「……ああ、あなたね。驚かせないで」
さりげなく本を閉じ、イヤホンを外すと、彼女はそれらを素早く鞄の中へしまう。
びっくりさせてしまったのは悪かった。でも俺は、彼女を見つけられた喜びが止まらないのだから仕方がない。
「ずっと探してたよ」
「は? どうして」
「ええっと。礼が、言いたくて」
キョトンとするも、数秒だけ間を空けてから彼女は小さく息を吐いた。
「……まさか、今朝のこと? 私は風紀委員なんだから別に気にすることないのに」
「いやいや。あのガチ鬼に対して全然動じず、俺をかばってくれたんだ。感謝してます」
俺の言葉に対し、彼女は戸惑っているようだった。物珍しい人間を見ているような眼差しを向けてくる。
でも俺は、引かれたって気にしないぜ。
「マニーカフェでもあなたの中国語に助けられた。カッコいいなぁ、外国語を喋れるなんて。俺なんかこんな見た目のクセして日本語しか話せないんだ。ははは」
わざと空笑いしてみせた。自分で喋っていて、虚しくなる。
いつものことだ。初めて会った人たちには、あえて伝えている。俺は英語なんて話せないんだと。
『イヴァンはイギリス人だから、英語ができて当然』
そんな偏見ともいえる言葉を、幾度となく浴びせられてきた。大抵は「英語のできないイギリス人」として残念な顔をされる。
うんざりだ。彼女にも、くだらない偏見や先入観で俺を見てほしくない。
身構える俺の前で、彼女はベンチからスッと立ち上がる。ふと笑みをこぼし、こんなことを口にした。
「ここは日本なんだから、日本語が喋れれば充分でしょ」
彼女はさらりと俺から背を向け、校門の方へ歩いていく。
……あれ? 今、普通に流されたか?
これまでにないリアクションに、俺は目を見開いた。
いや、茫然としている場合じゃない。
彼女が行ってしまう。礼を言っただけじゃダメだ。
俺はあわてて彼女のそばへ駆け寄る。
「待って」
俺の呼びかけに、彼女は無表情でこちらを見上げた。なんか、大人っぽい雰囲気だけど、意外に背は高くないんだよな。
そんなどうでもいいことを思いながら、俺は続けた。
「君の名前を知りたい。学年も」
「どうしてあなたに教えないといけないのよ」
やはり、冷めたい眼差しを向けられた。
「君と、友だちになりたいと思って」
「……私と? 友だちになりたいなんて、変わった人なのね」
含み笑いをすると、彼女は小さく息を吐いた。
どうしてそんなリアクションをされるのか、俺には理解できない。変なことを言った覚えもないんだが?
戸惑う俺の目を見つめ、彼女はゆっくりとその名を口にする。
「私は──玉木よ。玉木サエ。二年六組」
「玉木サエさん。そうか、サエさんというんですね! やっぱり先輩だ。俺は一年一組のイヴァン・ファーマーです!」
「知ってるわよ」
「あ……そっか。俺の届け出、ちゃんと確認してくれていたんですもんね」
「じゃないと委員会活動なんてできないわ」
「すげぇな、サエさんは。超真面目!」
俺が言うと、彼女は頬をほんのり赤くしてそっぽを向いてしまった。
「もういいでしょ? 帰っていい?」
「あっ、すみません、呼び止めてしまって」
本当はもう少し話がしたかった。だが、彼女はあまり長居したくないようで早歩きで校門へと歩いていく。
西の陽に照らされる刹那、彼女の後ろ姿には切なさが醸し出されている気がしたんだ。
もうひとことだけ、いいか。彼女に言葉を向けてもいいかな。
「サエさん!」
歩みを止め、彼女はゆっくりと俺の方を振り返る。やっぱりその瞳は冷たかった。
「なによ?」
「またマニーカフェに来てください。抹茶フラッペでもなんでも作るよ。しかも俺の奢りで!」
この言葉に、彼女は口角を僅かに上げた。
「別にいらない」
このときの彼女の口調だけは、あの西陽のように明るく感じた。
俺は彼女の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめ続ける。胸がいっぱいになり、頬が熱くなった。校舎の窓ガラスに映る自分の顔が、妙に上機嫌に見えたのは俺の気のせいではないはず。
その日以来、俺は校内で彼女を見かけるたび話しかけるようになった。
彼女は表情をあまり変えない。その心情を読み取るのは、とても難しい。それが原因で、余計に俺の中で気になる存在となっていく。
俺が絡んでいくことについて彼女はどう感じているのだろう。後輩のクセしてまともに敬語で喋らない俺を生意気に思っているのか。迷惑しているのか。それともどうでもいい存在なのか。実は内心楽しんでくれているのか。なかなか見当がつかない。
相変わらず彼女からは切なさが滲み出ている。と同時に、あの冷たい瞳には優しさも色づいている気がするんだ。
彼女のことを、もっと知りたい。
言葉では表現しがたいが、俺がこういう気持ちになるのは初めてだった。
彼女と俺は大した共通点なんかない。ただ同じ高校に通っているだけ。
俺がぼんやりしていたら、彼女とは疎遠になってしまうだろう。あっけなく関わりがなくなってしまうだろう。積極的に歩み寄らないと、彼女との出会いがただの思い出として終わってしまう。
そんなの、どうしたって嫌だった。
だから俺は、わざと調子づいて積極的に絡みに行く。ふとしたときに彼女が笑ってくれると、それだけで嬉しくなるんだ。
もちろん学年が違うせいで会えない日もあった。でもそれは、大きな問題じゃない。
彼女に声をかけるチャンスは無数にある。
俺が見かけたとき、彼女はいつも一人だから──
六月上旬。関東地方は梅雨入りをし、今日の横浜市内も朝からどしゃ降りだった。
普段は自転車通学をしているが、さすがに今日はやめた方がよさそう。大粒の雨のせいで道路は水浸し。レインコートを着たって確実に濡れるだろうし、なによりも滑って怪我をしたくない。
やむを得ずバスと電車を使って登校することにした。
自宅から最寄りの東神奈川駅までは、バスを使わなければならない。いつものことだが、雨のせいで車内は激混みだ。
ノロノロ走るバスに揺られ、二十分ほどで駅にたどり着く。
足もとを濡らして駅構内を通過し、ホームへ入る。やはりそこでも人の数は多かった。
どれだけ混雑していてもさほど乱れることのない列に並び、おしくらまんじゅうのようにぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り込んだ。
たった一駅だけなのに、疲労感がとんでもない。
大きくため息を吐き、乱れた髪の毛を整え、どうにか横浜駅へと降り立った。
改札を出ても、やっぱり雨はやむ気配がなかった。
駅から学校までは歩いて十分ほどだが、まずはこの広い構内から出なければならない。
昼夜問わず人々の群れで溢れる横浜駅構内は、雨の日だと更に人口密度が高い。おまけに蒸した空気が不快感を増してうざい。
一刻も早くこの熱気が充満する場所から抜け出したかった。とにかく俺は、速足で出口を目指した。
──その、途中のこと。
「……ん?」
見覚えのある姿が目に入る。絶え間なく人々が行き交う空間の端で立ち止まるひとつの人影。
赤いリボンにチェック柄のスカート。村高の制服だ。
「彼女」の髪は、雨の日にも関わらず艶のある綺麗なショートボブだった。しっかりと手入れしているんだろうなと思った。
「サエさん」
自然と、彼女の名が口から溢れる。
人の流れに逆らい、俺は彼女のそばへ歩み寄った。
彼女は八の字眉で鞄の中身を漁っている。なにかを探しているのだろうか。
「どうしたんだ?」
俺の存在に気づいた彼女はハッとしたように手を止め、困った顔をこちらに向ける。
「ああ、イヴァンね……。困ったわ。折りたたみ傘が見当たらないの」
「なくしたんすか」
「鞄に入っていないから、電車で落としたのかも」
周辺は、ざわざわと騒がしい。慌ただしく歩く人々の足音。外から響く雨の降る音。
俺はそんな中で、ある考えがよぎった。
──彼女が、困っている。これは、助けるチャンスなのでは?
困り果てる彼女に微笑みかけ、俺は自分のビニール傘をサッと差し出した。
「それじゃあ、俺の傘、使います?」
「なにそれ。あなたはどうするの?」
「どうするって? サエさんと一緒に使うんだよ」
俺がそう言い放つと、彼女の表情がたちまち曇る。呆れたように、わざとらしいため息を吐くんだ。
「遠慮しておくわ」
「えっ、なんで? あれ、まさかサエさん。照れてるのか?」
俺の揶揄いに、彼女は大きく首を振る。
「そうじゃなくて。二人で同じ傘に入るってことでしょう? そんなの、周りに見られたらどう思われるか」
「ふーん。サエさんって、意外に人目を気にするタイプなんだ」
「違うの。なんというか、こう……距離が近いと変な噂を立てられるかもしれないでしょ? そういうの、面倒だから避けたいのよね」
冷静にそう述べた彼女を前に、俺は言葉が止まってしまう。
それは、そうか……。
同じ傘に入ってただけでも、たぶん周りから見たら意味深な二人に見えてしまうのだろう。俺は別に構わないが、彼女の困惑した表情を見るとそうはいかない。
だとしたら──
時刻は八時十五分。このままグダグダしていたら、二人とも遅刻してしまう。
「わかった。それじゃあ……」
俺はもう一度、彼女に自分の傘を差し出した。
「これは、サエさんに貸します」
「はぁ? だから、あなたはどうするのよ」
「途中コンビニがあるし、俺はそこで買えばいい。猛ダッシュするんで、ノープロブレム。メイウェンティ!」
「なによ、それ……」
慌てる彼女を無視して、俺は無理やりにでも傘を手渡した。
「急がないと遅刻だ。先に行きますね!」
「ちょ、ちょっと」
俺は濡れたって構わない。彼女が雨に打たれてしまう方が大変だ。
駅構内にひしめく人々の間をかきわけ、俺は彼女の前から立ち去り、速足で出口へと向かった。
地上に出ると、家を出たときよりもさらに雨あしが強まっていた。屋根から一歩出れば、あっという間にびしょ濡れになるだろう。これでは、途中のコンビニで傘を買ったとしてもなんの意味もない。だったら一分一秒でも早く学校へ辿り着いた方がいい。
ザーザーと大きな音を立てる雫たちを前に、俺は意を決して走ろうとした。が──
「ねえ、待って!」
背後から、焦る声がした。振り返ると、息を上げてこちらを見やる彼女の姿。
あーあ。……あっさり追いつかれたか。
「私なんかのために、あなたが濡れる必要はないでしょ」
囁くように溢すと、彼女は傘を俺に手渡してきた。顔を背けながらも、小さくひとこと。
「仕方がないから、一緒に行きましょう」
マジで? やった!
胸中で歓喜する俺の隣に、彼女はぎこちなく並ぶ。
──ビニール傘に、雨が滴る音が絶え間なく鳴り響く。
俺は、できるだけ彼女を濡らさないよう傘を傾け、歩幅を合わせながら学校へと向かった。自分の肩に雨が染みようとも、全然気にならない。
道中、彼女となにか会話を交わしたのだが、胸がドキドキしてしまい、内容のほとんどを忘れてしまった。
でも、いいんだ。俺の心は晴れやかだったから。
「イヴァン、助かったわ」
校門を通り過ぎ、二年の昇降口前に辿り着くと、彼女はサッと傘から抜け出した。
「お役に立ててなにより。折りたたみ傘、見つかるといいな」
「いいの。だいぶ古かったし、そろそろ替え時と思ってたから」
彼女はおもむろに制服のポケットに手を入れた。
「これ、使って」
「えっ?」
彼女がポケットから取り出したのは、一枚のハンカチだった。パンダの絵がワンポイントあるだけの、シンプルなハンカチ。
俺の手元にそれを差し出すと、彼女はふと微笑む。
「お節介のために風邪引いたらどうしようもないわよ?」
「俺は滅多に風邪なんか引かないよ」
「とにかく、ありがとう。時間がないし行くわ」
背を向け、彼女は二年の下駄箱へ歩いていく。
──参ったな。彼女をできるだけ雨から庇っていたのがバレていたらしい。
茫然と立ちつくしながら、俺は彼女を見送る。
その後ろ姿が、今日は少しだけ明るく感じた。
濡れた足もとは冷たいのに、俺の心はポカポカしている。
水溜まりが出来上がった道を、同じ傘の下で彼女と歩いた。たったそれだけのことが、俺の気持ちを高揚させてくれた。
「洗って返すよ」
パンダのハンカチを握りしめ、彼女には届かない声量で俺はそう囁いた。
予鈴が鳴るギリギリ前に自分のクラスに着く。クラスメイトたちと挨拶を交わしながら自分の机に座った。
肩だけでなく、鞄もずいぶん濡れてしまった。彼女から借りたハンカチで優しく拭いてみるが、簡単に乾くはずもない。
ノートや教科書は無事なので、それはよしとしよう。
「イヴァンくん」
俺が鞄から教科書類を取り出していると、ふっとアカネが目の前にやってきた。
前の席に座り込み、ぐいっと顔を近づけてくる。
登校早々、やけに距離が近いな。
「なんか用か?」
俺の問いに、なぜかアカネは頬を膨らませる。
「ねぇねぇ、見ちゃったよー」
「見たってなにを?」
「あの風紀委員の女の人と、一緒にいたでしょう!」
声量を落としながらも、アカネの口調は若干鋭い。
……ああ、今朝のことか。情報が早いな。
そんなに意識していなかったが、横浜駅を降りてから何人か村高生が俺たちの視線の先で歩いていたのは気づいていた。それにたった今、彼女を昇降口まで見送ってきたわけだし、アカネに見られていても不思議じゃない。
「ああ。サエさんと一緒に登校してきたよ」
俺が平然と答えると、アカネは目を見開いた。
「え……あの人、サエさんっていうんだ? なんで名前知ってるの?」
「この前、教えてもらったんだよ」
「えええー。いつの間にかそんなに仲良くなったの!? 相合い傘までしてたよね?」
だんだんアカネの声が大きくなっている。周囲にいるクラスメイトが何人かちらちらとこちらを見てきた。
さっき、彼女が言っていたことを思い出す。
『距離が近いと変な噂を立てられるかもしれないでしょう? そういうの、面倒だから』
あんまり話が広まると、よくない。
俺はオーバーに首を横に降った。
「たまたま駅で会って、サエさんが傘をなくしたって言うから入れてあげただけだ。ほら……俺、二回もあの人に助けられてるだろ? だからそのお礼ってことでさ」
わざと、大きめの声で説明してやった。周りにいるクラスメイトたちにも、俺の話はしっかり聞こえているだろう。
俺の話を聞いたアカネは、訝しげに問う。
「ふーん。それで相合い傘? 距離感どうなってるの」
どう答えていいものか。たしかに、積極的すぎたかなとは思う。礼を兼ねて、というのだって嘘じゃない。
だが、それとは別の理由もあったのも本当のところだ。
それをわざわざアカネに話すことはできないが。
咳払いをして、俺は小さく首を振る。
「誰かが困っているのを見かけたら、助けてあげようと思うのがおかしいことか?」
「ううん。そういうわけじゃないけど……」
数秒だけ口を閉ざし、アカネはなにかを考えるように両腕を組む。
「そうだね。イヴァンくんって、そういうところしっかりしてるもんねー」
なんとか納得してくれたようで、それ以上深く突っ込んでこなかった。
……よかった。無理やりだったが、これで誤魔化せただろう。
しかし、胸の中がムズムズした。
アカネには、本心を隠している。
本当の俺は、もっと彼女と親しくなりたいと、心の奥で思っているから。
◆
週末になった。
俺は、いつもより遅めの時間に起床する。
母はすでに出かけていた。観光地で働く母は休日が忙しく、週末はだいたい不在。
その代わりと言うべきか、リビングには父がいた。ソファに座り、タブレット端末で新聞かなにかを読んでいる。
とくに父に話しかけることもせず、俺は紅茶の入ったカップを手に、ダイニングテーブルに腰かけた。
今日は十一時からマニーカフェでバイトだ。あと三十分したら出発しよう。
なにげなくスマートフォンを取り出し、友人から届いていたメッセージに返信したり、SNSを眺めたり、動画を見たりして時間を潰した。
リビングはしばらく無言空間と化したが、やがて父がおもむろにタブレットをテーブルの上に置き、こちらに歩み寄ってきた。さりげなく俺の向かいの椅子に座ると、顔を覗き込んでくるんだ。
「イヴァン。この前の話、納得してくれたか?」
──うわ、またはじまった。父の「イギリスへ帰ろう」の説得の時間が。
俺はスマートフォンを眺め続けて答えた。
「納得するわけないだろ。俺は日本に残る」
「一人で暮らす気か? 母さんも、イギリスに帰ると言っているんだぞ」
「母さんは昔から父さんの言うことに、はいはい付いていくだけだろ。自分の意見なんてないよ。俺はこっちでの暮らし以外考えられない」
「だが、生活費はどうする? お前は進学するのか、しないのか? 将来はどうするつもりだ」
耳が痛い。
正直俺は、将来のことなんてあまり考えていない。
無難に自分の学力で行ける大学を受験して、たぶん真面目に四年間通学して、その後は新卒として日本のどこかの企業に就職するものだと思っていた。
だけど、父がいきなりイギリスへ帰ると言い出すんだから驚いた。俺はこれといったスキルはないし、英語もダメなんだ。向こうで暮らすにはリスクが高い。
なによりもいとこたちがいる国で暮らすなんてな。それだけは断じて無理だ。無理に決まっている!
俺は大袈裟なくらい、深い深いため息を吐いた。
「卒業後のことは自分で考えるし、自分でなんとかする。一人暮らしするためにバイトで金を貯めてみせる」
「高卒で就職するのか?」
「それは、まだ。決めてない」
「進学するとしたら、学費はどうする? 日本に住むなら、お前が自分の力でなんとかしないといけないぞ。まさか、奨学金をあてにするつもりか。世間はそんなに甘くはないんだ」
その父の言葉に、俺はだんだんイライラが募ってきた。
なに言ってんだ、この親父?
「偉そうに言うなよ。家族を振り回そうとしてるくせに。ずっと日本暮らしだった息子を、無理やりイギリスへ連れていこうとしてるんだぞ? 全部が父さんの思い通りになると思うな」
「イヴァン……。お前の気持ちは理解しているつもりさ。英語を話すことに怯えているんだろう? だが、いつまで逃げ続ける? 過去に囚われていては、前に進めないぞ」
「は……?」
胸がざわざわした。
父親の無神経な言葉の槍が、俺の心を突き刺してくる。
「お前はやればできる子だ。今から三年間勉強すれば、ある程度は英語力を身につけられるだろう。おれもな、お前くらいの歳から日本語を学んだんだ。なんとかなるものだぞ。不安になることはない。お前は、れっきとしたイギリス人なんだからな」
──そう言われた瞬間、全身に衝撃が走った。息が苦しくなり、怒りがこみ上げてくる。
「もう、いい……」
俺は乱暴に立ち上がり、ティーカップをシンクに下げ、リビングから飛び出した。
「イヴァン、待ちなさい。まだ話は終わっていないぞ!」
父の呼びかけをガン無視して荷物を持ち、俺は勢いよく家を飛び出した。
『お前は、れっきとしたイギリス人なんだからな』
父に言われたことが、頭の中で繰り返しエコーしている。
どうしても、怒りが抑えられなかった。自分で自分が面倒くさい奴だと思う。
父が言ったことは、なにも間違ってはいない。俺の血統や国籍はイギリスで、それは紛れもない事実だ。
でもな……俺は、生まれも育ちも日本なんだ。文化も習慣も、この国の人間としてこれまで生きてきた。
イギリス人だから英語ができて当然だろ、というような父の台詞はとてもショックだった。
無理なんだ。俺の英語は、発音がおかしいから。それをバカにされたから。
いとこたちに言われた。お前は母国語も話せないダメな奴だと。イギリス人なのに、イギリス人ではないと否定され、罵られた。
だから俺は、母国語を捨てたんだ。
憂鬱な気分のまま、バイト先へ向かった。
俺の暗い心情とは裏腹に、やたらと太陽が眩しい。つい梅雨であることを忘れてしまいそうになる。束の間の晴れだ。今日もきっと混むだろう。
マニーカフェに到着し、裏から回ってスタッフルームへ入る。タイムカードを切り、エプロンを身につけた。
準備を整えてカウンターに出ると、真っ先に関さんの姿が目に入った。ちょうどお客さんに商品をお渡ししたところみたいだ。キッチンには、テキパキと動く店長もいる。
「おはようございます」
二人に挨拶をし、俺は関さんの隣に立った。カウンターから店内を見回すと、すでに多くのお客さんで賑わっていた。
店中に響くたくさんの話し声が、煩わしいノイズ音に感じる。父との会話がどうしても頭から離れなくて、気持ちが落ち込んでしまう。
「おい、てめぇ」
不意に、耳元でドスの利いた低い声がした。囁くような小さい音量なのに、心臓が飛び出そうになる。
「なに暗い顔してやがるんだ。シャキッとしやがれ」
「は、はい。すみません」
関さんのピリピリしたオーラのおかげで、俺は我にかえる。
そうだ。仕事中は店員としてしっかりしないと。笑顔を忘れちゃいけない。
軽く自分の頬を叩き、無理にでも気持ちを切り替えてみせた。
「いらっしゃいませ」
俺が接客モードになると共に、お客さんが来店した。
今日も、あの女性がやって来た。毎回Sサイズのコーヒーを頼むOL風のお客さん。俺は営業スマイルを作り、オーダーを受け、いつもと同じようにアイスコーヒーを淹れる。ミルク二つも用意し、出来上がった商品をお客さんに手渡そうとした──が。
思いがけないことが起きてしまう。
「あっ……!」
商品を持つ俺の手が、盛大に滑った。
アイスコーヒー入りのカップが、まるでスローモーションのように手のひら落ちていき、カウンターの外側へと倒れていった。この衝撃で蓋が外れ、コーヒーがカウンターを越えて勢いよくこぼれてしまった。
すかさず反対側の手でカップを受け止めたが、なにもかも遅かった。コーヒーが、お客さんの白いワイシャツにかかってしまったのだ。
「す、すみません……!」
咄嗟に謝罪するが、どうすればいいのか判断できず、俺は固まってしまう。目の前には、無表情でこちらを見る女性客。シャツのお腹部分が、コーヒーのせいで茶色くなっていた。
「おい、イヴァン。なにやってるんだよ! お客様申しわけございません!」
関さんは俺の隣に並んで、深く頭を下げた。ハッとして、俺も頭を垂れる。
やってしまった。こんな失敗、したことがない。クリーニング代を払うべきだよな? いや、それとも弁償した方がいいか? 一体、どうすればいいんだ……。
頭が真っ白になり、しばらく面をあげることができなかった。女性客はひとことも発しない。驚いているのか、怒っているのか、呆れているのかわからない。
異変に気づいた店長がキッチンから出てきて、一緒になってお客さんに謝罪をしてくれた。クリーニング代をお支払します、と伝えたのだが……
「大丈夫です。彼には、いつもよくしてもらってるから……」
掠れた声で聞き取りづらかったが、女性客はたしかにそう言った。ゆっくりと顔を上げると、お客さんはうっすらと笑っている。
「せめてものお詫びの気持ちです。本日のコーヒーの料金はいただきません。無料券もご用意させていただきます。この度は、誠に申し訳ありませんでした」
店長の謝罪の言葉と共に、俺は今一度深く深く頭を下げた。
女性客は店長から無料券と新しいコーヒーを受け取り、俺に向かって「気にしないでね」、そう言い残して去っていった。
……よかった、心の広い人で。
しかし、問題はまだ残っている。カウンターには、派手にこぼしたコーヒーの残骸。ほろ苦い匂いが漂う。しかし、後ろに並ぶお客さんが長い列を作っていた。
店長は、カウンターと行列を交互に見て冷静に指示を出してくれる。
「ファーマーくん。すぐにカウンターを掃除してくれ」
「はい、わかりました。本当にすみませんでした……」
まだ気が動転しているが、とにかく急いで片づけなければ。布巾とモップを手に取り、俺はカウンターの外側へと移動する。
コーヒーは床にまで滴り落ちてしまっていた。
コーヒーの残骸を拭き取る最中、苦い匂いが鼻をつつく。
俺はなんてダメな奴なんだ。迷惑を掛けてしまった。なにやってんだよ、本当に。
今までにないミスを犯してしまい、正直かなりヘコんでいる。
無意識のうちに、俺は深いため息を吐いた。
「すみません」
焦りながら俺が床を拭いている最中だった。背後から声をかけられた。
どれだけ悄気ていても、業務中は笑顔を絶やしてはいけない。俺はにこりと微笑み、サッと後ろを振り向いた。
そこには、車椅子に乗った中年男性がいた。男性は、少し困った顔をこちらに向けている。
「イヴァン。そこをどけ。お客さんが通れないぞ」
「え」
状況を把握するのが遅くなった。どうやら車椅子のお客さんは、関さんが立つ奥のカウンターに行きたいようだ。だが俺が邪魔してしまっていて、前へ進めない。車椅子では、若干通路が狭くて通りづらいんだ。
慌てて清掃用具をまとめ、俺は焦りながらも道を開けた。
「失礼しました! どうぞお通りください」
「すまんな」
車椅子の男性は申し訳なさそうに俺の横を通過していく。
悪いのは俺だ。ちゃんと周りに気を配っていなかったから。さっきから何やってるんだろう……。
車椅子の男性は、関さんに向かってアイスコーヒーを注文していた。
カウンターと床を磨き終えた俺は急いで手を洗い、カップを手に取った。丁寧にブラックコーヒーを注ぎ、蓋をしっかりと閉めた。もう、さっきのように失敗するわけにはいかない。
出来上がったコーヒーを慎重にカウンターへと運ぶ。
すると、関さんが「貸せ」と俺の作ったコーヒーを手に持った。車椅子の男性に向かってひとこと。
「席までお持ちします」
「ああ、悪いね。頼んでもいいかな?」
「もちろんですよ」
関さんはカウンターを出ると、男性のそばに歩み寄り、屈みながらコーヒーを手渡した。車椅子の後ろに回り、ゆっくりと押して移動しはじめる。
「ドア近くのテーブル席でしたら広いのでゆっくりお寛ぎできるかと思います」
関さんの提案に、車椅子の男性は納得したように頷いた。
店内を移動する際、周りのお客さんたちにも「通ります」「失礼します」と声をかけながら、関さんは車椅子の男性を席へと送り届けた。
俺はその一部始終を見て、息が止まりそうになる。
……すごい。
関さんの、スマートな対応に感激した。
関さんは颯爽とカウンター内に戻ってきた。列に並ぶお客さんたちの対応を、何事もなかったようにこなしていく様がなんとも頼もしい。
俺はすっかり刺激されていた。さっきまでの萎えていた気持ちなんか忘れるほどに。
雑念を捨てよう。関さんに倣って、俺も丁寧な対応を心がけるんだ。
次々に来店してくるお客さんたちのオーダーを受け、商品をお渡ししていると時間があっという間に過ぎた。列がひと段落ついたとき、俺は隣に立つ関さんに目を向ける。
普段は目つきが悪く無愛想な関さんは、接客モードに入ると柔らかい表情になる。今さらそのことに気づいた俺は、改めて称賛したくなった。
「すごいですね、関さん」
「あっ? なにがだ」
「素晴らしい対応でしたよ。車椅子のお客さんに対しても」
「はぁ? 当たり前だろ。言ったじゃねぇか。どんな客にも公平に接しろと」
特別なことなんてなにもしてねぇ、と呟く関さんの顔が、ほんの少しだけ綻んだ。そんな言動さえ格好いい。
「すごい自然でしたね。なんていうか、手慣れてる感じがしました」
俺が感心していると、隣で関さんがふと笑った。それから、穏やかに語りはじめるんだ。
「オレの古い友人に、少しだけ足が不自由な奴がいてな。なにかあれば、学校で手助けしてたんだ。そいつはいつも前向きでいい奴で……。オレは将来、そんな奴らの支えになりたくて介護士を目指してるんだ。手慣れてるというよりも、体が勝手に動くと言った方が正しいな」
聞いたこともないほど、あたたかみのある口調だった。関さんって、こんなにも優しい声を持っていたのか。
驚きと共に、初めて関さんの夢を知り、俺は心の奥がじんわりとあたたかくなる。
「立派な夢があるんですね」
「意外だろ?」
「いいえ……。あっ。いや、正直言うとかなり意外でした」
「おいこら。ちょっとは気遣え」
「すみません。でも、本当に素敵な話だと思いました。俺は……将来の夢がありません。目指してるものもないですから、大きな志がある関さんを尊敬します」
恥ずかしさを誤魔化すように、俺は渇いた声で笑ってみせた。
関さんはこんな俺をなんとも言えない表情で睨むと、静かに口を開く。
「お前はまだ若い。焦らなくても、夢がほしけりゃこれからいくらでも見つけられる」
「えーっと。関さん。俺たち五歳しか違わないんですが……?」
「オレにとって高校生なんてクソガキだよ」
クソは余計ですよ! と俺が言うと、関さんは茶化すように鼻で笑う。
それから真面目な顔になって、俺にこんな言葉を向けた。
「案外、きっかけなんて近くに転がってるもんだ。それに気づいたら、なりたい自分を目指せばいい」
今まで俺は、関さんはただの怖い先輩だと思っていた。でも、それは全然違った。根は優しくてすごく真面目な人なんだと気づかされた。
関さんからもらった言葉は、今の俺にはなかなか実感が湧かない。でも、いつか理解できるときがくるかもしれない。きっと忘れないでおこう。
これ以上の私語は慎め、と言いながら、関さんはその後も丁寧な接客を続けた。オフのときには決して見せない、親しみのある笑顔。このギャップが、一層関さんのよさを出していると俺は思った。
──午後四時。客足が落ち着き、店内は再びまったりとした時間が流れる。
バイトが終わるまで、残り一時間。ラストまでの時間の流れが、いつも遅く感じるんだよな。
カウンターに立ちながら、帰りは寄り道でもするか、などと考えていた、そんなときだ。
「──今日も頑張ってるみたいね?」
聞き覚えのある綺麗な声がした。お客さんの顔を確認し、俺は思わず「あっ」と声を漏らす。
「サエさん!」
カウンター越しに、私服姿の彼女が現れたんだ。
彼女は赤いシャツを着ていて、学校にいるときと比べて雰囲気が違う。私服だから、というわけじゃない。たぶん、メイクをしているからか。目元がさりげなくキラキラしていて、いつも以上に大人っぽく見える。
「サエさん、来てくれたんだな!」
業務中にも関わらず、声を弾ませてしまった。校内でばったり会ったような感覚で。
嬉しくてつい、と言い訳を頭の中で並べる俺は、やっぱりマニーカフェ店員としては失格だ。
「あなたの作った抹茶クリームラテが飲みたくなって」
彼女は小さく微笑んだ。不意に見る彼女の優しい顔に、思わずドキッとする。
こんな表情もする人なんだ、と思った。
「俺が奢る」と伝えたのだが「遠慮するわ」と軽くあしらわれてしまった。以前ご馳走してあげるって、俺が一方的に約束したんだけどな。
「あんまりしつこいと、もう店に来ないわよ?」
そう言われてしまっては、仕方がない。渋々彼女からお金を受け取り、俺は抹茶ラテを作りはじめた。スチームミルクをカップに注ぎ、ホワイトクリームと抹茶パウダーを盛り付けていく。
出来上がった商品を、このまま彼女に手渡してもいい。だが俺は、諦めが悪い奴なんだ。
抹茶クリームラテを差し出しながら、俺は彼女に囁いた。
「六時にバイトが終わるから、それまで待っていてくれないかな」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。数秒だけ間を置いてから、ぎこちなく、ゆっくりと頷いた。
彼女は無言で俺から背を向け、窓際の席に座った。参考書らしきものを開き、耳にイヤホンをつけて勉強をはじめたみたいだ。
来てくれたのが嬉しくて、つい彼女を誘ってしまった。後悔したって遅いが、迷惑じゃなかったか心配になる。
「おいイヴァン」
関さんの低い声が真横で聞こえた。俺の心臓が飛び出しそうになる。
「す、すみません」
「まだなんも言ってねぇよ」
いえ、だいたい想像はつきます。今のやり取りを注意するんですよね?
俺が身構えていると、関さんは肩をすくめた。
「別に知人が来て喜ぶのは構わねえよ」
「そんなわけには」
「いいから、これだけは覚えておけ。客とは一定の距離を保つよう意識しろ。のちのち面倒なことになりかねないからな」
「え?」
一定の距離とは……? どういうことだろう。
これまでにない注意を受け、俺は思わず首を傾げる。
いや、知人や友人が来店したとしても、業務中は店員としての立場を忘れるなと関さんは言いたいんだろう。
「すみません。今後は気をつけます」
「わかりゃいい」
このときの、関さんの表情がどことなく固くなっている気がした。
──バイトが終わり、店を出た頃には陽が沈みかけていた。夕焼け空を見上げると、うっすら飛行機雲が描かれているのが目に映る。
明日はまた雨になるのかな。
店の裏側から表に出ると、不意にポケットの中のスマートフォンが受信音を鳴らした。
……嫌な予感しかしない。
中身を確認してみると案の定、父親からのメッセージが届いていた。
《イヴァン、バイトは終わったか。お前が本気で日本に残りたいなら、将来どうするのかを決めるんだ。お前がやりたいことを優先したい。だが、日本にいるきちんとした理由が見つからないのなら、イギリスで暮らすことも視野に入れるんだぞ》
その文言を見た瞬間、忘れていたはずのイライラが再び復活してしまう。
どの口が言っている? 俺がやりたいことをやらせてくれたことなんて、一度たりともないだろうが。
俺の頭の中に、苦い過去が途端に蘇る。楽しいとは言いがたい、小学生時代の話。
俺は、親に言われていくつもの習い事に通っていた。学習塾はもちろん、水泳やダンス、フットボールに加えてピアノやその他もろもろ。
塾のおかげで、苦手教科を少しでも克服できた。水泳教室に通ったことにより、泳げるようになった。ダンスレッスンを受けたから、体幹は強くなったしリズム感もよくなったと思う。ピアノのセンスはいまいちだが、譜面を読めるようになった。フットボールクラブに所属した経験から、体力の向上だけでなくチームワークの大切さも学んだ。
だがそれらは、どれもこれも俺自身がやりたかったものではない。日曜日以外、毎日なにかしらの習い事で予定が埋まっていた。
習い事をしている時間は、苦痛以外のなにものでもない。たまに学校行事や体調不良などで休めたときは、この上ないほどの至福だった。最高に怠い日は、仮病を使った。サボりに成功すると、また次もなにか理由を考え、サボりたくなる。
つまらない習い事なんて、俺にとってはストレスの塊に過ぎなかったんだ。
だから小学校卒業を機に、通っていた教室は全て辞めさせてもらった。これまで手にしたことがなかった自分の時間。自由が増えた日常は、天国に感じた。
その反動からか、中学生になってからは部活動など一切入らなかった。友だちと遊んだり、家でゲームをしたり、漫画や小説を読んだり、とにかく好きに過ごしていた。
これは、俺にとってあまりよくない経験になっているかもしれない。少なくともプラスの方向には転がっていない。
俺は高校生になった。なにをしたいのか、好きなことはなんなのか。自分でも分からなくなってしまったんだ。
でも──なにも持っていない俺でも、ひとつだけはっきりと言える。
俺は日本で生まれ育ってきた。文化も習慣も食の好みも、この国のものに慣れ親しんでいる。
どんなに混んでいても、列が乱れない日本。食事をする前は、必ず「いただきます」と手を合わせる日本人。旨くてヘルシーな和食料理。その他も全部、日本で生まれ育ったからこそ知れたよさだ。高校を卒業したとしても、この国から離れたくない。可能ならば、いつか帰化したいと思っている。
頑固で自己中な父親にそう伝えたとしても、簡単には頷いてくれないだろうが。
メッセージに返信することもなく、俺はスマートフォンの画面を睨みつけながら立ち尽くしていた。
「──なに? 怖い顔して」
ハッとする。
呆れたような顔をして、俺の目の前に彼女が立ってた。
「待てって言うからあなたを待ってたのに。ずいぶん遅いのね。店を出たら、あなたが機嫌悪そうな顔して突っ立ってるんだもの。驚いたわ」
まずい、彼女を待たせてしまった。しかも、無意識のうちに心のイライラが表に出てしまっていたようだ。
俺はあわてて首を横に振る。
「ごめん……少しだけ、考え事をしてた」
思わず口ごもってしまった。
こんな俺を見て、彼女は小首をかしげる。
「らしくない。なにか、あったの?」
彼女はゆっくりとこちらへ歩み寄った。それから、俺の顔をぐっと覗き込むんだ。
この瞬間に、甘い香りがふわっと漂ってくる。
たった今までイライラしていたはずなのに。負の感情が、俺の中から瞬時に消え去っていく。
……また、胸がドキドキしている。彼女の目を上手く見ることができなくなってしまう。
「サエさん」
「なに?」
「サエさんは、俺を見てどう思う?」
「え……どうって?」
突拍子のない俺の問いかけに、彼女は戸惑ったような表情を浮かべた。
ハッとして、俺は無理に続きの言葉を並べていく。
「俺はみんなと違うから、だから……そのっ」
どうしても、上手く言葉が出てこなかった。
自分でもよくわからない。どうしてこんなことを彼女に投げかけているのか。
俺の心音は、どんどんと騒がしくなる一方だ。
俺はなにを求めているんだろう。
「あなたは日本人よ」とフォローでもされたいのか? 自分から慰めを求めるなんてどうかしてる。
これ以上はいけない。彼女を困らせてしまうから。
ふと冷静になり、俺はこの質問を取り消そうとした──
「なんだかよくわからないけど。あなたを見たって、どうも思わないわ」
「……えっ?」
俺よりも〇・一秒先に、彼女が口を開いた。それも、うんざりしたように、はっきりとした口調で。
「あなたが他の人と違う? そんなわけないじゃない」
思いもよらない言葉に、俺は唖然とする。
ちらっと彼女の顔に目を向けると、その瞳はまっすぐで、そして透き通っていた。嘘を言っているようには見えない。
「俺は、こんな見た目をしているんだぞ。赤毛で青い目をしていて、肌だって白い。心は日本人なのに、本当の日本人じゃない。……国籍は、イギリスなんだよ」
そこまで俺が喋ると、彼女は肩をすくめた。眉間にしわを寄せるその顔は、どこか切なさが交ざっている。
「気にしちゃ、ダメよ」
微かに、彼女の声が震えた気がした。
「国籍なんてどうでもいいって思ってる。イヴァンはイヴァンなんだから。あなたはどこにでもいる普通の男子高校生よ」
彼女はゆっくりと右手を伸ばすと、突如として俺の左手を握ってきた。
予想外の出来事に、俺の全身がカッと熱くなる。
「サ、サエさん……?」
情けないほどに声が裏返ってしまう。
どきまぎする俺とは裏腹に、彼女は至って冷静な様子。
おもむろに俺の手のひらと自らの手のひらを重ねた。
初めて触れる、彼女の指先。細くて小さくて、でも、とても柔らかくてあたたかい。
俺の心臓が、高鳴った。俺の手の先から彼女の中へ、この心音が届いてしまいそうだ。
手と手を重ね合わせたまま、彼女はこう言った。
「私たちは、同じ人間よ。自分が何者かなんて迷う必要はない。国籍や人種がどうであれ、同じ空の下で生きているの」
誰からも言われたことのない言葉の数々に、俺は息を呑む。
変に慰めようとはしていない、けれど、俺の中に居座り続けるモヤモヤを自然と取り除いてくれるような力が、彼女の言葉には存在していた。
俺の手のひらをさっと放し、彼女は小さく息を吐く。
「で? どこにでもいる普通の男子高校生イヴァン・ファーマーは、どうして急に変なことを訊いてきたの?」
腕を組み、訝しげに問いかけてくる彼女はどこか不満げだった。
……そうだよな。いきなり変な質問をしたのは俺だ。彼女にとってはわけがわからないだろうな。
「ま、話したくなければ無理に訊かないから安心して」
これは、彼女なりの気遣いなんだろう。
俺の中にある、心の扉が開放される。そんな感覚がした。
いいかな、彼女にだったら。話してみても……。
これまでずっと、自分の中に秘める葛藤を一人隠し続けてきた。なんにも考えていないふりをして、出来るだけ周りと同じように振る舞い、社会に溶け込むよう意識してきた。
こんなことで俺が悩んでいたなんて誰も気づいていないだろう。
だけど、これを機に話してみるんだ。普通の高校生なんだと、俺を「俺」として見てくれる彼女に。
「改めて説明するけど、俺の両親はイギリス人で、俺自身もイギリス国籍なんだ。でも……俺が生まれ育ったのは日本だ。ずっとこの国の人間として生きてきた」
父の仕事の都合で、卒業後はイギリスに移り住むことになるかもしれない。それは正直、怖かった。国が違えば文化が違う。習慣も違う。言葉だって違う。
なによりも、イギリスにはあいつらが住んでいる。この赤毛を貶し、俺の語学力を嘲るいとこたちが。
父は、いつまで逃げるんだと無神経な言葉を俺に向けてきた。たしかに俺は、逃げているのかもしれない。だが、それのなにが悪いんだ?
父に抗うつもりなら、自分の力で生きていく術を見つけられればいい。だけど、今の俺にはそれができない。
目指すものがなければ、あの父親を説得するのは困難だ。
──俺は、それら全てを彼女にぶちまけた。話しているうちに、自分が情けない奴だと改めて思った。
日本を離れたくないと要望を大にしているわりには、自分の未来を決められずにいるのだから。
俺の話を終始無言で聞いていた彼女は、複雑な表情を浮かべる。なにかを考えるように目を伏せ、やがて小さく頷いた。
「あなたにそんな悩みがあったなんてね。お父さんのことも、親戚に言われたことも……気の毒に思うわ。しかも話を聞く限り、進路を決めないとあなたは英国へ強制送還させられるんでしょう?」
「いや、言いかた……」
俺は思わず苦笑する。あまり彼女は冗談を言うタイプじゃなさそうだから、どうリアクションをとっていいのか迷ってしまう。彼女はクスッと笑っていたけれど。
「あなたにはないの? やりたいことや好きなこと」
やりたいこと、か。残念ながら、なんにもないんだよな。趣味もない、夢もない、残念な男子高校生なんだ。
目指しているものがある人が羨ましいと思う。
話をしているうちに、ふと、先ほど関さんに言われたことを思い出した。足の不自由な友人がいるという関さんは、そういう人たちの支えになりたくて介護士を目指していると語ってくれた。
車椅子のお客さんにスマートな対応をしていた関さんの姿を思い浮かべて俺は続ける。
「バイト先の先輩に『きっかけは近くにあるものだ』と言われたんだけどな。今の俺には、まだそれを見つけられないんだ。なかなか難しくて」
あの言葉は、関さんだからこそ重い意味を持つ。
すると、彼女はなにか納得したように頷くと、あたたかい眼差しを俺に向けてくれた。
「焦らないで、イヴァン。あなたが後悔しないために。今はお父さんとの件で、あなたが自棄になっているように見えるの。だけどあなたには、自分の目標を見つけてほしい。……ううん、イヴァンならきっと見つけられるはずよ」
私が言うのもおかしな話だけど、なんて言いながら、彼女は苦虫を噛み潰したような顔になった。
──いいや、おかしくない。全然、おかしくないよ。
なんだろう、胸がきゅっと締めつけられるこの感じは。彼女の言葉が、俺の中にすっと入っていくような不思議な感覚もする。
誰かに自分の心の内を打ち明けたのは、彼女が初めてだ。
父の件や、いとこたちに言われたこと、自分自身が何者であるのか迷っていること。小学校時代の友人たちはもちろん、アカネにさえ伝えてこなかった。クラスの仲間にもバイト先の人たちにも、誰に対しても一切話していないんだ。
けれど今日このとき、彼女に打ち明けてよかったと心の底から思った。
「サエさんにそう言われると、なんかすごい嬉しい」
「大したことは言ってないけど」
「そんなことない。気持ちがすっきりしたよ」
「それならよかった」
彼女の頬に、小さくえくぼが浮き上がる。
……ああ、彼女はこんなにも可愛らしい笑顔も持っているんだな。
俺の胸の鼓動は、早鐘を打ち続けている。
「なあ、サエさん」
「なに?」
「今度はサエさんのことを教えてほしい。たとえば……進路とか。サエさんは卒業後はどうするのか、もう決めてるのか?」
俺がそう問いかけると、彼女は眉を潜めた。なにかを思うように遠くを見やったが、再び目線をこちらに戻す。
どことなく暗い口調になって、こう答えるんだ。
「私は……。上海交通大学に、行こうと思っているの」
シャンハイ? 上海ってまさか、中国の大学ということか?
想像もしていなかった返答に、俺は目を見開いた。