●五月十二日(日曜)
忍は別の依頼人から「夫が会社仲間とのゴルフと称して職場の女性と会っているかもしれない」と先日相談を受け、その不倫調査で留守にしていた。
柊が一人店番をしていると外から例の甲高い音が響いて、柊も慌てて身構える。予想通りの女性が事務所に入ると、柊が先制攻撃を仕掛ける。
「あっあっ蒼樹さん! なんですか! 所長は今日」
「不倫調査なんでしょ。知ってる」
「……………………」
「ンな怖い顔で睨まないでよ。コンビニの前で会っただけだって、偶然。それよりほら、来客をおもてなししてよ、コンシェルジュさん」
蒼樹は「お土産もあるから」と、他県へ行った時に購入したご当地スイーツである栗のタルトを献上した。
柊が二人分のコーヒーを運び、柊は蒼樹の向かいに腰掛ける。蒼樹は足を組んで座っていた。
「柊ちゃん、彼に八つ当たりされたんだって?」
柊は突然フランクに下の名前でちゃん付けされて面食らったが、蒼樹が金曜夜の一件を知っていることに遅れて動揺した。
「道端でハスキー犬がションボリしてたから」
「所長、蒼樹さんにはなんでも話すんですね」
「いや、かなり無理強いして吐かせただけだから。最初本人も抵抗してたし。……まだ気にしてるの?」
「いえ、そもそも私が所長の指示を聞かなくて怒られただけなので。そのあと所長も私に気を遣って、外食に誘ってくださいましたし。お互い水に流して終わりましたよ」
「向こうはまだ気にしてるんじゃないかってクンクン鳴いてたわよ。『やけに優しいからまだ怯えてるんじゃないか』って」
「そんな風に見えたんでしょうか。いつものように過ごしていたつもりだったんですけど」
柊の顔が曇るので蒼樹も困り、一度タルトとコーヒーを口にした。
「昨日の調査って多分例の素行調査よね。赫碧症の」
柊がコクリと頷くと、蒼樹も納得したかのような顔をする。
「依頼人の方と恋人の男性を引き合わせて、所長が鞄を盗もうとする暴漢役で男性にわざと襲われたんですけど、依頼人の方、走って逃げてしまわれました」
そっか、と蒼樹は相づちを打つ。そのまま黙って柊の言葉を待った。
「所長もそれを気に病んでるんじゃないかと思って。
所長のやり方は間違っていたんでしょうか」
蒼樹がしばらく考え込んだので、しばし事務所に沈黙が流れる。彼女は組んだ足を元に戻してソファに深く腰掛けた。
「急にらしくないことやろうとして。適当に通り魔しときゃ良かったのに」
「最初は赫碧症かどうかの調査だけだったのに、素行調査まで依頼されたので。依頼人の方を守ろうとする姿を見たら、もしかしたら考え直してくれるかもって、そう思ったんでしょうね」
「登場人物全員幸せにならない結末になっちゃったのね。それも凹んでた理由か」
蒼樹は腕を頭の後ろで組んで「はあ~、甘いなあ伊泉寺くんは」とため息をつきながら天井を眺めた。話題に困った蒼樹が色々考えた末、あることを聞かせてやろうと閃く。
「そうだ。わたしと伊泉寺くんが知り合うきっかけになった人、有島さんのことを話してあげようか。どうせ伊泉寺くん、ロクに教えてないんでしょ」
確かに教えてもらっていなかったが、写真でしか知らない、柊とは面識もない女性なのだ。
忍が言おうとしないのも無理はないと思って、今まで彼女は自分から進んで話題にしようとは思わなかった。
「まあ、私も無理に聞こうとはしなかったので」
「あれ? あんま興味ない感じ?」
「あ、いえ。そうではないんですけど……。
有島さんのことを知るということは、昔の所長のことを知るということで、なんとなく所長が昔苦労されたんだなと窺い知ることができるだけに聞きづらいというか。
知りたくなかったんです」
蒼樹は「そっか」と一息つくと、
「じゃあ伊泉寺くんとは関係ない、わたしと有島さんの話にしよう」
と、提案するのだった。
「そう言えば、所長も蒼樹さんも有島さんつながりでしたね。でも有島さんが出て行かれるまで面識はなかったんですね」
「そうね。有島さんとは十五の頃出会ったの。当時わたしはクスリやってた非行少女で――」
予想もしていなかった告白に思わず柊も「え⁉︎」と口を挟んでしまった。流石に唐突すぎたかと指でぽりぽりと頬を掻く蒼樹だったが、構わず続ける。
「最初はね。きっかけは痩せるって言われて試してみたらみるみるうちに痩せちゃって、快楽にも目覚めてすっかり虜になっちゃったの。まあ胸まで萎んだのは痛かったけど。やってなかったら今もうちょっと巨乳だったのに」
蒼樹は自分の胸を不満げに見つめた。確かに大きいと呼べるサイズではないものの極端に小さいというわけでもなく、見る人が見れば彼女の美しいスタイルに釣り合う絶妙なサイズのように映るだろう。
「で、クスリ繋がりで徒党を組んで悪さやってるうちにいつのまにかヤクザと関わり合いになって、ちょっとしたアルバイトの見返りにクスリをタダでもらってたの。それまで必死にお金巻き上げてまで買ってたから、わたし向きのバイトの上にクスリもタダで手に入れてラッキー、って。
そこに有島さんが現れてキャットファイトした結果、わたしは有島さんの言うこと聞いてクスリからもヤクザからも手を引いてこうして社会復帰に成功したわけです」
「結構簡単にまとめましたが、ずっと乱用してたんですよね。禁断症状はどうだったんですか」
「そりゃ毎日地獄よ地獄。色んな施設梯子したし、精神も不安定になってまたクスリに手を出したくなると必ず降って湧いたように有島さんが様子見に来るの。本当敵わないったらありゃしない」
「以前主に薬物犯罪について追っているとお伺いしましたが、その時の体験が理由で?」
「まあそれもあるけど。将来経験者としてクスリが如何にヤバいかを世間に警鐘しとけよってシメられた。
それにほら、赫碧症の人がクスリやると、アレでしょ」
そう、確かに違法な薬物の摂取で赫眼するというのは一般常識だった。
「赫碧症の人はタダでさえ社会に溢れやすい上に、クスリで身体強化してヤクザの鉄砲玉に担ぎ上げられて、それでまたクスリ欲しくなってヤクザの言うこと聞いて……って悪循環なの。
それを止めるのがわたしの罪滅ぼしだって言われた」
蒼樹は感慨深げに忍のデスクを見つめる、忍ではなく、そこで座って働いていたであろう有島の姿を見たのだ。
今度は柊が話題を振る番で、前々から聞きたかったことを蒼樹に尋ねた。
「蒼樹さんは所長と二人でお仕事されてたんですよね、三ヶ月くらい」
「三ヶ月? …………あっ」
蒼樹は心の中で忍に謝罪した。今の反応で忍にウソをつかれたことに気づいた柊が冷めた目で蒼樹を見ている。
「本当はどのくらいなので?」
「半年くらい」
「ははあ……それは確かに一瞬ですねぇ…………」
蒼樹は最初こそ忍に申し訳なく思ったものの、彼が事務所に帰ってきたあとのことを想像するだけで爆笑しそうになったので特にフォローはしなかった。
「で。で、蒼樹さんもここでお手伝いをしてたんですよね。当時は大変でしたか?」
「大変なんてレベルじゃない。
雑務はもちろん、電話対応、来客対応、調査でカップルのフリする必要があるからってこっちの都合もお構いなく引っ張り出されたし。
今日中に作らないといけない書類あるのいつも忘れるからその度に教えてあげて、そういう日は家にも帰れず付き合わされて。
確定申告の時は最悪だった。素直に税理士に頼めば良いものを『自分でやる』って言い張った挙句に『あの領収書がない、書類がない』ってギリギリになって大騒ぎし始めて事務所中ひっくり返りそうになるくらい漁るに漁ってその時期はほとんど泊まり込み……
……わたしもあんま甘やかさずにたまには突っぱねるんだった」
「ほほっっ、ほっ、ほ、ほおう……?」
柊はもはや怒りを通り越して笑うしかなかった。蒼樹は蒼樹で「やべーおもしれー」と対岸の火事で、忍の行く末などお構いなしである。
「色々お手伝いを経験されたみたいで…………当然夜のお手伝いもしたことでしょうねえ………………」
「だから怖いって。そういう手伝いはしたことないって真面目に」
「所長も蒼樹さんも口裏合わせてウソつくんですから。信用なりません」
柊がぷいと拗ねるので流石の蒼樹も見かねて「ちょっと」と声をかけた。
「その点は彼本当に紳士だからね? 泊らせてもらった夜はいつも一階のソファ使って寝るし、誘ってみたこともあるけど固辞するし。一応本人の名誉の為に言っておいてあげるけど」
「証拠は?」
「悪魔の証明やめてくれる?」
「これはですね? 偶然! 偶然見つけたんですけど‼
物置部屋を掃除してたらいかがわしいグッズ……なんかこう、目隠し、しかもなんかいかにもプレイ用って感じなデザインのやつを見つけたんですけど、二人でこれを使って楽しんでたんじゃないんですか‼」
「じゃあ別の女と楽しむ時に使ったんじゃない」
「ウソつかないでくださーーい! だって所長、だって……」
「まあ億が一に調査のために必要になった説も捨てきれないよ?
探偵だし、潜入調査とかで色々買いそろえてるって言ってたし。
なんかその手の店に潜入するために必要になったんじゃない?」
「いや、そうは言っても………………潜入調査? その手の店に?」
夕方過ぎ。調査を終えた忍が柊へのご機嫌取りにケーキを買ってきたものの、事務所に戻るやいなやプレイ用目隠しを突きつけられると同時に、蒼樹の話で判明したあれやこれやの説明を求められた。ケーキはおろか夕飯どころではなく、事情聴取は深夜まで及んだという。
明け方になって、忍から蒼樹に抗議の電話が届いたのは言うまでもない。
●五月十四日(火曜)
「この度はありがとうございました」
孝子が会社の帰りに依頼料を支払いに来所した。
忍はお札の枚数を数え終わると「確かに」と言って封筒に戻し、予め用意していた複写式の領収書の一枚目の方を依頼人に手渡す。
「また何かお困りのことがあればいつでも相談にいらしてください」
「いえ……多分もう、大丈夫です」
孝子は忍に顔を、というより目を合わせづらそうに言う。
「そうですか。では、この度はご利用ありがとうございました」
ありがとうございました、と柊も続け、孝子は事務所を去って行った。
「……あのあと結局どうなったのか、話しませんでしたね」
「まあ良い報告があったら言うだろ。言わなかったらそういうことだろ」
「男性の方は気の毒でしたね。今までずっと気をつけて生活して、それでも赫眼になるのをいとわずに助けてくださったのに」
「そうだな」
「もう、恋愛はしたくないって思いますかね」
「そうかもな。
……まあしんみりしてもしょうがねーって! どうせ男女なんて別れるときゃ別れるんだから」
忍はソファから立ち上がってオフィスチェアに戻り、アームレストに肘をついて楽にする。
「晦さんの両親だって離婚してるんだろ。所詮血の繋がってない恋人なんて体とか、夫婦なら紙切れだけで繋がってるんだって」
柊は「あの」とおずおずと忍に声をかけた。
「海外に住んでるっていう父の話なんですが。本当は実の父じゃなくて、叔父なんです。
両親が死んで、叔父の養子になったんです。
――両親が、殺されたから」
忍がびっくりしたようなリアクションを――
――取ろうとして、やめた。
その代わり「あのさ」と申し訳なさそうに重く口を開く。
「実は晦さんの戸籍謄本が必要になった時、もう養子だって知ってたんだ。前は『樫井柊』って言うんだよな。
それで実の両親の名前……見覚えがあったから調べた。ごめん」
「あはは……そっか。戸籍謄本で全部バレちゃうんですね。うっかりしてました」
「じゃあ、やっぱり君は……」
「そうです。九年前のクリスマスイヴに起きた未解決事件――『樫井夫妻殺害事件』。その殺された被害者の娘が私です」
忍はただの書類置きと化していた丸椅子から書類を机の上にまとめて置いて、自分の前に動かして柊に「座りなよ」と促す。二人は座って向かい合う形になった。
「犯人が少年、それに殺されたのが赫保《かくほ》……赫碧症人権保障機関のトップ、そしてクリスマスイヴということもあって当時センセーショナルに取り上げられました。覚えてますよね、やっぱり」
「うんまあ……目撃された犯人と同世代だったから、心穏やかではなかったね」
「それで、その日犯人と鉢合わせになったことがあったんです。私が目撃者でした」
「よく無事だったな……」
「犯人は真夜中に庭の木を上って二階のガラスの窓を割って入ってきて、私の部屋も二階だったから聞こえたんです。
それに人の足音が聞こえて、怖くて……。
最初は布団かぶって、机の下に逃げて、足音が怖くて耳を塞ぐのに必死で……。
突然誰かが部屋に入ってきて微かにゴソゴソした音が聴こえて、その時は本当に生きた心地がしなくて……。
でも私に気づかなかったのかすぐに出て行ったんです。
それで数分して耳を塞ぐのをやめたら足音も聞こえなくなってて、もういなくなったんじゃないかと思って、すぐにでも両親の元へ行かなきゃって……」
「柊……」
「……それで両親の元へ急いで向かったら、二人はもう変わり果てた姿でした。
横たわった両親に駆け寄った私を部屋の外から犯人が見ていて、目が合ったらすぐにその場を離れたんです。
そうして一人取り残されて、玄関が閉まる音を聞くと糸が切れたように失神して、気づいたら警察署で……」
「柊、もうよせ……」
「そのあと、二階を物色した痕跡はあったようですが結局何も取られていなかったことを知りました。
それで犯人について世間に公表された内容は少年であることと身体的特徴だけだったんですけど、ひとつだけ伏せられたことがあったんです。赫保には都合の悪い内容でしたから。
――――どういうことか、お分かりですよね」
「……犯人は赫碧症で、お前が見た時赫眼してたんだな」
柊は「所長」と毅然とした態度で言う。彼女が心からの主張をぶつける前触れだった。
「あの人のこと、心のどこかで軽蔑してるでしょう。
でもみんながみんな、唯一依頼をキャンセルした人みたいにはなれないんです。あの人の反応の方が普通なんです」
忍は柊をじっと見る。心なしか彼女の目が潤んでいる気がした。
「私も、彼女の気持ちが痛いほど分かります。
……怖いんです。赫碧症の、しかも男の人がみんな両親の仇に見えてしまって。
もし好きな人が赫碧症だったら私、耐えられません」
「例えば俺がそうだとしても?」
「そうだとしても、です」
「あの依頼人みたいに、即離婚する?」
柊は俯いてその質問には答えようとはしなかった。
「でも、彼は何も悪いことをしてなかったんだ。愛する人を守ろうとしただけだったんだよ」
なのにあまりにも理不尽じゃないか。そんな彼のやるせなさを感じ取った柊は「じゃあ、所長」と話しかけ、「なに?」と忍も耳を傾ける。
「もし所長があの男性と同じ立場で、私が危ない目に遭いそうな時、嫌われるかもしれないと分かっていても、あの人みたいに迷わず助けに来てくれますか?」
実年齢よりちょっと年上に見られる彼だが、この時だけは少年を思わせる屈託のない笑顔で答えた。
「伴侶だからな」
●五月十八日(土曜)
柊の態度が少しおかしくなった。
いつも心ここにあらずで、ぼうっとして鍋が吹きこぼれても気づかなかったり、トイレに用があって忍が二階に上がるとダイニングで人形のようにテーブルに肘をついて椅子に座っている姿が目に入ったり、とにかくいつもの元気がなかった。
一緒に食べる朝食も口数が少なく、沈黙に堪えられなくなった忍の方が喋り倒す有様である。
そんな日が続き、ついに今日柊が皿を割ってしまった。
食後にダイニングでのんびりと茶を啜っていた忍が慌てて駆け寄ると、破片を触ってしまって指から血を流している柊が目に映る。
それだけではない。小さいながらも息が荒い。肩も小刻みに震えている。フローリングの上の破片と自分自身の赤い血から目を離せないでいる。
「バカよせ、触るなって。すぐに洗面所行って洗い流してこい。破片は俺が拾っておくから」
そう言って柊を洗面所に行くように促し、忍は箒とちりとりで大きめの破片を片付け、物置部屋から有島が置いていったストッキングを一つ拝借させてもらい掃除機の先端に取り付けて細かい破片を拾い集め、塗れた新聞でフローリングを拭くなど一連の作業をしても、洗面所から水が流れる音が止まなかったし、柊も出てこなかった。
そんなに深い傷だったのだろうかと忍は心配になり、救急箱をテーブルの上に用意してから洗面所の彼女の様子を伺う。
相変わらず彼女はぼうっとしていて、指の傷口より鏡に映る自分を見つめている。
「もうそのくらいでいいだろう。ほら、ボーッとしてないでこっち来い」
忍に手首を掴まれてから柊はようやく意識を取り戻したかのように、彼に引っ張られながら自分の足でおぼつかなくも歩いた。
二人は隣同士でダイニングの椅子に座り、忍は「浅そうだな」と傷口を見てガーゼを用意する。
「止血するから押さえるぞ」
ガーゼを使って柊の手を取って指の傷を押さえる。忍はしばらく止血に意識を取られていたが、ふと視線を感じて柊の方を見るとポーッと憂いを帯びた顔で見つめられ続けていたのに気づいた。
ちょっと妙な雰囲気になってしまったかもしれないと、そろそろ止血も十分な頃合いだと思って絆創膏を貼って手当を済ます。
ありがとうございます、と普段の柊なら言うのだが、それすら言わずにただただ沈黙していた。そんな彼女に忍も努めて明るく話しかける。
「どうした、元気ないな? 学校で、なんかあったか?」
「すみません、色々考え事があって、心が嫌にざわついて、居心地の良さがあって、悪さが同居しているというか……」
いやに抽象的な言葉を使っていた。これは重傷かもしれないと思い「今日は俺が食器洗うから、もう風呂入ってこいよ」と彼女の肩を軽くポンと叩くなどして忍なりの気遣いを見せた。
「あの、所長、お願いが……」
言いかけて柊はハッとして口をつぐんでしまう。
「所長、食器お願いします。お先にお風呂失礼しますね」
そう言って柊はエプロンを外し、スリッパをパタパタさせながら脱衣所へ向かった。
風呂から上がった柊はそれきり寝室へ引きこもってしまった。
◇
物置部屋もそろそろなんとかしなければと思いつつも、忍は未だに事務所のソファで寝る生活を続けていた。
その日は深夜遅くまで寝間着姿のまま、パソコンと紙の資料を睨めっこしていた。ただし残業というわけではない。
画面にはPDF化された新聞記事が複数開いている。そして荒川から横流ししてもらった警察内部資料のメモ書きには「樫井夫妻殺害事件・犯人像」と書かれており、中身の方は要約すると次の二点である。
・樫井夫妻の長女が目撃した「少年」は赫眼していた。
・「少年」は二階には痕跡を残していた一方、一階は玄関のドアノブについた指紋以外何も残していない。
トップクラスの人間が都倉に殺されたと知れると体裁が悪い赫保の強い圧力で、当時の記事のどれを漁っても明らかにされなかった事実である。警察だけでなく、マスメディアにも圧力をかけたのだろう。
忍は手にした警察内部資料の一つ、当時の容疑者リストに連なった名前を眺める。年齢、学校、住所、犯行当時のアリバイまでご丁寧にリストアップされており、五十音順で並べられていた数十人の氏名は全て男性名だった。
そのア〜オ行の欄に、見慣れた漢字四文字の男子中学生の氏名を見つけ、忍はため息をつきながら資料を裏返して机の上に置く。
今度は一度ブラウザを最前面に表示して、検索バーに柊の苗字――「晦」「つごもり」で検索をかける。すると上位に「晦昌紀」、風景写真家の情報がヒットした。
次にその名前で検索するとサジェストに「樫井夫妻殺害事件」が表示されている。
現在は消されているが、事件や叔父のウィキペディアの編集履歴から晦昌紀が樫井夫人の弟であると容易に辿ることができる。
これと全く同じ手順を、彼は四月八日――柊が来所している最中――に行った。
一瞬とはいえ初対面の時に碧眼していたのを見られていただろう。
樫井夫妻殺害事件の犯人と同世代、赫碧症の探偵が構える事務所に転がり込む樫井夫妻の一人娘。
本来なら、すぐに事務所から叩き出すべき存在である。
外から扉をコンコンと叩く音が鳴った。こんな非常識な時間に訪ねてくる客人は一人しかいない。
「ようやく常識的な訪ね方覚えたかよ。時間帯だけは相変わらず非常識だけどな」
忍はオフィスチェアから立ち上がり、扉を開けて都倉を事務所に向かい入れた。
やはり前に来た時のような地味なコーディネートだったが、今日は手ぶらで来たようだ。拳銃とハンマーはお留守番らしい。
「盗聴器聞かにゃならんからあんたずっと車中泊だろ。大変だな」
「柊様の様子がおかしいと心配になった。事務所で何かあったか」
「どうせ外で監視してるんだろ」
「女の客が帰ったあと二人で話し込んでたな。一体何を話した」
「いやあ、その依頼人の件であいつから説教されてただけだよ。
『オマエは男だから女心が分かんねーんだよ』みたいな。それからややお互い気まずい感じ?」
どこまで話せばいいのやらと迷ったので、忍は当たらずも遠からずな内容で誤魔化した。
都倉は忍の顔をじっと見つめたが、これ以上の収穫は期待できないと諦めたのか彼から背を向けて扉に手をかける。
かと思えば一瞬立ち止まり、何かまだ言いたいことがあるのか顔半分だけ忍の方に向けた。
「……なんだよ。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
「両親のことを聞かされたか」
「両親?」
忍はあえてすっとぼける。鎌をかけているかもしれないと警戒したからだ。
しかし忍の予想に反し、都倉はあまり意に介さないようだった。
「もう知っているだろうが、私の本当の雇用主は柊様の叔父上だ。
彼は事件から三年ちょっとしか彼女のそばにいなかったが、私は中学に上がってから今までずっと見守ってきた」
だから自分の方がよっぽど彼女を大切に想っている。叔父よりも、そしてお前よりも。
口にこそしなかったが、雰囲気でなんとなく忍にも伝わってきた。
「私には子どもがいないが、彼女を我が子のように思っている」
「気持ちは分かった。別にキズモノにしようなんてこれっぽっちも考えてないから」
お前の言葉など信用できるか、とでも言われるのを覚悟していたものの、都倉は何も返さなかった。
今ならお喋りくらいしても許されるだろうかと、忍はダメ元で質問してみる。
「その事件だけど。夫妻に恨み持ってる人間に心当たりあったりしない?」
「私に聞かれても困る。赫保のトップで派手に活動していたと聞いている。敵は多かっただろう」
案外都倉の口がなめらかに動いたので忍は
「じゃあ、他にあの日現場にいた人間とかは? 記事で『通報したのは夫妻の知人』って書いてあるんだけど。叔父上から何か聞いてない?」
と、欲張りにも尋ねてしまう。
「夫妻の顧問……赫碧症の専門家だと聞いている。彼らとは親しくしていたらしい。――何を考えているか分かっているが、そいつはすぐに容疑者候補から外れている。お前が求める情報を提供できず悪いが」
それもそのはずだ。そんな人間が出入りしているなら、警察が疑わないはずがない。
「だな。もしそうなら『事件の通報者、狙撃銃で撃たれて死亡』ってニュースがないと変だからな」
都倉はただでさえ深い眉間の皺がさらに険しくなった。「本気にすんなよ」と忍は適当に謝罪する。
そこで二人の貴重なお喋りタイムは打ち切りになり、都倉は「もう用はないから帰る」とクールにも事務所を去ってしまった。
再び一人になった忍は荒川から入手した資料の一つを眺める。
「通報者:都倉武 二十九歳。元心理福祉課の職員で赫碧症の専門家。夫妻らの顧問。
事件当日樫井邸でクリスマスパーティーに参加」
●五月十九日(日曜)
翌日、忍は迷子の飼い犬探しに明け暮れていた。
飼い主の心配も知らず離れた公園で学校帰りの子どもたちの相手を嬉しそうにしていたのを見つけ、無事依頼人の元へ送り届ける。
帰宅すると熊谷が例の二件の依頼のその後を尋ねにわざわざ事務所まで足を運んでくれたので、そのまま二人は語らい合う。
熊谷が帰った頃には柊との夕食の時間を過ぎてしまっていた。
その後二階に上がると、タイミングを計ったかのように忍の分の料理が並べられている。柊はもう先に済ませていた。
今夜のメインディッシュは箸で切れるほどのとろとろのロールキャベツである。
リクエスト用の料理本は少し前に新品で買ったものを使うようになった。
適当に買った中古本を使い続けるのになんだか後ろめたさを覚えてしまったからだ。
ページめくりで決めるのもやめた。気分ではあるが、彼女に作ってほしいものを考えて選ぶようになった。
食事中は学校の出来事とか、仕事はどうだったとか、今日の料理は自信作だとか、今朝のニュースで二人の星座の恋愛運が良かったとか、今日で結婚○日目記念だとか○周目記念だとか泥棒猫がどうだったとか代わる代わる話題を振ってくる柊だったが、今日この日だけはいつもと毛色の違う話題から入ってきた。
「今更なんですけど。どうして所長は私と結婚するのに同意してくださったんですか」
「いや、なんか君勢い凄いし来所二回目で婚姻届出してくるから、こりゃちょっとやそっとのことじゃ諦めてくんねーなって。押してダメなら引いてみろ理論で署名しちゃった」
実際のところは違うが、忍はひとまずそう答えることにした。
「そうですよね……別に私のことが好きで結婚したわけじゃないんですよね……」
「露骨に凹むなって。ンなのそっちだって織り込み済みだったろ。どうせいつか飽きるだろってこっちもタカを括ってたから、まあ紙切れ一枚くらいいいやって」
「所長、あまり家族とか、恋人とか信じてないんですね。ああいう依頼をたくさん見てきたからですか」
「あんなのはもう慣れっこだから。お察しの通り夢は見てないよ。俺の場合実体験に基づくものだから」
「これからも、信じられそうにないですか」
「ない」
忍はノータイムで返答する。予想はしていたものの、柊は胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かりました。それで所長、昨日言いかけたことなんですが。今夜、私と寝ていただけませんか」
忍の箸からロールキャベツがスルリと抜けてスープが残っていた皿へボッチャンと落ち、あたりのテーブルにスープが飛散する。
ちょっとこの状況なんて切り抜けようかと彼が返答に困って固まっているうちに、柊はふきんでテーブルを綺麗にしてくれた。
柊がスープを含んだふきんをシンクで洗うために忍から背を向ける。顔を合わせていないのを良いことに忍が遅い答えを口にする。
「悪いんだけど――」
「違うんです、寝るって言うのは、添い寝のことです」
相変わらず柊はシンクに向き合っていて、どこか取り繕うように言われた気がした。
「一人でいると考え事ばかりして、最近中々寝付けないんです。それがずっと頭から離れなくて、変な気分なんです」
「子どもか。もしかしてさっき俺があんなこと言ったから不安になっちゃった?」
「それは前から薄々思ってたことでしたから気になさらないでください。もちろん、ベッドにお誘いする以上、覚悟はできてます。なんでもお応えしますから、
その……エロ同人みたいに」
「二月に会った時のあの勢いはどうしたよ」
「すみません。あの時は会ったばっかりで昂ってました。今思うと恥ずかしいです。本当はエロ同人のことよく知りません。なんかそういうネットスラング?なんですよね」
「う、うん」
耳年増アピールをしたくて口走ったらしい。しかし本人は認識にまだ齟齬があることを知らない。
「晦さん、普段は、本当はこうなの?」
小さくこくり、とうなずく柊。
「結婚したばかりの頃はちょっと無理してはしゃいでたのか。
ここはもう晦さんの家なんだから、自分らしく振る舞いなよ。ああは言った手前だけど、別に出てけって言うつもりもないから。
テンション昂ってる時も見てて飽きないけど。
今の晦さんもその、悪くないよ」
これがギャップ萌えなのだろうか。忍は柊をこんな風に思うようになる日が来るとは、と感慨深さを覚える。
夕食後、柊が風呂に入っている間に忍は急ぎ全ての部屋の盗聴器とカメラをチェックすると、それら全てが取り除かれていることに気づいた。
最後に柊の寝室からも一つ残らず消えているのを確認して一人呟く。
「あいつ、全部外したんだ」
風呂を済ませた忍は既にベッドの上、涅槃のポーズで待機していた。
「ほら、遠慮せず俺の胸に飛び込んでこいよ」
「そんなノリノリならもっと早く頼むんでした」
シングルベッドを二人で分け合うために身を寄せ合う。
狭いには狭いが、逆にその狭さが安心感を与えた。
忍が不安は和らいだかと聞くと「少し」と柊は答える。
「ずっと一人で暮らしてたから、人恋しかったのかもしれません」
「誰でも良かったってこと?」
「! そんな、心外です!」
本気で柊が反論するので「冗談じゃん」と忍は軽く受け流す。
「所長、何かお話ししてください」
「子どもかよ」
「じゃあ、有島さんのことを教えてください」
「有島さんか……。色々エピソードには事欠かない人だけど、赫碧症の話も出てくるけど、平気か?」
「教えてください。私は平気ですから」
「じゃあ決まりね。前はこの寝室俺が使ってたけど、その前は有島さんが使ってたの」
時系列はバラバラであったが、忍は柊に有島にまつわるエピソードをさまざま披露した。
有島は一度ヤクザ絡みの依頼を引き受けたことがあった。結果的にヤクザと関わることになっただけで、最初は行方不明になった女子中学生の娘を捜索してほしいという両親からの所在調査の依頼であった。
女子中学生は元々非行に走っており、家に帰らないことがしばしばあった。警察に届け出はしたものの中々彼女は捕まらない。そこで痺れを切らした両親が有島に依頼したのだ。
有島の調べで、少女は「鉄砲玉」の任務の見返りとしてヤクザから違法ドラッグを授受していたことが発覚する。
少女は赫碧症だった。報酬として得たドラッグで赫眼し、その状態で任務をこなし、その報酬として得たドラッグを……と、回し車を走るハムスター状態で、いずれ破滅して使い捨てられるのが目に見えていた。
そんな彼女を有島がなんとか救い、最終的に有島のツテで安全な場所でかつ信頼できる夫婦と養子縁組させることで少女を保護した。
「あれ、なんかその話……」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもありません」
――以下は柊に伏せたその後の話。
○平成二十八年 某月某日
ある日、有島の介入に対する報復に訪れたヤクザが事務所のドアのガラスなどを盛大にブチ壊して押し入ってきた。
有島も忍もその場に居合せ、男たちは近接武器を持参して襲いかかってきたものの、忍は思いの外すんなりと碧眼して襲ってきた大人五人をコテンパンにしてしまった。当時忍はまだ中学二年である。
碧眼というのは任意のタイミングでなろうと思ってなれるものではない。それは今の忍でも同じ話である。
しかし「差し迫った状況」――これを脳が認識するかどうか、そしてその速さは人それぞれであり、「碧眼になった時はもう手遅れでした」というパターンも珍しくない。
だが一部の人間、例えば彼のように危機察知能力が高すぎる人間ほど、早い段階で碧眼状態に入りやすくなってしまうのである。
赫碧症の自分が初めて人を守るために役に立った。
それが誇らしくて、後ろにいた有島に「今の見てた⁉︎」と嬉しそうに振り向いた瞬間。
熱い平手打ちを喰らった。
「碧眼状態は脳に負担がかかる。心理福祉課で習わなかったの」
「……習ったけどっ! ほんの一瞬だったじゃんかっ! 十秒もなかった! たったそれくらいどうってことないだろ!」
「どうってことがあるから引っ叩いてんのよ!」
有島はもう片方の頬を平手打ちした。
「碧眼になれるからって自惚れるんじゃないんだからね。そんなの才能でもなんでもないんだから」
そんなことを言われるために戦ったわけでも、碧眼になったわけでもないのに。
忍は既に転がっていた観葉植物のプランターを思い切り蹴り上げ、怒りに任せて走り去る。
そのままとある河川敷に駆け込み一人不貞腐れていた。
いつぞや有島に見つけてもらい、そしてある記念日を迎えた、彼にとって思い出の場所とも言える。
しかし数時間経っても有島は現れず、忍も時間が経ったおかげで頭が冷えて、事務所へ戻ることにした。
事務所はまだ警察の実況見分が終わっておらず、有島もそばで立ち会っている。
なんだ、探しにこなかったのは警察に拘束されてたせいなのか。
少し考えれば分かりそうなことだったのに、有島が来なかった理由が別にあったと知って安堵する自分がいることに忍は気づかない。
裏口からそっと入って二階に上がり、軽い罪滅ぼしとして有島が比較的好んだ鉄板目玉焼きのせナポリタンを用意した。
実況見分から解放されたのかちょうど調理し終えた頃に有島が現れたが、料理にちっとも関心を示さず一人で部屋に戻ろうとする。
それがどうしてもどうしてもどうしても腹立たしくて――――。
「……め……眼。眼が赫くなってる」
ほんの一瞬だけだったが、意識が飛んでいた。言われるまで赫眼になっていたことにも気づかなかった。いつのまにか食卓テーブルがひっくり返って、用意したはずのナポリタンはカーペットの上でぐちゃぐちゃになっている。
「あーもうただでさえ事務所もめちゃくちゃなのにダイニングまで……カーペット汚れちゃったじゃん。気に入ってたのに。
……それと癇癪起こして赫眼になるのが許されるのは小学校低学年までだから。あんた今何年生? 中二でしょ。そんなんじゃ高校生活やっていけないわよ」
「……じゃあいいよ! 義務教育じゃないんだから高校は通わなくてもいいんだろ‼︎」
「あっそう。じゃあ親元に帰れば? 中卒の探偵助手なんていらないから」
有島は冷たく吐き捨てて、彼を無視して部屋の中へ消えてしまう。
忍は最初片付けも何もかも放り投げて一度は部屋――現在の物置部屋――でふて寝したものの、一時間ほどしてすぐにダイニングに戻り、散らかった料理を片付け、手洗い表示のカーペットを風呂場で足踏みして洗うもナポリタンのケチャップの跡は消えそうになく、ある程度のところで諦めた。
翌日には予備のカーペットを敷いて、忍は努めていつものように過ごす。有島は気怠げそうだった。日によって気分が変わるのはこの人にはよくあることだと言い聞かせた。
結局この件のはなあなあになり、直接和解があったわけではないがお互い喧嘩していたことなどなかったかのように振る舞った。
◇◇◇
「――丈夫だけが取り柄みたいな人だったんだけど、事務所出てく半年前くらいから体調崩して、毎週水曜定休日にしてずっと寝込んでた。この部屋で」
◇◇◇
○令和二年 十月某日
忍が十八になってほどなく、有島の調子がおかしくなりはじめた。
そして高校三年の三学期。忍の卒業まであと三ヶ月のことだった。
相変わらず寝室で横になっていた有島を見かねた忍はお粥を作り、ただの飾りと化したアンティーク椅子の上にお粥が入った食器とレンゲを乗せたお盆を置く。
「所長、もう三ヶ月近く水曜は横になりますね」
「女の子はね、週に一回、こうして寝込みたくなるくらい辛いことがあるの……」
「……………………」
「おい、今せっかくツッコミポイント二箇所ほど用意してやったろ」
「こんな時に人の気遣いなんてしてる場合じゃないでしょう。病院行きましょ、せっかく免許取ったのに」
「病院行く前に事故って死ぬ……」
「部下をもっと信用してくださいよ! そりゃあの、車にガードレールちょっぴり擦った記憶があるようなないような気がしますけど」
◇◇◇
「気丈な方なんですね、有島さんって」
「うん。横になってる時点で弱み見せまくってるんだけど、本人的には弱みを見せてないつもりっぽい。それがまた面白いのなんの」
――また、柊には以下のやりとりを伏せた。
◇◇◇
しまった、またいつもの調子で話してしまった。今の有島に必要なのは安息と休息、そして病院へ向かうことだと、忍はスマートフォンを取り出した。
「タクシー呼びましょ。病院行ったことない自慢とかしてる場合じゃないですよ。それか救急車――――」
スマートフォンを操作する手を弱々しくも有島が制した。「所長?」と困ったように尋ねると、すぐに有島は腕をだらりと下げる。
「あんた……碧眼になりやすいからってあんまホイホイ使うんじゃないわよ……。
私の知り合いで赫碧症の人がいてね……危険な土地で、危険な仕事して……何度も死線潜り抜ける度に碧眼になりやすくなって、だんだん脳に負担がかかって、ある日突然脳死しちゃった……。
その人、まだ二十六だった……」
「あ…………所長、もしかして、そんな」
「だから、これは女の子の週一のイベントっつってん……でしょうが…………」
「……所長……。女の子って、何歳まで女の子なんでしょうか…………週一って、そんな頻度高いですっけ…………」
「そうそう……そのツッコミ…………待って…………」
嬉しそうにそう言いかけて有島は眠りにつく。
冷めると思って食器に蓋にして、数時間後にまた戻ってきたら有島がまだお粥に手をつけていないことに気づいた。
――彼女が自分と同じ赫碧症だと、この日初めて知った。
それでも次の日にはいつものように起きていつものように仕事する。傍目には元気そうにしか見えない。
元気そうにしか見えないだけに、水曜の憔悴しきった彼女とは別人のような気がしてならなかった。
◇◇◇
「一ヶ月後に週一のイベントは週二のイベントになった。新規の依頼は受けないことにした。熊谷さん、他の探偵事務所に案件の引き継ぎをお願いしに回った」
○令和三年 三月某日
「これは私の友達の話なんだけどね。
赫碧症として生まれたその子はそれだけで邪険にされたり嫌われたりするから、『じゃあこの力を困っている人たちのために使おう』って前向きに捉えたの。
褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて、危険な場面でも構わず立ち向かって、何度も碧眼になって。
でもその先に待ってたのは余りにも早すぎる最期だった。悪いことしようとしたわけじゃなかったのにね」
友人のことを想っていたのか、それとも本当は自分自身の過去を思っていたのか。問いただそうとはせず、忍はただ黙って聞いていた。
「だからあんたも長生きしたかったら、誰かに褒めてもらおうとか認められようとか承認欲求拗らせてないで、あまり多くを求めず慎ましく生きなさい。
……それでも欲張りしたいなら……せめて特別な人一人のためだけにしなさい。
大勢を助けなくても、誰か一人救えただけで人生……御の字なんだから…………」
◇◇◇
「……有島さん、赫碧症だったんですね。それに碧眼がそんなに恐ろしいものだったなんて……。
あの、もしかして『書き置き残して』って言うのは本当は……?」
「いや、本当に最後は書き置き残して失踪したよ。夜逃げかと思ったけど、荷物は殆ど残してった」
◇◇◇
死期を悟った猫がある日忽然といなくなる。
そんなはずはない。猫じゃないんだから。
だいたい死ぬとしても葬式ぐらい挙げてやるんだから――――。
そこで気づいた。
彼女の家族構成、そして今どこに住んでいるのかを自分が全く知らなかったことに。
一ヶ月後の四月。有島が去ってすぐ探偵業変更届出書を警察署に提出する。一人で仕事に追われながらも、いつかは帰ってくるだろうと楽観視していた。彼女の人徳のおかげか、熊谷をはじめとした探偵事務所の所長達の手助けでなんとかやってこれた。
半年後。蒼樹が有島を訪ねにやってきた。それでも有島は戻ってこなくて、二人でなんとか事務所を回した。
一年後。蒼樹が去り、一人でまた仕事に追われる日々が戻ってきた。まだあと一年あると、それまで事務所を守らなければという義務感だけが支えだった。
二年後。有島は戻らなかった。
そして契約書の通り屋号を変えた。
◇◇◇
「契約書……? そんなもの事前に用意してたんですか?」
「その契約書がね、ガバガバすぎて笑っちゃうから。明日学校から帰ったら見せてあげる」
「約束ですよ?」
柊が控えめな笑顔を作ったかと思えば少し悲しそうな声で尋ねる。
「有島さんが突然いなくなった時は悲しかったですか?」
「それが全然。あんな弱ってるところ見てたくせに『絶対どこかでしぶとく生きてるだろ』って思い込んでたから。最悪の可能性は考えたくなかった」
「重い病気だとしても、なぜ急にいなくなったのか心当たりってありましたか?」
「うん……殆ど俺の妄想なんだけど。葬式で、自分の家族来ないとこを皆に……俺に見せたくなかったんじゃないかな……」
忍の瞬きの回数が急に増え出したのを見て焦った柊は「もう大丈夫です」と言った。
「なんかしんみりした話になって悪いな」
「そんなことないです。不謹慎かもしれませんけど……感動しました」
「有島さんも草葉の陰で喜んでるよ」
「勝手に殺さないでください。……もう」
冗談めかした流れになったかと思いきや、「柊」と忍が真摯な顔で彼女をじっと見つめた。そんな彼の視線に柊はどぎまぎした様子だ。
「有島さんのこと、あまり思い出さないようにしてたから、なんか懐かしくなってきたよ。聞いてくれてありがとう」
「と、とんでもないです」
そこで忍が目を伏せ
「――――有島さんはな。他人が幸せになる権利踏みにじるようなマネだけは絶対しなかった。あの人も赫碧症だったから……ってワケじゃなくて。ポリシーだったんだ。俺も有島さんみたいになりたかったけど、たった三年で人ってこんなに変わるもんなんだな」
と、自嘲気味に言った。自分が薄汚いマネをしていると彼は自覚していたから、今まで有島のことを極力思い出さないようにしていた。
「……でも。でも、所長はあの人達を幸せにしようと考えて行動したじゃないですか」
二人は釣り場駐車場での出来事を思い出す。結果は失敗に終わり、依頼人と男性は破局してしまった。
「所長はあの日から生まれ変わったんです。だから有島さんみたいな立派な所長になれますよ。何事にも遅すぎることなんてありません。
所長ならきっと、赫碧症の方も、そうじゃない方もみんなが幸せになる方法を見つけてくれるはずです」
それを聞いた忍は「責任重大だな」と苦笑した。
こうして有島の話も終わり、暫し二人は口を閉ざす。先に沈黙を破ったのは柊だった。
「あの。添い寝をお願いしましたけども、本当に好きにしてくださって構いませんから」
「鈍いから聞いちゃうけど、本当は添い寝以上のことをして欲しいか」
と、忍が至って真面目に聞いてきた。そんな直球で聞いてくるとは思わなかったのか、柊は少し照れながら返答に迷った末、「どっちでも嬉しいです」と答える。
「どうしようか。実は自覚が無いだけな赫碧症者で、明日朝起きたら離婚届だけ置いて出ていかれたら」
「構いません。私、もし所長がそうでも、やっぱり離婚したくないです」
忍が茶化しながら言うと、仰向けになっていた柊が彼と向き合うように横向きになる。
「でも、怖いって言ってたじゃないか」
「すみません。あんなこと言っておいて自分でも面の皮が厚いと思ってるんですが」
柊は一旦そこで区切り、
「本当は私、赫碧症なんです。ずっと黙っててごめんなさい」
悔いるように、忍に告白する。
忍は初めて彼女と会った――落ちた植木鉢を追ってビルの屋上から飛び降りた――時、彼女の眼に美しい碧色が宿っていたのを思い出していた。
「……そうか。初めて会った時、碧っぽく見えたのはやっぱ気のせいじゃなかったか」
「はい。だから、男の人とそういうことしたら、赫くなると思います」
もじもじしながら彼女は「多分」と付け加えた。そして忍の胸に恐る恐る手を当て、上目遣いでねだるように見つめ、
「もし所長さえ良ければ、今晩、初夜にしませんか」
などと、柊はついに爆弾発言をしてしまった。
恥ずかしさで縮こまる彼女を見て、忍は無性に悲しい気分を覚えた。彼女にそんな気持ちを悟られぬよう、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「在学中は無責任な真似はしないって先生たちに約束しちゃったからな」
「律儀ですね。どうせわかりっこないですよ」
柊は忍の胸に顔を擦り付けるようにぐりぐりする。忍は、今日送り届けた犬がこんなふうに飼い主の体にすり寄っていたな、と思い出す。
彼の心臓の鼓動を聞いて落ち着いてるらしい。
幼子を持つ親とはこんな気分なのだろうかと、忍は柊が愛おしくなって彼女の細い髪の感触を確かめるように指で掬いつつ、頭を何度か撫でた。
人恋しかったのは、自分の方だったのかもしれない。
●五月二十日(月曜)
翌日、忍が先に目を覚ます。
いつの間にか立場が逆転していたらしく、起きると忍の頭は緩く柊の腕に抱かれ、やや謙虚な膨らみに顔を埋めていた。ちょっとした感触でノーブラだと気づいてしまった。
「これはイカン」
彼女を起こさないよう忍は慎重にベッドから脱出して静かに寝室を去る。
やましいことなど何もしていないのに、なぜか罪悪感が襲ってきた。
二人で添い寝をしたせいだろうか。
今まで彼女が夢に出たことなど一度もなかったのに、朧げに柊からキスをされる夢を見たせいで忍は落ち着かなかった。
○平成二十七年 年末
「あんた、うち来る?」
「一時間一万円ね」
「買春じゃないっつの‼︎」
当時中一だった忍が、有島に話しかけられたのが出会いのきっかけだった。
ある出来事を境に、自分を巡り毎日争いの絶えない両親に嫌気が差し、忍は衝動的に家を飛び出してしまった。しかし無計画な子どもの放浪などすぐに破綻してしまう。
二・三日に一食、公園の水で空腹を凌ぐ日々を送っていても、元々限りのあった所持金が既に底を尽き限界を感じていた。
そんな時に有島に拾われ、とりあえず飯にありつければ何でもいいと忍は彼女の自宅兼事務所に身を寄せることになる。万が一何かされたら実力行使してやろうとも思っていた。
クリスマスイヴに起きた事件はこの時の忍の耳にはまだ届いていない。
「テレビないのこの家」
「ない。事務所に小さいやつあったけど壊れた」
適当に食料と金をくすねて出て行ってやろうと思っていたのに、忍はいつのまにか有島のペースに乗せられた挙句、「大掃除だから窓拭いてくれ」など事務所の雑事まで頼まれ、渋々ながらも引き受けるようになってしまった。
何となしに外から窓を拭いていると、風で飛んできた新聞が目に入る。「事務所の前のゴミを拾え」とかなんとか言われるのが予想できたのでしょうがなく拾うと
「樫井夫妻殺害事件」
「クリスマスイヴの悲劇、犯人は少年」
「犯人の特徴:中学生前後、痩せこけて細身、特徴的な目つき」
一目で飛び込んできた見出しに、思わず窓越しに事務所内にいる有島を見た。今電話でメモを取って目線を下に落としている。
逃げるなら今しかない。今なら逃げられる。
そして彼は有島探偵事務所から走り去って、二度と戻らなかった。
――――予定だったのだが、近くの河川敷で敢えなくすぐ見つかってしまう。
「なんですぐ居場所が分かっちゃうの」
「探偵だから」
「俺の事、警察に売る気だったろ」
「警察?」
「イヴに起きた事件。俺がやったと思ってるんだろ。俺が赫碧症ってことも調べて知ってるんだろ」
「前々からあんたのことは知ってたけど、あの事件の前の話よ。……誰から頼まれて探してるかって、内心分かってるんじゃない」
「俺がヤバい事件起こして世間からバッシングされたらマズイもんね。例の事件見てヒヤヒヤしてっかな」
「そんなヒネたこと言って。警察呼んだりしないから、事務所帰ろうよ。寒いんだけど」
「一人で帰れよ……」
「あんたあの事件に関わりないんでしょ? ならもっと堂々としてなさい」
「アリバイがない。その日ずっとここで寝てたから」
「寂しいイヴだったわね」
「それに、特徴だって似てるし」
「痩せてる男子中学生なんてこの街に何人いると思ってるの」
「目つきとか……」
「ちょっとハスキー犬に似てるわね」
「そんなん初めて言われた……
いや、それより。
多少の絞り込みくらいするだろ。俺……いや、知ってるんだろうけど」
「ずっと行方くらませてたら余計疑われるわよ。親んとこには帰らなくてもいいから、事務所には戻りなさい。警察もいつか来ると思うけど」
有島は忍をどう説得しようかと考えているかと思ったら、すごい閃きでも浮かんだかのように左の掌にげんこつを作った右手でポンと叩いた。
「ああそうだ、あんたうちでクリスマスパーティーしてたってことにしなさい」
「は⁉︎」
「ちょうどイヴにホールケーキとターキー一羽まるごと家にあったから。あんたがいたらいいカモフラージュになるかもしんない」
「なんのカモフラージュだよ‼︎」
「どっちも前に関わった依頼人の店で、今後ともよろしく的な意味で買いに行ったんだけど。
一人分だけ買うつもりだったのに『今夜はおうちデートですか?』って聞かれて『はい♡』って見栄張っちゃったから泣く泣く買う羽目になった」
「……クリスマスに一緒に過ごす恋人いないんだ……」
「やっぱ警察に売るわ」
「ごめんなさい」
「事件前からあんたのこと探してほしいって言われたのは本当だし、落ち着くまでウチで面倒見てたってことにしよう。警察にも知り合いいるし、私なら信用してもらえるでしょ。人望あるから。
……あ、今人望のとこで露骨に疑ったでしょ。まあいいや。流石にケーキは痛むから一人で食べたけど、ターキーは冷凍庫に入れたからまだ残ってるわよ。食う?」
「食う」
――――こうして、年越しは一人で過ごさずに済んだ。
結局あのあと、事務所に警察官がやってきた。
本当に有島は口裏合わせをして、忍も「行ってない」「やってない」「ここにいた」のゴリ押しで答え通したので、警察もすんなり帰っていった。
それから一年以上経っても、事件の犯人は捕まらなかった。
柊様、柊様と都倉の低い声だけが倉庫に響く。
都倉はソファに腰掛けて目を閉じたままの柊の上半身を支え、小さく揺さぶった。
異常な怠さと眠気が体中を支配していたのだろう、彼女の名を何度も繰り返す都倉の声でようやく柊は重たい瞼を開いた。
柊がぱちぱちと目を開くと、全く見覚えのない場所にいることが分からず首を忙しなく左右に振る。彼女の眼前には見知ったスーツ姿の男。
柊が反射的に顔を上げると――――伊泉寺忍が眼を赫くして彼女を見下ろしていた。
「最初っからこうやってチンピラに襲わせときゃスムーズにコトが済んだものを……やり方が遠回しすぎんだよ」
言いながら忍は回収しておいた三丁の拳銃から銃弾を抜き取り、適当に拾った二つの工具ケースの中身を空にして別々に収納した。
「感謝するんだな。柊様のご慈悲あってのことだ」
ようやく完全に意識を取り戻した柊が倒れた見知らぬ男たちの姿を目にし、ここで何が行われたのかを頭で理解すると憎々しげに都倉を睨み付ける。
「勝手なことをして……」
「申し訳ありません。このまま見過ごせば柊様が奴に懐柔されるのが想像に難くなかったので、少々強引な手段をとりました。お叱りは後ほどお受けいたします」
「懐柔⁉」
「盗聴器もカメラも、昨日全てご自身で外されたでしょう。最初は何事かと思いました。事前に何も連絡をくださらなかったので心配になりました」
あなたもこちらの断りなく行動をしたのだから、こちらもあなたの断りなく行動を起こさせてもらった。忍にはそう聞こえた。
「ああ、やっぱ二人面識あるんじゃん」
忍が口を挟む。既に彼の虹彩は元の黒色を取り戻していた。
「一応聞くけど、そいつにライフル持たせて危なくなったら一般市民殺しても自分を守れって言ったの柊?」
「口が過ぎるぞ」
凄んだ都倉を柊が冷静に右手で制してソファから立ち上がり、続けて彼女の護衛も立ち上がる。
「ごめんなさい。あの件は本当に寝耳に水でした。あの中学生が死んでいたら手綱を握っていなかった私の責任です」
「柊もいざとなったら『秘書がやりました』って言うタイプか」
「なんとでも言ってください。信じてもらえないでしょうけど、荒川さんが来所された際に銃弾が事務所に送られてきた話を聞いて、ライフルは二度と持ち出さないようきつく言いつけました。
すみません。二階に上がったふりして、靴を脱いでから戻って聞き耳立ててました」
ちなみに銃弾の件について荒川が事務所を訪れた際、彼は既に柊の件を知っていたので、聞き耳を立てていた彼女に聞こえるよう忍はメモで示し合わせ、わざと結婚したことについて触れさせた。
説明し終わると今度は冷たい眼差しで横にいる都倉に低い声で囁く。
「ねえ、また性懲りも無く銃持ってきたでしょ。渡しなさい」
「柊様、この男の処分は私にお任せを……」
「渡してよ」
「柊様のお手を汚すわけにはいきません」
「渡して」
躊躇する都倉だったが、結局柊に押し負けて渡してしまった。
「もう一丁隠し持ってる?」
「いえ……持ち出したのはこの一丁だけです」
「こんなスムーズに拳銃を摘発しちゃうなんて荒川より優秀だなあ。じゃあ、俺が代わりに荒川へ責任持って渡してくるから、その銃預かるよ?」
忍が和やかな口調で柊に近づきながら右手で銃を寄越すよう手を伸ばすと、柊は彼の額目がけて右手で銃を構えた。
「これ以上近づかないでください」
「冷たいじゃん。せっかく褥を共にした仲なのに」
「見なかったことにはできませんから。仕方がないです」
「『離婚したくないです』とか言ったクセに、舌の根も乾かないうちにウソつきやがって。傷つくだろ」
「傷つけてごめんなさい。でも、この惨状を見たら――――」
柊は倉庫中で倒れている男達を一瞥する。
「中々手際が良いですね。赫眼していた割に」
「インドで修行したからね」
「こんな風に、冷静に殺したんですか。私の両親を」
柊は今まで忍に見せたことのないほど険しい顔で対峙した。
――――その眼が焦げついてしまいそうなほど、赫く赫く燃えていた。
「……要するに、あの日偶然俺が碧眼だったとこ見て、俺がお前の両親殺した犯人に違いないって押しかけ女房のフリしちゃったと。そういうこと?」
「一度都倉に当時の容疑者リストとアリバイの記録を入手させたことがありました。
時期が時期ですから、みんなイヴは自宅にいたとか、友人と過ごしてたとかそんなのばかりでした。
ただ一人、珍しい苗字と『家出中で自宅を離れ知人の探偵事務所で過ごした』とやけに具体的な人がいたのがずっと引っかかってて」
事件が起こってしばらくして、忍の元に二人組の警察官が来たことがあった。彼女の語った内容そのままを答えたのは本当だった。
「あの日偶然あなたの名刺拾って、探偵事務所所長って書いてあったから、もしかしてと思って事務所の外で様子を伺ってたら荒川さんとお会いして」
「ああ、そう言えばあいつに絡まれたって言ってたな」
「『ここ前は違う名前でした?』って尋ねたら『そうだよ』と教えていただいたんです」
忍は額に手を当てて呆れ顔で「あいつマジかよ」と呟く。
「お前、結局自分からゲロっちゃったけど、俺が犯人だったら勘づいて近づいて来たと思って口封じしたかもしれないぞ」
「そうですね。それでも良かったです。口封じしたいということは後ろめたいことがあるに決まってますから。
それにご覧の通り、私も赫碧症ですから」
柊はもう一度拳銃を構え直した。忍へと向けた柊の赫い眼は完全に据わっている。
「――あなたのこと、心から大好きって思い込まないとほら、こんなに……赫くなっちゃうのに……あなたから迫ってこられたら私、もっと赫くなっちゃう…………」
「そんな眼で怖いこと言わないでよ、怖いじゃん」
「そうですか? タイマンで戦ったら所長なら勝てるでしょう。それでも腕や脚の一本くらいお土産にいただきますけど」
「おー怖。お手合わせ願いたくないね」
「それに所長、私のこと早い段階で知ってたでしょう。敢えて自分の手元に置くことで私の動向探りたかったんじゃないですか」
「まあ『絶対俺のこと疑ってるんだろうなあ』って思ったから好きに調べれば? みたいな。
それに一緒に暮らしてた方が安全だったから。そこにおっかない護衛いるし、いざという時の人質はいるに越したことはないと思って」
柊の二回目の来所時に、彼女には窓がどうのこうのと誤魔化したが、忍は小雨が降っているにもかかわらず傘も差さずに突っ立っていた男――都倉の姿を窓の外から確認していた。
彼女が指摘した通り、柊の動向はすぐそばでチェックしておきたかった。ゆえに婚姻届の記入にも同意した。
「ずっと高見の見物してたってわけですか」
「お前だって別にバレてもいいって思ってただろ。結婚したら戸籍謄本取れちゃうし、むしろ言わないことでプレッシャーにもなるし。つーか実年齢知ってたクセに二十八歳とかぬかしやがって」
とうとうお互い打ち明けてしまった。
今までの結婚生活が全て虚構だったことに。
愛し合っていたわけではない。お互いにお互いを監視し合っていた関係だった、偽りの伴侶だったということに。
それでも二人を唯一繋ぎ止めていた紙切れが、ビリビリと引き裂かれる音が聞こえた。
これまでの思い出が――慌ただしかったけれども、おままごとを演じていると知りながらも、心のどこかで「心地良い」と思っていた日々が修復不可能なレベルで音を立てて崩れていくのを二人は感じていた。
「所長。件の犯人の少年なんですけど、報道された特徴をご存知ですか」
「中学生くらい、痩せこけてて細身、特徴的な目つき」
「事件当時、所長は中学生ですよね。
所長と有島さんが写ったあの写真……。あの写真に写っていた所長、目撃された少年と特徴が一致してませんか。あの日はクリスマスイヴで、所長は家出中ですよね。
あの日、所長は何をされてたんですか」
「事務所でクリスマスパーティーしてた。
――――――――そういうことにさせてもらった」
○平成二十七年 年末
「あんた、うち来る?」
「一時間一万円ね」
「買春じゃないっつの‼︎」
当時中一だった忍が、有島に話しかけられたのが出会いのきっかけだった。
ある出来事を境に、自分を巡り毎日争いの絶えない両親に嫌気が差し、忍は衝動的に家を飛び出してしまった。しかし無計画な子どもの放浪などすぐに破綻してしまう。
二・三日に一食、公園の水で空腹を凌ぐ日々を送っていても、元々限りのあった所持金が既に底を尽き限界を感じていた。
そんな時に有島に拾われ、とりあえず飯にありつければ何でもいいと忍は彼女の自宅兼事務所に身を寄せることになる。万が一何かされたら実力行使してやろうとも思っていた。
クリスマスイヴに起きた事件はこの時の忍の耳にはまだ届いていない。
「テレビないのこの家」
「ない。事務所に小さいやつあったけど壊れた」
適当に食料と金をくすねて出て行ってやろうと思っていたのに、忍はいつのまにか有島のペースに乗せられた挙句、「大掃除だから窓拭いてくれ」など事務所の雑事まで頼まれ、渋々ながらも引き受けるようになってしまった。
何となしに外から窓を拭いていると、風で飛んできた新聞が目に入る。「事務所の前のゴミを拾え」とかなんとか言われるのが予想できたのでしょうがなく拾うと
「樫井夫妻殺害事件」
「クリスマスイヴの悲劇、犯人は少年」
「犯人の特徴:中学生前後、痩せこけて細身、特徴的な目つき」
一目で飛び込んできた見出しに、思わず窓越しに事務所内にいる有島を見た。今電話でメモを取って目線を下に落としている。
逃げるなら今しかない。今なら逃げられる。
そして彼は有島探偵事務所から走り去って、二度と戻らなかった。
――――予定だったのだが、近くの河川敷で敢えなくすぐ見つかってしまう。
「なんですぐ居場所が分かっちゃうの」
「探偵だから」
「俺の事、警察に売る気だったろ」
「警察?」
「イヴに起きた事件。俺がやったと思ってるんだろ。俺が赫碧症ってことも調べて知ってるんだろ」
「前々からあんたのことは知ってたけど、あの事件の前の話よ。……誰から頼まれて探してるかって、内心分かってるんじゃない」
「俺がヤバい事件起こして世間からバッシングされたらマズイもんね。例の事件見てヒヤヒヤしてっかな」
「そんなヒネたこと言って。警察呼んだりしないから、事務所帰ろうよ。寒いんだけど」
「一人で帰れよ……」
「あんたあの事件に関わりないんでしょ? ならもっと堂々としてなさい」
「アリバイがない。その日ずっとここで寝てたから」
「寂しいイヴだったわね」
「それに、特徴だって似てるし」
「痩せてる男子中学生なんてこの街に何人いると思ってるの」
「目つきとか……」
「ちょっとハスキー犬に似てるわね」
「そんなん初めて言われた……
いや、それより。
多少の絞り込みくらいするだろ。俺……いや、知ってるんだろうけど」
「ずっと行方くらませてたら余計疑われるわよ。親んとこには帰らなくてもいいから、事務所には戻りなさい。警察もいつか来ると思うけど」
有島は忍をどう説得しようかと考えているかと思ったら、すごい閃きでも浮かんだかのように左の掌にげんこつを作った右手でポンと叩いた。
「ああそうだ、あんたうちでクリスマスパーティーしてたってことにしなさい」
「は⁉︎」
「ちょうどイヴにホールケーキとターキー一羽まるごと家にあったから。あんたがいたらいいカモフラージュになるかもしんない」
「なんのカモフラージュだよ‼︎」
「どっちも前に関わった依頼人の店で、今後ともよろしく的な意味で買いに行ったんだけど。
一人分だけ買うつもりだったのに『今夜はおうちデートですか?』って聞かれて『はい♡』って見栄張っちゃったから泣く泣く買う羽目になった」
「……クリスマスに一緒に過ごす恋人いないんだ……」
「やっぱ警察に売るわ」
「ごめんなさい」
「事件前からあんたのこと探してほしいって言われたのは本当だし、落ち着くまでウチで面倒見てたってことにしよう。警察にも知り合いいるし、私なら信用してもらえるでしょ。人望あるから。
……あ、今人望のとこで露骨に疑ったでしょ。まあいいや。流石にケーキは痛むから一人で食べたけど、ターキーは冷凍庫に入れたからまだ残ってるわよ。食う?」
「食う」
――――こうして、年越しは一人で過ごさずに済んだ。
結局あのあと、事務所に警察官がやってきた。
本当に有島は口裏合わせをして、忍も「行ってない」「やってない」「ここにいた」のゴリ押しで答え通したので、警察もすんなり帰っていった。
それから一年以上経っても、事件の犯人は捕まらなかった。