「こちらあなたのために特別に淹れたのよ」
「あ、ありがとうございます……」
軽くウェーブのかかったふわふわとした金色の髪、クリクリとしたピンク色の瞳、誰もが守りたくなる可愛らしい顔立ち。
教会より神託を受けし聖女エテルアオ。
テシアはエテルアオの前に紅茶のカップを置いた。
テシアの兄である第一皇子と婚約まで後一歩と言ったところで、もう一押しすれば義理の姉になるかもしれない。
しかしテシアとエテルアオの間には穏やかな空気はなく、少しピリついたような雰囲気がある。
2人は同い年なはずなのにエテルアオはやや怯えたような視線をテシアに向けた。
「どうぞ」
「は、はい」
テシアに促されてエテルアオは紅茶に口をつけた。
喉を流れていく紅茶。
紅茶そのものとは違う熱さを喉が感じて、エテルアオはカップを落とした。
床に落ちたカップが割れて大きな音を立てる。
「ごめんなさいね。でも恨まないでほしいの」
「どうかなさいましたか!」
カップが割れた音を聞きつけて警備をしていた兵士が駆けつける。
エテルアオは床に座り込んで苦しそうに息をしている。
そんなエテルアオをテシアは感情が読み取ることのできない目で見つめていた。
「これも神のお導き。必要なことなの」
「何事だ!」
そこに第一皇子が現れた。
計算通りだと思いながらもテシアはゆっくりと振り向いた。
「エテルアオ!」
まるでテシアのことなど見えていないかのように第一皇子はテシアを押し退けてエテルアオの元に駆けつけた。
「テシア、彼女に一体何をした!」
「……必要なことです」
「なんだと? これが必要なことだというのか!」
叱責されることは予想していた。
分かっていたのだし傷つかないと思い込もうとしていたがそれでも心がズキリと痛んでしまう。
「テシアを捕らえろ!」
「し、しかし……」
第一皇子に命令された兵士は動揺してテシアと第一皇子を見る。
皇族の命令ではあるがテシアも皇族。
本当に捕らえていいものなのか兵士は板挟みになっている。
「構わん! 俺の権限で許可する!」
「大丈夫。大人しく連行されます」
まるでダンスのお誘いでも受けるようにテシアは手を差し出して、兵士は思わずそれに応じて手を取った。
「何を……!」
「逃げも隠れもいたしません。無理に捕らえることはないでしょう」
皇女テシアによる聖女エテルアオの毒殺未遂事件の話は瞬く間に広まった。
人々はなぜテシアがエテルアオを毒殺しようとしたのか様々な推測をした。
女性皇族として自分の立場を脅かされることを嫌っただの、家族仲が良かったので第一皇子に近づく聖女が気に食わなかっただのと根拠もない噂で溢れかえった。
配慮のために牢屋ではなく部屋の中で監禁となったテシアは取り調べに対してエテルアオに出した紅茶に毒を混ぜたことを認めた。
しかしなぜそのようなことをしたのか、決して語ることはない。
「……ようやく全てが終わりました」
取り調べを担当する第二皇子以外はほとんど立ち入ることを許されない部屋でテシアはベッドに体を投げ出していた。
長かったとテシアは思った。
第一皇子は快方に向かうエテルアオに正式に婚約を申し入れたと耳にした。
死にかけたエテルアオを見てようやく大切な人だったと気がついたのだ。
仮の婚約関係だったものがようやく真実の愛に変わったのである。
「……我が兄ながら難儀な人。だから私がやらねばならなかった」
肩の荷が降りたような解放感がある。
「これから……どうしましょうか」
仮とはいえ一応皇族の婚約者を毒殺しかけたのだ、その罪は軽くない。
しかしテシアはそのことを心配しているのではなかった。
「自由になったら、何をしましょうか……」
さらにその先のことを考えていた。
もしも皇女という立場でなくなって自由に生きることができるのだとしたら何をして生きていこうかと考えた。
「旅をしたい」
グルグルと頭の中で考えていたことが口を出た。
皇女という立場はなんでも出来るような気がするけれど、実際皇女という立場で出来ることが出来るにすぎない。
制限も多く、気にしなきゃならないことも沢山あるのだ。
自由にどこか行くなんてことはできない。
どこかに行くのにも理由がいる。
例えば視察とかちゃんとした理由をつけて、ちゃんとした護衛をつけねばならないのである。
だから自由になったら世界を旅してみたいと思った。
見たことないもの、知らないもの、聞いたことないものを自分で実際に確かめるのだ。
「旅をして……良いところを見つけて……そのうち良い男性と出会って……」
ささやかでいい。
自由に楽しい人生を送りたい。
神のお告げに従って、これまで頑張ってきたのだ。
幸せになる権利ぐらいあるはずだとテシアは考えながらそっと目をつぶって眠り始めた。
「テシア・フォン・デラべルード、お主の皇族としての身分を剥奪する! さらには国外追放とする。もう二度とデラべルードの地を踏むことを許さん」
デラべルードの皇帝であるシトラレン・フォン・デラべルードは重たい刑をテシアに下した。
重要家臣、多くの貴族が集まる貴族裁判の場で言い渡された判決。
テシアはうっすらとした笑みを浮かべたままに真っ白な髪を揺らして頷いてそれを受け入れた。
テシアにかけられた容疑は聖女の暗殺未遂。
聖女の飲み物に毒を混ぜて殺そうとしたのである。
テシアの父でもあるシトラレンが下した判決に貴族たちのざわめきが大きくなる。
中には酷い判決だと漏らす人もいた。
聖女は未来の皇帝でもある皇太子の婚約者であり、本来なら斬首刑でもおかしくはない。
その点でいけば軽い処罰のようにも感じる。
しかし皇族が皇族たる身分を剥奪の上で国外追放されるなど死ねと言っているのと同じ。
特に生きていくためのスキルも持たない皇女であるテシアならなおさら残酷な処罰であると言ってもいいのだ。
あえて放逐するような刑を課すならばいっそのこと斬首刑で終わらせればいいのにとも思う人はいるのである。
「お待ちください、父上!」
しかし誰も皇帝たるシトラレンの判決に異議を唱える者はいない。
そう思った瞬間1人の青年がテシアの前に出てシトラレンに向かって膝をついた。
「どうかお考え直しを!」
まだ声変わりしたばかりの成人にも満たない青年は胸に手をついてテシアの判決に異議を唱えたのである。
「お姉様はこの国のために働いてくれていました! 確かに重罪ではありますがこれまでの功績を考えると酌量の余地はあるはずです!」
シェジョン・フォン・デラべルードはデラべルードの第三皇子である。
テシアの弟であり、テシアもよく可愛がってもいた。
この場における人たちの中で判決に異議を唱えられる数の少ない人でもある。
下手すると皇帝の反感を買うかもしれないのにそれでもシェジョンはテシアのために真っ直ぐにシトラレンの目を見つめた。
「判決は変えん」
「父上……!」
「まあ待ちなさい、シェジョン」
シトラレンはシェジョンを手で制する。
判決に真っ向から異議を唱えたのだ、怒り出してもおかしくはないのにシトラレンは怒った様子もない。
「今回のテシアの件について教会から申し出があったのだ」
「教会の申し出ですか?」
「そうだ。マリアベル大主教」
「はい」
席に座っていた女性が立ち上がる。
かなり背が高く服が弾けんばかりの肉体をしている。
見えている腕も鍛え上げられていてファイターだと言われても多くの人がそのまま信じてしまうだろう。
マリアベルは恭しく一礼するとテシアと視線を合わせた。
「今回の事件は非常に重たい罪となります。ですがシェジョン皇子の言う通りシエラ皇女の行いには救われた者もいます。日頃教会にも通い、敬虔な御心もお持ちの方です。
そのために教会にて魂の救済を申し出させていただきました」
「魂の……救済?」
聞きなれない言葉にシェジョンは首を傾げた。
「そうです。今皇女様の魂は冒した罪により穢れてしまっております。そのため皇女様の御身を教会で預からせていただこうと思いました」
貴族たちのざわめきが再び大きくなる。
「テシアは国を出て教会に身を寄せることになる。これからは1人の修道女として罪を償っているのだ」
テシアの罪は大きい。
しかし事情は複雑なのだ。
テシアが毒殺しようとした聖女はまだ婚約者であり完全には皇族ではないこと、テシアの功績が大きいこと、だからといって皇族だからと甘い処分にも出来ないことなど絡み合う事情にシトラレンは頭を悩ませた。
そこで話を聞きつけたマリアベルの提案をシトラレンは受けた。
「これ以上減刑の余地はない。分かったか、テシア」
「はい、お父様。ご寛大な処置に心よりお礼申し上げます」
「そんな……姉上!」
「シェジョン……いいのよ」
どうしてそんなにすました笑顔を浮かべられるのですか。
テシアは笑っていた。
シェジョンは喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「3日の準備期間を与えよう。その後はこの国を出ていくのだ。これにて貴族裁判を閉廷する」
テシアは騎士に付き添われて出ていく。
シェジョンも追いかけようとしたけれどシトラレンが動かないので動くに動けない。
「よい、皆のもの、先に出ていくのだ」
シトラレンの言葉を受けて終始無言だった第一皇子が出て行った。
それに続いて高位の貴族たちも様子をうかがうように動き始めて、シェジョンも部屋を出た。
次々と人が出ていき、シトラレンは残った兵士も追い出した。
「……父上」
「なぜだ、テシア……」
場に残されたのはシトラレンと第二皇子であるデゴロニアンだった。
シトラレンは右手で顔を覆うとゆっくりと首を振った。
「私には分からない……なぜあの子がこのような凶行に及んだのか。テシアがサハルエンをよく思っていないことは知っていた。だが毒殺までするほどとは」
シトラレンが盛大にため息をついた。
テシアと聖女サハルエンとの関係については耳にしていた。
けれど殺害を計画するほどに仲が悪いとまでは聞いていない。
もし知っていたのならシトラレンは事前に止めようと手を打っていた。
「私もそこまでとは思いませんでした」
デゴロニアンはシトラレンがテシアのことを非常に可愛がっていたことを知っている。
死刑はもちろん生かすためであっても国を追い出すという判断は苦渋の決断であったのだ。
「ですが……おかしなこともあります」
「おかしなことだと?」
「これまでテシアは完璧に皇女を務め上げてきました。この毒殺未遂までは一点の曇りもない経歴です」
「そうだな。……今でも自慢の娘だ」
「だからこそおかしいのです」
デゴロニアンはメガネをクイっと上げる。
生来視力が弱くてメガネが無くては生きられないぐらいなのだが、今ではそんなメガネも彼のトレードマークである。
文官タイプで頭もいいデゴロニアンは最近体力の衰えてきたシトラレンの補助的に仕事をこなしている。
皇族としてテシアもいくらか仕事を割り当てられていたのだけれどテシアがこなした仕事はどれも完璧だった。
仕事どころではない。
アフターフォローや仕事から逸脱するような細かなところまでテシアは気を配っていた。
「全てにおいて完璧だったと言ってもいいあの子ですが今回の毒殺未遂についてはお粗末です」
「私なら自分で毒を入れたカップを渡して毒を飲む様を見届けることはしません。そんなことをすれば自分が犯人だというようなものです。そうですね、誰かお金を払ってやらせましょうか」
「……何が言いたい?」
「自分で犯行に及んだ挙句毒も処分していない。人払いもしていなくて毒を飲ませてからすぐに見つかり、結局聖女様も助かってしまいました。
少なくともテシアなら殺すことは確実にやり遂げたでしょう。殺せもせず明らかに自分が犯人だとバレるようなやり方をした。テシアらしくありません」
デゴロニアンは事件の調査もしながら疑問に思っていた。
完璧主義のテシアが起こした事件にしては簡単に証拠が揃った。
もっと強力な毒もある。
もっと自分とは関係なく遂行することもできる。
なのにまるで隠すつもりもなくテシアを犯人にしてくれと言わんばかりであった。
「ならばテシアが犯人ではないとでも言うのか?」
「いえ、犯人はテシアでしょう」
「ううむ?」
デゴロニアンの口ぶりではテシアが犯人だとは思えないような言い方であった。
けれどデゴロニアンはテシアが犯人だと言う。
シトラレンは眉をひそめる。
「テシアが自ら毒を盛ったと言いましたから」
事件の証拠も集まっているが何よりテシアが自ら取り調べに対して自分がやったと自白したのである。
やった罪をやっていないと言うことはあるだろうが、やってもない罪をやったと言うことなどあり得ない。
けれどこれもまたあっさりと認めたことにデゴロニアンは疑問を感じていた。
「デゴロニアン。何を言いたいのか教えてくれないか?」
回りくどい言い方をするのはデゴロニアンの悪いところだ。
テシアにもそんなことを指摘されたなとデゴロニアンは思った。
「言うなれば……まるで最初から毒殺未遂をして捕まるつもりだった、みたいに感じられるのです」
「何を言って……そんなことをして何になる?」
「……分かりません。ですが最初から仕組まれていたことなのかもしれません」
「テシアを誰かが貶めたと言うのか?」
「いえ。テシアが自分でこうなるように仕組んだのです」
そういえば教会にもアリアはよく行っていた。
今回の事件に際して教会の動きは早く、皇族の体面も保ちながらテシアの命を救う絶妙なバランスの提案を持ってきた。
教会の動きすらもテシアの手のひらの上であったなら。
「ですがこれでよかったのかもしれません」
「国を追い出されるがか?」
「きっとあの子はどこへ行っても生きていくことができます。皇女という立場は自由からは遠いものです。テシアは自由に生きるべきです。どこかで良い相手でも見つけて幸せにのびのびと暮らしてくれれば良いと私は思います」
「………………そうだな。あの子の母親も旅の踊り子だった。母親に似て、自由があの子には合っているのかもしれない」
過程はどうあれテシアは皇族という立場から解放されて自由になったことにはなる。
皇女は何でも好きに出来るような立場であるが自由には出来ない。
もしかしたらテシアは自由な身分を手に入れるためにこんなことをしたのかもしれない。
そうデゴロニアンは思った。
シトラレンも少し納得した。
やり方は褒められたものではない。
しかしそれぐらいせねば皇女という身分からは解放されない。
「それに結果的にはテシアの行いでロナミアズと聖女様の仲も深まりました」
ロナミアズとはデゴロニアンの兄である第一皇子のことである。
毒殺未遂の事件のおかげでロナミアズは聖女の大切さに気づき、結果的には2人の仲はより深まった。
他の貴族たちからの反対意見もこれで封じられてしまったような形になる。
「……確かに言われてみれば」
「まさか聖女とロナミアズのために……?」
「それは……分かりません」
「まあいい。あの子が幸せに生きるためにだったのなら……いくらでも冷酷な王として判決を下そう。そして後は教会に任せることにした」
シトラレンは椅子に深く座り直すと大きくため息をついた。
いつか王位でも退いたらテシアを探して会いに行こうと思う。
「だがデゴロニアン、一つ言っておく」
「何でしょうか?」
「良い相手でも見つければいいと言ったが私は絶対に認めんからな……」
シトラレンが強く掴んで椅子の肘掛けがミシリと音を立てた。
もしかしたらこの親バカがいるからテシアは皇族を離れたのかもしれない。
今更ながらそんな風にも思えてきたデゴロニアンはシトラレンにバレないように小さくため息をついた。
「まあどこに行こうと、何をしようと、あの子はきっと幸せになるでしょうね」
「退けろ! ……お姉様!」
見張りの兵士の制止を振り切ってシェジョンがテシアの部屋に入ってきた。
穏やかな気性のシェジョンにしては珍しく怒った目をしている。
その目はテシアに向けられているが怒りの矛先はテシアではない。
「やっぱり僕は納得できません! 今からでも父上に……」
「シェジョン、あなたもお茶を飲まない?」
「どうしてそんなに冷静なのですか? 僕には理解ができない……」
冷静なテシアの声色にシェジョンも頭の熱が下がってくる。
今度は捨てられた子犬のような目をしているとテシアはクスリと笑う。
「なぜなのですか……?」
しょんぼりとしたシェジョンがテシアの隣に座った。
テシアよりもすっかり身長は大きくなっているはずなのにどうしてだろうか、まだ小さいようにも見えてしまう。
子供だった頃の記憶がシェジョンのことをそうテシアの目に映してしまうのかもしれない。
「これは必要なことだったのよ」
「必要なこと……ですか?」
「そう、これは大いなる流れ。こうなるべきだからこうしたのよ」
「意味が分かりません」
「分からなくてもいいの。結局は私がそうしたくてやったことだから」
あまりにも抽象的な言い方にシェジョンは理解ができない。
テシアも全てを理解してもらおうとしてはいない。
「ただ一つ言えるのは、これはみんなのためなの。みんなが幸せになるためにやったこと。そして幸せを願う相手にはシェジョン、あなたも含まれているわ」
テシアは愛おしそうにシェジョンに手を伸ばして頬に触れた。
昔はモチモチとしていたほっぺたもいつの間にか男らしくなっている。
「お言葉を返すようですが」
シェジョンはそっと頬に当てられたテシアの手を握る。
まるで触れれば壊れそうなものかのように優しく力を入れて頬に押し当てる。
「僕が幸せになってほしいと願う人はお姉様です。このようなことになってお姉様は……幸せですか?」
「分からないわ」
シェジョンが安心する言葉をかけてあげることもできた。
けれどテシアは正直に首を振った。
やり遂げたという感覚はあるがそれを幸せだと言えるかは分からなかった。
「でもね、私これから幸せになろうと思うの」
今は幸せか分からない。
しかしテシアはこれから幸せになるつもりだった。
「皇女という立場も、やらねばならない仕事も、私を縛り付ける宿命も全てここで終わり。私は自由になるの。そして私だけの幸せを見つけるの」
「お姉様だけの……幸せ」
「そうよ。幸せになるの」
優しく笑うテシアの目を見れば本気なことは分かる。
「そっか……お姉様は自由になって、そして幸せになるんですね」
シェジョンの知るテシアなら言ったことはやり遂げる。
テシアが幸せになるというのならきっと本気で幸せになるのだ。
「ですが……もし仮に結婚なさるなんてことになったら一度僕に合わせてください」
「どうしてかしら?」
「お姉様にふさわしくない男だったら僕がそいつを切ります」
テシアの手を握るシェジョンの手に少し力が入る。
冗談かと思ったけど割と本気のようだった。
「大丈夫。悪い男には引っかからないから」
テシアは自分を心配してくれるシェジョンが愛おしく、そしておかしくてクスクスと笑う。
「お姉様、僕は本気ですよ!」
「わかってるわ、可愛い子」
テシアは逆の手もシェジョンの頬に添えて微笑みかけるとゆっくりと額に口づけをした。
「この国はしばらく安泰のはずよ。お兄様たちをよく手伝ってあなたもあなたの幸せを見つけなさい」
シェジョンはずるいと思った。
テシアのいう幸せの一つにいい相手を見つけなさいという言葉も含まれている。
だが世界中探したってこんないい女性いないと思う。
「ただ一つお願いがあるの」
テシアはシェジョンから手を離し、紅茶のカップを取った。
「何でしょうか! 僕にできることなら何でもやります!」
「お父様に伝言……というかお願いを伝えてほしいの」
「何でも伝えます!」
「身一つで出ていかねばならないのは分かっているけれど思い出の品ぐらいは持っていきたいと思ってるの。お父様にスーツケース一つでも物を持っていけるようにお願いしてくれないかしら?」
「もちろんです! それぐらい父上も許してくれるはずです。今すぐ伝えてきます!」
シェジョンはテシアに何かをお願いされることが嬉しくて部屋を飛び出すように出て行った。
「……いつかは分からないけれど幸せになって、落ち着いたら手紙でもあなたに送るわ」
もういないシェジョンには届かない言葉を呟いて、テシアはゆっくりと紅茶に口をつけた。
シトラレンからスーツケースニつ分の荷物を持っていくことが許された。
一つでもよかったのだけどシェジョンが交渉してくれたのか、なぜか二つ分と聞かされた。
実はもうスーツケースを用意していたのだがせっかくならともう一つ分スーツケースにも物を詰め込んだ。
そして王城から出された馬車に乗り込み、騎士に囲まれて向かったのは大きな教会であった。
「よいしょ……」
「一つ持つよ」
「あら、ありがとうございます、マリアベル大主教」
重たいスーツケースを下ろそうとして苦心するテシアの横から太い腕が伸びてきた。
スーツケースの取手を掴むと軽々と一つ持ち上げてしまう。
振り返るとマリアベルが後ろに立っていた。
マリアベルは身長も高くてテシアからするとどうしても見上げる形になる。
目が合うとマリアベルがぽってりとした唇の端を上げて笑った。
テシアが降りると馬車は去っていってしまう。
仕方ないとはいえ、薄情にも感じられてしまう。
「中に入ろう」
あれだけ軽々と持てるのならもう一つのスーツケースも持ってくださらないかしらと思いながらマリアベルの背中を追いかける。
教会の中でテシアに向けられる視線はそんなに悪いものじゃない。
テシアは元々真面目に教会に通っていたので教会の司祭やシスターからの印象は良かった。
今も向けられている視線は非難のものではなく同情といったものが多い。
「まあすぐに出発するけれどひとまずこの部屋を使うといい」
「わざわざありがとうございます」
テシアは国を出なければならない。
この後も準備が出来次第移動を始めるので部屋に通されたが休むことはない。
マリアベルはすぐに荷物を運べるようにドア横にスーツケースを置いた。
「さて、話をしようか」
マリアベルは部屋に置いてあった椅子に座った。
テシアもマリアベルとは話すつもりであったのでベッドに飛び乗るように座った。
もう皇女でもない。
マナーで怒られることなどないのだ。
「よくやり遂げたね……おめでとう、神託の聖女」
「ええ、ありがとうございます、マリアベル大主教」
テシアは笑みを浮かべてみせるがマリアベルは少し目を細めて複雑そうな表情をしている。
「私はまだこれで良かったのか自信がないよ」
マリアベルは深いため息をついて首を振った。
「これで良かったのです。これでみんなが幸せになれるのなら」
「……だがあんたはどうするんだい? あんたの幸せってやつはさ」
「ふふ……」
「何がおかしいんだい?」
「いえ、少し前に同じことを言われました」
シェジョンにも同じように問われた。
それを思い出してテシアは笑ってしまった。
「勘違いなさらないでください、マリアベル大主教。私は不幸になっただなんて思っていませんし、これからも不幸になるつもりはありません。むしろ幸せになるのです」
「ふーん……」
マリアベルは驚いた。
確かにテシアの笑顔は柔らかかった。
不幸な人、あるいはこれからを憂いているような人の表情ではない。
それどころかこれまでも見たことがないほどに柔らかく笑っている。
「ぜーんぶ終わってようやく自由になれました。皇女じゃないただのテシア。煩わしい皇族としての仕事も、やらなきゃいけない神託もないんです!」
テシアは勢いよく立ち上がるとクルリと回った。
国を追われる立場になったので派手なドレスではなく動きやすい地味なドレスを着ている。
裾がひらりと舞って、男性の作法で頭を下げる。
皇女であったときにはこんなことをしたらみんなが頭でもイカれたのかと飛んでくるものだが今は自由である。
「テシアがそれでいいのなら私もいいんだ。多少無理をした甲斐もあったというものだ」
「魂の救済〜なんてよく思いつきましたね」
「……からかうのはやめなさい。真面目に捻り出したのですよ。それっぽく聞こえるでしょう?」
「そうですね。これで私の魂も救われました」
「全くもう……」
こんな冗談を言う子だったのか。
口では怒ったようなことを言うマリアベルも思わず笑顔になってしまう。
「それでこれからどうするんだい? 一応教会が身柄を預かり、テシアはシスターとして働くことになっているが」
しかしそれだって名目上にしか過ぎない。
国を離れてしまえば監視の目もない。
実際のところは何をしようと自由の身なのである。
「……今は巡礼の旅に出ようと考えています」
「なに?」
「3か所ある大神殿を巡って祈りを捧げようと思います」
「何か祈りたいことでもあるのかい?」
「たとえ皇女としての身分を失ってもデラべルードは我が祖国です。ここには私の友がいます。大切な家族がいます。私がここまでやったのはそれら全てのため。今一度神にみんなの幸せを祈りたいと思います」
「大主教である私がこんな言っていいのか分からないが敬虔すぎやしないか?」
せっかく自由になったというのに残していくもののために祈りを捧げる旅に出るというのは優しすぎる。
「巡礼をすることで罪を贖罪する奉仕活動にもなりますが、これは自分のためでもあるのです」
「ほう?」
「旅に出てみたかったのです。色んなものを見て周り、色んなものを自分で感じたかったのです」
テシアの目は希望に輝いている。
「そして巡礼が終わった後……旅をした中でいい場所でもあればそこに住みたいと思います」
「……なるほどね」
いかにもテシアらしいと思った。
それならば複数の目的を同時に兼ねることができる。
合理的とも言える未来計画である。
「そしてちゃんと幸せになります」
「幸せ、かい?」
「何が幸せかは分かりませんけれど……ともかく幸せだと言える生活を手に入れてみせます」
「そうだね。テシアにはその権利がある。ここまで神託のために身を粉にして働いてきたんだものね」
マリアベルは優しい目でテシアのことを見つめている。
テシアがこれまでどれほどの努力をしてきたのかマリアベルは知っている。
自分の希望を口にしたことすらなかった。
そんなテシアが幸せになると言う。
自分にできることならばいくらでも手を貸そうと思う。
「失礼します。馬車のご用意ができました」
男性の神官がドアをノックして中に入ってきた。
「短い休憩だったけど大丈夫かい?」
「もちろんです。行きましょうか」
「お荷物お持ちいたします」
マリアベルがスーツケースを一つ持って、男性の神官ももう一つのスーツケースを持ってくれた。
国から出してもらった馬車に比べるとやや質素な馬車が教会前に停まっていた。
教会が持っているものなのだ、豪華な馬車であることはあり得ない。
テシアに不満はない。
むしろ馬車を用意してくれたことに感謝すらしている。
「私が今回馬車を護衛させていただく神官騎士のチミーズです」
身分を剥奪されたとはいえ元皇女である。
狙うものがいないとも限らないのでテシアを安全に国外に送り届けるために4人の神官騎士が護衛についてくれた。
「あら?」
馬車に乗り込んだテシアに続いてマリアベルも馬車に乗ってきた。
驚いてテシアは目をパチクリとさせた。
「大主教も……ご一緒に?」
「ああ、そういえば言ってなかったな。テシアの身柄は私が引き受けたのだ。国を出るまでは責任を持って見届けねばな」
少々イタズラっぽく笑って見せるマリアベルを見ればわざと言っていなかったことなどお見通しである。
「それにテシアのいないこの国にいてもしょうがないからね」
「そのようなことはないでしょう」
呆れたように肩をすくめるとマリアベルが笑う。
「いいのさ。どの道私は教会所属で国に縛られるわけじゃない。出してくれ」
マリアベルが後ろの壁を叩いて出発の合図を出すと馬車が動き出した。
テシアは黙って窓の外を眺めている。
まるで過ぎ去る景色を目に焼き付けるような姿にマリアベルも水を刺さないよう黙していた。
「知っている景色。だけど知らない景色」
小さい頃からこの国に、そしてこの町に住んでいた。
お城から見下ろしたり、馬車や馬で走ったり、歩いてみたり。
色んなところからこの町を見てきた。
たくさんの場所がテシアの頭の中には入っている。
有名なお菓子屋さん、何度もサイズを測ったドレス店、新刊を楽しみに足を運んだ書店。
知ってるところはいっぱいある。
でもその一方で知らないところもまだまだある。
行ったことがないお店、話したことがない人、新しく変わっていく町並み。
よく知ってる町だけどよく見るとまだ知らない町。
もっとこれからも知っていけると思っていた。
「……馬車の速度を緩めるかい?」
「いいえ、大丈夫」
速くても遅くてもしっかりと目に焼き付けている。
きっとこれからの人生でも忘れることはない。
流れゆく景色はいつの間にか町中を抜けていた。
町の方を見ると町の中心に立つお城が見えた。
テシアの人生の多くをあのお城で過ごしたのだと思うと胸が締め付けられるような寂しさも感じずにはいられない。
聖女が次期国王たる第一皇子の婚約者となった。
神の寵愛を受けし者である聖女がいてくれる限りデラべルードは安泰である。
さらにはテシアの兄3人は仲も良く、それぞれ能力もある。
助け合って国を支えていけば何も心配することはないのだ。
心残りはある。
致し方ないとはいえ聖女を傷つけてしまったことと兄である第一皇子をそのためにひどく怒らせたことだ。
今更許しを請うことはないけれどいつか許してくれればいいなとは思ってしまう。
「さようなら……」
遠ざかる故郷を眺めテシアは呟いた。
「我が祖国よ、我が友よ、我が家族よ、幸せにお過ごしください。私も、絶対幸せになるから」
デラべルードを出て、そこから二つ国を乗り越えてミシタンという国にたどり着いた。
デラべルードよりは小さいが豊かな穀倉地帯があって国力のある良い国である。
「さすがに馬車に乗り通しだと疲れるね」
体の大きなマリアベルなら余計に狭い馬車は大変だっただろうとテシアは思う。
そのおかげで道中退屈はしなかったのでひっそりと感謝しておく。
体を伸ばすとマリアベルの体からポキポキと骨が鳴る音がする。
「しばらくトレーニングもしていないし体が鈍ってしまったね」
荷物を持って教会の中に入る。
教会の中では祈りを捧げている人もいて、この国における国民の信心深さが分かる。
「大主教様、お疲れ様です」
「おお、ハニアス」
一般の人が立ち入らない二階に上がると女性の神官がいた。
大きなマリアベルよりも少し低いぐらいの長身の女性でマリアベルを見つけると頭を下げた。
テシアも身長が決して低いと言うことはないのだがこの2人に挟まれると小さく見えてしまうのだから不思議である。
「体は鍛えているか?」
「はい、大主教様の教えの通りに」
「そうか、今度一緒にやろう」
マリアベルは笑うとハニアスの肩に優しく手を置いた。
「お知り合いですか?」
「私の弟子みたいなものだ。まだ若いが敬虔で真面目、神聖力も強い。私の後を継ぐならあの子だろうね」
「大主教もまだまだお若いじゃないですか」
「そんな世辞はやめとくれ」
「私は見えすいたお世辞など言いません」
「……そうだったね。ありがとう」
二階の隅にある部屋がテシアに割り当てられたものだった。
「ここがテシアの部屋だ。旅に出てもここはそのまま残される。別の教会に固定の部屋が欲しいなら所属をしたい時には届けを出せばここが空き部屋になって、移りたい教会に部屋が用意される」
すぐに移動することはないだろうから部屋の奥の方にスーツケースを置く。
広い部屋ではないが手入れは行き届いていて綺麗だ。
部屋の隅に埃すら見えない。
事前に誰かが掃除してくれていたみたいである。
皇女時代とは比べ物にならないが、この狭い部屋が新たなる始まりの場所だと思うとゾクゾクとした気持ちが湧き上がってくるようだ。
「聞かなかったけれどこれからについて細かなことは考えているのかい?」
巡礼の旅に出ることは聞いている。
けれどどこをどう旅するのかとかお金はどうするのかとか詳細な計画についてはマリアベルも知らない。
「もちろん考えています」
テシアはニヤリと笑う。
こうして国を出ることを計画していたのだから今後のことだって考えていた。
「お金は心配ありませんし、まずはゲレンネルに向かおうと思っています」
「ゲレンネルだって? シュタルツハイターじゃなくて?」
3か所ある大神殿はそれぞれ離れたところにある。
ミシタンから近いところにある大神殿はシュタルツハイターという国にあるものになる。
巡礼に行くのなら近いところから回っていく方が楽でいいのに理由が分からない。
「シュタルツハイターは今状況が良くありませんから」
「なんだって?」
「現在あの国は大規模な不作によって多くの人が飢餓に苦しんでいます。こんな状況でシュタルツハイターを訪れれば迷惑以外の何ものでもないです」
皇女として他国の情報にも気を配っていた。
シュタルツハイターは食物の不作が広い範囲で起きていて国の状況が良くない。
現在底は抜けて回復しつつあるけれど、そんな状況の国に行っても邪魔になるだけである。
急ぐ旅ではないので後回しにしてしまうのがいいとテシアは思っている。
「なるほどね。ゲレンネルも一度行ったことがあるが良い国だ」
「さすがに疲れましたし休みながら荷物を整理して数日後には出発しようと思っています」
「分かった。出発するときは言いなよ」
「もちろん」
これまでお世話になったマリアベルに黙って行くことなどしない。
「テシアの身の回りの世話はさっき会ったハニアスに任せるから。何かあったら彼女に言うといい。外に出る時にも連れて行くんだ。何があるか分からないからね」
「分かりました」
この警告に関してマリアベルは真剣な目をしている。
テシアも素直に頷く。
「後は……あんまり問題は起こすんじゃないよ? 一応あなたの身は教会預かりなんだから」
「それは保証しかねます、かもしれません」
「それなら教会の名前や私の名前は出さないでくれ」
マリアベルはテシアの冗談に軽くため息混じりに笑った。
「ふぅ、私は少しトレーニングでもしてお勤めしようと思う。テシアはどうする?」
「荷物を整理したら皆様にご挨拶しようと思います」
「ああ、分かった。ハニアスは隣の部屋だ。それじゃあ……自由、おめでとう」
「ありがとうございます、マリアベル大主教」
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「本日はどちらへ?」
数日ハニアスと一緒にいて分かったことはハニアスの表情の変化が乏しいということであった。
結構綺麗な顔をしているのだがずっと無表情なのだ。
だからといって体にそうした感情も出ることはない。
肉体派にしては珍しいなとテシアは思った。