――――カランと地面に落ちた仮面。あらわになった素顔は、紅緋さまによく似ていた。黒い鬼角に、焦色の髪、そして赤い瞳。色もだが、顔立ちもよく似ている。しかし違うのは……。
目の回りに赤い入れ墨のような模様があること。
「やだ、恐いっ!紅緋さま助けて!」
悲鳴を上げた菖蒲は紅緋さまに抱き付き、すりすりと胸元に顔を埋めようとするが、紅緋さまは強引に菖蒲を引き剥がす。
「きゃ……っ!?」
菖蒲がものすごい吹き飛び方をして地面に打ち付けられるが、紅緋さまが構わずこちらに駆けてくる……!
「紅緋……!」
はい……?何で紅緋さまが自分の名前を呼んでるの……?
……でもっ。
「あの、やめて下さい!」
咄嗟に赤丹を後ろに庇う。
「いや……あの……っ」
「赤丹は何も悪くありません!」
紅緋さまが赤丹を責めようとしているのかもしれない。けれどこれは私の問題だ。
「あの、何を言って……っ?赤丹とは誰です」
「え、だから赤丹は私の大切な……」
がばっと振り返れば……赤丹が背中を向けてうずくまっている。
「念のため聞いておくが、紅緋。奥方さまに何と説明したんだ」
え……?どうして紅緋さまが、赤丹を紅緋と呼ぶのだろう……?
「赤丹……」
「奥さま、その方の本当の名は紅緋ですよ」
「……え?あなたが、私の旦那さまの紅緋さまでは」
「私は薔薇。あなたの旦那さまはそこにいる紅緋。そして私は紅緋の従兄弟です」
「い……とこ……?」
そして、赤丹が紅緋さま……!?つまりは私の旦那さまである。
私はずっと旦那さまと暮らしていたの……?
「赤丹。いや、紅緋さま……?」
紅緋さまは背を向けたままである。
「……紅緋。いいのか?先ほどの奥方さまの言葉が確かなら、離婚の危機だが」
そう……言えば……っ!私は紅緋さまを顔も知らない夫だと思い、薔薇さまが紅緋さまだと思い込んで……離婚を告げたのだ。
そして薔薇さまの言葉に、紅緋さまの肩がビクンッと震える。
「あの……赤……紅緋さま」
そっと肩に手を触れれば。
「俺が……恐ろしくはないのか」
「え……っと、赤丹なら……恐くはないけど」
「……この顔は人間には恐ろしい」
「そんなことはないと思うけど……。私は赤丹の素顔を見られて嬉しいから」
「……っ」
「あと……赤丹が紅緋さまだったの……?」
「……」
「どうして今まで……」
使用人の振りなんてしていたのだろう。私にとっては家族のような存在だったけれど……。夫……でもあったのよね……?
「仮面を外したら……杏子も俺のことなど嫌いになると思った」
「そ、そんなことないから……っ」
「でも……離婚って……。この顔がバレたんだと……っ」
「いや、違う……!離婚って言ったのは……その、赤丹が紅緋さまだって知らなかったし。このまま結婚している意味もないかと思って」
「意味が……ない……」
ずどんと来てるわね、さすがに。
「でも赤丹は……紅緋さまは私と結婚……していたいの……?」
「……それはっ」
「あの、その……私は……。紅緋さまが嫌なら出ていくから」
出ていく先などないけれど。
「嫌だ……!」
「ふぇっ!?」
がばりと抱き付いてきたふんわりと温かい感触に、一瞬何が起こったのか分からなかったけれど。
「杏子がどこかに行くなんて……嫌だ」
そこまでひとから望まれたことなど……今までにあっただろうか……?
「……行かないで」
「……その……うん」
赤丹が紅緋さまだったならば。
「離婚なんてしない」
「赤丹が……紅緋さまが望んでくれるなら」
「さまなんて付けるな」
ふと、紅緋さまが身体を起こして見つめてくる。
「じゃぁ……紅緋……?」
「あぁ……杏子」
何だか泣き出しそうな表情で見つめてくるのは……あの時みたいだ。もっともあの時は、素顔は仮面に隠れて見えなかったけど。
でも今は……悲しいわけじゃない。
「俺の妻になってくれる……?」
戸籍上はもう夫婦だけれど。でも、紅緋と本当に夫婦になるのは……今この時だ。
「うん」
今までずっと家族のように過ごしてきた。ずっと赤丹が本当の家族ならよかったのにと思った。だから、頷かないはずはない。
紅緋と夫婦になれるのが、この上なく嬉しいの
だ。
そして自然と引き合うように唇が重なりあった。
唇が離れていくのを名残惜しく感じつつも、私を見下ろす紅緋をまっすぐに見上げる。
まだ、ドキドキしてそっと視線をそらせば、そっと頬に紅緋の掌が触れてくる。
「紅緋」
「杏子」
まるでずっと見ていてとでも言いたげなような。何だか……どこかかわいらしい。
「戻ろう、離れに」
「う……うん……?」
紅緋は紅緋だったのに……離れに戻るの……?紅緋にも本邸に戻れない事情があるのだろうか。しかしこれまで通り紅緋と暮らせるのならば。
手首を引く紅緋に付いて行こうとすれば。
「いや、待て!お前まだ本邸に戻らないのか……!」
不意に紅緋の肩を薔薇さまが掴む。
「いい加減、戻れ。みな、紅緋の帰還を待っている」
「それは……」
紅緋がそっと視線をそらす。
「奥方さまもいい加減、本邸で暮らしたいでしょう?」
「……っ」
私っ!?
「その、私は……離れでもいいです」
「杏子もそう言っている」
私の言葉に賛同してくれるように紅緋の腕が私を包み込んで来る。
「いや、その……っ」
薔薇さまが頭を抱えている。やっぱり……次期頭領だから……?
「あの、みなさんにご迷惑をかけるなら、戻った方がいいのでは……?私はこちらでいいので」
そう提案してみれば。
「杏子と離れなくない」
これ……また振り出しに戻った……?
はて、どうしようか。私は紅緋と一緒なら離れで構わないのだが。……でも薔薇さまは困っているようだし。
考えあぐねていれば、そう言えばこの場にもうひとりいたことを、ふと思い出す。
「ちょっと……っ、私がいるのに、何勝手に話を進めているのよ!」
菖蒲だ。どうやら意識を取り戻したらしい。
「ねぇ、紅緋さまぁ……!紅緋さまはあのブスじゃなくて、私と結婚してくださるのでしょう?」
そう菖蒲がすりよったのは……薔薇さまである。
「近付くな!」
しかし薔薇さまは蚊でも払うかのように菖蒲を一蹴する。
「それに私は紅緋ではない!」
「でも、紅緋さまだって!紅緋さまってみんなに呼ばれてたじゃない!」
どこで……だろう……?
私の疑問に答えるように、薔薇さまが口を開く。
「本物の紅緋はこちらだ。そして私は紅緋の仮面を被り代わりを務めていたまで」
確かに顔はそっくりだ。目元の模様を隠せば見分けが付かないほど。とは言え細かい表情や仕草は違うと思うが。
「でもどうして……」
紅緋は薔薇さまに代わりを務めてもらっていたのだろう……?
「紅緋は幼少期のトラウマで、人間の娘が苦手なのだ」
そのトラウマって明らかに菖蒲よね……?
「だから人間の娘が来るような会合には私が代わりを務めている。頭領のご子息として、そう言った場に全く顔を出さない……と言うわけにはいくまい」
確かに……。あれ、でも。
「彼女は……出禁では?」
鬼の家々に縁談を断られ、菖蒲は巫女の家の出身であることをいいことに、勝手に鬼たちにアプローチするため、そう言った鬼との交流の場……取り分け人間の娘も自身を売り込むために凌ぎを削る会合などに無理矢理押し入った。
そこで許嫁のいる鬼や既婚者の鬼にまで、見目麗しいなら構わないとアプローチしまくり、さらにはその婚約者や妻に嫌がらせまでした。だからこそ出禁を言い渡されていたのに。
私はそう言った場に顔を出すことがなかったけど、実家で菖蒲が文句を言いながら私に当たり散らして来たから知っている。
「何よ、何よ何よ何なのよ!」
私の呟きを聞いて菖蒲が私に向かって憤怒の表情を向けるが、紅緋がサッと私の前に腕を添えたことで菖蒲が『ひっ』と短い悲鳴を上げ、尻込みする。
「そうだ。出禁を言い渡したのに、この女はほかの人間の娘を脅して招待状を奪い取り、成り代わって潜入してきた」
何てことを……。
「脅された娘は大丈夫なんですか……?」
「まぁ、うちの嫁さんが看てくれたからな。無事に家に返してある」
それなら……。
「何で私じゃなくてほかのブスの話なんてするの!?」
ブス呼ばわりするのは私にだけ……だと思っていたが、ほかにもやっていたのか……。むしろ自分が一番美しいと言われて育った菖蒲にとっては普通のことなのかもしれない。
確かに顔立ちは美しい……が、その表情まで洗練されているとは限らない。彼女はただただ甘やかされてきただけだから。
「私がこんなに悲しんでいるのに……っ」
そう……なのだろうか……?悲しんでいるのは被害にあった娘では……?
「知るか……!」
薔薇さまが一蹴する。
「だが何故このようなことに」
紅緋が口を開き、薔薇さまを見る。
「また顔の良い鬼にすり寄り、その婚約者に手を出そうとしたのを止めたら、『醜い顔の癖に』と私の仮面に手を伸ばし……その拍子に外れてしまったのだ」
それで外れた先の薔薇さまの顔を気に入ったから、幼い頃に自分が紅緋に言ったことを気にもせず、アプローチした。
そして、会合と言うのは頭領の屋敷かその周辺で行われていたのだとうか……?
頭領の子息……正確には成り代わっていた薔薇さまと結婚したいから、紅緋の妻である私に離縁を迫るためこちらに押し掛けた。
どうやって離れの場所を知ったのか、私がこちらにいることを知ったのか……。
いや、巫女の家だもの。鬼の家々からは嫌われているとはいえ、私が嫁いだのだ。それを利用して人間の家々に圧力を掛けて情報を探ることはできる。
「これは運命だわ!やっぱり紅緋さまは私と結婚すべきなの!元々、紅緋さまが結婚するはずだったのは私なのよ!」
それを紅緋を傷付ける方法で拒んだのは菖蒲だろう。
あの日紅緋は仮面の内側で泣いていた。相当恐かったのだろう。ショックだったのだろう。
――――しかし、あの時紅緋は仮面を付けていた。それも今の顔の上半分を覆うものではなく、顔全体を覆うものを。
「ふざけるな!何度も言うが、私は紅緋ではなく、従兄弟の薔薇だ!それに……紅緋はあの時も仮面を被っていたのに、無理矢理仮面をもぎ取った挙げ句、お前はまた紅緋に酷いことを叫んだ……!」
そうか……それで。紅緋は仮面を被っていたが……菖蒲が自分で無理矢理取ったのに、紅緋に化け物などと勝手なことを叫んだのだ。
美しい鬼が目当てだったから、どうせ無理矢理顔を見たいと迫ったのだろう。
紅緋は優しいから……人間を恐がらせないように仮面を被っていたのではないか……?
――――それなのに。
「でも私との愛のお陰で、呪いは解けたのよ!」
呪い……なの?少なくとも菖蒲との愛はないと思うし。そちらは薔薇さま。それに薔薇さまは確かさっき……。
「呪いだと!?ふざけるな!この女、我ら鬼をバカにしているのか!」
しかし次の瞬間、薔薇さまがこれまで以上に声をあらげる。そして紅緋がボソリ……と呟く。
「これは呪いなんかじゃない……先祖返りだ」
呪いじゃなかったのは良かったけど……先祖返り?
「我ら鬼は、元々人間には恐ろしい様相をしていたが……種の繁栄のためには人間の娘が必要だ。だからこそ、今のように人間を誘惑するような美麗な容姿を持つと言われている」
確かにそう考えれば合理的である。鬼はただで容姿がいいわけじゃない。種の繁栄のためなのだ。
「だが、先祖返りとして強い力と先祖返りの姿を持つ紅緋は我ら鬼の誇り。それをかつてあのように貶しておいて、まだ言うか……!」
あぁ……それで鬼たちは怒り、菖蒲のことを門前払いしたのだ。鬼の根本を否定するならば、彼ら自身の誇りを傷付けるのと同様。
そのような娘を、鬼たちが一族に招き入れるはずがないのだ。
それにほかにも鬼の伴侶になりたい娘はたくさんいるし、巫女の家だってほかにもある。うちは単なる候補でしかなく、そこで菖蒲がやらかした。
そして私が嫁ぐことで鬼は菖蒲の非礼を許したけれど、菖蒲が鬼の一族の中に入ることは拒否した。
薔薇さまの反応を見る限り、完全に許してはいないようだけど。
形式上だけ……と言うことなのだろう。
「わ……私は紅緋さまの花嫁になるべきで……っ!あんな化け物紅緋さまの偽物よ!本物の紅緋さまはあなたさまなの!」
またもや鬼の誇りを傷付けて……。自分の言うことが絶対的に正しいと認識しているから、鬼の誇りを傷付けていることにすらも気が付いていないのだろう。
そしてまた本物の紅緋を化け物扱いし、薔薇さまにすがろうとする菖蒲を、薔薇さまは舌打ちすると、さっと腕を伸ばした。その瞬間……っ。
「う、がぁ……っ」
薔薇さまの手が、菖蒲のか細い首を容赦なく鷲掴みにし、締め付けるようにキリキリと音を立てる。
「あ゛……あ、か、ひ……ざまぁ……っ」
「いい加減にしろ!私は薔薇だ!そして紅緋をこれ以上貶すのならば、この場で殺してやる……!」
あれは……鬼の本気の怒気。どこかその肌には、紅緋の目元のような紋がうっすらと浮かぶ。
鬼が本気でその力をあらわにすれば、先祖の力に近しい姿をとる。それが常に出ている紅緋は、まさに特別な先祖返りなのだ。
――――しかし、あれは本気で殺す気では!?
「だ、ダメです、薔薇さま!」
私の声に、薔薇さまの縦長の瞳孔がギラリと光り、硬直する。これが……人間よりも高位な存在の、威嚇。
「薔薇、やめろ」
その時紅緋が薔薇さまに告げれば、薔薇さまが菖蒲の首から手を放し、菖蒲が地面に崩れ落ちる。
「紅緋……だが……っ」
「お前が手を下すまでもない」
「……分かった」
それはどう見ても長年に渡って築かれたのであろう信頼関係だ。
――――だが菖蒲はそれをどう曲解したのだろう。
「紅緋さまが化け物に操られている!あぁ、おかわいそうな紅緋さま!私との愛で目を覚まさせてあげなくちゃ……!」
「何が貴様との愛か!そもそも私は既婚者だ!」
「は……?だからあのブスと離婚すればいいじゃない!」
「本当に話が通じない」
――――その時だった。
「あら、こんなところまで来ていたの?薔薇ったら。みんな心配していたのよ?」
こちらに駆けてきたのは、珍しい……女鬼だ。
美しい、かわいい、そう言われ続けて育った菖蒲は自分の容姿に絶対の自信を持っていた。けれど彼女を見た瞬間、菖蒲の中でガラガラと何かが崩れ落ちる音がした気がする。
「桔梗!」
薔薇さまが、そう呼んだ女性の鬼はにこりと微笑む。
その名の通りの妖艶な紫の瞳に角、濃い紫のロングヘアーの美女だった。しかも……胸元が豊か。
菖蒲が完全敗北するほどの容姿に、洗練された美しさが滲み出ているような女性だ。
「どうしてここまで」
「なかなか戻って来ないんだもの。心配になるでしょ?それに……紅緋まで。そちらはもしかして……あなたの……?」
桔梗さまが紅緋にらちらりと目を向ければ、何故か紅緋が私を抱き締めてくる。
「ふふ……っ。とらないわよ」
軽く微笑むだけでも、輝いて見えるのはどうしてだろうか。
そして敗北を来しつつも、負けるのは嫌だとばかりに菖蒲が再び立ち上がる。
ちょっと……今度は何をするつもり……っ!?
「私の紅緋さまよおおおぉぉぉ――――――っ!!!」
今度は対象を変えて、桔梗さまに……!?
しかしそんなことは傍らにいた薔薇さまが許さなかった。
「桔梗に何をする気だ!」
「ぐほぁっ」
何かがボキッと折れた音が響く。
「イイイイイダイイイイイイイイ――――――ッ」
絶叫しながら地面に寝転がって叫ぶ菖蒲の手首があり得ない方向を向いている。
「あら……大丈夫?その子……」
自分に掴みかかろうとした菖蒲まで心配するだなんて、桔梗さまは相当いい方なのかもしれない。
「関係ない!かつて紅緋に酷いことを言っておいて、さらにまた……化け物だなどと……っ」
「あぁ、例の子ね。鬼と人間は分かりあえないこともあるわ。別々の種族だもの」
「だが、桔梗」
「大丈夫よ、薔薇。幼い頃は本能の方が勝るから仕方がないとは言え……さすがに弟を何度も傷付けるのは看過できないわ」
ん……?弟……?
「もう自分で反省できる年齢でしょう?」
桔梗さまの言葉に、菖蒲はカッと目を見開く。
「私は悪くない私は悪くない!紅緋さまを誑かすお前がぁぁぁぁっ!」
菖蒲の言葉に桔梗さまが首を傾げる。
「この女は私が本当の紅緋だと思い込んでいるんだ」
「あらあら……」
それにはさすがの桔梗さまも苦笑いをするしかなかったようである。
それから、桔梗さまが呼んだ増援により、菖蒲は無理矢理その場から退場させられる。
「わ……わだじの手゛、なお゛じでぇ……っ」
しかしそれを聞く鬼はいない。さらには。
「あなた、きれいな顔!あなたもよ!私の間男にしてあげるううっっ!だから私を助けなさいいいぃぃっ!」
いや……イケメンバイキングではないのだが……。
「あの……菖蒲は」
どうなるのだろう……?
「相応の罰は与える。鬼社会にはそう言った場所はあるから。あれにはとても合っている場所だ」
ふむ……菖蒲が反省をできるのなら……いいのかな。
「心配するな。あの女は二度と杏子の前には現れないようにする」
「二度と……?」
ちゃんと反省させると言うことだろうか。
「でも実家が何か言ってくるかも……」
何せ菖蒲はあれでも彼らの自慢の娘である。
「そんなことはさせない。鬼の頭領一族を怒らせたのだ。今度こそあの家は終わりだ」
「……そう」
思い出も何もなかった家だが……いや、紅緋と出会えた思い出はあるけれど。
「杏子が望むものがいれば、助けてやってもいい」
「え……それは特にいないけれど……?」
「……そうか」
「……うん?」
「もっと早く……強引に連れてくれば良かった」
――――はい!?
「それでアンタ、ずっと離れに引き籠るつもりだったの……?でも、何だか和解した……と思っていいのかしら。そろそろ本邸に戻っていらっしゃい。もう隠しておくものもないんでしょう?」
「……それは」
紅緋が俯く。
「いいから!とにかく来なさいな?お父さまとお母さまも待っているのよ」
そう言えば紹介されたこともなく嫁いだのは、冷遇されているからとばかり思っていたけれど……。でも紅緋はずっと私の側にいてくれたわけで……。
「また離婚だのなんだの言われたらどうする?」
薔薇さまの言葉に、紅緋がびくんと肩を震わせる。
「あら……」
桔梗さんも驚いたように紅緋を見る。
「何がどうなればそうなるのかしら?」
「自分のことをちゃんと話していなかったようだ」
「全くこの子は」
桔梗さまが紅緋の額をコツンと小突く。
「せっかく迎えた花嫁に離婚を提案されるなんて、鬼の沽券に関わるわ……?」
「……分かった」
紅緋も折れたようである。
やはり離婚は……相当ショックだったのだろうか……。
「あの、ごめんね……?知らなかったから」
「杏子……」
「ちゃんと話してなかったあんたが悪いわよ」
しかし桔梗さまの言葉に、紅緋はどこか悔しげに顔を背けた。
――――出会いは突然だった。
鬼の頭領の跡継ぎとして、相応しい許嫁を得ることは鬼としての義務と教えられてきた。
そして俺はその中でも特別な先祖返りだったから。少しでも良い伴侶を。
そして俺と年の近い娘がいる巫女の家との縁談が設けられることになった。
だけど……俺の、先祖返りの鬼の顔は、さぞ恐ろしいもののようだ。
以前言い付けを破って薔薇と屋敷を抜け出した先で、酷く人間を脅えさせてしまったから。
だから、まずは仮面で顔を覆うことを、両親は許してくれた。
そうして向かった巫女の家のひとつで、事件は起きた。
巫女の家の娘が、顔が見たいと強引に仮面に手を伸ばしたのだ。子どもどうしだからと穏和に対応していた両親が慌てて止めに入り、薔薇も俺と娘を引き剥がすが、仮面がポトリと落ち、人間の娘が悲鳴を上げて、俺を化け物と叫んだ。
俺は恐くて仮面を持って逃げ出してしまった。
後ろで両親や伴の鬼たちが怒り狂う声が聞こえるが、それでもその時は、その場から逃げ出したかった。
仮面を被り、飛び出した場所で彼女……杏子と出会ったのだ。でも……今は仮面で顔を隠しているとはいえ、【紅緋】だとバレてしまえば、恐ろしい顔だと嫌われてしまうかもしれない。
だから咄嗟に【赤丹】と名乗った。
彼女は鬼である俺にも優しく、そして同時に愛おしいと感じたのだ。
鬼には、時に鬼の本能で【この人間が花嫁だ】と分かる本能があるらしい。
もしかしたら、彼女が……。
やがて薔薇が追い付いて、そそくさと彼女の前を後にしてしまったけれど。
彼女のことは……どうしても忘れられなかったから……。
両親や一族は巫女の家の娘の蛮行に怒り狂ったが、俺は杏子を嫁に迎えられればいいと告げ、その願いは叶えられた。
その後は赤丹として彼女を離れに招き結婚生活をしていたが……。
しかし彼女から離婚を告げられ頭が真っ白になってしまった。
ずっとずっと彼女に真実を言えなかったから。この顔のことを知られて、嫌われるのが恐かったから。
――――彼女に冷遇されていると思わせてしまった。そしてかつて俺を化け物と呼んだ女が原因だったことに腸が煮えくり返った。
しかし杏子は……俺の顔を見ても泣かなかった。化け物とは言わなかった。
俺を紅緋と呼び、妻になると言ってくれた。
――――だから。
「紅緋さま」
薔薇が手配を終えたのか、本邸の書斎にやって来る。
「あの女は手筈通りにした。奥方さまに会うことのないよう一生隔り世から出られない」
「ならばいい」
隔り世……昔人間たちが鬼には鬼の世があると信じていた時代に、そう呼んだものだ。実際は人間社会を影から牛耳っていたわけだが。
そして今で言う隔り世は違った意味を持つ。
鬼が人間の娘を伴侶にと娶るのは、単に種の繁殖のためと言うわけではない。
そして巫女の家のような質の良い霊力を持つ娘を鬼が好むのは、その霊力を食らうことによって鬼の力を強化するためだ。
無論今は実際に食らうことはない。粘膜の接触があればそれでいい。その方が人間との確執が少なくて済むし、花嫁と言う扱いにすることで質のいい巫女の娘を手に入れる仕組みを……長い時をかけて造り上げたのだ。巫女のとは元々古来退鬼師たちが鬼に対抗するために力の源や霊力の籠った武器な護符に利用した娘たちだ。
しかし鬼たちは着実に人間社会を影から牛耳ることで退鬼師たちの力を削ぎ、巫女一族を手に入れることに成功した。
巫女の一族やうら若い娘からしても、退鬼師たちに道具として扱われるよりも、見目麗しい鬼の伴侶にと望まれた方が魅力的だ。
――――まぁ、あの女のように美醜に囚われすぎて自我を失うものも少なくはない。
巫女の一族なら少しは耐性があるはずなのだが……あぁいう例外は常に有る。
そして自身の大切な【花嫁】に手を出す人間には容赦しない。
頭領には従うが、人間の娘を伴侶と見なさない鬼もいる。さらには特定の伴侶を得ず、必要な時に買うだけでいい鬼も。
あの女は気に食わないが、これからはあの娘が好んでいると言う顔のいい鬼に代わる代わる可愛がられることになろう。
さらに霊力の質は悪くとも巫女の一族の出なのだからと人気が出るだろう。
ここから出してと言ってももう遅い。あそこからは決して逃れられない。
もう巫女を助けてくれるであろう退鬼師もいない。巫女たちは鬼の伴侶となることに幸せを求め、自分たちを人間の世を守るための道具としかしない退鬼師を捨ててしまった。力の源を失った退鬼師たちは、もう既に隔り世に露となり消え果てた。
俺も頭領の跡継ぎだ。鬼の一族のためにたまには恵んでやらねば、彼らも満足しまい。
あの隔り世は、せっかく手に入れたこの人間の世で、彼らに勝手をさせないための餌を置いておくものでしかない。
「ところで、奥方さまのご実家はどうする」
「どうでもいい。潰しておけ。巫女の家がひとつ潰れたところで鬼に打撃はない。むしろ隔り世送りにするものが増えるのだ。巫女の血を引く女は提供し、それ以外は雑用としてこき使えばいい」
「情け容赦ないな。してやる義理もないが」
「当然だ」
杏子が望むのなら外で生かしておくと言う手もあったが……。杏子は特に望まなかった。
杏子は輿入れの際も、俺の贈り物を何一つ持って来なかった。それよか……。
「あの女、随分と堂々としている。あの晴れ着を見たか?」
まさか俺が杏子にかつて送った贈り物を着て、堂々と俺のふりをした薔薇の前に現れるとは……。
「あぁ。あれは奥方さまの輿入れ前にお前が贈ったものだろう……?」
「そうだな」
化け物と罵っておいて、化け物が贈ったものは、杏子から平気で奪い取って自分のものにするのだな……。
「それらも回収するか?」
「証拠のためにな。そして鬼の家から贈り物を強奪すればこうなると言うのを、やつらは存分に味わうがいい」
「あぁ、それがいい」
それをあの家の人間どもは非情と見なすだろうか。しかしそれが鬼なのだと……鬼が何なのかを、今一度その身で知るといい。
――――お前たちが選んだのは、鬼なのだと。
――――本邸の厨房では、男鬼の料理長の料理支度の傍ら、桔梗さまと共に私もお手伝いをさせてもらっている。
「じゃぁ……次はこっちをお願いしようかしら」
「はい、桔梗さま」
「こら、そうじゃないでしょう?」
何か、不味いことをしてしまっただろうか……?
「杏子ちゃんは紅緋のお嫁さんなんだから、紅緋の姉である私は、【お義姉さん】でいいのよ?」
「お……お義姉さん」
「そうよ。かわいいじゃない」
なでなでと髪を撫でてくれる桔梗さま……いや、お義姉さんはやはり魅力的な女性だ。
鬼だとか、人間だとか。その種族の壁を越えて。
お義姉さんと共に厨房に立っていれば、ふと、こちらにひょっこりと顔を出してきた女性がいた。
紫の瞳に濃い紫のショートヘアーの年上の女性だが、その顔はお義姉さんによく似ている。
「あら、桔梗?ひょっとしてその子が……?」
「そうよ、お母さま。紅緋がやーっと本家に連れてきた、お嫁さんの杏子ちゃんよ!」
お義姉さんが言った通り……この方が紅緋のお母さま。お義姉さんは珍しい女鬼だったけども、お母さんはよくあるように、鬼に嫁いだ人間の花嫁……だったのか。
「まぁ!やっとなの?あの子ったら、花嫁さんが来たのに離れに囲い込んじゃって。だけど、漆樹さんの子だもの。遺伝よねっ!」
確か……漆樹さまと言うのは頭領さまのお名前だったはず。紅緋が頭領の息子なのだから、間違いないだろう。
しかし……遺伝……?
紅緋と同じ事情かどうかは分からないが、しかし同じように離れに囲い込んだのだろうか……?思えばあの離れは、妙に道具や家具が整っていた。中には使い込んだようなものまで。それはご両親の時の名残で……それから紅緋も私との生活に合わせて所々住みやすいように調整してくれたと言うことだろうか……?
「私のことは【お義母さん】って呼んでねっ!もちろん嫁いびりなんてしないから安心して?」
「は……はい……お、お義母、さん……?」
実家では呼んだことすらないから、妙に緊張してしまう。
あのひとたちは私を自分たちの娘とも認めたがらなかったから。
「そうよ~~!あと、オナスも意地悪なんてしないわ?ほら、オナス」
あ、お義母さんが持ってきてくれたのは、ナスだ。
「ナスってね、秋に美味しくなるでしょう?」
「は、はい」
そう言えば菖蒲が秋ナスは美味しいと言って食べてたっけ。
無論私は分けてもらえたことなどないが。あの家では美味しいものは、菖蒲のものだった。
「でもナスって言うのは夏野菜なの。だから夏に合わせて身体の熱をとるようにって、できているのよ。だから意地悪してひとりでオナスを食べまくったら……それは季節の変わり目に痛い目に遭うのよ?」
パチンとウィンクしながら、オナスをサクサク切るお義母さん。
そう言えば……菖蒲は季節の変わり目に調子が悪くなって機嫌が悪かったけど……。独り占めしたから……バチが当たっていたと言うことだろうか。
「風邪ひかないように、生姜入れましょうね」
「はい、お義母さん」
それも生活の知恵なのだろうか。
思えば菖蒲は生姜が嫌いだった。
菖蒲が嫌がらせで私のご飯に大量に入れてきたことがあったし、そう言うことも多かったけれど。
あんな栄養の足りない生活でまともに育つことができたのは……菖蒲が捨てた、本当は身体に必要だったものを必然的に食べてきたからなのだろうか……?
「杏子ちゃんは料理に慣れているわね」
「えぇ、多少は」
食べさせてもらえるかは別として、使用人にもこき使われる生活だった。今思えば……使用人よりも使用人の仕事をしていたのだから、どこかの家の使用人として雇ってもらう道もあったかもしれない。
「紅緋とはど~お?あの子溺愛体質でしょう?鬼って大体そうなのよ」
そう、お義母さんが告げてくる。溺愛……まぁ、そうかも……?
紅緋も、優しくしてくれた。そして薔薇さまもお義姉さんをとても大事に思ってるのは、菖蒲からお義姉さんを守る姿でよか分かった。
「溺愛すぎてオイタが過ぎたら、離れに行っていいのよ?女同士、3人で行きましょうか」
「そうねぇ、お母さま」
え……っ、あの離れって、そう言う……!?だからこそ、普通に使える設備が整っていたのか……?
「それなら私たちも」
「お手伝いします」
「あら、ありがとう」
お義母さんが、厨房に出入りする女性たちに微笑みかける。彼女たちは頭領の家に仕える鬼のつまたちなのだそうだ。
やはり女鬼は少なく、みな人間である。
しかし……みんな離れに来てしまっていいのだろうか……?こちらの飯炊きは……。
その疑問にお義母さんが気が付いたのか、クスリと微笑む。
「だからこその、反省よ!」
あぁ……なるほど。そうまでして反省させられるって頭領さまは一体、何をされたのだろうとも思うけれど。
でも時折厨房に出入りする男性鬼もいるし、本邸の料理長も男鬼である。
「多少の家事は回るわよ。でも料理長もワンオペにはならないわ。女手が少ないんだもの、必然的ね」
うん。そう、なるか。あれ……けれどお義母さんもお義姉さんも、思えば何故厨房に立っているのだろう。
人間の場合、名家の妻や子女は普通家事をしない。菖蒲たちのように。
そしてその答えは、すぐにお義母さんがくれた。私が疑問に持つことすら分かっていたかのように。
「ふふ……。私が厨房に立つのは、愛妻料理のためよっ」
「お母さまったら」
「あら、桔梗もでしょう?」
「うん」
2人がにこやかに笑い合う。自分の夫への……愛妻料理。
「杏子ちゃんの手料理、きっと紅緋も楽しみにしてるわぁ」
「いえ、その……っ」
「離れでは、作ってあげていたんでしょう?」
「……はい、でもお料理は一緒に……です」
紅緋はあの時は使用人を名乗っていたから……特に疑問にも思わなかった。
「あら、それもいいわね」
「薔薇にやらせてみようかしら」
「それいいわね、漆樹にもいいかも。面白そう」
いや……その、いいのだろうか……?頭領さまと、その甥子さま……。いや……思えば紅緋も頭領の息子だった。お料理は……お義姉さんかお義母さんに習ったのだろうか……?
そしてできた料理を居間に運びに行けば。
紅緋と薔薇さま……それから。紅緋と薔薇さまによく似た男性を見付ける。
黒髪、赤い瞳と角。目元に紋はなく、どちらかと言えば薔薇さまに似ている。この方は……どちらの……?
「まぁ、いい。それを置いてしまいなさい。重たいだろう?」
「は、はい!」
その男性のお言葉に甘えて、料理皿を座卓に並べていく。
「顔を合わせるのは初めてだ。主に紅緋のせいだが」
「……父さん」
口を尖らせる紅緋の言葉で、それが誰なのかが確定してしまった。この方が……頭領さま。もっと恐そうな印象を持っていたのだが、紅緋や薔薇さまのように朗らかに笑う方である。いや……父子と伯父なのだから似ていて当然か。
「ですが……伯父上。伯母上との時もそうだったと、私の父から聞きました」
しかし頭領さまが薔薇さまの言葉でむせる。
「げほっ、あ、アイツか……。息子に何と言う兄の秘密を暴露しているんだ」
「いえ、秘密と言うより、父の世代はみな知っているのでは?」
「それは……まぁ、そうかもしれんが……ともかく、今は紅緋の選んだ花嫁に自己紹介でもせねばな」
「こ、こちらこそ……!ご挨拶が遅れました……っ」
頭領の家に嫁いだのならば、頭領さまにまず第一に挨拶に伺うべきところ、私は紅緋さまに冷遇されているものと思い込んでいたから、挨拶もさせてもらえないのだと思い込んでいた。
「私が当代頭領で、紅緋の父である漆樹。君は杏子ちゃん……だったな……?」
「は、はい、よろしくお願いいたします、頭領さま」
「そんな仰々しい呼び方でなくともいい。私のことは【お義父さん】でいい」
「お……お義父、さん」
これもまた、実家ではほぼ呼ぶことがなかったから……少し、照れてしまう。
「薔薇は……私の甥だが今は義理の息子だな」
薔薇さまは紅緋のお姉さんと結婚しているから……。
「お前はどうする?」
「好きに呼んでいいが……まぁ、その、義兄でいい」
「お……お義兄さん……でしょうか?」
「そ……そうだな」
「何か照れてないか?薔薇」
「気のせいだ」
ふいと顔を背ける薔薇さま……お義兄さん。照れ症なのは……どうやら紅緋と似ているらしい。
どうしてか微笑ましくなってしまう。、
「あら、早速仲良くなったの?杏子ちゃんに変なこと教えちゃだめよ?」
そこでお義母さんやお義姉さんと一緒に、厨房に出入りしていた女性たちも料理を運んできてくれる。
「すみません……!私も……っ」
「いいのいいの、絶対捕まると思っていたもの」
お義母さんがいたずらっぽく笑う。それで……私がまずお皿を運んだと言うことか。何から何まで、どうやらお義母さんの予測通りだったらしい。
「さて、ご飯にしましょうか……!」
お義母さんが告げれば、続いて駆け付けた男鬼と女鬼の夫婦に、薔薇さまが両親だと紹介してくれた。薔薇さまのお父さまはお義父さんにそっくりで兄弟なのだとすぐに分かる。
そして薔薇さまのお母さまは女鬼で、鬼の中でも名家に生まれ、薔薇さまのお父さまに見初められて嫁いだのだと言う。
そしてみなで席につき、私は紅緋の隣に座らせてもらえた。
食事が始まると、紅緋がおかずを取り分けてくれる。
「他に食べたいものはあるか?」
「と、取り敢えず、これだけで。お代わりしたい時は、また言うね」
「あぁ」
「あらあら、微笑ましい」
「ラブラブねぇ」
そう告げるお義母さんや薔薇さまのお母さまも……どこか伴侶の鬼となかむつまじげで……。
私と紅緋もああして、いつまでもなかむつまじい夫婦になるのかな……?
そう思いながら紅緋の顔を見つめれば、私の視線に気が付いた紅緋がきょとんとしている。
「どうした……?」
「ううん……、何でもない!」
慌てて首を横に振ってお皿に箸をつけたのだった。
生姜煮のオナス……美味しいな。
――――本邸での暮らしは、離れの時よりも賑やかだ。それも当然だろうか……?こちらにはお義姉さんやお義母さんたち、それから住み込みの使用人や警備の武人たちもいるのだ。
廊下を歩けば、紅緋の花嫁だと歓迎してくれているようで……これほど温かく迎えられるのは新鮮で、まるで私じゃないように思えてしまう。
こう言うのは全て菖蒲のものであったが、実家とはどこか違う。実家ではみな、菖蒲に媚を売るようにご機嫌取りをしていたが。ここでは、ご機嫌取りなど必要ないように、どこか友好的である。
さらにはお義姉さんに誘われ、本邸の湯殿に足を踏み入れる。
「どう?広くていい場所でしょ?」
「はい。その……湯船は」
実家のよりも広い……。
しかも湯が乳白色である。
「気になる?温泉のような効能が出るよう、特別な石を沈めているのよ。気持ちいいわよ」
「私も入って……いいんですか?」
離れにもひとりようの湯船があって、お湯が湧いていたけれど、私が浸かっていいものか分からなくて、結局入らなかった。
「もちろんよ。この湯は疲れにいいから、私たちが入った後は、使用人たちにも疲れを癒してもらうために残り湯を使ってもらうの」
そんな上質な湯に、使用人たちも浸かれるのか。
実家では本家の人間と同じ湯は使えなかったから、使用人用の風呂で、しかも狭かった。私が使っていたのはさらに狭く湯船もない離れの浴室。使用人よりも下位の召し使いが使う場所だった。
――――でも、ここでは違う。
紅緋は入って欲しくて……湯を張ってくれていたのだろうか……。少し悪いことをした気分になってしまう。
「離れは離れで、また違った泉質になっているでしょ?」
「確か……赤褐色の」
「そうよ。入ってみた?」
「いえ……入っていいものか、分からなくて。紅緋には悪いことを……」
「そんなことはないわよ。初めての場所だもの。遠慮しちゃっても仕方がないわ。どうせ紅緋は入ってるでしょうし、無駄にはならないわ。今度女3人で行くときは、交代で入りましょ?それで楽しめばチャラよ」
「はい、お義姉さん」
お義姉さんの気遣いがとても嬉しい。ここは、優しいひとたちばかりだ。
「ほら、髪と身体あらって、さくっと、入っちゃいましょ!」
「はい……!」
早速普通の石鹸で髪を洗おうとすれば、お義姉さんから身体用の石鹸ではなく、髪用の石鹸を渡された。実家ではこれが普通だったのだが……。
「女の子なんだから。離れにもあったはずだけど……ひょっとして……見慣れてなかったのかしら?じゃぁ、私に任せて?」
「で……ですけど……」
「私、ずっと妹が欲しかったの!ほら、後ろ向いて?」
「……っ、は、はい」
そんなに断るのも失礼かと思い、お義姉さんにお任せする。
離れにあったものも、使えば良かっただろうか……。
「あの、離れでは、身体用でしたけど、途中から白から橙がかった黄色い石鹸になっていて……」
「んー、ひょっとして兼用のものかしら……?離れの髪用の石鹸が減らないから、きっとあのこなりに気を遣ったのね」
いつの間にか……紅緋が気付いて、私が気兼ねなく使えるようにしてくれていた。どうしてか……嬉しくなってしまう。この火照った顔は、気付かれませんように……。
その後お義姉さんは髪用の石鹸を泡立てて汚れを落としてくれて、さらには髪が更々になると言う美容液を染み込ませてくれる。
「後は洗い流すだけよ」
「は、はい……!」
目をつむって湯を流してもらえば……あっという間に髪は艶々になっていた。
その頃には頬の熱も引いていて、艶々の髪をするすると指に絡めて感心する。
「すごい……」
「これからは毎日やりましょうね」
「でも、毎日だなんて……っ」
「紅緋も喜ぶわ?」
「紅緋も……」
それなら……やってみようか。
「あの、お義姉さん。次は私が……」
「ふふっ、よろしくね」
「……はい!」
お義姉さんと一緒に洗いっこした後は、髪が湯に浸からないように上げる必要があるらしく、お義姉さんに手伝ってもらった。知らないことばかりだ。
そして2人で乳白色の湯に浸かる。
「ん~~っ、やっぱり湯は気持ちいいわね」
「はい、とても気持ちいいです」
「肌もすべすべになるから、紅緋も触りまくるわよ!」
「そ、それはさすがに……」
触りまくる……?
そうして湯殿から上がり、髪と身体を乾かせば、湯上がり用の浴衣を渡される。そう言えば……実家の本家のひとたちも……菖蒲たちもこう言うのを着ていた。
帯の結び方は……普通の置物と違うのだろうか……?
迷っていれば、お義姉さんがお手本を見せてくれて、その通りに結んでみる。
「ほどけやすいように結んでもいいのよ?もちろんほどけるのは紅緋との寝室でにしなさい?」
「は、はいっ!?」
いきなり何を……っ。
それが何を意味するのかくらいは……分かる。
「ありあら、初々しいわねぇ。大人の夫婦になれば……分かるわっ!」
そ……そうなの……?しかし、まだ分からない……細部までは分からないのだから、帯はほどけないようにちゃんと結んでおいた。
そうして、事前に紅緋との夫婦の寝室だと教えてもらった部屋の襖を開ければ……先に敷かれた布団の上に、既に紅緋がいた。
「杏子、風呂はどうだった?」
「……っ!とても広くて……それから、お湯にも浸かれて、気持ち……良かった。疲れも……とれそう」
「そうか、それは良かった。自慢の泉質だからな」
「うん」
そしてそれを独り占めしないのは……お義母さんの言っていた原理と似ているような気がする。
そして自然と紅緋のすぐ隣に腰を下ろしたのだが……。ふと、ここで良かったのかと不安になり、腰をあげようとした。
その時だった。
「杏子」
すぐに紅緋に腕を掴まれ、もうひとつの腕で腰に手を当てられると、ふわりと抱き寄せられる。
そしてそのまま後ろから布団に身を預けた紅緋に抱き締められるようにして身体が重なりあう。
「あ、紅緋」
「どうして離れようとするんだ?」
まるで肌ざわりを確かめかのように、紅緋の手が私の手首や腕をなぞる。
その仕草と感触が、妙に妖艶で……。
「それは、その……っ」
言葉にもつまってしまうくらいには……私は動揺しているようだ。
「俺は杏子といたい」
直球のその言葉にドキッときてしまう。
「それは、私も」
ついついそう、私も漏らしてしまうように……。
「じゃぁ……何で……?」
その……っ。何だか……試されている?いや、違う。紅緋は口元にうっすらと笑みを浮かべている。
全てを見透かされているようなその瞳は……お義母さんの瞳とよく似ている。
これには……どうしてか素直に吐きたくなってしまうのだ。
色は違うのによく似た、優しく慈しむような眼差し。
「その……私が、隣にいてもいいのかって……思って」
「当然だ。むしろ……隣にいてくれ」
紅緋はそう言うと、ぱたんと横に寝転び、同時に私と向かい合う形で布団に横たわる。
「紅緋……?」
「杏子……愛している。俺の愛しい花嫁」
愛……愛しい……。花嫁……。
蜜のような響きの連続に、かあぁぁっと顔が赤くなる。そしてさらに身体を抱き寄せてくる紅緋が、柔らかい愛の印を重ねてくる。
「杏子……杏子は……?」
どうしてかそれを確かめねば、どうしても不安なようである。あの全てを見抜いているかのような瞳を持つのに……不思議な。けれど……。
「愛、して……るよ」
その言葉を紡ぐのは、勇気がいるけれど。どうしてかその甘露のような空間では、素直に吐露したくてたまらない。
「嬉しい」
たっぷりと……ありったけの愛を注いでくれる紅緋の身体に、そのまま身を委ねてしまいたくなる。
「それでいい」
「うん……」
優しい紅緋の答えが還ってくれば、そう、頷かないわけはなかった。
※※※
――――そっと目を開ければ、そこは知らない景色だけれど、ずいぶんと前から知っている、落ち着く景色だ。
紅緋から蜜のように甘い囁きや肌ざわりを与えてもらいながら……昨日はいつの間にか寝入ってしまい、紅緋と一緒の布団で寝たのだ。
離れでは……別々だったから、どこか新鮮で。
紅緋の顔を微笑ましく見守っていれば、ふと紅緋の瞼が開く。
「そんなに情熱的に見つめられると、朝からもっと甘やかしたくなる」
「その、まずは起きなきゃ……!」
朝のしたくも、朝食だってあるのだから!
「それもそうだ」
それは冗談だったのか、それとも本気だったのか。起き上がって支度を始める紅緋は、どこか名残惜しそうだった。
そして朝の支度を整え、2人で一歩、夫婦の部屋の外に足を踏み出せば、朝の慌ただしくも賑やかな邸内が広がっている。
夫婦の寝室も、こちらも、いつの間にかかけがえのないものになっていった。
――――そんな、ある日のことだった。いつものように湯殿で疲れを癒し、夫婦の寝室に戻った時だった。
「杏子」
紅緋は今日も先に夫婦の布団の上にいた。そしてさらに……紅緋はあの仮面を手元でいじっている。最近は素顔でずっと過ごしているせいか、その仮面を見ることはほとんどなかったのに。
「何か……あったの……?」
「ん……うん……。今度、宴があるんだ」
宴。会合のある時にも、宴は一緒にくっついてくる。しかし会合のない宴となれば……鬼の特別な行事や儀式であろうか……?
「父さんが知らぬ間に用意していた。俺が結婚して、本邸に帰ってきたからと……その……」
「うん?」
紅緋の頬が赤い。照れている……?
「杏子の……俺の花嫁のお披露目だと」
「……っ、わ、わたし……?」
「うん……杏子には自分で話すようにと……そして、花嫁のお披露目だからこそ……俺本人が出席しなくてはいけない」
今まではお義兄さんが代理を務めていたけれど、そうもいくまい。しかし紅緋も……もうきっと、代理を務めてもらわなくとも前に進めるのだと、お義父さんもお義母さんも悟ったのだろう。
「だから、杏子と一緒なら……俺も行けると思う。もちろん、来る人間の家は最低限、鬼中心だ。妙齢の人間の娘はなるべく招かないようにしてくれた」
それも親心。これからゆっくりと慣れていってほしいと言うことだろうか。
「一緒に、来てくれるか……?」
強制は……しないようだ。あくまでも頼んでくれるところが嬉しいかもしれない。
だからこそ、私は紅緋の力になりたいとも思う。紅緋はカッコよくて、優しいけど……同時にかわいらしいところがあると、最近は思い始めている。
――――本人に言ったら……微妙な顔をされそうだけど。
「でも最初はこの仮面を被りたい」
「うん」
「こんな臆病な俺でも……いいか?」
「紅緋は……いざというときは、とっても頼りになって、カッコいいから。だから……す、好き……だから」
「杏子……っ!ありがとう……。俺も大好きだ」
そう言うと紅緋の腕がそっと伸びてきて、また華麗に抱き寄せられてしまった。
――――鬼の宴の日が来た。鬼の宴は、頭領の屋敷のある敷地内の、宴用の別館で行われるそうだ。
「本日はよろしくお願いします」
「えぇ、もちろんよ」
「よろしくねぇ」
私だけ何もしないわけにはいかない。だから少しでもできそうな厨房のお手伝いに混ぜてもらうことになっている。
普段は本邸で働く使用人もおり、顔見知りがいると少しだけ安心する。
その他にも普段から別館を任されている使用人たちがせっせと宴の準備をこなしている。
お義母さんはお義父さんと、鬼たちと打ち合わせ、あと紅緋はお義兄さんと宴会場の最終確認などをしており、お義姉さんはお客さまをお迎えする準備に向かっている。
本来は主役のひとりである私は手伝わなくても……と言われたのだが……ずっとひとり待っていると言うのも心細いし……。
宴会用の着替えの準備が始まるまではとこちらでのお手伝いを願い出たのだ。
せっせとお皿や酒瓶を並べていれば、ふいに青い髪に角の鬼の少女が目に映る。普段はこちらで暮らしている……鬼だろうか……?年齢は私と同じくらいだと思うけど。
彼女は私と目が合うと、まっすぐに私の方へと向かってきた。何か……用だろうか?彼女とは初対面だし……本邸のひとたちは初対面でもにこやかに声をかけてくれたけれど……彼女はどこか……違う……?
「あなたが杏子?」
「はい、そうです。あなたは……」
「人間の娘のくせに、私に名を聞くの?生意気よ」
「そ……そう、ですか」
本邸での暮らしが楽しくて、忘れかけていたけれど。鬼は本来は人間よりも高位の存在である。
実家では私のような卑しいものが口を利いてはいけないと言われてきた。
それは実家が特殊と言うことではなく……鬼からしても、そう言った考えはあるのだろう。
いや、だからこそ、人間の中にも過剰に反応するものたちがいる。
「あなたみたいな醜女が、紅緋さまの花嫁ですって?あり得ない!」
「……」
「紅緋さまはね、本来は私と結婚するはずだったのよ!」
え……?
だけど……私が紅緋と婚約したのは……8歳の時だが……。彼女はそれより以前に紅緋と婚約をしていたのだろうか……?そしてそうならばなぜ、紅緋は巫女の家から人間の花嫁を探していたのだろうか……?
「何であんたみたいな女が!」
パシィンッと鋭い音が響き、頬に痛みが走る。彼女に平手打ちにされたのだと分かった。
「何か言い返しなさいよ!口が利けないのかしら!気持ち悪い……!」
「……っ」
それは……っ。
けど、フラッシュバックが襲って、動けない。抵抗したり声を漏らせば、さらに……酷くなる。
「この……っ」
再び彼女が手を振り上げたとき、その手首をがしりと掴むひと影が見えた。
「……っ」
紅緋……っ!
「何をしている。清霞」
紅緋がそう呼んだ清霞は、紅緋との顔を見て固まる。
紅緋が仮面を外した素顔で、怒りの形相で清霞を見下ろしていたからだ。
「何をしていると聞いている……!」
「ひ……、そ、れは……っ」
先祖返りの鬼の形相と言うのは、同族であれども恐い……?いや、先祖返りは、先祖返りだからこその畏怖の対象。
「こ……この娘が何も答えないから……わ、悪いのよ!」
「いきなり捲し立てて、暴力を振るっておいて、杏子が何も言わないから悪いと……?」
「え……っ」
「俺を呼びに来た使用人たちが駆け込んで来たんだ。こちらに残ったものたちも、俺が問うならば証言してくれるだろう」
思えば紅緋の後ろには、紅緋を呼びに行ってくれたらしい人間の花嫁の女性がいる。
そして私に氷嚢を持ってきてくれるた女性は申し訳なさそうにそっと告げる。
「(すぐ助けてあげられなくてごめんなさい……あの方は分家の鬼姫だから……っ)」
私はふるふると首を振る。こんなにも早く紅緋が駆け付けてくれたのなら、彼女が私に向かってきた時にすぐに、紅緋を呼びに行ってくれたのだろう。彼女たちのお陰で……紅緋が来てくれた。彼女たちだって、鬼相手に恐かっただろうに。
お義姉さんはフレンドリーでみんな接しやすいけれど、人間より上位の存在は、根本的には恐いのだ。
「……な、に、人間どもの言うことなんて……っ」
しかし清霞は構わず、彼女たちまで貶すようなことを言う。
けれど彼女たちの元に駆け付けたのは、騒ぎを聞き付けた……鬼。いや、傍らに寄り添うところをみると彼らは彼女たちの伴侶の男鬼なのだ。
そして分家筋の女鬼が相手と言えど、自分の花嫁まで貶した彼女に怒りの形相を向けている。さらに彼女は……彼らの頭領の跡取りを怒らせた。
「そ……そもそも、紅緋さまの花嫁になるはずだったのは……私で……っ」
「そんな話は一度も聞いたことがない」
「そ……んな……っ」
「そもそも俺の顔をまともに見られぬものなど、娶るはずもない……!」
「……だ……だって……先祖返りは……っ」
「杏子はいつだって俺をまっすぐに見る。だからこそ、俺の妻は杏子だけだ」
「……っ」
「貴様は出ていけ」
「……っ、た、退出、いたしますから……っ」
「荷物を纏める準備くらいは待ってやる」
「……え?」
「追放だと言ったんだ。俺の妻に手を出す鬼はいらん」
「でも、私は女鬼で……っ、分家の……っ」
「どうでもいい。お前のような鬼は害悪でしかない。鬼の一族から出ていけ」
「そ……そんな……お慈悲を……生きて、いけな……っ」
鬼が鬼の頭領から追放されたのなら、もう鬼の社会では生きていけない。
そう言う鬼ははぐれ鬼と言われ、人間からも敵として忌避される。
「俺の顔を見てみろ」
「……っ」
清霞は恐る恐る顔を上げる。そしてその双眸が紅緋の目と合った瞬間……。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!?」
清霞が悲鳴を上げ、紅緋が彼女の手首を外せば、力なく崩れ落ちる。
「連れていけ」
「はい」
駆け付けた鬼の武人たちが、清霞を引きずるようにその場から運び出す。
そうして、訪れる安堵の時。
「紅緋」
頬の腫れが少し引き、氷嚢をくれた女性に預ければ、その名を呼ぶ。この場ではそうした方がいい気がしたのだ。
するとピンと張りつめた糸が切れたように、紅緋がホッと安堵の表情を浮かべて、私を抱き締めてくれる。
「杏子に、何てことをしてくれた」
「でも、助けに来てくれた、みんなも」
そう答えると、そうだな、と言わんばかりに、紅緋が私の頭をぽふぽふと撫でてくれる。
「本当だな。何事かと思えば。お前が覇気を露にすれば、周りも気が気じゃない」
現れたのはお義兄さんで、集まっていた各々に配置に戻るように指示を出す。
「しかし……杏子ちゃんは頬が……」
お義兄さんが心配そうに顔を覗いてくる。
「だ、大丈夫です。それに……私は、紅緋の側にいるって、約束したから」
「だがこれでは……欠席と言う手も」
紅緋が心配そうに問うてくる。
「冷やしたら、少し楽になったから」
「……杏子が、そう言うのなら。でも……無理はしないでくれ」
「……うん」
そうして、宴用の晴れ着の準備に移れば、お義母さんとお義姉さんも駆け付けてくれて、無事で良かったとお義母さんが目一杯抱擁をくれた。
本当にお義母さんがいれば、こう言う感じだったのだろうか……?その温かさが、とても心地よい。
「痛みがあるなら、無理にお化粧はしない方がいいわね」
「元がきれいだもの、大丈夫よ、お母さま」
「そうね……確か顔を隠す衣もあったはずよ。用意してくれる?」
「もちろんです!」
準備のための本邸の侍女たちも集まってくれていて、早速顔の見えにくい被きに似た衣を上にかけてくれる。
「昔の貴人は、髪や肌を見せてはいけないと言われていてね、そう言った時代に合った装束が、今でも少し形を変えて残っているのよ。これはそのひとつ」
肌だけではなく、髪も……。あ、髪にも霊力が宿るからか。それを鬼から隠すためのものだったのだろう。しかし今は……鬼の屋敷でもその名残の装束が受け継がれているのは……代々鬼の家に嫁いできた巫女たちの影響だろうか……?
「頬が痛くなったらすぐに氷嚢を運ばせるから、被きの陰でそっと頬に当てられるわ」
「はい、ありがとうございます、お義母さん」
「どういたしまして。宴会場では……薔薇と桔梗は後ろに控えているけれど、私と漆樹は隣の席だから、安心して?」
「分かりました」
「それじゃ、外で紅緋が待っているから、合図が上がったら、入場ね」
「はい、お義母さん」
こくんと頷けば、外では紅緋が正装に着替え……仮面をつけたうえで待っていた。先に入場するお義母さんとお義姉さんを見送り、私たちは侍従たちの案内に続いて、宴会場へと足を踏み入れた。
――――宴会場では、入場し、席に付いた私たちの元に、鬼たちがこぞって挨拶に来てくれる。主な挨拶は紅緋が済ませてくれる。時折私への言葉もあったが、会釈をすれば済む程度のものだ。お義母さんたちが、鬼たちに事前に話してくれていたのだろうか……?
そう思い隣の紅緋を見れば、肯定するように笑みがこぼれていた。
本当にここは、温かくて優しい場所だ。だから私も……紅緋と一緒に、紅緋の隣であなたの覚悟を見守りたいと思うのだ。
そして続いて来たひとかげに、顔の上半分は仮面で覆われているから見えないが、紅緋の眉間に皺が寄ったような気がしたのだ。
「とてもお会いしとうございました!紅緋さま!わたくし、本日皇宮より招かれました三ノ姫でございます」
紅緋が苦手な……人間の少女。三ノ姫……東宮以外は残念ながらあまりよく知らないが、しかしどうしてかこの感じ、覚えがある。
「聞いていないが」
紅緋の呟きに、隣の席のお義父さんもこくんと頷き……。
「此度の宴には皇宮からも客を招いたが……我々が呼んだのは三ノ姫ではない」
そう、お義父さんが告げれば。
「しかし、皇族として鬼の次期頭領さまの結婚のお披露目を祝うのは当然のことですわ」
「どうやら、皇族の権力をたてに押し切って入ってきたようです」
そっと黒ずくめの鬼が紅緋の後ろに馳せ参じ、告げる。紅緋の隣のお義父さんにもちゃんと聞こえたらしく、眉をしかめる。
「東宮の代理だと」
「そう言うことか……」
紅緋が困ったように漏らす。
東宮の……代理……?
「あの、紅緋さま!わたくし、紅緋さまのお顔を見て確信しましたの……!あの美しいお顔だち、まさにわたくしの理想でしてよ?だからそこの顔も見せられない花嫁ではなく、今からでもわたくしを選んでくださいませ!」
何か覚えがあると思えば……思考回路がまるで菖蒲と同じなのだ。どうしてここまで……いや、元々鬼はひとを惑わす。この少女もまた、惑わされたひとりだ。
だからと言ってここまで連続して釣らなくてもいい気はするのだが。
「前回の会合にもいらしていたので……恐らく薔薇さまの素顔を見たのかと」
黒衣の鬼の追加情報に紅緋ははぁ……とため息を漏らす。
「薔薇の仮面が外れた余波がここにも……しかし、もとはと言えば俺の弱さのせいだ」
「紅緋……」
「けど……もう恐れない」
紅緋が仮面に手を伸ばす。少し震えを纏った指は、しっかりと仮面を掴んでいる。
そして自身に言い聞かせるように、紅緋は言葉を紡ぐ。
「大丈夫。これは本来は……守るための力だ。それが、杏子に嫌われるのではないかと……恐れてきただけ」
「私は紅緋を嫌ったりなんてしないよ……?」
「ありがとう、杏子」
仮面の下で微笑む口元は、完全に仮面が取り払われると、決意を決めたようにきつく結ばれる。
仮面を取り払ったそこには、今、本物の紅緋がいる。
その姿に息を呑むのは、きっと鬼の本質を忘れていない、鬼たち。
そして紅緋がギリ……と睨んだ先にいた三ノ姫は『ひっ』と息を呑む。さすがに彼女は菖蒲のようにみっともなく紅緋に向かって鬼の矜持を傷付けるような発言はしないのか……それとも、しゃべれないのか。
「これが俺の本来の姿だ。お前が見たのは俺ではない。あれは俺のふりをした従兄だが……既婚者なものでな。諦めてくれ」
「そん……な」
三ノ姫が辛うじて喉から声を絞り出す。
「だ……だけど……それならあなたではなくあなたの従兄弟がわたくしの夫になれば……っ」
何を……言っているのだろう……?
そもそも私と紅緋も結婚していると言うのに、皇族の権力で紅緋を我が物にしようとした。さらに紅緋の真実の顔を見ると脅えて、自分が見たのがお義兄さんだと気が付けばお義兄さんの妻の座をお義姉さんから奪おうとする。
「そんなわけがあるか」
奥から姿を現したのはお義兄さんだ。お義姉さんも一緒である。
「あ、あの時の……紅緋さまの……従兄弟なのですよね……っ!?わたくしは、あなたさまの妻になりますわ!」
「いや、断る」
即答である。
「顔はいいからな、モテるんだ。薔薇は。むしろ仮面を被っていたのはある意味良かったのかもな……?」
こんなにも人間の少女たちを惑わせなくて済んだと言うことか。
しかしお義兄さんの言葉に納得出来ないのが三ノ姫だ。
「どうして!?わたくしは三ノ……皇女なのに……!」
「意味が分からん!私には既に妻がいる!」
「そうよねぇ?」
お義姉さんも困ったように嗤う。
「わたくしは皇家の家柄。皇家は巫女の血も入れてきましたから、こんな鬼の女よりもあなたさまに相応しく……っ」
巫女の血を引きつつも、全てが全て、鬼に対抗する崇高な霊力を持つわけではないから。巫女の血を引いていても惑わされるものはいるのだ。菖蒲や両親がそうであったように。
「女鬼は少ない」
その時、三ノ姫の言葉を遮るように低い声が響く。お義父さん……?
「だからこそ、大切にされる。そしてそれ以上に……お前がこんな女の鬼と言ったのは、頭領である私の最愛の娘だ。貴様……頭領の前で良い度胸だ」
その顔は、まったくと言っていいほどに笑っていない。
そして隣のお義母さんも。
清霞は女鬼でありながらも、やり過ぎたから追放された。しかしお義姉さんは人間も鬼も関係なく憧れるようた魅力的な女鬼だ。
お義父さんだけではない。この場にいるお義姉さんを知る鬼たちがみな怒っているのが伝わってくる。
――――しかし、その場の空気が固まっていた時、突然バンッと襖が開いた。
「おや、随分と盛り下がっているかと思えば……君には見覚えがある。さて、誰であったか」
それは薄茶色の髪に藤色の瞳を持つ青年である。年齢は紅緋と同じくらい。しかし、その身から湧き立つ高貴な雰囲気は、ただ者ではないことをその場に知らしめる。
「二ノ側妃さまのご息女、三ノ姫でありましょう、殿下」
その時、いつの間にか殿下と呼ばれた青年の後ろに控える武人がいた。
「おっと、そうだった、そうだった。興味がないから忘れていた。しかしこれは本日の宴に参加予定だったか……?」
「いえ……皇族としては殿下のみ参加の予定です」
「そうかそうか、では出ていってくれ」
「そ……そんな……っ、わたくしは……っ」
「出ていけと言っている。皇族の面汚しが。鬼の頭領を怒らせた以上、貴様のその地位が磐石なものとは思うなよ……?それから勝手に俺の名を使ったんだ。帝から翻意の疑いをかけられるだろうから、せいぜい言い訳を考えておくがいい」
「……っ」
三ノ姫はようやっと自分のしたことの重大さを認識したらしい。ガクガクと震えている。
そして三ノ姫は【殿下】の指示により、武人たちに宴会場を連れ出されていく。……うむ……殿下の名を勝手に使ったと言うことは……あの方が、東宮と言うことになる。
「さて、仕切り直しだな……!紅緋!本物のお前に会いたかったぞ!」
知り合い……いや、皇族となら、知り合いでも当たり前か。しかし妙に親しげで……本物の紅緋に会いたかった……?
「さて、鬼の頭領よ。皇宮からは親友の結婚祝いに取って置きの酒を持ってきた。この俺の顔に免じて機嫌を直してはくれまいか?」
「……」
にへらっと笑う東宮。それに対し、お義父さんはまだしかめっ面である。
しかし……。
「お友だちなのですか?」
東宮と……?鬼の頭領の跡継ぎとは言え、なかなかにすごい関係である。
「腐れ縁だ」
しかし紅緋はそう吐き捨て、東宮は『酷いなぁ』と笑う。
「助け舟くれません?叔母上」
今、東宮は何と呼んだだろう……?目の前にいる……お義母さんに。
「うーん……でもあなたが出遅れたからでしょう?」
それもそうだ。お義母さんが容赦ないのだけれど、お義母さんって……東宮のどちらの叔母君なのだろうか……?しかし東宮は両親共々皇族の血を引いていると聞いたことがある。どちらにせよ、お義母さんは皇族の出と言えるのだ。確かに……皇族ならば巫女の血を受け継いでいるだろうけど……。
「ニノ側妃のせいで野暮用の処理に……あぁ、つるんでいたのか……?なるほど。恐らく母娘そろって帝に激怒されるが俺の知ったことではない。今後、俺が直接知らせず俺の名を騙るものがいれば、問答無用で皇宮に差し出すといい。それでどうだろうか?」
「なら、手を打とうかなぁ……?」
お義母さんはクスリと笑うと、『ほら』とお義父さんを急かし……。
「仕方がない。仕切り直すが……」
お義母さんに言われ渋々しかめっ面を崩したお義父さんが、集まった出席者に仕切り直しを伝える。
そしてその後は、東宮は宣言通り、皇宮からの酒を振る舞っていた。
「さて、杏子。俺たちはそろそろ」
「主役なのに、いいの?」
「父さんと東宮で盛り上がっているからそれでいい。もともとそうなれば俺たちは早めにあがっていい予定だった」
「そうそう、後は私たちも加わるから。紅緋も久々の復帰だからな。無理はさせられまい」
「杏子ちゃんも頬を休めていらっしゃい」
そう、お義兄さんとお義姉さんにも勧められ……。
「行こうか」
そう言った紅緋に身体をサッと抱え上げられたのだが……。
「その……重いんじゃ……」
「そんなことはない」
妙に上機嫌な紅緋に、無理に下ろしてと言う気もなくなってしまった。
「そうだ……頬が完治したら」
「うん……?」
「杏子からご褒美をくれ」
私から……ご褒美……?
「口に」
口に……と言うと、何のご褒美なのか、気が付いてしまった。
「か、考えて、おくから」
「あぁ、待っている」
紅緋か幸せそうに笑んだ。
――――翌日腫れも無事に引いた私は……にこにこと先に布団の上で待っていた紅緋の側にそっと腰を下ろす。すると、初めての時のように、抱き寄せられるようにして紅緋が私ごと背中から布団に身を預け、『ちょうだい』と甘い声で囁いてくる。
「じゃぁ……その、目を……閉じて」
「あぁ」
そっと瞼を閉じた紅緋の唇に、そっとご褒美を贈った。