君の視線に、目を奪われた。

例えば、上瞼を針と糸で縫い合わせる。眼球を守る皮膚は薄くて、瞼を縁取る睫毛を、つん、と引っ張るとよく伸びた。
瞬きを禁じられた眼球は十秒もすれば乾き始め、これ以上の乾燥を防ぐために分泌された涙が玉のように滲む。
充血する白目。
歪に形を変える角膜。
開かれる瞳孔。

眼球が好きだ。

物心が付く頃から、人の目をしっかり見る子ね、と褒められた。幼心に涙に潤み、濡れた光を放つ眼球に心が惹かれたことをよく覚えている。
初めて自分だけの眼球を手に入れたのは、6歳の冬。クリスマスだった。
寝ぼけ眼で目覚めたその日の朝、僕の枕元には可愛らしい大きなテディベアが置かれていた。クリーム色の柔らかい毛並みで、琥珀色の瞳を持つ子だった。人目見てこのテディベアを気に入った僕は、その子に『アイ』ちゃんと言う名前を付けて可愛がった。
アイちゃんがいなければ夜に眠れなかったし、もうすぐ卒園する幼稚園にも行きたくなかった。
可愛い。可愛い、僕の友だち。
僕だけに注がれるアイちゃんの視線がお気に入り。
だから、母親の裁縫箱から大きな裁ちなばさみを持ち出して、僕はアイちゃんの小さくつぶらな瞳を切り取ることにした。
刃物の扱いに慣れていない僕は四苦八苦しながら裁ちばさみをぬいぐるみの身体と、半円の瞳の間に刺し込むことに成功する。身体と糸を切断する瞬間、僕は下腹にきゅっと力を込めた。
バツン、
鈍い音を立て、身体から断たれた瞳がころんと膝の上に転がった。瞳は眼球に名前を変えて、アクリル製のそれは小さな幼い子どもの手のひらに良く馴染んだ。
時々部屋の電灯の光にかざしてみたり、ぎゅっと握り締めてみる。自分の体温が作り物の眼球を温めて、本当に生きているようだと錯覚した。
ー…お母さん。アイちゃんの目、取れてどっかに行っちゃった。
僕はさらなる眼球を求めて、母親にささやかな嘘を吐いた。母親はその日のうちにアイちゃんに新しい目を付けてくれた。それは、いらなくなった洋服のボタンだったけれど。

以来、僕はアイちゃんから取った眼球をポケットに入れて、よく手で転がした。この瞳は今までどんな景色を見てきたのだろうと考えるとその想像に胸は躍り、どんな感動する本や面白い漫画。流行りのアニメや噂の映画をも超えた。

小学校に入学した麗らかな春の日のこと。この日のために着飾った紺色のジャケットのポケットに、僕はいつも通りアクリル製の眼球を入れていた。
教室では紙で作られた輪っかと花が、わざとらしく新入生を祝う。黒板にはでかでかとした文字で、おめでとう、と書かれていた。そんな教室に入ってきたのは、スーツに身を包んだ年配の女性の教員だった。その教員が、教卓に立ち僕たちを見渡して言う。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。このクラスの担任を務める、」
そんなにめでたいのだろうか?
僕は窓際の席に座り、校庭をハラハラと舞う桜の花びらを眺めつつ、机の下で眼球を手のひらに転がしていた。
興味の無い担任の紹介終えて、退屈な入学式の前に僕はお手洗いに向かった。用を足し、水道にて手を洗ってハンカチを取り出した際に、眼球が転げ落ちた。
あっと思った瞬間、不注意な同級生に踏まれてヒビが入り呆気なく眼球は崩れた。熱湯のように沸いた感情は、間違いも無い殺意だった。
目は口ほどにも物を言う、という言葉は本当だった。僕が殺意を込めて睨んだ同級生は怯え、しくしくと泣き出したのだ。
同級生の瞳に次々と浮かぶ涙を見て他の子たちが心配する中、僕は途端に面倒になりその場を離れた。周囲の同級生たちの視線が不快だった。
不機嫌のまま出席した入学式はもちろんつまらなく、今も残っている最後の集合写真は見事なまでにふくれっ面をしていた。
家に帰ると遠くに住む父方の祖父母が駆けつけていて、僕の小学校入学を祝うために尾頭付きの鯛を用意してくれていた。
「こんな大きな魚、どうやって調理するのよ。」
僕の入学式の付き添いで疲れている母親が密かに愚痴る。鯛をまな板に乗せて、何かの拍子に母親は台所から出て行った。その入れ違いに、喉が渇いた僕が台所に来たのだ。唸る冷蔵庫から冷えたほうじ茶を取り出してコップに注ぎ喉を潤していると、シンクの横にある調理場にいた鯛に気が付いた。
初めて見る尾頭付きの鯛は大きく立派で、ぬらりと光っている。そして濁った瞳で僕を見つめていた。
気付いたら僕は、鯛の眼球を取り出そうと目の縁に指をねじ込んでいた。鯛の眼球の表面は弾力性があるものの固く、爪で傷つけてしまったのかゼリー状のコラーゲンに触れる。
一度指を引き抜き、指に付着したコラーゲンをまじまじと見つめた。透明で、どろりとしていて、舐めると塩辛さと生臭さが口腔内に広がる。
僕はもう一度、鯛の眼球をほじるように触れた。ぐちゃぐちゃになったそれを取り出すのはもう諦めた。その代わりに手に入れたのは、半透明の水晶体。魚の水晶体は丸く、指先で潰そうとしても潰れない硬度を保っていた。
「何してるの!!」
台所に戻ってきた母親が僕の行動をいたずらと思い、金切り声を上げる。鯛を粗末にしたことを散々叱られて、その日の夕食に上がった鯛はもう一つの残った眼球を表にされて鎮座していた。
生の眼球を取り損ねた僕は、夜、片目をボタンにされたアイちゃんを抱いてベッドで寝るふりをしながら考えていた。
どうすれば、本物の眼球を手に入れられるのだろう。

目を瞑る。
緩く動く瞼の動きで、自身の眼球の丸みを知る。そっと瞼を開き自分の人差し指で、そっと触れてみた。指にはぬるりとした感触、固い弾力。眼球には体温よりもずっと熱い痛みが痺れるように残った。パチパチと瞬きを繰り返すと、鈍った視力が涙の潤いを取り戻して復活した。
暗い室内の天井を見つめる。何度も数えた木目が笑う人のように僕を見下ろしていた。

あの子の目の形は小さいけど、柔らかい色が好み。
この子の目は黒々としていているけれど、白目が少し充血している。
その子は光彩部分が白目に比べて面積が少ない。でもきゅっと引き締まったような瞳孔が凜々しい。

僕は100%自分好みの眼球を求めてより一層、他人の眼球を観察するようになった。目を見ているのだから当然、目が合い、相手の瞳に自分が映る。ただじっと見つめているだけでは不気味に思われるのだろう。目をそらされてしまうか、良くて首を傾げられてしまう。
よって、僕は微笑んで相手の緊張を解すという技術を身に付けた。そして一言「君の目、とても綺麗だね」と呟いてやると大抵の子は喜ぶから、なんて愚かで可哀想なのだろうと思った。
僕はただ、品定めをしているだけなのに。

そして自分が本当に欲しい眼球が現れない中、数年の時が過ぎていった。
僕は満たされない欲望を抱えながら、高校生になっていた。学ランタイプの学生服。色は紺一色で、小学生の入学式の日に来ていた服を彷彿とさせる。
「行ってきます。」
スラックスを着こなした足に馴染んだ革靴を履き、玄関の扉を開ける。
「待って、待って!お弁当忘れてる。」
母親が台所から顔を出して、僕に慌ただしく手作りの弁当を手渡した。
「ありがとう。」
お弁当の入った手提げ袋を、学生鞄と供に下げて家を出る。騒々しい朝を繰り返していく。この頃にはもう、人の眼球を手に入れることなど不可能だということに気が付いていた。
そう、今日までは。

初夏の季節。二限目の授業は体育で、本格的に太陽が活動し始めるために人気の無い時間帯だった。更に授業内容をマラソンに設定されて、僕たち生徒は校庭の外周を余儀なくされた。もちろん本気で走る生徒などおらず、だらだらと走るのが定番だった。
「あー、かったるいよねー。」
クラスメイトの女子が横に並び、走りながら僕に話しかける。
「そうだね。」
適当に相づちを打ち、会話を交える。
「日焼け止め、もっと強いのにしようかな。でも良いヤツだと高いんだよね。」
クラスメイトは充分白い腕をさすりながらぼやいた。
「バイトすれば?」
「うちの学校、アルバイト禁止じゃーん。」
笑いながらクラスメイトは僕の肩を叩く。その衝撃で、僕はバランスを崩して転んだ。
「え、えっ!ごめん、大丈夫?」
謝るクラスメイトに内心で舌打ちをしつつ、僕は立ち上がる。大丈夫、と言いながら、膝に鈍い痛みを感じて顔をしかめた。見ると、膝が擦り剥いて血が滲んでいた。
「どうした?大丈夫か。」
いつの間にか様子を見に来た体育教師に尋ねられて、僕は答える。
「ちょっと転んだだけです。でも、血が出てるんで保健室に行っていいですか。」
「私、付き添う!」
責任を感じたクラスメイトの申し出をやんわりと断って、体育教師の了承を得た僕は校庭を離脱した。
まだ授業中の校舎を一人歩く免罪符を手に入れた僕は、わざとゆっくりとした歩幅で保健室までの道を辿った。ふと窓から外を見ると、体育のマラソンが再開されている。太陽が意地悪く生徒たちを焼いていた。
校舎内はとても静かで、日常の喧噪がまるで嘘のようにしんとしている。今頃、授業を受けて教室に拘束されている生徒たちのことを思うと、ちょっとした優越感に浸れた。
廊下の角を曲がると、一階の校舎の端にある保健室の札が見えてきた。
「失礼します。」
カラカラカラと音を立て、保健室の引き戸を開ける。
「あら。どうしたの。」
柔らかな雰囲気の保健医が、脱脂綿作りの手を止めて僕を迎えてくれる。事情を説明するとすぐに膝の手当てをしてくれた。この保険医の目は日本人らしく少し小さめで、僅かに薄い焦げ茶色に光る光彩をしているので僕はよく彼女に懐いていた。
「どうする?授業に戻る?」
保健医は救急箱を棚に片付けながら、僕に問う。
「保健室にいたい。戻っても、見学するだけだし。」
「そうねえ。今の時期、熱中症が心配だからね。ベッドで寝てる人もいないし。」
この授業中だけ特別ね、と言って保健医は僕が保健室にいることを許してくれた。
僕は椅子に座って、机に突っ伏す。
「ねえ、先生。恋がしたいー。」
目の前に、僕好みの眼球は現れないだろうか。と、心の中にだけ付け足して、僕はぼやく。
「出会いなんていくらでもあるわよ。心配しなくても、そのうちに好きな人が現れるわ。」
うふふ、と笑いながら保健医は脱脂綿作りを再開する。大きめな綿の布を手軽なサイズにはさみを用いて裁断していく手つきは、慣れていて鮮やかだった。サクサクと軽やかな音を立てて、布は切れていく。
「…僕も手伝おうか。」
保健医の手元に視線を注いでいた僕は気まぐれに申し出てみる。
「いいの?じゃあ、お願いしようかしら。」
布を半分分けてもらい、はさみを構える。大きさを指南してもらって、僕も脱脂綿を切り出す。
「要領が良いわね。脱脂綿作り、全部頼んじゃおうかな。」
冗談交じりに保健医が会話を続ける。僕は、えー、と言いつつも悪い気はしなかった。
そんな和やかな空気を邪魔したのは、校内を繋ぐ内線電話だった。
「ちょっとごめんね。」
そう言って、受話器を取る保健医。二言、三言、と話をして電話を切る。
「先生、職員室にプリントを取りに行ってくるけど。あなた、どうする?」
「それなら留守番してます。」
保健医は少し考えたように首を傾げながら、そして言う。
「そうね、本当はダメだけど…。まあ、いいか。」
すぐ戻るから、と言い残して保健医は保健室を出て行った。一人になった僕は、脱脂綿作りに没頭することにした。
カチコチと壁の時計の秒針が時を刻んでいる。どのぐらいの時間が過ぎたかわからないが、ガラリ、と扉が開く音が響き僕は顔を上げた。
「先生、おかえ、り…、」
「…。」
扉を境に廊下に立っていたのは、一人の男子生徒だった。
全体が明るい色の前髪は長く、目元を隠していて表情がよくわからない。ただ背は高く、細い体躯は人形のようだった。
「…保健の先生は?」
小さく、か細い声だった。
「え…と、今は留守です。」
「ふーん、そう。」
じゃあいい、と呟いて踵を返そうとする男子生徒の前髪が僅かに翻り、僕はその目色に一瞬で心が奪われた。
「待って!あの、」
その光彩の色は、甘く美味しそうな琥珀色。
アイちゃんと、同じ色だった。

「何。」
僕をいぶかしむような声色で、立ち止まる男子生徒をどうにか引き留めたかった。
「先生、すぐに戻るって言っていたから。待っていれば、いいんじゃないかな。」
「…。」
右手で左の肘を抱くように立つ男子生徒の左手首にある傷に気が付いた。一閃引かれたような細い筋に、目が覚めるような赤い血液が滲んでいる。血液は玉のように浮かんで、表面張力を破って今にも垂れそうだった。
僕が男子生徒の左手首に視線を注いでいるのを察したのか、彼は気まずそうに腕を背中に回して隠そうとする。
「ええと、それ、は…。」
「リストカットを見るのは、初めて?」
男子生徒はふっと息を漏らして俯き、そして顔を上げて僕を見た。キラリと光る金色に近い瞳が、僕を縫い止めて離さない。
「…うん。」
「そうか。気持ち悪いだろ。」
自嘲気味に笑い、男子生徒は再び僕に背を向けた。僕は彼の背中を追って、暑くて学ランを脱いだのだろう。ワイシャツの裾をきゅっと摘まんで止めた。
「手当て、するんだろう?僕がやってあげる。」
「…できるのか?」
男子生徒は意外にも僕の手を振りほどくことなく、そっと振り返って様子を覗う。
「ちょっと待ってて。あ、座っていて。」
僕は保健医が救急箱を仕舞っていた棚を思い出しながら、男子生徒に椅子を勧めた。
「あった。」
救急箱を探し当て振り向くと、男子生徒は所在なさげながら勧めた椅子に座って待っていてくれた。
「手を出して、消毒するから。」
「…ん。」
男子生徒の左手首には、真新しい傷の他にいくつもの古い傷痕があった。かさぶたになって固い傷。桃色の肉がふっくらと線状に盛り上がるものや、白くなって皮膚を薄く彩るものまでがある。
「滲みる?」
消毒液を傷口に染みこませながら問う。
「平気。」
男子生徒は素っ気なく言いながら、その視線を僕の手元に注いでいた。
「名前を聞いてもいい?ほら、保健の先生に伝えておかないと行けないから。」
「…原 アリステア。」
アリステアの話を聞くと、彼は二年生で先輩だった。
絆創膏では覆いきれない傷をガーゼで隠し、包帯を巻き、ネットで保護をする。応急手当ての方法を思い出しながらにしては、よくできたと思う。
「ありがとう。」
アリステアは確かめるように、手のひらを握ったり開いたりを繰り返していた。僕はアリステアの長い前髪から見え隠れする目色をじっと見つめていた。
「…あんた、よくそんなに人の目を真っ直ぐ見られるね。」
「え?」
それは決して褒めている声色ではなかった。
「カラコンとかじゃなくて、自前なんだ。ついでに言えば、この髪色も地毛。」
アリステアはふっと自らを蔑み、髪の毛を一房を摘まむ。
「見世物じゃねえんだよ。」
その美しい瞳に睨まれて、僕の腹にきゅっと力がこもった。
欲しい。

反射的にそう思った僕は、自分でも驚く行動に出た。アリステアとの距離を詰めて彼が逃げられない壁際に追いやる。戸惑う彼の丸く白い頬に手を添えて撫で、そっとその視線を邪魔する前髪をカーテンのように横に分けた。
「な、何…。」
あらわになるアリステアの瞳。琥珀色一色に見えていた光彩は以外にも他の色を含んでいた。
黒い瞳孔の縁を、淡い黄緑、鮮やかな黄色、僅かな白でグラデーションのように彩って、最後に赤に近い琥珀色が広がっている。涙の水分により、あの日の鯛のようにぬらりと光ってハイライトを添えた瞳。白目は貧血気味なのか青みを帯びていた。
アリステアの瞳に映る僕と目が合う。
僕は、歪に笑っていた。
「…あんたも、俺と一緒で歪んでいるんだな。」
アリステアが言う。その目色に喜色が、ぽとんとインクが落ちたように広がっていくのがわかる。
「そう?」
「そうだよ。あんたみたいな狂気に触れるのは初めて。」
ゾクゾクする、と言ってアリステアは僕の手に、己の手のひらを重ねた。
「教えてくれ。あんたは、何を抱えているんだ?」
僕ー…、森野 甲斐はアリステアの眼球を手に入れたい。

「甲斐。紅茶、一口。」
昼休み、学年の違う僕たちは非常階段の踊り場で落ち合う。「ん。」
ストローを差したばかりの飲みかけのパックの紅茶を、アリステアに差し出す。
「ありがと。」
ちゅ、と音を立て、アリステアは紅茶を飲んだ。彼の唇は形が良く、顔の中心に収まっている。
「今日も暑いなー…。」
まるで檻のようなフェンスの鉄板に肘を突きながら、心底うざったそうにアリステアは目を細める。その視線の先を追うと遠くの高層ビルの隙間から入道雲が一座、居座っていた。
「あれがさー…、あ、あれって雲のことなんだけど。雲がこっち来れば、雨が降るんじゃね?」
無風に近い地上でも、天高くすればもしかしたら風に乗って雲が流れてくるかも知れない。甲斐は雨が降り始めてすぐの、アスファルトを焼いた籠もるような匂いが好きだった。
「それはそれで、湿気が嫌だ。」
アリステア曰く、その長い亜麻色の髪の毛に熱が籠もるのだそうだ。
「ふーん。」
切れば良いのにと思いつつ、甲斐は口にはしない。アリステアはその長い髪の毛に隠された目色を気にしているようだった。一人占めしたい甲斐は他人にアリステアの眼球を晒したくないので、余計なことは口にしないことにする。
「アリステア、全部甘いパンじゃん。」
彼の手元を見ると、クリームパンが一つとあんパンが二つ鎮座していた。
「今日は購買戦争に負けたんだよ。」
高校生の昼はすさまじい。人気のある惣菜パンは早々に無くなってしまう。
アリステアは、バリ、とあんパンの袋を破いて、大きく口を開けてかぶりつく。見ているだけで胸焼けを起こしそうだ。
「甲斐んとこは、いつも弁当だな。」
甲斐の手元を彩る弁当箱を見て、アリステアは言う。
「母さんの趣味、って本人は言ってた。…食べる?」
「あ、いーの?やった。」
アリステアが視線を注ぐ先にあったたまご焼きを勧めると、甲斐の箸を奪って一個、二個と口に運んだ。
「塩味が舌に心地良いー。色味からして、しょっぱい系のたまご焼きだと思ってたんだよね。」
確かに、森野家のたまご焼きは普通のものよりも茶色味が濃い気がする。
「そうそう。納豆についてる出汁醤油あるじゃん?小さいやつ。あれを入れてるらしい。」
へえ、と頷くアリステアにたまご焼きを完食され、甲斐は他のおかずは守るべく弁当を奪取するのだった。
しばらく無言で、二人は昼食を摂った。ほぼ外にある非常階段の踊り場、梅雨が来る前に新たに食事場所を開発しなければならない。
「こうもさ、天気が良いと死にたくなるよなー。」
アリステアが朗らかに言う。中庭のバスケットコートでは女子生徒たちが無邪気にバスケを楽しんでいるのが見える。
「普通、逆じゃね。雨の方が鬱だろ。」
甲斐は不思議そうに首を傾げる。自主練、もしくは戯れだろうか。反対の校舎から軽やかなピアノの音色が聞こえてくる。
「死ぬときは晴れた日の方が気持ちよさそうじゃん。」
アリステアの左手首に自然と目が行った。校庭の片隅で、男子生徒がキャッチボールをしている。その近くの木陰では甲斐たちと同じく、男子生徒の仲間がのんびりと昼食を摂っていた。
「死ぬのって気持ちいいんかな。」
「バッカ、お前。死ぬのが苦しいとか、悲しすぎんだろーが。」
死ぬこと自体が悲しい気もするが、アリステアは違うらしい。
「それに苦しかったら、俺、多分長生きするよ?甲斐はそれだと不都合なんじゃん?」
「あー…。まあ…。」
初めて出会った保健室。甲斐はアリステアに自分の性癖をすでに暴露している。
「俺の目が欲しいとか、本当趣味が悪いわ。」
アリステアは自身の片目の瞼にそっと触れながら言う。
「目が欲しい時点で、悪趣味だけどな。」
その手を取って、甲斐はやんわりと自分の口元に運ぶ。丁度、瞼に触れた指先に唇を落としてキスをした。アリステアは嫌がったり、手を振りほどく事もしない。甲斐の行動を許し、受け入れる。
「自覚あんのか。損な性格だな。」
「損な性格とか、お互い様じゃん?嫌じゃねえの。」
別に、とアリステアはささやき声にも似た小さな声で呟いた。そして続ける。
「俺のこと、いつか殺してくれるんだろ。」
死にたがりのリストカッターであるアリステアは、どこか甘みを帯びた声で甲斐に問う。
「…よっぽど、欲求が高まったらね。」
アリステアの手を押し返して、甲斐は目をそらすように返却された紅茶のパックに口を付けた。紅茶の渋み、ミルクのまろやかさに砂糖の甘さが口腔内に広がる。
「目を取り出すのってさ、生きてたら相当の苦痛だから。だから、殺してから採取するって言われたときは、相当痺れたよ。」
そう言ってアリステアは、右の手のひらで下腹を撫でる仕草をした。
「脳内子宮が超疼いた。」
「えー…。いやーん。」
軽口を叩きながら、甲斐は弁当のおかずを口に運ぶ。いつもと同じ味付けのポテトサラダが美味しい。
「マジだよ。きっと甲斐なら最高に気持ちよく殺してくれるんだろうなって思った。」
いつの間にかあんパン二つを平らげたアリステアは、クリームパンに手を出した。
「え、何。腹上死希望とか?女の子の協力が必要じゃん。」
「男のロマンだよなあ。」
うんうんと頷くアリステアに、面倒なことになったな、と甲斐は思う。
「あー、でも俺、甲斐とならセックス出来るかも。」
あっけらかんとアリステアは爆弾発言を投下する。
「甲斐、何気に綺麗な顔してるし。髪の毛が真っ直ぐで黒くて、目元の涙ぼくろとかセクシーだと思うよ。」
「はあ、どうも。」
甲斐の気のない返事にアリステアは豪快に笑う。
「クールだなあ、甲斐は!じゃあさ、」
アリステアは甲斐の肩にしなだれるように、頭を乗せた。
「セックスするときは、俺の目を好きにしていいって言ったら?」
好きにしていいアリステアの眼球。
「それは…、とても良い。」
甲斐の口から思わず、本音が零れていた。その本音に、アリステアはいよいよ腹を抱えた。頭を上げてけたけたと笑いながら、甲斐の肩を強く叩いた。
「難儀な性癖だな。」
くくく、と鳩のように笑うアリステアの瞳の色が、長い前髪から忍ぶように柔らかく光る。
好きだ、と甲斐は思った。

初めて、甲斐に見つめられたとき。その視線の強さに、俺はたじろいでしまった。
五月にしては日差しが強い、暑い日だった。
「アリステア。君の眼球は…すごく良いね。」
保健室の壁際に追いやられて困惑してる最中、まるで口説かれているようだと思った。
左にあるぽつんとある涙ぼくろの所為で、真っ黒な瞳に自然と目が行く。口元は笑みをたたえているのに、その目は全く笑っていない。
甲斐は、アリステアのコンプレックスの一つである薄い色彩の瞳…、いや眼球を好きだと言った。
「本当に…。本当に、理想の眼球だ。」
アリステアの頬に触れていた手のひらを滑らせて、濡れた眼球ギリギリに指先を近づける。
動けない。
動けばそのまま、眼球をえぐられそうだ。
「…眼球って、マニアックだな。」
喉が渇いて、思いのほか引きつった声になってしまった。「そうだよ、アリステア。僕は世の中でマイノリティな眼球性愛者だ。…緊張してる?瞳孔の大きさが変わった。」
こくりと生唾を飲む音が、どちらからのものかわからないまま鼓膜に響く。
「正直に言えば、今すぐにでも君の眼球を取り出したい。けど…、それは相当な苦痛を伴うだろうから、それはアリステアを殺してからにする。」
今、単純に死の淵に立っているはずなのに、アリステアは恐怖よりも興奮が勝っていた。自分の死に、意味を与えられた気がした。
「ねえ、アリステア。」
甲斐の瞳に情欲の色が滲む。
「キスしても良いかな。今。」
「…。」
アリステアの身体は硬直していたが、ぎこちなく頷くと甲斐は、ありがとう、と呟いた。
甲斐の綺麗な顔が視界いっぱいに広がる。その刹那、アリステアはきゅっと瞼を瞑ってしまう。次の瞬間には瞼の上から生温かく柔らかい、甲斐の唇の感触がした。幾度となく口づけられて、時々、瞼を縁取る睫毛を、つん、と唇の先で引っ張られるのがわかる。滑った舌で、瞼の上から眼球の丸みをなぞられて、アリステアの背筋はぞくぞくと粟立ち、熱い波がこみ上げてくるようだった。
「これ、以、上は…、」
手探りで甲斐の肩を押し返す。
「うん。ごめん。」
弱い力でも、甲斐はアリステアの意思を汲んで離れてくれた。
「…どう?これが、僕。気持ち悪いだろ。」
甲斐は随分とすっきりしたような表情で、自らを嘲笑する。白いカーテンが、開け放たれた窓から風をはらみ円錐状に広がった。
「…え…?」
「拒否られても、まだアリステアの眼球が欲しいんだ。」
困惑するアリステアを置いて、甲斐は手のひらを見つめた。その手は僅かに震えていた。寒さでも、怯えでも無く、それは歓喜による震えだったと後に聞いた。
ガラ、と保健室の引き戸が開かれる大きな音が響く。
「!」
はっとして顔を上げると、そこには用事を終えた保健医が立っていた。
「お留守番、ありがとうね。あら?」
恐らく、生徒は甲斐一人だと思っていたのだろう。アリステアの姿を認めて、保健医は首を傾げるように様子を覗う。「原くんも来てたのね。どうしたの?」
生徒一人一人の名前を覚えていることに感嘆しながら、アリステアはすねたように言った。
「…俺、名字呼び嫌いだって言ってんじゃん。」
「そう?伸びやかで良い名字だと思うけど。」
保健医が朗らかに笑った。その刹那、間延びしたように授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
「丁度、授業が終わったわね。森野くんは教室に戻るでしょ。原くんは、どうするの。」
二人を見つめて、保健医は問う。
「俺も行きます。もう…、甲斐が手当てしてくれたんで。」
ちらり、と甲斐を見ながら、アリステアは告げた。
「そう。森野くん、ありがとうね。」
「いえ。じゃあ、失礼します。」
甲斐が頭を小さく下げて保健室を出て行くのを、アリステアも追いかけた。
「甲斐。」
「…。」
甲斐は何も言わずに、足を速める。
「甲斐!」
思いがけず、アリステアの声が大きくなった。
「…何。」
ようやく立ち止まってくれた甲斐は、不機嫌そうに眉をひそめていた。
「どうしたんだよ。」
「…ごめん。邪魔をされて、先生に殺意がわいたから。」
そう言う甲斐は苦しそうに、体操着のシャツの裾を握った。「眼球が絡むと、感情が振り切れる。」
おかしいだろ、と甲斐はか細い声を絞り出す。背後で授業から解放された生徒たちの笑い声や、足音が近づいてくる。やがて合流するざわめきの波に飲まれてしまわないように、アリステアは甲斐の手を取って歩き出した。
「アリステア?」
戸惑った甲斐の声を振り切って、アリステアは使われていない視聴覚室に彼を連れ込んだ。
視聴覚室は窓が閉められ、カーテンも引きっぱなしだったので熱い空気が籠もっている。
「…。」
外の廊下では生徒たちが駆けていく靴音や、それを注意する教員の声が響く。互いに無言で、アリステアは甲斐の腕を掴んだまま向き合った。甲斐の素肌は汗の所為か、ひやりと冷たい。
「…あの、」
アリステアは言葉を探りながら、甲斐を見た。目が合うと、甲斐の瞳がきらりと輝くのがわかった。
「うん。何?」
思いのほか、優しい色の甲斐の声。
「甲斐、は、俺を殺してくれるのか。」
「…アリステアが許してくれるなら。」
甲斐の答えを聞いて、アリステアは頷いた。
「いいよ。殺してくれるなら、甲斐に俺の目をあげても。」
甲斐の喉の奥で、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。そして、アリステアに掴まれた腕を柔く解く。
「だめだよ。そんな簡単に許しては。」
以外にも甲斐に諭されて、アリステアは首を横に振った。
「俺に死んでも良い免罪符をくれ。」
予鈴のチャイムが鳴る。あと5分後には、教室に居なければならない。
「甲斐、」
アリステアは更に甲斐に詰め寄ろうと、近づいた。
「待って。」
甲斐がやんわりとアリステアの肩を抱くようにして止める。「今はだめだ。アリステアの眼球は欲しいけど…、今じゃない。」
アリステアは首を傾げる。
「アリステアの瞳の色が一番綺麗に輝いたときに、そのときに採取したい。」
「今の俺は違うってことか。」
甲斐は頷いた。
「今のアリステアの目色は、不安や不満が滲んでいるから。僕は明るい色の眼球が欲しいんだ。」
あまりにも正直すぎる、その歪んだ願いにアリステアは笑ってしまう。
「じゃあ、そのときが来たら殺してよ。連絡先、交換しよーぜ。」
「いいよ。」
二人はクスクスと笑いながら、まるでいたずらを共有するような気軽さで互いの連絡先を交換するのだった。

それから、数週間が経ったが甲斐は俺を殺そうとはしない。
「アリステアー。一緒に帰りましょー。」
甲斐は学年が上の教室でも、物怖じしない。アリステアが所属する教室によく顔を出す。最初こそ小さくざわつく教室内だったが、今ではもう日常となり誰も気にしなくなった。
「甲斐…。校門で待ち合わせって言ったろ。」
連絡の意味が無い、とアリステアは言う。
「今日、蒸し暑いじゃん。」
アリステアの席の前まで来て甲斐は、早く、と彼を急かした。
「何をそんなに急いでんのさ。」
「だって、雨降りそうなんだもん。」
甲斐にそう言われて、窓の外を見る。見上げた先の空は灰色の雲が分厚く覆いかぶさるように広がっていた。心なしか鳥たちも慌てて寝床に戻るように空を駆けている。
「…わかった。でも、ちょい待て。学級日誌書いて、職員室に届けねえと。」
はーい、と行儀良く返事をして、甲斐は前の席の椅子にどっかと座った。もう前の席の生徒がいないからいいものの、本当に甲斐はそういうところを気にしない。
今日は全校がクラブと部活が休みの日で、一斉の帰宅が義務づけられている。
「ねえ、カフェに寄っていこうよ。」
「今月、金欠なんだよね…。」
「あ。今日、新作ゲームの発売日じゃん!」
「塾、かったりいなあ。」
二年生の生徒たちはそれぞれ思うことを口にしながら、教室を出て行った。やがて教室に残ったのは、アリステアと甲斐の二人。
しんとした静けさを孕む教室で、アリステアは学級日誌に今日の授業内容を書き込んでいく。
「…。」
コツコツ、と今日起こった出来事欄に何を書こうか悩み、シャープペンの先を机に叩きつける。
「アリステア?どしたん。」
前の席で文庫本を読んでいた甲斐が、顔を上げて尋ねた。
「え?あー…、出来事欄。」
「そんなの、真剣に悩んでんのかー。」
貸して、と言って甲斐はアリステアからシャープペンを取り上げて、学級日誌に文字を書き込む。
「『今日も良い日だった』って…。適当すぎないか。」
甲斐の右肩上がりで少しシャープな印象を持つ字を読んで、アリステアは突っ込む。
「えー、ダメかな。うちのクラスはこれを書き続けて、何日目で注意されるかって遊びが流行ってるけどな。」
「結局、注意されるんじゃん。」
アリステアが呆れていると、甲斐は文庫本を鞄にしまいながら帰り支度を始める。
「大丈夫、大丈夫。一日目で注意はレアだから。」
「レア引く可能性もあんだろ…。」
ため息を吐きながらも、最終的にアリステアもこれを良しとして鞄を持って席を立つのだった。
職員室に寄り、担任が学級日誌の中身を確認する前に昇降口へと急ぐ。高校を出る頃には、大分と空に雨雲が近づいていた。
家路につく二人が住宅街を歩いていると、鼻の先にポッと雨粒が当たった。
「甲斐、折りたたみ傘とか持ってる?」
手の甲で、濡れた鼻を拭いながら問う。
「んな、気の利いたもん持ってねーよ。」
「だよな。俺も。」
雨粒は段々大きくなり、地面を叩く音が大きくなってきた。「うっわ。本降り!」
甲斐が駆け出すのを合図に、アリステアも走る。
「甲斐、雨宿りしよう!」
雨音に負けぬように声を張って、アリステアは住宅街にぽつんと存在する公園に甲斐を導いた。その公園には半休型の遊具があり、滑り台の他に中に入れる構造になっていた。せいぜい小学生をターゲットにした作りの遊具は背が低かったが、二人分は雨宿りが出来る広さが保たれていた。甲斐とアリステアは、かがみながら中に入る。湿気で蒸すが、雨に濡れる不快感は防げた。
「この遊具、まだあったんだな。」
甲斐は鞄を横に置いて、ワイシャツの首元を緩める。その鎖骨のくぼみには雨粒が一滴溜まっていた。半袖の淵が雨水に濡れて肌に吸い付く様が妙に印象的に記憶に残る。
「何?」
じっと見つめていたのがバレて、アリステアは気まずくふっと視線をそらした。
「別に。」
「ふうん?アリステア、長袖で暑くねえの。」
衣替えを終えた季節でも、アリステアは長袖のワイシャツを着込んでいる。
「暑いよ。」
「半袖にすれば良いのに。」
アリステアは服の上から自らの左腕をさすった。
「やだよ。目立つじゃん。」
「ああ、リストカット痕?別に気にしないけどな。」
何でも無いことのように甲斐は言う。
「それは甲斐だけだよ。」
アリステアは遊具に開いた穴から遠く住宅街の奥を見る。雨の所為でその景色はまるで墨絵のように霞んでいた。
「じゃあ、今だけでも脱げば?僕しかいないじゃん。」
「はあ?」
視線を戻すと、甲斐が好奇心を目色に隠さずアリステアの元に四つん這いで近づいてくるところだった。近くまで来ると、甲斐はアリステアのワイシャツのボタンを外そうと手を伸ばす。
「やだって。バカ!」
後ずさろうにも、すぐに壁にぶつかってしまう。逃げられない状況で、甲斐は楽しそうだった。
「いいじゃん。減るもんじゃないし。」
「精神がすり減るわ!!」
嫌がるアリステアの防ごうとする手首を掴んで、甲斐は器用に片手でボタンを外す。
「うまいこと言うなあ。…あ?」
「…っ、」

見られた。

アリステアの布地で隠れた胸元にあったのは、いくつもの火傷の痕。あまりにも綺麗な円形の火傷は、偶然では無く人為的なものと証明していた。
甲斐の視線が注がれる。
「…アリステア、これって自傷?煙草だよね。」
そう言うと甲斐は何故かアリステアの首元に鼻先を埋める。そのささやかな刺激に、アリステアの肩が小さく震える。
「そうだよ。…自分でやった。」
「嘘。」
すんすんと甲斐の鼻が僅かに動くのがわかる距離感。
「服が匂うのは必然として、アリステアの汗。煙草臭くないし。」
「…嗅ぐなよ。」
気まずくて、恥ずかしくて、アリステアは顔を横に向ける。甲斐は顔を上げて、その視線を遮るようにアリステアの頬に手を添えてやんわりと正面を向かわせた。そしてアリステアと目線を合わせて、改めて問う。
「誰に付けられた?」
甲斐の瞳に自分の情けない顔が写っているのがわかる。
「誰でもいいだろ。」
「いいけど、その誰かの所為でアリステアの目色が濁ってると思うと、腹が立つ。」
改めて、甲斐は自分の眼球にしか興味が無いことを知った。それが妙に残念に思ったのが可笑しくて、アリステアは笑ってしまう。ひとしきり笑い、ふう、とため息を吐くように呼吸を整える。
「叔父だよ。」
「へえ。…ねえ、全部見せろよ。」
柔らかな声で、命令形。その真逆の性質は、化学反応をおこすかのように妙に気分を興奮させた。
「いいよ。もう、どうでも。」
抵抗を止めたアリステアの手首を解いて、甲斐は無言で彼のワイシャツのボタンを外していく。
アリステアの徐々にあらわになる素肌を覆うインナーの下に、甲斐は緩く触るように手を差し入れた。そのゆっくりと緩慢な仕草に、背筋がぞくぞくとした。
ひた、と触れる甲斐の手のひら。熱くて、指紋さえもわかるような錯覚を覚える。
「っ!」
昨日出来たばかりの新しい火傷に触れられて、アリステアは息を呑んだ。痺れるような痛みが電気信号となって、脳に伝わる。
「熱持ってる。痛い?」
「少し。」
指先でなぞると綺麗な素肌に残る醜い凹凸がありありとわかった。少し固くなった痕や、熱を持つ真新しい痕が痛々しいと甲斐は思う。
「アリステアの死にたい理由って、これ?」
「本当…、甲斐ってデリカシーない。」
遊具の外壁を叩く雨音が小さくなってきた。吹き込んでくる飛沫がやがて、金色に染まっていく。
「雨、上がったかな。」
甲斐はふっと目線を反らし、小さな丸い穴から外を覗く。不意に差した日光に目を細めた。
「通り雨だったらしいね。」
その隙にアリステアは開けたワイシャツを正した。甲斐は先に狭い遊具の中から這い出る。
「あー…。天使の梯子が降りてるね。」
「何だって?」
甲斐の後を追って、アリステアも外に出てきて彼の視線の先を追った。
「あれ。」
空に向かって指を差す甲斐。空は蒼色を滲ませて、灰色の分厚い雲の狭間から光を地上に降ろしている。光は幾重にもなり、濃い白の色をしていた。
「画家のレンブラントが好んだモチーフで、レンブラント光線とも呼ばれてる。」
その荘厳な光の景色に、アリステアは久しぶりに空を見上げたことに気が付いた。
「…ふーん。誰か死んだのかな。」
天使のお迎えの梯子なら、それはきっと最期に見る絶景なのだろうと思う。
「かもねえ。」
甲斐は、静かに笑った。
「人間なんて三秒に一人は死んでるから、今、死んだのはよっぽどの聖人君子じゃない?」
僕は絶対に選ばれないな、と言葉を紡ぐ甲斐は特別羨ましい表情ではなく、至極当然だと思っているようだった。
「ねえ、アリステア。」
「何?」
アリステアは視線を甲斐に戻す。
「聖人に選ばれないついでに、叔父さんを殺してあげようか。」
二人の視線が手を取り合うように絡まり合う。
「バーカ。ついで、で人の保護者を殺すなよ。」
その視線を振りほどいたのは、アリステアの方だった。そして歩き出して、公園の敷地を出る。甲斐も後を追って、水にぬかるんだ土を蹴ってアスファルトの道路に足を踏み出した。
「…甲斐は、さ。人を殺すことに躊躇いはないのか?」
「え?僕、そんなサイコに見える?」
見える、と正直にアリステアが頷くと、甲斐は考え込むように口元に手を当てた。
「そうだなあ…。僕にとって、人間って眼球の器でしかないから。別に皿を割っても、よっぽどお気に入りの物じゃなければそんなに後悔ってしないだろ?あ、割っちゃった、ぐらいで。」
「眼球って、そんなに特別なのか。」
甲斐は目を丸くして、アリステアを見る。そして、当然とばかりに断言するのだった。
「当たり前だ。」
涙に濡れた表面が最高に色っぽいとか、丸い形がコケティッシュでかわいいだとか。白目は肌と同じで色が白いほど僕は興奮する、と甲斐は語った。その目色は熱が帯びて、嬉しそうにらんらんと光っている。それは好みの芸能人について語る男子高校生のようだった。
「わかった、悪かった。甲斐にとって、眼球はそこまで熱く語れるものなんだな。」
アリステアは甲斐のマシンガントークを止めに入る。
「えー。まだまだ序の口なんだけど…。」
唇を尖らせる甲斐を見て、アリステアは苦笑するのだった。

家路につく際の近道に、神社の境内を通り過ぎることにした。
大きな神木の幹の隣を抜けて、朱色の鳥居をくぐる。通り雨の湿気の所為で、青々と茂る木の葉や植物たちがより一層生臭く香り立っていた。石段を下って、参道を辿っていく。
「…アリステア。」
「ん?何。」
木漏れ日の中で名前を呼ばれてふっと顔を上げ、甲斐を見る。甲斐は立ち止まって神社の掲示板を見つめていた。
「どしたん。」
アリステアも引き返して、甲斐の隣に立つ。掲示板には小学生が書いた交通安全のポスターと供に、夏祭りを知らせる張り紙があった。日程の他に手書きのかき氷やフランクフルトのイラストが添えられているあたり、神事とは別でもっとフレンドリーな行事のようだ。
「もう、こんな季節か。」
アリステアは呟く。幼い頃は無条件に屋台の出る夏祭りを楽しみにしていたのに。いつの間にか、そうでなくなったらしい。
「一緒に行く?」
甲斐がアリステアに問うた。
「え?」
「夏祭り。」
甲斐は張り紙を指さしていた。
「あ、あー…。俺、バイトしてるからその日は無理かも。」
アリステアは脳内のスケジュール帳を開き、確認する。
「…うちの学校って、」
「あ。」
やばい、と思った瞬間にはもう遅かった。甲斐はまるで良いおもちゃを手に入れたかのように、にやりとほくそ笑んだ。
「へー。ふーん。どこでバイトしてんの?」
甲斐に逆らうことが出来ない。こうなれば自棄だ。正直に白状してしまえ。
「…酒場でバーテンダーしてマス。」
「え。意外。接客業なんだ。」
甲斐は目を丸くする。
「突っ込むとこ、そこ?」
アリステアも驚いて、目を大きく開く。
「え?」
「いや、未成年でアルコールを扱ってるとかさ。」
首を傾げる甲斐に、アリステアは自覚している罪状を告白した。
「飲んでるわけじゃないんだろ。」
「まあ…、カクテル作るだけの仕事だけど。」
誰に聞かれている訳でもないのに、つい小声になってしまう。それはアリステア自身が後ろめたく思っている証だった。甲斐はそんな様子のアリステアを見て、くすりと笑う。「罪悪感があるなら、辞めればいいのに。」
「それは…、できない。」
早く独り立ちが出来るように、アリステアは年齢を偽って働いていた。バーテンダーを選んだのも、同級生に見つからずにバイトするためだった。
「まあ、いいけどさ。」
「甲斐、この事は…、」
ん、と甲斐は頷いた。
「わかってるよ。誰にも言わない。」
「ありがとう。」
アリステアはほっとして痛む胸を撫で下ろす。
「あー、でも。夏祭り、一緒に行きたかったなー。」
唇を尖らせながら、甲斐は再び歩き出した。
「…最後の花火なら、抜け出せるかも。」
夏祭りのフィナーレを飾る花火は夜10時に行われる。その時間は丁度、バイトの休憩時間の筈だった。
「いいの?」
「うん。」
やった、と言って、甲斐は嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、当日は連絡くれよな。」
「了解。」
話をしているうちに、家はアリステアの自宅が見えてくる。「…。」
帰りたくない。
アリステアの心が軋み、足が重く感じる。言葉数も少なくなって、自宅の前に立つ頃にはすっかり無言になってしまった。
「…じゃあ、また。」
キイ、と音を立て、門を開ける。家全体が威圧しているように感じた。
「うん。」
手を振り、甲斐は飄々と帰って行った。

「ただいま…。」
帰宅したアリステアは小さく聞こえないように、でも言わないと叱られるから仕方なくリビングに声をかけた。
「…。」
叔父はアルコールを摂取した上で酔って、ソファで寝ていた。アリステアは内心でほっとしながら、そっと二階の自室へと向かった。この家に居る限り息を潜めて、音を立てては行けない。存在を知られれば、面倒なことになるからだ。
制服を脱ぎ、ハンガーに掛けて壁に吊す。することもなく、アリステアはスマートホンを手にベッドに寝転んだ。自室にクーラーは無く、扇風機だけが涼を得る機械だった。
風量を強にして、風を仰ぐ。汗が引くには時間が掛かった。しばらく我慢しつつ、うとうとと微睡んでいると階下から怒鳴る声が聞こえた。
「アリステア!帰ってるんだろ!?」
叔父が目覚めたようだ。アリステアは、うんざりしながらも返事をする。
「…何、叔父さん。」
「さっさと食事の支度をしろ!」
アリステアには両親がいない。昔、交通事故に遭い、アリステアを残して呆気なく死んだ。以来、父方の叔父に引き取られたが家の家事全てを押しつけられるようになった。
アリステアはのろのろと階段を降りて、リビングを通り抜けてキッチンに向かおうとする。
「おい。」
ソファの横に一番近づいた刹那、叔父に腕を掴まれた。
「…っ、」
びくりと肩を震わせて、アリステアは立ち止まる。
「最近、帰りが遅いんじゃないのか。」
時刻は午後7時を少し過ぎたぐらい。帰宅したのは30分ほど前だから、高校生ならばさほど遅いわけではない筈だ。だが、曜日や時間の感覚の狂った叔父には遅く感じられるようだった。
「そんなことは、」
「あ?」
ない、と言葉を続ける前に叔父に凄まれて、ひゅっと息を呑む。
「おい、今、言い訳をしようとしたな?」
「…。」
掴まれた腕に、ぎりりと力が込められて痛い。
「離し、てくださ、」
アリステアが嫌がって身をよじろうとすると、叔父は余計に激昂して彼を突き飛ばした。床に倒れる前に、テーブルの淵に腰を強か打ち付けて一瞬、呻いてしまう。
「痛…っ。」
「いちいち声に出すな、うるさいぞ!」
叔父は倒れ込んだアリステアにまたがって、馬乗りになる。舌打ちをしたかと思うと、テーブルの上の灰皿から吸いかけの煙草を手に取った。
「!」
アリステアは咄嗟に手で自分の身体をかばう。それがまた気にくわない叔父は、手のひらでアリステアの頬を張った。突然の衝撃に頬の肉を噛んでしまう。鈍い痛みと、生温かい鉄の味に口の中を切ったことを知った。
「…ぅ、ぐ…、」
アリステアの身体が絶望に弛緩した瞬間、叔父はぐいと彼のシャツを捲り上げた。そしてあらわになったアリステアの胸元に、煙草が橙色に燃える方を押しつけた。
瞬間、じゅっと肌を焼く嫌な音が響く。そのままぐるりと煙草をねじられて、耐えがたいほどの高熱が円状に刻まれた。
いやいやをするように、アリステアは首を横に振る。涙を溢し、声を抑えるように唇を強く噛む様子を見て叔父は笑っていた。

「彼女をイメージしたカクテルを作ってくれるかい?」
アリステアはアルバイト先、バー『52Hz』で店先に立っていると、常連客の老夫婦から注文を受けた。
「かしこまりましました。奥様は甘めのテイストがお好きでしたよね。」
微笑み、頷くとアリステアは思考に入る。
彼らの思い出、彷彿とさせる色、嗜好などを先にした会話から糸口を探った。
短い思考の末にアリステアが作り上げたのは、ブルーキュラソーとレッドベアエナジーで彩った淡いラベンダー色の
カクテルだった。
「どうぞ。」
「ありがとう。綺麗な色ね。」
老婦人が嬉しそうに、そっと口を付ける。
「美味しいわ。何だか心がすっきりするみたい。」
「ありがとうございます。以前、ご夫婦で北海道旅行に行った際、ラベンダー畑を見たと伺いまして。奥様はラベンダーのように清楚で可憐だと、ご主人が教えてくれたんです。」
アリステアの答えに、あら、と嬉しそうに老婦人は呟いた。隣でウイスキーを飲んでいた老紳士が照れたように苦笑する。
「君には、妻の惚気が言えないな。」
「惚気、と自覚されているところが素敵だと思いますよ。」
彼らの孫ほどの年齢のアリステアはいたずらっ子のように笑って応えるのだった。

バー『52Hz』は半地下に存在し、外からの光が入りにくい。金色に輝く間接照明によってまるでセピアの写真の中に入ったような感覚に陥るところが、アリステアは気に入っていた。
「アリステアくん、休憩に入ってくれますか。」
店のマスターは寡黙ながら、物腰柔らかい。彼はアルバイトの身のアリステアにさえも、敬語を使う。
その姿は心を巣食う叔父と比べられ、アリステアはマスターを尊敬にも似た感情を抱いていた。そんなマスターに年齢詐称していることが心苦しいのが、叔父の虐待に次いで大きい悩みだった。
「はい。ありがとうございます。」
アリステアは路地裏に外の空気を吸いに出るついでに、店のゴミをまとめて持って行く。
「よいしょっ、と。」
店外に設置されたダストボックスに持参した大きなゴミ袋を捨て、アリステアは小さくため息を吐いて鉄筋の階段に腰掛けた。隅には小さな灰皿が置かれているが、喫煙できる年齢に無いアリステアには不要の物だった。
暇を潰すスマートホンを手に、画面をタップする。検索サイトのニュース記事や、メッセージアプリから何か伝言はないかと確認していると足元にすり寄る大きな毛玉の塊がいた。
「よ。ぽち。」
口元に小さなほくろのような黒い模様がある猫だった。その様子から、ぽちと呼んでいる。ぽちはアリステアの目の前でごろんと寝転がり、撫でないのか、と目で催促をする。「相変わらず、ふてぶてしいな。お前。」
にゃあ、と低い声で鳴くぽちの腹を望み通りに撫でてやると、彼は満足げに目を細めていた。
今の時刻は夜の10時。アリステアの出勤時刻は夜9時だ。この時間、酒に酔った叔父は家で熟睡している。だからこそできるアルバイトでもあった。
新しく付けられた火傷痕が服の布地にこすれて痛い。
早く、あの家を出たかった。

夜の0時を過ぎて、アリステアはアルバイトから帰宅する。なるべく音を立てぬように鍵を開けて玄関に入った。息を潜めて、そろそろと廊下を歩く。難所の叔父の部屋の前を抜けて、階段を上がった。叔父の低いいびきが聞こえてきて、ほっと一息をつく。
自室に入り、服を脱いでベッドに潜り込んだ。自分を抱くようにして、呼吸をする。深呼吸を意識していると、徐々にささやかな眠気が訪れた。とろとろと微睡んでいると、夢を見た。
夢の中で、アリステアは大きな爆弾を手にした爆弾魔だった。その爆弾を赤ちゃんのように大事に抱えながら、誰もいない街を歩く。どこで爆発させようか、何を吹き飛ばそうかと考えてアリステアは自爆を思いついた。
ぐにゃりと歪んだ景色に辿り着いたのは、自分の家だ。アリステアは靴のまま家に上がり、叔父の部屋の前に立った。
さよならだ。吹き飛んじまえ。
白い閃光が目を刺す。
「…。」
ふわっとした浮遊感と供に、アリステアの意識が浮上する。しばらく呆けたように天井を見つめて、もそもそとスマートホンの時計を見る。目覚めた時刻を見れば、朝6時を少し過ぎたところだった。遮光カーテンの隙間から青白い光が射し、窓ガラスを僅かに叩く水音が響く。どうやら雨が降っているようだった。
まだ登校の準備をするには早い。かといって、二度寝をするには時間が物足りないだろう。
少し考えて、アリステアはベッドから出て朝の散歩をしようと思い立った。Tシャツに薄手のカーディガンを羽織って、サンダルを突っかける。とん、と足のつま先を地面に叩き、整えた。
家を出て、空を仰ぐ。太陽が出ているのに小雨が降る、狐の嫁入りという美しい名前を持った現象だった。
「おはようございます。」
柴犬の散歩をする近所の老婆に挨拶をして、アリステアは行く当てもなく歩き始める。
新聞配達のバイクや、ジョギングをする女性とすれ違って
神社の前を通りかかった。石段を見上げ、朱色の鳥居が金に輝き出す様子を見て朝日が昇ったことを知る。
朝日は次第に街中を照らし出し、瑞々しい空気の粒子が目映く光るようだった。今日も一日が始まるのだ。
一日は積み重なり、毎日となって過去になる。日々を重ねて未来は近づき、今日は夏祭りの日となった。

夕方。甲斐は賑やかなクラスメイトと供に、夏祭り会場である神社に訪れていた。女子たちは浴衣に身を包み、それを見た男子がそわそわと落ち着かない様子でその姿を見てテンションを上げた。
「ねえ、森野くん。一緒に回ろうよ。」
2グループに別れることになった際、一人の女子に声をかけられ断るのも面倒なので、甲斐は頷いた。女子の名前は田口はるかと言うらしく、友人に後押しされるように甲斐の隣を歩く。はるかは紺地に朝顔の浴衣に身を包み、短い髪の毛を頑張ってお団子ヘアにしていた。いくつものヘアピンで髪の毛を支えているものの、後れ毛が項に幾本か零れている。一緒に来た男子たちが、その後れ毛が良い、と囁きながら色めきだっていた。
そんなものか、と甲斐は思う。はるかはおしゃれでカラーコンタクトを付けていたので、甲斐の範疇に無かった。
人工の色より、自然の光彩が好きだ。何故、わざわざ汚すのだろうと思う。もったいない。
「何か食べる?男の子は、焼きそばとかたこ焼きとかガツンとした物が好きなのかな。」
上目使いで、更に甘ったるい声が響く。それだけですでに胸焼けを起こしそうだった。
「軽く夕飯は食べてきたから。田口さんの好きな物を食べなよ。」
「えー、いいの?」
はるかは嬉しそうに手の指を絡ませて、迷う素振りを見せた後にりんごあめを選んだ。
小さく口を開けて、舌先でりんごあめの赤い飴の部分をすくい取る。一部の男子がはるかの様子を見て、何故かドギマギとしていた。どうやら彼女の赤く染まる口元が魅力的らしい。
「んー。美味しい。森野くんも食べる?」
はるかの申し出に、周囲のクラスメイトたちが囃し立てる。
「やだ、はるかったら。大胆!」
「俺にも一口ちょーだーい!!」
若者らしい騒ぎに、はるかがたじろぐ様子を見せた。
「ええ?そんなつもりじゃ、」
慌てて手を横に振るものだから、弾みでりんごあめが地面に落ちた。
「はるか、ドジっ子ー。」
「大丈夫?」
「あーあ…。もう、食べられないかな。」
はるかは溜息を吐きつつ、歩行者の邪魔にならぬように拾い上げて設置されているゴミ箱に直行した。
「残念だったね。」
「え?」
甲斐の声がけに、はるかが顔を上げる。
「りんごあめ。気分を変えて、違うことしようか。」
「あ、ああ。りんごあめ、ね。うん、そうだね。」
何故かがくりと肩を落とすはるかに、甲斐は首を傾げる。クラスメイトは苦笑していた。
「あ!ねえ、金魚すくいしない?」
女友達に誘われて、はるかは駆けていく。その隙に、甲斐は男子たちに囲まれた。
「鈍感か、お前。」
「こういうときは、間接キスしたかった、ぐらい言っておけよ。」
「…いや、気持ち悪いだろ。」
甲斐が言うと、別の意味に勘違いした一人の男子が額に手を当て天を仰いだ。
「そりゃ、好きでもない男に言われたらキモいだろうけどさあ。たぐっちゃんの顔見てればわかるじゃん?お前、好かれてんだよ。」
「あ、やっぱり?やっぱり?俺もそう思った!」
盛り上がる思春期男子を見て、甲斐は人知れずに溜息を吐くのだった。
「そんな、推測で話を進められても。」
「何でそんな冷静なんだよ!鈍感もそこまで行くと、罪だぞ!」
「罪作りの男ー!!」
甲斐が盛り上がる男子たちに呆れていると、女子たちが彼らを呼んだ。
「ねえ、さっきから何こそこそ話してるの?」
「こっちにきて、金魚取ってよー。」
「今、行きます!」
華やかな浴衣姿の女子たちに手招かれて、ミツバチのように男子が吸い寄せられていく。
祭りも後半に差し掛かり、アルコールを飲んで酔っ払っていた大人たちが腰を上げてフィナーレを飾る花火の準備のために動き出す。
甲斐はちらりとスマートホンを確認すると、アリステアからメッセージが入っていた。
【裏から行く。鳥居で待ち合わせし】
慌てて夏祭りの会場に来てくれようとしているのだろう。書き途中のまま送られたメッセージを読み、甲斐はようやく気分が浮上するようだった。
金魚すくいで盛り上がる集団からフェードアウトして、甲斐は朱い鳥居へと向かった。祭り囃子を録音したCDが流れ、明るい裸電球と手作りの提灯が混ざる現実離れした喧騒の中で金魚の尾ヒレのようなくしゅっとした帯を締めた子どもが眠気に勝てず、保護者に背負われていた。この空間にいる誰もが浮かれているようだ。
鳥居の周辺は祭りの会場から少し離れていて、人気が少ない。いるのは恋人同士が数組で、静かに談笑していた。待ち合わせするなら、まあ、都合が良いだろう。
「!」
祭り会場遠くで歓声が上がり天の川のような花火が、点火するのが見えた。スマートホンの時計を確認すると、夜10時を30秒ほど過ぎたところだった。どうやら開始に、アリステアは間に合わなかったらしい。
およそ10分間行われる、フィナーレの花火は着々と進みいよいよ最後の大型の筒の花火の番になってしまった。
着火された花火が金色の炎の粒子を撒き散らす。
「…。」
まるでアリステアの瞳の輝きのようだと思う。彼の出自について以前、訊ねたことがあった。

『俺の親?そんなこと聞きてーの。』
学校の帰り道。甲斐の問いに、棒付きのアイスを囓りながらアリステアは首を傾げた。
『うん。』
甲斐は頷く。瞳の色と言い、髪の毛と言い、日本人離れしたものだと常々思っていた。
『ああー…。名前も名前だし、まあイギリスの血筋は入ってるよ。』
がりり、と溶け出したアイスを囓る音が響く。
『名前?』
『え、逆に聞くけど何で疑問形?普通、真っ先に名前聞いたら疑問に思うだろ。…って、お前まさか。』
アリステアの口元からぽろ、とアイスの棒が滑り落ちる。『アリステアの目色のルーツが知りたかっただけだけど。あ。めっちゃ外国人じゃん、名前。』
『遅っ!?そして、やっぱり目なんだ!』
声を出して、アリステアは笑った。
『ぶれないなあ、甲斐は。』
『そう?…そうか、イギリスなんだ。』
まだ行ったことのない異国の地に思いを馳せる。アリステアと似た目色の人々が住む国。とても良い。
『うん。母の祖父がイギリス人。俺はクォーターなんだ。』
『かっこいいね。厨二病みたい。』
『…それって褒めてんの?』

何時ぞやの会話の記憶を引っ張り出して、甲斐は思い出し笑いを浮かべる。
もう直に花火が終わりそうだ。
「…甲斐…。」
小さく呼ばれた自らの名前に振り向くと、そこにはギャルソンの服のままのアリステアが立っていた。白いシャツに細身の黒いベストが彼の体躯のしなやかさをよく際立たせている。
「アリステア、汗びっしょりじゃん。」
「走ってきたんだよ。あーあ…、結局間に合わなかったか。」
息を切らしながら、アリステアは首筋に流れる玉のような汗を手の甲で拭った。
「そうでもないよ。ほら。」
甲斐が指差した先、筒の花火が金色から朱く光の色を変えた。花火会場の周囲は白い煙幕に覆われて、朱色の火花が散る様子はその名のごとく花が咲くようだった。
「おー。久しぶりに見たな。」
アリステアは眩しそうに目を細めて、花火を見た。その瞳の中に宿る火の熱に甲斐の心が焼かれる。
甲斐は遠くの花火を見るアリステアの頬に触れていた。彼の視線がゆっくりと、甲斐を捉える。
「…。」
アリステアは微睡むように甲斐の手のひらに顔を傾けた。汗で冷えた肌が吸い付くようだった。滑らかで丸い頬を撫で、その指先がアリステアの目の縁をなぞった。触れるか触れないか、ギリギリの距離に反射的に瞬きを繰り返す。その刹那、長い睫毛が甲斐の指の爪をくすぐった。
甲斐の背後が一瞬、夜の闇に包まれた。全ての花火が打ち上げ終わったのだ。拍手と供に、再び祭りの裸電球たちに光が灯る。それを合図にしたかのように、祭りに訪れていた人たちがぞろぞろと神社から排出されていく。屋台も片付けを初め、まるで夢から覚めたかのように夏祭りの終焉を迎えた。
鳥居をくぐり裏道を行こうとする人の気配を感じ、甲斐はアリステアから離れる。
「…アリステアのバイト、まだ終わらないの。」
「え?ああ。0時までだから、まだ。今は休憩時間だけど。」
そっか、と甲斐は呟き、アリステアが走ってきた道を歩き出した。
「バイト先まで、送るよ。」
「…うん。」
アリステアに先導を任しつつ、彼の隣を歩く。
「祭り、誰かと来てたんじゃないのか。」
「クラスメイトと来てたけど。まあ、はぐれちゃったって言えばいいよ。」
猫のように笑う月の光は白く、二人の影が色濃く地面に縫い止められる。
「もうすぐ、夏休みだね。」
甲斐の言うように、あと一週間もすれば学校は終業式を迎えて夏休みに突入する。
「夏休みもバイト?」
「そのつもり。」
「ふーん。」
話をしているうちに、『52Hz』の路地裏に到着する。二人は別れがたく、相手を引き留めたいけれどその術を知らずに無言のまま立ち尽くす。
「…休憩ってもう終わる?」
「そう、だね。30分までだから。」
スマートホンを見ると、午後10時25分を回ったところだった。もう、5分もない。
「アリステア。」
「ん、何…、」
視線を甲斐に戻した瞬間、柔らかい瞼にキスをされた。
「!」
「バイト終わったらさー、もう一度会おうよ。」
アリステアの手を取って、甲斐が言う。
「…深夜だけど。」
「いいじゃん。逢い引きしようぜ。」

深夜0時を過ぎ、アリステアはアルバイトを終えた。
店を出て、スマートフォンを取り出す。甲斐に絵文字で
メッセージを送った。既読のマークがすぐにつき、返信がすぐに送られてきた。
『ナイトプールしましょ。』
「…はあ?」
返信と共に添付された写真には、夜の高校のプールは映し出されていた。
「あいつ…。どこまで自由なんだ?」
ため息を吐きつつ、アリステアは通学路を辿った。
正直に校門から通ればプールに辿り着く前に職員室の教員に見つかるだろうことを予想して、アリステアは高校を囲むフェンス沿いの金属に触れながら辿っていく。職員室のある校舎から隠れているプールの更衣室の近くに着くと、フェンスに足をかけて身体を持ち上げた。
「よっと。」
カシャカシャと鳴る金属音がやけに大きく聞こえる。案外、この不法侵入に緊張しているようだった。
プールサイドに続く扉は確か壊れているはずだ。一定のリズムで揺すれば、かんたんに開く。アリステアは記憶をよみがえらせながら、砂利を踏みしめた。ふと見ると思った通り、扉は破壊の気配なく開いていた。一緒にこの扉の秘密を暴いた甲斐の仕業だろう。
「…。」
飛び込み台に立ち、プールを見渡すと甲斐が中央で服を着たまま仰向けに浮いていた。満足そうに目を閉じて、ぷかぷかと水面を漂う様子はクラゲのようにも見える。
「おい。こら、このやんちゃ坊主!」
アリステアが僅かに声を張ると、甲斐がようやく目を開けた。
「遅かったね、アリステア。」
さっぷさっぷと泳いで、甲斐がアリステアの元へと近づいてくる。その弾みで水面に丸い波が生じた。普段、その他大勢の生徒の存在により見たことのない波形だった。
「自由すぎるだろ、バーカ。ほら、手。」
プールから引き上げようと手を差し伸べると、甲斐はにっと笑いアリステアのその手を強く引っ張った。
「!」
アリステアは足で踏ん張ろうとして、濡れたプールサイドに滑り呆気なく水中に引きずり込まれてしまう。どぼん、と音と大きな飛沫が立った。
白い泡が周囲を包み、耳の鼓膜を濡らして音が響きにくくなる。一瞬上下左右がわからなくなって、焦って瞼を持ち上げると目の前に甲斐の顔があった。その瞬間、空気を吸い込もうとして水を大量に飲み込んでしまう。
やばい、と思った。このままでは溺れる。
ふう、と吹き込むように温かい酸素がアリステアの口の中に注がれた。気付けば甲斐と口移しで、酸素の共有をしていた。小さな気泡が触れあった唇の端から漏れていく先を見て、上という方向の概念が沸く。夏の太陽に温められた余韻を残す水よりも、爛れるように熱い唇だった。
やがて互いの肺に残る酸素も尽き、甲斐に手首を掴まれて水面へと浮上した。
「…。」
しばらく二人は呼吸が荒く、整うまでに時間が掛かった。アリステアは甲斐を見る。ぱたぱたと前髪の毛先から雫が滴り落ちて、瞳を伏せている甲斐の目色がわからない。
「こらー!!勝手にプールに入るな!」
若い男性の声が静寂を破り、響き渡る。どうやら先ほどのスプラッシュ音は高校の校舎にまで届いてしまったようだ。
「やば、おい!逃げるぞっ。」
アリステアは甲斐の腕を掴んで、慌ててプールから上がる。そして二人で走った。待ちなさい、と言う制止を振り切ってアリステアと甲斐はフェンスをよじ登り、校外へと着地する。
二人はよーいどんをするように、駆けていく。若者の体力と運動神経をフルに活用して、体はスピードに乗った。気化熱で体温を下げながら、心は燃えるようだった。
「はははっ!」
珍しく甲斐が大口を開けて笑うものだから、アリステアもつられて笑ってしまった。
こんな青春も悪くないと思える夜だった。

ここら地域の店は閉店の時間が早い。ひっそりとした商店街に煌々と光るコンビニで下着だけを買う。びしょ濡れの高校生男子二人組を見てもいぶかしむような顔を一つも見せないアルバイト店員は、優秀だと思った。
商店街を抜けて、住宅街の外れにあるコインランドリーに向かった。中を覗くと幸いなことに店内に人はいない。
「面倒だから、乾燥だけでいっか。アリステアも脱ぎなよ。」
甲斐は着ていた衣類を脱いで、乾燥機に放り込む。
「下着も!?」
買った下着に履き替える甲斐を見て、アリステアは目をそらしつつ挙動不審になる。
「いや、だって、下着が一番濡れてたら気持ち悪るいじゃん。肝心な部分が隠れてんだから良いだろ。」
「そこしか隠れてないけどな!?」
よく見ると、アリステアの顔が真っ赤に染まっていた。
「形もボクサータイプだし。…水着と一緒だって。」
甲斐は困ったように笑う。だが、アリステアとしてはそういうわけにはいかないようで。
「あー…。うー…。」
アリステアは踏ん切りが付かないのか、何か呻いている。
「…。」
その様子を、甲斐はじっと見守る。そして。
「脱がしてやろうか。」
「自分で脱ぎますごめんなさい。」
甲斐の申し出をアリステアは早口で拒否して、ようやく服に手をかけるのだった。
アリステアの希望で背中合わせに座って、甲斐は乾燥機で回る衣類を見つめた。二人分の服が一緒くたになっていく。
「…。」
「…。」
しばらくの沈黙を守るように、コインランドリーに備え付けのラジオからリクエストされた歌が流れていた。それは人気アイドルがうたう、今の時期にぴったりなサマーソングだった。明るく弾けるような可愛らしい歌声に電波が悪いのか少々の雑音が混じる。
「…乾いても、塩素臭いんだろーなー。」
アリステアがどうでも良い話題を紡ぐ。自分でもどうすれば良いのかわからないのだろう。
「洗剤使ってないからな。」
アリステアは再び、黙り込んでしまう。
「…。」
「…焦れったいな。」
甲斐はぽつりと呟く。
「え?何、」
その呟きが聞き取りづらかったのだろう、アリステアが僅かに振り返った。甲斐はその瞬間を逃さずに、すかさずアリステアの唇にキスをする。
「っ…ぅ。」
甲斐は体をよじる間も、角度を変えてアリステアの唇を貪る。逃げようとするアリステアの後頭部に手を差し入れて固定した。
「…か、」
自分の名前を呼ばさず、アリステアの開いた口に甲斐は舌先を少し入れる。アリステアの肩が跳ねて、噛まれるかな、と警戒したがそんなことはなく恐々と受け入れられた。
熱く滑る舌の感覚が気持ちいい。粘膜と粘膜の接触は快感を覚えるようだった。
やがて、甲斐は満足してそっとアリステアを解放した。唇の先と先が、ゆっくりと離れていく。名残を惜しむように混ざり合った唾液が糸を引いた。
「…甲斐。」
アリステアの声音が震えていた。
「何。」
「これって、どんな感情?」
アリステアの問いに、甲斐は考え込む。
「…性欲?」
「疑問形かよ。」
くくく、とアリステアは笑った。
「お前にも性欲ってあったんだ。」
首を傾げる甲斐を見て、アリステアは言葉を紡ぐ。
「ごめん、感動したんだ。」
「性欲に?」
うん、とアリステアが頷く。
「淡泊なお前が、俺に性欲を抱いてくれたことに。」
「…まあ。」
「俺を殺してくれる?」
アリステアの琥珀色の甘い瞳が、誘うように視線を注ぐ。甲斐は彼の瞳に手を伸ばし、そして下ろした。
「やだ。」
「ええー…。残念。」
下ろした手を、アリステアの手に繋ぐ。
「気付いちゃったんだよね。」
「何に?」
「アリステアを殺す意味ってないなって。」
「…え…、」
アリステアの顔にさっと青みが差す。その変化に、甲斐は自らの言葉選びの下手さを知った。
「あー、違う。違うんだ、アリステア。…君の眼球はいつだって、魅力的だよ。」
「じゃあ…、何で。」
声が震えている。
「生きるアリステアの眼球が一番美しいと思う。」
甲斐の言葉の意味に、アリステアは驚きに目を見張った。
「…俺は、ただの器じゃねえの?俺の死に意味をくれるんじゃなかったのか。」
アリステアの裸の肩に、甲斐が額を付ける。
「ごめん。」
声が、震えている。
「ごめん、じゃない…っ!」
「うん、ごめん。」
頭を振るアリステアを甲斐はきつく抱きしめた。肌と肌が触れあって、温かい。一際熱を持つのは、アリステアの胸の火傷だ。
「俺は…、じゃあどうすれば、いい?」
アリステアの瞳に涙が浮かび、表面張力を破る。
「甲斐が殺してくれないなら、俺はどこに行けばいいんだ?」
バイト代が貯まるまでなんて、待てない。でもその前に甲斐が殺してくれるかもしれない、と希望を抱いていたのに。
「どこでもいい。アリステアと一緒に行きたい。」
「一緒に?地獄でも?」
いいよ、と甲斐は頷いた。
「じゃあ、今から…!」
死のう、と言いかけるアリステアの言葉を、甲斐は遮る。
「叔父さん、殴りに行こうぜ。」
「…え?」
「前に保護者を殺すなって言われたから…、考えたんだけど。ダメかな?」
「そんな…、こと…。」
叔父が怖かった。いつか殺されると、思っていた。殴るなんてことをしたら…。
逆上した叔父は、何をするかわからない。
「甲斐も殺されるかも、知れない。」

アリステアは歯をカチカチと鳴らして、恐怖を露わにした。背後で流れるラジオの明るい会話との対比をよく覚えている。
「んー、大丈夫じゃない?僕たちの方が力あるだろうし。最悪、怪我するぐらいだよ。」
「…、」
「アリステアが僕の性癖を怖がらないことは、奇跡だ。この事実だけで、僕は生きていける。」
アリステアの気持ちを宥めようと、背中を撫でる。桃のような産毛が手のひらに気持ちいい。
「生き地獄を、味わおう。」

相手の気配に胸を焦がし、触れあった指先が熱く蕩け、互いの瞳に自分自身が映ると嬉しい。
今までの誰にも感じたことのない感情。名前を聞いたら、神は答えてくれるのだろうか。いや、そもそも自分たちを蔑ろにしたのに神などいるのか。
いなくていい、名前なら自分でつける。

この感情の名前は間違えようもなく、『 』。