週末になった。
 俺は、いつもより遅めの時間に起床する。
 母はすでに出かけていた。観光地で働く母は休日が忙しく、週末はだいたい不在。
 その代わりと言うべきか、リビングには父がいた。ソファに座り、タブレット端末で新聞かなにかを読んでいる。

 とくに父に話しかけることもせず、俺は紅茶の入ったカップを手に、ダイニングテーブルに腰かけた。

 今日は十一時からマニーカフェでバイトだ。あと三十分したら出発しよう。
 なにげなくスマートフォンを取り出し、友人から届いていたメッセージに返信したり、SNSを眺めたり、動画を見たりして時間を潰した。
 リビングはしばらく無言空間と化したが、やがて父がおもむろにタブレットをテーブルの上に置き、こちらに歩み寄ってきた。さりげなく俺の向かいの椅子に座ると、顔を覗き込んでくるんだ。

「イヴァン。この前の話、納得してくれたか?」

 ──うわ、またはじまった。父の「イギリスへ帰ろう」の説得の時間が。

 俺はスマートフォンを眺め続けて答えた。

「納得するわけないだろ。俺は日本に残る」
「一人で暮らす気か? 母さんも、イギリスに帰ると言っているんだぞ」
「母さんは昔から父さんの言うことに、はいはい付いていくだけだろ。自分の意見なんてないよ。俺はこっちでの暮らし以外考えられない」
「だが、生活費はどうする? お前は進学するのか、しないのか? 将来はどうするつもりだ」

 耳が痛い。
 正直俺は、将来のことなんてあまり考えていない。
 無難に自分の学力で行ける大学を受験して、たぶん真面目に四年間通学して、その後は新卒として日本のどこかの企業に就職するものだと思っていた。
 だけど、父がいきなりイギリスへ帰ると言い出すんだから驚いた。俺はこれといったスキルはないし、英語もダメなんだ。向こうで暮らすにはリスクが高い。
 なによりもいとこたち(あいつら)がいる国で暮らすなんてな。それだけは断じて無理だ。無理に決まっている!

 俺は大袈裟なくらい、深い深いため息を吐いた。

「卒業後のことは自分で考えるし、自分でなんとかする。一人暮らしするためにバイトで金を貯めてみせる」
「高卒で就職するのか?」
「それは、まだ。決めてない」
「進学するとしたら、学費はどうする? 日本に住むなら、お前が自分の力でなんとかしないといけないぞ。まさか、奨学金をあてにするつもりか。世間はそんなに甘くはないんだ」

 その父の言葉に、俺はだんだんイライラが募ってきた。
 なに言ってんだ、この親父?

「偉そうに言うなよ。家族を振り回そうとしてるくせに。ずっと日本暮らしだった息子を、無理やりイギリスへ連れていこうとしてるんだぞ? 全部が父さんの思い通りになると思うな」
「イヴァン……。お前の気持ちは理解しているつもりさ。英語を話すことに怯えているんだろう? だが、いつまで逃げ続ける? 過去に囚われていては、前に進めないぞ」
「は……?」

 胸がざわざわした。
 父親の無神経な言葉の槍が、俺の心を突き刺してくる。

「お前はやればできる子だ。今から三年間勉強すれば、ある程度は英語力を身につけられるだろう。おれもな、お前くらいの歳から日本語を学んだんだ。なんとかなるものだぞ。不安になることはない。お前は、れっきとしたイギリス人(・・・・・・・・・・・)なんだからな」

 ──そう言われた瞬間、全身に衝撃が走った。息が苦しくなり、怒りがこみ上げてくる。

「もう、いい……」

 俺は乱暴に立ち上がり、ティーカップをシンクに下げ、リビングから飛び出した。

「イヴァン、待ちなさい。まだ話は終わっていないぞ!」

 父の呼びかけをガン無視して荷物を持ち、俺は勢いよく家を飛び出した。

『お前は、れっきとしたイギリス人なんだからな』

 父に言われたことが、頭の中で繰り返しエコーしている。
 どうしても、怒りが抑えられなかった。自分で自分が面倒くさい奴だと思う。

 父が言ったことは、なにも間違ってはいない。俺の血統や国籍はイギリスで、それは紛れもない事実だ。
 でもな……俺は、生まれも育ちも日本なんだ。文化も習慣も、この国の人間としてこれまで生きてきた。
 イギリス人だから英語ができて当然だろ、というような父の台詞はとてもショックだった。
 無理なんだ。俺の英語は、発音がおかしいから。それをバカにされたから。
 いとこたちに言われた。お前は母国語も話せないダメな奴だと。イギリス人なのに、イギリス人ではないと否定され、罵られた。

 だから俺は、母国語を捨てたんだ。