ましいんだ。池に突き落として、服を脱がせて、ひらひらドレスを着せるとか、なんかの虐待だろそれ。

 庶民の居住地区に入った。庶民の暮らす住宅は主に日干し煉瓦を積み重ねて作られた質素な建物である。主に二階建ての建物が多い。屋上には洗濯物などが見える。大通りに面した建物はどれも大きい。一階の部分は石積みで強固に作られ、二階以上は日干し煉瓦が使われている。

 この通りには店舗が多いのか、建物の入り口にロゴやイラストの描かれた看板が付けられていたり、きれいな模様の編み込まれたタペストリーが下げられている。

「このあたりは庶民の歓楽街になります。庶民の娯楽と言えば、居酒屋、芝居小屋、闘技場、賭博場といったところです。裏通りには、いかがわしい店などもあるようですが、私も詳しくは知りません」

 いかがわしい店と聞いて、瞬時にキャサリンの目つきが変わった。

「いかがわしい店なんか見学したら絶対にダメよ。お兄様は、つい、この間まで病人だったんですからね。後から一人で、こそこそお店に行ったら承知しないんだから」

 うわ、言うことを聞かないとムチでお仕置きするタイプだ。これは参ったな。金髪美少女のキャサリンを初めて見たときは、「こんな美少女は見たことがない、絶対に異世界転生のごほうびだ」と確信したのに・・・。甘い妄想が音を立てて崩れてゆく。

 少し行くと広場に出た。広場には大道芸や見世物が出ており、駄菓子を売る店、串焼きの屋台、ペットの犬や猫を売る店などが並んでいる。広場では子供たちも遊んでいる。

「見て見て、お兄様。屋台のボール投げがありますわ。ボールを投げて的に当てて景品をもらう遊びですわ。子供の頃、よく二人で遊んだものね。ボール投げはお兄様の方が上手でしたわね」

「ははは、そうなのか。ボール投げは私の方が上手だったんだ」

「そうですの。それに比べて、わたくしったらノーコンで、投げたボールが隣のペットショップへ飛んで行って、でっかい犬の頭を直撃しましたわ。そしたら犬が怒り狂ってお兄様を追いかけ回しましたの。犬って、本能的に弱い相手を襲うんですのね」

 何してるんだこいつは。隣の屋台にボールを投げ込むとか、もはやノーコンとかいう、生やさしいレベルじゃないだろ。

「お兄様ったら、あまりにも慌てて逃げたものだから、石につまづいて近くの水たまりに転んでしまいましたの。そのうえ犬に尻を噛まれましたわ。わたくしが犬を追い払いましたけど、全身が泥だらけで・・・それで、お兄様のお洋服を全部脱がせましたの。たまたま付き添いの侍女が、リボンがいっぱい付いたピンクのドレスを持っていたので、お兄様にそれを着せましたわ。そしたらお兄様はとても喜んで、一緒に手をつないでお城に帰りましたわ。あの時は、ちょっと怖かったですわね」

 いや、キャサリンの方がよっぽど怖いわ。というか、また服を全部脱がせたのかよ。おまけに、またドレスを着せたのかよ。さらに、嬉しそうに手をつないで城に帰るなよ。アルカナ国の王子が「女装趣味」になったらどうすんだ。

 いやいやいや、これどう見てもお兄様をいじめてるよね、なんかキャサリンには特殊な趣味があるよね。最初からそういう予感はあったけど、これは確定だよね。
 
 さらに歩くと道の両側に多くの露店が軒を連ねる場所に出た。露店の多くは商品を並べるカウンターと布製の天幕、それと商品を飾るための木製の棚で形作られている。市場はさすがに人の往来も多い。食料品の露店と思しき店の前には、果物や野菜に混じって素焼きの壺に入った見慣れないものが置かれていた。何だろう。店の主人に尋ねてみた。

「これはなんだ? 食べ物なのか?」

「これは蛾の幼虫ですよ、イモムシです。どうです、今朝採ったばかりでまだ生きてます。美味しそうでしょう? そのままでも食べれますよ。試食してみますか?」

「う・・・ああ、まあそうだな。せっかくだけど、今は遠慮しておこう」

 それは蛾の幼虫だった。いわゆるイモムシだ。小指ほどの太さがあるその幼虫には緑と黒の縞々模様があり、素焼きの壺の中で多数の幼虫がうねうね動いている様は、お世辞にも美味しそうに見えない。もちろん食文化というのはデリケートな話題だ。人々が喜んで食べているものを見て顔をしかめたり、うげーなどと言おうものなら相手に不信感を与えてしまうだろう。ここは我慢だ。

 とはいえ、俺はイモムシなんか絶対に食えない。しかし・・・いや、まさかイモムシが国王の食事として出されることは無いだろうな。だんだん不安になってきた。

 横からキャサリンが店主に向かって言った。

「何言ってるのよご主人、お兄様が好きなのは、そんなんじゃないわ」

 そうだそうだ。キャサリンの言葉に、俺は小刻みに頷いた。キャサリンが続けた。

「お兄様はそんな小さなイモムシではなく、もっと大きなイモムシが好きなのよ。ね、お兄様。今度、お城の料理人に頼んでおきますわ」

 うおおマジでイモムシが好物だったのかよアルフレッド国王。これは下手をすると、有無を言わさずキャサリンにイモムシを食べさせられることになりそうだ。暗殺や侵略の脅威よりも、まずはこっちの方が緊急的にヤバいぞ。

 市場に集う人々の身なりを観察してみた。着ている服は貧素と言えないまでも、たいていは茶色か黒っぽい色をしており、色味が少なく地味である。生地の感じからして素材はおそらく羊毛だろう。継ぎはぎの服や、かなり擦り切れた服を着ている人も多い。

 立ち並ぶ露店の数は多いのだが、店に並ぶ品物の数は決して多いとは言えない。とはいえ他の地域の市場を見たわけではないから、この世界ではこれで標準的なのかも知れない。ミックに聞いてみた。

「アルカナの庶民の暮らしは、他国に比べてどうですか」

「そうですね、それほど貧しくはないと思いますが、正直に言えばあまり豊かではないでしょう。このところ雨が少なく、作物の出来が良くないのです」

 比較的暖かい地域なのか、季節は晩秋だというのにかなり暖かい。しかし地面はパサパサに乾いており、足で蹴ると土埃が舞い上がる。

「ずいぶん地面が乾燥しているが、雨が少ないのか?」

「そうですね、この地域はもともと雨が少ないのです。南の方には海があって雨雲が陸地に向かって流れて来るのですが、王都の南にある山脈によって遮られてしまうので、ここまで届きません。ただでさえ雨が少ないのに、このところの雨不足は深刻で、収穫量にかなりの悪影響が出ています。食料の価格が上がっており、貧しい者の中には食べ物の不足する者もおります」

「それは深刻な問題だな。明日は農地も視察してみたいと思う」

「そうですか、それなら明日は王都周辺の王国農場をご案内いたします」

 その後一行は西門へ向かった。
 西門へ向かうと大きな防御塔が見えてきた。防御塔は西門の上にそびえており、その両側から左右に石造りの城壁が伸びている。堂々たる城壁は高さが十メートル、奥行きも五メートルはあるだろう。城壁の上部には胸壁が立ち、矢を射るための狭間(さま)がずらりと配置されている。

 西門の巨大な木製の扉は王都の外へ向かって開け放たれており、王都の中心部から続く大通りの道はそのまま郊外へと伸びている。門の外にも家並みが続いていたが、それらの家は城壁の中の家とはまったく異なり、板切れを立てただけの小屋やテントのような、およそ家と言えるような代物ではない。ここはスラムのようである。

 見渡す限りにボロ小屋が広がるところから、かなりの数の貧民がスラムに集まっているようだ。そして見るからに衛生状態は悪い。不快な腐敗臭が辺りを漂い、腐った生ゴミも目につく。住民は埃まみれのぼろぼろの布切れのような服をまとい、食料不足のためか、頬がコケ、痩せた人が多い。多くの住民は精気なく地面に座り込んでいるか、ゾンビのようにふらふらと徘徊している。どこにもイヌが居ないところをみると、腹をすかせた人々によって食われてしまったのかも知れない。

 俺はミックに尋ねた。

「すごい人数だな。みんな行き場のない人々なのか」

「左様でございます。アルカナ全土の街や村から、行き場のない者たちがスラムに集まってきます。近年は増える一方です。捨てておくわけにもゆかず、四箇所ある配給所で一日一回麦かゆを配っているのですが、生きてゆくのに十分な量ではありません。とはいえ王国農場の収穫にも限りがありますので、これ以上の食べ物を配ることは難しい状況です」

「王国の他の貴族は、それぞれが領有する街や村の浮浪者の面倒を見てくれないのか」

「そのように各地の貴族には申し伝えてあるのですが、実際にはほとんど何もしていないらしく、事実上、貧民を王国政府に押し付けているような気がいたします」

 まあ中世時代なんてそんなものだろう。貴族は自分たちの贅沢な暮らしを守ることしか眼中にないのだ。

 道を少し先へ進むと子供たちが走っていくのが見えた。こんなスラムでも子供が元気なことは救いである。子供たちの駆け寄る先を見ると、頭からダークグリーンのフード付きマントをすっぽりかぶった女性と思しき人物が、何やら食べ物を配っているようだ。こんな荒んだ状況ではあるが、心優しい人もいるのだと少し安心した。

 その時、数名の王国兵士が足早にその女性に近づくと、周りを取り囲んだ。子供たちが悲鳴を上げながら散り散りに逃げ出した。兵士の一人が、女性のフードを乱暴に払った。女性の顔があらわになった。

「おい、お前はエルフだな。その尖った耳の形が何よりの証拠だ」

 おお、あれがエルフか。異世界物語にはお約束の、特殊能力を持った異人種だ。なるほど尖った耳と美しい顔立ちをしている。キャサリンも初めてエルフを見たらしく、どう反応したものか戸惑っているようだ。

「うそ、本当にエルフなの? 本当だわ、耳が尖っているし顔立ちも美しいわね。美しすぎて・・・なんかムカつくわ。なんで人間の町にエルフがいるのよ。きっと容姿を見せびらかしに来たに違いないですわ」

 キャサリンが妙な対抗意識を燃やし始めた。それにしても、なぜあのエルフが兵士に絡まれているのだろう。この世界ではエルフ族が差別されているのだろうか。

 兵士が高圧的な態度でエルフに言った。

「最近、市場で食料品の盗難が頻発しているとの訴えがあったので、八方に手をまわして調査しておったところ、盗まれたとおぼしき食料をエルフの女がスラムで配っているという噂を耳にした。このあたりでエルフはめったにお目にかからないからな、だから、お前が食料品を盗んでいたと見て間違いあるまい。話を聞きたいから城まで一緒に来てもらおうか、逆らえば命はないと思え」

 ははあ、ここは明らかにエルフを助けて恩を売る、というお決まりのパターン発動だろう。こういう場合はお決まりのパターンを軽視してはいけない。俺は兵士に声をかけた。

「何事ですか?」

「はっ、これは国王陛下、お見苦しいところをお見せいたしました。このエルフの女が市場で食料品を日常的に盗んでいた疑いがあるため、城に連行するところであります」

 俺はエルフの女に向き直ると言った。

「あなたが市場で食料を繰り返し盗んでいたというのは本当ですか」

 エルフの女の顔は美しかったが、それだけに、その眼光もなおさら鋭く見える。エルフは敵でも見るように俺の顔を睨みつけながら言った。

「ああ、確かに盗んだ。もう何日も前から何度も盗んだよ。あたしは魔法で姿を消すことができるから、店先から食料品を盗むなんて朝飯前さ。それをここスラムで、腹を空かせた連中に配った。だから何だっていうのさ。ここにいるスラムの連中は、みんな飢えてるんだよ。からだの弱いやつから順に死んでいく。昨日も三人死んだ。せめて何人かの人たち、子供たちだけでも救いたかったんだよ。生まれてこの方、飢えたこともない高貴なお方には想像もつかないだろうけどね」

 転生前に底辺生活を送ったことのある俺にはよくわかる、と言いたかったのだが、そんなことは言えるはずもなく黙って聞いていた。

「あんたが国王様かい、あんたがしっかりしないから、大勢の人が飢えて死んでるんだよ。それで私をどうするって言うんだい? 監獄にでもぶち込むか。はん、それで飢えた人が救われるっていうなら、喜んでそうするさ」

 総務大臣のミックが血相を変えて言った。

「なな、なんと無礼な! 国王様を愚弄するような発言は許しません、牢屋にぶち込まれるだけでは済まされませんよ」

 それを聞いてキャサリンが言った。

「そうよ、ちょっと美人だからってエルフは何を言っても許されるわけじゃないの。美人だからって何を言っても許されるんなら、わたくしなんか言いたい放題ですわ」

 あのなあ、キャサリンはすでに俺に向かって言いたい放題なんだが。いやはや、わけのわからない理論に展開してきた。俺は静かに言った。

「まあ待ってください。残念ながらこのエルフの言うとおりです。国王である私の政治が悪いから、人々が飢えに苦しんでいる。それが結果として、このエルフに盗みを働かせてしまったのです」

 そう言うと俺はエルフに頭を下げた。

「ゆるしてくれ」

 俺の予想外の反応に、エルフの女は驚いて口を半ば開いたまま俺の顔を凝視した。が、すぐに表情は冷静になり、落ち着いた態度でゆっくりと言った。

「いえ、私こそ頭に血が上り、とんでもない無礼なことを口走り、大変申し訳ございません。陛下がそこまで考えておられるとは思いもよらず。ご無礼をお許しください」

 その様子を見ていたミックも思わぬ展開に驚いた様子だったが、気を取り直し、俺の隣にゆっくり歩み寄ると顔を近づけて小声で言った。

「陛下、いかがいたしましょうか?」

「盗みを働いた以上は、無罪放免とはいかないでしょう。そこで罪を許す代わりに、エルフには私のところで働いてもらうという条件でどうでしょう。先ほどの話からして、彼女は魔法で姿を消すことができるらしい。それにエルフは特殊能力や人間の知らない知識を持つとされていますから、後々きっと役立つに違いないと思います」

 俺はゆっくりとエルフに言った。

「あなたが市場で盗みを働いたことは罪です。その罪を許す代わりに、あなたには私の元で働いて頂きたい。私はこれからこの国を発展させて豊かにしようと考えています。すべての人々が飢える心配なく、幸福に暮らせる国を実現しようと考えています。そのためには多くの人々の力が必要になります。どうかあなたの力を私に貸して欲しいのです」

 エルフの女はしばらく考えてから静かに答えた。

「それはありがたいお話です。ただし相応の報酬はいただきたいですね」

「もちろん報酬は払います。あくまで働きに応じてですが」

「ありがとうございます、ご期待は裏切りません、陛下」

「ところであなたのお名前を聞かせていただきたい。私はアルフレッド・グレンです」

「ルミアナ・レダ・キュマーレと申します」

 俺はちょっと咳ばらいをしてから言った。

「ところで、エルフはとても長寿な種族だと聞いたことがあります。もし失礼でなければ、あなたの年齢を教えてもらえませんか」

 エルフの女はいたずら小僧のようにおどけた表情をして、にこっと笑ってこう言った。

「二十歳でございます」

 それを見ていたキャサリンが騒ぎだした。

「なによ、二十歳のわけないじゃない、絶対にサバをよんでるわ。やっぱりこのエルフの女は信用できない。お兄様、ちょっと美人だからって信用したらダメなの。」

 しばらく騒ぎは続きそうな予感である。ルミアナに、都合の良い時に王城へ来るよう伝えると、俺たちはスラムを離れて街に戻った。
 街へ戻ると今度は南の地区へ向かった。大通りをしばらく行くと港が見えてきた。港は石造りの城壁に囲まれている。海につながる港の出入り口には両側に塔が立ち、海からの外敵の侵入に備えている。港は石積みの岸壁で作られ、かなりの広さだが、停泊している船は小型の帆船が五、六隻見られるだけで数は少なく、港に活気が感じられない。経済が停滞しているためか、海上交易はあまり盛んでなさそうだ。

 海の向こう、南の方角には遠くに山々が連なっている様子がみえる。あれがミックの言っていた王都の南にある山脈だな。確かに東西に長く連なっており、海から流れてくる雨雲は山の向こう側に雨を降らせるだけで、こちらに雨をもたらすことはないのだろう。

 雲一つなく晴れた秋の青空を背景に山々が生える雄大な景色を見ていると、久しく感じたことのなかった、すがすがしさが心を満たした。

 しかし、そんな爽快な気分は長続きしなかった。海に近づくと嫌なにおいがしてきたからだ。潮の香りというのは強烈なものだが、このにおいはそれだけではない。海面を良く見ると、どこかで見覚えのある茶色っぽい棒状の物体が一面に浮かんで波に揺られている。

「ミック、あの海面に浮かんでいるものは、なんだ?」

「陛下、あれは・・・ウンチでございますな」

「は?」

「ですから、ウンチ・・・」

「やっぱり、あれはウンチなのか。なぜ港がウンチだらけなんだ?」

「なぜと申されましても、汚物を海に捨てるのはあたりまえです。このあたりの住人は汚物を海に捨てるので、まだマシなほうですが、街の北の方へ行くと捨て場がなくて、道端に山積みになっております」

 まじかよ。そういえば思い出した。この異世界は中世時代である。中世ヨーロッパの都市ではトイレで用を足すのではなく、おまるや手桶のようなものの中に用を足し、それを川に流したり、そのあたりに無造作に捨てていたという。酷い場合は、窓から投げ捨てることもあったらしい。貴族の集まる華やかな宮殿も、庭は例のモノで溢れていたという。俺も城で何気なく用を足していたが、あれも使用人がどこかに捨てているんだろう。

「城でも汚物は海まで運んで捨てているのか?」

「いえいえ、城の裏庭にある『穴』に捨てております」

「城の裏庭に穴があるのか」

「はい。ちょうどうまい具合に、石で囲まれた深い穴があいておりまして、面倒なので城中の汚物はすべてそこへ捨てております。もう何十年も毎日のように汚物を捨てておりますが、埋まってしまう気配が無いところをみると、相当に深い穴だと思われます」

 なんだそりゃ、ん? 古城の裏庭にある石で囲まれた深い穴って・・・。

「もしかして、その穴は地下ダンジョンの入り口じゃないのか?」

「はあ、アルカは数百年も続く古い都市ですから、城の地下に巨大なダンジョンがあっても不思議はありません。ダンジョンの入り口かも知れませんが、誰も穴の中に入って確認したものはおりませんので、なんとも・・・」

 そりゃあ、毎日ウンチを捨てている穴に入って確認するほど勇気のある奴なんかいるわけない。それにしても、いくら海まで捨てに行くのが面倒だからって、城中のウンチを毎日ダンジョンに捨てるなんてまずいだろ。

 もしそこが、いにしえの地下墓地だったらどうするんだ。間違いなく古代の霊魂に呪われるな。尻が腫れるだろ。いや、近年のアルカナの干ばつは、地下墓地をウンチで冒涜していることが原因かも知れないぞ。それに、ダンジョンを満たす禍々しい霊気の影響で、捨てられた膨大なウンチが一体化して、巨大モンスターに生まれ変わったらどうするんだ。放送禁止モンスター「ウンチ・スライム」の誕生だ。

 王都アルカでは食べる方の確保も問題だが、出す方の処理も問題だ。出す方を放置すれば不快なだけではなく、伝染病が流行して大変なことになるかも知れない。気兼ねなく出すことができるようにすることも王国の課題の一つだろう。

 ところで汚物問題を中世ファンタジー系のアニメでは決して描かない。そりゃあ、それをリアルな絵にすると視聴者からクレームが殺到すること間違いなしだからな。それにしても、なぜこの異世界だけ「汚物問題が異常にリアル」なんだろう。誰かの趣味か。

 驚愕の王都視察を終えた俺は城へ戻って夕食を取った。幸いなことに出された食事にイモムシは入っていなかった。もっとも、ミートボールのような料理になってしまえば、何の肉かわからない。見た目がイモムシそのものでなければ大丈夫だろう。

 ようやく一人になって寝室に戻るとソファに座り、スイカのジュースを飲みながら一息ついた。アルカナはきれいな水が確保できないため、飲み水の代わりにスイカのジュースを良く飲む。スイカは乾燥に強いのでたくさん獲れるらしい。

 考えてみると怒涛のように数日が過ぎ去った。実に不思議な気分だった。コンビニのバイトで生きながらえてきたワーキングプアの俺が、今やなんとアルカナ国の国王アルフレッドという立場なのである。日頃からロールプレイングゲームに興じてきた俺にとって、誰かの役を演じることは慣れているから大きな違和感はない。ただし「中身が本物の国王じゃない」とバレることが心配である。

 ところで、よくある異世界転生アニメでは、まるでゲームよろしく呪文を唱えるだけで自分のレベルやステータスが目の前に現れて確認できたりする。そういう便利機能がこの異世界にはないのだろうか。ダメ元で試してみることにした。

 俺は人差し指をゆっくり体の前に突き出すと大声で叫んでみた。

「ステータス オープン」

 やっぱり何も表示されなかった。が、その代わり、突き出した指の向こうからキャサリンが現れた。

「お兄様、何をおかしな事を言っているの?まだ頭に毒気が残っているのかしら」

「うわわ、他人の部屋に入るときはノックしろと教わらなかったのか」

「これはサプライズですわ。毎日の生活に適度な刺激は必要だと思うの」

 すでにサプライズ過剰だろ。もっと刺激を減らしてほしいんだけど。

 転生アニメと言えば、美しい女神さまから特殊能力やチート武器を授かったりするものだが、この異世界では女神様なんか全然出てこない。しかも今のところ授かったものと言えば、目の前にいるS属性の妹だけである。

「ところでキャサリンは何しに来たんだい」

「わたくしはお兄様が心配だから様子を見にきただけですわ。命を狙われたばかりなんですから、用心しなきゃいけないの。それにお部屋に不審者が侵入しないとも限りませんわ」

 いや、すでにキャサリンという名前の不審者が俺の目の前にいるんだが。俺はため息をつきながら呆れ顔で言った。

「誰もこの部屋に侵入できるわけないだろ、ここをどこだと思ってるんだ、塔の四階だぞ」

 と言うや否や、突然、窓からエルフのルミアナが入ってきた。

「すみません、お邪魔します」

「うわわ・・・なんだなんだ、ルミアナがどうしてここへ」

「都合の良い時に王城へ来るよう陛下から言われましたので、早い方がよろしいかと」

「いくらなんでも早すぎるだろ。それに、なんで窓から入ってくるんだ、しかも夜だし」

「あらすみません、つい、いつもの癖で・・・」

「どういう癖なんだよ」

「私は普段、偵察やスパイの仕事を請け負っています。ですから依頼主のお宅にお邪魔するときも、誰にも姿を見られないよう、いつも夜中に窓から忍び込みますので」

 完全に不審者である。まあ偵察やスパイと言えば、そもそも不審な仕事なわけで、そういう人材を雇った俺も悪いのだが。

 キャサリンがいきりたった。

「まああ、この女エルフはお兄様の様子を偵察しにきたのですわ、危険ですわ」

 そういうキャサリンだって、俺が何をしてるのかを偵察しに来たんだろ。この異世界に国王のプライバシーは無いのか。

「わかったわかった、ルミアナには、城の空き部屋を使ってもらうようにミックにお願いするから、今日はそっちで休んでくれ」

「それと、キャサリンはもう寝なさい。夜更かしすると肌が荒れるぞ」

 なんとか二人を部屋から追い出すと、もう疲れたので寝ることにした。