●五月十九日(日曜)
翌日、忍は迷子の飼い犬探しに明け暮れていた。
飼い主の心配も知らず離れた公園で学校帰りの子どもたちの相手を嬉しそうにしていたのを見つけ、無事依頼人の元へ送り届ける。
帰宅すると熊谷が例の二件の依頼のその後を尋ねにわざわざ事務所まで足を運んでくれたので、そのまま二人は語らい合う。
熊谷が帰った頃には柊との夕食の時間を過ぎてしまっていた。
その後二階に上がると、タイミングを計ったかのように忍の分の料理が並べられている。柊はもう先に済ませていた。
今夜のメインディッシュは箸で切れるほどのとろとろのロールキャベツである。
リクエスト用の料理本は少し前に新品で買ったものを使うようになった。
適当に買った中古本を使い続けるのになんだか後ろめたさを覚えてしまったからだ。
ページめくりで決めるのもやめた。気分ではあるが、彼女に作ってほしいものを考えて選ぶようになった。
食事中は学校の出来事とか、仕事はどうだったとか、今日の料理は自信作だとか、今朝のニュースで二人の星座の恋愛運が良かったとか、今日で結婚○日目記念だとか○周目記念だとか泥棒猫がどうだったとか代わる代わる話題を振ってくる柊だったが、今日この日だけはいつもと毛色の違う話題から入ってきた。
「今更なんですけど。どうして所長は私と結婚するのに同意してくださったんですか」
「いや、なんか君勢い凄いし来所二回目で婚姻届出してくるから、こりゃちょっとやそっとのことじゃ諦めてくんねーなって。押してダメなら引いてみろ理論で署名しちゃった」
実際のところは違うが、忍はひとまずそう答えることにした。
「そうですよね……別に私のことが好きで結婚したわけじゃないんですよね……」
「露骨に凹むなって。ンなのそっちだって織り込み済みだったろ。どうせいつか飽きるだろってこっちもタカを括ってたから、まあ紙切れ一枚くらいいいやって」
「所長、あまり家族とか、恋人とか信じてないんですね。ああいう依頼をたくさん見てきたからですか」
「あんなのはもう慣れっこだから。お察しの通り夢は見てないよ。俺の場合実体験に基づくものだから」
「これからも、信じられそうにないですか」
「ない」
忍はノータイムで返答する。予想はしていたものの、柊は胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かりました。それで所長、昨日言いかけたことなんですが。今夜、私と寝ていただけませんか」
忍の箸からロールキャベツがスルリと抜けてスープが残っていた皿へボッチャンと落ち、あたりのテーブルにスープが飛散する。
ちょっとこの状況なんて切り抜けようかと彼が返答に困って固まっているうちに、柊はふきんでテーブルを綺麗にしてくれた。
柊がスープを含んだふきんをシンクで洗うために忍から背を向ける。顔を合わせていないのを良いことに忍が遅い答えを口にする。
「悪いんだけど――」
「違うんです、寝るって言うのは、添い寝のことです」
相変わらず柊はシンクに向き合っていて、どこか取り繕うように言われた気がした。
「一人でいると考え事ばかりして、最近中々寝付けないんです。それがずっと頭から離れなくて、変な気分なんです」
「子どもか。もしかしてさっき俺があんなこと言ったから不安になっちゃった?」
「それは前から薄々思ってたことでしたから気になさらないでください。もちろん、ベッドにお誘いする以上、覚悟はできてます。なんでもお応えしますから、
その……エロ同人みたいに」
「二月に会った時のあの勢いはどうしたよ」
「すみません。あの時は会ったばっかりで昂ってました。今思うと恥ずかしいです。本当はエロ同人のことよく知りません。なんかそういうネットスラング?なんですよね」
「う、うん」
耳年増アピールをしたくて口走ったらしい。しかし本人は認識にまだ齟齬があることを知らない。
「晦さん、普段は、本当はこうなの?」
小さくこくり、とうなずく柊。
「結婚したばかりの頃はちょっと無理してはしゃいでたのか。
ここはもう晦さんの家なんだから、自分らしく振る舞いなよ。ああは言った手前だけど、別に出てけって言うつもりもないから。
テンション昂ってる時も見てて飽きないけど。
今の晦さんもその、悪くないよ」
これがギャップ萌えなのだろうか。忍は柊をこんな風に思うようになる日が来るとは、と感慨深さを覚える。
夕食後、柊が風呂に入っている間に忍は急ぎ全ての部屋の盗聴器とカメラをチェックすると、それら全てが取り除かれていることに気づいた。
最後に柊の寝室からも一つ残らず消えているのを確認して一人呟く。
「あいつ、全部外したんだ」
風呂を済ませた忍は既にベッドの上、涅槃のポーズで待機していた。
「ほら、遠慮せず俺の胸に飛び込んでこいよ」
「そんなノリノリならもっと早く頼むんでした」
シングルベッドを二人で分け合うために身を寄せ合う。
狭いには狭いが、逆にその狭さが安心感を与えた。
忍が不安は和らいだかと聞くと「少し」と柊は答える。
「ずっと一人で暮らしてたから、人恋しかったのかもしれません」
「誰でも良かったってこと?」
「! そんな、心外です!」
本気で柊が反論するので「冗談じゃん」と忍は軽く受け流す。
「所長、何かお話ししてください」
「子どもかよ」
「じゃあ、有島さんのことを教えてください」
「有島さんか……。色々エピソードには事欠かない人だけど、赫碧症の話も出てくるけど、平気か?」
「教えてください。私は平気ですから」
「じゃあ決まりね。前はこの寝室俺が使ってたけど、その前は有島さんが使ってたの」
時系列はバラバラであったが、忍は柊に有島にまつわるエピソードをさまざま披露した。
有島は一度ヤクザ絡みの依頼を引き受けたことがあった。結果的にヤクザと関わることになっただけで、最初は行方不明になった女子中学生の娘を捜索してほしいという両親からの所在調査の依頼であった。
女子中学生は元々非行に走っており、家に帰らないことがしばしばあった。警察に届け出はしたものの中々彼女は捕まらない。そこで痺れを切らした両親が有島に依頼したのだ。
有島の調べで、少女は「鉄砲玉」の任務の見返りとしてヤクザから違法ドラッグを授受していたことが発覚する。
少女は赫碧症だった。報酬として得たドラッグで赫眼し、その状態で任務をこなし、その報酬として得たドラッグを……と、回し車を走るハムスター状態で、いずれ破滅して使い捨てられるのが目に見えていた。
そんな彼女を有島がなんとか救い、最終的に有島のツテで安全な場所でかつ信頼できる夫婦と養子縁組させることで少女を保護した。
「あれ、なんかその話……」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもありません」
――以下は柊に伏せたその後の話。
翌日、忍は迷子の飼い犬探しに明け暮れていた。
飼い主の心配も知らず離れた公園で学校帰りの子どもたちの相手を嬉しそうにしていたのを見つけ、無事依頼人の元へ送り届ける。
帰宅すると熊谷が例の二件の依頼のその後を尋ねにわざわざ事務所まで足を運んでくれたので、そのまま二人は語らい合う。
熊谷が帰った頃には柊との夕食の時間を過ぎてしまっていた。
その後二階に上がると、タイミングを計ったかのように忍の分の料理が並べられている。柊はもう先に済ませていた。
今夜のメインディッシュは箸で切れるほどのとろとろのロールキャベツである。
リクエスト用の料理本は少し前に新品で買ったものを使うようになった。
適当に買った中古本を使い続けるのになんだか後ろめたさを覚えてしまったからだ。
ページめくりで決めるのもやめた。気分ではあるが、彼女に作ってほしいものを考えて選ぶようになった。
食事中は学校の出来事とか、仕事はどうだったとか、今日の料理は自信作だとか、今朝のニュースで二人の星座の恋愛運が良かったとか、今日で結婚○日目記念だとか○周目記念だとか泥棒猫がどうだったとか代わる代わる話題を振ってくる柊だったが、今日この日だけはいつもと毛色の違う話題から入ってきた。
「今更なんですけど。どうして所長は私と結婚するのに同意してくださったんですか」
「いや、なんか君勢い凄いし来所二回目で婚姻届出してくるから、こりゃちょっとやそっとのことじゃ諦めてくんねーなって。押してダメなら引いてみろ理論で署名しちゃった」
実際のところは違うが、忍はひとまずそう答えることにした。
「そうですよね……別に私のことが好きで結婚したわけじゃないんですよね……」
「露骨に凹むなって。ンなのそっちだって織り込み済みだったろ。どうせいつか飽きるだろってこっちもタカを括ってたから、まあ紙切れ一枚くらいいいやって」
「所長、あまり家族とか、恋人とか信じてないんですね。ああいう依頼をたくさん見てきたからですか」
「あんなのはもう慣れっこだから。お察しの通り夢は見てないよ。俺の場合実体験に基づくものだから」
「これからも、信じられそうにないですか」
「ない」
忍はノータイムで返答する。予想はしていたものの、柊は胸が締め付けられるのを感じた。
「……分かりました。それで所長、昨日言いかけたことなんですが。今夜、私と寝ていただけませんか」
忍の箸からロールキャベツがスルリと抜けてスープが残っていた皿へボッチャンと落ち、あたりのテーブルにスープが飛散する。
ちょっとこの状況なんて切り抜けようかと彼が返答に困って固まっているうちに、柊はふきんでテーブルを綺麗にしてくれた。
柊がスープを含んだふきんをシンクで洗うために忍から背を向ける。顔を合わせていないのを良いことに忍が遅い答えを口にする。
「悪いんだけど――」
「違うんです、寝るって言うのは、添い寝のことです」
相変わらず柊はシンクに向き合っていて、どこか取り繕うように言われた気がした。
「一人でいると考え事ばかりして、最近中々寝付けないんです。それがずっと頭から離れなくて、変な気分なんです」
「子どもか。もしかしてさっき俺があんなこと言ったから不安になっちゃった?」
「それは前から薄々思ってたことでしたから気になさらないでください。もちろん、ベッドにお誘いする以上、覚悟はできてます。なんでもお応えしますから、
その……エロ同人みたいに」
「二月に会った時のあの勢いはどうしたよ」
「すみません。あの時は会ったばっかりで昂ってました。今思うと恥ずかしいです。本当はエロ同人のことよく知りません。なんかそういうネットスラング?なんですよね」
「う、うん」
耳年増アピールをしたくて口走ったらしい。しかし本人は認識にまだ齟齬があることを知らない。
「晦さん、普段は、本当はこうなの?」
小さくこくり、とうなずく柊。
「結婚したばかりの頃はちょっと無理してはしゃいでたのか。
ここはもう晦さんの家なんだから、自分らしく振る舞いなよ。ああは言った手前だけど、別に出てけって言うつもりもないから。
テンション昂ってる時も見てて飽きないけど。
今の晦さんもその、悪くないよ」
これがギャップ萌えなのだろうか。忍は柊をこんな風に思うようになる日が来るとは、と感慨深さを覚える。
夕食後、柊が風呂に入っている間に忍は急ぎ全ての部屋の盗聴器とカメラをチェックすると、それら全てが取り除かれていることに気づいた。
最後に柊の寝室からも一つ残らず消えているのを確認して一人呟く。
「あいつ、全部外したんだ」
風呂を済ませた忍は既にベッドの上、涅槃のポーズで待機していた。
「ほら、遠慮せず俺の胸に飛び込んでこいよ」
「そんなノリノリならもっと早く頼むんでした」
シングルベッドを二人で分け合うために身を寄せ合う。
狭いには狭いが、逆にその狭さが安心感を与えた。
忍が不安は和らいだかと聞くと「少し」と柊は答える。
「ずっと一人で暮らしてたから、人恋しかったのかもしれません」
「誰でも良かったってこと?」
「! そんな、心外です!」
本気で柊が反論するので「冗談じゃん」と忍は軽く受け流す。
「所長、何かお話ししてください」
「子どもかよ」
「じゃあ、有島さんのことを教えてください」
「有島さんか……。色々エピソードには事欠かない人だけど、赫碧症の話も出てくるけど、平気か?」
「教えてください。私は平気ですから」
「じゃあ決まりね。前はこの寝室俺が使ってたけど、その前は有島さんが使ってたの」
時系列はバラバラであったが、忍は柊に有島にまつわるエピソードをさまざま披露した。
有島は一度ヤクザ絡みの依頼を引き受けたことがあった。結果的にヤクザと関わることになっただけで、最初は行方不明になった女子中学生の娘を捜索してほしいという両親からの所在調査の依頼であった。
女子中学生は元々非行に走っており、家に帰らないことがしばしばあった。警察に届け出はしたものの中々彼女は捕まらない。そこで痺れを切らした両親が有島に依頼したのだ。
有島の調べで、少女は「鉄砲玉」の任務の見返りとしてヤクザから違法ドラッグを授受していたことが発覚する。
少女は赫碧症だった。報酬として得たドラッグで赫眼し、その状態で任務をこなし、その報酬として得たドラッグを……と、回し車を走るハムスター状態で、いずれ破滅して使い捨てられるのが目に見えていた。
そんな彼女を有島がなんとか救い、最終的に有島のツテで安全な場所でかつ信頼できる夫婦と養子縁組させることで少女を保護した。
「あれ、なんかその話……」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもありません」
――以下は柊に伏せたその後の話。