証明できない君と世界

小学校からの帰り道。

西に傾きつつある太陽の下を、ランドセルを背負った二人の子どもが走っている。

一人は私で、もう一人の子に手を引かれている。私は必死に足を動かしてついて行くが、小石に躓いて転んでしまう。

「いたっ…!」

ザリザリとしたアスファルトにぶつけた膝を庇う。見ると擦り傷ができていて、薄くなった皮膚には血が滲んでいた。

痛みと悔しさで涙が出そうになるのを堪えていると、ふと前方から声がした。

「悪いシノ、大丈夫か?」

そう言って、私の手を引いて走っていた子が駆け寄る。その子の額には汗が滲んでいた。

私はすぐに立ち上がり、無理矢理口角を上げて親指を立てた。「大丈夫」という意思表示と子どもっぽさ全開の強がり。

そんな私を、その子は一瞬ポカンとした顔で見つめた。しかしすぐにニッと笑うと、不意に私の左隣に並んだ。

「え…?」

今度は私がポカンとする。するとその子は私の手をギュッと握りしめた。汗で湿った手を握られ、私は顔が熱くなる。

困惑と恥ずかしさが入り混じった顔を、私は真横に向けた。

すると突然太陽の光がキラキラと当たり、その子の顔はよく見えなかった。だが、口元がニッと笑ったことだけは確認できた。そして「手を繋いで歩くか、シノ!」と言って、その子は足を一歩前に出した。

私は何だか嬉しくて、歩調を合わせて足を前に出す。


その時…


ぐらぐらぐらっ!


と、大地が唸るような揺れが私たちを襲った。


「うわっ」「きゃっ」

私たちはバランスを崩し、地面に倒れ込む。


ぐらぐらぐらっ!


またもや大地が揺れた。体の内部がかき回されるような奇妙な感覚と、激しく揺れてザワザワと葉を散らす周囲の木々。

さっきまで明るく光っていた太陽は雲に飲み込まれ、世界が灰色に包まれていく。

「シノ…っ!」

うつ伏せになった顔を上げて、私を呼ぶその子。私もハッと顔を上げ、互いに見つめ合う。


その瞬間。


ピシピシピシッ。


そんな音がしたかと思うと、突然私の視界に…いや、私の視界に映るその子の顔にヒビが入りはじめた。


まるでテレビの液晶画面にヒビが入ったかのようだ。私は咄嗟に手を伸ばした。その子になんとか触れようと。


しかし私の手が届く前に、その子のヒビは全身にまわって粉々になってしまった。

「あ……」

力なき声が出る。私は伸ばした手をだらんと地面におろした。


ゴゴゴゴッと遠くで音がした。山か何かが崩れ落ちるような音だ。嫌な予感が私の全身を駆け巡った。


数秒後。人々の悲鳴や叫び声、本能に危険を訴えるかのようなサイレンがあたり一帯に鳴り響いた。


つーと血の流れる膝を起こし、私は立ち上がる。「逃げないと死んじゃう」、そんな不安と恐怖を本能が伝えていた。


しかし今度は、私の視界が暗闇に包まれる。


そして私の体は、どこまでも暗い、光のカケラさえ存在しない、常闇に飲み込まれた。


人々の逃げ惑う声も、耳をつんざくようなサイレンも徐々に遠くなっていく。


そして私は、深い闇の底に落ちていく。


どこまでも、どこまでも。


落ちていく中、私は胸の前で両手を組み、強く想った。



「この世界に希望が持てないのだとしたら…
 私は…」






『黙祷』

教室中に、スピーカーから流れる放送の声が響き渡った。

席を立った生徒たちは静かに目を閉じ、それぞれ祈りを捧げる。


静寂の中、聞こえてくるのはジージーと鳴くアブラゼミの声だけ。

首筋にじんわりと汗が滲むのを覚える。俺は瞼を上げることなくこの時間が過ぎるのをただ待った。

きっちり三十秒経った時、『黙祷、おわり』との放送が流れた。その瞬間、教室中を包んでいた静寂が途切れた。

教壇に立つ担任教師が、ゴホンと咳払いする。

「みんな、ちゃんと亡くなられた方々へ祈りを捧げたか?今日で震災から十年だ。それぞれ辛いこと、悲しいことがたくさんあっただろう。それでもみんなは、今高校生として日々を全力で生きてる。もちろん、先生含め周りの大人たちだってそうだ。あの経験があったからこそ、みんなは…」

「先生、部活あるんで帰っていいすかぁ?」

担任教師の話に割り込む、坊主頭の野球部員。

クラス中がワッと笑う。担任は顔を赤くして一度咳払いをする。

「とにかく…!今日は多くの方にとって思うことがある日だ。くれぐれも羽目を外しすぎないように」

新卒ホヤホヤの担任は、そう言って教室を出て行った。これでやっと帰れる。みんなスクールバッグを担いで、談笑しながら足早に教室を出ていく。

あの野球部のおかげで担任の長話を聞かずに済み、俺は胸を撫で下ろす。

窓から校門前を見下ろすと、既に多くの生徒が帰路に着こうとしていた。今度は校庭に視線をやると、早々にユニフォームに着替えた野球部員とサッカー部員が元気にはしゃいでいた。


教室内に視線を戻す。既にほとんどの生徒が出ていき、がらんとしていた。電気も切られ、薄暗くなった空間に太陽が差し込んだ。


「帰るか…」

俺は一人呟き、バッグの中から銀色のベッドホンを取り出す。買った当初のキラキラとした光沢は色褪せ、今や銀色というよりネズミ色になっている。何度か落としたせいで細い傷も何本か入っている。

無言でベッドホンを首に下げ、バッグを担いで席を立った時-。


「あ、ちょっと待って」

不意に声をかけられた。顔を上げると、正面に女子生徒が立っていた。眠たげな垂れ目と、二つに括ったおさげが印象的な杵村《きねむら》さん。うちのクラス委員長だ。


「…何か用?」

俺は伏せ目がちに答えた。すると杵村さんは自分のバッグに手を入れ、中からスッと一枚の紙を取り出した。


「これ、間宮くんまだでしょ?」

そう言って、杵村さんが掲げたのは先週配られた進路調査票だ。名前の欄には綺麗な字で「杵村舞夏《きねむらまいか》」と記入されている。

「ああ…いつまでだっけ?」

正直配られたことすら忘れていた。杵村さんは調査票をバッグにしまい直してから口を開く。

「終業式までだから、タイムリミットは後三日ね。何も思いつかないのなら、名前だけ書いてくれればいいから」

杵村さんは優しく微笑む。そんな彼女の顔を見て、俺は一つ引っかかったことを口にする。

「杵村さんも、書いてないんだな」

「え?」

小首を傾げる杵村さん。

「だから、進路調査票。今杵村さんが見せてくれた紙、名前以外白紙だっただろ」

俺の言葉に、杵村さんはなぜか少し顔を綻ばせた。

「うん。間宮くんが提出してくれたら、私も書くつもり。だから最後の一人は私になる予定」

「それって…」

「それって俺への気遣いか?」と言おうと思ったがやめた。俺が最後の一人になって変なプレッシャーを感じないようにという配慮など、心優しい杵村さんがいかにも思いつきそうなことだ。

言葉を止めた俺を不思議そうに見つめた後、何かに気付いたように杵村さんは笑った。

「『間宮くんが最後の一人にならない』っていうのは、裏を返せば『間宮くんが提出しないと私が提出できない』ってことだからね?」

「あっ、そうか…」

俺は杵村さんの魂胆にやっと気づく。

杵村さんはスクールバッグを担ぎなおして、くるっと踵を返した。結んだおさげがふわっと揺れる。

「じゃ、私のためにも必ず書いてきてね。
 よろしく間宮くん」

ほんの少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、杵村さんは教室を出て行った。


「…さすがは委員長、だな」

俺は誰もいなくなった教室で、一人呟いた。

ジージーとうるさいセミの鳴き声と、野球部のかけ声が窓の外から聞こえてくる。

うざったいくらいに暑い夏が、すぐそこまで来ていた。


*******

「ただいま」

玄関の扉をスライドし、機械的に声をあげる。

返事はない。足元を見ると靴はあるため、妹は帰宅済みのようだ。

ガラガラと音の鳴る扉を閉め、鍵をかける。

靴を脱いで、歩くたびギシギシ悲鳴を上げる木の床を進んでいく。やや傾斜のきつい階段を登り、俺は二階に上がった。

二階は三つ部屋がある。左手が妹の部屋。右手が俺の。そして、俺たちの部屋に挟まれている小さな部屋が、物置き部屋だ。

俺はつま先を左手に向け、歩を進める。

コンコンコン、と妹の部屋の古びた扉をノックした。

「はーい」と中から元気のいい声が聞こえてくる。

カチャリ、と音がして扉が開く。


「おかえり、おにいちゃん」

中から姿を現したのは、中学のセーラー服に身を包んだ妹。右手にはシャーペンが握られていることから、勉強でもしていたのだろうか。

「ただいま。今朝明里が言ってたアイス買ってきたから、夕飯できるまで食べてていいぞ」

そう告げると、明里は満面の笑みを浮かべてシャーペンを放り出した。

「やったー!さすがおにいちゃん、わかってるぅ」

そう言って、扉も開けたままで明里はドタドタと階段を駆け降りていった。

「…ったく」

俺は嘆息しながら扉を閉めた。


自室にバッグを置き、制服を脱いで部屋着に着替えてから、下に降りる。

リビングを覗くと、ちゃぶ台で幸せそうにアイスを頬張る妹の姿があった。

俺は少し微笑んでから台所へ向かう。腕をまくって手を洗う。エプロンをつけて、米を炊飯器にうつし、水で研ぐ。

研ぎ終わった米を炊飯器にセットし、ピッとボタンを押す。そして冷蔵庫を開け、本日の夕飯の材料を取り出した。

今日はカツ丼とサラダを作る。

俺は先程スーパーで買ってきた具材たちを見下ろして、「ふう」と一つ息を吐いた。


リビングから流れてくるテレビの音。
「今日で鳥取地震から十年となりました。十年前の今日、鳥取県全域を震度六強、マグニチュード七.三の揺れが襲い、土砂崩れや家屋の倒壊によって多くの人々が…」


アナウンサーが深刻な声で、十年前の震災について話している。


「あれから十年か…」

俺はカタカタと音を立てて回る換気扇を見つめて、ぼそっと呟いた。



十年前。二千十年の七月二十二日、山間部を震源とした地震が鳥取を襲った。未整備だった山では土砂崩れが発生し、山間部に住む多くの人たちが生き埋めになった。また、この地震の後に市街地を震源とした中地震が群発し、建物の倒壊によって多くの人が犠牲になった。

幸い日本海側に位置することもあって大きな津波が来ることはなかったが、鳥取県で起こった自然災害としては観測史上最大の人的被害をもたらすことになった。

そして俺と明里は、この地震で両親を失った。父も母も倒れた家屋の下敷きになったのだ。

もちろん亡くなったのは両親だけではない。小学校の同級生や近所の人たちの中にも、命を失った人は数多くいた。

当時七歳と五歳だった俺と明里は何とか生き延び、その後は隣の市の倉橋市にある親戚の家で育てられた。

そこは母方の親戚の家だったのだが、正直に言うと俺たちとの折り合いはあまりよくなかった。なぜなら、俺たちの母は親族の反対を押し切って父と半ば駆け落ち的に結婚したからであった。そんな母と父との間にできた子である俺と明里は…当然可愛がられることはなかった。

そんないざこざに経済的な事情も加わり、俺が中学三年になる頃には母方の親戚たちは俺たちの面倒を見切れなくなっていた。


そこで俺たちは、最後の望みである父方の祖父母を頼った。彼らは俺たちがもともといた市である米神《よねがみ》市で医院を営んでおり、お金はたくさん持っていた。それに町のみんなから頼りにされるほどの人格者だった。

父方の祖父母は、俺と明里を引き取ることを快諾してくれた。俺と明里は当然安心のあまり胸を撫でおろしたが、その時の母方の親族たちの邪魔者が消えてせいせいしたような顔つきは今でも忘れられない。


ただ、俺たちは祖父母にある条件をつけられた。それは俺と明里で二人暮らしをすること。

祖父母は毎日夜遅くまで医院で働きづめであり、年齢的にも俺たちの生活の世話をする体力がなかった。そのため、祖父母が長年使っていなかった古い一軒家に、経済的な面倒だけ見てもらって住むことになったのだ。


そういうわけで、俺は米神《よねがみ》市の高校を受験し、高校入学を機に生まれ故郷へ帰ってきたわけである。



出来上がったカツ丼とサラダ、それに烏龍茶をちゃぶ台に並べる。俺と明里は向かい合って座り、手を合わせた。


『いただきます』

二人の声が重なった。

自分で作った料理に舌鼓を打ち、なかなか上手くなったもんだと思う。

「ん〜やっぱおにいちゃんは料理上手だねぇ。いっそ、お店とか開いちゃったら?」

明里がカツを頬張りながら言ってくる。

「いや…厨房だけならいいけど、接客が無理だから自分で店開くのはナシかな」

俺は烏龍茶で喉を潤してから言った。

「そっかー。もしおにいちゃんが陽キャだったらきっとメチャクチャ繁盛するだろうなー」

明里が俺をからかう。言い返したいとこだが、実際俺は…自分では思いたくないが、まあ、少なくとも陽キャではないことは本当だ。

「……」

俺は無言でどんぶりをかきこんだ。

「あっ。この猫可愛い〜!」

明里はテレビに視線を向けた。こいつの興味はすでに画面の中の猫にあるようだ。

俺はカチャッと箸を皿に置き、手を合わせる。

「ごちそうさま」そう呟いて、食べ終わった食器を台所に下げるため立ち上がる。

「えっ。おにいちゃんもう食べたの?」

明里が箸を置いて俺を見上げた。俺は肩をすくめ、「お前が遅いだけだろ?」と言う。

食器を持って台所に向かう俺の背中に、明里の声が届く。

「私がお皿洗うから、置いたままにしといてね」

明里の気遣いに、「ありがとさん」と俺は短く返した。

水で軽く汚れを落としてから、重ねた食器をシンクに置く。手を洗い、ギシギシと音を鳴らして俺は二階の自室に向かった。


ぼふっ。

すのこの上にマットレスを敷いただけの即席ベッドに倒れ込む。

「あー…なんか疲れたな」

天井を見上げ、呟く。なぜかいつもより疲れていた。それに、体よりも頭が。

「慣れない会話なんてしたせいかな…」

俺は放課後を思い出す。

杵村さんの策略にまんまとハメられ、進路調査票を提出しないといけなくなった。

穏やかで、誰にでも優しい。

ただそれだけの、人畜無害な感じの人だと思っていたが、まさかあんな落とし穴を掘るようなこともやってのける人だったとは…。

「人間って、本当に多面的だよな」

つい独り言が口から出る。俺は頭の後ろで手を組んで枕を作る。ふと天井に黒いシミがあるのに気づく。

杵村さんは、友達のいない俺に気を遣っていつも話しかけてくれる。それにみんながいる時ではなく、今日みたいな放課後とか、休憩時間で人が少ない時とかに。

それも全て俺への配慮なのだろう。なるべく俺が話しやすいように、と考えて時と場所を選んでくれている。

「はぁ…」

俺はため息を吐く。米神市に戻ってきたはいいが、小学生の時のような友達は誰一人として出来なかった。いや、俺自身が友達を作ろうとしていないだけだろう。

両親が亡くなり、明里と二人きりになった。

初めて行く土地にいきなり住むことになって、親戚の大人たちには散々鬱陶しがられた。

気持ちが落ち込んだまま新しい学校に転校し、同級生たちには厚い壁を作られた。

地震が起きる前のように、明るくて誰とでもすぐ友達になれた俺は、もうそこにはいなかった。

いつしか俺は、無気力無関心を地で行くような、冷え切った人間になってしまった。


もう高校二年の一学期が終わろうとしている。

きっとこれからあっという間に時間が流れていくのだろう。

来年は受験生だし…いや、そもそも今の俺の成績じゃ大学に行けるかどうかも怪しい。もし進学を諦めるのであれば、あと一年半後には就職して社会に出なければいけない。

ためしに自分が働いている姿を思い浮かべてみた。

「……」


無理だな。仕事で成果をあげられるかとか以前に、「報告・連絡・相談」すら出来そうにない。

外から微かにリーリーと虫の鳴く声が聞こえてくる。今日は夏の夜にしては涼しく、どこか寂しさ漂う静かな夜だった。

「はぁ…」

俺はまたため息を吐き、ポケットからスマホを取り出した。画面の光が俺の顔を照らす。

時刻は八時前。

俺は疲れを取り去るように重い頭をブンブンと振り、ベッドから立ち上がった。

机に置いたベッドホンを首にかけ、スマホをポケットに突っ込んで部屋を出る。

下に降りると、ちょうど明里が皿洗いをしていた。イヤホンで何か音楽を聴いているのか、ふんふんと鼻歌を歌っている。

「明里、ちょっと出てくるぞ」

俺の声に、明里は片耳だけイヤホンを外した。

「はーい。あんまり遅くならないでよ?」

俺は右手を挙げて答え、廊下を歩いて玄関に向かった。

靴を履き、鍵を開けて外に出る。

リーリーという虫の音が、部屋で聞いた時よりもさらに大きく俺の鼓膜を揺らした。

俺は裏庭に回り、たまにしか乗らないママチャリを引っ張り出すと、勢いよくまたがった。

ペダルを踏み込み、夜の冷えたアスファルトの上を走らせた。


心がモヤモヤする時は、海でも見に行こう。


俺は思い立つまま、虫の声だけが響く真っ暗な田舎道を、ママチャリで走り抜けるのだった。

自宅から自転車で約十五分。

俺は潮の香り漂う夜の海に着いていた。

「皆生《かいけ》海水浴場」として地元民には親しみの深いこの海。

皆生は温泉街として栄えていて、海沿いの道には旅館が立ち並んでいる。

旅館の窓から溢れた光が水面に反射し、夜の皆生はどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

俺は浜辺の前の道路脇に自転車をとめた。
そして、道路と浜辺を分ける冷たい石壁に手をかけ、ふわっと軽く飛び越えた。


さく。さく。


一歩、また一歩と足を動かし、砂浜に靴跡をつけていく。次第に目の前の大きな黒い海が近づいてくる。


ざざー。ざざー。


波がこちらにゆっくりと押し寄せる音が、俺の耳に入る。その音は鼓膜を通って身体全体に染み渡る感じがした。

「きもちいいな…」

ひとりごちて、俺はそっと瞼を下ろした。

波の音を聴き、微かに吹く潮風に当たり、海の匂いを嗅ぐ。

人間の持つ五感のうちの三つをフル活用して、俺はこの夜の海と一体になろうとする。

こうしていると、さっきまでの悩みや不安が和らいでいく。クラスメイトのこと、学校のこと、進路のこと、そして、俺自身のこと。

俺を煩わせるものたち全てが、次々と輪郭を失っていく。ほとんど透明なくらいに色も薄くなって、夜の海へ溶け込んでいく。


「世界からしたら、俺の悩みなんてほんの些細なものなんだろうな」

俺はまたひとりごちて、そっと瞼を上げた。

少しぼやけた視界に映るのは、冷たさと優しさを併せ持って、規則的に押し寄せる波。

そのまま目線を上げると、世界の果てまで続くような夜の水平線が静かに広がっていた。


少し砂浜を歩こうかな。


そう思い、俺は体を海と平行にするために回れ右をした。


「ん?」

その時、目線の先で何かが一瞬光った。


さくさくと音を鳴らして、俺はキラッと光が見えた方向へ歩いていく。


何か落ちているのだろうか…?


俺は細心の注意を払って、目線を下気味にして歩く。するとまた、キラッと何かが光る。

「ん…?って、あれは…」

俺は異変に気づいて駆け出した。


「大丈夫ですか!?」


俺は、うつ伏せで倒れている人を発見して思わず声をかけた。

その人のすぐそばまで駆け寄り、膝をかがませた。

「大丈夫ですか!」

もう一度同じ言葉をかける。倒れているのは髪の長い女性で、着ている服は砂まみれになっている。


…何か事件や事故に巻き込まれたのか?

そう思い、俺はポケットからスマホを取り出す。
百十番?救急車?いやその両方か。とりあえずどこかに連絡をしなくては…

そう思って取り出したスマホの画面には、今にもゼロになりそうなバッテリー残量が表示されていた。

「くそっ…充電するの忘れてた…」

普段ろくにスマホを見ないことが災いした。
俺はポケットにスマホを突っ込み、倒れている女性を抱え起こした。


「……っ」

俺は一瞬ドキリとする。

なぜなら、静かに眠るその女性の顔があまりにも綺麗だったからだ。

それと同時に、女性というよりは少女といった方が適切な気もした。ほんの少しだけ、あどけなさがまだ残っていたからだ。おそらく俺と同じく十代後半くらいだろう。

「大丈夫ですか?しっかりして下さい!」

俺は少女の体を揺らした。俺の瞳がキラキラと光る少女の髪飾りを捉える。

真珠の貝殻の髪飾り。これが先ほどの謎の光の正体であることに今気づいた。

「ん……」

体を揺らし続けていると、少女が微かに声を発した。ようやく意識を取り戻したようだ。

「っ…くん……」

苦しそうに顔を歪め、小さく唇を震わせる。
俺は少女の顔をじっと見つめた。

すると、少女の瞼がパッと開いた。

唐突に俺と少女の視線が交錯する。

その時、雲に隠れていた月が顔を出した。白い光が少女の顔を照らす。

「あの… 大丈夫ですか…?」

俺はゆっくりと言葉を発した。静かな波の音が俺たちの間を伝ってくる。

「ここは…どこ…?」

少女はそう呟いて、不意にがばっと起き上がった。

「ここは皆生の海岸ですけど…あなたはどうされたんですか?」

俺は少女の横顔に問うた。少女は茫然自失として座ったままでいる。

「なんで…私こんなところに…」

少女は周りを見渡した。

「あの…ひょっとして何があったか覚えてないんですか?」

俺は恐る恐る尋ねる。少女は俺の方を振り返る。貝殻の髪飾りがキラッと光った。

「何があったのかどころか……自分が何者なのかすら覚えてないわ」

「え…」

俺は言葉を失う。それって…記憶喪失?

俺の首筋にじんわりと汗が滲む。少女は服に着いた砂を手で払いはじめる。

「あれ…その服は…」

俺は少女の身を包む服を眺めた。紺色のセーラーに赤いリボン。それは米神市内のある高校の制服だった。

少女は大きな瞳を俺に向けた。凛とした顔で見つめられ、思わず俺はかたまってしまう。

その時。


ぐぎゅるるる。


大きくお腹の鳴る音がした。

「え…っ?」

気の抜けた声が俺の口から出る。鳴ったのは俺のお腹ではない。少女は俺を見つめていた瞳をわずかに逸らした。頬は微かに赤くなっている。

「悪いんだけど…」

少女が小さく口を開く。

「は、はい」

俺は少し遅れて返事する。


「ご飯、食べさせてもらえない?」


*******


「おにいちゃんが…彼女を連れて来た…!」

謎の少女を後ろに乗せ、ママチャリで家まで帰った俺。リビングに入って早々、漫画を読んでいた明里に驚愕の眼差しを向けられた。

「彼女じゃねーよ。この人は…さっき海で出会った人だ」

俺はぽりぽりと頭を掻いて、左隣に立つ少女の顔を見た。

「お邪魔します」

少女は無愛想な顔でぺこりと頭を下げた。

「えっと…つまりおにいちゃんは彼女でも何でもないさっき出会ったばかりの人をいきなり家に連れ込んだってこと?」

今度は若干引いたような目つきで明里が言った。

「単なる事実の羅列なのにどうしてこうも犯罪臭がすごいんだろうな…」

俺は頬に汗を浮かべて言った。するとまた隣から「ぐぎゅるるる」とお腹の鳴る音が。

「本当に悪いんだけど…空腹で今にも倒れそうだわ」

少女がお腹をおさえる。顔色も幾分か悪いように見えた。

「すぐに何か作るから、そこにあるお菓子でも食べて待っててくれ」

俺はちゃぶ台の上の煎餅の袋を指差してから、台所へと走った。

「恩に切るわ」

少女はちゃぶ台の前に行儀良く正座し、煎餅に手を伸ばした。

紺色の制服姿の少女を、明里は目を丸くして見つめている。

俺は台所にある冷蔵庫を開け、中を見渡す。

豚肉と焼きそば麺を発見した。さらに野菜室を開けると学校の帰りに買ったキャベツがあったので、俺は時短で焼きそばを作ることを決意した。


とりあえず豚肉を食べやすい大きさに切り、キャベツも千切りにする。

フライパンにごま油を入れ、カットした肉とキャベツを炒める。炒め終わったら一旦皿に移し、同じフライパンに焼きそば麺を投入。

豚肉の旨みをしっかりと麺に吸わすように片面ずつ焼き、箸で麺をほぐす。

ここでソースを投入し、混ぜ合わせる。ジュウジュウとした音と、ソースを絡めた麺が炒められる良い香りが台所中に広がる。

さらに豚肉とキャベツも入れて、もう一度全体を混ぜ合わせる。薄い煙がもくもくと上がって、換気扇に吸い込まれていく。

炒め終わった麺を皿に移し、最後に青ノリをぱっぱと振る。簡単でうまい焼きそばの完成だ。

冷えた麦茶がなみなみ注がれたコップと、出来上がった焼きそばを持ってリビングに向かった。

明里と少女はちゃぶ台を挟んで向かい合う形で、何やら話をしていた。

「ふむふむ…。気づいたら山の中で倒れていて、一日かけて何とか下山したら今度は海に着いて、最後は空腹で倒れてしまったと…」

明里は顎に手を当てて、ふむふむと頷きを繰り返していた。

少女は正座していて、ぴんと背筋を伸ばしている。天井の照明を反射して、少女の髪飾りが一瞬光る。

「とりあえず焼きそばを作った。味は保証しないぞ」

そう言って、俺は焼きそばが乗った皿と麦茶をちゃぶ台の真ん中にそっと置いた。

「いただきます」

少女はすぐに箸を手に取り、麺を啜り始めた。
すごいスピードだ。よっぽどお腹が減っていたのだろう。

俺はちらっとテレビの横のゴミ箱を見やる。開けられた煎餅の袋がごっそりと入っていた。

俺は一度嘆息し、明里の隣に腰をおろした。

正面の少女は、一心不乱に焼きそばを頬張っている。すごくいい食べっぷりだが、箸の扱いや麺の啜り方に汚さは一切なく、とても美しい所作だ。

「おにいちゃんの焼きそば、気に入ってくれたみたいだね」

明里が小声で俺の耳元に囁く。俺は一度明里の顔を見やるが、特に言葉は返さない。嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちだった。

やがて少女は皿を空にし、カタッと箸を置く。
そして、冷えた麦茶をごくごくと飲み干した。

「…ごちそうさまでした」

少女はパン、と両手を合わせた。心なしか顔の血色も良くなっている。

「…それで、なんだけど」

俺は首筋に手を置いて、重たい口を開いた。少女が俺の目を見る。

「ほんとうに、記憶喪失ってことでいいのか?」

俺の言葉に、少女はこくりと頷いた。

「ええ。本当に何も記憶がないわ。唯一覚えていることといったら…名前ぐらいかしら」

少女は淀みない口調で答える。すると明里が急に身を乗り出した。

「え!?お姉さん、名前覚えてるの?
 ねえどんな名前?教えてよ!」

明里の目は輝きを宿していた。俺は少し嘆息してから、口を開く。

「俺も知りたいな。名前がわかれば、それだけで大きな手がかりになる」

少女は一度息を吐いてから、口を開いた。

「私の名前は…凪沙《なぎさ》よ。穏やかな波の凪《なぎ》に、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の沙で、凪沙」

「沙羅双樹の花って平家物語に出てくるやつだよね?」

明里がひとりごちる。俺は質問を続けた。

「名字は何て言うんだ?」

すると、少女は困ったように汗を浮かべた。

「名字は…思い出せないわ。下の名前が凪沙ってことしか、覚えてないみたい」

「…マジか」

俺は腕を組んだ。名字が分かれば、誰かに「○○さんって知ってます?」と尋ねやすいものだが、どうにも下の名前しか分からないとなるとそれも難しい。

「でも凪沙さんって、東高の制服着てるよね?なら普通に考えて、東高の生徒なんじゃない?」

明里が口を開く。そう。明里の言う通り、少女の身を包んでいる紺色のセーラーと赤いリボンは、近所にある米神東《よねがみひがし》高校の制服だ。

「それも分からないわ。けど、この制服がその高校のものであるのなら、その可能性が高いのでしょうけど」

少女は、自分の胸元のリボンを見た。つられて俺も少女の胸元に視線をやる。

……結構大きいな。

一瞬、俺の脳内に邪《よこしま》な思考がよぎった。俺は慌てて頭を空にするようにブンブンと振った。

「何してるの?おにいちゃん」

明里が隣から怪訝な視線を送ってくる。少女も不思議そうな瞳で俺を見る。

「な…なんでもない。気にするな」

「えーなんか怪しい」

明里はまだ俺を訝しんでいる。俺はそんな明里を無視して口を開いた。

「まあ、とりあえず明日にでも東高の方へ連絡を取ってみたらどうだ?それがダメなら警察に行くとか。…もしかしたら親御さんが捜索願いを出してるかもしれないしさ」

俺の提案を聞き、少女はそっと自分の顎に手を当てた。長い黒髪が少し揺れる。

「…まあそうするしかないわね。…けど、明日になるまでどこで過ごそうかしら」

少女が呟くと、明里が自分の胸をドンと叩いた。

「うちに泊まればいいじゃない!この家は私たち二人しか住んでないし、空き部屋も何個かあるし!」

「…ってマジで言ってんのか!?」

俺は慌てて明里の方を見る。明里は名案を思いついたように自慢げな表情をしている。

「大マジに決まってるわよ。それともおにいちゃん、こんな可愛い女の子に野宿でもさせる気なの?」

明里がまるで責めるような目をして言う。

確かに外で女子を一人で寝かせるなど、絶対に避けなければいけないことだが…一応、俺と少女は年頃の男女なわけで、俺もそうだが少女だって不安ではあるんじゃないか…?

少女はちらっと俺の顔を見た。

「…妹さんには悪いけど、遠慮しておくわ。いきなり押しかけてご飯までご馳走になって、その上泊めてもらうなんて申し訳ないもの」

そう言って少女は立ち上がった。

「ちょっと待ってよ、凪沙さん!」

明里も立ち上がる。俺は座ったまま二人を見上げていた。

「大丈夫よ妹さん。住宅街にある公園とか、夜でも比較的安全な場所で眠るから。私、そろそろ行くわね」

「凪沙さん…」

少女は明里に優しく微笑んだ。俺はそんな少女の姿を黙って見つめているだけだ。

「焼きそばおいしかったわ。腹ペコで死にそうだったから、本当に助かった。ありがとう」

少女は俺の目を見て小さく頭を下げた。そしてくるりと背を向け、リビングの出口へと一歩足を進める。


「待てよ」

「…っ!?」

気づいたら俺は立ち上がり、少女の手首を掴んでいた。少女は困惑したような顔で振り返る。

「俺は気にしないから泊まっていけよ。…ま、そっちが不安じゃないなら、な」

俺は少し俯いてそう言った。

「…本当にいいの?」

少女は少し目を丸くした。

「だから俺は大丈夫だって。明里もああ言ってるし、事件や事故に巻き込まれたら俺の責任になっちまうから、むしろ泊まってくれた方が助かる」

俺は握っていた手首を離した。少女は体の向きを変えて俺に向き直る。頭一個分だけ違う俺たちは目を合わせた。

「じゃあ、本日はお世話になります」

そう言って少女が深くお辞儀した。俺は少し慌てる。

「そ、そんな改まらなくても…えっと…」

俺が言い淀んでいると、少女は頭を上げた。そして、少しだけ口元を上げて、

「凪沙でいいわよ。…そっちの名前は?」

「えっと…間宮律《まみやりつ》。間宮とか、呼び捨てでいいから」

「了解。じゃあ、間宮くんと呼ぶわね」

凪沙が言うと、黙って見ていた明里が「はい!はい!」と叫んで手を挙げた。

「凪沙さん!私は間宮明里と申します!」

「わかった。よろしくね、明里ちゃん」

凪沙は少し首を傾けて微笑んだ。明里は「えへへ。凪沙さんに名前で呼ばれちゃった」と嬉しそうに笑みを溢している。

俺は嘆息し、ちゃぶ台の前に座り込んだ。

「疲れてるだろうから、先に風呂入りなよ。パジャマは明里のを貸してもらってさ」

そう言って、俺はリモコンを手に取った。

「ありがとう。そうさせてもらうわね」

「あっ!お風呂場案内する!」

そう言って二人はリビングを出ようとする。
俺はピッとリモコンを押し、テレビをつける。

画面には「いつか起こる地震に備えて」というテロップと、専門家が防災の重要性を語る姿が映し出された。防災特集か何かをやっているのだろう。

すると不意に画面が切り替わり、揺れる市街地と土砂崩れの映像になる。十年前の鳥取地震の瞬間だった。


「あの…凪沙さん?」

すると、後ろで心配そうな明里の声がする。俺はそれに気づいて振り返った。


「………」


そこには呆然とした顔を作り、微かに震える足で立ち尽くす凪沙の姿があった。

ジージーとうるさいセミの鳴き声と、窓から差し込む朝日の眩しさで俺は目を覚ました。

「ふぁ…ねむ…」

瞼を擦りながら階段を降りる。向かった先の台所は白い陽の光に包まれていた。

「さてと…」

俺は一旦伸びをしてから、フライパンを火で温め始めた。これから朝食を作る。三人分の。

トースターで食パンを焼いている間に目玉焼きとウインナーを焼く。パチパチと火の音がして、油が少し跳ねる。


「おにいちゃんおはよぉ…」

眠た気な声を出して、パジャマ姿の明里が降りてきた。まだ瞼が半分上がってない。

「おはよう。凪沙は?」

目線はフライパンのまま俺が答える。掃除してない空き部屋は埃まみれだったため、昨晩凪沙は明里の部屋で寝たのだった。

「まだ寝てるよ。相当疲れてるみたい。ふあぁ…」

明里が大きな欠伸をして答えた。俺は「ん」と頷き、皿に乗せたトーストに焼き上がった目玉焼きを乗せていく。

出来た朝食をリビングに運び、俺はちゃぶ台の前に腰をおろした。陽の光で明るいため電気はつけない。

「今日は暑くなりそうだね」

明里がカーテンを開けて言った。相変わらずセミの声がうるさい。

「だな」

短く答えて俺は壁にかけられた時計を見た。
七時十分。凪沙はそろそろ起きてくるだろうか。

そう考えていると、ドタドタと階段を降りる音が聞こえてきた。足音は次第に大きくなり、ガチャッといってリビングの扉が開いた。

「おはよう。少し遅くなったわ」

パジャマ姿の凪沙が入って来た。袖を余らせ、肩口が少しだぼついている。長い黒髪は乱れ気味で、アホ毛が一本立っていた。

「おはよう。朝ごはん作ったから食べようぜ」

俺は振り返って言った。凪沙は無言でちゃぶ台に座り、明里も座った。三人で朝食を摂るという、この家に引っ越して初めての光景がそこにあった。

トーストを齧り、明里がテレビをつけた。朝のニュースが映り、女性アナウンサーのはきはきとした声がリビングに広がる。

「今日はどうするんだ?」

俺は左手に座る凪沙に聞いた。

「とりあえず午前中のうちに東高へ電話してみるわ。もし私に親がいるのなら、突然いなくなった私のことを心配して高校側にも連絡するでしょうし」

言いながら凪沙はコーヒーを飲んだ。

「そうだな。俺と明里は学校があるけど、もしダメならうちにいてくれ。記憶を取り戻して自分の家に帰るまでは、うちで生活すればいい」

昨晩凪沙がシャワーを浴びている間、俺と明里が出した結論は「凪沙の身元が明らかになるまではうちに泊める」だった。

「…ごめんなさい。迷惑かけるけど、正直とても助かるわ」

凪沙は申し訳なさそうな顔をする。俺は肩をすくめ、

「気にしないで。俺たちは大丈夫だから」

俺はウインナーを口に放り込んだ。

「あ!そうだおにいちゃん、今お金いくらある?」

突然思い出したように明里が俺を見た。

「お金?貯金なら五、六万はあったはずだけど…なんでいきなり?」

俺は手をとめて目を丸くした。明里は「はぁ」とため息を吐いて口を開く。

「いやさあ、凪沙さんスタイル良いから私のパジャマ小さくておにいちゃんの着てんじゃん?下着も同じく私のじゃ合わなくてさ。パンツはいいんだけどブラとか私のじゃ絶対入らないからさ…」

「ぶっ!」

俺は思わず口に含んだコーヒーを吐き出した。
本人のいるところで、そんな刺激強めの単語を並べられて平静を保てるはずがない。

「…私今真剣に話してるんだけど?」

顔を上げると、明里がキツい表情で俺を睨みつけていた。さらにちらっと左を見ると、少し頬を赤くした凪沙がトーストを齧っていた。

「わ…わりぃ。で、なんだ?」

俺はなるべく真剣な表情を作って聞いた。

「だからさ、凪沙さんの着るものを色々と買う必要があるのよ。それで今日私たちが学校行ってる間に、凪沙さんにお金渡して買って来てもらおうと思って」

「ああ。なるほどな…」

俺は事情を把握し、顎に手を当てた。

経済的援助は祖父母がしっかりしてくれているおかげで、お金に不自由は全くしていない。一通り服や下着を揃えたところで痛い出費にはならないだろう。

「わかったよ。凪沙、後でお金渡しとくから…その、しっかりと買ってこいよ」

俺は凪沙から目を逸らす。妹め、年頃の男子に一体何を言わすんだ。

「あ、ありがとう間宮くん。いつか出世払いで返すわね」

凪沙も俺から目を逸らして言った。なんとも気まずい空気が流れる。明里はそんな俺たちを見て「?」を浮かべていた。



「じゃ、俺たちは学校行くから」
「またね凪沙さん!何かあったら電話してね」

それぞれの制服に着替えた俺と明里は、玄関で凪沙に手を振っていた。

「気をつけてね」

凪沙はクールな表情で手を振り返した。

俺たちは家を出て、学校への道を歩き出した。
むわっとした暑さを全身に浴び、早速汗が出てくる。ジージーと鳴くセミの声は、確実に朝よりも大きくなっていた。

「あっつぅ…」

明里が肩をだらっと下げた。

「早くクーラーの効いた教室に飛び込みたいな」

俺も額に汗を浮かべて答える。少し歩くと、目の前に信号が現れた。

「じゃね、おにいちゃん」

明里は信号を待たずに曲がっていく。俺の通う高校と明里の中学は方角が違うのだ。

「おう。気をつけろよ」

俺はスクールバッグを持っていない左手を少し挙げ、妹を見送った。

ふと、空を見上げる。

瑠璃色の空に真っ白な太陽が輝いていた。照りつける日差しが容赦なく俺の肌を焼く。

「夏か…」

俺は今年で十七回目となる夏を、頭のてっぺんからつま先まで全身で感じ取った。


*******

クーラーの効いた教室に入ると、あまりの涼しさに息を吹き返した。

始業まで残りわずかなこともあり、教室内は既に生徒で溢れかえっていた。

みんな席を立って、それぞれ楽しそうに話し込んでいる。俺はそんなクラスメイトたちを尻目に、教室の後ろを通ってそそくさと自分の席へ向かう。

すると、どかっと誰かと肩をぶつけた。否、ぶつけられたという方が正しいだろう。

「いってーな。どこ見て歩いてんだよ」

見ると、俺の前にある男子生徒が立ち塞がっていた。カッターシャツを全開にし、くすんだ金色の髪を逆立たせた男。俺より頭一つぶんだけ背が高く、見下ろされる構図になる。

「…ごめん」

俺は小さく謝罪を述べる。すると男の周りに立つ仲間たちが、へらへらと笑みを作った。

「は?今何か言った?」

金髪の男がわざとらしく自分の耳に手を当てる。俺は嘆息し、

「ぶつかって悪かったよ。今後は気をつける」

俯き加減に、今度はちゃんと声を張ってそう言った。俺は男の間をすり抜けようと身をよじる。

「おっとお!まだ席にはつけねーぜ?」

男は体を横移動させて俺の進路を塞ぐ。

「……」

俺は無言で立ち尽くす。はぁ、全く勘弁してくれよ…

朝からクラスの不良、岩田永治《いわたえいじ》とその一味に絡まれ、俺はどんよりとした暗い気持ちになる。

「人にぶつかっといて、そんな薄っぺらい謝罪で許されると思ってんの?なあお前ら」

岩田が仲間を見渡す。仲間たちは薄ら笑いを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「どう謝ればいいんだよ…」

俺はぼそっと呟く。足がほんの少しだけ震えてくる。岩田は不気味な笑みを浮かべ、そっと床を指差した。

「土下座しろよ。ド、ゲ、ザ」

「……」

俺は差された床を見つめる。ろくに掃除されてないせいで、木の床は少し黒ずんでいた。

「それか、一発ブン殴られるか。ちょうど昨日テレビでボクシング見たからよ、誰かを殴りたくてウズウズしてんだよなぁ俺」

そう言って、岩田はバキッと拳を鳴らした。
俺は下ろした視線を上げることができず、汚い床を見つめ続ける。

「俺は慈悲深いからさぁ、どっちがいいか選ばせてやるよ間宮。土下座か殴打か。さあ、どっちだ?」

岩田がおどけたような口調で言葉を発する。
「うっわ、理不尽!」
「さっさとドゲザしたらぁ?」

岩田の仲間たちは愉快なものを見るような目で言ってくる。俺は心臓が締め付けられる感覚を味わい、ごくりと唾を飲み込む。なんだか苦い味がした。

「おら、さっさと選べよ。それとも両方か?」

頭上から物凄い圧を感じ、俺は震える膝をわずかに折り曲げた。もう土下座してしまおうか…いや、ここで土下座なんてしたらコイツらは味を占めるだけだ。きっと事あるごとに土下座を要求され、もしかしたらもっと屈辱的なことをやらされるかもしれない。

「あと五秒以内に決めねぇと両方になっちまうぞ…」

岩田が少し語気を強めた時。

「あっ!間宮くんちょっといい?」

後ろから声がした。岩田と仲間たちが顔を上げ、俺も振り向いた。

「なんか先生が呼んでるみたいよ」

クラス委員長、杵村舞夏が手招きしていた。

「…っ!わかった、今行く…!」

そう言って俺は駆け出す。岩田たちは「チッ」と小さく舌打ちして、顔を背けた。

すんでのところで窮地を脱し、俺は安堵の息を漏らす。

「こっちこっち」

そう言って杵村さんは教室の外に出ていった。
俺もその後に続き、教室を抜けて廊下に出た。

廊下はシーンとしていて、微かにセミの声が聞こえるだけだ。先生などどこにもいない。

「ありがとう杵村さん。…助かったよ」

俺は首に手をやり、視線は下のままで言った。

「なんとか間に合ってよかったわ。あ、先生が来た。教室に戻りましょう」

杵村さんが廊下の奥を見て言った。それと同時に始業チャイムが鳴り響いた。

「う、うん…」

俺は杵村さんと共に、すっかり冷えきった教室へ戻った。


すぐに担任教師が姿を現し、朝のホームルームが始まった。業務連絡も早々に、昨晩観た映画の感想を熱く語り出したので、俺は肘をついて窓の外をぼーっと眺めた。校庭の隅に立つ木々は陽の光を受けて、木漏れ日を降らせていた。

その後は授業がはじまった。

特に真面目に聞くわけでもなく、ひたすらボーっとして過ごす。教師の目を気にして一応ノートだけはとるが、内容は一つも頭に入っていない。

野球部の坊主頭が当てられて、何かふざけたことを言った。クラス中が笑いの渦に包まれる。

俺は表情を変えることなく、下がってきた瞼にそのまま従った。目を閉じて、ゆっくりと夢の世界へ溶け込んでいく。


午前中の授業を終え、昼休憩になった。

俺は今朝コンビニで買った惣菜パンをバッグから取り出し、袋を開けた。

家でのご飯は必ず自炊するようにしているが、自分が学校に持っていく昼飯はオール冷凍食品の弁当で済ませたり、今日のようにコンビニで何か買うことが多い。中学は給食なので明里の弁当はいらないし、俺一人が食べるだけのためにわざわざ作るのは面倒だ。

ベッドホンを耳につけ、音楽を流す。大体昼休憩はこうして音楽を聴きながら、自分の席で一人昼飯を食べて過ごす。クラスメイトたちは机をくっつけ合って食べている。時々その光景をチラリと見つつ、俺は音楽の世界に自分を沈めていく。

パンを平らげ、手持ち無沙汰になった俺は再びボーっと窓の外を眺め始めた。すると何やら人の気配がして、俺は顔を上げた。

「あ、もう食べ終わっちゃった?」

弁当箱を掲げた杵村さんが立っていた。

「…何か用?」

俺はそっけなく答える。杵村さんは俺の正面に回り、前の席の椅子を引いて座った。

「お昼一緒にどうかなって。由佳ちゃんたちは学食行ったみたいだし」

おさげを揺らして杵村さんが言った。由佳ちゃん、というのは杵村さんとよく一緒にいる女子たちの一人だろう。

「ここで食べるのか?」

俺はヘッドホンを外し、首にかけた。杵村さんは弁当の蓋を開け、すでに食べる気満々だ。

「…だめ?」

杵村さんは上目遣いにこちらを見てきた。俺は一瞬ドキッとして目を逸らした。

「…だめじゃない、けど」

なんとか口から言葉を吐き出す。今朝岩田に絡まれているところを助けてもらった恩もあるため、邪険にはできなかった。

「やったぁ。じゃ、いただきます」

杵村さんは両手を合わせ、綺麗な所作で弁当を口に運び始めた。中身をちらっと見ると、女の子らしいカラフルな彩りが広がっていた。

「…杵村さん、今朝はありがとう」

「ん?」

俺の言葉に、杵村さんは顔を上げる。

「岩田たちにイチャモンつけられてたとこ、助けてくれただろ」

「ああ、そのことね。別に気にしなくていいのよ」

杵村さんはさして表情を変えず、静かに言った。

「…なあ杵村さん」

「ん?今度はなにかな?」

俺の問いかけにまた顔を上げる杵村さん。

「なんで俺みたいなやつに構うんだ?」

俺はずっと気になっていた疑問を口にする。杵村さんは一瞬目を丸くしたが、すぐにニッと意地悪そうに唇を上げた。

「…知りたい?なんで私が、間宮くんを気にかけているか」

「いや、知りたいっていうか…純粋に気になるだけだよ」

「それ、つまり知りたいってことだよね?」

「う…」

どんどん杵村さんのペースに巻き込まれていく。俺は言葉に窮した。

「間宮くん、メサイア症候群って知ってる?」

「…メサイア症候群?」

突然飛び出した知らない単語に、俺は首を傾げる。

「そう。例えばね、人助けをする人がいるでしょ。自分が犠牲になっても困っている他者を放っておけない、みたいな。そういう人って、実は無意識のうちに自分が誰かに助けてもらいたいって思ってることが多いんだって」

「そ…そうなのか?」

突然始まった心理学の講義。俺に構わず杵村さんは話を続ける。

「それはね、自分に自信が持てない人がなんとか自我を保つために、他人の救世主になる選択をすることが多いからなんだって。誰かを助けることで得られる満足感で、逆に自分を肯定してあげる、みたいな。こんな心理状態にある人のことをメサイア症候群って言うの」

「ああ…なるほど、な」

俺はなんとなく理解した。しかし、なぜいきなりそんな話を始めたのだろう。杵村さんはふっと俺から視線をそらし、箸で卵焼きをつつき始めた。

「私ね、自分のことあんまり好きじゃないの。
大して何の経験もないのに無駄に知識だけはあるとことか、中途半端に何でも出来ちゃうせいで、すぐ飽きてやめちゃうとことか。…要は、私は間宮くんを助けることでしか自分を肯定出来ない偽善者なのかなって」

「……」

俺は言葉を失う。正直何て返事をすればいいのか分からなかった。

「…ごめんね。何か自虐的になっちゃって、反応に困るよね。とにかく私は、みんなが思ってるほど優しくなんてないから。だから間宮くんも、今朝のこととか全然気にしないで」

杵村さんは微笑んだ。しかしその笑みには、どこか悲しげな色があった。

「じゃ、私席戻るね。そろそろ昼休憩終わっちゃうし」

「あ…」

俺が言葉を発するより早く、杵村さんは席を立って行ってしまった。俺一人になった机には、ふわっとシャンプーの甘い香りが漂っていた。

午後の授業を何とかやり過ごし、放課後。

凪沙のこともあり、とっとと家に帰るために俺は高速でバッグに荷物を詰めて教室を出た。

玄関で靴を履き替え、外に出る。むわっとした空気が全身にまとわりつく。

暑さは既にピークを過ぎたものの、未だに太陽は白く輝き、空から熱を撒き散らしている。

俺は人気の少ない裏門へと歩みを進めた。すると門の手前で「おい」と声をかけられた。

振り向くと、茂みから手にジュースの缶を持った岩田とその仲間二人が姿を現した。

「……何?」

俺は目を合わせることなく答えた。すると岩田は缶をくしゃっと握りつぶし、茂みへ投げ捨てた。

「何じゃねえんだよてめぇこら。今朝の件、俺まだ納得いってないんだけど?」

岩田は俺を睨みつけ、じわじわと距離を詰めてくる。俺は体が固まって動けない。

「…もう謝ったじゃないか。土下座なんてするほどのことでもないだろ」

なんとか喉から声を絞り出す。すると岩田はニッと唇の端を歪めた。

その瞬間、踏み込んだ岩田が俺の腹に強烈なボディブローを喰らわせた。

「ぐっ……」

俺は腹を押さえ、思わず片膝をつく。殴られた瞬間呼吸が止まり、じわじわとした痛みが胃の中に広がった。

「土下座しねえんだな?なら殴られるってことでオッケーだよなぁ?」

岩田は爛々とした瞳で俺を見下ろした。そして今度は俺の髪を鷲掴みにして、地面に顔を押しつけた。

「ゔっ…やめ…ろ…」

口の中に土が入る。俺は声を絞り出した。

「でも、既にお前に選択権はないぜ。しっかりと土下座もしてもらうからな」

岩田はぐいぐいと俺の額を地面に擦り付ける。

「はは!間宮がドゲザしてらぁ」
「おい!スマホ出せよスマホ!撮ろうぜ」

仲間たち二人はケラケラとはしゃぎながら、ポケットからスマホを取り出した。

「や…めろ…」

「言うべき言葉を間違えてんぞ。『すみませんでした』だろうが?おら、心を込めて謝れよ」

岩田は強い力で俺の顔を押し込み続ける。立ちあがろうにも重心が固定されていて体が言うことを聞かない。

「くそぉ…」

固く噛み締めた歯の隙間から声を漏らした。
もう一度、謝るしかない。

俺がそう思った時-。

「あなた、今すぐその手を離しなさい」

凛とした声が響いた。岩田が力を緩め、顔を上げる。

「聞こえなかった?今すぐその汚い手を彼から 離して」

岩田は俺から手を離し、立ち上がった。その隙に俺も顔を上げ、距離を取る。

そして振り返ると、紺色のセーラーに身を包んだ凪沙が、ゆっくりとこちらに歩みを進めていた。

「なぎ…さ…?」

突然現れた黒髪の少女に、俺を含めこの場にいる誰もが目を丸くした。凪沙は俺の前に立ち、岩田と向き合った。

「あなた、弱い者イジメ?最低ね。人間のクズよ」

凪沙は不良の岩田に少しも物怖じせず、キツい視線で睨みつけた。

「あぁ?何だてめぇ。間宮の知り合いか?」

岩田も物凄い剣幕で凪沙を睨みつける。見ている俺がドキッとしてしまいそうだ。

「あなたには関係ないでしょ?それとそこの下っ端二人、さっき撮った写真を今すぐ消して」

凪沙は少し離れたところにいる岩田の仲間たちをスッと指差した。仲間たちは一瞬顔を見合わせ、それから薄ら笑いを浮かべた。

「君、東高の生徒だよね?こんなとこに何の用?てか結構可愛いね」

「写真消して欲しいならさぁ、何か見返りが欲しいところかなあー」

仲間たちはずいずいと距離を縮め、岩田の隣に並んだ。

「見返り?一体何が欲しいのかしら?」

凪沙は表情一つ変えず、至極冷静に返した。仲間たちは凪沙の身体に舐めるような視線を這わせ、口を開いた。

「そりゃあまあ…ね」

「この後俺たちと付き合ってくれたら、たくさんイイことしてあげるよ」

ヘラヘラ笑う男たちを前にして、凪沙は心底呆れたように「はぁ」とため息を吐いた。

「あいにく、あなたたちみたいな下衆な男は趣味じゃないの。痛い目に遭いたくなかったら、とっとと帰って一人暗い部屋の中画面の前でハッスルすることをお勧めするわ」

「なっ…」
「この…クソアマがぁ…」

完全に仲間たちの怒りを買った凪沙。一人が目を血走らせて凪沙に襲いかかった。

すると凪沙はひらりと身をかわして、男の股間を鋭く蹴り上げた。

「うげえっ!」

男は情けない叫び声をあげ、地面にうずくまった。手は蹴られた股間を押さえている。

「何してくれてんだコラァ!」

もう一人の男が凪沙を突き飛ばした。凪沙は勢いよく地面に倒れ込む。

「なぎさっ!」

俺は思わず叫び声をあげた。凪沙に駆け寄ろうとするが、わしっと手首を掴まれる。

「お前の相手は俺だぜ?」

岩田が舌舐めずりをして俺を見た。そして俺の腹に強烈な膝蹴りを叩き込んだ。

「がっ…!」

俺は口から唾を吐き出し、またもや地面に膝をつく。しかし今度はキッと岩田の顔を見上げ、なんとか立ち上がる。

「お、やる気か?」

岩田は少し笑って半身に構え、ファイティングポーズを取る。俺は一瞬後ろを振り返る。男と凪沙は必死の形相で取っ組み合っていた。

「うおおおおおおおおおおお!!」

俺は覚悟を決め、走って岩田に突っ込む。

「はっ。わかりやすく正面から来るバカがいるかよっ!」

岩田は思い切り振りかぶる。そして腰の入った右ストレートが勢いよく飛び出した。

俺は岩田の拳が当たる一歩手前で、わずかに体制を沈めた。そして、そのまま岩田の脚を取って体重を預けた。

「うおっ!」

俺の渾身のタックルは見事に決まり、俺が上になる形で岩田は地面に倒れ込んだ。

「…っ!この野郎っ!」

岩田は暴れ馬のようにバタバタともがくが、俺にのしかかられているため身動きがとれない。

「くそっ…!」

俺は目をつぶりながら、振り上げた拳を岩田の鼻っ柱に叩き込んだ。ゴキッと嫌な音がして、俺の拳にジンジンとした痛みが広がった。

「ぐがっ…」

岩田が顔を逸らした。鼻血がつーと流れ出る。
俺がもう一度殴るために再び拳を振り上げた時。

「コラお前らぁ!一体何をしてるんだ!!」

大人の男の野太い声が響く。顔を上げると俺たちの周りは下校しようとする生徒たちが集まり、奥から教師が駆けつけて来るのが見えた。

「ヤバい…っ!」

俺は熱くなった頭が急速に冷えていくのを感じた。今のこの状況は、俺が岩田を一方的に殴っているようにしか見えない。

俺は岩田から離れ、地面に投げていたバッグを手に持って後ろに駆け出した。

「この…っ!クソアマめぇ…」

「はなしてっ…!ううっ…」

凪沙は、男に馬乗りになられて首を絞められていた。ハッとした俺は男の背中を思い切り蹴飛ばした。

「うわあっ!?」

男は頭から茂みに突っ込んだ。俺は急いで凪沙の手を取り、走り出した。 

「ここから逃げるぞ凪沙!」

「間宮…くん…」

凪沙は目を丸くしていたが、すぐに立ち上がって俺と一緒に走り出した。後ろから教師の「待たんかお前らー!!」と叫ぶ声が聞こえたが、構わず俺たちは走り続けた。



「はあ…はあ…」

俺たちは家の近くの公園に駆け込んだ。

学校からずっと走りっぱなしだったため、互いに息を切らし汗を流していた。

凪沙は額の汗を拭って、ブランコに腰かけた。
俺も隣のブランコに腰をおろし、乱れた息を整えた。

「大丈夫か…?凪沙…」

右に座る凪沙の顔を見る。唇が少し赤黒く腫れていた。地面に倒れたせいで制服も茶色く汚れている。

「まあなんとか。…間宮くんは?」

凪沙が俺を見る。俺は少し笑って、

「殴られはしなかったから、俺は大丈夫だよ」と答えた。凪沙は小さく息を吐いてから、少しだけ口元を緩めた。

「…やればできるじゃん」

「え?」

俺は聞き返す。

「だから、ちゃんと戦えるじゃない。あの金髪、殴ってやったんでしょ?」

凪沙は俺の赤くなった拳を見て言った。

「…小学生ぶりに、人を殴ったよ」

俺は自分の拳に視線を落とした。びゅう、と風が吹いて、さわさわと公園の木々が揺れた。

「小学生の時は、普通にケンカしてたの?」

凪沙が問うてくる。俺は笑って頷き、

「たまにな。昔はこれでも、やんちゃな方だったから」

「…そうなんだ」

凪沙はスカートから伸びる自分の脚に視線を落とした。白い皮膚には、少し砂がついていた。

「てか、なんで凪沙があそこに?」

俺は忘れていた疑問を口にする。

「散歩してたら、たまたま通りかかったのよ。そしたら間宮くんが不良に絡まれてたから、助けないとって思って」

「散歩って…東高へ連絡する件はどうなった?服とかは買ったのか?」

俺は次々と質問を投げかける。

「東高に電話してみたけど…『凪沙』なんて名前の生徒は在籍していないって。一応警察にも行って、捜索願いが出されてる人がいないか聞いてみたけど…」

「いなかったのか?」

俺の言葉に、凪沙はゆっくりと頷いた。

「で、午後から服を買いに行って、荷物が多くなったから一旦家に帰ったの。その後は暇だったし、歩いて街の景色でも見てたら何か思い出すかもって思って」

「それで、散歩してたわけか」

俺の言葉に、凪沙は再び頷いた。

俺は腕を組み、公園にあるジャングルジムを見ながら口を開いた。

「凪沙が東高の生徒じゃないとすれば…その制服は、一体誰のものなんだ?」

俺は凪沙の方を向いて言った。きい、とブランコのチェーンが音を鳴らす。

「…私以外の誰かのもの、ということになるわね。でもそれにしては、随分とサイズがぴったりだわ。まるで私用に誂《あつら》えられたかのように」

凪沙は地面を蹴ってブランコを揺らし始めた。
風でスカートの端が少し持ち上がる。

「…歳の近い姉妹がいたか覚えてるか?」

俺は質問を繰り返す。

「家族構成に関しては、思い出したわ。私は一人っ子で、父と母の三人暮らし。だから、この制服が姉や妹の物である線はナシね」

「そうか…」

謎が深まる。だとすれば、凪沙は友達の制服を借りて着ているということか?普通に考えて、それは意味のわからない行動に思える。

ぐるぐると思考を巡らすが、なんだか疲れてきた。俺はゆらゆらと揺れる凪沙の横顔を見て、ふと口を開いた。

「…凪沙は、何で俺を助けてくれたんだ?」

「え?」

キイ、と音を立て、凪沙がブランコをとめた。

「…誰かを助けるのに、理由なんているの?」

「え…」

今度は俺が聞き返した。凪沙は綺麗な瞳で、まっすぐ俺の顔を見つめていた。

「理由がないと人を助けられない方が、おかしいと思わない?」

凪沙はどこまでも純粋な瞳を俺に向ける。西に傾いた夕陽が、凪沙の顔を赤く照らした。

俺が何も言わないでいると、再び凪沙が口を開く。

「それに私は、さっき間宮くんを助けたなんて思ってない。さっきの状況を打破したのは、あくまであなた自身よ。私はキッカケになっただけ」

「凪沙…」

カナカナカナ、と遠くでひぐらしが鳴いた。夕陽のオレンジに染まった公園に風が吹き、木々が静かに揺れ動く。

「…でも世の中には、自己満足のためだけに誰かを助ける人もいるだろ?凪沙は、そういう人のことはどう思う?」

俺の脳裏に、昼休憩に杵村さんと交わした会話が浮かんでくる。

「そういう人、私は嫌いね。だけどそういう人を『偽善者だ』って批判してる人はもっと嫌い」

まっすぐな瞳を前方に向ける凪沙。俺はその綺麗な横顔を黙って見つめる。

「そうやって上から目線で他人を批判する人って、往々にして何も行動を起こさない人だから。だったら、動機は不純でも結果として誰かを助けてる人の方がまだマシよ」

「…そうか」

俺はゆっくりと息を吐き出した。なんだか全身が急激な脱力感に包まれる。

俺はブランコから立ち上がった。凪沙が俺の方に首を持ち上げる。

「帰るか」

「…うん」

凪沙もゆっくりと立ち上がる。ブランコがキィ、と寂しげな音を出す。

沈みゆく太陽の下、俺たちは家への道のりを歩き出した。
七月二十四日、午前七時半。

自宅のリビングには、ちゃぶ台を囲む俺と凪沙と明里の姿があった。

凪沙が家に来て二日目の朝、俺が作った朝食をみんなで食べているのだ。

『本日山陰地方は快晴で、気温は三十度を越えて真夏の暑さとなるでしょう。水分をこまめに摂り、熱中症には十分気をつけて…』

画面の中の女性アナウンサーが、今日の天気を知らせる。「今日の体育外だよぉ」と、明里が少し肩を落とす。

俺は左に座る凪沙へ横目を向ける。箸を運び、黙々と朝食を食べていた。今日のパジャマはだぼついた様子は一切なく、まさにピッタリといったサイズ感だ。凪沙が昨日自分で買ったものだろう。

俺はふと米の入った茶碗に目を向ける。真っ白なところに一粒だけ、茶色く変色した米粒を見つける。

「はあ」と息を吐いた俺は、凪沙について考えを巡らす。

今凪沙について分かっていることは次の通り。

一、目が覚めたら凪沙は一人山奥に倒れて
  いた。そこから記憶が一切ない。

二、凪沙は東高の制服を身につけていた。
  しかし東高に「凪沙」という名前の
  生徒は在籍していない。

三、家族構成は両親と凪沙の三人で、兄弟
  はいない。

四、凪沙の両親は凪沙の捜索願いを出して
  いない。

そして五、凪沙は十年前の鳥取地震を経験している。これは初めて家に来た日、テレビに映った地震の映像を見た凪沙からの証言だ。

鳥取地震を経験したということは、少なくとも十年前には鳥取県内に住んでいたということだろう。それに倒れていた日に東高の制服を着ていたことから、凪沙は今も鳥取県内に住んでいる可能性が高い。あの制服が誰のものか、という話は一旦置いておくが。

それに、両親がいるのに凪沙の捜索願いが出されていないことも気になる。自分の娘が連絡もなしに二日も帰ってこないとなれば、普通の親なら心配して警察や学校に相談するなり何かしらのアクションを起こすだろう。

しかし凪沙の場合は全く音沙汰なしだ。まあ凪沙は自分のスマホを所持していなかったため、もしかしたらそっちに連絡がいってるのかもしれないが。

実は凪沙は両親に虐待や育児放棄をされていて、そこから脱出するために山奥に逃げ込み、頭でも打って記憶を失ったのだろうか…とも考えた。

だが、俺はその可能性は低い気がした。理由は…昨日のこともそうだが、凪沙のこの気の強さとまっすぐな瞳は、親から虐待された子どもが持ち合わせるそれではない気がしたからだ。普通の子どもなら、性格が歪んだり俺みたいに無気力に陥ったりしそうなものに思えてしまう。

でもだとしたら…謎は深まるばかりだ。

果たしてこの目の前の少女は、一体何者なのだろうか。

「間宮くん?」

「え?」

気がつくと俺は、凪沙と見つめ合っていた。
くりくりとして澄んだ瞳を向けられ、俺は一瞬固まってしまう。

「私の顔に何かついてる?」

「い、いや。なにも…」

俺は慌てて目を逸らす。凪沙は不思議そうに首を傾げた。

「きっとおにいちゃん、凪沙さんの美貌に見惚れちゃったんだよ」

明里がからかうように言った。俺はバッと顔を上げる。

「ち、違うって!俺はそんなこと思ってな…」
「えー、おにいちゃんひどーい。じゃあ凪沙さんなんか眼中にないんだ?」
「いやっ、そういうわけじゃ…」
「じゃあ好きなの?」
「それは無理矢理すぎるだろ!」

俺と明里が押し問答をしていると、パン!と勢いよく手が合わさる音がした。

「ごちそうさまでした」

そう言い放つと、凪沙は自分の分の食器を持って台所に歩いて行った。

「あ…」

俺は力なく声を出した。もしかしたら何か機嫌を損ねてしまったかもしれない。

「私もごちそうさま」

明里も自分の食器を持って立ち上がり、すたすたと歩き出した。俺は妹に少しだけ恨めし気な視線を送ってから、味噌汁を一気に飲み干した。



「行って来るね凪沙さん!」
「俺は終業式だけだから、昼までには帰るよ」

制服に着替えた俺と明里は、玄関に立つ凪沙に声をかけた。

「私は家にいるから。いってらっしゃい」

手を振る明里に微笑んで、凪沙も俺たちに手を振った。


家を出ると、相変わらずの暑さが俺たちに襲いかかった。セミの大合唱が鼓膜を震わせ、強烈な日差しが降り注ぐ。

「いいなあ。おにいちゃんは今日で学校終わりで」

後ろで手を組んだ明里が横顔を向けた。

「終業式、中学は明日だっけか?」

「うん。早く夏休み入んないかなー」

短めのボブを揺らし、明里が唇をとがらす。

「お前受験生なんだから、勉強もちゃんとやるんだぞ?」

俺は目を細めた。すると明里はくるっと体を俺に向け、

「言われなくても、勉強ぐらいやってますう。
じゃ、おにいちゃんまたね」

そう言って、明里は中学への道を歩いていく。

「…またな」

俺は横断歩道の前で、一人ぼそっと呟いた。



教室に入ると、空気が一気に涼しくなった。体から力が抜ける感覚を覚えるが、反対に俺の心臓はバクバクと音を立て続けていた。

俺は教室を見渡す。

生徒たちが和気あいあいと話している。既にほとんどのクラスメイトがいたが、そこに岩田永治の姿がないことを確認して俺はほっと溜息を吐く。

後ろ側を通って自分の机にバッグを置く。

もう一度教室を見渡し、女子と談笑する杵村さんの姿を見つける。

俺はバッグから一枚の紙を取り出し、杵村さんのところへ向かおうと一歩踏み出した。


が、その時。

「みんなおはよう!間宮はもう登校してきているか?」

教室の前の扉が勢いよく開けられ、額に汗を滲ませた担任教師が声を張り合げた。

「いますけど…」

押さえ気味に声を出し、俺はそっと手を上げた。

「間宮。ちょっと職員室に来てくれ」

そう告げた担任は俺に手招きした。教室中の視線が俺に集まり、少し耳が熱くなる。

「はい」

俺は小さく返事して、担任と一緒に教室を出た。

特に会話を交わすでもなく、蒸し暑い廊下を歩く担任の背中を追った。

職員室に入ると、教室よりも冷房が効いていて少し身震いした。

担任は自分の席へ着く。教科書やら書類やらが山積みになっていて、机上はごちゃついていた。

「間宮、急に呼び出して悪かったな」

担任はニカッと白い歯を見せた。俺は軽く頭を下げる。

「単刀直入に聞くが…昨日、岩田たちに喧嘩を仕掛けられたというのは本当か?」

予想通りの質問に、俺は無言で頷いた。担任は「ふむ…」と小さく唸って、顎に手を当てた。

「岩田からは、『自分たちが一方的に喧嘩を売っただけだ』と聞いている。ということは、間宮は正当防衛をしただけなんだよな?」

俺は少し目を丸くした。てっきり岩田は俺に殴られたと告げ口すると思っていた。だから俺は教師から大目玉を喰らう覚悟ぐらいはして来たつもりだったのだが…

「おい間宮?先生の話聞いてるか?」

担任が困ったような笑みを俺に向けていた。俺は顔を上げる。

「はい。えっと…なんでしたっけ?」

俺が聞き返すと、担任はハンカチで額の汗を拭って言った。

「昨日の喧嘩は岩田が一方的に仕掛けただけで、お前は何も悪いことはしてないよな?」

俺は小さく頷いた。実際のところ俺は岩田に手を上げたのだが、担任がそのことに触れようとせず、むしろもみ消そうとしていると感じた。

「よし、わかった。何も怪我はないか?」

「はい。大丈夫です」

俺が答えると、担任は満足気に頷いた。

「これで話は終わりだ。俺はこれからちょっと他の先生方と話をしてくるから、朝のホームルームは教室で静かに過ごすようみんなに伝えといてくれ」

担任は椅子から立ち上がった。そしてくるりと踵を返し、どこかへ向かおうとする背中に俺は声をかけた。

「先生」

「ん?」

担任が振り返る。

「あの…今日、岩田って…」

「ああ。岩田は今日は学校に来ない。昨日あの場にいた他の二人もな。奴らは停学処分だ」

「え…」

俺は一瞬言葉を失う。担任は少し笑って後頭部を掻き、

「まあ今日から夏休みだから、停学といってもアレだがな。じゃ、先生はもう行くぞ」

担任はそそくさとその場を去って行った。
何だか俺は拍子抜けしたような気がした。


*******

体育館での終業式を終え、昼前にはもう放課となった。夏休みが始まったことで、みんな顔に笑みを浮かべてワイワイと教室を出ていく。

「杵村さん」

俺は机で日誌を書いているおさげの女子生徒に声をかけた。杵村さんは顔を上げ、少し眠たげな目を俺に向けた。

「間宮くんから話しかけてくるなんて珍しいね」

杵村さんはにこっとした。俺は苦笑して、肩から下げたバッグから一枚の紙を取り出す。

「本当にギリギリになったけど、これ」

俺が杵村さんに差し出した紙。
それは先日提出を迫られた、進路調査票だった。

「あ、ようやくだね」

杵村さんは笑顔で受け取り、紙面を眺めた。
俺も自分の調査票を上から覗き込む。

そこには、「進学」とだけ書かれていた。

具体的にどこへ進学するのかは全く書いていない。というか全く思いつかなかった。

「悪い、遅くなってしまって。言ってた通りまだ出してないのか?」

俺が尋ねると、杵村さんは笑って言った。

「全然いいよ。だってほら」

杵村さんはスクールバッグから進路調査票を取り出し、俺に向けてきた。

「え…」

そこには、何も書かれていなかった。

まっさらな白紙だった。

「私、最初から白紙で出すつもりだったから」

杵村さんが少し首を傾けた。おさげがふわりと揺れる。

「大学、行かないのか?」

俺は尋ねた。うちの高校は一応市内では二番手の高校だし、杵村さんの成績は確か学年トップのはずだ。当たり前に大学へ進学すると思っていた。

「んー、正直わからないんだよね」

杵村さんはペンを顎に当て、天井を見上げた。

「自分のやりたいことが見つからないっていうか。そんな状態で適当に大学行って適当に大学生やるのもなんだかなぁ…って。かといって就職していきなり社会の歯車やるのも、違う気がするし」

「だからこそ、みんなとりあえず大学に行って四年間の猶予をもらうんじゃないか?」

大人になった自分が何をしたいか、明確なビジョンを持てる人は少数派じゃないのか。

「まあそうなんだけどね…。でも、モラトリアムの延長が目的で大学行く、ってあまりにも動機が不純だと思うのよね…」

その言葉を聞いて、俺はハッとした。そして杵村さんに話しかけたもう一つの理由を思い出した。

「あのさ、杵村さん」

「ん?」

杵村さんが俺の顔を見る。

「『やらない善よりやる偽善』ってわかる?」

「……」

杵村さんはポカンとした様子だ。俺は構わず言葉を続ける。

「動機はどうあれ、結果として誰かを救ったり幸せにすることが出来たら、例えそれは偽善だろうと良い行いになり得る、ってことなんだけど。…昨日の話、覚えてる?」

「メサイア症候群の?」

杵村さんの返答に、俺はこくりと頷く。

「杵村さんは自分のことを『偽善者だ』って言ったけど、結果として俺は杵村さんのおかげですごく助かってる。だから、杵村さんは偽善者なんかじゃないと思う」

「間宮くん…」

杵村さんが俺の顔を見つめる。

「だからさ、大学へ行く動機なんてのもどうでもいいんじゃないのかな。自分が大学に通えて良かった、って後から思えたんだったら、きっとそれは正解なんだよ」

俺は言いたかったことを全て言い切って、少し息を漏らす。数秒間の沈黙が流れ、杵村さんが口を開く。

「ふふ、間宮くんはカントの宿敵だね」

「え?関東?」

俺が聞き返すと、杵村さんは口元に手をやって笑みをこぼした。

「カントは、昔の哲学者の名前よ。行動の動機を重視した人なの」

「そ、そうなんだ」

そう言えば倫理の授業でやったような。俺は首を捻った。

「…ありがとね」

杵村さんが小さく呟いた。俺は一瞬どきっと心臓が跳ねた。

「い…いや、別にお礼を言われることじゃ…」

「あはは。間宮くん、顔赤くなってる」

俺はバッと周りを見渡す。もう教室には俺たち以外誰もいなかった。安心して胸を撫で下ろす。

「今回は白紙で出すけど、大学のこと少しは考えてみるね」

杵村さんが机に視線を戻して言った。俺は少し微笑む。

「うん。…それがいいよ」

そう言うと、杵村さんが腕を上げて「んー」と伸びをした。豊かなバストが少し揺れ、俺は目を逸らした。

「もしお金と時間の心配を全くしなくていいのなら、何年かかけて世界中を旅して回りたいなあ」

杵村さんの言葉に俺は笑った。

「なんだそれ」

俺が言うと杵村さんも笑った。なんというか、すごく平和で和やかな空気が流れた。

「じゃあ、俺帰るわ。進路調査票、よろしく頼む」

俺はスクールバッグを肩に担ぎ直した。杵村さんは日誌から顔を上げた。

「うん。じゃあまた、二学期に」

俺は小さく手を挙げて応え、日の光が差す教室を後にした。
「ただいま」

古びた玄関の戸を開け、いつものように声を出す。視線を下に向けると、凪沙のローファーが綺麗に揃えられていた。

家に上がり、俺はリビングの扉を開く。ひんやりとした空気が俺の体を包み込む。

「おかえり、間宮くん」

ソファに座る凪沙が声をかけてきた。白のTシャツとショートパンツに着替え、髪は貝殻の髪飾りで留められ、手には本を持っていた。

「ああ、ただいま」

俺はそう言って、ギシギシ悲鳴を上げる床を歩いていき、台所へ向かった。

冷蔵庫を開けると、中身はすっからかんだった。とりあえず飲み残しのペットボトルの蓋を開け、烏龍茶を喉に流し込んだ。

「ぷはぁ」

全て飲みきり、潰してゴミ箱に捨てた。俺はリビングへ戻り、一人静かに読書する凪沙に声をかけた。

「凪沙」

「?」

凪沙は無言で振り返った。窓から射す光を反射して、髪飾りがキラッと光る。

「昼飯、食べに行かないか?」




俺たちは二人乗りで自転車に跨り、炎天下の中カフェに向かった。後ろに座る凪沙の肩が時折背中に当たり、そのたびに俺はドキドキしてしまう。

「行きつけのところがあるんだよ」

ずっと無言も気まずいので、俺は口を開いた。

「昔からあるとこ?」

凪沙が聞き返す。俺は「ああ」と頷き、

「両親が生きてた頃、よく家族で行ってた。もしかしたら凪沙も知ってるかもしれない」

「何か思い出すかもね」

凪沙が返す。一瞬生温かい風がふわりと体に纏わり付いた。俺はじんわり汗が滲むのを感じ、凪沙に汗臭いと思われてないか心配になる。

十分ほど自転車を漕ぐと、目的地のカフェに着いた。年季の入った外壁は、緑色のツタで覆われている。それを目にすると、暑さが柔らいで涼しく感じた。

「どうだ?知ってるか?」

「いや、初めて来たと思うわ」

俺が聞くと、凪沙は首を横に振った。

扉を開け、二人でカフェに入る。チリン、と音がした。

「いらっしゃい」

厨房前のカウンターから、店主の奥さんが声をかけてくる。後ろの窓からは光が差し込んでいる。

俺は軽く会釈し、いつもの席へ腰を下ろす。正面には凪沙が座る。

奥さんがおしぼりと、メニュー表を持ってくる。凪沙は受け取ったメニュー表を早速開いた。

「何かおすすめはある?」

目線を下にした凪沙が俺に聞いた。

「そうだな…。俺はランチには大体、カツサンドを頼む」

「カツサンド、いいわね。私もそれにするわ」

「わかった」そう言って俺が注文するため、奥さんに声をかけようとした時…

ぱらぱらとメニューをめくる凪沙の手が、ふと止まった。

「凪沙?」

俺が問いかけるが、凪沙は固まって動かない。
メニュー表をずっと凝視している。

もしや、何か思い出したのだろうか。

そう思って俺はメニュー表を覗き込んだ。

そこにはパフェ、パンケーキ、プリン、タルト、そして夏季限定のかき氷など、色とりどりのスイーツが並んでいた。どれもスイーツ好きには堪らないだろう。

「……」

静止し続ける凪沙の瞳に、何かキラキラとした輝きが見えた俺は、少し息を吐いて口を開いた。

「好きなのか?甘いもの」

「!?」

俺の問いかけに、凪沙はハッと顔を上げた。
図星か…。俺は少し微笑んで、再び口を開く。

「じゃあ食後に頼むやつ、決めていいよ」

「ほ…ほんとに?」

凪沙が少し申し訳なさ気な目を向けてくる。

「お金のことなら気にするな。食べたいもの食べろよ」

「…!」

すると凪沙は再びメニュー表に目を落とし、「うーん」と唸りはじめた。俺は目を細めてそれを見ていた。たっぷり一分ほど悩んで、凪沙は「これがいい」と言って指を置いた。

それはイチゴやキウイ、バナナなどのフルーツがたっぷりと乗ったパフェだった。

「すみません」

そう言って俺が手を挙げると、奥さんがぱたぱたとやって来た。

「カツサンド二つと、食後にアイスコーヒー二つ。あと、このパフェを一つ」

「はい」

注文を告げると、奥さんはさらさらとメモを取り、メニュー表を回収してカウンターへ戻った。

俺は凪沙に顔を向ける。窓の外を静かに眺めていた。

「私、結構甘党なのよ」

ふと凪沙が呟く。俺は少し笑って、

「凪沙について分かったことに、『甘党』ってのを追加しとくよ」

と、少し冗談を飛ばしてみた。

「…間宮くん、そんな冗談言うのね」

「冗談?俺は真剣に言ってるぞ」

「帰る」

凪沙が席を立ちあがった。「おっ、おい」俺は慌てて手を伸ばす。すると凪沙がぴたっと止まり、こちらを振り返った。

「ただの冗談よ。焦った?」

凪沙は席に座り直した。口元が少し上がっていた。

「ちょっとだけ、焦った」

俺が言うと、凪沙はクスッと笑みを浮かべる。

「じゃあ今度は盛大にアセらそうかな」

「それはやめてくれ。心臓に悪い」

俺たちは互いの顔を見合わせ、笑った。
ふと、明里以外の人間とこうして笑い合うのは一体いつ振りだろうか、と思った。

やがて注文したカツサンドが運ばれてきた。凪沙は「いただきます」と手を合わせてから、ぱくりと一口頬張った。

「……おいしい」

凪沙は手に持ったカツサンドを見つめて言った。俺は何だか嬉しくなり、「だろ?」と言って笑った。

俺も一口頬張る。

ふわふわのパンと、外はカリカリ、中はジューシーなカツ。そして何よりも良い味を出しているのが、この店特製のカツソースだ。

「おいしいけど…」

凪沙が手を止めた。俺は顔を上げる。

「私このカツサンド、食べたことあるかも」

「マジか?」

俺は目を丸くした。凪沙はこくり、と頷く。

「この店のカツサンドの味は、ハッキリ言って唯一無二だ。他じゃ絶対食べられない。もし凪沙の言ってることが本当なら、凪沙は過去にこの店に来たことがある、ということじゃないか?」

「やっぱり私は、米神市に住んでいたのかな」

凪沙が呟く。俺は少し上を見て考える。

制服と地震。この二つのキーに加え、この老舗カフェのカツサンド。鳥取県内に住んでいることはほぼ確実として、制服とカツサンドから米神市在住の可能性はかなり上がっただろう。

「…参考までに、どのくらい前に食べたか思い出せないか?あとできれば誰と食べたのかも」

「そうね…なんとなくだけど…」

凪沙が額に手を置いて目を瞑る。記憶の糸を手繰り寄せているようだ。

「たぶん…食べたのはかなり前ね。小学生とか、ほんとそれくらい。一緒に食べた人は…男の子よ。名前は分からない。だけど、私と同じくらいの年齢の男の子と食べたわ。なぜかこれは自信がある」

小学生のとき、男の子と一緒にこの店のカツサンドを食べた。引き出せる情報としては、これが限界か。

「小学生の時ってのが合ってるなら、一応辻褄は合うな。地震を経験してることから、小一か小二の時は確実に県内にいたわけだし」

「そうね。帰り際に店員さんにも聞いてみましょうか。『昔小学生が二人で店に来ませんでしたか』って」

「まあ覚えてたら凄いけどな。ただ…」

「ただ?」

言葉を止めた俺に、凪沙が目を見開く。

「小学生でカフェデートとは、なんつーか、さすがだな」

「!?」

凪沙はぎょっとしたような顔になる。俺は出会って初めての凪沙の崩れた表情に、少し笑ってしまう。

「な、なんでデートって決めつけるのよ?まだ小学生ってことは、ただの仲のいい友達同士かもしれないじゃない!」

必死に言葉を並べる凪沙。顔が少し赤くなっていた。

「まあそうかも知れんが…とりあえず、若き日の元カレを思い出したらすぐに教えてくれ」

「だから、なんで彼氏がいた前提なのよ!」

凪沙がドン、とテーブルを叩く。コップの水がゆらゆらと揺れた。

「そんな怒るなよ。でも、彼氏がいた可能性は結構あるんじゃないのかと思うけど…」

「理由は?」

凪沙がギロリと俺を睨みつける。俺は少しだけ顔を俯け、視線を窓の外に向けた。

「…可愛い、から」


沈黙が流れ、俺はしまったと思った。

ガチで引かれたかもしれない。「こいつキモ」と思われたかもしれない。ちょっとだけ、ちょっとだけテンションが上がって、口が滑ってしまっただけなんだよ。俺は別に下心があって言ったわけじゃ…

おそるおそる、俺は逸らした視線を凪沙の顔に持っていった。

「……っ!」

そこには、顔を真っ赤にしてぷるぷると震える凪沙の姿があった。マズい、確実に怒らせてしまった。

「わ…悪い凪沙!気を悪くしたなら謝る!ただ、俺は決して下心とかで今の発言をしたわけではなく…」

俺は顔の前で手を合わせ、必死に許しを乞う。
すると、「はあ」と大きなため息がした。

「あーあ。間宮くんに盛大にアセらされちゃった。これは一本とられたわね」

凪沙は肩をすくめた。その様子から、俺に対する憤慨は見られなかった。

「凪沙…」

殴られる覚悟もしていた俺は、ふいに脱力感に襲われる。すると凪沙は俺に向かって、びっ!と指を突き立てた。びっくりした俺は一瞬背筋を伸ばす。

「近いうちに、必ず一本取り返すから。寝首をかかれないように用心しなさい」

俺は突き立てられた指を見つめた。

不意に、笑いがこみ上げてきた。

「あははは。面白いな、凪沙って」

「な、何がおかしいのよ!?」

俺は自分の腹を押さえた。目から少し涙が出てくる。

「『寝首をかかれないよう用心しろ』なんて現実で言ってる人初めて見た。時代劇とかでしか聞いたことなかったよ」

どうもツボに入ってしまい、俺は笑いが止まらない。

「うるさい!ほ、ほんとに殴るわよ!?」

凪沙が必死になっているのが、余計面白かった。俺は本当に久しぶりに声を出して笑った。

俺たちはカツサンドを平らげた。その後運ばれてきたパフェは凪沙の大きな口に吸い込まれ、俺はコーヒー片手にそれを見つめた。

レジで支払いを済ませ、最後に奥さんと目を合わせた。

「昔、ここに小学生くらいの男女が来ませんでしたか?カツサンドを注文したと思います」

俺の質問に、奥さんは首を傾げた。

「そうねえ…。小学生のお客さんなんて中々いらっしゃらないから、覚えてそうなものだけど…」

奥さんが考え込むが、それらしい記憶はありそうになかった。

「あの、また来ますので、何か思い出したらその時教えて下さい。ごちそうさまでした」

手間をかけさせるのも悪いので、俺は話を打ち切って会釈した。

「ごちそうさまでした」

俺の斜め後ろに立つ凪沙も、頭を下げた。

「ありがとう。また来てね」

奥さんは目尻に皺を寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。

ちりん、と音のする扉を開け、俺たちは店の外に出た。世界が一気にアブラゼミの声で包まれる。

「ダメだったわね」

凪沙が平坦な声で言った。俺は頷き、

「ダメ元で聞いただけだからな。覚えてたらすごいよ」

俺は手で顔を隠し、影を作った。照りつける日差しが眩しかったからだ。

止めた自転車へ歩みを進めようとするが、突然凪沙が立ち止まった。

「凪沙?」

俺は振り返る。凪沙は背筋を伸ばして、拳を固く握りしめていた。

「私は…」

凪沙が口を開く。俺も背筋を伸ばし、続く言葉を待った。

「私は、自分が何者なのかを知りたい」

凪沙が言い放つ。その瞳には真剣な色が灯っていた。

「私はどこで生まれ、何を見て育ち、どうしてあんな山奥に一人投げ出されていたのか。どうして、これまで生きた記憶を全て、失ってしまったのか」

俺は黙って聞き続ける。ふと視線を落とすと、握られた凪沙の拳がぷるぷると震えているのが見えた。

「…わかるさ」

俺は呟いた。凪沙が俺を見る。

「凪沙という人間が生きた証、必ずわかるさ」

「間宮くん…」

焼けつくような夏の太陽の下、俺たちは互いに見つめ合った。

「私、すでにたくさんお世話になってるから、本当に図々しくはあるんだけど…」

凪沙は一瞬ためらうように下を向くが、すぐに顔を上げた。その表情はきりっと引き締まっていた。

「私の記憶を取り戻すために、これから協力してくれるかしら」

そして、凪沙の綺麗な手が差し出された。

「…俺なんかでよければ」

そう言って、俺は凪沙の手を握りしめた。

数秒ほど、お互いの体温を伝え合う。やがて凪沙の方から手を離した。

「そうと決まれば、いろんな場所に行かなくっちゃね」

凪沙はその場でくるりと回った。長い黒髪が弧を描く。

「いろんな場所?」

俺は聞き返した。凪沙は青空を見て答える。

「家でじっとしてるよりも、いろんな場所を見て回った方が、何か思い出せる気がしない?」

「たしかに…な。だけど、具体的にはどこへ行くつもりだ?」

「それはこれから決めるわ」

「結構適当だな…」

俺が首筋から汗を垂らして言うと、凪沙は女の子らしい無邪気な笑みを向けてきた。空に浮かぶ太陽が凪沙の頬を照らす。

「夏らしく、冒険の始まりといきましょう」

俺は瑠璃色の空を見上げた。そこには二本の飛行機雲が交差して、遥か彼方まで続くように細長く伸びていた。


その日から、俺たちの冒険が始まった。
「とりあえずなんだけど」

自転車に跨った俺に、凪沙が言ってくる。

「市内の小学校を巡ってみるのはどうかしら」

「小学校?」

俺が聞き返すと、凪沙は元気よく頷いた。

「地震とカツサンドの件から、小学生の私が米神市内、少なくとも鳥取県内にいたことはほぼ確実でしょ?なら、私は市内の小学校に通っていたはず。昔通った学校の校舎を見れば、記憶の引き出しが開くキッカケになるかも」

「…それもそうだな」

納得した俺は二度ほど頷いた。すると凪沙が突然後ろに腰かけてきた。さらに両腕を俺の腰に回して、ぎゅっと体を寄せてくる。柔らかな感触が背中に伝わり、一気に全身が硬直する。

「何固まってるのよ?さあ、冒険のはじまりよ」

凪沙は満面の笑みをたたえた顔で言った。暑さのせいか、かすかに頬が上気している。

「出発、するか」

俺は心臓の鼓動を悟られないよう、きつくハンドルを握りしめてペダルを踏み込んだ。



しゃー。

自転車のチェーンが耳心地の良い音を鳴らす。吹く風は涼しく、炎天下の中走る俺たちをいい感じに冷やしてくれる。

「風が気持ちいいわね」

凪沙が少し弾んだ声を出す。横を見ると、一面田んぼの緑がキラキラと光っていた。

「ここから一番近いとこだと、福山小ってとこなんだけど。聞いたことあるか?」

風にかき消されないよう、俺は大きな声で凪沙に尋ねた。

「聞き覚えないわね。その福山小ってとこが、間宮くんの通ってたとこ?」

「いや、俺の通ってた小学校はそこじゃない。方向としては反対側にあるんだよ」

「つまり、後から行くってこと?」

「そういうこと」

田んぼに囲まれた田舎道を抜けると、大きな道路に出る。左に曲がり、そのまま真っ直ぐ行くと小さな横断歩道。そこを渡った先に、米神市立福山小学校が建っていた。

木々に囲まれた校庭と、奥に佇む古い校舎。

ちらほらと、子どもたちが校庭を駆け回るのが見える。この暑いのに元気なことだ。

「どうだ?何か思い出せないか?」

「うーん。特に何も」

凪沙は眉間に皺をよせ、ぐるりと校庭を見渡す。

「まわってみて、校舎に近づくか」

俺が声をかけると、凪沙が頷く。

「そうね。そうしましょう」

俺たちは自転車を押して、小学校の玄関口へ回った。狭い駐車場に何台か車が止まっていて、門の前には「関係者以外敷地内に立ち入らないでください」との立て看板が置いてある。

「…どうだ?」

「ピンと来ないわね」

顎に手を当てた凪沙が呟く。本当は敷地内に入って見たいとこだが、大人に見つかると色々と厄介だ。

「次へ向かうか?」

「…ええ。ジャンジャン行きましょう」

頷く凪沙を見て、俺は再び自転車に跨る。何も言わずに凪沙も後ろに乗り、先ほどと同じように俺の腰に腕を回す。

「次は…箕川《みのかわ》小に行こう」

「相変わらず分からないけど、了解よ」

俺は足に力を込め、強くペダルを踏み出した。


十五分ほど自転車を走らせ、俺たちは箕川《みのかわ》小に着く。

年季が入った木造校舎の福山小とは打って変わり、箕川小の校舎は清潔感のあるコンクリ仕立てだった。

そういえば一年くらい前に建て替えたんだっけ、とふと思った。

緑の葉を生い茂らせた樹木の背後にそびえ立つ校舎。凪沙は無言のまま、それを見つめていた。

「こっちはどうだ?」

俺が尋ねると、凪沙は首を横に振った。

「見覚えがないわね。私の通ってた小学校、一体どこなのかしら」

凪沙は「はあ」と一つ息を吐いた。時刻は午後14時をまわり、ジリジリとした日差しが俺たちの身を焦がす。

俺は道路脇の歩道に佇む、赤い自販機に目を向けた。

「喉乾かないか?」

「まあ乾いてはいるわね。これだけ暑いもの」

俺はゆっくりと自販機へ歩を進め、ポケットから財布を取り出す。硬貨を何枚か入れ、適当に缶ジュースを二本買った。

「どっちがいい?」

俺は出てきた二本の缶を凪沙に見せる。レモンスカッシュとペプシ。

「男の子って、炭酸好き多いよね」

そう言って、凪沙は俺の手からレモンスカッシュを取り上げた。

「女子が甘いもの好きみたいなもんだろ」

俺はぷしゅ、とペプシのプルタブを開け、一口喉に流し込んだ。口の中でパチパチと泡がはじける。

「甘いもの食べてる時が一番幸せね。食べ過ぎには注意だけど」

ごくごくっと喉を鳴らす凪沙。

「まるで劇薬だな」

俺は残りを一気に飲み込んだ。思わずゲップが出そうになるが、なんとか堪える。

「コカコーラ苦手なんだっけ?」

凪沙が俺に尋ねた。俺は手元のペプシをちらっと見て頷いた。

「コカの方は、甘ったるくて昔から無理だな。ペプシの方がすっきりしてて好きだ」

俺の言葉に凪沙は「ふーん」と横目で言った。
俺は些細な引っかかりを覚え、口を開く。

「俺がコカコーラ無理って、前に言ったか?」

すると、凪沙は少し首を傾げた。

「あれっ。たしかに、何で私そんなこと知ってたんだろ…」

まあコーラとペプシが二つ置いてあったら、どちらを選ぶかでその人の好みくらい直感でわかるか。

「まあいいや。そろそろ次に行こう」

俺は自販機横のゴミ箱に缶を捨てた。

「あっ、うん」

凪沙は残りを飲み干して、同じく自販機横のゴミ箱に捨てる。

「さてと。ここから近いとこで言ったら…」

自転車に跨った俺は、頭の中で地図を展開した。後ろに座る凪沙がくりくりとした目をこちらに向けてくる。

「後藤ヶ島《ごとうがじま》小かな?」

俺は凪沙の顔を見る。「知ってるか?」と目で問うと、凪沙は微笑して首を捻った。

俺は少し息を吐いて、次の目的地へと自転車を走らせた。


*******

それから俺たちは市内の小学校をしらみつぶしに回った。結局汗を流して自転車を漕いだ甲斐なく、どこも凪沙の記憶とヒットすることはなかった。

ついに日が暮れてきた頃。俺たちは最後の一校であり、俺の母校でもある車峰《くずみね》小学校を訪れた。

正門の前に自転車を止め、凪沙と二人並び立つ。目の前には駐車場が広がり、奥の玄関前には色とりどりの花が植えられた花壇がある。

「…懐かしいな」

俺は目を細めた。たまに自転車で通ることはあっても、こうして立ってまじまじと見るのは何年ぶりだろうか。

「……」

凪沙は無言で目を凝らしている。夕暮れのオレンジと、カナカナカナと遠くで鳴くひぐらしの声。

夏の夕暮れが、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。

その時しゃり、と地面を踏む音がした。

気づくと凪沙が門の中へ足を進めていた。

「おい、どうした?」

俺は慌ててその背中を追う。

「奥までいきたい」

凪沙は振り返って言うと、また前を向いて歩を進める。俺は小走りで隣に並び、凪沙の横顔を見る。

「勝手に入ると、面倒なことになるぞ」

「その時は走って逃げましょう」

「いや、逃げると余計ヤバいだろ…」

額に汗を滲ませる俺に構わず、凪沙はどんどん歩いていく。玄関の脇を抜け、校庭へ続く道に出る。校舎の窓は既にカーテンがかけられ、人の気配は全くしない。

右手に回り込み、渡り廊下を抜けると、そこはだだっ広い校庭だった。遠くにブランコやうんていが見える。

小一の時、この校庭で友達とサッカーして遊んだっけ…。

地震が起きる前、友達もたくさんいて活発だった頃の自分を思い出す。

いつも馬鹿みたいにはしゃいで、大きな声で笑い、休憩時間になれば何も考えることなく、この校庭を元気に駆け抜けていた。

夕暮れに染まる校庭は、あの頃よりも随分と小さく見えた。体が成長した証なのか、視野が狭くなっただけなのか…

「やっぱりそうだわ」

隣に立つ凪沙が、遠くを見て呟いた。

「私、この小学校…車峰《くずみね》小に通ってた」

俺は凪沙の言葉を聞いた瞬間、バッと横を振り向いた。

「そ、それは本当か!?間違いないのか?」

少し上擦った俺の声が、静かな校庭に響いた。

「ええ。花壇、玄関、校舎、そしてこの校庭。全ての景色と、場所の雰囲気。何もかも覚えているわ」

凪沙の澄んだ瞳に夕陽が映っていた。ビー玉の中に閉じ込められた炎のように、赤い光が揺れ動いていた。

「じゃあやっぱり凪沙は…」

「この町の人間みたいね」

続く言葉を口にする凪沙。口元は少し上を向いていた。

「凪沙が車峰《くずみね》小の生徒だったということは…俺と同期の可能性もあるってことだよな?」

おそらく凪沙は俺と同い年か、その前後だろう。俺は小二の時に車峰小から倉橋市の小学校に転校してしまったが、もしかしたらまだ俺がこの学校に在籍していた時、同じ校舎で授業を受けていたかもしれない。


「つまり私たちは…」

凪沙が俺を見る。目が少し開かれていた。

「既に過去に出会っていたかもしれないな」

浮上してきた新たな可能性。凪沙の記憶が正しければ、十分あり得るものだ。

「それに凪沙が車峰小の生徒だったのなら、家もこの地区内のどこかにあることになるな。引っ越しとかしてなければだけど」

小学校は、決められた地区内に住む子どもが集められる。車峰小に通うには、車峰地区のどこかに住んでいる必要がある。

「なるほど。つまり、明日からの探検の範囲をかなり絞ることが出来るわけね」

凪沙が納得の頷きを見せる。

沈まずに残っている夕陽が、俺たちを赤く照らした。まるで、俺たちに希望の光を送ってくれるかのように。

「…そろそろ出るか」

呟くと、一瞬凪沙が俺を見て、また前を向き直った。

「そうね。明里ちゃんもそろそろ帰ってるでしょうし」

「ああ」


俺たちはもと来た道を戻り、誰にも見つからずに門から出た。

止めていた自転車に跨り、後ろに座る凪沙に顔を向けた。

「帰りにスーパーに寄って…!?」

目の前に、凪沙の綺麗な顔があった。

細長いまつ毛に縁取られたくりくりの瞳。
スッと綺麗な鼻筋と、ふっくらとした唇。
微かに赤く染まった頬。

「夕飯の買い物ね?荷物なら私が持つから」

ぷい、と顔を背けた凪沙。俺も慌てて前に向き直り、赤くなった顔を見られないようにした。

「悪いな、じゃあ頼むわ。い…行くぞ?」

確認するように言うと、凪沙は何も言わずに俺にしがみついてきた。昼からずっとこの状態なのに、いまだに慣れることができずドキドキする俺だった。


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その後、スーパーで買い物を終えた俺たちは家に帰り、作った夕飯を三人で食べた。

今日の夕飯はカレーだったのだが、凪沙が野菜を切ってくれたおかげでかなり楽に済んだ。

「おにいちゃんたち、どこに行ってたの?」

はふはふとカレーを頬張りながら、俺と凪沙を交互に見る明里。

「どこって言われてもなあ…」

口籠る俺。何と言えばいいだろうか。二人で小学校巡り?ポカンとする明里の顔が頭に浮かぶ。

「あれー。もしかして言いづらいこと?私に聞かれるとマズいこと?」

明里がニヤニヤとした顔を俺に向ける。

「そういうわけでは…っ」
「小学校に行ってたの」

否定しようとする俺の言葉に、凪沙の澄んだ声が重なった。

「小学校?」

予想通りポカンとする明里。

「ええ。私が通っていた小学校を探そうって話になってね。その結果、おそらく私が卒業したと思われる学校が判明したわ」

「え!?どこどこ?」

ちゃぶ台に身を乗り出す明里。凪沙は不敵な笑みを浮かべ、

「明里ちゃんのお兄さんが通っていた車峰小よ。まあ間宮くんは途中で転校したみたいだけどね」

ちらっとこちらを見る凪沙。俺は無言で頷き、

「だから地震が起きる前、俺と明里がまだ米神市に住んでいた時、凪沙と俺は同じ学校に通ってたんだ」

それを聞いた明里は目を見開いた。

「じゃあ、二人は昔出会っていたかもしれないってこと!?」

「そうね」 「ああ」

俺と凪沙が頷く。すると明里は頬に手を当て、瞳に光を宿し始めた。

「なにそれ〜!なんかドラマみたい…!」

「ドラマって…俺たちは真面目にやってんだぞ?」

呆れた俺はため息を吐く。すると凪沙が「ふふ」と笑った。

「運命の再会、的なのも悪くないかもね」

「でしょでしょ!そういうのほんと憧れちゃうなあー」

二人が楽しそうに笑うのを見て、やっぱり女子の考えることは同じなんだな、と思った。

スプーンを口に運んだ時、明里がぽん、と手を打つ音がした。

「じゃあさ!おにいちゃんの友達で車峰小卒業した人に、凪沙さんのこと聞いてみればよくない?小学校おんなじなら絶対分かるって!」

「いい案ね。一人くらいは、私のこと覚えてる人もいるでしょう」

二人とも期待たっぷりの視線を向けてくる。

「いや…まあ確かにそれが出来たらいいんだが…」

言葉を濁す。そう、俺は友達がいない。

「どしたの?何か問題がある?」

明里が丸い目をして尋ねる。

「いや…問題っていうかなんつーか」

兄として、実の妹にボッチであることを告白するのは避けたい。

なんとかしようと頭を働かせていると、たった一人、学校で話せる唯一の人間の姿が浮かんできた。

垂れ気味で少し眠そうな目をした、だけどしっかり自分の考えを持っている、おさげ髪の女子。

わがクラスの学級委員長、杵村舞夏だ。