私は小学三年生の十二月末に、この街に引っ越してきた。
 理由は両親の離婚。どうやら私の母は、父の職業の肩書が欲しくて結婚したらしい。恋愛による結婚なんかじゃなくて、とても卑しい理由。
 けれど父の地位があまり高くないことから、離婚を決めたようだった。
 父の職業は弁護士。弁護士という仕事は、実績を上げないと被疑者からの指名も無ければ、弁護すらさせてもらえない。そういった状況ということを知らずに結婚し、しばらく経った後に母は父の立場を知ったのだ。その二人の間に産まれてしまった私は、母に引き取られることになった。

 母は私にいつも、弁護士になれと、あいつの仇を取れという。口癖のようなもので、耳にタコが出来るなんてレベルじゃなかった。
 私は弁護士になることなど正直望んでいなかったけれど、それを口に出してしまうと、母は鬼の形相で私に裁きを下す。ただ、自分の無念を晴らすためだけに。

 離婚してからは当然母子家庭になり、母の仕事は以前にも増して忙しくなった。家にいないことの方が多くなり、小学生だった私を長く留守番させることに悩んでいた。その結果、母が仕事から帰ってくるまで隣の家庭――水上家に私を預けることにした。

「高峰玲です……これから、よろしくお願いします」

 玄関先で挨拶をする。
 見知らぬ土地、初めて顔を合わせる人。不安だらけだったけれど、これからお世話になる人だと自分に言い聞かせて、礼儀正しくなるように振る舞った。礼儀を大切にすることは、母から散々言われてきた。
 元々人と話すのが得意ではなかった私にとって、初めましての人と会話をすることさえ、相当勇気の要ることだというのに。

「いらっしゃい、玲ちゃん。ここでは、自分の家みたいに自由にしていいからね」

 水上家の恵美(えみ)さん――秀ちゃんの母親がお出迎えしてくれる。一目見ただけで、優しくて温かそうな人だと思った。

「は、はい。ありがとうございます……」
「気にしなくていいんだよ。――ちょっと待っててね、玲ちゃん」

 恵美さんはそう言うと、「秀ちゃーん」と家の中に向かって大声で呼んだ。その後に出てきた人は、同い年くらいの男の子だった。

「……どうも。俺、秀也」

 これが私と秀ちゃんの出会いだった。


 私と秀ちゃんは、通う学校も学年も、クラスも一緒だった。初めての土地で常に一緒に行動できる人がいるというのは、とても心強かった。でも最初は打ち解けることも無く、ただ一人で勉強していただけ。
 勉強は母から言われて、暇なときは家以外でもずっとしている。だから水上家にいる時も勉強ばかりで、ほとんどゲームしていた秀ちゃんとは、会話をすることもなかった。

 ちなみに水上家には、秀ちゃんの父親や、既に一人立ちした海人(かいと)――秀ちゃんの兄もいると聞いたけれど、もちろん顔を合わせることはなかった。

 ある日、リビングで宿題をしていると、

「玲っていつも勉強してるよな。つまんなくない?」

 と、ゲームを手に持ちながら秀ちゃんが聞いてきた。これが初めてのちゃんとした会話。聞かれた内容である、つまんないというのは、勉強のことかそれとも私のことなのか。

「お母さんに言われてるの。勉強ばっかりはあんまり楽しくないけど、やらないと怒られちゃうから……」
「ふーん」

 彼はそれだけ言うと、目線はまたゲームへと戻していた。反応は示してくれたけれど、その声色に興味は感じられない。ゲームと勉強、やっていることは正反対。娯楽と勉学、不必要なものと必要なもの、比べるほど対極の位置にあるとわかる。
 普段ゲームをやっている人からしたら、勉強なんて退屈、そう思うのは当然。

 それが、今まで二人の間に会話が生まれない理由だと思っていた。秀ちゃんから見たら、勉強ばかりしている人は、性に合わないのだろう。

 そう思っていたその時、勉強している私の隣に、突然秀ちゃんが座ってきた。

「俺も勉強やる」
「……え?」

 一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。

「玲が勉強好きじゃないなら、誰かと一緒にやった方が楽しいだろ」
「……!!」

 その言葉に動揺を隠せなかった。
 今までこんな人はいなかった。一緒に勉強するなんて言ってくれたのは、秀ちゃんが初めて。他の人は私に目もくれない。だって、勉強は楽しくないから。
 でも秀ちゃんは、自分とは合わない人でも、優しく接しようとしてくれる。そんな人柄に触れて、優しさを分け与えてもらって、抱く感情は尊敬だった。
 何より優しさが心地よかった。母からもらう感情より温かく感じられて、この瞬間だけでも満たされた気分だった。

 誰かと勉強するのは初めてで、妙な緊張が胸を走る。でも、緊張よりも嬉しさの方が幾分大きかった。隣に誰かがいてくれることが、こんなに嬉しいことだとは。
 勉強で秀ちゃんがわからないところは、私がその部分を教えた。教えることも初めてで、この日だけで経験ばかりしている。
 勉強は勉強でも、誰かとするのなら悪くない気がした。特に教えることが、役に立てているという実感が湧いて好きになった。

 小学校の先生が言っていたことだが、人に教えることは自分の学びにもなるらしい。確かに教える時は、相手に伝わる言葉を使わないといけなかったため、自分の頭の中も整理出来た気がした。
 これからもこうやって二人で勉強できるかもしれないと思うと、今こうして勉強している最中でも明日からが楽しみになっていた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、母が帰ってくる時間になり、私も同じように家に帰った。
 夕食を食べている時、母が話し掛けてきた。

「玲、勉強は捗ってる?」

 母からのこういった言葉は、いつも心配というより脅迫のように感じる。

「してるよ! 学校でも水上さんの家でもちゃんとやってる! 特に今日はね、秀也君にも勉強教えてあげたの。喜んでたみたいだし、私も楽しかったんだよ!」

 今日の日中の出来事が私の中でキラキラと輝いていた。だからいつもより元気に母に報告していた。
 けれど返ってきた言葉は、私の予想とははるかに違ったものだった。

「そう。捗っているならよかったわ。でも、これからは教えるなんてこと、しなくていいのよ」
「……え?」

 何を言っているのか、さっぱり分からなかった。私は勉強を教えていた。秀ちゃんがわからないと言っていた部分を、教えているだけ。人助けと言っても間違いじゃないはず。
 それを突然しなくていいと言われたのだ。聞き間違えかと疑うほどに、なぜ母がそんなことを言ったのかわからなかった。

「お母さん、よくわからないよ」
「レベルの低い人に合わせなくていいって意味なのよ。時間をその子のために使うのは、玲にとって無駄でしょ?」

 まさかそんなことを思っているとは。なんだか秀ちゃんが貶されているような気がして、嫌な感じがした。

「で、でもね? 先生がね、教えるのって自分のためになるって言ってたんだよ! だから……無駄じゃないよ」
「自分を下げる必要はないと言っているのよ。勉強が出来る人と競った方が、玲のためになるでしょ? わからないところを自分で悩まずに、すぐ誰かに聞く人になんて、助ける必要ないのよ。玲までその低いレベルになりたくないでしょ?」

 まだ納得できなかった。あんなに楽しかったのに、あんなに喜んでくれていたのに。これが、良くないことなんて信じられなかった。

「……で、でも、困ってるのに――」
「それともなにか文句でもあるのかしら」
「っ……、なんでも、ないです」

 喉から上がってきそうだった言葉が、母の氷のような冷たい眼差しによって、口から出ることを禁止させられた。もう何を言っても、無駄なのだと嫌でもわかる。

 良いことをしたはずなのに、母には許されなかった。いや、良いことをしていたと思い込んでいただけなのかもしれない。そうでも考えないと、自分の行いが間違いだと言われたことに、耐えられなかったから。
 話に夢中になっているうちにすっかり冷めてしまっていた夜ご飯に手をつけ、私の心はどんどん締め付けられていた。


 翌日。
 昨日母に、レベルの低い人に合わせる必要はないと言われた。レベルの線引きなんて、すぐにはわからなかった。もしかしたら、玲の周りにいる人が全員それだったらと思うと、怖くなってしまう。私はこれからも、誰とも話せないのかと。

 その日も放課後に水上家に来ていた。昨日の母の言葉がずっと気掛かりで、勉強に身が入らない。
 本当はもっと秀ちゃんと話していたい。一緒に勉強がしたい。けれど母の言う通りにしなければ、また叱られてしまう。それは嫌だった。
 どうするべきか頭の中で思考を巡らせても出てこなく、最後には勇気を出して、秀ちゃんにそのことを話してみるのだった。

「……秀也くん、話があるの」
「どうした?」

 秀ちゃんはゲームをしていた。興味があるようには聞こえない声だけれど、昨日、ちゃんと話を聞いてくれていることを知った。だからこのまま話し続ける。

「あのね、昨日一緒に勉強したでしょ? そのことをお母さんに話したの。そしたら、そんなことはしなくていいって言われたの」
「なんで?」
「……レベルの低い人と関わらない方がいいって、言ってた」

 自分でも酷いことを言っていた自覚はあった。だって、目の前の人に対して、あなたはレベルが低いと言っているのだから。母の教えである、礼儀を大切にすることを破ることになってしまったが、私がわからないことを相談できる人は、今のところ秀ちゃんしかいなかった。どうしても、自分がどうすればいいのか知りたかったから。

「無茶苦茶だな。よくわかんない」

 彼もよくわかっていないようだった。

「なんかね、頭いい人と一緒にいた方がいいらしいの。そうした方が、私のためになるって」
「………」

 とうとう彼は無言になってしまう。私に失望したのだろうか。頭が悪いと言われて、悲しんでしまったのだろうか。
 何も出来ないまま、秀ちゃんの前で立ちつくす。返事を待っていても、私が望んだ声は聞こえてこなかった。

 だから、私は勉強に戻ろうとして、秀ちゃんに背を向ける。

「ごめんね。私、秀也君とあまり一緒にいれないかも……」

 それだけ言って、リビングの椅子に座り、勉強を始めようとした。その時、

「玲はそれでいいの?」

 後ろから声が聞こえてきた。秀ちゃんに背を向けて座っていたから、彼が今どんな表情なのかもわからなかった。
 顔が見えないことを良いことに、本音を話す。

「嫌だけど、そうしないとお母さんに怒られちゃう……。それはもっと嫌なの……」
「ふーん」

 小学生だった私は、怒られることが本当に怖かった。自分の意見を貫き通すより、怒られないことの方がはるかに大事だった。秀ちゃんにひどいことをした自覚はあるけれど、それでも叱られるかもしれないという恐怖が、私の中で強く根付いていた。
 そもそも、レベルの線引きがすぐにできるわけがないのだから、こうするしかなかったのだ。
 
 そう自分に言い聞かせても、結局苦しい言い訳になるだけ。何一つ解決していないから、今はこのままで、一人で耐え続ける。秀ちゃんも何も言ってこない。もう、二人の間に会話はない。そう感じた瞬間だった。
 辛い気持ちを勉強にぶつけよう、そうして熱心に取り組む。


 しかし数分後、

「俺も勉強する」
「っ!?」

 隣に秀ちゃんが来た。しかも、昨日と同じような言葉を放って。

「どういうこと?」
「レベルの低い人だっけ? そいつと話しちゃダメなら、レベルの高い人ならいいんだよな? 俺が頭良くなれば、何も問題ない!」
「っ!?」

 彼の優しさが、痛いくらい胸に刺さった。
 最初はどういう風の吹き回しなのかとか、疑ってばかり。でも考えてみるほど、彼が本当に優しいのだという結論に至る。私が思っていたよりもずっと優しい。昨日それが分かったはずなのに、彼はその想定をはるかに超えてくるのさ。
 私はさっき、彼にひどいことをたくさん言ったのに、それでも秀ちゃんは私に優しさを与えてくれる。

 受け取った感情が、じんわりと胸に広がる。泣き出してしまいそうだった。今まで触れたことのない温もりに、涙が出そうだった。
 この優しさなしでは、生きていけなくなってしまいそうになる。そうして少し涙を流しながら、また二人で勉強をするのだった。


 賢くなると宣言した秀ちゃんは、私に追いつくために、復習だけでなく予習をしだした。
 私は一年先の内容まで予習していた。なんとしてでも私を弁護士にさせたい母は、学校の課程では足りないと言い出し、暇さえあれば予習を無理強いする。

「玲、これは何?」
「このxっていうのは、わからない数字を置き換えるって意味だよ。xを使って式を作って、後からそのxの数字を出すんだよ」
「おー、なるほど」

 学校でも習っていない範囲に苦戦している様。努力するといっても、慣れないことをいきなり始めるのは厳しかったりする。その苦しみはわかっているつもりだったため、そういう部分に関しては、私が精一杯教えてあげることにした。
 習っていない内容でも、秀ちゃんはかなり理解が早い方だった。分からないところを聞いてきた時も、私が教えればすぐに理解する。

「玲、ここは?」
「ここも――」

 話すようになってからまだ二日だというのに、こんなに彼の隣にいるのが安心するとは、以前なら思わなかっただろう。
 しかも彼は、私と接するために予習に付き合ってくれている。流石に無理があると思ったけれど、彼は一言も文句を言わなかった。たったそれだけでも、私は救われた。一緒の時間を共有してくれているだけで、心の支えになった。
 何よりも母の言葉に抗おうとしてくれたことが、私の気持ちを第一に考えてくれたことが、本当に嬉しかった。


 五年生の三月頃。最近、秀ちゃんは学校の友達と遊ぶ回数が増えて、一緒に勉強する時間も減ってしまっていた。
 それでも、遊びに行かない日は私にずっと付き合ってくれ、楽しく過ごした。秀ちゃんの学力は見る見るうちに上がっていき、テストの点数にも影響してクラス中が秀ちゃんの点数に驚いていた。

 そんなある日、

「玲、お前って誰かと遊びに行ったことある?」

 と、聞いてきた。

「ないかな」
「遊びたいって思うことないの?」
「羨ましいって思うことはあるけど、勉強しないとダメだから……」

 素直に本心をぶつけた。
 話すようになって約二年、私たちはたくさんのことを遠慮なく話せるような間柄になっていた。
 私の返事に対して秀ちゃんは、少しだけ不満そうな声色で言ってきた。

「玲はそれでいいのか?」
「それは……っ、嫌だけど……」

 ふと彼の表情を見ると、母ほどではないが、何かを憎んでいるような、恐ろしく冷たい目と声をしていた。間違いなく気分を損ねていると断言できる。
 私の態度が気を悪くさせてしまっているのだろうか。二年も経ったのに、私の心中は変わらないままで、母の言われるがまま、叱られることを恐れて行動する。そんな変わらない姿が、秀ちゃんの気に障ったのだろうか。

「前から思ってたけど、玲が勉強する理由ってお母さんに言われてるからだろ? なんでそんなに厳しいんだ?」

 答えるのを一瞬躊躇う。あまり聞かれたくはないことだから。

「……お母さんは、私を弁護士にさせたいの。弁護士は頭が良くないとなれないし、資格とかも必要なんだって。だから、たくさん勉強するの」
「玲は弁護士、なりたいの?」
「どうだろう。将来の夢とかないから、これでもいいんじゃないかな」

 曖昧な回答しかできず。
 正直なことを言えば、私は自分の夢を持つことを半ば諦めている。母の態度はずっと変わらなかったし、時々弁護士になるための専門知識に関する本を、私に買ってきた。母の信念に思いやられてしまっていた。
 そんな母に対して抵抗しても、全て言いくるめられるだけ。私の気持ちなど聞いてくれたことなんて無いから、無意味ということが嫌というほどにわかる。私はなりたいと思った職業もなかったので、弁護士になるのもいいのかもしれない。

 そんな卑屈な気持ちで胸がどんどん冷たくなっていくと、秀ちゃんは勢いよく立ち上がった。

「玲、今から遊びに行くぞ」
「え? な、何を言ってるの……?」
「玲を外に連れていく」
「だ、ダメだって! また怒られちゃうから!」

 魅力的な提案だった。放課後に誰かと遊ぶなんて経験、今まで一度もなかった。だけど、この時は欲よりも恐怖が勝っていた。勉強を放り投げて遊ぶなんて、許されるわけがない。

「その時は俺のせいにすればいい。いい加減、やりたくないことばっかりやるのは、玲も嫌だろ」

 秀ちゃんが必要なものを用意し、支度をしている。本当に外に出るつもりらしい。
 なぜ今更そんなことを言い出すのだろうか。最近友達とたくさん遊んでいるから? その楽しさを知ってしまったから、勉強がつまらなくなった? ただ単純に悲しい気持ちになってしまう。

「違う、勉強のほうが大事だって――」
「うるさい! いいから行くぞ」

 私の手を掴み、無理やりにでも連れて行こうとする。
 このままでは、初めて勉強を投げ出すことになる。母に怒られてしまう。弁護士になれなくなってしまう。そんな後ろ向きなことばかりが頭を埋め尽くしていた。
 必死に抵抗したけれど、秀ちゃんの強い力に負けてしまい、すでに玄関まで来てしまった。

 今までは優しかったのに、なんで今日だけ私の言葉を聞いてくれないのだろう。私を救ってくれた秀ちゃんは、どこに行ってしまったのだろうか。
 
 玄関の扉が開き、外からの光が差し込む。
 まだ間に合う。まだ勉強から逃げなくて済むかもしれない。そんな気持ちで抵抗する。けれどやっぱり引っ張り出されてしまった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、お母さん。私、勉強できなくなっちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。


 しばらく彼に付いていき、私が歩いたことのない方向まで行く。登下校の時とは違う道。
 見慣れない場所に不安を抱きながら歩くしかなかった。そして次の交差点を曲がった、その時だった。

「………」

 突然私の視界がキラキラと輝きだす。それが私にとって、あまりにも衝撃的だったから。

「わぁ……!」

 つい声を上げてしまうほど。
 家から歩いて十分もしない場所。登下校の道とは少しだけ違った方向。
 一度も遊んだことがないからだろうか、それともこういったものには、興味がなかったからだろうか。私の目に入るそれらが、宝石のように輝いて見えた。

 さっきの卑屈な心など、もはや思い出すことも難しい。それほどこれに心が高鳴っている。綺麗に、色鮮やかに見える。

 目の前に広がる、桜並木が。

「どうした、玲?」

 桜並木を見たまま立ちつくしてしまっていて、秀ちゃんが心配になって聞いてきた。

 桜一つで、ここまで自分の思考が吹き飛んでしまうとは。まるで世界が変わったように、すべてが美しく色付いている。今までの私は、どれだけ狭い世界で生きていたのだろうか。花の一つさえ、真剣に見ていなかったのだから。

「桜が……すごく綺麗だなって、思って」
「まぁ春だしな」

 秀ちゃんは、私とは正反対なくらい落ち着いていた。
 いつもこんな景色の中で過ごしているのだろうか。これが当たり前なのだろうか。だから、桜を意識することはないのだろうか。

 勉強から解放されているだけ。ただ遊んでいるだけなのに、私の心は瞬時に軽くなったように感じた。私は今まで、辛い状況にいることさえ分からなく、ただただ追い詰められていたんだ。
 そんな状況の私に、桜は安らぎを与えてくれた。小さなことのように見えるけれど、私にとっては世界がひっくり返るくらい、大きなことになっていた。
 
 この時から、私の中で桜は、自由と安らぎを表すようになった。

「玲、行くよ?」

 彼はその後も私の手を離さなかった。でも、家に帰りたいなんて考えていなかったし、むしろもっと外の世界を見てみたいと望んでしまっていた。


 そこから歩いて約五分、付いていった先に見えたのはショッピングモール。まずはその中に併設されているゲームコーナーに行った。
 初めてゲームコーナーに来た。たくさんの機械がずらりと並んでいるけれど、どういうゲームなのかさえ知らない。
 けれど、一つだけ知っているものがあった。時々テレビで目にする。それは、UFОキャッチャー。
 透明なケースに入っている賞品を、クレーンで上手に掴んで運ぶことによって、賞品を獲得するゲーム。

 そのうちの一つに、かわいいうさぎのぬいぐるみが賞品になっているものがあった。それを一緒にやることにした。もっとも、提案したのは秀ちゃんだったけれど。
 私は既に興味津々で、勉強から逃れることに対しての負い目など、全く感じていなかった。

 初めてのUFОキャッチャーは思っていたよりも難しく、何度挑戦しても取ることはできなかった。けれど、その後に秀ちゃんが二回ほどプレイすると、うさぎのぬいぐるみを獲得した。

「これ、玲にあげる」
「! いいの!?」
「うん。俺の趣味じゃないし」
「ほんと!? やったぁ!!」

 彼が取ってくれたのに、私にプレゼントしてくれた。こういった経験がない私は、嬉しさのあまりその場ではしゃいでしまった。こうやって誰かと遊ぶことが、こんなに楽しいことだったとは。
 この時私は、初めて心から笑えた気がした。

 その後私たちは、ショッピングモールの入り口の近くにあるアイスクリーム屋に行った。アイスクリームも、こういったお店で食べたことは一度もなかった。
 秀ちゃんと同じチョコアイスを選び、近くのベンチに座って二人で食べた。さっきのUFОキャッチャーもそうだったが、お金は秀ちゃんが全部払ってくれている。

 秀ちゃんと食べたチョコアイスは、文字通りほっぺが落ちそうなくらい美味しかった。一口食べただけで幸せな気持ちになり、私の表情から笑顔が絶えない。
 先ほどから秀ちゃんは、私が笑顔になるたびに、嬉しそうな表情を見せる。まるで自分のことかのように。だから、二人で楽しめている気がして、素直に嬉しかった。

 初めは罰が当たると思っていた。勉強を投げ出すなんて考えたことがなかったし、連れ出した秀ちゃんも許せなかった。でも今では、ここに来てよかったと思っている。連れ出してくれてありがとう、とまで思っている。

 たった一日気分転換しただけなのに、私は今までの日々を見直していた。心が軽くなって初めて、私は弁護士になることを望んでいないとはっきりわかった。
 そして、

「あのね!」

 アイスクリームを食べながら話しかける。

「どうした?」
「私ね、学校の先生になりたい!」

 自分のやりたいことに、この日で気付けたのだ。

「おお、いいなそれ! 勉強教えるの上手だし、向いてるよ!」

 いきなりのことで驚かせてしまったかもしれないが、向いていると言ってくれた。肯定してくれたことが嬉しかった。教えることが上手かどうかは、実は理由には関係なかったけれど。

 秀ちゃんにはずっと感謝してばかりだ。特にこの日一日を通じて、私は彼に憧れた。いや、それ以上の気持ちを抱いていたのかもしれない。
 普段は少し荒い言葉を使う彼だが、それとは真逆なくらい優しくて温かい。それがなんとなくおかしかった。
 でもまずは、遊びに連れてくれて、私を笑顔にしてくれて、

「ありがとう!」

 と、最大限の感謝を告げるのだった。

「――そうだ、私も秀ちゃんって呼んでいい?」
「なんで母さんと同じ呼び方なんだよ……」

 この時から、私は秀ちゃんと呼び始めた。


 放課後から遊びに行ったため、長く外出することはできなかったけれど、その日が人生の中で最も楽しかった瞬間だった。
 UFОキャッチャーの戦利品、うさぎのぬいぐるみを持って家に帰る。母が出迎えてくれた。

「おかえりなさい。……あら、どうしたの? そのぬいぐるみは」

 幼い頃の私には、全てを話すことを疑わなかった。今日の楽しかった出来事を母にも教えてあげようと、嬉々として話してしまった。それが失敗だった。

「これ? 今日ね! 秀ちゃんと遊びに行ったの! その時に秀ちゃんと一緒にUFОキャッチャーやって、取ってもらったんだよ!」
「……遊びに行った? 勉強は、どうしたの」
「勉強もしたよ! でもね、気分転換に秀ちゃんが連れてってくれたの! でね、その時に――」

 その瞬間、パチンという冷たい音が玄関に響き渡る。母に頬を叩かれたのだ。その衝撃で、胸の前で抱えていたぬいぐるみが床に落ちてしまう。
 私はすぐに叩かれたと気付くことができず、頬に痛みを感じ取った時初めて気付けた。それまで、何をされたか自分で理解できていなかった。叩かれた後も、なぜなのかわからなかった。

「……はあ? なによ、それ」

 はぁはぁという荒い息とともに、怒りを見せる母。それだけで私の頭は恐怖でいっぱいになった。手足は震えだし、もう反論するなんて気は起きない。

「誰が、いつ、遊びに行っていいなんて言ったのよ、玲。私は勉強しなさいとしか言ってない。気分転換なんて、必要ない」

 母のひどく冷たい声が、幼い頃の私に響く。声が、感情が、心臓にぐさりと突き刺さって痛い。
 そうだった、この人は私を道具としか見ていない。地位と名誉のため、そのために私は利用されるだけ。今まではその事実に気付かぬように、見て見ぬふりしていただけだった。

 そう気付いてしまったから、私はより一層心を閉ざし始める。未来なんて最初から暗く閉ざされていた。先生になりたいなんて、間違っても口に出せない。だって、認められることも、なれるわけもないのだから。
 叶わないと分かりきっている夢なら、もう抱くのはやめよう。母のために弁護士になった方がいいに決まっている。

 その後母は、

「水上さんの子どもが、玲に……」

 そんなことを言い出した。敵意が明らかに、秀ちゃんへと向けられていた。
 それだけ、それだけは許せなかった。どうしても秀ちゃんを悪く言ってほしくない。だって秀ちゃんは何も悪くない。

「待って! お願い! 秀ちゃんには何もしないで! 私が全部悪かったから!」
「うるさい! あんたは黙ってればいいのよ!」
「っ……」

 あまりの迫力に、喉から上がっててきていた言葉が引っ込んでしまう。もう私は、何をすることもできないらしい。秀ちゃんのための行動も、なにも。
 自然と下を向く。床に転がっているぬいぐるみが目に入った。楽しかった思い出の品は、無残にも黒く汚れてしまっていた。
 それを拾って、汚れを一生懸命落とす。せっかくのプレゼントがこれ以上台無しにならないように。

 けれど汚れは落ちても、次はじんわりと濡れていく。私が流す涙が、どんどん零れていくのだ。もう、泣くことしかできない。なぜかぬいぐるみの滲んだ部分が、私の心そっくりに見えた。
 楽しかったはずなのに、夢も見つけられたはずなのに、全て無駄となった。最悪な結末を迎えた。
 たくさん与えてくれた秀ちゃんは、これからどうなるのだろうか。母からの制裁が下されてしまうのだろうか。それだけが気がかりだった。
 どうか神様。秀ちゃんだけは、幸せなままでいられますように。


 その日から三日後、私は水上家に行くことを禁止にされた。母が仕事でいなくても、一人で留守番をすることに決まった。
 私が秀ちゃんと遊びに行った日、たった一日だけで水上家への信頼がなくなり、私を預けることをやめた。

 母は私に、秀ちゃんと今後関わるなと言った。
 でもこれでよかったのかもしれない。私が一緒にいなければ、これ以上母からの敵意を向けられなくなる。平穏に過ごすことができる。私さえ我慢すれば、全てが収まる。

 学校でも私は、彼を避けた。何度も話しかけてきたけど、理由をつけて逃げ出した。本当はもっと話したしたかったけれど、これが秀ちゃんのためと言い聞かせて、気持ちをぐっとこらえる。

 ……なのに。なのに、毎日家に帰ると涙が溢れてくる。自分の気持ちにはどうしても嘘をつけなかった。秀ちゃんと出会う前に戻っただけ、たったそれだけなのに、その時より辛い、苦しい、胸が痛い。
 自分の気持ちを押し殺して、押し殺して、押し殺して、大人になっていく。それが私の運命なのだと思い知る。真っ暗な未来を一人で歩んでいく。それが皆の幸せになると願って。


 中学校に進学してからも、私は秀ちゃんを避けた。いつの間にか会話は一切なくなり、一緒にいる場面もなくなった。
 私の家の近くには、日本で一番有名な進学校がある。三年になると、母はそこへの進学を勧め、言うとおりにした。
 高校に進学すると、入学式で秀ちゃんも入学していたことを知った。とても努力したようだった。

 自分を殺すことに慣れてしまった頃、高校二年生。生徒会選挙。副会長候補者に、秀ちゃんがいることを知る。再び出会う。