翌日も朝から良い天気で、雲一つない快晴だった。村人が世話をしてくれたおかげで、馬も元気そうだった。再び枯れ川の上流を目指した。
キャサリンが何やら朝から騒いでいる。
「お兄様、わたくし虫に刺されましたわ。もう痒くて痒くて。あのボロ小屋のベットを見て嫌な予感がしましたの。三箇所も刺されましたわ。お兄様は刺されませんでしたの?」
「刺されなかった」
「何よ、わたくしだけ刺されるなんて不公平ですわ。お兄様も刺されなさい」
「むちゃくちゃだな。いったい、どこを刺されたんだ」
「なぜか、おしりばかり刺されましたわ」
「尻を丸出しにして寝ていたんじゃないのか」
「まあ、酷い言い方ですわお兄様、昔はそんな人じゃありませんでしたの。毒で記憶喪失になる前のお兄様は、もっと優しくしてくれましたわ・・・今はまるで別人になったようです。そう、まるで別人のように冷たいわ・・・」
何やら話の雲行きがあやしくなってきたぞ。おれが転生者だとバレたら一大事だ。この場は何とか取り繕わねば。
「そ、そうなのか。昔の俺はキャサリンが虫に刺されたときは、どうしていたんだ」
「虫刺されの跡を、お兄様がやさしく舐めてくれましたの」
どこの変態兄妹だよ。傷をなめて治すとか犬かよ。というか、これは絶対ヤバいシチュエーションだ。虫刺されのおしりだよ、おしり、しかも妹の。文字で書くのも危険なレベルだ。いやいや、そんなの絶対に何かの罠だろ。
そのやり取りを見て、ルミアナがポーションバックを手元に引き寄せながら言った。
「お嬢様、虫刺されの治療ポーションがございます。つけて差し上げましょうか」
「あら、ルミアナは意外と気が利くわね」
「お褒めいただき、ありがとうございます。他にもいろいろなポーションがありますので、困ったことがありましたら、何でもご相談ください」
「そうですわね、わたくし、お兄様を調教するポーションが欲しいですわ」
「お兄様を調教するポーションですね、作れますよ」
マジ? 作れるのかよ、つか、絶対に作るなよ。キャサリンの目が期待に輝いているし。そんなポーションを渡されたら、アルカナ王国が立派な国に生まれ変わる前に、こっちが別の何かに生まれ変わっちまうだろ。
「・・・作れますが、竜の耳垢が必要になりますので、今は無理です」
「あらそう、とても残念ですわ」
とても残念じゃねえだろ、永久に作れなくて結構だ。
王都を出てから四日目になった。川の跡は不明瞭となり、すでにわからなくなっていたが、とりあえず川が流れてきた方向、つまり北に向かって進んでいた。この辺りは見るからに荒地である。樹木が少なく、枯れた草が石の間から生えているだけだ。地面には丸い石が無数に転がっている。丸い石は川が運んで堆積したものだろう。このあたりを川が流れていたことは確かだ。
川をこれ以上遡るのは無理かもしれないと諦めかけていたころ、わずかに高くなった丘を登りきると視界が開け、眼下に大きな川が見えてきた。馬を止めると、ゆっくり周囲を見渡した。川は俺がいる丘から斜面を下ったところを、東へ向かって流れている。その川上に目をやると、東西に大きく広がる丘陵地帯が見え、丘陵と丘陵の間から川が流れだしているようだ。ミックが俺の横に馬を進めると、額に手をあてて彼方を眺めながら言った。
「これはおそらく『エニマ川』でしょう。東のエニマ国へ流れる大河です」
エニマ川はとても大きな川だった。俺が住んでいた日本では見られないほどの大きさだ。東へ悠々と流れる大河を見ているうちに、突然すべてが理解できた。俺は興奮してミックに言った。
「わかったぞ。昔、エニマ川は東ではなく、南のアルカナ王国の王都へ向かって流れていたんだ。だから昔のアルカナは水が豊富で今より豊かだった。いつしか川が流れを変えて東に流れるようになり、王都に水が来なくなった。ということは人工的に川の流れを一部だけ南に戻してやれば、再び王都へ向かって川が流れるはず。それなら長大な灌漑用水路を王都まで建設する必要はないから、工事を短期間で終わらせることができる」
「エニマ川の流れを変えてしまうのですか」
「いやいや、エニマ川の流れを変えるのではなく、エニマ川の水を二割ほど取水して、その水で王都へ流れる川を復活させるだけだ。だからエニマ川が枯れてしまう心配はない。取水するのは、ここからもっと上流の、エニマ川が丘陵地帯から出たあたりだ。そこに水門を設置して川の水を引き込み、古い川筋に水を流す。建設しなきゃならない用水路は、水門から古い川筋までだから、水路は短期間で完成できる」
「すばらしい、それは良い考えです。王都に川が復活すれば食料問題は一挙に解決できます。間違いなくアルカナに大きな繁栄をもたらすでしょう。陛下、これは興奮しますね。さっそく技師を派遣して詳しく調査させましょう」
キャサリンが驚いて俺の顔を見た。
「王都に川を復活させるですって?お兄様すごいですわ。よくそんなことが思いつきますわね、さすがは一度、死にそうになっただけのことはありますわ」
どういう褒め方だよ。
「どうだい、見直したかい?」
「見直しませんわ、だって、お兄様がすごいことは前からわかってましたの。だから、わたくしは事あるごとにお兄様のお世話をしてきたのですわ。全身クモの糸だらけになっても、虫にお尻を刺されても、お兄様に付いて来た甲斐がありましたわ」
お世話してくれるのはありがたいのだが、キャサリンの場合は「お世話」と「いじめ」と「ストーキング」の区別が無いのが困るんだよね。
俺はミックに言った。
「そうだ、復活させる太古の川を『アルカナ川』と命名しよう。アルカナ川を復活させ、アルカナ国を他国に負けない大国に押し上げるんだ」
これは大きなチャンスである。とはいえ一つ気掛かりな事がある。エニマ川から水を取水すれば、下流にあるエニマ国が黙っているとは思えない。しかし王都に川を復活させる以外にアルカナが生き残る道はない。城に戻って準備をすすめよう。
俺は早々に貴族会議を招集することにした。一刻も早くアルカナ川を復活させるため、貴族たちの了解と協力を得る必要があるからだ。
農業はアルカナの人々の空腹を満たすだけではなく、国家収入を増やすためにも極めて重要だ。だがそれだけではない。農業は国力に直結するのだ。なぜなら、食料生産量が大きければ大きいほど、養える人口が多くなるからである。
俺が転生する前の世界では、国力は必ずしも人口と直結していなかった。なぜなら、農産物に限らずさまざまな工業製品やサービスは、人力ではなく「工作機械や電子機器によって作られている」からだ。ある意味で人間がいなくとも製品を生産できる。しかし中世時代はテクノロジーが発達していないため、経済はすべて人間の労働力によって支えられている。だから人口が多ければ多いほど国力は強くなる。
もちろん軍事力もそうだ。兵器が未発達な時代の戦争は人海戦術がモノを言う。人口が多ければ多いほど兵力も大きくなり、軍事力は強くなる。まさにアルカナ川の復活が我が国の命運を左右する。
ということで、すぐに貴族会議召集の書状をすべての貴族に送ったのだが、何しろ時代は中世である。遠方の貴族に書状が届くまでに一週間、出発の準備をして貴族たちがこちらに到着するまでさらに二週間は必要というありさまである。電話が無理でも、せめて伝書鳩が欲しいところだ。
アルカナ川の探索から戻って一週間ほど経った。ルミアナは自分の部屋の準備を完了したようだ。俺は自分に魔力が備わっているかどうかを調べてもらうために、ルミアナの部屋を訪ねることにした。
「お兄様、どちらへ行かれるのですか?」
「ちょっとルミアナの部屋へ行くつもりだ」
キャサリンは、たちまちご機嫌斜めになった。
「あのエルフの女に何の御用ですの。あたくしも付いていきますからね」
「いいよ、魔法について話をするだけだから、何も後ろめたいことはないよ」
「あ・・・ちょっと待って、お洋服を着替えてきますわ。先に行ったらだめですからね」
なんでルミアナの部屋に行くためにわざわざ着替えるんだ。対抗意識なのか。えらい待たされたあげくに、キャサリンがリボンだらけのド派手なピンクの服を着て来た。
ルミアナの部屋のドアを開けると強い薬草のにおいが漂ってきた。部屋にはどこから持ってきたのか、山のような機材が溢れている。最も目立つのはフラスコや試験管、そして蒸留器が並べられた大きな机である。机の上には見慣れない草花や球根、木の実、木の葉、小動物の干物、昆虫などが置かれている。棚にはエルフ文字のラベルが貼られた容器やポーションがずらりと並んでいる。
机の上には大きなガラスの容器が置かれ、親指ほどもある太くて茶色いナメクジが、うじゃうじゃ入っていた。透明な容器の壁面には多数のナメクジが張り付き、ぬめぬめと這いまわっている腹部の様子が良く見える。キャサリンがそれを見つけると絶叫した。
「ナメクジよ、ナメクジ! うわあー、気持ち悪いですわ、何なのこれ。ルミアナはナメクジを飼っているのかしら。どういう趣味をしてるの? まったく理解できませんわ」
ルミアナは澄ました顔で言った。
「あら、お嬢様。そのナメクジは老化した古い皮膚を舐めとったり、皮膚病でカサカサになった皮膚を粘液で覆ってくれる特殊なナメクジです。いわば益虫ですね。キャサリン様も十匹ほど体を這わせてあげれば、お肌が輝く様に美しくなりますよ。美肌効果絶大です」
「わたくしが、もっと美しくなるの? そ、そうかしら・・・」
キャサリンは自分の全身を這いまわるナメクジを想像してみた。しかし、恥ずかしい情景を連想して、すぐさま脳が拒絶反応を示した。
「ううう・・・そういうルミアナは、このナメクジを使って肌を美しくしているのかしら」
「あら、私はナメクジなんか使わなくても、輝くような肌ですから」
キャサリンが真っ赤になった。
「な、なによ! わたくしだって、こんなナメクジなんか使わなくても十分に美しい肌なんですからね! わたくしの肌は、つるつるのすべすべで、光ってるんですからね」
つるつるのすべすべで光ると言えば、おやじのハゲ頭ではないか。あれも美肌の一種なのか。二人の会話にあきれている俺に向かってルミアナが言った。
「私の部屋へようこそいらっしゃいませ、陛下。魔力を試したいのですね」
「そうなんだ、迷惑をかけるね」
「いえ、そんなことはございません。魔力を試すには、あの魔力黒板を使います。魔力黒板は、エルフが魔法の練習をする時に使用する道具です」
そう言うと、ルミアナは壁に掛けられている五十センチ四方の黒板を指さした。一見すると何の変哲もない普通の黒板である。
「そもそも魔法を発動するには、魔法石やポーションなどの魔法素材に思念すなわちイメージを与えるところから始まります。このイメージは特殊な魔法の絵文字と関係があります。魔法の絵文字を見たときに脳裏に生まれるイメージを念じるのです」
「う~ん、なんだか良くわからないな」
「では、実際に簡単な例でお示しします」
ルミアナは一枚の紙を取り出して見せた。そこには普通の丸い円が描かれていた。
「この図形を見たときのイメージをあちらの魔力黒板に向かって念じます」
ルミアナが念じると、魔力黒板に丸い円が白く浮かび上がった。
「これはエルフが最初に魔法を練習するための図形です。単なる円なので実際の魔法に使うものではありません。しかしこれができなければ魔力を持たないため、そもそも魔法は使えないわけです」
キャサリンが言った。
「なによ、そんなのできるわけないじゃないの」
確かにできそうに思えない。もし失敗すればそれまでか。いや、魔力が無くても魔道具を手に入れれば魔法は使える。とにかくダメ元で試してみることにした。俺は目を閉じて円形のイメージを魔力黒板に向かって念じてみた。二人の驚く声が聞こえてきた。
「きゃーなにこれ、お兄様に魔力があるの?」
「すごいわ、魔力が使える人間を見たのは初めてだわ」
目を開けると魔力黒板には丸い円がくっきりと白く浮かび上がっていた。なんと俺には魔法の能力が備わっていたのである。これは転生の特典なのか。俺は喜んだ。
「やった、これで私も自由に魔法が使えるんだな」
「いえ、これは基礎能力の確認にすぎません。実際の魔法を使うにはそれぞれの魔法に応じた複雑な絵文字が必要で、それを記憶して魔法の対象にイメージを飛ばす必要があります。強力な魔法になるほど絵文字は複雑で難しくなります」
「絵文字が描かれた紙を見ながら魔法を発動することはできないのかい?」
「それはできません。まずは絵文字のイメージを正確に記憶する必要があります。魔法を練習するには、まず紙に書かれた絵文字を暗記して、そのイメージを魔力黒板に念じることで確認するのです。黒板に浮き上がった絵文字が完全に正しければ、魔法素材を使った本番でも魔法は発動します」
「なるほど。高価な魔法素材を使って練習しなくても、魔力黒板で十分に練習を積めば魔法が使えるようになるわけだ。ぜひ私も練習してみたい」
「承知いたしました。こちらに初級魔法の絵文字が書かれた本がございますので、まずはこれを練習されると良いでしょう」
「魔法には、人によって得意分野や不得意分野はあるのか?」
「ええ、得意分野であるほど上達は早くなりますし、より強力な魔法が使えます。逆に不得意分野はまったく魔法が使えない場合もあります。これはその人の持つ魔力の種類によると考えられています。しかし補助魔法であれば、得意分野にかかわらず、努力すればすべての魔法が使えるはずです」
二人の会話を聞いていたキャサリンが大声で言った。
「お兄様に魔力があるなんてすごいですわ。よーし、こうなったら『お兄様が魔法を使える』って、町の人みんなに自慢して回るのですわ」
それはまずい。中世と言えば魔女狩りの時代である。「アルカナの国王は魔法使いだ」という噂が立つと、やれ国王は悪魔を崇拝しているだの、処女の生き血を飲んでいるだのと言われかねない。しまいには異端審問とか称しておかしな連中が城に押しかけてきて、ややこしいことになる。
「キャサリン、お願いだからまだ秘密にしておいてくれ。騒ぎになると厄介だ。然るべき時に俺の口から公表するから、それまで絶対にしゃべらないでくれ」
「なあんだ、つまらないですわね。わたくし秘密をみんなに言いふらすのが大好きですの」
うわ、キャサリンは歩くスピーカーだったのか。さもありなん。
「そういえば、子供の頃、お兄様の恥ずかしい秘密をみんなに言いふらすのが楽しみでしたわ。お兄様ったら顔を真赤にして、やめてくれってわたくしに泣きついてくるのですわ。可愛いですわね。今でもわたくしに泣きついてくるかどうか、試してみようかしら」
「おいおい、やめてくれよ」
「大丈夫、それは子供の頃の話ですわ。それにしても、お兄様ばかり特別な能力があるなんてずるいですわ・・・わたくしも特別な能力が欲しいですわ・・・」
冗談ではない。キャサリンが特別な能力なんか持ったら、何をしでかすかわかったものではない。キャサリンがおかしな能力に目覚めないことを祈るばかりだ。
俺はルミアナに言った。
「時々この部屋に来て魔法の練習をしてもいいかな。ここなら魔法の練習をしても誰にも見られる心配がないので」
「ええ、結構ですわ。陛下が魔法を使えるようになれば、私も心強いですから」
こうして俺は魔法の訓練を始めることになった。だが魔法にばかりかまけてはいられない。アルカナにはもっと重要な課題があるからだ。
突然の招集だったが、貴族会議には多くの貴族が出席した。会議が始まる前の待ち時間を利用して、多くの貴族たちが、病から回復したアルフレッド国王のもとへ挨拶に訪れた。俺はほとんどの出席者と初対面だったから、そばにいるミックに小声で名前を教えてもらいながら対応した。
一人の女性が近づいてきた。顔立ちがキャサリンに似ているところから、姉のルーシー・コナーと思われた。ルーシーは王国南部の有力な貴族コナー家に嫁いでいる。夫のアンディーを伴っての出席である。
「お元気そうですねアルフレッド。急病で倒れたとのことで心配しておりましたが、大事なく嬉しい限りです。キャサリンに聞きましたが、領土のあちこちを精力的に視察しているとか。徐々に統治者としての自覚も深まり、亡き父も喜んでおられるでしょう」
「ありがとうございます、姉上。おかげさまで体の方はすこぶる元気です。しかし病の後遺症か、病気になる前の記憶をほとんど失くしておりまして、難儀しております」
「それは不便ですね。しかし時間と共に徐々に良くなるでしょう。焦らないことです」
傍に来て二人の会話を聞いていた、いとこのレスター・グレンが言った。
「陛下、ご無事でなによりです。病気の後遺症で記憶を無くされたのですか、それはさぞご不自由でしょうね。お困りごとがあればご相談ください。いとこ同士なのですから遠慮はいりません」
「ありがとうございます。やはり頼りになるのは親戚兄弟ですね」
レスターはアルフレッドより五つ歳上である。レスターの父親は先王ウルフガルの弟にあたる。王都に大きな邸宅を持ち、叔父夫婦と住んでいる。噂では短気で荒っぽい性格らしく、周囲の評判はあまり良くないという。
そこへ現れたのは貴族会議の議長を務め、アルカナの貴族の中で最も力があると言われるジェイソン・ブラックストーンである。ジェイソンは王都の東側にある町と村を治め、王国政府に次ぐ兵力も有している。物静かでありながら気の許せない雰囲気がある。
「陛下、おからだの調子はいかがですか。もし国政を行うことが、おからだにご負担でしたら、しばらくの間、私がお手伝いいたしますが」
「お気遣い感謝申し上げます。しかし国政に関しては私たちだけで大丈夫です。それより、アルカナを発展させるためには貴族の皆様のご協力がますます必要になります。ジェイソン殿のような有力な方が、率先して手本をお示しいただければ心強い限りです」
「それでしたら、お任せください。先王ウルフガル様には生前に並々ならぬご恩義を賜りましたので、王国へ恩返しをさせていただくのは当然でございます。今後もこのジェイソンめを頼りにしてください」
「ありがとうございます。頼りにしています」
ジェイソンが去ると、それを待っていたかのようにキャサリンが小走りで近寄って来て小声で俺に耳打ちした。
「お兄様、わたくしはあのジェイソンとかいう貴族が大嫌いですわ。絶対に良からぬことを企んでいるに決まってますの。あの人は悪いうわさしか聞きません。信用してはダメですわ」
「根も葉もないうわさを気にしちゃだめだよキャサリン。ジェイソン殿はアルカナで最も力のある貴族なんだから、たとえ個人的に嫌いな人でも好意的に接しないと」
「お兄様にはわからないのよ、これは女の勘よ。だいたいあの目つきが良くないわ。わたくしは目を見れば何でもわかりますの。もちろん、お兄様の目を見れば、お兄様が何を考えているかわかりますの」
「そんなの、わかるわけないだろ。本当かよ」
「本当ですわ。ルミアナの部屋に大きくて気持ち悪いナメクジがいましたわね」
「ああ、いたな。百匹くらいいた」
「あれを、わたくしの体に這わせたいと考えていたでしょう」
「考えてねえよ、妹のからだにナメクジを百匹這わすとか、どんな変態なんだ」
「目を見ればわかるの」
「わかんねえよ、それはキャサリンの変な妄想だろ」
「とにかく、ジェイソンの目は爬虫類の目と同じよ。トカゲ族と同じ。絶対に気を許しちゃだめ」
「キャサリンは、トカゲ族を見たことがあるのかい?」
「そんなのあるわけないじゃない。でも目を見ればわかるの」
「ああ、わかったよ。心配してくれてありがとう」
しばらくして会議が始まった。最初に俺が計画の説明をした。
「皆様に集まってもらったのは、私がこれから始めようと考えております重要な政策をご説明し、皆様のご理解とご協力を得るためです。
我が国の最優先課題は食料の増産です。現在、食料の生産量が不足しているため食料の価格が高止まりしており、国民の生活を圧迫しています。そのうえ、王都のスラムに集まる貧民の中には飢えで死ぬ者も数多くおります。この状況を改善しなければなりません。また近年、トカゲ族のジャビ帝国が再び勢力を拡大しつつあり、我が国としても国力を高め、軍備を増強することでジャビ帝国の侵略に備える必要があります。
ところで先日、国内視察を行ったところ、王都の周辺には昔、大きな川が流れていたことがわかりました。現在、我が国の北部を流れるエニマ川は、我が国の北から東へ流れてエニマ国にいたります。しかし昔はエニマ川が東の方角ではなく南の王都に向かって流れていたのです。いわばアルカナ川です。幸いなことに昔の川筋は今も残っています。
ですから、はるか北方の、エニマ川が丘陵地帯から平野に流れ出す出口の近くで取水し、昔の川筋にその水を流せば王都に川が復活します。そうすれば王都の水不足は解消し、農産物の収穫量が大きく増えるでしょう。ですから、私は古代の王都に流れていたアルカナ川を復活させる土木工事を計画しています。工事名称はアルカナ川工事とします」
集まった貴族たちの間から驚きの声があがった。俺はつづけた。
「また、先に訪れた村では人間の糞尿を利用してたい肥を作っていました。その村では、作物を育てる際に、たい肥を使用することで他の村に比べてより多くの収穫を得ていました。一方、王都から毎日排出される糞尿の量はかなりのものです。しかし現在、それらの糞尿は周辺の土地や海に捨てられ環境を汚染しています。そこで毎日排出される糞尿を利用してたい肥を作れば、大量の肥料を作ることができます。肥料によって作物の増産が見込めると同時に、町も衛生的になりますので一石二鳥です。ですから、たい肥の生産事業を行う計画です。このように、アルカナ川工事計画とたい肥の生産事業計画の二つの政策を進める予定です」
年老いた貴族の一人が、不満そうに言った。
「陛下の計画は誠に壮大ですばらしいですな。しかしアルカナ川が復活しても、それによって潤うのは王都やアルカナ川の流域にある町や村だけではないですか。他の地域の貴族にどんな恩恵があるというのですか?」
俺は大きく頷いてから自信をもって言い切った。
「確かにアルカナ川によって直接の利益を得るのは、王都やアルカナ川の流域にある町や村だけです。しかし間接的には他の地域の貴族の皆様にも恩恵があります。まず軍事的な面です。アルカナ国の兵力の六十パーセントは王国政府が担っております。アルカナ川によって食料が増産され、人口や収入が増加すれば王国政府の兵力が増強され、敵国からみなさまの領土をより強固に守ることができるのです。
もう一つは王都のスラムに集まる貧民への対処です。貧民の多くがどこから流れてくるかと言えば、それは貴族の皆様の領地である町や村から流れてくるのです。いわば皆様の領地で行き場がなくなった貧民を、皆様の代わりに王国政府が受け入れているのです。こうした人々の面倒を見るためにも、アルカナ川の復活が必要なのです」
ジェイソンが穏やかに言い聞かせるような口調で言った。
「陛下は心がお優しすぎます。王都のスラムに集まる貧民にお情けをかけるのは素晴らしいことですが、そのために王国政府が苦労されるのはいかがなものでしょうか。スラムの人間は働きもせず一日中ぶらぶらしております。そんな連中が陛下の慈悲深いことに付け込んで王都のスラムに集まり、タダで食事にありつこうなどとは、実にあさましいことです。働きもせずにぶらぶらしているだけの怠け者に手を差し伸べる必要はございません。働かざる者食うべからずです」
「ジェイソン殿の気持ちもわかります。しかしスラムに住む人々は怠けものだから働かないのではなく、仕事がないから働けないのです。仕事が無ければおカネが貰えず、食料を買うこともできません。また土地を持たない彼らは、土地を耕して自分たちの食べ物を栽培することもできません。ですから、彼らは浮浪者として物乞いせざるを得ないのです」
そこへ財務大臣のヘンリー・ゲイルが、眉間にしわを寄せながら口を挟んだ。
「しかし陛下、働かない人間は何の役にも立ちません。何の役にも立たない浮浪者を養うゆとりは、我が国にはありません。役に立たない人間は国外へ追放いたしましょう。その方が王国の負担が減ります。慈悲の心だけで政治を行うことはできません」
転生前の世界にもこういう連中がたくさんいたことを思い出した。俺は言った。
「スラムの人々が役に立たないという考え方が、そもそもの間違いです。役に立つ方法を考えないから、役に立てることができないのです。人間は富を生み出す原動力になる。私はスラムの浮浪者に仕事を与えて、彼らに働いて貰おうと考えている。例えばアルカナ川の工事や王国農場に張り巡らせる用水路の建設、あるいは糞尿の回収やたい肥の生産などです。まだまだ王国政府が成すべき仕事はこれから出てくるでしょう。
それらの事業を行えば、浮浪者が働いて食料やおカネを得るだけでなく、国が豊かになり、他の人々も豊かになる。だからスラムの浮浪者は厄介者どころか、王国を復興させるための潜在的な力なのです。彼らを見殺しにするのではなく、活かさねばならないと考えているのです」
ヘンリーが渋い顔をして引き下がった。
「わかりました、陛下」
それ以上の異論がなさそうなので、俺は話を先に進めることにした。
「問題は、アルカナ川の工事を進めるために莫大な費用が必要になることです。河川工事そのものに費用がかかることは当然ですが、他にも、スラムの住民に与えるための食料を買うおカネが必要になります。アルカナ川の完成までには一年から二年を要すると思われます。ですから、その間に不足する食料を他国から買い付ける必要があるのです」
俺は大臣席に向き直るとヘンリーにたずねた。
「ところで財務長官、国庫の状況はどうですか?」
ヘンリーは淡々と言った。
「王国の国庫に余分なおカネはまったくございません。それに、今あるおカネの使い道はすべて決まっております。ゆえに、陛下の仰るような大工事は不可能です」
「なんとかおカネの都合を付けることはできないのか」
「財源がございません」
財源がない・・・これは転生前に俺が暮らしていた日本でも、さんざん聞かされてきた。この異世界でも「カネが無い」「財源がない」といって、国家の興廃を左右する重要な事業を簡単に否定する財務大臣がいる。しかしカネが無いからと言って何もしなければ状況は悪化するばかりではないか。
国家におカネが無い場合、昔の国家、つまりローマ帝国や江戸幕府はどうしていただろうか。もちろん税金を集めるのも一つの方法だ。しかしそれだけではない。おカネが必要な場合は、国家がおカネを作っていたのである。
そもそも、おカネはすべて国家が発行したものだった。おカネは自然に湧いてくるものではないので、国家が発行しなければおカネはこの世に存在しない。そうしたこともあって、昔の国家は鉱山で金や銀を採掘し、それで貨幣を鋳造し、そのおカネを支出して橋や道路を建設した。だから財源が無くても、国家がおカネを発行すれば、それが立派な財源になるのである。そこで俺は言った。
「国庫におカネが無いのであれば、新たにおカネを発行してはどうだろう。金貨や銀貨を発行して、それを財源にするのです」
「それもできません。おカネを発行するには金や銀が必要になります。しかし王国の鉱山から採掘できる金銀は量が少なく、現在王国で保管している金銀をすべて利用しておカネを鋳造しても、さほどの量は期待できません」
この時代のおカネは金貨や銀貨である。だから金や銀のような貴金属がなければおカネを発行することはできない。その点、転生前の世界のように、紙で紙幣を作ればおカネを無限に発行することができる。アルカナ国でも紙幣が発行できれば良いのだが、この時代に銀行や銀行券という概念は存在しない。いきなり紙のおカネを発行すると言えば大騒ぎになってしまうだろう。いまは借り入れるしか方法はなさそうである。仕方なく俺は言った。
「やむを得ない、金貸し商からおカネを借りる手配をしてください」
ヘンリーは軽くため息を吐くと、呆れたような口調で言った。
「しかし、我が国はすでに膨大な額の借金を抱えております。これ以上に借金を増やしますと国家の信用が損なわれてしまいます。アルカナの信用を無くすおつもりですか」
これだ・・・二言目には「国の信用」という。まるで家庭と同じように、国の信用が借金の有無で決まると思っているのである。
「それは違う。食料を生産できずにアルカナが衰退すれば、借金を返すことすらできなくなる。それこそ信用を失ってしまうだろう。逆に借金が増えたとしても、アルカナ川を復活させることができれば農産物の生産量が増加し、国家収入が増えることで借金を返済できるようになる。つまり『国家の経済力が国家の信用を高める』のだ。単純に借金が多いとか少ないとか、そういうカネの話だけで国家の信用を判断することは大きな間違いだ」
「・・・承知いたしました、陛下」
表情を見れば、ヘンリーがまったく納得していないことは明らかだった。いつの時代であっても、財務の役人はおカネの収支が最優先である。その結果として国家の経済がどうなろうと、国民の生活がどうなろうと関係ない。収支さえ合えば自分の立場は安泰なのだ。
俺は貴族たちに向かって頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せいたしましたが、これが王国政府の現状です。誠に心苦しいのですが、お願いがあります。もうお分かりのように王国にはおカネがありません。おカネを貸していただきたいのです。もちろん利息を一割付けてお返しいたします。計画通りにアルカナ川が完成すれば、必ず王国農場の生産量が増加しますから、間違いなくお返しできます。もちろん、今ここでお貸しいただける金額をお約束いただく必要はありませんので、領地にお戻りになってからご検討くだされば結構です」
会場にはしばらく沈黙が続いた。ため息も聞こえてくる。懐事情にゆとりがないのは、どこも同じである。姉の嫁ぎ先であるコナー家の当主アンディ・コナーが言った。
「わかりました、協力いたしましょう。王国の利益は我々の利益です」
ジェイソンは横目でちらっとアンディーを見てから言った。
「もちろん、私も喜んで協力させていただきます、陛下」
その様子を見て他の貴族たちも次々に協力を申し出た。どの程度のおカネを調達できるかわからないが、高利貸しから借りることを思えば、本当にありがたい。
俺はゆっくりと貴族達を見渡しながら言った。
「皆様、本当にありがとうございます。工事の費用につきましては、皆様からの借り入れと、金貸し商からの借り入れで賄うこととします。それでは、特に反対が無ければアルカナ川工事計画およびたい肥の製造計画を推進したいと思いますが、いかがでしょうか」
貴族会議議長のジェイソンが言った。
「どなたか、陛下の政策に反対の方はおられますかな?」
反対意見は出されず、貴族会議は無事に終了した。帰り際に多くの貴族が俺のもとに来てアルカナ川の復活事業を口々に褒め称えた。もちろん、どこまでが彼らの本心なのかわからない。一人の貴族が発言したように、アルカナ川が復活して直接の恩恵を受けるのは王国政府だけであり、他の貴族の懐が肥えるわけではないからだ。彼らにとって国家とは私利私欲のために存在する。
キャサリンも同席していたが、今回はおとなしく聞いているだけだった。
「むずかしくて話がわからないですわ。おカネが無くて困っているということだけはわかりましたの。なんでおカネなんかにアルカナ王国が振り回わされなきゃならないのかしらね」
まさにそのとおりである。なぜおカネを発行できるはずの国家が、おカネが足りないと言って振り回されなきゃならないのか。いずれ王立銀行を設立して、国家が自由におカネを発行できる仕組みを整えよう。兎にも角にも一つのヤマ場は越えた。疲れ切った俺は会議室を後にした。
ーーー
数時間後、ここは王都にあるジェイソンの別邸である。部屋にはレスター、ジェイソン、そして財務大臣のヘンリーの三人が居る。
「毒殺に失敗するとは何たるざまだ、ジェイソン」
レスターが苛立ちを露にしてテーブルに拳を打ち付けた。ジェイソンはレスターの言葉に眉をひそめたが、怒りの感情を押し殺して冷静に答えた。
「アルフレッド陛下毒殺の件は入念に準備したのですが、結果として失敗してしまい誠に申し訳ございません。料理人が毒の使い方を誤ったようです」
「失敗しただけではない。これまで優柔不断で無能だったアルフレッドが、毒から回復したとたん、まるで人が変わったように精力的に活動しているというではないか。毒薬ではなく、能力向上のポーションでも与えたのか」
ヘンリーが両手を広げながら言った。
「まあまあ・・・、レスター様のお気持ちもわかりますが、そう焦りなさいますな。急いては事を仕損じると申します。暗殺のチャンスは、まだまだこれから幾度もございます」
「そうかも知れないが、私は一刻も早く王位に就きたいのだ。私は待たされるのが大嫌いだ。こんなことでは、ジェイソンの望みも到底叶わないぞ」
レスターは興奮して部屋の中を歩き回り、気が収まらない表情でしばらく言葉を探していたが、やがて諦めると立ち止まり、大きく深呼吸してから言った。
「そのとおりだ、言いすぎて悪かった。次こそは吉報を待っている、頼んだぞ」
ジェイソンが深くお辞儀をするとレスターは振り返ることなく急ぎ足で部屋から出て行った。レスターの足音が聞こえなくなったことを確認すると、ヘンリーがジェイソンの傍に来て小声で言った。
「いやはや、ジェイソン様、苦労させられますな」
「なに、たいしたことはない。私としてもアルフレッドを亡き者にして、アルカナ川の工事とやらを中止に追い込まねばならないからな。」
「それはまた、どうしてですか」
「簡単な理由だ。いま王都では穀物が不足している。だから我が領地で収穫される穀物が王都で高く売れているのだ。そのおかげで莫大な利益が生まれている。もしアルカナ川が復活して王都の食料が潤沢になれば、穀物価格は下落してしまう。そうなれば私の利益が大きく損なわれてしまうのだ。アルカナ川が完成されては困るのだよ」
「なるほど。穀物が不足しているからこそ我々が儲かる。貧しい社会だからこそ我々が得をするというわけですな」
「そのとおりだ。昔から商人は買い占めによってモノ不足の状態を作り出し、価格を吊り上げて大儲けしてきた。金貸しだってカネのない連中が多いほど高い金利を要求できる。すなわち、持つものは権力を握り、持たざる者を支配できる。貧しい者はカネのために何でも言うことを聞くようになる。たとえそれが人を殺す仕事でもだ。これほど素晴らしい社会があるだろうか。民は生かさぬよう殺さぬよう、それが支配の王道だ」
「あの青臭い国王にはそれがわからないと」
「そう、まるでわかっていない。理想主義に頭がのぼせている。だから危険なのだ。なに、次はもっと直接的な方法を考えてある。次こそは必ず亡き者にしてやろう。ヘンリーはこれまで通りアルフレッド国王の動きを常に監視して私に報告してくれ」
「もちろんでございますとも。ジェイソン様こそ、この国の影の支配者にふさわしいお方です」
アルカナの国王が突然の病から復帰し、まるで生まれ変わったように意欲的に内政に取り組んでいるとの噂は、王国の貴族のみならず、すでに周辺諸国にも届いていた。そのため周辺の国々が次々に使者を派遣してきた。快気のお祝いという名目だが、実際はこちらの内情を探るためである。国王が何を考えているのか、危険はないか、それを知りたいのは当然である。
「イシル公国を代表して国王陛下の快気を心からお祝い申し上げます。ところで陛下は病から復帰されるとすぐに、これまでにない新しい政策に取り掛かっておられると聞きます。何をされようとしておられるのでしょうか」
「よくぞ聞いて下さいました。まず、遥か昔の時代、アルカナの王都に流れていたであろう大河『アルカナ川』を復活させます。そのためにエニマ川から水を引き入れます」
使者は驚いた顔で言った。
「なんと、太古の大河を王都に復活させるのですか・・・」
「そうです。昔のアルカナはその大河の恵みによって今よりも栄えておりました。その大河を復活させ、農地を潤し、収穫量を大幅に増加させる計画です」
「・・・それはまた、途方もない計画ですな。ご成功をお祈りいたします。ところで聞いたところによりますと、陛下は王都中の糞尿を熱心に集めていらっしゃるとのお話でしたが」
「いかにも。王都中から糞尿を集めて農場の一角でたい肥を作り、糞尿を利用して作物を育てる計画です」
使者は怪訝な顔をして言った。
「人間の糞尿で作物を育てるのですか・・・」
「そうです。今は行き場のない糞尿が王都に溢れておりますが、それらを肥料として利用すれば農作物の育ちが良くなるだけでなく、街が衛生的になります。ぜひ、イシル国にもおすすめしたいと思います。もしよろしければ、たい肥を作っている現場を、これからご案内いたしましょうか」
使者はひきつった愛想笑いを浮かべながら首を振った。
「・・・いえいえ、大変ありがたいお話ですが、なにぶん忙しいもので」
「そうですか、それは残念です。ご要望があれば、すぐに仰ってください」
「わかりました。本日は陛下から貴重なお話を伺うことができ、誠にありがとうございました。それではご機嫌うるわしゅう陛下、失礼いたします」
使者は妙な顔をして、そそくさと帰って行った。
それまでのアルフレッド国王の評判と言えば、頼りないお坊ちゃまというものだったが、最近は「ほら吹き大王」「糞尿殿下」というあだ名で呼ばれているらしい。言いたい放題である。それはそうと、これからは内政だけではなく外交にも力を入れなければならないだろう。そこで、アルカナが対処すべき周辺諸国についてミックに話を聞いてみることにした。
「アルカナの周辺諸国について教えてくれないか」
「承知いたしました。アルカナ王国の周辺には多数の国が存在しており、東にはエニマ川が流れるエニマ王国、北方には森の都イシル公国、北東にはネムル王国があります。アルカナ王国を含むこの四か国一帯はメグマール地方と呼ばれております。歴史的に申しますと、この地域に住む人々は、ほぼ同時期に北から南下して定住した文化的に近い存在と言われており、昔から互いに関係が深いのです」
「なるほど。それらの諸国との関係は良好なのか」
「おおむね良好と申せましょう。先王ウルフガル様の時代に、メグマール地方が南方のジャビ帝国に侵略されたことがございます。その際には、それらの諸国が団結してジャビ帝国を退けた歴史がございます。ただ時代が変わりましたので、昔ほどの関係はございません」
「そのジャビ帝国というのは、どんな国なんだ」
「ジャビ帝国というのはトカゲ族の帝国です。遥か南の地にあります。ここからのルートで申しますと、まずアルカナの西の高原地帯にありますロマラン王国へ行き、そこから南西に山岳地帯を通り、ナンタル国を超え、さらにジャビ砂漠を抜けた先にジャビ帝国がございます。非常に好戦的な国家で、周辺の人間族の国々を属国として従えております」
「それは厄介だな。その国の軍事力はアルカナより強いのか」
「それはもう、アルカナの五倍以上の兵力を有しております。ですから我が国が単独で戦えば勝ち目はありません」
「そうなると周辺諸国との協力関係が不可欠というわけだ」
「左様です。しかしその協力関係が盤石とは言えません。我々の協力関係が弱まれば、そこをジャビ帝国に突かれることになりかねません」
「いろいろ教えてくれてありがとう。これからは外交政策にもっと力を入れることにするよ。まず手始めに、エニマ王国を訪問したいと思う。なぜなら、エニマ川の河川工事の件で、ハロルド・ランス国王に直接面会して承諾を得る必要があるからだ」
「しかし陛下、わざわざ出向くまでもなく使節を派遣して交渉すれば済む話では」
「そうかも知れないが、一刻も早く工事を始めなければならないので、あまり時間をかけていられない。こちらから出向くことで誠意を見せ、確実に工事の了解を得る必要がある」
「承知いたしました。それではエニマ王国に使節を送って、陛下の訪問を申し入れます」
ーーー
十日後にエニマから使者が戻り、ハロルド国王との面会の承諾が得られた。キャサリンも行きたいと言って騒いでいたが、今回は失敗の許されない交渉なので、さすがに外してもらった。同行者は総務大臣のミック、ルミアナ、そして護衛の近衛騎士である。
エニマへ向かう馬車には、レイラ・クレイという名の女性近衛騎士が同席していた。レイラは国王のお付きである。お付きとは、常に国王のすぐそばに控える役割の兵である。レイラの装備は、銀色に光る近衛騎士専用の特注プレートアーマーである。鎧のフォルムは女性らしい体形を反映して丸みを帯びているが、二メートルの長身である上に、どっしりした体格をしており、すさまじい威圧感がある。
体格がすごい割には、顔はどことなく幼さも残る可愛らしい顔立ちだった。しかし表情は緊張感で引きつっている。膝の上に板金の羽飾りが付いたヘルメットをのせている。
レイラは、盾による固い防御術と並外れた剣術を持つ近衛騎士の若手実力者で、仲間内からは『鋼鉄の女騎士』と呼ばれているらしい。その男勝りな立ち回りから、先王ウルフガルに大変可愛がられていたらしい。先王は武芸で鳴らした達人であり、レイラはそんな王をまた大変尊敬していたという。なんと理想的な主従関係ではないか。
それに比べて新しい国王、すなわちアルフレッドは軟弱な性格で、武芸も人並以下だったらしい。おまけに転生前の俺も剣や盾など触ったことすらない。・・・これはまずい予感がする。「部下との相性が最悪のパターン」ではないか。
にもかかわらず、まさに今、エニマへ向かう馬車の中では、俺の向かい合わせの席に女近衛騎士のレイラが不動の姿勢で座っている。体の前で立てた長剣の柄を両手で押さえながら、背筋を真っすぐ伸ばして前方、つまり俺の方を向いている。
・・・気まずい。馬車の同乗者はレイラと総務大臣のミック、エルフのルミアナの合計四人である。ここは女性同士でルミアナとレイラが仲良く話をしてほしいところなのだが、ルミアナは地蔵のように黙り込んでいる。ルミアナはマイペースな性格なので、空気は全然読んでくれない。さすがにたまりかねたミックが口を開いた。
「レイラ様、王室にはスイーツを作る有名な料理人がおりまして、それはもう、城内のご婦人方に大変な人気がございます。一度でも食べれば、その気品にあふれた豊かな味わいに、誰もが魅了されてしまいます。
それで、その調理人が近いうちに城内のご婦人方を集めて、ティーパーティーを催されるとのことです。もしご興味があれば、パーティーのお席をご用意いたしましょう。ところでレイラ様は、どのようなスイーツがお好きですか?」
「スイーツのごとき軟弱な食べ物は食べません」
「そ、それは失礼いたしました。スイーツが軟弱な食べ物とは・・・では、レイラ様はどのような食べ物がお好みなのですか」
「骨付き肉です。骨付き肉にまるごと噛みつくのが最高の瞬間です」
「ほ、骨付き肉のまるかじりですか、・・・ははは、それはまた野性的ですな」
「大臣殿、私は日々鍛錬して全身の筋肉を鍛えております。筋肉を作るためには肉、ひたすら肉あるのみです。もし骨付き肉を食えるティーパーティーがあれば、喜んで出席させていただいきます」
「それは、もはやティーパーティーではございません。野蛮人の宴会です。それにしても、スイーツより骨付き肉の方がよろしいと、肉を食って鍛錬すると・・・まさしく近衛騎士の鏡のような、ストイックな方でございますな。ご立派です、あははは」
話し終えると、たちまち二人は黙り込んだ。・・・か、会話が続かない。またしても車輪の転がる音だけが車中に響く。ルミアナは寝ている。懲りずにミックが再び口を開いた。
「あー、そういえば、もうじきレイラ様のお誕生日でございましたな。お誕生日には陛下からプレゼントを頂けると思いますよ。欲しいものがあれば、陛下にお願いしてみてはいかがですか。そうですね、お履き物などいかがでしょう。レイラ様は普段、どのようなお履き物をお召しになられますか?」
「鉄下駄(てつげた)です」
「てっ、鉄下駄ですか。それはまた、すごいものをお召しですね」
「お褒め頂きありがとうございます。鉄下駄を普段から履くことで、足腰を鍛えることができます。より体を鍛えたい気分の時には、さらに鋼鉄の鎖を全身に巻いています」
「こ、鋼鉄の鎖を全身に・・・」
「それと、外出時のアクセサリーとして足に鉄球を付けることもあります」
鉄球ってアクセサリーだったのか。それにしても全身に鎖を巻き付けて、鉄球を引きずって歩いてるとはすごいな。どう見ても凶悪犯罪者にしか見えないだろ。
レイラは話を続けた。
「また、鉄下駄や鉄球は、いざとなれば凶器としても使えますので、外出の際には護身用に重宝しております。おかげで痴漢のたぐいもまったく近寄ってきません」
そりゃあ、全身に鎖を巻いて鉄下駄を履いている凶悪犯罪者みたいな女に近づく痴漢なんかいるわけないだろ。ほとんど自殺行為だ。
さすがにレイラは『鋼鉄の女騎士』と呼ばれるだけあって、性格の方も鋼鉄並みにガチガチに固い。真面目の上に馬鹿が付くほどだ。国王の手前、極度に緊張しているのかもしれないが、このままだとちょっと心配だな。
馬車はやがてエニマ川の渡し場に到着した。ここで渡し舟の待ち合わせをするのである。エニマ川は大河であり、下流での川幅は乾季でも五百メートル以上あるため、川は船で渡ることになる。渡し場はエニマ国の王都エニマライズへ向かう商人や旅人でごった返している。やがて船着き場の近くから、男たちの言い争う声が聞こえてきた。
どうやら桟橋でトラブルが発生しているようだ。
「お客様、順番を守っていただかないと困ります」
「うるせえクソじじい!俺たちを誰だと思っているんだ。エニマ国の大貴族、スペンサー様の私兵隊だぞ。その俺たちが先に乗せろと言っているんだ。つべこべ抜かすな」
これだから特権階級は嫌いなんだ。俺たちは馬車のドアを開けて外に出ると、船着き場の方へ近づいた。五、六人の武装した私兵が船頭を取り囲み、怒鳴りつけている。
その様子を見たミックが、私兵たちに毅然として言った。
「おやめなさい。貴族の私兵ともあろう方々が、見苦しいと思わないのですか。我々も大人しく順番を待っているのですよ」
「はあ? 何を偉そうに、誰だお前らは?」
「我々は、アルカナ国の国王アルフレッド様の一行である」
男たちは顔を見合わせると、大声で笑った。
「こいつは面白い。昔は大国だったが、今じゃすっかり落ちぶれちまったアルカナ王国の国王ご一行様かよ。それでエニマ国に何の用だ? カネが欲しくて頭でも下げに来たのか」
「おのれ言わせておけば・・・」
ミックを押さえてレイラが前に歩み出た。
「まあ待て。アルカナ王国が本当に落ちぶれたかどうか、私の剣で試してみるがよい。それとも、エニマ国の私兵とやらは、口先だけの腰抜けな連中か?」
「何だと、抜かしやがったな! 上等だ。スペンサー私兵隊隊長、ジョージ様がじきじきに相手をしてやる。もしお前が勝ったなら、俺たちは大人しく引き下がろうじゃないか。もし、俺が勝ったら・・・」
ジョージはイヤらしい笑みを浮かべて言った。
「すっぱだかになって、首輪を付けて俺たちの犬になってもらおう。はは、どうだ?」
レイラは軽蔑したような目でジョージを睨みつけた。
「ふん、ゲス野郎らしい下品な要求だな。上等だ、受けてやる」
他の私兵の男たちはニヤニヤ笑っている。
「は、馬鹿な女だな。腕前にすこしは自信がありそうだが、女だてらに、エニマ国の武術大会での優勝経験もあるジョージ隊長に勝てると思っているのか」
「うへへ、あの身の程知らずの女を、裸にひん剥いてやるのが楽しみだぜ」
船着き場の前では、剣を構える二人を人々が丸く取り囲んだ。レイラは銀色に光る近衛騎士のプレートアーマーに身を包み、鋼鉄のタワーシ―ルドと長剣を構える。一方のジョージはえんじ色のブリダンガインにチェインメール、ウッドシールドに長剣といった装備である。レイラは防御力に重点を置き、ジョージは動きやすさに配慮した装備だ。
ジョージは考えた。相手は所詮女だ。いくら鍛えてあるとはいえ、腕力で男に勝てるはずがない。ここは正面からの連打で押し込んで叩き伏せ、身の程を知らない生意気な女に、男の腕力がどれ程のものか思い知らせてやろう。先手必勝だ。
「じゃあ、俺から行くぜ」
ジョージはレイラの正面から全力で突っ込むと、上段から渾身の力を込めて剣を叩きつけた。しかし、剣を受けるレイラのタワーシールドは微動だにしない。ジョージはさらに激しく何度も打ち続けた。しかし、並みの男ならバランスを崩してもおかしくない程の剣の衝撃を、レイラはいともたやすく受け止めている。
ジョージは思った。さすがに国王の警護をするだけあって、それなりに鍛えられているようだ。とはいえ、相手はプレートアーマーにタワーシールドという重装備だ。あの装備は男ですら持て余すほどの重さがある。まして相手は女である。まともに動けるはずがない。左右に揺さぶれば隙が生まれるはずだ。
ジョージは回り込みながら、レイラをめがけて続けざまに剣を打ち込む。しかしレイラはタワーシールドを軽々と操り、すばやく打ち込まれる剣先をすべて受けとめる。右からも、左からも回り込むが、まったく隙がない。
ジョージは驚いた。こいつはとんでもない筋力と反射神経を持っている。本当に女なのか? しかし焦ることはない。あんな重装備で激しく動けば、屈強な戦士でもすぐに体力を使い果たす。ここは受けに回って、相手の体力を消耗させることが得策だ。
ジョージが挑発的な態度でレイラに言った。
「は、なんだお前。俺の打ち込みに堪えるのが精一杯で、手も足も出ないってか? 降参するなら今のうちだぞ」
「ならば、こちらから行かせてもらう」
そういうが早いか、レイラはジョージに向かって猛烈なダッシュで踏み込むと、上段から思い切り剣を振り下ろした。その速さに不意を突かれたジョージは、かろうじてウッドシールドでレイラの剣を受け止めたものの、あまりの衝撃に姿勢を崩しそうになった。レイラは休むことなく左右から続けて剣を打ち込んだ。ジョージは防戦一方である。
ジョージは焦ってきた。なんて馬鹿力なんだ。これは受け止めるだけで精一杯で、カウンターを狙うどころではないぞ。まあいい、こんな勢いで剣を振り回せば、すぐにスタミナ切れで動きが鈍るはずだ。
しかしレイラの剣に鈍る様子はまったく見られない。それどころか、ジョージはじりじりと後ろへ押され続けている。私兵たちが唖然とした表情でレイラを見ている。
「あのジョージ隊長が押されているぞ。どうなってるんだ」
「おい、隊長の盾が・・・」
レイラが繰り出す激しい連打の威力によって、ジョージの盾がゆがんでいる。そして次のレイラの一撃で盾がジョージの手から叩き落され、バラバラに割れて木片が飛び散った。
ジョージは頭が真っ白になった。まさか盾が割られてしまうとは。これはまずい、片手剣一本であの怪力女の剣は止められない。もちろん負けを認めることなど絶対にできない。こうなりゃ手段は選べない。
ジョージは足元の砂をつかむと、レイラの剣を避けて横に飛びながら、レイラの顔をめがけて砂を投げ付けた。ヘルメットの隙間から砂粒がレイラの目に入った。
「うあ」
ジョージは腰を落としたレイラの横から小手を狙って打ち込み、レイラの剣を地面に叩き落した。ジョージはレイラの剣を足で蹴って向こうへ弾き飛ばすと、激しく肩で息をしながら剣を構えなおし、勝ち誇ったように言った。
「馬鹿め、俺は実戦を重視してるんでな。こういう戦闘にも慣れておいた方がいいぞ。さあ、剣なしでどうするんだ? あ?」
「卑怯者め・・・」
レイラは立ち上がると、タワーシールドを体の正面に構えたまま、猛牛のようにジョージに向かって突進した。
「うおおお」
意表を突かれたジョージだったが、とっさに右に避けて難を逃れた・・・かに見えた。しかし、レイラのタワーシールドが、まるで全力で振り下ろされた巨大なハンマーのような勢いで、ジョージの体に横から叩きつけられた。ジョージの体は衝撃で空中に放り上げられ、九の字に曲がったまま、船着き場の浮き桟橋の向こうの川に落下し、大きな水柱が上がった。私兵の男たちは茫然とその様子を見ていた。
「アルカナには、こんな化け物のような女騎士がいるのか・・・」
レイラはジョージの体が飛んで行った方向を確認した後、叩き落とされた自分の剣の近くまでゆっくり歩いてゆき、剣を拾い上げると私兵たちに向き直り、再び戦闘態勢で身構えた。
「さあ、次は誰が相手になるんだ?」
「いえいえ、もう結構です。約束通り、我々は順番に並びます」
レイラは私兵たちに言った。
「たとえ貴族であろうと不正は絶対に見過ごさない。間違いは正され、正義はなされなければならない。たとえ地獄の果てであろうと、悪を追い詰めて倒す。それを行うことが、アルカナ王国の騎士たる私の使命である」
周りを取り囲んで行方を見守っていた人々から、拍手が沸き起こった。レイラが剣を挙げて人々に応える。
いやー、レイラは惚れ惚れするほど素晴らしいな。まさしく絵にかいたような正義漢だ。とはいえ、真面目過ぎて融通が利かないんじゃないかと心配だ。間違ってレイラにセクハラ発言でもしようものなら、頭から真っ二つにされちまうかも知れないぞ。おそろしや。レイラの性格を少し柔らかくしてやらないと・・・。
一行の馬車は無事にエニマ川を渡ると、エニマライズへと急いだ。
エニマ国の王都に近づくと、一面に広がる小麦畑が現れた。エニマ川の下流域に広がる大穀倉地帯である。この地域で生産される豊かな農産物により、エニマ国の人口は順調に増加しており、近年はアルカナを凌ぐ国力をもっている。ただし夏になるとエニマ川はしばしば氾濫を起こし、付近の畑や家屋を押し流してしまうことが悩みの種である。
ミックはレイラのご機嫌を取ることを諦めたようだ。しばらく無言のまま馬車に揺られていたが、ふと思い出したように俺に言った。
「国王様、エニマ国内で我が国に対する不信の声が広がっているそうでございます。なんでも、エニマ川から水を引き入れる工事の影響でエニマ川の水が枯れ、農地が干上がってしまうとの噂があるとか。酷い話になりますと、アルカナ国がエニマ国を弱体化するために、エニマ川の水を奪うことを目論んでいるとの陰謀論まであるそうです」
「それは困ったものだ。エニマ川の水の一部分を分けてもらうだけなのだから、エニマ側に深刻な影響はないはずなんだがな。しかし、そのような間違った噂をこのまま放置すれば、両国関係が危機的な状況に陥る危険性もあるな」
「それにしても、そもそもエニマ川の上流域はアルカナの領地なのですから、我々にもエニマ川の水を利用する権利はあるはずです。とはいえ、彼らにとってエニマ川の水を取られるのは心情的に良くないのでしょう」
エニマ国の王都エニマライズは、エニマ川の氾濫を避けるために河口の平野を見下ろす丘陵に作られている。馬車は石畳のゆるやかな坂道をのぼり、王都に入った。エニマ国はアルカナと違って木材資源が豊かなため、木造の建物が多い。いかにも中世ヨーロッパ風の街並みが続く。
街のところどころに、赤地に獅子の姿をあしらった旗が見られる。
「ミック、あの赤い旗はエニマ国の国旗なのか?」
「いえ、そうではありません。メグマール帝国を意味する旗です」
「メグマール帝国?そんな国があるのか」
「ございません。しかしエニマ国内では近年、エニマ国を宗主国とする、メグマール地方の四か国を統一した大帝国の建国を希求する者たちが増えているとのことでございます。おそらく、それらの支持者が勝手に旗を作り、掲げているのではないかと思われます」
「ハロルド国王は黙って見過ごしているのか」
「わかりません。しかし近年エニマ国が力を増すにつれて、メグマール地方の統一国家樹立に賛同する貴族や民衆は着実に増えており、そうした声を強権的に封じれば、国内情勢が不安定化する恐れもあるのでしょう」
力を増せば他者を支配しようとする欲望が生まれる。そして侵略戦争。今も昔も人間の行動パターンは何も変わらないのだ。
馬車は王都エニマライズの大通りを北へ進み、まもなく城に到着した。
一行は謁見の間に入った。ハロルド国王が玉座に座り、家臣達がその左右に控えて待っている。マルコム皇太子も同席しているようだ。アルカナ国に関する良からぬ噂が流れているせいか、大臣たちの目には疑念の色が見て取れる。俺はゆっくりハロルド国王の前に進み出ると、うやうやしくお辞儀をした。
「これはハロルド国王陛下、お初にお目にかかります。わたくしはアルカナ国の国王、アルフレッド・グレンでございます。亡き父、ウルフガルには懇意にしていただいたと聞いております。父に代わり厚く御礼申し上げます。この度は拝謁を賜り、恐悦至極に存じます。よろしくお見知りおきください」
ハロルド国王は、にこやかな表情で言った。
「アルフレッド殿、どうぞ面を上げられよ。わがエニマとアルカナは長年にわたり親密な関係にあり、アルカナは我が国の最も大切な友人である。先王のウルフガルが他界されたことは、まことに悲しい出来事であった。しかしアルフレッド殿のような若くて聡明な王が即位され、アルカナも安泰であろう。それにしても、アルフレッド殿が病で倒れられたとの噂を聞き心配しておったのだが、もうお身体は大丈夫なのか」
「はい、お陰様で以前にもまして力がみなぎっております。ところで本日は、国王様にお願いがあって参りました」
ハロルド国王の表情が厳しくなった。家臣たちも耳を澄ませている。ハロルド国王が低いトーンでゆっくりと言った。
「家臣からすでに話は聞いておるが、エニマ川の河川工事の件であろう」
「左様でございます。我が国は食料が不足しており、国民の生活が苦しいばかりでなく、食べるもののない貧民が王都のスラムに大勢おります。王国の農場は広大ですが、水が不足しているために十分な収穫が確保できないのです。そこで我が国の北部を流れるエニマ川から水を引き、食料を増産する計画を立案いたしました。
とはいえ、エニマ川はアルカナ国とエニマ国にまたがって流れておりますので、我々の一存ですべてを決めるのはいささか乱暴だと思いました。そこで河川工事の承諾をハロルド国王からいただきたいと考えております」
「国民を救いたいとのアルフレッド殿のお考えはよく理解できる。しかし貴国がエニマ川から取水することにより我が国が損害を受けるようでは困るのだ。本当にその心配はないのだろうか」
「ご安心ください。エニマ川の水量は膨大です。そのうち二割程度の水を頂くだけですから大きな問題が生じることはないはずです。またこの計画はエニマ国にも利益をもたらします。それはエニマ川の氾濫を防ぐことです。夏になるとエニマ川の水位が大きく上昇しますが、その際に、アルカナ側へ水を流すことで氾濫を防ぐことができるのです」
ハロルド国王は腕を組んだ。
「なるほど、我が国もエニマ川の氾濫には手を焼いているからな」
「もちろんこの計画を了承いただけるのであれば、我が国はその恩を末代まで忘れることはございません。貴国が困難に直面した際には、必ずや、我がアルカナ国が万難を排して駆け付けます。なにとぞお願い申し上げます」
その場の雰囲気が了承に傾いてきたと感じられたその時、皇太子のマルコム王子が言った。
「お待ちください父上。アルカナ国王のたっての願いとはいえ、エニマ川は我が国の生命線ともいえる重要な河川です。エニマ川の上流に水門を作られてしまえば、アルカナ国に我が国の命運を握られてしまうようなもの。失礼ながらアルフレッド殿が国王に成られてから日も浅く、そこまで信用して良いのでしょうか」
その場がざわつき始めた。多くの家臣たちに迷いがあるようだ。ハロルド国王はしばらく黙って広間を見渡していたが、ふとルミアナに目が留まったようだ。
「おお、そこの者。そなたは、もしやエルフではないか。エルフ族の話を聞いたことはあるが、これまで本物のエルフに会ったことはない。もう少し近くに来てはくれぬか」
ルミアナが目で俺に了解を求めてきたので頷いた。ルミアナは俺の隣に進み出ると、ハロルド国王にひざまずいた。
「お目にかかり光栄に存じます。いかにも、わたくしはエルフ族の女、名前をルミアナと申します。縁あってアルフレッド国王にお仕えしております」
ハロルド国王は玉座から身を乗り出し興奮気味に言った。
「おお、やはりエルフであったか。すばらしい、伝説の話ではなく本当に実在していたのだな。なるほど噂にたがわぬ美しい容姿だ。エルフの国というのはあるのか」
「はい。ここからはるか西にございます。アルカナ王国の西にはロマラン王国があり、その北西にはザルトバイン帝国がございます。そのザルトバイン帝国からさらに西に幾つか国を超えたところにございます」
「なんと遠い所よのう。ところでエルフ族は弓の名手であり、人間にはない様々な特殊能力や知識を持つという。そして人格的にも高貴であり、プライドが高く、人間に仕えるようなことはないと聞く。そのエルフがなぜアルフレッド殿に仕えておるのだ」
「ある出来事がきっかけでございます。私は長いこと冒険者として世界各地を旅しておりました。そして最近アルカナ国に立ち寄ったのでございます。その折、アルカナ国のスラムの人々が飢えに苦しむ様を見かねて、市場で食料を盗んではスラムの子供たちに配っていたのでございます。それがある時、ついに王国の兵士にばれてしまい、取り押さえられたのです。偶然そこを通りかかったアルフレッド王は、そうした私の行いを許して下さいました。お前が悪いのではなく、貧しい我が国が悪いのだと頭を下げられたのです。
このような王を見たのは、私の長い人生において初めてのことでした。そしてアルフレッド王から、この国を誰も飢えで苦しむことのない幸福な国に変えたいのだと聞かされ、力を貸してほしいと頼まれたのです。その時に私は誓ったのです、この王を支え、誰も飢えることのない幸福な国を実現すると」
確かに事実かも知れないが、ここまで歯が浮くような美談として語られると、俺は内心かなり恥ずかしくなった。つい反射的に頭を掻きそうになったが必死にこらえた。
「そうか、アルフレッド殿はそこまで決心されておられるのか」
しばらく間をおいて、ハロルド国王が俺に言った。
「分かった、エルフの心をここまで掴んだそなたに、嘘偽りはあるまい。エニマ川からの取水を許そう。ただしエニマ川の水量が減って我が国に損害が生じないよう、十分に配慮していただきたい。それと、氾濫対策も頼みますぞ」
「ありがとうございます。この命に代えて、お約束いたします」
俺はハロルド国王に丁重にお礼の言葉を述べると城を後にした。
アルカナ国の一行が城を離れたあと、謁見の間にはハロルド国王とマルコム皇太子が残っていた。皇太子は不満だった。苛立ちを隠そうともせず、ハロルドにぶちまけた。
「父上、なぜあそこまで隣国を信用するのですか?」
ハロルド国王は、また始まったかという表情でため息をついて言った。
「お前も知っておろう。我々にはシャビ帝国という強大な敵がいる。あのような強国に一国で立ち向かうことはできぬ。我々のような小国は団結せねばならんのじゃ」
皇太子は興奮して語気を強めた。
「父上は団結だの友情だのと言うが、考えが甘すぎる。そんな約束はどうなるかわからないじゃないか。そんなものに頼るのではなく、我が国がこのメグマール地方を統一し、シャビ帝国に対抗する強大な国家になるべきだ。我が国にはその力がある」
「それも確かに一つの方法だろう。だが世界はそんな単純なものではない。状況は常に変化する。自然環境一つとっても雨の多い年が続くときもあれば、干ばつの続くときもある。疫病が流行することもある。氾濫が起きるかも知れんし、火山が噴火することもある。環境が変われば、それまで強かった国が弱くなり、弱い国が強くなることもある。なぜなら、それぞれの国には他国にはないそれぞれの強みがあるからだ。
多くの国が協力し合えば、仮に一つの国が弱っても別のところが強くなり、互いに支えあうことができる。もしすべての国が統一されて一つの国になってしまえば、誰もカバーしてくれない。弱体化すれば、おしまいなのじゃ」
「しかし父上、環境の変化に応じて常に正しい選択をするならば、我が国が弱体化することはございません。むしろ帝国のようにすべての権力を集中し、正しい選択を国家の隅々にまで徹底する方が、遥かに強大な力を発揮できます」
「もちろん常に完全に正しい判断で国を運営することができれば、お前の言う通りかもしれん。しかし誰であろうと完全に間違いない政治を行うことはできん、間違えて失敗する時が必ずある。もし一つの統一国家であれば、その失敗の影響はその国家全体に広がり、その地域全体が弱体化することになるのだ」
「・・・わかりました父上。今回は父上のご判断に従います」
マルコム皇太子は、どこか軽蔑したような表情を浮かべて、足早に謁見の間を後にした。
―――
城を出たマルコムが向かった先は、エニマ軍の施設だった。強固な石造りの建物の壁にはエニマ国の国旗と共に、赤地に獅子の姿をあしらった旗が下げられている。マルコムは石の階段を足早に上ると、両側に衛兵の立つ立派な扉を開け、部屋に入った。
部屋にはエニマ国の大将軍ジーン・ローガンが待っていた。
「マルコム殿下、アルカナの国王との会見はいかがでしたか」
「ああ。腰抜けの父は、アルカナ王国の河川工事計画を承諾した。あんな剣もろくに使えない軟弱なアルフレッド国王の要望など、突っぱねれば良いものを」
「まったく殿下の仰せの通りにございます。エニマ川の上流を押さえられてしまえば、アルカナの軍門に下るようなもの。今のエニマ国は昔のエニマ国とは違います。我が軍の兵力はアルカナ軍を遥かに上回っております。何を恐れることがありましょう」
「まったくだ。二言目には団結、団結というが、そのために相手国の顔色を見ていては、成すべきこともできないではないか。真の平和のためには、メグマール地方を統一した大帝国が必要なのだ。そして、その中心こそ、エニマ国なのだ」
「その通りでございます。街の様子をご覧になりましたか。メグマール帝国を意味する赤地に獅子の旗が、エニマ国の旗と共に多くの家々に掲げられています。今やエニマ国の国民の多くもメグマールの統一を望んでおります。エニマ国による統一は国民の願いでもあるのです」
「大将軍ジーンよ」
「はっ」
「時が来たなら、私は覚悟を決めるつもりだ。その時には頼んだぞ」
「はっ、地獄の果てまでマルコム殿下にお仕えいたします」
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俺が城に戻ると、ジェイソンが待っていた。
「これは陛下、アルカナ川の工事の件でエニマ国へ訪問されていたそうで、お疲れ様でございました。エニマ国側の反応はいかがでしたか」
「ありがとう、おかげさまで成功だった。ハロルド国王が工事を承諾してくれたことで、心置きなく工事を進めることができる」
「それは大変喜ばしいことです。そうそう、河川工事にお役立ていただきたいと思い、本日は我が領地から馬を十頭お届けに参りました。城内の厩舎に繋いでおりますので、どうぞお使いください」
「それはありがたい。資金協力の件といい、ジェイソン殿には本当に感謝申し上げます」
「いえいえ、私が王国から受けている恩義に比べれば安いものでございます。ところでエニマ国に続いてロマラン国を訪問されてはいかがですか。陛下がご即位されてからまだ一度もロマランを訪問されていないと存じますが。交通の要衝でもありますし、早めに関係を深められては」
「確かにおっしゃる通りかも知れませんね。さっそく準備させます」
「お聞き入れいただきありがとうございます。それではこれで失礼させていただきます」
ジェイソンは慇懃無礼(いんぎんぶれい)でいけ好かない男だが、いまのところとても協力的だ。本当は何を考えているのかわからないが、今は使えるものは何でも使い、一刻も早くアルカナ川を復活させなければならない。
エニマ国の了解を得たので、俺はいよいよアルカナ川の工事に着手すべく、工事現場を視察することにした。そして治水工事の技師、警護の近衛騎士らと共にエニマ川の川岸を上流へと向かっていた。エニマ川が丘陵地帯の谷から出て流れが緩やかになるあたりまで川岸を遡って来ると、治水工事の技師が川を指さしながら言った。
「国王様、このあたりから取水すれば、深く掘り下げなくとも古い川筋に向かって水を導けるかと存じます。新たな水路の建設距離はおおむね五キロメートル、それと場所によっては古い川筋の川底を少し削る必要があるでしょう。なお、夏になりますと川の水量が増加しますので、水門にはかなりの強度が必要になると思われます。気を付けませんと水門が壊れて、エニマ川全体がこちら側へ流れ込んでくる危険性もあります。そうなると大惨事です」
「わかった。水門の設計は十分に時間をかけて万全を期して欲しい。まずは古い川筋に水を引っ張るための水路の掘削工事を先行させよう」
俺は額に手をかざしつつ、馬上からゆっくりと周囲を見渡してみた。このあたりの土地は荒れており、地面は大小の丸い石で覆われている。掘削にはかなり苦労するだろう。スラムに集まっている人々を工事の労働者として採用するつもりだが、肉体労働の可能な若い男性でなければ役に立たないだろう。それでもおそらく二千人程度の労働力は調達できるはずだ。食料不足で痩せた人が多いので、どの程度の労働力になるか不安はある。
キャサリンが周りを見渡しながら言った。
「なんて荒れた土地なんでしょう、悲しくなりますわね。・・・この不毛な大地を眺めているうちに、わたくし、無性に歌を歌いたくなりましたわ」
「歌だって? 何の歌だい」
「不毛の大地がよみがえることを願う歌、『豊穣の歌』ですわ」
歌で不毛の大地がよみがえるわけないのだが、ああ見えてキャサリンは意外とセンチメンタルなのかもしれない。ここはキャサリンに気持ちよく歌ってもらうのが良いだろう。
「そうかそうか、それは実にすばらしいな。キャサリンの歌声で不毛な大地が蘇るよう、心を込めて歌ってくれ」
「そうしますわ」
キャサリンが大きな声でゆっくりと歌い始めた。
これが『豊穣の歌か』・・・うっ、なんとも、すさまじい音痴だ。不毛の大地が蘇るどころか死滅するではないか。どうしてこんな音痴が今まで放置されてきたんだ? ああそうか、お姫様だから、キャサリンの歌を止める奴が誰もいなかったんだな。むしろ「お嬢様は歌がお上手ですね」などと無責任におだてるものだから、本人はますます間違った自信をつけてしまったのだろう。
しばらくすると歌い終わったのでホッとした。しかし今度は二番を歌い始めた。
「キャサリン、この歌は何番まであるんだ?」
「十番までありますわ」
あと九番も聞かされるのかよ。これはもはや拷問じゃないのか。いや精神攻撃だ。自主規制音が必要だ。・・・うおお、頭がおかしくなる・・・。その時、ふいに近衛騎士の一人が前方の丘を指さして叫んだ。
「おい、あれは何だ」
丘の上から巨大な生き物が十数匹、こちらへ向かって進んでくるのが見える。見た目はサイに似ているが、背丈は像ほどもある巨大な生き物だ。俺を防護するため近衛騎士が盾を構えて前方に隊列を組んだが、その顔に焦りの色がにじむ。
それを見たキャサリンの歌が止まった。
「なな、なによ、何が現れたの?あんな化け物、わたくしが呼んだんじゃないわ。わたくしの歌のせいじゃないですからね」
いや、あの歌声を聞いたらモンスターでも発狂するだろう。何しろ魔女が殺人音波を発していると勘違いされても文句は言えないレベルだ。モンスターがキャサリンの歌を止めに来たにちがいない。
そんなバカを言っている場合ではない。あれほど巨大な獣に突進されれば、どれほど屈強な兵士が完全武装していたとしても弾き飛ばされてしまう。俺も恐ろしくなってきた。治水工事の技師たちが悲鳴を上げながら逃げ出した。ミックが馬で駆け寄ってきて言った。
「国王様、あれはブラックライノです。人前に姿を見せるのは稀なのですが、あれは凶暴で危険な猛獣です。お逃げください。この場は近衛騎士が引き受けます。近衛騎士!国王様が無事に逃げるまで時間を稼ぐのです」
「お兄様、早く逃げましょう」
一行は緊張に包まれた。その時、ブラックライノの群れとは別の方角から、一匹のブラックライノが猛烈な勢いで走ってきた。よく見ると背中に小さな人影が見える。激しく揺れる背中から振り落とされまいと、必死にブラックライノの背中に生えている体毛を両手で握っている。その頭上には小鳥が円を描きながらついて来る。
「まってみんなー、待ちなさーい、止まりなさーい」
その人影が高い声で叫んだ。どうやら少女のようである。その声を聞くとブラックライノの群れは立ち止まり、一斉に少女の方を向いた。少女は一行の近くまで来ると獣の背中から地面へ飛び降り、こちらに走ってくる。敵意はなさそうだ。
少女は、ゆったりした作りの地味な茶色いワンピースを着て、腰のあたりをロープで結んでいる。頭にネコ耳の付いたフードを被り、とてもかわいらしい顔の女の子だ。
「おーい、驚かせてごめんなさーい。もう大丈夫ですよー」
息を切らせて俺の前まで走ってきた少女は言った。
「こんにちは、私はナッピーって言うの。あなた達は誰?どこから来たの?」
俺は馬を降り、少女に近づいた。
「私はアルフレッド・グレン。アルカナ国の国王だ」
「へえーすごい、アルカナの国王様なんだ。初めまして。でも、どうして国王様たちがこんな場所に来たの。ピクニックなのかな。でも、このあたりはブラックライノの縄張りだから不用意に近づくのはあぶないよ。ナッピーが止めなきゃ、今頃たいへんなことになってたと思うよ」
見るからに子供といった風貌の小さな少女である。そんな彼女が巨大なブラックライノたちの群れを止めたのは驚きだった。
「ありがとう、お嬢ちゃんに助けられたよ。でも、お嬢ちゃんはどうやってブラックライノたちを止めたの?」
少女は少し恥ずかしそうに答えた。
「ナッピーって呼んでいいよ、王様。ナッピーは動物とお話ができるの。なぜかっていうとね、私がハーフリングだからだって、みんなが言うの。人間とは違うんだって。ナッピーたちは、この川の上流の大きな森の中に住んでいるの。みんなは森からめったに出ないけど、私は元気だから森から時々出て遊んでいるの」
この子が小人族ハーフリングか。ということは、どこから見ても子供に見えるが、これでも大人に違いない。俺は言った。
「動物とお話ができるなんてすごい能力だね、感心したよ。私がこの場所を訪れた理由は、あそこに流れるエニマ川から水路を作ってアルカナ王国の都に水を流すためなんだ。都では水が足りなくて作物が育たず、多くの人が食料不足で苦しんでいる。だから、エニマ川から水をわけてもらおうと思っている」
少女はからだを左右にねじりながら言った。
「ふーん、王様たちは食べ物が不足しているのね。そういえばブラックライノたちも、このあたりは土地が痩せているから食料になる植物が少なくて困っているの。王都の近くに生えている草木を食べてもいいって約束すれば、水路を作るのを彼らが手伝ってくれるんじゃないかな。ナッピーが聞いてみようか」
これは願ってもない申し出だ。食料不足でやせ細ったスラムの男たちに働いてもらうだけでは心配で、猫の手も借りたい状況だったからだ。どうみても人間の百倍は力がありそうなブラックライノが加勢してくれたら、工期を短縮できるだろう。
「それは大変ありがたい。もし彼らさえよければ、王都の北部の林や草原に移り住んでもかまわない。そこならここよりも土地は豊かだし、川が完成すれば彼らのために牧草地を整備してあげることもできるだろう。それでどうだろうか」
ナッピーが言った。
「ライノたちに聞いてみるから、ちょっと待ってね」
少女はブラックライノたちの方に向き直ると、目を閉じて黙っている。話をするというよりテレパシーのようだ。しばらくしてから少女が言った。
「手伝ってくれるそうよ。何をどうすればいいか私が彼らに説明すれば、そのとおりに動いてくれるって。よかったわね」
「ありがとう、本当に感謝するよ。ここで工事が始まったら、ナッピーにはブラックライノたちと一緒に工事を手伝ってほしいんだけど、やってくれるかな。もちろんお礼は十分にするよ。工事が完成したらおカネでもなんでも、欲しいものをあげるよ」
「わかったわ、国王様を助けてあげる。でも、おカネはいらないの。それよりナッピーは元気いっぱいだから、世界中を遊び回りたいの。国王様の住んでいるアルカの都も見てみたいし海も見てみたい。連れて行ってくれる?」
「ああ、もちろんいいとも。工事が終わったら王都に連れて行ってあげる」
「わああい、約束だよ」
「ところで、どうやってナッピーに連絡したらいいの」
「誰かがこの丘の近くに来たら、このピピが教えてくれるの。ピピはいつも私の上を飛んでいるから、近くに人が来たら直ぐにわかるの」
少女の上を飛んでいた小鳥はピピという名前らしい。色や形はツバメに似ている。今はブラックライノの頭に止まって俺を見ている。ナッピーにお礼を言って別れを告げると城への帰路に就いた。
帰りの道すがら、キャサリンが話しかけてきた。
「お兄様ったら、エルフの次は幼女を手懐けるの?ふーん、ふーん、お兄様にそういう趣味があったとは存じませんでしたわ」
「ち、ちがうだろ、幼女じゃなくてハーフリングだからな。見た目が幼女なだけで、実際の年齢は大人に違いない。年齢が大人だから、何の問題もないぞ」
「そうよね、ルミアナも見た目が若いだけで、本当は百歳を超えたお婆さんかも知れないのにね。男の人はすぐ見た目に騙されて、痛い目にあうのですわ。そうそう、お兄様は幼い頃に、きれいな女の人のせいでよく痛い目にあっていましたわ」
「なんだよ、また子供の頃の話か。で・・・どんな目にあったというんだ?」
「そうね・・・ある時、城のお庭できれいな貴族のご婦人方が数人、立ち話に興じていたのですわ。お兄様ったら、そのご婦人方に見とれて、つい、ふらふらと近づいたのですわ。そして、あるご婦人の連れていた犬のしっぽを踏んづけて、尻に食いつかれたの。おかげで食いついた犬をお兄様の尻から引き離すのが大変でしたわ」
「うーむ、どうも私は犬との相性が悪いようだな」
「さらに別の日には、とてもグラマーな農民の女性が牛を連れて居ましたわ。お兄様がその女性のお尻に見とれて、よそ見をして歩いていたものだから、そのまま女性の連れていた牛のお尻に頭から突っ込んで、顔が大変なことになりましたの。それから・・・」
「まだあるのかよ、まるきりアホではないか・・・キャサリンは、よくそんなに詳しく覚えているなあ」
「それはそうですわ、毎日『お兄様観察日記』を付けておりましたもの」
観察日記なんか付けてたのか。子供のころから兄の行動を毎日監視して記録するとか、すごい執着だな。キャサリンの機嫌を損なったら、どんな秘密を暴露されるか、わかったものじゃないぞ。
にしても、それは全部「アルフレッドの恥ずかしい秘密」であって本当は俺の秘密じゃないんだ。しかし、俺がアルフレッドに成りすましている以上は、やっぱり俺の恥ずかしい秘密なのか。もうわけがわからないぞ。