「やだイケメン少年」
連れの女がつぶやく。
男はさらにムッとして雷刀をにらみつけた。
「ガキのくせに色目使ってんじゃねーよ!」
「使ってません」
雷刀は困惑して答える。
「ちょ、やめなよ」
「こいつの味方すんのかよ!」
女が止めると、男は激昂した。
男が殴りかかってくるのを、雷刀はひょいと避けた。雷刀にしてみれば男の動きは緩慢で、避けるのは造作もなかった。
「避けるな!」
さらに男が怒鳴る。
周囲の人々がざわざわと三人を見る。
「おにいちゃん、こっち!」
女の子の声がして、小さな手が雷刀を引っ張った。
引かれるままに一歩を進めると、そのまま浴衣の少女は走り始める。
「おい!」
「やめなって」
追おうとした男を女が引き止め、少女と雷刀は人混みに紛れる。
人波が切れたあたりで少女は振り返り、安堵を浮かべて雷刀を見上げた。
「もう大丈夫みたい」
息を切らせ、少女はにっこりと笑った。
「助けてくれたのですね。ありがとうございます」
雷刀が礼を述べると、少女はえへへ、と笑った。
「そうだ、これ、ちょっと分けてあげる」
少女は手に持っていた縦長の袋を開けて、中身をちぎって雷刀に渡す。
ふわふわしたそれを受け取り、雷刀は戸惑う。
少女がちぎって口に入れるのを見て、ようやく彼もそれを口に入れた。
「甘い……!」
雷刀が驚くのを見て少女はドヤ顔になった。
「ふわふわしていますね。こんなもの、初めて食べました」
「わたあめなんて普通よ、普通!」
少女は得意げに言う。
「おにいちゃん、外国の人? 髪の色がちょっと違う」
神社の階段に座り、少女はきいた。
わたあめをちぎっては彼に渡し、自分も頬張る。
「そうですね」
雷刀はあいまいに答えた。
「日本語うまいのね!」
「ありがとうございます」
雷刀は苦笑した。瑞穂之国はかつて日本から分離した。日本語はうまくて当たり前だ。
「おにいちゃんの国はどんなところなの?」
「平和ですよ。のどかで、みんな優しくて」
「みんな優しいのっていいね」
少女はまたにこっと笑った。
二人はわたあめがなくなっても話し続けた。
少女のきらきらした笑顔に、雷刀の心は和む一方だった。
「かほー! しずほー!」
女性の大きな声が聞こえた。
少女は声のほうへ顔を向けた。
「かほー!」
再び声がする。
「お母さんだ」
少女が雷刀に言った。
かほ、という呼びかけに反応したため、雷刀は彼女がかほという名前なのだと思った。
「じゃあね!」
彼女は雷刀に手を振って人混みに入っていった。
人垣の隙間から、母らしき女性に抱きつく彼女が見えた。
かほ、と雷刀はつぶやいた。
少女の姿は彼の心に温かな火を灯した。
雷刀は瑞穂之国に戻ってからも少女が気になっていた。
恋をした、と気がついたときには絶望した。人間の世界の名前しか知らない少女だ。
あやかしは基本的に年齢や外見で恋をしない。その人の魂がどれだけ輝いているかが魅力につながる。
少女の魂は美しく優しく輝いていた。そのきらめきが、雷刀は忘れられなかった。
そんなおり、人間の世界と瑞穂之国が繋がった。
外交官が立てられると知った彼は試験に挑戦して合格し、外交官となった。
これで堂々と日本に行ける。
雷刀は外交官の仕事と平行して「かほ」を探した。
下の名前しかわからなかったため、難航した。
回廊が繋がってから二年後、瑞穂之国と日本との婚姻による和平の強化が図られると知った。
はじめ、瑞穂之国の王族との婚姻が予定されていた。
だが、王族と人間との結婚に反対する者が多く、計画は頓挫しそうになった。代理をたてようにも、人間との結婚に及び腰になる者ばかりだった。
チャンスだ。
雷刀はそう思い、自分が代表になると申し出た。
ただ、相手は自分が指定した人物にしてほしい、と。
交渉の末、それは叶った。
日本政府が「かほ」を探し出し、婚姻の相手として了承を得たというのだ。
確認のため、王家の秘宝である映し鏡を使って彼女の姿を見せてもらえた。
魂の輝きすら映す手鏡には、すでに花帆となっていた静穂が映った。
だから雷刀は、うなずいた。間違いなく彼女である、と。
彼女が結婚できる年齢になると、すぐに婚姻届けを出した。
だが、会いに行くことはできなかった。
久しぶりに会う彼女になんと言えばいいのだろう。
彼女は自分を覚えているだろうか。
彼女の意を曲げての結婚になってしまったのではないだろうか。
期待と不安が入り混じり、結局は不安が勝っていた。デンカが日ごとに増やす仕事を言い訳に、彼女に会いに行くのを先延ばしにした。
少し先延ばしにしただけのつもりだったが、人間の世界では数年が過ぎていた。
そんなときだった。
デンカがからかい半分で、秘宝である手鏡を使って彼女を見せてきた。
「お前の愛しい人を見せてやる」
「どうぞおかまいなく」
「それはかまってほしいということだろう?」
デンカはぐいっと鏡を見せてきた。
「人の生活を覗き見する趣味はありません」
「では我だけが見るとするか」
「おやめください」
雷刀は思わず手鏡を奪った。
「ただいまー!」
静穂と花帆の声が響き、雷刀はつい鏡を見た。
二人がリビングに入ると、母が彼女らを出迎えた。
「お帰り。小学校の同窓会はどうだった?」
「久しぶりに静穂に戻って緊張したー! 花帆は?」
「私もだよ。でも楽しかった!」
静穂に戻った? どういうことだ。
雷刀は手鏡をさらに覗き込む。
「静穂と花帆が入れ替わってもう長いものね」
「今日なんて、静穂って本当の名前で呼ばれても、とっさに返事できなかったりしたの」
「私も」
彼女たちはくすくすと笑った。
入れ替わっている?
雷刀は愕然とそれを見つめた。
「どうした?」
デンカが不思議そうに聞いてくる。
「なんでもありません」
その場はごまかし、すぐさま二人のことを調べ直させた。
婚姻の前にも調査はさせていたが、当時、不審な点はなかった。
だが、入れ替わりを前提として行われた再調査により、はっきりした。
なんらかの理由により、二人は入れ替わっている。
***
「ごめんなさい!」
静穂は深々と頭を下げた。
雷刀があのときの彼だった驚きなどいろいろと胸をよぎるものはあるが、まずは謝罪だと思った。
「姉には好きな人がいて、だから入れ替わりました。それに結婚相手は偉い人が適当に決めたんだと思ってました」
「私が指名したんですよ。勘違いの上に入れ替わっているとも知らずに。結果として、私は望んだ女性と結婚したことになりました」
雷刀は苦笑した。
静穂は顔を上げられない。
幼い自分に恋をしたとも言われた。どこまで本当なのだろうか。今でもそうなのだろうか。
「私はこのままでいいのかと悩みました。結局、離婚をしたほうがいいと思いました」
雷刀は言葉を切って静穂を見る。
「静穂さん、私はあなた自身と結婚したいのです。なにも偽らない本当のあなたと」
静穂の顔がカーッと熱くなった。
「ですが、きちんと話をする前にあなたは逃げてしまいました」
「ごめんなさい、国際問題になったら大変だと思って……」
「そんなことにはなりませんよ。私がさせません」
雷刀はきっぱりと言いきった。
「あなたは自分を省みずに人を助けるために動ける人です。そんなあなたを罪に落とすようなことはさせません」
慣れない誉め言葉に、静穂はさらに顔を赤くした。
「あなたには二度も守られた。今度は私が守りますよ」
雷刀が言う。
「……でも、本当は別に好きな人がいるんじゃないですか?」
「なぜそう思うのですか?」
「好きな人に逃げられたって……」
「あなたのことですよ」
静穂は驚いて彼を見た。
確かに離婚を持ち出されて逃げた。まさかそれを指しているとは。
鬼火の青白い光に照らされて、彼の黒紫の瞳がきらめく。
「あなたが好きです。あのときから今でも、これからもずっと」
静穂は自分の耳が信じられなくて、ただ彼を見つめる。
「しかし、こんな話のあとではあなたのほうが離婚したくなったかもしれませんね」
雷刀は苦笑した。
「そんなこと、ないです」
静穂の言葉に、雷刀は驚く。
「そう言われると期待してしまいますよ」
「期待って言われても」
静穂はなにを言っていいのかわからなくなった。
「離婚はしません、と言ったらあなたは喜ぶのでしょうか。また逃げるのでしょうか」
雷刀がいたずらっぽく言う。
「えっと、それは……」
にこやかに細められた彼の目が美しくて、静穂はただ見つめる。
「殿下が手を回してくれましてね。書類が間違っていたことにしてくれました。こちらは書類の管理が雑な上、殿下の権力を利用したので簡単でした」
「え……?」
「あなたの世界では書類の訂正は大変なようでしたが、国際問題にしたくない人たちばかりなのでね、なんとかなりました」
「訂正って……?」
「あなたは静穂さんに戻り、花帆さんは花帆さんに戻る。本来の人生を歩むのです」
「本来の人生……」
この先ずっと花帆として生きていくのだと思っていた。静穂に戻れると言われても、戸惑ってしまう。
「その上でお尋ねします。静穂さん、あなたは私と人生を歩んでくれますか?」
「まるでプロポーズみたい……」
「私はまさに結婚を申し込んでいるのですよ」
静穂は返事ができなかった。自分の鼓動がうるさくて、胸を押さえた。
「私は少々、卑怯でした。国同士の政略結婚を利用してあなたを手に入れようとした。ですが、今度は正々堂々と、あなた結婚したい」
彼は彼女の手を取り、まっすぐに彼女を見つめる。
「私の妻になってください」
彼が重ねて言う。
彼のまっすぐな瞳に見つめられ、静穂の心拍数は上がるばかりだ。
「……私はもう、あなたの妻なので」
やっと、それだけを答えることができた。
「静穂さん……!」
感極まった雷刀は静穂を抱きしめ、その耳に唇を寄せる。
「私の真の名は……」
名前をささやかれ、静穂は驚いて彼を見る。
「名前! 教えたらダメなんじゃ」
「あなただからですよ」
雷刀の熱のこもった声が、静穂の耳に甘い。
「これからはあなたと夫婦らしくしたい。よろしく、私の奥さま」
「よろしくお願いします」
答える静穂を、雷刀は包み込むように強く抱きしめる。
鬼火に照らされた氷柱が、二人を祝福するかのようにきらめいていた。
終