「――キミ、私が見えるの!?」
少女の第一声がそれだった。
教室に一人佇んでいた女の子が気になり、なんとなく声をかけた。きっかけは些細なものだ。
「え、ええ。見えますけど」
「本当に見えるんだ! 嬉しい!」
近づいてきた彼女は俺の手を取ると、ショートボブの髪を左右に揺らしながら満面の笑みを向けてくる。
「あの、イラスト部ってここですか? 入部希望なんですけど」
「うう……苦節三年、長かった……やっと私を見える人が現れた……!」
握った手をぶんぶんと振りながら、彼女は涙ながらに言う。俺の話なんて聞いちゃいない。
「状況が飲み込めないんですけど。見える……って、どういうことです?」
「私、こうみえて幽霊なの!」
「ゆ、幽霊?」
思わず聞き返し、目の前の少女の全身に目を向ける。
大きなマリンブルーの瞳は生命力に満ち溢れ、唇はきれいなピンク色だ。肌も血色がよく、俺の手を握るその手は温かくて柔らかい。
真っ白い肌に冷たい手……という、俺の知る幽霊のイメージとは程遠い。正直言って、美少女だ。
「……あんまり見つめられたら、恥ずかしいかな」
「あ、す、すみません」
わずかに頬を赤らめながら言われ、思わず視線をそらす。
「と、ところで、幽霊さんはどうしてこんな場所に? ここ、イラスト部の部室ですよね?」
「そうだよー。私、イラスト部の幽霊部長なの」
俺の手を離してから、彼女は教室を見渡す。
長い間使われていないのか、床や机、乱雑に積まれた画材には、どれも埃が積もっている。
現状、絵の具の匂いより、カビ臭さのほうが勝っているような気さえした。
「幽霊部員という言葉は聞いたことがありますが、幽霊部長って?」
「そのままの意味だよー。部長さんなんだけど、幽霊なの。絶賛部員募集中」
自称幽霊部長さんはそう口にしながら、近くの机に触れる。
その動作は生きている人のそれと全く同じだったけど、一切埃が舞うことはなかった。
「でも、たぶん今はイラスト同好会に格下げされてると思うんだよねぇ……もう長いこと人が来た記憶ないしさ」
その動作にわずかな違和感を覚えていると、今度はこめかみに手を当てて、ぶつぶつと何か言っていた。
「なにはともあれ、キミは久しぶりの入部希望者というわけです! では、名前をどうぞ!」
彼女は悩んでいたかと思うと、ぱっと顔を上げ、マイクを向けるような仕草をした。
「お、俺ですか? 内川護です」
「内川くん……ね。よし、覚えたぞっ」
自身の胸に手を当てながら、うんうんと頷いている。
よくわからないが、覚えられてしまったようだ。
「それじゃあ、改めて……内川くん、イラスト部(仮)へようこそ! 幽霊部長の雨宮みやこが歓迎しよう!」
そして彼女は俺を真正面から見つめ、幽霊とは思えない眩しい笑顔を向けてきた。
それが俺と幽霊部長――雨宮みやこさんとの出会いだった。
◇
そんな雨宮部長と出会ってすぐ、俺は面談を受けることになった。
勧められるがまま近くの椅子に腰を下ろすと、彼女も自分の椅子を運んできて、俺の対面に座る。
幽霊でも、物を動かしたりはできるみたいだ。
「それでそれで、内川くんはどうしてイラスト部に入ろうと思ったのかな?」
続いて思いっきり前のめりになりながら、彼女は瞳を輝かせる。
めちゃくちゃ近い。それこそ、吐息まで感じられそうなくらいだ。いや、実際に感じる。
「それが……これには深い事情がありまして」
「ほうほう。詳細を話したまえ」
「だから近いっす」
声を弾ませる雨宮部長を押し返して、俺はここに来るまでの経緯を話して聞かせる。
「俺、元々は美術部に入りたかったんですよ」
「イラスト部じゃなくて?」
「そうです。だけど美術部には美術科の生徒じゃないと入れないと言われまして」
「あー、そんな暗黙のルールがあったような……じゃあ、内川くんは美術科じゃないんだ」
「普通科です。そもそも、美術科は中学ん時にコンクールで賞でも取っとかないと、受験資格すらないじゃないですか」
「そうだけど……絵が上手なら学科関係なく入部させてくれそうだけど。ポートフォリオとか持っていかなかったの?」
ポートフォリオとは、いわゆる作品集のことだ。
「もちろん持っていきましたよ。美術部の部長は俺の絵を褒めてくれましたし、入部にも前向きでした。最初は」
「最初は?」
「そうです。俺の学科を聞いたとたん、態度を豹変させて……理不尽に散々罵倒された挙げ句、絵もこの通り」
俺はうなだれながら言って、鞄から無惨な姿になった絵を取り出す。
「うっわ……せっかく上手に描けてるのに、破るなんてひどい。私も絵を描くの好きだし、気持ちはわかるよ。辛かったね」
一度開いた絵をそっと閉じてから、雨宮部長は俺の手を握ってくれる。じんわりとしたぬくもりに包まれ、どこか安心する。
「それで意気消沈して部活棟を歩いていたら、廊下にイラスト部のポスターを見つけまして。この際、絵を描けるならイラスト部でも……と、教室を覗いたところ、部長がいたわけです」
「なるほどなるほど。となると、これは運命だよ。内川くん」
「はい?」
「私、ずっとイラスト部を復活させたいと思ってたんだけど……ご覧の通り幽霊だから、誰からも気づいてもらえなくて。ほとんど諦めかけてたんだ」
俺の手を離し、席に戻った彼女は両手を広げながら言う。
ご覧の通りと言われても、どう見ても普通の女子校生にしか見えないのだけど。
「そしたら今日、私を見ることができる内川くんがやってきた。三年前に、私が作ったポスターを見てね。これはもう、運命以外の何物でもないよ!」
その大きな瞳を輝かせながら、彼女は言う。
「う、運命だなんて大袈裟な……それより、雨宮部長って本当に幽霊なんですか?」
「むー? 信じてないのかね?」
「だって触れますし、会話もできます。ちゃんと足もあるし、とても幽霊には見えません。どこからどう見ても、かわいい女の子ですよ」
「か、かわいい……だなんて」
俺の言葉を聞いた部長は両頬を押さえて赤面する。しまった、つい口が滑った。
でも、部長は本当にかわいいと思う。数日前に入学したばかりの俺が言うのもなんだけど、学校でも上位に入るんじゃないだろうか。
「こ、こほん。確かに触れられるし、話もできるけど、それは内川くんが特別なの。これは信じてほしい」
再び俺の手を取ってくる。しっかりとしたぬくもりが伝わってきて、ますます疑う気持ちが強くなる。
第一、生まれてこのかた、幽霊なんて見たことがない。そんな俺の前にこんなかわいい幽霊が都合よく現れるはずが……。
「……なんだ? お前、こんなとこで何してる」
その時、開けっ放しになっていた入口から一人の教師が顔を覗かせた。
「え、いやその……」
「空き教室で一人黄昏れるのもいいが、下校時間までには帰れよー」
ため息まじりに教師は言うと、うろたえる俺を気にすることなく去っていった。
その背中を見送りながら、俺は妙な引っ掛かりを覚える。
「今、一人って言われたけど……先生には部長の姿が見えてなかった?」
「そういうこと。信じてくれた?」
目を細めて、勝ち誇った笑みを向けてくる。
彼女は俺の目の前にいるわけだし、教師が気づかないはずがない。信じるしかなかった。
「それじゃ、疑いも晴れたところで……最終確認。内川くん、本当にイラスト部に入る気はある?」
俺の手を握ったまま、雨宮部長は真剣な顔で訊いてくる。
「美術部の代わりじゃなくて、イラスト部で頑張ってくれる?」
「……そうですね。絵を描くのは好きですし、頑張らせてもらうつもりです」
「わかった。それじゃ、キミを部長代理に任命しよう!」
俺の答えに納得がいったのか、雨宮部長は満足げに頷きながらそう口にした。
「あ、あの、部長代理ってどういうことです? 俺、まだ一年なんですけど」
「幽霊の私は他の人に見えないからね。そんな私に代わって、内川くんが新たに部員を集めて、イラスト部を復活させるんだよ!」
鼻がぶつかりそうな距離まで近づきながら、よく通る声で言う。
「いやいや、俺には無理ですよ。今まで転校ばかりで、友達もいないんですから。いきなり部員を集めろだなんて」
「何事も挑戦だよ。それに、美術部の部長さんに自分の絵を破られた時、悔しかったよね?」
「そ、それはもちろんですが」
「なら、内川くんの絵に対する情熱は本物ってことだよ! きっと大丈夫! 私もサポートするから!」
一年の俺が、部長代理……? あまりに突拍子のない話だけど、彼女は本気のようだった。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
結局、俺はそんな彼女の勢いに負け、その提案を了承する。
「こちらこそよろしくね! じゃあ明日から、放課後は必ずこの部室に来るように!」
満足そうに言って、彼女は天使のような笑顔を向けてくる。
それを見ていると、これまで感じたことのない感情と安堵感が胸の内に広がっていく。
――学校生活の目標を失っていた俺は、こうして救われたのだった。
俺の通う京桜高校は県内でも珍しく、美術科がある。
厳しい試験を突破した才能あふれる学生が集まるわけで、そんな彼らが所属する美術部はレベルも高く、卒業生には有名な芸術家やデザイナーが数多くいる。
ただ、美術科の生徒でないと美術部に所属できない謎ルールが存在するらしく、それを知らなかった俺は門前払いを食らい、現在はイラスト部(仮)の所属となっている。
「この学校に入るために、一人暮らしまで決意したのに……」
教師の声が淡々と響く中、ため息まじりに呟く。
父親が転勤族だったこともあり、転校ばかりで友達のいない俺は、小さな頃から絵ばかり描いていた。
かといって賞を取るほどの実力もないので、俺は美術科ではなく、普通科にいる。
その授業内容は入学直後ということもあって、中学の復習のようなものが多かった。
……正直、暇だ。暇すぎる。
「やっほー、内川くん、頑張っておるかね?」
頬杖をつきながら教師の話を聞き流していると、どこからともなく雨宮部長がやってきた。
その登場に一瞬どきりとするも、教師はおろか、クラスメイト全員が無反応だった。
やはり彼女は幽霊で、その姿はおろか、声さえもクラスの誰にも届いていないらしい。
そんなことを考えていると、真剣にノートを取るクラスメイトたちの間を抜けて、雨宮部長が俺のそばへとやってきた。
『部長、何しに来たんです?』
授業中に声を出すわけにもいかなかったので、ノートの端に走り書きをして彼女に見せる。
「部員の授業態度を見に来たんだよ。うわ、ノート真っ白。ずいぶん余裕だねー」
すると部長は俺の肩に手を置きつつ、背後から覗き込むようにノートを見てきた。
……昨日から感じていたけど、この人はすごく積極的にスキンシップを取ってくる。
本人いわく、長いこと人と話す機会がなかったこともあり、『触れ合いたい』のだという。
『勉強はできるほうですから。それより部長、部室にいなくていいんです?』
「別に私、地縛霊ってわけじゃないし。出ようと思えば学校の外にだって出られるよ? あそこが落ち着くから、動かないだけで」
言いながら俺から離れ、後ろ手を組みながらその場でくるりと一回転してみせる。
その拍子に彼女の腕が隣の机に当たり、その振動で消しゴムが転がり落ちた。
「おっと失礼」
振り向いた部長が謝るも、消しゴムの持ち主である女生徒は不思議な顔をしながら、リノリウムの床に落ちた消しゴムを拾い上げる。
『見えなくても、物には触れるんですね』
「あるものを除いて、ほとんどのものには触れるよー。人にも触れるけど、基本気づいてくれない。内川くんだけが、特別だよ」
口元に指を当てながら悪戯っぽく言って、俺から離れていく。
そのまま出ていくのかと思いきや、彼女はその後も教室に留まり、まるで巡回でもするかのようにクラスメイトたちの様子を見ていた。
……もしかして、彼女は俺と出会うまでの三年間、こうして人知れず時間を潰していたのかもしれない。
「隣の席の女の子、ノートの端にネコのイラスト描いてたよ。制作時間に対して、なかなかのクオリティ。もしかしたら部員にスカウトできるかも」
やがて授業も後半に差し掛かった頃、部長が俺のもとへ走ってきて、そう教えてくれた。
『その子はクラス委員長ですよ』
「ほうほう。かわいいし、イラスト上手かったよ。誘ってみたら?」
『いや、話したことないですし。というか、かわいいとか関係ないでしょう』
そう書き記してから隣の席へ視線を送ると、その子と目が合ってしまった。
直後にいぶかしげな顔をされたので、俺は慌てて視線をノートに戻す。
どうやら部長はただ教室内をうろついていただけじゃなく、イラスト部の部員としてスカウトできそうな人材を探してくれていたようだ。
「あとはね、入口に一番近い席の男の子もロボットだか何かの絵を描いてた。ああいう才能って大事」
熱心にそう教えてくれるも、彼は野球部所属のはずだ。確か、入学直後の自己紹介でそう言っていた記憶がある。
「それともう一人、窓際の一番後ろの席の子も何か描いてた。イラストじゃなくて、魔法陣みたいなやつだったけど」
それって厨二病こじらせているだけなんじゃ……? さすがに声をかけるのはためらわれる。
……そんな感じに、雨宮部長は色々な情報を教えてくれたあと、授業が終わると同時に手を振りながら去っていった。
……それにしても、なんか視線を感じるような。気のせいだよな。
◇
そして迎えた昼休み。
教師が教室から出ていくと同時に、クラス全体が開放感に包まれる。
女子たちが机をくっつけて弁当を広げはじめれば、一部の男子は学食や購買に向けてダッシュをかます。その動きは様々だった。
ちなみに俺の昼食は登校中にコンビニで買ったたまごサンドとカフェオレだ。
育ち盛りの男子高校生がこの食事量で大丈夫なのかと心配されそうだが、俺はそこまで食べるほうじゃない。体育の授業がない日はこれで十分だった。
「……ねえ、ちょっといいかな?」
サンドイッチの袋を開け、カフェオレのパックにストローを刺したところで、すぐ近くから声が飛んできた。
顔を向けると、委員長が隣の席から俺をじっと見ていた。
「えっと、なんでしょうか……?」
突然声をかけられ、俺は思わず敬語で返してしまう。
赤い髪を白く細いリボンでポニーテールにまとめた彼女は、その真紅の瞳でまっすぐに俺を見てきた。その視線が鋭いのは、少しツリ目気味であるという理由だけではないだろう。
入学して一度も話したことがないし、相手が委員長というだけで妙に緊張してしまう。
「授業中、あなたの周囲でずっと妙な気配がしてたんだよね。最近、変な場所に行ったりしてない? たとえば、心霊スポットとか」
「へっ? いや、特に行ってないですけど」
「そう……ならいいんだけど」
口調とは裏腹に、彼女は口元に手を当てながら、いぶかしげな顔をしている。
突然何を言い出すかと思えば、心霊スポット? まるで俺に幽霊でもついているような言い草だ。
……はっ、幽霊?
直後、先程まで好き放題に教室を歩き回っていた雨宮部長の存在を思い出した。彼女も幽霊だった。
「……まさか委員長、見えるんですか?」
「え、何が?」
ついそう口走るも、委員長はその大きな目をパチクリさせていた。
どうやら彼女も気配を感じているだけで、実際に部長の姿が見えているわけではなさそうだ。
「いえ、なんでもないです。忘れてください」
「やっぱり、怪しーなぁ……」
慌てて訂正するも、委員長はますます怪訝そうな視線を向けてくる。
これは墓穴を掘ってしまったかもしれない。
「おーい、ほのか、お待ちかねのカツサンドだぞ」
この場をどうやって切り抜けようか考えを巡らせていた時、談笑するクラスメイトたちの間を抜けて、一人の男子生徒がこっちに歩いてきた。
スラっと背が高く、銀色の短髪と黄金色の瞳が印象的だ。男の俺から見てもかなりのイケメンだ。
「翔也、ありがとー。代金、そのうち払うから」
「そう言って何度踏み倒されたことか」
翔也と呼ばれた彼は持っていたカツサンドとパックの紅茶を委員長に投げ渡す。
呆気にとられながらその様子を見ていると、彼と目が合ってしまった。
「お、確か……内川だったよな。三原翔也だ。よろしくな」
その風貌に似つかわしくない子供っぽい笑みを浮かべながら、彼は右手を上げる。俺もつられるように手を上げ返した。
「で、ほのかは内川となーに話してんだ?」
「内緒。あむっ」
素っ気なく返して、委員長は受け取ったカツサンドを口に運ぶ。
「その……怪しい気配がするって言われたんだ」
どこか人懐っこい彼の雰囲気に飲まれ、俺も言葉を崩す。
「内川、悪いことは言わねぇ。ほのかの言うことは真に受けないほうがいいぜ」
「こ、今回は本当にビビッと来たんだから!」
委員長を横目に見ながら、彼が小声で言う。どうやら丸聞こえだったようで、彼女は声を荒らげていた。
「巫女さんの力は健在ってかー? そんじゃあな」
そんな彼女の反応が楽しいのか、彼はけらけらと笑いながら自分の席へと戻っていった。
一方の委員長は特に気にする様子もなく、紅茶のパックにストローを刺している。
「すごく仲良さそうだったけど、今のって彼氏だったり……?」
「へっ? 違う違う。翔也はただの幼馴染」
俺も自分の昼食に手を出しながらなんとなく尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。
なるほど。幼馴染というのなら、あの二人の間に流れていた独特の空気も納得だ。
「てゆーか内川君、一つ気になってたんだけどさ」
「え、なに?」
「わたしの名前、覚えてる?」
「……佐藤ほのかさん」
「ちがーう! 汐見ほのか! やーっぱり覚えてなかった!」
机を叩きそうな勢いで言い、俺を睨みつけてくる。
幼馴染の彼が言っていたので下の名前はわかっていたけど、名字は当てずっぽうだった。
「ずっと『委員長』って呼んでるから、まさかと思ったんだよね……わたしは委員長として、クラス全員の名前を覚えてるってのに……隣の席の男の子にすら名前覚えてもらえてなかったなんて」
委員長……汐見さんは机に顔を突っ伏して泣いていた。
最初に比べると、ずいぶん印象が変わった気がする。喜怒哀楽が激しくて、見ていて面白い子だった。
「あ、そうだ。さっきの話の続きだけど、もし肩が重くなったりしたら言ってね。お祓いしてあげるから」
「え、お祓い?」
これまた聞き慣れない単語に、俺は眉をひそめる。
「商店街の向こう側にある、汐見神社って知らない? わたし、そこの娘で、巫女やってるの」
なるほど。巫女さんだから、幽霊の気配に敏感なのか。
「そんな場所があるんだ。俺、春にこの街に引っ越してきたばっかりで、商店街は途中のスーパーまでしか行ったことがないんだ」
「あー、スーパーってナカマル? あそこ安いよねー。精肉店併設してるのもありがたいし。牛肉コロッケ、安くておいしいよ」
もふもふとカツサンドを頬張りながら言う。
なんでそこで精肉店? カツサンド食べてるし、委員長ってお肉が好きなのかな。
話を聞きながらぼんやりとそう考えていた時、俺は雨宮部長の発言を思い出した。
「そういえば委員長、俺も一つ気になってたことがあるんだけど」
「普通に汐見でいいよ。それで、どうしたの?」
「汐見さん、授業中に猫のイラスト描いてたよね?」
「むぐっ……どうしてそれを!?」
彼女は予想以上に驚いて、持っていたカツサンドを取り落としそうになった。
「いやその、見えちゃって……ごめん」
実際に見たのは俺じゃなく雨宮部長なのだけど、それを正直に伝えるわけにもいかない。
「あはは……内川君、目がいいんだね……恥ずかしい……」
どこか遠くを見ながらも、その両手は机の中をさまよっていた。本当にショックだったようだ。
「そ、それでさ……もし興味があったら、今日の放課後にイラスト部の部室に来てくれない?」
「イラスト部? そんな部活、うちの学校にあったっけ?」
「あった……というか、俺が作ることになったんだけどね。興味ない?」
「――ある!」
直後、汐見さんはその真紅の瞳を輝かせた。
その予想以上の食いつき具合は、俺が思わずたじろいでしまうほどだった。
その日の放課後、俺は一人で部室へ足を運んでいた。
この部室、前方には黒板が設置されていて、見るからに教室といった風貌なのだが、壁際にはイーゼルや画板が重ねて置かれ、画材の詰まった棚の上では石膏像が睨みを利かせている。
加えて、本来机が並んでいるはずの場所には高さが微妙に違う机が寄せ集められ、作業スペースと化していた。
「委員長の子を口説き落としたんだって? 助言をしたのはこの私だけど、即座に実行するとは……内川くんもなかなかやるねぇ。このこのー」
「部長、地味に痛いんで脇腹小突かないでもらえますか」
まるでパズルを組み合わせたように寄せ集められた机の最奥に、俺と部長は並んで座っていた。
「それにしても……来ないね、その子」
組んだ両手の上に顔を載せながら、雨宮部長は部室の入口に視線を送る。
「帰りのホームルームで担任に用事を頼まれていたので、少し遅くなるそうですよ」
「そうなんだ。委員長さんの宿命だねぇ。でも、来てくれるだけで大歓迎。しかもその子、私の気配を感じ取ってたんだよね?」
「そうですね。神社の娘さんらしいですし、なんか感じてるっぽかったですよ」
「内川くんと出会えただけでも奇跡なのに、似たような力を持つ子がもう一人……? いやー、今年の一年生は豊作ですなぁ。これはワクワクが止まらないよー」
胸の前で両手を合わせながら、体を左右に揺らす。
待ち遠しい気持ちは理解できるけど、少し落ち着いてほしい。肩、ちょくちょく当たってるし。
……それから30分ほど経過するも、汐見さんが現れる気配はなかった。
「担任からの頼まれごと、予想以上に長引いてるのかもしれませんね。ちょっとジュース買ってきますよ。部長、何がいいですか?」
「あ、私は飲めないからお構いなく。幽霊だからさ」
すると彼女は、ひらひらと手を振る。
……そうだった。至って自然にそこにいるから、つい幽霊であることを忘れてしまっていた。
そうなると、一人で飲むのもどこかはばかられる。俺は一旦浮かせた腰をもとに戻す。
「やっぱり幽霊だと、飲んだり食べたりはできないんですか?」
「うん。できないよ。なんかね、食べ物が貫通しちゃう」
貫通? よくわからない表現だった。
「お腹も空かないから別にいいんだけど……匂いはわかるし、大好きだったドーナッツが食べられなくなったのがつらい」
心の底から残念そうに言って、彼女は天を仰ぐ。
「ちなみにこの部室、絵を描いてる時以外は飲食オッケーだからね」
かと思えば、急に笑顔になってそう口にした。この人も表情がコロコロ変わるな。
「そうなんですか?」
「うん。お昼休みにお弁当持ってきて食べてもいいよ。そのほうがお話もできるし、私も嬉しかったりする。それとも、内川くんは学食派?」
「いえ、あの混雑の中に飛び込んでいく勇気はないので。コンビニですね」
「コンビニより購買のほうが安いよー? あ、でも混雑するって点では学食と大差ないか。でも時間をずらすと人気のカツサンドややきそばパンが買えないし……」
口元に手を当てながら、もにょもにょと何か言っていた。
「詳しいですけど、部長は購買派だったんですか?」
「ううん。お弁当派。結局、一番安いのは自炊なんだよー?」
これ見よがしに言ってから、俺を見る。遠回しに自炊しろと言っているのだろうか。
「親元離れて一人暮らしなんで、自炊は勘弁してください」
「そっか、美術部入るためにわざわざこの学校を選んだって言ってたっけ。私が作ってあげるわけにもいかないし、しばらくはコンビニ生活だねぇ」
「そうなりますね。というか、やっぱり幽霊だから包丁とか握れないんです?」
「ううん。食べられないから、味見ができないんだよ」
「ああ、そういうことですか……」
自分の唇に手を当てながら、彼女はため息まじりに言う。
自由奔放に過ごしているように見える雨宮部長だけど、実際は色々と不便なこともあるのかもしれない。
「そうだ。いくつか聞きたいことがあるんですけど、聞いていいですか?」
「何かね? 乙女の秘密の数字以外なら教えてあげるよ」
「そんなこと聞きませんって……部長って幽霊なら、宙に浮かんだりできるんですか?」
「できないよ。内川くん、アニメとか映画の見過ぎじゃない?」
そんなことも知らないの……? みたいな表情を向けられた。だって、興味あるし。
「ついでに、壁を通り抜けたりもできない。きちんと扉から出入りしないと」
どっかりと椅子に座りながら言う。そういうことなら、椅子や机を透過する……なんて芸当も無理なのだろう。
「その代わり、こうやって大抵のものには触れるんだけどね」
そう言って、目の前にあった鉛筆削りを持ち上げる。
「でもこれやると、私が見えない人には鉛筆削りが勝手に浮かび上がったように見えるみたい。前にやってみたら、皆、叫んで逃げてた」
なるほど。いわゆるポルターガイストというわけだ。
「でも、中には触れないものもあるって言ってましたよね」
「そうなんだよー。私も幽霊になってから色々と試してみたんだけど、意志を伝えられるものには触れられないの」
「意志を伝えられるもの?」
「例えばペンとかの筆記用具だねぇ。スマホも無反応だし、パソコンのキーボードもダメ」
そう言い切るあたり、全部試してみたのだろう。
「物を並べて文字の形にするとかもやってみたけど、途中で動かせなくなるの」
とりあえず、他人に意思を伝えようとする行為が無理らしい。
幽霊も中々に制約が多そうだった。
「内川君、遅くなってごめーん」
部長とそんな話をしていた時、部室の扉が開いて、へろへろになった汐見さんがやってきた。
「遅くなってごめーん。ようやく開放されたよ……」
「おつかれさま……大変な仕事でも頼まれてたの?」
部室にやってくるなりうなだれた汐見さんに労いの言葉をかけ、そう尋ねてみる。
「そういうわけじゃないんだけどねー。印刷する資料がひたすら多くて。うちの担任、クラス委員長を自分の助手か何かだと思ってるんじゃないかな」
深いため息をつく彼女をなだめてから、近くの席に座るよう促す。
「ありがとー。ここがイラスト部の部室なんだね。なんか変わってて面白い」
椅子に腰掛けながら、汐見さんは室内を見渡していた。
高さを揃えずに寄せ集められた机もそうだけど、窓際の棚に詰め込まれた画材に興味津々といった様子だ。
そんな彼女を、雨宮部長はまじまじと見ていた。
それこそ、下手したら鼻と鼻がぶつかってしまいそうな距離で。相変わらず他人との距離が近い。
「ふむふむ、この子がそうなんだね。やっぱりかわいいよ。当たりだよ。話す時にちょこっと見える八重歯とか、チャームポイントだと思う」
何が当たりなのかよくわからないが、汐見さんがいる手前、部長の発言に反応するわけにはいかない。
「それでイラスト部って、どんな活動するの?」
「基本的にいつ来て、いつ帰ってもいい、まったりな部活だよ。まだ同好会だし、人を集めないことには話にならないしさ」
あらかじめ部長と打ち合わせていた内容を汐見さんに説明する。
個人的に調べてみたところ、現在のイラスト部は同好会に引き下げられていて、部員不在で休部状態だった。
「言われてみれば、イラスト部って入学式の部活紹介にも出てなかったもんねぇ……じゃあ、入部テストとかもない?」
「特にないよ。さっきも言ったけど、まずは部員を集めないといけないしさ」
「選り好みしてる場合じゃない……ってこと? 同じ絵を描く部活でも、そこは美術部とは違うんだね」
「え、美術部って入部テストあるの?」
「そうらしいよー。あくまで噂だけどね」
思わず尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。
「そうなんだ……つくづく、俺には縁のない部活だったのかも」
「どういうこと?」
思わず口をついて出た言葉に、汐見さんが反応した。
特段隠すようなことでもないので、俺は自分と美術部の間に起こった出来事について、彼女に話して聞かせた。
「そんな悲劇が……それでイラスト部を復活させようと?」
「まあそんな感じ」
「一年生なのに偉いねー。つまり内川君が部長さんなわけでしょ?」
「いや、この部は別に部長がいるんだよ。俺はあくまで、部長代理だからさ」
「そうなの?」
「うん。いるにはいるんだけど……その、幽霊部長なんだ」
「なにそれ、幽霊部員的な? それって大丈夫なの?」
「えー、あー、大丈夫。俺が全部代わりにやるから」
隣に座る部長へ視線を送ると、彼女は超絶笑顔でサムズアップしていた。どうやら俺に絶大な信頼を寄せてくれているらしい。
「じゃあ、このポスターを描いたのは内川君? それとも部長さん?」
そんなことを考えていた矢先、汐見さんが机の上のポスターに気づく。
先日廊下から持ってきて置きっぱなしにしていた、例の部活勧誘のポスターだ。
「それは部長が描いたんだよ」
「へー、すごく上手いよねー」
「いやー、それほどでもー」
描いた本人が目の前にいるとはつゆ知らず、汐見さんはポスターをしげしげと見ながら、そんな感想を口にしていた。
それに倣って、俺も改めてポスターを見てみる。
中央にうちの制服を着た男女が笑顔で並び立っていて、その背後にインクや雲形定規といった画材が配置されている。
描かれた人物はどちらも生き生きとしていて、今にも動き出しそうだった。
……すごく上手だ。これを、部長が描いたのか。
「何かね? 私がこの絵を描いたのが信じられないという顔だよ?」
思わず部長に視線を送ると、腰に手を当てた彼女からジト目で睨み返された。俺は慌てて視線をそらす。
「本当に失礼だよねー。ほのかっちー」
頬杖をつきながら汐見さんに言葉を投げかけるも、彼女の耳には届いていないようだった。
神社の娘さんとはいえ、部長の存在を認識することはできないんだろうか。
「むー、全然気づいてくれない。こうなったら、もっと積極的に触れ合うべきか」
部長はそう言いながら席を立つと、すたすたと汐見さんの背後に回り込む。
「ほのかっちー、ホントは聞こえてたりしないー?」
「ひいっ」
そして汐見さんの耳元でそう呟くと、彼女は涙目になりながら小さく叫んだ。
「な、なんかぞくっとした」
そう言って、自身の体を抱きながらおそるおそる振り返る。
位置的に部長と完全に目が合ったはずだけど、気づいている様子はなかった。それでも、何かしらの気配は感じているみたいだ。
「えーい! これで気づけー!」
そう考えていた矢先、雨宮部長は汐見さんの髪を結っていたリボンを勢いよく解いた。
「へっ? うそ、リボン切れた?」
突如として広がった自分の髪を両手で押さえながら、汐見さんは焦った顔で周囲を見渡す。
やがて床に落ちたリボンを見つけると、急いでそれを拾って確かめる。
「よかったー。切れてない。結びが甘かったのかな。焦ったー」
続いてそう安堵の声を漏らし、彼女は慣れた手つきでリボンを結んでいく。
「……ちょっと部長、イタズラしちゃダメですよ」
その隙を見て、俺は小声で部長に話しかける。
「ごめんごめん。でも、ほのかっちはほんの少しだけど私の存在を感じてくれている気がする」
「それはいいですけど、怖がられて入部拒否されても知りませんからね」
部長はニコニコ顔で席に戻ってくるも、俺はため息まじりにそう言ったのだった。
「ところで内川君、入部届ってどこ?」
「入部届? えーっと」
ややあって、髪を結い終わった汐見さんがそう聞いてくるも、俺には置き場所がわからなかった。
「この机の、一番上の引き出し」
その時、部長が自分の机を指し示しながら教えてくれる。俺はその引き出しを開けて、中から一枚の書類を取り出す。
「汐見さん、今更だけど、本当に入ってくれるの?」
「いいよいいよ。人足りないんでしょ? 文化部は掛け持ちできるし……あ、幽霊部員にはならないから安心して」
笑顔で書類を受け取ると、ペンを取り出して記入していく。そのペンには猫の模様が入っていた。
「掛け持ちできる……って、ほのかっち、何か部活入ってるの?」
「汐見さん、何か部活やってるの?」
「一応、料理部……なんだよね。へたっぴだけど」
部長の言葉を代弁すると、汐見さんは恥ずかしそうに頬をかき、視線をそらした。
クラス委員長の仕事もやりながら、料理部にも所属してるなんて。なかなかに大変そうだ。
「でも、料理部も毎日あるわけじゃないから大丈夫だよ……ほい。これでいいのかな?」
会話をしながらも、彼女は入部届を書き上げる。
雨宮部長と一緒に中身をチェックするも、特に問題はなさそうだった。
「ほのかっち、ありがとう! 部長として、歓迎するよ!」
「え?」
部長が満面の笑みを浮かべながらお礼を言うと、汐見さんは一瞬反応し、キョロキョロと周囲を見渡す。
「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない。とにかく、これからよろしくね。内川君」
彼女はそう言いながら、右手を差し出してきた。
「こちらこそよろしく、汐見さん」
俺もそれに応え、しっかりと握手を交わす。
「よろしく、ほのかっち」
そんな俺たちの手の上に、雨宮部長の手がそっと重ねられたのだった。
「同じ部活に入るんだし、連絡先交換しとこう?」
入部届を書き終えたあと、汐見さんがそう言ってスマホを取り出した。
お互いに同じメッセージアプリを使用していたので、その連絡先を交換し、その場で『イラスト部(仮)』という名前のグループも作っておく。
現状のメンバーは俺と汐見さんだけだけど、そのうち増えるだろう。
……というか、初めて女の子と連絡先を交換した気がする。
「それじゃ、また明日ね。自前でスケッチブックくらいは用意しておくけど、他にも必要なものがあったら連絡してね」
妙な気恥ずかしさを感じる俺を気にすることなく、汐見さんはそう言い残して部室から去っていった。
「いいなー。私も内川くんやほのかっちとメッセージ交換したい」
スマホを手にしたままその背を見送るも、直後に雨宮部長が画面を覗き込んできた。
「そうは言っても、部長はスマホ触れないんでしょう? だったらどうしようもないじゃないですか」
「そうなんだけどねー。仲間はずれは嫌だよ」
口を尖らせながら言い、俺のスマホ画面を何度も指でなぞる。いくらやっても反応しなかった。
「とにかく、今は部員が増えたことを喜びましょう。幸先いいですよ」
「それもそうだね。まずは一人ゲットだぜ!」
俺が取り繕うように言うと、彼女はグータッチしてきた。相変わらず、切り替えの早い人だ。
「同好会から部活動に昇格するためには、最低でも部員が四人必要だから。残るは一人だよ」
「部長は姿が見えないんですから、実質あと二人ですよ」
「あ、そっか。でも、この調子だとすぐに集まりそう。期待してるぞっ、部長代理の内川くん」
無邪気な笑顔を向けられ、俺は自分の顔が熱くなるのを感じたのだった。
◇
それからしばらくして、俺も帰宅の途につく。
徒歩でも帰れないことはないのだけど、今日はバスの気分だった。
生徒の下校時間に合わせてくれているのか、この時間帯はバスの本数も多い。
ちょうど校門前のバス停に循環バスがやってきたので、それに飛び乗った。
空いている席に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺める。
父親の仕事の関係で各地を転々としてきた俺だが、この街には小さな頃、半年ほど滞在したことがある。
さすがに当時とは町並みも違うし、すでに記憶も曖昧だったが、心のどこかで懐かしさを覚えていた。
……5分ほどバスに揺られ、商店街の入口を過ぎた辺りで下車する。
降りたバス停近くのコンビニで夕飯を買い、少し歩くと五階建てのアパートが見えてくる。そこが俺の家だ。
「ふう」
エレベーターを待つ間、おもむろにスマホを取り出してイラスト部(仮)のグループを覗いてみる。
そこには初期設定のままの俺のアイコンと、猫のイラストのアイコンが並んでいた。
「このイラスト、汐見さんが描いたのかな」
やけに手足が短い猫で、その色合いがどことなく彼女を彷彿とさせる。
「ほのかっちからのメッセージがそんなに待ち遠しいかね?」
「おわぁ!?」
その時、背後から雨宮部長の声がした。完全に気を抜いていた俺は腰を抜かしそうになる。
「部長、なんでいるんですか?」
「家庭訪問。同じバスに乗ってたけど、気づかなかった?」
「いやいや、気づきませんって」
バスには同じ学校の生徒も多かったし、知った人間……いや、知った幽霊が乗ってるなんて思わなかった。
「地縛霊じゃないとは聞いていましたが、こんなところまで来て大丈夫なんですか?」
「大丈夫なんじゃない? 現に、こうやって来れてるんだから」
にへらと笑ったあと、彼女はどこか嬉しそうに俺の隣に立ち並ぶ。
「家庭訪問って言ってましたけど、本当に俺の家に来るんです?」
「勢いでここまで来ちゃったからねー。いいから案内したまえ」
周囲に人がいないことを確かめながら尋ねるも、雨宮部長は同じ調子でそう口にした。
「でも俺、一人暮らしですよ? 大丈夫ですか?」
「……はっ。まさか襲う気だったり?」
思わずそう口にすると、彼女は大げさに後ずさる。
「いや、しませんけど……まったく、お手柔らかにお願いしますよ」
当然ながら、俺にそんな度胸はない。彼女にとってはこれも触れ合いの一環なのかもしれないけど、完全におちょくられている気がする。
もうこの際、信用されていると思うことにしよう……なんて考えた時、エレベーターがやってきた。
「……狭いですけど、どうぞ」
「おお、ここが内川くんの部屋」
鍵を開けて、部長を自室へと招き入れる。
このアパートは学生向けのワンルームなので、決して広いとは言えない。
それでも物珍しそうに、彼女は室内を見渡していた。
「さて、男の子の部屋に来たらやることは一つだよね」
そしてなんか言いながら、嬉々としてベッドへ向かっていく。
「部長、何する気ですか?」
「え? まずはベッドの下をチェックしようかと」
「ベタすぎてそんなところには何もありませんから」
「ほう。じゃあ、どこか別の場所にはあるんだね? 男の子の秘密」
「ありませんって。あからさまな家探しは止めてください」
続いてクローゼットのほうへ向かおうとした部長を引き止めて、用意したクッションに腰を落ち着けてもらう。
「食べられない部長の前で悪いですけど、晩飯食わせてもらいますんで」
俺は一言断ってからコンビニの袋をテーブルに置き、着替えを持って脱衣所へと向かう。
たとえ幽霊でも、女性の前で着替える勇気はなかった。
「おお、チキンカツカレーだ。さすが男の子、かっつりいくね」
それから部屋着に着替えて戻ると、部長は勝手に袋を開けていた。
コンビニで温めてもらっていたので、すでにスパイシーな香りが部屋に充満している。
「部長、よだれ出てますよ」
「おっと失礼」
思わず指摘すると、彼女は服の袖で口元を拭う。
「食べ終わるまで、テレビ見てるね。リモコンこれ?」
返事をする前に彼女は俺に背を向け、テレビのスイッチを入れる。
幽霊のはずなのに、リモコンはしっかりと反応していた。
「テレビが勝手に付いたり消えたりする心霊現象ってありますよね。あれってまさか、部長みたいな幽霊が勝手にテレビ見たりしてるんですか?」
「どうだろうねぇ……私も自分以外の幽霊に会ったことないから」
チキンカツカレーを口に運びながら、そんな質問をしてみる。彼女はリモコンを頬に当てながら考えるも、答えは出ないようだった。
「あ、見て見て、温泉気持ちよさそう」
やがて彼女は話題を変えるかのようにテレビ画面を指差す。そこには温泉に入るレポーターが映し出されていた。
「そういえば、部長ってお風呂はどうしてるんです?」
「あー、なんか幽霊になってから、不思議と入りたいと思わなくなった」
「え、じゃあ三年間、一度もお風呂入ってないと……?」
「……なんだねその顔は。特に匂わないし、むしろいい香りがしてると思うんだけど」
部長は自身の二の腕に鼻を近づけ、くんくんと匂いをかぐ。
幽霊である以前に女の子だし、ちょっとデリカシーのない質問だったかもしれない。
「せっかくだし、内川くんの家のお風呂借りちゃおうかなー」
彼女は冗談とも本気ともつかぬことを言って立ち上がり、部屋を横切って脱衣所へ向かっていく。
「……うわ、お風呂狭い」
そしてその扉を開けるやいなや、ため息まじりにそう言った。
「ユニットバスなんですよ。俺も普段はシャワーしか使ってません」
「えー、シャワーだけだと疲れ取れないよね?」
「商店街の入口に銭湯がありますから、どうしても湯船に浸かりたくなったらそこに行くんです」
「あー、朝霧の湯だね。私もよく行ってたよ」
再びクッションに腰を下ろしながら、部長はどこか嬉しそうだった。
当たり前だけど、彼女も生前はこの近くに住んでいたのかな。
……その後は時折話題を振ってくる雨宮部長に相槌を打ちながら、食事を続けた。
自然と受け入れてしまっているけど、家に女の子を上げたのは、今日が初めてだったりする。
相手は幽霊だからノーカン……といわれれば、それまでだけど。
本当、数日前には思いもしない状況だった。
「ご飯も食べたことだし、そろそろ見せてほしいなー」
俺が食事を終えると、雨宮部長はそう言って立ち上がった。
「だから、男子の秘密はどこにもありませんってば」
「違うよ。私が見たいのは……内川くんの描いた絵」
彼女は一瞬間を置いたあと、両手を後ろに組みながら言った。
「これまでに描いた絵、見せて。狭い部屋なんだから、隠しても無駄だぞ」
続いて獲物を狙うような目で室内を見渡す。
ひょっとして、わざわざ家まで押しかけてきた理由はこれなのかな。
「以前見せたじゃないですか。あれがそうですよ」
「あんな破られた作品じゃなくて、きちんとしたのが見たいの。部長として、部員の実力は把握しておかなくちゃ。どこだ? やっぱりここか?」
そう口にしながら、本当にベッドの下を覗き込んでいた。そんなところには置いていない。
「……わかりましたよ。見せますから、少し待っててください」
「やた」
俺はため息をついて立ち上がり、クローゼットの横にある押し入れを開ける。
そして、そこにしまい込まれたいくつかの絵を引っ張り出す。風景画や静物画に加え、人物のデッサンなどだ。
「おお、上手」
「中学の時に描いたやつです。荷物になるので、大した数は持ってこれませんでしたが」
「こういうのもいいけど、イラストは? イラストはないの?」
さっき以上に目を輝かせて、彼女は押し入れの中を覗き込む。
「ないですよ。俺、元々美術部志望だったんですから。こういうのばっかりです」
「あそっか。でも、これからはイラスト描いてもらわないと」
「わかってますよ」
「じゃあ、今から描いてみよう」
「え、今から?」
思わず聞き返すも、彼女は本気のようで、押し入れの奥からスケッチブックを引っ張り出していた。
「描くって言われても……何を描けばいいのやら。モデルもないですし」
「何を言っているのかね。ここにかわいいモデルがいるではないか」
そう言って、彼女は期待に満ちた表情で自分を指差す。
かわいいとか、自分で言っちゃうんだ。まあ、確かにかわいいけど。
「……まあ、いいですけど。軽く描くだけですよ?」
「うんうん。よろしくお願いするよ」
スケッチブックと鉛筆を持って、俺はベッドに腰を落ち着ける。対する部長はクッションを手に移動し、その対面に座り込んだ。
それを確認してから、俺は描写対象の特徴を掴むため、部長の顔をじっくりと観察する。
大きくぱっちりとしたマリンブルーの瞳と、ふわりとした黒髪のショートボブ。顔立ちも整っている。
やっぱり、部長はかわいい。とても幽霊だなんて思えない。
……って、何を考えているんだろう俺は。
突如として湧き上がってきた謎の感情を振り払って、俺は鉛筆を走らせる。
最近はあまり描けていなかったけど、手はしっかりと覚えているようだった。大した時間もかからず、部長の肖像画を完成させる。
「……できました。どうですか?」
「さすが上手いとは思うけど……なんか硬いね」
「硬い?」
完成した作品を本人に見せると、彼女はわずかに眉をひそめた。
「内川くんの絵は、イラストっていうよりデッサンに近いねぇ。物をそのままに描いてるの。だからなんか硬い。イラストは形や陰影より、描くモノの特徴を見つけるのが大事。多少形がデフォルメタッチでも、個性的なほうが味も出るというか」
「……もっと崩して描けってことです?」
「そうじゃなくて……うーん、説明が難しいなぁ」
そう言った彼女の手が、もどかしそうに宙をさまよう。
「せっかくですし、部長も描いてみてくださいよ」
「あー、それができればしたいんだけどねぇ……ごめん」
そう部長に謝られた直後、俺ははっとなる。
彼女は先日、『意志を伝えられるものは持てない』と言っていた。
つまり、画材――鉛筆や筆といった絵を描くための道具も、一切持つことができないということだ。
イラスト部の部長までやる人だし、さぞかし絵を描くのが好きなはずだ。
そんな部長が幽霊になったことで、大好きなイラストが描けなくなったとしたら。
「いえ……俺こそ、すみません」
それに気づくも、俺はかけるべき言葉を見つけられず、ただ謝るしかなかった。
「気にしなくていいよ。それより目下の問題は、内川くんの画風だよ。もっとイラスト調にしないと」
そんな俺に対して、彼女はあっけらかんと言い、手元の絵をじっと見る。
「とりあえず口頭で説明するから、頑張って描いてみよう!」
その後、そう意気込んだ部長から色々と教えてもらうも、なかなか納得のいく作品は描けなかった。
◇
絵の練習に没頭していると、いつしか時間が過ぎ、時計は21時を回っていた。
「部長、さすがに夜遅くなりましたし、部室に戻らなくていいんです?」
「……今日は帰りたくない気分なの」
「雰囲気作りながら言ってもダメですよ。帰ってください」
「えー、夜の学校って怖いんだよー」
「幽霊が言う台詞ですか。それにお泊りなんてされたら、俺が眠れません」
「ちぇー」
俺の必死の訴えが通じたのか、彼女は口を尖らせながらも立ち上がり、玄関へと向かう。
「バスももうないのにー。はぁー、一人で歩いて学校まで帰るのかー」
その間も、頭を抱えながらわざとらしい声を出す。
確かに心苦しいけど、さすがに泊めてあげるわけにはいかない。俺たち、まだそんな関係じゃないし。
そう自分に言い聞かせるも、部屋から出ていく部長の背中は寂しげだった。
……ああ、まったくもう。
そんな彼女を見ていられず、俺はその後を追いかける。
「部長、学校まで送りますよ」
そして彼女に追いついた直後、俺はそう告げた。
「そう言ってくれると思ってたよ。さすが、内川くんは優しいねぇ」
その瞬間、部長は驚いた表情をしていたものの、すぐに笑顔になった。
どうして追いかけたのか俺自身にもわからなかったけど、その表情を目にした時、なんとも言えない安心感が込み上げてきたのだった。
雨宮部長の家庭訪問から数日後。
俺は汐見さんや部長を交え、部室で話し合いをしていた。
その議題は、どうやって残りの部員を集めるか、だ。
現在、イラスト部(仮)の正式な部員は俺と汐見さんの二人。部長は俺以外に姿が見えないので頭数に含まれず、部活動昇格のためには、残り二人の部員を急いで集める必要があった。
「というわけで内川君、何かいい案があったらどしどし出して!」
黒板の前に立った汐見さんが息巻くも、そこにはまだ何も書かれていない。
「ほのかっち、さすが委員長さんだねぇ。内川くんは部長代理のはずなのに、完全に主導権握られてるよ?」
後ろの席に座った雨宮部長が、微笑ましいものを見るような声色で言う。
姿が見えないこともあって、完全に他人事だった。
「確か、もう大っぴらには募集できないんだっけ」
「そうなんだよねー。うちの学校の場合、大々的に部員募集ができるのは入学式から二週間って決まってるの」
言われてみれば、入学式からしばらくは連日校門前に大勢の生徒が集まって、自分たちの部活をアピールしていた気がする。
けれど、その期間はとうに過ぎてしまっている。そうなると地道に活動していくしかない。
「王道だけど、知り合いに声をかけてみるのは? 汐見さん、イラストが好きそうな友だちとかいない?」
「残念ながらいないかなぁ……クラス委員長として、それなりに皆の趣味は把握してるんだけど」
口元に手を当てながら、さらっとすごいことを言う。
彼女がクラスメイトと話す姿はよく見かけるけど、そこまでしていたのか。
「ほのかっち、すごい努力家さんだよねぇ」
部長が耳元でささやくように言う。そんなことしなくても、部長の声は汐見さんには聞こえないというのに。
「そうなると、他のクラスを当たってみるしかないかな」
「必然的にそうなっちゃうよねー。人脈がないところが一年生の辛いとこだね。はあ」
汐見さんは天井を見上げたあと、小さくため息をつく。
「私の知り合いはもう全員卒業しちゃってるしなぁ……頑張れ、後輩たちよ」
その様子を見ながら、部長は手を合わせていた。これは彼女にも期待できそうにはない。
「汐見さんは上級生に知り合いとかいないの? 中学ん時の部活の先輩とかさ」
「先輩はいるような、いないような……一応声かけてみるけど、あまり期待しないでね」
そう尋ねてみると、汐見さんはなんとも煮えきらない口調で言った。
それでも、何もしないよりかはいいだろうし、話の流れによっては、その先輩がイラスト好きな別の先輩を紹介してくれるかもしれない。
「でもさ、それだけじゃ心許ないよね……何か、今すぐにできることがないかな」
続けて汐見さんは言い、視線を泳がせる。
俺もつられるように周囲を見渡すと、机の上に置かれたままの部活勧誘のポスターが目に止まる。
「そうだ。新しいポスターを作るのはどうかな?」
「ちょっと内川くん、新しくとはどういうことかね? 私の描いたポスターが気に入らないと?」
そんな提案をした時、背後の部長から不満そうな声が飛んできた。
そういうわけじゃないけど、彼女がこのポスターを作ったのは三年前だ。経年劣化もあってどうしても古く見えるし、なにより『イラスト部』としっかり書かれてしまっている。
俺たちはイラスト部(仮)と呼んでいるが、現状はイラスト同好会なのだし、それに見合った内容のポスターを作らなければならない。
「ポスターかぁ……いいかもね」
「そういえば、汐見さんってどんな絵を描くの?」
「へっ? えっと、こ、こーんな感じ?」
彼女は一瞬戸惑いの表情を見せたあと、スケッチブックを取り出してその場でさらさらと絵を描いていく。
そして数十秒後には、かわいらしい猫のイラストが完成していた。
「おお、すごい」
それを見た俺と部長の声が重なる。
「えへへ、ありがとー。猫のイラストだけは得意なんだー」
「え、猫だけ?」
再び部長と声が重なる。
「そう、大好きな猫だけは極めた。それこそ品種まで描き分けられる。今のがアメリカンショートヘアで、メインクーンがこうで、シャム猫がこう」
彼女は嬉々として鉛筆を走らせ、次々とイラストを描いていく。上手だったけど、そのどれもが猫だった。
「あの……汐見さん、もしかして猫以外のイラストは描けないの?」
「そ、それはその……うん。他のは小学生レベルかも」
そう言いながら、再び鉛筆を走らせる。次に描き出されたのは、かろうじて犬とわかるようなイラストだった。
どうやら彼女は、猫イラスト特化型のようだった。
「かわいいし、これはポスターに採用すべきだよ! 内川くんの絵より百倍かわいい!」
部長が背後でなにか言っていたけど、俺はあえて反応しない。
「部長代理をやるくらいだし、内川君はイラスト上手いんだよね?」
「え? いや、俺の絵はその……硬いらしくてさ」
「うーん?」
少し悩んでから、俺は先日部長に言われた内容をそのまま口にする。汐見さんは意味がわからないのか、首をかしげていた。
ここ数日、部室にあった参考書でイラストの練習をしているけど、まだ全然ものにできていない。
「内川君、試しに猫描いてみて」
すると汐見さんはいぶかしげな顔をしながら、俺にスケッチブックを渡してくる。
断ることもできず、俺は記憶を頼りに一匹の猫を描いていく。
「一応、できたけど」
「おお……今にも動き出しそう。毛並みがすごい」
「けど、なんかかわいくない。いかにもデッサンって感じ」
汐見さんと部長がほぼ同時に俺の絵を覗き込み、そんな感想を口にしていた。
絵としては上手いけど、イラスト部のポスターとしては不向き……ということだろう。部長代理なのに、立つ瀬がなかった。
「美術部志望だったから、イラストは自信ないんだ。まだ練習中でさ」
そう取り繕うも、俺たちの間になんとも言えない空気が流れる。
汐見さんに任せて、ファンシーな猫まみれの部活勧誘ポスターを作るか、俺の手でリアルな猫がどっしり構えるポスターを作るか。
「どっちの猫にするかが問題だ……」
「え、別に猫じゃなくてもいいんじゃない?」
俺が頭を抱えると、汐見さんは不思議そうな顔をする。
その意見はもっともだけど、さっきから雨宮部長が背後でずっと「猫いいよね! 猫!」とうるさいのだ。これはどっちにしろ、猫を描くしかなさそうだった。
とりあえず猫を題材に描くことは決定事項となり、次に使用する画材を決める。
「画用紙はこっちで、鉛筆やマーカーはここ。筆と筆洗いは下の棚に……」
雨宮部長に案内されながら、画材を揃えていく。
予想はしていたけど、何年も放置されていただけあって、どれも埃だらけだった。
「あっちゃー、インク系はお陀仏だよー。絵の具もダメなのが多いし、こっちのパレットは洗わずに放置されてる!? 最後に使ったやつ誰だ! おのれぇぇ……!」
筆洗いを棚から引っ張り出して埃を払っていると、別の棚を見ていた部長が叫び声を上げる。
彼女にとって魂の叫びだったのか、少し離れた場所にいた汐見さんがどきりと反応していた。
「こりゃダメだね。絵の具系は今から買いに行こうよ」
大きなため息をついたあと、部長はそんな提案をしてきた。
その台詞をそのまま汐見さんに伝えると、彼女は頷いて、そそくさと帰り支度をはじめる。
「おお、汐見、ここにいたのか」
その時、部室の入口から声が飛んできた。
反射的に視線を送ると、俺たちの担任が顔を覗かせていた。
「悪いがまた仕事を手伝ってくれないか? お前がまとめてくれた資料、職員会議でも評判良くてな」
「え? あのー、わたし今から……」
「すぐに終わるから。じゃあ、職員室で待ってるぞ」
そして担任は汐見さんの返事を聞くこともなく、その場から立ち去っていった。
「はぁ……今日は料理部も休みだから、こっちに集中できると思ったのに」
呆気にとられながらその背を見送ったあと、彼女はがっくりと肩を落とす。
「ごめん、後で半分払うから、画材買っといて! まったく、しょうがない担任だなぁ」
続いて開き直ったように言うと、手早く荷物を片付け、部室を飛び出していった。
「……委員長さん、大変みたいだねぇ」
「うちの担任が特殊なだけだと思いますけど……とりあえず、買い出しは俺たちだけで行きますか。オススメの画材とかあったら、教えてくださいね」
「お任せあれ! 初心者向けからプロ御用達の品まで、幅広く紹介するよ!」
部長は笑顔で言って、軽い足取りで扉へと向かっていく。
俺は心の中で汐見さんを応援しつつ、部長とともに学校を後にしたのだった。
学校を出た俺と雨宮部長はバス通りを歩き、とある建物に足を運ぶ。
ここは文房具店や書店が入った複合施設で、バス停が近いため利用する学生も多い。
一階は文房具が主で、目当ての画材売り場は二階にある。
うちの学校に美術科があるということもあり、その品揃えは充実していた。
キャンバスを立てかけるイーゼルだけでもいくつも種類があり、ポピュラーなものから野外用、卓上用なども売られている。
それ以外にも、各種絵の具にマーカー類、パステル、コンテなど、かゆいところに手が届く品揃えだった。
「おおー、久しぶりに来たよー。目移りしちゃうねぇー」
時間帯もあるのか、人の少ない店内を雨宮部長は目を輝かせながら練り歩く。
いつも以上にテンションが高い気がするし、彼女がどれだけ絵が好きなのか伝わってくる。
「はしゃぎすぎて、転んだりしないでくださいよ」
「わかってるよー。まずは絵の具ね!」
言うが早いか、部長はパタパタと駆けていく。
どこに何が売られているか把握しているようで、その歩みにはまったく迷いがなかった。
「水彩絵の具とアクリル絵の具は必須でしょ。あとは色鉛筆。あ、スケッチブックも何冊か買っておかないと」
ずらりと並んだ絵の具を前に、彼女は声を弾ませながら指示を出す。
部長が触れることができない画材も多いのか、俺は彼女に指示されるがまま、商品をカゴに入れていく。
「そうだ。練りゴムも古くてカチカチになってたし……ちょっと新しいの見てくるね」
俺が複数の絵の具をカゴに入れた時、部長はそう言って別の通路に行ってしまった。
嬉しいのはわかるけど、本当にせわしない人だな……。
そんなことを考えながらも、俺は部長に頼まれた画材を探す。
「えーっと、次は色鉛筆だっけ……」
ほどなくして目的の品を見つけるも、ラスト一箱のようだった。
「おお、危なかった」
一安心しながら色鉛筆に手を伸ばすと、ちょうどタイミングが被ったのか、横から伸びてきた別の手と触れ合ってしまう。
「あ、すみません」
相手は女性のようで、俺は反射的に手を引っ込める。
続いてその容姿を見ると、俺と同じ学校の制服を着ていた。そのリボンの色からして、二年生らしい。
「……あら、あなた、京桜の一年生?」
彼女も俺の校章を見たらしく、そう声をかけてくる。ふわっとした薄藍色のウェーブヘアと、糸目が特徴的だった。
「そ、そうです。これ、どうぞ」
俺は一歩下がって、色鉛筆を彼女に譲る。こういう時は先輩を優先するべきだと、中学の時に学んだのだ。
「あら、優しいのね。でも私が見た限り、あなたのほうが先に取っていたわよ?」
彼女はそう言って笑うと、受け取った色鉛筆を俺のカゴに入れてくれた。
その際に見えてしまった彼女のカゴには、専門的な画材がいくつも入っていた。
「もしかして、美術部の方ですか?」
「ふふ、残念ながら違うわ。これは趣味よ。それじゃあね」
口元に笑みを浮かべながら、女性は去っていく。
その独特な雰囲気に飲まれた俺は、何も言えないままその背を見送ったのだった。
「……内川くん、何をしているのかね?」
「おわっ……!」
背後から突然声をかけられ、思わず叫びそうになる。慌てて振り向くと、雨宮部長が真後ろに立っていた。相変わらず、気配を感じさせない人……いや、幽霊だ。
「今の人、趣味にしてはやたら本格的な道具を買ってた。内川くん、後をつけたまえ。声をかけたまえ」
「え、いやいや無理ですよ。上級生ですし、どこの誰かもわからないのに」
「むー、内川くんの意気地なし。このこの」
つい尻込みすると、彼女は俺の背中を小突いてくる。
この攻撃、地味に痛いから止めてほしいんだけど。
◇
その後、無事に買い物を終えて部室に帰還するも、そこに汐見さんの姿はなかった。
もしやと思いメッセージアプリを立ち上げると、イラスト部(仮)のグループにメッセージが来ていた。
『(ほのか) ごめーん、まだまだかかりそう。なんなら先に帰っていいよ』
そんなメッセージとともに、号泣する猫のスタンプが添えられている。
「ありゃあ……ほのかっちも災難だねぇ」
俺に顔をくっつけるようにしてスマホ画面を覗き込んだ部長が、哀れみに満ちた表情で言う。
……やっぱりこの人は、距離が近い。
「とりあえず、買ったものをしまっちゃおうか。ついでに棚の掃除もしよう」
「え、今からですか?」
「そうだよー。せっかく道具を新調したんだから、置き場所もきれいにしないと!」
そう言いながら、奥の掃除用具入れから二枚の雑巾を引っ張り出す。
時間はそろそろ17時半になろうとしているのだけど、彼女には関係ないようだった。
ちなみに完全下校時間は18時で、俺としてはあまり余裕がない。
「それに掃除してれば、そのうちほのかっちも戻ってくるかもしれないし」
そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、部長は棚に無造作に詰め込まれたパレットや古い筆を引っ張り出していく。
「うわああ、スポンジ! カビてる! 内川くん、パス!」
「いやちょっと、いくら汚いからって俺に投げつけないでください」
どこか楽しそうだな……なんて考えていた矢先、見事な色になったスポンジが部長から投げてよこされる。
俺は反射的にそれを避けてから、古い鉛筆を箸のように使ってスポンジをゴミ箱へ捨てた。
……結局、その後は汐見さんが帰ってくるのを待ちながら、部室の掃除に没頭したのだった。